2017年6月29日 (木)

茗荷坂(富久町)

現在靖国通りは市谷から合羽橋下を通り、富久町を経て新宿に繋がっているが、昭和の戦後まで富久町から富久町西はつながっておらず(のちに安保坂となった)、いったん南西に下り、茗荷坂を上って富久町西に繋がっていた。現在の三角地帯にある源慶寺も、茗荷坂を挟んだ東長寺も江戸初期の開山で、江戸時代はそのまま大木戸門に行く道だった。 この辺りの斜めの道はそういう昔の道である。

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坂の途中に標柱があり、「この辺りは市谷の饅頭谷から西南に続く谷で茗荷谷と呼ばれ、茗荷畑があったという。坂名はそれに因んだものであろう。」とある。 のどかな畑の広がる場所だったのだろう。両側を墓地に挟まれた広い路地は格好の駐車違反場所になっている。

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富久町の由来は明治になってから久しく富む街にという意味で名付けられた。もとは紅葉川渓谷最大のの谷で、水の豊かな場所だった。江戸期はここと太宗寺の間(今の花園小学校のある新宿1丁目)には百人組の屋敷が広がっていた。鉄砲足軽の部隊であるが、江戸時代には町の外れであった新宿辺りには彼らの屋敷が多く、百人町の地名の由来も彼らが住んでいたからである。 相当貧しい層の武士であったようだ。

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2017年6月28日 (水)

安保坂(あぼざか)

江戸時代にはなかった坂である。 江戸期は源慶寺と東長寺の間の茗荷坂が街道だった。 そこから靖国通り沿いに街道が続いていた。源慶寺の西には広い安保邸があり、海軍大臣の安保清種が住んでいた。戦後安保邸敷地を大きく横切る靖国通りに変えたので、この坂は昭和の坂である。

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幾つかの権威ある坂道本には由来がわからないと書かれているが、昭和以前の地図を見ればここが安保氏の邸宅だったことは明らかなのに不思議である。タモリ氏の師である山野氏は安保邸の由来をきちんと書いていた。

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2017年6月27日 (火)

禿坂(蜘切坂)

禿坂(かむろざか)と読む。 また別名の蜘切坂(くもきりざか)も難読。 蜘切坂の由来は、三田に多くの伝説が残る渡辺綱が、ここで古蜘蛛を退治したという伝説に由来している。 しかしそれだけのことで、江戸末期以降はおそらく禿坂の方がなじみ深い呼び名だったのではないか。

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坂は緩やかに上っていく。標柱には、「坂名の由来は定かではないが、近吾堂版の『江戸切絵図』には『里俗カムロ坂』とあり、江戸時代後期には「かむろざか」と呼ばれていたことがうかがえる。」とある。

実はいくつかの説があり、自証院裏手、今の富久小学校の裏、都立総合芸術高校の校門の辺りに大きな池があり、そこに河童が住んでいた。 河童のことをカムロ(禿)と呼ぶのでここが禿坂になったという。 紅葉川の源頭のひとつである。

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坂はだらだらとイトーヨーカドーの先まで続いている。 江戸以前はこの辺りには原野が広がり、人もまばらだったはずである。 このちょっとした斜面と坂道からそういう想像ができる。

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2017年6月26日 (月)

自証院坂

曙橋駅から靖国通りを西へ進む。 この道は江戸時代は甲州街道の脇道のような役割で、辺りには多くの寺町を抱えていた。富久町の東側の成女学園の辺りには今も善慶寺と自証院が残るが、江戸時代には5軒の寺が並んでいた。

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成女学園の脇道を上るのが自証院坂である。 成女学園は明治32年(1899)創立だが、ここに移転してきたのは明治39年(1906)。 それ以前にここに住んでいたのがラフカディオ・ハーンこと小泉八雲で、八雲は自証院の墓地を散策するのが大好きだったようだ。 江戸末期の切絵図を見ると自証院はとても広く、富久町の北側一帯がその敷地で、この坂は参道だったようだ。

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自証院は尾張藩主の徳川光友夫人の母、自証院(徳川家光の側室)を供養する為に1640年に創建された寺院だが、正式な名前は鎮護山圓融寺という。興味深いのは自証院の先、富久小学校の裏手にある無名の坂である。

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明治以降の新しい坂だがなかなかの景色を持っている。 富久小学校へ通うタワーマンションの子供たちが朝夕賑やかに通るのだろう。

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2017年6月25日 (日)

暗坂(暗闇坂)

新宿区は古い町名が残っていて嬉しい。 荒木町の西側が新坂のある舟町、そのさらに西側が愛住町である。それぞれが昨今の丁目レベルの町の広さで、人と人が助けあい支え合いながら生活するのにちょうどいいサイズだと思う。 行政が区割りを変える時は、そこに住む人の生活や人生をも変えるくらいの覚悟で行ってほしいものである。

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坂上には釣り人の聖地のひとつである「釣り文化資料館」がある。週刊釣りニュースの創刊者である船津氏が開いた和竿・魚籠などの伝統釣り具を展示しているが、本社ビルなので平日しかやっていない。そのためにまだ入ったことはない。 資料館前から下るのが暗坂(暗闇坂)。 石垣の上は全長寺の墓地で、まさに暗闇坂の名前の通り、墓のそばであるが、現在はビルが多く明るい雰囲気。

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墓の石垣の下と坂下に標柱がある。「四谷北寺町へ出る道で、坂の左右に樹木が茂っていて暗かったためこの名がついた。別名『くらがり坂』ともいう。江戸時代、坂上一帯は多くの寺院が並び、四谷北寺町と呼ばれていた。」と書かれている。 今でも4件の寺が並んでいる。江戸時代末期は6軒あり、そのうちの4寺は今もある寺院。

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坂は最後に階段になる。 江戸時代から大正まではこちらの道だけだったが、その後カーブして靖国通りに下る車道が開かれた。ものの本にはそちらを暗闇坂と書かれているが、明治以前の地図はみなこの階段の方を暗坂と記しているので、私はこちらを暗坂としたい。

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2017年6月24日 (土)

新坂(荒木町)

曙橋駅の南側、住吉町の交差点から南に延びる上り坂が新坂である。 新坂という古い坂が多い中で、この坂は比較的新しい。 それでも明治の坂。 ただ切通し風の風景がなかなかのもの。

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坂の標柱には、「全勝寺から靖国通り手前まで下る坂道で、明治30年代後半の道路新装によりできた坂道である。江戸時代には甲州街道から全勝寺まで杉の木が連なる「杉大門」通りが伸び、新坂ができて靖国通りまで通じることになった。「今は杉樹は伐採し、其の路は新道に通じて、直ちに市谷に達せり」(東京名所図会)という光景であった。」とある。

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この新坂の西側一角は舟町という町名だが、この辺りは森林地帯でその樹木を舟板用に切り出したので「舟板町」と呼ばれるようになり、それが舟町になったという。 切り出した材木は紅葉川で流して運んだのだろう。 この都心でかつてはそういう風景があったのだと想像すると面白い。

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2017年6月23日 (金)

仲坂(四谷)

津の守坂から荒木町の中に入り込む。 路地の中の歯科医院の脇に窪地に下る階段がある。 仲坂である。 標柱などはないが、石柱がいくつかあって仲坂と彫られている。 昭和に入ってから開かれた坂のようである。

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上の写真の右下の折れた石柱の下部には「坂」とだけ残っている。 真ん中に鉄製の手すりがついた階段を降りてみると、階段の下にも石柱がある。こちらははっきりと仲坂と読める。

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階段に向かって右側の石柱には昭和7年8月竣工とある。荒木町にはいくつも階段があるが、この仲坂はその中でも特に坂名の付いた階段。 46段の階段を荒木町に住む人々は生活道路として使っている。昭和の坂道ではあるが、情緒はなかなかのものがある。

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2017年6月22日 (木)

津の守坂(四谷)

靖国通りの合羽橋下から新宿通り三栄町に向かって上るのが津の守坂。 坂の西側はディープな荒木町。 人気の裏町である。 この荒木町全体が窪地になっていて、江戸時代は岐阜美濃国高須藩主松平摂津守の屋敷だった。荒木町の中はそれはそれで1冊の本になるくらいの情報を秘めているエリアだが、ここは津の守坂の話。

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屋敷の中には湧水が作る滝まであったというが、この高低差を見ると頷ける。 明治になってから大名屋敷は一般に開放され、観光地としてたいそうにぎわった。 今も津の守弁財天にその名残を見ることができる。荒木町の歓楽的な雰囲気はその頃の名残りともいえる。

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津の守坂の坂上から坂下を望むと、自衛隊のビルが正面に立っている。 その敷地も尾張殿の屋敷だったから、この辺りも江戸時代は全く違う雰囲気だったのだろう。  坂下には紅葉川が流れ、水車もあったという。 摂津守の屋敷内の池は源流の一つだった。

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津の守坂の東側には新宿区歴史博物館がある。 入館料300円で随分と楽しめる郷土博物館である。 新宿の大昔から、発展する様子まで、なかなか充実した内容で、何度も訪れている。

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2017年6月21日 (水)

坂町坂(四谷)

高力坂、比丘尼坂は本塩町にある。その西側が四谷坂町。 昔は坂下に蓮池という大池があったが埋め立てられて街になり、坂下町となった。後に坂上の上坂町と合わせて明治以降は四谷坂町となった。その坂町を曲がりながら上っていく江戸情緒豊かな坂道が坂町坂である。

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坂下にあったという蓮池は江戸前期には水鳥の豊富な池で、三代将軍家光はしばしばここに狩猟にやってきたという。そういう雰囲気はなく、昭和の中期まではそれなりに栄えた商店街だったようだ。

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坂の上下にある標柱には、「坂名は「坂町」という町名にちなんで、呼ばれていたようである。『御府内備考』では、坂の名称は付けられていないものの、百メートルを越す長さがあることが記されている。」とある。江戸時代は役人の小さな家が多く、御先手組や御持組の集合住宅が沢山あった。御先手組は警備を担当する役人で最前線で戦う役割、御持組は最前線ではないが将軍直衛の警備担当の役人である。

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2017年6月20日 (火)

比丘尼坂(市ヶ谷)

高力坂の坂上を右折し路地に入る。 ファッションブランドの三陽商会の本社の北側を左折すると比丘尼坂。 坂上に標柱がある。「『御府内備考』によると、昔、この坂の近くの尾張家の別邸に剃髪した老女がいたことから、こう呼ばれたという。」と書かれている。尾張家というのは今の自衛隊の場所にあった尾張藩の上屋敷。

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また、『新撰東京名所図会』には尾国坂(びくにざか)と書かれており、尾張国の屋敷のそばの坂だからという意味合いだろう。 普通にはこの由来のほうがしっくりくる。江戸時代は三陽商会前の道はこちらに曲がっており、この道を通って尾張藩屋敷へ出ていた。

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極めて短い坂だが、わずかに江戸情緒がある。 写真の石垣が効いている。 ごく普通の昭和の民家だが、石垣はもっと古いのではないかと思われるが真偽は不明。 北側の自衛隊との間の谷筋は、江戸以前は立派な川が流れていた。 そのためここは急傾斜になっていて、1本南の路地に行くのに階段になっている。

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短い坂だが坂下にも標柱がある。 この谷筋だが、新宿区河田町や富久町辺りから流れ出した沢を集めて、高力坂下で外濠に注いだ紅葉川という川。そして江戸時代までこの辺りは寂しい場所だったという。 靖国通りが通ったのは関東大震災の後であった。

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2017年6月19日 (月)

高力坂(市ヶ谷)

外濠の掘削は江戸初期の大プロジェクトであった。 各地の大名にこの大土木工事が課せられた。 市谷八幡下から外堀に沿って上っていくのが高力坂である。坂下の外濠側の歩道に御影石の標柱がある。

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標柱には、「新撰東京名所図会によれば「市谷門より四谷門へ赴く、堀端辺に坂あり、高力坂という。幕臣高力小次郎の邸あり、松ありしかば此名を得たり、高力松は枯れて、今、人見の合力松を存せり、東京電車鉄道の外濠線往復す」とある。 すなわち、高力邸にあった松が高力松と呼ばれ有名だったので、その松にちなんで、坂名を高力坂と名づけたものと思われる。」と書かれている。

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高力坂は市谷見附と四谷見附の間にある。江戸時代も濠沿いの外堀通りは広い道だったようだ。 高力主税助の屋敷があったのはちょうど雪印メグミルクのビルの辺りである。市谷御門前には市谷八幡があり、その下の今の住友市谷ビルの区画は火除け地だった。江戸の火事は、濠をも飛び越えるので、こういう場所には建物を建てさせず火除け地とするようになったのは江戸中期からである。

高力松の写真→こちら

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2017年6月18日 (日)

鮫河橋坂(四谷)

南元町公園から四谷見附公園までの広い通りが鮫河橋坂である。東には迎賓館、西には学習院初等科、その間を優美に上っていく。南元町公園は都心の割には広い児童公園。 公園の辺りは江戸時代は町屋だったが、その南側を川が流れていた。 川の名前は桜川(別名を鮫川、あるいは赤坂川)という川で、そのまま赤坂御所の中の池を貫いて溜池に流下していた。

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赤坂御所は江戸時代は和歌山県の紀伊国の屋敷だった。 いまの迎賓館と赤坂御所を足した敷地で、御三家というものが如何にすごいかがわかる。 その南側が今の赤坂御所で、北側が迎賓館。 迎賓館は明治には宮内庁近衛局、その後赤坂離宮の一部となり、戦後は国会図書館になったのちに今の迎賓館になった。

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一方でこの鮫河橋坂の西側の低地は江戸時代から戦前にかけては貧民街で、江戸期は夜鷹が立ち、明治以降戦前まで底辺層の娼婦が多い地区だったという。皇族の住む御所から道を隔ててそういう街があったという事が、私には不思議である。谷に住む人種と、台地に住む人種の格差はそれほどまでに大きかったという事だろうか。

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観音坂(四谷)

東福院坂と戒行寺坂の間で鮫河橋谷筋から北東に上る坂が観音坂。坂上と坂下にある標柱には、「この坂の西脇にある真成院(しんじょういん)の潮踏(塩踏)観音に因んでこう名付けられた。潮踏観音は潮干観音とも呼ばれ、また江戸時代には西念寺の裏門が、この坂に面していたたため西念寺坂ともいう。」と書かれている。

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江戸時代以前、四谷は潮踏の里と呼ばれた原野だった。この鮫河橋谷にも江戸湊の海水が入り込んでいたようで、真成院の塩踏観音の台座が潮の干満で濡れたり乾いたりしたという言い伝えがある。今はコンクリート造りになった寺院には沢山ののぼりが掲げられm潮干観世音と書かれている。不思議に思う人もいるかもしれないが、たった数百年前のことなのである。

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坂上の西念寺は服部半蔵の墓があることで有名。服部半蔵は徳川家康に仕えた伊賀忍者の頭領である。主君であった家康の長男信康が切腹の折、半蔵は介錯を命ぜられたが、ついに果たすことができず、後に半蔵は信康の冥福を祈るため仏門に入った。

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また西念寺には槍の名手であった半蔵の槍が保存されている。家康より拝領したと伝えられる。こうして鮫河橋谷筋を巡っていると、南元町公園にある江戸名所図会の絵と文がリアルに感じられる。昔から低い土地で、葦などの茂った池沼があり、周囲の台地から湧き出す水を湛え、東南の方角に流れて鮫河となり溜池へ注いていた。江戸時代になると水田地帯になり、その後外濠を掘削した余土で埋め立てて町にした。そういう土地の変化を感じられる都心のスポットである。

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2017年6月17日 (土)

鉄砲坂(四谷)

四谷若葉町は昔の鮫河橋谷筋の町屋界隈。 その谷筋から東の台地に向かって上るのが鉄砲坂である。坂はクランクが続き、どこが本当の鉄砲坂なのかいささかわかりにくい。坂下は若葉町商店街通りの丸正の路地。ここから緩やかに上り坂になる。

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坂の途中と坂上のクランクの所に標柱がある。「江戸時代、この辺りに御持筒組屋敷があり、屋敷内に鉄砲稽古場があったため、鉄砲坂と呼ばれるようになった。また、以前は、この地に赤坂の鈴降稲荷があったため稲荷坂と呼ばれていた。」と書かれている。

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江戸の切絵図では若葉通りの西側が町屋、東側が御持筒組の屋敷になっている。坂の途中から上は役人の武家屋敷が立ち並ぶ。 切絵図にも「テッポウサカ」と書かれている。

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クランクを過ぎても上り坂は続いている。坂上は学習院初等科、皇室が通う小学校である。 鉄砲坂はクランクを曲がるとすぐに右折するほうではないかと思う。 そちらへ進んでも上り坂である。

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その先はJR中央線を渡る。 この跨線橋は朝日橋という名前。 眼下に中央線総武線の線路と首都高速5号線を見下ろす。神宮外苑方面が見渡せる眺めのいい場所である。 江戸時代の道はこちらには繋がっていなかった様子。 学習院初等科の敷地内を東進して、迎賓館前に抜けるのが道筋だったようだ。

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2017年6月16日 (金)

須賀神社男坂・女坂

文化放送のあった東福院坂は甲州街道から須賀神社へ参拝する参道である。 東福院坂の坂上から眼下に須賀神社の49段の急峻な階段が現れる。 文化放送側のほうが標高は高いように見える。いったん鮫河橋谷町筋に下り、男坂なる階段を上る。

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須賀神社は別名天王社と呼ばれ、江戸時代の切絵図には稲荷山宝蔵院天王社と記されている。須賀神社のホームページには、「今の須賀神社はもと稲荷神社だった。その稲荷神社は往古より、今の赤坂一ツ木村の鎮守で、清水谷に有ったのを、後の寛永11年(1634)に江戸城外堀普請のため、当地を替地として拝領し移った。」とある。 江戸以前はこの辺りはやはり原野の沢筋だったと思われる。

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社殿の赤鳥居の近くには女坂の階段がある。 踊り場が広く、傾斜が緩やかである。 須賀神社は三十六歌仙の絵で有名。平安時代中期の藤原公任の選定に由来する三十六歌仙の絵が奉納されているが、描かれたのは江戸末期。

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女坂を下るとそこは崖下の寺、妙行寺と墓地。 そこから見上げると須賀神社のある台地はまるで城壁のように見える。いくつか出っ張っている石が何なのか興味がわいた。調べてみたがわからない。何故この出っ張りを作る必要があったのだろうか。 ここに縄でもかけて下るためか。 謎だらけである。

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2017年6月15日 (木)

東福院坂(天王坂)

円通寺坂を下り、鮫河橋谷町沿いに歩くと、右も坂左も坂という地形になる。 まさに谷筋である。 南側に須賀神社の階段が見える辻を須賀神社とは反対方向の北側に上るのが東福院坂である。元は甲州街道から須賀神社への参道で、いったん下りそして上る道筋。
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坂の西側に東福院がある。標柱には、「坂の途中にある阿祥山東福院に因んでこう呼ばれた。別名の天王坂は、明治以前の須賀神社が牛頭(ごず)天王社と称していたため、この辺りが天王横町と呼ばれていたことによる。」と書かれている。東福院の向かいは愛染院。高松喜六の墓がある。
高松喜六は内藤新宿の生みの親、という事は新宿という街を生み出した最初の人である。江戸の初期、日本橋から甲州街道を行くと最初の宿場は高井戸だった。四里(16㎞)もあって長いので間の新宿にも宿場を作ろうと動いたのが高松喜六。 元は浅草の名主だった。元禄10年(1697)に請願をし、内藤新宿を作る許可が翌年に下りた。喜六は5,600両を納め、問屋・本陣を営んだ。 喜六が作った新宿がここまで発展するとは、本人が見たら仰天することだろう。
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坂の上、東側にはラジオ局の文化放送があった。 今は浜松町だが、一昔前(2006)まではここ四谷から放送されていたのである。若い頃遥か1,000㎞の彼方で夜な夜な聴いていたセイヤングもここから発信されていたと思うと、感慨深い。跡地に建てられたマンション(ランテンヌ四谷)の屋上にはアンテナ線が張られていて、中には非常用の送信施設があるそうだ。
 

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2017年6月14日 (水)

円通寺坂(四谷)

新宿通りの津の守坂交差点から南に下る道が円通寺坂である。 きれいな2車線の道で徐々に下りになっている。坂の西側に円通寺があるが、今はビルの寺である。 昔はこの道は途中で西側に折れて、女夫坂に出ていた。 昭和後期までは緩やかな坂で終わり、西に曲がっていくのが円通寺坂だった。

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円通寺を過ぎると昔の道は斜めに逃げるように分かれ、西に折れていく。 この辺りは江戸の時代の初期に徳川幕府が江戸城外郭の造営のために多くの寺を移転させ、ここ四谷寺町に集めたので、今も沢山の寺がある。

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昭和後期になり、谷町方面へ道がつながった。 この新しい道がきれいなカーブを描いている。 江戸の切絵図を見ると円通寺坂は「ホウソウジ横丁」とあるが、その法蔵寺は今も坂の東側にある。 坂の標柱には、「新宿通りから、四谷二丁目と三丁目の境界を南に円通寺前に下る坂。坂名は、この円通寺に因むものである。」とある。

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坂道は真英寺と日宗寺の間を抜けて下っていき、鮫河橋谷町筋となる。 この道は新道が見事に昔の道に溶け合った感じがして好ましい。

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2017年6月13日 (火)

女夫坂(四谷)

四谷三丁目というと私はお岩稲荷を思い起こす。 実在のお岩さんは田宮家の妻として幸せな人生を過ごしたのだが、お岩さんが信仰していた社が評判になり、お岩稲荷と呼ばれるようになった。お岩さんが亡くなったのが寛永13年(1636)だが、それから相当年月が経過した文政8年(1825)に鶴屋南北「東海道四谷怪談」の歌舞伎が大人気を博し、鶴屋南北によってお岩さんは於岩さんに変えられ、亡霊とされてしまったのである。

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その於岩稲荷は明治12年(1879)に焼失してしまい、初代市川左団次の勧めで中央区新川に移転した。 本当はそちらが本家なのだが、戦後昭和27年(1952)にこの古の場所にも社が建てられ田宮稲荷神社跡として賑わうようになった。

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於岩稲荷のひとつ東側の道が女夫坂(めおとざか)である。田宮家の夫妻とは関係ない。 女夫坂(夫婦坂)というのは、二つの坂が連なって一つの形を示している場合に名付けられることがある。新宿通りに向かってわずかに下り、その先でわずかに上っている。

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新宿通り側から見ても同じように見える。 わずかに曲がっているところが古い道らしい。お岩さんが生きていたころはまだこの辺りは野原で、鮫河橋谷町の谷筋の最奥の源頭にあたる場所だった。 この辺りはまだまだ原野で、それを武蔵忍藩(行田辺り)藩主の高木筑後守が開いたので忍原と呼ばれるようになったという。お岩さんの田宮家はその高木家に仕えており、この辺りの開拓を行ったようだ。 江戸の初期はこの辺りは原野の広がるエリアだったと思うと、立ち並ぶ建物がすべて刹那の物に見えてしまうから面白い。

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2017年6月12日 (月)

闇坂(くらやみざか)

戒行寺坂の坂上南側に西應寺がある。 ここには幕末から明治にかけて剣客として有名な榊原健吉の墓がある。最後の剣客と呼ばれた人物だ。また西應寺の梵鐘は銅製で江戸中期の名工芸品である。西應寺の隣りが永心寺。その脇を下るのが闇坂である。

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路地は車は通れない道幅。 入口脇に標柱がある。「この坂の左右にある松巌寺と永心寺の樹木が茂り、薄暗い坂であったため、こう呼ばれたという。」と記されている。坂の傾斜がきつくなるところから鉄製の手すりがついている。ほぼまっすぐな坂道だが、その細さと辺りの景色は江戸情緒を忍ばせている。

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別名乞食坂。 寺町には物乞いの乞食が多くその為だっただろう。またもうひとつの別名茶の木坂は坂下の谷の源頭に明治初期まで茶畑があったからだろう。坂下の一角には池があり、おそらく湧水がたまっていたと推測できる。その西側は崖のようになっていて、その斜面が茶畑だった。

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今、坂下は若葉公園という小さな公園になっている。公園南側のガラスのビルは聖教新聞本社である。 若葉公園の場所は明治36年(1903)に東京市による特殊学校が開かれた場所。 鮫橋尋常小学校という名で、専ら貧困者の子弟を教育していた。 教科目は小学校程度にして4学年とし、学用品は支給、校内には浴場を設置し、毎週1回児童に入浴させ、かつ理髪を行い、疫病治療などの医療も行ったという記録がある。生徒数は343人。 この谷町には今では想像もできないような貧困家庭の大集団があった、ある意味東京の裏の一面が明治末期には存在したのだろう。

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2017年6月11日 (日)

戒行寺坂(四谷)

出羽坂下から谷筋の道を進む。 昔の谷町の筋、戦後は若葉町となった町屋筋でかつては商店街の賑わいもあったことが想像できる。この筋の途中で西に向かう路地があり、上り坂になっている。 これが戒行寺坂である。路地に入るとすぐに若葉湯という銭湯がある。 谷筋の風景としては銭湯が似合う。

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坂を上っていくと寺町になる。坂上の北側に戒行寺がある。寺の門前に標柱が立っている。「戒行寺の南脇を東に下る坂である。坂名はこの戒行寺にちなんでいる。別名「油揚坂」ともいわれ、それは昔坂の途中に豆腐屋があって、質の良い油揚を作っていたからこう呼ばれたという。」と書かれている。

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戒行寺は文禄4年(1595)に建立された。 実は鬼平犯科帳で知られた長谷川平蔵の菩提寺である。ただ墓は今はなく、どこへ移転したかは不明。 供養碑のみが残る。

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2017年6月10日 (土)

出羽坂(信濃町)

信濃町駅の北側を東に向かう道路はもとまち公園を過ぎると下りになる。 坂下はその昔鮫河橋の谷だった。坂下の谷沿いが鮫河橋谷町と呼ばれ、手前の坂の中腹から上が元鮫河橋町と呼ばれた。線路に斜めに当たってから線路沿いに曲がっていく道筋は線路を敷いたせいではなく元からこうだったようだ。

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坂の上下の標柱には、「明治維新後、この坂上に松平伯爵(旧松江藩主松平出羽守家)の屋敷が移転してきたため、こうよばれるようになったという。当時は修徳園という庭園があったが、戦後売却され姿を消した。」とある。松平邸は戦後一時松平ホテルになり、1946年から1960年までの短い期間営業した。

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鮫河橋谷は四谷三丁目辺りを源頭にした沢の集まった流れだった。 流下して中央線をくぐるあたりからは川らしくなって、明治初期の地図にも水線がある。川は現赤坂御所の中の池に流れ込んでいる。江戸期は谷筋に町民が住み、丘の上に武士が住むという形で街を形成していたが、ここも見事にその図式になっていた。

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2017年6月 9日 (金)

新助坂(信濃町)

千日坂を下り公明党本部前を通り過ぎて、左に路地を入るとすぐにトンネル。 首都高速5号線と中央総武線をまとめてくぐりぬける。このトンネルはJR東日本の管轄で、北側に「中央緩行線第2号南鮫ヶ橋通ガード」とある。暗いトンネルだがそこそこ通る人がいる。トンネルを出ると左に向かう。道はすぐに右に折れる。

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目の前に急な坂が現れる。 これが新助坂である。別名すべり坂というが、舗装されていない時代には雨でも降ろうものなら大変なことになっただろう。信濃町駅の北側は創価学会の街なので、この坂の周辺も学会の施設だらけである。坂上からは中央線の電車が短い間隔で賑やかに通過する。 その向こうには明治記念館が大きな屋根を見せている。

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坂上の標柱には、「『新撰東京名所図会』には、「新助坂は四谷東信濃町上る坂なり、一名をすべり坂ともいふ。坂の下には甲武鉄道線の踏切隧道門あり」と記されている。明治30年代中頃には、新助坂の名前で呼ばれていた。」と書かれている。 甲武鉄道というのは中央線の前身で、明治時代の鉄道会社。 八王子と御茶ノ水の間を走った。 明治39年に国有化された。新助坂の名前は、てっきり助坂があってその新しい坂かと思っていたら、昔この辺りに新助という人が住んでいて、それで新助坂となったようだ。

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2017年6月 8日 (木)

千日坂(信濃町)

信濃町駅を出て左側、外苑方向に進むと外苑エリアへ渡る歩道橋がある。 そこを上らず、斜め左に下る坂を降りていく。 ここが千日坂。 首都高の外苑ランプが頭上を通る。 一行院千日谷会堂の塔が坂脇にそびえている。この坂上辺りで『南総里見八犬伝』を書いた滝沢馬琴が世を去った。坂の別名を久能坂(久野坂)という。坂下辺りに紀州藩久野丹波守の屋敷があったことに由来している。

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坂はくねりながら下っていく。 坂下の標柱には、「この坂道の下の低地は、一行院千日寺があるため千日谷と呼ばれた(『紫の一本』)。坂名も千日寺にちなんで名づけられたと考えられる。なお、かつての千日坂は消滅し、現在の千日坂はそれと前後して作られたいわば新千日坂である。」と記されている。新宿区は随分ときちんと書いていると感心する。

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江戸期の切絵図を見ると千日坂は写真の高速道路下あたりで左に折れて急坂を上っている。上半分は完全に新しい道筋だ。 信濃町の由来は、坂上の慶応病院辺り一帯が奈良県の大和櫛羅藩主の永井信濃守の屋敷だったことから来ている。 坂下の千日谷には公明党本部がある。 党本部の建物からは意外と若い人たちが出入りしている。

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2017年6月 7日 (水)

綱坂(三田)

綱坂は名坂のひとつである。 三田台地の峰にあたる三井倶楽部の大銀杏脇から下る。東へは綱の手引坂が下る。綱坂に最初に接するのが姥坂で、その南側がイタリア大使館。綱坂は砥粉色(とのこいろ)の三井倶楽部の塀がだんだんに落ちていく、雅な雰囲気をもつ坂だ。

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江戸時代の三井倶楽部敷地は会津藩松平肥後守の屋敷。向かいは広大な松山藩松平隠岐守の屋敷。 上部はまっすぐだが坂下で曲がっている景色がいい。坂下の東側は慶応大学。江戸期は肥前島原藩松平主殿頭の屋敷だった。

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もう一つこの坂の魅力は三井倶楽部の樹木が覆いかぶさっているところ。 塀の段差が絵になっている。 現イタリア大使館の場所は明治以降大正までは松方邸となっている。大蔵大臣として名を馳せた松方正義の邸宅である。その後イタリア大使館となった。

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いっぽうその南側の慶応の敷地を借り受けしたのは福沢諭吉である。こんなにいい坂があるのに、慶大生はその存在をほとんど知らない。ちなみに横浜開港資料館の所蔵写真には江戸末期の写真があり、ちゃっかり使わせていただいた。下の写真である。基本当時と道は変わっていないのがよくわかる。
Tuna

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2017年6月 6日 (火)

姥坂(三田)

綱の手引坂の南側には雰囲気の良い路地がある。これが姥坂だが、江戸期の坂ではなく明治20年頃に開かれた坂である。 現在はこの姥坂の南側にはイタリア大使館が江戸時代の大名屋敷の庭を維持している。

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江戸期の大名屋敷だけあってうっそうとした樹木が生い茂っていてとてもいい雰囲気を出している。綱の手引坂からこのイタリア大使館までを含めて、江戸期は四国伊予松山藩の松平隠岐守の中屋敷だった。

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1703年に発生した忠臣蔵で有名な赤穂事件の折、47士のうちの10名の預かりを命じられたのが隠岐守(松平定直)である。 ブラタモリ(第1期)では大使に招待され邸内に入ったおりこの赤穂浪士の碑が今もなお庭にあるということに感心した。

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2017年6月 5日 (月)

綱が(の)手引坂 (三田)

日向坂を上り、オーストラリア大使館、三井倶楽部を右に見て進むと、三井倶楽部の角の大銀杏から下りになる。この坂が綱が手引坂である。この辺りで「綱」とつくと渡辺綱のこと。 渡辺綱(わたなべのつな)というのは、平安時代中期の武将で源氏系。 京都の一条大橋の上で鬼の腕を切り落とした逸話で有名。また光源氏の子孫でそうとうなイケメンだったとも伝えられる。

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標柱の説明は、「平安時代の勇士源頼光の四天王の一人、渡辺綱にまつわる名称である。姥坂とも呼んだが、馬場坂の説もある。」と書かれている。言い伝えでは渡辺綱が幼少のころ、姥に手を引かれてこの坂を歩いたことが由来とされている。それで姥坂だったりするわけだが、周辺の渡辺綱の逸話はかなり盛られたり作られたりしたものがありそうだ。

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大正期まではこの辺りの赤羽町は有馬ヶ原とよばれた空き地で、池があったりして、近所の子供たちの恰好の遊び場だったという。その後済生会病院ができ、戦後には三田高校もできて今のような都会の景色になったようだ。

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2017年6月 4日 (日)

神明坂(三田)

オーストラリア大使館と三井倶楽部の間の信号交差点を北に下るのが神明坂。 交差点そばには龍原寺があり、脇に志ほあみ地蔵尊がある。子育てと延命にご利益があるらしく沢山の千羽鶴と提灯が飾ってあった。寺の向かいには立派な石垣がある。かんぽ生命の本館敷地の石垣だが、かつては簡易保険局だった。

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簡易保険局は江戸時代は筑後久留米藩の有馬家の上屋敷で、今の三田1丁目の半分以上が敷地だった。かつてはこの辺りは芝赤羽町と呼ばれた。安産の神として有名な日本橋の水天宮はその昔は有馬家の上屋敷の中にあったため人気に反して参詣は難しかった。 あまりの人気に5の日のみ解放されると奉納物だけで年間2000両にも達し、有馬家は財政難を乗り越えることができたという。 明治になって有馬家が移転し、いったん赤坂に鎮座したが、その後中屋敷のあった日本橋蛎殻町へ移転し今に至るというわけである。

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神明神社は元神明として江戸期の切絵図にも描かれている。石碑には天祖神社とある。 創建は1005年(平安時代)。渡辺綱の産土神でもあり、かつ前述の水天宮も分祀されている。元神明宮というのはここから移転したのが芝大神宮(芝大門)で、その元の神社であるためだと思われる。

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坂の上下の標柱には、「天祖神社を元神明と呼ぶところから神明坂と呼んだ。馬場坂という説もあるが、綱の手引き坂との混同があるらしい。」と書かれている。

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2017年6月 3日 (土)

日向坂(三田)

古川に架かる二の橋から三田へ上る道が日向坂である。 二の橋を渡ると真上には首都高速目黒線。 振り返ると麻布通りの向こうは仙台坂。 しかし町としては古川で分割されているので、ここから三田である。坂の途中に標柱がある。「江戸時代前期南側に徳山藩毛利日向守の屋敷があった。袖振坂ともいった。由来は不明である。誤ってひなた坂とも呼んだ。」と記されているがいささか文章がわかりづらい。

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袖振坂の由来については横関氏が『江戸の坂東京の坂』に書いている考察が納得性が高い。地理的にみるとこの坂の下には古川が流れていて、そこに日向橋があった。橋を渡るとその向こうには仙台坂があって、互いの坂どうしでは相手がいつまでもよく見えた。いつまでも合図して手を振って別れることができたのである。そういう坂を袖振坂と呼ぶので、そう呼ばれたに違いないという。

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今は残念ながら首都高が邪魔になって仙台坂を望むことはできない。坂の南側にはオーストラリア大使館があり、モダンな建築の最上階部分にはカンガルーとエミューのオブジェが望める。

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2017年6月 2日 (金)

銀杏坂(芝)

東京タワーを東に向かうと急な下りだが、この坂に名前はない。 永井坂上からのこの道は明治の後半に開かれた。 すぐ先にある東京プリンスホテルの敷地は1964年にホテルができるまでは徳川家霊廟だった。霊廟は空襲で焼失したが、その後20年近くそのまま残されていた。その霊廟跡、プリンスホテルをなぞるように下るのが銀杏坂である。

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銀杏並木は少なくなったが、それでも残った銀杏の樹は秋になると黄色の葉をここぞとばかりに輝かせる。 御成門に向かってカーブしながら下っていく。

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江戸時代はここまでが増上寺の境内で、その境内の北のエリアが徳川家御霊屋(おたまや)と切絵図には書かれている。御成門は外濠の一番海側の門で、海側から数えて御成門、虎ノ門、溜池、赤坂門(赤坂見附)があった。

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坂下の公園は海軍省だったところ。 公園の対角線に樹木が並んでいるが、振り返るとそのまっすぐ向こうに東京タワーがそびえるという心憎い造作。 ゆっくりと散策するのには適したエリアである。

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2017年6月 1日 (木)

切通坂 (芝)

東京タワーに向かって上る永井坂は江戸時代は坂上で北に折れて芝御成門方面へと繋がっていた。 その辺りは今、東京プリンスホテルや慈恵医大などが立ち並ぶエリアだが、御成門駅や愛宕警察署辺りから古川(現首都高下)まではほぼ増上寺のエリアだった。当時坂上からは、いくつも並ぶ大きな寺院の屋根が見えただろう。

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増上寺近辺の寺の中でも最も大きい部類に入る青松寺あたりが本来の坂下だったが、そこには今愛宕グリーンヒルズMORIタワー(42階建)が立っている。上部が緩やかに細くなっていてサーフボードを4面に張り付けたような形のビルである。 切通坂周辺は江戸時代はほぼ完全な寺町で、右も左も後ろも前も寺という場所だった。 今は正則高校の校舎の前をクランク風に上っていく。

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正則高校の先で変形の丁字路。 その先に小さな公園がある。 「手まり坂緑地」という公園である。 切通坂の別名は手まり坂という。 その公園の隣がオランダ大使館で、上の写真で樹木に覆われた庭の奥に大使館がある。 江戸時代末期にここに引っ越してきたのが沼津藩主水野出羽守。水野家は本来尾張の出、その後江戸時代には徳川に仕えてきた家系。 ここから切通坂はまたクランクして上っていき、永井坂に出合う。

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切通坂の坂上には芝給水所公園がある。 公園の脇にはたくさんの水道遺構がある。歴史についてのレリーフがあり次のように彫られている。「芝給水所は芝増上寺北西部の高台に位置し、信濃小諸藩主牧野遠江守の屋敷跡地に芝給水工場として明治29年(1896)に竣工、明治31年に淀橋浄水場から浄水を受け給水を開始した。(後略)」 関東大震災にも耐え、東京の街に水道を供給してきた煉瓦造りの遺構は区によって保存されている。

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2017年5月30日 (火)

愛宕新坂

愛宕神社はこのご時世だから無論車で上がることができる。その道が愛宕新坂である。この新坂は明治20年代に開かれたという。 車が上り下りするためだろうか。さすがに路面のすべり止め模様も古びているし、欄干のような作りのガードレール(コンクリート製)も雰囲気がある。

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入口には商店街のようなアーチがあるが、脇にNHK放送博物館の案内もある。 しばらくの間休館していたが、2016年にリニューアルオープンした。 歴史的に価値のあるものも沢山あるようだが、実はまだ入館していない。 次回はぜひと思っている。

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愛宕山の北をぐるっと車道は回り込んでいく。 すぐに随分と高低差が大きくなるのがわかるくらい勾配はずっと続く。 上の写真の菱形のすべり止めはあまり見かけないタイプである。

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実はこの新道はNHKが作ったものではない。博物館の開設は1956年だが、博物館の前はNHKのラジオ放送局だった。 しかし放送局が出来たのは関東大震災後の対象4年。 実はNHK博物館の所には旅館兼西洋料理店「愛宕館」があって、愛宕館がこの道を開設したらしい。

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2017年5月29日 (月)

愛宕神社男坂・女坂

愛宕神社はおそらく東京でも五指に入る神社だと思う。創建は1603年。 徳川家康が防火の神様として建立した。愛宕神社は古代東京の岬のような場所で自然の山としては23区で最も高い山である。 中でも男坂の階段は有名で、別名「出世の石段」とも呼ばれる。

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東京で一番高い山というと新宿区戸山団地の箱根山(44.6m)があるが、あちらは人口の山。江戸時代尾張藩下屋敷だった時に盛土して築かれた山である。 ちなみにタイムワープドラマ「仁」(大沢たかおと綾瀬はるからが出演)のエンディングで流れる古写真は愛宕山から見た江戸の町の眺望である。

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男坂はまっすぐに上る86段の急な階段。江戸時代にこれを馬で駆け上った曲垣平九郎の故事によって出世の石段と言われるようになった。三代将軍徳川家光が増上寺参詣の帰りに愛宕神社の下を通りかかった。 初春で愛宕山には源平の梅が満開、そこで家光は、「誰か、馬にてあの梅を取って参れ」と言い出した。家臣は一様に皆うつむいていたところ、家光公の機嫌が悪くなった。その時見知らぬ一人の侍が馬に乗り一気に駆け上ったが、家光公の家臣ではなかった。

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「あれは誰だ」と将軍が尋ねると、「四国丸亀藩の家臣、曲垣平九郎と申すものであります」と知らされると家光はたいそう感心し、平九郎は全国に名を馳せる馬術の名人となったという話である。ただ江戸以降にも、明治、大正、昭和にそれぞれ1人ずつやってのけた人間がいる。 大したものだ。

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男坂の北側には若干緩やかな女坂の階段がある。 ここの女坂はさすがに急だが、男坂よりも一段の高さが低いので上りやすくなっている。 愛宕は今でも十分東京の名所だといえると思う。

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鼬(いたち)坂 (麻布台)

この坂を書いている書物はほとんどない。 横関氏は索引でのみ「鼬坂: 植木坂の別名」とだけ記載しているが、それ以外には道家氏の『東京の坂風情』だけがこの坂を項目で扱っている。 時代と文献によって坂名が混同しているため、明確に鼬坂として扱いにくいのだろう。

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坂下には前述の島崎藤村旧居の碑がある。 そのまま上ると彼方にアークヒルズ仙石山森タワーがビルの隙間に填まるようにそびえる。江戸時代の切絵図ではこの坂上に向かって左側が「植木ヤ」だったようだ。

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この坂も勾配はきつい。 道家氏はこう書いている。この坂につながる「鼠坂」「植木坂」とまぎらわしく説明されたり、植木坂の一部と説明されることもあった。坂名の由来についての確証はないが、起伏のはげしい谷筋であっただけに、いたちも出没して人を驚かしていたのではないか。続いている鼠坂や近くの狸穴坂にも対応しているのかもりれない。坂下の東は崖となって谷に続き,西は山地の崖際で,いわば崖の一部を削って道としたような位置にある。(東京の坂風情)

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坂上の外苑東通りに出ると目の前に古びた洋風の建物がある。 現麻布郵便局、日本郵政飯倉ビルである。1930年(昭和5年)に旧逓信省貯金局庁舎として建てられた。 近々森ビルによって再開発で取り壊される。もったいない話である。そんな時代の変遷を東京タワーが見下ろしている。

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2017年5月28日 (日)

植木坂(麻布台)

鼠坂の坂上で西に向かってさらに上るのが植木坂である。 標柱には、「この付近に植木屋があり、菊人形を始めたという。外苑東通りからおりるところという説もある。」とある。 外苑東通りからおりるところというのは後日出てくるいたち坂のことだ。 江戸時代の切絵図を見ると、いたち坂の上、外苑東通りとの角に植木ヤとある。ただしそこから下るいたち坂のところに鼠坂とも書いてある。やはり坂名が交錯している。

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植木坂は無論江戸時代からある古い道筋で、坂の南側は石見浜田藩屋敷があったが、江戸期から明治期にかけてこのあたりに植木屋が多くあったようである。勾配はかなり急だが坂は長くない。上った坂上を進むと永坂に出るが最後は階段で麻布通りに下る。

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坂上から見ると少し曲がりながら下っているのがわかる。坂上から振り返りながら、なぜ坂下のあの場所に標柱があるかと考えてみた。おそらくいたち坂から見ても坂下にあたるので、港区としてはあのあたりに置かざるを得なかったのだろう。再び坂を下り、いたち坂に向かうと左側に私設の石碑がある。

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島崎藤村旧居とあり、碑板には、「藤村は71歳の生涯のうち文学者として最も充実した47歳から65歳(大正7年~昭和11年)までの18年間、当地麻布飯倉片町33番地に居住した。大作夜明け前、地名を冠した飯倉だより、童話集ふるさとおさなものがたりなどは当地での執筆である。」と書かれている。

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2017年5月27日 (土)

鼠坂(麻布台)

鼠坂と名付けられた坂は東京23区内に3ヶ所ある。文京区音羽にある階段の鼠坂、市ヶ谷にある鼠坂、そしてこの麻布台の鼠坂である。自動車が通行可能なのは市ヶ谷のみで、音羽とここはバイクは不可能ではないが車は無理な細い坂である。坂の標柱には、「細長く狭い道を、江戸でねずみ坂と呼ぶふうがあった。一名鼬坂で上は植木坂につながる。」とある。

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幾つかの文献で鼠坂と鼬坂と植木坂が混乱しているように思う。江戸時代の切絵図にはイタチ坂の所に鼠坂と書かれている。上の写真の左の崖上は石見浜田藩の松平右近将監の中屋敷だったので、樹木が覆う狭い抜け道だったのだろう。

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この辺りの江戸の坂道では西洋人に出合うことが多い。一瞬違和感を覚えるが、明治維新直後の江戸の坂道には伴天連も歩いただろう。坂上、いたち坂からいうと坂下にはかつ島崎藤村が暮らしており、このあたりの坂のことも書いている。

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狸穴坂(麻布台)

風流な響きの坂名である。狸穴坂(まみあなざか)という名前の坂が大都会の中心にあるというのがいい。飯倉の交差点から榎坂を上り、ロシア大使館を過ぎると左にある路地が狸穴坂。 入り口に標柱と石碑がある。

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狸穴は麻布に伝わる言い伝えで、夫婦狸が棲む大穴があったという。また、銅を採掘した「まぶ穴」が転化したという説もあるが真偽は不明である。坂道はじゃっかん曲がりながら下っていく。

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上の写真の左の石垣上はロシア大使館で、その向こう道路上に樹木が覆いかぶさるところがアメリカンクラブ。並んでいるのが面白い。 アメリカンクラブの向こう側(熊野神社の奥)には明治期には海軍観象台、のちの東京天文台があった。当時は天体観測が都心でできたのである。(移築されて今も残る観測機器(東京天文台))

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坂下から見上げると右側の高い崖がかつては狸や貉が棲んだであろう雰囲気を残している。坂下には江戸時代に狸蕎麦というそば屋があった。作兵衛蕎麦とも呼ばれ、昔狸穴の古狸が江戸城の大奥を荒らした折に武士に成敗された。哀れに思った作兵衛が古狸の霊を敷地内に祀り供養したら、そば屋が繁盛したという。

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坂下には昭和の雰囲気満載の堺屋酒店が残っている。こんな店が日本中にあった時代に育った自分としては、たまらない郷愁を感じる。

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2017年5月26日 (金)

土器坂(飯倉)

土器と書いてかわらけと読む土器坂は飯倉交差点から南に下り赤羽橋へ達する緩やかな坂道である。 とても広い道路で坂道感はない。とはいってもこの坂は国道1号線だから致し方ない。坂名の由来には複数の説がある。 南の三田界隈に渡辺綱の伝説が多くあるが、その渡辺綱がここで河原毛(褐色系の毛色)の名馬を求めたためという説。また、この地域に土器師が多かったためという説などである。土器(かわらけ)というのは赤土で作る焼物のこと。

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坂下の赤羽橋の名前にも由来があり、赤羽というのは赤埴(あかはに)の転化だという。 赤埴というのも赤土で作った焼物のことである。赤羽橋そばの芝公園には丸山古墳もあり、この辺りにそういう文化があるのは納得性がある。

昔はもっと勾配のある道だったが、都電が通される折にかなりなだらかに変えられたようである。江戸時代は、通り沿いは町屋で東側は増上寺の周辺に幾多の寺院が並ぶ寺町だった。坂上の熊野神社は江戸期から今に至ってランドマーク的な神社だったが今はビルに埋もれている。しかし創建は養老年間(717-724)ときわめて古く、長い時代この地の鎮守として今に至る。

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2017年5月25日 (木)

榎坂(飯倉)

飯倉の交差点から六本木方面に下る坂道。 東京タワーしたの永井坂から繋がるように下っていく。少し上ったところにはロシア大使館があり、最近は警察の警備が厳しく写真が撮れない。実はロシア大使館の裏にはアメリカンクラブという会員制の施設があって、一度入ったがほぼ完ぺきにUSA。この二つがくっついているのが不思議だった。

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写真のNOAビルの前は土器坂の坂上、かつ永井坂の坂下。 この交差点が鞍部になり、榎坂はここからの上り。 この坂に標柱はない。 榎坂の由来は赤坂の榎坂同様に、ここに一里塚があったのだろう。 そして榎が植えられた。

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ロシア大使館前で勇気を出して撮影する。 運よく取り締まられなかった。ただこれは2015年の撮影。 今年行ったときはとても撮れる状況ではなかった。東京タワーが青空に刺さっている。 都会の中でもわくわくする景色である。

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2017年5月24日 (水)

富士見坂(芝公園)

坂というよりも坂の痕跡である。 東京タワーの東側は台地からストンと落ち込む崖のような地形で、その先には広い芝公園や増上寺およびその元敷地がある。この東京タワー下の芝公園の一角にその痕跡がある。

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写真のお堂は西向観音堂。 このお堂のある場所を昔は富士見台と呼んでいた。『今昔東京の坂』(岡崎清記氏)によるとこの数段の石段がその痕跡らしい。 台地にある東京タワーの地面は標高21mであるのに対して、下の芝公園は10mだから11mの崖という事になる。

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人口の滝ではあるが、こういう滝(もみじ滝)ができるほどの崖になっていて、公園の中は涼しげである。崖下にある芝公園の芝丸山古墳は都内でも最大級の古墳である。 大きさはおよそ106m×40mの前方後円墳。5世紀ころの豪族の墓だろうと言われているが、具体的な記録は残っていない。

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2017年5月23日 (火)

永井坂(飯倉)

飯倉交差点から東京タワーに向かって上る坂が永井坂。 標柱には、「江戸時代から明治初期にかけて、この付近の地を芝永井町といったことからこの名がついた。」とある。飯倉交差点に向けて下る榎坂から再び上って東京タワーに向かう。

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飯倉交差点を東にわたり永井坂を上るにつれて、昭和のシンボルである東京タワーが空を突き刺すようにそびえるのが目に入る。ただ江戸時代は東京タワーの辺りは寺が立ち並び、増上寺の裏門前のようなところだった。 道は永井坂の上で切通坂方面へぬけ青松寺に抜けた。

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今は東京タワーのベストビューとして、海外の観光客がたむろすようになった。石川悌二氏は『江戸東京坂道事典』の中で、この坂を榎坂としている。 今東京タワーがある場所は金地院という寺だった。金地院は今も東京タワーの向かいに存在する。徳川家康にゆかりがあり、今も広い墓地を保持している。

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2017年5月22日 (月)

江戸見坂(赤坂)

霊南坂と潮見坂を開いた扇子の両端とすると、円周にあたるのが江戸見坂である。2本の坂の勾配を1本でこなすため、勾配はすこぶる急である。坂下から見るとまさに見上げる感じで、坂上からは見下ろす感覚がある。坂の標柱には、「江戸の中心部に市街が開けて以来、その大半を眺望することができたために名付けられた坂である。」と書かれている。

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さすがに勾配20%というのはめったにお目にかかれない。 これに勝るのは雑司ヶ谷ののぞきざか(22%)くらいである。歩いて上ると前傾姿勢になる。 車はローギアかセカンドで上ってくる。

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昭和の初めまではこの坂上から東京の街を望むことができたという。また江戸時代には、この江戸見坂は九段坂とならんで江戸を一望できる坂としてたいそうな人気だったらしい。残念ながら今はビルに囲まれて、そのすごい傾斜だけが往年の様子を維持している感がある。

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坂上はホテルオークラ。 日本を代表する高級ホテルである。 この風格のホテルを見上げる景色も都会としては悪くない。 ただやはり坂の勾配がもっとも印象に残る。 ヤマハの電動自転車のHPで「激坂チャレンジ」というのがあるが、その東京代表はこの前述ののぞき坂、砧の富士見坂(正式名称は岡本三丁目の坂)、そしてこの江戸坂である。 現代でも東京の三本指に入る急坂と言っていいだろう。

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2017年5月21日 (日)

汐見坂(赤坂)

霊南坂の坂下から東に下る坂が汐見坂(潮見坂)である。 右手はホテルオークラの塀が続き、左には国立印刷局のビルがあったが、今はどちらも工事中で白い仮囲いに覆われている。江戸時代は海が見える坂を潮見坂と呼んだので、あちこちに汐見坂があるが、23区内に海の見える潮見坂はおそらくもう存在しない。それだけ海岸沿いに高層建築が増えたのである。

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坂の上下にある標柱には、「江戸時代中期以前には、海が眺望できた坂である。南側に松平大和守(幕末には川越藩)邸があって、大和坂ともいった」とある。すでに江戸の中期には海が見えなくなったということは、浜離宮庭園と関係があるのではないかと推測する。この坂の方向は浜離宮の方角になる。しかし、この延長上を1~2度右に見るとそこはもう愛宕山にひっかかる。 愛宕山の左にわずかに海が見えたが、浜離宮は江戸の中期以降になると屋敷が建てられたりするようになり、樹木も育ったりしたので見えなくなったのではないだろうか。 そんな想像をすると坂歩きはさらに面白くなる。

江戸名所図会: 溜池(左下に霊南坂、下中央に汐見坂がみえる)

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霊南坂(赤坂)

さて、アメリカ大使館脇、工事中のホテルオークラとの間のまっすぐに上る坂、霊南坂である。 大使館の塀は白くまるで武家屋敷のような風情を残している。慶長年間(1596~1614)に芝高輪の東禅寺を開山した嶺南和尚の庵があったので、嶺南坂となり、それが訛って霊南坂となった。

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上の写真の右の塀手前の警察詰所の脇に、赤坂ライオンズクラブが建てたここの3つの坂の丸い案内碑があるのだが、警察は白塀側には渡らせてくれない。 坂途中の標柱を撮影するのに道路を横切ったら若手がすっ飛んできて、「こっち側に来るな」と怒鳴った。その時撮影したのが下の写真。

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現在、ホテルオークラの集古館一角は工事中である。なのに工事している側しか通らせないとは意地悪なことだ。 江戸時代まではうっそうと樹木の茂った道だったようだが、その時代と言わないまでも、数年前までの大使館の白塀とオークラの雰囲気のある塀が両側に続く姿はなかなかの景色だった。

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願わくは、社会の歪が緩和されて、世の中が平和になって、ここを家族連れが散歩するような時代になってもらいたいものである。(ちなみに警察は西洋人に対しては礼儀正しく対応しているように感じられた。ある意味人種差別をしていると言えるかもしれない。)

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榎坂(赤坂)

アメリカ大使館の正門前は坂の辻になっている。 西の六本木通りから上ってくる榎坂、大使館正門前の変形交差点を直進すると汐見坂、右折して大使館沿いに上る直線の道が霊南坂である。 前にも書いたように、ここ最近はこの辺りを歩くのも難しくなり、というのも警視庁の監視が2,3年前の何倍にも強化されていて、写真が撮れないので、写真は2015年のもの。まったくもって困ったものだ。

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大使館正門前に標柱があったのだが10年以上前に撤去されてしまった。古街道の一里塚だったこの辺りに榎の大木が江戸以前からあったと言われている。昔は街道の道しるべとして榎が植えられ、一里塚の脇には必ずと言っていいほど榎があった。 高輪台の二本榎もそのパターンである。 古文書にはこの榎は池(溜池)のほとりにあったとあり、江戸以前にはここまで溜池が広がっていたと推定できる。

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新榎坂(赤坂)

この坂は平成になってから開通した真新しい坂道。 2005年ころ開発された赤坂インターシティビル(アメリカ大使館西隣)の建設時に桜坂の坂上から繋げられ新設された道である。歴史のない道なので区の標柱などはないが、インターシティビルを建設した興和不動産が立てたと思われる黒い板碑のような標柱があり、坂名のみ記載されている。

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坂下には道路にバリケードを張る警察官が複数いてとてもカメラを出せる状態ではない。2,3年前までは普通にどこでも写真を取れたのだが、最近は警察もピリピリしてきて、カメラを構えると威圧的に注意されるようになった。この辺は世の中には伝わっていないが事実である。

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とかく住みにくい時代になってきたのが、こうして毎年歩き回っているとわかってくる。警察などの組織の管理職が現政権の意向を相当に忖度して、かつ事なかれ主義に陥っているので、「今日は何も問題ありませんでした」というのを最良の結果として報告したいのだろう。そんな了見で本物のテロリストを抑えられるとは到底思えないだけに、いささか滑稽でもある。

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桜坂(赤坂)

桜坂で有名なのは大田区沼部の桜坂で福山雅治の最大のヒット曲になった坂。最近でも桜の時期に限らず坂道とは無縁の人々も多く訪れている。 赤坂の桜坂はANAインターコンチネンタルホテルの北側の坂。 ゆるやかに曲がりながら坂上で新榎坂に丁字路で当たる。

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坂の上下の標柱には、「明治中期に新しく作られた道筋で、坂下に戦災まで大きな桜の木があったことからこの名がついた。」とある。インターコンチネンタルホテルができる前は風情のある坂道だったようで、『今昔東京の坂』で岡崎清記氏はその雰囲気を讃えている。

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坂下は六本木通りと首都高速だが、江戸時代にはなかった道で、大通りの辺りは福岡県の筑前福岡藩の松平美濃守の屋敷。今の赤坂山王下からANAコンチネンタルホテルまでの広大な敷地がその中屋敷だった。 江戸初期には盛岡藩南部家の屋敷だったらしいが、江戸後期はずっと筑前福岡藩だったようだ。 しかしとてつもない広さの屋敷で、赤坂では幕末に屋敷を取り潰しされた毛利家(現ミッドタウン)に次ぐ大きさだった。

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鼓坂(赤坂)

鼓坂はアメリカ大使館と霊南坂教会の間の道で、霊南坂教会からANAインターコンチネンタルホテルに向かって下っている。 坂の脇にある陽泉寺と澄泉寺は江戸時代の切絵図にも記載されている。明治以降に開かれた坂と言われる。

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江戸期にも道はあったが、この坂の上の方で霊南坂教会側に折れ曲がっていたようだ。その先には「ガンギ坂」の記述のある切絵図もあるから、三谷坂下へ階段で下っていた可能性がある。江戸時代の道の名残りらしき坂上の横道を進むと三谷坂からの道と立体交差になっている。

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サントリーホール脇で上の道から下の道に降りる真新しい階段がある。 ここにはかつて石組みの階段があったがどうもこれは雁木坂ではない。 古地図と合わせてみると、サントリーホールの裏、アークヒルズの住居棟が並ぶテレ朝アーク放送センターとの間の通路が江戸時代の雁木坂に当たるようだ。 マンション内のタイル舗装なので全く痕跡はない。

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さて、鼓坂に戻って下ると、ストンと高度を下げてすぐに坂は終わる。写真の坂上右の樹木の向こうに霊南坂教会がある。昭和世代にとっては山口百恵と三浦友和が挙式を上げた場所としてあまりにも有名である。

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2017年5月20日 (土)

三谷坂(赤坂)

アークヒルズやホテルオークラのあるエリアだが、アークヒルズの名前がARK=Akasaka Roppongi Knotであるように、まさにその敷地の中に赤坂と六本木の町境が通っている。昔は麻布谷町と霊南坂町の境だった。いつの時代もここは街の境で、三谷坂(さんやざか)はホテルオークラから今よりもずっと谷のほうまで続いていた。

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現在は何という事のない短い坂だが、江戸時代はこの坂下の辺りからさらに下に今井三谷町という町屋が広がっていた。上の写真の正面のホテルオークラの溜池側半分は定火消屋敷だった。アメリカ大使館の坂上半分も定火消だった。また上の写真の左の植え込みの辺りは御先手組の屋敷があったようだ。

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坂上はかなりの勾配だが、坂下は緩やかになる。かつてはこの先の突き当りからさらに下る坂道があって、そちらが主役の三谷坂だったのだが、今は坂上の一部だけが残っているといういささか残念なことになってしまった。

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スペイン坂(麻布台)

スペイン坂というとやはり渋谷宇田川町の旧パルコへ上る坂が有名である。 ここ六本木一丁目にもスペイン坂がある。 というかこちらの坂上にはスペイン大使館があるので、むしろこっちが本家かもしれない。道源寺坂とほぼ平行に通っている。

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坂下に森ビルが設置した坂の説明板がある。「1986年(昭和61年)、20年近い歳月を経て、赤坂(Akasaka)と六本木(Roppongi)の結び目(Knot)にアークヒルズ(ARK Hills)が誕生しました。当時の民間における都市開発事業としては最大級の規模(56,000㎡)を誇り(中略)。そのアークヒルズの南側に位置するこの坂道は、六本木通りからスペイン大使館に繋がることから「スペイン坂」と名付けられ、多くの人に親しまれています。(後略) 2001年」とある。

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並木の包む坂の雰囲気は近代の坂道にしてはよくできていると思う。 道源寺坂の景色が良いのでそれと比べると趣に欠けるが、まっすぐの坂にしなかったセンスを評価したい。こういう街路においては車道でも曲げることでスピードも緩み、結果的には住民も使いやすい道になると思う。もちろん長くなる分コストは嵩むが、看板の色などで規制するよりも、こういう景観センスで規制するほうが街は素敵になり発展すると思うのだが、マネー優先の社会はそうも行かないのだろう。

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道源寺坂(麻布台)

近年大変貌を遂げている六本木一丁目駅周辺。 世紀の変わり目である2000年12月12日に大江戸線が開通し都営地下鉄の六本木一丁目駅ができた。それ以前から全日空アークヒルズはあったがどの駅からも若干遠さを感じざるを得なかったが、ジャンクションの真下にできた駅はその後の開発を加速させた。

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その中でひっそりと江戸情緒を保っている坂道がこの道源寺坂。 上の写真は2011年冬のもので、当時は右側のアークヒルズサウスタワー(20階建)が工事中だった。鉄骨と仮説囲いが風景の邪魔だと感じた。

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坂下の西光寺と坂上の道源寺の間をくねりながら登っていく坂の景色に、右側から迫ってくる工事の養生設備が難儀だった。この坂道は江戸時代は赤坂方面からの重要な道路で、かつ昭和までは箪笥町と谷町を分ける境界でもあった。坂の上下にある標柱には、「江戸時代のはじめから坂の上に道源寺があった。その寺名にちなんで道源寺坂、あるいは道源坂と呼んでいた。」とある。

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上の写真が2017年の景色である。 初夏なので樹木と蔦の生い茂る坂になり、2013年に竣工したサウスタワーのグリーンゾーンもあって若干ましになったが、標柱は植え込みの中に移設されてしまいそう遠くないうちに埋もれてしまいそう。区の仕事としては間抜けている。

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坂上道源寺山門とその門前のケヤキ。このケヤキが残されていたのはうれしいことだった。これがあるとないとでは景色は全く違う。目の前には首都高速環状線と3号線のジャンクションがあってひっきりなしに車が通るので静かではない。

坂上には大正9年から終戦にかけて小説家の永井荷風が「偏奇館」という木造2階建の独居を建てて執筆した。 ペンキ塗りの洋館だったのでもじって名付けたという。ただ昭和20年の空襲で焼失した。 荷風は軽佻浮薄な日本近代を憎み、市井に隠れて、滅びゆく江戸情緒に郷愁を見出すという思想と作風だったという。 それにこの坂道はとても似合っている。

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