東久留米市八幡町にある旧延命寺跡、ここは江戸時代には前沢御殿(楊柳沢御殿)という将軍御三家尾張家の宿泊所であった。少し北側にある北浦通りはかつてここに流れていた黒目川支流の楊柳沢(ようりゅうざわ)の暗渠。東久留米一体のかなりの地域がこの鷹狩場に含まれていた。ここに延命寺があった江戸時代初期、寛永18年(1641)~延宝4年(1676)まで35年間前沢御殿が続いた。

旧延命寺の開山閉山については不詳。明治時代の地図には寺院の印ではなく墓地の印になっている。明治維新の際の廃仏毀釈で閉山に追い込まれたのだろうか。この辺りは前沢村という村で、延命寺は前沢八幡神社の別当寺ということからすると、神社が300mほど南にあることからこの辺りが前沢村の中心だったと思われる。

旧延命寺跡は広い墓所になっていて、その入口左の万年塀沿いに丸彫の六地蔵が並ぶ。造立年は宝暦10年(1760)11月、基壇にはそれぞれ「當村講中」の文字があり、施主中宿とある。かなり傷んではいるが、市内の六地蔵としては古いものとされる。

六地蔵と向かい合うように5基の大きな石仏が並んでいる。一番道路側は丸彫の地蔵菩薩立像、造立年は寛政7年(1795)11月。損傷摩滅が激しいが、基壇には「武蔵国多摩郡前沢(村)念仏講中建之」とある。左は天保年間の地蔵菩薩立像で、「施主 前沢村中女念仏講中 延命寺亮孝」とある。5人の戒名と没年月日が記されているが、市の資料では天保6年(1835)~天保9年(1838)のものとしている。

5基の中央は笠付角柱型の庚申塔。摩滅が甚だしい。日月、青面金剛像、三猿の痕跡は見て取れるが、その他の情報は分からない。隣の丸彫の座像は大日如来像らしい。「法印大僧都亮孝墓塔」とあるので、一番道路側の女念仏講中の地蔵を建立するのに尽力した僧侶の墓石だろうか。造立年は天保9年(1838)正月の没年と同じだろう。一番左の上部が欠損した舟型光背型の地蔵菩薩像についても文字はほぼ読めない。
鷹狩全盛期には賑わった村も徐々に衰退し、明治維新においては墓地を残して消滅した時の流れを感じる場所であった。
場所 東久留米市八幡町2丁目11
東京:時代の痕跡を歩く(ぼのぼのぶろく)
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