2026年10月14日 (水)

スポーツ公園角の庚申(日野市万願寺)

日野市の浅川近くにある浅川スポーツ公園の北東の角に庚申塔がある。庚申塔の下には日野用水の支流がとうとうと流れている。昔はこの辺りは一面の田んぼで、その中を用水路が流れていた。

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庚申塔としてはかなり新しいもので、造立年は昭和48年(1973)4月とある。紀年の脇には「三角庚申待講」という文字がある。三角は「ミスミ」ではなく「サンカク」と読むらしい。由来はわからない。辺りに三角点があるわけでもない。

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庚申塔は櫛型角柱型で正面には「庚申塔」の文字がある。側面には由来が刻まれており、ここが三角という地区で先人が開拓をして農地にしたという話が書かれている。そして「再建した」とあるので、昔は古い庚申塔が立っていたのだろう。石川博司氏の史料を見ても昭和48年の庚申塔とあるので、それ以前であったことは間違いないだろう。

場所 日野市万願寺5丁目3番地先

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2026年10月11日 (日)

浅川堤庚申(日野市石田)

浅川は多摩川の最大支流である。全長約30㎞、陣馬高原を源頭にしてかつての甲州街道沿いに下る。というより甲州街道が浅川沿いに通ったというほうが正しい。石田の新井橋で浅川に注ぐ日野用水のひとつ、その暗渠上に庚申塚がある。

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丸石で築かれた立派な土台の上に、庚申塔が2基と庚申講記念碑が立っている。右の庚申講記念碑は自然石を削ったもので、裏側には「万願寺区画整理に付移転」とあり平姓の9人の名が刻まれている。建立は平成3年(1991)11月とある。左の2基は古い庚申塔である。

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左の笠付角柱型の庚申塔は前面がかなり剥離してしまっている。文字も読めないので造立年などは不明。石川博司氏の情報を見ても、「新井 西耕地路傍」としかない。右の大きいほうは角柱型の庚申塔で、正面に「庚申塔」の文字、裏に嘉永6年(1853)11月の造立年があり、「両組講中」とある。両組は新井と西耕地だろうか。台石にはかつて三疋申の文字があったらしいが、全く痕跡もない。

場所 日野市石田2丁目7番地先

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2026年10月 8日 (木)

石田寺の石仏(日野市石田)

NHKの『ダーウィンが来た』でおなじみの多摩川トライアングル、そのすぐ手前にあるのが真言宗の石田寺(せきでんじ)。石田の地名の由来は、多摩川と浅川の合流点にあって、洪水が頻繁に起こり、河原石が大量に田んぼに流れ込み、石がゴロゴロした田んぼであったことが元になっている。

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また石田は幕末の新選組土方歳三の故郷。石田地区の大きな家の多くは土方姓である。集落には日野用水の支流が張りめぐらされ、水害と闘いながらも農地を守ってきた様子がうかがえる。石田寺には土方歳三の墓所がある。

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墓所の最奥に無縁仏塔があり、その脇に自然石の馬頭観音がある。「馬頭観世音」と書かれ、造立年は平成2年(1990)2月と新しいものである。無縁仏塔の辺りには朽ちた庚申塔があったようだが見つからなかった。

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無縁仏塔の後ろに複数並んでいる古い地蔵のひとつに「庚申」の文字がある。「奉造立地蔵尊」「庚申講中」「石田村」の文字があるが造立年などは確認できない。首は近年加えられたもののようである。以前は石田寺の手前の民家の塀に庚申塔があったらしいが、現在は新しい戸建てが複数建っており、残されていなかった。

場所 日野市石田1丁目1-10

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2026年10月 5日 (月)

東浦地蔵尊(日野市万願寺)

多摩モノレールは極めて高い位置を走るので景色がいい。遠くの山並みもみられるし、天気が良ければ富士山もよく見える。立川から南下して3駅目、京王線高幡不動から北上して次の駅が万願寺駅である。開業は平成12年(2000年)である。万願寺駅のすぐ脇にあるマンションの駐車場の一角に地蔵堂がある。

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覆屋の軒下に「東浦地蔵尊」と書かれた一枚板がある。中を覗いてみると、多数の石仏、庚申塔や地蔵菩薩が並んでいる。昔の地名では地蔵堂の辺りが万願寺、日野バイパスの南側が新井で、東側が石田、万願寺の西が下田という字名になっている。実は万願寺という寺院は周辺には存在しない。江戸時代初期は万願寺の渡しで多摩川を渡り、現在のモノレール沿いに北西へ甲州街道が通っていた。

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堂内の右側には丸彫の地蔵菩薩像が沢山あるが、どれも時代は新しそうである。しかし人形(ひとがた)に似ているので今も庚申塔などに比べて地蔵菩薩はより祀られている感じがする。それぞれの造立年などは読み取れなかった。

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左側には笠付角柱型の庚申塔がある。日月、青面金剛像、三猿が描かれ、宝永4年(1707)2月の造立年が刻まれている。側面には蓮葉が描かれている。左の小さな祠風の石塔の台石には「申、申、申」の文字がある。台石なので、この石祠が庚申と関係するのかどうかは分からない。石祠は安永3年(1774)の造立で、「奉再造立」「女念」の文字があるので、再建もの。

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堂内の左隅にあったのは角柱型の庚申塔である。正面には「庚申供養塔」の文字。台石には三猿が印刻されている。造立年は文化10年(1813)10月で「當村講中十人」の文字がある。

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堂宇の外側にあったのは、自然石の馬頭観音。大きな自然石に「馬頭観世音菩薩」の文字と、文政2年(1819)2月の造立年が彫り込まれている。ブロック塀の隅にあるのは、角柱型の庚申塔。日月に「青面金剛塔」の文字があり、寛政4年(1792)9月の造立年と「當村講中」の文字がある。

場所 日野市万願寺4丁目2-2

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2026年10月 2日 (金)

大坂上の庚申塔(日野市大坂上)

JR中央線日野駅は段丘の際に作られた駅である。かつては段丘の上にあったが、昭和12年に少し北寄りの段丘の下に移動した。その為、現在は改札を入るとホームまでかなりの登りになる。ホームに出るとロータリーを見下ろすが、甲府方面にホーム上を進むと両側の土地がホームの高さになる。

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西側の坂の上は崖の中腹という感じで、さらに数十m上まで崖線が見える。その中腹に「加組」と書かれた倉庫があり、その手前に庚申塔が並んでいる。この倉庫はおそらく祭りの神輿のようなものを格納しているのだろう。レールらしきものがコンクリートの床面に埋め込んである。

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いちばん奥にある高い角柱には「高幡山八十八箇所」とある。明治43年(1910)3月に建てられたもの。高幡不動と関係がありそうである。右側の笠付角柱型の庚申塔は、日月、青面金剛像、三猿の図柄。造立年は宝暦10年(1760)3月と刻まれている。

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3基の庚申塔の中央にある笠付角柱型が一段大きく、これも日月、青面金剛像、三猿の図柄。元禄7年(1694)7月の造立年があり、「奉造立庚申」の文字と、側面の蓮葉が特徴。下部に願主名が多数刻まれている。右の笠付角柱型の庚申塔は、宝暦11年(1761)4月の造立で、日月、青面金剛像、三猿が描かれている。側面に「庚申供養塔」の文字がある。

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一番道路側にあったのは櫛型角柱型の馬頭観世音菩薩。「3月」の文字は読めるがそれ以外は判別できない。この石仏群を見ていると、私より一回りほど上の女性に声を掛けられた。ここにある庚申塔は昔は山の上や他の場所にあったのを、母たちが集めてここにまとめたのだという。おそらく大正時代以前のことだろう。この場所を古地図で見ると、ちょうど甲州街道の急坂にあたる。坂下と坂上では30mほどの高低差がある。村人が旅人の往来のある甲州街道脇に石仏を集めたのだろう。坂を上ってきた旅人は、坂下地蔵堂とこの庚申塔にお参りをして、次の大和田へと歩いたに違いない。

場所 日野市大坂上1丁目19-2

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2026年9月29日 (火)

坂下地蔵堂(日野市日野本町)

日野駅の南西側、中央本線の線路わきに建つ坂下地蔵堂は、日野宿の西の端にあたることから西の地蔵と呼ばれている。堂宇の前には、2体の地蔵と六地蔵、その他石仏が並んでいる。

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戦前まではこの坂下地蔵堂の前の道が甲州街道であった。日野宿から南に折れて大坂という名のこの急坂を上っていた。大坂は甲州街道を西進する時に最初の難関として知られていた。鉄道が開通した時代には地蔵堂の先に日野駅があったが、昭和12年(1937)に坂下の現在地に移転した。

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石仏の左端は背の高い丸彫の地蔵菩薩立像が2基立っている。左側は享保5年(1720)10月の造立で、「日本廻国六十六部」とあるので回国供養塔としての地蔵である。隣は、元文2年(1736)11月の造立である。戦前から旅人を見守ってきたのだろう。

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その横には間隔をあけて六地蔵が5体並んでいる。1基足りないと思ってみると後ろに頭部欠損した1基が横を向いて立っていた。三好朋十氏の『武蔵野の地蔵尊ー昭和47年刊ー』にもさらりと六地蔵とだけ記載がある。

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さらにおそらく櫛型角柱型と思われる石塔があり、正面には「日本回国供養塔」とある。造立年は不詳。側面には「須崎村飯田」の文字がある。「須崎村」で調べてみると、江戸本所の須崎村(今の墨田区向島辺り)、静岡県下田の須崎村、あとは高知県須崎市、石川県金沢市、岐阜県白川町、岩手県遠野市に須崎村がある。距離的には江戸だろう。

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さらに隣には同じく櫛型角柱型の地蔵菩薩がある。造立年は文化4年(1807)と側面に書かれており、「日野宿百万遍女講中」の銘がある。日野宿ほどの大きな宿場では百万遍などの講中が沢山あったのだろう。他地区に比べて、日野には石仏が多く残っている。

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最後は舟型光背型の庚申塔である。日月、青面金剛像が判別できるがそれ以外は分からない。造立年の部分が欠けているので年不詳だが、「2月」という文字は読めた。坂下地蔵堂は創建当初は旅人の休憩所としても使われていたが、明治末期に焼失し、昭和7年(1932)に再建された。

場所 日野市日野本町3丁目5-1

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2026年9月26日 (土)

日野宮神社の石仏(日野市栄町)

日野市栄町にある日野宮神社は創建年代不詳。日野の地名の由来となった日奉宗頼が武蔵国の国司となり、その子孫が祖先の霊を祀って日野宮権現としたと伝えられる。この地は江戸時代は多摩川の河岸であったようだ。

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この辺りは昔は四ツ谷と呼ばれた土地で、うなぎを食べない伝説は別述したが、この神社でお祀りしている虚空蔵菩薩の召使がうなぎとされていることと関係があるのかどうかは不明。

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本殿の向かって右側に新調された覆屋があり、この辺りにあったという石仏や石塔を集めてある。右後ろの大きな石板(昭和47年建之)に書かれていたのは「江戸時代より前、武田家の家臣であった、天野、加藤、小島、宮原が当地に移り住み、四つの家があったことから四家、四屋などと呼ばれ、やがて四ツ谷となった」という言伝え。

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左端にあるのは笠付角柱型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。造立年は寛保元年(1741)11月で、説明板の施主名は加藤、小島、天野、谷津とある。宮原の姓はなかった。

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庚申塔の後ろに詰め込むように置かれているのはおそらく3基とも馬頭観世音菩薩である。左奥は全く見えず詳細は不明。右の角柱は馬頭観世音の文字と、天保5年(1864)正月の紀年がある。手前の中折れ補修したものも馬頭観音で、こちらは明治18年(1885)1月の造立年が刻まれている。

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隣にあるのは笠付角柱型の庚申塔だが笠は欠損している。日月、青面金剛像は見えるが、それ以外は不詳。説明板には元禄14年(1701)11月の造立年と、天野、加藤、佐藤姓の名前がある。右隣りの背の高い石塔は石橋碑とある。嘉永3年(1849)仲秋の建之で、世話人名は加藤、天野、谷。常に人に踏みつけられている石橋を供養すると、悪いものが村内に入ってくるのを防げると信じていたようだ。

場所 日野市栄町2丁目27-19

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2026年9月23日 (水)

四ツ谷の石仏(日野市栄町)

中央本線より西側にある日野市栄町は昔、4軒が固まって住んでいたところから、字名を四家と呼んでいた。 それが後に四ツ谷と呼ばれ、かつてはこの一帯は水田が開けていたという。「四谷」の地名は、江戸時代中期からの村方文書などによると、四姓(天野、加藤、小島、宮原)の家から始まり四家、四屋とも呼ばれていた。

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水田の名残りとして覆屋の前を用水路が流れている。水量は比較的多い。四谷にはうなぎ伝説がある。昔多摩川で大洪水があり堤防が決壊しそうになった。その時うなぎが堤防に張り付き固まりになって洪水から村人を守ってくれた。以来この辺りの人々は感謝と加護を思う心を込めて現在でもうなぎを食べない家が多いという。なかなか面白い。

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左端にあるのは角柱型の大きな庚申塔。正面に日月と「庚申塔」の文字があり、側面には天保15年(1844)9月の造立年がある。基壇には三猿がかすかに残り、側面には講中の文字がある。右隣りは笠付角柱型の庚申塔で摩滅剥離がかなり進んでいる。日月、青面金剛像は見えるが下部は分からない。造立年は宝暦7年(1757)10月、宝暦以下は資料による。

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右の2基は丸彫の地蔵菩薩立像。左側は文字がなく造立年も不詳。右の背の高い地蔵は基壇に文字がある。造立は享保15年(1730)3月で、施主は日野四ツ谷の念仏講村中と記されている。施主名には天野姓があり、四ツ谷の中心人物だったのだろう。

場所 日野市栄町1丁目20-1

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2026年9月20日 (日)

北原路地の庚申塔(日野市日野本町)

かつて立川から日野の渡しで多摩川を渡り、日野宿までの田んぼの中の街道を旅人が歩いた(逆もあり)。この日野宿の北側の広い地域を江戸時代から北原と呼んでいた。今は立日橋から広い都道が走っている。そんな北原の路地裏に小さな石仏が祀られている。

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民家の塀の凹みに石仏が並んでいる。さりげない感じがとても良い。この辺りは明治時代には日野宿を挟んで南北に民家が広がってその北の端に位置していた。今も路地の間に用水路が開渠で流れている。

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左端は舟型光背型の地蔵菩薩の庚申塔である。地蔵菩薩立像の足元には三猿がいる。造立年は元禄11年(1698)11月と意外に古いものであった。「庚申供養」の文字が見えるがあとは摩滅して読めない。右側面には4名の願主名がある。中央は舟型光背型の馬頭観世音菩薩。文字は摩滅して全く読めない。右端は地蔵菩薩像らしいが下部しか残っていない。

場所 日野市日野本町4丁目25-7

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2026年9月17日 (木)

とんがらし地蔵尊(日野市日野本町)

日野本町あたりは昔は北原村と呼ばれる土地だった。甲州街道の裏道にある欣浄寺の幼稚園の角に堂宇があり、いくつかの石仏が祀られている。堂宇には「北原とんがらし地蔵尊」と書かれた扁額が飾られている。

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堂宇内にあるのは丸彫の地蔵菩薩立像が1基で、他は堂外にある。このとんがらし地蔵は昔から信仰され、特に眼病にご利益があり、別名をヤンメ地蔵というらしい。病に眼でやんめだろうか。沖田総司もこの地蔵を祈ったらしい。説明板によると、基壇正面に「北原村 施主道白」とあり、明和3年(1766)5月の造立。とんがらしが供えられていた。

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堂宇の脇には、「北原本道り改修記念」と書かれた碑が立っている。昭和39年(1964)3月の新しいものである。東京オリンピックのタイミングで道路工事が行われたのだろう。その傍には3基の庚申塔が立っている。

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左から、駒型の庚申塔で日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。宝暦6年(1756)11月の造立で「講中10人」とある。中央の笠付角柱型庚申塔は、宝暦5年(1755)2月の造立、「庚申講中7人」の文字があり、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されている。右も笠付角柱型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。造立年は明和4年(1767)4月で「講中7人」とある。

場所 日野市日野本町4丁目16-25

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2026年9月14日 (月)

日野医院裏の石仏群(日野市日野本町)

甲州街道にある日野医院の脇道を北に向かって入ると、道は東にカーブしてやがて普門寺に出る。このカーブのところに石仏が並んでいる。米倉家の一角に並んでいるのは3基の庚申塔と1基の馬頭観音である。ちなみにここの米倉氏は1964年の東京オリンピックで聖火ランナーを務められたらしい。

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野ざらしの割には保存状態がとても良い。裏道なので排気ガスなどに触れることが少ないからだろうか。左の3基が庚申塔である。ちなみにこの辺りは昔は北原村と呼ばれる土地で、村内にあった石仏を集めたのではないだろうか。

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一番左は、舟型光背型の庚申塔で、日月は欠損の為か見えないが、青面金剛像と三猿が見て取れる。造立年は元禄13年(1700)1月とある。隣は笠付角柱型の庚申塔で、日月、青面金剛像、三猿が描かれている。側面に明和3年(1766)5月の造立年が刻まれていた。

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その隣はおそらく舟型光背型と思われる庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄である。造立年は元文2年(1737)で月の部分が欠けていて確認できない。右端の舟型光背型は馬頭観音である。文字がほとんど見えないので造立年も分からない。

場所 日野市日野本町4丁目11-1

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2026年9月11日 (金)

普門寺の石仏(日野市日野本町)

日野市日野本町にある普門寺は真言宗の寺院。創建は室町時代初期の応永5年(1398)らしい。室町時代は日野宿の本宿にあったが、元亀元年(1570)に現地に移転したという。足利義満の室町幕府のピークに創建され、織田信長全盛期に移転したという古い話である。

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参道が道路にほぼ並行している不思議な位置関係だが、この道路そのものが元は参道だったと考える方が自然だろうか。入口に地蔵があり、健康長寿地蔵とされているがこれは平成になってからの新しいもの。

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参道を進むと本堂があり、立派な松が目に入る。本堂は再建されて新しい。現在は普通の広さの寺院だが、明治初期の廃仏毀釈で弾圧を受けて狭くなった。寺は日野小学校の校舎校庭にされてしまい、行政に乗っ取られる状態となったが、のちに寺として復活したという。本堂の左手を進むと墓所に入るが、その入口に石仏が並んでいる。

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右端の2基については全く分からない。その隣の舟型光背型の地蔵菩薩立像は延宝2年(1674)で「逆修」の文字があることから生前供養に建てられたものと思われる。市内で一番古い地蔵菩薩像らしい。その隣の摩滅著しい石仏は、笠付角柱型の庚申塔。まったく読み取れないが、石川博司氏の情報だと、合掌の阿弥陀如来像と三猿が描かれており、三猿は三面にそれぞれあったらしい。笠の上に載っている擬宝珠のようなものは何だろうか。小幡晋氏の『多摩の庚申紀行』には、「武州多摩郡日野領〇〇石井〇右衛門」の銘が記録されている。

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左隣には形の残っている笠付角柱型の庚申塔。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、宝暦9年(1759)の造立。文字は読めないが前述の石川氏の情報に基づいた。その左隣の石仏は上部が欠損しているが、青面金剛像と三猿が判別できるので庚申塔である。駒型なのか舟型なのかは不明。造立年も不詳である。

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隣のゼニゴケ満載の石仏は駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、三猿が見える。「庚申供養一基」の文字があるらしい。造立年は元禄7年(1694)。上の写真の真ん中も庚申塔だが上部欠損で型は不明。青面金剛像、三猿が見られる。造立年は読めないが、延享4年(1747)らしい。左端も実は庚申塔の下部で、青面金剛・三猿が分かるが、造立年は不明。

場所 日野市日野本町7丁目5-19

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2026年9月 8日 (火)

大昌寺の石仏(日野市日野本町)

日野宿にある浄土宗の寺院大昌寺は慶長7年(1602)の創建。徳川家康が江戸に来て間もなくできた寺である。日野宿は甲州街道の中でも大きな宿場で、日野用水の開削は永禄10年(1567)と伝えられる。つまり、玉川上水は承応2年(1653)なので86年も前に日野用水は出来ていた。まだ小田原北条氏の支配下で、斎藤道三の家来が美濃から流れてきて、この地で帰農した佐藤隼人によるもの。

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大昌寺の参道は日野用水の南側を並行して山門に向かう。参道の東側は日野第一小学校である。この参道の入口脇に石仏がある。

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左右の石仏は不詳。真ん中は笠欠の角柱型庚申塔で、もしかしたら左にあるのがその笠なのかもしれない。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており、「施主 中宿12人」の銘がある。造立年は延享2年(1745)3月と書かれている。

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山門をくぐると左手に地蔵が並んでいる。奥の六地蔵はそれなりに時代がありそうだが、文字が見当たらずいつのものかは不明である。また手前にも丸彫の地蔵が1基と、後ろに2基の石仏、手前に角柱型の珍しい六地蔵がある。

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角柱型だが上部に仏形が残る。前面に1仏、左右に2仏ずつ、裏側は後ろの石仏が迫っていて確認できなかった。造立年は明和7年(1770)6月とあり、願主21人と書かれている。角柱にこのような形で六地蔵が彫られているものは極めて珍しい。

場所 日野市日野本町2丁目12-13

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2026年9月 5日 (土)

東の地蔵(日野市日野)

日野本宿の東、警察署の手前の丁字路は古い甲州街道と、さらに古い甲州街道との分岐である。江戸時代の貞享元年(1684)、それまで使われていた万願寺の渡しが流程変化により廃止となり、代わりに日野の渡しが設置された。かつての国道20号線が開通するまでは、北に折れて日野の渡しを通るのが大正末期までの甲州街道である。

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立日橋に向かって北に折れてすぐに道路の東側に小さな墓所がある。その墓地の南端にあるのが東の地蔵(別名福地蔵)である。地蔵の手前には比較的大きなくし形角柱型の馬頭観音が立っている。「馬頭観世音菩薩」の文字があり、造立年は文化8年(1811)3月と刻まれている。馬頭観音と街道は切っても切れない関係。

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奥の覆屋に収まる丸彫の地蔵菩薩坐像が東の地蔵。基壇の正面には「地蔵尊」の文字があり、造立年は明治38年(1905)10月と書かれている。地元の地図では福地蔵とある。東の地蔵という名前は日野宿の東の入口にあったことから付いた名前で、福地蔵というのはもともとこの地蔵を祀った下河原の人々の呼び名のようだ。この地蔵の台座は再建ものらしく、江戸時代には別の福地蔵があったという。地蔵本体が再建かどうかは分からない。

場所 日野市日野1621

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2026年9月 2日 (水)

下河原観音堂(日野市日野)

日野バイパスが開通して国道から都道になってしまった甲州街道。日野警察署の少し北東の向かい側に頑丈な観音堂が建っている。下河原観音堂と呼ばれているが、江戸時代の甲州街道からは少し外れている。この辺りは下河原という集落で、少し西からが日野宿であった。この観音堂は昔は今朝島地蔵堂と呼ばれていたようだ。

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堂宇の周りにはいくつかの石仏が祀られている。左側には六地蔵とおもいきや、5体の丸彫地蔵が並ぶ。造立年などは不明。その手前の地蔵と馬頭観音の方が由緒はありそうだ。

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左の駒型の石塔が馬頭観音。正面には「馬頭観世音」の文字がある。造立年は大正12年(1923)11月で、施主は大野氏とある。右の舟型の地蔵菩薩は年代は摩滅していて読み取れないが江戸時代後期だろうか。「寒念仏供養」の文字がある。

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堂宇の裏手に回り込むと、大きな角柱型の馬頭観音が祀られている。新しいもので、正面には「馬頭観世音菩薩」の文字。基壇には「講中」とあり、願主名が多数刻まれている。造立年は昭和4年(1929)3月の建之とある。

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堂宇の中だが、頑丈に戸締りされており穴からのぞくのが精いっぱい。中にあるのは、石川博司氏の史料によると、角柱型の庚申で、日月、青面金剛像、邪鬼が陽刻されているようだ。側面に二十三夜講中の文字があり、宝暦7年(1757)11月の造立。左に少しだけ見えているのも角柱型の庚申塔で、「庚申供養塔」の文字と三猿があるらしい。造立年は安永3年(1774)11月とのこと。もっとしっかり見たいがこれが限界だった。

場所 日野市日野1501

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2026年8月30日 (日)

古甲州街道の庚申(日野市日野)

日野市にあった雪印メグミルク工場は会社の不祥事で事業をたたまざるを得なくなり、50年間の営業が2014年に終了した。現在は食品関係の配送センターになっており、日野自動車工場も閉鎖されて、日野市全体が少し沈んでしまった雰囲気は否めない。そのかつての雪印メグミルク工場の跡地の近くの路傍に自然石の庚申塔がある。

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アパートの駐車場の隅切りの部分に電柱と共存するように立っている自然石の庚申塔は、正面に「庚申塔」の文字があり、脇に「万延元年(1860)8月」の造立年が刻まれている。住宅街の一角で、なぜこんなところにあるのかいささか不思議な気がした。

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調べてみると、工場跡とこの住宅街の間のまっすぐな道は江戸時代の初期の甲州街道であった。江戸幕府を開いた頃は府中宿を出ると国立の青柳村から万願寺の渡しを通ってここがその途中だった。貞享元年(1684)に多摩川の流路の変化から、上流の日野の渡しに代わったことで、立川の柴崎村から日野宿への筋が甲州街道に代わったのである。しかしこの庚申塔は街道変更から2世紀も後のものなので、街道にあったものではないが、江戸時代末期もこの道は普通に使われていたことが分かる。

場所 日野市日野1573-1

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2026年8月27日 (木)

普済寺墓地の石仏(立川市柴崎町)

普済寺は鎌倉時代の立川氏の館城跡に創建された寺院だが、境内の東側では立川氏の館城跡が発掘されており、長さ40m高さ2mの土塁に囲まれていた中世の館城だった。また境内の北側には首塚と呼ばれる塚があり、この首塚の辺りを明治初期に開墾していたところ、多数の板碑が発見されたという。

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普済寺の広い墓地の西側に古い石仏が集められている場所がある。写真の奥の方にあるのが普済寺の本堂である。雨ざらしなので傷みは激しい。その為、情報については資料に頼るところが大きい。

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左の端にあったのは2基の馬頭観音。どちらもくし形角柱型で、左の馬頭観音が草書体、右が楷書体で書かれている。左の馬頭観音は明治11年(1878)9月の造立で、正面には「馬頭観世音」と紀年、施主名の中島長蔵の銘がある。右の馬頭観音も正面は「馬頭観世音」、明治10年(1877)10月の造立年と、「石川半治郎立之」の文字がある。

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横並びにある多数の石仏のうち左端から2番目のこの右上に延びたタケノコのような石仏は実は笠付角柱型の庚申塔である。資料によると享保年間のもので、右側面には「祈願中村」とあるらしい。石川博司氏の情報を確認すると、享保15年(1730)の造立とある。立川市の史料の古い写真ではちゃんとした笠付角柱型の庚申塔で、日月、青面金剛像、三猿が陽刻されていた。左側の上部にゼニゴケの付いた石仏は、その古い写真でも上部が欠損していて詳細は不明だが、見た感じは聖観音っぽい。

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庚申塔の右は舟型光背型の地蔵菩薩立像。寛文9年(1669)12月の命日が刻まれているのでここでは最古だが墓石の可能性が高い。施主は中村平右衛門。右の丸彫の地蔵菩薩立像は岩船地蔵と呼ばれるもの。享保4年(1719)9月の造立で、「岩船光瑞鮮・・・」「岩船地蔵念仏供養」などの文字がある。「柴崎村馬場」の銘がある。

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右端の2基も丸彫の地蔵菩薩立像。大きいほうは享保11年(1726)4月の造立。正面には「念仏供養」、側面には「新屋敷南北講中」の文字がある。新屋敷というのは古い地名で、近年は使われていないらしい。右の地蔵菩薩立像にも「新屋敷南北講中」の文字があり、造立は天明8年(1788)4月である。

場所 立川市柴崎町4丁目20-46

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2026年8月24日 (月)

歴史民俗資料館の石仏(立川市富士見町)

立川市富士見町の河岸段丘上を走る奥多摩街道から坂を下って、段丘下にある歴史民俗資料館に向かう。段丘は自然が豊かで、湧水があったりする。ここの崖線は立川崖線と呼ばれ、10m~13mの高低差がある。

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段丘下の歴史民俗資料館は入館無料。アクセスが不便なので訪問者は極めて少ない。くにたち郷土文化館も同じで、もう少しアクセスのいいところにあってほしいが難しいのだろう。資料館の建物に入るとすぐに普済寺の国宝の六面幢のレプリカが存在感を持って立っている。その傍には、普済寺の60枚以上あるという板碑のうち3枚が展示されている。

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中庭を回るといくつかの石塔がある。上の写真は自然石の道標で、紀年は分からないが江戸時代ものとされている。「右 はいしま 五日市」「左 甲州道中」の文字があり、柴崎にある体育館の辺りの、甲州街道と奥多摩道の分岐点に立っていたもの。しばらくは立川市役所に保管されていたが、今は資料館にある。

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もう一つ目立ったのは、まるで力石のような丸い自然石で造られた庚申塔である。正面には大きく「庚申」と彫られ、裏面には寛政12年(1800)10月の造立年や願主名が刻まれている。この庚申塔が以前どこにあったのかなどは不明のようだ。

場所 立川市富士見町3丁目12-34

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2026年8月21日 (金)

富士見町の石仏(立川市富士見町)

奥多摩街道の滝の上会館入口バス停の傍に石仏他が並んでいる。滝の上会館は石仏の西側から入っていったところにある地域コミュニティーセンター。「滝の上」というからには滝があるわけで、おそらく西200mにある残堀川大滝のことだろう。玉川上水から取水した用水路が、河岸段丘を落ちる流れが滝になっている。

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左端は新しいもので「交通安全地蔵尊」とある。奥多摩街道は事故が多いらしくあちこちに交通安全地蔵が見られる。古い片側1車線の歩道なしの幹線道路だが、街道筋で民家が張り付いているので拡幅は難しい。近年国道20号から都道になった甲州街道も同様である。交通安全地蔵は昭和61年(1986)12月の建立。建主鈴木栄一の名がある。覆屋の右側は燈籠。寛政9年(1797)4月の造立。史料の写真を見るともっと傷みが甚だしいが、昭和61年12月に交通安全地蔵と同時期に再建されている。「秋葉大権現」とあり、昭和の初期までは毎夜燈明を点けていたという。

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覆屋の中には3基の石仏。左は舟型光背型の庚申塔。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、造立年は元文6年(1741)2月。昔は別の場所にあったが空襲で焼けたときにここに移したという。中央の丸彫地蔵坐像は弘化2年(1845)3月の造立。「天道念仏講」によるもので、昔は毎年2月1日に地蔵の前にむしろを敷き、日の出と同時に念仏を唱え、陽が沈むまで祈ったらしい。右端の丸彫地蔵菩薩立像は資料によると寛保元年(1741)2月の造立だが、基壇には元文6年とありこれは間違いとされている。おそらく別の石仏の台石を拝借したのだろう。

場所 立川市富士見町4丁目15-18

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2026年8月18日 (火)

山中坂地蔵堂(立川市富士見町)

山中坂は富士見町5丁目24番地付近から、斜めに下る坂。古くから崖上の山中集落の人たちが、段丘下の田畑を耕作するのに上り下りした道である。富士見町の名の通り段丘の上からは富士山が望める。崖下は用水路を兼ねた残堀川が流れ、山中坂橋が架かっている。

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丸石の擁壁の間にしっかりとした堂宇がある。山中坂地蔵堂で古いものではない。祀られている丸彫の地蔵菩薩像も昭和のもの。戦災供養の地蔵尊である。かつてこの坂の斜面には防空壕2つがあった。当初は市の公文書を保管する倉庫だったが、戦火が深まると空襲警報が鳴るたびに近所の人々がここに避難するようになった。

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基壇には「戦災、供養、地蔵尊」の文字がある。昭和20年4月4日の空襲でここに逃げ込んで被爆した42名を供養するもので、3回忌の時に建造された。施主は富士見町5丁目の罹災者一同とある。南無。坂上の細道は江戸時代からの古道。昔はこの細道が青梅道(五日市道)と呼ばれる街道だった。

場所 立川市富士見町5丁目25番地先

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2026年8月15日 (土)

奥多摩街道の地蔵堂(立川市富士見町)

奥多摩街道(都道29号線)を西進すると中央本線を渡る橋があり、そこから100mほどの場所に、奥多摩街道に面した覆屋がある。この辺りの奥多摩街道は多摩川の河岸段丘の縁上を走っており、街道の南側は約15mほど低くなる。かなり急な崖線である。

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覆屋の中には丸彫の地蔵菩薩立像と角柱型の供養塔が祀られている。丸彫の地蔵は宝暦2年(1752)の造立で、史料によると基壇の裏面に「山中」とあるらしい。山中はこの辺りの字名である。右側のくし形角柱型の供養塔は正面に「唱先祖供養塔」と書かれており、延享2年(1745)の造立。施主は井上氏とあり、覆屋のあるお宅のご先祖様らしい。

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この地蔵は地元では病気治癒のご利益があるとされ、お参りする人もいるという。供養塔は井上家のものだが、奥多摩街道のこの辺りではしばしば交通事故が起こるそうで、覆屋にも車が飛び込んだことがあるそうだが、一度も大事に至らずに済んでいるのは石仏のご利益と言われている。

場所 立川市富士見町5丁目22-10

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2026年8月12日 (水)

柴崎分水の石仏(立川市柴崎町)

柴崎分水は玉川上水からの分水。元文2年(1737)に玉川上水の松中橋付近から取水が許された。昭島の北に現在もある松中橋から昭和記念公園の中を流れ、青梅線をくぐって富士見町で滝のように落ちる流れは、今は残堀川の流程になっている。柴崎町に入ると南北に分水の支流が見られる。

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奥多摩街道の裏道に一跨ぎできる程度の流れがあり、生い茂った植物の間に「柴崎分水」の説明版がある。かつては周辺の重要な水の供給源になっていたようで、今も流れはきれいである。この草いきれの中に燈籠の天板のみが少しだけ見えている。かつてここにあった常夜燈で、造立年は不明。「秋葉大権現 横町講中」の文字があり、裏には〇〇6年3月の文字。年は推定も困難だが、元文年間以降であろう。

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いただいた画像だが、右の石塔が常夜燈である。左に基壇が残り、手前に石塔が倒れているが、これは元は笠付角柱型の庚申塔だったという。正面には「庚申供養塔」の文字、右面には「講中」の文字があり、元文5年(1740)12月の造立と資料には書かれていた。石川博司氏の情報では三猿もあったらしい。

場所 立川市柴崎町1丁目10-11

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2026年8月 9日 (日)

普済寺境内の石仏(立川市柴崎町)

立川市柴崎町にある普済寺は臨済宗の寺院。創建は文和2年(1353)と古い。羽柴秀吉の小田原征伐で立川氏が滅亡、その館城であった土地に普済寺が移転してきたと伝えられる。

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普済寺の開基は立川氏である。立川氏は武蔵国の士族で、鎌倉時代からここに居城した。城内にあった草庵が普済寺の元になったという。当然立川氏の菩提寺が普済寺である。一部は常陸国の佐竹氏に流れ、その後水戸藩士になったようだ。

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山門脇に地蔵堂があり、新旧沢山の石仏が祀られている。大半は近年のものだが、写真の黒っぽい舟型光背型の地蔵菩薩には天保2年(1831)の造立年が刻まれていた。基壇には「講中」の文字もある。右の白っぽい丸彫の地蔵菩薩立像は弘化4年(1831)8月の造立。こちらの基壇には念仏講中の文字がある。

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本堂の裏手、阿弥陀堂の間を抜けると六地蔵が立っていた。基壇などは新しいものだが、中央の石柱には「南無阿弥陀仏」の文字と、文政9年(1826)正月の年号がある。丸彫の六地蔵そのものは資料によると、天明3年(1783)4月の造立らしい。

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国宝の六面石幢は堂内に閉ざされ、稀にしか御開帳されない。2025年に新しい保存庫に移され、容易には見られなくなった。ただ本年2026年は9月20日と11月3日に特別公開されるという。実はレプリカが立川氏歴史民俗資料館にある。仁王像(阿形・吽形)と四天王像を浮彫にした6枚の秩父青石(緑泥片岩)板石を合わせたもので、造立年は南北朝時代の延文6年(1361)である。

場所 立川市柴崎町4丁目20-46

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2026年8月 6日 (木)

日野の渡しの馬頭観音(立川市錦町)

立川市柴崎にある市民体育館の南側は江戸時代は多摩川の河川敷であった。ただ暴れ川だった多摩川の土手の位置は江戸末期も今とさほど変わらない。現在は河川工事後で立川市寄りに流程があるが、江戸時代から戦前までは日野市側に主流が通っていた。そして、現在は日野橋と立日橋という2本の橋があるが、昔は日野の渡しという渡し舟で往来していた。この渡しがここに決まったのは貞享年間(1684~1688)と伝えられる。

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日野の渡しの碑の前には馬頭観音が立っている。大きな角柱型の馬頭観音は大正13年(1924)2月の造立で、「馬頭観世音菩薩」と正面に、基壇には「講中」の文字がある。とりわけ大正時代は馬による運搬が主流で、馬子達の観音講が各所にあって馬頭観音塔を建てたという。この馬頭観音は30人ほどの馬子によるもので、土地は地主の小川氏が寄付したもの。

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脇には3基の石塔があり、右は摩滅が激しく詳細不詳。中央は正面に「馬頭観世音菩薩」の文字、側面には「施主大久保政吉」の銘と、昭和13年(1938)建之の文字がある。左の馬頭観音は上部が欠損しているが、昭和4年(1929)2月に松村福造氏によって建てられたものである。

場所 立川市錦町5丁目20番地先

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2026年8月 3日 (月)

辨天八幡宮の庚申塔(国分寺市西町)

国分寺市西町にある辨天八幡宮は榎戸新田弁天組が開発された享保13年(1728)に創建。新田開発は享保10年(1725)に行われたので、それから間もなくの創建になる。

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境内はそこそこだが小さな社で新田の神社らしい雰囲気が残る。辨天というからには水が湧いているかと思ったが見当たらない。もともと横田家という家にあった稲荷を移したものらしい。

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鳥居の北側にぽつんと庚申塔が祀られている。角柱型と言っていいだろうか。青面金剛像、邪鬼に桃持の烏帽子の一猿の図柄で珍しい。青面金剛はショケラを下げている。造立年は文化11年(1814)で、「中藤新田、弁天(新田)、芋久保平・・」などの文字が基壇の下にあるようだ。この辺りは江戸時代末期は上保谷新田という地名で、五軒屋とも呼ばれた。国分寺崖線下でどこかに水は出たのだろう。

場所 国分寺市西町2丁目30-1

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2026年7月31日 (金)

西町神明社の石仏(国分寺市西町)

西町神明社は国分寺崖線にある多摩川の古い河岸段丘に鎮座する神社。この崖線に沿っては中藤新田という集落が享保年間に開拓されたので、おそらく創建もその時代と思われる。崖下の道は古道で、今も崖線に沿って国立駅付近まで道は続いている。隣接する観音寺は神社の別当寺。

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社殿は崖線の上にあるが、古道は下を通る。中藤新田に入植したのは今の武蔵村山市にあった中藤村の人々であった。崖線は西町神明社の周辺のみが昔の雰囲気を残している。周辺の崖地はほぼ均されて、ここが河岸段丘であることは分からないが、神社の境内に入るとそれを目の当たりにする。

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境内に入ってすぐ左側に平成5年に皇太子が植樹されたクスノキがあり、その手前に笠付角柱型の弁財天が祀られている。安永6年(1777)9月の造立で、「武州多摩郡中藤新田辨天新田講中」の銘がある。入植して落ち着いた時代のもので、崖線から湧き出す水をお祀りしたものではないだろうか。

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弁財天と対をなす位置には、同じく対をなす皇太子植樹のクスノキがあり、その手前に笠付角柱型の庚申塔が立っている。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、三猿は基壇に埋まるように彫り込まれている。造立年は明和4年(1767)11月で、前述の弁財天より10年ほど古い。こちらにも「辨天新田中藤新田講中」の文字がある。新田の位置が左右入れ替わっているのは何故かわからない。

場所 国分寺市西町2丁目27-10

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2026年7月28日 (火)

高木八幡宮の石仏(国分寺市高木町)

国分寺市高木町にある高木八幡宮はかつての高木新田と中藤新田の間に鎮座している。神社の南を東西に走るのが高木通りで江戸時代からの街道。この街道沿いに広がっていたのが高木新田、南北に広がっていたのが中藤新田である。新田とはいえ台地上の為、ほとんどが桑畑だったようだ。

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高木八幡宮の創建年代は不詳だが、中藤新田は享保年間(1716~1735)に開発されているので、その時代と思われる。神社は享保16年(1731)に鎮守となった。

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鳥居脇の覆屋に祀られているのは丸彫の地蔵菩薩立像。これが高木八幡宮が鎮守になった後、造立された子育地蔵尊と伝えられる。造立年は元文4年(1739)9月で、基壇には「武刕多摩郡・・南部新田」と書かれている。

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覆屋の少し後ろにあったのが、駒型の馬頭観音。正面には「馬頭観世音」とあり、明治41年(1908)の造立とある。きわめてシンプルで典型的な馬頭観音である。

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馬頭観音の手前には燈籠が立っている。竿部の正面には「神明宮」、脇には「八幡宮」「榛名山」、裏には「多聞天」の文字がある。造立年は嘉永3年(1850)春3月とあり、「武・野中高木組」の文字が見える。

場所 国分寺市高木町3丁目9-9

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2026年7月25日 (土)

佐伯家の石仏(立川市栄町)

立川通りから分岐した高木通りを東進する。高木通りは高木八幡前を通り、国分寺市の新町三丁目まで続く。三叉路から200mほど行くと、生け垣に囲まれた佐伯家があり、生け垣の隙間に石仏が並んでいる。

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地蔵菩薩のみが覆屋の中にある。この地蔵は愛宕地蔵と呼ばれるもので、ここから北に300mほどの高校の裏手にある愛宕神社に関係する地蔵。子供の夜泣きや病の時に、前掛けやタスキなどを借りて治ると新しいものを奉納する習わしらしい。地蔵そのものは八軒の共同所有とのこと。

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丸彫地蔵の基壇には「三界万霊」の文字があり、造立年は安永7年(1778)9月とある。左右には道標が刻まれており、「左 江戸道 願主芋窪新田、砂川新田」「これより 小川、▢沢道」の文字がある。

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隣にあるのはかなり新しい青面金剛像である。ということは庚申塔ということになるが、正面の「奉納 南砂川有志」以外の文字は見えなかった。史料によると、ここには以前舟型の庚申塔があり、それは文化4年(1807)のもので、願主は内〇源助とあったらしい。過去にあったものも今のものも、三面六臂の青面金剛像で、三猿はない。

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庚申塔の右、垣根に少し隠れているのが大きな常夜燈。造立年は天保9年(1838)11月で、正面には「奉献愛宕大権現」、左右には「秋葉さん大権現、榛名山大権現」の文字がある。台座には「多摩郡村中 多摩郡芋久保新田」の銘がある。この燈籠も八軒の共有で、愛宕神社まで行かずにこの燈籠で手を合わせて拝んだものらしい。

場所 立川市栄町2丁目40-1

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2026年7月22日 (水)

三つ又の常夜燈(立川市栄町)

立川通りから高木通りが分かれる三叉路は現在は栄町三丁目という名前の交差点。町丁の境界を見ると、この三叉路の頂点の三角形部分は二丁目で、三丁目にくさびを打ち込むような形になっている。昔はここから北へ進む立川通りはなく、ここでカーブして東に進むのが街道筋であった。この辺りはいわゆる八軒という集落。

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この三叉路の頂点にあるのが常夜燈。竿部の前面は「阿豆佐味天神社」の文字、側面は「榛名山大権現」「愛宕山大権現」、そして裏側には弘化3年(1846)8月の造立年が刻まれている。台座には「砂川村講中」とあるが、もとは砂川四番の阿豆佐味天神社の分祀で八軒のもの。砂川四番は遠いのでそこまで行かなくてもいいようにここに置いたらしい。

場所 立川市栄町2丁目43-1

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2026年7月18日 (土)

立川通りの回国供養塔(立川市栄町)

立川通りを東大和市方面に向かって歩くと、栄町三丁目の高木通りとの分岐の手前に緑道が交差する。てっきり川跡の暗渠遊歩道だと思ったが、どうも廃線跡らしいことが分かった。栄緑地といい、かつての立川飛行機専用線の跡で、立川飛行場(現自衛隊)と立川駅を結んでいた。昭和18年~19年に敷設され、昭和53年(1978)に廃線となった。

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栄緑地から10m余り先の歩道脇に角柱型の石塔が立っている。学習塾の建物の敷地内にある。正面には「奉納経六拾六部日本廻国供養塔」と刻まれている。かなり剥離が進んでいて読めない箇所が多い。天下泰平、国土安穏の文字は読めた。

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左側面には「維持嘉永5年(1852)9月」の造立年、「多摩郡砂川村九番組 施主 佐野氏」の銘が刻まれている。資料によると、佐野氏の先祖が昔西国巡りをした時のもので、その人は弘化3年(1846)に57才で他界したらしい。一時、裏の墓地へ移したが、再び現在地に戻したという。おそらく墓地があったのは戦前のことだろう。

場所 立川市栄町3丁目22-3

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2026年7月15日 (水)

八軒新田の碑(立川市栄町)

立川市の立川通り沿いのワークマンの向かいに八軒新田の碑がある。石仏ではないが散策していて気になったので立ち寄る。「芋久保新田は郡の中程より少し東に寄れり。この新田は郡中、村山郷芋久保村の農民来て開発せし故に村名とせり。」と説明板にある。芋久保村は現在の東大和市の青梅街道の北側の地域(芋窪)にあった村。

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この辺りは江戸時代から八軒と呼ばれた土地。その由来も書かれていた。「享保年間から元文年間のころ(1720~1740頃)には八軒の家があり、今に至っても八軒新田という。江戸日本橋からは八里の距離。」だという。水田はなく陸田のみで、陸稲(おかぼ)を作っていたのだろう。

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大きな石には「武蔵国武州多摩郡砂川村八軒」と刻まれている。砂川村に含まれていたようだ。立川通りは昔は道幅五間(9m)もあり、日野宿で甲州街道に繋がっていた。

場所 立川市栄町3丁目10

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2026年7月11日 (土)

八軒の庚申塔(立川市栄町)

立川市から北、および北東に延びるバス通りは、高松二丁目交差点で北へ向かう芋窪街道と北東へ向かう立川通りに分かれる。分岐点の角には看板が林立し、その陰に木造家屋が立っている。芋窪街道側に回り込むと、隣地との間には万年塀があり、その前に石塔が並んでいる。

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ちょっと面白い場所にまとまっているが、手前の大きな角柱型の石仏は庚申塔で、正面には「庚申塔」の文字、造立年は天保4年(1833)4月とある。基壇には三猿が陽刻されており、正面の庚申塔の字の脇には天下泰平、国土安全と書かれている。側面には、當所講中とあり、その下に三鴨姓、矢嶋姓などの願主名がある。

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手前の手水鉢も古そうで、正面には「奉納」の文字、脇には砂川、矢島の文字がある。大きな庚申塔の左わきには2基の角柱がある。右の石仏は庚申塔で、青面金剛像が陽刻されていた。造立年は明和4年(1767)で大き法よりも古い。下部には「他村施入面々現當…(以下土中)」「施主芋窪新田」の文字が見える。

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左の小さな角柱は馬頭観音である。正面の「馬頭観・」の文字しか読めず、上部は摩滅、下部は埋まっている。資料によると、大きな角柱型の文字庚申塔はこの辺りにあったガソリンスタンドの角に元からあり、青面金剛像の方は七軒家(現在は高松町、昔は芋窪新田)にあったものを集めたらしい。熊野神社があるあたりだろうと思う。馬頭観音については情報皆無である。

場所 立川市栄町3丁目1

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2026年7月 8日 (水)

観音堂裏の馬頭観音(日野市百草)

百草観音堂の南側には、百草園通りの脇を流れる細流と、西から流れる細流が合流する。ここは倉沢谷戸という名前の小さな谷で、昔から細い杣道があったようだ。1960年~70年代にこの西側の山を大きく開発してできたのが百草団地で、標高90m~120mほどのところに山を切り開いた一台住宅地が広がる。

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南側の側道から観音堂の土手を見上げると、土手の斜面に2基の石仏が立っていた。右の櫛型角柱型の石仏は馬頭観音。嘉永6年(1853)4月造立で、施主名は伊右エ門とある。左の新しそうな駒型の石仏も馬頭観音で、「馬頭観世音菩薩」という文字が彫られている。こちらの施主は増嶋吉太郎、造立年は明治10年(1877)7月とある。

場所 日野市百草818-1

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2026年7月 4日 (土)

百草観音堂(日野市百草)

百草園の南側斜面にある百草観音堂は、百草園から数百m下ったところにある。この窪地は倉沢谷戸と呼ばれる。古くは倉沢観音堂、または枡井山観音堂とも呼ばれたが、創建年代は不詳。

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階段を上ると観音堂があり、平安時代に造られた本尊の聖観音菩薩立像が堂内に祀られているが、御開帳は12年に一度ということでとても拝観はできない。

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観音堂の横には覆屋があり、複数の石仏が祀られていた。左から、舟型の聖観音像、丸彫の地蔵菩薩、丸彫の地蔵菩薩、上部が欠損した舟型の如意輪菩薩像、一番右はよくわからない。この中で造立年が刻まれていたのは左から二番目の地蔵菩薩で、元文庚申年吉日とあるので、元文5年(1740)の造立である。

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石段の上にあった古い手水鉢は、宝永5年(1708)7月に小林四郎五郎正義が奉納したもの。「奉寄進 武刕多麻郡百草村枡井山観音堂」の銘が入っている。

場所 日野市百草841

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2026年7月 1日 (水)

百草園通り南の馬頭(日野市百草)

京王百草園は日野市の山の上にある庭園。享保年間(1716~1736)に再建された松蓮寺の庭園として造営され、明治の初めの廃仏毀釈で廃寺となった。地元の生糸商人の青木角蔵がその後所有、1957年に京王電鉄に移管した。

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南斜面に向かって百草園前から下っていくと、坂下で西からの市道がぶつかる丁字路がある。その角に素朴に立っている石塔がある。ゼニゴケに覆われているが、正面には「馬頭観世音」の文字が見える。

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側面には文久3年(1863)6月の造立年が刻まれていた。西から合流する市道は昔はなかった道だが、百草園通りは江戸時代から存在した村道である。この何となくぽつんと立っている様子が路傍の石仏の魅力である。

場所 日野市百草876

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2026年6月27日 (土)

砂土地蔵尊(日野市三沢)

川崎街道の旧道の旧松蓮寺山門の辺りで、落川から三沢に入る。松蓮寺は明治の初めに廃仏毀釈政策によって廃寺となったが、江戸時代は『江戸名所図会』にも描かれており「茂草松蓮寺」の記載がある。

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馬頭観音の近くに大きな堂宇があり、複数の石仏が祀られている。堂宇脇にも石仏石塔がいくつかある。後ろの壁に「砂土地蔵尊」と書かれたお札が貼ってある。右端は舟型光背型の地蔵菩薩立像である。古そうだと思って文字を読むが何分摩滅していて読みづらい。偈文がたくさん書かれている。寒念仏供養の文字があり、貞享4年(1687)の造立のようだ。

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その横の背の高い丸彫の地蔵菩薩立像が砂土地蔵尊と呼ばれる地蔵菩薩らしい。地蔵の腰に享保3年(1718)10月の造立年が刻まれていた。基壇にも文字が刻まれていたが読み取れなかった。砂土地蔵尊の左には舟型の阿弥陀如来像がある。「権大僧都法如・・・」という文字が見えるが、墓石かどうかは分からない。造立年は貞享元年(1684)霜月とある。

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その左には中折れが激しい笠付角柱型の庚申塔がある。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、「三澤邑・・像庚申・・下講中」の文字がかろうじて読み取れた。造立年については「安永(1772~1781)」の文字があるがその先は折れている部分で分からない。庚申塔の下に板碑の一部がポツンと置かれていた。

場所 日野市三沢2丁目1-23

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2026年6月23日 (火)

百草園通りの馬頭(日野市三沢)

百草園通りと川崎街道の旧道が接する丁字路にたつ立派な角柱型の石塔。百草園通りは幅員が狭く、車幅感覚の弱い一般ドライバーはすれ違いに四苦八苦している。

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右のプラスチックコーンに「地蔵尊」とあるのは、すぐ近くにある砂土地蔵尊のことを指しているのだろうか?もともとこの馬頭観音は写真の「百草園」の案内板の向こう側にあったものを数年前に3mほど移設したらしい。

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石仏はかなり傷んでいるが、正面には「馬頭観世音」の文字が見える。基壇には「松蓮寺道」とあるが、松蓮寺はこの地にあった寺院でその跡は百草園になっている。明治初期の廃仏毀釈で廃寺となり、百草園は庭園として残された。馬頭観音には天保13年(1842)暮春の造立年が刻まれており、「當所 三沢」の銘がある。

場所 日野市三沢2丁目1-23

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2026年6月20日 (土)

旧道脇の石仏(日野市落川)

京王線に沿って東西に走る川崎街道は百草園駅の南で脇に斜め道があるが、この脇道が本来の川崎街道である。少し西に進んで百草園通りで現在の川崎街道に戻る。その旧道の途中にグリーンテラス百草園という大きめのマンションがあり、その角に覆屋がある。

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覆屋の後ろは広場になっていて、石仏の場所がマンションの敷地なのか広場側の敷地なのかは微妙だがおそらく広場側になる。覆屋の中には丸彫の地蔵菩薩坐像が祀られている。造立年は明治41年(1908)と刻まれている。

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地蔵菩薩の手前右に角柱型の石がある。石の前面には「庚申供養」の文字がある。側面には造立年は天明8年(1788)4月と刻まれていて、地蔵よりもかなり古い庚申塔である。

場所 日野市落川1086

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2026年6月17日 (水)

落川大宮神社の馬頭観音(日野市落川)

落川大宮神社は京王線百草園駅の南の山の斜面にある。創建年代は不詳とされるが、江戸時代初期の寛文年間から元禄年間のころ、清水谷の山上である現在の場所に移転してきた。当時は落川村下落川の鎮守だったという。

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江戸時代以前はもとは上落川の大宮耕地にあったというから、今の高幡不動駅の近くである。しかし浅川や程久保川が氾濫して洪水により東にあるこの場所に移ったという。山上にある社殿は天明8年(1788)の竣工と古い。山の下の鳥居の脇には2基の石仏が並んでいる。

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右の大きな石塔は角柱型の馬頭観音で、正面に「馬頭観世音」の文字がある。側面には文政6年(1823)立秋の造立年が刻まれていた。左の小さい方は、櫛型角柱型の馬頭観音でこちらも「馬頭観世音」の文字。側面には施主瀬沼成▢の銘と、昭和16年(1941)5月の造立年が刻まれている。

場所 日野市落川1108

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2026年6月14日 (日)

百草六地蔵と庚申塔(日野市百草)

日野市の百草地区はもともとほとんどが山である。元来の百草の集落はこの山の中腹にある細長い集落で、今も昔と同じような風景でまばらに家が並んでいる。野猿街道側(東側)から山に入っていくと、途中で折り返すようにつながって山に登る道がある。途中から車両は通れない道になって尾根に出るが、これが元々の百草の集落の主要道である。

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尾根筋に出ると道が二手に分かれるが、その分岐脇に小高い高まりがあり、たくさんの石仏が並んでいる。簡易なトタン屋根に覆われて8体の石仏がある。どうも寄せ集めっぽい見栄えだが、中央に丸彫の地蔵尊(首欠)があり、その両脇に舟型光背型の地蔵菩薩が並ぶ。

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造立年は分からない。一部の基壇が土中に隠れている部分に「安永6年(1777)」の年号が見える。「安」の字と、「六」と「丁」の文字が見えるので丁酉である安永6年と推定した。

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左端にある駒型の庚申塔は唯一保存状態がいい。日月はない。青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄である。造立年は元文元年(1736)11月。「武刕多摩郡百草村 願主 庚申供養」の文字が読める。端にあるが主役としてもいいかもしれない。

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六地蔵の右手には摩滅と剥離がかなり進んだ道祖神が立っている。「道祖神」の文字が正面に大きく書かれ、右側面には万延2年(1861)正月の造立年と百草村の銘がある。ちょっとした山登りの先に出会える、うれしい石仏群であった。

場所 日野市百草452

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2026年6月11日 (木)

一の宮バス停裏の石仏(日野市百草)

府中市から多摩川を渡り相模原に延びる野猿街道(都道20号線)と川崎街道が交差するのが一ノ宮交差点。もともと野猿街道よりも東側の聖蹟桜ヶ丘駅の西の一帯にあった集落が一ノ宮であった。以西の川崎街道はほぼ昔のルート沿いに車道が出来ているが、百草の集落は多摩川の右岸の山に沿ってできた集落である。

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一ノ宮交差点の南西脇から分岐する小道はこの先の山の上にあった百草集落への道である。その入口ともいえる路傍の藪に3基の石仏が祀られている。気づかずに歩いて通り過ぎかねないような石仏は、左から庚申塔、馬頭観音、聖観音。

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右の聖観音像は舟型光背型で、基壇の文字も読み取れなかったが、おそらく江戸時代後期のものであろう。中央に建つのは大きな角柱型の馬頭観音で、天保5年(1834)という造立年が刻まれている。基壇正面には「講中」の文字と、「八景山松連寺道」の文字がある。右側面には「百草村」の銘があり、さらに願主名も刻まれていた。

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左に建つのは舟型光背型の庚申塔。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、「庚申供養」の文字がある。造立年は正徳6年(1716)6月。さらに「武州百草村」の銘と願主名が刻み込まれている。いかにも百草集落への入口といった雰囲気がある場所である。

場所 日野市百草360

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2026年6月 8日 (月)

高札場下の庚申塔(日野市落川)

日野駅の東側に落川神明神社がある。神社は寛政8年(1797)の創建で、落川村の小字下落川の鎮守だったらしい。明治時代以前は、田んぼに囲まれたこの辺りに小さな集落があった。

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昔からある村道は今も主要市道だが、この少し北に江戸時代には落川村の高札場があった。幕府から発せられる諸法度や掟書を木札に書き込み、村人に徹底させるのが高札場である。落川村の高札場は名主屋敷の前に立っており、今は玉石で土壇を作って再建されている。

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名主の家から街道に出たところにあるのがこの笠付角柱型の庚申塔である。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、右側面に「奉建立庚申供養 落川村講中」の文字がある。造立年は宝暦11年(1762)11月とある。

場所 日野市落川666

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2026年6月 5日 (金)

落川通りの庚申塔(日野市落川)

日野市落川と日野市百草は例がないほど入り組んでいて、落川の隣の家は百草でその向こうはまた落川というようなことが起こっている。落川は暴れ川だった多摩川の低地にあり、そこに飛地を持っていたのが百草。その飛地は島のように点在しており、それを今もまだ引きずっている。京王線百草園駅の周りは特に交り方がひどい。

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駅の北側には百草の飛地が多いが、少し西に移動すると落川になる。駅からセブンイレブン前を左折、その先で北西に向かうのが落川通りで江戸時代からの道である。K字路になっている角の吉田家の一角に角柱型の庚申塔がある。

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正面には大きく「庚申塔」と彫られている。台石には「上河内講中6人」とあり、側面に文政6年(1823)中冬(仲冬の意)の造立年が書かれている。この土地の少し北側には浅川が多摩川に合流する同じ場所に注ぐ程久保川という小河川が、多摩動物公園から流れ下っている。昔は一面の田んぼだったようだ。

場所 日野市落川331

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2026年6月 2日 (火)

延命講子育地蔵尊(文京区関口)

地下鉄江戸川橋駅から南下する江戸川橋通り付近は新宿区と文京区の境が複雑に入り組んでいる。大体この2区の境界が複雑なところは神田川の昔の流程が絡んでいることが多い。その為路地のお隣やお向かいと行政区が異なるなんてことが頻繁に起こる。行政は民間が1年で変わることを100年変えられないという性格がある。まだ伊勢神宮の式年遷宮の方が変わり身が早い。

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地蔵通り横丁商店街は文京区関口になる。江戸川橋通りの入口角に立派な地蔵堂が建っている。中には子育地蔵が祀られている。造立年は不詳。ガラスに説明書きが印刷されている。

「子育地蔵(火伏せ地蔵):三方を台地に囲まれたこの地が一面の田畑だった頃、近くの江戸川(神田川)がしばしば氾濫した。この地蔵尊は明治の初めにいずこから流されてきて、ここに留まったものと言い伝えられている。以下略」

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後年、この周辺が戦火を免れたことから火伏地蔵としても信仰を受けるようになった。地元では延命講を作って地蔵をお祭りし続けているとのこと。堂内には欅の板に講中の面々の名前が刻まれた昭和31年(1956)の額が飾られている。江戸時代はこの辺りは西の中里村、東の小日向村の境で、北にも南にも武家屋敷が迫る都会の農地だったようだ。

場所 文京区関口1丁目7-4

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2026年5月30日 (土)

貫井神社の石仏(小金井市貫井南町)

小金井市の貫井神社の創建年代は不詳、ただ湧水の出る弁財天として古くから知られてきた神社で貫井神社と改名したのは明治以降のことである。社殿の左手奥にある湧水は岩の下から滾々と湧き出している。

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神社の境内中央には池があり、境内に上がる手前の左手にも池がある。豊富な湧水を強調しているようだ。むかって左手の湧水の脇には細めの階段が設けられており、その近くに自然石の石塔がある。

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石の表面には大きな文字で「石橋供養塔」とある。その脇には文政9年(1826)の紀年がある。この石橋供養塔の示す石橋は野川に架かっていたものだろうか。特に記載がないのでわからないが、湧水程度に橋はないので間違いないだろう。人に踏みつけられても支えてくれる石橋に対しては江戸時代の人々は感謝して祀っていた。敷石供養も同じような風習である。

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本殿西側に貫井不動尊と愛宕神社があるが、愛宕神社に上る長い階段の下には石坂供養塔がある。これもまた踏みつけられる石坂(階段)に対するもの。角柱型の石坂供養塔は文政13年(1830)3月の造立で「世話人惣村中」の文字がある。村人が協力してこの石段を築いたのだろう。

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愛宕神社の階段を上ると2基の地蔵菩薩が待っていた。右の丸彫の方は詳細不詳である。左の舟型光背型の地蔵菩薩立像は小金井市の史料にも掲載されていた古いもの。造立年は元禄12年(1699)10月とあり、「供養地蔵講中二世安楽」の文字と「貫井村」の記載がある。講中の51人が協力して建てたものだが、上部が少し欠損している。

場所 小金井市貫井南町3丁目8-6

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2026年5月27日 (水)

不動橋の石仏(国分寺市南町)

JR中央線国分寺駅の南、国分寺街道が野川の上流を渡る橋が不動橋である。ちょうど不動橋の下で、北西から流れてきた野川に、南西から流れてきた清水川(元町用水)が合流する。

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不動橋の北側にある大きなマンションの川側にきれいなガレージのような覆屋があり、2基の石仏が祀られている。左側は自然石の石橋供養塔だが「不動明王」と刻まれている。これが不動橋の由来。造立年は天保3年(1832)で、この頃野川に架かっていた橋が木橋から石橋に代わったと考えられている。

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右側は笠付角柱型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。造立年は延享2年(1745)2月とある。「武州多麻郡 国分寺村講中」の銘があり、左面に6人、右面に5人、計11人の願主名が刻まれている。

場所 国分寺市南町3丁目1-2

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2026年5月24日 (日)

元町通り子育地蔵尊(国分寺市東元町)

元町通りは武蔵国分寺から東へ伸びる村道で、西の久保通りまで続いている。この二つの道は江戸時代からの道で、微妙に曲がりながら続いている。

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明治の初めころまでは、この辺りが下村集落の東端で、少し歩くと貫井神社を中心とした貫井坂下の集落になった。下村集落の北側には国分寺崖線が走っており、その崖下を野川が東流している。現在の恋ヶ窪の日立中央研究所から流れてきた野川は、村の北側を流れていた。

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堂宇の中には舟型光背型の地蔵菩薩が祀られている。子育地蔵と呼ばれているようだ。基壇の正面には「三界万霊」の文字があり、「當村願主・・」の文字がある。造立年は明和7年(1770)10月と記されている。

場所 国分寺市東元町1丁目19-14

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2026年5月21日 (木)

学園通りの庚申塔(府中市天神町)

府中市天神町のいちょう通りと学園通りの交差点(新町一丁目)のすぐ東側に大きなクスノキとともに立つ堂宇の中に庚申塔がある。堂宇の前にはなぜか鳥居がある。堂宇内はまるで神社のように幕が掛けられ、地元で大切にされている様子がうかがえる。

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南北に走るいちょう通りは古くからの道筋で府中と小金井を結んでいる。東西の学園通りは新しい道で、戦後の高度経済成長期に通された。それ以前は広葉樹と桑畑に囲まれた長閑な武蔵野だったようだ。民家が建ち始めたのは戦後のことらしい。

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ブロックで造られた堂宇にある庚申塔は駒型で、文化12年(1815)2月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、衣で見えないが史料によると「武州多摩郡府中山谷村中」の文字があるようだ。

場所 府中市天神町3丁目12-6

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2026年5月18日 (月)

内藤神社の庚申塔(国分寺市日吉町)

昭和から平成、令和にかけて、中央自動車道府中インター付近は道路工事が続いている。国道20号線は甲州街道から離れて日野バイパスとなり、東八道路は当初の計画で日野バイパスに繋がるべくもう少しのところまで来ている。東八道路と交差する、多摩市からの都道17号線は大昔の鎌倉街道が現代になって幹線道路で再現している様子で、新府中街道とも呼ばれている。

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その都道17号線は令和8年現在、内藤神社のすぐ西側まで延伸しており、その先の用地買収も進んでいる。とはいえかつての鎌倉街道は現在の府中街道筋で、新道は内藤神社方向に西よりにズレてはいる。内藤神社はかつてここが武蔵野の林であった江戸時代中期に、府中本宿村の内藤治助により内藤新田が開発され、享保19年(1734)に近江の日吉山王神社を勧請して創建された。

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入口の鳥居の脇に大きな丸石(自然石)の庚申塔が祀られている。正面には「庚申塔」と彫られ、後ろに文政12年(1819)2月の造立年と、内藤新田の銘が刻まれている。この庚申塔は元は日吉町の内藤橋(中央線の線路を越える橋)際の土手にあったらしい(日吉町1丁目39)。

場所 国分寺市日吉町4丁目11-14

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2026年5月15日 (金)

熊野神社の庚申塔(国分寺市西恋ヶ窪)

JR中央線国分寺駅と西国分寺駅の間の北側に広がる日立中央研究所の庭園(協創の森)は、日本を代表する日立製作所の研究所サイトのひとつとして1942年に開設された。多摩川に注ぐ野川の源流でもあり、それ以前は武蔵野の林の広がる源頭の谷地で別荘だったようだ。野川はここで北からのさんや谷と西からの恋ヶ窪谷の細流を合わせ池が造られていた。研究所の北側を通るのが熊野神社通りで、西武国分寺線の踏切を過ぎたところに熊野神社がある。

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神社は西向きで、鳥居前を南北に通る道がかつての鎌倉街道(府中街道)である。創建年代は不詳、鎌倉時代の末期、新田義貞軍の兵火で焼失し、その後再度火災に遭い、江戸時代の初めに再建。明治になると1877年に暴風で倒壊、1923年には関東大震災で大破、1945年には戦火でもまた破壊された。今の社殿は昭和23年(1948)に再建されたもの。なんとも不遇な社殿である。

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鳥居の脇にそれらの災難で痛めつけられた笠付角柱型の庚申塔が立っている。資料によると、造立年は安永4年(1775)とのこと。摩滅と破損が激しく、日月と青面金剛像の痕跡は見て取れるが、他は分からない。

場所 国分寺市西恋ヶ窪1丁目27-17

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