2017年7月21日 (金)

浄瑠璃坂(市ヶ谷)

長延寺坂を坂下に戻り、外濠方面へ。 外堀通りに出る1本手前の路地を保険会館本館角で左折すると、ルーテル教会の先の辻、そこから左に曲がるとまっすぐに上る浄瑠璃坂が現れる。坂名の由来は、あやつり浄瑠璃の芝居小屋があったからだとか、江戸時代にあった光円寺の薬師如来が東方浄瑠璃世界の主だからなどの諸説がある。

Dscn3086
坂の標柱には、その説に加えて、「江戸時代、坂周辺は武家地であった。この一帯で寛永12年(1672)に浄瑠璃坂の仇討ちが行われ、江戸時代の三大仇討の一つとして有名であると書かれている。坂上を進み路地をいくつか曲がると鼠坂の坂上に出るが、そこにこの説明板がたっていた。

Dscn3099
仇討ちは極めて返り討ちのリスクが高く、それだけに成功すると江戸中から注目されたのだろう。

| | コメント (0)

2017年7月20日 (木)

長延寺坂(市ヶ谷)

「昔、この坂に長延寺という寺があった。そこに参詣する人々がこの坂を通ったことから、自然にそう呼ばれるようになったという。」と坂の途中の標柱には書かれている。江戸時代の切絵図を見るとこの辺り一面が境内だったようだ。

Dscn3082
谷底の道沿いは大昔の沢筋で「長延寺谷」とよばれ、この道筋は長延寺谷町と呼ばれた。一方長延寺の境内の上は左内坂町である。この坂の入口より外濠側は定火消(江戸時代の消防署)屋敷だった。

Dscn3084
坂上は袋小路になっていて車は進入できない。 ただいくつも抜け道の細路地があるので、別の機会に探索をしたいと思っている。 ここの町名が現在でも市谷長延寺町、市谷左内町となっているのが嬉しい。 この市谷長延寺町は袋小路だらけで本当に面白い街である。

| | コメント (0)

2017年7月19日 (水)

芥坂(市ヶ谷)

左内坂と浄瑠璃坂の間に通る谷筋は江戸時代は長延寺谷と呼ばれた。 谷の浄瑠璃坂側は和歌山紀伊新宮藩の水野家の上屋敷、左内坂側は長延寺の境内と外濠側には定火消屋敷があった。鼠坂上・浄瑠璃坂上から谷に下る道が芥坂(ごみざか)である。

Dscn3088
手摺り付きの緩やかな階段の向こうは長延寺谷を越える歩道橋になっている。 江戸時代はこのまま長延寺谷に下る道だったが、ゴミ捨て場になっていたので坂名が芥坂になったようだ。

Dscn3091
水野家の屋敷があった方の面は石垣になっているが、これが江戸時代のものかどうかはわからない。明治初期の地図を見ると谷のこっち側の方は相当な崖になっている。この階段はこのままあと20段くらい続いていたに違いない。

Dscn3092
坂の説明書きはどこにもないが、歩道橋の名前のプレートがあって「ごみ坂歩道橋」とある。辺りは大日本印刷の工場敷地で、それをまたぐように架けられている。 辺りには名前のない路地がいくつかあり、ぜひ別の機会に散策したい魅力がある。

| | コメント (0)

2017年7月18日 (火)

鼠坂(市ヶ谷)

中根坂の凹の底から東に路地が走る。 概ねDNPの敷地脇をくねるように通る。 この曲がり方はなかなか魅力的だ。 長い間道路わきに養生壁を作っていたが、今はどうなっているだろうか。 そのくねった道を進むと目の前に急な上り坂が現れる。

Dscn3095
左側の石垣もいいが右の塀も悪くない。 石垣の上は駐車場、右の塀の中はDNPの社員寮である。 江戸時代の鼠坂を想像するのは難しいが、同じような景色だったろうと思われる。 現在は安藤坂と中根坂の交差点から長延寺へ道が通っているが、江戸時代は鼠坂の坂下がその道だった。 長延寺への通りの途中からこの鼠坂が分かれていた。

Dscn3096
辺りは小さな武家屋敷が立ち並んでいた。鼠坂の坂上の南に折れたところは、江戸時代の切絵図には鷹匠丁と書かれている。 鷹匠が住んでいたのだろうか。 もっとも鷹匠丁というのは江戸の初期からの名前のようだから、開発が進んで鷹匠も住めなくなったか。 坂上のDNP寮の前に浄瑠璃坂の仇討ち跡の説明板がある。これについては浄瑠璃坂の所で書くべきだろう。

| | コメント (0)

2017年7月17日 (月)

中根坂(市ヶ谷)

市ヶ谷の外濠の北側は自衛隊と大日本印刷に尽きる。 左内坂上から安藤坂を下り、3方向にDNPを見ながら下って上る道がある。 見事に薬研の形をしているが薬研坂とは呼ばれない。

Dscn3071
江戸時代以前の地形を想像するに薬王寺町辺りを源頭とする沢がこ低い部分を流れて外濠(江戸以前は紅葉川)に流下していた。 その時代の地形の記憶が見事にここ中根坂で正体を現している。

Dscn3074
中根坂の由来は江戸時代にこの坂の西側が旗本中根家の屋敷だったためである。 坂脇の標柱にも、「昔、この坂道の西側に幕府の旗本中根家の屋敷があったので、人々がいつの間にか中根坂と呼ぶようになった。」と書かれている。 坂の一番低いところから東へ入るのが鼠坂。

Dscn3077
この坂のくぼみにはその昔拝み石があり、これを拝めば子供の咳が治ると信じられていたという。沢を渡る石橋のようなものがあったのだろう。

| | コメント (0)

2017年7月16日 (日)

安藤坂(市ヶ谷)

左内坂の坂上をさらに進む。防衛省の裏口で道は北に曲がる。 そこから先の左手は日本学生支援機構(かつての日本育英会)とJAICAなどのある敷地になる。 その先の中根坂が見えてくる。DNP(大日本印刷)の敷地に囲まれた十字路までの下りが安藤坂である。

Dscn3069
写真の右側の敷地が江戸時代には旗本安藤家の屋敷であったために安藤坂と呼ばれた。 安藤坂の坂上は防衛省の裏口だが、切絵図の道の形から察するに江戸時代は尾張藩屋敷の裏口だったのではないかと思われる。

| | コメント (0)

2017年7月15日 (土)

左内坂(市ヶ谷)

市ヶ谷駅前の市谷見附からマクドナルド角を入っていくと左内坂。坂の標柱には、「この坂道は江戸時代初期に坂上周辺の町家とともに開発された。名主島田左内が草創したので町名を左内坂町と呼び、坂道も左内坂と呼んだ『御府内備考』」と書かれている。

Dscn3066
坂上長泰寺の南側に細路地があり、実は亀岡八幡宮の境内に通じているが、まだ歩いていない。次回はここも散策したい。 ここは正式な八幡宮の裏参道のようである。 標柱にあった島田左内は明治に至るまで市谷田町、市谷船河原町、左内坂上、寺町、牛込揚場町の5町の名主だった。揚場町は飯田橋駅前だからそれぞれ濠の傍にある街を手広く管理していたようだ。

Dscn3068
島田左内の兄に島田久左衛門がいる。 東大久保にある久左衛門坂を開いた人物である。兄弟でディベロッパーをやっていたわけだ。 それが平成の今でもそれぞれの名を冠した坂名が残されていることは大したことだと思う。 坂上に至ると西側は自衛隊の敷地内になる。

| | コメント (0)

2017年7月14日 (金)

市谷八幡男坂・女坂

釣堀の見える市ヶ谷駅を降りる。釣堀の脇、外堀を渡る橋は江戸時代からの石垣の残る市ヶ谷橋。 ここは江戸時代城の外郭の門のひとつ、市谷御門があったところ。 交差点の名前は市ヶ谷見附。この一角で靖国通りと外堀通りが絡み合うような交じりをしている。市谷見附から市谷八幡町交差点までの100mほどは二つの通りが一つになる。そこに市谷亀岡八幡宮がある。

Dscn2885
目の前に立ちはだかるような男坂の階段。途中踊り場を経て60段の石段である。鎌倉の鶴岡八幡宮を分祀したので亀ヶ岡八幡宮とは洒落なのだろうか。境内には4つの神社がある。亀岡八幡宮・茶ノ木稲荷・金毘羅宮・出生稲荷の4つである。

Dscn2883
西側には車道になっている女坂がある。 こちらは上り下りに歩く人はほとんどいない。 この八幡宮を勧請したのは徳川ではなく太田道灌である。1479年の創建だから540年前。 茶ノ木稲荷はそれ以前から市谷にあったものだという。

Dscn2889
亀岡八幡宮は一度衰退しているが、江戸時代になってから再び賑わいを見せるようになった。 三代将軍家光の信仰もあって、たいそう栄えたという。境内脇にならぶ力石も7基残っており区の指定文化財となっている。

Dscn2890
再び男坂を下る。上の踊り場にある鳥居は珍しい銅鳥居。 1804年に建立されたものである。 江戸の雰囲気を残した境内にしばしたたずむ。 眼を閉じると200年前の喧騒が聞こえてくる気がした。

| | コメント (0)

2017年7月13日 (木)

銀杏坂(市谷薬王寺)

23区内には二つの銀杏坂がある。 芝の銀杏坂と、この市谷薬王寺町の銀杏坂である。 銀杏坂が出合う外苑東通りはこの辺り拡幅工事中。この辺りの町名は昔ながらでよい。市谷薬王寺町、市谷加賀町、二十騎町、市谷甲羅町、市谷柳町、と小さな区域を不思議な街区で区切られている。

P1020022
坂下から望む。 左手には群青色の新しい標柱がある。「坂の北側にあった久貝因幡守の邸内に銀杏稲荷があった。」とだけ書かれている。また右側にもアルミ板を張った標柱があり、「この坂道の北側に旗本久貝家の屋敷があり、屋敷内に銀杏稲荷という社が古くからあったので銀杏坂と呼んだという(『御府内備考』)」と少しこちらの方が丁寧に書かれている。

P1020029
坂そのものは緩やかでまっすぐな坂である。銀杏稲荷は明治初期の地図を見ると、上の写真の白いビルの辺りにあったようだ。この道をまっすぐ東に進むとDNP(大日本印刷)のエリアに入る。この道のひとつ北の道(牛込柳町)は茶道通りとでも呼ぶべきか。 裏千家の東京会館や道場がある。

P1020032
和風の風流な建物が道場らしい。今日庵とあった。元は二番町にあった東京道場をこちらに平成7年に移転した。庭も素晴らしいと聞く。裏千家の理事長や理事には千氏の名前を持つ人が何人もいる。千利休の子孫だろうか。 今度茶人の友人に聞いてみよう。

| | コメント (0)

2017年7月12日 (水)

薬王寺坂(牛込)

児玉坂のひとつ北の路地が薬王寺坂である。 坂の標柱はシンプルで、「江戸時代、現在の外苑東通り沿いに薬王寺という寺院があった。」とだけ書いてある。 江戸時代はこの薬王寺坂を挟んで6軒の寺があった。現存するのは、北側の長昌寺、南側の浄榮寺、長厳寺の3寺で半分しかないというか、5割残っているというか、後者だろうな。

P1020011
外苑東通りからの道は写真のように高低差を回避するようにつけられ、まっすぐに繋がる階段も新調されてブルーシートがかぶせてある状態。以前外苑東通りが2車線路だった時にはまっすぐに接道していたが、4車線に拡幅したことで坂上の高い地面が詰まってしまって苦肉の策だったのだろう。

P1020019
坂は少し上ると平坦になる。 江戸時代は坂上の先は月桂寺の境内だった。今は東京女子医大の敷地に突き当たる。この辺りのマンション名には薬王寺という名前がついたものがいくつもあると感心したら、実はここの住所が市谷薬王寺町だった。坂の南側の浄榮寺の山門は江戸時代後期の薬医門で、なかなか重厚な作りをしている。都内で江戸期の建築物が残されているケースは少ないので貴重である。立札には「常栄寺の山門 甘露門」と書かれていた。

| | コメント (0)

2017年7月11日 (火)

児玉坂(牛込)

児玉坂は新しい坂道である。 2009年に新宿区が道路通称名を一般公募し、67路線の道路通称名が決定。児玉坂通りもその一つとして 標識が建てられた。その67路線は必ずしも坂ではない。 現在では申請が続き89路線までが正式名称を付けられている。

P1020008
この道路通称名についてはこれからも多々登場する。魅力的な無名坂は沢山あるので、増えてくれると嬉しいが、あくまでも地元の人々が長い年月呼んできた名称のみにしていただきたい。新宿区の新しい標柱は群青色で文字は白抜き、とても読みやすいが時代を経た感覚からは程遠い。

P1020010
標柱には、「日露戦争で活躍した明治時代の陸軍大将、児玉源太郎の邸宅がこの付近にあった。」とだけ書かれている。 明治の地図を見てみると、この児玉坂通りの北側一帯、薬王寺坂までの1ブロックがまるまる児玉邸となっている。明治の終わりから戦前までの地図にはどれも児玉邸とあるので、かなり長い間ここにあったのだろう。

| | コメント (0)

2017年7月10日 (月)

新五段坂(牛込)

現在曙橋から早稲田鶴巻町に続く外苑東通りの曙橋から牛込の区間、江戸の切絵図を見ると鉄砲場と尾張藩の馬場になっている。 現在自衛隊になっている東側一帯は尾張藩屋敷だったので、この辺りは尾張徳川家の街という事になる。

P1020004
江戸時代はこの外苑東通りよりもさらに1本西の路地までが道幅だったと思われる。「新五段坂」の場所については諸説がある。 荒木町の車力門通りから北への道だという説を唱える人もいる。 標柱もないこの広い新五段坂も時代と共に埋もれていくのかもしれない。

P1020007
市谷本村町の防衛省の敷地は前述のように江戸時代には尾張藩邸。尾張藩の藩士たちが居住する武家長屋「五段長屋」がこの辺りにあり、その前の坂は「五段坂」と呼ばれたという。明治維新後に跡地は陸軍となり、陸軍士官学校の構内に取り込まれてしまい、実質五段坂は消滅、現状はこの自衛隊敷地の西側に作られた坂が「新五段坂」と呼ばれている。

| | コメント (0)

2017年7月 9日 (日)

合羽坂(曙橋)

坂の途中に都が設置した豪華な御影石の石碑がある。 いくつかの坂で見かけたが、どうも都が作るものは文章が読みにくい。高価なものでなくてもいいので、まめに管理する体制をとって欲しいというのが願いである。

Dscn2942
坂下は合羽坂下という交差点。 そこから外苑東通りに向かって真っすぐに上る坂で見た目は最近の坂だが江戸時代からあった坂。坂の由来が東京都設置の石碑にある。

新撰東京名所図会によれば「合羽坂は,四谷区市谷片町の前より本村町に沿うて、仲之町に登る坂路をいう。昔此坂の東南に蓮池と称する大池あり。雨夜など獺(かわうそ)しばしば出たりしを、里人誤りて河童と思いしより 坂の呼名と…転じて合羽の文字を用い云々」 何れにしても、昔この辺りは湿地帯であったことを意味し、この坂名がつけられたものと思われる。」と書かれている。

Dscn2943
坂の脇にひっそりと河童のモニュメントがたたずんでいる。 江戸時代はこの坂より南側には御先手組の屋敷が並び、北側は武家屋敷が並んでいた。 真裏は尾張藩屋敷でこの合羽坂の北側の狭い範囲にだけ町家があったようだ。市谷片丁とある。

| | コメント (0)

2017年7月 8日 (土)

椎木坂(東大久保)

河田窪(蟹川の痕跡)は都道(主要道)が盛土をして通してあるので、その付近に行くとこの辺りが谷であったことがよくわかる。久左衛門坂も梯子坂もその谷と台地を結ぶ坂である。 実際にはもっと多くの坂がこの谷沿いにはある。その谷筋に開発されたのが戸山ハイツ。 山手線内の団地の中で、高度成長期を支えた年代層が多く住み、住民の半数が高齢者という状況になっている。子供が遊べる公園も豊富だが老人の散歩エリアになっている。そういう時代の変遷を肌で感じたい向きには格好の場所だと思う。

Img_8166
さて、その河田窪のスリバチ状の地形を感じられるのが椎木坂である。 といっても赤坂の薬研坂のように向こう側の坂が見えるわけではない。都道に沿って、その南側を地形に素直に沿っているのがこの坂である。

Dscn3055
西の傾斜部分と東の傾斜部分にそれぞれ標柱がある。「かつて尾張藩戸山屋敷(現在の戸山ハイツ)の内に椎の大木があり、この坂道を覆っていたため、椎木坂の名前がついた。また古くはこの辺りが砂利取場で、東西に上る二つの坂があったことから向坂とも呼ばれた。『新撰東京名所図会』」と記されている。

Dscn3059
かつての街道(今の大久保通り)はここで川の浅瀬を渡って江戸の中心地に向かっていた。これより北側は江戸時代は広大な尾張藩の屋敷で、現在公園内には東京都心で最も高い山、箱根山(標高44.6m)があるが、これは尾張藩の徳川光友が寛文年間(1661~1673)に庭園の一部として盛土した人口の山である。明治以降は陸軍の戸山学校となり、戦後には増加する人口に対応する為に戸山ハイツが建設された。 現在は周辺の再開発が進んでいて、そのうちに高層住宅が立ち並ぶかもしれない。

| | コメント (0)

2017年7月 7日 (金)

梯子坂(東大久保)

好きな坂のひとつである。 蟹川の谷の上下を結ぶ階段の坂道。 蟹川の谷は南北に走っていて、この辺りの窪地一体を河田窪と云ったらしい。河田窪という地名は大窪とも呼ばれ、江戸時代には大久保村になった。川が流れていた場所にある典型的な銭湯、東宝湯の煙突と看板が昭和風情を醸し出している。

Dscn3046
坂の石段の下に立つと微妙に曲がっている景色もいいなと思う。猫が階段を横切って北側の家の中に入っていった。 鉄製の手すりの錆止め塗料の剥がれ具合もいい。

Dscn3049
坂上に標柱がある。「坂が急で、まるで梯子を登るようであったため、この名がついた。(新撰東京名所図会)」とある。以前の標柱には「『豊多摩群誌』によれば「梯子坂、久左衛門坂北方の裏通に在り、東へ登り十間許り、坂道急にして恰も梯子を登るが如し、故に名付く」とある。」とあった。 坂上の南側は永福寺の墓地である。

Dscn3047
やはりこの梯子坂は下から見上げる姿がいい。坂の北側は武家屋敷だった。 江戸切絵図には土井彦兵衛とある。坂上のアパートのあるところは小大名の下屋敷で大久保紀伊守とある。大久保に大久保様とは悪くない。 坂下は明治の末期まで田畑だった。

| | コメント (0)

2017年7月 6日 (木)

久左衛門坂(東大久保)

歌舞伎町を源流にする蟹川が西向天神下で北に向きを変えて流れる先、団子坂の下にある抜弁天厳島神社から下る脇道が久左衛門坂である。 今は東新宿駅に向かう都道302号線が古い道筋をぶった切っているのでわかりにくいが、抜弁天下から久左衛門坂を下って二手に分かれ、南の道は西向天神への参道、西の道は田園地帯をくねって新宿追分方面へ抜けたようである。

Dscn3041
坂の上下に標柱があり、「この坂は、徳川家康の江戸入府以前から大久保に居住していた島田家の草創久左衛門が新しく開いた坂であったため、こう呼ばれるようになったという。」と書かれている。

Dscn3044
この坂の坂下が蟹川の川筋だったところだが、ここから戸山へ流下し、そこでいったん大きな池になり、そこからさらに神田川に合流していた。 切絵図では辺りは田んぼとなっている。坂の北側には江戸時代(1648)から続く永福寺がある。

| | コメント (0)

2017年7月 5日 (水)

不動坂(西向天神)

山吹坂で大聖院の不動堂に上ると、北側に下りの階段がある。この階段が不動坂である。 石段は相当に摩耗していて、そうとう昔からの状態だろうと思われた。多くの書物には山吹坂とセットで説明される。

Dscn3037
下の道路の1本先の道が川の跡で、下の道路は門前町の町家筋だと思う。 昔からの道を感じながら歩くのもまた乙なものである。階段を下りきると下にも両側に親柱がある。

Dscn3039
右の親柱はほとんどかすれてはいるが何とか「不動坂」と彫られているのを確認できた。左の親柱をよく見ると大正5年とある。 思ったよりも新しくて驚いた。

| | コメント (0)

2017年7月 4日 (火)

山吹坂(西向天神)

現在の住所表示は新宿6丁目、バブル以前は東大久保という町名だったエリアに西向天神がある。 富久町から入ると何の印もない路地の奥に突然裏鳥居が現れる。この辺りは江戸時代は武家屋敷が立ち並び、天神の位置する崖沿いには寺院が並んでいた。 西向天神の南の階段は結構長い。これだけの高低差があるのだ。

Dscn3029
この段差がどうして作られたかというと、実は歌舞伎町を水源とする蟹川という川が作った谷なのである。蟹川はハイジア辺りを源頭にして、コマ劇場裏を東に流れていた。 あそこの東西の路地が絶妙に曲がりくねっているのは暗渠だからである。川は明治通りを横切り新宿文化センター前の通りを流下、戸山を抜けて神田川に注いでいた。

Dscn3027
境内に入ると南の端に富士講の富士山がある。 江戸切絵図には東大久保富士として大きく描かれている。富士講の富士は東京のあちこちに残っている。有名なのは千駄ヶ谷の鳩森神社と品川神社だろうか。 この富士は本物の富士山を望むことができたはずである。もちろん今は新宿の高層ビル群で何も見えない。

Dscn3031_2
西向天神は江戸時代から東大久保の鎮守社だった。 当時は大久保天満宮とまで呼んだらしい。 京都の北野天満宮を勧請し、京都の方向(西向き)を向いているため名付けられた。創建は1282年だが、その後いったん寂れた。 この辺りは江戸末期まで田んぼの中に小川の流れる風景だった。江戸初期までに復興を果たし、江戸期は鎮守として親しまれたという。

Dscn3033
西向天神の北側に並ぶのが天台寺門宗大聖院。そこに上る石段が山吹坂である。坂上に標柱があり、「この坂上の大聖院境内にある「紅皿の碑」にちなみ、こう呼ばれるようになった。紅皿は太田道灌の山吹の里伝説で、雨具がないことを古歌に託して、道灌に山吹の一枝を捧げた女性である。」と書かれている。

Dscn3035
伝説では、太田道灌が高田の里(現在の面影橋のあたりとされる)へ鷹狩に来てにわか雨にあい、近くの農家に雨具を借りようと立ち寄った。その家の少女紅皿は、庭の山吹の一枝を道灌に差し出し、御拾遺集の中にある歌

『七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき』

にかけて、雨具(蓑)のないことを伝えた。後にこれを知った太田道灌は歌の教養に励み、紅皿を城に招いて歌の友とした。道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られたということである。

| | コメント (0)

2017年7月 3日 (月)

団子坂(若松河田)

念仏坂を上り台地の上を北に向かう。 丁字路に出ると目の前に正覚山月桂寺。 この寺院は江戸時代の切絵図では大きく書かれている。臨済宗の寺で、江戸時代には相当栄えたらしい。近代史を考えるとこういう寺院の盛衰も面白いが、私はどちらかというと地形派である。

Dscn3006
ここから若松町までの間は昔は大名屋敷の通り。東京女子医大辺りまでの広い敷地は尾張藩の下屋敷(戸山尾刕殿)だった。今は東京女子医大の建物がいくつも並んでいる。 古いレンガ造りの1号館がついに解体されてしまった。 1930年に建設された素敵な建物だったが残念である。

Dscn3008
若松河田駅へ出ると地下には大江戸線の駅。 ここから西へ下るのが団子坂。 標柱には、「昔この辺一帯が低湿地であり、この坂はいつも泥んこで、歩くたびにまるで泥団子のようになったという。嘉永7年(1954)の江戸切絵図には「馬ノ首ダンゴザカト云」とある。」と書いてある。

Dscn3011
今は道路も広く整備された緩やかな坂だが、江戸時代にはぬかるみの坂道だったのだろう。 抜弁天の厳島神社の辺りは江戸時代は川筋だったと神社の境内の説明に古地図を添えて書かれている。そこまでの通り沿いはほぼ武家屋敷が並ぶ街並みだったが、江戸の初期から中期にかけては、とてつもなく広い犬屋敷だった。「厳島神社(抜弁天)の東側一帯(約1万坪)および余丁町小学校と警視庁第八機動隊を含む一帯(約13,000坪)は、江戸時代に設けられた犬御用屋敷の後である。5代将軍綱吉の生類憐みの令に伴うものらしい。当時の犬御用屋敷は、中野一帯と四谷とここの3ヶ所だった。

Dscn3016
厳島神社抜弁天だが、ここは境内を抜けて南北に往来できることから、また苦難を抜けるご利益があったということで、江戸の町民から抜弁天として親しまれた。しかし由来はさらに古く、白河天皇の時代、応徳3年(1086)に源義家が立ち寄り富士を眺めながら安芸の厳島神社に戦勝祈願をしたのが始まりと言われる。近所に富士塚もあるがそれはまた後日談。

| | コメント (0)

2017年7月 2日 (日)

念仏坂(曙橋)

曙橋通り商店街は昔は市ヶ谷谷町という湿地帯。坂上の窪地にはいくつかの池があり、池を見下ろすように巨大な屋敷が建てられていた。その屋敷のひとつ徳川邸の敷地に戦後昭和になってフジテレビが建った。地形で言うといわゆる谷地だったろうと思われる。
Dscn3000
商店街の脇にいきなりこれだけの急な階段があるとびっくりするのだが、これがこの辺りの地形を代表しているといってもいい。上る前にいったん息を整えるほどの階段である。 階段下に標柱がある。「『新撰東京名所図会』では、昔この坂に老僧がいて昼夜念仏を唱えていたことに因むという。またこの坂は左右を谷に臨み、屈曲しており危険だったので、仏名を念じて往来する人がいたことに因むともいう。」と書かれている。
Dscn3004
年配の方は鉄製の手すりを頼りに上って行く。 途中黒御影石の石柱があるが、これは昭和55年に地元の人が建てたもの。まっすぐでなく、折れ曲がっていてかつ微妙に曲がっているその道筋がなかなかいい景色である。
Dscn3005
坂上は打って変わって極めて明るく、太陽がさんさんと降り注ぐ雰囲気。江戸時代の切絵図を見ると坂の上の台地には小さな武家屋敷が並んでいる。台地に武士、谷に町民というのは江戸時代の典型。
Photo
上の地図は紅葉川の源流の沢のくぼみを強調したもの。谷筋は明治以前は暗い場所だったのだが、時代を経て今はどっちかというとディープなエリアとして人気が出ている。ふと四谷の地名の由来を考えてみた。二つの説があり、4つの谷によって形成された土地だから四谷という説と、四軒の茶屋があったことから四屋>四谷という説。しかし私はもう一つの説を支持したい。 元は谷地谷と呼んでいたがヤチヤ>ヨツヤと転訛したのではないだろうか。
 

| | コメント (0)

2017年7月 1日 (土)

安養寺坂(曙橋)

曙橋通り商店街を北上すると右に念仏坂の階段を見た先で左に上る道がある。 安養寺坂だ。 坂の南側に安養寺がある。浄土宗の寺院で1574年に開山、1656年に現地に移転した。曙橋商店街の通りはかつては市谷谷町と呼ばれ、娼婦街を形成していたという。谷沿いはこういう歴史が多い。

Dscn2999
坂下と中腹に標柱があり、「『新撰東京名所図会』に「安養寺は念仏坂の少し北の方を西に大久保余丁町に上る坂路をいふ。傍らに安養寺のあるに因れり。」とある。安養寺は浄土宗知恩院末の寺院で、もと市谷左内町富士見坂の辺りにあった。そこが明暦2年(1656)、尾張藩上屋敷となるため現在地に移ったという。」と書かれている。

坂上に公園があるが、その手前に崖を形成する路地があり楽しそう。 まだ散策していないのでそのうち歩いてみたい。意外とその路地は古道で鍋釣(なべつり)と呼ばれているそうだ。

Dscn2996
で、娼婦街の話だが、坂下の辺りは通称ぢく谷と呼ばれた低湿地で、江戸時代から明治大正期にかけてはスラム街で、いわゆる岡場所(私娼窟)のひとつとして知られていた。 また当時は「貸し倒れ横丁」と呼ばれ、商店を開いてもたいていつぶれてしまうとも言われたという。しかし戦後フジテレビが出来てとても賑わう街になった。当時はフジテレビ通りと呼んでいた。 しかし1997年にお台場に移転すると、この商店街の賑わいは衰えてしまった。 歴史というものは不思議なものである。

| | コメント (0)

2017年6月30日 (金)

台町坂(曙橋)

曙橋駅の西、靖国通りから別れて北西に上って行く坂が台町坂である。 坂下は住吉町、坂上は市谷台町。 大正期に開かれた坂道で、それいぜんこの坂の辺りは市谷監獄であった。そのさらに西、自証院の裏手、今の都立芸術高校の辺り一帯は東京監獄だった。 明治時代はまさに囚人を集めた町だったわけである。明治期から戦前までは今のサンシャイン一帯も巣鴨監獄(のちの巣鴨刑務所)で市谷監獄の縮小に対応したという。昔は監獄が沢山あったのだなあと感心する。

Dscn2994
坂上の北側に観音様がある。 観音ビルという八百屋のビルの脇である。獄死者、刑死者の霊を祀っているそうだ。 明治の社会主義者幸徳秋水もここで処刑されている。全世界に衝撃を与えたこの裁判は1人の証人も出廷させず,裁判記緑も弁護士の手にさえ残さないもので,事の真相は第2次世界大戦の敗戦にいたるまで隠されていたが、のちにでっち上げの裁判だったことがわかっている。

Dscn2995
台町坂の説明を書いたものは現在はない。 以前は木製のものがあったようだが、江戸の坂ではないので作られないのだろうか。 唯一、信号機に台町坂の地名表示がある。この道が開かれたのは大正11年である。昭和のバブル期までは片側1車線の普通の道だったが、近年大通りになったようだ。

| | コメント (0)

2017年6月29日 (木)

茗荷坂(富久町)

現在靖国通りは市谷から合羽橋下を通り、富久町を経て新宿に繋がっているが、昭和の戦後まで富久町から富久町西はつながっておらず(のちに安保坂となった)、いったん南西に下り、茗荷坂を上って富久町西に繋がっていた。現在の三角地帯にある源慶寺も、茗荷坂を挟んだ東長寺も江戸初期の開山で、江戸時代はそのまま大木戸門に行く道だった。 この辺りの斜めの道はそういう昔の道である。

Dscn2980
坂の途中に標柱があり、「この辺りは市谷の饅頭谷から西南に続く谷で茗荷谷と呼ばれ、茗荷畑があったという。坂名はそれに因んだものであろう。」とある。 のどかな畑の広がる場所だったのだろう。両側を墓地に挟まれた広い路地は格好の駐車違反場所になっている。

Dscn2978
富久町の由来は明治になってから久しく富む街にという意味で名付けられた。もとは紅葉川渓谷最大のの谷で、水の豊かな場所だった。江戸期はここと太宗寺の間(今の花園小学校のある新宿1丁目)には百人組の屋敷が広がっていた。鉄砲足軽の部隊であるが、江戸時代には町の外れであった新宿辺りには彼らの屋敷が多く、百人町の地名の由来も彼らが住んでいたからである。 相当貧しい層の武士であったようだ。

| | コメント (0)

2017年6月28日 (水)

安保坂(あぼざか)

江戸時代にはなかった坂である。 江戸期は源慶寺と東長寺の間の茗荷坂が街道だった。 そこから靖国通り沿いに街道が続いていた。源慶寺の西には広い安保邸があり、海軍大臣の安保清種が住んでいた。戦後安保邸敷地を大きく横切る靖国通りに変えたので、この坂は昭和の坂である。

Dscn2974
幾つかの権威ある坂道本には由来がわからないと書かれているが、昭和以前の地図を見ればここが安保氏の邸宅だったことは明らかなのに不思議である。タモリ氏の師である山野氏は安保邸の由来をきちんと書いていた。

| | コメント (0)

2017年6月27日 (火)

禿坂(蜘切坂)

禿坂(かむろざか)と読む。 また別名の蜘切坂(くもきりざか)も難読。 蜘切坂の由来は、三田に多くの伝説が残る渡辺綱が、ここで古蜘蛛を退治したという伝説に由来している。 しかしそれだけのことで、江戸末期以降はおそらく禿坂の方がなじみ深い呼び名だったのではないか。

Dscn2973
坂は緩やかに上っていく。標柱には、「坂名の由来は定かではないが、近吾堂版の『江戸切絵図』には『里俗カムロ坂』とあり、江戸時代後期には「かむろざか」と呼ばれていたことがうかがえる。」とある。

実はいくつかの説があり、自証院裏手、今の富久小学校の裏、都立総合芸術高校の校門の辺りに大きな池があり、そこに河童が住んでいた。 河童のことをカムロ(禿)と呼ぶのでここが禿坂になったという。 紅葉川の源頭のひとつである。

Dscn2971
坂はだらだらとイトーヨーカドーの先まで続いている。 江戸以前はこの辺りには原野が広がり、人もまばらだったはずである。 このちょっとした斜面と坂道からそういう想像ができる。

| | コメント (0)

2017年6月26日 (月)

自証院坂

曙橋駅から靖国通りを西へ進む。 この道は江戸時代は甲州街道の脇道のような役割で、辺りには多くの寺町を抱えていた。富久町の東側の成女学園の辺りには今も善慶寺と自証院が残るが、江戸時代には5軒の寺が並んでいた。

Dscn2962

成女学園の脇道を上るのが自証院坂である。 成女学園は明治32年(1899)創立だが、ここに移転してきたのは明治39年(1906)。 それ以前にここに住んでいたのがラフカディオ・ハーンこと小泉八雲で、八雲は自証院の墓地を散策するのが大好きだったようだ。 江戸末期の切絵図を見ると自証院はとても広く、富久町の北側一帯がその敷地で、この坂は参道だったようだ。

Dscn2964
自証院は尾張藩主の徳川光友夫人の母、自証院(徳川家光の側室)を供養する為に1640年に創建された寺院だが、正式な名前は鎮護山圓融寺という。興味深いのは自証院の先、富久小学校の裏手にある無名の坂である。

Dscn2969
明治以降の新しい坂だがなかなかの景色を持っている。 富久小学校へ通うタワーマンションの子供たちが朝夕賑やかに通るのだろう。

| | コメント (0)

2017年6月25日 (日)

暗坂(暗闇坂)

新宿区は古い町名が残っていて嬉しい。 荒木町の西側が新坂のある舟町、そのさらに西側が愛住町である。それぞれが昨今の丁目レベルの町の広さで、人と人が助けあい支え合いながら生活するのにちょうどいいサイズだと思う。 行政が区割りを変える時は、そこに住む人の生活や人生をも変えるくらいの覚悟で行ってほしいものである。

Dscn2956
坂上には釣り人の聖地のひとつである「釣り文化資料館」がある。週刊釣りニュースの創刊者である船津氏が開いた和竿・魚籠などの伝統釣り具を展示しているが、本社ビルなので平日しかやっていない。そのためにまだ入ったことはない。 資料館前から下るのが暗坂(暗闇坂)。 石垣の上は全長寺の墓地で、まさに暗闇坂の名前の通り、墓のそばであるが、現在はビルが多く明るい雰囲気。

Dscn2958
墓の石垣の下と坂下に標柱がある。「四谷北寺町へ出る道で、坂の左右に樹木が茂っていて暗かったためこの名がついた。別名『くらがり坂』ともいう。江戸時代、坂上一帯は多くの寺院が並び、四谷北寺町と呼ばれていた。」と書かれている。 今でも4件の寺が並んでいる。江戸時代末期は6軒あり、そのうちの4寺は今もある寺院。

Dscn2961
坂は最後に階段になる。 江戸時代から大正まではこちらの道だけだったが、その後カーブして靖国通りに下る車道が開かれた。ものの本にはそちらを暗闇坂と書かれているが、明治以前の地図はみなこの階段の方を暗坂と記しているので、私はこちらを暗坂としたい。

| | コメント (0)

2017年6月24日 (土)

新坂(荒木町)

曙橋駅の南側、住吉町の交差点から南に延びる上り坂が新坂である。 新坂という古い坂が多い中で、この坂は比較的新しい。 それでも明治の坂。 ただ切通し風の風景がなかなかのもの。

Dscn2951
坂の標柱には、「全勝寺から靖国通り手前まで下る坂道で、明治30年代後半の道路新装によりできた坂道である。江戸時代には甲州街道から全勝寺まで杉の木が連なる「杉大門」通りが伸び、新坂ができて靖国通りまで通じることになった。「今は杉樹は伐採し、其の路は新道に通じて、直ちに市谷に達せり」(東京名所図会)という光景であった。」とある。

Dscn2954
この新坂の西側一角は舟町という町名だが、この辺りは森林地帯でその樹木を舟板用に切り出したので「舟板町」と呼ばれるようになり、それが舟町になったという。 切り出した材木は紅葉川で流して運んだのだろう。 この都心でかつてはそういう風景があったのだと想像すると面白い。

| | コメント (0)

2017年6月23日 (金)

仲坂(四谷)

津の守坂から荒木町の中に入り込む。 路地の中の歯科医院の脇に窪地に下る階段がある。 仲坂である。 標柱などはないが、石柱がいくつかあって仲坂と彫られている。 昭和に入ってから開かれた坂のようである。

Dscn2917
上の写真の右下の折れた石柱の下部には「坂」とだけ残っている。 真ん中に鉄製の手すりがついた階段を降りてみると、階段の下にも石柱がある。こちらははっきりと仲坂と読める。

Dscn2918
階段に向かって右側の石柱には昭和7年8月竣工とある。荒木町にはいくつも階段があるが、この仲坂はその中でも特に坂名の付いた階段。 46段の階段を荒木町に住む人々は生活道路として使っている。昭和の坂道ではあるが、情緒はなかなかのものがある。

| | コメント (0)

2017年6月22日 (木)

津の守坂(四谷)

靖国通りの合羽橋下から新宿通り三栄町に向かって上るのが津の守坂。 坂の西側はディープな荒木町。 人気の裏町である。 この荒木町全体が窪地になっていて、江戸時代は岐阜美濃国高須藩主松平摂津守の屋敷だった。荒木町の中はそれはそれで1冊の本になるくらいの情報を秘めているエリアだが、ここは津の守坂の話。

Dscn2913
屋敷の中には湧水が作る滝まであったというが、この高低差を見ると頷ける。 明治になってから大名屋敷は一般に開放され、観光地としてたいそうにぎわった。 今も津の守弁財天にその名残を見ることができる。荒木町の歓楽的な雰囲気はその頃の名残りともいえる。

Dscn2908
津の守坂の坂上から坂下を望むと、自衛隊のビルが正面に立っている。 その敷地も尾張殿の屋敷だったから、この辺りも江戸時代は全く違う雰囲気だったのだろう。  坂下には紅葉川が流れ、水車もあったという。 摂津守の屋敷内の池は源流の一つだった。

Dscn5566
津の守坂の東側には新宿区歴史博物館がある。 入館料300円で随分と楽しめる郷土博物館である。 新宿の大昔から、発展する様子まで、なかなか充実した内容で、何度も訪れている。

| | コメント (0)

2017年6月21日 (水)

坂町坂(四谷)

高力坂、比丘尼坂は本塩町にある。その西側が四谷坂町。 昔は坂下に蓮池という大池があったが埋め立てられて街になり、坂下町となった。後に坂上の上坂町と合わせて明治以降は四谷坂町となった。その坂町を曲がりながら上っていく江戸情緒豊かな坂道が坂町坂である。

Dscn2902
坂下にあったという蓮池は江戸前期には水鳥の豊富な池で、三代将軍家光はしばしばここに狩猟にやってきたという。そういう雰囲気はなく、昭和の中期まではそれなりに栄えた商店街だったようだ。

Dscn2905
坂の上下にある標柱には、「坂名は「坂町」という町名にちなんで、呼ばれていたようである。『御府内備考』では、坂の名称は付けられていないものの、百メートルを越す長さがあることが記されている。」とある。江戸時代は役人の小さな家が多く、御先手組や御持組の集合住宅が沢山あった。御先手組は警備を担当する役人で最前線で戦う役割、御持組は最前線ではないが将軍直衛の警備担当の役人である。

| | コメント (0)

2017年6月20日 (火)

比丘尼坂(市ヶ谷)

高力坂の坂上を右折し路地に入る。 ファッションブランドの三陽商会の本社の北側を左折すると比丘尼坂。 坂上に標柱がある。「『御府内備考』によると、昔、この坂の近くの尾張家の別邸に剃髪した老女がいたことから、こう呼ばれたという。」と書かれている。尾張家というのは今の自衛隊の場所にあった尾張藩の上屋敷。

Dscn2896
また、『新撰東京名所図会』には尾国坂(びくにざか)と書かれており、尾張国の屋敷のそばの坂だからという意味合いだろう。 普通にはこの由来のほうがしっくりくる。江戸時代は三陽商会前の道はこちらに曲がっており、この道を通って尾張藩屋敷へ出ていた。

Dscn2898
極めて短い坂だが、わずかに江戸情緒がある。 写真の石垣が効いている。 ごく普通の昭和の民家だが、石垣はもっと古いのではないかと思われるが真偽は不明。 北側の自衛隊との間の谷筋は、江戸以前は立派な川が流れていた。 そのためここは急傾斜になっていて、1本南の路地に行くのに階段になっている。

Dscn2900
短い坂だが坂下にも標柱がある。 この谷筋だが、新宿区河田町や富久町辺りから流れ出した沢を集めて、高力坂下で外濠に注いだ紅葉川という川。そして江戸時代までこの辺りは寂しい場所だったという。 靖国通りが通ったのは関東大震災の後であった。

| | コメント (0)

2017年6月19日 (月)

高力坂(市ヶ谷)

外濠の掘削は江戸初期の大プロジェクトであった。 各地の大名にこの大土木工事が課せられた。 市谷八幡下から外堀に沿って上っていくのが高力坂である。坂下の外濠側の歩道に御影石の標柱がある。

Dscn2892
標柱には、「新撰東京名所図会によれば「市谷門より四谷門へ赴く、堀端辺に坂あり、高力坂という。幕臣高力小次郎の邸あり、松ありしかば此名を得たり、高力松は枯れて、今、人見の合力松を存せり、東京電車鉄道の外濠線往復す」とある。 すなわち、高力邸にあった松が高力松と呼ばれ有名だったので、その松にちなんで、坂名を高力坂と名づけたものと思われる。」と書かれている。

Dscn2894
高力坂は市谷見附と四谷見附の間にある。江戸時代も濠沿いの外堀通りは広い道だったようだ。 高力主税助の屋敷があったのはちょうど雪印メグミルクのビルの辺りである。市谷御門前には市谷八幡があり、その下の今の住友市谷ビルの区画は火除け地だった。江戸の火事は、濠をも飛び越えるので、こういう場所には建物を建てさせず火除け地とするようになったのは江戸中期からである。

高力松の写真→こちら

| | コメント (0)

2017年6月18日 (日)

鮫河橋坂(四谷)

南元町公園から四谷見附公園までの広い通りが鮫河橋坂である。東には迎賓館、西には学習院初等科、その間を優美に上っていく。南元町公園は都心の割には広い児童公園。 公園の辺りは江戸時代は町屋だったが、その南側を川が流れていた。 川の名前は桜川(別名を鮫川、あるいは赤坂川)という川で、そのまま赤坂御所の中の池を貫いて溜池に流下していた。

Dscn2872
赤坂御所は江戸時代は和歌山県の紀伊国の屋敷だった。 いまの迎賓館と赤坂御所を足した敷地で、御三家というものが如何にすごいかがわかる。 その南側が今の赤坂御所で、北側が迎賓館。 迎賓館は明治には宮内庁近衛局、その後赤坂離宮の一部となり、戦後は国会図書館になったのちに今の迎賓館になった。

Dscn2874
一方でこの鮫河橋坂の西側の低地は江戸時代から戦前にかけては貧民街で、江戸期は夜鷹が立ち、明治以降戦前まで底辺層の娼婦が多い地区だったという。皇族の住む御所から道を隔ててそういう街があったという事が、私には不思議である。谷に住む人種と、台地に住む人種の格差はそれほどまでに大きかったという事だろうか。

| | コメント (0)

観音坂(四谷)

東福院坂と戒行寺坂の間で鮫河橋谷筋から北東に上る坂が観音坂。坂上と坂下にある標柱には、「この坂の西脇にある真成院(しんじょういん)の潮踏(塩踏)観音に因んでこう名付けられた。潮踏観音は潮干観音とも呼ばれ、また江戸時代には西念寺の裏門が、この坂に面していたたため西念寺坂ともいう。」と書かれている。

Dscn2852
江戸時代以前、四谷は潮踏の里と呼ばれた原野だった。この鮫河橋谷にも江戸湊の海水が入り込んでいたようで、真成院の塩踏観音の台座が潮の干満で濡れたり乾いたりしたという言い伝えがある。今はコンクリート造りになった寺院には沢山ののぼりが掲げられm潮干観世音と書かれている。不思議に思う人もいるかもしれないが、たった数百年前のことなのである。

Dscn2855
坂上の西念寺は服部半蔵の墓があることで有名。服部半蔵は徳川家康に仕えた伊賀忍者の頭領である。主君であった家康の長男信康が切腹の折、半蔵は介錯を命ぜられたが、ついに果たすことができず、後に半蔵は信康の冥福を祈るため仏門に入った。

Dscn2856
また西念寺には槍の名手であった半蔵の槍が保存されている。家康より拝領したと伝えられる。こうして鮫河橋谷筋を巡っていると、南元町公園にある江戸名所図会の絵と文がリアルに感じられる。昔から低い土地で、葦などの茂った池沼があり、周囲の台地から湧き出す水を湛え、東南の方角に流れて鮫河となり溜池へ注いていた。江戸時代になると水田地帯になり、その後外濠を掘削した余土で埋め立てて町にした。そういう土地の変化を感じられる都心のスポットである。

| | コメント (0)

2017年6月17日 (土)

鉄砲坂(四谷)

四谷若葉町は昔の鮫河橋谷筋の町屋界隈。 その谷筋から東の台地に向かって上るのが鉄砲坂である。坂はクランクが続き、どこが本当の鉄砲坂なのかいささかわかりにくい。坂下は若葉町商店街通りの丸正の路地。ここから緩やかに上り坂になる。

Dscn2793
坂の途中と坂上のクランクの所に標柱がある。「江戸時代、この辺りに御持筒組屋敷があり、屋敷内に鉄砲稽古場があったため、鉄砲坂と呼ばれるようになった。また、以前は、この地に赤坂の鈴降稲荷があったため稲荷坂と呼ばれていた。」と書かれている。

Dscn2796
江戸の切絵図では若葉通りの西側が町屋、東側が御持筒組の屋敷になっている。坂の途中から上は役人の武家屋敷が立ち並ぶ。 切絵図にも「テッポウサカ」と書かれている。

Dscn2863
クランクを過ぎても上り坂は続いている。坂上は学習院初等科、皇室が通う小学校である。 鉄砲坂はクランクを曲がるとすぐに右折するほうではないかと思う。 そちらへ進んでも上り坂である。

Dscn2864
その先はJR中央線を渡る。 この跨線橋は朝日橋という名前。 眼下に中央線総武線の線路と首都高速5号線を見下ろす。神宮外苑方面が見渡せる眺めのいい場所である。 江戸時代の道はこちらには繋がっていなかった様子。 学習院初等科の敷地内を東進して、迎賓館前に抜けるのが道筋だったようだ。

| | コメント (0)

2017年6月16日 (金)

須賀神社男坂・女坂

文化放送のあった東福院坂は甲州街道から須賀神社へ参拝する参道である。 東福院坂の坂上から眼下に須賀神社の49段の急峻な階段が現れる。 文化放送側のほうが標高は高いように見える。いったん鮫河橋谷町筋に下り、男坂なる階段を上る。

Dscn2840
須賀神社は別名天王社と呼ばれ、江戸時代の切絵図には稲荷山宝蔵院天王社と記されている。須賀神社のホームページには、「今の須賀神社はもと稲荷神社だった。その稲荷神社は往古より、今の赤坂一ツ木村の鎮守で、清水谷に有ったのを、後の寛永11年(1634)に江戸城外堀普請のため、当地を替地として拝領し移った。」とある。 江戸以前はこの辺りはやはり原野の沢筋だったと思われる。

Dscn2848_2
社殿の赤鳥居の近くには女坂の階段がある。 踊り場が広く、傾斜が緩やかである。 須賀神社は三十六歌仙の絵で有名。平安時代中期の藤原公任の選定に由来する三十六歌仙の絵が奉納されているが、描かれたのは江戸末期。

Dscn2851
女坂を下るとそこは崖下の寺、妙行寺と墓地。 そこから見上げると須賀神社のある台地はまるで城壁のように見える。いくつか出っ張っている石が何なのか興味がわいた。調べてみたがわからない。何故この出っ張りを作る必要があったのだろうか。 ここに縄でもかけて下るためか。 謎だらけである。

| | コメント (0)

2017年6月15日 (木)

東福院坂(天王坂)

円通寺坂を下り、鮫河橋谷町沿いに歩くと、右も坂左も坂という地形になる。 まさに谷筋である。 南側に須賀神社の階段が見える辻を須賀神社とは反対方向の北側に上るのが東福院坂である。元は甲州街道から須賀神社への参道で、いったん下りそして上る道筋。
Dscn2835
 
坂の西側に東福院がある。標柱には、「坂の途中にある阿祥山東福院に因んでこう呼ばれた。別名の天王坂は、明治以前の須賀神社が牛頭(ごず)天王社と称していたため、この辺りが天王横町と呼ばれていたことによる。」と書かれている。東福院の向かいは愛染院。高松喜六の墓がある。
高松喜六は内藤新宿の生みの親、という事は新宿という街を生み出した最初の人である。江戸の初期、日本橋から甲州街道を行くと最初の宿場は高井戸だった。四里(16㎞)もあって長いので間の新宿にも宿場を作ろうと動いたのが高松喜六。 元は浅草の名主だった。元禄10年(1697)に請願をし、内藤新宿を作る許可が翌年に下りた。喜六は5,600両を納め、問屋・本陣を営んだ。 喜六が作った新宿がここまで発展するとは、本人が見たら仰天することだろう。
Dscn2839
 
坂の上、東側にはラジオ局の文化放送があった。 今は浜松町だが、一昔前(2006)まではここ四谷から放送されていたのである。若い頃遥か1,000㎞の彼方で夜な夜な聴いていたセイヤングもここから発信されていたと思うと、感慨深い。跡地に建てられたマンション(ランテンヌ四谷)の屋上にはアンテナ線が張られていて、中には非常用の送信施設があるそうだ。
 

| | コメント (0)

2017年6月14日 (水)

円通寺坂(四谷)

新宿通りの津の守坂交差点から南に下る道が円通寺坂である。 きれいな2車線の道で徐々に下りになっている。坂の西側に円通寺があるが、今はビルの寺である。 昔はこの道は途中で西側に折れて、女夫坂に出ていた。 昭和後期までは緩やかな坂で終わり、西に曲がっていくのが円通寺坂だった。

Dscn2829
円通寺を過ぎると昔の道は斜めに逃げるように分かれ、西に折れていく。 この辺りは江戸の時代の初期に徳川幕府が江戸城外郭の造営のために多くの寺を移転させ、ここ四谷寺町に集めたので、今も沢山の寺がある。

Dscn2832
昭和後期になり、谷町方面へ道がつながった。 この新しい道がきれいなカーブを描いている。 江戸の切絵図を見ると円通寺坂は「ホウソウジ横丁」とあるが、その法蔵寺は今も坂の東側にある。 坂の標柱には、「新宿通りから、四谷二丁目と三丁目の境界を南に円通寺前に下る坂。坂名は、この円通寺に因むものである。」とある。

Dscn2834
坂道は真英寺と日宗寺の間を抜けて下っていき、鮫河橋谷町筋となる。 この道は新道が見事に昔の道に溶け合った感じがして好ましい。

| | コメント (0)

2017年6月13日 (火)

女夫坂(四谷)

四谷三丁目というと私はお岩稲荷を思い起こす。 実在のお岩さんは田宮家の妻として幸せな人生を過ごしたのだが、お岩さんが信仰していた社が評判になり、お岩稲荷と呼ばれるようになった。お岩さんが亡くなったのが寛永13年(1636)だが、それから相当年月が経過した文政8年(1825)に鶴屋南北「東海道四谷怪談」の歌舞伎が大人気を博し、鶴屋南北によってお岩さんは於岩さんに変えられ、亡霊とされてしまったのである。

Dscn2823
その於岩稲荷は明治12年(1879)に焼失してしまい、初代市川左団次の勧めで中央区新川に移転した。 本当はそちらが本家なのだが、戦後昭和27年(1952)にこの古の場所にも社が建てられ田宮稲荷神社跡として賑わうようになった。

Dscn2820
於岩稲荷のひとつ東側の道が女夫坂(めおとざか)である。田宮家の夫妻とは関係ない。 女夫坂(夫婦坂)というのは、二つの坂が連なって一つの形を示している場合に名付けられることがある。新宿通りに向かってわずかに下り、その先でわずかに上っている。

Dscn2827
新宿通り側から見ても同じように見える。 わずかに曲がっているところが古い道らしい。お岩さんが生きていたころはまだこの辺りは野原で、鮫河橋谷町の谷筋の最奥の源頭にあたる場所だった。 この辺りはまだまだ原野で、それを武蔵忍藩(行田辺り)藩主の高木筑後守が開いたので忍原と呼ばれるようになったという。お岩さんの田宮家はその高木家に仕えており、この辺りの開拓を行ったようだ。 江戸の初期はこの辺りは原野の広がるエリアだったと思うと、立ち並ぶ建物がすべて刹那の物に見えてしまうから面白い。

| | コメント (0)

2017年6月12日 (月)

闇坂(くらやみざか)

戒行寺坂の坂上南側に西應寺がある。 ここには幕末から明治にかけて剣客として有名な榊原健吉の墓がある。最後の剣客と呼ばれた人物だ。また西應寺の梵鐘は銅製で江戸中期の名工芸品である。西應寺の隣りが永心寺。その脇を下るのが闇坂である。

Dscn2809
路地は車は通れない道幅。 入口脇に標柱がある。「この坂の左右にある松巌寺と永心寺の樹木が茂り、薄暗い坂であったため、こう呼ばれたという。」と記されている。坂の傾斜がきつくなるところから鉄製の手すりがついている。ほぼまっすぐな坂道だが、その細さと辺りの景色は江戸情緒を忍ばせている。

Dscn2813
別名乞食坂。 寺町には物乞いの乞食が多くその為だっただろう。またもうひとつの別名茶の木坂は坂下の谷の源頭に明治初期まで茶畑があったからだろう。坂下の一角には池があり、おそらく湧水がたまっていたと推測できる。その西側は崖のようになっていて、その斜面が茶畑だった。

Dscn2816
今、坂下は若葉公園という小さな公園になっている。公園南側のガラスのビルは聖教新聞本社である。 若葉公園の場所は明治36年(1903)に東京市による特殊学校が開かれた場所。 鮫橋尋常小学校という名で、専ら貧困者の子弟を教育していた。 教科目は小学校程度にして4学年とし、学用品は支給、校内には浴場を設置し、毎週1回児童に入浴させ、かつ理髪を行い、疫病治療などの医療も行ったという記録がある。生徒数は343人。 この谷町には今では想像もできないような貧困家庭の大集団があった、ある意味東京の裏の一面が明治末期には存在したのだろう。

| | コメント (0)

2017年6月11日 (日)

戒行寺坂(四谷)

出羽坂下から谷筋の道を進む。 昔の谷町の筋、戦後は若葉町となった町屋筋でかつては商店街の賑わいもあったことが想像できる。この筋の途中で西に向かう路地があり、上り坂になっている。 これが戒行寺坂である。路地に入るとすぐに若葉湯という銭湯がある。 谷筋の風景としては銭湯が似合う。

Dscn2799
坂を上っていくと寺町になる。坂上の北側に戒行寺がある。寺の門前に標柱が立っている。「戒行寺の南脇を東に下る坂である。坂名はこの戒行寺にちなんでいる。別名「油揚坂」ともいわれ、それは昔坂の途中に豆腐屋があって、質の良い油揚を作っていたからこう呼ばれたという。」と書かれている。

Dscn2806
戒行寺は文禄4年(1595)に建立された。 実は鬼平犯科帳で知られた長谷川平蔵の菩提寺である。ただ墓は今はなく、どこへ移転したかは不明。 供養碑のみが残る。

| | コメント (0)

2017年6月10日 (土)

出羽坂(信濃町)

信濃町駅の北側を東に向かう道路はもとまち公園を過ぎると下りになる。 坂下はその昔鮫河橋の谷だった。坂下の谷沿いが鮫河橋谷町と呼ばれ、手前の坂の中腹から上が元鮫河橋町と呼ばれた。線路に斜めに当たってから線路沿いに曲がっていく道筋は線路を敷いたせいではなく元からこうだったようだ。

Dscn2786

坂の上下の標柱には、「明治維新後、この坂上に松平伯爵(旧松江藩主松平出羽守家)の屋敷が移転してきたため、こうよばれるようになったという。当時は修徳園という庭園があったが、戦後売却され姿を消した。」とある。松平邸は戦後一時松平ホテルになり、1946年から1960年までの短い期間営業した。

Dscn2790
鮫河橋谷は四谷三丁目辺りを源頭にした沢の集まった流れだった。 流下して中央線をくぐるあたりからは川らしくなって、明治初期の地図にも水線がある。川は現赤坂御所の中の池に流れ込んでいる。江戸期は谷筋に町民が住み、丘の上に武士が住むという形で街を形成していたが、ここも見事にその図式になっていた。

| | コメント (0)

2017年6月 9日 (金)

新助坂(信濃町)

千日坂を下り公明党本部前を通り過ぎて、左に路地を入るとすぐにトンネル。 首都高速5号線と中央総武線をまとめてくぐりぬける。このトンネルはJR東日本の管轄で、北側に「中央緩行線第2号南鮫ヶ橋通ガード」とある。暗いトンネルだがそこそこ通る人がいる。トンネルを出ると左に向かう。道はすぐに右に折れる。

Dscn2780
目の前に急な坂が現れる。 これが新助坂である。別名すべり坂というが、舗装されていない時代には雨でも降ろうものなら大変なことになっただろう。信濃町駅の北側は創価学会の街なので、この坂の周辺も学会の施設だらけである。坂上からは中央線の電車が短い間隔で賑やかに通過する。 その向こうには明治記念館が大きな屋根を見せている。

Dscn2783
坂上の標柱には、「『新撰東京名所図会』には、「新助坂は四谷東信濃町上る坂なり、一名をすべり坂ともいふ。坂の下には甲武鉄道線の踏切隧道門あり」と記されている。明治30年代中頃には、新助坂の名前で呼ばれていた。」と書かれている。 甲武鉄道というのは中央線の前身で、明治時代の鉄道会社。 八王子と御茶ノ水の間を走った。 明治39年に国有化された。新助坂の名前は、てっきり助坂があってその新しい坂かと思っていたら、昔この辺りに新助という人が住んでいて、それで新助坂となったようだ。

| | コメント (0)

2017年6月 8日 (木)

千日坂(信濃町)

信濃町駅を出て左側、外苑方向に進むと外苑エリアへ渡る歩道橋がある。 そこを上らず、斜め左に下る坂を降りていく。 ここが千日坂。 首都高の外苑ランプが頭上を通る。 一行院千日谷会堂の塔が坂脇にそびえている。この坂上辺りで『南総里見八犬伝』を書いた滝沢馬琴が世を去った。坂の別名を久能坂(久野坂)という。坂下辺りに紀州藩久野丹波守の屋敷があったことに由来している。

Dscn2771
坂はくねりながら下っていく。 坂下の標柱には、「この坂道の下の低地は、一行院千日寺があるため千日谷と呼ばれた(『紫の一本』)。坂名も千日寺にちなんで名づけられたと考えられる。なお、かつての千日坂は消滅し、現在の千日坂はそれと前後して作られたいわば新千日坂である。」と記されている。新宿区は随分ときちんと書いていると感心する。

Dscn2778

江戸期の切絵図を見ると千日坂は写真の高速道路下あたりで左に折れて急坂を上っている。上半分は完全に新しい道筋だ。 信濃町の由来は、坂上の慶応病院辺り一帯が奈良県の大和櫛羅藩主の永井信濃守の屋敷だったことから来ている。 坂下の千日谷には公明党本部がある。 党本部の建物からは意外と若い人たちが出入りしている。

| | コメント (0)

2017年6月 7日 (水)

綱坂(三田)

綱坂は名坂のひとつである。 三田台地の峰にあたる三井倶楽部の大銀杏脇から下る。東へは綱の手引坂が下る。綱坂に最初に接するのが姥坂で、その南側がイタリア大使館。綱坂は砥粉色(とのこいろ)の三井倶楽部の塀がだんだんに落ちていく、雅な雰囲気をもつ坂だ。

P1030525
江戸時代の三井倶楽部敷地は会津藩松平肥後守の屋敷。向かいは広大な松山藩松平隠岐守の屋敷。 上部はまっすぐだが坂下で曲がっている景色がいい。坂下の東側は慶応大学。江戸期は肥前島原藩松平主殿頭の屋敷だった。

P1030528
もう一つこの坂の魅力は三井倶楽部の樹木が覆いかぶさっているところ。 塀の段差が絵になっている。 現イタリア大使館の場所は明治以降大正までは松方邸となっている。大蔵大臣として名を馳せた松方正義の邸宅である。その後イタリア大使館となった。

P1030532
いっぽうその南側の慶応の敷地を借り受けしたのは福沢諭吉である。こんなにいい坂があるのに、慶大生はその存在をほとんど知らない。ちなみに横浜開港資料館の所蔵写真には江戸末期の写真があり、ちゃっかり使わせていただいた。下の写真である。基本当時と道は変わっていないのがよくわかる。
Tuna

| | コメント (0)

2017年6月 6日 (火)

姥坂(三田)

綱の手引坂の南側には雰囲気の良い路地がある。これが姥坂だが、江戸期の坂ではなく明治20年頃に開かれた坂である。 現在はこの姥坂の南側にはイタリア大使館が江戸時代の大名屋敷の庭を維持している。

P1030523
江戸期の大名屋敷だけあってうっそうとした樹木が生い茂っていてとてもいい雰囲気を出している。綱の手引坂からこのイタリア大使館までを含めて、江戸期は四国伊予松山藩の松平隠岐守の中屋敷だった。

P1030522
1703年に発生した忠臣蔵で有名な赤穂事件の折、47士のうちの10名の預かりを命じられたのが隠岐守(松平定直)である。 ブラタモリ(第1期)では大使に招待され邸内に入ったおりこの赤穂浪士の碑が今もなお庭にあるということに感心した。

| | コメント (0)

2017年6月 5日 (月)

綱が(の)手引坂 (三田)

日向坂を上り、オーストラリア大使館、三井倶楽部を右に見て進むと、三井倶楽部の角の大銀杏から下りになる。この坂が綱が手引坂である。この辺りで「綱」とつくと渡辺綱のこと。 渡辺綱(わたなべのつな)というのは、平安時代中期の武将で源氏系。 京都の一条大橋の上で鬼の腕を切り落とした逸話で有名。また光源氏の子孫でそうとうなイケメンだったとも伝えられる。

Dscn1863
標柱の説明は、「平安時代の勇士源頼光の四天王の一人、渡辺綱にまつわる名称である。姥坂とも呼んだが、馬場坂の説もある。」と書かれている。言い伝えでは渡辺綱が幼少のころ、姥に手を引かれてこの坂を歩いたことが由来とされている。それで姥坂だったりするわけだが、周辺の渡辺綱の逸話はかなり盛られたり作られたりしたものがありそうだ。

Dscn1872
大正期まではこの辺りの赤羽町は有馬ヶ原とよばれた空き地で、池があったりして、近所の子供たちの恰好の遊び場だったという。その後済生会病院ができ、戦後には三田高校もできて今のような都会の景色になったようだ。

| | コメント (0)

2017年6月 4日 (日)

神明坂(三田)

オーストラリア大使館と三井倶楽部の間の信号交差点を北に下るのが神明坂。 交差点そばには龍原寺があり、脇に志ほあみ地蔵尊がある。子育てと延命にご利益があるらしく沢山の千羽鶴と提灯が飾ってあった。寺の向かいには立派な石垣がある。かんぽ生命の本館敷地の石垣だが、かつては簡易保険局だった。

P1030507
簡易保険局は江戸時代は筑後久留米藩の有馬家の上屋敷で、今の三田1丁目の半分以上が敷地だった。かつてはこの辺りは芝赤羽町と呼ばれた。安産の神として有名な日本橋の水天宮はその昔は有馬家の上屋敷の中にあったため人気に反して参詣は難しかった。 あまりの人気に5の日のみ解放されると奉納物だけで年間2000両にも達し、有馬家は財政難を乗り越えることができたという。 明治になって有馬家が移転し、いったん赤坂に鎮座したが、その後中屋敷のあった日本橋蛎殻町へ移転し今に至るというわけである。

P1030510
神明神社は元神明として江戸期の切絵図にも描かれている。石碑には天祖神社とある。 創建は1005年(平安時代)。渡辺綱の産土神でもあり、かつ前述の水天宮も分祀されている。元神明宮というのはここから移転したのが芝大神宮(芝大門)で、その元の神社であるためだと思われる。

P1030513
坂の上下の標柱には、「天祖神社を元神明と呼ぶところから神明坂と呼んだ。馬場坂という説もあるが、綱の手引き坂との混同があるらしい。」と書かれている。

| | コメント (0)

2017年6月 3日 (土)

日向坂(三田)

古川に架かる二の橋から三田へ上る道が日向坂である。 二の橋を渡ると真上には首都高速目黒線。 振り返ると麻布通りの向こうは仙台坂。 しかし町としては古川で分割されているので、ここから三田である。坂の途中に標柱がある。「江戸時代前期南側に徳山藩毛利日向守の屋敷があった。袖振坂ともいった。由来は不明である。誤ってひなた坂とも呼んだ。」と記されているがいささか文章がわかりづらい。

P1030499
袖振坂の由来については横関氏が『江戸の坂東京の坂』に書いている考察が納得性が高い。地理的にみるとこの坂の下には古川が流れていて、そこに日向橋があった。橋を渡るとその向こうには仙台坂があって、互いの坂どうしでは相手がいつまでもよく見えた。いつまでも合図して手を振って別れることができたのである。そういう坂を袖振坂と呼ぶので、そう呼ばれたに違いないという。

P1030506
今は残念ながら首都高が邪魔になって仙台坂を望むことはできない。坂の南側にはオーストラリア大使館があり、モダンな建築の最上階部分にはカンガルーとエミューのオブジェが望める。

| | コメント (0)

«銀杏坂(芝)