2017年11月23日 (木)

切支丹坂(小日向)

ユニークな名前の坂道である。 坂名の由来は、坂上の切支丹屋敷跡に因む。 正保3年(1646)に建てられた転びバテレン(布教のために来日した宣教師・神父の呼び名)の収容所があった場所である。 江戸幕府はキリスト教を禁止し迫害した。 バテレンを収容し監禁したが、ここでは処刑するのではなく、生活を保障してバテレンの持つ知識や情報を得るのに使われていた。(別説でここでは拷問や処刑も行われていたというものもある)

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坂に説明板はないが、坂についての情報は多い。 明治時代の地図を見ると、この切支丹坂ではなく、丸の内線をくぐった先の春日通りへ上る階段坂「庚申坂」が切支丹坂と書かれている。真相はわからないが、ここではあちらを庚申坂、こちらを切支丹坂として区分したい。

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丸の内線の車庫のある場所には昔小川が流れていた。現在の拓殖大学辺りを水源とする小川が南流し神田川に注いでいた。 石川悌二氏によると上記坂名のズレについては、江戸時代は現在の同じ坂名と坂であったが、明治時代に誤って庚申坂を切支丹坂と呼び始めたのが混乱の元になっているらしい。

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夏目漱石もこの坂について書いており、明治期は小石川から庚申坂を難儀して下ると、谷の向こうにまた険しい切支丹坂があった。 坂は赤土の坂であったため、雨などでぬかるむと下駄で上るのはなかなか困難なことだったと記述している。当時は本来の地層の土面が現れていたのだろう。 現在の東京でそういう地面を見ることは極めて難しい。

昔は曲がりくねっていて樹木の生い茂る暗い坂だったと伝えられる。

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2017年11月22日 (水)

荒木坂(小日向)

神田上水の通っていた巻石通りから北に上る坂道。 坂上は丸の内線の電車車庫。 巻石通りの標高は7mで電車車庫は20mなので、13mほどを一気の上る坂道である。江戸切絵図で見る荒木坂(アラキサカ)は短い。称名寺の位置が今と同じなので、称名寺の裏手の墓地の角までが江戸時代の荒木坂である。

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坂下に説明板がある。

称名寺の東横を、小日向台地に上がる坂である。『江戸砂子』によれば「前方坂のうへに荒木志摩守殿屋敷あり。今は他所へかはる」とある。坂の規模は「高さ凡そ五丈程(約15m)、幅二間二尺程(約4m)(『御府内備考』)と記されている。この坂下、小日向台地のすそを江戸で最初に造られた神田上水が通っていたことから、地域の人々は、上水に沿った通りを〝水道通り″とか〝巻石通り″と呼んでいる。(後略)

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この辺りは第六天町と呼ばれていたが、坂下の先の神田川(江戸川)に第六天の社があったからである。 町名は昭和41年(1966)に消滅した。 第六天は第六天神社とも呼び、元々は神仏習合の時代に第六天魔王(他社自在天)という神を祀る信仰からできた神社である。 第六天は関東を中心に東北から中部まで存在するが西日本にはないという。

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2017年11月21日 (火)

猫又坂(千石)

千川通りと不忍通りの交差点、千石三丁目は千川が刻んだ谷筋の辻である。 千川は蛇行していたが、猫又橋の場所は交差点から北東に50mほどの路地筋だった。 千川通りに並行したこの路地はくねくね曲がった道でいかにも暗渠だということがわかる道である。

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上の写真は大塚窪町公園前から猫又橋方向を見たもの。 いったん千石通りに窪み、その向こうで斜面を登るように続く不忍通りの景色である。かつてはこの道筋を都電が走っていた。 なかなか素敵な景色だっただろう。

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猫又橋のあった場所には親柱の袖石が残っている。説明板がある。

「この坂下にはもと千川(小石川とも)が流れていた。 昔、木の根っ子の股で橋を架けたので、根子股橋と呼ばれた。江戸の古い橋で、伝説的に有名である。この辺りに狸がいて、夜な夜な赤手ぬぐいをかぶって踊るという話があった。ある夕暮れ時、大塚辺の少年僧がこの橋の近くに来ると、草の茂みの中を白い獣が追ってくるので、すわ狸かと慌てて逃げて千川にはまった。 それからこの橋は、猫股橋(猫又橋)といわれるようになった。 猫又は妖怪の一種である。

昭和の初めまでは、この川でどじょうを獲り、蛍を追って稲田(千川たんぼ)に落ちたなど、古老がのどかな田園風景を語っている。 大正7年3月、この橋は立派な石を用いたコンクリート造となった。ところが千川はたびたび増水して大きな水害を起こした。それで昭和9年千川は暗渠になり、道路の下を通るようになった。石造りの猫又橋は撤去されたが、地元の故市川虎之助氏はその親柱と袖石を東京市と交渉して自宅に移した。ここにあるのは袖石の内2基で、千川名残の猫又橋を伝える記念すべきものである。(後略)」

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大通りの坂道ではあるが、千川通り付近の曲がり方も含めていい坂である。 猫又橋の脇に猫又坂の説明板もある。

「不忍通りが千川谷に下る(氷川下交差点)長く広い坂である。現在の通りは大正11年(1922)頃開通したが、昔の坂は、東側の崖のふちを通り、千川にかかる猫又橋につながっていた。この今はない猫又橋にちなむ坂名である。」

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上の写真の歩道の右、ガードレールわきの細い隙間の坂がかつての猫又坂の上部の名残である。 電車道が開かれる以前はこの右の細い部分が猫又坂だった。

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この坂の一番の景色はこの脇の名残道の上からの遠景だと思う。 100年ちょっと前は電車道もなく、人だけが通れる狭い道が台地の上に向かって続いていた。その上から猫又橋の谷を見下ろす感じに近いのではないだろうか。

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2017年11月20日 (月)

簸川坂(小石川)

網干坂の西側に簸川神社(氷川社)がある。 江戸切絵図には湯立坂から下ると千川に祇園橋が架かっていてそれを渡ると神社の参道になる。 境内には宗慶寺別當とある。 氷川神社の方が古いので、江戸時代の名所だった氷川神社の参詣客を宗慶寺が狙って分院を建てたかどうかはわからないが、そんな想像もできるほど簸川神社は賑わっていた。

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簸川坂は氷川神社の裏口にあたる道筋で、境内を抜けて坂上に出ることができる。 説明板は簸川神社と簸川坂の両方を兼ねたものだった。

・簸川神社:社伝によれば、当神社の創建は古く、第五代孝昭天皇のころと伝えられ、祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)である。源頼家(1039~1106)が奥州平定の祈願をした社といわれ、小石川・巣鴨の総社として江戸名所の一つであった。もとは現在の小石川植物園の地にあった白山御殿造営のため、元禄2年(1699)この地に移された。社殿は空襲で焼失したが、昭和33年(1958)に再建された。(後略)

・簸川坂(氷川坂):氷川神社に接した坂ということでこの名がつけられた。 氷川神社の現在の呼称は簸川神社である。坂下一帯は明治末頃まで「氷川田んぼ」といわれ、千川(小石川)が流れていた。洪水が多く、昭和9年(1934)暗渠が完成し、「千川通り」となった。神社石段下には千川改修記念碑がある。

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網干坂よりも急角度の坂である。簸川神社の裏手から一気に落ちるような下り坂は、悪天候時は難儀しそうだ。 大正時代、坂下は昔たんぼを埋め立てた後中小の工場が集まる町になった。 その後町屋に変わっていった。

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坂下を複雑に流れていた千川。 そのほとりにあった工場の一つであった「太田胃散」の本社がある。 私は太田胃散は薬の名前だと思っていたが、ここを訪れて初めてそれが社名でもあることを知った。

坂上には林町小学校があるが、これは江戸時代簸川神社の裏手が林大学頭の下屋敷だったため、林町と呼ばれていた地名の名残である。 小学校の名前にみる貴重な昔の町名がうれしい。

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2017年11月19日 (日)

網干坂(小石川)

湯立坂を下り窪町東公園交差点で千川通りを渡ると、右手に小石川植物園の塀を見るようになると上り坂が始まる。 植物園の西側には簸川神社がある。 きれいになった御殿坂とは反対に、こちらの網干坂は昔の万年塀のままで、昭和のノスタルジーが残る。

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坂の途中に説明板がある。

「白山台地から千川の流れる谷に下る坂道である。小石川台地へ上る「湯立坂」に向かい合っている。 昔、坂下の谷は入江で船の出入りがあり、漁師がいて網を干したのであろう。明治の末頃までは千川沿いの一帯は「氷川たんぼ」といわれた水田地帯であった。

その後、住宅や工場がふえ、大雨のたびに洪水になり、昭和9年に千川は暗渠になった。なお、千川は古くは「小石川」といわれたが、いつの頃からか千川と呼ばれるようになった。」

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網干坂は、氷川坂、簸川坂の別名がある。もちろん簸川(氷川)神社に由来する。 この坂の風景の魅力は植物園の樹木に尽きる。 万年塀を嫌う人もいるが、私は悪くないと思っている。 ブロック塀よりははるかにいい。

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坂上からはかなりの遠景を望むことができる。坂下の標高は10mなのに対して、坂上は25mあり、15mの高低差がある。  国土地理院の古い地図を見ると、明治から昭和にかけて「網曳坂」と書かれているが、江戸の切絵図には「アミホシサカ」と書かれているのでどこかで変わってしまったのだろうか。

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2017年11月18日 (土)

湯立坂(小石川)

茗荷谷駅前の春日通りから筑波大学東京キャンパスの方へ入ると、キャンパス沿いに下る長い坂。 湯立坂である。 筑波大キャンパスには大学の施設と付属小学校と文京区民センターがある。 キャンパス内でかなりの高低差があり、茗荷谷駅側は標高28m、裏手の占春園は11m。 当然それに沿って下る坂道も長い。

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坂上のキャンパス脇に説明書きがある。 「里人の説に往古はこの坂の下は大河の入江にて氷川の明神へは川を隔てて渡る事を得ず。故に此所の氏子とも此坂にて湯花を奉りしより坂のなとなれり。」とある。湯花というのは、湯を沸騰させたときに上がる泡のことで、神社で巫女がこれを笹の葉につけ、参詣人にかけ清める。この儀式を湯立という。

私はてっきり、ここで一服と湯を沸かして茶を飲んだくらいに思ったが、どうも神事のようだ。

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筑波大は元は東京教育大。 今はつくば市が主体なので、茨城の大学のようだが、本来は東京の大学である。政府の閣議決定でつくばを研究都市にするために移転したのがいきさつである。 この場所は江戸時代、松平大学頭(陸奥国守山2万石)の上屋敷であった。 大学頭が大学になったわけだ。

坂下の窪町東公園前から東に上る坂があり、地元ではかつてこの坂を幽霊坂と呼んでいたらしい。 こちらの坂も曲がりながら上っていくいい坂である。(下の写真)

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坂下の公園や交差点に残る「窪町」の地名。 ただし窪町小学校は坂上の茗荷谷駅前にあるが、1966年の町名変更で東京教育大周辺は大塚窪町から大塚3丁目になってしまった。 大塚窪町は現在の小石川5丁目の一部までを含んでいた。

坂下西の占春園は水戸光圀の弟である松平頼元がここに屋敷を構えた。頼元の子が頼貞で後の松平大学頭。 その親子時代の大名屋敷庭園の名残である。江戸時代はホトトギスの名所でもあったようだ。 坂下の千川あたりの湿地には蛍も多くいたと伝えられる。

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2017年11月17日 (金)

団平坂(小石川)

団平坂、別名として、丹平坂、袖引坂という名前もある。 文京区立竹早公園の南東側を千川筋に向かって下る坂道。 この竹早公園は戦前は竹早小学校だったが、空襲で焼失し廃校になってしまった。

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公園の横に小石川図書館があるが、その前に説明板がある。

「町内より東の方、松平播磨守御屋敷之下候坂にて、里俗団平坂と唱候、右は先年門前地之内に団平と申者ツキ米商売致住居仕罷候節より唱始候由申伝、年代等相知不申候」と『御府内備考』にある。

団平という米つきを商売とする人が住んでいたので、その名がついた。何かで名の知られた人だったのであろう。庶民の名のついた坂は珍しい。

この坂の一つ東側の道の途中(小石川5-11-7)に、薄幸の詩人石川啄木の終焉の地がある。北海道の放浪生活の後上京して、文京区内を移り変わって四か所目である。明治45年(1912)4月13日朝、26歳の若さで短い一生を終わった。

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つい見落としがちな場所にその碑があった。 この碑が建てられたのは平成27年とごく最近のことである。説明板もあり、「石川啄木終焉の地歌碑」とある。

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2017年11月14日 (火)

播磨坂(小石川)

桜並木で都内でも有名な坂道である。 戦後新しく造成された環状三号線で、名前は古風だが江戸の坂ではない、昭和の新しい坂である。 江戸時代は坂上は小さな武家屋敷が立ち並び、坂下は松平播磨守の屋敷だった。 松平播磨守は水戸常陸国府中藩の藩主。

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江戸時代、大名屋敷の坂下には千川が流れており、辺りは田んぼだった。「播磨田んぼ」と呼ばれ湿地帯でもあったようだ。 現代の姿は40m幅の広い道路の真ん中を半分の幅で遊歩道がついていてその中央に桜並木が植えてある。

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坂の途中にある説明板には次のように書かれている。

この道路は終戦後の区画整理によって造られたもので、一般にいわれる環三道路(環状3号線)である。 かつてこのあたりは松平播磨守の広大な屋敷のあったところである。坂下の底地一帯を「播磨たんぼ」といい伝えており、この坂道もこの土地の人は播磨坂とよんでいる。 昭和35年頃「全区を花でうずめる運動」が進められ、この道路も道の両側と中央に樹令15年位の桜の木約130本が植えられた。そして地元の婦人会の努力によって「環三のグリーンベルト」は立派に育てられている。昭和43年から桜まつりが行われ、文京区の新名所となった。

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2017年11月13日 (月)

吹上坂(小石川)

坂下は小石川植物園前の変則交差点。 ここから播磨坂と吹上坂が小石川台地に上って行くが、どちらも実は戦後の坂道。 ただし、吹上坂は路地筋としては江戸時代からあった道である。 江戸時代から、宗慶寺も善仁寺も存在した。

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写真は宗慶寺。 近代的な寺院になっている。 この辺りは戦火でほぼ焼けてしまったようで、この吹上坂がそのおかげで真っすぐに春日通りに延びた。 春日通りの向こう側の谷へ降りるのは階段の庚申坂である。

坂下に文京区の説明板がある。

「このあたりをかって吹上村といった。この地名から名付けられたと思われる。
「吹上坂は松平播磨守の屋敷の坂をいへり(改選江戸志)。」
なお、別名「禿(かむろ)坂」の禿は河童に通じ、都内六ヶ所あるが、いずれもかっては近くに古池や川などがあって寂しい所とされている地域の坂名である。この坂も善仁寺前から宗慶寺・極楽水のそばへくだり、坂下は「播磨たんぼ」といわれた水田であり、しかも小石川が流れていた。この水田や川は鷺の群がるよき場所であり、大正時代でもそのおもかげを止めていた。

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小石川は千川とも呼ばれる。 宗慶寺の坂上にあった松平播磨守の屋敷には湧水の大きな池があり、水の豊かな地だったようだ。 この池は戦後の地図からは消えているので、昭和の初めころまではあったようである。 その湧水が吹上坂の由来になっている。

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2017年11月12日 (日)

三百坂(小石川)

三百坂という名前はユニークである。 そして伝わる由来もまたユニークである。 坂の景色はというとほとんど魅力的なところはない。 東京学芸大学附属高校竹早高校のグラウンドの裏を下る普通の道で、坂下手前でくの字に曲がっている。

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坂の途中にある説明板には次のように書かれている。

「別名、三貊坂(さんみゃくざか)

『江戸志』によると、松平播磨守の屋敷から少し離れた所にある坂である。松平家では新しく召抱えた「徒の者(かちのもの)」を屋敷のしきたりで、早くしかも正確に、役に立つ者かどうかをためすにこの坂を利用したという。

主君が登城のとき、玄関で目見えさせ。後衣服を改め、この坂で供の列に加わらせた。もし坂を過ぎるまでに追いつけなかったときは、遅刻の罰金として三百文を出させた。このことから,家人たちは「三貊坂」を「三百坂」と唱え、世人もこの坂名を通称とするようになった。」

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学校の敷地の大半は松平讃岐守の下屋敷で、周辺は小さな武家屋敷がずらりと並ぶ街並みだった。 三百坂の東側の武家屋敷の裏手はほぼ伝通院境内の中にある寺院だったが今では3軒ほどしか残っておらず、往時の姿を想像するのも難しい。

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2017年11月11日 (土)

御殿坂(白山)

蓮華寺坂の坂上をそのまま南西に進むと下り坂になると同時に西側に樹木が生い茂った小石川植物園が見えてくる。 小石川植物園の敷地は江戸の初期、館山藩主松平徳松の屋敷だったが、5代将軍綱吉の頃、南麻布にあった御薬園が廃止され、この地に移転(1684)。 8代吉宗の時にほぼ今の敷地に拡大された。現在は東京大学の施設となっている。

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上の写真は2010年のもの。 万年塀と人ひとりがやっとの隙間の歩道だったが、数年後に再訪すると、道路幅は広げられとても歩きやすい道になっていた。 ただ、江戸の坂の雰囲気はいささか失われたように感じられた。

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ただ、坂の説明板だけは昭和のものがそのまま使われていて、ちょっと意外な気がした。その説明板には次のように書かれている。

「別名、大坂、富士見坂。「御殿坂は戸崎町より白山の方へのぼる坂なり。この上に白山御殿ありし故にこの名遺れり。むかしは大坂といひしや」(『改撰江戸志』)

「享保の頃、此坂の向ふに富士峰能く見へし故に、富士見坂ともいへり」(『江戸志』)

白山御殿は、5代将軍徳川綱吉が将軍就任以前、館林候時代の屋敷で、もと白山神社の跡であったので、白山御殿といわれ、また地名をとり小石川御殿ともいわれた。綱吉の将軍職就任後、御殿跡は幕府の薬園となった。享保7年(1722)園内に“赤ひげ”で有名な小石川養生所が設けられた。また同20年には、青木昆陽が甘薯の試作をした。明治になってからは東京大学の付属植物園となった。」

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きれいにはなったが、うっそうとした林の脇の道の方が坂道の情緒は高まる。 とはいえ坂上標高23m、坂下が9mで14mの高低差を緩やかなカーブを描きながら下るこの坂のかたちは素晴らしいものがある。

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2017年11月10日 (金)

伊賀坂(白山)

指ヶ谷の地名は昭和41年の町名変更で消えたが、指ヶ谷小学校の名前に残っているのは嬉しい事である。3代将軍家光が鷹狩りに来て、「あの谷も遠からず人家が出来るであろう。」と指し示したことから、指ヶ谷の地名が出来たという。 子供が少なくなり小学校が消えると地名も消える、そんな場所が東京にはいくつもある。

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その指ヶ谷小学校の前を上るのが伊賀坂である。 小学校の校門脇に説明板がある。

「白山台地から白山通りに下る坂で、道幅は狭く、昔のままの姿を思わせる。 この坂は武家屋敷にちなむ坂名の一つである。 伊賀者の同心衆の組屋敷があった(『御府内備考』)とか、真田伊賀守屋敷があった(『改撰江戸志』)という二つの説がある。 『東京名所図会』では真田伊賀守説をとっている。 伊賀者は甲賀者と共に、大名統制のための忍者としてよく知られている。」

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小学校の上で複雑な交差をするが細長い民家の東側の道が昔の伊賀坂筋である。 周辺は傾斜地で昔は石垣も多い曲がりくねった道だったようだが、今では明るい雰囲気になっている。戦前は小学校の裏まで細川邸の屋敷が広がっていたことからも、緑の多い薄暗い雰囲気だったことが想像できる。

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2017年11月 9日 (木)

蓮華寺坂(白山)

白山通りの白山下交差点から西に上る坂が蓮華寺坂。  坂上は台地になっていてしばらく平坦になった先、小石川植物園に達すると下り坂になる。 この台地は小石川台地で、少し南に行ったところが崖の突端になる。 現在そこには日立製作所の小石川迎賓館〝白山閣″がある。 旧細川家の屋敷で明治から戦前まで細川邸となっていた約2,000坪の館。

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蓮華寺に戻ろう。 坂の途中に説明板がある。

「『蓮華寺即ち蓮花寺といへる法華宗の傍らなる坂なればかくいへり。白山御殿跡より指が谷町の方へでる坂なり」と改撰江戸志にある。 蓮華寺は、天正15年(1587)高橋図書を開基、安立院日雄を開山として創開した寺院で、明治維新までは塔頭が六院あったという。 なお,この坂道は 小石川植物園脇の御殿坂へ通じ、昭和58年(1983)にハナミズキやツツジが植栽され、春の開花、秋の紅葉が美しい並木道である。」

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蓮華寺坂は小石川植物園脇の御殿坂からみた意味合いで、御殿裏門坂という別名がある。 御殿というのは、小石川植物園が江戸時代に綱吉が開いた屋敷だったためである。 のちに御薬園となった。

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2017年11月 8日 (水)

逸見坂(白山)

白山通りの白山下よりも少し北に上ったところ、焼肉幸楽苑別館(本館は蓮華寺坂下)の脇を上る路地が逸見坂である。 特にこれといった特徴はないが、白山通りからぐいっと上りそのあと平坦になっていくのは、この白山通り沿いのほとんどの坂に見られるパターン。

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しかしこの逸見坂は江戸時代の切絵図にも「ヘンミサカ」と記されている古い坂。 昔は白山通りはなかったので、白山神社の南参道からすぐにこの逸見坂の入口だった。 坂の途中にある説明板には次のように書かれている。

「白山神社裏門の南、小石川御殿町と指ヶ谷の間より南へ御殿町へ上る坂あり、逸見坂といふ。旧幕士逸見某の邸、坂際にありしより此名に呼ぶなり」(『東京名所図会』) 武家屋敷にちなむ坂名である。このあたり「旧白山御殿町」で、逸見坂はその北のはずれに当たる。 町名の由来は、白山御殿(後に5代将軍になった館林候綱吉の屋敷)からきている。 御殿廃止後、幕府の薬園(現在の小石川植物園)となる。 坂の西側の「本念寺」には蜀山人(太田南畝)の墓がある。

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江戸切絵図を見ると、この辺り一帯は武家屋敷が立ち並ぶが、逸見の名前は見当たらない。 しかし坂名として「ヘンミサカ」と書かれている。 江戸の坂道は武家の名前が付けられているものがいくつもあるが、もっと以前の切絵図には逸見と書かれているのであろうか。

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2017年11月 7日 (火)

一行院坂(白山)

浄土宗 天暁山 一行院 満徳寺。 一行院の正式な名前である。 寛永3年(1626)現在地に草庵を結び一寺を建立したのが始まり。その後廃寺になりかけるが、文化14年(1817)徳本行者(念仏聖として諸国をめぐって念仏を広めた)が再興した。 きれいな寺院である。

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白山通り側から入ると最初は傾斜があるがすぐに緩やかになる。 辺りは酒井雅楽頭の屋敷だった場所で、今の白山通りの辺りは大名庭園の大きな池だったところ。 この池は時代と共に徐々に縮小し、昭和の中頃まで存在した。

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一行院がなければ歩かない坂と言えるかもしれない。 それくらいこの坂で一行院の塀はインパクトになっている。  江戸時代は一行院の裏にある通りがメインストリートだった。

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2017年11月 6日 (月)

暗闇坂(白山)

あちこちに暗闇坂(闇坂)という名の坂はある。 単純に武家屋敷の間とか林の間で暗い場所をそういう場合が多い。 この白山の暗闇坂は武家屋敷の間の暗闇坂である。 坂の西側には酒井雅楽頭の屋敷、東側には森川伊豆守の屋敷があり、それぞれに広い屋敷なので樹木の生い繁る暗い道だっただろう。

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現在は京華女子中高校の手前の路地を入る狭い急坂。坂に関する情報が少ないからか、説明板はない。 坂上の道も細い路地だが、江戸時代の切絵図にもある古い道。白山神社の裏から暗闇坂の上を通り、その先で東に曲がり中山道に出るが、江戸時代は右も左も大名屋敷で、この路地も暗かったと思われる。 明治時代の地図を見ると、坂下には川が流れている。その川の水で池が出来ている場所もあり、それは現在の京華商業高校の敷地のようだ。

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明治の末頃、寺田寅彦はこの坂の上に住んでいた。当時も鬱蒼とした樹木に覆われた通りだったと書き残している。 また、『新撰東京名所図会』には、昔はこの辺りは家屋なく原野だったため、単に原と呼んでいたが、そのうちに家が建つようになり、原では困るので大小を付けて大原・小原という地名で呼ぶようになった、とある。明治時代の地名は小石川原町であった。

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2017年11月 5日 (日)

薬師坂(白山)

白山通りの白山下から中山道(旧白山通り)白山上に上る都営三田線白山駅の通りが薬師坂である。 別名が多い。 薬師坂のほかには、薬師寺坂、浄雲寺坂、白山坂という別名がある。 昔は二間幅(3.5m)の細い道だったが、今では広く車も人通りも多い道である。

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白山駅出口の歩道に説明板が立っている。

「『妙清寺に薬師堂有之候に付、里俗に薬師坂と相唱候』(御府内備考) 坂上の妙清寺に薬師堂があったので、薬師坂と名づけられた。また、坂下に浄雲院心光寺があったので、浄雲寺坂とも呼ばれた。また近くに白山神社があり、旧町名が白山前町で、白山坂ともいれわるなど、別名の多い坂の一つである。

『新撰東京名所図会』には、「薬師堂は、土蔵造一間半四面。「め」の字の奉額、眼病全快者連名の横額あり」と、明治末年の姿を記している。 このお薬師は特に眼病に霊験あらたかであったようである。 土蔵造は、江戸の防火建築で、湯島本郷辺の町屋が土蔵塗屋づくりを命じられたのは、享保15年(1730)の大火後である。現存するものに無縁坂の講安寺本堂がある。」

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妙清寺は曹洞宗の寺院で慶長11年(1606)の開山。薬師如来がご本尊。 この辺りは江戸時代は白山権現を中心に多くの寺院が並ぶ寺町だった。 明治末期になって路面電車が通された(1911年:明治44年)。

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坂上近くの駅前から参道が伸び白山神社(白山権現)に導く。 縁起は古く、天暦2年(948)。 写真の鳥居のある東側がメインの参道だが、社殿は南向き。 白山通り脇の旧道とみられる路地から入ると長い参道の階段がある。 この南の階段が白山神社が立つ台地の縁で指ヶ谷を一望する崖上突端になる。

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2017年11月 4日 (土)

浄心寺坂(白山)

浄心寺坂に現在浄心寺はない。 あるのは八百屋於七で有名な円乗寺だが、江戸時代にはその西隣に浄心寺があった。 現在は本郷通りの東側に浄心寺があるが、寺の縁起を見ると湯島の嬬恋坂に創建されて、振袖火事により焼失し文京区向丘に移ったとある。 坂にある浄心寺はどこに消えたのかわからない。

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坂の上り初め北側に円乗寺があり、その入り口脇に八百屋於七地蔵尊がある。八百屋於七の墓は円乗寺内である。入口に説明板がある。

「お七については、井原西鶴の『好色五人女』など古来いろいろ書かれ語られて異説が多い。お七の生家は、駒込片町(本郷追分など)で、お七の家が焼けて、菩提寺の円乗寺に避難した。その避難中、寺の小姓(こしょう)の佐兵衛(または吉三郎)と恋仲になった。やがて家は再建されて自家に戻ったが、お七は佐兵衛に会いたい一心でつけ火をした。放火の大罪で捕らえられたお七は、天和3年3月29日火あぶりの刑に処せられた。数えで16歳であったという。三基の墓石のうち中央は寺の住職が供養のため建てた。右側のは寛政年間(1789~1801)岩井半四郎がお七を演じ好評だったので建立した。左側のは近所の有志の人たちが、270回忌の供養で建立したものである。」

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浄心寺坂の説明板は坂上にある。

「小石川指ヶ谷町より白山前町を経て東の方、本郷駒込片町へ登る坂あり。浄心寺坂といふ。(新撰東京名所図会)

浄心寺近くの坂なので、この名がついた。また坂下に「八百屋於七」の墓所円乗寺があることから「於七坂」の別名もある。」

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浄心寺坂と白山通りを越えた蓮華寺坂は下って上る薬研地形になっているが、この坂下の谷あいの一帯を昔は指ヶ谷と呼んでいた。 町名「指ヶ谷」の由来については、3代将軍家光が鷹狩りに来て、「あの谷も遠からず人家が出来るであろう。」と指し示したことから、指ヶ谷の地名が出来たという。

小石川の支流である指ヶ谷なる川は、千石から流れてきた細流と、白山神社を挟んだ東側の細流を合わせて谷を形成し、東側の流れは於七地蔵尊下を流下、福山坂下の富士湯の前をくねりながら富坂方面へ流れていた。 道路は正直にその痕跡を残している。

町名「指ヶ谷」の由来については、3代将軍家光が鷹狩りに来て、「あの谷も遠からず人家が出来るであろう。」と指し示したことから、指ヶ谷の地名が出来たという。

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2017年11月 3日 (金)

中坂(白山)

胸突坂と浄心寺坂の間にあるから中坂。 中坂という名の坂にはそのパターンの由来が多い。 説明板はないが、江戸時代の切絵図にもこの道は描かれているので、間違いなく江戸時代の坂である。 ただし、当時は雨が降ったら登れないだろうと思われるほど、傾斜がきつい。

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上の写真は2016年1月に訪問した時のもの。半分はコンクリートのスリット舗装で、かろうじてすべり止めになっているが、今回2017年11月の訪問では、工事中の場所に新しい家が建ち、道路が狭まっただけでなく、すべり止めもなくなってしまった。

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実はこの坂の坂下は丁字路で、これまで多くの人が止まりきれず激突したらしく、注意喚起の表示があった。 いやさすがにこの坂は怖いだろう。

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坂下の建物は文京区の白山児童館である。コンクリートには欠けやヒビが見られた。江戸時代この辺りは小さめの武家屋敷が立ち並ぶエリアだった。 崖線の上は阿部家の敷地が細長く、西片からこの近くまで広がっていたので、胸突坂よりも南の小武家屋敷の玄関は西にあり、小川を橋で渡した玄関だったと思われる。 一方胸突坂以北は、坂上を玄関にしている。 この辺は武家屋敷が標高をもって評価され、より上の方が位が高いと認識されていたからだろうか。

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胸突坂(白山)

胸突坂下の南北に走る道は本郷台地の崖線の道である。 浄心寺坂の坂下、八百屋お七で有名な円乗寺前から崖線の下に沿って道がある。 その道筋が、この胸突坂で東に折れ、急な上り坂になって中山道に出る。 現在は路地だが江戸時代からある道である。

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上の写真は曲がる前の崖線下の道。 黄色い通学路標識の所で左に曲がり急坂になる。坂下に文京区が設置した標識がある。

「胸突坂(むなつきざか)  (峰月坂・新道坂)
 「松山新町と駒込西片町との界にある坂を胸突坂といふ。坂道急峻なり、よって此名を得、左右石垣にて、苔滑か」と『新撰名所図会』にある。台地の中腹から、本郷台地に上る坂、坂上から白山通りをへだてて、白山台を望む。『胸突坂』とは急な坂道の呼び名で区内に3ヶ所ある。この坂のすぐ南の旧西片町一帯は、福山藩の中屋敷跡で「誠之館」と名づけた江戸の藩校があったところである。」

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坂下の1本下の路地は暗渠で、白山から流れてきて、富坂辺りで小石川からの流れと豪遊し水道橋に注ぐ流れだった。 現存する富士見湯もこの小川沿いにある。この小さな流れが本郷台地の崖線を作ったのである。 胸突坂より南側は福山藩阿部家の広大な屋敷の一部だった。

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辺りの旧町名は丸山福山町といい、樋口一葉は『にごりえ』の中で、「柳町、指ヶ谷町から白山下までが水田であったことは、さう昔のことではない。」と書いている。また『新撰東京名所図会』には、「左右石垣にて苔滑らか」と書かれているので、難儀な坂だったのだろう。

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2017年11月 2日 (木)

胸突坂(目白台)

目白台には名坂が多い。 その代表の一つが胸突坂である。 神田川沿いの関口芭蕉庵から急な崖を上る階段坂だ。 関口芭蕉庵は椿山荘の一角にあるかつて松尾芭蕉が住んだ庵である。

時代は1677年~1680年の間、芭蕉は神田川の改修工事に参画し、「龍隠庵(りゅうげあん)」と呼ばれる庵に住んでいた。 のちにこの庵は関口芭蕉庵と呼ばれるようになった。芭蕉はここから望む早稲田田んぼを琵琶湖に見立て、その風光を愛したと伝えらえる。

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坂の東にある椿山荘の敷地は江戸時代は椿が自生する景勝地で「つばきやま」と呼ばれていた。椿山荘の由来である。江戸時代この場所は上総久留里藩黒田豊前守の下屋敷だった。明治になってここを購入したのは軍人で政治家の長州人山形有朋。 目白台の崖線を利用した素晴らしい庭園を築いた。

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胸突坂という名前の坂は23区内に4ヶ所、文京区内に3ヶ所ある。 どの胸突坂よりもここが一番その名にふさわしい厳しい勾配である。 にもかかわらず多くの人が上り下りする。坂の西側には水神社がある。 坂下にある説明板には次のように書かれている。

「目白通りから芭雨園(もと田中光顕旧邸)と永青文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」ともいわれる。東は関口芭蕉庵である。

坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人々の苦労がしのばれる。」

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何度目かの訪問時、坂上の細川邸跡の永青文庫では「春画展」をやっていて路地は人々でごった返していた。

昔、江戸川上水(神田上水)は、坂下の関口でいったん流れを堰き止め、木樋をかけて分水を北側台地沿い(巻石通り)に導いて配水していた。 これが関口の由来。坂下には今は橋があるが、江戸時代は橋が架かっていなかった。 この坂を無謀に下った車夫が勢い余って神田川に落ちた話も伝えられている。 坂上からの展望は僅かな隙間しかないが、江戸時代の風景は歌川広重の「江戸名所百景」の『せき口上水端はせを庵椿やま』に描かれている。 これが当時の神田川と早稲田の景色である。

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2017年11月 1日 (水)

薬罐坂(小日向)

横町坂の東突き当りを北に曲がると袋小路だが、一本だけ抜けられる。途中右に入る路地がある。 すぐに突き当りに見えるが、その突き当りは崖になっていて、崖の上は墓地である。巻石通り沿いに4軒並ぶ寺院の裏手が広い墓地になっており、その西端の崖下を通るのが薬罐坂である。

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高度成長期以前はこの辺りには家はなく、袋小路もなかった。 ただ、横町坂から素直に薬罐坂に道が続いていた。 薬罐というのは、元は野狐のことを野犴(やかん)と呼んでいて、それが薬缶(薬罐)に転化したものらしい。また江戸時代の俗語で、夜鷹のことを「ヤカン」と呼んでいたので、その説もある。 寂しい墓場の裏通りに私娼が立っている、そういう場所だったのだろう。

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戦後になり、この坂の周辺は住宅建築が進み、昔の雰囲気は薄れていった。 この辺りの昔の地図を見ていて、薬罐坂の場所は江戸時代から変わったのではないかという推察を私は持った。江戸時代の尾張屋清七版を見ると、小日向台町からくる道がこの薬罐坂上と出合った辻あたりの東西の道に「ヤカンサカ」と書かれている。 しかし、地形図を見ると薬罐坂の方が傾斜道で、東西の道の高低差は僅かしかない。

かつて江戸の坂を研究した先達達は誰もここに着目していない。本当はどっちの道が薬罐坂だったのか、今もなお私の中では未消化状態である。

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2017年10月31日 (火)

横町坂(小日向)

横町坂、よこちょうざかと読むのか、よこまちざかと読むのかは両説ある。 服部坂上から東に下る坂道で、坂の北側には福勝寺がある。 江戸時代この辺りは御持筒組(鉄砲組)の屋敷があった横丁だった。

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由来は単純に横丁の坂なので横町坂だったようである。坂になっているのは西側の一部のみで、この坂についてはいろいろな文献を調べたが詳しい記述がない。

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とはいえ微妙に曲がっている道といい、変化する傾斜といい、坂道のつくりは江戸の雰囲気を残している。  突き当りを左に曲がり薬罐坂へ向かう。

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2017年10月30日 (月)

服部坂(小日向)

大日坂下から東に歩く。 モダンな4階建の学校のような建物が文京福祉センター江戸川橋、区の福祉施設だが元は黒田小学校(後の区立第五中学校)で、戦国武将黒田官兵衛の子孫の創立。 卒業生に永井荷風、黒澤明がいる。 2012年にここを建替える折の発掘調査で神田上水の白堀(開渠)の遺構が発見された。

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道路脇の軒下にガラス張りの部分があり、そこから覗き見ることができる。 江戸時代の重要な上水は水道橋まで流れ、そこから神田川を懸樋で渡して、神田の街に水を供給していた。

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その先を左折するとまっすぐな坂。 これが服部坂である。 坂の途中の文京江戸川橋体育館の入口に説明板がある。

「坂の上には江戸時代、服部権太夫の屋敷があり、それで「服部坂」と呼ばれた。服部氏屋敷跡には、明治2年(1869)に小日向神社が移された。永井荷風は眺望のよいところとして、『日和下駄』に「金剛寺坂荒木坂服部坂大日坂等は皆斉しく小石川より牛込赤城番町辺を見渡すに良い」と書いている。坂下にある旧文京区立第五中学校はもと黒田小学校といい、永井荷風も通学した学校である。戦災で廃校となった。」

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第五中学校がある時代は、西の中学校と東の体育館は渡り廊下で結ばれていた。 この辺りの景色は以前とはずいぶんと変わった。 それでも永井荷風の書いたように、坂の上に上り振り返ると神楽坂方面をわずかに遠望できる。

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坂の上には小日向神社。  八幡坂の由来となった田中八幡と氷川神社が合祀されて、服部家のあったこの地へ移された、比較的新しい神社である。 ここまで上がると神田川の向こう岸を見渡すことができる。

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2017年10月29日 (日)

大日坂(小日向)

大日坂は小日向台地から神田川(江戸川)に下る長い坂道である。 別名八幡坂。 この坂の説明板はなんと3種類ある。 ひとつは坂の途中にある文京区教育委員会のもの、他は坂上の植え込みの中に彫像の土台に真鍮板に彫られているもので、これは文京区土木部公園緑地課のもの、最後は坂下の妙足院の入口にある文京観光協会のものだ。

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坂上の植え込みには古地図と文章が併記されている。 この古地図が実に面白い。 どちらかというと民間の地図のようで手製感があるが、当時の様子が生き生きと伝わってくる地図なのである。

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鼠坂下は岡場所でもあったが、その上流では紙漉きも盛んだったことが判ったりする。また神田上水には神田御上水と「御」の字が加えられ、幕府と庶民の関係が見え隠れする。こういう古地図はなかなかないのでとても貴重である。

古地図の横には、文京区土木部公園緑地課の説明書きがある。

「この坂は昔、坂の上にあった田村八幡宮にちなんで八幡坂と呼ばれていました。後に八幡宮が音羽町八丁目の裏通りに移転してからは、坂下の妙足院の大日堂にちなみ、大日坂と呼ばれるようになりました。

大日堂は、大日如来を祭り江戸時代から小日向の名所として知られてきました。明治時代に入ると、毎月八の日の縁日には、水道通りに沢山の露店が並び賑わっていました。また、坂下の神田川(通称江戸川)は、明治末まで土手に植えられた桜並木が有名でした。」

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坂の途中には、東京都文京区教育委員会の説明板。

「「・・・坂のなかばに大日の堂あればかくよべり」(改選江戸志)。この「大日堂」とは寛文年中(1661~73)に創建された天台宗覚王山妙足院の大日堂のことである。坂名はこのことに由来するが、別名「八幡坂」については現在小日向神社に合祀されている田中八幡神社があったことによる。この一円は寺町の感のする所である。」

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坂下の文京区役所・文京観光協会のものは、妙足院の入口脇にある。

「坂の名の由来は、坂の途中に大日堂があったことから里俗に呼ばれるようになったものであろう。堂のあるこの寺は天台宗で、覚王山妙足院と号し、開祖は浩善尼上人(紀州家の奥女)で、堂廟の創立は寛文2年(1662)といわれている。

その後 何度か火災にあったので、堂は現在に至っていないが、坂の北の方の道造りは、妙足院で施工したと伝えられている。小日向の名の由来については、古く鶴高日向という人の領地だったが 絶家した後、「古日向があと」といっていたものが、いつか「こひなた」と呼ばれるようになったのであろうと、「御府内備考」では述べている。」

それぞれに特徴があって、同じ人が書いたものではないことが推し量られる。

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鼠坂(小日向)

江戸時代の切絵図を見ると『子ツミサカ』と書かれている。 鳩山会館の北側、坂下は水窪川の跡、そこからいきなり階段坂がまっすぐに伸びる。 21mの高低差をほぼ真っすぐに登るため、ちょっとしたチャレンジに感じられるかもしれない。

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坂の手すりは新しいものと古いものが混在、古いものは塗装した鉄製、取り換えられたものはステンレス製である。 こんな坂だが多くの人が登り下りしている。 人のいない写真を撮るのはなかなか難しかった。

江戸時代の坂下は鼠ヶ谷と呼ばれ、一種のスラム街のような場所で私娼も多くいたという記録がある。風来山人(平賀源内)は、この辺りの岡場所を「下品下生」と最低の評価を与えている。 江戸時代のこういう里俗な情報は実に面白い。

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坂の途中には新しくなった平成17年(2007)製の説明板がある。

「音羽の谷から小日向台地へ上る急坂である。鼠坂の名の由来について『御府内備考』には「鼠坂は音羽五丁目より新屋敷へ上るの坂なり、至ってほそき坂なれば鼠穴などいふ地名の類にてかくいふなるべし」とある。

森鴎外は「小日向から音羽へ降りる鼠坂といふ坂がある。鼠でなくては上がり降りが出来ないと云ふ意味で附けた名ださうだ・・・人力車に乗って降りられないのは勿論、空車にして挽かせて降りることも出来ない。車を降りて徒歩で降りることさへ、雨上がりなんぞにはむづかしい・・・」と小説『鼠坂』でこの坂を描写している。

また〝水見坂″とも呼ばれていたという。この坂上からは音羽谷を高速道路に沿って流れていた、弦巻川の水流が眺められたからである。」

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途中で分岐する階段の脇道も面白い。 階段上のさらに先にも階段があり、車も来ないので、階段の間の区間では近所の親子がキャッチボールをしていた。 再び鼠坂の中腹に戻り、坂上を目指す。

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坂上から振り返ると微妙に曲がっている。 この曲りが江戸の坂の特徴でもある。 昭和の坂のほとんどはまっすぐに通される。 ところが江戸時代の坂は、登山道のように通りやすいところにできるので真っすぐにはならない。 それが景色のアクセントにもなっているのである。

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2017年10月28日 (土)

八幡坂(小日向)

鷺坂は昭和の坂だが、この八幡坂は江戸時代からある坂道で、江戸切絵図にもある。 水窪川の東側に田中八幡、そして別當西蔵院と書かれている。 裏手は久世大和守の屋敷で、北側一帯は御賄組の屋敷が集合住宅のように集まっている。 この田中八幡は現在は音羽今宮神社になっている。 元の田中八幡は氷川神社と合併されて服部坂上の小日向神社となったのは明治2年。 その後明治政府の神仏分離令で護国寺境内にあった今宮神社がここに移ってきたという経緯である。

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いきなり階段で始まる坂だが、八幡坂は坂上まですべて階段の坂である。 この辺りの小日向側の崖はかなり急で、高低差も20mほどあり、それを一気に登る感じだ。

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途中、鷺坂からの道を合わせて左に折れる。 そこから見下ろすと(上の写真)結構急な坂であることがわかる。 ここからさらに階段坂が続く。 江戸時代はこの坂を御賄組が管理していたという。 十分な管理がなければ坂として維持できないくらいの傾斜がある。

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さらに坂上に向かって上る。 短い区間だけ、鷺坂からの道がそのまま車道になっているが、それもすぐに階段坂に戻る。 鉄製の手すりがないと悪天候時は上り下りもままならないだろう。

説明板は坂下にある。「『八幡坂は小日向台三丁目より屈折して、今宮神社の傍らに下る坂をいふ。安政四年(1857)の切絵図にも八幡坂とあり。』と、東京名所図会にある。明治時代の初めまで、現在の今宮神社の地に田中八幡宮があったので、八幡坂と呼ばれた。坂上の高台一帯は「久世山」といわれ、かつて下総関宿藩主久世氏の屋敷があった所である。」と書かれていた。

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坂上谷側の新しいマンションは石川啄木初の状況下宿跡の説明板がある。「盛岡中学校を卒業直前にして退学した啄木は、文学で身を立てるため、明治35年(1902)単身上京した。そして、中学の先輩で金田一京助と同級の細越夏村の旧小日向台町にあった下宿を訪ねた。」とあり、ここには1日だけしかいなかったようである。 それでも説明板があるのはやはりビッグネームと言える。

大日坂上に古い真鍮の説明板に古地図が描かれているのだが、その地図によるとこの八幡坂の下、水窪川沿いの音羽九丁目には「このあたり私娼あり」と書かれている。 やはり谷筋は俗世間、「俗」の字に「谷」が含まれるのは意味があることなのだろう。

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鷺坂(小日向)

文京区小日向には素敵な坂がいくつもある。 その主役ともいえるのがこの鷺坂。 スズキのバレーノというほぼ無名の自動車のCM映像を見た時、「このCMの映像を作った人は相当な坂好きだろうな」と思った。 《スズキ バレーノ CM映像》

さて、鷺坂の入口は旧目白通り(目白坂)の音羽通りの向かい側、江戸川公園前交差点。 最初の辻を過ぎると上り坂が始まる。 手前左の石垣は見事で、まるで城郭のようだ。 坂下で交差する路地はその昔、水窪川という川の跡である。水窪川より上は関宿藩藩主久世大和守の下屋敷だったから、その時代の石垣ではないかと想像を膨らませる。

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鷺坂は逆Z型を描いて上って行く。 左に折れるところには、説明板と石標が立っている。 説明板下には文京区の都市景観賞2008のプレートがある。「鷺坂は、急な勾配と昔ながらの石積みが現存し、江戸風情を色濃く残した坂として人々に親しまれ、「坂の街・文京」の景観づくりに貢献しています」とある。

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説明板には次のように書かれている。

「この坂上の高台は、徳川幕府の老中職をつとめた旧関宿藩主・久世大和守の下屋敷のあったところである。そのため地元の人は「久世山」と呼んで今もなじんでいる。この久世山も明治大正以降住宅地となり堀口大学(詩人・仏文学者。1892~)やその父で外交官の堀口九万一も居住した。この堀口大学や、近くに住んでいた詩人の三好達治、佐藤春夫などによって山城の久世の鷺坂と結びつけた「鷺坂」という坂名が、自然な響をもって世人に受け入れられてきた。

足元の石碑は、久世山会が昭和7年7月に建てたもので、揮毫は長城堀口九万一による。一面には万葉集からの引用で、他面には今日風で「山城の久世の鷺坂神代より春は張りつつ秋は散りけり」とある。文学愛好者の発案になる「昭和の坂名」として異色な坂名といえる。」

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坂好きならずともこの景観には感動するに違いない。 江戸時代は大名屋敷の中だった場所で、明治大正期は久世山という丘陵の林、昭和になってようやく開かれた坂なのに、ここまで江戸情緒を醸し出す例は珍しい。

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スズキのCMで使われたのはこの上のZクランクである。 タクシードライバーでも往生する急角度の折り返しだが、時折上る車を見かける。 さすがに地元住民は上手い事抜ける。坂下との高低差は12mほどだが、まるで登山道のような道が台地の下と上を別世界に感じさせてくれる。

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2017年10月27日 (金)

七丁目坂(目白台)

鳥尾坂上にある獨協中学高校の手前の路地を南に向かっていくと、右手に佐藤春夫の旧居跡がある。 洋風建築と日本建築の間に説明板が立っているので、どっちかわからない。 元の路地に戻り、そのまま進むと、道が細くなり階段になる。 七丁目坂である。

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石垣と古めの塀に囲まれた階段には鉄製の手すりがついている。 バイクに乗ったまま下るのは危険だが、自転車も十分危険だと思う。 石垣の蔦がいい雰囲気を出している。

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途中にある大木(おそらくアカガシ)は石の塀を跨ぐようにして立っている。 樫の木はよく山の中で岩場に根を伸ばして生えているが、都会では珍しい。 坂上標高29mに対し坂下は7m。 これを一気に階段で下る。

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途中から下の段はカーブを描きながら下る。 坂下は関口三丁目公園。 この坂は江戸の切絵図ではよくわからない。 しかし明治初期の地図には道が描かれていて「七丁目坂」と書いてある。江戸の坂なのか、明治の坂なのか。

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坂名の由来は、旧・音羽七丁目と八丁目の間を上る坂なのでこの坂名となったというのが区史によるもの。 この坂の辺りには御賄組の屋敷が並んでいた。 魅力的な坂だが、説明板がないのは、坂のいわれが不明瞭だからだろうか。

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2017年10月26日 (木)

鳥尾坂(目白台)

江戸初期以前の護国寺界隈は二本の川に挟まれた谷だった。 現在の高速下あたり、谷の目白台側を流れていたのは弦巻川。 東側の鼠坂下を流れていたのが水窪川。 弦巻川は現在の池袋西口にあったという丸池を源頭に鬼子母神のある雑司ヶ谷を流れ、目白台の北側をなぞるように護国寺前から南下して江戸川(神田川)に注いだ。

この川が目白台の北側を削って段丘を形成したわけだが、台地の上と下では20m以上の高低差を作り出して、その昔は往来に難儀だった。

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坂の説明板によると、「この坂は直線的なかなり広い坂道である。坂上の左側は獨協学園、右側は東京カテドラル聖マリア大聖堂である。 明治になって、旧関口町192番地に鳥尾小弥太(陸軍軍人、貴族院議員、子爵)が住んでいた。 西側の鉄砲坂は人力車にしても自動車にしても急坂すぎたので、鳥尾家は私財を投じて坂道を開いた。 地元の人々は鳥尾家に感謝して「鳥尾坂」と名づけ、坂下の左わきに坂名を刻んだ石柱を建てた。」とある。

確かに明治後半の地図以降、鳥居邸の表示がある。 現在は関口台公園になっていて、子供の声が賑やかである。

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坂上は獨協中学高校、学生が坂を上り下りする。 この辺りの町名を関口という。 正保(1640年代)の頃までは関口村と呼んだ。 土地の言い伝えではこの辺りに昔、奥州街道の関所があったので関口となった説があるが、一方で江戸川(神田川)の取水の大洗堰が起源だという説もある。 神田上水の開設は1590年頃。 当時はまだまだ農地と野原だったようだが、1700年代に入ってから、武家屋敷や町屋が立ち並び始めた。 当時ののどかな風景を坂上坂下で思いはせる。

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鉄砲坂(目白台)

三丁目坂の坂上を南に曲がり、新目白通りのカーブまで南下、目白台三丁目の変則分岐を真東に進むと鉄砲坂の下りになる。 坂上は普通の路地だが、坂の傾斜に入ると軽自動車いっぱいいっぱいの道幅に狭まる。

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両側に個性のある塀が続くので、景色のいいアクセントになっている。 坂の途中で南側に接道する路地の方が広いが、鉄砲坂はまっすぐに下る。 路地の方は東京音楽大学付属高校の裏を通って音羽通りに出る。 この丁字路から見上げる景色もいい。

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坂の北側は東京音楽大学の目白台学生寮。 ここには江戸時代斜面を利用した鉄砲練習場があった。 微妙に曲がった細い坂の路地はこの道が古い道である証である。

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坂下に安政四年の『音羽絵図』という江戸切絵図を描いた説明板がある。

「この坂は音羽の谷と目白台を結ぶ坂である。坂下の東京音楽大学学生寮のあたりは、江戸時代は崖を利用して鉄砲の射撃練習をした的場(角場・大筒角場ともいわれた)であった。その近くの坂ということで「鉄砲坂」と呼ばれるようになった。」

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江戸切絵図には「鉄砲サカ」と書かれている。 坂の南側の東京音楽大学付属高校の辺りは旗本斉藤伊豆守の屋敷、明治になってからは鳥尾家の邸内。関東大震災の頃に小石川高等女学校が開かれ、その後文華学園(現在は西東京市に移転)となり、現在は東京音大付属となっている。 大正昭和期に多くの女学生が歩いたこの坂が、その前は鉄砲場というギャップが面白い。

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三丁目坂(目白台)

大塚警察署交差点から西に上る坂。 坂下の音羽通から望むと、首都高速5号池袋線の下をくぐり高度を上げていく道が坂の傾斜を増幅して見せている。 音羽通りの脇には、その昔護国寺から流下して江戸川橋で神田川に注ぐ弦巻川があり、川が削った谷が音羽通り沿いの低地である。 音羽通りの標高は10mなのに対して目白台地の坂上は30mなので、高低差は20mもある。

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高速道路をくぐった先で右にカーブしている。 この曲がり方は江戸時代からの道であることの証。  坂の南側は桂林寺の境内(現在は小さくなって路地裏に残っている)。北側は坂上西の薬罐坂までが松江藩松平出羽守の下屋敷だったが、明治になって国の所有となり、東大附属病院と筑波大付属盲学校の敷地になった。東大附属病院は分院で2001年に閉院した。 今は広い敷地がほぼ更地になっているが、将来は研究所が再建される予定。

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目白台は武家屋敷の台地だったが、その西側は農地だったため、この辺りは武家屋敷と百姓地が混じるエリアだったようだ。坂の途中に説明板がある。

「旧音羽三丁目から、西の方目白台に上る坂ということで三丁目坂とよばれた。 坂下の高速道路5号線の下には、かつて弦巻川が流れていて、三丁目橋(権三橋)がかかっていた。

音羽町は 江戸時代の奥女中音羽の屋敷地で、『新撰東京名所図会』は、「元禄12年護国寺の領となり町家を起せしに、享保8年之を廃し、又徳川氏より町家を再建し、その家作を 奥女中音羽といへるものに与へしより 町名となれり」と記している。」

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三丁目というのは近代の地名ではなく、江戸時代の護国寺門前町が北より壱丁目二丁目とあり、この坂下が三丁目だったからである。 通常江戸城に近いほうが壱丁目になるのだが、ここは護国寺の門前町、そして護国寺は五代将軍綱吉の母桂昌院の菩提寺ゆえに護国寺側から数えている珍しい例なのである。

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2017年10月25日 (水)

付属横坂(小日向)

東京メトロ有楽町線の護国寺駅を降りると講談社が風格ある建物を誇示している。 何となくお役所っぽい外観の建物。 たけし軍団が乗り込んだ話を思い出す。 エレベータに最後に乗ったそのまんま東がドアが開いたら先頭だったというのは笑えた。

講談社の南隣がきれいなビルになった大塚警察署。  大塚警察署なのに護国寺にあるのは違和感あるが、警視庁の管轄は区割りよりも狭く、昔の地名に近いところも多くて興味深い。 大塚警察署の管轄は、江戸川橋、護国寺、茗荷谷周辺で、大塚駅周辺は巣鴨警察署の管轄だし、巣鴨警察署は大塚駅近くにある。 どうも庶民にはピンとこない。

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その警察署前から東に上って行く道がある。 銀杏並木の美しい見事な坂道だ。 緩やかにS字カーブを描いて上って行く。切通になった両側には樹木が繁り素晴らしい環境である。 この坂の名が付属横坂。 両脇の緑は学校に囲まれているためである。

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坂下から、右に筑波大学付属中学、左にはお茶の水女子大学、その先まで上ると右に跡見学園中高校が並ぶ。 江戸時代は辺りは今のいわき市平にあった陸奥磐城平藩主安藤長門守五万石の下屋敷だった。 地図を確認する限りでは昭和戦後に開かれた坂である。

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2017年10月22日 (日)

今井坂(小石川)

坂下は巻石通り(神田上水)、坂上は春日通りの竹早高校近くで、春日通りが小石川の背骨にあたる筋を走っているので、坂上の標高が25m、坂下が7mとかなりの高低差がある。 しかし辺りの地形は2段階の河岸段丘なのでそれほどの急坂には感じない。
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巻石通りから入るとすぐに金富小学校。 明治41年(1908)の開校。小学校の前に坂の説明板が立っている。 今井坂の別名は新坂。
「『改選江戸志』には、「新坂は金剛寺坂の西なり、案に此坂は新に開けし坂なればとてかかる名あるならん、別に仔細はあらじ、或はいふ正徳の頃(1711~16)開けしと、」とある。新坂の名のおこりである。
今井坂の名のおこりは、『続江戸砂子』に、「坂の上の蜂谷孫十郎殿屋敷の内に兼平桜(今井四郎兼平の名にちなむ)と名づけた大木があった。これにより今井坂と呼ぶようになった。」とある。
この坂の上、西側一帯は現在国際佛教学大学院大学になっている。ここは徳川最後の将軍、慶喜が明治34年(1901)以後住んでいたところである。 慶喜は自分が生まれた、小石川水戸屋敷に近いこの地を愛した。 慶喜はここで、専ら趣味の生活を送り、大正2年(1913)に没した。 現在、その面影を残すものは、入口に繁る大公孫樹(おおいちょうのき)のみである。」
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この仏教学大学院大学の敷地は江戸時代は大久保長門守の下屋敷であった。 大久保家は静岡県の小大名で江戸中期は沼津市松永の領主(11,000石)、その後神奈川厚木に国替えし、厚木市荻野あたりを治めた。 またさらに昔はこの辺りは中世の城が築かれていたという話もある。
 

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金剛寺坂(小石川)

金剛寺坂、別名蝙蝠坂、新鳶坂とも呼ばれた。 新坂(今井坂)と安藤坂の間の坂。 この辺りの坂は坂下がほぼ神田上水跡の巻石通りである。 神田川の標高が4m、巻石通りが7mと、神田川より3m高いところに江戸川橋上流で取水した上水を流していた。 ここに上水を通した理由は地形図を見るとわかる。 神田川が小石川台地を削った河岸段丘は2段になっており、下の段の縁がこの神田上水の筋だったのである。

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金剛寺坂の由来については坂の途中の説明板に次のようにある。

「江戸時代、この坂の西側、金富小学校寄りに金剛寺という禅寺があった。 この寺の脇にある坂道なので、この名がついた。 小石川台地から、神田上水が流れていた水道通り(巻石通り)に下る坂の一つである。

この坂の東寄りで、明治12年に生まれ、少年時代を過ごした永井荷風は、当時「黒田小学校(現在の旧第五中学校のある所、昭和20年廃校)」に、この坂を通って通っていた。荷風は昭和16年久しぶりにこの坂を訪れ、昔を懐かしんでいる様子を日記に記している。」

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坂上のマンション敷地の石垣がなかなかいい雰囲気。 東都小石川絵図を見ると門前町の間に数軒の武家屋敷があり、石垣の所は岡田李太夫とある。 調べたが何も出てこないので、普通の中流武士だったのだろうか。 元禄時代には金剛坂の上に御用屋敷が設けられ、鷹狩りの関係者が住んでいたとも伝えられるので、その関係筋だろうか。

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金剛坂下半分の途中には丸の内線の跨線橋がある。 茗荷谷からここまでが丸の内線が地上を走る区間のひとつ。跨線橋のすぐ東に地下軌道への入口。 上の写真の左側が小石川台地がわ、右側が神田川側で、ここがまっすぐに切れ落ちる河岸段丘だったことがわかる。

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牛坂(小石川)

安藤坂のカーブは大曲というらしい。 安藤坂を下って大曲で左の路地に入る。 市電が通るまではこちらがメインルート。 路地に入ると正面に北野神社(牛天神)の急峻な階段が見えてくる。鳥居は階段の上、階段下には「北野神社」と彫られた大きな石塔と竹製の門がある。 竹製の門の上部は丸く穴があけられ、そこに提灯が下がっている。「牛」「天」「神」の3つの提灯が印象的。

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階段は昔からの石組み。 コンクリートに比べて踏んだ感触はいささかいびつだが、この感触は昔の人が感じたものと同じだと思うと感慨深い。 これだけの高低差は神田川(江戸川)が小石川の台地を削っでできたものだ。

牛天神からの眺めは現在でもなかなかのものがある。 葛飾北斎の富嶽三十六景の中の唯一の雪景色が『礫川雪ノ旦(こいしかわゆきのあした)』で牛天神にあった茶屋からの富士の眺めを描いている。崖下に見える江戸川(神田川)が想像以上に広いが、鎌倉時代辺りまで遡るとほぼ入江だっただけにあながち誇張ではないだろう。

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牛天神北野神社は元暦元年(1184)の源頼朝の創建と伝えられる。境内には『ねがい牛』という自然石が祭られており、撫でると願いがかなうという。牛天神の裏にある道が牛坂である。 牛天神と古い石垣に挟まれた名坂である。

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坂の途中に説明板が立っている。

「北野神社(牛天神)の北側の坂で、古くは潮見坂、蛎殻坂、鮫干坂など海に関連する坂名でも呼ばれていた。 中世は、今の大曲あたりまで入江であったと考えられる。牛坂とは、牛天神の境内に牛石と呼ばれる大石があり、それが坂名の由来といわれる。(牛石はもと牛坂下にあった)

『江戸志』には、源頼朝の東国経営のとき、小石川の入江に舟をとめ、老松につないでなぎを待つ。その間、夢に菅神(菅原道真)が牛に乗り衣冠を正して現れ、ふしぎなお告げをした。夢さめると牛に似た石があった。牛石がこれである、と記されている。」

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再び安藤坂に戻り、かつての小石川区役所の敷地(が更地になっているのをいいことに牛坂を遠望してみた。 小石川区役所はその後小石川保健所となったが今は文京区役所に移転し、ここは更地になっている。ここから見える牛坂はなかなかの坂である。

この坂下まで入江だったというのは、ここまで潮が上がってきたという事である。源頼朝はここに舟を着けて牛天神を開いた。今の東京の街を考えると想像しにくいが、地形を見ると容易に解る。

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安藤坂(小石川)

伝通院正門から旧江戸川(神田川)へ下る坂道。 坂の途中に説明板がある。

「この坂は伝通院前から神田川に下る坂である。 江戸時代から幅の広い坂道であった。 傾斜は急であったが、明治42年(1909)に路面電車(市電)を通すにあたり緩やかにされた。 坂の西側には安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで、戦前は「安藤殿坂」、戦後になって「安藤坂」と呼ばれるようになった。古くは坂下の辺りは入り江で、漁をする人が坂上に網を干したことから、また江戸時代に御鷹掛(おたかがかり)の組屋敷があって鳥網を干したことから「網干坂」とも呼ばれた。」

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坂下牛天神前で西に曲がっているが、これは明治に電車道になった時に改修された道。 それ以前は坂下で牛天神方向に曲がり、牛天神の階段下で再び南に下って神田上水に出る道筋だった。神田川は江戸時代にはこの辺りに船宿があったほど川幅が広く流れの豊かな川だった。 安藤坂は当時江戸でも有名な急坂で九段坂とも呼ばれていたのである。(靖国神社前の九段坂も急な坂だった)

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坂幅は昔から広かったようだ。坂の東側には「萩の舎(はぎのや)跡」がある。塾主中島歌子(1844~1903)が開いた歌の塾で、門弟は1000人を超えたという。 塾生には若き時代の樋口一葉もいた。

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この坂を歩いていて私が引っかかったのは、日本指圧専門学校前の浪越徳次郎の銅像だった。 ほぼ伝通院の門前にある。アフタヌーンショーの 「指圧の心は母心 押せば命の泉湧く」というフレーズは私の年代には忘れられないものだ。

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善光寺坂(小石川)

六角坂を下って左に曲がる。 すぐに変則五差路にあたるが、左に直角に曲がる道を進む。 道の先に山門が見える。江戸時代はこの辺りからすでに伝通院の境内であった。 江戸時代にはここに善光寺という寺院はなかった。創建は慶長7年(1602)で、伝通院の塔頭(たっちゅう)として縁受院(あるいは縁請院)の名で寺町の東端に建てられた。

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この先伝通院に上る坂道が善光寺坂である。 縁受院は明治17年(1884)に善光寺と改称し、信州善光寺の分院となった。 そのため善光寺坂の名前は明治以降につけられた名前である。 ゆるやかに曲がりながら上っていく風景は情緒がある。 ビルがなければもっといいのだが、東京ではそれは叶わない。

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善光寺の隣には沢蔵司稲荷(たくぞうすいなり)がある。 江戸時代初期伝通院の坊主に沢蔵司という類稀なき優秀な僧がいた。 それが実は稲荷神だということで伝通院の住職がここに稲荷を祀ったのが始まり。説明板には次のような逸話?が書かれている。

『東京名所図会』には、「東裏の崖下に狐棲の洞穴あり」とある。今も霊窟(おあな)と称する窪地があり、奥に洞穴があって、稲荷が祀られている。伝通院の門前のそば屋に、沢蔵司はよくそばを食べに行った。沢蔵司が来たときは売り上げの中に必ず木の葉が入っていた。主人は沢蔵司は稲荷大明神であったのかと驚き、毎朝「お初」のそばを供え、いなりそばと称したという。

またすぐ前の善光寺坂にムクノキの老樹があるが、これには沢蔵司が宿っているといわれる。道路拡幅の時、道を二股にして避けて通るようにした。

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このムクノキ、戦災で上部が焼けてしまったがそれ以前は23mの樹高があった。推定樹齢は約400年。 焼けたものの樹勢は強く、焼け残った南側から枝を伸ばして復活している。 空襲を乗り越えた巨樹はある種神々しさを感じさせるが、沢蔵司の物語も併せると、御神木にふさわしい巨樹だと言える。

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坂上の伝通院の正式名は(浄土宗)無量山寿経寺伝通院。 慶長8年(1603)に徳川家康が生母お大をこの地に葬った。 将軍家に守られた大きな寺院である。 江戸時代は常時1000人もの学僧が修行をしていたという。 今はかなり狭くなったが当時はこの何倍もの境内が広がっていた。

坂の説明板が坂途中にあるのでその説明を付記。

坂の途中に善光寺があるので、寺の名をとって坂名とした。善光寺は慶長7年(1602)の創建と伝えられ、伝通院(徳川将軍家の菩提寺)の塔頭で、縁受院(えんじゅいん)と称した。明治17年(1834)に善光寺と改称し、信州の善光寺の分院となった。したがって明治時代の新しい坂名である。坂上の礫川(れきせん)や小石川の地名に因む松尾芭蕉翁の句碑が建立されている。

     “一(ひと)しぐれ 礫(つぶて)や降りて 小石川”  はせを(芭蕉)

また、この界隈には幸田露伴(1867~1947)、徳田秋声(1871~1943)や島木赤彦(1876~1926)、古泉千樫(1886~1927)ら文人歌人が住み活躍した。

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2017年10月21日 (土)

六角坂(小石川)

中央大学前から小石川大神宮を経て北へ進む道筋。 堀坂上からさらに北に行くと途中から下り坂になる。 坂の途中に六角坂の説明板が立っている。 坂は急に右に曲がって下り、堀坂下からの道に出合う。

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上の写真の左側(西側)は江戸切絵図を見ると「六角帯刀」とある。 その先の曲がり角より北側は江戸時代は伝通院の境内だった。 坂の途中の説明板には次のように書かれている。

「六角坂は上餌差町より伝通院の裏門の前に出る坂なり、古くより高家六角氏の屋敷の前なる坂故にかくいへり」(『改選江戸志』)とある。『江戸切絵図』(万延2年(1861)の尾張屋清七版)をみると、この坂が直角に曲がっているあたりに六角越前守の屋敷があったことがわかる。

餌差町は、慶長年間(1596~1615)、鷹狩りの鷹の餌となる小鳥を刺し捕らえることを司る「御餌差衆」の屋敷が置かれたところである。 近くに歌人・島木赤彦が下宿し、『アララギ』の編集にあたった「いろは館」があった。

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御餌差衆はいわゆる鷹匠の配下である。鷹匠の要請で関東一円に出かけて小鳥を捕っていた。 武士ではなく町民が多かった。 殿様が鷹狩りの折に、鷹が捕る獲物をあらかじめ用意しておいて放し、鷹がそれを捕まえると「お見事!」とおべんちゃらをいうシステムである。

江戸時代も近現代もやっていることは似ているものだ。ちょうどゴルフの「ナイスショット!」みたいなものだと思えばよい。 ナイスショットしてくれないと社長さんは不機嫌になり、それが何より困る、というのは日本独特の接待ゴルフのあるある。 これははるか昔から培われてきた日本人の組織の特徴と言えそうだ。

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2017年10月20日 (金)

堀坂(宮内坂)

富坂のある春日は昔から交通の要所だった。東西に春日通りが、南北に白山通りが走る。その北西側、大塚へ伸びる道は昔は谷端川(やばたがわ)だった。豊島区要町を源頭に椎名町まで南下したかと思うと、急に北に流れを転じ池袋の北の下板橋まで、そこからまた流れを南に急転し大塚駅を横切り、小石川から春日そして後楽園を突っ切り神田川に流下した。 現在は暗渠になっている。

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小石川の坂はほぼこの谷端川が武蔵野台地を削ってできた地形による坂である。 富坂もそうだし、この堀坂も同様だ。 堀坂の別名は宮村坂(くないざか)、源三坂。 まっすぐに伸びた坂で、いかにも切り開いた感じがする。 坂の途中に説明板がある。

「堀坂は中富坂町の西より東の方。すなわち餌差町に下る坂をいふ。もと其の北側に堀内蔵助(ほりくらのすけ)2,300石の邸ありしに因れり。今坂の中途に〝ほりさか″と仮字にてしるしたる石標あり。此坂は従来宮内坂または源三坂と唱へたるものにて。堀坂といへるは其後の称なりといふ」(『新撰東京名所図会』)

この場所の北側に旗本堀家の分家利直(のちに利尚、通称宮内)の屋敷があったことから、この坂は別名「宮内坂」と名づけられた。また、当時の名主鎌田源三の名から「源三坂」ともいわれた。「堀坂」という名称は、文政(1818~30)の頃、堀家が坂の修復をして「ほりさか」と刻んだ石標を建てたことからいわれるようになった。 坂下にこんにゃくえんまの伝説で名高い「源覚寺」がある。

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こんにゃくえんまは面白い名前だが、宝暦(1751~1763)の頃、眼病の老婆が願を掛けたところ、閻魔が自分の片目を与えた。 老婆は好物のこんにゃく断ちをしてそれを供え続けたという伝説が面白い。

ここには元禄3年(1690)の釣り鐘があり、汎太平洋の鐘と言われている。 戦争に際して鉄砲玉用にサイパンに供出されたが、その後米国のテキサス州にあることがわかり、サンフランシスコ祭りに展示されたのちに源覚寺に戻ってきたものだ。

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都会の路地裏のような寺だが参詣客は多い。 この近くにはもう一つ興味深い神社がある。 小石川大神宮だ。 まるで古いマンションの駐車場の入口のような神社。

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ビルの裏に社殿がある。 創建は昭和41年。 私よりもずっと若い。 神社って作れるのかと、とても不思議に感じた。 伊勢神宮の分社のような位置づけで、異例の出来事で創建されたようだ。 さすが八百万の神の国である。

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2017年10月19日 (木)

富坂(西富坂)

春日駅は谷合いの立地である。 東富坂(真砂坂)から下ってきた春日通りは、文京区役所を過ぎると上りに転じる。 区役所の前で東西を眺めるとどちらも上り坂。 昔の富坂は地下鉄丸ノ内線脇を下り(旧東富坂)、今の区役所辺りから礫川公園を通り、中央大学前のカーブで現在の道筋に繋がるのが昔の道筋だ。

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礫川公園前に説明板が立っている。

「とび坂は小石川水戸宰相光圀卿の御屋敷のうしろ、えさし町より春日殿町へ下る坂、元は此処に鳶多して女童の手に持ちたる肴をも舞下りてとる故とび坂と云」と『紫の一本』にある。鳶が多くいたので鳶坂、転じて富坂となった。

また春日町交差点の谷(二ヶ谷)をはさんで、東西に坂がまたがって飛んでいるため飛坂ともいわれた。そして、伝通院の方を西富坂、本郷の方を東富坂ともいう。 都内に多くある坂名の一つである。

この近く礫川小学校裏にあった「いろは館」に島木赤彦が下宿し、〝アララギ″の編集にあたっていた。

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坂上から眺めるとバブリーな文京区役所の形が独特である。 区役所、礫川公園、東京ドーム、後楽園ゆうえんちを含む南の一帯は、関東大震災辺りまで砲兵工廠(ほうへいこうしょう)だった。 ここで陸軍の武器を製造していたのである。 ドームや遊園地で楽しむ人々はそのことを九分九厘知らないだろう。

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2017年10月18日 (水)

曙坂(白山)

福山坂下から富士見湯の前を進み最初の路地を右に入る。 路地は石垣に突き当たり北に向きを変える。 見事な本郷台地の崖である。 崖の高さは10m以上ある。間もなく東側に階段坂が現れる。 曙坂である。

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坂下の石碑は一見古そうだが、昭和22年とある。 この坂も戦後復興で整備された坂なのだろうか。 昔の写真を見ると土がむき出しになり、1m間隔で石の雁木が敷かれた坂だったようだが、その後今のコンクリート坂に改修された様子。 関東大震災前の地図をみるとこの道は既に開かれている。当時は凄い坂だったに違いない。

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坂上の説明板には次のように書かれている。 「『江戸砂子』によれば、今の白山、東洋大学の北西は、里俗に鶏声ヶ窪(けいせいがくぼ)といわれるところであった。 明治2年(1869)に町ができて、鶏声暁にときを告げるところから、あけぼの(暁と同じ)を取り町名とした。 この坂の場所と、旧曙町、鶏声ヶ窪とは少し離れているが、新鮮で縁起の良い名称を坂名にしたのであろう。

この坂は西片と白山を結び、人々の通学や生活に利用されてきた。 昭和22年(1947)には旧丸山福山町・曙会の尽力により石段坂に改修された。」

別名は徳永坂。 その由来はわからない。 坂上を北に進むと、誠之館(せいしかん)跡がある。福山藩が江戸詰めの藩士の子弟のために設けた藩校で、現在も誠之小学校(区立)として続いている。小学校としての歴史は140年だが、藩校は1855年の開校なので、さらに22年ほど前からここは学び舎だったわけだ。

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2017年10月17日 (火)

福山坂(新坂)

福山坂の辺りは、江戸時代は福山藩阿部家の中屋敷で、福山坂は江戸時代には存在していない。 明治時代に開かれた坂である。 明治になって1万坪を残して5万坪を貸したというが、明治初期の地図を見ても残された庭の一辺が200mほどもある屋敷である。
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坂の途中の説明板には、「『新撰東京名所図会』に、「町内(旧駒込西片町)より西の方、小石川掃除町に下る坂あり、新坂といふ」とある。この坂上の台地にあった旧福山藩主の阿部屋敷へ通じる、新しく開かれた坂ということで、この名がつけられた。また福山藩に因んで、福山坂ともいわれた。新坂と呼ばれる坂は、区内に六つある。
坂の上一帯は、学者町と言われ、夏目漱石はじめ多くの文人が住んだ。西側の崖下一帯が、旧丸山福山町で、樋口一葉の終焉の地でもある。」と書かれている。
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坂下の十字路に椎の木稲荷がある。福山邸の庭にあったという椎の木は高さ12m、幹回り6mの見事な大樹だったというが、戦災で焼けてしまった。
坂下の椎の木の前の道には江戸時代には川が流れていた。明治になってからもこの川は開渠で、今の白山駅辺りから流下していた。そういう場所にはかなりの確率で銭湯があるものだが、ここも例にもれず富士見湯という素晴らしい外観の銭湯がある。先代のオーナーが大正期に買い取った銭湯らしい。文京区ではここだけが番台を残している。とはいえ文京区に残っている銭湯は6湯っきりになってしまった。
 

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2017年10月16日 (月)

石坂(西片町)

文京区西片一丁目、昭和40年までの旧町名は田町。俗にいう丸山に属し、古くは菊坂田町と称した。一帯は昔、田畑と菊畑であったので菊坂田町。寛永5年(1628)御中間方拝領地となり、元禄9年(1696)頃町屋が開かれた。この田町という旧町名は白山通り西片から菊坂下までの狭い地区の地名である。そこから備後福山藩中屋敷のある台地に上って行く坂が石坂である。

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坂の途中に説明板がある。「町内より南の方(かた)、本郷田町に下る坂あり、石坂とよぶ」『新撰東京名所図会』この坂の台地一帯は、備後福山藩(11万石)の中屋敷を幕府の御徒(おかち)組、御先手組の屋敷であった。

明治以降、東京大学が近い関係で多くの学者、文人が居住した。田口卯吉(経済学者・史論家)、坪井正五郎(考古学・人類学者)、木下杢太郎(詩人・評論家・医者)、上田敏(翻訳者・詩人)、夏目漱石(小説家)、佐佐木信綱(歌人・国学者)、和辻哲郎(倫理学者)など有名人が多い。そのため西片町は学者町といわれた。

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福山藩阿部家は明暦の大火の別説の火元の老中屋敷である。明治になってから6万坪の屋敷の内、1万坪を自宅に残して、後を貸地として公開した。それで学者たちが平均百坪程度づつ借りて住むようになった訳である。

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2017年10月15日 (日)

金魚坂(本郷)

本郷菊坂の坂上近くにある路地。 一見すると、戦後金魚屋が適当に付けた坂名のように見えるが、実はさにあらず。 歴史ある金魚屋で、坂名も江戸末期からあるものなのである。

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2016年に訪れた時、菊坂側は更地になっていた。 この土の面の段差は江戸期からの土地の記憶である。 段になって坂奥が高くなっていく。 2017年に再訪すると、さすがにこの更地はビルになってしまっていた。

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坂奥の金魚屋は健在。 何せ本物の老舗である。

金魚坂(旧 吉田晴亮商店)の創業は1854〜1859年頃 (安政年間)。元は、吉田晴亮商店を名乗った金魚・錦鯉の専門問屋。現在では、魚料理やカレーを出すカフェや、金魚すくいができる釣り堀などを併設。金魚のテーマパークのような憩いの場となっている。

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この金魚屋、自称では創業350年とうたっている。 しかし金魚は古くから日本の文化として、庶民の間に浸透してきた。 店を構える前に行商を代々やっていた可能性は否定できない。 現金魚屋女将は7代目という。 それから計算するとやはり、江戸末期が適当だろう。 しかしここもいつまでも頑張ってほしい老舗の一つである。

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菊坂(本郷)

本郷の菊坂は東京でも有名な坂の一つ。 中山道であった本郷通りから西片近くの菊坂下までは650m、坂上標高20m、坂下は9mで11mの高低差の緩やかな坂道である。 この坂は川が本郷台地を削った谷筋で、関東大震災前の地図には本妙寺坂の先まで開渠になっている。 坂上本郷通りの別れの橋跡はこの川がまだ加賀藩上屋敷(現東京大学)から流れていたころに掛かっていた橋の名である。

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菊坂下に入って最初の路地が胸突坂だが、本来は胸突坂が菊坂であった。 しかし、江戸時代以降菊坂町という町名になってからはこの菊坂町筋が菊坂と呼ばれるようになっていった。 この菊坂を中心にいくつもの坂が合流している。 また、南側に並行する暗渠筋の路地(菊坂下道)との間には落差があり、いくつもの魅力的な階段道が通されている。

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少し坂を上ると蔵が目に入る。 樋口一葉(1872~1896)が菊坂の家に住んでいたときから、生活が苦しくなるたびに通った質屋で、彼女が下谷区竜泉町に移ってからも通ったという伊勢屋質店の跡だ。 この少し先には宮沢賢治の旧居跡、北側の梨木坂には田宮虎彦、
本妙寺坂辺りには石川啄木が住んでいた。

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菊坂の説明板は坂の途中の長泉寺の入口にある。 入り口は狭いが奥は広い墓所が広がり、本妙寺坂上からも入ることができる広い寺である。 入り口脇の菊坂の説明板には次のように書かれている。

「此辺一円に菊畑有之、菊花を作り候者多住居仕候に付、同所の坂を菊坂と唱、坂上の方菊坂台町、坂下の方菊坂町と唱候由」(『御府内備考』)とあることから、坂名の由来は明確である。今は、本郷通りの文京センターの西横から、旧田町、西片一丁目の台地の下までの長い坂を菊坂と言っている。また、その坂名から樋口一葉が思い出される。一葉が父の死後、母と妹の三人華族の戸主として、菊坂下通りに移り住んだのは、明治23年(1890)であった。今も一葉が使った掘抜き井戸が残っている。

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坂上本郷三丁目付近はいささか雑居感が強くなり、江戸風情はなくなる。 昔の菊坂は菊坂下から半分くらいまでを言ったようだ。 ただし文豪の様々な説明板はこの坂上まで街路灯などに設置されていて、それを目的にした散策グループも多い。

菊坂辺りは空襲で焼けなかったところが多く、その為古い民家がまだ残っていたりするが、さすがに戦後70年を超えてそろそろ再開発の波が押し寄せてきている。 本妙寺坂の赤心館に住んでいた石川啄木が生活苦に死を考えていた時、金田一京助が彼を援助して引っ越させた蓋平館(のちの旅館大栄館)もマンション化のため崩されてしまった。

菊坂界隈の魅力を味わえる残りの時間はそう多くないかもしれない。

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本妙寺坂(本郷)

徳川家康が全国を平定してから半世紀、江戸の町は安定した平和な街になっていた。 江戸に攻め入る大名は最早皆無で、戦国時代から安土桃山時代を経てついに日本に平和が訪れた時期でもあった。 しかし、人間の敵は人間のみにあらず、明暦3年(1657)3月、歴史上最大の都市火災に見舞われることになった。 これが世にいう明暦の大火である。火元については諸説あるが、もっとも知られているのが本郷丸山の本妙寺出火説だ。

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菊坂と交差して北も南も坂になっているこの道が本妙寺坂。 電柱に長泉寺の案内があるが、江戸時代はこの坂上に本妙寺と長泉寺の二つの大きな寺があった(本妙寺は現在豊島区巣鴨に移転)。 この北側の坂を上ると、東側のプラウド本郷の前に説明板がある。

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本妙寺には遠山の金さん(遠山左衛門尉影元)や幕末の剣豪千葉周作らの墓所があった。 諸説があって本妙寺火元説はかなり怪しくなっているが、振袖火事の別名を持つこの本妙寺説が物語としては庶民に受け入れられやすいためにこの説が主流になったのではないだろうか。

麻布の裕福な質屋の娘、梅乃が墓参に本妙寺に来た帰り、上野の山で出会った美少年に一目惚れした。 梅乃は寝ても覚めても少年のことが忘れられず、寝込んでしまう。 両親は不憫に思い、少年が着ていたのと同じ柄の振袖をしつらえ、梅乃はそれを抱いて死んでいった。 両親は娘の棺にこの振袖を掛けて本妙寺に葬った。

当時はこういうものは寺男たちがもらっていいことになっていて、転売され上野の町娘キクのところに。 ところがキクも間もなく他界し、再び御棺に振袖はかけられ、元の本妙寺に葬られた。 本妙寺の寺男たちはさすがに因縁を感じ、寺で焼いて供養しようととすると、この振袖が燃え上がりながら空に舞い上がり、寺を焼き尽くした。 折から季節風の強い冬のことで、あっという間に江戸中に延焼し、外堀の内側のほとんど、江戸城も含めて焼き尽くしたという話である。

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菊坂は谷筋である。 しかも北西から南西に切れこんだ谷。 山釣り人は谷を駆ける風をしばしば経験するが、冬の季節風の時期、谷を駆けのぼる風が吹いていたのだろう。また別説の一つに、菊坂下の北側にあった老中阿部家の屋敷が火元だったが、老中の阿部家が火元となると幕府の威信に関わる為、本妙寺が罪をかぶったというのがある。 こっちのほうが正しいのではないかと(私は)思っている。 その証拠に、本妙寺は取り潰しにならず、幕末まで優遇されたという事実がある。

南側の坂の途中に本妙寺坂の説明板がある。「この坂は、本郷の台地から菊坂へ下っている坂である。菊坂を挟んで真向かいの台地にには(現在の本郷5-16あたり)かつて本妙寺という法華宗の寺があった。境内が広い大きな寺で、この寺に向かって下る坂であったところから本妙寺坂と呼ばれた。 本妙寺は明暦の大火(振袖火事・明暦3年-1657)の火元として有名である。明治43年豊島区巣鴨5丁目に移転した。」

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今、江戸城跡(皇居)に天守閣がないのは、この明暦の大火以降再建されなかったからである。 明暦の大火は江戸の三分の二を焼き尽くし、3万人近い死者を出したが、これ以降江戸幕府はさらに安泰となり、数十年後の元禄時代には江戸文化が最盛期を迎えた。

昔は天変地異などがあると年号を変えることが多く、明暦の大火のあと、明暦は天皇の崩御とは関係なく万治に変更された。 どうせ西暦を使う時代なのだから、昔のようにフレキシブルに政府も対応すればいいのだと思う。 平成は東日本大震災の時に変更され新しい年号になっていれば世の中ももっと違ったのではないかと思う。 最も当時の菅政権にはひっくり返ってもできなかっただろうことも事実ではある。

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炭団坂(本郷)

樋口一葉旧居跡の路地に入る菊坂に閉口した路地を南東に歩く。  菊坂との間には3m近い段差があるので、所々に階段道がある。 梨木坂向かいの細い階段の先に、宮沢賢治旧居跡の階段がある。 その10mばかり手前に南に入っていく細い路地がある。 これが炭団坂への入口だ。

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車は通れないと思っていたが、以前散歩した時炭団坂下に軽自動車が止まっていた。 よくこの路地に入ったものだ。 昔は菊坂の谷は菊坂町、坂上は真砂町と呼んだ。 真砂町は寛永(1624~1644)以来、真光寺門前と称して桜木神社前の一部だけが町屋であった。 明治になって武家屋敷町だった真砂町は多くの民家に変わっていった。 真砂町は昭和40年に本郷4丁目に改名されてしまったが、やはり真砂町の方がはるかにしっくりくる。

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路地の奥まで進むと昭和風の門構えのところから階段になる。 これが炭団坂。 別名を初音坂という。 この辺りは昔は樹木が鬱蒼としており、鶯やホトトギスの声が菊坂の谷間に聴こえていた。 それで初音坂となったようだ。 炭団坂の坂上を真っすぐに進むと建部坂に繋がる。 建部坂も別名を初音坂という。

坂の途中にある説明板には次のように書かれている。「本郷台地から菊坂の谷へ下る急な坂である。名前の由来は「ここは炭団などを商売にする者が多かった」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」ということから付けられたと言われている。台地の北側の斜面を下る坂の為にジメジメしていた。今のように階段や手すりがない頃は、特に雨上がりには炭団のように転び落ち泥だらけになってしまったことであろう。この坂を上り詰めた右側の崖の上に、坪内逍遥が明治17年(1884)から20年(1887)まで住み、「小説神髄」や「当世書生気質」を発表した。」

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坂上には坪内逍遥の説明板もある。逍遥は自宅を「春廼舎(はるのや)」と呼び、当時は「春廼舎は東京第一の急な炭団坂の角屋敷、崖渕上にあった」とされているので、まさにこの手摺りの向こう側が坪内逍遥の家だったわけだ。 逍遥宅はその後明治20年には伊予藩主久松氏の育英事業として、「常磐会」という寄宿舎になった。俳人正岡子規は翌年からここに入り、その他多くの俳人が集まった。 子規の詩に次のような句がある。

ガラス戸の外面に夜の森見えて清けき月に 鳴くほととぎす (常磐会寄宿舎から菊坂を望む)。 まさに上の写真の場所から明治初期の菊坂の風景を望んだとき、この谷は自然あふれる谷だったのであろう。

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2017年10月14日 (土)

梨木坂(本郷)

梨木坂、別名を梨坂という。 菊坂の途中北側に上る路地の坂道である。 入口両脇には時代を忘れたように、リヤカーと道路にはみ出した植木があり、江戸の坂道の雰囲気を盛り上げている。 前に来た時にはリヤカーはなかったので、たまたまかもしれないが、今時リヤカーが置いてあるだけで昭和へワープしてしまいそうである。

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坂上近く、天理教手前に説明板が立っている。 「梨木坂は菊坂より丸山通りなり。むかし大木の梨ありし故坂の名とす」と『御府内備考』にある。また、『南向茶話』には、「戸田茂睡(『紫一本』の著者、1629~1706)という人が、この坂のあたりに住んでおり、梨本と称した」とある。
 いっぽう、江戸時代のおわり頃、この坂のあたりは、菊の栽培が盛んで、菊畑が広がっていたが、この坂のあたりから菊畑がなくなるので、「菊なし坂」といったという説もある。戦前まで、この近くに古いたたずまいの学生下宿が数多くあった。

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坂上は胸突坂の坂上に出合う。 この坂の西側は崖になっていて、途中の民家がかつて使ってたであろう急な階段が残っている。 しかし坂上は平凡な印象。 やはりこの坂は坂下からの眺めがすべてである。 坂下の菊坂の向かいに魅力的な階段路地が、菊坂に並行する川跡の道に繋がっている。

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2017年10月13日 (金)

樋口一葉旧居跡の階段路地

鐙坂の途中、金田一京助・春彦旧居跡の下に民家に入っていくような路地がある。 本当に人々が暮らしている路地なので、ゆっくり散策というような訳にはいかないので、すっと通り抜けるのが礼儀だろう。

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石垣沿いに進み、その先を左折すると、階段から視界が広がる。 下見板の大正・昭和の名残りの壁、そこに張り付けてある文京区本郷四丁目31の住居表示板。 それは昔の小説家が眺めたであろう景色とほとんど違いのない風景が目の前に現れる。

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鉄製の手すりもいい。 立てかけてある梯子も素晴らしい。 この短い階段、14段とその3mほどの高低差が見せてくれるものはまるで時代をワープしたような感覚である。 階段下は樋口一葉旧居跡。

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この階段は多くの雑誌などにも取り上げられた、東京でも有名な場所。 それだけに通行禁止にならないように訪問時は心掛けたい。 階段下には、樋口一葉も使ったと伝えられる井戸が今も残っている。

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