2017年9月19日 (火)

樹木谷坂(湯島)

湯島聖堂から本郷通りを西に進み、ホテル東京ガーデンパレス手前を右折すると、蔵前橋通りまでの短い下り坂。 距離はわずかだが、樹木谷坂の名の付いた坂道である。 散歩していても見逃してしまいそうな脇道だが、短い坂の途中に説明板がある。

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説明板には、「地獄谷坂とも呼ばれている。この坂は東京医科歯科大学の北側の裏門から本郷通りを越えて、湯島1丁目7番の東横の道を北へ新妻恋坂まで下る坂である。そして、新妻恋坂をはさんで横見坂に対している。
 『御府内備考』には、「樹木谷3丁目の横小路をいふ」とある。(中略) 徳川家康が江戸入府した当時は、この坂下一帯の谷は樹木が繁茂していた。その樹木谷に通ずる坂ということで、樹木谷坂の名が生まれた。地獄谷坂と呼ばれたのは、その音の訛りである。
 なお湯島1丁目の地に、明治14年(1881)渡辺辰五郎氏(千葉県長南町出身)が 近代的女子技術教育の理想をめざし、和洋裁縫伝習所を創立した。その後伝習所は現東京家政大学へ発展した。」と書かれている。

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江戸時代の初期、坂上のこの辺りは桜の馬場と呼ばれた草原だった。 湯島聖堂ができるい以前の話である。今の東京医科歯科大学の辺りである。 現在はビルの谷間の路地の風景。坂下西側にはおりがみ会館がある。 最近孫娘が折り紙に凝っていて、次にこの辺りを歩くときは立ち寄ってきれいな折り紙を入手しようと思っている。

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湯島坂(湯島)

中山道は日本橋を起点にまず北上し、神田を通って昌平橋で神田川を渡る。 橋を渡ってから左折し、神田明神を右に、湯島聖堂を左に見て坂を上って本郷へと向かう。 この坂が湯島坂である。 江戸時代の湯島坂は神田明神の手前で明神の参道の脇の道へ入り、現在の御茶ノ水インホテル裏から再び湯島聖堂前に戻って現在の17号線本郷通りになる。

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写真は神田川にかかる昌平橋。 最初の橋は寛永年間(1624~1644)に架けられた。現在の煉瓦橋は昭和3年(1928)のものである。 橋を渡ったところで川沿いに上るのが相生坂(昌平坂)、その一つ先で左折するのが中山道の筋。 曲がると間もなく上り坂に。 湯島坂である。

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現在は大通りだが、江戸時代は幅も狭く、かなりの急坂だったという。 また以前は柳並木だったという話も聞く。 今は銀杏並木である。 この周辺の文京区と千代田区の区境はとても複雑で、明神の氏子領域の絡みなどいろんな可能性がありそうだが、少なくとも神田明神前で区境がむかしの中山道の路地になっているのは、中山道の名残りと言えそうだ。明治の後半に路面電車を通しているが、神田明神まで張り出していた東京師範学校の敷地を削って、まっすぐな電車道にしたのではないかと推測している。

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江戸時代の湯島聖堂はもっと広くて、今の東京医科歯科大学までが聖堂内だった。その後聖堂の西半分は東京師範学校になり、昭和に入ってから医学校に変わった。 湯島坂の別名は本郷坂、明神坂。 明神と湯島聖堂に挟まれて本郷に向かうのだからどれも間違いではない。

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2017年9月18日 (月)

昌平坂(湯島)

湯島聖堂の脇、秋葉原側の路地が昌平坂。 ただ、相生坂で書いたように、どれが昌平坂かという点では若干の混乱がある。 地形的には湯島聖堂の敷地は本郷台地の東の崖線に沿っており、伊達政宗が掘削した神田川放水路の最下流左岸。 聖堂の東端は7mと低く西端は18mと高い。 敷地内で11mの標高差がある。
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昌平坂の高低差は8mほど。こちら側にも築地塀が続いていて石垣もいい景色になっている。坂上近くに説明板が立っている。
「湯島聖堂と、東京医科歯科大学のある一帯は、聖堂を中心とした 江戸時代の儒学の本山ともいうべき「昌平坂学問所(昌平黌)」の敷地であった。そこで学問所周辺の三つの坂を、ひとしく「昌平坂」と呼んだ。この坂もその一つで、昌平黌を今に伝える坂の名である。(後略)」 と書かれている。
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坂の南端には『古跡昌平坂』という石柱が立っている。 いっぽう北端角には石柱の根元はあるが地面15㎝ほどの所で折れて逸失してしまっている。 折れたのはいつかわからない。 15年前には折れていた。 さらに不思議なことだが、15年前の折れた石柱と今の折れた石柱の場所が違うのである。 向きも違っている。 折れたまま掘り起こして再び埋め戻したようだ。
坂上の大通りは国道17号線本郷通りの湯島坂。  かつての中山道である。
 

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2017年9月17日 (日)

相生坂(昌平坂) (湯島)

御茶ノ水駅の聖橋口を出るとすぐに聖橋が神田川を跨いでいる。 そのまま線路沿いを神田に向かって下る坂と川向こうの湯島聖堂と神田川の間を下る坂を合わせて相生坂と呼ぶ。 江戸っ子は坂が平行に並んでいる場合や、U字型に向こうの坂とこっちの坂で対峙する場合にこの相生坂という名前を付けることが多い。 この坂は別名を持っていて、どちらかというと昌平坂という名の方が通っている。または団子坂と呼ぶ場合もある。

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聖橋から見下ろす相生坂の下には地下鉄丸ノ内線が地下に潜り込むトンネルの入口がある。その下の神田川は徳川家康の命により伊達政宗が台地を切通して流した旧江戸川(神田川)で、縦に複雑に絡んだ歴史が面白い。
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相生坂真上から見下ろすと、湯島聖堂の築地塀(ついじべい)が見事。 どの角度から見ても破たんしない秀逸なデザインで恐れ入る。 築地塀は増上寺や赤坂の報土寺で見られるが、ここの物が一番美しいと思う。
この築地塀は江戸時代の画家もお気に入りだったようで、安藤広重の『名所江戸百景』の中には夏と冬それぞれの昌平橋と昌平坂(国立国会図書館版)がある。 夏版は梅雨時期だろうか、湯島聖堂の築地塀がはっきりと描かれているし、冬版にもやや遠景になるがきちんと描かれている。 広重の絵を見るとこの坂は相当に急な坂だったように見える。
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湯島聖堂は孔子の儒学の振興を図るために徳川五代将軍綱吉が建てた昌平坂学問所である。 江戸時代の大学のようなもの。 関東大震災で倒壊し、今の孔子廟などはそれ以降の建築で、鉄筋コンクリート製である。
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坂下に相生坂の説明板がある。「相生坂(昌平坂)…神田川対岸の淡路坂と並ぶので相生坂という。『東京案内』に、「元禄以来聖堂のありたる地なり、南神田川に沿いて東より西に上る坂を相生坂といい、相生坂より聖堂の東に沿いて、湯島坂に出るものを昌平坂という。 昔はこれに並びてその西に一条の坂あり、これを昌平坂といいしが、寛政中聖堂再建のとき境内に入り、遂に此の坂を昌平坂と呼ぶに至れり」 とある。 そして後年、相生坂も昌平坂と呼ばれるようになった。 昌平とは聖堂に祭られる孔子の生地の昌平郷にちなんで名づけられた。」 と書かれている。
何だか紛らわしいが、相生坂と昌平坂の角に古跡昌平坂という石柱がある。 これもどっちの坂とも取れる位置に立てられているのが困りものである。

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2017年9月16日 (土)

バッケの坂(中井)

落合村中井の最後の坂はバッケの坂(坂上通り)。 この坂もまた新宿区の通称通り名にリストアぷされた坂道のひとつ。 坂下は妙正寺川。 そこから目白学園に沿って上る。 坂上でごりょう坂が出合う。

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坂の標柱には、「この地域の斜面は古くからバッケと呼ばれており、この坂は坂下のへの近道であったため、バッケの坂と呼ばれていた。 大学に向かう道路と思ったが、調べれ見ると明治期からあった道らしい。

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坂上にはごりょう坂通りの標柱があるが、バッケの坂の標柱は下にあるだけである。 バッケというのは崖のことで、武蔵野ではハケ、バッケなどと呼ぶことが多い。 ここでは坂下にある川沿いの運動公園が、昔はバッケが原という野原だったころから、バッケへの近道という意味でついた名前。

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ごりょう坂(中井)

中井御霊(ごりょう)神社の正面に接続するのが八の坂であるのに対して、神社の西側を上るのがごりょう坂。 御霊神社の裏だからごりょう坂という直結命名である。 ただ正面の道ではないところが面白い。

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坂は直線的に西から東へ上ると直角に曲がり北へ上る。 曲がったところが御霊神社のまさに裏手である。 この道が開通したのは、60年代か70年代の高度成長期の頃。 この辺りは東京オリンピックの時代にはまだ開発されていなかった。
Dscn4893角を曲がると再び直線の坂道。 右側の樹木がある部分が御霊神社。 坂上の向こうには目白学園の校舎が見える。 途中には御霊神社の裏階段があるが人ひとりがやっと通れるほどの狭い階段である。
Dscn4894「中井地区の鎮守である御霊神社に面している通りのため、通りにこの名称がついた」と新宿区のHPには記されている。 安産守護子育ての神様とされる。 この神社も台地の際にあることは例にもれず、しかしこの裏道はほんの数十年の歴史のみである。

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八の坂(中井)

番号坂の最後は八の坂。  江古田から南流してきた江古田川は哲学堂の上流で妙正寺川に合流し、妙正寺川は合流点から北東向きの流れを南向きに変える。 その流れが新井薬師のある上高田の台地に阻まれて東流に転ずるが、北側の台地の西端に御霊神社がある。

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八の坂の勾配は隣の七の坂とほぼ同じパターン。 坂上が御霊神社の鳥居脇になる。 しかしこちらは神社からすると裏道脇道で、開通したのも昭和になってからである。 坂上の御霊神社は静かで落ち着く神社である。

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落合村中井の鎮守だけに古い石塔などが本殿の裏手にあったりして、興味深い。 庚申塔には宝暦八年(1758)と刻まれていて、裏のごりょう坂に出る小さな階段がある。 本殿前の狛犬は正徳五年(1715)に下落合村の氏子によって奉納されたもの。 狛犬としては現存するものでは都内最古である。

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坂上からの景色。坂の舗装が一般的な〇窪みのすべり止めでなく、スリットになっているのは珍しい。 個人的には〇よりもこっちの方が好みである。

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七の坂(中井)

七の坂は、文字通り六の坂と八の坂の間で、この坂も東西に走る御霊神社の参道までの坂道である。  大正時代にはなく、この辺りはまだ崖線の林の中だった。 昭和になって、この落合崖線にそって家が建てられるようになり、参道へ接続するこの坂道と西隣の八の坂が開通した。

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七の坂は「しちのさか」ではなく「ななのさか」と読む。 坂下の東側の住宅のブロック塀に古びたブリキ板で「七の坂」と書かれている。 坂は途中の辻から急に勾配を上げる。 この辺りは妙正寺川が川の流れを湾曲させている部分で、川のカーブの内側に当たるため、四の坂辺りよりも傾斜の緩やかな崖線になっている。 おそらく手前の区画は宅地造成時に多少削ったのだろう。

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坂上から見下ろすと、坂下は接続道路の向こうが即西武新宿線。 積雪時にスリップするとそのまま線路に突っ込みそうである。 坂上はふたたびなだらかになり丁字路になる。

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坂上の民家にある白樫の樹に町会で作ったブリキ看板が巻いてある。 七の坂「上」とある。 これは昭和35年頃に町会が坂名を付けてから設置されたもので、この町会の坂に対する愛着が伝わってくる。

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六の坂(中井)

六の坂は明治以前からある道。  五の坂と同様だが、不動谷から前谷戸を経由して御霊神社へ向かう台地の上の道から妙正寺川の低地へと多くの人が上り下りしてきた。 明治初期の地図では、五の坂周辺が茶畑で、六の坂周辺は普通の畑と描かれている。 家は坂上の台地の道にしかない。

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坂下は東側角の家のガレージ脇にある、昔町内会で設置した手書きの坂名板があって、落書きにイジメられながらも健気に残っているのがうれしい。 緩やかに曲がりながら高度を上げていくいかにも昔からの道っぽいところがいい。

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坂上西側は中井御霊神社の参道の東端。 細い石塔が建つ。 御霊神社は「ごりょうじんじゃ」と読む。創建は不明で、古くから落合村中井の鎮守であった。 こういう村の神社は人の営みが始まった頃から続くものが多く、東京都内にも数多あるが、創建が不明なものが意外に多い。

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五の坂(中井)

五の坂は傾斜、景色、曲がり具合ともに特出したものがない坂ではあるが、大江戸線中井駅と坂上の目白大学を結ぶ最も短いルートの一つのため、学生(主に女子大生)が歩く坂になっている。 こういう坂は写真を撮りにくい。

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昔、町会で設置したブリキの看板が民家の壁にひっそりと残っている。 これが残っているのは、五の坂、六の坂、七の坂の3坂だけになってしまった。その中でも五の坂のこの残り方がもっとも心に残る。 この民家は「亜細亜電機製作所」と玄関に古びた表札風の木板があって、まさに戦後日本の生き残りという感じがするのだ。

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坂上の民家には大谷石の石垣と板塀、植木と土手というこれもまた素敵な景色がある。 坂道は道だけでなく、そこに立ち並ぶ建築物の景色がその魅力に加算される。 昭和ノスタルジアに惹かれやすいという私の世代的な志向もあるだろうが、こういう道はやはり歩いていて楽しいうえに落ち着くのである。

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2017年9月15日 (金)

四の坂(中井)

四の坂は坂上からアプローチする。 中井の数字階段シリーズの中では唯一の階段道。 北側から進むと「この先階段あり、車両通行できません」の看板がある。 道は少し下り始め、その先には頑丈な車止めが2本立っている。

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四の坂の階段は樹木に覆われて気持ちのいい日陰になっている。 坂の西側は新宿区立林芙美子記念館。  『放浪記』 『浮雲』などを書いた林芙美子が生前に住んでいた屋敷が保存されている。

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坂下から振り返ると、なかなかの角度の階段。 階段下にある標柱は林芙美子記念館の入口である。 屋敷の竹林が美しい。 四の坂を挟んだ東側は四の坂テラスという不思議な集合住宅。 なかなか洒落ていて個性的だと思ったら、11人の建築家によるプロポーザルコンペで木立の家をテーマに長谷川逸子氏が受賞して建設になった28戸のタウンハウス。

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昔の地図を見てみると、四の坂の歴史は意外と長い。 大正の初期にはこの辺りに坂が開かれている。 その坂下に林芙美子が居を構えていたわけだが、相当な急坂だったのだろう。 昔の景色を見てみたいものである。

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2017年9月14日 (木)

三の坂(中井)

三の坂は中井町の町会が発足後つけられた坂名である。 昭和35年頃か。周辺が開発されたのは関東大震災以降で、大正以前は崖線付近は針葉樹が植えられ、台地上は何もなかったようだ。

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以前は紺色の標柱はなかったが、例の如く新宿区の通称道路名決定を受けて紺色の標柱が新設された。 それ以前はというと、左のコンクリートが大谷石の石垣でその上の金網に地元の方が手書きした三の坂というブリキ板が張り付けてあった。
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坂上は明るい感じがする。 やはり坂上の台地の戸建ては小奇麗でそれなりのお金持ち感がある。 こういう坂の家はどの家もいい景色を眺められるから、憧れの対象でもあるだろう。

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2017年9月13日 (水)

二の坂(中井)

二の坂である。 とにかく順番に歩くのだが、歴史的な坂道ではなく、地元になじんだ坂ということで、新宿区が平成になってまとめた坂である。 ただし二の坂には蘭塔坂の別名があり、多少は歴史もありそうだ。「かつてこの坂の途中に墓地があり,蘭塔と呼ばれる卵形の塔婆があり,多くは禅僧の墓標として用いられた。」と標柱に書かれている。

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古い地図を見てみると、明治期にはすでに道があった。 明治末期には車道と呼べるほどの道になっていたようだ。 この地域が中井と呼ばれるようになったのは大正末期、ちょうど昭和に時代が変わる頃からである。 当時は落合村から落合町に昇格したばかり。

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東京市に併合されたのはそれから数年後、昭和の初期である。 その時にいったん中井の地名は消え、下落合となる。 中井が復活したのは、東京オリンピックの翌年だった。

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坂上には獅子吼会という寺院がある。 法華宗の寺院だ。シシクカイと読む。 坂下は農地や野原だったが、この坂上のこの寺院辺りからは目白文化村の住宅地になっていたようだ。

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2017年9月12日 (火)

一の坂(中井)

中井地区には東から一の坂、二の坂と並び、八の坂まで名前の付いた坂道がある。 一の坂は一昔前まで、山手通りの改修以前は山手通りから直接入れる坂だった。 山手通りが拡幅したため、きついUターンをしてから上る車道に代えられた。

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歩道部分は山手通りから階段で登るように変わってしまった。 自転車用のスロープもついているが、コンクリートの壁に圧迫されそうである。 昔の坂道は石垣があって風情があったものだが、無機質でつまらない景色になってしまった。

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階段を上ると、車道と合流する。 そこには新宿区が建てた標柱がある。特に説明は記されていない。2009年に新宿区が街の通称通り名を募集して立てられた標柱である。 中井町が発足して昭和35年頃に町内会でつけられた坂名で、八の坂までは同様のいきさつ。

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ここも坂上からは新宿の高層ビル群が眺められる。 戸建て住宅が多く、庭の緑もたくさんあって、坂上の雰囲気はいい。 明治時代はこの斜面は針葉樹の森、大正期になって杣道が開かれ、関東大震災後に住宅開発が一気に進んだ(目白文化村)。

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2017年9月11日 (月)

山手坂(中井)

振り子坂の坂下と分けるように西に上って行く急坂が山手坂である。 坂そのものは昭和になってから開かれた。大正時代の地図ではここは谷と台地の間の崖のようなものだった。 2009年に新宿区が設定した道路通称名である。

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山手通りが開通する以前から住宅が立ち並んでいたようだ。 目白文化村の一角として、大正末期から昭和初期にかけて開発された宅地と思われる。 新宿区の資料では、「山手通りへつながる坂道のため、この名称がついた。」とある。

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坂とは無関係だが、山手通りを挟んだ反対側に曳家加藤組がある。 曳家というのは文化財や古民家などをそのまま基礎から持ち上げて移動する日本の文化にはなくてはならない商売。 地震で傾いた家を戻すなどの工事もやっている。 日本曳家協会なる社団法人もあって、HPには曳家の面白い情報が載っている。

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2017年9月10日 (日)

振り子坂(中井)

環状六号線の山手通りを走ると中井駅は橋で跨ぎ、その後すぐに西側は切通のような崖になる。 中井通り(新井薬師道)から上ってきた六天坂の一本西側の道路が山手通りで分断されているが、山手通りが開通する以前はこの道は谷筋を通り振り子坂を上って前谷戸に繋がっていた。

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振り子坂の標柱は坂下に新宿区が設置した紺色の坂名のみの物だけである。 振り子坂と呼ばれるようになったのは大正時代から。 坂の断面が振り子状になっていたので、この名称がついたというが、前谷戸に向かって徐々に浅くなる谷の地形がU字型でそれを振り子と呼んだのではないかと私は推測している。

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坂は傾斜が出始めてからはほぼまっすぐ。  坂下標高は27m、坂上が34mなので、山手通りの反対側の見晴坂、六天坂よりも緩やか。 周りはほぼ戸建て住宅だが、樹木の生い茂るところには戦前の建築らしき素敵な民家があって目を止めてしまう。

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坂上は目白文化村として関東大震災後に開発された住宅地で、坂上周辺の民家は戦災で焼失してしまったようだが、前述の民家は焼け残ったことが記録にある。 当時から振り子坂の名前はあったようだ。

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2017年9月 9日 (土)

六天坂(中落合)

見晴坂の一本西側の坂道が六天坂。 見晴坂沿いのマンションが見晴坂の名前を付けているのに、六天坂沿いのマンションは坂上の一軒だけが六天坂の名を付けている。 悪くない名前だと思うのだが、不動産屋さんはお好みではないようだ。

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坂の名の由来は上の写真のお屋敷の門脇にある六天社。 ただ石川氏の『江戸道教坂道事典』、道家氏の『東京の坂風情』にはどちらにも見晴坂と六天坂が逆になっている。 彼らが間違えるのも考えにくいし、新宿区の標柱が違うとも言えないし、そうなるとこの六天社がここにあるのは合点がいかない。

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六天というのは、神仏習合の時代(平安~鎌倉時代)に第六天魔王を祀る神社として創建されたもので、300社以上があるが、最近は合祀されつつあるようだ。坂の標柱には、「大正時代に開かれた坂道である。坂上に六天の祠が建っていたため、六天坂と名づけられたという。」とある。 坂上の六天がなぜ今、坂下にあるのかは記されていない。

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坂下の標高は18m、坂上は35mと見晴坂と同じなのだが、こっちの方が緩やかに感じるから不思議である。 もちろんこちらの坂も坂上から新宿の高層ビル群を眺めることができる見晴らしのいい台地の端である。

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見晴坂(中落合)

市郎兵衛坂の坂上で新目白通りを南に渡り、交差点わきの路地を入って左に曲がると見晴坂の坂上に出る。 この辺りは新目白通りが開通する以前の昭和中期は農家がぽつぽつと建つのどかな斜面の農地だった。 地形的には東の谷である不動谷と西の前谷戸の谷に挟まれた狭い高台になっている。

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写真の右側は毛利農場というかつての農家が会社化したと思われる古めの家並み。左側はいくつかのマンションが立ち並び、農地転売で開発された風景。 マンションはそれぞれに「見晴坂」の名前を冠している。見晴坂の名は商業的にも有利なのだろう。

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坂の中腹と坂下に標柱がある。 「昔、この坂上からの眺望は素晴らしく、特に富士山の雄大な姿は抜群であったという。また坂下の水田地帯は古来より落合蛍の名所として知られた。坂名はこれらの風景に由来するものであろう。」と書かれている。 やはり富士山の眺望が不動産価値を押し上げているのだろう。

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坂下は住宅と商店が密集した古い商店街に出る。 この坂下の道はかつての新井薬師道である。 現在の名は中井通り。 坂上の標高が35mなのに対して坂下は18m。 見晴坂は一気に17mを下る。大正期の地図を見ると見晴坂と西隣の六天坂の間には大きな農家が一軒のみある。 おそらくこれがかつての毛利農場なのだろうと勝手に想像してみる。  落合台地の谷を見下ろす大きな農家の縁側で遠く富士を眺めることが出来たら素晴らしい。

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2017年9月 8日 (金)

市郎兵衛坂(中落合)

新目白通りが山手通りをアンダーパスでくぐる中落合二丁目交差点の東側にわずかに形を残している坂道が市郎兵衛坂である。 霞坂歩道橋から見下ろすと、大通りの脇ににょろっとくっついているような路地が見える。

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坂は写真の側から入ると上り坂。 新目白通りが開通する前は、この大通りの一部が坂の下半分だった。 妙正寺川から不動谷の斜面を斜めに上っていく道である。

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坂の入口と出口にそれぞれ標柱がある。「『豊多摩郡誌』によれば、「市郎兵衛坂、中井道、字不動谷と前谷戸との間にあり」と書かれている。坂名の由来についてははっきりしない。この坂にゆかりのある人名をとったものと思われる。」と書かれている。

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関東大震災の後、この辺りに住宅開発が進み「目白の文化村」と呼ぶ開発で一気に民家が増えた。 震災以前はほとんどまばらにしか家がないような場所だったが、戦前の地図には一面の住宅の張り付きが見える。戦後しばらくして環状六号線の山手通りが開通したが、新目白通りができたのはかなり後になってからだった。

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2017年9月 7日 (木)

霞坂(中落合)

西坂上の最初の路地を左折する。 現在大同特殊鋼の寮を建替える工事が進んでいる。その細路地をそのまま進むと途中から道は下り坂になる。 この道は明治末期から大正時代の初めにできた新坂だが、杣道は江戸時代からあったようだ。

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坂道はS字カーブのようにくねりながら下っていく。坂の途中に標柱がある。「明治時代末に開かれた坂で、『豊多摩郡誌』には、「大字下落合里俗中井より小学校前へ開穿(かいせん)したる新坂なり。」とある。この坂下は一面の水田だったので、春霞のたつのどかな田園風景が美しかったという。」と書かれている。

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小学校というのは坂上にある落合第一小学校だろうか。 明治後期の地図にはすでに小学校は記載されている。 調べてみると明治25年(1892)の開校とあるが、徳川家の敷地にあり、明治31年(1898)に今の場所に移転した。当時の住所名は下落合不動ヶ谷。  ただ明治時代は小学校の西側に細い道が谷下である不動谷と坂上を結んでいるのみだった。 それが大正期の地図になると小学校の東側の斜面にも道の線がついている。

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坂下の新目白通りと西側の山手通りで現在は分断されているが、昔は不動谷が新目白通りの筋に切れ込み、住む人もいない台地下だった。 坂下には通りを渡る歩道橋があり、かすみさかほどうきょうとある。

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2017年9月 5日 (火)

西坂(中落合)

聖母坂下の下落合駅前交差点は新道旧道入り交じった六差路。 西北に入っていく路地が西坂の入口。 くねくねと曲がりながら高度を上げていく、いかにも昔の道筋である。 聖母坂通りのある場所には大正時代までは道がなく、その谷筋は徳川別邸の敷地になっていた。

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坂の上下にある標柱には、「西坂の名は江戸時代後期の絵図に認められる(堀江家文書「下落合絵図」)。『豊多摩郡誌』には、「西坂、新宿道、字本村と字不動谷との間にあり」とある。かつて坂上にあった徳川男爵邸の牡丹園は、盛時に一般公開され、落合の名所の一つになっている。」と書かれている。 別の記録だと菊の時期に庭を解放したとあるが、どちらも事実だったようだ。

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今は徳川邸もなければ牡丹園もないが、坂とマンションの間の樹木からわずかにその雰囲気が残っているように感じられる。 この坂の上の西坂公園のところで分かれる道もこの西坂も、江戸時代からある古道である。 昔はこの坂が落合村と中井村の村境になっていた。

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明治の末まではほとんど杣道だったようだが、今は整備された明るい坂道である。 昭和の記録でも薄暗い坂道だと書かれている。 字本村の西の端にあるから西坂と呼ばれるようになったと伝えられるが、字中井からすると東になるので、中井の人々も西坂と呼んでいたかどうかはいささか疑問である。

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2017年9月 4日 (月)

聖母坂(落合)

聖母坂を境に東は下落合、西は中落合になる。 南に行くと上落合、中落合の西側に西落合。 どうもきれいな区分けではないように感じる。 古い地図を眺めていてふと気が付いた。 明治の地図には上落合村と下落合村しかない。 川の上流が上落合で、下流が下落合なのだ。 そこはなるほど合点合点。 西落合というのは、最近になってつけられた地名なのである。

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聖母坂は妙正寺川の支流の沢が落合台地を削った谷の道である。 かなり新しい坂で、坂上の西側にある聖母病院にちなんで付けられた行政的な坂名のようだ。

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坂の先には西新宿高層ビル群が見える。緩やかだがとても長い坂である。  この坂は完全な自動車用道路で、大正時代には久七坂と西坂に挟まれた窪地で池になっていた。 この坂あたりから西側は明治から戦前までは徳川邸の広い敷地だった。

今も西坂周辺には徳川の名残りがある。

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2017年9月 3日 (日)

久七坂(下落合)

下落合の坂ではもっとも西にあるのが久七坂。 薬王院を出て西に向かうと、下落合弁財天が奥まったところに小さく鎮座している。 社はかなり傷んでいるが、逆に歴史を感じさせる。弁財天の足元には湧水らしき池がある。裏手には下落合横穴墓群跡(おうけつぼぐんあと)の説明板があるが、直接見ることはできず、新宿歴史博物館に資料があるそうなので確認してみたいと思う。

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坂の上下にある標柱には、「『奥多摩郡誌』には、もとは田んぼへ行き来する為の道で、急な坂であったと記されている。 坂名はゆかりのある村人の名にちなむものであろう。」と書かれている。 今でも十分急な坂であるが、江戸時代はもっと急だったのだろう。

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坂の途中は左右とくねっている。 昔の妙正寺川と神田川は坂下の下落合駅付近で合流していた。 崖下は豊かな土壌の田んぼだったはずである。新宿区史の資料には、「中井の辺から落合の台地を流れる妙正寺川の周辺は一面の田だったし、少し高くなったところは畑、他は山だ。山だといっても柴などの雑木が大部分で薪を拾っていた。」という話が残っている。

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妙正寺川はかつては蛍の名所だった。『江戸名所図会』には、「この地は蛍に名あり、形大いにして光も他に勝れたり。山城の宇治、近江の瀬田にも越えて、玉の如く星の如くに乱れ飛んで、光景も奇とす。夏月夕涼多し。」とあり、江戸時代はこの蛍を愛でに人々が集まった。

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2017年9月 2日 (土)

おばけ坂(下落合)

江戸時代の坂ではないが、意外と古く明治の後期の地図には破線で道があったことが記されている。 おそらくは崖線を登り下りする杣道のようなものだったのだろう。明治期は薬王院側ではなく、七曲坂の坂下近くに出る道筋だったようだ。

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今回は坂上からアプローチした。 車両通行不可の看板が出ている。左の民家の竹塀が気に入ったが、いつまでもある訳ではなかろう。 傾斜はかなり急である。

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途中でバイクしか通れないくらいの道幅になる。 西側には林が広がっている。 「下落合野鳥の森公園」で、うっそうと広葉樹の茂る武蔵野の名残りである。 平成4年(1992)に開設された区立の公園である。

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この公園ができる前は、もともと農家の庭の一部だった。 薬王院に隣接していて、実際の広さよりももっと広く感じる。 坂を下りきると公園の門に石碑で「新宿区立下落合野鳥の森公園」とあり、訪問時も子供たちが網をもって虫を追いかけていた。

薬王院は正式名を瑠璃山薬王院医王寺という。 寺の名前は山号・院号・寺号もしくは、山号・寺号を正式名とする場合があって、通称で呼ぶときに院号だったりするとちょっと面倒な感じがする。稀に寺号・院号の場合があったりもする。

坂下は再び新井薬師道へ出る。

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七曲坂脇の無名の坂

七曲坂の東側に素敵な坂道がある。「七曲坂脇の無名の坂」と呼ぶことにしたい。開通したのは昭和の後期の住宅開発時期と思われる。昭和30年過ぎの地図には載っていない。この落合崖線にはそういう坂が他にもいくつかある。歴史こそないが風景はいいという坂道たちである。

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落合崖線の上にある落合中学校の校庭の三角点の標高は35.7m、それに対して妙正寺川の川岸の標高は11mで、高低差は24.7mある。ビルにしたら6階建の高さになる。 当然坂上からの眺めはよく、新宿の高層ビル群がきれいに眺望に入る。

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昭和以前の地図を見ると、この辺りは針葉樹と広葉樹のマークに覆われている。 武蔵野の林が広がる斜面だったのだろう。 今は高級住宅街になっている。

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七曲坂(下落合)

七囲坂(ななめぐりざか)ともいう。 もともとはもっと急でくねった坂道だったが、明治37年(1904)に整備されて今のルートになった。 さらに古い話としては、源頼朝が和田山に陣を構えた時にこの七曲坂を開いたとある。 和田山というのは今の哲学堂の辺りで、鎌倉幕府の御家人である和田義盛の居館があった場所と思われる。
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坂の上下に標柱がある。それによると、「折れ曲がった坂であることからこの名がついた『江戸名所図会』。古くは源頼朝が近所に陣を張った時、敵の軍勢を探るためにこの坂を開かせたという伝説がある(『遊歴雑記』)。」とある。
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近代に均されたといっても傾斜はかなりある。左右に林が残っているのが素晴らしい。この坂もまた武蔵野の雰囲気を残している。以前は竹藪も残っていたようだが、今はかなり住宅が張り付いている。
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坂の上部の西側にある大きなマンションは目白御留山デュープレックスという。デュプレックスというのは、ホテルのスイートルームなどで室内に階段をつけて複数のフロアを占有する形をいうが、そういう高級なマンションなのだろう。しかしその土手のコンクリート壁には見事なまでのツタが絡めてあり、坂の雰囲気に貢献している。
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この坂上を昔は鼠山と呼んだ。『江戸名所図会』の中に、「七曲坂鼠山の方へ上る坂をいふ。曲折ある故に名とす。」と書かれている。
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七曲坂の坂下、新井薬師道との辻には石地蔵がある。 とてもいい雰囲気を醸し出している。 向かいは下落合氷川神社だ。神社の由緒によると、2400年以上前からあったとされている。しかしその頃にどういう信仰があったのかはわからない。とはいえ、妙正寺川と神田川の合流地点が近いので、数千年前から人間の営みがあったことは疑う余地がない。
 

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相馬坂(下落合)

下落合は豊島台の西側に位置する武蔵野台地の一部である。台地の南側を削ったのは神田川と妙正寺川。 二つの川がほぼ合流する地点には東京の水道の中心的な役割を果たす落合水再生センターがあり、下落合駅周辺は東京の水道の拠点と言えそうだ。 その北側の二つの川によって削られて崖になったところにいくつもの坂がある。

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相馬坂は近衛坂と同じく新井薬師道から上り坂になる。 この新井薬師道は高田村(早稲田周辺)から中野の新井薬師へ続く古くからの道で、崖線の下をなぞるように走っている。人形町今半ケータリングサービスの高田馬場センターの辻から上って行くと、頭上には豊かな緑が広がる。この辺りは大正期まで落合村と呼ばれる武蔵野の林の中だった。

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坂の標柱には次のように記されている。「この坂に隣接する「おとめ山公園」は、江戸時代には将軍家御鷹場として一般人の立入りを禁止した御禁止山(おとめやま)であった。この一帯を明治時代末期に相馬家が買い取って屋敷を建てた。この坂は新井薬師道から相馬邸に向け新たに通された坂道であるため、こう呼ばれた。」

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このおとめ山公園には土地の記憶がたくさん残されていて散策して楽しい。 この崖線を落合崖線と呼ぶ。昭和初期に相馬家が売却した時、地元の人々がこの林を残してほしいと訴えたお陰で、この自然が今もまだここにある訳だ。 新宿区内唯一の自然湧水の池が林間にあり、芝斜面には相馬家屋敷当時の芝と松の庭園風景が残されている。 ただし区の管理する公園なので、夜間は閉鎖されている。

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上の写真は落合中学校の西南角にひっそりと立っている庚申塔。 彫られた年号を見ると元禄3年(1690)とある。 この辻は南の七曲坂から上ってきて、今の目白通りに出る落合崖線の下と上を結ぶ道標でもある。相馬坂ができる前はこの道しかなかったようだ。

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近衛坂(下落合)

新宿区と豊島区の区境に近い山手線の学習院下の新井薬師道ガードは2014年に真っ白なコンクリとで全体を塗り固められてとても清潔なガードになったが、個人的には昔の石組の方が好ましいと思う。鉄道の土台はやはり石垣がいい。

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そのガードの西側線路沿いの道も一直線の上り坂で土手が全面石垣だった時はなかなかの景色だったのだが、その土手までコンクリート壁になってしまいいささか落胆した。

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近衛坂はこの道ではなく、もう1本西側の細い道である。いきなり見上げるような傾斜で迫ってくるが、少し上ると右に左に斜めクランクになっていて、積雪時は坂途中の家に突っ込む人がいても不思議ではない。

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坂上に近づくと遠景を望むことができるようになる。山手線の線路が見え、頻繁に電車が行き交う。坂上をそのまま北進するとクランクが続いたのちに道の真ん中にケヤキの巨樹が出現する。旧近衛邸大ケヤキだ。

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かつて落合一帯は、華族・近衛家の所有する敷地であり、近衛町と呼ばれていた。地名が変わり、高級住宅街となった今も、近衛家の邸宅玄関先にあった欅の木だけが道路の中央に残されている。明治時代の政治家であった近衛篤麿は、この木を馬車で周ってから出勤するのがルーティンだったらしい。戦後、近衛邸の解体とともに切られる運命であった欅は、住民の嘆願により大切に保存されることになった。

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何となくこういう話は聞くと嬉しくなる。歴史を大切にすると、未来が開ける気がするのである。

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2017年9月 1日 (金)

蜀江坂(西新宿)

坂の途中にある標柱には、「かつてはこの辺りが蜀江山と称されていたためこう呼ばれる。蜀江山の由来は、天慶の乱の時、平将門(あるいは弟の将頼)が蜀江錦の衣の袖を落としたから、あるいは江戸時代に三代将軍家光が鷹狩りでこの地を訪れた時、紅葉の美しさを蜀江の錦のようだと称賛したからだという。」と書かれている。

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今の新宿西口エルタワーの辺りには、江戸時代春日局の下屋敷があった。江戸期はそこから北側に行ったところに丘があり、蜀江山と呼ばれ、蜀江台に上る坂を蜀江坂と呼んだという話もある。前述の平将門の伝説は江戸時代にはすでに伝説だっただろう。歴史の深い地域と言える。

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坂の中腹には新宿区立の蜀江坂公園という小さな公園がある。こういう公園名や小学校の名前に昔の地名が残っていたりするのは嬉しい。ちなみに青梅街道が神田川を渡る橋が淀橋なのだが、橋の脇にその由来が書かれていて興味深い。

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「『淀橋』の名は、江戸時代の三代将軍徳川家光が名付けたと言われている。古くからあるこの橋は、昔は「姿見ずの橋」とか「暇乞いの橋」と言われていた。この辺りで中野長者と呼ばれていた鈴木九郎が、自分の財産を地中に隠す際、他人に知られることを恐れ、手伝った人を殺して神田川に投げ込んだ。九郎と橋を渡るときには見えた人が、帰る時には姿が見えなかったことからその名がついた。 鷹狩りのためにこの地を訪れた徳川家光はこの話を聞き、「不吉な話でよくない。景色が淀川を思い出させるので淀橋と改めるよう」に命じ、これ以降その名が定まった。」

江戸名所図会の淀橋水車には橋が二つ描かれている。手前は淀橋と水車だが、向こう側の橋は別流で明治初期までは神田川は3本ほど流れがあったようだ。主流は蛇行して、洪水を繰り返していたものと思われる。当時は神田上水と呼んだくらいだから普段は清流だったはずである。

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2017年8月31日 (木)

成子坂(西新宿)

ヨドバシカメラの名前の由来は地名の淀橋である。 今の西新宿の高層ビル群の一帯から神田川辺りまでの広いエリアを明治後期は淀橋と呼んでいた。 しかしそれ以前は青梅街道以北が柏木村、青梅街道と甲州街道の間が角筈村というように、今でこそ高層ビルが数多立ち並ぶ副都心だが、かつては江戸の西のはずれの田舎だった。 江戸から西へ進む街道は、今の伊勢丹前、追分で青梅街道と甲州街道に分岐し、北側の青梅街道が神田川の谷に向かって下るあたりが成子坂になる。

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本来の名前は鳴子坂。 江戸の初期は道も狭く急峻で、百姓家が並んだ。ただ街道だけに旅人を鳴子で呼ぶ半農半商の店が多くあった。 鳴子はもとは農作物を守るために鳥を追い払う目的の鳴り物で、カチカチと音を立てる小さな羽子板のようなもの。 徐々に街道筋が農家から商売家に変わっていくと、客寄せの鳴子も使われなくなり、そのうち地名も成子に転化してしまった。 しかし古い街道だけに、高層ビルの間にある店舗には100年前後続くものもあったりする。

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成子坂下の交差点に東京都が建てた金属製の説明板があるが、落書きされて読むのにひと苦労する。 「豊多摩郡誌によれば、「成子坂は、成子神社前の緩斜路をいう。石地蔵は其南側にあり、年月を刻せず、古きものとも見えざるが、香火常に絶えず稚児を喪いしもの供養するところなるにや、傍に庚申塔数基あり、延宝8年(1680)、同5年(1677)の文字を読む、毎月11日、22日はこの石地蔵の縁日、また毎月25日は成子神社の縁日として夜店多く並び・・・」とあり、成子坂一円は非常に賑わったところだったことがわかる。」と書かれているようだ。

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坂の途中、旧柏木村側にあるのが成子天神である。 天神なので祭神は菅原道真公。 平安時代以前からここには天照大神を祀る神社があったが、延喜3年(903)に道真の家臣がこの地に成子天神を設立したという由緒。 社殿は戦争で焼失し、昭和41年に再建されたもの。

この地域には名物として明治期まで鳴子ウリなるものがあった。 マクワウリという小さいウリで、原産地は美濃の国の真桑村(大垣市の北にある本巣市の中心地)。 徳川幕府は真桑村から農民を呼び寄せ、府中の是政とここ鳴子に住まわせて瓜の栽培をさせた。 この瓜は根が浅く、土の乾燥に弱いので、神田川の流域で土地の湿り気の多いここは適地だった。 徳川幕府の土木工事は凄いものだが、農業に対する見地も大したものがある。

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2017年8月30日 (水)

高田八幡男坂・女坂(早稲田)

穴八幡宮の元の名前は高田八幡宮。 江戸時代は与力の射術の訓練のために的場が開かれ、流鏑馬も有名である。 康平5年(1062)に源義家が東国平定から凱旋の折、ここに兜と太刀を納めて八幡宮を祀ったのが始まりとある。

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江戸以前にこの辺りが戸塚村と呼ばれていたのは、兜塚が由来だと伝えられる。寛永18年(1641)南側の山裾を切り開いたところ、神穴が出現したことから穴八幡宮と呼ばれるようになった。将軍家にも保護され、牛込全体を氏子の域として認められ隆盛した。

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馬場下町正面の急な階段が男坂である。 平均斜度25度の階段は愛宕神社ほどではないが圧迫感がある。 しかしほとんどの人が女坂ではなくこの男坂の階段を上り下りしている。一方の女坂はひっそりと南側に付けられている。

高田馬場の地名の由来はもちろんここに馬場があってのこと。流鏑馬は享保13年(1728)に徳川吉宗が世継ぎの疱瘡の平癒祈願のために穴八幡宮に流鏑馬を奉納したのが起源。いまだに都内で伝えられている流鏑馬として有名である。さて「たかだのばば」か「たかたのばば」かについては混在しているが、地名的には濁るほうらしい。

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2017年8月29日 (火)

八幡坂(早稲田)

早稲田通りの馬場下交差点にあるのが穴八幡宮。穴八幡宮の別名(旧名)は高田八幡。1062年の創建から現在まで賑わいを保ってきた神社のひとつ。この神社と早稲田大学の間が八幡坂である。

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今は4車線歩道付きの大通りだが、この道は昔から沢山の人が行き交う街道だった。 坂の途中に東京都が設置した大理石の標柱がある。黒レリーフで作られている江戸名所図会はひどく傷つけられていてとても見られたものではないが、その下に彫られている文章は読めた。

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「坂名は穴八幡にちなんで八幡坂と名づけられたものである。 この地はもと高田と呼ばれ、八幡は高田八幡とも呼ばれていた。 昔の道は急坂で、坂の下り口、上り口には、いわゆる「立ちん坊」が立ち、荷車の暴走を止める手助けをして、賃金をもらっていたと伝えられる。 昭和39年12月、地下鉄早稲田駅が開業して、坂下の馬場下付近は賑やかさを増した。」と彫られていた。

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その江戸名所図会だが、上の写真である。真ん中を通るのが八幡坂で、緩やかな階段になっている。そして早大の場所には、聖天、法輪寺、水神社が並んでいる。この水神社の裏手にあったのが高田富士。 今、この水神社は都電荒川線早稲田駅南にある甘泉園公園脇にある。この神社の創建は941年で穴稲荷よりも古い。 千年以上も昔に早大キャンパス内の富塚の場所から始まった火除けの神社なのだが、戦災ではさすがに焼けてしまった。 しかし、ご神木の楠の根は残ったという。

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2017年8月28日 (月)

地蔵坂(西早稲田)

地蔵坂通りというのは地蔵がある(あった)からなのだが、ここも坂下に源兵衛子育地蔵尊がある。ただし江戸時代からの名称ではなく、2009年の新宿区の道路通称名の決定事案で確定した坂名。とはいえその決定事案は「地域で古くから使われている名称」を一つの条件にしているのでそれなりに昔から呼ばれてきたのだろう。

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西早稲田駅の北側の出口から路地を巡って坂上から下ってきたのだが、坂上は閑静な住宅地で、はてこの道はいつからあるのかと調べてみると、おおよそ明治の終わりころの地図には道らしき線があるのでその頃開かれた路地なのだろう。坂下の早稲田通りは江戸期から高田町屋として記載されているが、周りは殆ど畑になっている。

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坂の上下にある新宿区の青い標柱には、「この地に住んだ小泉源兵衛の功績を記憶し、享保の時代に源兵衛地蔵が安置された。」と書かれている。元禄の末頃、小泉源兵衛がここに住みつき、この周辺は源兵衛村と呼ばれるようになった。いわゆる名主だったのだろう。

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地蔵尊には庚申塔もあり、寛文13年(1673)の年号が刻まれている。馬頭観音などは明治以降のものだった。西早稲田商店街には親しまれている地蔵尊ではあるが、歴史も成り立ちも今の早大キャンパス辺りにあった水神社や穴八幡とはまったく別の、町内の地蔵様だったようだ。

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2017年8月27日 (日)

グランド坂(早稲田)

グランド坂は新しい坂である。 新しいと言っても昭和の初期くらいだから80年以上の歴史はあるわけだ。 グランドというのは現在早大中央図書館のある早大総合学術センターがある場所にあった戸塚球場が由来である。

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上の写真の左の大きな建物の敷地がそれで、明治35年(1902)に早大がスタジアムを設置、まだ日本野球の草創期であったが日本で初めての照明付きナイター球場だった。当時は大学野球や国際試合もここが中心だったが、大正15年(1926)に神宮球場が完成すると徐々に中心ではなくなった。

坂の上下にある標柱には、「戸塚球場(今の早大総合学術センター)のグランドから、六大学リーグ戦に向け練習に励む学生達の声が響いてくることからグランド坂と呼ばれるようになった。戸塚球場は昭和24年、早大野球部育ての親、安部磯雄氏の逝去により安倍球場と改称し、昭和62年まで存続した。」と書かれている。

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さすがに学生がグランド坂を縦横無尽に自転車で行き交うのはほかではあまり見かけない風景であるが、時代を遡ると明治の初めにはこの辺りは茶畑で、坂下は水田の広がる風景だった。時折神田川は洪水を起こし、それが実り豊かな農村(下戸塚村)に繋がっていたようである。 さらに江戸期に遡ると、茶畑の間には神社や寺が点々とあり、今の早大キャンパスの一部には水神社があり、境内には日本最古の富士講の富士(1779年築)である高田富士もあって、江戸期は江戸期で賑やかな場所だったようだ。昭和30年代に早稲田が大規模な施設拡張をした時期に高田富士は撤去されてしまった。 住民の反対もあったようだが、高度成長期ということもあり、押し切られてしまった感がある。

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2017年8月26日 (土)

夏目坂(早稲田)

夏目坂通りは通称通りで南は若松町、北は馬場下町の交差点までの間を呼ぶ。夏目漱石の生家がこの坂の途中にあった。坂下のやよい軒の前に夏目漱石誕生の地の石碑がある。漱石の父が自分の姓をつけて呼んでいたのが広まったと言われている。

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坂の上下にある標柱には、「夏目漱石の随筆『硝子戸の中』(大正四年)によると、漱石の父でこの辺りの名主であった夏目小兵衛直克が、自分の姓を名づけて呼んでいたものが人々に広まり、やがてこう呼ばれ地図にものるようになった。」と書かれている。

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坂下の交差点にある小倉屋という酒屋は漱石が子供の頃にはすでにあったようだ。またこの辺りを喜久井町と呼ぶのは、名主であった夏目家の家紋が井桁に菊で、それで夏目家のあるこの街を喜久井町としたという話を漱石は子供の頃に聞かされている。

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2017年8月25日 (金)

下戸塚坂(早稲田)

若松町から早稲田にかけては、牛込台地から神田川流域に下る分かなりの高低差がある。早稲田駅が11m、下戸塚坂下の喜久井町三叉路あたりが23m、坂上の若松町は35mある。この坂は下から見上げるのがいい。 徐々に勾配が増していく景色が見える。

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標柱には次のように書かれている。「江戸時代、この地は武家屋敷などで占められ、町名はつけられず、この坂も無名坂であった。明治五年(1872)下戸塚町となったことにより、この坂も町名と同じ下戸塚坂と呼ばれるようになった。」 とはいえ名前がついたのが明治時代に入ってからで、坂自体は江戸時代から続いている。 坂下には寺が並び、中腹から上は武家屋敷が並んでいた。

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坂の最後は石垣とビルで切通のようになっている。この道の一本東は、若松町から早稲田へ下る道は夏目坂通りという通り名。 坂の下部の早稲田駅近くが夏目坂だが、この一本西にある下戸塚坂も江戸時代は同じくらいの道筋であった。下戸塚坂の西側は尾張殿の戸山屋敷。その後陸軍戸山学校になる。現在は戸山団地の区画。坂下のいくつかの寺は江戸時代から続いている。
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坂上東側はワンルームマンションの建設工事をしていた。 60坪ほどの土地に11階建のワンルームマンションで34戸が入るらしい。 江戸時代の武家屋敷の土地に時代を超えて平成の長屋が建つような気がした。 平成の長屋は縦に長い。

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2017年8月24日 (木)

焼餅坂(牛込)

外苑東通りと大久保通りの交差点が市谷柳町。 外苑東通り筋は大昔は沢筋だった。 北に向かって標高が下がりやがて神田川に注ぐ小沢である。 この窪みが牛込台地を東西に分けている。 山伏町から外苑東通りに向かって西に下るのが焼餅坂で、江戸時代の切絵図には「ヤキモチザカ」と記されている。

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大久保通りは緩やかなカーブを描いて下っていき、交差点を過ぎると再び上る。向こう側の坂には名前はない。 坂上の山伏町は江戸期から続く町名。山伏(修験者)が多く住んでいた。ただ享保8年(1723)に火災で山伏町は焼失し下谷に移った。そのあとには武家屋敷が建てられた。

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坂の中腹に東京都が建てた金属製の説明板には、「昔、この辺りに焼餅を売る店があったのでこの名がつけられたものと思われる。別名赤根坂ともいわれている。新撰東京名所図会に「市谷山伏町と同甲良町との間を上る。西の方柳町に下る坂あり、焼餅坂という。即ち、岩戸町箪笥町より通ずる区市改正の大通りなり」とある。また「続江戸砂子」「御府内備考」にも、焼餅坂の名が述べられている。」と彫られている。

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大久保通りは明治後期に開通した道である。 それ以前は脇の斜め道が街道だった。 大久保通りが開かれたのは明治から大正にかけてで、都電の路面電車のための新道だった。今の新宿区役所前から若松町を通りここを東進し、神楽坂上から飯田橋という路線。今はその影もほとんどない。

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2017年8月23日 (水)

宝竜寺坂(牛込)

早稲田通りと外苑東通りの交わる弁天町から南へ歩く、今も寺はあるのだがビルの陰にひっそりとたたずんでいるので、意識しないと気づかない。南春寺はビルの寺になり、多聞院と浄輪寺はお屋敷の玄関のような入口になっている。外苑東通りの東側はすぐ裏が崖になっていて、奥の敷地に入るには階段か急な坂を上るしかなく、牛込弁天公園も同じように上ってから台地のようになっている。 そのまま少し進むと、左に階段道が現れる。

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宝竜寺坂である。別名を幽霊坂という。標柱には次のように書いてある。「昔この辺りは七軒寺町という寺町で、この坂の上に宝竜寺という寺があったためこう呼ばれた。また明治頃、寺の樹木が茂り、寂しい坂であり、幽霊が出るといわれたため、幽霊坂とも呼ばれた。」 江戸時代の切絵図では確かに寺は今の外苑東通り沿いに7軒並んでいる。 しかし宝竜寺はその7寺には含まれていない。 それどころか坂上の寺の名前は法輪寺とある。 法輪寺と宝竜寺、確かに響きは似ているが、同じ寺か違う寺かはわからない。

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現在はきれいなタイル張りの階段だが、昔の写真を見ると少しU字型に見えるコンクリートの階段道のようだ。坂下周辺は江戸時代は根來百人組の屋敷だったようだ。 江戸時代の鉄砲隊のひとつ。根來組、甲賀組、伊賀組、二十五騎組の4組があった。

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2017年8月22日 (火)

滝の坂(牛込)

牛込辺りの外苑東通りにはいくつもの名のある坂がある。 榎木町の裏道にあたる路地に滝の坂がある。 入り口には昭和ムードたっぷりの商店があって、コカ・コーラとヤマザキパンの看板の間にある電話の袖看板が素晴らしい。

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この「でんわ☎でんぽう」の看板、私が子供の頃はよく見かけたが最近はとんと見かけない。 ところが散歩しているとたまに見るから不思議である。 よく残っているものだと感心する。 この商店の路地が早稲田通り側の滝の坂である。

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坂を上ると東側に大願寺がある。 江戸時代、大願寺の裏手は小浜藩酒井家屋敷の西の端だった。 その庭にはとても大きな池があり、その池の水はこの西側にあった竹藪に流れ出していた。 当時はこの場所を薮下と呼んでいたらしい。大願寺の裏手にくねくねと曲がった細路地があるが、この辺りが竹藪から水が流れ出していた場所のようだ。 流れはそのまま北へ、そして神田川へ注いでいたと思われる。

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この大願寺の門前で年配の女性に道を尋ねられた。 多聞院に行きたいのだそうである。 多聞院は大願寺の路地の斜め向かいを入ったところにあるが、女性は昔この裏道から入った記憶があるという。 今の多聞院の入口は外苑東通り側にあることを告げ、こちら側の入り口はわからないというと表通りに回って行った。  おそらく昔は裏手から入れたのだろう。ところが裏の土地を切り売りしてしまい、住宅地になってしまって出入りが出来なくなったのだと思う。 寺も続けるのが大変なのかもしれない。

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2017年8月21日 (月)

袖摺坂(牛込神楽坂)

袖摺坂は残された坂という気がする。 別名を乞食坂というが、横関氏によると、乞食坂と付くのは寺院の多い土地の坂でその横町とか裏道にある。昔は寺社の門前は乞食の稼ぎ場所だった。毎日のようにどこかで縁日があって、それを転々として稼いだ。 そんな彼らが休憩したりする人通りの少ない路地が坂道だと乞食坂と呼んだようだ。 確かにこの袖摺坂の上は寺町で、そこから抜けて下ってくる道の途中が坂になっている。横関氏が昭和11年の坂の写真を載せていたが、山寺の境内に上る道のように雁木が埋めてある坂だった。

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坂の上下に標柱があり、「俗に袖摺坂と呼ばれ、両脇が高台と垣根の狭い坂道で、すれ違う人がお互いの袖を摺合わしたという(『御府内備考』)。」と書かれている。確かに石垣と黒塀に挟まれた階段は江戸情緒がある。ただし足元を見ると石のタイルになっていて興覚めしてしまうのだ。

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地形を見てみると牛込台地の真ん中を東から西に切れ込む谷筋が大久保通りになっている。  江戸名所図会の筑土八幡の絵をよく見てみると、参道下に細い川の流れがあり、橋を架けている。

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こういう事実を発見した時がこの坂道探訪の醍醐味である。 ただ江戸末期の筑土八幡下でこの川幅なので、袖摺坂あたりでは子供が跨げる程度の川幅だったかもしれないが。

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2017年8月20日 (日)

弁天坂(箪笥町)

都営大江戸線牛込神楽坂駅の真上にあるのが南蔵院龍福寺、境内には現在牛込聖天(大聖歓喜天)があるが、弁天坂の名前の由来になる弁財天は今はない。戦災で焼けてしまった後は再建されていない。 ものの本によると門前の大久保通りを弁天坂としているものがあり、さらに都の設置した弁天坂の金属製の説明板が大久保通りに立っていて紛らわしいが、石垣の上の側道が本来の弁天坂である。

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都の設置した説明板には次のように彫られている。「坂名は、坂下の南蔵院境内に弁天堂があったことに由来する。明治後期の『新撰東京名所図会』には、南蔵院門前に甘酒やおでんを売る屋台が立ち、人通りも多い様子が描かれている。 坂上近くの横寺町47番地には、尾崎紅葉が明治24年から36年10月病没するまで住んでいた。門弟泉鏡花、小栗風葉らが玄関番として住み、のちに弟子たちは庭続きの箪笥町に家を借り、これを詩星堂または紅葉塾と称した。」 都の説明板もよく読むと上の道路が弁天坂だとわかるが、何も大久保通りに立てなくてもとは思う。

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坂上から望むと、道は大久保通りにぶつかって右に折れるが、その手前で袖摺坂の階段が分かれる。 江戸時代の切絵図では坂下は階段になっているので、弁天坂と袖摺坂は一体であったのかもしれない。 ただ明治の地図ではすでに弁天坂と大久保通りは分かれていて、その西には牛込区役所があった。現在の牛込箪笥区民ホールの場所である。1947年(昭和22年)に牛込区は淀橋区、四谷区と合わせて新宿区になった。

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2017年8月19日 (土)

朝日坂(牛込神楽坂)

地下鉄東西線神楽坂駅の神楽坂口の近くにある「神楽坂KIMURAYA」というちょっと洒落たスーパーの角を南曲がると朝日坂に入る。この道筋は江戸時代は寺町で、いくつもの寺院が軒を連ねていた。

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今も数件の寺があり、町名も横寺町と江戸時代と同じである。坂の標柱には、「『御府内備考』には、かつて泉蔵院という寺があり、その境内に朝日天満宮があったためこの名がついたとある。明治初年、この辺りは牛込朝日町と呼ばれていた(東京府史料)。」とある。

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坂上北側の円福寺前には当時の祭りの様子を描いた銘板があり、江戸の祭りは花だというのがよくわかる。 坂上を南に左折すると袖振坂に向かう。

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2017年8月18日 (金)

地蔵坂(牛込)

早稲田通りは西進すると、牛込天神町で不思議なクランクをしている。右折すると江戸川橋通りとなり江戸川橋を渡って音羽に向かう。 このクランク、実は江戸時代からクランクだった。南側は小浜藩上屋敷、クランクの周りは御先手組の組屋敷で、江戸川橋通り側は天神町という町家の一角だった。

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これだけの大通りがその地形を消し去れないという事に、心の底からウフフと笑いたくなる心地よさがある。 ここから西は天神町である。クランクの所に標柱がある。「江戸時代後期、小浜藩酒井家下屋敷(現在の矢来町)の脇から天神町へ下る坂を地蔵坂と呼んでいた(『砂子の残月』)。坂名の由来は定かではないが、おそらく近くに地蔵尊があったものと思われる。」 ・・・あれ?切絵図では酒井家の上屋敷になっているけど?

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坂の別名を三年坂という。 酒井家上屋敷は土手を築いていてうっそうとした道で辻斬りや追剥が出没した。 おまけに当時は急坂で、この坂で転ぶと三年以内に死ぬと言われた。辻斬りだと三年ではなく即日死ぬだろうとは思うのだが。

寛永10年(1639)に大火で江戸城本丸が炎上した時、徳川家光はこの酒井家屋敷に避難した。その時の警護に仮の囲いとして槍を立てて囲んだ(これを矢来という)。 それ以来酒井家では屋敷を竹矢来で囲むのを習わしとしたという。 それが矢来町の町名の由来である。

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2017年8月17日 (木)

比丘尼坂(矢来町)

朧の坂から2本先の路地。 坂下からくる場合は赤城坂のクランクの交差点を西へ進む。 銭湯の金成湯(きんせいゆ)まで行くと行き過ぎで、その1本手前を早稲田通りに向かって上るのが比丘尼坂である。

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坂の傾斜は緩やか。 途中クランクになるが、江戸時代は御先手組の屋敷(今でいう公務員団地のようなもの)が建ち並んでいたようである。かつては坂下に標柱があったらしいが、十数年前からなくなってしまったようである。坂名の由来が書かれていて、「このあたりに比丘尼坂が住んでいたという。比丘尼姿の私娼が住んでいたのではないかとの説もあるが、特にに根拠はない。」と書かれていたと道家氏の書には書かれている。

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クランクから早稲田通りまでの間は細路地。訪問時は路地の入口の水道工事屋さんがトラックを駐車しっぱなしにしていて車は通れない状態になっていた。 トラック脇を抜けて早稲田通りへ出る。 早稲田通りの向かい側は江戸時代は小浜藩酒井若狭守の上屋敷があり、庭には大きな池があった。 その庭は築山山水式の名園。 池は明治の終わりまで残っていた。

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2017年8月16日 (水)

朧の坂(矢来町)

この坂は謎の坂である。 坂関連の文献の多くは隣りの比丘尼坂の別名を朧坂としているが、坂学会会長の山野氏のみが矢来町のこの道を朧の坂と明言している。 早稲田通りからは赤い壁が目立つシーフード料理店と書店の間の道で、すぐに下り坂になる。

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山野氏によると、神田川を挟んで北側の小日向台地の服部坂からこの朧の坂を眺めるとぼんやりとかすんで見えたらしい。それがこの坂の名前の由来のようだ。

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短い坂だが、江戸時代にそう呼ばれていたかどうかはわからない。 坂下より先は階段になっており、民家に入っていく。 この坂の場所は神楽坂の善国寺にある案内地図に明記されている。

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2017年8月15日 (火)

赤城坂(神楽坂)

神楽坂上は寺の立ち並ぶ街並みであった。 もちろん江戸時代の話である。 その先をひとつ入ったところが赤城神社である。 地蔵坂のところでも書いたが、神楽坂上には室町時代大胡氏(のちの牛込氏)の城があった。 その大胡氏は赤城山麓の豪族で、1300年頃というから鎌倉時代の末期、群馬の大胡からここに移住した。 今も赤城山の麓には大胡という町がある。

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江戸時代には徳川幕府によって「日枝神社」「神田明神」と共に「江戸三社」と称され、牛込の総鎮守として多くの氏子を抱えていた。 ただ平成になって社殿を建替え、とてもモダンになったのには賛否ありそうだ。 その赤城神社の西脇を神田川に向かって下るのが赤城坂である。

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長い坂で、途中クランクしてさらに下っていく。 クランクの所には赤城神社の西参道がある。 裏参道というよりも勝手口のように周辺の氏子さんが階段を上って行く。 ここにある加賀屋(もつ料理屋)はいつか入ってみたい雰囲気の居酒屋だ。

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坂の標柱には次のように書いてある。 「赤城神社のそばにあるのでこの名がある。『新撰東京名所図会』によれば、「・・・峻悪にして車とおすべからず」とあり、かなりきつい坂だった当時がしのばれる。」

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坂は長い下りで、200mほどあり、高低差は18mある。 坂をそのまま進むと神田川にかかる石切橋になるが、この石切橋は江戸時代からある橋である(もちろん架け替えてある)。 坂下のセブンイレブンの手前から赤城神社裏の切れ落ちた崖を望むことができる。 地形図で計測すると崖の高さはおよそ16mある。 都心にある見られる崖の一つである。

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2017年8月14日 (月)

瓢箪坂(飯田橋)

白銀公園の南の角から下り、大久保通りに向かう短い坂道が瓢箪坂である。 大久保通りに直接接続はしていないが、大久保通りが開通したのは明治時代なので、瓢箪坂というのは明治以前に付けられた名前だと思う。

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坂上の白銀公園は江戸期は水戸藩家老中山氏の屋敷。 そして坂の周りはいくつもの寺があった。 今は安養寺1軒のみ。坂下の行元寺(今はない)門前町には東京松屋本店(和菓子店)、奈良にて創業160年を誇る吉野葛の菓子店があり、今は路地裏にひっそりと残る。神楽坂上交差点の先には江戸初期から続く相馬屋源四郎商店(和紙問屋)があり、創業年度は万治2年(1659)とある。

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坂の標柱には、「坂の途中がくびれているため、その形から瓢箪坂と呼ばれるようになったのであろう。」とだけ書いてある。 瓢箪坂下のまるで家の中に入るような路地を抜けると、第三玉の湯という銭湯にポンと出る。 ここは深夜1:30までやっていて、新宿区で最も遅くまで開いている銭湯である。

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2017年8月13日 (日)

相生坂(飯田橋)

相生坂と呼ばれる坂は、並行か向かい合うかいずれにせよ二つの坂が対になっている場合に名付けられる。 東五軒町から白銀町に向かって上る並行した2本の坂が、ここでは相生坂と呼ばれている。

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まずは東側の坂。 南に向かって上る。 坂の上部の傾斜が急になっている。 坂上のさらに1本先には白銀公園がある。この坂上は江戸時代、水戸藩家老の中山備前守の上屋敷だった。

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坂の向こうに見えるのは、私たち世代が子供のころから親しんできたゼブラ株式会社の本社である。創業は明治30年というから120年前。 100年以上続く会社というのは尊敬に値すると思う。 これまでに何本ゼブラのボールペンやシャープペンシルを使っただろう。

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西側の相生坂は少し曲がりながら上って行く。 坂下に門前にお地蔵さんを配した真清浄寺がある。 私の場合、立派な寺院よりも、そのわきにあるお地蔵さんに興味がある。

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坂上はこちらの坂も勾配がきつくなる。 坂の途中の標柱には、「『続江戸砂子』によると「相生坂、小日向馬場の上、五軒町の坂なり。二つ並びたるゆえの名也という」とある。また、『新撰江戸志』では鼓坂と見え、「二つありてつづみのごとし」とある。一方、『御府内備考』『東京府志料』では、坂の由来は、神田上水の対岸の小日向新坂と南北に相対するためであると記されている。」と書かれている。 ただ小日向の坂で相対する坂はなく、一番近いのが荒木坂。 なので後半の記述は何かの間違いが残ったものだろうと思う。

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2017年8月12日 (土)

芥坂(飯田橋)

芥坂(ごみざか)という坂名は多い。江戸時代の街の恥部と言える。坂があるとその崖下にゴミを捨てる。芥坂は坂の途中に崖がありゴミを投棄するのに持って来いだった。しかし無法地帯ではなく、その町内の負担でゴミは定期的に船着き場まで運ばれ、江戸湊の埋立に使われた。この歴史は今も変わらず、中央防波堤の埋立は江戸時代と同じことをやっているわけである。

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筑土八幡境内から神楽坂方面へ降りるのが御殿坂ならば、小石川を目指して神田川(江戸時代は江戸川と呼ばれた)に下るのが芥坂である。昔はもっと狭い静かな坂だったが、マンション建設が進んで明るい坂になった。

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坂下から見上げると、筑土八幡神社の社殿が見える。 江戸時代は武家屋敷が並ぶ中に、筑土八幡と萬昌院があったが、萬昌院は1914年(大正時代)に中野区に移転までここにあった。

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2017年8月11日 (金)

御殿坂(飯田橋)

神田川と外濠(旧紅葉川)の出合いが飯田橋の交差点。 JR飯田橋駅東口を下りてすぐに澱んだ神田川支流の流れを見つつ五差路を渡る。 以前の東京厚生病院はJCHO東京新宿メディカルセンターと名を変えて独立行政法人病院となっている。 その先に再び五差路が現れるがこれはできたばかりの道路で東京ドーム裏に繋がっている。 この五差路が牛込台地の東の端で、そこには筑土八幡神社がある。

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江戸名所図会を見るともっと下から参道があったようだが、町に埋もれてしまい最後の部分のみが参道の階段として残っているようだ。神社の階段を登り境内を左に抜けると、南に下る坂。 これが御殿坂である。

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坂の標柱には、「江戸時代、筑土八幡神社の西側は御殿山と呼ばれ、寛永の頃(1624~1644)三代将軍家光が鷹狩りの際に仮御殿を設けたという。坂名は御殿山に因む。」とある。 またそのあとの慶安年間(1648~52)後に四代将軍になる家綱が、大納言時代にこの丘陵に牛込御殿を作りそれが御殿山の由来という説もある。

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坂下には酒問屋と氷店があってちょっと昭和っぽい。 この半島の突端地形は江戸時代以前も特異な地形であったようで、ここには筑土城があった。築城したのは上杉氏と言われるが、太田道灌という説もあり、さすがに江戸以前の歴史はわからない点が多い。 とはいえ地形的には、ここから眺めると、小石川台地、本郷台地、江戸城、江戸湊が一望できたはずである。

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