2018年4月20日 (金)

ビール坂(恵比寿)

恵比寿はビールの街だった。 現在の恵比寿ガーデンプレイスの敷地全体が明治以降日本麦酒(株)の工場。 主なブランドが恵比寿麦酒。 明治34年に恵比寿駅が開業するが、駅名は恵比寿ビール工場から恵比寿となった。それまで周辺には恵比寿という地名はなく、渋谷川より内側は広尾という地名だった。

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恵比寿駅はもともとビール工場のための貨物駅であったが、当初は駅とは反対側の出入り口から物流をおこなっていた。 工場門の北側に隣接するのは加計塚小学校。 その東側にまっすぐな道と、左に分岐する坂があるが、まっすぐな道は関東大震災後に開かれた車道。 それ以前は左の細いほうの坂道が坂下の渋谷川方面へのメインルートだった。 しかし地元ではどちらもビール坂と呼んでいた。

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現在の坂道は緩やかにカーブしながら下っていくが、これは度重なる修復を経ての結果で、昔はもっと急な坂だったといわれる。 工場で製造したビールは荷馬車でこの坂を下って出荷された。 その時代(明治)から地元ではこの坂をビール坂として親しんだ。

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現在はビルが立ち並ぶが、恵比寿が大きく変化したのはビール工場が閉鎖(1988年)し、恵比寿ガーデンプレイスが開業してからである。 ビール坂周辺は町家の立ち並ぶ通りだった。 周辺は景丘町と呼ばれ、名前の通り渋谷川周辺の山下町、新橋町から見ると丘の上だった。 山手線は恵比寿から目黒の間、切通しで通過している。 ビール工場は丘の上にあったわけだ。そのために貨物駅はビール工場脇に作ることが出来ず、現在の恵比寿駅の場所になった。
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家内と義父は加計塚小学校の出身で、実家は山下町にあったので、この辺りは庭の様な認識である。 景丘町は犬の散歩で歩き回ったが、坂の多い街だった。 散歩の終わりはビール坂を下ってくるルートが定番だった。 ビール工場辺りにはうず高くビール箱が積み上げられていた。

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恵比寿駅東口に短い坂があり、石畳が残っている。 これはビール坂から運ばれてきたビールを満載した荷馬車が上りやすいようにと敷かれた石畳である。 昭和後期から徐々にアスファルトで補修されてきて徐々に石畳が消えつつあるのは極めて残念。 この坂もまたビール坂と呼ぶに値する坂なので石畳も含めて残したい文化遺産である。

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2018年4月19日 (木)

ネギ山坂(恵比寿)

恵比寿駅の北側、明治通りからさらに路地を入ったところにある坂道。 昔この辺りにネギ畑があったことに由来するという。 坂の脇にあるのが法雲寺、坂上にあるのが東北寺。 法雲寺は山門をくぐるといきなり階段になる。 ここが渋谷川の河岸段丘であるためである。

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坂の上下でおよそ8mの高低差がある。 しかし坂上の東北寺の墓地は向こう側に向かって斜面になっている。 坂上が尾根になっている。 これは北東側にかつて渋谷川の支流イモリ川が流れており、それが刻んだ谷のせいである。 イモリ川は現在の青山学院大学構内を源頭に、常盤松から東京女学館前を流れて、臨川小学校下で渋谷川に注いだ。 東京女学館脇にはイモリ川階段という不思議な入口があり、そこから暗渠が下流に向かって続いている。

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江戸時代の切絵図を見ると東北寺はそのままの地だが、法雲寺の場所は祥雲寺となっている。 法雲寺は明治になってからここに移転してきたとあるので、現在広尾にある広い境内を持つ祥雲寺の別当だったのだろうか。

山手線、明治通りの近くにありながら、静かな路地を上ると江戸時代からの寺院墓所がある。 東京という場所が世俗をシャッフルしてまとめているような気がした。

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2018年4月18日 (水)

南郭坂(渋谷区東)

明治通りの東三丁目交差点から広尾高校へ上る坂道が南郭坂である。 南郭というのは人の名前、江戸時代中期の儒学者で、荻生徂徠の門下の服部南郭。 彼の別邸がここにあったのでこの坂道を南郭坂と呼ぶようになったという。 長い坂道なので傾斜はそれほど強く感じないが、広尾高校と明治通りの高低差は18mもある。

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この坂は江戸時代からある古い道で、広尾高校周辺には大阪府和泉辺りを治めていた備中伯太(はかた)藩藩主の渡辺氏の下屋敷があった。 その坂下に南郭の別宅があったことになるが、おそらく時代は南郭の方が先であろう。 江戸時代の大名屋敷は結構頻繁に変わっているので難しい。

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この南郭坂は別名を富士見坂という。 広尾周辺には富士見坂と呼ばれる坂が複数ある。南西の方向に下る坂の多くは富士見坂となり得たのは高い建物がなかったからで、現在の都心では富士見坂は絶滅した。

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坂上から坂下を望むと右手に水色の塀と服部南郭別邸跡の説明板がある。 この中に南郭坂と呼んだという記述がある。 南郭はもっぱら学問と風流を友としたが、温厚な人柄を慕う人も多く、ここにはいろいろな人が訪れていたという。

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この台地の高低差を知るには、南郭坂から渋谷寄りにある氷川神社を訪ねるといい。 國學院大學への上り坂や南郭坂では感じられない崖線を参道で味わうことが出来る。氷川神社は、古くは氷川大明神と呼ばれ、渋谷村・豊澤村の総鎮守であった。創建は不明(社伝には紀元1世紀日本武尊が勧請したとある)。

江戸名所図会に描かれた渋谷氷川神社には手前に水を湛えて流れる渋谷川、その向こうに奉納相撲の土俵と参道、階段を上ると社殿という風に描かれている。現在の社殿とは90度向きが違うのは何故だかわからない。 現在の社殿の向きは南南東向きで、江戸時代の社殿は渋谷川向きである。参道は渋谷川向きなので、最後に建て替えられて向きが変わったと推測される。

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2018年4月17日 (火)

八幡坂(渋谷)

昔、渋谷駅近くに城があったというのは知る人ぞ知る話。 渋谷駅の東口首都高速脇の渋谷警察署の裏手に金王八幡宮がある。 この八幡神社の場所が渋谷城の跡である。 平安時代末期から地方豪族の渋谷氏がこの辺りを統治、このちょっとした高台に平城を構えていた。 南側は渋谷川が堀の役割を、また東側はその支流の沢がやはり堀代わりになっていた。 城は1524年に北条氏に滅ぼされるまで存在した。

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実は初期のブラタモリでも渋谷城は取り上げていた。 写真のように現在でも境内は3mほど盛り上がった上にある。 神社の宝物館にこの渋谷城のジオラマが置いてあった。 金王八幡宮の由緒によると創建は1092年とされ、渋谷氏の氏神として場内に祀られたのが始まりとなっている。当初は渋谷八幡宮としていたが、渋谷家の金王丸が活躍したのちから金王八幡宮となった。

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境内にある説明板には、東に鎌倉街道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬谷)があったとある。また当時は辺りにいくつもの湧水があって、居城には条件の良い場所だったようだ。 鎌倉街道というのは現在の青山学院大学南側から代官山へと伸びた道がそれにあたる。

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八幡坂は台地から渋谷川へと下っていく坂道である。 江戸時代はこの辺りまでが大名屋敷のエリアで、なぜか切絵図では渋谷川に橋は架かっていない。 昔の渋谷川はかなり水量の豊かな川だったようだが、土壌が赤土なのであまりきれいな水ではなかっただろう。 また周辺人口も増えて、渋谷城があった時代にいくつもあった湧水がその後どうなったかは分からない。

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現在の道では並木橋で渋谷川を渡す。 明治通りを越えると上り坂が始まる。 六本木通りの北側の青学の辺りの標高が35mなのに対して、渋谷川付近は13mと20m以上の高低差がある。 これをほぼ直線で上っていく。 青山学院大学の敷地は江戸時代の広島県西条藩の上屋敷。 その手前の実践女子大学の辺りは、江戸末期にはNHK大河ドラマ『西郷どん』で話題の島津斉彬の下屋敷になっていた。安政の大地震で上屋敷が倒壊した島津家はここに篤姫も共に避難してきたという。

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2018年4月16日 (月)

原の坂(中町)

上野毛通りは多摩川沿いから環八を横切り等々力六丁目で目黒通りにぶつかる都道。 国分寺崖線を上野毛の稲荷坂で急登し、環八を過ぎると谷沢川へ緩やかに下っていく。 谷沢川を宮前橋で越えると、今度は玉川警察署交差点に向かって原の坂を上っていく。坂上は駒沢から等々力までの尾根筋を通る江戸道と呼ばれた古道。そして上野毛通りも二子道と呼ばれた古道である。

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中町付近は昔は野良田と呼ばれた地域で、清流の谷沢川の周りに田畑が広がるのどかな里だった。 野良田というのは、もともと草の生い茂った野原を開いて田んぼを作ったことに由来する地名である。坂下の谷沢川の宮前橋下流には姫の滝という数メートルの滝があった。 昭和13年の水害で滝は崩壊し現在は堰堤になっている。

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また橋と坂の間には天祖神社がある。創立は不明。 もとは神明宮と呼ばれ、明治になってから天祖神社となった。境内には弁財天もあり、谷沢川とは深い関係の村社だったことが分かる。 神社は小高い丘にあることが多いが、この天祖神社は川から遠くない平地にあるのはいかにも野良田の鎮守という気がする。

原の坂の名前の由来はこの辺りを「原」と呼んだことに因むという説がある。 旧地名では坂上を東原・麦原久保、坂の南側を南原と言っていた。 原という地名は記録にはなかったが、それら旧地名を総称して坂名が付いたのかもしれない。

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この辺りは現在でもまだ畑の残るところがあり、昔の風景を偲ばせる。 いったん丘の上まで原の坂で上った道は、尾根筋の江戸道を越えると再び下り坂になり、深沢方面から流下してきた呑川に向かう。 古道なので切通しになっておらず、土地の起伏をそのまま上下するので歩いても楽しい道である。

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2018年4月15日 (日)

満願寺坂(等々力)

満願寺坂は目黒通りの等々力跨線橋から駒沢公園通りとの交差点までの坂道。 坂下は東急大井町線等々力駅、坂上は玉川神社前になる。 等々力の地名の由来は、深沢城址の別名「兎々呂城」という説が有力だが、等々力渓谷の不動の滝の轟く音に由来するなどいくつかの諸説がある。 1551年に北条氏の配下の吉良氏の家臣南条右京亮が深沢城を築いたが、北条氏が豊臣に滅ぼされてからは南条氏はこの地に土着して開発をした。

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坂の途中に満願寺がある。 吉良家によって1470年に創建された古い寺で、もとは深沢坂にあったが、火事によって焼失し1564年頃この地に移転してきた。 その北側に隣接するのは玉川神社で、1501~4年頃やはり吉良氏によって熊野神社として創建された。 その後いくつかの神社を合祀して、明治末期に玉川神社となった。

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この満願寺辺りにはかつて4カ所の湧水があり、ここから等々力駅近くの谷沢川(等々力渓谷)に逆川という小さな流れがあった。 渓谷に架かるゴルフ橋前のポストのところに暗渠として残っている。 ここはもともと用賀から九品仏川として東に流れ呑川に注いでいたのだが、地学的には等々力渓谷の元の小さな沢が谷頭侵食して河川争奪し流れを変えた珍しい例である。

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等々力の本来の地形は、北の方が台地で樹林や畑、中程は底なし田んぼと言われるコメは作れるが軟弱な土壌、そして満願寺坂から下の地域は崖線の森というものであった。 多摩川の国分寺崖線の坂ではないので傾斜は緩やかだが、この傾斜も呑川が長い時間をかけて形成したものである。

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2018年4月14日 (土)

深沢坂(深沢)

駒沢公園通りは駒沢通りとの交差点「深沢不動」の南で二つの道に分岐する。 左の広いほうが昭和に入って開通した駒沢公園通り、右側が古道「江戸道」で、大山街道(国道246号線)から分かれた裏街道。 この江戸道は深沢から等々力を抜け、多摩川を渡して川崎の中原へとつながる道で、江戸へ行く道ということで江戸道と呼ばれていたようである。

深沢の地名の由来は呑川の沢が深い事から来ている。 呑川は8ヶ所の湧水を持つ沢を集めて大森の海岸に注ぐ東京の小河川だが、呑川の川名の由来は飲料に出来るほど水がきれいということで付いた。 深沢坂の傍にも8つの沢のひとつの源頭がある。 深沢神社の隣の三島公園にある弁天様の池がその一つ。

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三島は古い字名で、公園にかつての地名が残っていることは意外に多い。この弁天の池の湧水はすぐに呑川本流に注ぎ、沢というほどの沢ではないが、深沢坂はこの池の傍の深沢橋から等々力方面に上っていく。 古くはこの近くに満願寺があって満願寺坂と呼んでいたとか、またお茶屋があったことから、お茶屋坂と呼んだと伝えられる。 満願寺は1560年頃に等々力に移転した。

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深沢坂下のバス停は新道にあるが、元々の坂下は呑川の深沢橋である。一方深沢坂上のバス停は間違いなくこの坂の上にあり、近くに深沢坂上公園もある。 坂上近くに都立園芸高校があるが、ここは北条氏の家臣の深沢城(兎々呂城)があったところ。 兎々呂城の名前がのちに等々力の地名となったという説もある。

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2018年4月13日 (金)

馬場坂(北沢)

茶沢通り(通称)は三軒茶屋から下北沢を経て東北沢に至る通り名である。小田急が地上を走っていた時代には下北沢のすずなり劇場近くの踏切でいつも渋滞していた。 もっとも古道は北沢タウンホールのあるバス通りではなく、一本線路側のあずま通り商店街の筋。

現在の茶沢通りはかつて流れていた森厳寺川沿いに戦後通された道路で、ザ・スズナリの先からは折れ曲がって北上する。 間もなく傘履物村田屋と地蔵堂に突き当りクランクになるが、この地蔵堂の庚申塔は1677年と1692年のもの。 その先再び北に向かうと道は東に折れ曲がり、森厳寺川の暗渠を横切る。

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この暗渠を過ぎたところから馬場坂の上りになる。 坂の高低差は8mほどで現在はそれほどの坂には見えないが、昔は農家の人々が作物を荷車に載せて上るのに相当苦労したと伝えられる。坂の北側、井の頭通りの大山交差点近くに北沢小学校がある。 ここは江戸時代、馬場だったところで、それが馬場坂の由来であろう。

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坂の途中の辻に長命地蔵尊のお堂がある。 この付近の茶沢通り筋には200mおきに地蔵堂があって、古道であることを現在に残してくれている。ただこの長命地蔵尊は昔からの野地蔵を地元の人々が大正5年にここに祀ったもので、それ以前の場所は不明である。この地蔵の辻を北に入った辺りに、水車があったという。 川のない場所だが、坂上の丁字路になっているところには三田用水が流れていた。 佐伯医院がまだ角にあるが、そこが三田用水を渡る御馬橋で、その近くから坂下の森厳寺川へ水を流しており、その途中に水車があったようだ。

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坂上の通りは井の頭通りの大山交差点から山手通りの東大裏に抜ける道で、この道はかつての三田用水である。三田用水は笹塚で玉川上水から取水し、渋谷、目黒、五反田、大崎あたりまでを潤していた。 江戸時代は農業用水主体だったが、明治以降は工業用水としても使われ、エビスビールもこの用水の恩恵を受けた企業だった。

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2018年4月12日 (木)

テコテン坂(野沢)

野沢と下馬の町境の道にあるのがテコテン坂。 坂名の由来は、月夜に狸が出没してテコテンと踊ったという言い伝えによる。 地元の資料によると、手鼓天坂と書いた。 この辺りは田昭和の初期まで昼間でも暗い樹林で、野沢稲荷神社から三軒茶屋方面への農道の様な道だった。

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野沢児童館の脇で二つに分かれる道があるが、道なりの方がテコテン坂である。 テコテン坂よりも東側は土地が低くなっていて、昔は蛇崩川に注ぐ小さな沢筋だった。 その源頭に野沢八幡神社があり、その下流にあたる土地が現在の鶴が久保公園。 この鶴が久保という地名は徳川吉宗(第8代将軍)がこの地に狩りに来て、傷ついた鶴を追ってくると、湧水地で鶴が傷を癒していたという逸話から来ているという。

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坂の途中には三猿の庚申塔がある。 いずれ道路拡張で移転を余儀なくされるようだが、まだ残っている。寛文10年(1670)の古い庚申塔である。 路傍にこういう歴史が残っていると無性にうれしくなる。 多少場所の移動はあっただろうが、この石が地域の人々に350年も守り通されているのである。

東京の南西部には鎌倉街道と呼ばれる道が多数あるが、この道もそのひとつという説がある。確かにこの道も明治以前からの古道である。

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坂下から望むと緩やかな傾斜、そのまま日大キャンパス先の蛇崩川暗渠までわずかづつ標高を下げている。 その蛇崩川の少し下流には駒繋神社があり、そのさらに下流脇の道路の真ん中には不思議な塚「葦毛塚」がある。

鎌倉時代の始まりの頃、源頼朝が奥州平泉の藤原氏征伐に向かう道すがらこの蛇崩川に差し掛かったところ、突然頼朝の乗っていた馬が暴れだし、沢の深みに落ちてしまった。頼朝達は馬を救おうとしたが馬はまもなく死んでしまった。 その馬を葬ったのが下馬の道路の真ん中に鎮座し車を左右に避けさせる葦毛塚である。

頼朝は「以後この沢(蛇崩川)は馬を引いて渡るべし」としたので、馬引沢村の地名が生まれ、それが江戸時代に上馬引沢村、下馬引沢村に分かれ、その名残が上馬、下馬という地名になった。 また駒繋神社は明治時代からの神社名でそれ以前は子の神と呼ばれていたが、ここの松に頼朝の葦毛の馬を繋いだという言い伝えから駒繋神社と呼ばれるようになった。

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2018年4月11日 (水)

小坂(上馬)

三軒茶屋から国道246号線を下っていくと、間もなく左斜めに旧道が分岐する。 500mほど進むと再び現在の国道246号(玉川通り)に合流するが、街灯には旧街道らしく「大山街道」のシールが貼ってある。 途中には古い商家の建物も残っているが、古風な建物がバイク屋さんだったりする。

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緩やかな坂だが、かつての大山街道が茶屋下橋で蛇崩川を渡っていたところから上馬方面への上り坂になっている。 この旧道が分かれている区間だけは玉電は単独軌道だった。 明治時代は三軒茶屋を過ぎるとすぐに田園地帯が広がっていたが、明治に玉電が通ってからはこの旧道沿いにも何軒か商家が見られるようになった。

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小坂の上りが始まると家が増えて、現在の上馬交差点の辺りが上馬の本村で民家がたくさんあった。 現在の環七の筋には品川用水が流れていた。 用水は尾根筋に通されるので、ここが一番高く、蛇崩川が一番低い。 蛇崩川は水量の少ない川だったが、一旦大雨に降られるとたちまち氾濫する川だった。 蛇崩という名前はまさにそういう川の性格を表している。 特に大山街道の付近(中里地区)には池が出来、上流から大きな木材が流されてきて溜まったという。 周辺の人はそれを片っ端から引き揚げて燃料の足しにしたというから、昔の人はたくましい。

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坂上に近い清光園の前に地蔵尊がある。 正保2年(1645)にたてられた地蔵がある。 妙にいろんなものがくっついているので、いささか怪しげな雰囲気を醸し出しているが、地蔵尊だけは400年近く前のものである。 反政府ビラのようなものがいつも掲示されている。 先日は「安倍おろし…」という見出しの日刊ゲンダイが貼り付けてあった。 地蔵にだけは経緯を表したい。

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2018年4月10日 (火)

富士見坂(駒場)

目黒区駒場の西側は世田谷区代沢1丁目。 この代沢1丁目と2丁目の境界はかつての沢筋である。淡島交番脇から井の頭線までの路地は暗渠の道で、この暗渠は北沢川の支流の痕跡。 この辺りも明治時代までは農村で、この支流にも山女魚伝説がある。

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上の地形図の池ノ上支流(仮)は北沢川に注ぎ、その池ノ上支流から東に上る坂が駒場の富士見坂である。 かつて出合には大きく南北に伸びた池があり、その池の上流が池ノ上、池の南が池尻となったと伝えられている。(西側の下北沢支流は古老の話では森厳寺川と呼ばれていたらしい)

この辺りは江戸時代は下北沢村という地域で、江戸時代後期でも北沢八幡宮と森厳寺周辺に数十戸の民家ののどかな農村地帯だった。沢は湧水が流れて削られたもので、低地には田んぼが広がっていた。この北側駒場東大前は将軍の御鷹場で駒場野と呼ばれ、台地の上には森と野原が広がっており、沢筋に田んぼというのが当時の実際の風景なのである。

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坂下の横断歩道辺りがかつての支流の筋。 池がなくなってからは2本の流れがあったようだ。 横断歩道の手前の路地が暗渠だが、横断歩道の向こう側にも細い暗渠筋が残っている。 土地の記憶は残るもので、この2本の沢筋は北の方に延びていて、井の頭線を越えて東北沢の松蔭高校まで残っている。

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そういう地形なのでこの辺りには坂が多い。 しかし名前の付いた坂は極めて少ない。 作家の坂口安吾が下北沢(代沢小学校)で代用教員をしていた大正時代のことを書いている。学校の前に学用品やパン・飴を売る店が1軒ある外は四方はただ広汒かぎりもない田園で…というのが安吾の大正時代の記述で、200年前と100年前はほとんど変わっていない。 もし彼が今のこの地域を見たら腰を抜かすだろう。

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2018年4月 9日 (月)

宮の坂(宮坂)

宮坂(みやのさか)は東急世田谷線の駅である。 坂名がそのまま駅になった例としては東京都内には例を見ない。 志村坂上が近いが、坂名のままではない。 宮の坂の宮とは駅の傍にある世田谷八幡宮である。 昔は宇佐八幡という名の神社だったが、いくつかの神社を合祀するうちに世田谷八幡宮となった。 大分県の宇佐八幡宮は全国の4万柱の八幡の総本社で、世田谷八幡宮となるといささかローカル感がある。 元の宇佐八幡の方が個人的には良かった。

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関東の神社の歴史にしばしば登場する源義家が勧請したのが寛治元年(1087)なのでもうすぐ1,000年の歴史を有する。 境内には相撲場(観客席付きの土俵)があり、昔は「江戸三相撲」のひとつに数えられたほど大掛かりなものだった。 その歴史もあってか境内には力石が9つも並んでいる。

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神社の東側に沿って緩やかに上る坂が宮の坂。 誰ともなく普通にそう呼ばれるようになったという。 この坂道は半田坂から南に続く大山街道で、道は上町を経て大山道へと繋がっていた。

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昔はもっと急な坂だったらしいが、東急世田谷線沿いということもあり、かなり改修されて緩やかになった。 境内の中の傾斜が本来の土地の高低差だと思われる。 神社の北側を東西に滝坂道が走っている。 大山街道と滝坂道の交差点、かつボロ市に近い郷社ということで、古くから賑わってきた神社の脇の坂は道幅もいびつで古道の雰囲気を濃く残している。

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2018年4月 8日 (日)

半田坂(松原)

凧坂とは馬頭観音で左右に分岐する。 その角度は30度もなく、それぞれの道が甲州街道にぶつかっても300mほどしか離れていない。 それでもこの半田坂も凧坂も重要な古道だった。 凧坂がすぐに高度を上げるのに対して、半田坂はゆっくりと上っていく。

半田坂は地元ではえんま坂と呼ばれていた。 江戸時代には半田坂の坂下馬頭観音から少し北の東側に約90坪の敷地に複数のお堂(十王堂、十三堂)があり、そこにえんま様が祀られていたことに由来している。戦前までえんま坂とも呼んでいたようなので、江戸から昭和までの変化はゆっくりだったのだろう。

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凧坂の「菅原天神通り」に対して半田坂から甲州街道までは「松山大山通り」と呼ばれていた。  甲州街道を西進してきた旅人が、現在の明治大学の辺りで角にある「大山石尊」と書かれた道標を見て、この道に入り大山道(現在の国道246号線)に向かった。 そのルートならば少しでも短いこちらの道が開けたのは理解できる。

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半田坂が凧坂と分岐したすぐ北側を、両坂を貫くように東西に通っているのが羽根木通りという古道。 東進すると井の頭線の東松原駅前を通り環七を横切って井の頭通りに至る、こちらも古道。 都内の古道の多くは明治初期の地図のままの道筋なので、当時の地図を見ながら歩くのは面白い。 僅かに曲がったりくねったりしている道はほぼ古道である。

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半田坂の坂名の由来は半田塚に因る。 なぜか半田塚は凧坂にある。 半田塚については諸説あり、不明な点も多いという。 1,300年~1,400年前にここに塚があってのちに祠が建てられていたといい、墳墓とされている。 土地の人は「大塚さま」と呼んでいる。 祠に祀られているのは、後の鎌倉時代に新田一族が川越城を攻め落としたときに、多摩川原での戦いに敗れ傷ついた残党たちでここで息絶えたという。

坂名のある坂はしばしば古道にあり、そして古道には古い歴史が積み重ねられていることを感じる半田坂、凧坂である。

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2018年4月 7日 (土)

凧坂(松原)

甲州街道から現在の豪徳寺を経て代官屋敷のあった上町への南北の古道にある坂道。 凧坂の南で半田坂が若干東寄りに分岐している。 凧坂が甲州街道に出合うのは首都高速永福料金所の辺り。 一方の半田坂は明治大学近く、凧坂よりも300mほど東で甲州街道に出合う。

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上の写真の左側が凧坂、右側が半田坂である。 凧坂の方が傾斜はきつい。 坂名の由来は「たこう坂」の当て字で、傾斜が急な坂の意味があるという。 二又の頂点に小さな馬頭観音がある。馬頭観音は本来人を救う観音様なのだが、いつしか馬を救う観音様にされてしまった。 こういう分岐点に見かける民間信仰の形である。

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ただ江戸時代の絵図にはこの馬頭観音の場所に「死馬捨場」と書かれている。 なんだか哀れな気持ちになる。 伝承では、ここの馬頭観音は人の足となっていた大切な馬が死んだときにその霊を祀る供養塔と伝わっている。

坂下を南に進むと北沢川の暗渠を渡るところがある。 そこには大正時代まで水車があった。 そのあたりの旧地名を前田というが、現在は豪徳寺1丁目である。 つまり凧坂、半田坂は北沢川の削った谷の坂である。

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現在は何の変哲もない住宅街になっている。 そのまま甲州街道方面へ北上すると、京王線を横切る手前に菅原神社がある。「松原の菅原神社」と呼ばれ、江戸時代に石井兵助という人が寺子屋を開き、学問の神様である菅原道真公を祀ったのが始まりらしい。 天満宮を名乗らないのが奥ゆかしい。 学業祈願の絵馬札がこじんまりとぶら下がっている。 寛文5年(1665)の創建というが、最初は松原の天満宮と呼ばれていたようだ。 朱塗りのきれいな社殿で、地元の人々の思い入れが感じられる。 凧坂から甲州街道までのこの通りは地元では「菅原天神通り」と呼ばれた。

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2018年4月 6日 (金)

だんご坂(千歳台)

環八通りの環八千歳台交差点から西に向かう都道のガスタンク手前までがだんご坂である。 現在は坂というよりも、わずかな高低差というくらいしかない。 高低差は地形図データでは4mあるが、実際には2mくらいしか下がっていないように感じられる。

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長い間ここはなかなか開通しない計画都道のひとつという認識だった。 しかし調べてみると、この道は江戸時代からある道だった。 環八の交差点に北東の明治大グラウンドから斜めに入ってくる道がある。 環八ができる以前はそれがこの坂に繋がっていてどちらも滝坂道の一部だったのである。
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ガスタンクを挟んで北側に斜めに走る道は、かつての烏山川の本流筋で現在は暗渠だが、その気配を見せない普通の道路になっている。 まっすぐにだんご坂を西に上って進むと、榎の交差点から安穏寺坂になる道筋である。

東京が急速に都市化された昭和30年代にこの辺りにはいくつもの団地や新しい道路(環八)ができ、昭和31年には廻沢に東京ガスの巨大なガスタンクが出現した。 都内では昔、西新宿のパークハイアットホテルの場所に巨大なガスタンクがあったが、ここは今でも5基の巨大タンクが残っている。 このタンクはガスホルダーと呼ばれ、昭和の高度成長期の象徴的な存在である。

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ガスタンクの北側に広がるのは蘆花公園(蘆花恒春園)。 徳富蘇峰(徳富蘆花)は明治40年(1907)に青山からこの地に引っ越してきた。 当時はここは千歳村粕谷という小さな農村だったが、蘆花は住民に慕われてその後もここで暮らした。 『みみずのたはこと』という彼の著書がこの辺りの当時の民俗を詳しく伝えている。 現在は徳富蘆花の旧居も公開され、武蔵野の面影を残す公園の中でゆったりとした時間を過ごすことが出来る。

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2018年4月 5日 (木)

地福寺坂(祖師谷)

祖師谷5丁目にある釣鐘池は古くからの湧水池。 かつては豊富な水量を誇っていたが、現在はわずかに池底から湧くのが確認できるレベルである。 池を中心に縄文時代から人が住着き、周辺には遺跡も多い。 戦後湧水が枯れ始め、昔の様な池ではなくなったが、今も仙川に注ぐ沢は一部開渠であとは暗渠化されているが沢筋は確実に残っている。

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釣鐘池の名前の由来は、日照り続きで農民が困ったとき、それを救おうと僧が寺の鐘を抱いて入水したところ、たちまち大雨が降った、というような言い伝えが複数諸説ある。 実際には単純に武蔵野ローム層の地層によるものである。

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釣鐘池の北側を西に上る坂がある。 これが地福寺坂。 2014年までは坂の北側に豊かな樹木に囲まれた成城学園哲士寮があったが、2014年に売却され切り売りされて戸建が並んでしまった。 この場所は、この坂の名前の由来にもなった地福寺があった土地。 成城学園はここを大正時代の初期から区分所有していたから地福寺は明治以前に廃寺になったのだろう。 それでも残された崖線の自然だったが残念である。

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この細い坂道は明治以前から、金兵衛坂下の鞍橋からこの地福寺坂を経て塚戸へと繋がる古い道。 しかし今でも住民にとっては重要な道なので、世田谷区と小田急が運行するコミュニティバスも走っている。

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2018年4月 4日 (水)

弔い坂(祖師谷)

世田谷の細道の坂である。 この坂に到達するのは地元民でないと難しいかもしれない。 ちょっと見は住宅地の中の路地にすぎないが、この弔い坂は相当古い道であると同時に、祖師谷と上祖師谷の町境でもある。 坂の東側が祖師谷、西側が上祖師谷。 元禄8年(1695)の検地で祖師谷は上と下に分割された。 その境の道である。
P1040721路地を入り数十m北上するとカーブしながら上っていく弔い坂が見えてくる。 弔い坂というのは、江戸時代、まだ土葬の頃、死者を載せた輿を、組合の若い衆が担いで、安穏寺に運んだ道だったために呼ばれるようになった坂名である。 昔は弔い道というのが決まっていて、菩提寺までの葬送行進の道筋がどの村にも定めとして存在したらしい。 世田谷の各地でそれぞれの地区の弔いの道の言い伝えを聞く。 P1040725 この道を歩くと、この坂以外は古い道という感じがしない。 時代の流れというのは、地形以外の表面物を見事に消し去ってしまう。 しかしここに弔い坂があるだけで、昔の葬式の葬送行進がイメージされてくる。 まさに土地の記憶である。
弔い坂の東側にもう一つ古い道がある。 変形の丁字路に住宅地には不似合いな空き地があり、庚申塔の社とその向こうに広がる空き地に鳥居と小さな社がある。「ここは神明社の境内」と立て札にあるが、実はこの土地には長い歴史がある。
P1040731 祖師谷が分割された元禄時代、上祖師谷の村社は仙川宮下橋脇の神明社、祖師谷の村社は祖師谷商店街近くの神明社となったが、明治までこの空き地に熊野神社と稲荷森稲荷社があった。 稲荷神社は明治7年に氏子の申請で熊野神社に合祀された。 しかし明治43年に行政が熊野神社を神明社に合祀したという。 されども庚申塔の社だけは残され現在に至っている。 実物は祠の中で読めないが、享保4年(1719)の三猿の庚申塔とされている。
 

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2018年4月 3日 (火)

金兵衛坂(成城)

成城大学の正門前を南北に走る道は江戸時代からの古道である。 途中交差する東西の道は東へ行くと大石橋で仙川を渡り、祖師谷へ繋がる。 大石橋の西側には薬師堂と観世音堂が残っている。観世音堂は承応3年(1654)の創建、薬師堂は享保11年(1726)に安穏寺の別当として創られたものを明治になってここに移してきたものである。 また大石橋の脇には明治時代には水車もあった。

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大石橋への道へ曲がらずにまっすぐに北上すると、やがて下り坂になる。 これが金兵衛坂である。 伝えられるところによると、金兵衛坂の坂名はその昔加々美家のおじいさんが坂下に隠居所を建てたので、その名をとって名づけられたという。

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現在の坂の勾配は緩やかだが、昔は数mの落差を下る坂だった。 坂下を進むと仙川に鞍橋が架かっている。 北側は祖師谷公園。  釣り鐘池から流下する沢は大石橋で仙川に注ぎ、釣り鐘池、鞍橋、大石橋の三地点が囲む地域は田んぼが広がっていた。 その風景は明治大正のものではなく、昭和の中頃までそんな景色が広がっていたという。

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2018年4月 2日 (月)

安穏寺坂(上祖師谷)

環八千歳台から西に延びる都道118号線は何年経っても完成しない計画道路のひとつ。 世田谷にはなぜか一部整備されて途切れている道路がいくつもあってなかなか完成開通しない。 うちの近所にも数十年完成しない道路がたくさんある。 戦後の日本の道路は「通る必要性」ではなく「作る必要性」でできたものが多い。 しかし古道はまったくそれに当てはまらない。 古道は必要から生まれたものだからである。
P1040768_2 安穏寺坂は古道である。 古くから武蔵野台地を削った仙川の谷に向かって下る街道で、仙川を越え、甲州街道に繋がる「滝坂道」とよばれる主要街道であった。坂下で仙川を渡すのが宮下橋、橋の西側に神明社があるので付いた橋名。この辺りは江戸時代に上祖師谷、祖師谷の二つの村に分離されたが、上祖師谷の村社がこの神明社、また祖師谷の村社も神明社である。 村の分離は1695年(元禄時代)なので、ひとつの神明社もふたつに分かれたのではないかと推測したくなる。
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坂の北側はずっと安穏寺の墓所で、その石垣が続いている。安穏寺は江戸前期の開山。 神明社とほぼ同じ時代。 滝坂道に沿って人々が住み始めて村が形成されて寺社が造られていったのだろう。 前述の都道の工事は安穏寺の裏手から宮下橋東の駒沢大学グランドまでは進んでおり、道幅の狭い安穏寺坂で運転が得意でない人々が往生して詰まってしまう交通問題は近々改善されそうだ。
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安穏寺坂下には馬頭観音があって、滝坂道らしい風景を見せてくれる。ここには庚申塔やその他諸尊がいくつかあり、何となくホッとする空間である。 滝坂道の西の終点は、野川の支流入間川の上流の谷にある甲州街道の滝坂、東の終点は渋谷の道玄坂。 西の終点の滝坂をとって滝坂道と言われるが、都心と府中をつなぐ府中道のひとつとも言われている。
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上祖師谷村は江戸時代に入ってから住む人が増え始めたが、安穏寺坂の坂上の辻である「榎」の交差点は江戸時代からの東西南北の交通の分岐点であった。南北の道は六郷田無道で、これは大田区の臼田坂に繋がっていた道である。 エノキはよく街道の目印に植えられていたので、江戸時代にはここにも榎があったのだろう。 現在は榎はない。

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2018年4月 1日 (日)

ビール坂(ハケの坂)

成城四丁目坂の辻から北西に下る桜並木の道がビール坂である。 世田谷区側ではビール坂と呼んでいるが、この道を境界にしている調布市ではハケの坂としている。 世田谷区側は一般財団法人のせたがやトラストまちづくりが中心に管理しており、調布市側は市が直接管理しているが、国分寺崖線上の環境保全については調布市も世田谷区に負けず劣らず頑張っていると思う。
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ビール坂の由来は坂下の一帯をサッポロビールが所有していた成城グリーンプラザというスポーツ施設があったことに由来するようだ。 ゴルフ練習場だったころは、世田谷でも最も広い練習場として人気だったが、その前のビール工場については記憶がない。ビアレストラン併設のゴルフ練習場は2000年に閉鎖された。
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調布市側の呼び名のハケの坂は文字通り国分寺崖線の坂という意味である。 ハケというのは武蔵国のことばで崖を意味する。 桜並木の様子を見るために今年の桜の季節に合わせて再訪した。 崖線の坂は、ランニングする人、犬の散歩をするひと、ただ散歩をする人など、オフタイムを満喫している人が多いように思えた。 ただ崖線を上下できる坂は車の交通量も多いので注意が必要だ。
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世田谷区と調布市の境界線があるのだが、当然道には何も書いていない。しかし上の写真の右側崖側のフェンスに「世田谷区/調布市緑地管理境界」という板が貼ってあった。 また左の斜面側に建っている木柱には「雑木林のみち・調布若葉町コース」とあり、右の掛下の緑地には「世田谷区立ビール坂緑地」の看板が立っている。 民も官も境界線はなんとなくギクシャク感があることが多いようだ。
 

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2018年3月31日 (土)

かみの坂(成城)

この坂も国分寺崖線上に切り開かれた遊歩道である。 坂上の複雑な交差点を個人的には「成城四丁目坂の辻」とでも呼びたい。 その坂の辻から南になが坂が下り、西にかみの坂、北西にビール坂が下っている。
P1010057階段坂になっているのがかみの坂。開かれたのはいつかわからない。うっそうとした樹木の間を抜けて下っていく。 ここが東京23区内だとは思えない環境に包まれた散歩ができる。下り初めの急な部分は、コンクリートの階段なのだが高さがまちまちで歩きにくい。 しかしそれがとても自然に感じられる。
P1010062 まだまだ保全中のようで、仮設の手すりが設置されたりしていた。 植生は豊かで、シラカシ、クヌギ、アカシデ、イヌシデ、コナラなど、かつての武蔵野に生えて現在まで関東の森を形成してきた広葉樹に包まれる。 これは推測だが、この道は昔、崖線にあった踏み跡なのではないだろうか。 民家のある山の斜面にはいくつもこういう杣道があるものだ。 それが都市になってくると遊歩道として整備されていったのではないかと思われた。
P1010064坂下は階段が終わると民家の裏手に出る。民家の向かいはビール坂緑地という緑地になっている。斜面に様々な樹木が植えられているが、この緑地は人工感が強くてイマイチである。 坂下はパークシティというマンションが複数棟ならぶ、戦前法政大学の運動場、のちにサッポロビール所有で、ゴルフ練習場などがあった成城グリーンプラザだった。
 

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2018年3月30日 (金)

なが坂(成城)

「成城みつ池緑地」の下を北進すると、その先には「成城四丁目十一山市民緑地」、そのまた先の分岐を右手に上る長い坂道が「なが坂」である。ここも成城の国分寺崖線らしく、緑に覆われた好環境の坂道。

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坂を上ると右が崖線、左が野川へ向かって低くなっている地形。 坂野町側は「成城四丁目緑地」として保護されている。とくに崖線側の緑地は、CASIOで知られた樫尾氏の自宅の一部で「成城四丁目発明の杜市民緑地」となっている。

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発明の杜の上にある樫尾俊雄発明記念館は完全予約制の博物館。 とはいっても無料らしい。 まだ入館したことはないので、観覧は宿題である。 行くときはプロトレックを付けていこうかと…。

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なが坂の坂上はビール坂、かみの坂のすべての坂の坂上で変形の辻になっている。 この辺りの坂の古さは分からない。 なにしろ資料が乏しい。 昭和12年の地図を見ると、このなが坂は存在しているので、古くからある道のようだ。 まっすぐなようでいて微妙に曲がっているところからおそらく間違いないだろう。 ちなみに坂の崖下の野川沿いにあるマンション群の広い敷地は戦前は法政大学の運動場だったらしい。

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2018年3月29日 (木)

不動坂(成城)

成城学園前の高級住宅街が立ち並ぶ崖線上から野川に下る坂道。 くねくねと曲がり、坂として魅力的な景色である。 坂上の通りは、なかんだの坂上から不動橋の通りで小田急線の線路を越えて来た道。 不動坂は切通しで下るので、崖線の赤茶色の関東ローム層が見える。

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不動坂の坂名は坂下の不動堂に因む。 不動堂は新しい仏堂だが、この坂周辺には縄文時代後期の不動堂遺跡があり、何千年もの間ここで人間が営みを続けた豊かな環境の場所。 江戸時代には次太夫堀が開削され、この辺りはその分流で豊かな田んぼが広がっていた。 当時の用水路の土手盛にカワウソが穴をあけて困ったという記録も残され、現在は絶滅種であるニホンカワウソが人々と共に生きていたことに感心する。

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坂下の古い地名は上野田、その西側、現在の小田急の車両基地(屋上部は喜多見ふれあい公園)あたりは野屋敷と呼ばれた。野屋敷というのは、徳川綱吉時代に江戸市中の野犬が保護された時代、喜多見重政がここに広大な犬小屋を設け、その小屋と番屋敷があったためにつけられた地名である。 犬屋敷は中野駅周辺が有名だが、世田谷のこの地区にも同様な施設があったのである。

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坂下の喜多見不動堂は喜多見慶元寺の境外仏堂で、不動明王を祀っている。創建は明治9年で地元の有志の寄進で建立された。境内には国分寺崖線の湧水による滝があり滝不動が祭られ、かつては信者が水行をした。不動堂以外にも岩屋不動、玉姫稲荷、蚕蔭大神を祀った祠がある。

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この不動坂は今でも世田谷通りの渋滞時のう回路としてタクシーなどがよく通るが、昔から祖師谷大蔵方面への主なルートでもあった。 またこの境内の一部からは網沿いに小田急線が間近に見られるが、まだ撮り鉄にはあまり知られていないようである。

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不動堂の北側の崖線沿いには成城みつ池緑地があり、道路に溢れるほどの湧水が湧いている。成城の国分寺崖線でここだけが100mほどスリバチ地形になっていて、湧水層が出ているが、その周辺の植生が守られているので、道路に溢れるほどの水が見られるのである。緑地内には3つの池があり、都内では珍しいゲンジボタルも自生している。

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2018年3月28日 (水)

なかんだの坂(成城)

なかんだの坂の別名はなか坂。 崖線を斜めに上る坂道で、坂上はほぼ小田急線の成城学園前駅のトンネル出口部分にあたる。 タモリ氏が東京の地形を渋谷の銀座線で感じた話がある。 地下鉄なのに渋谷駅のホームが3階にある。しかし出発すると銀座線はすぐに地下に潜り表参道は完全な地下になる。 国分寺崖線を出てくる小田急線も似たようなところがある。

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さて、坂道は坂下の道から斜めに上っていく。 なかんだ坂の名前の由来は、この坂下あたりの旧地名「中野田」から来ている。 世田谷通りが野川を渡る橋が中野田橋。 昔のこの辺りの水路は複雑だった。 野川(別名:入間川)の南側には次太夫堀が流れていた。 現在は滝下橋緑道という暗渠になっている。

世田谷通りの喜多見駅入口交差点近くを流れていた次太夫堀にはタンゲイの堰があり、そこから北に分流を取っており、その分流は中野田橋脇と並んで水道橋で野川を渡っていた。 流れの立体交差である。この分流は世田谷通り筋を流れ、病院坂下で再び野川に注いでいた。

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分流の目的は水田に水を供給することだったと推測できるが、江戸時代というのは高度な治水をおこなっていたものだと驚かされる。 その田んぼが広がっていた場所が中野田である。 中野田が転化してなかんだとなったのであろう。

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この坂もまた緑の豊かな坂である。坂上近くには、「成城なかんだの市民緑地」があるが、それ以外にも坂の両側には、「成城三丁目小さな森」や「成城三丁目崖の林市民緑地」などがあり、崖線の環境が維持されている。

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なかんだの坂を上り左に曲がるとすぐに小田急のトンネル上に架かった不動橋とひとつ新宿寄りの富士見橋から、川崎の丘陵とその向こうには富士山までが眺められる場所に出る。どちらにも標柱や説明があるが、不動橋の方が崖線に近いので景色は良い。

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2018年3月27日 (火)

どんぐり坂(成城)

明生小学校から北西に進む道は国分寺崖線上の最も崖寄りの道になる。 気づかないうちに小田急線のトンネルを越えると不動坂の坂上になる。 崖線を下るのは、小学校脇から最初がお茶屋坂、次が丸坂、そして三番目がこのどんぐり坂なのだが、入口が極めて分かりにくい。

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民家に入っていくようにも見える未舗装の路地。 向かって左側には大きな老人ホーム「成城歐林邸(ベネッセスタイルケア)」があるので、それが目印になる。 隣の民家の生垣との間を入っていくこの道がどんぐり坂の坂上の入口である。

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左手の老人ホームの敷地には頑丈な金属製の格子塀が連なっているが、右手の民家側は崖線の植生がそのまま残されており、樹木の生い茂る森の中を下る砂利道の快適な坂道になっている。 世田谷の成城にこんな道があるなんて想像はできないと思う。 冬はある程度落葉してしまうが、夏は涼しくて気持ちがいい。

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砂利道のところどころにマンホールがあるのでいささか不思議な感じがした。世田谷区の情報によると、この道には水道管が埋まっているそうで、坂の別名を「水道坂」ともいうそうである。 上水道なのか下水道なのかはわからない。
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坂下まで降りると、世田谷通りが野川を渡る中野田橋も近い。 野川は昭和30年代まではこの辺りでは流れが二つに分流していた。 以前の野川は六郷用水の次太夫堀も含めて毎年のように大水が出て、田んぼが被害を受けたそうである。 現在の野川は広く河川改修され、多自然型工法によりビオトープなども作られ生態系を強く意識した流れに変わっている。

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2018年3月26日 (月)

丸坂(成城)

最初に丸坂と聞いた時に坂名の由来は何だろうと想像したがとんと見当がつかなかった。 調べてみるとなんということはない、舗装路面の滑り止めの丸い凹みをモチーフにして丸坂と呼んでいるだけだった。 そうならば都内に丸坂はゴマンとある。 しかし、子供たちがつけた坂名だとしたら無下に扱うのもよくない。 所詮坂名などはそんなものなのだから。

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病院坂よりも西で次に車が通れるのはこの丸坂である。 坂上からの一方通行。 丸坂の別名としてクランク坂と呼ぶ人もいるようだ。 見たまんまである。 坂は中腹でクランクになっている。 崖線上の白亜の邸宅に白いコンクリートの壁、天気がいい日はまぶしい。

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クランクの坂は坂名のついた都内の坂にもいくつかある。 有名どころでは赤坂の三分坂、雑司ヶ谷の豊坂だが、数は少ない。 S字カーブの坂は多いのだが、どうもクランクの坂は人工感が強く不自然さが付きまとう。 やはりくねるような坂の方が坂としては魅力がある。

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この辺りの崖線は坂上が標高41m、坂下が21mと20mの高低差がある。 100mほどの距離でこの高低差を上るわけだから、勾配としては平均20%程度ある。昭和12年の地図には丸坂は載っていない。 お茶屋坂の西側に描かれているのはのちに紹介するどんぐり坂である。 やはりクランクの坂は新しいものが多いということは言えそうな気がする。

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2018年3月25日 (日)

お茶屋坂(成城)

安土桃山時代が終わり徳川家康が江戸入城する以前の戦国時代は多くの中小藩主が諸大名の傘下に入ることで生き延びていた。 その中小藩主を「国衆」と呼んだ。 江戸城を築城した太田道灌もその一人、そして世田谷の城主吉良氏もまた国衆の一人だった。 その吉良氏の家臣に江戸氏がいて喜多見郷を治めていた。

徳川家康が江戸入城すると、北条の配下であった吉良氏は江戸を追放されたが、江戸氏は喜多見に潜伏し留まった。 江戸(勝重)氏はその後北見村(現喜多見)を治めることを許されたが、徳川の居城「江戸」の名前を使うことを憚って「北見→のちに喜多見」に改姓した。

江戸時代になり、大阪の陣で手柄を挙げた喜多見(江戸)勝重は奉行を務めるまでになり、その子の重勝(久太夫)は茶人として喜多見流茶道を当時の茶道の一派にまで育てた。

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崖線上の明生小学校脇から野川方面に下るまっすぐな急坂がお茶屋坂である。 坂名の由来は、前述の喜多見重勝の茶室がこの坂上にあったことに由来する。 しかし彼の死後、わずか4年後のお家騒動で喜多見家は御家取り潰しとなった。茶室はそれ以前だとすると、御家断絶の1689年までの江戸時代前期にあたる。

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このお茶屋坂は小学校の通学路になっている。 当然ながら車もバイクも通行禁止である。 この急坂を毎日上り下りするのは気の毒であるが、崖線の坂のおかげで体力は付くだろう。

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坂は下半分が広くなり、そこは住民の自動車が出入りする。 きつい坂だが、国分寺崖線を十分に味わえる。西南向きの坂なので、日当たりはよく明るい坂になっているのが特徴である。 坂下は丁字路になるが、昔は世田谷通りの向こう側の野川に架かる雁追橋まで繋がっていたようだ。 橋向こうで再び丁字路になるが、その川向うの左右の道は田淵道と呼ばれていた古道である。

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2018年3月24日 (土)

ヘビ坂(成城)

成城三丁目緑地にある崖線上の遊歩道であるヘビ坂はごく新しい坂である。 江戸どころか昭和でもなく、できたのは平成20年。 しかし、この緑地は魅力満載の崖線緑地なので、坂名のひとつとして挙げたいと思う。

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上の写真は一瞬なんの前衛アートかと思われそうだが、実はマンション(シティハウス成城)のすき間にある階段。 ここを入っていくと裏手には緑の崖線が広がる。 崖線上は世田谷区立明生小学校。 この坂下の入口は他に例のないパターンである。

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樹林はコナラ、クヌギを中心に、さまざまな樹木が混在していて、小鳥のさえずりもあちこちから聞こえてくる。蛇坂の東側にはこんこんと湧く湧水が2ヶ所あり、水量も豊富で池を形成している。 コンクリート部分を除けばかつての国分寺崖線の様子を再現できている。

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この坂および崖線の緑地は日中のみ立入ることが出来る。 ヘビ坂は6:30~20:00の間通行可、緑地は8:30~17:00である。 この崖線には最上部の立川ローム層、その下の武蔵野ローム層、さらに武蔵野礫層が表れ、武蔵野礫層とローム層の間から水が湧いてくる。

この崖が形成されるのには地学的には大した時間は掛かっていない。長く見てもせいぜい数万年である。 そして縄文海進が埼玉の奥地までを海没させたのはたった6,000年前のこと。 多摩川が国分寺崖線を形成したのはそれ以降だから、直接的には数千年の歴史しかない。

しかし昭和以降の開発を見てみると、地球が何千年何万年とかけて築いてきたものを、たった数十年で壊しているように思える。 だからこそその反動が来ないように、私たちは自分たちの開発を振り返りながら、バランスを取らなければ取り返しのつかなくなる時期に直面している。 こういう貴重な森を見ているとそれを痛感するのである。

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2018年3月23日 (金)

病院坂(成城)

横溝正史原作『病院坂の首縊りの家』という映画がある。 市川崑監督、石坂浩二主演の東宝映画で1979年の作品。 ストーリー上の病院のモデルは港区高輪の魚籃坂にあった病院である。 しかし魚籃寺に由来する魚籃坂という坂名の方が知られているので、病院坂とは呼ばれず、そのうち病院もなくなったので忘れられてしまった。

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成城の病院坂は地元では「病院坂」と呼んでいる。 ただし由来を知る人は少ない。 この坂の西側の崖線は江戸時代は幕府の御料地だった。 そのまま明治以降は宮内庁の直轄地で、自然を守るべく林野庁の施設もでき、農水省の土地として近年まで崖線の環境保持を続けてきた。 最近では住民が中心となって手入れをしている。

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実はこの林野庁の施設以前に、明治末期から昭和の初期まで、この坂の切通しの上に伝染病の隔離施設があった。 当時は結核などの場合は隔離する対応が多かった。そんな時代背景から病院があることが住民には印象が強かったのだろう。 それがこの坂を病院坂と呼ぶようになった由来である。

しかし別説があり、昭和中期御料林だったころ、当時の皇太子(今の天皇陛下)がこの切通しの上に樹木の苗木を植えたので「苗園坂」と呼ばれたのがのちに「病院坂」になったという。 もっともこちらは諸説のひとつにすぎないので、前説がおそらくは正しいと思う。

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現在の崖線は豊かな自然に恵まれ、坂下の世田谷通りから多摩堤通りを進むと、次太夫堀公園民家園もある。 六郷用水を開発した、その小泉次太夫の旧家ではないが、江戸時代の名主の屋敷を復元し楽しませてくれる。

坂下の交差点には歩道橋があったが、2013年頃に撤去され、横断歩道になった。 歩道橋は老人と子供にやさしくない。 できればスクランブル交差点にして、斜め横断が出来ればもっといいと思う。

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2018年3月22日 (木)

赤土坂(砧)

坂下で合流する畳屋坂の町名が大蔵でこちらが砧というのはいささか不思議である。 砧という町名区域は東は環状8号線、北は小田急線、西は仙川で区切られ、南はこの世田谷通りの旧道が大蔵との町境になっている。 したがって畳屋坂は大蔵と砧の境の道という訳である。 一方の赤土坂の由来はこの辺りがローム層の赤土が仙川の流れに削られて露出しており、ぬかるんで滑る坂だったからだと思われる。

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上の写真の右側赤い舗装が畳屋坂、左の道が赤土坂。 どちらも古道である。 赤土坂の方は古い鎌倉街道とも言われ、甲州街道の高井戸宿に向かう。  北上すると現在の塚戸で品川用水に沿う道に合流していた。

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坂下の石井戸橋には水車があった。 実際に古い地図を見てみると仙川にはたくさんの水車がある。 一つ上流の水車は、300mほど離れた東宝撮影所の辺り、一つ下流の水車は座頭ころがし下の清水橋との中間点で、それも300mほどしか離れていない。 ひなびた山村の様な景色が大正期あたりまでは広がっていた。

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赤土坂の西側はゴジラやウルトラマンを生んだ東宝撮影所。 昭和7年に東宝の前身である写真化学研究所から始まり、ここでPCL方式という最新の録音技術が生まれた。 昭和12年には東宝映画東京撮影所となり、戦後のゴジラブーム、ウルトラマンブームを生み出した。昔は怪獣の着ぐるみがその辺に転がっていた。 毎週新しい着ぐるみを作るわけだから置き場所にも困ったのだろう。

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2018年3月21日 (水)

畳屋坂(大蔵)

砧小学校の交差点は複雑な形をしている。 基本は世田谷通りから成城学園前駅方面へのバス道路が分岐している三差路だが、それに世田谷通りの旧道と荒玉水道道路が絡んで変形七差路になっている。 この中で世田谷通りの旧道にある坂道が畳屋坂である。 仙川に架かる石井戸橋を渡ると、赤土坂との分岐、そこから上りが始まる。

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この世田谷通りの旧道は昔、大山街道の裏道、登戸街道、あるいは甲州黒駒街道と呼ばれていた。 その時代時代でいろんな呼ばれ方をしたということは、それなりに歴史のある古道だという証である。

昔、大八車で下るときには、後ろを引っ張る人がいないと降りられないほど急坂で、当然上るときには後ろから押す人がいないと難儀だったという。 坂の下に畳屋があったので畳屋坂と呼ばれるようになった。

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畳屋坂の話を裏付ける地元の大正初期生まれの古老の話がある。「渋谷までは砂利道だった。坂道で車を押す係(「立ちんぼ」といった)は10銭もらえた。」  昔はこの街道はこの坂下からNHK技術研究所の辺りまでは民家もない雑木林の中の道だった。 成育医療センターからここまでの間は昭和30年代になっても民家はほとんどなく、それで団地や大学を建設する敷地を確保できたのである。

この畳屋坂は一時停止取り締まりの定番ポイント。 砧小学校前からこの道に入ってくると、祖師ヶ谷大蔵駅に向かう赤土坂と畳屋坂の手前の一時停止を完璧に守ったかどうかでその先にいる巡査に止められ、反則切符を切られる。 末端の巡査にこのクソにもならない仕事をさせる署の上司の人間性の問題だろう。

成城署はかれこれ40年近く同じ活動を継続している。 その継続性だけは認めてもいいが、やっていることは下衆である。この場所に行けば判るが、メインの直進が一時停止で対抗の右折が一時停止でないという常識では考えられない交差点になっている。  40年以上この非常識が継続しているのである。

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2018年3月20日 (火)

愛宕坂(大蔵)

坂下は座頭ころがし坂の庚申塔のある打越辻である。 坂を上っていくと、崖側には遊歩道がめぐり、国分寺崖線の林の中をいろいろと散策できる。 ただしマムシも出たことがある。 落葉広葉樹と常緑広葉樹が季節ごとの色で迎えてくれる素敵な崖線である。

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崖上は世田谷区の総合運動場で、400mトラックの競技場が出来てから道筋が付け替えられた。 それ以前は祖師ヶ谷大蔵駅東側の山野地区からの南北の道が陸上競技場の真ん中を突っ切っていてそのまま崖下の辻に落ちていた。

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樹木に覆われた道が気持ちいい。 この道と永安寺脇の新坂を通っていたのが鎌倉街道だという言い伝えもある。 ただ鎌倉街道は網目のように走っていたから、古道であることだけは確かであろう。 庚申塔を右へ(北へ)曲がると石井戸、まっすぐ行くと大蔵の本村。 座頭ころがし坂は辻から現在の環八沿いを南北に走っていた別の鎌倉街道に抜ける道だったようだ。

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坂の崖線に沿って仙川沿いにあるのが昭和36年にできた大蔵団地。 翌年昭和37年に大倉運動公園ができ、この坂を変えた陸上競技場ができたのが昭和45年である。 大蔵団地は桜の名所だが、戦後植えられたソメイヨシノも寿命を迎え枯れ始めるとともに、住民の老齢化で空き部屋もかなり多くなってしまった。 大蔵団地は3期に分けて2027年までに全棟建替えられる。 今年(2018年)2月から解体が着手されると聞いている。

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2018年3月19日 (月)

座頭ころがし坂(大蔵)

世田谷区内を通る東名自動車道が大蔵地区を南北に分断したが、現在は橋が3本掛かっている。西から大六天橋、グランド橋、公園橋である。 公園橋はバスも通るが決して広くはない。ほかの二つは車のすれ違いは難しい。 グランド橋だけが北から南への一方通行になっている。 したがって自動車は坂を上ってくるだけである。

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座頭ころがし坂というのは面白い名前である。 大蔵の古老も東名開通以前から大変な坂道のひとつとして挙げている。 もともとの名前に「坂」はついていない。 「ざとうころがし」というのが地元の呼び名である。

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昔の道幅は2mほど、30mの高低差を一気に下る坂道で、当時は人里離れた寂しい所だった。 鬱蒼とした雑木林の間にはおいはぎも出没したので、通る人は怖れて、山から里へ転げ落ちるようにして通ったことから「ざとうころがし」と呼んだと伝えられる。 「座頭ころばし」と呼ばれる坂は地方にも見られ、急坂の代名詞の様に使われている。

座頭という言葉を差別用語だという人もいるが、ノーマルに考えてそれを差別用語という人の方が差別意識を醸し出していると思う。 用語が問題なのではなく、状況を踏まえずに発言し相手を傷つけることが問題なのは、セクハラと同じではないだろうか。

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坂下では北から下ってきた愛宕坂と合流し、仙川に架かる清水橋を渡る。 明治以前は仙川も暴れる川だったらしく、明治初期の古地図では川筋が2本に分かれ、間の土地には家はなく田んぼだった。

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坂下には3基の庚申塔が雨除けの屋根の下にある。 愛宕坂と座頭ころがし坂が出合うこの交差点を昔の人は打越辻と呼んだ。 左が地蔵っぽい石塔、真ん中は笠付庚申塔、右はノーマルな庚申塔である。 建立年代は不明。 左の地蔵は田の神という説もある。 説明を書いた板を見ていたら、ここに上屋根を設置した時の祭主は妙法寺の小林住職とある。 うちの菩提寺の住職であったので、いささか驚いた。

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2018年3月18日 (日)

新坂(大蔵)

大蔵という地名は小田急線の祖師ヶ谷大蔵駅があるためにもっと北の地域の印象があるが、実際はほぼ世田谷通りの南側、東名高速の南あたりが大蔵の地名の区域である。 成育医療センターが以前は大蔵病院という名前だったが、あのあたりが大蔵の北端になる。 ただし東京市に組み込まれる前の大蔵村は、現在の祖師ヶ谷大蔵駅あたりまでを含む広い村域だった。

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大蔵村の鎮守は現在の大蔵の最南端にあたる大蔵氷川神社(1238年創建)だが、その西にある天台宗永安寺も1490年の開山と古い。 境内の銀杏の巨樹は樹齢数百年とあり、寺を何百年も見守ってきた。

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その永安寺脇を上るのが大蔵の新坂である。 古老の話としては、新坂、ざとうころがし、旧坂があったという。旧坂がどこを指すのかは特定できないが、おそらく氷川神社下の坂道ではないかと推察している。 この坂の北側、東名高速が切通しになっている辺りが丘になっていて、そこから下ってくる旧道はそのまま氷川神社に繋がっている。一方でその尾根筋の辻から下って永安寺脇に出るのが新坂である。 どちらの坂も下ったところには六郷用水(現在はこのエリアは暗渠)が流れており、用水沿いの道は筏道と言われ、青梅の筏職人が六郷から歩いて青梅奥多摩に戻る街道であった。

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現在新坂の北側の丘を削って開通した東名高速脇では新たに外環自動車道とのジャンクションの工事が進んでいる。 しかし完成時期はまだ未定、私の生きているうちに出来るのだろうか。

大蔵地区を分断した東名を渡る橋が、この大六天橋と座頭ころがし上のグランド橋の2ヶ所だけある。 大六天橋はこの橋の南側に大六天があったことに由来するが、氷川神社裏に数年前に移転した。 岡本の第六天も岡本八幡に移転合祀されたので、この地域にはもう単独の大六天はなくなった。

大六天(第六天)というのは東日本にのみある神社で、関東の武蔵国を中心として、北は宮城から西は静岡までの分布。 あまり大きな神社はなく、小さな社が多い。 祀る神様も一律ではないし、祀っている神が魔王だったりと、謎の多い信仰対象である。

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2018年3月17日 (土)

岡本三丁目の坂(富士見坂)

岡本三丁目の坂は岡本地区の国分寺崖線の坂の中では横綱級である。 これ以外にもあと何本か坂道があるが、崖線をストレートに下ってくるのはこの坂だけである。(堂ヶ谷戸坂は惜しくも坂上で分岐している)

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別名を富士見坂というが、坂上からの展望で天気がいいと富士山が見える都内では珍しい本物の富士見坂である。 ただ富士見坂という呼び名は誤って広まった可能性が高い。 坂上にある平成16年に建てられた国交省の石碑にある銘板に「地点名 東京富士見坂」とあり、坂名ではないのである。

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世田谷の国分寺崖線に関する(一般財団法人)世田谷トラストまちづくりが作成している崖線マップには「岡本三丁目の坂道」と「岡本の富士見坂」の両方が併記されている。 写真でわかるようにこの道は下り一方通行だが、他の坂は相互通行。 坂下にあるコヤマドライビングスクール成城(以前は日産自動車教習所だった)は坂道発進が得意になりそうである。

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また世田谷区が古老の話をまとめた資料によると、この坂は西谷戸坂と呼ばれていたようで、大正時代に開かれた道。 ただほとんど農道レベルで、今のように車道になったのは昭和中期からのようである。 坂下の仙川に架かる橋は西谷戸橋である。

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2018年3月16日 (金)

堂ヶ谷戸坂(岡本)

岡本公園から西に200mほど進む。 この辺りの丸子川(六郷用水)にはハヤなども泳ぎ自然の豊かな流れを作っている。 橋はたくさん架かっているがどれも個人宅へ入る橋ばかりである。 岡本民家園より西で初めて公道の橋になるのが堂ヶ谷戸橋。 丸子川親水公園になっている橋から、急坂の堂ヶ谷戸坂が上る。

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ここから東名高速までの間の国分寺崖線の坂道はどれもいい坂道である。 しかし谷戸川出合より上流で、江戸時代からあったのはこの堂ヶ谷戸坂と八幡女坂のみだった。 古老の話では、この坂は狐が出るということでキツネ坂とも呼ばれたという。狐火を見たり、化かされたりした話が残っている。

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坂の上からは鎌田の平地が展望でき、遠く川崎の丘陵も望むことが出来る。 岡本は坂だらけの村で、昔は「岡本は坂が多くて苦労するから、可愛い娘は岡本には嫁にやるな」と言われていたそうである。

今は舗装されているのでわからないが、この崖線はローム層で雨が降るとぬかるむ土壌なので、それは難儀であっただろうと思う。

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坂上で道は三方に分かれるが、どの道もまだ高度を上げ続ける。 角の家の石垣がこれらの道が切通し的に開かれたことを表している。

江戸時代はこの辺りまで鷹狩りに来る将軍も居て、岡本の人々はその鷹の餌としてオケラを掘って献上していた。 この辺りはキツネやタヌキだけでなくマムシも居たので、村人はあまりオケラを掘りたくなかったが、幕府の仰せなので致し方なく受け入れたという。 実際、20年くらい前、私の長男がこの西の座頭ころがし坂あたりで遊んでいた時にマムシが出た。 おそらく今もいるのではないかと思う。

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2018年3月15日 (木)

八幡女坂(岡本)

岡本の谷戸川と丸子川(六郷用水)に挟まれた尾根筋は誠に面白い。 静嘉堂文庫(三菱財閥の墓所跡)の西側に隣接して岡本八幡神社がある。 二つの川に挟まれた急峻な崖が岡本八幡を威厳ある神社に感じさせている。 男坂とは呼ばれていないが、正面の参道の階段は上るのをためらうほど急峻である。

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向かって右手にゆるい階段坂があり、そちらが女坂。 こちらは傾斜は比較的緩やかで歩きやすい。 岡本八幡の由緒は不明だが、鎌倉鶴岡八幡宮よりの勧請という言い伝えなので、鎌倉時代の後期だろうか。 江戸中期に改築された記録がある。 最近パワースポットとして知られるようになったらしいが、明治以降岡本村の村社とされている。

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女坂は神社脇まで上ってもさらに上を目指して尾根筋の道まで行っている。 尾根筋の道からは北参道があり、八幡宮はそこから少し下っている。 女坂の神社への入口は二つあって、上の写真のパイロンのところに広い入口、そして手前のイヌシデの樹下に古い階段がある。

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以前は砂利と階段の女坂だったが、今はコンクリートで固められて風情がなくなった。 それでも静嘉堂文庫と神社の樹木に覆われた女坂を歩くと神秘的な感覚がある。 神社の記録では昭和39年に谷戸坂の第六天を合祀したとあるので、前述の谷戸坂の話を証拠づけている。

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神社の参道の西側は広く公園になっており、その中に岡本民家園がある。 区の有形文化財第1号。 江戸時代後期の典型的な農家を再現している。縁側に座ってのんびりすると時代の流れすら忘れてしまいそうになる。

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周辺で最も興味深いのは岡本隧道だろう。 岡本公園の奥にひっそりとあり、上の写真は反対側(ドミニコ学園側)の出口で尾根の向こう側になる。 この尾根を突き抜けて120mの送水管が通っている。 大正10年(1921)に渋谷区では多摩川の水を必要としたため、大規模な水道工事を行った。 地下の送水管は砧下浄水場(多摩川脇)からここを抜けて駒沢給水塔へ、そこから三軒茶屋を経て渋谷へ給水するための隧道で、駒沢給水塔と合わせて極めて珍しい近代水道の歴史遺産である。

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2018年3月14日 (水)

谷戸坂(岡本)

東名高速東京インターから岡本方面へ向かう下り坂。 坂下には谷戸川があり、四之橋が架かっている。 直線の坂道である。 谷戸坂というのはほぼ地元でのみ認識されている坂名。 関東では谷筋のくぼ地を谷戸と呼ぶ地域が多い。 鎌倉あたりの谷戸が有名。

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武蔵国、相模国では谷筋を一般的に谷戸、谷津といい、東北北海道では谷地という。 文明が進化する以前は、大きな平野で灌漑農業などということはあり得なかった。 こういう小さな谷筋で人間は生きてきた。 というのも大きな平野は度々洪水に見舞われて、隅田川や利根川沿いなどとても住める場所ではなかったのである。 江戸以前の人々は小さな谷あいに住み、斜面や丘で畑や果樹を植え、水が確保できる小さな谷筋で米作をしていた。 生きるための水もここなら川も湧水もあって困ることはなかった。

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実際にこのあたりでは旧石器時代からほぼ全時代の遺跡が出土している。 昔は坂の上の環八辺りまで広がる地域を「原」、坂の下の谷戸川流域を「谷戸」と呼んでいた。 地元の古老の話では、この坂の途中に第六天があったが、今はないという。この辺りの昔の子供にとっては家も何もない原っぱだった現在の砧公園辺りもテリトリーで、砧公園内にある大塚あたりでも遊んでいた。 大塚は古墳のようだが祭礼用の土盛で、その上に下駄を置いて塚の周りを3周回ると下駄が消えてなくなる、などという奇談を伝えている。

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谷戸川の四之橋を越えると道は再び上りになる。 谷戸だからである。 東名が開通してこの辺りの地勢は一変した。 もとは砧緑地や世田谷総合運動場から大蔵方面まで多くの村道が繋がっていたのが完全に分断されてしまったからである。 前述の第六天は岡本八幡に合祀されたと聞いている。

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2018年3月13日 (火)

無名坂(岡本)

坂名は「無名坂」だが名前のない坂ではない。 坂上に仲代達也の「無名塾」があるので、無名坂と呼ばれる。 坂下は谷戸川沿いの旧道。 現在は川沿いにバス道路が通じているが、昭和の中頃まではこの坂下の道がメインだった。

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坂の下半分はすこぶる急坂。 道路標識にも21%の勾配とある。 歩くのもつらいので階段が付いている。 坂下は丁字路だが、坂下の向かいの家の塀の大谷石が、無名坂下の幅で色が白いのが気になった。 誰かが突っ込んだのだろうか。

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坂上の煉瓦の建物が無名塾である。 国際的俳優仲代達也が率いる若い俳優たちの育成塾で「劇団の東大」と言われるほど入塾は難しいという。 この煉瓦の建物は別名仲代劇堂とも言われる。 無名塾出身の主な俳優には、役所広司、益岡徹、若村麻由美、真木よう子らがいる。

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煉瓦の壁に埋め込んであるレリーフは無名塾ではなく無名坂のことを書いている。

「若きもの 名もなきもの ただひたすら 駆けのぼる ここに 青春ありき 人よんで 無名坂 1975.年始まる 無名塾 仲代達也」とある。 最初は無名塾の説明かと思ったが、俳優たちにもこの坂は忘れられない坂なのだろう。

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無名塾の西側に聖ドミニコ学園がある。 昭和の初期には当時の首相松方正義の別邸だった土地に、昭和37年(1962)に目黒区駒場から移転してきた。 その校舎脇の坂道が優れもの。 木漏れ日の中、ゆるやかにカーブする坂道に少女たちの声が響く。 坂下のバス停が面白い。 川の上にある女学生向きのメルヘンチックなバス停になっている。

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2018年3月12日 (月)

馬坂(瀬田)

小坂緑地の南側のとうかん坂も江戸時代からある坂だが、北側の馬坂も古い坂のようだ。 坂上には江戸時代から民家がいくつもあった。 また坂上の下山遺跡は弥生時代後期の豪族の館跡があり、その周りに集落が集まっていた。

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小坂緑地の小坂家というのは、近代になってからの衆議院議員小坂順造の別邸。 旧小坂家住宅は昭和12年に建てられているが、現存する木造和風平屋の貴重な庭園家屋のため、区の指定有形文化財となっている。 この住宅前から馬坂がS字に曲がりながら下っていく。

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馬坂と呼ばれた由来は、元からあった坂があまりに急峻で馬が登れなかったので、この道を通して馬も上れるようにしたと伝えられる。 元からあった道がとうかん坂ならば納得なのだが、その真否は分からない。 馬坂は小坂緑地の塀沿いに下っていく。

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坂下のカーブに馬坂と書いた石柱が建っている。  この坂はバスも通るので、すれ違う時は気を遣う。 坂下の静嘉堂文庫は、元々三菱一族岩崎家の墓所だったものを、三菱財閥二代目岩崎彌之助、三代目岩崎小彌太が収集した文化財・骨董を収蔵している。 TV東京の『なんでも鑑定団』で話題になった曜変天目茶碗の本物(国宝)もある。この曜変天目茶碗の完全品は世界に3例しかなく、そのすべてが日本にある。 そのうちのひとつがここにある。(そういう意味ではTV東京はもう少し慎重にやってほしかったが、中島誠之助氏も関係者もまだクリアな結論には至っていないらしいが、局の問題だと私は考えている)

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2018年3月11日 (日)

とうかん坂(瀬田)

谷戸川は祖師ヶ谷大蔵を源流に、砧公園の真ん中を流れ、静嘉堂文庫の脇で丸子川に合流する支流。 周辺は縄文、弥生、古墳時代の遺跡も出土し、何千年もの間人間の営みの続いた地域である。 小坂緑地は谷戸川と丸子川の出合近く、瀬田の西の端、岡本との境界にある。

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とうかん坂は静嘉堂文庫の入口前にある旧小坂家住宅の緑地の南側の階段坂。 ちょっと見には公園の中の遊歩道っぽいが、実は江戸時代からある崖線の上下を結ぶ道のひとつ。 20mの高低差を一気に登る階段はなかなかきつい。

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小坂家住宅のある場所は「瀬田四丁目旧小坂緑地」という公園になっており9:30~16:30のみ開いている。 月曜日は閉園。 小坂家には画家横山大観が昭和20年に空襲を避けて上野池之端からここの茶室に移り住んだという。 なんと引っ越した翌日に池之端の本宅は空襲で焼けてしまったという。 もっとも暮らしたのは3か月ほどだったようだが。

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緑地には古い庚申塔もある。 丸子川の南の現在マンションが立ち並ぶ辺りに、骨董商が築いた幽葟堂庭園内にあったものをここに移した。 二基の庚申塔の時代は、大きい笠付きが宝永5年(1708)と小さく摩耗が進んだのが元禄2年(1689)と古い。 園内には湧水もあり、夏場は蚊に悩まされるが、他の季節はなかなか良い散策ができる。

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坂の上、崖線上の地域は昔「下山」といった。 下山遺跡をはじめたくさんの遺跡がこの崖線上にはある。とうかん坂の上は玉川病院の敷地にあたるが、この南側の斜面には横穴墓群が複数、坂上周辺にも古墳が複数出土していて、旧石器時代から奈良平安時代まで様々な時代の営みが残っている。

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とうかん坂上には小さな稲荷の祠がある。 下山稲荷神社とある。 小坂家住宅の屋敷神だったのだろう。 屋敷神の稲荷としては相当立派である。 かつては「八幡稲荷八万」と言われ、稲荷神社と八幡神社はそれぞれ4万ずつあると言われていた。 実際には稲荷が32,000柱、八幡が14,000柱らしい。 ただ、屋敷神としての稲荷はどこまでカウントされているのか分からない。 (おそらくノーカウントだろうと思う)

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2018年3月10日 (土)

慈願寺坂(瀬田)

慈願寺あるいは慈眼寺の両表記がある。 現在の寺は慈眼寺としている。 坂に関する情報には慈眼寺坂とある。『新撰東京名所図会』には慈願寺、どうもわからない。区内の古い文献も両方の名前がある。

その慈眼寺は崖線の上にあり、慈願寺坂は大山道とされている。 寺の参道の入口には笠付庚申塔があるが、寺の説明だと元禄年間のものらしい。 開山は徳治元年(1306)、時代としては吉良家により世田谷が統治されていた頃か、その前の喜多見氏(江戸氏)の頃か。 地形的には野城としても機能する場所なので、領主との関係はあったと思われる。

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笠付庚申塔の前から下り坂が始まる。 途中自転車ではとても上れないほどの傾斜になる。 慈眼寺の南側にあるのが瀬田玉川神社。 戦国時代の永禄年間(1558~1570)に御嶽神社として創建され、明治41年に玉川神社と改名された。

ちょうどその頃、明治42年に慈眼寺坂の東側の斜面に「玉川遊園地」が開設され、行善寺下に玉電の駅「遊園地前」もできた。 約1万坪の遊園地には、滝のある池、藤棚、乗り物、小動物の動物園、運動場などがあった。 古い玉川遊園の見取り図には、玉川神社にご神木(松)と書かれていたが、この赤松は樹齢800年の都天然記念物だったが、昭和41年の台風26号の折に倒れてしまった。(古老の話では黒松になっている)

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玉電の「遊園地前駅」は、玉電が深い関係にあった身延山別院玉川寺の開山(昭和7年)の後、「身延山関東別院前」と変更されている。 しかし戦争が本格的になると、駅は昭和18年に廃止された。 このあたりの変遷は聖俗が入り混じった時代感を醸し出している。

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慈眼寺坂の坂下には六郷用水(丸子川)が流れ、治太夫橋が架かっている。 六郷用水は代官小泉次太夫が徳川家康の命により建設し、現在の世田谷区、大田区、狛江市の灌漑のための用水路。 完成は慶長16年(1611)で、後に有名な玉川上水が玉川兄弟により完成(1653)する先駆けとなった。

この橋の治太夫と次太夫堀の小泉次太夫の関係を調べてみた。 やはり大山道という重要な街道に次太夫の名前をということで附けられたようで、「治太夫は次太夫が正名」とある。小泉次太夫は人心をコントロールする能力の高い代官だったらしく、徳川の命で駆り出された村の男たちを十分に活躍させるために、10人に1人の女性を入れて組ませた。 そうすると生産性が大幅に向上したという。 いささか「盛られている」感じがあるが、アイデアとしては真っ当である。

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橋の前のクリーニング屋の角に道標がある。「右むかし筏みち、むかし大山みち」と彫られている。 筏道というのは、多摩川上流の青梅や五日市辺りで切り出した材木を、江戸時代は筏にして多摩川を下り六郷まで運んでいた。 この筏流しは現大田区の六郷で材木を引き渡すと、六郷用水沿いの道を歩いて奥多摩まで帰っていた。 六郷用水沿いにはあちこちに筏宿があり賑わっていたが、大正時代以降は鉄道の発達により筏流しは消えた。

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2018年3月 9日 (金)

瀬田夕日坂(瀬田)

これは新しい坂。 坂名が付いたのも最近。 多摩美術大学の学生がモニュメントを製作して設置してある。 西に向かって多摩川を望める位置にあるので、瀬田の崖線上から夕日が望めるということで付いた名前であろう。

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この道は自転車歩行者専用とされている。 新しい坂と書いたが、道そのものは明治後期からあったようだ。 玉川電気鉄道が開通したのが明治40年(1907)で、この坂の西側崖下にはなんと駅があったのである。

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昭和の初めの案内図には「遊園地前」だったのが、昭和15年には「身延山別院前」という駅名に変わっている。 その後昭和18年に駅は廃止されてしまった。 玉電は瀬田の先、線路わきの道が広くなって花壇がある辺りからは、道路と分かれて専用軌道になっていた。

玉電が廃線になったのは1969年5月、二子玉川はそれから何度も脱皮して巨獣の様な街になっていったのである。

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2018年3月 8日 (木)

行善寺坂(瀬田)

二子玉川ライズの裏手から北に続く道は古道である。 二子玉川駅周辺は瀬田河原と呼ばれ、二子の渡しがあった。 明治40年(1907)に多摩川電気鉄道が渋谷~玉川(現二子玉川)間を開業したが、東京オリンピックの頃まで二子玉川は田んぼの広がる田園だった。

崖線上から多摩川を見下ろす崖に邸宅を建てる有力者も多く、高橋是清らがこぞって見晴らしのいい崖線上に別荘を建てた。 現在の静嘉堂文庫も三菱財閥の岩崎家の墓所である。崖線下には遊園地や梅林が整備され、行楽客も集まったが、それでもまだ田園地帯であった。

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丸子川(六郷用水)を渡るとまっすぐな行善寺坂と崖線沿いに上る線路わきの道に分かれる変則交差点。 線路わきの道は昭和になってから開かれた車道で、まっすぐな方が江戸時代からある道である。 この分岐から行善寺坂が始まる。 途中で東側から行火坂が下ってくる。 行善寺坂は緩やかにずっと上っていく。

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この道はかつての大山街道(厚木街道)である(慈願寺坂も一説には大山街道とされている)。 江戸時代も多くの人々が行き交う道だった。 坂上に行善寺がある。  開山は永禄年間(1558~1569)。 初期のブラタモリ「二子玉川」にも登場した。 境内裏からは多摩川の流れと二子玉川が一望できる。 江戸時代から玉川八景として有名で、将軍も多摩川行楽の折に立寄った古刹で、11代将軍徳川家斉の記録では「瀬田河原へ御成、行善寺御弁当所」とあるようだ。

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坂上には瀬田貝塚跡がある。 縄文前期(7000年前~5500年前)の貝塚で汽水域のヤマトシジミと海水域のハマグリが半々、この辺りまで潮が上がってきていたのであろう。 瀬田貝塚は多摩川流域で最も上流にある貝塚で、縄文海進がこの辺りまで来ていたことを物語る。 また大型の竪穴式住居跡も見つかっており、ムラ的な場所だったようだ。 その場所に江戸時代は大山街道が通り、現在は二子玉川という一大商業ゾーンがあるというのは、このエリアが人間の集まる場所として適していたということなのであろう。

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2018年3月 7日 (水)

行火坂(瀬田)

瀬田のセントメリーインターナショナルスクールから二子玉川駅方面に向かって下るまっすぐで急な坂道がある。 坂下に小さな石碑があり、「行火坂(あんかざか)」とある。 風景に似合わない西洋人の子供たちが続々と通学するのが面白い。 麻布の西町インターナショナルスクールなどと似ている。 麻布のスクールは暗闇坂、一本松坂、大黒坂、狸坂、仙台坂と多くの名坂に囲まれている。 なぜか坂の近くにインターナショナルスクールがあるのは、そこが元々身分の高い人々が住んでいた場所だからなのだろうか。

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坂下は行善寺坂との丁字路。 坂名の由来は、地元の人々がこの坂が急で上るだけで身体が熱くなるので行火坂と呼んだという。ただ、この直線路は比較的時代の新しいもので、それ以前はもう少し行善寺坂の坂上から崖線に沿ってトラバースするような道があった。 等高線を見ると大した坂ではないので、言い伝えに疑問を感じてしまう。

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江戸末期から明治初期にかけては行善寺坂と並行して、セントメリーの西側にある法徳寺からまっすぐに丸子川に下る杣道があったので、その坂の可能性も捨てきれない。 法徳寺は1558年の開山、瀬田の旧家白井氏による。 江利チエミの墓がある。

<追記>

世田谷区の資料によると、行善寺坂の途中から樹木に覆われた坂を昔は「ネッコ坂」と呼び、「行火坂」は「行善寺坂」の別名となっている。 古老への聞き取りの情報。 また、大山道は慈眼寺ルートと行善寺ルートの両方が当初からあったとされている。

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まむし坂(瀬田)

駒沢通りの南西のどん詰まり、環八通りの多摩美術大学から国分寺崖線を下っていく坂が、通称まむし坂と呼ばれる坂のようである。 緩やかにS字カーブを描き、大井町線のガードをくぐる。 昔は細い道だったが、徐々に拡幅された。 坂名の由来は不明。

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坂は崖線に対して切通し地形を形成しながら上っていくが、傾斜は付近の国分寺崖線の坂の中ではもっとも緩やかなものである。 というのもこの道は切通しではなく谷地であり、現在の瀬田小学校辺りにあった湧水池を源頭とする沢筋である。明治大正にかけては、斜面は果樹、谷筋は水田であった。 谷が細いので切通しのように見えるのである。

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この道から西に上る無名の階段坂が素晴らしい。 階段の先にはセントメリーインターナショナルスクールがある。 その敷地は戦前から戦後にかけては第一銀行倶楽部だった。 第一銀行は金融機関コード0001で、1971年に日本勧業銀行と合併して第一勧業銀行、現在は統合を経てみずほ銀行になった。

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2018年3月 6日 (火)

稲荷坂(上野毛)

東急大井町線上野毛駅から多摩川方面へ下る坂道が稲荷坂である。 坂下で六郷用水を渡るのが稲荷橋。 坂下やや中腹寄りに稲荷神社がある。 この稲荷坂は江戸時代からの道である。江戸時代はもっとくねくねと曲がっていた。 現在の坂は切通しになっているが、昔は崖を滑り降りるような傾斜であった。

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坂上の路地を北に進むと東急グループ総帥の五島家がある。 五島美術館が公開されている。  五島昇の葬儀(1989)の時には、五島家から稲荷坂そして現在の二子玉川ライズの方まで黒塗りのハイヤーが埋め尽くし、バスが通行できなくなった。

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坂の南側は自然公園になっている。  公園内の崖線の階段を昇り降りするとこの崖線のすごさが分かる。 しかしこの道は江戸時代は二子道と言われる主要道だった。 江戸時代は4mほどの道幅だったが、明治になって現在の幅に拡幅された。

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江戸時代の道はこの稲荷橋で二子玉川方面に曲がり、六郷用水(丸子川)沿いを通っていた。 坂下は畑だったが、度々氾濫する多摩川のためにほぼこの坂下が川岸と言ってもよい。 それより先は河跡湖(三日月湖のようなもの)だった。 その手前で六郷用水沿いに曲がった古道が二子玉川方面に進み、その先で二子の渡しで多摩川を渡ると、川崎側の地名は二子村であった。 多摩川の向こうも二子であったので、今でも川崎市側の駅は二子新地という名前である。

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2018年3月 5日 (月)

明神坂(上野毛)

第三京浜入口の近くの崖線にこんもりとした森がある。 5千坪はゆうにあろうかという崖線の森はロッキード事件で有名な小佐野邸。 近くには東急グループの五島邸もあるが、そちらは美術館などで一部公開されている。 国分寺崖線沿いは桁はすれの有力者が多い。そんな崖線をクランクで上っていく急坂が明神坂である。

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実は私はこの近所に以前住んでいた。 もちろん崖線下の庶民である。 坂の入口の向かいには丸美屋というパン屋さん、いわゆる昭和の食料品店だが、もう長い事閉まったままのようだ。 このパン屋さんの裏手には昭和30年代半ばまで明神池という大きな池があったと聞いている。六郷用水(丸子川)を渡るといきなり傾斜の急な道になる。 上の写真の右の森が小佐野邸。坂上左にも小佐野邸があるが関係は知らない。

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坂下に坂名のみの石柱が建っている。 昔もあったかどうかは「記憶にございません」。 ちなみに児玉誉志夫邸は隣の等々力、ご近所だったわけだ。 この坂は昔から地元の人も使いたがらない急坂だった。 雪の時は何台も上れずに往生しているのを見かけたものである。

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坂上の崖線上からの眺望はすこぶるいい。 古い坂かと思いきや、昭和に入ってからの開通のようである。 かつて江戸時代から明治にかけて坂上には六所明神があった。 現在は第三京浜の向こう側、野毛2丁目に移り、野毛六所神社となっているが、それに因んだ坂名である。いささか時代が離れているが、名残惜しんでの坂名かと思われる。

隣の稲荷坂の稲荷神社は六所明神が野毛(下野毛)に移転したのちに、上野毛の名主だった田中家の稲荷を表に出したもの。 六所神社が上野毛にあった頃、上野毛と下野毛で隔年交代で祭りを主催していた名残りが今も続き、稲荷神社の祭りは隔年で盛大になる。土地の習わしというのは残っているものだ。

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坂上を左折すると民家の間に「稲荷塚古墳」がある。 大きな古墳ではないが、前方後円墳で全長は20m以上、盛り上がった後円部分の高さは3mほど。野毛大塚古墳以前のものらしく、4世紀後半とされる。

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2018年3月 4日 (日)

浄音寺坂(野毛)

等々力渓谷を下ると川の流れが交差する珍しい場所に出る。 等々力渓谷を流下してきた谷沢川の流れが、六郷用水を跨ぐ形になっている。 その川の交差点の西側に、六郷用水を渡る天神橋から、国分寺崖線を上るのが浄音寺坂である。
P1000464この道の西側には暗渠が沿っている。 この暗渠は浄音寺坂の石碑近くまで行くと開渠になっている。 道が右にカーブしている左のブロック塀の中は墓地で、その裏に開渠が続いている。 道路わきにある石碑には坂名のみが記されている。
P1000466 ここに墓があるのは、かつてここに浄音寺という寺があった名残だろう。 世田谷が吉良氏の支配下にあった時代は鎌倉幕府との関係が深かったが、吉良氏が滅ぶと部下であった侍たちは農民として土着した。その一族がここに寺を開いており、鎌倉から尼僧を招いていたが、天保時代に焼失し墓だけが残っている。
P1000467 坂上には谷戸庚申塔がある。 老朽化のため平成16年(2004)に建て直された。 この谷筋は等々力渓谷の谷沢川の西隣の沢筋にあたる。 荏原台にはこういう開析谷が多く、谷戸と呼ばれているが、鎌倉も似たような地形が多くやはり谷戸と呼ばれている。
P1000473 この谷戸の崖線上には野毛大塚古墳があり、崖線下にもたくさんの古墳が見つかっている。浄音寺坂の道筋は江戸時代からの道で、昔から民家が並んでいた。 坂上に詰めると、現在の公務員住宅の辺りに明神祠があり、そこから道は西へ向かい、野毛大塚古墳に至っていた。
 

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2018年3月 3日 (土)

等々力の坂(等々力)

以前は目黒通りは環八まで、それより多摩川側は長い間用地買収と拡幅工事で旧道の時代だった。 現在もまだ工事計画は進行中で、多摩川を渡る等々力大橋が計画されている。全線完成すれば目黒通りは新横浜駅まで繋がることになる。

環状八号線は国分寺崖線の河岸段丘の上を走っている。 そこから目黒通りが多摩川へ下っていく部分が等々力の坂。 道が拡幅されてしまったので、あまり傾斜は感じられない。

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写真の右手の樹木は等々力不動尊、反対車線側のこんもりとした森は御嶽山古墳である。 50基以上が連なる荏原台古墳群の中では、野毛大塚古墳に続く規模のもの。 時代は5世紀後半から6世紀。帆立貝型の古墳である。

等々力不動尊は等々力渓谷に下る崖線にあるが、大井町線等々力駅の北側にある満願寺の別院。 崖下の不動の滝では昔から修行僧が滝行をしていた。 等々力渓谷に下る「たきのみち」も楽しい階段である。

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等々力渓谷は国分寺崖線の南の端にある開析谷で、谷沢川が九品仏川の流れを谷頭侵食してできた。 用賀あたりを源流とする谷沢川は。元は九品仏から自由が丘方面を流下し呑川に注いでいたが、南から多摩川の国分寺崖線を流れる沢が谷を深くし、やがて谷沢川に達すると、九品仏川の上流であった谷沢川の水流を奪うようにして多摩川側へ流れが変わったのである。 この地学のドラマは河川争奪とも言われる。

ただ、自然に起こったという説のほかにも、人間が流れを変えたという説もある。 私は前者だと考えている。 というのも、九品仏川流域の農民がそれを許すはずがないと考えるからである。 坂の周りにはこんな壮大なドラマも付いてくることがある。

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