2023年2月 6日 (月)

光増寺跡の石仏(葛飾区東水元)

東水元にいつ廃寺になったか分からない寺がある。光増寺という寺院だが、小堂と墓所はきちんと残っており管理されている。敷地内には消防団の倉庫があり、火の見やぐらもあって昭和感に満ちている。

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古い地図を探してみたが、明治時代も大正時代も墓地の印はあるが寺の卍マークはない。さらに昔の江戸時代の切絵図を見ると光増寺から水元公園脇の熊野神社あたりまでを含めたエリアが寺社地のピンク色で塗ってある。

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本堂の斜め前の墓所入口には駒型の庚申塔が立っている。ゼニゴケが多いが、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。三猿は大部分が土中に埋まっているようだ。造立年は宝暦9年(1759)5月。尊像右に「奉造立供養 庚申大青面金剛」とあり、左側には「小合新田講中」と記されている。小合新田はこの地の北西に広がる大場川河畔の古い地名。この辺りは江戸時代は上小合村であった。

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庚申塔の隣には「奉唱日紀念仏供養塔」と書かれた櫛型角柱型の石塔がある。造立年は弘化3年(1846)3月とあり、右面には「天下泰平・・・」とあり、左側にも「普門品・・・」と書かれている。

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向かいには六地蔵を挟んで2基の地蔵菩薩がある。左端の舟型光背型の地蔵菩薩は貞享4年(1687)7月の造立で、「奉供養念仏講為二世安楽」「同行百人」の文字がある。右端の丸彫の地蔵菩薩像は宝永4年(1707)10月の造立で、台石には「奉供養 小合新田 念佛講」とあるようだ。また「童男童女二百余人」とも刻まれており、この辺りの人口は果たしてどれだけいたのかと驚く。舟型の六地蔵は享保12年(1727)の造立。こちらは同行三十五人と、通常感覚では多いがさすがに少なく感じてしまう。

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墓所の中に倒されてしまった珍しい聖観音菩薩坐像があった。首が見当たらない。造立年は元禄9年(1696)12月。石仏が自然に倒れたものであれば致し方ないが、人の手によるものだとするとなんと罰当たりなことかと嘆かわしくなる。とはいえ、この石仏は像高だけで1m近くあるので起こすことは至難である。困ったものである。

場所  葛飾区東水元5丁目33番地先

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2023年2月 5日 (日)

土手の馬頭観音(葛飾区東水元)

葛飾区にある水元公園の西の端、中川沿いを走る都道67号線から水元さくら堤が分かれるところのサツキの植込みに自然石の馬頭観音が立っている。さくら堤の対面は葛飾警察署葛三橋交番である。

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なんとも不思議な馬頭観音である。造立年等は記されていない。正面に草書体の崩し字で「馬頭観世音」と彫りこまれている。水元さくら堤は昔は中川の土手であった。今の水元公園やそこから中川に流れる(流れていないかも)大場川が古利根川の流れである。

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このタイプの馬頭観音はあまり見かけない。30度くらい傾いていて、サツキに寄りかかっているのか自立しているのかも分からない。しかし興味深い馬頭観音である。

場所  葛飾区東水元6丁目4-3

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2023年2月 4日 (土)

やく様と不動明王(葛飾区水元)

遍照院にお詣りした後、裏手の路地を歩いてみた。数軒の古くからありそうな戸建のお宅がゆったりと並んでいる。住居表示は葛飾区水元5丁目となっている。

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角からすぐのお宅の庭のような場所に、古い墓石と思われる石仏がいくつも並んでいる。昔は墓というものは家のすぐそばにあったものである。都会では信じられないが、ご先祖様と現世を生きる人々は同じ場所で暮らしているのである。ちょうどこの家の方がいらっしゃったので、少しお話を伺った。この溶けてしまったような舟型のお地蔵様(もしかしたら聖観音)はお宅では「やく様」と呼び近所の人々もそう呼んでいるらしい。紀年などは分からないそうだ。傍にある2枚の板碑も室町時代辺りのものだろうが、文字が摩滅していて読めない。普通の民家にこんなものがあるのは23区内ではいささか驚きである。

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隣りのお宅の敷地の角には今度は新しめの不動明王が祀られている。カイヅカイブキが両脇を固め、櫛型角柱型の不動明王像が屋根付きの下にある。文字はない。この辺りは成田山へ参詣する人々が通った場所でもあるので、その為にお不動様を祀ったのかもしれない。

場所  葛飾区水元5丁目6-17および6-19

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2023年2月 3日 (金)

遍照院の石仏(葛飾区水元)

水元にある遍照院は真言宗の寺院で仏生山和銅寺という寺名の古刹。開創は和銅元年(708)と伝えられるが古すぎてピンとこない。時代としては奈良時代の中期で、大宝律令(701)が制定された後、日本最初の貨幣である和同開珎が発行されたのが和銅元年(708)。2年後に平城京への遷都が行われた。元明天皇と藤原不比等の時代で、ほぼ物語のような感覚でとらえている。当時は東山道が東国へのメインルートで東海道はサブルートであった。そんな時代の創建である。

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山門脇にあるのが舟型光背型の六地蔵。造立年は最右の地蔵に記されており、宝暦8年(1758)12月の紀年がある。刻銘としては「猿又講中 願主五右衛門」の文字が見られる。猿又村があったのはここからかなり西の地域だが、古刹だけに周辺に檀家が広がっていたのだろう。

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本堂の前まで進むと宝篋印塔と並んだ青石の石仏がある。巨大で分厚いがこれは板碑らしい。「遍照院異形板碑」という説明板がある。制作年代は中世だと思われるが記述はない。この板碑はかつて閘門橋付近の堤上の「勢至のマキ」と呼ばれる大木の下にあったものらしい。上部には蓮座に阿弥陀種子が刻まれている。脇の宝篋印塔は正徳5年(1715)霜月(11月)の造立年がある。

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異形板碑の近くにあったのが板碑型の古い庚申塔。造立年は万治3年(1660)6月と庚申塔の中でも極めて古い時代のもの。「奉造立庚申供養石塔二世安楽所 施主敬白」と刻まれており、三左衛門以下16名の願主名が刻まれている。その下には蓮華蓮葉が描かれており、時代を感じさせる。

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その近くには駒型の文字塔の庚申塔があった。中央には「造立青面金剛 猿(ヶ)又村道」とあり、両脇に宝永元年(1704)5月の造立年が記されている。側面には道標も刻まれているが読み取れなかった。

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参詣者駐車場の近くには駒型の馬頭観音がひっそりと植込み脇にあったが、ゼニゴケがこびりついていて側面の文字は確認できなかった。おそらくは大正時代くらいのものではないだろうか。葛飾区の資料では遍照院には他にも多数の古い石仏があることになっているが、墓所への立ち入りは今回できなかったのが残念である。

場所  葛飾区水元5丁目5-33

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2023年2月 2日 (木)

服部家墓所の石仏(葛飾区西水元)

中川と江戸川の間を繋ぐ大場川、その西の中川寄りの河岸近くにある服部家の墓所には魅力的な石仏がいくつもある。まれにこういう個人墓地に貴重な石仏があることがあるが、ここもその一例である。昭和の初期に氾濫を繰返す中川の流程をまっすぐに付け替えて、もともとの流れに流れ込んでいた大場川の名前が付けられたが、ここの大場川はかつての中川本流である。

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この辺りは昔は袋新田と呼んでいた土地で、北の大場川対岸は当時から今も埼玉県八潮市の古新田という地域である。辺りは新田だらけで、中世から盛んに開拓が行われたのだろう。墓地の裏手に六地蔵がある。区の資料では六地蔵が揃っていることになっているが、現在は右の3基は新しいものになっている。左の3基が元からのもので、左右の基壇に「村中男女講中」とあるが、造立年等の文字は見当たらない。

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六地蔵の近くに大きな2基の石仏がある。右側の舟型光背型の地蔵菩薩像は元禄4年(1691)11月の造立で、「供養庚申塔  猿ヶ又中新田村」の銘があり、さらに地蔵の足元に三猿が陽刻されているので庚申塔である。大正時代の地図を見るとこの墓地の辺りが猿ヶ又ですぐ南が中新田という地名になっている。左の板碑型の石塔は寛文9年(1691)10月造立の供養塔。「奉造立念仏講供養」とあるので、念仏講中による建立である。

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墓所の中程には駒型の庚申塔がある。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、よく見ると線刻の二鶏があるようだ。造立年は貞享2年(1685)11月と古い。「奉造立供養庚申塔」「念仏講之衆」という文字も見られることから、江戸時代初期には庚申講中と念仏講中が入り混じって行われていた可能性を想像させる。

場所  葛飾区西水元3丁目32-1

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2023年2月 1日 (水)

堤上の銀杏下の祠(葛飾区西水元)

西水元の中川の堤防の上に大きな銀杏の樹がある。おそらく中川を往来する船にとってはある種道標になっているような大きな樹である。その銀杏の樹の下に祠がある。

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場所が場所だけに風雨にさらされて古さを感じさせる祠だが、それほど古いものではないかもしれない。しかしながら明治時代の地図にもこの祠の場所には石碑石仏の印がある。当時の地図にはこの辺りは佐野新田という地名になっており、すぐ東側は袋新田とある。堂宇の近くにある石祠には文化元年(1804)6月の造立年がある。

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堂宇の中には舟型の不動明王像が祀られている。造立年は寛政9年(1797)4月。台石に「成田山講中」の文字がある。この場所は昔は松戸経由の成田道だったところで、ここを経て成田山へ参詣した道すがらである。

場所  葛飾区西水元3丁目5 中川堤上

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2023年1月31日 (火)

円蔵寺の石仏(葛飾区西水元)

葛飾区の水元は東に千葉県境の江戸川、西には古利根川である中川が流れ、北の埼玉県境には大場川および小合溜(こあいだめ)という河川とも池ともいえる水場があって水に囲まれた地域である。この小合溜は江戸時代に造られた低湿地のダムのようなもので、その為「水元」という地名が出来た。

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西水元の北の端に近いところにあるのが浄土宗の円蔵寺である。創建は不詳ながら江戸時代の初期と伝えられる。開基は猿ヶ股村の五郎佐衛門とその妻とされる。宝永元年(1704)と明治21年(1888)に中川(古利根川)の洪水に遭い寺の資料が失われた。

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山門をくぐって右側にはゼニゴケが厳しい舟型光背型の六地蔵が並んでいる。造立年は享保7年(1722)9月と刻まれており、それぞれ右側に「奉供養六地蔵」と書かれている。六地蔵と向かい合うように、山門をくぐって左側には4つの石仏が並んでいる。

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左端の唐破風笠付角柱型の石仏は庚申塔である。上部に日月、下部に線刻の三猿が描かれている。正面には「神力演大光普照無際土消除三垢冥広済衆厄難」「奉造立庚申供養為二世安楽」と書かれている。造立年は天和3年(1683)9月である。隣りは分厚い駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿、そしてなぜか右側だけの一鶏が描かれ、左手にはショケラがある。造立年は安永6年(1777)11月。「東葛西領猿新田講中」の銘がある。右から二番目はとろけた地蔵で文字は読めない。右端の自然石は馬頭観音である。裏に造立年があり大正8年(1919)8月、坂峯栄吉の施主名があった。

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本堂右手の墓所側には舟型光背型の聖観音菩薩像と板碑型の石仏がある。聖観音は宝永7年(1710)2月の造立で、「奉供養大乗妙典日本回国六十六部求願成就所」と書かれている。右の板碑型のものは墓石らしく、元禄3年(1690)6月の紀年と法名らしき文字がある。

場所  葛飾区西水元3丁目17-7

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2023年1月30日 (月)

安福寺の石仏(葛飾区西水元)

葛飾区西水元にある安福寺は真言宗の寺院。創建は不詳ながら江戸時代中期と推定される。この寺は「夕顔観音」で江戸時代に有名になった寺院で、寛文8年(1668)飯塚村の名主関口氏が夢のお告げで松の根元から掘り出した観世音菩薩を夕顔観音と名付け、堂宇に安置したのが始まり。銅造の観音で造立年は弘長2年(1262)らしい。

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寺の山門に至る手前に墓所があり、そこに舟型光背型の六地蔵が並んでいた。造立年は享保7年(1722)7月で揃っている。葛飾区の資料によれば寺には享保20年(1735)の六地蔵があるとしているが見当たらない。この墓所の地蔵には紀年の下に「飯塚村真言講中」と記されている。

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寺の山門前にも墓所があり、その手前の入口脇に「夕顔観音」の史跡碑がある。これは昭和34年(1959)4月の弘法大師1150年紀年として建立されたもの。正面には夕顔観音の由緒が刻まれる。

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本堂前に一基の駒型庚申塔が立っている。風化がかなり進んで文字も読みづらい。日月はかすかに残るかどうか左頂部が欠損しているので断定できない。青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されており、尊像右下に造立年がある。寛文なのか元文なのか読み取れない。葛飾区の資料には寛文2年とあるが、石川博司氏の資料によると寛文2年の板駒型と元文2年の板碑型がそれぞれ載っている。ここは区の資料に従うと、寛文2年(1662)7月の造立となるが、そうすると駒型では都内でも一二を争うくらい古いものとなる。判別が難しい。

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本堂の左手奥にもう一基の駒型庚申塔があった。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、左手にはショケラらしいものがある。造立年は明和3年(1766)7月。脇に「右 猿ヶ又道 飯塚村講中」と記される。下にある四角い台石にはなぜか天明元年(1781)10月の紀年が入っており、後年に加えられたものだろうか。正面には多数の願主名、後ろ側に「庚申講中」と天明の紀年月、側面には「此方 ニ江半流山道」「此方 新宿 千住道」という道標が刻まれている。

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庚申塔の手前にはかなりひどい風化とゼニゴケで判読が難しい舟型の地蔵菩薩像と舟型の聖観音像がある。地蔵はかなり風化が進み欠損もあり年代は不明だが、葛飾区の資料では江戸時代と推定している。右の聖観音像は寛文5年(1665)8月と古いもの。浄秋らの願主銘がある。

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こちらは夕顔観音に因んだ宝篋印塔と対の燈籠。宝篋印塔の造立年は寛延3年(1750)10月で「武刕葛飾郡飯塚村」の銘があり、安福寺と村人によって建立されたもの。燈籠の竿部には正徳元年(1711)8月の紀年が入っている。まさに安福寺は夕顔観音の寺として栄えたことが分かる。

場所  葛飾区西水元1丁目7-19

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2023年1月29日 (日)

夕顔観音道標(葛飾区西水元)

葛飾区西水元は中川の左岸の地域。ここには安福寺という寺院があり、江戸時代「夕顔観音」で多くの参詣者を集めた。当時飯塚村という土地だった頃、寛文8年(1668)のこと、村人の関口治左衛門が夢のお告げにより家の傍の松の木の根元から掘り出したという観音菩薩像を拝みに多くの人々がやってきたという。

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多くの人々がやってきたのは、参詣者に販売していた村人が製造する「夢想の良薬」というものを求めたことも一因だったようだ。そんな門前の町の一角に正面に「夕顔観音」と大きく彫られた石柱が立っている。右側面には「奉読誦普門品十万巻」とあり、宝暦9年(1759)2月の造立年が刻まれている。

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左面には「武列葛飾郡東葛西・・・」とあるが下から20㎝の辺りで折れた形跡があり文字が補修材で消えている。裏側には「講中」とあり、その下には沢山の願主名が刻まれていた。前述の夕顔観音を堂宇にお祀りしたとされるのが、元禄15年(1702)だから、沢山の参詣者が来るようになって迷わないようにとこの道標が建てられたのだろう。

場所  葛飾区西水元1丁目28-19

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2023年1月28日 (土)

東陽院の石仏(大田区仲六郷)

大田区仲六郷の京浜急行線とJR東海道線の間にある東陽院は真言宗の寺院で、創建は1630年代とされる。東海道が近いので東海三十三観音霊場の第18番にもなっている。

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山門を入ると正面に本堂があり、これは江戸時代のものらしいが関東大震災の時に瓦屋根から銅板葺きに変えたという。山門の右手に墓所があり、その手前に石仏が並んでいる。

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右端の丸彫の地蔵菩薩は単独のもの。台石に元文6年(1741)の紀年が入っている。隣りの丸彫の六地蔵菩薩は宝暦13年(1753)の晩秋の造立とある。6基のうちの2基には二世安楽の文字があり、観音講中による造立らしい。

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六地蔵の左後ろにあるひときわ大きな丸彫の地蔵菩薩の台座には三猿が陽刻されている。これは庚申供養塔として扱われていて、造立年は不詳。昭和40年代の庚申塔の文化財調査の折にも詳細は不明となっている。

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左端には手前に舟型の如意輪観音があるがこれは墓石である。造立年は正徳5年(1715)11月で、浄実妙厳信女という戒名が刻まれている。興味深いのはその後ろのなんだかわからない石仏で、資料によるとこれは庚申塔らしい。自然石の上方には塔を取り巻くように三猿が彫りこまれ、頂上には宝珠に見立てたようなとぐろを巻いた蛇がいる。三猿の下には二鶏も描かれているようだ。造立年等は全くない。このタイプの庚申塔は初めて見た。

場所  大田区仲六郷4丁目6-2

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2023年1月27日 (金)

宝珠院の石仏(大田区仲六郷)

国道15号(第一京浜)の傍にある真言宗の寺院である宝珠院の前の国道と並んで側道のような道があるが、これはかつての東海道の名残り。ちょうど宝珠院の前にあったのが東海道の一里塚である。日本橋を出て丁度一里(4㎞)の訳はないだろうと地図で計測してみるとやはり18㎞程ある。ところが品川宿から測っても9㎞もある。ということは一里、二里、三里、四里と置かれた一里塚のひとつ? にしてもおかしい。

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そんな疑問を残しながら国道西側の宝珠院の山門をくぐる。創建年代については不詳とされているが、戦国時代から続く古刹だとも言われている。少し奥に本堂があり、その左手に2基の丸彫の地蔵菩薩がある。

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左の地蔵菩薩は元文2年(1737)の造立で台石に「奉造立地蔵・・・」とある。地蔵以下は土中に埋まっていて分からない。右の大きな丸彫の地蔵菩薩については造立年等は記されていない。見た感じではもう少し時代が新しい気がする。

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山門の近くには縁取りのある駒型の庚申塔がある。日月、青面金剛像、三猿のシンプルな組み合わせ。三猿の下に願主名が7人銘、そして造立年が刻まれている。思いのほか古く、延宝8年(1680)7月の造立である。とはいえその時代には門前はひっきりなしに旅人が通る東海道である。さぞかし賑やかだったのだろう。

場所  大田区仲六郷4丁目34-8

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2023年1月26日 (木)

六郷神社の石仏(大田区東六郷)

六郷神社の創建は関東の古い神社に多い、源頼家、源義家所縁の創建で、天喜5年(1057)に奥州平定の後、創建されたという由緒である。明治になってからは郷社になった。

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鳥居の手前にある神橋と呼ばれる太鼓橋は「鎌倉殿の十三人」でも有名になった梶原景時の寄進で、源頼朝の命により梶原景時が新たに社殿を造営し、西参道には生垣の中にひっそりと頼朝寄進とされる手水石があり、この神橋はその時のものだとされている。

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境内にはいろいろと歴史的なものがあって興味深い。上の写真は明治15年(1882)8月に六郷講社という富士講によって建立されたものである。表には「六郷講社」とあり、裏には百名近い名前が刻まれており、主に六郷村、雑色村の名前が多い。

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富士講碑の脇には六郷橋の親柱がある。慶長5年(1600)に徳川家康が多摩川の東海道に架かる橋として架橋したが、88年後の貞享5年(1688)に多摩川の洪水で流されてしまってからは、暴れ川の多摩川は明治になるまで渡し船で渡っていた。明治になって八幡塚村の名主が橋を架けたがこれまた14年後に流失。きちんとした橋が架かったのは結局大正14年(1925)のことだった。さすがに江戸時代初期の橋の遺構はないが、この角柱は八幡塚村の名主が中心となって架けた明治16年(1883)のものだろうか。

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本田西側の植込みの中には面白い顔をした対の狛犬がある。この狛犬は貞享2年(1685)に六郷村の有志が願主として奉納したもの。この狛犬は江戸時代初期のものだけに「二世安楽」という文字があり、かつユーモラスな表情をしている。ちなみに大田区内では最古の狛犬らしい。

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狛犬の近くに何の変哲もない角柱が立っていた。これは「花表(かひょう)総氏子供養塔」とあり、明和6年(1769)4月の造立である。花表を調べてみると、「中国で、宮殿や墓所などの前、また大路が交わる所に立てられる標柱」とある。つまり六郷村のどこかの大きな辻に立っていたものではないだろうか。

場所  大田区東六郷3丁目10-18

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2023年1月25日 (水)

宝泉寺の石仏(大田区南六郷)

大田区には六郷とつく地域が、南六郷、東六郷、仲六郷、西六郷と4つある。北六郷はない。もともとは六郷村である。多摩川下流で川が大きく曲がって巾着のようになったところである。かつては八幡塚、高畑、古川、町屋、道塚、雑色の6つの集落から成立したので六郷という。

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宝泉寺は旧東海道である第一京浜の東側で雑色駅から500mほどのところにある真言宗の寺院で、創建は不詳。江戸時代初め頃に中興されたというから室町時代とかの可能性がある。寺の前の細い路地も実は江戸時代からあったと思われる古い村道で、この地域は六郷村の中では雑色と呼ばれたところ。

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本堂の手前に大きめの堂宇があり、その中に比較的大きな駒型の庚申塔が祀られている。日月、青面金剛像、線刻の二鶏、台石の三猿という図柄で、シンプルだが迫力はある。青面金剛の右に「奉造立青面金剛石仏二世安楽攸 施主(敬具)」とあり、左側に貞享2年(1685)11月の造立年が刻まれている。青面金剛の下には「六郷雑色同行」とあり7人の願主名がある。森姓が3人、小泉姓が2人であった。

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本堂の右手から墓所に回り込むと、無縁仏群の脇に笠付角柱型の庚申塔がある。なぜか上部が黒くなっている。唐破風笠付の下の角柱部分には上部に日月があり、その下に「奉造立庚申供養二世安楽攸」とあり、貞享3年(1686)11月の造立年が刻まれている。側面には15人の願主名があり、森姓が多く9人あった。台石には三猿が陽刻されている。左の燈籠は何だか分からない。

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墓所入口には六地蔵と阿弥陀仏が並んでいた。左端の大きな丸彫が阿弥陀如来像で、「念仏供養同行三十人」「武刕六江(郷)雑色」とあり、袖に寛文9年(1669)3月の造立年がある。念仏供養塔としてもとても古いものである。六地蔵は延享元年(1744)6月と8月の紀年が見られる。若干再建が混じっているようには見える。

場所  大田区南六郷2丁目26-12  宝泉寺

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2023年1月24日 (火)

萩中の庚申堂(大田区萩中)

大田区萩中は江戸時代は萩中村、江戸時代の初めころから江戸の水利に活躍した伊奈氏の管理する天領だった。村内には用水路が張り巡らされておりこれらは六郷用水の一部である。そんな萩中の街中のとある辻に庚申堂がある。

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コンクリート製の頑丈な堂宇の前の南北の通りは江戸時代からある道筋。ちょうどこの辺りは萩中村の西の端で、これよりも西に行くと蒲田新宿村であった。東西の路地は昔は六郷用水の支流のひとつだったようだ。

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堂宇の中には駒型の庚申塔が1基。日月、青面金剛像、三猿が陽刻されているが、かすかに線刻された二鶏が見られる。尊像右には「奉造立青面金剛二世安楽 施主」とあり、左側には元禄14年(1701)11月の造立年がある。手前にある仏形の半跏像か座像とその後ろにある首は何なのかわからない。

場所  大田区萩中1丁目4-4

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2023年1月23日 (月)

羽田神社富士塚(大田区本羽田)

正蔵院の北隣にあるのが羽田神社。羽田神社も羽田街道に面しており、かつての羽田村と羽田猟師町の鎮守だが、その創建は小田原北条氏の支配時代に領主行方与次郎が牛頭天王社を祀ったのが始まりとされる。

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神社本殿の左手に進むと再び鳥居があり、そこには羽田富士塚がある。富士講は江戸時代末期から明治にかけて盛んだった民間信仰で、羽田の富士講は明治になってからが全盛期だという。羽田の富士講は木花講(このはなこう)といい羽田村と羽田猟師町の人々によって組織されていた。もともとはもう一つ木花元講(このはなもとこう)という組織もあったが、そちらは戦後は廃絶してしまったらしい。

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明治以降二つの富士講は徐々に羽田富士塚を中心にまとまっていったようだ。毎年夏になると講員は神社の神前で祈祷して富士に向かった。大正時代になると、徒歩で蒲田駅に行き、新宿駅を経て大月で一泊、御師(おし)佐藤家(柏谷)を起点に一泊の山行をしたという。

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富士塚にはいくつかの石碑があり、富士登山50回記念などがあるが、ほぼ「木花元講」「木花講社」のものである。正面中央の尖った方は明治22年(1889)6月、左の大きな石碑は明治23年(1890)4月のものらしい。令和になった今、「講」というものの存在は生活で出合うことはまずないが、私が子供の頃は町内会でもいくつかの講があった。それだけ人と人のつながりが深かったと言えるだろう。

場所  大田区本羽田3丁目9-12 羽田神社

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2023年1月22日 (日)

正蔵院の石仏(大田区本羽田)

大田区本羽田にある真言宗の寺院正蔵院は寺号を了仲寺とするが正蔵院で知られている。寺の前を通る大通りはかつての羽田道。昔のこの道は東海道三原から分岐して河口寄りの羽田の渡しややや上流の大師の渡しを経て川崎大師へ往来する道だった。この道よりも東側(河口側)はその名も羽田猟師町という町で、水産物がこの道を通って江戸の街へ運ばれていた。

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山門前には羽田道の碑がありかつての様子を説明している。山門の脇には屋根付吹き抜けの堂宇があり、3基の石仏が祀られている。左の大きな唐破風兼板碑風(笠付塔婆型)の石塔は念仏講中による念仏供養塔。中央には「石塔造立三界万霊同一性故入阿空」とあり、天和3年(1683)5月の造立年と、「施主念佛講中同行十三人」という文字がある。

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中央の頂部が欠けた駒型の庚申塔は享保10年(1725)3月造立。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、尊像は左手にショケラを持っている。右の舟型光背型の庚申塔はさらに古く貞享元年(1684)12月の造立。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、「武刕六江領羽田村」の銘と、その下に数名の願主名が刻まれている。

昭和51年の文化財資料に在る門前の廻国供養塔(文化13年)は珍しい形のようだが、訪問時は見つからなかった。見落としてしまったのだろうか。

場所  大田区本羽田3丁目10-8

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2023年1月21日 (土)

穴守稲荷の石仏(大田区羽田)

大田区羽田にある穴守稲荷神社は都内では有名な神社である。すぐ近くに全日空(ANA)の施設が沢山あり、落ちないように祈るからではない。元々羽田空港が出来るよりもはるか昔、文化文政年間に今は空港の一部になっている鈴木新田を開墾しその地に祀った神社である。当時の神社は今の羽田空港国際線ターミナル(第3ターミナル)の北側、C滑走路の南西端辺りに在った。

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第二次世界大戦後、GHQのマッカーサー元帥がこの鈴木新田にあった町を空港にするから48時間以内に立ち退け、という命令を発し、3000人の町民は敗戦国の屈辱の追い打ちを受けるように2日で立ち退いた。昭和20年9月21日という終戦後1ヶ月の時期である。当時鈴木新田には穴守町と鈴木町という二つの町があったのがあっという間に米軍基地となった。

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穴守稲荷を南側の参道から入ると、間もなく左手に「飛龍明神」と書かれた石碑がある。その脇にあるのがこの三猿の駒型石塔である。三猿だから庚申塔かと短絡的に考えるのはどうかと思うが、見ているとGHQに対する人々の気持ちが入っているようにも見えた。穴守稲荷には明治時代の様々な石仏石碑があるが、これもその一つではないだろうか。

場所  大田区羽田5丁目2-7

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2023年1月20日 (金)

木島家の庚申塔(足立区栗原)

環七通りと尾竹橋通りの交差点の名前は万願寺。北東の角には真言宗の満願寺がある。併設の幼稚園が令和6年で閉園とあったが、やはり少子化の波が押し寄せているのだろうか。満願寺交差点の満願寺の角には延命地蔵がある。おそらくかなり新しいものである。

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満願寺前から東へ環七の歩道を歩く。100mばかり行くと角に2基の石仏を祀った堂宇がある。塀の中の民家は木島家でこの辺りの旧家らしい。歩道が広いのでゆっくりお参りできる。

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左の大きな石仏は駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、右側面には「庚申供養講中男女三十八人」と書かれている。左には宝暦13年(1763)極月(12月)の造立年があり、台石には「栗原村」と書かれている。右の舟型光背型の地蔵菩薩立像も庚申塔で、香炉台で隠れて見えないが、台石には三猿が大きく陽刻されている。造立年は延宝7年(1679)5月で、施主名が8人、筆頭に木島十右門の名前があるのは木島家のご先祖だろう。

場所  足立区栗原3丁目5-6

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2023年1月19日 (木)

駐車場の不動明王(足立区栗原)

東武伊勢崎線西新井駅の北側、線路の西にある勝田堀公園の南側に広い駐車場があり、その南端の一画の植込みの中に一基の不動明王がひっそりと佇んでいる。西にある七曲がり通りを流れていたのが本木堀という用水路だが、その支流がこの場所を流れ東武伊勢崎線の筋に流れていた用水路に合流していた。この辺りは昔は万願寺という小字で、環七と尾竹橋通りの交差点に字は違うが今も満願寺がある。

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Google Mapを見ると庚申塔とされているが、この像は不動明王像である。二童子はないが、左手の羂索(けんさく)はあり、右手の宝剣は痕跡がある。造立年等文字は全く確認できない。ただ不動明王も稀に庚申供養の主尊とされる場合があるので、庚申塔であることを否定はしない。石仏を巡ると不動明王は単独で信仰の対象になっているものが多いように感じる。

場所  足立区栗原3丁目18-2

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2023年1月18日 (水)

徳寿院の石仏(足立区栗原)

足立区栗原にある徳寿院は真言宗の寺院。創建は寺伝では鎌倉時代に遡るらしいが詳細は不明。環七北通りと尾竹橋通りの交差点に位置しており、東側は東武伊勢崎線が走っている。環七北通りはこの区間をアンダーパスで尾竹橋通り及び東武伊勢崎線をくぐりぬけている。

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近年境内の改修を行ったようでまだ墓所も埋まっていないがとてもきれいな境内になっている。墓所の奥、東武伊勢崎線寄りに数基の石仏が並べられていた。

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左端は角柱型で「奉建立六地蔵人法繁盛祈所」とあるが六地蔵は見当たらない。隣りの舟型光背型の地蔵菩薩像は墓石。右の小型の宝篋印塔も、隣の角柱も墓石のようである。その右にある駒型の石仏は庚申塔でこれは後述する。右から3番目は板碑型の供養塔らしいが文字が摩滅していて読めなかった。足立区の資料によると似た形の庚申塔があるはずだがこれは違う。右の首なし座像も僧侶の墓石のようだ。右端にある舟型光背型の地蔵菩薩像も墓石だが、享保7年(1722)9月の紀年が読める。

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中央の駒型庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。右脇に「奉建立庚申 瑞翁 栄翁 妙照 半兵衛」の銘がある。左には元禄14年(1701)10月の造立年があり、三猿の下には16名の願主名が並んでいるが女性名が多い。

場所  足立区栗原4丁目1-15

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2023年1月17日 (火)

七曲がりの庚申塔(足立区西新井)

足立区伊興あたりを南北に走る七曲がり通りは古い道に聞こえるが、比較的新しい命名だと思う。元々は用水路沿いの道で、用水路は緩やかに水を流す目的から、微高地から微低地へ流れ、さらに農地に水が行きわたるように通されるのでこういう曲がりになったのではないだろうか。

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七曲がりの庚申塔の斜め向かいの分岐は明治以前から道の分岐点で、写真に写っている車の前の辻の頂点に道標がある。正面には「御大典」、脇には「向左リ舎人村 西新井村」「向右り 谷塚村」とある。

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堂内の庚申塔は駒型で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が陽刻されている。造立年は宝暦13年(1763)11月。側面に「當村 庚申講中三十七人」とあり、下部には「向左 千住一リ半 向右 草加一リ半」という道標が刻まれている。ここが千住と草加宿の間の中間地点だったことが分かる道標である。

場所  足立区西新井3丁目10-17

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2023年1月16日 (月)

源正寺の石仏(足立区伊興)

足立区伊興に「七曲がり」という名の道がある。普通の二車線の道路だが、高低差も皆無なのに不思議に曲がりくねっている。この辺りは中世以降に開墾された土地で、昔は用水路があちこちに通っていたらしい。道沿いには銭湯もあるので用水路筋だった可能性も高い。七曲がりの名前は近年付けられた可能性が高そうである。

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その七曲がりから少し西に入ったところに真言宗の源正寺がある。参道を西に進み、右に折れた奥に本堂がある。参道の入口には複数の堂宇があり石仏が祀られている。一番手前の堂宇には4基の石仏があった。左は比較的新しそうな丸彫の地蔵菩薩。中央の背の高いのが丸彫の証券のン菩薩像でなかなか立派なものだった。右の小さな舟型の地蔵は墓石で、安永2年(1773)5月の紀年が入っている。

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その後ろにある角柱が問題で、おそらくは庚申塔の基壇だろう。正面には「庚申講中二十九人」、右には「宝暦2年(1752)10月の造立年、左には「願主慈忍」と刻まれている。この基壇の上には何らかの石仏が載っていたはずである。

場所  足立区伊興2丁目2-35

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2023年1月15日 (日)

実相院の石仏(足立区伊興)

足立区伊興にある伊興小学校は戦前まで旧伊興村役場があった場所で、校門脇にその石碑があるはずだったが訪問時はなぜか存在しなかった。もっとも役場はもう少し南のプールの辺りに在ったようだが、校舎の建替えでどこかに移されたのだろうか。小学校から少し南に下ると角に実相院がある。

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大きな山門の両脇には対の仁王像があり、迫力というよりはちょっとユニークな風体をしている。正直見ても怖くない仁王像である。真言宗の実相院は古い寺で、奈良時代の天平年間(729~749)に行基によって創建されたという説がある。行基由来説はあちこちにあるので真否は分からない。

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山門をくぐるとすぐに本堂、その脇を左に回り込むと背の高い笠付角柱型の石仏が存在感を出している。正面に彫られているのは馬頭観世音菩薩。この石仏は、馬頭観音と聖観音と月山湯殿山羽黒山三山を同時に祀ったものになっている。右側面には「先施主 元禄6年(1693)10月」とあり、左側面には「文政3年(1830)12月再建」とある。この三つを合体したものは極めて珍しい。

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少し戻って鐘楼の裾に一枚の板碑が立てかけてあった。文字は見当たらないが、室町時代のものだろう。その左脇には力石や供養塔が建ち並んでいる。さらに山門脇の塀沿い迄進むと、以前は馬頭観音脇に在った石仏たちがこの場所に移されていた。

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左端は自然石に「遠都御祖神」と書かれている。左から二番目は駒型の庚申塔。造立年は元禄元年(1688)11月で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が陽刻されている。文字は一部欠損しているが「汝等所行是菩薩道庚申待▢為」「漸々修覚悉当成仏二世安楽也」と書かれている。中央の丸彫地蔵は詳細不詳。その右の舟型光背型の石仏は聖観音像である。紀年を読もうとしたがゼニゴケと摩耗で読み取れなかった。

場所  足立区伊興4丁目15-11

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2023年1月14日 (土)

大西島八幡の庚申塔(足立区伊興)

足立区伊興にある小さな神社、大西島八幡神社。まるで屋敷神の規模だが、手作りの由緒説明書もあり、それによると創建は不詳ながら鎌倉時代の可能性もありそう。例に漏れず源義家伝承のひとつだが、東国が初めて主役になったのは鎌倉時代から。1000年前は東国の果てだった江戸に鎌倉武士の伝説があるのはごく自然な成り行きである。

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茶色の鳥居の傍らに立派な庚申塔が立っている。駒型としては比較的大きな部類である。正面には日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されており、右側面には明和2年(1765)正月の造立年が刻まれている。

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一方左側には「講中 拾八人」とあり、その人数での建立ではひとり当たりの負担は大きかっただろう。庚申塔はゼニゴケにかなり覆われているが、野ざらしの割には状態は良い。この辺りは江戸時代から明治にかけて伊興村横沼という地域だったが、大西島はここよりも少し北の地域の小字である。

場所  足立区伊興5丁目13番地先

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2023年1月13日 (金)

伊興路傍の庚申塔(足立区伊興)

足立区伊興の昔からある道筋の路傍にいくつかの石仏が祀られている。江戸時代から明治時代にかけてはこの辺りが伊興村の中心で、多くの民家が集まっていたところ。この道の西側が横沼という地域で、東側は早房という地域だった。

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屋根の下には庚申塔と上部が欠損した石塔、屋根の外には電柱のような丸柱の道標がある。最初は丸柱は電柱かと思ったくらいで、まさに電柱と同じ太さである。しかし摩滅が進んだ文字をじっと読んでみると、明治19年(1886)8月の紀年が読み取れた。さらに「東 竹の塚・・」とあるから道標に間違いない。

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左にある舟型光背型の庚申塔は、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、尊像右に「奉待講▢庚・・」とあり、左側には元禄5年(1692)8月の造立年が刻まれている。また、台石にはうっすらと「弘法大師道」という文字が残っている。庚申塔の右にある上部が殆ど欠損した石柱はおそらくは墓石である。元文4年(1739)11月、延享3年(1746)8月、延享2年(1745)の紀年は命日ではないだろうか。

場所  足立区伊興4丁目6-12

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2023年1月12日 (木)

薬師寺門前の庚申塔(足立区伊興)

足立区伊興にある薬師寺は万治2年(1659)創建の曹洞宗寺院。曹洞宗だけに質素な雰囲気できらびやかさはないが、静かな寺院である。その門前には堂宇があり、その中に駒型の庚申塔が祀られている。

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応現寺が赤山街道の東側なのに対して、薬師寺は西側に位置している。駒型の庚申塔は極めて保存状態がよく、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が陽刻されている。青面金剛像は左手にショケラを持つ。

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右側面には、文化13年(1816)2月の造立年が刻まれており、「庚申講中 拾八軒」とある。この辺りにはそれだけの民家があったのだろう。18軒の民家でこの庚申塔を建立するのはかなりの負担だったと思う。左側面には、「伊興村世話人 太右衛門 久左衛門 弥四郎」の銘が刻まれている。

場所  足立区伊興5丁目4-3

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2023年1月11日 (水)

応現寺の石仏(足立区伊興本町)

足立区伊興本町は江戸時代は伊興村と竹塚村の一部だった。南北に赤山街道が走り、この街道は大宮道・千住道ともいい、現在の小菅(当時は小菅御殿があった)から伊興村を通り、赤山陣屋(現在の川口市赤山)で分岐して、北西は大宮の永田陣屋へ、北東は越谷の杉浦陣屋へと向かう道であった。

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応現寺の南側は江戸時代の切絵図では天龍寺というとてつもなく広い寺院になっている。実は東伊興に天龍寺があるが、その天龍寺は明治になってから上野下谷から東伊興に移転したもので、切絵図の天龍寺ではない。謎である。しかし赤山街道の周りに多くの寺院があったことは事実で、応現寺もその一つである。

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応現寺は珍しい時宗の寺院。時宗は一遍上人が鎌倉時代に興した宗派で、踊る念仏で有名である。信心の有無を問わず念仏を唱えればすべての人は救われるという教義で、鎌倉仏教の中では最も遅く流行して広まった面白い宗派である。しかし、応現寺はもともと天台宗の寺院で、創建年代不詳、源義家(1039~1106)の御朱印があったという言い伝えからすれば平安時代の創建である。まあ真偽のほどは分からない。

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本堂手前左手に大きな無縁仏群のエリアがあり、その中に1基の庚申塔がある。舟型光背型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が陽刻されている。右側面に享保6年(1721)3月の造立年があり、左には「奉供養庚申待」とある。TATSUさんもHPで書いておられるが、手持ちの石川博司氏の情報だと享保13年(1728)の庚申塔も記録されている。山門前にある、応現寺の説明板にも「享保13年(1728)銘庚申塔(足立区登録有形文化財)」があると書かれている。だが当の「足立区文化財調査報告書庚申塔編」には享保6年の庚申塔しか記載されていないので、現場で随分と戸惑ってしまった。

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本堂脇には大きな板碑型の三界万霊塔と角柱型の巡拝供養塔が並んでいる。摩滅が進んでいて文字が読み取りにくい。板碑型の三界万霊塔の造立年は寛永18年(1641)10月と刻まれている。正面には「六道四生三界万霊」とあるが四生(よんしょう)の意味が分からなくて調べてみたら、六道のどこかに、胎生・卵生・湿生・化生の四つの生まれ方のどれかをとって生まれることらしい。しかし分からない。右の巡拝供養塔は、「月山湯殿山羽黒山」の供養塔で左側面に宝永3年(1706)5月とあるが、五か三かどちらかは自信がない。いずれにせよ歴史のある時宗の寺院である。

場所  足立区伊興本町2丁目3-3

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2023年1月10日 (火)

長命寺の石仏(3)(練馬区高野台)

(長命寺の続き)

長命寺の本堂左手にある奥の院への参道を進むと、墓所手前で右に折れ、その先で御廟橋を渡る。長命寺は東の高野山として信仰を集めた寺で、本山の高野山の奥の院にも御廟橋(ごびょうばし・みみょうばし)がありそれを模したものだろう。空海がまだ生きているとして、毎日朝夕に僧侶が食事を運びこの御廟橋を渡って空海が居るという奥の院へ献上する儀式が有名である。

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本山高野山では御廟橋から奥は「撮影禁止、飲食禁止」などの制約があり、かつては女人も禁制だったという話を聞いたことがある。真偽は分からないが、1200年も続く儀式はこれからも継続していくのだろう。長命寺の御廟橋の建立年は不詳だが、右にある自然石の名称碑は嘉永7年(1854)のものである。

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橋の先、左に大きな駒型の庚申塔がある。造立年は元禄8年(1695)10月。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、三猿の下に10名ほどの願主名が刻まれている。各人苗字があることから元禄時代でもそれなりの裕福な講中だったのだろう。中央の舟型光背型の地蔵菩薩像は延命地蔵とされ延享5年(1748)2月の造立。「男女念仏供養 武刕豊嶋郡谷原村講中」と刻まれている。右にある櫛型角柱型の石仏は上部に仏像が浮き彫りされているがその下は戒名で墓石であろう。享和元年(1803)4月の造立である。

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更に先にあったのが舟型の双体地蔵尊で、道祖神とは異なるようだ。これはこれで珍しいものだと思う。造立年等の情報は読み取れなかった。

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この辺りから名作のような石仏が沢山並ぶようになる。すべてを紹介できないので一部抜粋になるが、上の写真は馬頭観音像である。これほど人間の姿に近しいものは珍しい。石の材質が極めて良いのか、造立年は明暦元年(1655)7月ととても古いのにきれいである。施主増嶋八良右門重俊とある。

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その隣の丸彫の地蔵菩薩立像も古く、延宝5年(1677)11月の造立年が錫杖に刻まれている。右の袖には「法印権大僧都定昌」の銘がある。高さは2mほどもある大きな地蔵でこれも延命地蔵とされている。

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奥の院の裏手には承応3年(1654)に造られた十王像が並んでいて壮観であるが、奥の院の裏手を回り込んで本堂側を戻ると2基の立派な舟型地蔵菩薩像がある。左は享保3年(1718)11月造立のもので、「奉造立地蔵尊念仏講結衆 砂場内廿人 前浄内五人」とあり、左側の紀年の下には「武刕葛飾郡西葛西亀有村」と書かれている。ずいぶん遠くに在ったものを移設したようだ。右の舟型地蔵は宝暦4年(1754)6月の造立で、「奉造立供養地蔵尊一躰」とある。左側には「為現當二世所願成就也 當村講中 同行三拾人」と刻まれている。 

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最後の紹介はこの舟型の聖観音像。造立年は承応4年(1655)8月とあるが、承応4年は4月に明暦元年に改元されているから正しくは明暦元年である。江戸時代は京都で改元されても東国の片田舎であった江戸にはなかなか伝わらなかったのだろうか。この他、長命寺には練馬区の資料でも240点以上の石仏石塔があるので、とても紹介しきれないが、何度も訪問してゆっくり見てみたいものだと思う。

場所  練馬区高野台3丁目10-3 長命寺境内

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2023年1月 9日 (月)

長命寺の石仏(2)(練馬区高野台)

(長命寺の続き)

2基の庚申塔の先にあるのは舟型光背型の聖観音像と如意輪観音像である。聖観音像は元文3年(1738)7月の造立で、「月妃童仙信士」と書かれているが、戒名が男性なのか女性なのかわからないところが面白い。身分のあるお妃さまの産んだ男の子を弔ったものと考えるのが自然だろうか。隣りの舟型如意輪観音像は宝永8年(1711)2月の造立で、これは「南無阿・・・」と剥離で読めないが墓石ではない可能性もある。

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その先には馬頭観音が5基並んでいて、長命寺でなければこれだけでも壮観である。左端の角柱型は正面に「馬頭観世音」、側面に明治30年(1897)8月の造立年と「渡辺紋之丞建之」とある。2基目は上部が欠損しているがこれも角柱型だろう。正面には「馬頭観世音」の文字と明治37年(1904)8月の紀年があるが、右側面には明治40年(1907)4月の造立年と「施主 本橋三治郎」とあるから右側面が造立年で正面は馬の没年月があるのだろう。

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真ん中の三番目も角柱型。正面は「馬頭観世音」、側面には大正12年(1923)4月の造立年と大野善吉という願主名が彫られている。右から二番目は上部が欠損しているので角柱型かどうか不明。正面上部の馬頭観世音座像は頭部が欠損、その下に「馬頭観世音」とあり、文化8年(1811)9月の紀年がある。側面には「武刕豊嶋郡谷原村 施主 杉浦清蔵」と書かれている。一番右の剥離がかなり進んだ背の高い舟型らしいものも馬頭観音である。造立年は文化13年(1816)、剥離部分は資料で確認したが、「武刕谷原村 世話人」「下石神井村 世話人」という文字があり、二つの馬頭観音(角柱型と舟型)を上下で合体したものとされる珍しいもの。

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馬頭観音の先で道は右に折れるが、その先には御廟橋があり、左手前に角柱型の巡拝供養塔がある。基壇には「依田」の名前があり、正面は「月山湯殿山羽黒山 秩父西國坂東 百番巡礼供養塔」と書かれている。側面には文化15年(1818)3月の紀年と、江戸牛込横寺町 施主瓦屋徳兵衛建之とある。新宿区は江戸時代の町名がそのまま残されている地域が多く、現在も新宿区横寺町として残っている。神楽坂の坂上で、現在の大江戸線牛込神楽坂駅の北側にあたる。

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対面にも巡礼供養塔がある。こちらは基壇に田中の銘がある。正面には「秩父四国西国坂東 奉納大乗妙典供養方墳」とあるが、方墳という表現は珍しい。側面には「武州豊嶋郡練馬領下田柄村 願主 田中祐次郎」の銘があり、明治4年(1871)の紀年がある。ここからは御廟橋を渡らず戻る方向に参道の反対側(右側)を見ていく。

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右隣りの丸彫の地蔵菩薩像は文化10年(1813)2月の造立。台石正面には「講中▢▢為二世安楽也」側面には施主熊右衛門の銘がある。地蔵の顔はほぼ剥離して原形をとどめないが、お坊さんの弔いの石仏のようでもある。

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隣りに在ったのは、笠付角柱型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれている。左側面には安永5年(1776)10月の造立年と「左 石神井みち 二世あんらくの為」とあり、右側面には「武刕豊嶋郡谷原村講中拾二人 右 田中道 願主 大沢小三良」と刻まれている。この庚申塔は以前は富士見台1丁目19番にあったもので、平成6年の資料にはなく、昭和末期の資料には富士見台にあるとされているので、平成年間に移設されたものだろう。

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角を曲がると角柱型の庚申塔がある。正面には「庚申待供養」と彫りこまれている。その傍には「武州谷原邑 講中廿七人」とあり、左側面には「願主 増嶋新右衛門」の銘、右側面には宝暦11年(1761)8月の紀年が見られる。

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その右隣りにあった櫛型角柱型の石塔は、どうやら墓石らしい。正面には「二世安樂攸」とあり、造立年は宝永8年(1711)3月。台石に「浅草 田町 道印 講中」とあるから紛らわしい。右側面には「願主 山城屋嘉兵衛 日野屋久兵衛」とある。

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その右の樹のたもとにある角柱型の庚申塔。シンプルに正面には「庚申塔」と大きく彫られている。左側面には「谷原村 増嶋五右衛門 同村 田中大五郎 親類七名」とあり、右側面には明治14年(1881)9月の造立年が描かれている。

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樹木の反対側には駒型の馬頭観音がある。表面は剥離しているが、明治28年(1895)の造立年が読める。側面には「横山氏」と書かれていた。ここで奥の院の参道の入口に戻ってきたことになる。次は奥の院へ進み、御廟橋を渡った先を見てみよう。

場所  練馬区高野台3丁目10-3 長命寺境内

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2023年1月 8日 (日)

長命寺の石仏(1)(練馬区高野台)

練馬区高野台にある東高野山長命寺は城北人気の寺院で、あちこちの道標に長命寺や東高野山の名前がある。高野山を名乗ることからわかるように空海(弘法大師)の真言宗の寺院で、関東地方有数の霊場として多くの参詣者があった。西武の練馬高野台駅の高野台の地名の由来はこの寺にある。

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南大門には四天王像が守りを固めておりなかなかの迫力。長命寺は慶長18年(1613)に後北条氏の一族によって弘法大師を祀る庵が開かれたのが始まりで、寛永17年(1640)に奈良長谷寺から長命寺の名を拝し、その後朱印寺として幕府にも守られた。庶民からは東の高野山として多数の信仰を得たという。

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長命寺には極めて多くの石仏が祀られており、とても一度には紹介しきれないし、一度の訪問で把握することも難しい。まずは3回程度に分けて、石仏の紹介をしたい。本堂手前に在ったこの丸彫の阿弥陀如来像は、明暦の大火の焼死者の供養のために建てられたという。造立年は寛文12年(1672)で高さは2.8mもある。両国の回向院から移設したものらしい。

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本堂から左手の墓所方向に進むと、ずらりと左右に石仏石塔が並んでいる。まずは回廊の左側(南側)から見ていきたい。回廊の入口の両脇には、名称碑や道標があるが、その先には六観音勢至石幢がある。これは以前は奥の方に在ったものだが手前に移された。造立年は寛政8年(1796)で八面の石幢。六観音と勢至菩薩で7面で残りの一面には紀年がある。月の17日から23日の間、順次本尊とした七夜待供養塔らしい。17日立待月、18日居待月、19日寝待月、20日臥待月などという言葉が残っているが、それぞれに観音や如来や菩薩が充てられており、23夜は勢至菩薩である。

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その先には丸彫の地蔵菩薩像。台石の正面に「奉誦光明真言二百万遍為二親菩提也」とある。隣りは舟型光背型の聖観音菩薩像だが、台石の獅子らしき彫りが良いがこれは墓石。隣りの櫛型角柱の石塔は「月山湯殿山羽黒山 四国西国秩父坂東 巡礼供養塔」と書かれている。天保3年(1832)5月の造立である。

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その先には、貞享3年(1686)7月造立の舟型地蔵菩薩で輪光がくっきり描かれている。中央の舟型の聖観音像は寛文8年(1668)5月の造立で側面に戒名が刻まれている。右の小さい舟型の地蔵菩薩像も含めてこの3体は墓石のようだ。

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その先には2基の駒型の庚申塔があった。左の大きい方は日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で青面金剛の左手にはショケラがある。側面に造立年があり、享和元年(1801)2月。台石には「右 所沢道」「左 大山道 田無へ二り」とあり、正面に「豊嶋郡谷原村 講中弐拾三人」とある。右側の小さい方の駒型庚申塔は日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が彫りこまれ、右脇に「奉造立庚申供養」、左脇に正徳2年(1712)2月の造立年が刻まれている。

<続く>

場所  練馬区高野台3丁目10-3 長命寺

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2023年1月 7日 (土)

清戸道の碑と庚申塔(練馬区三原台)

谷原で橋戸道と分岐したふじ大山道は、現在の谷原交差点を斜めに横切る新旧街道のマルチ交差点に出るが、この谷原交差点を通る目白通りもかつての清戸道という街道である。現在は関越練馬インターに引き寄せられるように北にカーブしているが、まっすぐ西に進む道こそが古くからの清戸道。

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この清戸道の途中に庚申堂がある。後ろのマンションの名前はファミール庚申といい、東池袋の六又にある庚申様の祀られている庚申ビルと同じように庚申の名前を冠している。地主が庚申講中の中心的な存在なのだろう。かつてはオーナーが1階で店舗を経営していたらしくファミール庚申というスーパーストアがあったらしい。

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庚申堂の脇の植込みの中にひっそりと清戸道の碑が立っている。清戸道は練馬や保谷、清瀬の農民にとって、江戸への交易路としてもっとも重要なルートで、目白通りの日本女子大の北側に清戸坂があるが、江戸往来の荷車を後押しして小遣い稼ぎをする立ちんぼがいたという。

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庚申堂には3基の石仏石塔がある。左は燈籠で竿部に「奉納 庚申」とあり、造立年は享和3年(1803)と記されている。センターは駒型の庚申塔である。造立年は宝暦11年(1761)9月、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。右側に「庚申待供養敬白」、左側面に「武州豊嶋郡田中村講中三十五人 願主 大山利右衛門」と記されている。右の駒型の石塔は廻国供養塔で、宝暦10年(1760)11月のもの。武刕豊嶋郡田中村 願主 龍沢庄三郎敬白とある六十六部廻国供養塔である。

場所  練馬区三原台1丁目28-2

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2023年1月 6日 (金)

三原台の馬頭観音(練馬区三原台)

関越自動車道練馬ICの辺りは昔は韮久保と呼ばれていた地域。谷原延命地蔵の三股でふじ大山道と分岐した橋戸道を西に進むと、北原を経て韮久保に至る。練馬ICはまさにこの橋戸道の上を現在走っている。

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駐車場の角に吹き抜けの祠があり、その中に背の高い石塔がある。高さは2m余りあり、一角は3坪ほどの整地され踏み石も置かれたきれいな境内になっている。現在裏手には戸建て住宅が広がっているが、家が建ち始めたのは2015年を過ぎてからのことである。正面上部には馬頭観世音座像が陽刻され、その下には「奉勧請馬頭観世音菩薩」とある。馬頭観音にしては極めて質の高い石仏である。

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造立年は寛政10年(1798)11月。左側面には「講中二十三人 願主篠源右衛門」、右側面には「講中十四人 朝比奈平右衛門」とある。裏面には「小日向水道町 石工勘助」の銘まで刻まれている。これだけ立派な馬頭観音があるだけに当時の橋戸道は練馬および以遠からの農作物を盛んに牛馬で運搬して江戸の街へ持ち込んでいたのだろう。

場所  練馬区三原台2丁目6番地先

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2023年1月 5日 (木)

空き地の地蔵(練馬区三原台)

以前、西武新宿線井荻駅前の環状八号線が踏切だった頃、世田谷の自宅と関越自動車道練馬ICの所要時間は2時間近く掛かることもあった。井荻トンネルが出来てからは半分から3分の1になったように思う。当時はしばしば目白通りの比丘尼交差点から前原を抜けて西武線の踏切を通るという抜け道を使った。

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その懐かしい抜け道の北の入口比丘尼交差点から少し南下した三原台中学校の傍の空き地にポツンと地蔵様が立っている。見た感じ明日にでも撤去されてしまいそうだがずっとここに在る。

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お地蔵様は御影石の新しいものであった。造立年は昭和60年(1985)吉月吉祥日と書かれている。右側面には「為榎本家諸霊位建之」とあり、左面に榎本昭夫氏の施主名が刻まれている。都内では貴重な存在だと思う。

場所  練馬区三原台3丁目13-15

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2023年1月 4日 (水)

大泉インターの庚申塔(練馬区大泉町)

外環自動車道の大泉インターのすぐ近くにスーパーバリューというホームセンターがある。駐車場は大通り側にはなく、大泉インター入口の一本西の道を入って駐車場にアクセスするのだが、この駐車場の入口に屋根付きの堂宇があり庚申塔が祀られている。

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もともとこの場所はどういう場所だったのだろうか。道筋は変わっているがインターの下を流れる白子川の川筋は昔と変わっていないのが幸いで、その川筋を基準にしてみると、白子川の右岸と左岸を繋ぐ道の端のたもとに当たることが分かった。おそらくは川の向こうとこちらとの間の塞ノ神の役割があったのではないだろうか。

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笠付角柱型の庚申塔はかなり摩滅が進んでいるが、日月、青面金剛像、三猿のシンプルな図柄である。造立年は正徳5年(1715)11月と刻まれている。また「武刕新倉郡土支田村 講中」という文字も見られる。白子川の右岸は上土支田村、左岸は橋戸村というのが江戸時代の区割りである。

場所  練馬区大泉町5丁目6-1

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2023年1月 3日 (火)

教学院の石仏(練馬区大泉町)

練馬区大泉にある教学院は真言宗の寺院で文永5年(1268)開山という古刹である。時代的には元寇の少し前である。当時のこの辺りの様子はまさに武蔵野そのものだったのだろう。教学院は白子川の左岸にあり、江戸時代は橋戸村と呼ばれる地域だった。

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山門前に在る丸彫の地蔵菩薩像は延命地蔵とされるもので、宝暦3年(1753)10月の造立。台石正面には「南無地蔵尊二世安楽」とあり、江戸新橋の石工で市三郎という銘が左面、右面には武刕豊嶋郡土支田村講中廿人と刻まれている。

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本堂の左手には数多くの石仏が祀られており、一部しか紹介できないが、写真の庚申塔が無縁仏群の奥側にあった。自然石の庚申塔で、中折れを補修してあるが、下部に明治37年(1904)8月の造立年がある。願主は瀧島亀五郎という人物らしい。

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庚申塔の脇の墓碑を挟んだ右側には2基の自然石の馬頭観音があった。最近ここに祀られたようだ。左の馬頭観音は大正12年(1923)2月の造立で、左側面に紀年と並んで荘埜亀吉という願主名がある。右の小さな板状の自然石の馬頭観音はとてもかわいいサイズで、大正13年(1924)12月の紀年が刻まれている。

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無縁仏群を拝観していくとこの見慣れない仏像に出くわした。人頭の上に座っている仏の図である。日本のものでななさそうで、雰囲気は東南アジアという感じである。調べてみるとやはりインドネシアの石仏で寺院の近所の方が昭和59年に奉納したらしい。

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上の2基も無縁仏群の中にあったもので、左の丸彫の地蔵菩薩は享保15年(1730)6月の造立。「為法印権代僧都栄全菩提」とあるのでお坊さんの供養墓石だろう。右の舟型光背型の聖観音像は摩滅とゼニゴケで凄いことになっているが、造立年は元禄3年(1690)9月ときれいに残っている。

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無縁仏群の主尊と思われるのがこの丸彫の地蔵半跏像である。造立年は享保4年(1719)とあるが、その他の銘文は土中に埋まっていて確認できない。ふくよかな江戸時代の豊かな雰囲気を持った地蔵である。

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梵鐘の裏に回り込むと練馬区の指定有形文化財になっている閻魔と十王像が並んでいた。なかなか見事で壮観な並びである。閻魔像の背面には元禄3年(1690)11月の紀年が刻まれ、橋戸村庄氏の銘があるが、これは荘氏の誤字であろうか。

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閻魔と十王像と向かい合うように立っているのがこの珍しい壇拏幢(だんだとう)でこれも元禄3年(1690)11月の造立で、橋戸村庄氏(荘氏か)によるものらしい。大王の標識で、善悪の二業(にごう)をよく察知する為に柔和な女相の善神と悪辣な男相の悪神とを並べたものとされている。

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十王の隅っこになぜかこの角柱型の馬頭観音が立っていた。花がきちんと供えられている。古い馬頭観音らしく、造立年は寛政9年(1797)10月と刻まれている。側面はかなり摩滅していたが資料によると道標も刻まれているらしい。教学院には多くの石仏があってかなり長い時間拝観して楽しむことが出来た。

場所  練馬区大泉町6丁目24-25

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2023年1月 2日 (月)

東映通りの馬頭観音(練馬区東大泉)

練馬区の大泉学園駅と大泉インターの間に東映東京撮影所がある。街並みを再現したオープンセットの跡地に西友が主体となってオズという名前のショッピングセンターが出来たのが昭和58年(1983)。今は映画に因んでか大きなシネマコンプレックスが出来ている。

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巨大なシネマコンプレックスの大泉学園駅側の辻に大きな松の木があり、その根元に自然石で造られた馬頭観音が祀られている。表には馬頭観世音とあり、裏には明治44年(1911)1月11日建之とあり、施主名は山口治郎吉、加藤政五郎の2名が記されている。練馬は馬頭観音の多い地域だが、ここは川越街道と清戸道を結ぶ古い村道の辻。松の木と合わせて道標だったのかもしれない。

場所  練馬区東大泉2丁目7-25

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2023年1月 1日 (日)

妙延寺の石仏(練馬区東大泉)

現在の東大泉はかつての上土支田村である。昭和の初め頃までは全くの純農村で見渡す限りの広い畑地の中に雑木林が点々とある風景だったという。武蔵野鉄道が大正時代になると開通したが、現在の駅南にある学芸大附属のあたりを通す計画が、地元の有力者の加藤家の三氏が反対して北側に東大泉駅が出来た。この駅に東京商科大学を誘致する計画から駅名を大泉学園駅と改名したが、計画は実現せず駅名だけが残った。

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この大泉学園駅の北を東西に走る都道24号線大泉街道はかつての清戸道である。清戸道(きよとみち)は江戸時代に江戸の街と清戸(現在の清瀬市)を結ぶ街道で、当時尾張藩の鷹狩場が清戸にあったので発展したと言われる。実際は江戸への野菜の供給ルートとして発展したことは間違いないだろう。村人は江戸に作物を運び、江戸で堆肥を集めて持ち帰り肥やしにしたようだ。

日蓮宗の妙延寺の創建は永禄11年(1568)であるから街道が出来る以前の古道の時代からあったのだろう。山門脇の大銀杏は樹齢400年以上とされているから、創建間もなく植えられたものである。

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本堂の左手に題目塔がずらりと並んでいる。一番左の題目塔は高さが2.6mもあり、造立年は文化6年(1809)10月とある。その隣は庚申塔でこれば別述する。三番目の題目塔は文久4年(1864)2月のもの。その右は天保9年(1838)の題目塔、さらに右の駒型の石塔も題目塔で、こちらは天明6年(1786)2月の建立である。一番右の題目塔は文化3年(1806)正月の紀年が入っており、「武刕豊嶋郡土支田村」の銘がある。

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左から二番目の駒型の庚申塔はここでは異質のものだが、造立年は大正9年(1920)11月と新しいもの。バランス的に青面金剛がとても大きく、青面金剛の下に三猿があるだけのシンプルな構図になっている。左側面に紀年と山田宏次という願主名がある。

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祠の右には3基の石仏があり、左端は櫛型角柱型の地蔵菩薩で昭和40年(1965)と新しいもの。中央は剥離がかなり進んでいるが資料によると文化6年(1809)の馬頭観音。右側面には「右しらこ道」左側面には「左堀之内道」とある。右端の石塔も馬頭観音で昭和40年(1965)10月の造立。これは中央の馬頭観音の再建というか補佐的な目的で造られたようだ。

場所  練馬区東大泉3丁目16-5

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2022年12月31日 (土)

加藤家の馬頭観音(練馬区東大泉)

現在の住居表示は練馬区東大泉だが、明治時代は北豊嶋郡大泉村上土支田字中村だろうか。大泉学園駅の近くに1000坪近い敷地の加藤家がある。この辺りにはかつての豪農の宅地がまだ残っているようで同じ規模の邸宅が複数残っている。とはいえ加藤家も敷地内にマンションを建てたりして余計な課税を防いでいるようだ。

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邸宅の門が複数あるがこちらが正門だろうか。その脇の道路際に一基の馬頭観音が祀られている。かつての練馬は都心の台所と言えるような食物の供給地であったから、牛馬に載せてくる日も来る日も都心へ野菜を運んで行ったのだろう。

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現在も馬頭観音にはきれいな仏花が供えられていて、先祖からの感謝を続けているようだ。櫛型角柱型の馬頭観音は上部に馬頭観音を浮き彫りにして、その下に文字が刻まれているが風化していて読み取れない。中央に「馬頭観世音」とあるが、紀年などは▢▢元年▢月と肝心な数字が分からない。おそらくは大正元年(1912)だろうから、そうすると8月以降ということになる。側面には「願▢ 加藤源▢」と刻まれている。

場所  練馬区東大泉1丁目27-35

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2022年12月30日 (金)

笠松墓地の庚申塔(練馬区石神井町)

西武池袋線石神井公園駅から石神井池に向かう途中、右手に笠松墓地がある。訪問時は入口が施錠されていて中に入ることが出来ず、遠くからの確認になってしまった。

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古い地図を見るとこの場所には寺のマークが付いている。大正時代になるとそのマークは墓地のマークに変わっている。つまり明治時代まではここに寺院があったということだろうか。大正4年(1915)に武蔵野鉄道(今の西武池袋線)が開通してから随分と変化したようだ。いろいろ調べてみたが明治時代以前にあったであろう寺院については分からない。

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遠目の撮影になってしまったが、左端はかなり摩滅の進んだ不動明王か。次は小さな駒型の庚申塔で、正面に「庚申塔」、側面に明治15年(1882)4月の造立年が見える。その隣は背の高い笠付角柱型の庚申塔。この辺りから資料を参考にしているが、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、こちら側の側面には元禄7年(1694)11月の造立年が見える。向こう側には「奉庚申供養 武列豊嶋郡下石神井村」とあるようだ。その向こうには舟型の自走菩薩、先突角柱型の巡拝塔で宝永5年(1708)のものなどが並んでいるようだ。再訪時確認してみたい。

場所  練馬区石神井町3丁目9-19

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2022年12月29日 (木)

宗念寺の石仏(葛飾区細田)

葛飾区細田は江戸時代から明治にかけては南葛飾郡奥戸村で細田と奥戸新田を含むエリアが昭和になって細田となった。慶長年間(1596~1615)に紀州熊野の細田氏がこの地を開墾したという説や、小さな区画の田んぼが多かったからという説があるらしいが、古くは室町時代から人が暮らしたことが分かっている。

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宗念寺は信州大谷派の寺院で、寛永5年(1628)の創建とされる。真宗大谷派というのは京都の東本願寺を本山とする浄土真宗の宗派であるから始祖は親鸞である。雰囲気のある山門をくぐると正面に本堂がある。

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山門の先に面白い石仏があった。葛飾区の資料では荒神面(こうじんめん)としている。荒神面は三宝荒神ともいい、仏法僧の三宝を守護する神とされるが、仏教と神様が混じっている日本らしさがある。怒りの形相だが、不浄を忌み火を好むことからかまどの神様として祀ることが多いらしい。造立年などは不明である。

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宗念寺は駐車場に無縁仏群がある。珍しいパターンである。その中にひときわ大きな舟型光背型の阿弥陀如来像がある。造立年は寛文12年(1672)頃とされている。実は3名の戒名があり、清徳道安大禅定門が寛永6年(1629)5月没、清月妙意大禅定尼が寛文12年(1672)2月、涼竹鏡清大禅定尼が寛永19年(1642)5月没となっていることから、寛文12年頃の造立と推定。

場所  葛飾区細田4丁目15-1

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2022年12月28日 (水)

鼎(かなえ)地蔵(葛飾区鎌倉)

葛飾区鎌倉に「かなえ通り」という道があり、京成本線の踏切には鼎地蔵なる場所がある。かつてのかなえ通りは上下之割水(小岩用水)が流れていた水路敷でここには鼎橋という橋があったようだ。今は水路ではなく線路を渡る場所になっている。

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左にある巨大な燈籠は葛飾区周辺でしばしば見かけるタイプ。説明の石標があり、「本燈籠は寛延4年(1751)伊予大川藩加藤家六代藩主が将軍吉宗の菩提を弔うために寛永寺に奉納したもの。昭和40年(1965)に鎌倉4丁目の田邊氏が寛永寺より譲り受け自宅に置いていたものを鎌倉地区の文化財としてこの地に移設した」と書かれている。将軍の菩提を弔う大燈籠は結構あちこちで見かける。

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しかし鼎地蔵としての主役はこちらの2基の石仏だろう。左は高さ1.5mほどもある舟型光背型の地蔵菩薩像。造立年は寛文3年(1663)9月と古いものである。「奉造立地蔵菩薩一尊庚申講の供養二世安楽悉当成仏也」とあるので庚申講中によるものである。「武刕葛飾・・」という文字もある。右の笠付角柱型の石仏は庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄に、尊像が左手にショケラを下げている。造立年は安永6年(1777)9月で、右側面に「右 江戸みち 奥戸渡し迄半道 橋向左リ矢切渡しみち」という道標が刻まれている。

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大きな地蔵の左袖に小さな舟型の地蔵があった。紀年等は不明だが、「為閑心院権少僧都広年和尚  遭難者諸精霊菩提」とある。一体何を弔ったものだろうか。

場所  葛飾区鎌倉3丁目46-5

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2022年12月27日 (火)

輪福寺の地蔵(葛飾区鎌倉)

葛飾区鎌倉にある輪福寺は真言宗の寺院。創建は寛永2年(1625)と古いが現在はこじんまりとした雰囲気の寺院である。大正時代の頃まではほぼ田んぼで鎌倉新田と呼んでいた。

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寺の山門脇に煉瓦造りの立派な龕室(がんしつ)があり、中には丸彫の地蔵菩薩立像が祀られていた。見る限りでは造立年等は記されておらず、雰囲気的には江戸時代はおそらく間違いないだろうと思われた。

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輪福寺の裏手には柴又用水の下流域を潤す小岩用水が流れており、新田開発の苦労が沢山の用水路の掘削からわかり、かつそれが近現代になると道筋となって残っている。

場所 葛飾区鎌倉3丁目46-17

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2022年12月26日 (月)

浄光院の石仏(葛飾区鎌倉)

葛飾区鎌倉にある浄光院は真言宗の寺院で、創建は永禄年間(1558~1569)と伝えられる。近年無住の時代もあったらしいが、本堂も再建されきれいな寺院であった。

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山門を入ってすぐ右手にいくつかの石仏石塔が並んでいるが、そのうちのひとつが舟型光背型の地蔵菩薩像である。大きく刻まれた造立年は文化3年(1806)7月とある。台石には「念仏講中」と刻まれている。地蔵菩薩にはくっきりと円光が描かれているが、尊顔は摩滅してしまっている。

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浄光院の創建年代である室町時代末期は鎌倉新田に人が入って開拓が始まった時期にあたるという。墨田区江戸川区足立区辺りには〇〇新田という旧地名が多いが、徳川江戸入城以前は低湿地帯が殆どを占めており、開拓には苦労があったはず。しかし民家がある程度集まると、寺院と神社ができるという日本人らしい村づくりを経て今があることを、静かな境内では感じることができる。

場所  葛飾区鎌倉1丁目31-3

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2022年12月25日 (日)

大珠院の石仏(葛飾区鎌倉)

葛飾区に鎌倉というところがある。諸説あるが元々鎌倉新田という開発でできた土地。相模の鎌倉と直接的な関係はないようだ。もっとも関東には縦横無尽に鎌倉街道が通っているから、鎌倉の地名はあちこちで見かける。現在の柴又街道(都道501号)は金町から江戸川区一之江までまっすぐに伸びているが、その柴又街道沿いに大珠院がある。

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真言宗の大珠院は寛永3年(1626)の創建。写真の右端に暗く写っている宝篋印塔は徳川吉宗の子である徳川宗武が側室の為に建立したものとされる。この寺は宗武の隠居寺だったそうである。五輪塔の手前、道路側に地蔵菩薩が並んでいる。

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背の高い丸彫の地蔵菩薩像は明和3年(1766)3月の造立。台石正面に「奉造立地蔵尊像」と書かれている。総高は2.5mほどもあり大きいが、その右にある舟型光背型の地蔵菩薩像はそれに比べると随分小さい。こちらは寛延3年(1750)8月の造立。施主おくらとあるので女性だろうか。江戸時代の女性は意外に活発である。

場所  葛飾区鎌倉4丁目4-3

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2022年12月24日 (土)

医王寺の石仏(葛飾区柴又)

京成成田空港線の新柴又駅の傍にある薬王山医王寺は真言宗の寺院。創建は応永4年(1407)と古く、当所は薬王寺として創建された。下総国分寺下の薬王寺と呼ばれたが、戦国時代の国府台合戦で罹災し江戸時代に入って医王寺と改めた。

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高架の前に立派な山門があり、その向こうに石仏が見える。もともと江戸時代は江戸川のすぐ近くにあったようだが、大正4年(1915)に現在地に移転している。

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並んでいる石仏の一番左は駒型の庚申塔。日月、青面金剛像が陽刻され、台石に三猿が彫られている。造立年は享保2年(1717)7月。尊像右に「奉新立青面金剛二世安楽祈所」とあり、左側の紀年の下に「同行衆中」とある。隣りのひときわ大きな舟型の地蔵菩薩は紀年が見当たらず、葛飾区の資料では江戸時代のものとしている。尊像脇には「尊像二世安楽 念仏講」「奉造立地蔵菩薩」と刻まれている。右の舟型の如意輪観音像は宝永6年(1709)6月の造立。「奉新造立如意輪観自在尊像 願主施主 二世安楽所」とある。右端の小さな石仏は不動明王像。

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更にその右にあったのが、この角柱型の供養塔。正面には「讃岐国甲山寺写」とあることから四国八十八ヶ所第74番の香川県讃岐国にある甲山寺に因むものか。右側面には寛政4年(1792)7月の造立年の他に「大和国南円堂」とあるが、これは奈良の興福寺にある南円堂(西国第9番)を指していると思われる。甲山寺は医王山甲山寺であるから同じ山号である。

場所  葛飾区柴又5丁目13-6

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2022年12月23日 (金)

題経寺墓地の石仏(葛飾区柴又)

柴又帝釈天の題経寺の墓地は帝釈天の境内ではなく、900mほど南の京成成田空港線の新柴又駅の北にある。境外墓地というものは意外に質素なものだが、この題経寺の境外墓地はなかなか立派な門構えと敷地であった。

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門の中に入ると左手に、浅間山噴火川流溺死者供養碑というものが立っている。天明3年(1783)7月に題経寺の住職主導で建立された供養塔である。武州葛飾郡東葛西領柴又村の銘がある。

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浅間山の天明の噴火は同年7月5日から8日にかけて発生。関東一帯は甚大な被害を受けたが、利根川上流の吾妻川(八ッ場ダムで有名)では山津波と降灰で川が堰き止められた後、決壊して下流は大洪水、死者2000人余りとなった。利根川を流下した溺死体は多数がこの柴又の地に流れ着いた為にその供養のため建てたものである。当時の江戸川は利根川と繋がっていた。

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さらに墓所の方に入っていくと脇に石仏が並んでいる。左の駒型の庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、造立年は享保2年(1717)3月と刻まれている。左側には「奉造立二世安楽所」と書かれている。右の舟型光背型の石仏はどうも菩薩っぽい。寛文9年(1669)9月の造立年が刻まれており、「庭講中」と書かれている。「庭」が何を指すのかは分からない。

場所  葛飾区柴又5丁目9-22

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2022年12月22日 (木)

柴又帝釈天(葛飾区柴又)

フーテンの寅さんで日本人なら誰でもその名を知っている柴又帝釈天。正式には日蓮宗の題経寺というお寺である。創建は江戸時代初期の寛永6年(1629)だが、安永8年(1779)の本堂改築の折に梁の上から日蓮上人の自刻と伝えられる帝釈天像の版木(板本尊)が庚申の日に発見され、柴又帝釈天として有名になった。

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以来発見の日に因んで庚申の日を縁日として、江戸では有名な「柴又の帝釈天」として多くの参詣者がいる寺院となった。二天門も見事で、その正面は本堂ではなく帝釈堂である。本堂は右に並ぶ建物。江戸時代の新編武蔵風土記に描かれた題経寺はもっと質素な感じだが、いつからこんなに豪華になったのだろうか。

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二天門と南大門の間にひっそりと立っていたのがこの帝釈天出現由来碑である。この碑は弘化2年(1845)5月に建てられたもので、前述の由来を漢文で記してある。

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個人的に興味をそそったのはこの草木供養の碑である。東京には8基ほどあるが、その他は殆ど山形県置賜地方に集中しており、全国で170基程度で県外では20基ほどしかないもの。勿論新しいもので、東京造園組合が60周年記念で平成16年(2004)に建立したものである。題字は石原慎太郎(当時の東京都知事)による。

場所  葛飾区柴又7丁目10-3

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2022年12月21日 (水)

真勝院の石仏(葛飾区柴又)

帝釈天の北にある真言宗の寺院が真勝院。相当な古刹で、創建年は大同元年(806)と伝えられ、江戸時代までは柴又八幡神社の別当を務めていた。帝釈天の題経寺は江戸時代初期の創建であるから、真勝院はそれ以前のこの地の中心とも考えられる。

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入口は豪華な山門。その先は真っ直ぐな参道で正面に本堂が立つ。本堂に向かう参道の右手にいくつもの石仏が並んでいる。

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本堂の手前にひときわ目立つ立派な5基の石仏が並んでいる。「五智如来像」といい、密教では大日如来の智慧を5つに分け5仏に充てている。右から、阿閦如来、宝生如来、大日如来、阿弥陀如来、不空成就如来で、中央の大日如来がAKB48ならぬセンターの役目。右に笠付角柱型の石塔があり、万治3年(1660)10月に柴又村の名主済藤次良衛門と相模伊勢原村の鳥居九良佐右衛門らにより逆修供養のために建てられたとある。

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鐘楼の階段の下には廻国供養塔が一基ぽつんと立っている。なんとも不思議な立ち位置である。この供養塔は正面に「奉供養日本廻国六十六部 二世安楽攸」とあり、造立年は享保12年(1727)7月と刻まれている。

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鐘楼の山門側には無縁仏塔があり、綺麗に整列しているが、その最前列にあるのが舟型光背型の六地蔵菩薩。左の2基は後年の再建だと思われるが、葛飾区の資料では江戸時代造立としている。「真言講中」という文字もみられる。

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無縁仏塔の中に異質な雰囲気の馬頭観音があった。新しいもので昭和35年(1960)5月の造立とある。願主名は秋山シンと書かれている。戦後の馬頭観音は意外に少ない。

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無縁仏塔の後ろの方に並ぶ立派な舟型の聖観音像が目に入ってくる。造立年は寛文9年(1669)9月とあり、「奉造立観音尊像念仏▢人▢二世安楽所」と刻まれている。願主名がいくつも刻まれているので、念仏講中によるものだろうか。

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無縁仏塔の右、墓所側に立っていたのがこの大きな舟型光背型の地蔵菩薩像。造立年は削られていて分からないが葛飾区の資料では江戸時代となっている。その他の刻銘なども削り取られた痕跡があり不明。この刻銘を削り取った石仏をしばしば見かけるが、どういう目的で削っているのだろうか。

場所  葛飾区柴又7丁目5-28

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2022年12月20日 (火)

柴又八幡の馬頭観音(葛飾区柴又)

柴又にある柴又八幡神社の創建年代は不詳。その後の発掘(昭和40年頃)で、この神社は6世紀~7世紀の直径20~30mの円墳の上に築造された神社であることが分かった。江戸時代の柴又村の鎮守として親しまれてきた神社である。

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境内には柴又用水の碑などがあり、柴又という土地が微高地であったことから、水の確保が難しく、天保6年(1835)に何とか用水が引かれて状況が改善されたとある。ブラタモリでもキャサリン台風の時ですら帝釈天には水は浸水しなかったとやっていた。

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社殿の左側に複数の祠が祀られているが、その中に一基だけ馬頭観音がある。舟型の馬頭観世音菩薩で、造立年は文化14年(1817)4月。柴又村の銘もあることからこの地のものであろう。

場所  葛飾区柴又3丁目30-24

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2022年12月19日 (月)

良観寺の石仏(葛飾区柴又)

京成金町線は金町から柴又の間、広大な金町浄水場の脇を走る。この浄水場は東京23区、武蔵野市、三鷹市、町田市、多摩市、稲城市に水道を供給している。もっとも都内の水道は各地の浄水場の水が混じっているので、すべてを供給しているというわけではない。帝釈天の北側に浄水場が出来たのは大正15年(1926)だからもうすぐ百年になる。

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浄水場とは京成金町線の線路を挟んだ西側にある良観寺は真言宗の寺院で、創建年代は不詳ながら、室町時代末期~江戸時代初期の間に創建された念仏堂が起こりだとされる。当時は念仏講が盛んになったころである。

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山門をくぐるとすぐに右手に舟型光背型の六地蔵が並んでいる。造立年は文化4年(1802)2月というものと、文化4年7月というものがあった。「先祖代々一切精霊為菩提也」と書かれている。若干大きさと形が違うので、もしかしたら後に集めて六地蔵にされたのかもしれない。後ろに回ってみると一番右のお地蔵様は「1984年8月再建」と西暦で書かれていたが、他の5基は江戸時代のようである。

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山門の脇にある舟型光背型の大きな地蔵菩薩像は文久元年(1861)3月の造立と書かれている。「奉造立延命子育地蔵尊」とあるので、子供がちゃんと育つことを祈願して建立されたものだろう。3人の子どもの戒名があり、嘉永7年(1854)10月、安政3年(1856)12月、安政6年(1859)2月の命日が刻まれていた。

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すぐ近くに在ったこの半跏像も立派な丸彫の仏像である。地蔵なのかそうではないのかは分からない。寛保3年(1743)10月の造立年が刻まれている。明治時代には金町線は「帝釈人車鐡道」と地図に記されている。明治30年(1897)に金町駅が出来て柴又帝釈天への参詣客が急増した。その為敷設されたのだが、車両は1両に6人乗り、現在の軽バンのような大きさで人間が押していたという。

場所  葛飾区柴又3町目3-13

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