2018年1月20日 (土)

行人坂(目黒)

江戸時代の目黒は郊外のリゾート地としての役割を果たしていた。 目黒のサンマのモデルは将軍家光と爺々ヶ茶屋の主人だが、将軍鷹狩りの場であると同時に目黒不動詣でに多くの江戸っ子が遠出をする場所だった。 白金高輪に下屋敷を持っていた熊本肥後国の細川氏は、目黒の崖線にも抱屋敷を持っていた。 現在の雅叙園の敷地である。

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雅叙園は日本初の総合結婚式場で、昭和6年(1931)に料亭として開業した。 当初の建築で残っている「百段階段」(実際は99段)は都指定有形文化財になっているが、ちょいと見に行くというわけにはいかないのが残念。細川家時代の崖の傾斜を使った見事な木造建築で、ぜひ一度見てみたいと思っている。

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坂の中央、目黒川架橋供養勢至菩薩石造の祠の脇に目黒区の立てた説明板がある。 「寛永の頃、出羽(山形県)の湯殿山の行人が、この辺りに大日如来堂を建立し修行を始めました。次第に多くの行人が集まり住むようになったので、行人坂と呼ばれるようになったといわれています。」と書かれている。

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もう一つの説明板は雅叙園が建てたもの。 「行人坂の由来は大円寺にまつわるもので、寛永年間(1624)この辺りに巣食う、住民を苦しめている不良の輩を放逐する為に、徳川家は奥州(湯殿山)から高僧行人「大海法師」を勧請して、開山した。その後不良の輩を一掃した功で、家康から「大円寺」の寺号を与えられた。 当時この寺に「行人」が多く住んでいた為、いつとはなしに江戸市中に通じるこの坂道は行人坂と呼ばれるようになった。」

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大円寺というと、江戸三大火事の一つ「行人坂の火事」で有名である。 明和9年(1772)に江戸市中を焼く大火があり、火元とみられたのが大円寺であった。 大円寺の境内にある写真の五百羅漢はこの火事で亡くなった人々を供養する為に建立されたと伝えられる。 明和9年の出来事であったので、だれいうとなく「めいわくの年」だと言い出したので、幕府は年号を「安永」と改めたといわれている。

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目黒川は昨今桜の名所となって、中目黒駅前を中心にこの雅叙園の辺りも多くの花見客でにぎわうようになった。 かつての江戸の賑わいが復活したようである。 江戸時代は目黒不動に参詣した帰り道、目黒川の太鼓橋を渡り、行人坂を上って振り返ると、遠くに富士がそびえる素晴らしい風景が見られたことでも人気になったという。また雅叙園のある付近一帯は、かつて「夕日の岡」と呼ばれ、紅葉が夕陽に映えるさまは実に見事で、品川の海晏寺かいあんじとともに、江戸中に知れわたっていたところである。

ただこの行人坂があまりに急峻だったため、坂で止まりきれない馬車が目黒川に突っ込む事故などが多発、そのために権之助坂が開かれたといわれる。 確かにここが舗装されていなかったら、どれほど難儀かは想像に難くない。

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権之助坂(目黒)

江戸中期、中目黒の田道に菅沼権之助という名主がいた。村人のために年貢の取立てを緩めてくれるよう訴えるが、逆に咎められ処刑されることになった。村人のために罪を負った権之助を思って彼が最後に村を振り返ったこの坂を権之助坂と呼ぶようになったという話がある。また別に権之助が悪人だったという話も残っている。

また、それ以前の道は東に行人坂はあるものの、中目黒方面への道は現在の富士見坂下の道を経て、田道経由で目黒川の右岸に渡る道で、相当な遠回りになっていたため、、現在の権之助坂ルートを彼が許可なく切り開いたので処刑されたという説もある。

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江戸時代の郊外の目黒不動へのメインルートは行人坂を下る道筋だった。大正3年(1914)に都電が目黒駅前まで伸びたのに続いて、権之助坂が目黒村や平塚村への主要道に変わっていった。 権之助坂下の目黒川を渡る橋は目黒新橋という。 昭和に入ってからもまだ蛍が飛び交うような風景だった。

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現在はビルが立ち並び、溢れるような数の車が下る喧騒の権之助坂になっている。 目黒駅前の集中混雑を避けるため、放射3号支線が出来て、権之助坂は下り専用になったが、それでも溢れている。

ちなみに目黒駅は品川区にあるが、山手線計画当初は目黒川近くを通るようになっていた。 しかし目黒川周辺(当時は田園地帯であった)の農民の反対にあい、台地の上を通ることになったのである。

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2018年1月19日 (金)

富士見坂(目黒)

茶屋坂と権之助坂の間、崖線上のホテルプリンセスガーデンの南角から目黒川に向かって下る急坂。 なぜか3段になっていて、真下から見るとその段差が見えないほど傾斜がきつい。

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坂の途中に「関東の富士見100景」のプレートがある(国交省設置)。 それがこの坂を富士見坂と認識できる唯一のしるし。 というのも同じような坂がこの先合わせて3本あるからである。 どれを富士見坂にしても遜色がない3本の名坂である。

国土交通省の関東地方整備局(天下り団体ではあるが)が関東の富士見百景というのを作っている。 坂に限らないが、富士山を楽しみたい場合は役立つ情報かと思う。

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この3坂は大正中期以降の開通である。 明治期はこの坂の斜面の西側は水道向という地名で射撃場であった。 現在の防衛庁施設がかつては火薬製造所であったのでその傍の斜面を使ったのだろう。 そして最も西側の坂周辺が少しくぼんでいるが、そこにあったのが千代ケ崎の由来になった千代ヶ池があったところである。

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茶屋坂(目黒区三田)

落語『目黒のサンマ』の話に出てくる爺々ヶ茶屋が茶屋坂の由来。 江戸時代、三代将軍家光が現在の自衛隊施設辺りにあった将軍鷹狩り場へ鷹狩りに来た折、背後にそびえる富士山の遠景を楽しみながら、湧出る清水で茶を沸し飲んだといわれる。 また八代将軍吉宗は、祐天寺詣での折にこの茶屋に立寄ったと伝えられる。

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その茶屋坂の清水の石碑が上の写真の二股の間の空き地にある。左の道が茶屋坂、右は昭和中期に出来た宅地用の道路。 道路の路面標示は茶屋坂が側道のように書かれているが実は逆である。右は住宅地で行き止まりなのである。

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茶屋坂は二段坂になっている。下半分よりも上半分の方が傾斜がきつい。 上の坂は坂上で左に折れ、さらに上っていく。 前述の茶立ての清水で茶を沸かして将軍御用達となった茶屋の爺さんがサンマを焼いていると、それを食した将軍がたいそう気に入って「サンマは目黒に限る」というオチが落語なのだが、そこまでの話の筋はぜひ落語で楽しんでいただきたい。

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その茶屋の主人は彦四郎といい、家光が「ぢい、ぢい」と呼んだので爺々ヶ茶屋になったらしく、本当に爺さんだったかどうかは訝しい。 とはいえ将軍に面識がある町民というのは大したものだったろうと想像する。 実際には将軍やその家来といえども、太平の世の中であったので、気軽に庶民とコミュニケーションを取っていたのではないだろうか。

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諸説あるが爺々ヶ茶屋は坂の中腹にあったのだろうと思う。 坂の折れ目にあったという説もあるが、眺望を楽しむならそれも正解。ただ清水となるともう少し低いところでないと出にくいように思う。

上の写真は茶屋坂の坂上で右側の下り道が茶屋坂なのだが、左の道は三田用水があった筋である。 三田用水が出来たのは1664年だから、家光の在職期間(1623~1651)にはまだできていない。 吉宗(在位:1716~1745)は三田用水以降である。

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中山坂(新富士坂)

別所坂の坂上から恵比寿に下るこの坂は中山坂、観音坂、新富士坂の名前がある。 この道は広尾から別所坂を通り世田谷に抜ける世田谷道の一部である。 江戸時代からの古い街道であるため、いくつもの史跡が残っている。

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坂は広く緩やかなので坂らしさは感じられないが、古い街道らしく緩やかくねっている。 途中に馬頭観音があるが、縁起によると、享保4年(1719)この辺りに悪病が流行し、与右衛門という人が馬頭観音に祈って悪病を退散させた、とある。 そのお礼に石観音を作り、祐天寺の祐海上人に加持祈祷を願い、原(当時のこのあたりの地名)の中程に安置したと伝えられる。

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少し恵比寿駅寄りのバンタンデザインのビル横には欅の巨樹がある。渋谷区の保存樹木に指定され注連縄も巻いてある。 根元をコンクリートで固めてあるのがいささか可哀想だが、300年は下らないと思われる。 ということは別所坂界隈の様々な歴史の中にもこの巨樹は存在し続けたことになる。 街道の目印だったに違いない。

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この坂と別所坂の東側にある防衛庁の施設が広がる場所は、江戸時代は将軍の鷹狩り場だった。 庶民が入ることが出来ない御留山で、それを管理していた中山勘右衛門の屋敷がこの坂にあったので中山坂と呼ばれた。 また目黒の新富士が出来たので新富士坂とも呼ばれた。 観音坂はおそらく馬頭観音があるためと思われる。

坂の恵比寿側に道しるべの石碑が残っている。石碑は安永8年(1779)に建てられ、右にゆうてんじ道、左に不動尊みちとある。ここが分岐点で左に行くと茶屋坂、田道を経て目黒不動へ続いていた。

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2018年1月18日 (木)

新茶屋坂(目黒区三田)

目黒駅近くの権之助坂上から恵比寿方面へ向かう目黒川崖線上の台地は昔、「千代ケ崎」と呼ばれ、西に富士山を東に品川の海を望む景勝地だったと伝えられる。 この高台には、肥前島原藩主松平主殿頭(とのものかみ)の抱屋敷があり、三田用水を利用した滝や池を配した名園であった。そのあまりの景観に「絶景観」と呼ばれていた。

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その西側には「目黒のさんま」で有名な茶屋坂があるのだが、現在は昭和5年に開通した直線の新茶屋坂通りが主要道路になっている。 以前はこの新茶屋坂は陸上自衛隊の敷地の北側に沿って走り、坂上で目黒川に向かって真っすぐ下る道筋だったが、恵比寿ガーデンプレイスでこの北側の街区が大きく変化した。 今はガーデンプレイス前からまっすぐこの道に繋がっている。

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かつてはこの新茶屋坂の上に三田用水の掛樋が通っていた。 頑丈なコンクリートのトンネルになっていて、道の両側は蔦の絡まる法面だった。 しかし平成15年(2003)に道路拡幅と同時に撤去されてしまった。 上の写真はその茶屋坂隧道(掛樋)のあったところから撮ったもの。 この下にその記念碑が立っているのはうれしい。

日の丸自動車学校の植込みには三田用水の説明が「三田用水跡」として設置してある。 この傍にはかつて千代ヶ池という池があった(明治時代まで存在した様子)。 南北朝時代に新田義興が、多摩川矢口渡で非業の死を遂げ、それを悲しんだ側室の千代が身を投げたと伝えられる。 千代ケ崎の由来はこの千代ヶ池からのものである。

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別所坂(中目黒)

別所坂は名坂である。 個人的な見解だが、目黒川崖線の中でも相ノ坂、目切坂、行人坂とこの別所坂は特別だと思う。 どの坂も坂上は三田用水で、目黒川に下る坂である。 目黒川左岸の旧日向道がどこまでを指すのかはよくわからないが、江戸時代から左岸の道は別所坂まで続いていた。 そして別所坂の東側には三田用水(実際には用水からの取水ではないようだが)から落ちる滝があったという。

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別所坂の勾配は上に行けば行くほど急になる。 最大勾配はなんと23%。 江戸時代は雨や雪の日はほとんど通行不可能だっただろう。 坂下に目黒区の標柱がある。

「この辺りの地名であった〝別所″が由来と言われる。 別所坂は古くから麻布方面から目黒へ入る道としてにぎわい、かつて坂の上にあった築山「新富士」は浮世絵にも描かれた江戸の名所であった。」

別所というのは、新しく開いた土地という意味と、もう一つは目黒の方言で突き当りとか行き止まりを別所と言ったという説がある。

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別所坂の坂上は新富士があったがその遺跡が1991年に発掘調査がなされた。 そこには弥生時代の住居跡、江戸時代の富士講の胎内遺構、水琴窟など、さらに昭和の防空壕2基まであったという。 坂は上るにつれ勾配を増していく。

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坂の頂上はいきなり階段になる。 突き当りの大谷石の擁壁はおそらく三田用水の名残り。 ここを三田用水は流れていたのである。 また現在「テラス恵比寿の丘」というマンションになっている場所は、KDD研究所だった場所。 きわめて眺望の良い崖線上の土地で、江戸時代の北方探検家近藤重蔵の屋敷があった。

近藤重蔵は寛永10年(1798)に蝦夷地御用を命じられ、国後島、択捉島などを探検、択捉島に「大日本恵登呂府」の碑を建て日本の領土であることを明確にした人物。 その屋敷内に重蔵は目黒元富士に遅れること7年後の文政2年(1819)に新富士を築山。 景勝地でもあったので、すぐに江戸の名所として人気を博した。

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ところが重蔵が大阪に赴任している間に、家屋管理を託された塚越半之助なる人物が重蔵の屋敷をレジャーセンターにして大儲けした。 塚越は近藤重蔵が江戸にもどってくることになると、あの手この手でそれを妨害した。 それに対して重蔵の長男富蔵が耐え兼ねて、塚越半之助一家を殺害するという事件が発生したのである。 当時の江戸幕府はこういう事件に厳しく、富蔵は八丈島に島流し、父の重蔵も大溝藩に身柄預かりとなり一家断絶という結果になってしまった。

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坂上にある庚申塔はその事件や新富士とは関係ない。 江戸時代各地で信仰されいた庚申講で建てられたものである。

江戸時代はこの別所坂は現在の駒沢通りの役割を果たす世田谷道であった。 現在の目黒区役所の前のけころ坂から目黒川を渡り、別所坂上からは中山坂(富士見坂)を下り恵比寿を経て広尾に繋がる街道であった。 都心からの道を進むと富士を眺めながらの好眺望の街道だったことが想像できる。

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2018年1月17日 (水)

新道坂(中目黒)

新道坂は駒沢通りの鎗ヶ崎から中目黒へ下る。  昭和2年(1927)に都電中目黒線が開通し、狭い急坂の旧新道坂に変わって、広くて緩やかなこの坂ができた。 新道坂の名前は目切坂と別所坂の間にできた新しい坂の意味である。

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坂上の旧新道坂に近い歩道に東京都の逆U字型の説明板がある。

「坂名は、別所坂と目切坂の間に新しく開かれたため、新道坂と呼ぶようになった。 坂上の左右に見えるコンクリートの擁壁は三田用水の名残りである。 三田用水は、寛文4年(1664)芝白金御殿の池水を引くために玉川上水の分水路としてつくられ、この尾根を通って三田・芝方面に流れていた。人々は農業・工業・雑用水として利用したが昭和50年にその流れを止め,約三百年にわたる歴史を閉じた。 線路ぎわの狭い道が旧道である。」 と書かれている。

三田用水の掛樋は私が上京したころ(1976年)にはまだあった。 用水が廃止されたのは昭和49年(1974)だが、掛樋が撤去されたのは昭和57年(1982)であった。

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明治時代はまだ日比谷線は勿論、東横線も開通していない。 恵比寿から鎗ヶ崎に延びた道路は三田用水の下を煉瓦のトンネルでくぐっていた。 新道坂はその頃の命名である。 その後大正から昭和になって、市電の敷設をするときに坂上から分かれたのである。 なかなか風景を想起しにくいが、「昭和毎日の池田信氏の写真」でよくわかる。

東京都の説明板の三田用水の説明のくだりで、「坂上の左右の擁壁」とあるが、残念ながら東側はダイヤパレス代官山マンション、西側もすでにビル化し、存在が消滅しているようだ。 ただ目切坂上の地蔵尊の脇の道が水路跡と考えられる。

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旧新道坂(中目黒)

旧新道坂を説明するのには(新)新道坂の説明が必要だろう。 都道の駒沢通りの恵比寿と中目黒の間、旧山手通りが接続する鎗ヶ崎交差点から山手通り・駒沢通りの中目黒立体交差までの坂が(新)新道坂である。 この鎗ヶ崎はどの時代も交通の要所だった。

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鎗ヶ崎は目切坂を下って旧日向道で大山街道へ、北への道は渋谷の金王八幡へ、東は恵比寿広尾へ繋がっていた。 南への道は目切坂が役割を果たしていたので、この旧新道坂が開かれたのは明治に入ってからと思われる。 現在の旧新道坂は駒沢通りの側道的な道で、日比谷線の線路沿いを下る。 新道坂の意味は目切坂と別所坂の間に新しくできた坂道だからである。

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(新)新道坂が開通したのは都電中目黒線が恵比寿の渋谷橋から中目黒まで開通した昭和2年(1927)。 それまではこの坂が鎗ヶ崎から中目黒に下る道だった。 坂下で交差する道は目切坂下から別所坂へ繋がる道で、この道も明治に出来た道らしい。

この坂の脇で2000年起こった悲惨な日比谷線脱線事故では5人の命が奪われた。 坂下の線路の下に慰霊碑への入口がある。こういう事故が無くならないのはなぜだろう。 やはり人間が造る組織や人間個々に欠陥があることを、素直に受け止めてリスクを考えなければならないのかもしれない。

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目切坂(暗闇坂)

目切坂は古い坂である。 別名を〆切坂、あるいは暗闇坂という。 坂下に標柱と説明板がそれぞれある。

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「目の前が目切坂。江戸時代、近くに石臼の目切りをする腕の良い石工が住んでいたことから、この名前が付いたという。 この道はかつての鎌倉街道でもある。源頼朝が鎌倉に幕府を開いた後、変事の際に援軍が鎌倉に急行できるようにと作られた道の一つ。「いざ鎌倉へ」と、鎧兜の武者たちが馬を飛ばしたのは800年も昔の話だ。」(説明板)

「江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の上目黒村の項には「メキリ坂」という坂名がみえ、渋谷との境にあり石臼の目を切る職人が住んでいたために目切坂になったと記されています。 由来については諸説ありますが、1800年代前半には「めきり坂」と呼ばれていたようです。」(標柱)

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昔中目黒駅前に住んでいた頃(1970年代)からこの道は何度も使ったが景色はあまり変わっていない。 この坂の坂上南側のキングホームズ代官山からいつも見下ろされているようだった。 目切坂は長い間代官山から山手通りへの抜け道として、多くの営業車が利用しているので交通量は意外に多い。

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坂上には昔、富士講の目黒富士があった。 キングホームズ代官山の敷地内にあったこの富士は、文化9年(1812)に上目黒の富士講の人々によって築かれた。高さは12mあったという。 文政2年(1819)に少し東南の別所坂上に新しく富士塚が築かれると、そちらは新富士と呼ばれ、目切坂の富士塚は元富士と呼ばれるようになった。

元富士は明治以降取り壊され、石祠や石碑は大橋の上目黒氷川神社に移されたが、この目黒元富士からは富士山の眺望もあり、たいそう人気だった。 そのためか、歌川広重の『名所江戸百景』には、『目黒元不二』『目黒新富士』として、それぞれ描かれている。

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坂上は崖線と土地の所有者に合わせて、渋谷区と目黒区の区境が複雑に絡んでいる。 渋谷区側になるが、ヒルサイドテラスの敷地内に猿楽塚古墳がある。

これは6~7世紀の古墳時代の円墳で、猿楽塚と古くから呼ばれそれが猿楽町の由来になっている。 大昔の鎌倉街道はこの辺りを通っていて、その後目切坂に移っていったのは、この急坂が相当な傾斜で難儀をしたからだろうと思う。

また、目切坂の坂上には地蔵尊と道しるべがあり、建てられたのは文政元年(1818)とある。 昔から崖線の上と下を結ぶ重要な道だったのであろう。

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上村坂(青葉台)

代官山のハイソな旧山手通りとかつての目黒川左岸の道旧日向道を結ぶ坂道の一つ。 道路標識の勾配は17%とかなりの急坂である。 坂名の由来は坂下にある目黒区の標柱に記されている。

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「上村坂という名前の由来は、明治時代の軍人で海軍大将・男爵にまですすんだ上村彦之丞の邸宅が、この坂の上にあったためといわれている。」

上村彦之丞は薩摩藩士の家に生まれて戊辰戦争に行き、明治維新後は海軍で日露戦争では第二艦隊司令長官になった人物である。

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坂が開かれたのは明治時代。 坂上の旧山手通りには三田用水が流れ、坂上からの眺望はなかなかのものだった。 今でもすぐ西にある西郷山公園からは富士の眺めが楽しめる。

西郷山公園とその崖下の菅刈公園は、西郷隆盛の弟である西郷従道が購入して、征韓論に敗れて帰郷した西郷隆盛を東京に呼んだのだが、西南戦争で隆盛は亡くなり実現しなかった。 西郷家は昭和16年までここに住んでいた。

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坂の中腹に美空ひばりの家がある。 生前長くここに住んでいた。 現在は記念館になっている。 息子の加藤和也が運営しているらしい。 完全予約制だが、この坂を通ると昭和のおばちゃまたちがしばしばたむろしているのを見かける。 しかしこの辺りのトレンドは山手通り周辺のEXILE(LDH)に変わっていて、山手通り沿いにはやたらと若者が多くなった。

坂下の目黒川は昔は蛇行した川だった。 しばしば洪水を起こし、その代わり肥沃な土地で農業が盛んだった。 目黒川はそういう川なので、最近でも時々危険水位になって騒がれる。 しかしこの旧日向道と山手通りの間は、そういう歴史の上にある土地だということを多くの人は忘れている。

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2018年1月16日 (火)

相ノ坂(青葉台)

森田一義氏(タモリさん)の『TOKYO坂道美学入門』の表紙を飾っている坂道である。 この坂に目を付けたのはさすがだと思う。 坂の歴史は古く、江戸期から農道として切通しで崖線を上る道があったようだ。

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坂下は菅刈小学校脇の路地から始まる。 創立は明治8年(1875)と古く、当時この地は上目黒村だった。 小学校のフェンス脇に目黒区の立てた標柱がある。

「坂の上の旧大山道(現、多摩川通り)と、坂下の旧日向道(ひなたみち)の間の坂だからとする説や、人々が落ち合う坂(合の坂・逢の坂)だからという説がある。」と書かれている。

日向道は山手通りと玉川通りの立体交差南から目切坂までの崖線下の道。 山手通りができるまでは、この道が目黒川左岸の道だった。

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この坂のハイライトはやはりこの脇の階段に挟まれた大谷石の石垣と緩やかに湾曲して上る急坂の風景である。 一軒先のソテツもまたアクセントになっている。 この道を上っていくと、森田氏の言うように地中海のとある国の海岸の斜面の道を上っているような異国情緒を感じるから不思議である。

どうもこの坂は下から見上げる写真ばかりがこの坂を表しているような気がしてしまい、上から撮影した写真が何枚もあるのだが使う気になれない。 そういう不思議な坂だ。

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坂上に近づくと住宅の擁壁の切通しの中を上る。 坂上で出合う道はかつて三田用水の側道だった道。 坂下の上目黒村は一大穀倉地帯で、三田用水と目黒川からの豊かな水が源だった。

菅刈小学校の菅刈とは菅刈の荘という古い時代の地名からきている。 荘園(奈良時代から戦国時代までの貴族や寺社により領有されていた土地)時代の名残である。 小学校の先にある菅刈公園やその上の西郷山など地形と歴史に関連の深い場所も多い。

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蛇坂(青葉台)

蛇坂は坂道関連の書物には載っていないがなかなかの急坂(階段坂)である。 特に謂れがあるとか、歴史があるというような坂道ではないが、地形的には崖線を下る坂で傾斜が魅力的な坂である。

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新大坂の国道246号線から路地に入ると一旦盛り上がるように道路が上り、すぐに下り始める。崖線上のマンションの住民用の車道の脇に階段がついている。 それくらいポッコリと盛り上がった道路になっている。 道はそのまますぐ下りになり、間もなく階段で下る道になる。 西側は33階建の高層ビル(ラ・トゥール青葉台)。

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この坂道は昭和30年頃の地図には載っているが、戦前の地図には載っていない。 戦後の住宅開発の中でできた坂と思われる。 蛇坂の名前の由来は、50年ほど前(昭和中期)はじめじめした樹の生い茂る崖線の下の坂道で、蛇の住処になっていたのでその名がついたようだ。

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ここから目黒駅近くの行人坂までは目黒川が削った崖線である。 周辺の地名を見ても、青葉台、代官山、南平台など、台地を意味するものが多い。 かつてこの台地には玉川上水から水を引いた三田用水が流れており、目黒・品川への農業用水を供給していた。 今はほとんど建物に埋もれてしまっている。

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2018年1月15日 (月)

新大坂(青葉台)

国道246号線の新しい大坂(新大坂)は山手通りを跨いで三軒茶屋方面に下っている。 元は大山街道。 出発点は赤坂見附にある赤坂御門である。 神泉交差点の辺りの坂上からは、大山をはじめ丹沢連山がよく見えたという。(現在は高速道路とビルで何も見えない)

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写真のカーブは国道246号線の上り車線と山手通りを結ぶ連絡道路だが、かつての大山街道はこの辺りを通っていたはずである。 この写真をどこから撮っているかというと、上目黒氷川神社の境内からで、この神社は天正年間(1573~1592)に地元の加藤氏が勧請した神社。 境内そのものが目黒富士として富士講の対象になっている。

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この目黒富士は代官山の目黒元富士を映したものだが、元富士は名所江戸百景にも描かれている(名所江戸百景:目黒元不二)。 この西側の目黒川暗渠と淡島通りの間の広大な土地は戦前は軍施設だった。

大正末生まれの私の亡父(山口県出身)が戦前、恵比寿の親戚に居候して東京生活をしていた折、一銭五厘(当時の呼び名で兵隊への召集令状のこと)が届いたが、地元山口での入隊であったので帰郷しようとした。

ところが時は疎開する人々が列車に溢れんばかりに乗っていた頃で、切符すら買うことが出来ないほどだった。 その時ここの憲兵隊に同郷の兵士が居て、彼に相談すると、出陣者は最優先と二等切符(今でいうグリーン席のようなもの)を用意してくれ、それで山口に帰れたと言っていた。

父は恵比寿の天現寺から宮益坂乗換で、大橋まで市電を使ってきたと言っていた。 そういう記憶があるので、この大橋は身近に感じられる場所である。

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大坂(青葉台)

大山道は古い街道である。 平安以前からの街道で東海道の一部として、東京から小田原方面への大動脈(矢倉沢往還)であった。 鎌倉時代になると現在の世田谷通りに近いルートがメインになり、ボロ市の前身もここで生まれた。 江戸時代には東海道と甲州街道が栄えたため、大山道は多少寂れたが、江戸期のルートはほぼ現在の国道246号線に沿うルートになった。

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宮益坂、道玄坂と来た大山道が神泉で空川と目黒川を渡るために再び下り坂になるのが大坂であった。 上の写真の左の高速道路高架の道路が新しい大坂で明治40年に玉電が開通した時に出来たルート。 右はそれ以前の大山道で、一旦空川に下ったのち、上目黒氷川神社下を経て目黒川を渡り、三軒茶屋に続いた。

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坂上の分岐点に目黒区の標柱がある。 2016年頃、それほど古くなっていなかった(平成20年と書かれていた)のに新調されていたが、車でもぶつかったのだろうか。

「厚木街道(江戸から厚木まで)の間にあった四十八坂のうち、急坂で一番大きな坂であったので、大坂と呼ぶようになったといわれる。 この坂標識の北側の坂が旧道で、南側の坂が新道である。」 と書かれている。

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道玄物見の松の場所はこの大坂の脇にあったというのが定説だが、道玄坂上にあった松、淡島通りの松見坂にあった松など諸説があるのでどうだろうか。 ただ、盗賊の手下がこの松に登りカモになる旅人を監視し、襲っていたという話は昔は全国の街道あちこちであったことだろう。


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2018年1月14日 (日)

富士見坂(青葉台)

この富士見坂(青葉台)はあまり認識されていない坂である。 松見坂の一部とする見方もあるが、いちおうここでは別枠で捕らえておきたい。 国道246号線と旧山手通りの神泉交差点の北側からすぐに淡島通りが始まる。 ここから松見坂までの下り坂が富士見坂である。

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坂上から望むと山手通りとの交差点の先に相生坂ともいえそうな松見坂が続く。  ただ標高から考えると、この富士見坂の坂上は33mで淡島通りの坂上も33mなので、建物があれば富士は見えないのではないかと思う。

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上の『江戸名所図会』の絵はおそらく松見坂上から渋谷方向を望んだ景色。 手前の松が道玄物見の松だろう。 下のギリギリにある橋が松見坂下の遠江橋。 この松がどこにあったかを研究している人もいるそうだが、この絵を信じればこの富士見坂と大坂の間であるように思う。この松に上れば富士も見えたに違いない。

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2018年1月13日 (土)

松見坂(駒場)

東大教養学部のある駒場は目黒区である。 環状六号山手通り界隈は区境がしっくりこないところが多い。 西新宿の清水橋は渋谷区、池袋のハタプラザは板橋区、ちょっと離れるが目黒駅は品川区、品川駅が港区というのもある。 松見坂は淡島通りと山手通りの交差点、その駒場方面に上る淡島通りの坂道である。

この区境は平安時代の豊島郡と荏原郡の郡境が元になっているのである。 駒場は昔、駒場野という地名だった。 駒というのは馬のことだから馬の牧場が広がっていたと考えられる。 実際ここは良馬の産地だったという史実がある。 現在からは想像もできないが、この松見坂も長い歴史を見てきているのである。

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松見坂は町の境でもある。 山手通りよりも渋谷側が青葉台、淡島通り以北が駒場、以南が大橋になる。 その大橋側の角に御影石の説明石碑がある。駒場に繋がる道なので駒場坂という別名もある。

「この坂から、『道玄物見の松』(土賊の道玄がその松に登って 往来の人を見下ろし、手下に命じて衣服や携帯品を掠奪したためにその名がついた) がよく見えたので、松見坂と呼ばれるようになったといわれる。 また、坂の途中に松見地蔵があったので坂の名になったという説もある。 昔は、この坂の北西には、駒場野と呼ばれる広大な原野があったが、今はその面影もない。」

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「道玄物見の松」については別の機会に書くが、この松見坂交差点の窪みを作ったのは、目黒川の支流空川だった。 水源は駒場野公園にあるケルネル田圃上流の湧水と、東大駒場キャンパス内の一二郎池である。 駒場キャンパス辺りは将軍の鷹狩り場であったことは有名な話。 その空川は江戸時代にはそこそこの水量が流れており、ここには橋がかけられていた。

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空川の橋があった辺りに松見坂地蔵尊がある。 以前は手書きの説明板だったが、最近訪れたら目黒区のきれいな説明板に変わっていた。 そこには、「旧滝坂道が空川を渡った遠江橋付近が、旧上目黒村の東の出入り口にあたるため、村へ侵入しようとする厄を除けるために祀られた」とあり、地蔵尊脇にはその遠江橋の親柱が二つ置かれている。

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カナリヤ坂(旗の台)

カナリヤ坂の命名は昭和中期と新しいが、道そのものは大正以前からあった。 旗の台駅は東急池上線と東急大井町線の乗換駅で、南口と東口の二つの出口がある。 そのどちらから行っても回り込む必要があるが、東急インの角を南へ入る路地なのでわかりにくくはない。

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坂上には荏原第五中学校があるが、その校長先生と坂の中腹の鳥獣店の主人が相談して、昭和30年代に「カナリヤ坂」という名前を付けた。 当時はカナリヤは人気だったので、鳥獣店店主の意見が強かったのかもしれないが、店舗は現存していない。 その坂名が生徒や近くの小学校の児童の間で定着したという。

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坂上に近い旗の台南公園に品川区の品川百景の銘板がある。 これは昭和62年に設置されたもの。 この場所は、立会川に削られた台地の崖線にあたり、駅のある場所と五中の場所では10mの標高差がある。

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旗の台駅は改装中だったが、池上線側のホームには懐かしい木製の長椅子があり、屋根も柱も昭和以前の懐かしいものが残っている。 この柱にはかつては灰皿が備え付けて立ったものである。 いつまでこの懐かしい景色が残されるのか、利便性や快適性と引き換えになるのだろうが、寂しい気持ちが否めない。

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2018年1月12日 (金)

皀莢坂(旗の台)

中原街道は「街道」と付くぐらいなので昔からの道である。 古すぎて始まりは不明だが、東海道の一部として使われてきた時代もあった。 徳川家康が三河から江戸入りした時も、東海道ではなく中原街道を通ったといわれている。

そんな中原街道の旗の台(昭和大学病院前)から環七と交差する南千束に向かって上る坂道が皀莢坂である。

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坂下に東京都が設置したあの読みにくい説明板がある。

「坂名の由来は、坂の右手に「さいかち原」があったからとも、両側にさいかちの木があったからともいわれる。 さいかちは豆科の落葉高木で、以前はこのあたりの山野に自生していたものである。清水山あたりには昭和30年代まで巨木が残っていた。中延(注:このあたりは江戸時代は中延村といった)の古い麦打唄に、「お前さんとならばどこまでも、さいかち原の中までも、親を捨てこの世がやみになるとも」というのがある。」

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駿河台のさいかち坂は皀角坂と書くが、こちらは皀莢坂と書く。 何種類かの書き方があるのだが、どう違うのかはわからない。 品川区のHPに「大正時代までは、右手に清水山、左手に亀の子島(山)の崖と崖にはさまれ、樹木と雑草のしげる、昼なお暗い坂であったといわれる。」とあるが、地形図を見てもそのような地形には思えないのだが。

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鏑木坂(旗の台)

昭和大学病院と昭和大学の間にある坂道。 坂上は小山の台地、坂下は立会川の暗渠である。 小山の八幡坂と並行して、丘の上から立会川の低地へ下る。 珍しい名前の坂だが、由来は昔この地を開拓した旧家鏑木氏にちなむ。

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鏑木氏はこの地の名主だったが、1500年代半ば北条早雲が関東を支配していた時代、下総(千葉県)の豪族だった千葉氏の一族であった鏑木氏がここに住み開拓し統治した。 小山八幡神社の立会川の対岸にある葛原神社は鏑木氏の勧請。葛原神社は平家の始祖である葛原親王を祀っている。

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昭和大学病院の敷地は当時の鏑木家の屋敷跡である。 また旗の台の地名の由来は、源氏の奥州征伐の折、新羅三郎(源義光)がここを通った時に、軍勢を揃えて源氏の旗幟(きし=合戦の折、存在を主張して立てるのぼり・旗じるし)を立てたことに因むと伝えられている。

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しかし鏑木氏は平家の系列、それが源氏を応援したのは不思議でもある。 坂下の立会川の暗渠は立会道路と呼ばれ、中原街道から西小山駅近くまで整備されている。 そこから下流と上流は緑道になっていて、並木のある散歩道である。

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2018年1月11日 (木)

八幡坂(小山)

江戸見坂の坂上を左折し、東に下る坂道が八幡坂である。 この辺りが小山では最も標高の高い場所。 ここから旗の台にかけて標高35m~37mの台地が広がっている。 その台地の北端が二つの坂の坂上になる。

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坂上から遠望するとガラス張りの高層ビルが彼方に見える。 大崎駅のソニーシティである。 標柱や説明板はないが、普通に考えれば、小山八幡神社に上る坂道なので八幡坂となったのだろう。

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坂名の由来となった小山八幡神社は鎌倉時代の創建とされる、地元旧小山村の本村の氏神で、小山の由来となった神社。 境内の眺めから「品川百景」にも選ばれており、隣接して摩耶寺がある。 小山八幡は昔祀っていた妙見菩薩から妙見八幡とも呼ばれていたが、明治時代の神仏分離によって隣接の摩耶寺に移された。 その他おなじ小山にある三谷八幡との分離のいきさつなど、調べればさらに面白そうである。

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この小山八幡神社の鳥居下階段の左手を上る坂道も女坂っぽくていい。 大正時代までは小山は村だったが、その村の鎮守っぽい雰囲気がこの小山八幡神社からは感じられる。 八幡坂自体は昭和に入ってからの新坂のようだが、神社回りは歴史を感じさせてくれるのである。

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江戸見坂(小山)

東急目黒線西小山駅を出て、南東にあるアーケード商店街を進む。 アーケードが切れる辻を右折すると江戸見坂通りになる。次の交差点を過ぎると、その先に途中から上っていくまっすぐな坂道が現れる。

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直線の坂道というのはあまり情緒を感じさせないが、先の見渡せる場合は例外になりうるかもしれない。 坂の始まるあたりに古い標柱があるのだが、看板で隠されて見えなくなっていた。 せっかくの説明書きなのだからちゃんと見えるようにしてもらいたいものである。

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さて、なぜ江戸の郊外の小山に江戸見坂という坂があるかということだが、大正時代の初めころには、まだこの辺りは一面の畑が広がっていて、この坂上からは東京市中が遠望でき、東南方には大井、大森の海まで見渡せたとある。 また坂上からは富士山も望めたといわれる。

西小山駅北側から昭和大学病院への道はかつての立会川の暗渠である。 その立会川が武蔵野台地の一部を削った名残がこの江戸見坂と近くの八幡坂。 小山という地名も谷に対して呼ばれるようになった地名だと思われる。坂上の小山八幡神社が小山の上にあったことから、小山という地名が起こったという説がある。

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とはいうもののこの道は大正時代までは農地の農道くらいしかない道で、昭和になって人口が増え始めて整備された道である。 おそらくはその頃に、「都心が見渡せる」では名前にならないので、「江戸見」と付けたのだろう。 しかしこの坂の方角をまっすぐに行くと渋谷方面であり、当時の東京の中心である皇居や銀座ではない。  そのあたりのいきさつは調べてもわからなかった。

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2018年1月10日 (水)

清水坂(戸越銀座)

戸越銀座五坂の最も西、第二京浜に近いのが清水坂である。 第二京浜に傾斜はほとんどないのに、そのすぐ東にこの清水坂があるのはいささか不思議ではあるが、第二京浜は戸越の谷を緩やかに下り、緩やかに上るように作られている。 実際、北側の桐ケ谷坂上と南側の戸越三丁目は標高24mだが、戸越銀座との交差点は18mと低くなっている。

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清水坂には説明板などはない。 品川区のHPに記載されている内容は、以下の通りである。

「もともと『戸越』の地名は、この辺りが江戸越えの村だったことを由来しており、『江戸越えて 清水の上の 成就庵 ねがひの糸の とけぬ日はなし』という古歌が残っている。 この歌の『清水』をとって、清水坂という名がつけられた。」

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ただし清水坂は関東大震災前にはなく、大正末期から昭和にかけて通された道である。 八幡坂や宮前坂のように古くからあった坂ではない。

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訪問した時に戸越銀座駅が木造のモダンな駅になっていたのに驚いた。 開業90年にして初のリニューアルで、2016年12月11日に竣工した。街との共同のリニューアルは極めて例が少ないらしいが、相乗効果がありそうだ。

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宮前坂(戸越銀座)

戸越銀座にある戸越八幡神社の西側にある坂道。 東が八幡坂で西が宮前坂だが、もともとこの辺りは一般に宮前と呼ばれていたということもあるらしい。 この坂道の通りの街灯には、「宮前商店街」とある。ただし商店はわずかしかない。 昔はもっとあったのだろう。

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坂上の小さな公園は宮前坂広場だった。 その広場の先を左に入ると行慶寺を経て八幡神社への参道になる。 この八幡神社が戸越銀座の方を入口にしていないのは、神社ができたころは戸越銀座は川筋で人が住んでいなかったからである。

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坂を少し上ったところに標柱があった。

「この通りは、付近にある行慶寺や戸越八幡神社に向かう道で、宮前通りと呼ばれている。 坂の名称も、そこからつけられたものである。」

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八幡坂(戸越銀座)

戸越銀座には名前の付いた坂が5つあり、戸越五坂と坂関係者?の間では呼ばれている。 八幡坂はその中で真ん中にある坂道だ。 戸越八幡神社の東側の坂が八幡坂、西側の坂が宮前坂で、どちらも八幡神社にちなむもので、ちゃんと地元での使い分けができている。

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坂上に戸越八幡神社への参道(東参道)があるが、本来の参道は八幡坂と宮前坂を結ぶ東西の道路から入る。 八幡神社の西には行慶寺があるが、この寺社は江戸時代からカップルのように並んでいた。 どちらも歴史は古く、行慶寺は寛永11年(1634)の創建、八幡神社がこの地に出来たのは元禄元年(1688)である。

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坂上に品川区の立てた標柱がある。あっさりと書かれている。 「この坂は、戸越銀座通りから戸越八幡神社脇を抜ける坂である。そのために八幡神社に因んでこの名称がつけられたものである。」

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「戸越」の地名の由来は、江戸越え→戸越え→戸越、というのが定説で、入間川を越えて入る川越と同じような由来パターン。江戸越えということは江戸ではないという意味も含まれており、実際に江戸時代はこの辺りは、今でいう「23区外」みたいな場所だったのである。

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2018年1月 9日 (火)

三井坂(戸越銀座)

戸越銀座から南にある文庫の森(旧三井文庫)に向かって上る坂道。  坂上の文庫の森前にはパークハイム戸越三井坂というマンションがある。  文庫の森は、江戸時代は熊本肥後細川家の抱屋敷だったが、明治になって三井家が管理するようになった。

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三井家の管理になってから、まず広大な三井邸ができた。 昭和に入ってから、三井邸の南側の大部分が戸越公園に、その後三井邸は史料館や学校になったりして、現在に至っている。

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三井坂の途中に見落としそうな石碑が塀にくっついて立っている。 この石標は、昭和2年(1926)に個人が建てたものらしい。 三井全盛時代は坂上は三井山と呼ばれて、その入り口という意味で建てられたようだ。

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戸越銀座が発展したのがほぼ昭和に入ってからなので、明治期には三井坂なるものはなかった。 三井家の車は中延の国道1号線、それ以前は中原街道の平塚橋の方に出ていたようである。

現在の国道1号線は昭和に入ってから整備された道路で、大正以前の国道1号線は現在の第1京浜だった。 最終的に第2京浜が国道1号線として整備完了したのは1950年代である。 それ以前は戸越銀座と国道1号線は交差しておらず、この国道1号線の完成も戸越銀座の発展に一役買っている。

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平和坂(戸越銀座)

戸越銀座というと古くからある東京を代表する商店街のように思われるが、実は歴史は浅く、人が多く住み始めたのは大正末期~昭和に入ってからである。大正12年(1923)の関東大震災で低地のために冠水し、道はぬかるみ、大変な状況になった。

そこで震災で倒壊した銀座の建物の煉瓦を貰い受けて、排水や下水工事に活用し、この縁から「戸越銀座」を名乗るようになった。全国に数多ある「〇〇銀座」の最初である。最近もいち早く無電柱化をして先進性を取り入れている。

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冠水したのは戸越銀座に川が流れていたからである。 戸越銀座にあった川は、商店街の南側にいくつもの池を配し、中原街道から戸越銀座の北裏の路地筋を流れ、途中で南になったり、道筋になったりという流路だった。最後はJRの大崎車両センターを横切り、第一三共製薬前の三竹橋辺りに注いでいた。

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平和坂については、坂下に施設の標柱がある。

「平和坂は旧県道、むかしはこの地で六つの道が合流していたので六道坂とよばれていたそうですが、大正十年に大改修が行われ現在の坂名に改められました。平和坂の由来は、改修当時東京上野で開催されていた平和博覧会からとったそうです。」

とある。正直なところ、いささかセンスに欠けるネーミングである。 六道坂の方が遥かに良い。

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ヘルマン坂 (大井)

東大井の住宅街を南北に走っている見晴らし通りにある坂。 坂下は立会川を渡る桜橋。見晴らし通りは仙台味噌蔵から南下する。ヘルマン坂上の来福寺の路地から大福生寺辺りまでが東側が崖線上になり遠くまで景色が広がることでそう呼ばれたのだろう。昔の街道は大福生寺下で大井鹿島神社方面に向かう道路だったが、大森へ繋がる幹線が大福生寺から南に繋がって「桜新道」と呼ばれ、現在はそちらが街道筋になってきている。

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坂名の由来は、戦前ドイツ人のヘルマン・スプリット・ゲルベルト氏が、この坂の途中(東大井六丁目側)に居住していたことから、いつの間にかこう呼ばれるようになった。また近くには立会川導水吐口があり、これは立会川浄化対策の一環として、品川区と東京都および鉄道会社が連携し、平成14年(2002)7月より東京駅地下の湧水を川まで導水し設置した施設。平成15年早春には立会川へボラが大挙して押し寄せた出来事もこの事業効果の現われではないかといわれている。

大森にドイツ人が多いのは、大正10年(1921)に横浜から山王へドイツ学園が移転してきたことによる。 子供の教育環境を考えると当然大森周辺に居を構えるわけで、ヘルマンもその一人だったのだろう。

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前述の桜新道へ繋がる道を整備した時に、ヘルマン氏が積極的に協力したというのも一因だろう。一方古い方の街道を西に進むと、月見橋で立会川を越えるが、立会川が開渠になっているのはここまでで、ここから上流は暗渠になっている。水源は目黒の碑文谷池と清水池。碑文谷池は2016年6月におばあさんの切断死体が上がった記憶に新しい凶悪事件の池である。

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2018年1月 8日 (月)

犬坂(大井)

坂の入口はわかりにくい。  しかし第一京浜の品川東大井二丁目郵便局向いの斜めに入る路地の角に、これでもかというくらい鋭角な三角形のビルがあるので、それを目印に斜め路地に入る。 すぐに天理教の建物が右手にあるので、そこの脇を入ると犬坂に至る。

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路地を進むと崖が見えてくる。 この辺りは仙台藩屋敷の辺りと並んで、大井のクヌギ山の台地の中では崖の高さがある。 この崖は川によるものではなく、海食崖である。 犬坂上まで上がると向こう側は緩やかに立会川の削った浅い谷に下るが、こちら側は急峻な海が削った崖である。 その崖に上るのが階段坂の犬坂。

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階段坂の中段に標柱がある。 「この坂は、階段が造られるなど舗装整備されているが、曲がりくねった坂道であった。 犬坂の由来は不明であるが、俗称の〝へびだんだん″はその曲がりくねった有様からそう呼ばれている。」

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岡崎清記氏は品川区の教育委員会の話として、ここに犬小屋が実在したことが犬坂の由来らしいが、それが徳川綱吉の生類憐みの令によるものかどうかがわからないとしている。

明治初年の地図を見ると、坂上が丘の頂になっていて、そこに上るあぜ道のような道がある。それが明治末期になるとちゃんとした道になっている。その丘は標高が15mの等高線を見るとちょっとした岬の小島のような地形になっている。 ここは室町時代の北条氏の家臣だった梶原氏の城跡。 ただ遺構のようなものは何もない。 梶原稲荷という稲荷神社があるだけである。

この辺りには鎌倉時代に梶原景時によって1190年頃建てられた万福寺があり、その境内にこの稲荷があったが、1320年の火災で寺は焼け境内にあった稲荷だけが残ったという。社殿の後ろの小山が古墳だという説もある。

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木芽の坂(このめのさか)

大井町駅前のきゅりあんから大井消防署へ下る道。 区立立会小学校の南側を下っていく。 坂下の公衆トイレの植込みに品川区の標柱が立っている。

「この木芽の坂という名は、若葉の頃が美しかったためにつけられたといわれている。 江戸時代には、この坂の北側に越前国(福井県)鯖江藩間部家下屋敷があった。 坂の南側は崖になっており、下には泉があったという。」 と書かれている。

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鯖江藩間部家は1737年以降で、それ以前は仙台藩伊達家だった。  江戸時代から明治の初めにかけては崖上は杉林と畑に囲まれ、東海道に下る細い道があった。 明治になってからの地図にも伊達・間部屋敷の周りには囲いが描かれているので、塀があったのかもしれない。

南側の現消防署の辺りには池があった。 坂より南は少し谷地っぽく凹んでいるようなので、湧水があって池ができたのだろう。 同じような湧水が下屋敷にもあり、見事な庭を形作っていたはずである。

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元々の海岸は坂下から200mほど先だった。 そこには東海道が通り、海側の家屋の裏は即海岸だった。鮫洲の運河に下る道として整備して広げた時に、急坂だったのを広げた。 昭和の初期のことである。

木の芽というのは食べる対象ならばアケビの若芽のこと、そうでなければ山椒の若芽のことだが、かなりの樹林地帯だったのでどちらもここには生えていただろう。 私の推測では由来は前者のアケビの方で、春先に東海道周辺の人々はこの坂に来て木の芽を採取したので、この坂名がついたのではないだろうか。

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旧仙台坂(くらやみ坂)

江戸時代の仙台藩下屋敷にちなむ本来の仙台坂はこちらである。 大井町駅前からまっすぐに都道420号線を東へ進み、ゼームス坂上から300mで仙台坂上の変則交差点。 そこから第一京浜まで下る坂が旧仙台坂。 車道はトンネルで崖線を下り、歩行者(自転車)はその上の坂道を下る仕組みになっている(上りのみ車両通行可)。

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歩道の傾斜は自転車で上るにはいささか厳しい。 北側の海晏寺の墓地は階段状に崖線に張り付いていて、上の写真の右の法面上が実際の地面と考えてよい。 かつての海岸線とはいえ相当な傾斜である。 歩道の坂上と坂下に品川区の標柱が立っている。

「江戸時代に、この坂の中程から上にかけて仙台藩伊達陸奥守の下屋敷があったことから、東大井4丁目と南品川5丁目の間のこの坂は仙台坂と呼ばれていました。 しかし現在は青物横丁に抜ける坂道が拡幅され交通量が増加したために、その坂の方を一般的には仙台坂と呼ぶようになり、こちらは旧仙台坂と言われるようになりました。」

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実際は概ねこの坂下の泊船寺境内を除く、旧仙台坂の南側から立会小学校までを含むあたりが仙台藩下屋敷だった。 立会小学校の北側には大井公園があり、その辺りはここが下屋敷だったことをイメージさせる崖線の雰囲気がある。

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ちなみにこの仙台藩下屋敷は万治元年(1658)に麻布の下屋敷を返上して、新たに大井村に拝領した下屋敷だった。 元文2年(1737)に鯖江藩間部家の大崎の屋敷とここを交換し、鯖江藩の下屋敷になったが、その後一部は再び伊達家の所有に戻った。 江戸時代の大名屋敷はこういった変遷が多い。

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坂上には樹齢300年のタブノキの巨樹がある。 伊達家の庭にあったものが、300年の時を経てここまで大きくなった。 幹回り4.6m、樹高20mの巨木で品川区の天然記念物に指定されている。

仙台藩の屋敷跡はこの車道トンネルを掘る際に発掘調査がなされた。 伊達家の主君で最もここに長く暮らしたのは三代目の伊達綱宗で、彼は1660年に不行跡(いわゆるバカ息子みたいなものでしょう)で幕府に隠居を命じられ、1711年に没するまで50年以上をここで過ごした。 彼の没後は味噌の醸造所としての役割が増え、味噌蔵中心となったようだ。

また、この屋敷跡には縄文時代の遺跡も出土しており、縄文海進時代にはここが海岸線で、自然豊かな土地で人間が何千年も暮らしてきたことに歴史の深さを感じる。

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2018年1月 7日 (日)

仙台坂(大井町)

仙台坂は港区麻布にもあるが、こちらも仙台坂。 仙台藩伊達家の上屋敷は現在の日テレのある汐留の26,000坪、電通ビルから日通ビルまでの全敷地。 中屋敷は愛宕下の10,000坪、下屋敷は麻布の仙台坂沿いの21,000坪、そして麻布を返上し、引っ越したのがここ大井町の3,000坪だった。 大井町の下屋敷が最も狭かった。 その理由は旧仙台坂のところで…。

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下屋敷は通常江戸の郊外に作り、火事などの際の避難場所の役割を持っていた。 坂上にある仙台味噌蔵(上の写真)は有名だが、蔵屋敷的な役割も大井は持っていたのだろう。

実は元はこの味噌蔵前の道路が仙台坂だった。青物横丁からの道が仙台坂と呼ばれるようになったのは、こちらの道が新道として明治以降改修され交通が増えたためいつしか仙台坂になった。

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古くはこの坂上はくぬぎ山と呼ばれた。 今は大井町東口の商店街がにぎわっている。 伊達屋敷のあるくぬぎ山はたいそう風景の良い場所で、江戸湊を俯瞰できた。  都心の上屋敷に比べれば、味噌蔵付の別荘のようなものだったと思われる。

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仙台味噌は後に八木醸造所となり、今もこの仙台味噌蔵で味噌を作っている。

坂上の「仙台坂上バス停」と坂下のりそな銀行前に品川区の立てた標柱がある。「仙台藩主伊達家の下屋敷や、仙台味噌の醸造所があったことから、仙台坂と呼ばれている。 もとは、この坂の南方、海晏寺と泊船寺の間にある坂の名であったが、のちにこの坂の方が道幅が広がり、交通量が多くなったため、坂名が移転したものといわれている。」

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ゆうれい坂(大井町)

ゼームス坂の途中、南品川ロイアルハイツ脇を入る路地を進むと、遊具のないただ芝生だけの公園がある。 マンションの管理区域内だと書かれている。 その先から下り坂になるが、これがゆうれい坂である。 特に説明板などはない。 マンションの敷地は昔、浅間台と呼ばれた場所である。

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道はクランクになりさらに下っていく。 このクランクの辺りの斜度が大きい。 地形図の標高線もこの部分で詰まっている。 この道は明治の終わりか大正になる頃に開かれた坂道のようである。 昔はマンション敷地のある南側は樹木が生い茂る崖線だった。 かつては両側に大きな樹木が生い茂り、薄暗く寂し場所だったために、ゆうれい坂と呼ばれるようになった。(しかし近所の人は「ニコニコ坂」と呼んでいるという品川区の情報あり)

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坂下は仙台坂上に切れ込む小さな谷筋。 昔は浅間台から眼下に東京湾が見えたはず。 大正時代までは京急線のすぐ先に通る旧東海道が海岸だった。 昭和になって東品川が埋め立てにより誕生し、その地に現在の免許試験場ができた。 手前にある鮫洲公園は昭和の後半まで海が入り込んでいた。

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ゼームス坂(大井町)

大井町駅の東側は古い時代の海岸岬である。 まだ海面が高かった時代、目黒川は御殿山とこの大井町東側の台地を河口にして東京湾に注いでいた。 また中延辺りから大井町に流下する川もあった。 その立会川暗渠にできた道が緩やかに曲がっている立会道路。 品川区南部(大井)の坂道はこの地形にできたものである。

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坂の途中に品川区の立てた標柱がある。

「もとは浅間坂と呼ばれ、かなり急な坂でした。片側は切り落としになっていて、崖の向こうには品川の海が間近に迫って見えたそうです。 明治時代、この坂の途中に英国人のJ.M.ゼームスが住んでいたことから、ゼームズ坂と呼ばれるようになりました。」

坂の途中の脇道に昔の海岸と思われる段差がある。 どちらの道も行き止まりだが、地形は素直に昔の記憶をとどめている。

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浅間坂という古い名前は大井町東側が昔、浅間台と呼ばれていたことにちなむ。 ゼームス氏の名が残ったのは、日本の造船に大きな影響を残した彼が、かつて急坂であったこの坂を、私費を投じて緩やかに改修した。 それを感謝する土地の人々がいつからともなくゼームス坂と呼ぶようになったためである。

明治初期の地図を見ると、この坂の西側の崖線に1軒の広い屋敷がある。 おそらくこれがゼームス邸だろう。 ほぼ現在の三越ゼームス坂マンションのA、B,C3棟を合わせたほどの敷地だったようだ。 マンションの裏にある駐車場の入口にゼームスの説明を書いた石碑がある。

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ちなみにゼームスというのはJamesで、当時の日本語には「ジェ」という表記はなかったためゼームスになったのだろう。 石碑には次のように書かれていた。

<ゼームス邸跡地について>

此の処は南品川英国人ジョン・M・ジェームス邸跡地である。 M・ジェームスは慶応2年(1863)28歳の時来日した。 そして坂本龍馬等とも知り合い、後に日本海軍創設に貢献し、明治5年海軍省雇入れ以降、幾多の変遷を経て住まいを此の地に構え、隣人に慕われつつ、明治41年70歳にて没した。 墓は身延山本堂裏山に在り、「日本帝国勲二等英国人甲比丹ゼームス之墓」と刻まれている。その頃のジェームス在りし日を偲ぶ庭の欅も品川区の保護指定樹として樹齢百数十年の姿そのままに苔むす石垣と共に昔の面影を今に止めている。

残念ながら最も大きな欅は折れて切られてしまったが、まだ何本か残っている。 また道路の向かい側には高村光太郎の「レモン哀歌」が美しい御影石に刻まれているが、それはここが高村智恵子終焉の地だからである。

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2018年1月 6日 (土)

石古坂(不動前)

目黒不動前には今でも雰囲気のある商店が多い。 鰻の蒲焼を売る八つ目やも行列のできる人気店だ。 この八つ目やのある辻から南西に進むと、林試の森公園の東門に出る。 林試の森はかつての農林水産省林業試験場跡にでき、多くの樹木を試験場時代から引き継いだ、樹木ファンには魅力的な公園である。 試験場は筑波に移転したがそのままの雰囲気が残されている。

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東門前の道路が石古坂で、これが目黒区と品川区の区境になっている。 東門の近くに目黒区の標柱が立っている。

「その昔石ころが多い道だったので、石古坂と呼ぶようになったといわれる。他に、古地図に記された「石河坂」が転じた説などがある。」 とそっけない。

どうも昔はここが羅漢寺川という小川であったらしい。 それで石川→石河となり、いつからから石古となったという説がある。 この川は飲み水にできるようなきれいな水の小川であったという。

昔の川の呼び名としては、飲料に適した清流を石川とか呑川と呼んだようだ。 一方で、農業用水のような川は、品川とか砂川と呼んだ。

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確かに明治の地図を見ると林業試験場の中を小川が流れ、目黒不動前を目黒雅叙園方面に流下している。 しかし石古坂の上までは来ていない。 私の推測は、石河(石川)の近くにある坂なので石河坂といったのが、読み違えるうちに石古坂に転じたのではないかと考えている。

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禿坂(西五反田)

東急目黒線不動前駅近く、目黒線と平行に南北に延びるのが禿坂である。 坂下の山手通りとの交差点は「かむろ坂下」という名称。 そこから緩やかに、微妙にカーブを描きながら500mほど上っていく。 歩道付きの二車線路で道幅があるが、ずっと続く桜並木が坂の景色に色を添えている。

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「禿(かむろ)」というのは普通は僧(坊主)のことを指すが、元は遊郭で遊女に仕えながら見習いをする12~13歳程度の少女を禿といった。 彼女らは髪をおかっぱにしていたので禿と呼ばれたのである。 当時のおかっぱは妖怪の河童のように頭の真ん中を剃り、周りを短く切った髪型であった。

河童→髪の毛がない→坊主という解釈の変化で坊主のことを禿と言うようになったが、この禿坂の禿は少女の方である。

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坂の途中にあるかむろ坂公園には坂名の由来が掛かれた説明板と禿のレリーフがある。

三百年ほど昔のこと、犯罪を重ねた鳥取の武士「白井権八(本名は鳥取藩の武士で平井権八郎直定)」が鈴ヶ森刑場で処刑され、目黒の冷心寺(別説では目黒不動そばの虚無僧寺)に引き取られ葬られた。 彼と相愛であった吉原三浦屋の花魁「小柴」は、それを聞き目黒へ行き墓前で自害してしまった。

三浦屋の主人は、彼女の付き人をしていた禿を迎えに出したが、禿は冷心寺(別説では目黒不動)で小柴の死を知り、泣きながら帰っていく途中、桐ケ谷で暴徒に襲われ逃げたが「二ツ池」に飛び込んで死んでしまった。

それを見た村人たちは憐れんで、禿を丘の中腹に葬り、かむろ塚と呼んでいたが、時代が過ぎて、その丘はかむろ山、池はかむろが池と呼ばれるようになり、この坂名が残されたと伝えられる。

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その二ツ池の場所は、今のかむろ坂公園の北側の第四日野小学校のあたりだった。 確かにこの辺りは明治期には「谷戸窪」という地名で、それからすると江戸時代に池であった可能性は高い。

古い中原道の道筋は国道1号線筋にあり、都心から来ると五反田を過ぎて目黒川を大崎橋で渡る。 その先に辻がありその地名が桐ケ谷。 そこから平塚橋に至るが、桐ケ谷の辻で目黒不動方面へ道があった。 昔の目黒不動は江戸の郊外の一大レジャースポットだったので、五反田桐ケ谷ルートか目黒行人坂ルートが使われた。 花魁小柴も禿もこの五反田桐ケ谷ルートを使ったのだろう。

禿坂はその五反田桐ケ谷ルートのさらにう回路にあたるが、二ツ池から目黒川へ直接下る道筋は江戸期からあったので、禿坂は江戸時代から続く坂道と言える。

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2018年1月 4日 (木)

桐ケ谷坂(大崎)

桐ケ谷坂は中原街道の一部である。 中原街道から首都高速目黒線のランプが分かれる辺りからTOCビル辺りまでの坂道を桐ケ谷坂と呼ぶ。とても緩やかな坂で大通りをのんびりと下る。

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坂上には「桐ケ谷坂上」のバス停がある。 坂の上下では15mの高低差があるが、大通りなのでほとんど坂を感じない。坂上に近い桐ケ谷交差点の角に品川区の標柱が立っていた。

「桐ケ谷坂は、もと江戸時代の中原道(中原街道)の坂を呼んでいたが、昭和初年の区画整理によって現在の中原街道ができたために、坂名もこちらに移ってきた。 昔このあたりは桐の木が多くあった土地で、また霧の深い谷地であったために、桐ケ谷と呼ばれるようになったと伝えられる。 」

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かつての中原街道は一本北側の通りで、坂上をさらに上った平塚橋で今の中原街道と同じ道筋になる。 その平塚橋は丘の上なのに「橋」とつく理由は、品川用水を渡す中原街道の橋があったため。 平塚橋から戸越への都道420号線が不思議なくねり方をしているのはこの道が品川上水沿いに造られたからである。

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峰原坂(大崎)

山手通り(環状6号線)の大崎警察署の交差点を南に向かって上る坂。 警察署の裏手から西側は立正大学のキャンパスが続くので、平日は学生が多い。 立正大学は仏教系の学校で、源は1580年に設立された日蓮宗僧侶の教育機関。 誤解を受けているが、立正大学と立正佼成会は全く無関係。実際には考古学については日本の中心的な存在で、地理学でも優れた研究機関である。

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坂下と坂上に品川区の標柱がある。

「峰原という地名は、江戸時代の谷山村(やつやまむら)飛地内の字名であった。 現在の大崎三・四丁目付近にあたり、坂名はこの地名からとったものである。なお谷山村の本村は西五反田二・三丁目の目黒川沿いにあった。」

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百反坂とおなじく長い坂なので坂下と坂上では18mほどの高低差があるがそれほど急な感じはしない。  峰原坂は昭和になって開かれた比較的新しい坂道である。 しかし並木があり、途中石垣もあって、坂としてはいい風景の坂道だ。

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不安なのは、この坂の将来。 というのは大崎警察署から百反坂坂上に向かって幅20mの計画道路があるのだ。 できてしまうとこの坂はほとんどそれに含まれてしまう。 ただしまだ用地取得に至っていないので、私が生きている間はなさそうだ。

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百反坂(大崎)

大崎駅の西口はかつては京浜工業地帯の代表的な工場地だった。 明電舎やSONYの工場が並び、その関連の中小の工場が周辺にたくさんあった。 ところが現在はほとんどがきれいなオフィスビルに変わってしまっている。 東口の大崎ニューシティはあっという間にオールドシティになってしまったほど変貌の激しい町である。

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百反坂は線路わきの丁字路から始まる。緩やかにカーブしながら徐々に標高を上げていくが、この道筋は明治以前のままである。坂下と坂上の商店街に品川区の標柱がある。

「この、現在「ひゃくたんざか」と呼ばれている坂は、古くは「ひゃくだんさか」と呼ばれていた。このあたりは、目黒川に向かって傾斜している台地の端にあたり、その傾斜が段々になっていることから名づけられたという。「百」とは、「数が多いこと」を意味することばで、「段々が多いこと」から「百段」になり、のちに「百反」に転化したものと考えられている。」

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しかし、この辺りは工場が建つ以前は目黒川沿岸の農業地だった。 北品川宿の一部で字百反耕地と呼ばれていた田園地帯で、それが百反坂の由来だという説の方がしっくりくる。目黒川があることで舟運に有利であったので、明治以降西洋式の工場の受け入れ地となり、水田がどんどん埋め立てられて工場に変わっていったという。

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坂はだらだらとわずかにカーブを描きながら商店街を上っていく。この辺りは明治以前に民家がたくさんあったところだ。 また脇を品川用水の分流が流れており、江戸時代には周辺の農地に水を供給していた。

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古い地図では坂上の道に水線があるので不思議に感じたが用水であれば納得である。周辺の農地に水を配するには標高が若干高くなければならない。 坂上からは今はビルしか見えないが、目を閉じると目黒川沿いに広々とした田園地帯が広がる風景を想像する。

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僅か100年の間に目まぐるしい変化にさらされた小さな稲荷が商店街の脇の用水跡にある。明力稲荷大明神という。この稲荷の周辺は昔の風景を残している。

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八ツ山の坂(北品川)

品川半島の突端は品川神社である。 神社の階段下はかつては東京湾の波打ち際だった。 目黒川が運んだ土砂が海岸に溜まると青物横丁周辺のかつての品川宿までが陸地になった。 東海道線はこの岬の半島を切通しで貫いた。江戸時代に栄華を誇った東海寺は同じ名前の東海道線に境内をぶった切られる形になり、線路の裏側に創建者である沢庵和尚の墓がある。

そんな半島の岬より少し手前の山が御殿山だった。江戸時代は将軍の鷹狩り休憩所の御殿。ところが黒船来航後の江戸防衛のために御殿山は削られお台場の土として使われた。その後明治になってからは、三菱財閥の岩崎家邸宅、原六郎(渋沢栄一・安田善次郎・大倉喜八郎・古川市兵衛と並んで日本財界5人男と称された)の屋敷などが建てられた。 今も残るマリオットホテルと御殿山庭園は彼の庭だった。

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そんな御殿山に五反田方面から上る坂が八ツ山の坂である。周辺はかつてはSONYの関連施設や工場が立ち並んでおり、この道もソニー通りを呼ばれていたが、今はSONYとわかるものは少ししかない。 坂の辺りは江戸時代は、松江藩松平家下屋敷、のちに鳥取藩池田家の下屋敷となった。 海側は将軍家の御殿山にあたる。

坂上のバス停脇と坂下に標柱がある。

「このあたりは武蔵野台地の突端にあたる丘陵で、海岸に突き出た洲が八つあったところから八ツ山と呼ばれた。この地にある坂のために、いつしか八ツ山の坂という名がつけられた。 この道は、もと三間道路と呼ばれ、道幅は三間(約6m)で、あたりには人家も少なく、夜はさびしい通りであったという。」

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通りは両側がかなりの傾斜地になっているが、これは江戸時代に目黒川の氾濫のたびにここから土を削り五反田方面の護岸工事などに使われ切り崩された歴史があるという。 それでも江戸時代はまだ曲がりながら上っていく坂道だったようだ。

八ツ山に関しては諸説ある。 この地に八つの岬があったので八ツ山という説や、この地がかつての谷山(谷はやつと読む)村だったので転化して八ツ山いう説がある。

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2018年1月 3日 (水)

御殿山の坂(大崎)

御殿山という地名は品川区にはないが、この辺りには御殿山と名の付く建物や場所がたくさんある。 江戸時代、東海道の最初の宿場である品川宿が、現在の京急北品川駅から青物横丁駅にかけて賑わっていた。 寛永13年(1636)に品川宿を見下ろす丘陵地に品川御殿と呼ばれる将軍の鷹狩りの休憩所が作られた。 これが御殿山の由来だというのが有力説。

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坂上にはミャンマー大使館がある。 昭和世代にはビルマ大使館の方がしっくりくる。 そこから南へ進むと神戸製鋼所東京本社沿いに、桜並木のお洒落な道が下っていく。 坂の上に品川区の標柱がある。

「このあたりは、江戸時代に将軍が鷹狩りの折に休んだ品川御殿があった場所で、御殿山と呼ばれている。坂の名称もそこからつけられたものである。もとは急な坂であったが、何回かの修復でゆるやかになった。」

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江戸時代この坂の上は御殿山、坂の下は東海寺の境内だった。 東海寺は江戸を代表する寺院の一つで、上野の寛永寺、芝の増上寺に匹敵する力を持つ寺であった。 三代将軍家光の加護を受けた沢庵和尚が創建。 品川神社を境内の一部にするほどの大きな寺だったが、明治政府によりほとんどの寺領を接収された。

江戸末期になると黒船来航でお台場を作るために、御殿山と八ツ山を切り崩したため御殿山の第一京浜寄りの形が変わってしまった。現在の品川女子学院あたりである。 当時の品川宿にはすぐ裏まで丘陵が迫っていたのである。

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この品川女子学院脇から御殿山の坂の坂上に向かって上る坂道がある。 通り名は御殿山通りで特定の坂名はついていないが、なかなかきれいな坂道。 江戸時代も現在も御殿山は王子の飛鳥山と並んで桜の名所である。

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相生坂(五反田)

JR山手線五反田駅のホームに立つと、国道1号線が交差して伸びていく景色が見える。 ごの風景がここが五反田であることを気づかせてくれるとさえいえるだろう。 この国道1号線の高輪台への緩やかな上りが相生坂である。 別名は下大崎坂。

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これだけの広い通りなのであまり坂の傾斜を感じることはないが、五反田駅の標高は3m、高輪台は27mとかなりの高低差がある。 上の写真の道路向こうにある白いビルの手前に雉子神社があるが、そこと駅のガードの標高差ハ20mもある。

雉子神社はビルに囲まれて鎮座するが13世紀から続く神社。 三代将軍家光が鷹狩りに来た際に、1羽の白雉が飛び入ったのを見て、将軍の命でそれ以前の大鳥明神という名を雉子ノ宮と改称した。

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これだけの大通りなので、標識を探すのにも苦労するが、通りの西側のブラジル銀行前にモダンな標柱がある。また東側の標柱は坂のずっと上のバイク店レッドバロン手前にある。 二つの標柱の距離は400mも離れている。 400mで20mの高低差なので傾斜的には大したことはないが、歩くといつの間にか疲れている感覚がある。

標柱には、「相生坂の名称は、古く江戸時代から呼ばれていた。 その由来は御殿山方面から宝塔寺(東五反田1丁目)前を通る道と、この坂のある中原街道が、雉子神社の手前で合流していたことに基づくとされる。 昔は急坂で険しいものであったが、だんだんと道路整備がされて現在のようになった。 別名を雉子ノ宮坂ともいう。」 と記されていた。

昔は景色も良かったようで、『新撰東京名所図会』には、下大崎坂は雉子ノ宮を南に下る坂で、前面は低地を隔てて、霞のような森が遠く眺められ、郊外ののどかな村の風景が望め、広重の絵になってもおかしくない、とある。 また、坂下には袖ヶ崎橋で三田用水を渡ると書かれている。

恵比寿から目黒駅脇を流れてきた三田用水は白金台を抜けて、雉子神社のすぐ下を流れていた。大正時代まではこの大通りはくねくね曲がる村の道だったが、昭和に入る頃に都電を通すためにまっすぐに付け替えられ今のような道になった。

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2018年1月 2日 (火)

道灌山坂(西日暮里)

道灌山の坂の最後はその名も道灌山坂。  実はこの坂道が荒川区と北区の区境になっている。 坂の途中にある道灌山幼稚園は坂を挟んで左右に分かれており、南側の園舎が荒川区、北側の園舎が北区になっている。

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ひぐらし坂と向陵稲荷坂は地元から荒川区への要請で1990年に坂名を公式につけたが、この道灌山坂はもっと後の2006年にやはり地元の要請で名づけられた。 坂の上下には向陵稲荷坂と同じような標識が立っているが、その文字について「高橋東吾96歳著」と記されている。

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前述の道灌山幼稚園、二つの区を跨いで渡り廊下があった。 こういう場合建物の登記はどっちの区になるのだろうかと余計な心配をしてしまう。 この幼稚園の渡り廊下をくぐると坂上になる。

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坂上はまさに道灌山。 日暮里4丁目の台地は道灌山と呼ばれている。 道灌山は太田道灌の出城があったことに由来する。 道灌山は眺望に優れ、秋田藩主佐竹氏の抱屋敷には上覧場という見晴らし台もあった。 そして江戸時代の佐竹藩はこの見晴らし台を庶民にも開放され、茶屋も設けられた。眼下には、三河島や尾久の田園風景、筑波山や日光連山、下総の国府台(千葉県市川市)などを眺望できた。

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現在でもこの眺望があるのが道灌山である。 江戸時代にはよほど庶民の人気が高かったらしく歌川広重も江戸名所図会の中で複数枚を描いている。 国会図書館資料「道灌山」

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向陵稲荷坂(西日暮里)

道灌山の上から開成高校と開成中学の間を下る坂道である。 坂上西側に向陵稲荷が鎮座しているので、向陵稲荷坂と呼ばれる。 開成学園との関係が深く、学業成就の御利益を謳っている。

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神社の縁起には、向陵稲荷大明神(宇迦之御霊神=稲荷神)を祭る。 江戸時代から佐竹氏の屋敷内に祀られていたものを、大正初期渡辺町(旧町名)にひぐらし公園に移して町の鎮守となっていた。のちにここに移転したが、戦災でも焼けることなく残ったとある。

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稲荷前から坂を下ると、左手には多種遺跡の埋もれた開成高校のグラウンドがあり、右手には中学校がある。さかの中腹には高校と中学を結ぶ渡り廊下がある。東京の学校には渡り廊下があるところが多いが、この渡り廊下から坂上に向かって桜の木が並んでおり、春は見事な桜のトンネルになるという。

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坂名の由来はひぐらし坂と同じく、平成2年(1990)に地元からの要望があり、それによって名づけられたもの。 区と地元で設置した標識が坂上と坂下にある。

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佐竹氏については、秋田県の地元にも「旧秋田藩主佐竹氏別邸(如斯亭)庭園」があり、庭園造りにはそうとな造形があったものと思われる。 その庭園は秋田市街北東部を流れる旭川の左岸に位置する。 居城であった久保田城の搦手(からめて=城の裏門)に近在する田園の景勝地(搦田)に営まれたこの別邸は「唐見殿」とも称された。

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ひぐらし坂(西日暮里)

西日暮里といえば開成学園、東京大学進学者数36年連続首位のとてつもない学校である。 この開成学園は実は歴史も古く、明治4年(1872)に共立(きょうりゅう)学校として創立し、一時は寂れたものの、高橋是清(大正期の首相)が校長となり復興して今の開成を築いた。 明治以前は秋田藩主の佐竹氏の抱屋敷(下屋敷)だった。2万坪の敷地内には「衆楽園」と名付けられた山荘があり、名園として有名だった。

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ひぐらし坂はその開成高校の校舎脇を上っていく。 そして西日暮里公園から通りを跨ぐ歩道橋と同じ高さで合流して、北に曲がりさらに開成高校沿いを上っていく。 ひぐらし坂の命名は平成2年(1990)、地元からの要望で決まった。 ただ明治初期からあった坂道で歴史はある。

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開成高校のグラウンド内には遺跡があり、「道灌山遺跡」と呼ばれている。 ここには縄文時代の集落の跡があり、約8000年前の遺跡。 またこの場所には弥生時代中期の住居跡も出ており、とても長い間人間が住み着いている場所だということがわかる。

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坂上はほぼ道灌山があった辺りになる。 上野台地の中でも最もくびれたボトルネックのような場所だが、谷中霊園当たりの標高が18mほどなのに、台地の最も細いここが23mあるのが意外だった。 昔は周りから見ると本当に山のように見えたのだろう。

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2018年1月 1日 (月)

間の坂(西日暮里)

この坂はこれまでの坂関連の本には出ていない。 しかし、岡崎清記氏は『今昔東京の坂』の地蔵坂の章で、「西日暮里駅西口から、諏方神社の丘へ上る無名坂がある。坂の片側は道灌山公園の高い崖。勾配のきつい急坂が屈曲して上る。」と書いている。 昭和56年(1981)発刊の著作だ。

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岡崎氏が書いている道灌山公園というのは現在の西日暮里公園のこと。諏訪台の道は諏訪台通りと呼ばれていて、坂の途中にも通り名が記されている。 この公園を巻くように下っていく坂の景色はなかなかのもので、岡崎氏の説明通りである。

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古い地図を確認してみると、江戸の切絵図では江戸の外ともいえる場所なので記述がはっきりしないが、明治の初めころの地図にはきちんとこの道筋が描かれている。 諏方神社から下る地蔵坂もこの坂も現在の道筋と同じである。

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ガード下の通りを渡り道灌山へ少し上ったところから振り返るとこの坂道の傾斜がよくわかる。 なぜこの坂道に名前がなかったのかが不思議でもある。 また、上の写真のJRのガードには「東北線(41) 間之坂ガード」とある。 ガード名のプレートのある壁面は平成4年(1992)の工事なので、その頃には間の坂という呼称はあったと思われる。

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地蔵坂(西日暮里)

谷中墓地の北へ続く崖線はJR日暮里駅から西日暮里駅へと続く。 両駅の間に諏訪台という見晴らし台があり、日暮里から東の低地を一望できる。 江戸時代からその良い見晴らしにひぐらしの里と呼び人々が訪れた。 そこに諏方神社がある。創建は元久2年(1202)、当時周辺を支配していた豊島氏(豊島座衛門尉経泰)が信州の諏訪神社より勧請。日暮里(新堀)村、谷中の鎮守となった。

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諏方か諏訪かということについてはよくわからない。 富士見坂側の鳥居脇の石柱には「諏訪神社」とあるが、他のものは「諏方神社」と彫られている。 時代によるものなのか、何か謂れがあるのかはわからない。

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その諏方神社から崖線側に下る階段がある。これが地蔵坂である。途中に荒川区の説明板がある。

「この坂はJR日暮里駅の西脇へ屈折して下る坂である。坂名の由来は、諏方神社の別当寺であった浄光寺に、江戸六地蔵の三番目として有名な地蔵尊が安置されていることにちなむという。」

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諏方神社の南隣の浄光寺は景色の良い諏訪台にあったので、江戸時代は鷹狩りに来た将軍が御膳所としていた。 庶民だけではなく、将軍も好んで景色を楽しむ場所だったのは今の地形を見てもわかる。

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この階段坂は意外と長く、61段もあり、高低差は15mある。駅のホームから見ると地下に潜っていくような錯覚を覚える。 気になったのは、坂下から駅の東側へトンネルで行くようになっているのだが、このトンネルに「諏訪坂架道橋」とある。 これはJR側の間違いだろうか。

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2017年12月31日 (日)

紅葉坂(谷中)

紅葉坂は谷中墓地の天王寺門前から線路側に下る。 あるいは日暮里駅南口を崖上に進む。この日暮里駅南口がちょっと変わっている。 日暮里の駅前ロータリーから南口は認識できない。 消防署の南側に歩道橋のような階段があり、これを上ると日暮里駅南口、その先が紅葉坂になる。

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日暮里駅南口から紅葉坂方向へ行く人は普段はほとんどいない。跨線橋の先の突き当りを左に曲がると石垣と階段が現れる。これが紅葉坂だ。 江戸時代の切絵図には書かれていないが、坂の命名は江戸時代なので、当時の紅葉坂と現在の紅葉坂がどれくらい重なるのかはわからない。

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階段坂を上ったところに台東区の標柱がある。

「坂道周辺の紅葉が美しかったので「紅葉坂」と命名されたのだろう。別名「幸庵坂」ともいった。その命名由来は不詳。江戸後期の国学者、山崎美成(よししげ)は「金杉日記」に、「天王寺うら幸庵坂下、又三しま社のほとり秋色尤もふかし、林間に酒を煖む」と記している。この記事によると、幸庵坂の名は江戸時代すでにあったことが知られる。」

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幸庵坂は紅葉坂の別名。 大正時代までは御殿坂が崖に沿って南に曲がり、その先で紅葉坂の坂下と出合っていた。 今は線路わきの通路程度に水平な道があるが、それに近いルートだったようだ。

天王寺には墓地の交番の所に五重塔があった。東京で最も高い五重塔だったが、昭和32年(1957)に心中放火で焼失した。 財源の問題でいまだに再建はされていない。

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2017年12月30日 (土)

芋坂(谷中)

谷中霊園と日暮里を結ぶ道は御隠殿坂、芋坂、紅葉坂、御殿坂(下御隠殿橋)の4つ。 車が通れるのは御殿坂のみである。 芋坂は王子街道にある善性寺門前から入る。その善性寺門前の芋坂入口には文政2年(1819)に創業した藤の木茶屋(現在の羽二重団子)がある。ただし羽二重団子は2017年現在ビルの建て替え中であった。建て替え前角には王子街道の石碑が立っていた。また路地に入ったところに荒川区の立てた説明板があった。

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<荒川区の説明板>

善性寺の門前から谷中墓地へのぼる坂。 坂名の由来は未詳。 明治15年ころ、日本鉄道会社の東北線(現JR)が通じて分断され、その形状が失われてしまった。  伊東晴雨が描いた「根岸八景」の「芋坂の晩鐘」は、天王寺の五重塔を望む芋坂ののどかなたたずまいをよくあらわしている。

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芋坂跨線橋も一見御隠殿坂と見間違えそうだが、よく見ると階段の真ん中に手すりとスロープがない、鉄道との間のフェンスが異なる、橋が芋坂の方は直線で御隠殿坂は曲がっている。 ここもかつては踏切だった。

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跨線橋を渡ると緩やかな坂が墓苑に向かって続いている。その先に台東区の立てた標柱がある。

<台東区の標柱>

坂を登れば谷中墓地、下ると羽二重団子の店の横から善性寺へ通じていた。鉄道線路でカットされ、これに架かる橋が「芋坂跨線橋」と名付られて、わずかにその名を残している。坂名は伝承によると、この付近で自然薯(山芋)が取れたのに因むという。正岡子規や夏目漱石,田山花袋の作品にもこの芋坂の名が書かれている。

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跨線橋の脇に子供の遊び場に下る曲がった坂がある。古い地図を見ると昭和30年代までここには踏切があり車道が通っていたようである。しかし坂関連書物では明治15年に鉄道が敷かれて以来跨線橋になったと書かれている。真相はよくわからない。

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2017年12月29日 (金)

御隠殿坂(上野)

上野台地の東の縁は遥か昔から重要な場所だった。 縄文時代や弥生時代の遺跡や貝塚はあるし、平安時代の住居跡、室町時代は江戸を支配していた太田道灌が道灌山に出城を築き、江戸時代には寛永寺、御隠殿、天王寺と巨大な寺院がこの台地の縁を陣取っていた。

縄文時代はこの崖下は海岸だったのだが、江戸時代は王子から音無川が流下しており、それに沿って王子街道が通っていた。日暮里は一日過ごしても飽きないひぐらしの里と江戸時代には呼ばれていたと伝えられるが、実は以前は新堀村という村名でそれが転化していいところだという意味を込めて日暮里となったようだ。

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その里から歩道橋で線路を超えると上野の山の崖線に渡る事ができる。昭和3年頃造られたもの。 京成線の線路が近い。大正以前は踏切で渡り急坂を上っていたのだろう。御隠殿坂は鉄道のない明治初期の地図にも描かれている。

どうも地図上で御隠殿の動きを辿ると不可解な点がある。寛永寺から御隠殿は同じ上野台地の上なので、台地の下にある鉄道を渡る必要性は全くないのだ。もし谷下を通ったとすると当時の王子街道を歩いたことになり、たいそう遠回りになってしまう。

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各時代の地図を見ていてふと気づいたのは、上野写真の端の脇に下っている道が元々の御隠殿坂で、御隠殿そのものはこの斜面を利用して、崖下の音無川まで広がっていたに違いないということだった。 そうすれば御隠殿を別邸にしていた寛永寺住職らがこの坂を下るということの辻褄が合う。

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墓地に入ったところに標柱がある。「明治41年(1908)刊、『新撰東京名所図会』に、御隠殿坂は谷中墓地に沿ひ鉄道線路を経て御隠殿跡に下る坂道を云ふ。もと上野より御隠殿への通路なりしを以てなり。」とある。御隠殿は東叡山寛永寺住職輪王寺宮法新王の別邸。江戸時代、寛永寺から別邸へ行くため、この道が造られた。「鉄道線路を経て」は踏切を通ってである。」

やはり別邸は崖下に建てられていたのだろう。

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