2026年9月 8日 (火)

大昌寺の石仏(日野市日野本町)

日野宿にある浄土宗の寺院大昌寺は慶長7年(1602)の創建。徳川家康が江戸に来て間もなくできた寺である。日野宿は甲州街道の中でも大きな宿場で、日野用水の開削は永禄10年(1567)と伝えられる。つまり、玉川上水は承応2年(1653)なので86年も前に日野用水は出来ていた。まだ小田原北条氏の支配下で、斎藤道三の家来が美濃から流れてきて、この地で帰農した佐藤隼人によるもの。

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大昌寺の参道は日野用水の南側を並行して山門に向かう。参道の東側は日野第一小学校である。この参道の入口脇に石仏がある。

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左右の石仏は不詳。真ん中は笠欠の角柱型庚申塔で、もしかしたら左にあるのがその笠なのかもしれない。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており、「施主 中宿12人」の銘がある。造立年は延享2年(1745)3月と書かれている。

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山門をくぐると左手に地蔵が並んでいる。奥の六地蔵はそれなりに時代がありそうだが、文字が見当たらずいつのものかは不明である。また手前にも丸彫の地蔵が1基と、後ろに2基の石仏、手前に角柱型の珍しい六地蔵がある。

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角柱型だが上部に仏形が残る。前面に1仏、左右に2仏ずつ、裏側は後ろの石仏が迫っていて確認できなかった。造立年は明和7年(1770)6月とあり、願主21人と書かれている。角柱にこのような形で六地蔵が彫られているものは極めて珍しい。

場所 日野市日野本町2丁目12-13

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2026年9月 5日 (土)

東の地蔵(日野市日野)

日野本宿の東、警察署の手前の丁字路は古い甲州街道と、さらに古い甲州街道との分岐である。江戸時代の貞享元年(1684)、それまで使われていた万願寺の渡しが流程変化により廃止となり、代わりに日野の渡しが設置された。かつての国道20号線が開通するまでは、北に折れて日野の渡しを通るのが大正末期までの甲州街道である。

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立日橋に向かって北に折れてすぐに道路の東側に小さな墓所がある。その墓地の南端にあるのが東の地蔵(別名福地蔵)である。地蔵の手前には比較的大きなくし形角柱型の馬頭観音が立っている。「馬頭観世音菩薩」の文字があり、造立年は文化8年(1811)3月と刻まれている。馬頭観音と街道は切っても切れない関係。

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奥の覆屋に収まる丸彫の地蔵菩薩坐像が東の地蔵。基壇の正面には「地蔵尊」の文字があり、造立年は明治38年(1905)10月と書かれている。地元の地図では福地蔵とある。東の地蔵という名前は日野宿の東の入口にあったことから付いた名前で、福地蔵というのはもともとこの地蔵を祀った下河原の人々の呼び名のようだ。この地蔵の台座は再建ものらしく、江戸時代には別の福地蔵があったという。地蔵本体が再建かどうかは分からない。

場所 日野市日野1621

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2026年9月 2日 (水)

下河原観音堂(日野市日野)

日野バイパスが開通して国道から都道になってしまった甲州街道。日野警察署の少し北東の向かい側に頑丈な観音堂が建っている。下河原観音堂と呼ばれているが、江戸時代の甲州街道からは少し外れている。この辺りは下河原という集落で、少し西からが日野宿であった。

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堂宇の周りにはいくつかの石仏が祀られている。左側には六地蔵とおもいきや、5体の丸彫地蔵が並ぶ。造立年などは不明。その手前の地蔵と馬頭観音の方が由緒はありそうだ。

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左の駒型の石塔が馬頭観音。正面には「馬頭観世音」の文字がある。造立年は大正12年(1923)11月で、施主は大野氏とある。右の舟型の地蔵菩薩は年代は摩滅していて読み取れないが江戸時代後期だろうか。「寒念仏供養」の文字がある。

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堂宇の裏手に回り込むと、大きな角柱型の馬頭観音が祀られている。新しいもので、正面には「馬頭観世音菩薩」の文字。基壇には「講中」とあり、願主名が多数刻まれている。造立年は昭和4年(1929)3月の建之とある。

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堂宇の中だが、頑丈に戸締りされており穴からのぞくのが精いっぱい。中にあるのは、石川博司氏の史料によると、角柱型の庚申で、日月、青面金剛像、邪鬼が陽刻されているようだ。二十三夜講中の文字があり、宝暦7年(1757)11月の造立。左に少しだけ見えているのも角柱型の庚申塔で、「庚申供養塔」の文字と三猿があるらしい。造立年は安永3年(1774)11月とのこと。もっとしっかり見たいがこれが限界だった。

場所 日野市日野1501

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2026年8月30日 (日)

古甲州街道の庚申(日野市日野)

日野市にあった雪印メグミルク工場は会社の不祥事で事業をたたまざるを得なくなり、50年間の営業が2014年に終了した。現在は食品関係の配送センターになっており、日野自動車工場も閉鎖されて、日野市全体が少し沈んでしまった雰囲気は否めない。そのかつての雪印メグミルク工場の跡地の近くの路傍に自然石の庚申塔がある。

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アパートの駐車場の隅切りの部分に電柱と共存するように立っている自然石の庚申塔は、正面に「庚申塔」の文字があり、脇に「万延元年(1860)8月」の造立年が刻まれている。住宅街の一角で、なぜこんなところにあるのかいささか不思議な気がした。

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調べてみると、工場跡とこの住宅街の間のまっすぐな道は江戸時代の初期の甲州街道であった。江戸幕府を開いた頃は府中宿を出ると国立の青柳村から万願寺の渡しを通ってここがその途中だった。貞享元年(1684)に多摩川の流路の変化から、上流の日野の渡しに代わったことで、立川の柴崎村から日野宿への筋が甲州街道に代わったのである。しかしこの庚申塔は街道変更から2世紀も後のものなので、街道にあったものではないが、江戸時代末期もこの道は普通に使われていたことが分かる。

場所 日野市日野1573-1

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2026年8月27日 (木)

普済寺墓地の石仏(立川市柴崎町)

普済寺は鎌倉時代の立川氏の館城跡に創建された寺院だが、境内の東側では立川氏の館城跡が発掘されており、長さ40m高さ2mの土塁に囲まれていた中世の館城だった。また境内の北側には首塚と呼ばれる塚があり、この首塚の辺りを明治初期に開墾していたところ、多数の板碑が発見されたという。

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普済寺の広い墓地の西側に古い石仏が集められている場所がある。写真の奥の方にあるのが普済寺の本堂である。雨ざらしなので傷みは激しい。その為、情報については資料に頼るところが大きい。

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左の端にあったのは2基の馬頭観音。どちらもくし形角柱型で、左の馬頭観音が草書体、右が楷書体で書かれている。左の馬頭観音は明治11年(1878)9月の造立で、正面には「馬頭観世音」と紀年、施主名の中島長蔵の銘がある。右の馬頭観音も正面は「馬頭観世音」、明治10年(1877)10月の造立年と、「石川半治郎立之」の文字がある。

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横並びにある多数の石仏のうち左端から2番目のこの右上に延びたタケノコのような石仏は実は笠付角柱型の庚申塔である。資料によると享保年間のもので、右側面には「祈願中村」とあるらしい。石川博司氏の情報を確認すると、享保15年(1730)の造立とある。立川市の史料の古い写真ではちゃんとした笠付角柱型の庚申塔で、日月、青面金剛像、三猿が陽刻されていた。左側の上部にゼニゴケの付いた石仏は、その古い写真でも上部が欠損していて詳細は不明だが、見た感じは聖観音っぽい。

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庚申塔の右は舟型光背型の地蔵菩薩立像。寛文9年(1669)12月の命日が刻まれているのでここでは最古だが墓石の可能性が高い。施主は中村平右衛門。右の丸彫の地蔵菩薩立像は岩船地蔵と呼ばれるもの。享保4年(1719)9月の造立で、「岩船光瑞鮮・・・」「岩船地蔵念仏供養」などの文字がある。「柴崎村馬場」の銘がある。

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右端の2基も丸彫の地蔵菩薩立像。大きいほうは享保11年(1726)4月の造立。正面には「念仏供養」、側面には「新屋敷南北講中」の文字がある。新屋敷というのは古い地名で、近年は使われていないらしい。右の地蔵菩薩立像にも「新屋敷南北講中」の文字があり、造立は天明8年(1788)4月である。

場所 立川市柴崎町4丁目20-46

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2026年8月24日 (月)

歴史民俗資料館の石仏(立川市富士見町)

立川市富士見町の河岸段丘上を走る奥多摩街道から坂を下って、段丘下にある歴史民俗資料館に向かう。段丘は自然が豊かで、湧水があったりする。ここの崖線は立川崖線と呼ばれ、10m~13mの高低差がある。

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段丘下の歴史民俗資料館は入館無料。アクセスが不便なので訪問者は極めて少ない。くにたち郷土文化館も同じで、もう少しアクセスのいいところにあってほしいが難しいのだろう。資料館の建物に入るとすぐに普済寺の国宝の六面幢のレプリカが存在感を持って立っている。その傍には、普済寺の60枚以上あるという板碑のうち3枚が展示されている。

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中庭を回るといくつかの石塔がある。上の写真は自然石の道標で、紀年は分からないが江戸時代ものとされている。「右 はいしま 五日市」「左 甲州道中」の文字があり、柴崎にある体育館の辺りの、甲州街道と奥多摩道の分岐点に立っていたもの。しばらくは立川市役所に保管されていたが、今は資料館にある。

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もう一つ目立ったのは、まるで力石のような丸い自然石で造られた庚申塔である。正面には大きく「庚申」と彫られ、裏面には寛政12年(1800)10月の造立年や願主名が刻まれている。この庚申塔が以前どこにあったのかなどは不明のようだ。

場所 立川市富士見町3丁目12-34

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2026年8月21日 (金)

富士見町の石仏(立川市富士見町)

奥多摩街道の滝の上会館入口バス停の傍に石仏他が並んでいる。滝の上会館は石仏の西側から入っていったところにある地域コミュニティーセンター。「滝の上」というからには滝があるわけで、おそらく西200mにある残堀川大滝のことだろう。玉川上水から取水した用水路が、河岸段丘を落ちる流れが滝になっている。

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左端は新しいもので「交通安全地蔵尊」とある。奥多摩街道は事故が多いらしくあちこちに交通安全地蔵が見られる。古い片側1車線の歩道なしの幹線道路だが、街道筋で民家が張り付いているので拡幅は難しい。近年国道20号から都道になった甲州街道も同様である。交通安全地蔵は昭和61年(1986)12月の建立。建主鈴木栄一の名がある。覆屋の右側は燈籠。寛政9年(1797)4月の造立。史料の写真を見るともっと傷みが甚だしいが、昭和61年12月に交通安全地蔵と同時期に再建されている。「秋葉大権現」とあり、昭和の初期までは毎夜燈明を点けていたという。

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覆屋の中には3基の石仏。左は舟型光背型の庚申塔。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、造立年は元文6年(1741)2月。昔は別の場所にあったが空襲で焼けたときにここに移したという。中央の丸彫地蔵坐像は弘化2年(1845)3月の造立。「天道念仏講」によるもので、昔は毎年2月1日に地蔵の前にむしろを敷き、日の出と同時に念仏を唱え、陽が沈むまで祈ったらしい。右端の丸彫地蔵菩薩立像は資料によると寛保元年(1741)2月の造立だが、基壇には元文6年とありこれは間違いとされている。おそらく別の石仏の台石を拝借したのだろう。

場所 立川市富士見町4丁目15-18

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2026年8月18日 (火)

山中坂地蔵堂(立川市富士見町)

山中坂は富士見町5丁目24番地付近から、斜めに下る坂。古くから崖上の山中集落の人たちが、段丘下の田畑を耕作するのに上り下りした道である。富士見町の名の通り段丘の上からは富士山が望める。崖下は用水路を兼ねた残堀川が流れ、山中坂橋が架かっている。

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丸石の擁壁の間にしっかりとした堂宇がある。山中坂地蔵堂で古いものではない。祀られている丸彫の地蔵菩薩像も昭和のもの。戦災供養の地蔵尊である。かつてこの坂の斜面には防空壕2つがあった。当初は市の公文書を保管する倉庫だったが、戦火が深まると空襲警報が鳴るたびに近所の人々がここに避難するようになった。

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基壇には「戦災、供養、地蔵尊」の文字がある。昭和20年4月4日の空襲でここに逃げ込んで被爆した42名を供養するもので、3回忌の時に建造された。施主は富士見町5丁目の罹災者一同とある。南無。坂上の細道は江戸時代からの古道。昔はこの細道が青梅道(五日市道)と呼ばれる街道だった。

場所 立川市富士見町5丁目25番地先

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2026年8月15日 (土)

奥多摩街道の地蔵堂(立川市富士見町)

奥多摩街道(都道29号線)を西進すると中央本線を渡る橋があり、そこから100mほどの場所に、奥多摩街道に面した覆屋がある。この辺りの奥多摩街道は多摩川の河岸段丘の縁上を走っており、街道の南側は約15mほど低くなる。かなり急な崖線である。

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覆屋の中には丸彫の地蔵菩薩立像と角柱型の供養塔が祀られている。丸彫の地蔵は宝暦2年(1752)の造立で、史料によると基壇の裏面に「山中」とあるらしい。山中はこの辺りの字名である。右側のくし形角柱型の供養塔は正面に「唱先祖供養塔」と書かれており、延享2年(1745)の造立。施主は井上氏とあり、覆屋のあるお宅のご先祖様らしい。

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この地蔵は地元では病気治癒のご利益があるとされ、お参りする人もいるという。供養塔は井上家のものだが、奥多摩街道のこの辺りではしばしば交通事故が起こるそうで、覆屋にも車が飛び込んだことがあるそうだが、一度も大事に至らずに済んでいるのは石仏のご利益と言われている。

場所 立川市富士見町5丁目22-10

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2026年8月12日 (水)

柴崎分水の石仏(立川市柴崎町)

柴崎分水は玉川上水からの分水。元文2年(1737)に玉川上水の松中橋付近から取水が許された。昭島の北に現在もある松中橋から昭和記念公園の中を流れ、青梅線をくぐって富士見町で滝のように落ちる流れは、今は残堀川の流程になっている。柴崎町に入ると南北に分水の支流が見られる。

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奥多摩街道の裏道に一跨ぎできる程度の流れがあり、生い茂った植物の間に「柴崎分水」の説明版がある。かつては周辺の重要な水の供給源になっていたようで、今も流れはきれいである。この草いきれの中に燈籠の天板のみが少しだけ見えている。かつてここにあった常夜燈で、造立年は不明。「秋葉大権現 横町講中」の文字があり、裏には〇〇6年3月の文字。年は推定も困難だが、元文年間以降であろう。

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いただいた画像だが、右の石塔が常夜燈である。左に基壇が残り、手前に石塔が倒れているが、これは元は笠付角柱型の庚申塔だったという。正面には「庚申供養塔」の文字、右面には「講中」の文字があり、元文5年(1740)12月の造立と資料には書かれていた。石川博司氏の情報では三猿もあったらしい。

場所 立川市柴崎町1丁目10-11

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2026年8月 9日 (日)

普済寺境内の石仏(立川市柴崎町)

立川市柴崎町にある普済寺は臨済宗の寺院。創建は文和2年(1353)と古い。羽柴秀吉の小田原征伐で立川氏が滅亡、その館城であった土地に普済寺が移転してきたと伝えられる。

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普済寺の開基は立川氏である。立川氏は武蔵国の士族で、鎌倉時代からここに居城した。城内にあった草庵が普済寺の元になったという。当然立川氏の菩提寺が普済寺である。一部は常陸国の佐竹氏に流れ、その後水戸藩士になったようだ。

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山門脇に地蔵堂があり、新旧沢山の石仏が祀られている。大半は近年のものだが、写真の黒っぽい舟型光背型の地蔵菩薩には天保2年(1831)の造立年が刻まれていた。基壇には「講中」の文字もある。右の白っぽい丸彫の地蔵菩薩立像は弘化4年(1831)8月の造立。こちらの基壇には念仏講中の文字がある。

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本堂の裏手、阿弥陀堂の間を抜けると六地蔵が立っていた。基壇などは新しいものだが、中央の石柱には「南無阿弥陀仏」の文字と、文政9年(1826)正月の年号がある。丸彫の六地蔵そのものは資料によると、天明3年(1783)4月の造立らしい。

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国宝の六面石幢は堂内に閉ざされ、稀にしか御開帳されない。2025年に新しい保存庫に移され、容易には見られなくなった。ただ本年2026年は9月20日と11月3日に特別公開されるという。実はレプリカが立川氏歴史民俗資料館にある。仁王像(阿形・吽形)と四天王像を浮彫にした6枚の秩父青石(緑泥片岩)板石を合わせたもので、造立年は南北朝時代の延文6年(1361)である。

場所 立川市柴崎町4丁目20-46

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2026年8月 6日 (木)

日野の渡しの馬頭観音(立川市錦町)

立川市柴崎にある市民体育館の南側は江戸時代は多摩川の河川敷であった。ただ暴れ川だった多摩川の土手の位置は江戸末期も今とさほど変わらない。現在は河川工事後で立川市寄りに流程があるが、江戸時代から戦前までは日野市側に主流が通っていた。そして、現在は日野橋と立日橋という2本の橋があるが、昔は日野の渡しという渡し舟で往来していた。この渡しがここに決まったのは貞享年間(1684~1688)と伝えられる。

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日野の渡しの碑の前には馬頭観音が立っている。大きな角柱型の馬頭観音は大正13年(1924)2月の造立で、「馬頭観世音菩薩」と正面に、基壇には「講中」の文字がある。とりわけ大正時代は馬による運搬が主流で、馬子達の観音講が各所にあって馬頭観音塔を建てたという。この馬頭観音は30人ほどの馬子によるもので、土地は地主の小川氏が寄付したもの。

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脇には3基の石塔があり、右は摩滅が激しく詳細不詳。中央は正面に「馬頭観世音菩薩」の文字、側面には「施主大久保政吉」の銘と、昭和13年(1938)建之の文字がある。左の馬頭観音は上部が欠損しているが、昭和4年(1929)2月に松村福造氏によって建てられたものである。

場所 立川市錦町5丁目20番地先

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2026年8月 3日 (月)

辨天八幡宮の庚申塔(国分寺市西町)

国分寺市西町にある辨天八幡宮は榎戸新田弁天組が開発された享保13年(1728)に創建。新田開発は享保10年(1725)に行われたので、それから間もなくの創建になる。

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境内はそこそこだが小さな社で新田の神社らしい雰囲気が残る。辨天というからには水が湧いているかと思ったが見当たらない。もともと横田家という家にあった稲荷を移したものらしい。

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鳥居の北側にぽつんと庚申塔が祀られている。角柱型と言っていいだろうか。青面金剛像、邪鬼に桃持の烏帽子の一猿の図柄で珍しい。青面金剛はショケラを下げている。造立年は文化11年(1814)で、「中藤新田、弁天(新田)、芋久保平・・」などの文字が基壇の下にあるようだ。この辺りは江戸時代末期は上保谷新田という地名で、五軒屋とも呼ばれた。国分寺崖線下でどこかに水は出たのだろう。

場所 国分寺市西町2丁目30-1

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2026年7月31日 (金)

西町神明社の石仏(国分寺市西町)

西町神明社は国分寺崖線にある多摩川の古い河岸段丘に鎮座する神社。この崖線に沿っては中藤新田という集落が享保年間に開拓されたので、おそらく創建もその時代と思われる。崖下の道は古道で、今も崖線に沿って国立駅付近まで道は続いている。隣接する観音寺は神社の別当寺。

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社殿は崖線の上にあるが、古道は下を通る。中藤新田に入植したのは今の武蔵村山市にあった中藤村の人々であった。崖線は西町神明社の周辺のみが昔の雰囲気を残している。周辺の崖地はほぼ均されて、ここが河岸段丘であることは分からないが、神社の境内に入るとそれを目の当たりにする。

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境内に入ってすぐ左側に平成5年に皇太子が植樹されたクスノキがあり、その手前に笠付角柱型の弁財天が祀られている。安永6年(1777)9月の造立で、「武州多摩郡中藤新田辨天新田講中」の銘がある。入植して落ち着いた時代のもので、崖線から湧き出す水をお祀りしたものではないだろうか。

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弁財天と対をなす位置には、同じく対をなす皇太子植樹のクスノキがあり、その手前に笠付角柱型の庚申塔が立っている。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、三猿は基壇に埋まるように彫り込まれている。造立年は明和4年(1767)11月で、前述の弁財天より10年ほど古い。こちらにも「辨天新田中藤新田講中」の文字がある。新田の位置が左右入れ替わっているのは何故かわからない。

場所 国分寺市西町2丁目27-10

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2026年7月28日 (火)

高木八幡宮の石仏(国分寺市高木町)

国分寺市高木町にある高木八幡宮はかつての高木新田と中藤新田の間に鎮座している。神社の南を東西に走るのが高木通りで江戸時代からの街道。この街道沿いに広がっていたのが高木新田、南北に広がっていたのが中藤新田である。新田とはいえ台地上の為、ほとんどが桑畑だったようだ。

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高木八幡宮の創建年代は不詳だが、中藤新田は享保年間(1716~1735)に開発されているので、その時代と思われる。神社は享保16年(1731)に鎮守となった。

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鳥居脇の覆屋に祀られているのは丸彫の地蔵菩薩立像。これが高木八幡宮が鎮守になった後、造立された子育地蔵尊と伝えられる。造立年は元文4年(1739)9月で、基壇には「武刕多摩郡・・南部新田」と書かれている。

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覆屋の少し後ろにあったのが、駒型の馬頭観音。正面には「馬頭観世音」とあり、明治41年(1908)の造立とある。きわめてシンプルで典型的な馬頭観音である。

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馬頭観音の手前には燈籠が立っている。竿部の正面には「神明宮」、脇には「八幡宮」「榛名山」、裏には「多聞天」の文字がある。造立年は嘉永3年(1850)春3月とあり、「武・野中高木組」の文字が見える。

場所 国分寺市高木町3丁目9-9

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2026年7月25日 (土)

佐伯家の石仏(立川市栄町)

立川通りから分岐した高木通りを東進する。高木通りは高木八幡前を通り、国分寺市の新町三丁目まで続く。三叉路から200mほど行くと、生け垣に囲まれた佐伯家があり、生け垣の隙間に石仏が並んでいる。

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地蔵菩薩のみが覆屋の中にある。この地蔵は愛宕地蔵と呼ばれるもので、ここから北に300mほどの高校の裏手にある愛宕神社に関係する地蔵。子供の夜泣きや病の時に、前掛けやタスキなどを借りて治ると新しいものを奉納する習わしらしい。地蔵そのものは八軒の共同所有とのこと。

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丸彫地蔵の基壇には「三界万霊」の文字があり、造立年は安永7年(1778)9月とある。左右には道標が刻まれており、「左 江戸道 願主芋窪新田、砂川新田」「これより 小川、▢沢道」の文字がある。

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隣にあるのはかなり新しい青面金剛像である。ということは庚申塔ということになるが、正面の「奉納 南砂川有志」以外の文字は見えなかった。史料によると、ここには以前舟型の庚申塔があり、それは文化4年(1807)のもので、願主は内〇源助とあったらしい。過去にあったものも今のものも、三面六臂の青面金剛像で、三猿はない。

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庚申塔の右、垣根に少し隠れているのが大きな常夜燈。造立年は天保9年(1838)11月で、正面には「奉献愛宕大権現」、左右には「秋葉さん大権現、榛名山大権現」の文字がある。台座には「多摩郡村中 多摩郡芋久保新田」の銘がある。この燈籠も八軒の共有で、愛宕神社まで行かずにこの燈籠で手を合わせて拝んだものらしい。

場所 立川市栄町2丁目40-1

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2026年7月22日 (水)

三つ又の常夜燈(立川市栄町)

立川通りから高木通りが分かれる三叉路は現在は栄町三丁目という名前の交差点。町丁の境界を見ると、この三叉路の頂点の三角形部分は二丁目で、三丁目にくさびを打ち込むような形になっている。昔はここから北へ進む立川通りはなく、ここでカーブして東に進むのが街道筋であった。この辺りはいわゆる八軒という集落。

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この三叉路の頂点にあるのが常夜燈。竿部の前面は「阿豆佐味天神社」の文字、側面は「榛名山大権現」「愛宕山大権現」、そして裏側には弘化3年(1846)8月の造立年が刻まれている。台座には「砂川村講中」とあるが、もとは砂川四番の阿豆佐味天神社の分祀で八軒のもの。砂川四番は遠いのでそこまで行かなくてもいいようにここに置いたらしい。

場所 立川市栄町2丁目43-1

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2026年7月18日 (土)

立川通りの回国供養塔(立川市栄町)

立川通りを東大和市方面に向かって歩くと、栄町三丁目の高木通りとの分岐の手前に緑道が交差する。てっきり川跡の暗渠遊歩道だと思ったが、どうも廃線跡らしいことが分かった。栄緑地といい、かつての立川飛行機専用線の跡で、立川飛行場(現自衛隊)と立川駅を結んでいた。昭和18年~19年に敷設され、昭和53年(1978)に廃線となった。

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栄緑地から10m余り先の歩道脇に角柱型の石塔が立っている。学習塾の建物の敷地内にある。正面には「奉納経六拾六部日本廻国供養塔」と刻まれている。かなり剥離が進んでいて読めない箇所が多い。天下泰平、国土安穏の文字は読めた。

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左側面には「維持嘉永5年(1852)9月」の造立年、「多摩郡砂川村九番組 施主 佐野氏」の銘が刻まれている。資料によると、佐野氏の先祖が昔西国巡りをした時のもので、その人は弘化3年(1846)に57才で他界したらしい。一時、裏の墓地へ移したが、再び現在地に戻したという。おそらく墓地があったのは戦前のことだろう。

場所 立川市栄町3丁目22-3

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2026年7月15日 (水)

八軒新田の碑(立川市栄町)

立川市の立川通り沿いのワークマンの向かいに八軒新田の碑がある。石仏ではないが散策していて気になったので立ち寄る。「芋久保新田は郡の中程より少し東に寄れり。この新田は郡中、村山郷芋久保村の農民来て開発せし故に村名とせり。」と説明板にある。芋久保村は現在の東大和市の青梅街道の北側の地域(芋窪)にあった村。

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この辺りは江戸時代から八軒と呼ばれた土地。その由来も書かれていた。「享保年間から元文年間のころ(1720~1740頃)には八軒の家があり、今に至っても八軒新田という。江戸日本橋からは八里の距離。」だという。水田はなく陸田のみで、陸稲(おかぼ)を作っていたのだろう。

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大きな石には「武蔵国武州多摩郡砂川村八軒」と刻まれている。砂川村に含まれていたようだ。立川通りは昔は道幅五間(9m)もあり、日野宿で甲州街道に繋がっていた。

場所 立川市栄町3丁目10

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2026年7月11日 (土)

八軒の庚申塔(立川市栄町)

立川市から北、および北東に延びるバス通りは、高松二丁目交差点で北へ向かう芋窪街道と北東へ向かう立川通りに分かれる。分岐点の角には看板が林立し、その陰に木造家屋が立っている。芋窪街道側に回り込むと、隣地との間には万年塀があり、その前に石塔が並んでいる。

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ちょっと面白い場所にまとまっているが、手前の大きな角柱型の石仏は庚申塔で、正面には「庚申塔」の文字、造立年は天保4年(1833)4月とある。基壇には三猿が陽刻されており、正面の庚申塔の字の脇には天下泰平、国土安全と書かれている。側面には、當所講中とあり、その下に三鴨姓、矢嶋姓などの願主名がある。

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手前の手水鉢も古そうで、正面には「奉納」の文字、脇には砂川、矢島の文字がある。大きな庚申塔の左わきには2基の角柱がある。右の石仏は庚申塔で、青面金剛像が陽刻されていた。造立年は明和4年(1767)で大き法よりも古い。下部には「他村施入面々現當…(以下土中)」「施主芋窪新田」の文字が見える。

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左の小さな角柱は馬頭観音である。正面の「馬頭観・」の文字しか読めず、上部は摩滅、下部は埋まっている。資料によると、大きな角柱型の文字庚申塔はこの辺りにあったガソリンスタンドの角に元からあり、青面金剛像の方は七軒家(現在は高松町、昔は芋窪新田)にあったものを集めたらしい。熊野神社があるあたりだろうと思う。馬頭観音については情報皆無である。

場所 立川市栄町3丁目1

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2026年7月 8日 (水)

観音堂裏の馬頭観音(日野市百草)

百草観音堂の南側には、百草園通りの脇を流れる細流と、西から流れる細流が合流する。ここは倉沢谷戸という名前の小さな谷で、昔から細い杣道があったようだ。1960年~70年代にこの西側の山を大きく開発してできたのが百草団地で、標高90m~120mほどのところに山を切り開いた一台住宅地が広がる。

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南側の側道から観音堂の土手を見上げると、土手の斜面に2基の石仏が立っていた。右の櫛型角柱型の石仏は馬頭観音。嘉永6年(1853)4月造立で、施主名は伊右エ門とある。左の新しそうな駒型の石仏も馬頭観音で、「馬頭観世音菩薩」という文字が彫られている。こちらの施主は増嶋吉太郎、造立年は明治10年(1877)7月とある。

場所 日野市百草818-1

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2026年7月 4日 (土)

百草観音堂(日野市百草)

百草園の南側斜面にある百草観音堂は、百草園から数百m下ったところにある。この窪地は倉沢谷戸と呼ばれる。古くは倉沢観音堂、または枡井山観音堂とも呼ばれたが、創建年代は不詳。

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階段を上ると観音堂があり、平安時代に造られた本尊の聖観音菩薩立像が堂内に祀られているが、御開帳は12年に一度ということでとても拝観はできない。

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観音堂の横には覆屋があり、複数の石仏が祀られていた。左から、舟型の聖観音像、丸彫の地蔵菩薩、丸彫の地蔵菩薩、上部が欠損した舟型の如意輪菩薩像、一番右はよくわからない。この中で造立年が刻まれていたのは左から二番目の地蔵菩薩で、元文庚申年吉日とあるので、元文5年(1740)の造立である。

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石段の上にあった古い手水鉢は、宝永5年(1708)7月に小林四郎五郎正義が奉納したもの。「奉寄進 武刕多麻郡百草村枡井山観音堂」の銘が入っている。

場所 日野市百草841

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2026年7月 1日 (水)

百草園通り南の馬頭(日野市百草)

京王百草園は日野市の山の上にある庭園。享保年間(1716~1736)に再建された松蓮寺の庭園として造営され、明治の初めの廃仏毀釈で廃寺となった。地元の生糸商人の青木角蔵がその後所有、1957年に京王電鉄に移管した。

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南斜面に向かって百草園前から下っていくと、坂下で西からの市道がぶつかる丁字路がある。その角に素朴に立っている石塔がある。ゼニゴケに覆われているが、正面には「馬頭観世音」の文字が見える。

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側面には文久3年(1863)6月の造立年が刻まれていた。西から合流する市道は昔はなかった道だが、百草園通りは江戸時代から存在した村道である。この何となくぽつんと立っている様子が路傍の石仏の魅力である。

場所 日野市百草876

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2026年6月27日 (土)

砂土地蔵尊(日野市三沢)

川崎街道の旧道の旧松蓮寺山門の辺りで、落川から三沢に入る。松蓮寺は明治の初めに廃仏毀釈政策によって廃寺となったが、江戸時代は『江戸名所図会』にも描かれており「茂草松蓮寺」の記載がある。

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馬頭観音の近くに大きな堂宇があり、複数の石仏が祀られている。堂宇脇にも石仏石塔がいくつかある。後ろの壁に「砂土地蔵尊」と書かれたお札が貼ってある。右端は舟型光背型の地蔵菩薩立像である。古そうだと思って文字を読むが何分摩滅していて読みづらい。偈文がたくさん書かれている。寒念仏供養の文字があり、貞享4年(1687)の造立のようだ。

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その横の背の高い丸彫の地蔵菩薩立像が砂土地蔵尊と呼ばれる地蔵菩薩らしい。地蔵の腰に享保3年(1718)10月の造立年が刻まれていた。基壇にも文字が刻まれていたが読み取れなかった。砂土地蔵尊の左には舟型の阿弥陀如来像がある。「権大僧都法如・・・」という文字が見えるが、墓石かどうかは分からない。造立年は貞享元年(1684)霜月とある。

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その左には中折れが激しい笠付角柱型の庚申塔がある。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、「三澤邑・・像庚申・・下講中」の文字がかろうじて読み取れた。造立年については「安永(1772~1781)」の文字があるがその先は折れている部分で分からない。庚申塔の下に板碑の一部がポツンと置かれていた。

場所 日野市三沢2丁目1-23

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2026年6月23日 (火)

百草園通りの馬頭(日野市三沢)

百草園通りと川崎街道の旧道が接する丁字路にたつ立派な角柱型の石塔。百草園通りは幅員が狭く、車幅感覚の弱い一般ドライバーはすれ違いに四苦八苦している。

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右のプラスチックコーンに「地蔵尊」とあるのは、すぐ近くにある砂土地蔵尊のことを指しているのだろうか?もともとこの馬頭観音は写真の「百草園」の案内板の向こう側にあったものを数年前に3mほど移設したらしい。

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石仏はかなり傷んでいるが、正面には「馬頭観世音」の文字が見える。基壇には「松蓮寺道」とあるが、松蓮寺はこの地にあった寺院でその跡は百草園になっている。明治初期の廃仏毀釈で廃寺となり、百草園は庭園として残された。馬頭観音には天保13年(1842)暮春の造立年が刻まれており、「當所 三沢」の銘がある。

場所 日野市三沢2丁目1-23

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2026年6月20日 (土)

旧道脇の石仏(日野市落川)

京王線に沿って東西に走る川崎街道は百草園駅の南で脇に斜め道があるが、この脇道が本来の川崎街道である。少し西に進んで百草園通りで現在の川崎街道に戻る。その旧道の途中にグリーンテラス百草園という大きめのマンションがあり、その角に覆屋がある。

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覆屋の後ろは広場になっていて、石仏の場所がマンションの敷地なのか広場側の敷地なのかは微妙だがおそらく広場側になる。覆屋の中には丸彫の地蔵菩薩坐像が祀られている。造立年は明治41年(1908)と刻まれている。

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地蔵菩薩の手前右に角柱型の石がある。石の前面には「庚申供養」の文字がある。側面には造立年は天明8年(1788)4月と刻まれていて、地蔵よりもかなり古い庚申塔である。

場所 日野市落川1086

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2026年6月17日 (水)

落川大宮神社の馬頭観音(日野市落川)

落川大宮神社は京王線百草園駅の南の山の斜面にある。創建年代は不詳とされるが、江戸時代初期の寛文年間から元禄年間のころ、清水谷の山上である現在の場所に移転してきた。当時は落川村下落川の鎮守だったという。

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江戸時代以前はもとは上落川の大宮耕地にあったというから、今の高幡不動駅の近くである。しかし浅川や程久保川が氾濫して洪水により東にあるこの場所に移ったという。山上にある社殿は天明8年(1788)の竣工と古い。山の下の鳥居の脇には2基の石仏が並んでいる。

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右の大きな石塔は角柱型の馬頭観音で、正面に「馬頭観世音」の文字がある。側面には文政6年(1823)立秋の造立年が刻まれていた。左の小さい方は、櫛型角柱型の馬頭観音でこちらも「馬頭観世音」の文字。側面には施主瀬沼成▢の銘と、昭和16年(1941)5月の造立年が刻まれている。

場所 日野市落川1108

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2026年6月14日 (日)

百草六地蔵と庚申塔(日野市百草)

日野市の百草地区はもともとほとんどが山である。元来の百草の集落はこの山の中腹にある細長い集落で、今も昔と同じような風景でまばらに家が並んでいる。野猿街道側(東側)から山に入っていくと、途中で折り返すようにつながって山に登る道がある。途中から車両は通れない道になって尾根に出るが、これが元々の百草の集落の主要道である。

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尾根筋に出ると道が二手に分かれるが、その分岐脇に小高い高まりがあり、たくさんの石仏が並んでいる。簡易なトタン屋根に覆われて8体の石仏がある。どうも寄せ集めっぽい見栄えだが、中央に丸彫の地蔵尊(首欠)があり、その両脇に舟型光背型の地蔵菩薩が並ぶ。

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造立年は分からない。一部の基壇が土中に隠れている部分に「安永6年(1777)」の年号が見える。「安」の字と、「六」と「丁」の文字が見えるので丁酉である安永6年と推定した。

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左端にある駒型の庚申塔は唯一保存状態がいい。日月はない。青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄である。造立年は元文元年(1736)11月。「武刕多摩郡百草村 願主 庚申供養」の文字が読める。端にあるが主役としてもいいかもしれない。

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六地蔵の右手には摩滅と剥離がかなり進んだ道祖神が立っている。「道祖神」の文字が正面に大きく書かれ、右側面には万延2年(1861)正月の造立年と百草村の銘がある。ちょっとした山登りの先に出会える、うれしい石仏群であった。

場所 日野市百草452

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2026年6月11日 (木)

一の宮バス停裏の石仏(日野市百草)

府中市から多摩川を渡り相模原に延びる野猿街道(都道20号線)と川崎街道が交差するのが一ノ宮交差点。もともと野猿街道よりも東側の聖蹟桜ヶ丘駅の西の一帯にあった集落が一ノ宮であった。以西の川崎街道はほぼ昔のルート沿いに車道が出来ているが、百草の集落は多摩川の右岸の山に沿ってできた集落である。

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一ノ宮交差点の南西脇から分岐する小道はこの先の山の上にあった百草集落への道である。その入口ともいえる路傍の藪に3基の石仏が祀られている。気づかずに歩いて通り過ぎかねないような石仏は、左から庚申塔、馬頭観音、聖観音。

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右の聖観音像は舟型光背型で、基壇の文字も読み取れなかったが、おそらく江戸時代後期のものであろう。中央に建つのは大きな角柱型の馬頭観音で、天保5年(1834)という造立年が刻まれている。基壇正面には「講中」の文字と、「八景山松連寺道」の文字がある。右側面には「百草村」の銘があり、さらに願主名も刻まれていた。

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左に建つのは舟型光背型の庚申塔。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、「庚申供養」の文字がある。造立年は正徳6年(1716)6月。さらに「武州百草村」の銘と願主名が刻み込まれている。いかにも百草集落への入口といった雰囲気がある場所である。

場所 日野市百草360

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2026年6月 8日 (月)

高札場下の庚申塔(日野市落川)

日野駅の東側に落川神明神社がある。神社は寛政8年(1797)の創建で、落川村の小字下落川の鎮守だったらしい。明治時代以前は、田んぼに囲まれたこの辺りに小さな集落があった。

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昔からある村道は今も主要市道だが、この少し北に江戸時代には落川村の高札場があった。幕府から発せられる諸法度や掟書を木札に書き込み、村人に徹底させるのが高札場である。落川村の高札場は名主屋敷の前に立っており、今は玉石で土壇を作って再建されている。

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名主の家から街道に出たところにあるのがこの笠付角柱型の庚申塔である。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、右側面に「奉建立庚申供養 落川村講中」の文字がある。造立年は宝暦11年(1762)11月とある。

場所 日野市落川666

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2026年6月 5日 (金)

落川通りの庚申塔(日野市落川)

日野市落川と日野市百草は例がないほど入り組んでいて、落川の隣の家は百草でその向こうはまた落川というようなことが起こっている。落川は暴れ川だった多摩川の低地にあり、そこに飛地を持っていたのが百草。その飛地は島のように点在しており、それを今もまだ引きずっている。京王線百草園駅の周りは特に交り方がひどい。

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駅の北側には百草の飛地が多いが、少し西に移動すると落川になる。駅からセブンイレブン前を左折、その先で北西に向かうのが落川通りで江戸時代からの道である。K字路になっている角の吉田家の一角に角柱型の庚申塔がある。

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正面には大きく「庚申塔」と彫られている。台石には「上河内講中6人」とあり、側面に文政6年(1823)中冬(仲冬の意)の造立年が書かれている。この土地の少し北側には浅川が多摩川に合流する同じ場所に注ぐ程久保川という小河川が、多摩動物公園から流れ下っている。昔は一面の田んぼだったようだ。

場所 日野市落川331

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2026年6月 2日 (火)

延命講子育地蔵尊(文京区関口)

地下鉄江戸川橋駅から南下する江戸川橋通り付近は新宿区と文京区の境が複雑に入り組んでいる。大体この2区の境界が複雑なところは神田川の昔の流程が絡んでいることが多い。その為路地のお隣やお向かいと行政区が異なるなんてことが頻繁に起こる。行政は民間が1年で変わることを100年変えられないという性格がある。まだ伊勢神宮の式年遷宮の方が変わり身が早い。

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地蔵通り横丁商店街は文京区関口になる。江戸川橋通りの入口角に立派な地蔵堂が建っている。中には子育地蔵が祀られている。造立年は不詳。ガラスに説明書きが印刷されている。

「子育地蔵(火伏せ地蔵):三方を台地に囲まれたこの地が一面の田畑だった頃、近くの江戸川(神田川)がしばしば氾濫した。この地蔵尊は明治の初めにいずこから流されてきて、ここに留まったものと言い伝えられている。以下略」

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後年、この周辺が戦火を免れたことから火伏地蔵としても信仰を受けるようになった。地元では延命講を作って地蔵をお祭りし続けているとのこと。堂内には欅の板に講中の面々の名前が刻まれた昭和31年(1956)の額が飾られている。江戸時代はこの辺りは西の中里村、東の小日向村の境で、北にも南にも武家屋敷が迫る都会の農地だったようだ。

場所 文京区関口1丁目7-4

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2026年5月30日 (土)

貫井神社の石仏(小金井市貫井南町)

小金井市の貫井神社の創建年代は不詳、ただ湧水の出る弁財天として古くから知られてきた神社で貫井神社と改名したのは明治以降のことである。社殿の左手奥にある湧水は岩の下から滾々と湧き出している。

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神社の境内中央には池があり、境内に上がる手前の左手にも池がある。豊富な湧水を強調しているようだ。むかって左手の湧水の脇には細めの階段が設けられており、その近くに自然石の石塔がある。

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石の表面には大きな文字で「石橋供養塔」とある。その脇には文政9年(1826)の紀年がある。この石橋供養塔の示す石橋は野川に架かっていたものだろうか。特に記載がないのでわからないが、湧水程度に橋はないので間違いないだろう。人に踏みつけられても支えてくれる石橋に対しては江戸時代の人々は感謝して祀っていた。敷石供養も同じような風習である。

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本殿西側に貫井不動尊と愛宕神社があるが、愛宕神社に上る長い階段の下には石坂供養塔がある。これもまた踏みつけられる石坂(階段)に対するもの。角柱型の石坂供養塔は文政13年(1830)3月の造立で「世話人惣村中」の文字がある。村人が協力してこの石段を築いたのだろう。

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愛宕神社の階段を上ると2基の地蔵菩薩が待っていた。右の丸彫の方は詳細不詳である。左の舟型光背型の地蔵菩薩立像は小金井市の史料にも掲載されていた古いもの。造立年は元禄12年(1699)10月とあり、「供養地蔵講中二世安楽」の文字と「貫井村」の記載がある。講中の51人が協力して建てたものだが、上部が少し欠損している。

場所 小金井市貫井南町3丁目8-6

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2026年5月27日 (水)

不動橋の石仏(国分寺市南町)

JR中央線国分寺駅の南、国分寺街道が野川の上流を渡る橋が不動橋である。ちょうど不動橋の下で、北西から流れてきた野川に、南西から流れてきた清水川(元町用水)が合流する。

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不動橋の北側にある大きなマンションの川側にきれいなガレージのような覆屋があり、2基の石仏が祀られている。左側は自然石の石橋供養塔だが「不動明王」と刻まれている。これが不動橋の由来。造立年は天保3年(1832)で、この頃野川に架かっていた橋が木橋から石橋に代わったと考えられている。

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右側は笠付角柱型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。造立年は延享2年(1745)2月とある。「武州多麻郡 国分寺村講中」の銘があり、左面に6人、右面に5人、計11人の願主名が刻まれている。

場所 国分寺市南町3丁目1-2

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2026年5月24日 (日)

元町通り子育地蔵尊(国分寺市東元町)

元町通りは武蔵国分寺から東へ伸びる村道で、西の久保通りまで続いている。この二つの道は江戸時代からの道で、微妙に曲がりながら続いている。

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明治の初めころまでは、この辺りが下村集落の東端で、少し歩くと貫井神社を中心とした貫井坂下の集落になった。下村集落の北側には国分寺崖線が走っており、その崖下を野川が東流している。現在の恋ヶ窪の日立中央研究所から流れてきた野川は、村の北側を流れていた。

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堂宇の中には舟型光背型の地蔵菩薩が祀られている。子育地蔵と呼ばれているようだ。基壇の正面には「三界万霊」の文字があり、「當村願主・・」の文字がある。造立年は明和7年(1770)10月と記されている。

場所 国分寺市東元町1丁目19-14

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2026年5月21日 (木)

学園通りの庚申塔(府中市天神町)

府中市天神町のいちょう通りと学園通りの交差点(新町一丁目)のすぐ東側に大きなクスノキとともに立つ堂宇の中に庚申塔がある。堂宇の前にはなぜか鳥居がある。堂宇内はまるで神社のように幕が掛けられ、地元で大切にされている様子がうかがえる。

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南北に走るいちょう通りは古くからの道筋で府中と小金井を結んでいる。東西の学園通りは新しい道で、戦後の高度経済成長期に通された。それ以前は広葉樹と桑畑に囲まれた長閑な武蔵野だったようだ。民家が建ち始めたのは戦後のことらしい。

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ブロックで造られた堂宇にある庚申塔は駒型で、文化12年(1815)2月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、衣で見えないが史料によると「武州多摩郡府中山谷村中」の文字があるようだ。

場所 府中市天神町3丁目12-6

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2026年5月18日 (月)

内藤神社の庚申塔(国分寺市日吉町)

昭和から平成、令和にかけて、中央自動車道府中インター付近は道路工事が続いている。国道20号線は甲州街道から離れて日野バイパスとなり、東八道路は当初の計画で日野バイパスに繋がるべくもう少しのところまで来ている。東八道路と交差する、多摩市からの都道17号線は大昔の鎌倉街道が現代になって幹線道路で再現している様子で、新府中街道とも呼ばれている。

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その都道17号線は令和8年現在、内藤神社のすぐ西側まで延伸しており、その先の用地買収も進んでいる。とはいえかつての鎌倉街道は現在の府中街道筋で、新道は内藤神社方向に西よりにズレてはいる。内藤神社はかつてここが武蔵野の林であった江戸時代中期に、府中本宿村の内藤治助により内藤新田が開発され、享保19年(1734)に近江の日吉山王神社を勧請して創建された。

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入口の鳥居の脇に大きな丸石(自然石)の庚申塔が祀られている。正面には「庚申塔」と彫られ、後ろに文政12年(1819)2月の造立年と、内藤新田の銘が刻まれている。この庚申塔は元は日吉町の内藤橋(中央線の線路を越える橋)際の土手にあったらしい(日吉町1丁目39)。

場所 国分寺市日吉町4丁目11-14

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2026年5月15日 (金)

熊野神社の庚申塔(国分寺市西恋ヶ窪)

JR中央線国分寺駅と西国分寺駅の間の北側に広がる日立中央研究所の庭園(協創の森)は、日本を代表する日立製作所の研究所サイトのひとつとして1942年に開設された。多摩川に注ぐ野川の源流でもあり、それ以前は武蔵野の林の広がる源頭の谷地で別荘だったようだ。野川はここで北からのさんや谷と西からの恋ヶ窪谷の細流を合わせ池が造られていた。研究所の北側を通るのが熊野神社通りで、西武国分寺線の踏切を過ぎたところに熊野神社がある。

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神社は西向きで、鳥居前を南北に通る道がかつての鎌倉街道(府中街道)である。創建年代は不詳、鎌倉時代の末期、新田義貞軍の兵火で焼失し、その後再度火災に遭い、江戸時代の初めに再建。明治になると1877年に暴風で倒壊、1923年には関東大震災で大破、1945年には戦火でもまた破壊された。今の社殿は昭和23年(1948)に再建されたもの。なんとも不遇な社殿である。

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鳥居の脇にそれらの災難で痛めつけられた笠付角柱型の庚申塔が立っている。資料によると、造立年は安永4年(1775)とのこと。摩滅と破損が激しく、日月と青面金剛像の痕跡は見て取れるが、他は分からない。

場所 国分寺市西恋ヶ窪1丁目27-17

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2026年5月12日 (火)

本多の庚申塔(国分寺市本多)

JR中央線国分寺駅から北へ約1㎞、都道の連雀通りを渡ると黄檗宗(おうばくしゅう)の祥應寺がある。祥應寺はこの地本田新田の開発に際して、村人儀右衛門が深川海福寺の僧侶に開山をしてもらい享保11年(1726)に引寺して創建した。黄檗宗の寺院は珍しいが、近くには多摩市の禱徳寺くらいで、あとは羽村市にいくつかある。黄檗宗はやや中国らしさを持つ様式の寺院で、この祥應寺も典型である。

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祥應寺の山門の前には真新しい堂宇が建てられている。傍には銘板で造られた説明版もあって、なかなか手が込んでいる。堂宇内に祀られているのは、駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、造立年は元文5年(1740)10月とある。

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この堂宇が出来たのは令和6年(2024)とつい最近。当時はまだ野ざらしだった庚申塔を、祥應寺の檀徒が浄財で今の状態にしたと説明板には書かれている。

場所 国分寺市本多4丁目2-2

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2026年5月 9日 (土)

薬師堂の石仏(府中市西元町)

府中市・国分寺市は江戸時代以前の武蔵国の中心。今の都心はずぶずぶの湿地帯で、東海道も未発達、主な道路は東山道だった時代、現在の府中市には国府と大國魂神社があり、国分寺市には国分寺があった。昔の多摩川は暴れ川で幅数㎞にわたって流れが右往左往していた。この辺りの多摩川河岸の標高が47m、大國魂神社と国府は55m前後、北に向かって国分寺跡は63m。

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大國魂神社は一段目の河岸段丘上にあり、そこから緩やかに標高を上げ、国分寺は二段目の河岸段丘の下にある。国分寺の裏手はその河岸段丘で、国分寺の薬師堂は段丘の上にあり標高は77mとさらに高い。今は訪れる人も少ないが、大昔はたいそう賑わっていたのだろう。堂内には国の重要文化財の薬師様が祀られている。

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石段を登り、薬師堂の前にある仁王門を望むと、左手に傷んだ地蔵菩薩像が3基、右手に3基の石仏が並んでいる。地蔵菩薩は詳細不明。右手の3基のうち一番左の石仏は破損が激しく文字が読めない。中央は笠付角柱型の庚申塔で、宝暦14年(1764)3月の造立。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、保存状態は良い。右の角柱は六十六部回国供養塔で、寛政2年(1790)10月の造立。武州多摩郡国分寺村行者小坂三郎兵衛の銘がある。

場所 国分寺市西元町1丁目13-16

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2026年5月 6日 (水)

本村八幡の庚申塔(国分寺市西元町)

国分寺は天平13年(741)に聖武天皇が全国の60余りの国々すべてに建立を命じた寺院で、国分寺と国分尼寺がセットで造られた。首都圏では多摩地区の国分寺と海老名市の相模国分寺、市川市の下総国分寺がある。埼玉県は昔は東京都と同じ武蔵国だったので多摩の国分寺が該当する。多摩の国分寺は多摩川左岸の古い河岸段丘に造られた。この国分寺の西側にあるのが本村八幡神社。国分寺の歴史が古すぎるので後年の創建だと思われるが、江戸時代には国分寺村の鎮守であった。

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河岸段丘の上に本殿があるが、登り始めの鳥居脇に新しいきれいな堂宇があった。拝んでみると、堂宇の中には笠付角柱型の庚申塔が祀られている。日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄で、造立年は寛保元年(1741)11月。「武州国分寺村講中」の銘がある。

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実はこの庚申塔、もともと東元町4丁目16番地の三叉路にあったものが、東元町3丁目2番地のお屋敷脇の駐車場の植込みに移されたのだが、ようやく本村八幡神社の境内に令和2年(2020)9月に移設されて落ち着いたもの。探していたので会えてうれしい気持ちだった。

場所 国分寺市西元町1丁目13-23

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2026年5月 3日 (日)

国分寺墓地の石仏(国分寺市西元町)

国分寺は奈良時代に聖武天皇が命じて全国各地に建立させた一連の歴史的な寺院。鎌倉幕府滅亡の際の戦火により焼失したが、薬師堂は新田氏により再建。真言宗の寺院である。寺の前には江戸時代建立の楼門がそびえており、その傍に広がる墓所の一角に地蔵堂がある。

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堂宇の中には丸彫の地蔵菩薩立像と仏形の座像を陽刻した櫛型角柱型の供養塔がある。左側にある櫛型角柱型の供養塔の座像は摩滅が激しく造形はかなり欠けている。造立年は文化8年(1811)正月とあり、仏形の下には「両親□□菩提」の文字がある。

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右の地蔵菩薩立像は基壇に文字があるがかなり摩滅している。どうも回国供養塔として建てられたものらしく、造立年は正徳5年(1715)7月とある。「国分寺」の文字も見え、側面には本多家の願主名がある。

場所 国分寺市西元町1丁目15

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2026年4月30日 (木)

浄牧院の六地蔵(東久留米市大門町)

東久留米駅の東口からまっすぐに伸びる駅前通りに面した曹洞宗の寺院が浄牧院。山門や総門の向きが道路に直角ではなく斜めなのは、この駅前通りが新しい道で、もとは東西に走る都道234号線が古道の筋で、そこからの参詣道に建っていたからである。創建年代は不詳ながら室町時代から存在したらしい。

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山門をくぐると次にあるのが立派な惣門。平成5年(1993)に建てられた比較的新しいもので、表側に仁王像、裏側に風神雷神がある。木漏れ日のなかで静かな環境の境内である。惣門をくぐると本堂に向かって左側に六地蔵がある。

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造立年は不詳だが、近隣の村々の有志による建立。市の史料によると、前沢村、清戸村、神明山村、石神村の有志による造立とある。施主は寂栄とあるが、浄牧院の僧侶だろうか。

場所 東久留米市大門町1丁目3-4

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2026年4月27日 (月)

東本町墓地の石仏(東久留米市東本町)

東久留米市の東本町(ひがしほんちょう)は東武東上線と黒目川と門前大橋通りを境とする三角地帯の新しい地名。この辺りは昔は門前村の一部だったようだ。東久留米駅の開業は大正4年(1915)。当時の東武東上線の駅は、池袋・東長崎・練馬・石神井・保谷・東久留米・所沢しかなく、東久留米駅は当初からの駅であった。

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優先的に東久留米駅が出来たのは地元の村議であった神藤庄太郎氏が土地を無償提供し、かつ陳情を繰り返したお陰だという。また東久留米の地名は、久留米町だったこの地が福岡の久留米市との識別のために「東久留米市」としたのが由来である。この東本町にある墓地は浄牧院の境外墓地である。墓地の入口には昭和49年(1974)造立の六地蔵があり、その脇に古い舟型地蔵がある。

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舟型光背型の地蔵菩薩は明和2年(1765)12月の造立だが、尊像向かって右には「即應最新沙彌 宝暦8年(1958)」とあるがこれは西心という層の菩提を弔うために建立されたもの。左側には「扶助 當村中 願主自得全員」の文字がある。

場所 東久留米市東本町12

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2026年4月23日 (木)

門前金山塚の庚申(東久留米市氷川台)

東久留米市氷川台は市の北部にある地域。西側は西武池袋線が境だが、東側は門前大橋通りが境となっている。門前というのは古い地名で現在の大門、氷川台、東本町の地域にあたる。昔は門前村で、古い地図を見ても門前大橋通りが門前氷川神社の北で二股に分岐している。

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この二又の頂点に覆屋があり、庚申塔が祀られている。ちょうど地元のご老人がお参りされていたので話を伺った。「昔はここは急な坂でねぇ、庚申様も崖の上にあったんだよ」とおっしゃる。この坂道は金山坂と呼ばれ、坂上で清戸道・所沢道に合流する。

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市の史料に当時の写真があったので拝借した。確かに今とはまったく違い7~8mは高い場所にある。石仏探訪をしているとたまに地元のご老人に話を聞くことがあり、いつも参考になる。こういう民間の記憶は大切にしたいものである。

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庚申塔は笠付角柱型で享保19年(1734)2月の造立年がある。日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄で、青面金剛はショケラを下げている。右面には「惣村供養佛」の文字があり、多数の願主名がある。貫井姓、野嶋姓が多い。左面にも同じく「惣村供養仏」の文字があり、こちらには女性名がある。

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堂宇の左わきにあるのは燈籠で、「猿田彦・・」の文字がある。これも庚申塔と呼べそうだが、剥離が進んでいて文字が読み取れない。造立年は明治15年(1882)4月とある。当時はもちろん崖の上にあったわけで、史料によると「三叉路の塚上にあり、以前は道路いっぱいに老樹が覆いかぶさり昼間でも暗かった」とあるので、明治時代に燈籠が建てられたのだろうか。今は笠部と竿部だけになっている。

場所 東久留米市氷川台2丁目3-2

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2026年4月20日 (月)

金山森の広場の観音(東久留米市金山町)

東久留米市金山町(かなやまちょう)は昔は金山(こうやま)という字名だった地域である。黒目川左岸の斜面に広がる地域であり、一般的に金山と呼ばれるのは鉱山があったり、鍛冶屋がいたりしたことに由来するが、この土地の起源は不明。ただ、氷川神社の前の坂は昔から金山坂と呼ばれているらしく、古くからの呼び名であることは違いない。

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金山坂の少し東側に武蔵野の森を保全したエリアがある。「金山森の広場」というこの場所は自然豊かな雑木林が残されており、東久留米市が保全に努めている土地のひとつである。市ではここ以外にも前沢、柳窪、南町などに計5ケ所の森の広場を保全している。この金山森の広場の北側のネットの切れ目に角柱型の石仏がある。

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かなり摩滅はしているが、正面には十一面観音像が陽刻されており、「十一面・・」の文字がある。造立年は文政9年(1826)とあり、左面には「武刕多摩郡 神山村」の文字がある。しかし観音像の頭部にはかすかに馬頭らしき造形もみられるので、もしかしたら馬頭観音と混じって造られたのかもしれない。

場所 東久留米市金山町1丁目14番地先

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2026年4月17日 (金)

宝泉寺の石仏(東久留米市神宝町)

東久留米市にある宝泉寺は天台宗の寺院。創建年代不詳だが、寺伝によると承和5年(838)慈覚大師による創建とされている。慈覚大師は天台宗の比叡山延暦寺を開いた最澄の一番弟子で、当時の天皇から「大師」の号を受けたのは最長と慈覚(円仁)だけである。出身は下野国(栃木県)なので近いと言えば近いが、真偽は不明。

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宝泉寺の筋塀の線の本数は3本。そこそこの格式を持つ寺院だとわかる。ちなみに塀の改築は平成に入ってから。江戸時代は神山村の北部に位置しており、堂坂という小字だったようだ。歴史的にはそれ以前の寺の規模がどうだったのか気になるが、資料は見当たらなかった。

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山門入って右手に丸彫の六地蔵が前後2列に並んでいる。前側の六地蔵は新しいもので、平成19年(2007)12月の造立とある。後ろに並んでいるのが先代の六地蔵で、天保15年(1844)10月の造立である。「武州多摩郡神山村」の銘がある。

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六地蔵の手前にあるのが駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、青面金剛は頭が蛇頭で左手にショケラを下げている。造立年は文化9年(1812)11月。「多摩郡神山村 施主 志加野忠右衛門」の銘がある。資料によると、昭和の初めのころまでは神山二又の道路沿いに建っていたのを、宅地造成で宝泉寺に移したという。神山二又は宝泉寺の西側角だろうか。今は交通安全地蔵が祀られている。

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六地蔵と庚申塔の向かいには立派な六地蔵の六面幢がある。造立は文化9年(1812)11月で高さは1.6mほどある。上部には西國・秩父・坂東の文字もあるので観音信仰も同居しているようだ。基壇には「多摩郡神山村 施主志加野忠右衛門」の銘があり、向かいの庚申塔と同じ人物による造立のようだ。

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いちばん山門に近いところにあったのは、嘉永2年(1849)3月造立の丸彫の子育地蔵尊。基壇正面には「三界万霊塔」の文字がある。地蔵菩薩には三体の童子がしがみついている。神山村の念仏講中による造立で、周辺の村々の人々の協力もあったようだ。基壇には沢山の人名が記入されており、神山村念仏講中を中心に、八軒村、所沢村、栗原村、井草村、田無村、前沢村、亀ヶ谷村、西堀村、落合村、八石村、石神村、下清戸村の村名が読める。

場所 東久留米市神宝町2丁目13-9

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2026年4月14日 (火)

神山の地蔵尊(東久留米市神宝町)

都県境の野猿坂が境の道から西に分岐しているのが清戸道・所沢道の古道。分岐してまもなく北側に広い境内を持った覆屋根のある地蔵菩薩像がある。この地蔵菩薩像は東久留米市の指定文化財になっている。

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指定文化財なのできちんとした説明板も備えられている。地蔵菩薩自体は舟型光背型の地蔵菩薩立像で、造立年は元禄8年(1695)2月とある。「為寒念仏三歳頓證菩提敬願成就所」との記述があり、「武刕多麻郡神山村 木村半兵衛敬白」の文字が刻まれている。

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この地蔵菩薩は元は神山村と石神村の境の野猿坂にあったというので、庚申塔があるあたりだろうか。そこからここに移設されたらしい。神山村の人々が先祖の供養のために3年間寒中30日念仏を唱えて巡業する、いわゆる寒念仏を行ったことが分かる。東久留米市内で最も古い地蔵だと説明板に書かれていた。

場所 東久留米市神宝町2丁目3番地先

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2026年4月11日 (土)

石神三丁目庚申塔(新座市石神)

新座市栗原で清戸道と所沢道を合わせた街道を北へ進む。黒目川の蛇行の痕跡の地域を抜けると、現在の黒目川に架かる神宝大橋を渡る。その先で北上する清戸道・所沢道は左へ曲がり、真北へ伸びる都県境の道と分岐する。この分岐点の少し南に小さな堂宇がある。

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庚申塔の祀られた堂宇の前の道は野猿坂という名のある坂道。東久留米の神山地区と新座の石神地区の区界の道でもあり、この庚申塔に由来して野猿坂の名前があるという。三猿に因んでいるのである。

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堂内の庚申塔は駒型で、三猿のみのシンプルな図柄。三猿の上部に「庚申供養攸」の文字があり、造立年は貞享5年(1688)7月と刻まれている。庚申塔の中では古いもの。下部には「武刕新倉郡石神村」の銘のほか、願主名が並んでいた。

場所 新座市石神3丁目13-23

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2026年4月 8日 (水)

駐車場の馬頭観音(新座市栗原)

所沢道と合流した清戸道を北へ進む。黒目川の神宝橋へ向かって緩やかな下り道。下りきった所には黒目川の無名の小さな水路の痕跡が残っている。どうやらこの水路はかつての黒目川の流程で、この辺りで旧黒目川は南北に分かれて複雑な流れになっていた。今の水路になったのは昭和の後期になってからである。

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旧水路を跨ぐ手前に駐車場があり、その一角に石仏がある。覆屋もなく野ざらしである。右の石仏は、丸彫の馬頭観世音坐像で、明治8年(1875)10月の造立年が刻まれている。台石には大きく「栗原」の文字がある。左の方は櫛型角柱型の石仏で、「馬頭観世音菩薩」の文字が正面にある。「武刕新倉郡石神村」の銘がある。

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石神村は黒目川をはさんで栗原村の北側対岸の村だった。栗原村と石神村の関係は位置的なものだけなのかどうかは分からないが、江戸時代から明治時代になった時に、片山十か村と呼ばれた野寺村、中沢村、十二天村、下中沢村、下片山村、石神村、原ケ谷戸村、辻村、堀ノ内村、栗原村の10村が片山村と合併し、昭和になって周辺との合併で新座町が出来た。清人道は牛馬運搬の時代の重要な街道であった名残りの石仏である。

場所 新座市栗原1丁目14

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