2017年8月22日 (火)

滝の坂(牛込)

牛込辺りの外苑東通りにはいくつもの名のある坂がある。 榎木町の裏道にあたる路地に滝の坂がある。 入り口には昭和ムードたっぷりの商店があって、コカ・コーラとヤマザキパンの看板の間にある電話の袖看板が素晴らしい。

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この「でんわ☎でんぽう」の看板、私が子供の頃はよく見かけたが最近はとんと見かけない。 ところが散歩しているとたまに見るから不思議である。 よく残っているものだと感心する。 この商店の路地が早稲田通り側の滝の坂である。

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坂を上ると東側に大願寺がある。 江戸時代、大願寺の裏手は小浜藩酒井家屋敷の西の端だった。 その庭にはとても大きな池があり、その池の水はこの西側にあった竹藪に流れ出していた。 当時はこの場所を薮下と呼んでいたらしい。大願寺の裏手にくねくねと曲がった細路地があるが、この辺りが竹藪から水が流れ出していた場所のようだ。 流れはそのまま北へ、そして神田川へ注いでいたと思われる。

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この大願寺の門前で年配の女性に道を尋ねられた。 多聞院に行きたいのだそうである。 多聞院は大願寺の路地の斜め向かいを入ったところにあるが、女性は昔この裏道から入った記憶があるという。 今の多聞院の入口は外苑東通り側にあることを告げ、こちら側の入り口はわからないというと表通りに回って行った。  おそらく昔は裏手から入れたのだろう。ところが裏の土地を切り売りしてしまい、住宅地になってしまって出入りが出来なくなったのだと思う。 寺も続けるのが大変なのかもしれない。

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2017年8月21日 (月)

袖摺坂(牛込神楽坂)

袖摺坂は残された坂という気がする。 別名を乞食坂というが、横関氏によると、乞食坂と付くのは寺院の多い土地の坂でその横町とか裏道にある。昔は寺社の門前は乞食の稼ぎ場所だった。毎日のようにどこかで縁日があって、それを転々として稼いだ。 そんな彼らが休憩したりする人通りの少ない路地が坂道だと乞食坂と呼んだようだ。 確かにこの袖摺坂の上は寺町で、そこから抜けて下ってくる道の途中が坂になっている。横関氏が昭和11年の坂の写真を載せていたが、山寺の境内に上る道のように雁木が埋めてある坂だった。

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坂の上下に標柱があり、「俗に袖摺坂と呼ばれ、両脇が高台と垣根の狭い坂道で、すれ違う人がお互いの袖を摺合わしたという(『御府内備考』)。」と書かれている。確かに石垣と黒塀に挟まれた階段は江戸情緒がある。ただし足元を見ると石のタイルになっていて興覚めしてしまうのだ。

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地形を見てみると牛込台地の真ん中を東から西に切れ込む谷筋が大久保通りになっている。  江戸名所図会の筑土八幡の絵をよく見てみると、参道下に細い川の流れがあり、橋を架けている。

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こういう事実を発見した時がこの坂道探訪の醍醐味である。 ただ江戸末期の筑土八幡下でこの川幅なので、袖摺坂あたりでは子供が跨げる程度の川幅だったかもしれないが。

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2017年8月20日 (日)

弁天坂(箪笥町)

都営大江戸線牛込神楽坂駅の真上にあるのが南蔵院龍福寺、境内には現在牛込聖天(大聖歓喜天)があるが、弁天坂の名前の由来になる弁財天は今はない。戦災で焼けてしまった後は再建されていない。 ものの本によると門前の大久保通りを弁天坂としているものがあり、さらに都の設置した弁天坂の金属製の説明板が大久保通りに立っていて紛らわしいが、石垣の上の側道が本来の弁天坂である。

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都の設置した説明板には次のように彫られている。「坂名は、坂下の南蔵院境内に弁天堂があったことに由来する。明治後期の『新撰東京名所図会』には、南蔵院門前に甘酒やおでんを売る屋台が立ち、人通りも多い様子が描かれている。 坂上近くの横寺町47番地には、尾崎紅葉が明治24年から36年10月病没するまで住んでいた。門弟泉鏡花、小栗風葉らが玄関番として住み、のちに弟子たちは庭続きの箪笥町に家を借り、これを詩星堂または紅葉塾と称した。」 都の説明板もよく読むと上の道路が弁天坂だとわかるが、何も大久保通りに立てなくてもとは思う。

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坂上から望むと、道は大久保通りにぶつかって右に折れるが、その手前で袖摺坂の階段が分かれる。 江戸時代の切絵図では坂下は階段になっているので、弁天坂と袖摺坂は一体であったのかもしれない。 ただ明治の地図ではすでに弁天坂と大久保通りは分かれていて、その西には牛込区役所があった。現在の牛込箪笥区民ホールの場所である。1947年(昭和22年)に牛込区は淀橋区、四谷区と合わせて新宿区になった。

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2017年8月19日 (土)

朝日坂(牛込神楽坂)

地下鉄東西線神楽坂駅の神楽坂口の近くにある「神楽坂KIMURAYA」というちょっと洒落たスーパーの角を南曲がると朝日坂に入る。この道筋は江戸時代は寺町で、いくつもの寺院が軒を連ねていた。

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今も数件の寺があり、町名も横寺町と江戸時代と同じである。坂の標柱には、「『御府内備考』には、かつて泉蔵院という寺があり、その境内に朝日天満宮があったためこの名がついたとある。明治初年、この辺りは牛込朝日町と呼ばれていた(東京府史料)。」とある。

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坂上北側の円福寺前には当時の祭りの様子を描いた銘板があり、江戸の祭りは花だというのがよくわかる。 坂上を南に左折すると袖振坂に向かう。

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2017年8月18日 (金)

地蔵坂(牛込)

早稲田通りは西進すると、牛込天神町で不思議なクランクをしている。右折すると江戸川橋通りとなり江戸川橋を渡って音羽に向かう。 このクランク、実は江戸時代からクランクだった。南側は小浜藩上屋敷、クランクの周りは御先手組の組屋敷で、江戸川橋通り側は天神町という町家の一角だった。

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これだけの大通りがその地形を消し去れないという事に、心の底からウフフと笑いたくなる心地よさがある。 ここから西は天神町である。クランクの所に標柱がある。「江戸時代後期、小浜藩酒井家下屋敷(現在の矢来町)の脇から天神町へ下る坂を地蔵坂と呼んでいた(『砂子の残月』)。坂名の由来は定かではないが、おそらく近くに地蔵尊があったものと思われる。」 ・・・あれ?切絵図では酒井家の上屋敷になっているけど?

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坂の別名を三年坂という。 酒井家上屋敷は土手を築いていてうっそうとした道で辻斬りや追剥が出没した。 おまけに当時は急坂で、この坂で転ぶと三年以内に死ぬと言われた。辻斬りだと三年ではなく即日死ぬだろうとは思うのだが。

寛永10年(1639)に大火で江戸城本丸が炎上した時、徳川家光はこの酒井家屋敷に避難した。その時の警護に仮の囲いとして槍を立てて囲んだ(これを矢来という)。 それ以来酒井家では屋敷を竹矢来で囲むのを習わしとしたという。 それが矢来町の町名の由来である。

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2017年8月17日 (木)

比丘尼坂(矢来町)

朧の坂から2本先の路地。 坂下からくる場合は赤城坂のクランクの交差点を西へ進む。 銭湯の金成湯(きんせいゆ)まで行くと行き過ぎで、その1本手前を早稲田通りに向かって上るのが比丘尼坂である。

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坂の傾斜は緩やか。 途中クランクになるが、江戸時代は御先手組の屋敷(今でいう公務員団地のようなもの)が建ち並んでいたようである。かつては坂下に標柱があったらしいが、十数年前からなくなってしまったようである。坂名の由来が書かれていて、「このあたりに比丘尼坂が住んでいたという。比丘尼姿の私娼が住んでいたのではないかとの説もあるが、特にに根拠はない。」と書かれていたと道家氏の書には書かれている。

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クランクから早稲田通りまでの間は細路地。訪問時は路地の入口の水道工事屋さんがトラックを駐車しっぱなしにしていて車は通れない状態になっていた。 トラック脇を抜けて早稲田通りへ出る。 早稲田通りの向かい側は江戸時代は小浜藩酒井若狭守の上屋敷があり、庭には大きな池があった。 その庭は築山山水式の名園。 池は明治の終わりまで残っていた。

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2017年8月16日 (水)

朧の坂(矢来町)

この坂は謎の坂である。 坂関連の文献の多くは隣りの比丘尼坂の別名を朧坂としているが、坂学会会長の山野氏のみが矢来町のこの道を朧の坂と明言している。 早稲田通りからは赤い壁が目立つシーフード料理店と書店の間の道で、すぐに下り坂になる。

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山野氏によると、神田川を挟んで北側の小日向台地の服部坂からこの朧の坂を眺めるとぼんやりとかすんで見えたらしい。それがこの坂の名前の由来のようだ。

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短い坂だが、江戸時代にそう呼ばれていたかどうかはわからない。 坂下より先は階段になっており、民家に入っていく。 この坂の場所は神楽坂の善国寺にある案内地図に明記されている。

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2017年8月15日 (火)

赤城坂(神楽坂)

神楽坂上は寺の立ち並ぶ街並みであった。 もちろん江戸時代の話である。 その先をひとつ入ったところが赤城神社である。 地蔵坂のところでも書いたが、神楽坂上には室町時代大胡氏(のちの牛込氏)の城があった。 その大胡氏は赤城山麓の豪族で、1300年頃というから鎌倉時代の末期、群馬の大胡からここに移住した。 今も赤城山の麓には大胡という町がある。

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江戸時代には徳川幕府によって「日枝神社」「神田明神」と共に「江戸三社」と称され、牛込の総鎮守として多くの氏子を抱えていた。 ただ平成になって社殿を建替え、とてもモダンになったのには賛否ありそうだ。 その赤城神社の西脇を神田川に向かって下るのが赤城坂である。

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長い坂で、途中クランクしてさらに下っていく。 クランクの所には赤城神社の西参道がある。 裏参道というよりも勝手口のように周辺の氏子さんが階段を上って行く。 ここにある加賀屋(もつ料理屋)はいつか入ってみたい雰囲気の居酒屋だ。

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坂の標柱には次のように書いてある。 「赤城神社のそばにあるのでこの名がある。『新撰東京名所図会』によれば、「・・・峻悪にして車とおすべからず」とあり、かなりきつい坂だった当時がしのばれる。」

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坂は長い下りで、200mほどあり、高低差は18mある。 坂をそのまま進むと神田川にかかる石切橋になるが、この石切橋は江戸時代からある橋である(もちろん架け替えてある)。 坂下のセブンイレブンの手前から赤城神社裏の切れ落ちた崖を望むことができる。 地形図で計測すると崖の高さはおよそ16mある。 都心にある見られる崖の一つである。

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2017年8月14日 (月)

瓢箪坂(飯田橋)

白銀公園の南の角から下り、大久保通りに向かう短い坂道が瓢箪坂である。 大久保通りに直接接続はしていないが、大久保通りが開通したのは明治時代なので、瓢箪坂というのは明治以前に付けられた名前だと思う。

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坂上の白銀公園は江戸期は水戸藩家老中山氏の屋敷。 そして坂の周りはいくつもの寺があった。 今は安養寺1軒のみ。坂下の行元寺(今はない)門前町には東京松屋本店(和菓子店)、奈良にて創業160年を誇る吉野葛の菓子店があり、今は路地裏にひっそりと残る。神楽坂上交差点の先には江戸初期から続く相馬屋源四郎商店(和紙問屋)があり、創業年度は万治2年(1659)とある。

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坂の標柱には、「坂の途中がくびれているため、その形から瓢箪坂と呼ばれるようになったのであろう。」とだけ書いてある。 瓢箪坂下のまるで家の中に入るような路地を抜けると、第三玉の湯という銭湯にポンと出る。 ここは深夜1:30までやっていて、新宿区で最も遅くまで開いている銭湯である。

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2017年8月13日 (日)

相生坂(飯田橋)

相生坂と呼ばれる坂は、並行か向かい合うかいずれにせよ二つの坂が対になっている場合に名付けられる。 東五軒町から白銀町に向かって上る並行した2本の坂が、ここでは相生坂と呼ばれている。

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まずは東側の坂。 南に向かって上る。 坂の上部の傾斜が急になっている。 坂上のさらに1本先には白銀公園がある。この坂上は江戸時代、水戸藩家老の中山備前守の上屋敷だった。

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坂の向こうに見えるのは、私たち世代が子供のころから親しんできたゼブラ株式会社の本社である。創業は明治30年というから120年前。 100年以上続く会社というのは尊敬に値すると思う。 これまでに何本ゼブラのボールペンやシャープペンシルを使っただろう。

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西側の相生坂は少し曲がりながら上って行く。 坂下に門前にお地蔵さんを配した真清浄寺がある。 私の場合、立派な寺院よりも、そのわきにあるお地蔵さんに興味がある。

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坂上はこちらの坂も勾配がきつくなる。 坂の途中の標柱には、「『続江戸砂子』によると「相生坂、小日向馬場の上、五軒町の坂なり。二つ並びたるゆえの名也という」とある。また、『新撰江戸志』では鼓坂と見え、「二つありてつづみのごとし」とある。一方、『御府内備考』『東京府志料』では、坂の由来は、神田上水の対岸の小日向新坂と南北に相対するためであると記されている。」と書かれている。 ただ小日向の坂で相対する坂はなく、一番近いのが荒木坂。 なので後半の記述は何かの間違いが残ったものだろうと思う。

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2017年8月12日 (土)

芥坂(飯田橋)

芥坂(ごみざか)という坂名は多い。江戸時代の街の恥部と言える。坂があるとその崖下にゴミを捨てる。芥坂は坂の途中に崖がありゴミを投棄するのに持って来いだった。しかし無法地帯ではなく、その町内の負担でゴミは定期的に船着き場まで運ばれ、江戸湊の埋立に使われた。この歴史は今も変わらず、中央防波堤の埋立は江戸時代と同じことをやっているわけである。

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筑土八幡境内から神楽坂方面へ降りるのが御殿坂ならば、小石川を目指して神田川(江戸時代は江戸川と呼ばれた)に下るのが芥坂である。昔はもっと狭い静かな坂だったが、マンション建設が進んで明るい坂になった。

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坂下から見上げると、筑土八幡神社の社殿が見える。 江戸時代は武家屋敷が並ぶ中に、筑土八幡と萬昌院があったが、萬昌院は1914年(大正時代)に中野区に移転までここにあった。

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2017年8月11日 (金)

御殿坂(飯田橋)

神田川と外濠(旧紅葉川)の出合いが飯田橋の交差点。 JR飯田橋駅東口を下りてすぐに澱んだ神田川支流の流れを見つつ五差路を渡る。 以前の東京厚生病院はJCHO東京新宿メディカルセンターと名を変えて独立行政法人病院となっている。 その先に再び五差路が現れるがこれはできたばかりの道路で東京ドーム裏に繋がっている。 この五差路が牛込台地の東の端で、そこには筑土八幡神社がある。

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江戸名所図会を見るともっと下から参道があったようだが、町に埋もれてしまい最後の部分のみが参道の階段として残っているようだ。神社の階段を登り境内を左に抜けると、南に下る坂。 これが御殿坂である。

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坂の標柱には、「江戸時代、筑土八幡神社の西側は御殿山と呼ばれ、寛永の頃(1624~1644)三代将軍家光が鷹狩りの際に仮御殿を設けたという。坂名は御殿山に因む。」とある。 またそのあとの慶安年間(1648~52)後に四代将軍になる家綱が、大納言時代にこの丘陵に牛込御殿を作りそれが御殿山の由来という説もある。

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坂下には酒問屋と氷店があってちょっと昭和っぽい。 この半島の突端地形は江戸時代以前も特異な地形であったようで、ここには筑土城があった。築城したのは上杉氏と言われるが、太田道灌という説もあり、さすがに江戸以前の歴史はわからない点が多い。 とはいえ地形的には、ここから眺めると、小石川台地、本郷台地、江戸城、江戸湊が一望できたはずである。

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2017年8月10日 (木)

軽子坂(飯田橋)

私が上京したのは1975年。宇崎竜童率いるダウンタウンブギウギバンドが売れっ子になり、使い捨てライターのチルチルミチルが売れまくった。この年新幹線が岡山から博多まで延伸したので、実家の山口県から7時間ほどかけて上京した。 東京に来て驚いたのは300円くらいで名画が見られることで、ここ飯田橋のギンレイホールも時々訪れたものだった。

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このギンレイホール前の坂が軽子坂である。 軽子とは軽籠と書く人足が荷を詰めて運ぶ道具である。 この辺りにはそういう労働者が沢山住んでいたのでそう呼ばれたようだ。 坂の標柱には、「軽子とは軽籠持の略称である。今の飯田橋にはかつて船着き場があり、船荷を軽籠に入れ、江戸市中に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいたことからその名が付けられた。」とある。

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真っすぐなごく普通の坂だが、そういう江戸時代の風景を想像できるところが魅力だろう。坂下の外堀通りを渡った飯田橋駅側に牛込揚場の説明碑がある。

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2017年8月 9日 (水)

三年坂(神楽坂)

神楽坂善国寺から少し下ったところから筑土八幡神社に下るのが三年坂である。 通常三年坂は寺や墓地があるものだが、ここの坂にはない。 この坂で転ぶと3年以内に死ぬという伝説から名付けられている。

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この坂の別名は本多横丁。 通りに坂名の標柱はないが、本多横丁の説明板があった。この坂よりも東側が本多氏の屋敷だったことに由来するとある。 坂自体はまっすぐで緩やかなので、魅力は少ない。 ちなみに江戸切絵図には筑土神社に出る手前に西照寺があったようだ。その墓地が名前の由来かもしれない。

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この本多横丁(三年坂)からはいくつかの魅惑的な路地に入ることができるが、今回は三年坂の話なのでまた別の機会に詳しく書きたい。

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2017年8月 8日 (火)

神楽坂熱海湯の階段

神楽坂にはいくつもの魅惑的な細路地があり、その多くが地形に素直に階段を残している。 熱海湯に下る階段はその代表格ともいえる。 地蔵坂上の光照寺は江戸以前には地方領主大胡氏の牛込城、その辺りにおそらくは湧水があり、そこから流下した沢沿いに下るのがこの階段路地である。

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上の写真は2010年のもの。沢山の植木が江戸の風情を残していた。江戸っ子は路地脇に植物を育てる。 階段の上には和風の料亭があり、階段途中には西欧風の店があって、モンマルトルかバルセロナの雰囲気を醸し出す。 きわめてエスニックである。

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2016年に訪問すると、壁は塗られて俄然スペインになっていた。 これはちょっと神楽坂には似合わない。 石垣まで塗るとはなんと雑なラテン根性。 でも訪れるたびに少しずつ違っているのを見つけるのもまた愉しさの一つではある。

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2017年8月 6日 (日)

神楽坂

神楽坂は東京に住む人は誰もが知っている坂である。 またフランス人が集まる街としても知られる。 坂名の由来は標柱によると、「坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城八幡の神楽堂があったからなど、いずれも神楽に因んだ諸説がある。」という。 地形的には神田川と外濠のもとになった紅葉川が削ってその間にできた台地の上下をつなぐ坂道である。

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神楽坂と名の付く駅が坂上の台地に二つある。一つは地下鉄東西線の神楽坂、もう一つは都営大江戸線の牛込神楽坂である。牛込というのは明治以降東京市だった頃の牛込区の名残りで、北に小石川区、東に麹町区、南に四谷区、西に淀橋区があり、今の明治通り、靖国通り、外堀通り、神田川あたりが区境だった。 そして江戸時代は神楽坂下の濠の向こうに牛込御門がありそこからは城内だったわけである。

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様々なグルメがこじんまりと寄せ合った挙句に大きなグルメ街となった神楽坂だが、江戸期は武家屋敷が多く、割と静かな町だったようだ。 明治前期にはこの坂はあまりに急で危険だということで、上部を削り坂を緩やかにした。 明治中頃になり、甲武鉄道が伸びて牛込停車場が開設されると、神楽坂上毘沙門天(善国寺)の縁日が人気になり、多くの人々がこの坂を上り下りするようになった。 そうしてこの街は次第に歓楽街と変化していったのである。

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善国寺(毘沙門天)には多くの若い女性が参詣していた。 寺の創建は文禄4年(1595)だが当時は日本橋馬喰町にあった。その後火事で麹町に移転、現在の場所に移ったのは寛政4年(1792)と比較的新しい。 神楽坂が歓楽街になるのと共に発展した寺なのである。

周辺には魅力的な路地が沢山あり、その魅力をもたらしているのは粋な塀や門構えを持つ料亭である。庶民には高い敷居だが、こういう街が存続できるのは平和である証拠だと思う。

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2017年8月 3日 (木)

地蔵坂(神楽坂)

若宮八幡宮から新坂を経て光照寺を訪ねる。 江戸時代は大きな寺院だったが今は普通のお寺さん。  この場所に光照寺は1645年に移転してきた。 江戸幕府以前は牛込城という平城があり、大胡氏が北条氏よりあてがわれた。大胡氏は地名に合わせて牛込氏と改名し、揚場のあった飯田橋の辺りまで支配していた。

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地蔵坂の坂上、光照寺前に日本出版協会があり、そこに樹齢250年の銀杏がある。 以前は上の写真のように大きな説明板の下に、銀杏の説明板があった。2015年に訪問した時は上の説明板がなくなっていた。 徳川幕府がこの地で天文観測を行っていた。 吉宗が天文学に長けていることは有名である。

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銀杏の先を少し進むと下り坂になる。 いったん九の字型に曲がったのち逆に緩やかに曲がる。 逆「て」の字風の道筋である。 標柱には次のように書かれている。「この坂の上に光照寺があり、そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があった。それにちなんで地蔵坂と呼ばれた。また藁(わら)を売る店があったため、別名「藁坂」とも呼ばれた。」

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坂下は神楽坂の坂上に出る。 昔と違いずいぶんと賑やかな通りになったものだ。 不思議な曲がり方の坂だが江戸時代からこの道筋である。切絵図には「藁店ト云」と書かれている。 坂下は町家で肴町とある。 現在は袋町と神楽坂5丁目だが、ここは昔の名前が消えている。 新宿区がんばれ。

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2017年8月 2日 (水)

新坂(神楽坂若宮町)

庾嶺坂の坂上をそのまま進む。 江戸時代坂上の台地は武家屋敷が立ち並ぶエリアだった。その中に今に続く若宮八幡宮がある。創建は源頼朝による1189年。15世紀に太田道灌により再興され、近代に続いていたが第二次大戦で焼失した。今の社殿は1999年のものである。

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神社脇を西に別れる道がある。 その道が新坂である。 クランクになって西に上る。この道筋は江戸時代の道筋そのものである。 北側のエリアの日本出版会館向かいにある光照寺の境内がこのクランクのところまで江戸時代にはあった。武家屋敷の中で、寺の境内が随分と幅を利かせていたわけである。

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ちょうどマンションを取り壊して見通しが良くなっていたが、もう新たな建物が建っていると思う。坂はゆるやかに高度を上げていく。クランクの先に標柱がある。「御府内沿革図書』によると、享保16年(1731)4月に諏訪安芸守の屋敷地の跡に新しく道路が作られた。新坂は新しく開通した坂として命名されたと伝えられる。」 江戸時代の新坂は古いのだ。

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別名の若宮坂の方が似合うが、江戸っ子はやはり新坂と呼んだのでそれを正とすべきか。 若宮八幡宮の北側は薬研風の無名坂になっている。 この新坂の辺りまで熱海湯の谷筋が切れ込んでいた。 江戸以前には沢が流れていたのだろう。 そして水が出るので銭湯が出来たと思う。新宿区界隈の銭湯はほぼこのパターンのロケーションである。

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2017年8月 1日 (火)

庾嶺坂(神楽坂)

逢坂を下り外堀通りへ。 左折して次のビルの間の路地を入ると、そこは魅力的なカーブで標高を上げていく庾嶺坂である。坂の上下にある標柱には、「江戸初期この坂あたりに多くの梅の木があったため、二代将軍秀忠が中国の梅の名所の名を取ったと伝えられるが、他にも坂名の由来は諸説あるという(『御府内備考』)。別名、行人坂、唯念坂、幽玄坂、幽霊坂、若宮坂とも呼ばれる。

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ビルの間を過ぎると左側がツタの絡まる石垣になる。この風情がすばらしい。この辺りはほとんどが江戸時代は武家屋敷だった。 神楽坂の路地の多くは江戸期から続いている。坂を上ると黒キジの猫が横切った。 落ち着いたもので、それでも絶妙の間合いをもってゆっくりと歩いていく。

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坂上から見下ろすと湾曲しているので展望はないが、わずかに外濠が見える。その向こうには中央線(総武線)が走っている。屋敷を立てるには適した段差で、上に行けば行くほどよき展望を得られそうだ。

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江戸時代の切絵図を見ると、庾嶺坂の上部がシンザカという表記になっている。石川悌二氏の『江戸東京坂道事典』には坂上から西に入る路地が新坂と書かれているが、切絵図とは方角が異なる。どうも明治以降のどの地図を見ても、この道はない。

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2017年7月31日 (月)

逢坂(神楽坂)

神楽坂はフランス人の街である。実際に多くのフランス人が住んでいる。フランス人が増える元となった旧日仏学院脇の坂が逢坂である。辺りは東京理科大とフランス語っぽい名前のマンションで囲まれている。下の写真の塀の先の白い建物が日仏会館(現在フランス語学校アンスティチュ・フランセ東京)である。

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結構な勾配がある。 フランスのモンマルトルを彷彿とさせる坂道である。 坂の標柱には、「昔、小野美佐吾という人が武蔵守になりこの地に来た時、美しい娘と恋仲になり、のちに都に帰って没したが、娘の夢によりこの地で再び逢ったという伝説に因み、逢坂と呼ばれるようになったという。」と書かれている。

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いっぽう坂下には築土神社があり、ここには堀兼の井という古井戸がある。こちらはいささかおどろおどろしい。

「堀兼の井とは、「堀りかねる」の意からきており、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため、皆が苦労してやっと掘った井戸という意味である。堀兼の井戸の名はほかの土地にもあるが、市谷船河原町の堀兼の井には次のような伝説がある。

昔、妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。男が後妻を迎えると、後妻は息子をひどくいじめた。ところが次第にこの男も後妻と一緒に息子をいじめるようになり、いたずらをしないようにと言って庭先に井戸を掘らせた。息子は朝から晩まで素手で井戸を掘ったが水は出ず、とうとう精魂尽きて死んでしまったという。」

現代にも時折そういうニュースはあるが、話を読んだだけで込み上げるものがある哀しい話だ。

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2017年7月23日 (日)

歌坂(市ヶ谷)

浄瑠璃坂の西の新しい通りに法政大学市ヶ谷田町校舎がある。 その路地を東に進むと歌坂である。 坂の途中にある標柱には、「雅楽(うた)坂ともいう。江戸時代初期、この坂道の東には酒井雅楽頭(のちの姫路酒井家)の屋敷があった(「新添江戸之図」)。坂名は雅楽頭(うたのかみ)に因んで名づけられたのであろう。」と書かれている。

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坂の形が善知鳥(うとう)という海鳥のくちばしに似ていて、「うとう」が「うた」に転化して歌坂になったという説もある。 坂の景色は今となっては何という事もないものになってしまったが、今も残る坂上のクランクが少し気になる。 この坂の外濠側はかなりの段差になっている。江戸時代は景色は開けていたのだろうか。

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江戸時代の切絵図を見ているとあたりの路地もすべて江戸時代の道筋のままだとわかる。 あたりは殆ど武家屋敷で、外堀通り沿いのみが町家だった。 外濠の船運はこの辺りまでたくさんの船が上がってきていたようで、船河原町は江戸期からのままの地名である。

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2017年7月22日 (土)

鰻坂(市ヶ谷)

市谷鷹匠町は辺りで最も標高の高いエリア。 その最高地点に浄瑠璃坂の仇討ちの現場がある。 そこから北に下りるのが鼠坂、西には芥坂、南には浄瑠璃坂、そして東に下るのが鰻坂である。

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西側は長延寺谷の窪地だが、この鰻坂の形も薬研型をしていて真ん中の低いところには大正時代に通された広めの道が南北に通っている。 その道を境に向こう側はまた標高を上げていく坂構造である。 向こう側の上りに入るとすぐにクランクになるのは江戸時代からの道筋がそのまま残っている形である。

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坂の標柱には、「坂が曲がりくねっているためこう呼ばれた。『御府内備考』によると、幅約2間(3.6m)、長さ約20間(36m)にわたり曲がり登っているため、鰻坂と呼ばれたという。」とある。クランクの所に手書きで日本基督教団牛込払方町教会への案内が目立たず貼られているが、坂関連の書物にはこの協会のことが必ず出てくる。広い路地からは見えないし、住宅に囲まれた立地で目印がないからランドマークにされたのだろうか。

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上の写真の右側煉瓦塀の所がその教会である。 鰻坂からみるとただの民家に見えるが、向こう側にはそれっぽい入口がある。 しかし目立たない。 払方町というのは江戸時代の地名であるが、今もここの住所は払方町。 新宿区がこういう古い地名を残してくれることは本当に嬉しい限りである。

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2017年7月21日 (金)

浄瑠璃坂(市ヶ谷)

長延寺坂を坂下に戻り、外濠方面へ。 外堀通りに出る1本手前の路地を保険会館本館角で左折すると、ルーテル教会の先の辻、そこから左に曲がるとまっすぐに上る浄瑠璃坂が現れる。坂名の由来は、あやつり浄瑠璃の芝居小屋があったからだとか、江戸時代にあった光円寺の薬師如来が東方浄瑠璃世界の主だからなどの諸説がある。

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坂の標柱には、その説に加えて、「江戸時代、坂周辺は武家地であった。この一帯で寛永12年(1672)に浄瑠璃坂の仇討ちが行われ、江戸時代の三大仇討の一つとして有名であると書かれている。坂上を進み路地をいくつか曲がると鼠坂の坂上に出るが、そこにこの説明板がたっていた。

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仇討ちは極めて返り討ちのリスクが高く、それだけに成功すると江戸中から注目されたのだろう。

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2017年7月20日 (木)

長延寺坂(市ヶ谷)

「昔、この坂に長延寺という寺があった。そこに参詣する人々がこの坂を通ったことから、自然にそう呼ばれるようになったという。」と坂の途中の標柱には書かれている。江戸時代の切絵図を見るとこの辺り一面が境内だったようだ。

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谷底の道沿いは大昔の沢筋で「長延寺谷」とよばれ、この道筋は長延寺谷町と呼ばれた。一方長延寺の境内の上は左内坂町である。この坂の入口より外濠側は定火消(江戸時代の消防署)屋敷だった。

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坂上は袋小路になっていて車は進入できない。 ただいくつも抜け道の細路地があるので、別の機会に探索をしたいと思っている。 ここの町名が現在でも市谷長延寺町、市谷左内町となっているのが嬉しい。 この市谷長延寺町は袋小路だらけで本当に面白い街である。

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2017年7月19日 (水)

芥坂(市ヶ谷)

左内坂と浄瑠璃坂の間に通る谷筋は江戸時代は長延寺谷と呼ばれた。 谷の浄瑠璃坂側は和歌山紀伊新宮藩の水野家の上屋敷、左内坂側は長延寺の境内と外濠側には定火消屋敷があった。鼠坂上・浄瑠璃坂上から谷に下る道が芥坂(ごみざか)である。

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手摺り付きの緩やかな階段の向こうは長延寺谷を越える歩道橋になっている。 江戸時代はこのまま長延寺谷に下る道だったが、ゴミ捨て場になっていたので坂名が芥坂になったようだ。

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水野家の屋敷があった方の面は石垣になっているが、これが江戸時代のものかどうかはわからない。明治初期の地図を見ると谷のこっち側の方は相当な崖になっている。この階段はこのままあと20段くらい続いていたに違いない。

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坂の説明書きはどこにもないが、歩道橋の名前のプレートがあって「ごみ坂歩道橋」とある。辺りは大日本印刷の工場敷地で、それをまたぐように架けられている。 辺りには名前のない路地がいくつかあり、ぜひ別の機会に散策したい魅力がある。

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2017年7月18日 (火)

鼠坂(市ヶ谷)

中根坂の凹の底から東に路地が走る。 概ねDNPの敷地脇をくねるように通る。 この曲がり方はなかなか魅力的だ。 長い間道路わきに養生壁を作っていたが、今はどうなっているだろうか。 そのくねった道を進むと目の前に急な上り坂が現れる。

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左側の石垣もいいが右の塀も悪くない。 石垣の上は駐車場、右の塀の中はDNPの社員寮である。 江戸時代の鼠坂を想像するのは難しいが、同じような景色だったろうと思われる。 現在は安藤坂と中根坂の交差点から長延寺へ道が通っているが、江戸時代は鼠坂の坂下がその道だった。 長延寺への通りの途中からこの鼠坂が分かれていた。

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辺りは小さな武家屋敷が立ち並んでいた。鼠坂の坂上の南に折れたところは、江戸時代の切絵図には鷹匠丁と書かれている。 鷹匠が住んでいたのだろうか。 もっとも鷹匠丁というのは江戸の初期からの名前のようだから、開発が進んで鷹匠も住めなくなったか。 坂上のDNP寮の前に浄瑠璃坂の仇討ち跡の説明板がある。これについては浄瑠璃坂の所で書くべきだろう。

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2017年7月17日 (月)

中根坂(市ヶ谷)

市ヶ谷の外濠の北側は自衛隊と大日本印刷に尽きる。 左内坂上から安藤坂を下り、3方向にDNPを見ながら下って上る道がある。 見事に薬研の形をしているが薬研坂とは呼ばれない。

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江戸時代以前の地形を想像するに薬王寺町辺りを源頭とする沢がこ低い部分を流れて外濠(江戸以前は紅葉川)に流下していた。 その時代の地形の記憶が見事にここ中根坂で正体を現している。

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中根坂の由来は江戸時代にこの坂の西側が旗本中根家の屋敷だったためである。 坂脇の標柱にも、「昔、この坂道の西側に幕府の旗本中根家の屋敷があったので、人々がいつの間にか中根坂と呼ぶようになった。」と書かれている。 坂の一番低いところから東へ入るのが鼠坂。

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この坂のくぼみにはその昔拝み石があり、これを拝めば子供の咳が治ると信じられていたという。沢を渡る石橋のようなものがあったのだろう。

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2017年7月16日 (日)

安藤坂(市ヶ谷)

左内坂の坂上をさらに進む。防衛省の裏口で道は北に曲がる。 そこから先の左手は日本学生支援機構(かつての日本育英会)とJAICAなどのある敷地になる。 その先の中根坂が見えてくる。DNP(大日本印刷)の敷地に囲まれた十字路までの下りが安藤坂である。

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写真の右側の敷地が江戸時代には旗本安藤家の屋敷であったために安藤坂と呼ばれた。 安藤坂の坂上は防衛省の裏口だが、切絵図の道の形から察するに江戸時代は尾張藩屋敷の裏口だったのではないかと思われる。

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2017年7月15日 (土)

左内坂(市ヶ谷)

市ヶ谷駅前の市谷見附からマクドナルド角を入っていくと左内坂。坂の標柱には、「この坂道は江戸時代初期に坂上周辺の町家とともに開発された。名主島田左内が草創したので町名を左内坂町と呼び、坂道も左内坂と呼んだ『御府内備考』」と書かれている。

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坂上長泰寺の南側に細路地があり、実は亀岡八幡宮の境内に通じているが、まだ歩いていない。次回はここも散策したい。 ここは正式な八幡宮の裏参道のようである。 標柱にあった島田左内は明治に至るまで市谷田町、市谷船河原町、左内坂上、寺町、牛込揚場町の5町の名主だった。揚場町は飯田橋駅前だからそれぞれ濠の傍にある街を手広く管理していたようだ。

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島田左内の兄に島田久左衛門がいる。 東大久保にある久左衛門坂を開いた人物である。兄弟でディベロッパーをやっていたわけだ。 それが平成の今でもそれぞれの名を冠した坂名が残されていることは大したことだと思う。 坂上に至ると西側は自衛隊の敷地内になる。

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2017年7月14日 (金)

市谷八幡男坂・女坂

釣堀の見える市ヶ谷駅を降りる。釣堀の脇、外堀を渡る橋は江戸時代からの石垣の残る市ヶ谷橋。 ここは江戸時代城の外郭の門のひとつ、市谷御門があったところ。 交差点の名前は市ヶ谷見附。この一角で靖国通りと外堀通りが絡み合うような交じりをしている。市谷見附から市谷八幡町交差点までの100mほどは二つの通りが一つになる。そこに市谷亀岡八幡宮がある。

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目の前に立ちはだかるような男坂の階段。途中踊り場を経て60段の石段である。鎌倉の鶴岡八幡宮を分祀したので亀ヶ岡八幡宮とは洒落なのだろうか。境内には4つの神社がある。亀岡八幡宮・茶ノ木稲荷・金毘羅宮・出生稲荷の4つである。

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西側には車道になっている女坂がある。 こちらは上り下りに歩く人はほとんどいない。 この八幡宮を勧請したのは徳川ではなく太田道灌である。1479年の創建だから540年前。 茶ノ木稲荷はそれ以前から市谷にあったものだという。

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亀岡八幡宮は一度衰退しているが、江戸時代になってから再び賑わいを見せるようになった。 三代将軍家光の信仰もあって、たいそう栄えたという。境内脇にならぶ力石も7基残っており区の指定文化財となっている。

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再び男坂を下る。上の踊り場にある鳥居は珍しい銅鳥居。 1804年に建立されたものである。 江戸の雰囲気を残した境内にしばしたたずむ。 眼を閉じると200年前の喧騒が聞こえてくる気がした。

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2017年7月13日 (木)

銀杏坂(市谷薬王寺)

23区内には二つの銀杏坂がある。 芝の銀杏坂と、この市谷薬王寺町の銀杏坂である。 銀杏坂が出合う外苑東通りはこの辺り拡幅工事中。この辺りの町名は昔ながらでよい。市谷薬王寺町、市谷加賀町、二十騎町、市谷甲羅町、市谷柳町、と小さな区域を不思議な街区で区切られている。

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坂下から望む。 左手には群青色の新しい標柱がある。「坂の北側にあった久貝因幡守の邸内に銀杏稲荷があった。」とだけ書かれている。また右側にもアルミ板を張った標柱があり、「この坂道の北側に旗本久貝家の屋敷があり、屋敷内に銀杏稲荷という社が古くからあったので銀杏坂と呼んだという(『御府内備考』)」と少しこちらの方が丁寧に書かれている。

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坂そのものは緩やかでまっすぐな坂である。銀杏稲荷は明治初期の地図を見ると、上の写真の白いビルの辺りにあったようだ。この道をまっすぐ東に進むとDNP(大日本印刷)のエリアに入る。この道のひとつ北の道(牛込柳町)は茶道通りとでも呼ぶべきか。 裏千家の東京会館や道場がある。

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和風の風流な建物が道場らしい。今日庵とあった。元は二番町にあった東京道場をこちらに平成7年に移転した。庭も素晴らしいと聞く。裏千家の理事長や理事には千氏の名前を持つ人が何人もいる。千利休の子孫だろうか。 今度茶人の友人に聞いてみよう。

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2017年7月12日 (水)

薬王寺坂(牛込)

児玉坂のひとつ北の路地が薬王寺坂である。 坂の標柱はシンプルで、「江戸時代、現在の外苑東通り沿いに薬王寺という寺院があった。」とだけ書いてある。 江戸時代はこの薬王寺坂を挟んで6軒の寺があった。現存するのは、北側の長昌寺、南側の浄榮寺、長厳寺の3寺で半分しかないというか、5割残っているというか、後者だろうな。

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外苑東通りからの道は写真のように高低差を回避するようにつけられ、まっすぐに繋がる階段も新調されてブルーシートがかぶせてある状態。以前外苑東通りが2車線路だった時にはまっすぐに接道していたが、4車線に拡幅したことで坂上の高い地面が詰まってしまって苦肉の策だったのだろう。

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坂は少し上ると平坦になる。 江戸時代は坂上の先は月桂寺の境内だった。今は東京女子医大の敷地に突き当たる。この辺りのマンション名には薬王寺という名前がついたものがいくつもあると感心したら、実はここの住所が市谷薬王寺町だった。坂の南側の浄榮寺の山門は江戸時代後期の薬医門で、なかなか重厚な作りをしている。都内で江戸期の建築物が残されているケースは少ないので貴重である。立札には「常栄寺の山門 甘露門」と書かれていた。

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2017年7月11日 (火)

児玉坂(牛込)

児玉坂は新しい坂道である。 2009年に新宿区が道路通称名を一般公募し、67路線の道路通称名が決定。児玉坂通りもその一つとして 標識が建てられた。その67路線は必ずしも坂ではない。 現在では申請が続き89路線までが正式名称を付けられている。

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この道路通称名についてはこれからも多々登場する。魅力的な無名坂は沢山あるので、増えてくれると嬉しいが、あくまでも地元の人々が長い年月呼んできた名称のみにしていただきたい。新宿区の新しい標柱は群青色で文字は白抜き、とても読みやすいが時代を経た感覚からは程遠い。

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標柱には、「日露戦争で活躍した明治時代の陸軍大将、児玉源太郎の邸宅がこの付近にあった。」とだけ書かれている。 明治の地図を見てみると、この児玉坂通りの北側一帯、薬王寺坂までの1ブロックがまるまる児玉邸となっている。明治の終わりから戦前までの地図にはどれも児玉邸とあるので、かなり長い間ここにあったのだろう。

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2017年7月10日 (月)

新五段坂(牛込)

現在曙橋から早稲田鶴巻町に続く外苑東通りの曙橋から牛込の区間、江戸の切絵図を見ると鉄砲場と尾張藩の馬場になっている。 現在自衛隊になっている東側一帯は尾張藩屋敷だったので、この辺りは尾張徳川家の街という事になる。

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江戸時代はこの外苑東通りよりもさらに1本西の路地までが道幅だったと思われる。「新五段坂」の場所については諸説がある。 荒木町の車力門通りから北への道だという説を唱える人もいる。 標柱もないこの広い新五段坂も時代と共に埋もれていくのかもしれない。

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市谷本村町の防衛省の敷地は前述のように江戸時代には尾張藩邸。尾張藩の藩士たちが居住する武家長屋「五段長屋」がこの辺りにあり、その前の坂は「五段坂」と呼ばれたという。明治維新後に跡地は陸軍となり、陸軍士官学校の構内に取り込まれてしまい、実質五段坂は消滅、現状はこの自衛隊敷地の西側に作られた坂が「新五段坂」と呼ばれている。

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2017年7月 9日 (日)

合羽坂(曙橋)

坂の途中に都が設置した豪華な御影石の石碑がある。 いくつかの坂で見かけたが、どうも都が作るものは文章が読みにくい。高価なものでなくてもいいので、まめに管理する体制をとって欲しいというのが願いである。

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坂下は合羽坂下という交差点。 そこから外苑東通りに向かって真っすぐに上る坂で見た目は最近の坂だが江戸時代からあった坂。坂の由来が東京都設置の石碑にある。

新撰東京名所図会によれば「合羽坂は,四谷区市谷片町の前より本村町に沿うて、仲之町に登る坂路をいう。昔此坂の東南に蓮池と称する大池あり。雨夜など獺(かわうそ)しばしば出たりしを、里人誤りて河童と思いしより 坂の呼名と…転じて合羽の文字を用い云々」 何れにしても、昔この辺りは湿地帯であったことを意味し、この坂名がつけられたものと思われる。」と書かれている。

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坂の脇にひっそりと河童のモニュメントがたたずんでいる。 江戸時代はこの坂より南側には御先手組の屋敷が並び、北側は武家屋敷が並んでいた。 真裏は尾張藩屋敷でこの合羽坂の北側の狭い範囲にだけ町家があったようだ。市谷片丁とある。

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2017年7月 8日 (土)

椎木坂(東大久保)

河田窪(蟹川の痕跡)は都道(主要道)が盛土をして通してあるので、その付近に行くとこの辺りが谷であったことがよくわかる。久左衛門坂も梯子坂もその谷と台地を結ぶ坂である。 実際にはもっと多くの坂がこの谷沿いにはある。その谷筋に開発されたのが戸山ハイツ。 山手線内の団地の中で、高度成長期を支えた年代層が多く住み、住民の半数が高齢者という状況になっている。子供が遊べる公園も豊富だが老人の散歩エリアになっている。そういう時代の変遷を肌で感じたい向きには格好の場所だと思う。

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さて、その河田窪のスリバチ状の地形を感じられるのが椎木坂である。 といっても赤坂の薬研坂のように向こう側の坂が見えるわけではない。都道に沿って、その南側を地形に素直に沿っているのがこの坂である。

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西の傾斜部分と東の傾斜部分にそれぞれ標柱がある。「かつて尾張藩戸山屋敷(現在の戸山ハイツ)の内に椎の大木があり、この坂道を覆っていたため、椎木坂の名前がついた。また古くはこの辺りが砂利取場で、東西に上る二つの坂があったことから向坂とも呼ばれた。『新撰東京名所図会』」と記されている。

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かつての街道(今の大久保通り)はここで川の浅瀬を渡って江戸の中心地に向かっていた。これより北側は江戸時代は広大な尾張藩の屋敷で、現在公園内には東京都心で最も高い山、箱根山(標高44.6m)があるが、これは尾張藩の徳川光友が寛文年間(1661~1673)に庭園の一部として盛土した人口の山である。明治以降は陸軍の戸山学校となり、戦後には増加する人口に対応する為に戸山ハイツが建設された。 現在は周辺の再開発が進んでいて、そのうちに高層住宅が立ち並ぶかもしれない。

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2017年7月 7日 (金)

梯子坂(東大久保)

好きな坂のひとつである。 蟹川の谷の上下を結ぶ階段の坂道。 蟹川の谷は南北に走っていて、この辺りの窪地一体を河田窪と云ったらしい。河田窪という地名は大窪とも呼ばれ、江戸時代には大久保村になった。川が流れていた場所にある典型的な銭湯、東宝湯の煙突と看板が昭和風情を醸し出している。

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坂の石段の下に立つと微妙に曲がっている景色もいいなと思う。猫が階段を横切って北側の家の中に入っていった。 鉄製の手すりの錆止め塗料の剥がれ具合もいい。

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坂上に標柱がある。「坂が急で、まるで梯子を登るようであったため、この名がついた。(新撰東京名所図会)」とある。以前の標柱には「『豊多摩群誌』によれば「梯子坂、久左衛門坂北方の裏通に在り、東へ登り十間許り、坂道急にして恰も梯子を登るが如し、故に名付く」とある。」とあった。 坂上の南側は永福寺の墓地である。

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やはりこの梯子坂は下から見上げる姿がいい。坂の北側は武家屋敷だった。 江戸切絵図には土井彦兵衛とある。坂上のアパートのあるところは小大名の下屋敷で大久保紀伊守とある。大久保に大久保様とは悪くない。 坂下は明治の末期まで田畑だった。

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2017年7月 6日 (木)

久左衛門坂(東大久保)

歌舞伎町を源流にする蟹川が西向天神下で北に向きを変えて流れる先、団子坂の下にある抜弁天厳島神社から下る脇道が久左衛門坂である。 今は東新宿駅に向かう都道302号線が古い道筋をぶった切っているのでわかりにくいが、抜弁天下から久左衛門坂を下って二手に分かれ、南の道は西向天神への参道、西の道は田園地帯をくねって新宿追分方面へ抜けたようである。

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坂の上下に標柱があり、「この坂は、徳川家康の江戸入府以前から大久保に居住していた島田家の草創久左衛門が新しく開いた坂であったため、こう呼ばれるようになったという。」と書かれている。

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この坂の坂下が蟹川の川筋だったところだが、ここから戸山へ流下し、そこでいったん大きな池になり、そこからさらに神田川に合流していた。 切絵図では辺りは田んぼとなっている。坂の北側には江戸時代(1648)から続く永福寺がある。

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2017年7月 5日 (水)

不動坂(西向天神)

山吹坂で大聖院の不動堂に上ると、北側に下りの階段がある。この階段が不動坂である。 石段は相当に摩耗していて、そうとう昔からの状態だろうと思われた。多くの書物には山吹坂とセットで説明される。

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下の道路の1本先の道が川の跡で、下の道路は門前町の町家筋だと思う。 昔からの道を感じながら歩くのもまた乙なものである。階段を下りきると下にも両側に親柱がある。

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右の親柱はほとんどかすれてはいるが何とか「不動坂」と彫られているのを確認できた。左の親柱をよく見ると大正5年とある。 思ったよりも新しくて驚いた。

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2017年7月 4日 (火)

山吹坂(西向天神)

現在の住所表示は新宿6丁目、バブル以前は東大久保という町名だったエリアに西向天神がある。 富久町から入ると何の印もない路地の奥に突然裏鳥居が現れる。この辺りは江戸時代は武家屋敷が立ち並び、天神の位置する崖沿いには寺院が並んでいた。 西向天神の南の階段は結構長い。これだけの高低差があるのだ。

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この段差がどうして作られたかというと、実は歌舞伎町を水源とする蟹川という川が作った谷なのである。蟹川はハイジア辺りを源頭にして、コマ劇場裏を東に流れていた。 あそこの東西の路地が絶妙に曲がりくねっているのは暗渠だからである。川は明治通りを横切り新宿文化センター前の通りを流下、戸山を抜けて神田川に注いでいた。

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境内に入ると南の端に富士講の富士山がある。 江戸切絵図には東大久保富士として大きく描かれている。富士講の富士は東京のあちこちに残っている。有名なのは千駄ヶ谷の鳩森神社と品川神社だろうか。 この富士は本物の富士山を望むことができたはずである。もちろん今は新宿の高層ビル群で何も見えない。

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西向天神は江戸時代から東大久保の鎮守社だった。 当時は大久保天満宮とまで呼んだらしい。 京都の北野天満宮を勧請し、京都の方向(西向き)を向いているため名付けられた。創建は1282年だが、その後いったん寂れた。 この辺りは江戸末期まで田んぼの中に小川の流れる風景だった。江戸初期までに復興を果たし、江戸期は鎮守として親しまれたという。

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西向天神の北側に並ぶのが天台寺門宗大聖院。そこに上る石段が山吹坂である。坂上に標柱があり、「この坂上の大聖院境内にある「紅皿の碑」にちなみ、こう呼ばれるようになった。紅皿は太田道灌の山吹の里伝説で、雨具がないことを古歌に託して、道灌に山吹の一枝を捧げた女性である。」と書かれている。

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伝説では、太田道灌が高田の里(現在の面影橋のあたりとされる)へ鷹狩に来てにわか雨にあい、近くの農家に雨具を借りようと立ち寄った。その家の少女紅皿は、庭の山吹の一枝を道灌に差し出し、御拾遺集の中にある歌

『七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき』

にかけて、雨具(蓑)のないことを伝えた。後にこれを知った太田道灌は歌の教養に励み、紅皿を城に招いて歌の友とした。道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られたということである。

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2017年7月 3日 (月)

団子坂(若松河田)

念仏坂を上り台地の上を北に向かう。 丁字路に出ると目の前に正覚山月桂寺。 この寺院は江戸時代の切絵図では大きく書かれている。臨済宗の寺で、江戸時代には相当栄えたらしい。近代史を考えるとこういう寺院の盛衰も面白いが、私はどちらかというと地形派である。

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ここから若松町までの間は昔は大名屋敷の通り。東京女子医大辺りまでの広い敷地は尾張藩の下屋敷(戸山尾刕殿)だった。今は東京女子医大の建物がいくつも並んでいる。 古いレンガ造りの1号館がついに解体されてしまった。 1930年に建設された素敵な建物だったが残念である。

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若松河田駅へ出ると地下には大江戸線の駅。 ここから西へ下るのが団子坂。 標柱には、「昔この辺一帯が低湿地であり、この坂はいつも泥んこで、歩くたびにまるで泥団子のようになったという。嘉永7年(1954)の江戸切絵図には「馬ノ首ダンゴザカト云」とある。」と書いてある。

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今は道路も広く整備された緩やかな坂だが、江戸時代にはぬかるみの坂道だったのだろう。 抜弁天の厳島神社の辺りは江戸時代は川筋だったと神社の境内の説明に古地図を添えて書かれている。そこまでの通り沿いはほぼ武家屋敷が並ぶ街並みだったが、江戸の初期から中期にかけては、とてつもなく広い犬屋敷だった。「厳島神社(抜弁天)の東側一帯(約1万坪)および余丁町小学校と警視庁第八機動隊を含む一帯(約13,000坪)は、江戸時代に設けられた犬御用屋敷の後である。5代将軍綱吉の生類憐みの令に伴うものらしい。当時の犬御用屋敷は、中野一帯と四谷とここの3ヶ所だった。

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厳島神社抜弁天だが、ここは境内を抜けて南北に往来できることから、また苦難を抜けるご利益があったということで、江戸の町民から抜弁天として親しまれた。しかし由来はさらに古く、白河天皇の時代、応徳3年(1086)に源義家が立ち寄り富士を眺めながら安芸の厳島神社に戦勝祈願をしたのが始まりと言われる。近所に富士塚もあるがそれはまた後日談。

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2017年7月 2日 (日)

念仏坂(曙橋)

曙橋通り商店街は昔は市ヶ谷谷町という湿地帯。坂上の窪地にはいくつかの池があり、池を見下ろすように巨大な屋敷が建てられていた。その屋敷のひとつ徳川邸の敷地に戦後昭和になってフジテレビが建った。地形で言うといわゆる谷地だったろうと思われる。
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商店街の脇にいきなりこれだけの急な階段があるとびっくりするのだが、これがこの辺りの地形を代表しているといってもいい。上る前にいったん息を整えるほどの階段である。 階段下に標柱がある。「『新撰東京名所図会』では、昔この坂に老僧がいて昼夜念仏を唱えていたことに因むという。またこの坂は左右を谷に臨み、屈曲しており危険だったので、仏名を念じて往来する人がいたことに因むともいう。」と書かれている。
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年配の方は鉄製の手すりを頼りに上って行く。 途中黒御影石の石柱があるが、これは昭和55年に地元の人が建てたもの。まっすぐでなく、折れ曲がっていてかつ微妙に曲がっているその道筋がなかなかいい景色である。
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坂上は打って変わって極めて明るく、太陽がさんさんと降り注ぐ雰囲気。江戸時代の切絵図を見ると坂の上の台地には小さな武家屋敷が並んでいる。台地に武士、谷に町民というのは江戸時代の典型。
Photo
上の地図は紅葉川の源流の沢のくぼみを強調したもの。谷筋は明治以前は暗い場所だったのだが、時代を経て今はどっちかというとディープなエリアとして人気が出ている。ふと四谷の地名の由来を考えてみた。二つの説があり、4つの谷によって形成された土地だから四谷という説と、四軒の茶屋があったことから四屋>四谷という説。しかし私はもう一つの説を支持したい。 元は谷地谷と呼んでいたがヤチヤ>ヨツヤと転訛したのではないだろうか。
 

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2017年7月 1日 (土)

安養寺坂(曙橋)

曙橋通り商店街を北上すると右に念仏坂の階段を見た先で左に上る道がある。 安養寺坂だ。 坂の南側に安養寺がある。浄土宗の寺院で1574年に開山、1656年に現地に移転した。曙橋商店街の通りはかつては市谷谷町と呼ばれ、娼婦街を形成していたという。谷沿いはこういう歴史が多い。

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坂下と中腹に標柱があり、「『新撰東京名所図会』に「安養寺は念仏坂の少し北の方を西に大久保余丁町に上る坂路をいふ。傍らに安養寺のあるに因れり。」とある。安養寺は浄土宗知恩院末の寺院で、もと市谷左内町富士見坂の辺りにあった。そこが明暦2年(1656)、尾張藩上屋敷となるため現在地に移ったという。」と書かれている。

坂上に公園があるが、その手前に崖を形成する路地があり楽しそう。 まだ散策していないのでそのうち歩いてみたい。意外とその路地は古道で鍋釣(なべつり)と呼ばれているそうだ。

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で、娼婦街の話だが、坂下の辺りは通称ぢく谷と呼ばれた低湿地で、江戸時代から明治大正期にかけてはスラム街で、いわゆる岡場所(私娼窟)のひとつとして知られていた。 また当時は「貸し倒れ横丁」と呼ばれ、商店を開いてもたいていつぶれてしまうとも言われたという。しかし戦後フジテレビが出来てとても賑わう街になった。当時はフジテレビ通りと呼んでいた。 しかし1997年にお台場に移転すると、この商店街の賑わいは衰えてしまった。 歴史というものは不思議なものである。

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2017年6月30日 (金)

台町坂(曙橋)

曙橋駅の西、靖国通りから別れて北西に上って行く坂が台町坂である。 坂下は住吉町、坂上は市谷台町。 大正期に開かれた坂道で、それいぜんこの坂の辺りは市谷監獄であった。そのさらに西、自証院の裏手、今の都立芸術高校の辺り一帯は東京監獄だった。 明治時代はまさに囚人を集めた町だったわけである。明治期から戦前までは今のサンシャイン一帯も巣鴨監獄(のちの巣鴨刑務所)で市谷監獄の縮小に対応したという。昔は監獄が沢山あったのだなあと感心する。

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坂上の北側に観音様がある。 観音ビルという八百屋のビルの脇である。獄死者、刑死者の霊を祀っているそうだ。 明治の社会主義者幸徳秋水もここで処刑されている。全世界に衝撃を与えたこの裁判は1人の証人も出廷させず,裁判記緑も弁護士の手にさえ残さないもので,事の真相は第2次世界大戦の敗戦にいたるまで隠されていたが、のちにでっち上げの裁判だったことがわかっている。

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台町坂の説明を書いたものは現在はない。 以前は木製のものがあったようだが、江戸の坂ではないので作られないのだろうか。 唯一、信号機に台町坂の地名表示がある。この道が開かれたのは大正11年である。昭和のバブル期までは片側1車線の普通の道だったが、近年大通りになったようだ。

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2017年6月29日 (木)

茗荷坂(富久町)

現在靖国通りは市谷から合羽橋下を通り、富久町を経て新宿に繋がっているが、昭和の戦後まで富久町から富久町西はつながっておらず(のちに安保坂となった)、いったん南西に下り、茗荷坂を上って富久町西に繋がっていた。現在の三角地帯にある源慶寺も、茗荷坂を挟んだ東長寺も江戸初期の開山で、江戸時代はそのまま大木戸門に行く道だった。 この辺りの斜めの道はそういう昔の道である。

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坂の途中に標柱があり、「この辺りは市谷の饅頭谷から西南に続く谷で茗荷谷と呼ばれ、茗荷畑があったという。坂名はそれに因んだものであろう。」とある。 のどかな畑の広がる場所だったのだろう。両側を墓地に挟まれた広い路地は格好の駐車違反場所になっている。

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富久町の由来は明治になってから久しく富む街にという意味で名付けられた。もとは紅葉川渓谷最大のの谷で、水の豊かな場所だった。江戸期はここと太宗寺の間(今の花園小学校のある新宿1丁目)には百人組の屋敷が広がっていた。鉄砲足軽の部隊であるが、江戸時代には町の外れであった新宿辺りには彼らの屋敷が多く、百人町の地名の由来も彼らが住んでいたからである。 相当貧しい層の武士であったようだ。

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2017年6月28日 (水)

安保坂(あぼざか)

江戸時代にはなかった坂である。 江戸期は源慶寺と東長寺の間の茗荷坂が街道だった。 そこから靖国通り沿いに街道が続いていた。源慶寺の西には広い安保邸があり、海軍大臣の安保清種が住んでいた。戦後安保邸敷地を大きく横切る靖国通りに変えたので、この坂は昭和の坂である。

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幾つかの権威ある坂道本には由来がわからないと書かれているが、昭和以前の地図を見ればここが安保氏の邸宅だったことは明らかなのに不思議である。タモリ氏の師である山野氏は安保邸の由来をきちんと書いていた。

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2017年6月27日 (火)

禿坂(蜘切坂)

禿坂(かむろざか)と読む。 また別名の蜘切坂(くもきりざか)も難読。 蜘切坂の由来は、三田に多くの伝説が残る渡辺綱が、ここで古蜘蛛を退治したという伝説に由来している。 しかしそれだけのことで、江戸末期以降はおそらく禿坂の方がなじみ深い呼び名だったのではないか。

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坂は緩やかに上っていく。標柱には、「坂名の由来は定かではないが、近吾堂版の『江戸切絵図』には『里俗カムロ坂』とあり、江戸時代後期には「かむろざか」と呼ばれていたことがうかがえる。」とある。

実はいくつかの説があり、自証院裏手、今の富久小学校の裏、都立総合芸術高校の校門の辺りに大きな池があり、そこに河童が住んでいた。 河童のことをカムロ(禿)と呼ぶのでここが禿坂になったという。 紅葉川の源頭のひとつである。

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坂はだらだらとイトーヨーカドーの先まで続いている。 江戸以前はこの辺りには原野が広がり、人もまばらだったはずである。 このちょっとした斜面と坂道からそういう想像ができる。

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2017年6月26日 (月)

自証院坂

曙橋駅から靖国通りを西へ進む。 この道は江戸時代は甲州街道の脇道のような役割で、辺りには多くの寺町を抱えていた。富久町の東側の成女学園の辺りには今も善慶寺と自証院が残るが、江戸時代には5軒の寺が並んでいた。

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成女学園の脇道を上るのが自証院坂である。 成女学園は明治32年(1899)創立だが、ここに移転してきたのは明治39年(1906)。 それ以前にここに住んでいたのがラフカディオ・ハーンこと小泉八雲で、八雲は自証院の墓地を散策するのが大好きだったようだ。 江戸末期の切絵図を見ると自証院はとても広く、富久町の北側一帯がその敷地で、この坂は参道だったようだ。

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自証院は尾張藩主の徳川光友夫人の母、自証院(徳川家光の側室)を供養する為に1640年に創建された寺院だが、正式な名前は鎮護山圓融寺という。興味深いのは自証院の先、富久小学校の裏手にある無名の坂である。

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明治以降の新しい坂だがなかなかの景色を持っている。 富久小学校へ通うタワーマンションの子供たちが朝夕賑やかに通るのだろう。

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2017年6月25日 (日)

暗坂(暗闇坂)

新宿区は古い町名が残っていて嬉しい。 荒木町の西側が新坂のある舟町、そのさらに西側が愛住町である。それぞれが昨今の丁目レベルの町の広さで、人と人が助けあい支え合いながら生活するのにちょうどいいサイズだと思う。 行政が区割りを変える時は、そこに住む人の生活や人生をも変えるくらいの覚悟で行ってほしいものである。

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坂上には釣り人の聖地のひとつである「釣り文化資料館」がある。週刊釣りニュースの創刊者である船津氏が開いた和竿・魚籠などの伝統釣り具を展示しているが、本社ビルなので平日しかやっていない。そのためにまだ入ったことはない。 資料館前から下るのが暗坂(暗闇坂)。 石垣の上は全長寺の墓地で、まさに暗闇坂の名前の通り、墓のそばであるが、現在はビルが多く明るい雰囲気。

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墓の石垣の下と坂下に標柱がある。「四谷北寺町へ出る道で、坂の左右に樹木が茂っていて暗かったためこの名がついた。別名『くらがり坂』ともいう。江戸時代、坂上一帯は多くの寺院が並び、四谷北寺町と呼ばれていた。」と書かれている。 今でも4件の寺が並んでいる。江戸時代末期は6軒あり、そのうちの4寺は今もある寺院。

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坂は最後に階段になる。 江戸時代から大正まではこちらの道だけだったが、その後カーブして靖国通りに下る車道が開かれた。ものの本にはそちらを暗闇坂と書かれているが、明治以前の地図はみなこの階段の方を暗坂と記しているので、私はこちらを暗坂としたい。

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2017年6月24日 (土)

新坂(荒木町)

曙橋駅の南側、住吉町の交差点から南に延びる上り坂が新坂である。 新坂という古い坂が多い中で、この坂は比較的新しい。 それでも明治の坂。 ただ切通し風の風景がなかなかのもの。

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坂の標柱には、「全勝寺から靖国通り手前まで下る坂道で、明治30年代後半の道路新装によりできた坂道である。江戸時代には甲州街道から全勝寺まで杉の木が連なる「杉大門」通りが伸び、新坂ができて靖国通りまで通じることになった。「今は杉樹は伐採し、其の路は新道に通じて、直ちに市谷に達せり」(東京名所図会)という光景であった。」とある。

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この新坂の西側一角は舟町という町名だが、この辺りは森林地帯でその樹木を舟板用に切り出したので「舟板町」と呼ばれるようになり、それが舟町になったという。 切り出した材木は紅葉川で流して運んだのだろう。 この都心でかつてはそういう風景があったのだと想像すると面白い。

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