2018年5月26日 (土)

小笠原坂(中野坂上)

JR中野駅の南口で駅前を掃除している高校生がいた。 見ると堀越学園の生徒である。 堀越学園と言えば、芸能人の多い高校である。 名前を挙げればきりがない。アイドルだけでなく演歌歌手や俳優、スポーツ選手まで、とてつもない著名人を輩出している。 中野駅南口から彼らは歩いて20分くらいのところにある堀越学園高校に通っていた。

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その堀越学園は上野写真の左側の道を行くとある。 そして小笠原坂は右側の道。 緩やかな上り坂で、梅園川の慈観堂橋から南へ伸びる。 現在は中央2丁目と中央3丁目の町境。 堀越学園の道も小笠原坂も江戸時代からある古い道である。

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坂上を東に進むと、宝仙寺に戻るが、その手前にぽつんと煉瓦塀が立っていた。 近づいてみると、説明板がある。 ヤママサ醤油製造所の煉瓦塀の遺構である。 1899年当時中野で初めての煉瓦建築だったとある。 昔の建築はとても頑丈にできている。 大震災にもびくともしない。 そもそもが現在の東海道線や京浜東北線、山手線も、明治時代に築かれた土台の上を走っているのである。

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2018年5月25日 (金)

犬坂(中野坂上)

中野坂上の北西、宝仙寺裏を北へクランクしながら下る坂道が犬坂。 宝仙寺と宝仙学園中学、高校の間を抜ける。 宝仙寺の竹垣が美しい。 クランクの仕方も窮屈でなく、退屈でなくちょうどいい。 坂を下った先には梅園川の暗渠がある。 犬坂の道が梅園川を渡るのが宝仙橋。
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宝仙寺の裏手はもと杉林で、ここを上る道は野良道だった。大正時代以前の地図には道は描かれておらず、宝仙寺の裏で西に折れた道はそのまままっすぐ金剛橋を渡る古くからの道に接続していた。 坂下はすぐに梅園川でその北側に田んぼが広がっていた。
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犬坂という坂名の由来は、一説には中野のお犬様の保護施設に因むというのがあるが、場所が違いすぎる。 中野区の調査によると、江戸時代に将軍が鷹狩りに出た際に、猟犬がが野犬に襲われることがあり、宝仙寺に勢子を置いて、野犬狩りをし、この坂下あたりに野良犬を拘束していたという。 そうであればうなずける。
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宝仙寺は大きな寺である。昔は山手通りの東側の飛地にあった三重塔が空襲で焼失してしまった。それとほぼ同じ大きさの三重塔が平成4年に再建された。 隣には、珍しい石臼塚がある。 神田川には昔から水車がいくつもあり、そば粉を挽くのに使われていた。 江戸っ子が蕎麦を大量に消費するようになって、玄蕎麦がここ中野に集まるようになり、中野から江戸中の蕎麦屋に供給された。
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その後機械化が進み、石臼は水車と共に見捨てられていった。それを見た僧侶が、ここに石臼の供養をはじめ、それが積み重なって石臼塚になった。 その僧侶が宝仙学園の創始者だと説明板には書かれていた。

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2018年5月24日 (木)

相生二番坂(中野坂上)

環状六号線山手通りが開通したのは戦後になってからだが、青梅街道と甲州街道の間だけは戦前に開通していた。 それ以前は神田川が南北の往来を制限していたのである。 大正時代以前に神田川流域から、青梅街道方面へ上る道のひとつがこの道で、かなり古い道である。
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もちろん現代の道路基準である幅員4mに満たない。 古い道というのは得てしてそういうもので、法律はつい最近できたばかりでこの道を否定することはできないのである。「4mに達しませんが、歴史に敬意を表して道路とお認めします」という感じである。
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坂の途中にある整備された公園は古い公園だったが、近年きれいになり、子供たちの声も響いている。 中野区では通称道路名を明記しているところがいくつもある。 相生一番坂通り、相生二番坂通りは昭和63年に設定された通称道路名である。 良いことだと思う。 道路や広場は人の集まるところであるから、名前があると人々のコミュニケーションにはとても役に立つ。

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2018年5月23日 (水)

相生一番坂(中野坂上)

中野坂上交差点の南東エリアは現在本町1丁目、旧町名は相生町だが、大正以前は青梅街道沿いを下町、南側の神田川に近い区域を本郷といった。 トヨタレンタカーの西側から分かれる道筋は昔、本郷通りと呼ばれる道だった。 本郷というのは本村と同じ意味合いの地名で、その地域で最初に家が集まり始めた場所につけられる地名である。

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現在は「本一通り」と命名されている昔の本郷通りからすぐ南に下る路地を行くと、間もなく神田川の低地へ下る坂道になり、彼方に西新宿熊野神社脇にある高層マンションが見える。 坂を下ると神田川と並行する道に出て坂は終わる。

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本郷というのは神田川の豊かな水を利用して人が農地を開拓し始めたころの名残りだが、大正時代以降の相生という町名の由来はよくわからなかった。 この地域の町会名は現在も相生本一町会という。

町会の歴史を辿ると、武蔵国豊玉郡本郷村が最初で、明治22年に本郷村が中野村に併合された後も、神田川は暴れ川で頻繁に流れを変えた。渡れる橋も淀橋と成願寺橋の二つしかなく不便をしていた。 関東大震災のあった大正12年の末にようやく新たな橋を架け、その橋名は対岸の町同士が仲良くやっていけるようにと「相生橋」と名付けられた。 それをとって相生町としたという。

その相生も本町1丁目となって久しく、わずかに坂名にその名を残しているのはあわれでもある。

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2018年5月22日 (火)

中野坂(中野坂上)

淀橋は西新宿の旧町名だが、その淀橋の地名の由来になったのは、青梅街道の神田川に架かる橋名、淀橋に由来する。 好まれない言い伝えの残る「姿見ずの橋」という名を、徳川家光が、ここの景色が淀川を思い出させるので淀橋にせよと命じたので、淀橋になった。 江戸名所図会にも描かれ、神田川に木橋がかかり、人々が往来する様子が見える。 また西側にもう一つの流れもあったことが描かれている。この脇流は昭和の中頃まで存在し、脇流の西側に都電の淀橋停車場があった。

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新宿から西進すると、成子坂を下って淀橋を渡り、そこから再び上っていくのが中野坂である。 江戸時代は淀橋より西は多摩郡で武蔵野の中に入る意味で中野という地名になった。 また当時中野へ行くというと、堀の内の妙法寺へ参ることをいい、帰途の土産に中野坂上で弁慶飴を買ったという。しかし中にはその先で内藤新宿の遊郭に引っ掛かり、つい遊び惚けてしまって弁慶飴が溶けてしまったみたいな逸話も残っていて面白い。

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中野坂上も近年西新宿の先の交通至便の地という理由で随分と開発が進み、高層ビルが立ち並ぶようになったが、まだ路地裏に回ると民家が多く古い道も残っている。 坂の北側にある中本一稲荷神社は神田川の河岸段丘の縁にあり、ビルに隠された地形を主張している。

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中野坂上から少し北に行ったところに中野区第十中学校がある。 この場所は昔、宝仙寺という寺があった場所で、三重塔が建っていた。 この三重塔の珍しいところは、地元の農民が施主となって建てたという点である。 当時貴族や有力武士でないと不可能だった三重塔を建てた農民というのはどんな人たちだったのか知りたいものだが、当の三重塔は残念ながら空襲で焼失してしまった。 現在の宝仙寺は西の方に移転し、学校も併設した大きな寺になっている。

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2018年5月21日 (月)

十号坂(笹塚)

京王線笹塚駅から北に進むと甲州街道を渡りその北側に並走する水道道路がある。都内には何本か水道道路があるが、都道角筈和泉町線もその一つ。 和泉給水所(甲州街道と井の頭通りの松原交差点にある大きな水道タンク)と淀橋浄水場(現在の西新宿高層ビルエリア)を結んでいた玉川上水の新水路の上に作られた道である。 尾根筋を走り、谷を越える時は盛土をして、谷がわの道はこの道の下をトンネルでくぐっている。

甲州街道を越えて少し西に寄り道をすると、笹塚の地名の由来が書いてある。どうも大昔の街道の一里塚らしい盛土があり笹が生い茂っていたので、この地を笹塚と呼ぶようになったとある。ここから一里というと新宿三丁目(追分あたり)になる。追分からの一里塚という意味であろうか。

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笹塚駅から北上し、水道道路を渡ると十号坂通り商店街という名前の商店街に入る。水道道路よりも笹塚駅側は「坂」のない十号通りである。 この水道道路沿いには、他に六号坂、七号通り公園、九号通り公園など、数字の入った地名がある。 これは角筈(西新宿)から1号、2号と水路に架かる橋に名前を付けていった名残りである。

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通りは昭和の商店街のイメージそのまま。 西新宿周辺にもこんな商店街はたくさんあったが、ずいぶん少なくなった。

坂下近くで交差する路地のひとつは暗渠道で、西へ辿っていくと橋の欄干の遺構があったりする。かつての神田川の支流、和泉川の暗渠。 ここは遺構が結構残っているので、暗渠探索にはもってこいの道である。

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2018年5月20日 (日)

日陰坂(代々木)

首都高速を走る人はこの坂の場所を4号線上り代々木PAの下と言えばほぼ場所が分かるだろう。  小田急参宮橋駅から首都高速沿いに東へ下り、明治神宮の北参道口にでるのが日陰坂である。 坂名に反して、現在は比較的明るく、かつ騒々しい道になっている。

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何年か前に首都高速下の明治神宮の擁壁が真っ白く塗られてしまってさらに明るくなった。 もとはただのコンクリートの壁だった。 できればもっと神宮らしい擁壁にしてもらいたいと思う。 神宮の森は井伊家の下屋敷跡の御料地であった。明治天皇崩御(1912)後に、荒れ地だったこの広大な土地に神宮の森を作るという壮大なプロジェクトが始まり、本多清六博士らが政府を説得しながら本物の森を作り上げたのは感動すべき実話である。 あの森は100年前は荒れ野原だったのだから。

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日陰坂は江戸時代の道筋とは少し変わっているが、カーブがいじられたくらいである。 江戸時代は坂下に高札場があった。この道は甲州街道に繋がる裏街道で、日陰坂という名も暗い裏道からきたのだろう。国立競技場の傍には幕府の火薬庫があり、それを運搬する荷車はこの坂道を通って甲州街道へと往復していた。坂の南側にある現在の明治神宮の広大な敷地を有した彦根藩井伊家の下屋敷にあったモミの巨木が有名だったので、その老樹から代々木という地名が生まれたという。

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また坂下の北参道と出合うところには、暗渠と川跡がある。 元から渋谷川支流の細い沢があったのを、玉川上水からの原宿村への分水として利用したもので、その護岸跡である。 また日陰坂のカーブの場所は、明治神宮の北池(宝物殿前)から流出した流れが、外の川に合流した場所でもある。 明治神宮が出来たことで、東京は緑の首都になったといっても過言ではない。 大正時代の先見の明のある学者方に感謝である。

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2018年5月19日 (土)

切通しの坂(代々木)

余談だが代々木は渋谷区である。 本来は新宿駅南口の甲州街道が新宿区と渋谷区の区境なのだが、最近できたNewomanは新宿区になっている。 線路の上の甲州街道南側は新しく人工地盤というものを構築して空中に土地を作り上げたので、そういう住所区割りになったようだ。 新宿区も渋谷区も固定資産税を確保したいので、裏ではバトルがあったのではないかと想像した。 ちなみに新宿御苑は北半分が新宿区で南半分が渋谷区である。

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代々木駅の西側、といってもほとんど小田急線の参宮橋駅に近い「春の小川」の河骨川源頭、そのやや南側にこの切通しの坂がある。 100mほど北には河骨川源頭のそばの刀剣博物館が2018年1月にリオープンした。 その河骨川が削った谷に下って上る代々木側が切通しの坂である。

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坂上の首都高脇の立正寺前に黒御影石の坂名の石塔がある。 また少し下ったところには区の立てた標柱に次のように書かれている。

「岸田劉正が描いた切通しの坂
 画家岸田劉正は、大正3年(1914)から 5年(1916)にかけて代々木に住んでいたので、このあたりを描写した作品がたくさんあります。そのうちの一点に、名作「切り通しの写生」(重要文化財)があり、大正4年(1915)に発表しました。」

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この坂より北側は公爵山内豊景(旧土佐藩)のお屋敷で、その庭には大きな池があり湧水が滾々と湧いていたという。それが河骨川になってこの切通しの坂の下から現在の小田急線沿いに流れていた。

岸田劉生が描いたようにこの坂は赤土の坂で、雨のあとや雪の日は多くの通行人が転倒しただろう。 当時の代々木公園は演習地でその北のはずれにあるこの辺りはつい100年前には赤土の荒れ野原だったことを想像するのに、岸田の絵はとても助けになった。

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2018年5月18日 (金)

初台坂(初台)

代々木八幡神社のやや北側、初台南の交差点で山手通りから分岐するのが初台坂。 ほぼ山手通りに並走して京王新線の初台駅に至る道である。 山手通りが建設、整備されたのは戦前から戦後にかけて、それまでは初台坂が南北の幹線だった。 その初台坂の坂下には昔、初台川という川が流れていた。 宇田川に注ぎ、渋谷川に至る川である。 現在もその欄干が残っている。

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初台坂下には細い人道路地があるがそこを入った先にこれがある。山手通りから見た時にこれは暗渠だと思い足を踏み入れてみたら図星だった。 この欄干は初台橋のもので、川は甲州街道南側の玉川上水のある本町1丁目あたりを源頭に流れている。 この川が谷を形成し、その東側の崖線にとりついたのが初台坂である。

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初台という地名の由来は、初台の局、徳川秀忠(二代将軍)に仕えた奥女中である。現在の西参道口(高速道路のカーブが交わる下)にある正春寺を起こしたのがこの初台で、墓所は境内にある。

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新道の開通により旧道が静かになった例は多いが、この坂もまたそんな坂である。 それでも明治時代までは低地は田んぼ、丘の上は雑木林という武蔵野の風景であった。明治時代の地図を見ると、この坂の周りには竹林も多い。 賑やかな甲州街道の裏手にある農村である。

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2018年5月17日 (木)

切通坂(代々木八幡)

代々木にも切通しの坂という坂があるが、こちらは代々木八幡宮の南側を切通しで抜ける坂道である。 代々木八幡の境内には縄文遺跡がある。「代々木八幡遺跡」というが、約4,500年前の住居跡が昭和25年に発掘され、境内に復元してある。 当時は縄文海進の時代で、現在の小田急線あたりは東京湾の波打ち際だった。 渋谷川流域の入江は一部汽水域もあり、食物が豊富で暮らしやすかっただろう。

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この切通しの坂は見事だが、江戸時代から切通しの道だった。 周りに数多道路があるが、明治初期以前はこの道が唯一八幡へのアプローチルートだった。当時はこの切通しの真ん中からまっすぐに社殿へ参道が上っていたようだ。 現在は山手通り側に付け替えてあるが、途中で参道が曲がっているのはなぜだろうと思っていた。 古地図を見て、やはり南側からまっすぐなアプローチだったことが分かった。

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渋谷区の資料では、古い時代からの切通しの道で、明治から昭和の初めまでは、郊外の農民が野菜を荷車に積んで、上澁谷や青山久保町にあった市場に出荷するためこの道を通ったという。 赤土でぬかるんで滑りやすい道だったので難渋したと伝えらえる。

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2018年5月16日 (水)

弥之助坂(代々木上原)

代々木上原と代々木八幡の間、宇田川の上原支流から台地に上る坂道。 1978年に千代田線の代々木公園駅から代々木上原駅間が開通し、この坂の150mほど東側で千代田線が地下に潜る、その手前の高架工事により、坂の道筋は大きく変えられてしまった。

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谷筋からはいきなり鉄道高架をくぐって左にカーブする。 元の道はまっすぐに谷筋へ下りきり、そこに踏切があった。 しかし高架になったことで、弥之助坂は線路手前で線路沿いに西へ40mほど迂回させられることになった。

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傾斜地の多い東京西側は高架と地下(切通し)が繰り返す鉄道路線が多い。 小田急も東急も実際には上り下りを繰返す。 京王線は玉川上水沿いを走るので高低差は少ない。 甲州街道といい、玉川上水といい、昔の人は地形をよく知っていたものである。 京王線笹塚・調布間が1913年、小田急線と東急東横線が1927年だから、やはり高低差の悩みのない京王線が早かったのは納得である。

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線路から離れるところからが本来の弥之助坂である。弥之助坂の坂名の由来は、渋谷区史にある。 享保年間(1716~1736)の富ヶ谷の住人、池上弥之助の所有地前にあったので弥之助坂と呼ばれた。

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大正時代までは坂下は田んぼが広がり、西隣の旭坂とこの弥之助坂のみが坂下から台地に上がる道であった。 現在も坂上からは新宿のビルが望める。 地元ではこの急坂をシリモチ坂と呼んでいたらしい。 今よりもさらに急な坂道だったことがわかる。

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2018年5月15日 (火)

旭坂(代々木上原)

代々木上原の駅ビルの通路を新宿方向に歩いていくと、旭坂の坂下に出る。 もともと代々木上原駅の駅前商店街はこの旭坂を中心に広がっていた。 坂下の小田急線の北側には渋谷川支流宇田川のさらに支流となる上原支流があり、大山町支流、西原の狼谷支流を合わせて、駅付近に深い谷を形成した。 この渋谷川の源流は代々木八幡で「春の小川」で有名な河骨川を合わせて流下、この辺りの地形はその数多の沢が削った谷で「代々木九十九谷」と呼ばれる。

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旭坂はかなりの勾配で小田急線をくぐり、南に向かって上っていく。 当然谷底なので、反対側にも急坂がある。 九十九谷にあるのは九十九坂で、谷沿い以外はほとんどが坂道。 その中でこの旭坂に名前があるのは、この道が江戸時代からある道だからである。

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江戸時代から大正時代まで、この坂下は田んぼが広がる谷あいだった。 そして傾斜地には広葉樹が広がる山村風景だったはずである。昔の道は、台地の際に付いている。 代々木上原周辺にはその際についた道が今も地形として刻まれていて、散歩が楽しい。

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旭坂は地元では上原銀座という商店街である。 人も車も行き交う賑やかな道だ。 坂上で丁字路になり、弥之助坂から来た道と出合う。 この道も古くからある道で、そのまま南西に進むと三田上水にぶつかるところまで通じている。 拡幅された井の頭通りは周辺の古い道と街並みを無視して東西に延びた新道で、周辺の道とはまったく相容れない向きになっている。

大原にある和田堀給水所が1924年に完成。 武蔵野の境浄水場と水道管で結ばれたので、吉祥寺から和田堀までは直線、そして和田堀で角度を変え渋谷方面へ直線で水道管を通し、その上に出来たのが井の頭通りである。

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2018年5月14日 (月)

やりくり坂(代々木上原)

やりくり坂という名前はユニークである。 渋谷区の資料によると、昭和4年(1929)頃、付近の住民が坂を作るのに必要な費用を、やりくり算段して出し合い、また労働奉仕もして開通させたのが由来だという。 この坂が出来てから、代々木上原から渋谷、青山方面へ出るのが非常に便利になったという。

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この坂道はJASRAC(古賀政男音楽博物館)の裏側の道になる。同じ時期に井の頭通り(水道道路)も開通しているので、その逸話の真相はよくわからない。 JASRACがビルを建てた時も、地元での評判は悪かった。 現在のJASRACの体質についても、対相撲協会並みの不信感を持つ人が多いと思う。 私も代々木上原に居た時期があったが、地域にも国民にも嫌われている社団法人の代表格と言えるのではないだろうか。

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JASRACのことはこれ以上触れたくないので、この坂の話に戻すと、坂下は渋谷川支流宇田川の源流にあたる谷筋。 昭和戦前期までは谷のエリアはほぼ田んぼだった。戦前戦後辺りから民家が増え始め、平成に入ってからは現在の様な高級住宅地になった。 代々木上原に住む人々は昔から、駅が谷底にあるので、どこに行くにも急な坂を登らなければならなかった。

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2018年5月13日 (日)

夕やけ坂(恵比寿)

恵比寿西1丁目にある長谷戸小学校、その校門前の坂道が夕やけ坂である。 坂道自体は戦後の区画整理によるもの。公園の脇から小学校に向かって上りになる。 小学校は台地の上に位置している。 駒沢通りと校庭の標高差は10mある。

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今年で創立105年とあるが、この場所に移転してきたのは昭和14年である。この小学校の音楽教師に草川信という人がいた。「夕焼け小焼け」「ゆりかごの歌」「汽車ポッポ」などの誰もが知る唱歌を多く作曲した。草川氏に因んで長谷戸小学校はゆうやけこやけの学校とされている。

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石碑が校門前に立っている。 そこには次のように彫られている。

「草川信先生は大正6年3月に音楽学校を卒業、同年4月より長谷戸小学校の若き音楽教師として着任。 昭和2年4月までの十余年勤務されました。その間児童の音楽教育に情熱を傾けられ,、本校児童の音楽的才能の啓発・向上に尽力、幾多の功績を残されました。 さらに本校在職中に児童の愛唱歌をつぎつぎに作曲・発表、子どもたちはこの歌を口ずさみながら成長しました。  ここに創立75周年を記念して草川先生を偲びこの顕彰碑を建立するものであります。」

草川氏が音楽教師として勤務していた頃の長谷戸小学校の場所はここではなく、内記坂の坂下だった。

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2018年5月12日 (土)

内記坂(恵比寿)

東横線代官山駅のトンネル上にある駅東口の前の通りを恵比寿方面に向かう。 途中から長い下りになる。昔は長谷戸町と衆楽町の町境の道だった。ゆるやかにカーブしながら下っていく。明治時代には恵比寿と代官山を結ぶ最短の道として開けていた。

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内記坂の坂名の由来は、書物によると、横山内記の抱屋敷があったことに由来するとある。 横山内記は江戸時代の旗本、大名ではない。どうも諸説があるようで、特定は難しい。 ただ1750年頃の江戸絵図にはすでに「ナイキ坂」と書かれているので、ここが内記坂であったことは間違いない。

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そうなると横山内記が何者なのか、ここに抱屋敷を所有していたのは旗本の横山内記なのかという点にも不安がある。周辺はむしろ松平丹後守の抱屋敷が複数あったので、そっちの名前で呼ばれる方が自然な気がする。 もっともこの坂に付いては坂の先駆者のひとりである横関英一氏が詳しく書いているので、それも参考にした。 ただ、周辺の開発があまりに進みすぎたので、内記坂という名前が忘れられるのはそう遠い話ではないかもしれない。

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2018年5月11日 (金)

衆楽坂(恵比寿)

昭和30年代の土地区画整理事業で恵比寿や代官山の地名は大きく変更になった。以前の衆楽町、長谷戸町、代官山町、丹後町、田毎町、公会堂通りの6町の全部、または一部が恵比寿西2丁目になった。 しかし意外と地元のお年寄りは旧町名で呼ぶことが多いし、町会も昔の区割りのままの場合が多い。やはり、町の単位というのは大きすぎてはいけない。 都会であってもそこそこの小さな単位が必要なのだと思う。

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代官山坂から東横線を谷底のやや東側で横切り、そこから8mほど上って再び下る。 その下り坂が衆楽坂である。 もちろん由来は衆楽町という町名だが、衆楽の由来が分からない。 衆楽町という名前は地図を見る限りでは、関東大震災以降の名前らしく、それ以前は代官山の傾斜地で人もほとんど住まない場所だったので、地名は不要だったのだろう。

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恵比寿とか代官山のように、平成になってから人気の出た街にあやかって、マンションやビル名にその名前を付けたがる不動産オーナーが多い。 集落坂周辺はほとんど代官山が付いている。 ビル名・マンション名の規制は何とかならないものかと思うが、経済を優先すると大切なものを失うことがある。代官山と付けるだけで家賃を1割増しできるとか、そういう類のせこい話が多いのだろう。  お役所にはもっと長い目で地域を見てもらえるようになるとありがたい。 もっとも明治時代はここは代官山だったと言われればそれまでだが。

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この衆楽坂の坂下には7坪程度の場所に5基の庚申塔と1基の馬頭観音が保存されている。  作られた年代は1664年、1668年、1674年、1676年と古く、下澁谷村の村名も彫られている。 残りの1基は明治のもので、馬頭観音と並べて道路側に立てられている。 散歩をしていると、各地の庚申塔やお地蔵様に年配の方がお参りして、掃除をしたり、花や供え物をしているのに出遭うことがある。 日本人の心の琴線に触れるものがある。 そういうお年寄りを見ていると、涙が出そうになることがあるのだ。 自分たちはこれを失ってはいけないという思いが湧いてくる。

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2018年5月10日 (木)

代官坂(代官山)

代官山のメインストリートである八幡通りと駅のある谷の間の代官山の路地の坂道で、坂の下半分は真ん中部分が50段ほどの階段になった作りをしている。 古くからの坂名ではなく、昭和初期から近隣の人々がそう呼び始めた。 坂の高低差は10mほどある。

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新撰東京名所図会にある代官山の解説は、「代官山とは渋谷川並木橋より鉄道踏切を越えて、南の高地をいふ。彼の岩谷松平の赤門赤屋は此に至る入口に在りて、天狗山と自書しあるはおかし。もとは全く山林地なりしが、今は新築の人家在り。 幕府時代は代官所の所轄林たいしより此名あるにや。之を南進すれば其の右は小名猿楽なり。」とある。新撰東京名所図会は明治の中期から末期のものである。その頃はまだこの道は谷の田んぼへ降りるための農道程度だった。

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したがってこの坂道も比較的新しい坂なのだが、風景がいい。地形に対して素直なつくりをしている。 関東大震災以降、山林だった代官山にも多くの人々が移り住み始めた。 この階段付きの坂道は、その頃の代官山のイメージを想起させてくれる。

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2018年5月 9日 (水)

代官山坂(代官山)

代官山はいつからお洒落なエリアになったのだろうか。 1970年代後半に私が中目黒に住んでいた頃は、急行の止まらない列車のはみ出す小さな駅という認識だった。 中目黒の駅前から見上げると、そこには明らかな河岸段丘があり、旧山手通りには上り坂になるのであまり出向かなかった。 私が近隣住民だった当時はまだ同潤会代官山アパートがあり、渋谷の外れだった。

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代官山の地名の由来は江戸時代の小字名として残っているが、代官の屋敷があったからとか、代官所有の山林があったからとか諸説あって定まらない。 暗渠マニアは鶯谷の沢を「三田用水鉢山分水」、代官山を走る谷を「三田用水猿楽口分水」と呼ぶが、三田用水ができた1664年からわずか350年で谷が形成されるとは考えられないので、もともとの沢があったとするのが自然である。代官山駅も(旧)東横線もこの谷筋に作られた。

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明治時代の地図ではこの谷の両側はわずかな田んぼと、それを囲む針葉樹林、そして崖線には広葉樹林の林になっていて、古道である八幡通り沿いにポツポツと家がある。 街が開発されたのは大正時代になってからで、この広い代官山坂も尾根筋の八幡通りから下る道としてその頃開かれた。代官山坂という坂名で呼ばれるようになったのは昭和の初めころのようだ。 この道は線路を横切り、衆楽坂を経て恵比寿駅に至る。

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2018年5月 8日 (火)

天狗坂(代官山)

代官山と言っても並木橋に近い。 南北に走る八幡通りは古い鎌倉街道。 青山学院から代官山鎗ヶ崎へのこの道は山手線を跨ぐ。 裏手の道は鉄道のなかった昔は線路あたりで分岐して上村坂へ繋がる道で、こちらも古道である。 その古道と古道の間をつなぐ路地に天狗坂がある。

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坂下の古道の北側は渋谷川の支流の鶯谷である。この辺りは谷が広がっており、明治時代、天狗坂の先には沢に水車もあった。 明治の地名では「中澁谷長谷戸」となっている。 恵比寿にも長谷戸(ながやと)小学校があるが、しばしば長い谷の入口を「長谷戸」と呼んだという。どちらも狭い谷がぱっと広がる辺りを指す。

現代の天狗坂は車両通行止めだがなぜか車が駐車している。 坂の真ん中には「てんぐ坂車止」と彫られた石柱が立っている。大した性根をしているものだ。この辺りの相場は月極4万円だから、駐車違反を取られても損した感覚は薄いだろう。 そんなことはどうでもよく、この短い天狗坂になぜ名前が付いているかである。 塀側に教育委員会の説明板がある。

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「この坂を、天狗坂といいます。岩谷松平(号を天狗、嘉永二年~大正九年(1849~1920))は、鹿児島川内に生まれました。明治十年に上京し、間もなく銀座に、紙巻煙草の岩谷天狗商会を設立し.その製品に金天狗、銀天狗などの名称をつけ、「国益の親玉」「驚く勿れ煙草税金三百万円」などの奇抜な宣伝文句で、明治の一世を風靡しました。
 煙草の製造に家庭労働を導入するなど当時としては画期的、独創的な工夫をしました。明治38年(1905)、煙草専売法が実施されると、この付近の約43,000平方メートル(13,000坪)の土地に、日本人の肉食による体質の向上を考えて、養豚業をはじめるなど、国家的な事業に貢献しました。晩年、岩谷天狗がこの地に住んだことから、この坂名が生れました。」

と書かれている。 人名が由来の坂道であった。岩谷天狗は代官山を天狗山と呼ばせ、自分の家は朱塗りにしていたという。

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この塀のある家は古くからある民家で、この家の敷地内に数基の石仏がある。 庚申塔、十三夜塔、地蔵塔がある。 庚申講については省略するが、ここの庚申塔は右から正面金剛、天邪鬼、三猿、あと写真外だが日月をかたどったものなどが並ぶ。 網があって引いて撮影できないので一部のみになっているが、地蔵立像には「左目黒道」と彫られていて道しるべになっていたようだ。

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2018年5月 7日 (月)

亀山坂(代官山)

南平坂に相対するのが亀山坂。 坂名の由来は教育委員会にもわからないという。 坂下の南平坂から変わる谷底が鉢山町交番。 区の資料では、古くから亀山坂と呼ばれていたようである。

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渋谷区の資料によると、付近に坂名の起源となるような人物もいた記録がないので、いつからか坂の形状を亀の背に見立てて亀山坂と呼ぶようになったのかもしれないと、自信無さげに記述している。 この道はもともと明治以前は街道ではなく、細い農道だったらしい。

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鉢山町の名前については、ここに法道上人というお坊さんの鉢がここに飛んできて落ちたので鉢山と呼ばれるようになったと土地の言い伝えにあるという。 空海の三鈷もしかり、お坊さんの投げたものは変なところに落ちるものだ。

明治時代の地図を見ると、三田用水の水はこの下の鶯谷へ流れる沢には流れていないようである。沢筋は元水道橋の西郷橋の下から流れ、鉢山町交番裏手の鉢山公園へ抜ける細路地を流れていた。 こういう薬研風の坂には必ず暗渠があり、辿り甲斐があるものだ。

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2018年5月 6日 (日)

南平坂(渋谷)

代官山の旧山手通りは尾根筋を流れる三田用水沿いの道である。 そこから現在の渋谷駅埼京線ホームの恵比寿側の端あたりへ切れ込む窪地が鶯谷。現在もこの谷筋は「鶯谷町」という住所である。 鶯谷を流れていた川の名前は分からない。 東京オリンピックまでは開渠だったが、その頃埋められてしまった。

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その水線沿いに南平台と鉢山町の町境が走る。町境と垂直に国道246の道玄坂上からの道が谷に向かって下っていく。 これが南平坂で、名前の由来は南平台という地名である。 ただし南平台という地名は明治末期に付けられた町名。 そして南平坂はそれ以降に開かれた道である。

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坂を下りきると向こう側に続くのは上りの亀山坂。 薬研の形をしている。谷底の交差点は変則の五差路。 角に派出所がある。派出所は代官山側にあるので鉢山町交番と呼ばれる。南平坂の南西には新日鐵住金の南平台公邸、向かいには高級マンションで、どちらも緑豊かな高級住宅地を感じさせる。 木漏れ日が心地よい。

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2018年5月 5日 (土)

間坂(渋谷区桜丘)

こちらの間坂は「あいだざか」と読ませる。 246の渋谷駅前交差点から斜めに抜けて代官山へ行く抜け道ルートとしてドライバーの間では知る人ぞ知る道。 以前からどうしてこの道はこんなにくねっているのだろうと思っていた。 位置的にはセルリアンタワーの裏道になる。

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調べてみるとこの道は意外と古い道であった。と言っても関東大震災後の話である。 この道を境に、北を道玄坂まで大和田町、南を桜丘町としたので、その間の坂道ということで、間(あいだ)坂という命名らしい。 この町名になったのが昭和3年(1928)なので、その時からかもしれない。

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渋谷駅の南に位置する桜丘町は丘陵地形。 渋谷川の支流である鶯谷という流れが削ったもの。 目黒川と渋谷川の間には丘陵の尾根筋が走っていて、その尾根を三田用水が流れていたが、この鶯谷の源頭部分が低くなっているため、三田用水は仕方なく水道橋で谷を越えた。上の写真の旧山手通りの西郷橋である。 もとは水道橋だったきれいなアーチ橋で、昔の建築のセンスの良さに感心する。

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2018年5月 4日 (金)

道玄坂(渋谷)

坂名は全国区の高い知名度、おそらく誰でも知っている道玄坂。 現在渋谷駅周辺でJRとクロスするのは国道246号線ともうひとつ、道玄坂から宮益坂の道の二本がメイン。 国道246号線は戦後高度成長期に開通した道である反面、道玄坂は江戸時代以前からの古い街道筋である。

江戸名所図会には、宮益坂から下り渋谷川を渡って道玄坂をくねくねと上り、やがて松見坂に至る景色が描かれている。 ほぼ完全に野原と山の景色である。

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道玄坂の標柱には次のように書かれている。

「江戸時代以来、和田義盛の子孫大和田太郎道玄がこの坂に出没して山賊夜盗のようにふるまったとの伝説がありました。しかし本来の道玄坂の語源は、道玄庵という庵があったことに由来すると考えられます。」

前半の説は道玄が洞窟に潜んで盗みや強盗をはたらく話で、こっちの方が私は面白い。後半の説は、この地に道玄寺という寺があって、そこの僧侶の名が道玄だったことに因むというもの。 ただ宮益坂は江戸時代から街道沿いの店もあり街の雰囲気はあったが、道玄坂が開発されたのは明治の後期で、世田谷区に軍の施設が出来て軍人が往来するようになってから人が集まり始めたという。

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道玄坂が本格的に人通りを見せるようになったのは、関東大震災で焼け出された人々が世田谷方面に家屋を求め、そのために往来が増えたことによる。大正生まれの亡父が十代の終わりころ東京に出てきて渋谷をうろついていた話をしてくれたことがある。 道玄坂上には伴順三郎の芝居小屋があったことなどを聞いたが、30年くらい前までは花街っぽい面もたくさんあった。 渋谷駅の西側は長い間「俗」の街であり続けたのだと思う。

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2018年5月 3日 (木)

間坂(渋谷宇田川町)

この路地に坂名が付いているとはいささか驚いた。 しかしLoftと紀伊国屋書店の間には石柱が立っており、「間坂」と彫られている。 石柱ははんこを逆さにした形になっている。 渋谷区のHPによると「まさか」と読ませるらしい。 いっそこの路地を「まじ」と読ませて間路と書いてはどうだろうかと提案してみたい。

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一応短い路地なのに2m程度の高低差がある。 平成元年にLoftが一般公募して命名したようだ。 由来はいくつかある。 「渋谷駅と公園通りの間」、「ビルとビルの間」、「『まさか』という語呂の良さ」、「『間』という漢字が人と人との関わり合いをイメージする」という理由らしいが、それを理由にすると日本中の路地に間坂が出来てしまう。

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やはり公募や企業や自治体が決める方法はダメだ。 渋谷センター街が「バスケットボールストリート」と名打ったが、だれもバスケットボールストリートなんて言わない。 むなしくも街灯にその文字が林立しているだけで、馬鹿丸出しのところがある。 センター街はセンター街である。 渋谷でなくとも三ノ宮でもセンター街はセンター街だ。 その通り名であった時代が地層のように積み重なって地名は生まれる。 また、一部の人々が呼び始めたのが、大半の人々に支持されて地名は生まれる。 そんな一企業、一自治体、一個人が決めるのは、プロセスを含めてセンスのかけらもない。

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2018年5月 2日 (水)

スペイン坂(渋谷)

これも新しい坂である。 いつごろからスペイン坂と呼ばれるようになったのだろうと記憶をたどってみる。 上京して渋谷を歩くようになった昭和51年頃にはもうそう呼んでいた記憶がある。 渋谷区の情報を見てみると、昭和50年に付けられた坂名だそうだ。

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渋谷区のHPには以下のように書かれている。

喫茶「阿羅比花(あらびか)」の店主、内田裕夫氏は、写真で見たスペインの風景に心ひかれ、店の内装 をスペイン風に統一していました。昭和50年にパルコからこの坂の命名を依頼されたときには、迷わずこの名をつけたそうです。命名後、近所の人たちも協力して、建物を南欧風にしました。

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記憶では「スペイン坂スタジオ」にいつも人だかりができていた。 1993年にパルコとFM東京が共同で街の一角に設置したスタジオで、2016年まで使われていたが、パルコの建て替えと共に閉鎖した。

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さらに時代を遡ると、スペイン坂自体は明治時代からある道である。 渋谷川支流の宇田川が削った崖線の坂道。 昔の宇田川はスペイン坂下、今の宇田川交番の傍には水車があった。 明治の終わりから大正にかけてこの辺りの開発が進みなくなってしまった。 そんな渋谷を現代の誰が想像できるだろう。

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スペイン坂の1本西にある坂道もいい味を出している。 通称道路の名前は「ペンギン通り」というらしい。 別名愛山通りともいうのは、この通りの脇にごみに囲まれて、「山路愛山終えんの地」の標柱が立っている。終焉ではなく終えんと書いたのは、街に合わせたのだろうか。 ペンギンの由来については区のHPにもあるが、訝しいのでノーコメント。

明治時代までは松涛から流れてきた沢が今の東急本店の下を流下し、吉本ホールのところで宇田川と合流していた。 その頃の渋谷を見られるものなら見てみたい。

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2018年5月 1日 (火)

オルガン坂(渋谷)

東急ハンズ渋谷店の西側の道路は井の頭通りの神南小学校下からいきなりの坂になっている。 この坂をオルガン坂と呼ぶ。 車道と歩道(路地)が二段になっているのが特徴で、そこにはモンベル渋谷店がある。 渋谷は店舗やテナントの変化が多いので、あると書いて数年するとなくなっていることが多い。 しかし東急ハンズ渋谷店は1978年の開店から40年頑張っている。 ここが3号店で、1号は藤沢、2号は二子玉川だったが、どちらもすでに消えた。 渋谷ハンズのひとつの階が三段になっている構造はユニークで面白い。

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オルガン坂の名前の由来は渋谷区のHPによると、通りの周辺に音楽関係の店が多かったところから付いた、あるいは東急ハンズ前の階段がオルガンの鍵盤に見えたからという説を挙げているが、ちょっと訝しい。

この坂を作り出したのは宇田川(渋谷川の支流)である。井の頭通りの裏手に暗渠の通りがある。 上流へ進み、代々木八幡で支流の河骨川に分離、河骨川は「春の小川」の唱歌で有名だが、明治時代まではこの渋谷の真ん中あたりでも蛍が飛んでいた。 「ホタルの住む渋谷」なんてCMがあるが、もともと住んでいたのだからクリエイターの認識が不足している。正しくは「ホタルの復活した渋谷」である。

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何しろ井の頭通りから松涛側は1900年頃は田んぼが広がっていたのである。 渋谷と言えば当時は道玄坂から宮益坂が町で、現在のハンズの西側の田んぼの先には鍋島農場という農場が広がっていた。 渋谷区松濤(住宅地地価日本一)の町会によると、明治9年に徳川家から佐賀藩の鍋島家がこの辺り一帯を買取り、鍋島家は失業武士の救済目的で「松涛園」という茶園の経営を始めた。 明治後半になって、茶畑は農場に変わり、大正末期から住宅地へ分譲されていったという。

忠犬ハチ公の飼い主である上野英三郎教授がハチ公と住んでいたのが松涛1丁目だった。上野氏は大正14年に亡くなったが、それから9年間ハチ公は渋谷駅で待ち続けたというのが伝わる話。 大正生まれの私の家内の亡父は生まれてからずっと恵比寿育ちで、当時渋谷に遊びに行ってハチ公を見たと言っていた。

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2018年4月30日 (月)

フランス坂(渋谷)

きわめて新しい道路である。 消防署とハローワークの間を上るほぼ直線の坂(途中で少しだけ曲がっている)。 東京オリンピック前後に区画整理されたときに作られた道路である。 それ以前から消防署と職業安定所は今の場所にあった。 この道は細い道で、この辺りは北谷町と呼ばれていた。

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坂下の消防署の駅寄りにあった東京電力の電力館の辺りが渋谷区役所だった。 東京オリンピックの翌年(1965)に今のNHK前に移転したが、その区役所も現在建て替え中である。 奇しくもここに私の本籍がある。 山口県生まれなのだが、30数年前に結婚した時にここを本籍とした。

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渋谷区のHPによると、この道はイエローストリートとも、バスティーユ通りとも呼ばれるが、由来は分からないとある。 昭和という新しい時代なのに由来が分からないというのは、調べて切れていないという気がする。 私が渋谷をうろついていた時期は1970年代後半から1990年代半ばまでだが、坂下の道をファイヤー通りと呼んでいたものの、この坂にそんな名前はなかった。 何かシャレオツな小説か何かでそういう呼ばれ方をしたのが広まったとか、黄色い建物が一時期あったとか、そういう類ではないかと想像している。 江戸っ子も現代の烏合の衆も坂名というのは単純につけるのが常だからである。

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2018年4月29日 (日)

金王坂(渋谷)

通称青山通り、国道246号線が六本木通りと分岐して、青山に向かって上る広い坂道が金王坂。 古い道ではあるが、坂名は本来なかった。 東京都内で昭和の中期に町名変更が進むにつれて、古い地名が消えていった時代、宮益坂の北側は美竹町、南側が金王町と呼ばれていた。

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金王町の町会の人々が、渋谷金王丸に因むこの地名を何とか残そうと、この新しい国道の坂道に「金王坂」という名前を付けたのが、昭和54年(1979)のことだった。 その4年前の昭和50年に坂の脇に32階建ての東邦生命ビルが竣工した。 渋谷地区では初めての高層ビルだった。 現在は東邦生命が無くなり、渋谷クロスタワーという名称になったが、当時は渋谷のランドマークのような建物だった。

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坂上に黒御影石の墓石のような金王坂の石柱が立っている。

「明治、大正、昭和と波瀾万丈の過程を経て市区改正、町名変更に伴い、先輩諸氏の築かれた幾多の功績をたたえ、由緒ある金王の地名を保存し、ここに [金王坂] と命名する。」 とある。

この区間の青山通りと六本木通りが開通したのは、オリンピック前の昭和30年代に入ったころ。 ちょうどこの時期に東急文化会館(なんとル・コルビュジェの設計)が建てられた。今の渋谷と同じような大変遷の時期だった。 それから60年後の現在、この街はまた造り直しをしている真っ最中である。

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2018年4月28日 (土)

宮益坂(渋谷)

渋谷では道玄坂の次にメジャーな坂。 山手線から青山方面に上る坂で、古くからの街道でもある。鎌倉時代は鎌倉街道の主要道である中道は、代官山から並木橋、八幡坂を経て青山学院大学、表参道北青山のまい泉の通りから勢揃坂を経て鳩森八幡へというのが主要道だったが、江戸時代になってからは大山街道が主要道に変わっていった。

大山街道は三軒茶屋から池尻大橋、道玄坂を経て渋谷川に架かる富士見橋を渡り宮益坂(江戸時代は富士見坂と呼んだ)を通って江戸城へ向かった道である。

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坂上のガソリンスタンド辺りから建物の低かった昔は富士が見えたそうだが、もちろん今は見える由もない。 坂の途中に標柱がある。

「かって、富士見坂とも呼ばれたこの坂一帯は、古くから矢倉沢往還(大山道中)として江戸の町と郊外農村との接続点であったので、ささやかな商人町を形成していました。 ここが渋谷宮益町と称されていたので、宮益坂と呼ばれるようになりました。」

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東京は日本で最も変化の激しい都市、その中でも渋谷は群を抜いて変化しつつある街である。 現在東急東横店は半分取り壊され、渋谷川の流路の付け替えが終わり、ここから何本かの超高層ビルが建ち始める。 長年親しんできた東急東横線も地面の下に消え、宮益坂下は超高速早送りのように毎日変貌している。私の渋谷はプラネタリウムのドームのある文化会館と場末感満載の道玄坂、路地に入ると妙にハイカラな店があったりして、ここから新たな文化が生まれる予感、そういう昭和の渋谷である。

小説家田山花袋(明治4年~昭和5年)の記述が興味深い。

「宮益の坂を下りると、あたりが何処となく田舎々々して来て、藁葺の家があったり、小川があったり、橋があったり、水車がそこにめぐっていたりした。 私はそこを歩くと、故郷にでも帰っていったような気がして、何となく母親や祖父母のいる田舎の藁葺が思い出された。」

明治までは田んぼの中に小川が流れていた渋谷の街だが、どんなに開発が進んでも銀座線は上層階から発着し、井の頭線はトンネルを抜けないと下北沢には行くことが出来ない。 超高層ビルに上って文明を喜んでいる人間は、高い樹木に上って安心している猿に似ている。

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2018年4月27日 (金)

勢揃坂(青山)

渋谷には「谷」が付き、千駄ヶ谷には「谷」、青山には「山」が付く。 しかし山が所以ではなく、江戸時代初期にこの地に郡上八幡藩主の青山氏の下屋敷があったためというのが定説。 現在の墓地が屋敷の場所。 勢揃坂周辺は青山と言っても神宮前の北の方になるので、渋谷川が近く江戸以前は田んぼだった。

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この坂を歩いていて違和感を感じたのは、並行する渋谷川が南に向かって流下しているのに、この坂は南に向かって上っていくことだった。 ただ地図を見ると渋谷川は勢揃坂の北端辺りから流れを南西に変えて、隠田(今の裏原宿)に流れている。 勢揃坂は川から離れていく形になるので、上りになるのだった。

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江戸時代も下期になると、この辺りまで大名屋敷、武家屋敷が広がってくる。 渋谷川から見ると高台なので武家屋敷になったのだろう。  現在は青山高校、國學院高校、移転した日本青年館がある場所は大名屋敷と百人組屋敷だった。 百人組は江戸城の警備を受け持つ鉄砲隊で、青山には甲賀の者が多かったようだ。

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坂上に近い国外院高校と公園の間あたりに説明板がある。

ここのゆるい勾配の坂を 勢揃坂 といい、渋谷区内に残っている 古道のひとつです。後三年の役 -- 永保三(1083)年に八幡太郎義家が奥州征伐にむかうとき、ここで軍勢をそろえて出陣して行ったといわれ、この名が残されております。
 このとき従軍した武士のなかに 板東八平氏(平氏の一族)のひとり川崎重家(渋谷の領主)がおり,手柄をたてたという伝説があります。真偽についてはもちろんわかりませんが,区内に伝わる 源氏に関する伝説のひとつとして注目されます。

徳川の時代よりもさらに遡る坂名の由来であった。 別名を源氏坂という。 この道は鎌倉時代の古道で、中世の頃は京の都から来ると、宮益坂を経てここを通過し、麹町、赤坂、霞が関を経て隅田川橋場の渡しへと繋がっていたという。 ただ諸説あり、この道から北上して、豊島区北区を抜け岩渕の渡しで隅田川を越えるルート説もある。

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2018年4月26日 (木)

榎坂(千駄ヶ谷)

観音寺坂の途中から南に入る道がある。 すぐに古刹の瑞円寺の入口があり、緩やかな石組みの階段になっていていい雰囲気を出している。 瑞円寺は当初鳩森八幡の別当寺だった。 静かな寺である。 この門前から下る道が榎坂と呼ばれる。

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坂名の由来は、この坂の途中(上の写真の石塀の辺り)に榎の巨樹があったためである。 戦前まではあった。 この辺りは戦火に遭い、ほぼ焼失してしまったので戦後は坂名だけが残った。 この榎は「お万榎」とよばれた。というのも幹が二股に分かれ、その付け根が空洞になっていたことから、性的な信仰を集め、樹下には榎稲荷が祀られ、江戸時代は内藤新宿辺り(今の新宿御苑前)の遊女や女将がたくさんお参りに訪れたという。

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坂下の通りに標柱が立っている。

「榎坂」とは、ここから右手に瑞円寺の門前へ向かって登る細い坂道のことです。 かって、榎の巨木があったことから「榎坂」と名づけられたといわれており、現在は鳩森八幡へ向かうこの道の右手に商売繁盛、縁結び、金縁、子授かりや子供の病気平癒などの信仰を集める榎稲荷があります。

と書かれている。今の榎稲荷は少しだけ八幡寄りに移築され残っている。

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2018年4月25日 (水)

観音坂(千駄ヶ谷)

千駄ヶ谷駅の南にある東京体育館の敷地は明治維新以降徳川家の瀟洒な館だった。 その南側、鳩森八幡から東に向かって下る坂道は江戸時代からの古い道で観音坂と呼ばれた。 この坂の北側には今も聖輪寺がある。 南にある瑞円寺は鳩森八幡の別当、その隣にはお化けトンネルの上の墓所を持つ千寿院が、江戸時代から変わることなく現在も存続している。

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この観音坂を下ると工事中の国立競技場にぶつかる手前で昔は渋谷川を渡っていた。 川の辺りにも立法寺などいくつか寺院があったが、明治時代に青山練兵場となってしまった。 現在の国立競技場、神宮球場、神宮外苑などはその練兵場の跡地である。

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坂下に標柱が立っている。

「坂名は、真言宗観谷山聖輪寺の本尊であった如意輪観音像に由来します。観音は当寺の開山とされる行基の作と伝えられていましたが、残念ながら戦災によって焼失してしまいました。江戸名所図会によると、身の丈は三尺五寸で、両眼は金で作られていたといいます。」と書かれている。

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2018年4月24日 (火)

八幡坂(鳩森)

原宿と千駄ヶ谷の間に鳩森八幡神社がある。 富士塚で有名。 千駄ヶ谷一帯の総鎮守として、昔から親しまれてきた。 創建は貞観2年(860)、平安時代前期である。 千駄ヶ谷の富士塚は管制7年(1789)の築造。 昔のままの姿を残している東京都内では最古の富士塚。

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年々説明板やおまけのPRが増えてきて俗っぽくなってきたのが残念。 ただ都内の富士塚の中ではやはり横綱級で、ビルの上に上るよりもここから望む方が満足度が高いから不思議である。 

渋谷区には八幡坂が二つ、一つは金王八幡宮の東側、青山学院大学から並木橋に下る坂道。 もうひとつがこの鳩森八幡の脇の八幡坂である。

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神社の入口の北西側の道路が八幡坂。 傾斜もさほどではないし、まっすぐで普通の坂道である。 江戸期にはなかった道で、明治期以降に開かれた。 江戸時代が終わっても徳川家は特別の扱いを受けており、この少し北側にある現在の東京体育館の敷地すべてが徳川邸だった。 また神社の南側にも明治時代から戦前まで徳川邸があり関係があるのではないかと調べたがわからなかった。

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坂下から望むとここが上り坂だということがよくわかる。  ここは東側には新宿御苑西の天龍寺を源頭とする渋谷川が流れ、文化服装学院の西側を源頭とするその支流が代々木を経て神宮前で渋谷川に合流していた、その二つの流れの間の台地である。

瑞円寺はその尾根筋だが、尾根の先っぽはビクタースタジオの裏手のあの何故ここにあるかわからないトンネルの南にある。 仙寿院というお寺の墓所になっているので、ビクタースタジオは都市伝説に事欠かない。 その辺りはどんなに都会化しても、土地の記憶がきちんと残っている例であろう。

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2018年4月23日 (月)

いなり坂(恵比寿)

2015年にJR東日本管内で連続放火事件があった。 その中でJR山手線恵比寿駅の放火はここのケーブルだけで、山手線、埼京線、湘南新宿ラインをすべて止めてしまうという事態になった。 この線路わきケーブルは線路わきの道路近くにあり、設置場所にリスク認識がなかったと言わざるを得ない。 翌月自称ミュージシャンという怪しい男が逮捕され事件は決着した。

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その事件場所はこのいなり坂の坂上から線路脇に入ったところ。 いなり坂は恵比寿駅の西口脇から線路沿いに高度を上げていく。 貨物駅時代の恵比寿駅はこの坂の中腹あたりにあった。 西口はなく、東口のみだった。 こちらは台地の上に上るための古くからの道なのである。

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線路沿いに山手線のホームを見下ろしながら上っていくのだが、線路との間には網塀とガードレールがある。 この二重構造は線路に車が転落しないようにするためだろう。 しかし古いガードレールで裏側は錆びている。 事故防止目的ならそろそろ交換した方がいいかもしれない。

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坂上に近づくとビルの隙間にお稲荷さんがある。 これがいなり坂の由来である。 この稲荷は意外と古いもののようだ。 明治の地図にはここに鳥居マークが既にある。 稲荷は福徳稲荷という。 最近パワースポットブームで人気が出てきたようで、残念ながら入口にロープが張ってある。 神社というのはそういうものではないのだが、どうもズレてきているように思う。

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江戸時代はこの辺りを稲荷山と呼んだという。 当時からこの稲荷を信仰する人は多く、明治時代に貨物駅だった恵比寿駅を乗客も乗降りする駅に変える工事中に、絵馬を割って焚火をしたり、小便を掛けたりすると祟りがあったという。 もっとも昨今のパワースポット情報そのものが、くだらないものばかりで辟易しているが、こういう街の稲荷は大切にそして親しみ深くしなければならないと思う。

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2018年4月22日 (日)

和田坂(恵比寿)

殆ど資料のない路地の坂道である。 渋谷区の情報によると、この坂に住んでいた人の名前から和田坂と呼ばれるとあるが、和田氏の名前が分からない。 もっとも人名が坂の名になることはしばしば起こる。 新宿区の渡邊坂、大田区の清浦さんの坂、文京区の服部坂など、意外に多い。

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恵比寿駅からのバス通りと外苑西通りの交差点(恵比寿三丁目)は大通りの十字路だが、それぞれの角に45度の角度で出合う路地があり、8つの道が集まっている。 そのうちの北西にあるのが和田坂。 昔は豊澤町と言われいた区画なので、路地の奥にはキリスト教の豊沢教会がある。

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路地を入ったところの看板が昭和っぽくていい。 宮下質店の「新客歓迎最高評価」というのは郷愁をそそる。 電話番号が7桁なのもいい。 この坂を上ってまっすぐ行った先には、伊達坂のところで出てきた散歩犬の獣医があった。 古い道と新しい道がしのぎを削り、徐々に駆逐されていく様子が分かる路地が多い。 昭和になってバス通りが通されるまではこの道が主要道だった。

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バス通りの南側は昔の伊達前地区。 8差路の交差点に伊達前から下ってくる古い道が素晴らしい無名坂。ゆるゆるとカーブを描きながら下っていく姿には、人間が坂道を作った時の自然のままの姿が残っている。

こういう道路の多くは不動産業界で言う「2項道路」で、現在の法律(建築基準法)では公道は4m以上でなければならないとされるが、それ以前からある道ならばセットバックすれば建物を建てられる。 2項道路は殺したくても殺せない「存在が必要な道」かつ昔からの姿をとどめている道として貴重な文化財だと私は思っている。 坂道好きにとっては2項道路は魅力満載なのである。

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2018年4月21日 (土)

伊達坂(恵比寿)

恵比寿駅東口のエリアは駒沢通り、渋谷川、高速目黒線に囲まれた地域を恵比寿1丁目~4丁目としているが、昔は1丁目が山下町および新橋、2丁目が豊澤町、3丁目が伊達町、4丁目が景丘町だった。 渋谷区と目黒区の区境がガーデンプレイスの真ん中あたりを東西に走っており、北半分が渋谷区恵比寿、南半分が目黒区三田となる。

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その区境の由来は江戸時代に遡り、渋谷区側は南豊島郡渋谷村、目黒区側は荏原郡三田村だったことに起因する。 この辺りは江戸の外れも外れ、郊外の農村だった。 渋谷川が削った谷と目黒川が削った谷の間の台地が恵比寿であり、伊達坂は渋谷川側の崖線を上る坂道になる。

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坂は路地奥にひっそりとあるので探すのはなかなか大変だろう。 とはいえこの坂の坂下に知人の家があるので、私はこの辺りの地形は割と知っている方である。  影丘町と伊達町は崖線の町なのである。 坂の入口からしばらく行くと急に勾配が増す。

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途中クランクになっている辺りに擁壁上に築かれた橋の古い手すりが残っている。 昭和の中期にタイムスリップしたような街角の風景である。坂は70mほどで勾配は11%だが、途中の急な部分は20%近くある。 再開発の話が昔から聞かれているので、そのうち消滅してしまう可能性もある。

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坂名の由来は伊達町だが、伊達町の町名の由来は、この坂上にあった伊予宇和島藩伊達家の下屋敷(享保3年:1718年~)がもとになっている。 それ以前は長州毛利家の屋敷だったが毛利の名は残っていない。 明治中期になり、坂上一帯を伊達跡、伊達前と呼ばれたのが昭和になって伊達町となった。

なお恵比寿駅から延びるバス通りのバス停に「恵比寿二丁目(伊達坂上)」とあるが、これは間違いである。 広い意味では昔の伊達町の標高の高いエリアにあるので言えなくもないが、バス停の場所は厳密には坂下である。

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2018年4月20日 (金)

ビール坂(恵比寿)

恵比寿はビールの街だった。 現在の恵比寿ガーデンプレイスの敷地全体が明治以降日本麦酒(株)の工場。 主なブランドが恵比寿麦酒。 明治34年に恵比寿駅が開業するが、駅名は恵比寿ビール工場から恵比寿となった。それまで周辺には恵比寿という地名はなく、渋谷川より内側は広尾という地名だった。

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恵比寿駅はもともとビール工場のための貨物駅であったが、当初は駅とは反対側の出入り口から物流をおこなっていた。 工場門の北側に隣接するのは加計塚小学校。 その東側にまっすぐな道と、左に分岐する坂があるが、まっすぐな道は関東大震災後に開かれた車道。 それ以前は左の細いほうの坂道が坂下の渋谷川方面へのメインルートだった。 しかし地元ではどちらもビール坂と呼んでいた。

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現在の坂道は緩やかにカーブしながら下っていくが、これは度重なる修復を経ての結果で、昔はもっと急な坂だったといわれる。 工場で製造したビールは荷馬車でこの坂を下って出荷された。 その時代(明治)から地元ではこの坂をビール坂として親しんだ。

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現在はビルが立ち並ぶが、恵比寿が大きく変化したのはビール工場が閉鎖(1988年)し、恵比寿ガーデンプレイスが開業してからである。 ビール坂周辺は町家の立ち並ぶ通りだった。 周辺は景丘町と呼ばれ、名前の通り渋谷川周辺の山下町、新橋町から見ると丘の上だった。 山手線は恵比寿から目黒の間、切通しで通過している。 ビール工場は丘の上にあったわけだ。そのために貨物駅はビール工場脇に作ることが出来ず、現在の恵比寿駅の場所になった。
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家内と義父は加計塚小学校の出身で、実家は山下町にあったので、この辺りは庭の様な認識である。 景丘町は犬の散歩で歩き回ったが、坂の多い街だった。 散歩の終わりはビール坂を下ってくるルートが定番だった。 ビール工場辺りにはうず高くビール箱が積み上げられていた。

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恵比寿駅東口に短い坂があり、石畳が残っている。 これはビール坂から運ばれてきたビールを満載した荷馬車が上りやすいようにと敷かれた石畳である。 昭和後期から徐々にアスファルトで補修されてきて徐々に石畳が消えつつあるのは極めて残念。 この坂もまたビール坂と呼ぶに値する坂なので石畳も含めて残したい文化遺産である。

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2018年4月19日 (木)

ネギ山坂(恵比寿)

恵比寿駅の北側、明治通りからさらに路地を入ったところにある坂道。 昔この辺りにネギ畑があったことに由来するという。 坂の脇にあるのが法雲寺、坂上にあるのが東北寺。 法雲寺は山門をくぐるといきなり階段になる。 ここが渋谷川の河岸段丘であるためである。

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坂の上下でおよそ8mの高低差がある。 しかし坂上の東北寺の墓地は向こう側に向かって斜面になっている。 坂上が尾根になっている。 これは北東側にかつて渋谷川の支流イモリ川が流れており、それが刻んだ谷のせいである。 イモリ川は現在の青山学院大学構内を源頭に、常盤松から東京女学館前を流れて、臨川小学校下で渋谷川に注いだ。 東京女学館脇にはイモリ川階段という不思議な入口があり、そこから暗渠が下流に向かって続いている。

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江戸時代の切絵図を見ると東北寺はそのままの地だが、法雲寺の場所は祥雲寺となっている。 法雲寺は明治になってからここに移転してきたとあるので、現在広尾にある広い境内を持つ祥雲寺の別当だったのだろうか。

山手線、明治通りの近くにありながら、静かな路地を上ると江戸時代からの寺院墓所がある。 東京という場所が世俗をシャッフルしてまとめているような気がした。

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2018年4月18日 (水)

南郭坂(渋谷区東)

明治通りの東三丁目交差点から広尾高校へ上る坂道が南郭坂である。 南郭というのは人の名前、江戸時代中期の儒学者で、荻生徂徠の門下の服部南郭。 彼の別邸がここにあったのでこの坂道を南郭坂と呼ぶようになったという。 長い坂道なので傾斜はそれほど強く感じないが、広尾高校と明治通りの高低差は18mもある。

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この坂は江戸時代からある古い道で、広尾高校周辺には大阪府和泉辺りを治めていた備中伯太(はかた)藩藩主の渡辺氏の下屋敷があった。 その坂下に南郭の別宅があったことになるが、おそらく時代は南郭の方が先であろう。 江戸時代の大名屋敷は結構頻繁に変わっているので難しい。

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この南郭坂は別名を富士見坂という。 広尾周辺には富士見坂と呼ばれる坂が複数ある。南西の方向に下る坂の多くは富士見坂となり得たのは高い建物がなかったからで、現在の都心では富士見坂は絶滅した。

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坂上から坂下を望むと右手に水色の塀と服部南郭別邸跡の説明板がある。 この中に南郭坂と呼んだという記述がある。 南郭はもっぱら学問と風流を友としたが、温厚な人柄を慕う人も多く、ここにはいろいろな人が訪れていたという。

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この台地の高低差を知るには、南郭坂から渋谷寄りにある氷川神社を訪ねるといい。 國學院大學への上り坂や南郭坂では感じられない崖線を参道で味わうことが出来る。氷川神社は、古くは氷川大明神と呼ばれ、渋谷村・豊澤村の総鎮守であった。創建は不明(社伝には紀元1世紀日本武尊が勧請したとある)。

江戸名所図会に描かれた渋谷氷川神社には手前に水を湛えて流れる渋谷川、その向こうに奉納相撲の土俵と参道、階段を上ると社殿という風に描かれている。現在の社殿とは90度向きが違うのは何故だかわからない。 現在の社殿の向きは南南東向きで、江戸時代の社殿は渋谷川向きである。参道は渋谷川向きなので、最後に建て替えられて向きが変わったと推測される。

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2018年4月17日 (火)

八幡坂(渋谷)

昔、渋谷駅近くに城があったというのは知る人ぞ知る話。 渋谷駅の東口首都高速脇の渋谷警察署の裏手に金王八幡宮がある。 この八幡神社の場所が渋谷城の跡である。 平安時代末期から地方豪族の渋谷氏がこの辺りを統治、このちょっとした高台に平城を構えていた。 南側は渋谷川が堀の役割を、また東側はその支流の沢がやはり堀代わりになっていた。 城は1524年に北条氏に滅ぼされるまで存在した。

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実は初期のブラタモリでも渋谷城は取り上げていた。 写真のように現在でも境内は3mほど盛り上がった上にある。 神社の宝物館にこの渋谷城のジオラマが置いてあった。 金王八幡宮の由緒によると創建は1092年とされ、渋谷氏の氏神として場内に祀られたのが始まりとなっている。当初は渋谷八幡宮としていたが、渋谷家の金王丸が活躍したのちから金王八幡宮となった。

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境内にある説明板には、東に鎌倉街道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬谷)があったとある。また当時は辺りにいくつもの湧水があって、居城には条件の良い場所だったようだ。 鎌倉街道というのは現在の青山学院大学南側から代官山へと伸びた道がそれにあたる。

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八幡坂は台地から渋谷川へと下っていく坂道である。 江戸時代はこの辺りまでが大名屋敷のエリアで、なぜか切絵図では渋谷川に橋は架かっていない。 昔の渋谷川はかなり水量の豊かな川だったようだが、土壌が赤土なのであまりきれいな水ではなかっただろう。 また周辺人口も増えて、渋谷城があった時代にいくつもあった湧水がその後どうなったかは分からない。

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現在の道では並木橋で渋谷川を渡す。 明治通りを越えると上り坂が始まる。 六本木通りの北側の青学の辺りの標高が35mなのに対して、渋谷川付近は13mと20m以上の高低差がある。 これをほぼ直線で上っていく。 青山学院大学の敷地は江戸時代の広島県西条藩の上屋敷。 その手前の実践女子大学の辺りは、江戸末期にはNHK大河ドラマ『西郷どん』で話題の島津斉彬の下屋敷になっていた。安政の大地震で上屋敷が倒壊した島津家はここに篤姫も共に避難してきたという。

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2018年4月16日 (月)

原の坂(中町)

上野毛通りは多摩川沿いから環八を横切り等々力六丁目で目黒通りにぶつかる都道。 国分寺崖線を上野毛の稲荷坂で急登し、環八を過ぎると谷沢川へ緩やかに下っていく。 谷沢川を宮前橋で越えると、今度は玉川警察署交差点に向かって原の坂を上っていく。坂上は駒沢から等々力までの尾根筋を通る江戸道と呼ばれた古道。そして上野毛通りも二子道と呼ばれた古道である。

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中町付近は昔は野良田と呼ばれた地域で、清流の谷沢川の周りに田畑が広がるのどかな里だった。 野良田というのは、もともと草の生い茂った野原を開いて田んぼを作ったことに由来する地名である。坂下の谷沢川の宮前橋下流には姫の滝という数メートルの滝があった。 昭和13年の水害で滝は崩壊し現在は堰堤になっている。

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また橋と坂の間には天祖神社がある。創立は不明。 もとは神明宮と呼ばれ、明治になってから天祖神社となった。境内には弁財天もあり、谷沢川とは深い関係の村社だったことが分かる。 神社は小高い丘にあることが多いが、この天祖神社は川から遠くない平地にあるのはいかにも野良田の鎮守という気がする。

原の坂の名前の由来はこの辺りを「原」と呼んだことに因むという説がある。 旧地名では坂上を東原・麦原久保、坂の南側を南原と言っていた。 原という地名は記録にはなかったが、それら旧地名を総称して坂名が付いたのかもしれない。

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この辺りは現在でもまだ畑の残るところがあり、昔の風景を偲ばせる。 いったん丘の上まで原の坂で上った道は、尾根筋の江戸道を越えると再び下り坂になり、深沢方面から流下してきた呑川に向かう。 古道なので切通しになっておらず、土地の起伏をそのまま上下するので歩いても楽しい道である。

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2018年4月15日 (日)

満願寺坂(等々力)

満願寺坂は目黒通りの等々力跨線橋から駒沢公園通りとの交差点までの坂道。 坂下は東急大井町線等々力駅、坂上は玉川神社前になる。 等々力の地名の由来は、深沢城址の別名「兎々呂城」という説が有力だが、等々力渓谷の不動の滝の轟く音に由来するなどいくつかの諸説がある。 1551年に北条氏の配下の吉良氏の家臣南条右京亮が深沢城を築いたが、北条氏が豊臣に滅ぼされてからは南条氏はこの地に土着して開発をした。

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坂の途中に満願寺がある。 吉良家によって1470年に創建された古い寺で、もとは深沢坂にあったが、火事によって焼失し1564年頃この地に移転してきた。 その北側に隣接するのは玉川神社で、1501~4年頃やはり吉良氏によって熊野神社として創建された。 その後いくつかの神社を合祀して、明治末期に玉川神社となった。

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この満願寺辺りにはかつて4カ所の湧水があり、ここから等々力駅近くの谷沢川(等々力渓谷)に逆川という小さな流れがあった。 渓谷に架かるゴルフ橋前のポストのところに暗渠として残っている。 ここはもともと用賀から九品仏川として東に流れ呑川に注いでいたのだが、地学的には等々力渓谷の元の小さな沢が谷頭侵食して河川争奪し流れを変えた珍しい例である。

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等々力の本来の地形は、北の方が台地で樹林や畑、中程は底なし田んぼと言われるコメは作れるが軟弱な土壌、そして満願寺坂から下の地域は崖線の森というものであった。 多摩川の国分寺崖線の坂ではないので傾斜は緩やかだが、この傾斜も呑川が長い時間をかけて形成したものである。

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2018年4月14日 (土)

深沢坂(深沢)

駒沢公園通りは駒沢通りとの交差点「深沢不動」の南で二つの道に分岐する。 左の広いほうが昭和に入って開通した駒沢公園通り、右側が古道「江戸道」で、大山街道(国道246号線)から分かれた裏街道。 この江戸道は深沢から等々力を抜け、多摩川を渡して川崎の中原へとつながる道で、江戸へ行く道ということで江戸道と呼ばれていたようである。

深沢の地名の由来は呑川の沢が深い事から来ている。 呑川は8ヶ所の湧水を持つ沢を集めて大森の海岸に注ぐ東京の小河川だが、呑川の川名の由来は飲料に出来るほど水がきれいということで付いた。 深沢坂の傍にも8つの沢のひとつの源頭がある。 深沢神社の隣の三島公園にある弁天様の池がその一つ。

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三島は古い字名で、公園にかつての地名が残っていることは意外に多い。この弁天の池の湧水はすぐに呑川本流に注ぎ、沢というほどの沢ではないが、深沢坂はこの池の傍の深沢橋から等々力方面に上っていく。 古くはこの近くに満願寺があって満願寺坂と呼んでいたとか、またお茶屋があったことから、お茶屋坂と呼んだと伝えられる。 満願寺は1560年頃に等々力に移転した。

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深沢坂下のバス停は新道にあるが、元々の坂下は呑川の深沢橋である。一方深沢坂上のバス停は間違いなくこの坂の上にあり、近くに深沢坂上公園もある。 坂上近くに都立園芸高校があるが、ここは北条氏の家臣の深沢城(兎々呂城)があったところ。 兎々呂城の名前がのちに等々力の地名となったという説もある。

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2018年4月13日 (金)

馬場坂(北沢)

茶沢通り(通称)は三軒茶屋から下北沢を経て東北沢に至る通り名である。小田急が地上を走っていた時代には下北沢のすずなり劇場近くの踏切でいつも渋滞していた。 もっとも古道は北沢タウンホールのあるバス通りではなく、一本線路側のあずま通り商店街の筋。

現在の茶沢通りはかつて流れていた森厳寺川沿いに戦後通された道路で、ザ・スズナリの先からは折れ曲がって北上する。 間もなく傘履物村田屋と地蔵堂に突き当りクランクになるが、この地蔵堂の庚申塔は1677年と1692年のもの。 その先再び北に向かうと道は東に折れ曲がり、森厳寺川の暗渠を横切る。

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この暗渠を過ぎたところから馬場坂の上りになる。 坂の高低差は8mほどで現在はそれほどの坂には見えないが、昔は農家の人々が作物を荷車に載せて上るのに相当苦労したと伝えられる。坂の北側、井の頭通りの大山交差点近くに北沢小学校がある。 ここは江戸時代、馬場だったところで、それが馬場坂の由来であろう。

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坂の途中の辻に長命地蔵尊のお堂がある。 この付近の茶沢通り筋には200mおきに地蔵堂があって、古道であることを現在に残してくれている。ただこの長命地蔵尊は昔からの野地蔵を地元の人々が大正5年にここに祀ったもので、それ以前の場所は不明である。この地蔵の辻を北に入った辺りに、水車があったという。 川のない場所だが、坂上の丁字路になっているところには三田用水が流れていた。 佐伯医院がまだ角にあるが、そこが三田用水を渡る御馬橋で、その近くから坂下の森厳寺川へ水を流しており、その途中に水車があったようだ。

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坂上の通りは井の頭通りの大山交差点から山手通りの東大裏に抜ける道で、この道はかつての三田用水である。三田用水は笹塚で玉川上水から取水し、渋谷、目黒、五反田、大崎あたりまでを潤していた。 江戸時代は農業用水主体だったが、明治以降は工業用水としても使われ、エビスビールもこの用水の恩恵を受けた企業だった。

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2018年4月12日 (木)

テコテン坂(野沢)

野沢と下馬の町境の道にあるのがテコテン坂。 坂名の由来は、月夜に狸が出没してテコテンと踊ったという言い伝えによる。 地元の資料によると、手鼓天坂と書いた。 この辺りは田昭和の初期まで昼間でも暗い樹林で、野沢稲荷神社から三軒茶屋方面への農道の様な道だった。

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野沢児童館の脇で二つに分かれる道があるが、道なりの方がテコテン坂である。 テコテン坂よりも東側は土地が低くなっていて、昔は蛇崩川に注ぐ小さな沢筋だった。 その源頭に野沢八幡神社があり、その下流にあたる土地が現在の鶴が久保公園。 この鶴が久保という地名は徳川吉宗(第8代将軍)がこの地に狩りに来て、傷ついた鶴を追ってくると、湧水地で鶴が傷を癒していたという逸話から来ているという。

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坂の途中には三猿の庚申塔がある。 いずれ道路拡張で移転を余儀なくされるようだが、まだ残っている。寛文10年(1670)の古い庚申塔である。 路傍にこういう歴史が残っていると無性にうれしくなる。 多少場所の移動はあっただろうが、この石が地域の人々に350年も守り通されているのである。

東京の南西部には鎌倉街道と呼ばれる道が多数あるが、この道もそのひとつという説がある。確かにこの道も明治以前からの古道である。

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坂下から望むと緩やかな傾斜、そのまま日大キャンパス先の蛇崩川暗渠までわずかづつ標高を下げている。 その蛇崩川の少し下流には駒繋神社があり、そのさらに下流脇の道路の真ん中には不思議な塚「葦毛塚」がある。

鎌倉時代の始まりの頃、源頼朝が奥州平泉の藤原氏征伐に向かう道すがらこの蛇崩川に差し掛かったところ、突然頼朝の乗っていた馬が暴れだし、沢の深みに落ちてしまった。頼朝達は馬を救おうとしたが馬はまもなく死んでしまった。 その馬を葬ったのが下馬の道路の真ん中に鎮座し車を左右に避けさせる葦毛塚である。

頼朝は「以後この沢(蛇崩川)は馬を引いて渡るべし」としたので、馬引沢村の地名が生まれ、それが江戸時代に上馬引沢村、下馬引沢村に分かれ、その名残が上馬、下馬という地名になった。 また駒繋神社は明治時代からの神社名でそれ以前は子の神と呼ばれていたが、ここの松に頼朝の葦毛の馬を繋いだという言い伝えから駒繋神社と呼ばれるようになった。

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2018年4月11日 (水)

小坂(上馬)

三軒茶屋から国道246号線を下っていくと、間もなく左斜めに旧道が分岐する。 500mほど進むと再び現在の国道246号(玉川通り)に合流するが、街灯には旧街道らしく「大山街道」のシールが貼ってある。 途中には古い商家の建物も残っているが、古風な建物がバイク屋さんだったりする。

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緩やかな坂だが、かつての大山街道が茶屋下橋で蛇崩川を渡っていたところから上馬方面への上り坂になっている。 この旧道が分かれている区間だけは玉電は単独軌道だった。 明治時代は三軒茶屋を過ぎるとすぐに田園地帯が広がっていたが、明治に玉電が通ってからはこの旧道沿いにも何軒か商家が見られるようになった。

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小坂の上りが始まると家が増えて、現在の上馬交差点の辺りが上馬の本村で民家がたくさんあった。 現在の環七の筋には品川用水が流れていた。 用水は尾根筋に通されるので、ここが一番高く、蛇崩川が一番低い。 蛇崩川は水量の少ない川だったが、一旦大雨に降られるとたちまち氾濫する川だった。 蛇崩という名前はまさにそういう川の性格を表している。 特に大山街道の付近(中里地区)には池が出来、上流から大きな木材が流されてきて溜まったという。 周辺の人はそれを片っ端から引き揚げて燃料の足しにしたというから、昔の人はたくましい。

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坂上に近い清光園の前に地蔵尊がある。 正保2年(1645)にたてられた地蔵がある。 妙にいろんなものがくっついているので、いささか怪しげな雰囲気を醸し出しているが、地蔵尊だけは400年近く前のものである。 反政府ビラのようなものがいつも掲示されている。 先日は「安倍おろし…」という見出しの日刊ゲンダイが貼り付けてあった。 地蔵にだけは経緯を表したい。

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2018年4月10日 (火)

富士見坂(駒場)

目黒区駒場の西側は世田谷区代沢1丁目。 この代沢1丁目と2丁目の境界はかつての沢筋である。淡島交番脇から井の頭線までの路地は暗渠の道で、この暗渠は北沢川の支流の痕跡。 この辺りも明治時代までは農村で、この支流にも山女魚伝説がある。

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上の地形図の池ノ上支流(仮)は北沢川に注ぎ、その池ノ上支流から東に上る坂が駒場の富士見坂である。 かつて出合には大きく南北に伸びた池があり、その池の上流が池ノ上、池の南が池尻となったと伝えられている。(西側の下北沢支流は古老の話では森厳寺川と呼ばれていたらしい)

この辺りは江戸時代は下北沢村という地域で、江戸時代後期でも北沢八幡宮と森厳寺周辺に数十戸の民家ののどかな農村地帯だった。沢は湧水が流れて削られたもので、低地には田んぼが広がっていた。この北側駒場東大前は将軍の御鷹場で駒場野と呼ばれ、台地の上には森と野原が広がっており、沢筋に田んぼというのが当時の実際の風景なのである。

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坂下の横断歩道辺りがかつての支流の筋。 池がなくなってからは2本の流れがあったようだ。 横断歩道の手前の路地が暗渠だが、横断歩道の向こう側にも細い暗渠筋が残っている。 土地の記憶は残るもので、この2本の沢筋は北の方に延びていて、井の頭線を越えて東北沢の松蔭高校まで残っている。

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そういう地形なのでこの辺りには坂が多い。 しかし名前の付いた坂は極めて少ない。 作家の坂口安吾が下北沢(代沢小学校)で代用教員をしていた大正時代のことを書いている。学校の前に学用品やパン・飴を売る店が1軒ある外は四方はただ広汒かぎりもない田園で…というのが安吾の大正時代の記述で、200年前と100年前はほとんど変わっていない。 もし彼が今のこの地域を見たら腰を抜かすだろう。

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2018年4月 9日 (月)

宮の坂(宮坂)

宮坂(みやのさか)は東急世田谷線の駅である。 坂名がそのまま駅になった例としては東京都内には例を見ない。 志村坂上が近いが、坂名のままではない。 宮の坂の宮とは駅の傍にある世田谷八幡宮である。 昔は宇佐八幡という名の神社だったが、いくつかの神社を合祀するうちに世田谷八幡宮となった。 大分県の宇佐八幡宮は全国の4万柱の八幡の総本社で、世田谷八幡宮となるといささかローカル感がある。 元の宇佐八幡の方が個人的には良かった。

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関東の神社の歴史にしばしば登場する源義家が勧請したのが寛治元年(1087)なのでもうすぐ1,000年の歴史を有する。 境内には相撲場(観客席付きの土俵)があり、昔は「江戸三相撲」のひとつに数えられたほど大掛かりなものだった。 その歴史もあってか境内には力石が9つも並んでいる。

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神社の東側に沿って緩やかに上る坂が宮の坂。 誰ともなく普通にそう呼ばれるようになったという。 この坂道は半田坂から南に続く大山街道で、道は上町を経て大山道へと繋がっていた。

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昔はもっと急な坂だったらしいが、東急世田谷線沿いということもあり、かなり改修されて緩やかになった。 境内の中の傾斜が本来の土地の高低差だと思われる。 神社の北側を東西に滝坂道が走っている。 大山街道と滝坂道の交差点、かつボロ市に近い郷社ということで、古くから賑わってきた神社の脇の坂は道幅もいびつで古道の雰囲気を濃く残している。

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2018年4月 8日 (日)

半田坂(松原)

凧坂とは馬頭観音で左右に分岐する。 その角度は30度もなく、それぞれの道が甲州街道にぶつかっても300mほどしか離れていない。 それでもこの半田坂も凧坂も重要な古道だった。 凧坂がすぐに高度を上げるのに対して、半田坂はゆっくりと上っていく。

半田坂は地元ではえんま坂と呼ばれていた。 江戸時代には半田坂の坂下馬頭観音から少し北の東側に約90坪の敷地に複数のお堂(十王堂、十三堂)があり、そこにえんま様が祀られていたことに由来している。戦前までえんま坂とも呼んでいたようなので、江戸から昭和までの変化はゆっくりだったのだろう。

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凧坂の「菅原天神通り」に対して半田坂から甲州街道までは「松山大山通り」と呼ばれていた。  甲州街道を西進してきた旅人が、現在の明治大学の辺りで角にある「大山石尊」と書かれた道標を見て、この道に入り大山道(現在の国道246号線)に向かった。 そのルートならば少しでも短いこちらの道が開けたのは理解できる。

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半田坂が凧坂と分岐したすぐ北側を、両坂を貫くように東西に通っているのが羽根木通りという古道。 東進すると井の頭線の東松原駅前を通り環七を横切って井の頭通りに至る、こちらも古道。 都内の古道の多くは明治初期の地図のままの道筋なので、当時の地図を見ながら歩くのは面白い。 僅かに曲がったりくねったりしている道はほぼ古道である。

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半田坂の坂名の由来は半田塚に因る。 なぜか半田塚は凧坂にある。 半田塚については諸説あり、不明な点も多いという。 1,300年~1,400年前にここに塚があってのちに祠が建てられていたといい、墳墓とされている。 土地の人は「大塚さま」と呼んでいる。 祠に祀られているのは、後の鎌倉時代に新田一族が川越城を攻め落としたときに、多摩川原での戦いに敗れ傷ついた残党たちでここで息絶えたという。

坂名のある坂はしばしば古道にあり、そして古道には古い歴史が積み重ねられていることを感じる半田坂、凧坂である。

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2018年4月 7日 (土)

凧坂(松原)

甲州街道から現在の豪徳寺を経て代官屋敷のあった上町への南北の古道にある坂道。 凧坂の南で半田坂が若干東寄りに分岐している。 凧坂が甲州街道に出合うのは首都高速永福料金所の辺り。 一方の半田坂は明治大学近く、凧坂よりも300mほど東で甲州街道に出合う。

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上の写真の左側が凧坂、右側が半田坂である。 凧坂の方が傾斜はきつい。 坂名の由来は「たこう坂」の当て字で、傾斜が急な坂の意味があるという。 二又の頂点に小さな馬頭観音がある。馬頭観音は本来人を救う観音様なのだが、いつしか馬を救う観音様にされてしまった。 こういう分岐点に見かける民間信仰の形である。

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ただ江戸時代の絵図にはこの馬頭観音の場所に「死馬捨場」と書かれている。 なんだか哀れな気持ちになる。 伝承では、ここの馬頭観音は人の足となっていた大切な馬が死んだときにその霊を祀る供養塔と伝わっている。

坂下を南に進むと北沢川の暗渠を渡るところがある。 そこには大正時代まで水車があった。 そのあたりの旧地名を前田というが、現在は豪徳寺1丁目である。 つまり凧坂、半田坂は北沢川の削った谷の坂である。

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現在は何の変哲もない住宅街になっている。 そのまま甲州街道方面へ北上すると、京王線を横切る手前に菅原神社がある。「松原の菅原神社」と呼ばれ、江戸時代に石井兵助という人が寺子屋を開き、学問の神様である菅原道真公を祀ったのが始まりらしい。 天満宮を名乗らないのが奥ゆかしい。 学業祈願の絵馬札がこじんまりとぶら下がっている。 寛文5年(1665)の創建というが、最初は松原の天満宮と呼ばれていたようだ。 朱塗りのきれいな社殿で、地元の人々の思い入れが感じられる。 凧坂から甲州街道までのこの通りは地元では「菅原天神通り」と呼ばれた。

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