2025年11月 9日 (日)

西原町の馬頭観音(西東京市西原町)

街道の交差する田無の北原から所沢街道を北西に進むと、600mほどで府中道の分岐がある。ここから南へ行くと旧青梅街道をクランクで横切って小金井方面に街道が伸びていた。旧青梅街道のクランクには田無上宿の庚申塔がある。

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西原町の辺りも昔の地名は北原だったようだ。南へ下り青梅街道周辺に行くと田無でかなり大きな宿場町だった。この三叉路分岐近くに馬頭観音があるのは自然である。昔の所沢街道は道幅四間(7.2m)、府中道は道幅二間半(4.5m)だから当時から広い道で、牛車や馬車が通る道幅だった。ちなみに青梅街道は五間(9m)とさらに広かった。

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堂宇内の馬頭観音は座像。板状駒型か板状くし形が微妙だが、下部に尊像が陽刻されている。造立年は寛政9年(1797)7月と記されている。左側の文字は欠損と摩耗で読み取れない。「〇所澤〇〇衛門」とある。この辺りは今でも農地が多く残っており、昔ながらの広い農家も散見されるのどかな地域である。

場所 西東京市西原町1丁目9-13

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2025年11月 6日 (木)

大圓寺門前の石仏(東久留米市小山)

東久留米市小山にある大圓寺は天台宗の寺院。創建年代は不詳だが、天長年間(824~834)に慈覚大師円仁が創建したという言い伝えがある。円仁は比叡山延暦寺の高僧、最澄の弟子として天台宗を継承した。遣唐使として唐に渡り9年間も過ごした。

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山門をくぐり本堂に向かうと、間にもうひとつ立派な山門。扁額に「仁王文殊楼」とある。この山門手前に矢部藤九郎の墓がある。小山集落に伝わる殿様だった所の矢部さんの墓、とあるがよく意味が分からない。江戸四谷の全長寺にあったものを移設したらしい。本堂にお参りして最初の山門前に戻る。

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山門に向かって右手手前が笠付角柱型の庚申塔。三猿のみだが、文殊菩薩の種子と「奉信礼庚申待諸天納受所」の文字がある。造立年は延宝8年(1680)8月で、「武刕小山村 大圓寺法印天蔵」、「不動院」の文字が見られる。もとは小山生活センターの敷地に薬師堂があり、その境内に立っていたものらしい。左の角柱型の石仏は石橋供養塔だが上部に馬頭観音が陽刻されている。馬頭観音の下に「石橋供養塔」の文字と、天保6年(1835)3月の造立年が刻まれている。黒目川に架かる橋のたもとにあったものを移設した。

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山門に向かって左側には手前に大きな角柱型の馬頭観音。「馬頭観世音」の大きな文字と、基壇には「下里邑中」と記されている。天保9年(1838)4月に下里村で建立されたもの。右面には「武蔵国多摩郡下里村」の銘、左には「東いたはし5里、西八おうし5里、南江戸四ツ谷5里、北川ご絵5里」と書かれており、その為にゴリゴリ馬頭と呼ばれてきた。もとは八幡町三丁目のかね塚と呼ばれた三角地点にあったという。右の小さいほうは駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。造立年は延享3年(1746)9月で、左面に「江戸牛込原町三丁目 當摩傳衛門」とある。小山村は小山姓、当間姓が多い。

場所 東久留米市小山2丁目10

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2025年11月 3日 (月)

石橋供養塔と力石(東久留米市小山)

東久留米市小山は東が西武池袋線、北が水道道路、西を都道15号線、南を黒目川を境とする。南の黒目川にはいくつかの橋が架けられており、西から落馬橋、中橋、曲橋である。中ほどの中橋は小山通りが黒目川を渡る橋で、そのすぐ北(左岸)で東西に延びる大圓寺通りと交差する。この交差点の南西角に小山生活改善センターの建物があり、その前に供養塔と力石がある。

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三つの橋の数と手前に祀られた3個の力石の数にはおそらく関係はない。石橋供養塔は角柱型で明治23年(1890)4月に建之、「落場橋、中橋、曲橋、供養塔」と書かれている。落場は落馬の誤字だろうか。側面には「北多摩郡久留米村小山」の銘があり、明治時代なので小山村も東久留米村に統合されていたことがわかる。

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基壇にも沢山の文字が刻まれているが、正面中央にあった「頼母子講連盟」という文字が気になった。実は山口県で育った自分の子供のころ、近所の人々が集まって頼母子講を開いていた。「頼母子講(たのもしこう)」とは、日本の相互扶助制度の一種で、簡単にいえば「お金の持ち寄りグループ」「無利子の相互金融サークル」のような仕組みで、江戸時代から明治・大正にかけて全国で広く行われていた。それが昭和30年代から40年代初頭にかけては間違いなく私のコミュニティに存在していたことを思い出したのである。

手前の力石は一番右が大きく、45貫とある。古老の話では、昔村の若い衆が集まってこの一番大きな石を背負って坂を上って降りたものに与えようという話になり、当時樵(きこり)で山仕事で鍛えた力自慢の徳さんがそれを達成したので、それ以来徳さんの石と呼ぶようになったという。

場所 東久留米市小山4丁目1-25

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2025年10月31日 (金)

米津寺の石仏(東久留米市幸町)

東久留米市幸町はかつての前沢村や小山村の地域。明治22年(1889)に神奈川県北多摩郡久留米村として10カ村が合併。4年後に多摩地区全体が東京府に移管された。東久留米町になったのは1956年、市政を引いたのが1970年であった。幸町は東久留米市の中では中央北部に位置している。

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米津寺は臨済宗の寺院で江戸時代の初期に地頭米津出羽守田盛が開基となり創建した。米津氏は徳川の御家人で、幕末まで徳川幕府に仕えている。両側に民家の立った長い参道を進み本堂にお参りすると、向かって左手に石仏が並んでいる。

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畜魂供養塔、鰻之供養塔が並んだ右に覆屋があり、角柱型の石仏が祀られている。上部には馬頭観音が陽刻されており、馬頭観音塔と思いきや、その下には石橋供養塔と書かれている。造立年は安永4年(1775)5月で、「武州多摩郡前澤邑」の銘があり、「念仏講中 願主浄圓」の文字がある。この供養塔は昔は小山村と前沢村の境の楊流橋のたもとにあったもの。昭和40年代に道路改修を行った折に米津寺で預かることになったという。

場所 東久留米市幸町4丁目2-40

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2025年10月28日 (火)

旧延命寺石仏群(東久留米市八幡町)

東久留米市八幡町にある旧延命寺跡、ここは江戸時代には前沢御殿(楊柳沢御殿)という将軍御三家尾張家の宿泊所であった。少し北側にある北浦通りはかつてここに流れていた黒目川支流の楊柳沢(ようりゅうざわ)の暗渠。東久留米一体のかなりの地域がこの鷹狩場に含まれていた。ここに延命寺があった江戸時代初期、寛永18年(1641)~延宝4年(1676)まで35年間前沢御殿が続いた。

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旧延命寺の開山閉山については不詳。明治時代の地図には寺院の印ではなく墓地の印になっている。明治維新の際の廃仏毀釈で閉山に追い込まれたのだろうか。この辺りは前沢村という村で、延命寺は前沢八幡神社の別当寺ということからすると、神社が300mほど南にあることからこの辺りが前沢村の中心だったと思われる。

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旧延命寺跡は広い墓所になっていて、その入口左の万年塀沿いに丸彫の六地蔵が並ぶ。造立年は宝暦10年(1760)11月、基壇にはそれぞれ「當村講中」の文字があり、施主中宿とある。かなり傷んではいるが、市内の六地蔵としては古いものとされる。

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六地蔵と向かい合うように5基の大きな石仏が並んでいる。一番道路側は丸彫の地蔵菩薩立像、造立年は寛政7年(1795)11月。損傷摩滅が激しいが、基壇には「武蔵国多摩郡前沢(村)念仏講中建之」とある。左は天保年間の地蔵菩薩立像で、「施主 前沢村中女念仏講中 延命寺亮孝」とある。5人の戒名と没年月日が記されているが、市の資料では天保6年(1835)~天保9年(1838)のものとしている。

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5基の中央は笠付角柱型の庚申塔。摩滅が甚だしい。日月、青面金剛像、三猿の痕跡は見て取れるが、その他の情報は分からない。隣の丸彫の座像は大日如来像らしい。「法印大僧都亮孝墓塔」とあるので、一番道路側の女念仏講中の地蔵を建立するのに尽力した僧侶の墓石だろうか。造立年は天保9年(1838)正月の没年と同じだろう。一番左の上部が欠損した舟型光背型の地蔵菩薩像についても文字はほぼ読めない。

鷹狩全盛期には賑わった村も徐々に衰退し、明治維新においては墓地を残して消滅した時の流れを感じる場所であった。

場所 東久留米市八幡町2丁目11

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2025年10月25日 (土)

阿弥陀堂の石仏(東久留米市下里)

東久留米市下里の阿弥陀堂は大圓寺の境外墓所。前を通る道は下里本邑通りというが、この「邑」を用いる通り名は極めて珍しい。阿弥陀堂を中心としたこの境外墓地は正式に大圓寺下里墓地という。この辺りは昔は下里村本村という地名で、村の中心はこの阿弥陀堂と、北を流れる黒目川の間に多くの民家が集まっていた。

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墓所の入口を入ると両側に覆屋があり、それぞれ地蔵菩薩が祀られている。入って左側には丸彫の地蔵菩薩坐像があり、立派な光背がある。子供を抱えており、地元では子育地蔵尊として拝まれている。造立年は天保11年(1840)3月で、基壇には下里邑の銘がある。また「奥刕会津若松産 願主 貞心」、「武刕多摩郡下里邑 惣村念仏講中」の文字があり、江戸時代の村と邑の使い分けは何だろうと思わせる。

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一方、右側の覆屋には地蔵菩薩立像があり、面長の頭部が特徴的。造立年は明治14年(1881)5月とあり、基壇には「地蔵大菩薩」と「念仏講中13人」の文字がある。発起人島崎四郎左衛門母の銘がある。下里村には嶋崎姓の刻まれた石仏が多い。

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資料によると以前はこの地蔵の裏側に江戸時代の地蔵があり、その再建ではないかと書かれていた。江戸時代の地蔵は同じように面長で丸彫、享和元年(1801)3月の造立だったらしい。

場所 東久留米市下里1丁目14-2

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2025年10月22日 (水)

大島家墓所の馬頭観音(東久留米市下里)

東久留米市下里の都道4号線(旧所沢街道)から少し北に入ったところに小さな墓所がある。墓石を見る限り大島家の墓所のようだ。この墓所の裏手にこじんまりと、角柱型の馬頭観音菩薩が祀られている。正面には「馬頭観世音菩薩」の文字。左側面には造立年、昭和9年(1934)3月建之とあり、続けて願主名がある。施主大島倉吉、六蔵、萬蔵の名前が刻まれている。

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大島家はおそらくこの北側にある大島農園のご先祖であろう。果樹園を営んでおられ、梨、葡萄、キウイを販売しておられる。馬頭観音の前の道は古い道で、北へ向かうと野火止用水(伊豆殿堀)に出る。野火止用水は玉川上水の分流で、小平市で分水し、村山村、久留米村を経て新座郡野火留で新河岸川に合流する。川越藩主松平伊豆守信綱が明暦元年(1655)に掘削させた農業用水で、その為伊豆殿堀の別名がある。ただ、川越藩のための堀だったので、間の村々には利権がなかったらしい。

場所 東久留米市下里7丁目2番地先

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2025年10月19日 (日)

嶋崎家庚申塔(東久留米市下里)

黒目川の左岸、旧所沢街道から少し西に入ったところに嶋崎家があり、角に庚申塔が祀られている。この辺りは昔、下里村の宮下という字名の土地であった。

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黒目川は新河岸川の支流で所沢市の狭山湖が水源。住宅地を流れる川だが意外にきれいな川である。下里辺りは昔ながらの黒目川の蛇行が残っている地域で、この少し下流で西妻川や出水川が合流する。地形的には豊かな土地で、その為昔から人が住み着いてきたのだろう。黒目川の右岸には下里氷川神社がある。

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脇に懸けてある赤い布には「奉納御庚申 島崎氏」とマジックで書かれている。庚申塔は笠付角柱型の立派なもので、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれている。また青面金剛頭部には蛇が巻いている。造立年は寛政12年(1800)6月とあり、「武刕多摩郡下里村 嶋崎庄兵衛」の銘がある。

場所 東久留米市下里5丁目18-26

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2025年10月16日 (木)

下里の馬頭観音(東久留米市下里)

東久留米市下里は北を野火止用水、南は同じ東久留米市の滝山地区にあり、中央には黒目川が流れる武蔵野台地の中北部にあたる。多摩川の大きな扇状地の一部で、東京23区を形成する武蔵野段丘の北の端になる。現在新所沢街道(都道4号線)が走っているが、もともとの街道筋は北にある所沢街道で江戸と所沢を結ぶ街道だった。

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今の石仏は新所沢街道に面して北向きに立っているが、この場所は昔は三叉路で、真北に向かうと下里村内で所沢街道に当たり、東に向かうと八幡町との境で所沢街道に出た。その三叉路上に新所沢街道が新設された形である。右の大きいほうが馬頭観音で、左の角柱が回国供養塔。馬頭観音は笠付角柱型で、延享元年(1744)5月の造立と東久留米市の馬頭観音では最古。

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中央に三面六臂の馬頭観音が陽刻され、「奉造立馬頭観世音菩薩」の文字。右側面には武刕多摩郡下里村之内とある。左の角柱には「奉納大乗妙典日本廻国」とあり、造立年は嘉永7年(1854)3月である。左面には「上州那波郡玉邑宿 栄左衛門」の銘があり、基壇には「下里西邑 世話人清左衛門 惣村中」とある。上州…はおそらく群馬県佐波郡玉村町と思われるが、下里村との関係は不詳。

場所 東久留米市下里3丁目25番地先

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2025年10月13日 (月)

老松橋脇の庚申塔(東久留米市南沢)

多聞寺境外墓所から少し東に行ったところで、東久留米市駅から南へ伸びる竹林公園通りに出合う。竹林公園は老松橋を南にわたって少し行ったところにある湧水の公園。市が設置した公園だが、落合川流域にある湧水の中でも代表的な場所で、東京の名湧水57選にも選ばれている。この竹林公園北の老松橋左岸に庚申塔がある。

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丁字路前はカーブになっていて、その一角に庚申塔と常夜燈が立っている。庚申塔は笠付角柱型で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏が描かれており、基壇には三猿が陽刻されている。左面には造立年の宝暦7年(1757)10月が刻まれ、武刕多摩郡南澤邑、願主神藤傳右衛門の銘がある。右面には「奉造立青面金剛御像講中 安全諸願成就之所 講中18人」とある。

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基壇には道標も刻まれ、「南 保谷村、田無村道、西 前沢道、東 清戸道」とある。脇に立つのは常夜燈のようで、こちらは文化元年(1804)6月の建立。正面には「青面金剛常夜燈」、右には「石尊大権現 大天狗小天狗」、左には「榛名大権現」の文字がある。また武州多麻郡南沢村下組の銘もある。

場所 東久留米市南沢1丁目2-6

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2025年10月10日 (金)

多聞寺境外墓所の石仏(東久留米市本町)

多摩郡南沢村の中心であった多聞寺の境外墓所が、多聞寺通りを東に進んだ丁字路の先にある。明治時代初期の地図を見てもここには墓地があるので、昔からの境外墓所だったと思われる。

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この墓所にはかつて黒松の巨樹があった。しかし昭和47年(1972)9月に落雷に遭い枯死してしまった。現在は傍に昭和63年(1988)に植えられた二代目の松がある。この松は『伊勢物語』の主人公である在原業平の笠懸伝説が残る黒松だが、西の方にある笠松坂の庚申塚の松も同じ由来を持つ。どっちが本当か、どっちともそうでないかはわからない。東下りした業平が、旅の途中で藤原氏の姫、花鳥とこの地で落ち合い、松の下で休憩した折に笠を枝に懸けたという、あちこちにある伝説。

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墓所には古い石仏が祀られていて、中央のひときわ大きな丸彫の地蔵菩薩立像は享保3年(1718)9月の造立。武刕多摩郡南沢村の銘があり、願主名には多聞寺の本誉利覚と下田源右衛門、講中22人とある。写真の一番左の石塔が気になったが、文字は読み取れなかった。

場所 東久留米市本町1丁目16番地

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2025年10月 7日 (火)

多聞寺通りの大日如来(東久留米市本町)

多聞寺から東久留米駅に向かって多聞寺通りを東進する。しばらく行くと、竹藪が見える。竹藪の裏には砂利敷きの駐車場があるが、何の駐車場なのかはわからない。数年前までは藪だったようだ。

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竹藪の丁字路の角に、2基の石塔が祀られている。左は駒型で「大日如来」の文字、造立年は寛保3年(1743)とある。右の上部が欠損した石塔は不明。ゼニゴケが厚くて文字がほぼ読めない。大日如来は空海で知られる密教の根本教主で、真言宗系に多い。なぜここに大日如来があるのかはわからない。

場所 東久留米市本町4丁目8番地先

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2025年10月 4日 (土)

西川家の地蔵(東久留米市本町)

多聞寺から多聞寺通りを東久留米駅に向かって歩く。この辺りは南沢村の中でも北原と呼ばれていた地域で、多聞寺通りに沿って江戸時代から民家が集まっていた。多聞寺通りの丁字路に西川家のお宅がある。この家の角に地蔵堂があり、3体の丸彫地蔵が祀られている

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調べてみると、多聞寺の文化財である嘉永年間建立の総ケヤキ造りの山門の大工のひとりに西川家の人がいたらしい。家の規模と構えからして山門建築に係わった西川家だと思われる。地蔵菩薩には文字が全く見られないが、三地蔵だと残りの三地蔵がどこかにあるのか気になってしまう。

場所 東久留米市本町4丁目7-20

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2025年10月 1日 (水)

多聞寺の石仏(東久留米市本町)

東久留米市本町にある真言宗の寺院多聞寺は、不詳ながら鎌倉時代の創建らしい。現在の住所は本町だが、もともとは南沢村に属していた。近代になって付けられる町名はダサい。本町などは初期の例で、〇〇ヶ丘などは近年の例、それに比べて昔の地名には命がある。

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多聞寺の山門は立派なもので、江戸末期の嘉永5年(1852)に建立された。総ケヤキ造りで、材料は村に生えていたものを伐採し落合川に流して江戸まで運び、江戸で彫刻をしたのちに組み上げたという。ちょうど河岸段丘を形成した場所に寺はあり、山門前と裏の墓所では5mほど標高差がある。

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本堂にお参りし、墓所に向かうと入口に立派な丸彫の地蔵菩薩立像がある。文化10年(1813)8月造立で、基壇正面には「地蔵大菩薩」とある。側面には「武刕多摩郡南沢村 願主 下田勘治郎」の銘がある。

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山門から出て南側の道路(多聞寺通り)に出る手前の塀脇に迫力のある角柱型庚申塔が立っている。正面には大きく「庚申」の文字があり、基壇には「村中安全」、側面には天下泰平五穀成就の文字と、造立年が弘化2年(1845)2月と記されている。基壇側面には多くの願主名があり、「武刕多摩郡南澤村 願主惣村中 引又町石工勝五良」の文字がある。引又町はおそらく現在の志木市本町(舘村)にあたる地域だろう。

場所 東久留米市本町4丁目13-16

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2025年9月28日 (日)

笠松坂の庚申塔(東久留米市南沢)

南沢通りは西東京市の六角地蔵尊交差点で所沢街道と分かれて北上、東久留米市内で黒目川を渡り大圓寺までの通り。落合川を渡る橋の名前が毘沙門橋だが、少し南に落合川支流の立野川という細流があり、その川を渡る橋が笠松橋である。笠松橋を過ぎると上り坂になり、これが笠松坂。

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笠松坂の坂名の由来がこの場所で、坂上の松の形が笠のようだったという説と、在原業平の笠懸松の説がある。古今和歌集で有名な在原業平は野火止台地に暮らし、草むらに京から呼び寄せた姫と逃げ込んだり、一服休憩で松の枝に笠を懸けたという。坂上のこの場所は大きな塚になっており、その上には庚申堂がある。

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堂内にあるのは立派な笠付角柱型の庚申塔。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、元禄7年(1694)8月の造立。「奉造立庚申供養為二世安楽」「武刕南沢村 本願 四宮徳右衛門 同行17人施主敬白」の文字がある。この地域では庚申講が盛んで、昭和末期にもまだ庚申講が開かれていたようだ。この庚申は北向の庚申でご利益が高いとも言われている。

場所 東久留米市南沢2丁目21番地先

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2025年9月25日 (木)

神明橋畔の石仏(東久留米市中央町)

落合川は4㎞ほどの支流で、東久留米市八幡町を源流に黒目川に合流、黒目川はやがて新河岸川に流下し、赤羽の岩淵水門で隅田川(荒川)に注ぐ。落合川を渡す橋のひとつに神明橋がある。すぐ北には南沢神明社という神社がある。氷川神社系列で旧神明山地区の鎮守である。

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神明橋の南側に大きな庚申塔が祀られている。今は中央町だが昔は南沢村神明山という地名であった。笠付角柱型の庚申塔は、日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄で、造立年は享保18年(1733)9月。側面には「庚申待供養塔 南沢村内神明山」と書かれており、講中拾六人とある。

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並んでいる角柱型の石柱は石橋回国供養塔。正面には「石橋日本回国供養塔」とあり、造立年は宝暦10年(1760)霜月(11月)。吉田重兵衛、山下伝兵衛の銘とともに念仏講中三十人とある。側面には「武州多摩郡南澤邑神明山」の銘があるので、回国供養と石橋供養を兼ねて神明橋の架橋記念に建てられたものだろう。現代に暮らす人々にはピンとこないが、橋や坂や峠は世界の境界であり、魔物なども出入りするという感覚が昔の人にあったため、特に橋は供養の対象となったようだ。

場所 東久留米市中央町3丁目11番地先

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2025年9月22日 (月)

坂の地蔵さま(東久留米市中央町)

小金井街道が落合川の源流に近い弁天橋を渡るところから少し南の三叉路の頂点に地蔵堂がある。通称「坂の地蔵さま」と呼ばれているらしいが、小金井街道の緩やかな坂に坂名はないようだ。この分岐点は江戸時代からの分かれ道で、まっすぐ南へ進むと府中、左の道は江戸へ続く道だった。今は左の道も六仙通りといい、イオンモール東久留米の手前まで続いている。

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祀られている丸彫の地蔵菩薩は、明和5年(1768)2月の造立で、「願主円西」の銘がある。円西は少し南にある所沢街道沿いの松本家の地蔵にも彫られていた名前で、当時は村の中心的な僧侶だったのだろうか。

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地蔵の基壇には、「念仏講中 右大山道 左江戸道」とあり、分岐の道しるべの役目を果たしている。「武刕多摩郡前澤村 ふちう(府中)まで三り」とも記されている。前沢村の中心は弁天橋の北側にある前沢宿で、江戸時代末期の規模は114戸、人口550人程度の村だった。徳川家臣であった米津家の領地で、幸町にある菩提寺米津寺(べいしんじ)には米津家の大名墓所がある。

場所 東久留米市中央町5丁目10番地先

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2025年9月19日 (金)

中新田通りの庚申(東久留米市八幡町)

東久留米市八幡町と中央町の境界は都道の小金井街道である。南には旧道の所沢街道と新道の新所沢街道が交差している。小金井街道に交差するもう一つの村道が中新田通りという道。小金井街道から西へ20mほど中新田通りを進んだ角に庚申塔がある。

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写真(上)の右側が中新田通りである。きれいにフェンスで囲まれた境内を持つ庚申塔だが、2023年まではここに桜の巨樹があり、その樹の足元に庚申塔があった。庚申塔の向きは東向きでこれは変わっていない。

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庚申塔は笠付角柱型で日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。青面金剛の頭部は蛇のとぐろになっていて宇賀神のようだ。造立年は寛政4年(1792)2月で、「武刕多摩郡前澤村新田 講中20人」の銘がある。ちなみに「武刕」の刕は「州」と同じ意味の漢字で、江戸時代の石仏では武州を武刕と書いたものが多い。

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庚申塔の周りには燈籠が4基残っている。「常燈明」の文字がある。この前の道はかつては大山道で古道のひとつらしい。江戸時代は大山詣でが民衆の間では盛んで、埼玉県の方から多摩地区へと続く道には大山道がいくつかあるが、大宮から清戸(今の清瀬)、府中を経て、多摩稲城の関戸の渡しを越えて、厚木へというのが埼玉県側からのメインの大山道である。ここはそのルートの傍にあたる。

場所 東久留米市八幡町3丁目14番地先

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2025年9月16日 (火)

三叉路の地蔵尊(東久留米市中央町)

東久留米市中央町にある六仙公園はとても広い市民の公園で、この辺りの昔の字名が六仙だったことに由来する。六仙の西の地区が古くは川南と呼んだらしい。少し南を通る所沢街道に並行した道が前沢村の中心地に向かう北への道と、そのまま西進して所沢街道に戻る道が分岐する三叉路に小さな地蔵堂がある。

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後の三角地帯は中央第七緑地という小さな公園。この地域が川南と呼ばれたのは北に黒目川支流の落合川が流れていたからではないかと思う。現在は東西の道が六仙通りといい、北に向かうほうが神明通りという。神明通りを進んで落合川を渡る橋が地蔵橋という名前だが、この三叉路の地蔵との関係は分からない。というのも橋までは500m近く離れているからである。

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堂内の地蔵菩薩像は本来は舟型光背型の地蔵菩薩立像だが、なぜか頂部に頭がついているユニークなもの。造立年は享保3年(1718)9月で、紀年の下に「神明山」の文字がある。調べてみると落合川の近くに神明山公園という小さな公園がある。古い地図(大正~昭和中期)を見てみると神明山は落合川の辺りの地名で、今も南沢神明社(旧神明山の鎮守)がある。

場所 東久留米市中央町5丁目3番地先

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2025年9月13日 (土)

松本家の地蔵(東久留米市中央町)

所沢街道(都道4号線)と小金井街道(都道15号線)が交差する前沢十字路から所沢街道を江戸方向へ少し行ったところに松本家がある。裏の畑を合わせると4,000㎡(1200坪)ほどの広い敷地だが、街道側に塀が切れているところがあり、敷地内に地蔵堂がある。通行人が自由にお参りできる形になっている。

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広い堂宇の中には丸彫の地蔵菩薩像が祀られている。造立年は宝暦10年(1760)2月。「奉造立地蔵再菩薩」の文字が基壇にあり、「武刕多摩郡前澤村」の銘がある。右側面には26名の願主名、左側面には30名の願主名が刻まれており、資料によると裏側には「奉納表口9尺、奥行3間 明治15年9月 松本鉄五良」の銘があるらしい。

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興味深いのは地蔵菩薩の後ろにひっそりと別の丸彫の地蔵菩薩像があること。その由緒については全く不明。地元では親子地蔵と呼ばれているようだ。大正14年に松本家がこの堂宇を建て替えたときには講中の世話で芝居小屋を架けて盛大に落成祝いをしたと伝えられる。かつては前沢地区で地蔵講がそうとう盛んだったことが伺える話である。

場所 東久留米市中央町5丁目7-54

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2025年9月10日 (水)

前沢三叉路の庚申(東久留米市前沢)

東久留米市の中では前沢は南部に位置し、南側を小平市(昔は小平村)に接する地域。前沢の北部を所沢街道が東西に走り、村の街道が南北に走っていたがこの南北の道は現在は都道15号線(小金井街道)である。所沢街道に並行して走る村の街道の三叉路が今も新所沢街道の少し南に残っている。

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その三叉路の北側にも南側にも幼稚園がある。三叉路の三角地帯が境内になっており、大きな欅の木と庚申塔がある。かつては榎の大木が手前に2本あったが消えてしまった。2010年頃までは3本の大木が庚申堂を囲むようにしていたが、2015年頃に枯死が進んだ榎が伐採されたようだ。現在は覆屋はなく、庚申塔は野ざらしだが大切に祀られている。笠付角柱型の庚申塔は、日月、青面金剛像、三猿の図柄で、造立年は元禄6年(1693)11月とある。「庚申・拾壱人」の文字があるので、11人の講中が造立したものだろう。庚申信仰の中では初期の物である。

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この庚申塔は性格の激しい庚申様として信じられており、戦時中にこの周りの林の樹木を伐った人が急死して畏れられたらしい。のちに講中の中の松本家のおばあさんが覆屋を作って差し上げようとしたが、占いでは「小屋はいらない」と出て造らなかったと伝えられる。それ以来荒れるに任せたらしいが2010年頃までは簡易な覆屋があったので、誰かが立てたのだろう。傍には絵馬が奉納されており、地元ではこの庚申様は、安産、咳止、歯痛などにご利益があるとされ、そのお礼に絵馬を飾っているそうである。

場所 東久留米市前沢1丁目9番地先

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2025年9月 7日 (日)

寛永寺坂の地蔵(台東区上野桜木)

台東区にある寛永寺坂は坂道のところでも紹介した。JR山手線、京浜東北線などの走る線路群を越える跨線橋の台地側に坂道の説明版があるが、大正時代には踏切を越えて崖を上る急坂だったのを、昭和3年に跨線橋にして実質的には本来の寛永寺坂は消滅したことになる。この跨線橋の台地の端に石仏が祀られている。

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石仏は3基あって、中央の舟型地蔵菩薩立像は宝暦3年(1753)3月の造立。左の小さな舟型地蔵は文字が確認できず、ただ脇に「石敢當(いしがんとう)」と書かれた石碑がある。石敢當は中国福建省発祥の魔物除けの民俗で、坂道や橋などの境界から魔物が入るのを防ぐ意味があるようだ。右の石仏は地蔵ではなく聖観音菩薩。造立年は貞享元年(1684)とあるのでかなり古いもの。江戸時代はこの崖上はすべて寛永寺の境内地で、崖下は金杉村。まさに聖俗の境界である。

場所 台東区上野桜木1丁目15番地先

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2025年9月 4日 (木)

広尾の庚申塔(港区南麻布)

手前ネタを暴露すると今年(2015年)の夏は4人の小学生の孫たちとのスケジュールで散策ままならず、それ以上に余りの酷暑で昼間は身の危険を感じて散策などできなかったため、8月に至っては一度も石仏巡りに行くことができなかった。自分の少年時代は3~4度は低かったと記憶しているが、AIに聞いてみると

江戸時代の夏の気温(推定値)

  • 最高気温:おおよそ 27〜28℃前後
  • 夜間の気温20℃前後まで下がることが多かった
  • 猛暑日(30℃以上):ほとんど存在せず
  • 真夏日(30℃近く):数日程度とされる

この時代は「小氷期」と呼ばれる寒冷期の後半にあたり、現在のような都市化やヒートアイランド現象もなかったため、気温は自然のままに近く、川や海からの風が町を涼しくしていたそうです。

という答えが返ってきた。シーボルトは江戸で34.4度の最高気温を記録したということもあるが、かなり気温は低かったようだ。

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というわけで古い散策の記録(2015年)から引っ張ってきた写真で、上の写真は港区の広尾稲荷神社。社殿の天井には江戸時代の画家高橋由一の天井墨龍図がある。弘化2年(1845)1月に青山から麻布一円を焼いた青山火事によって社殿を焼失したが、翌々年に再建している。その時に描かれたもので、なかなか素晴らしいものである。そして神社の隣にあるのが庚申堂で、こちらには古い庚申塔が3基並んでいる。

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手前の手水鉢も庚申講中によるものらしく、三猿が描かれ「塔前」「庚申」の文字がある。造立年は元禄8年81695)11月。後ろに並ぶ庚申塔は左が笠付角柱型で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。ショケラの痕跡もあり、元禄9年(1696)11月の造立。「庚申供養一結衆志」「現当二世安楽也」の文字がある。中央も笠付角柱型の庚申塔で、日月、青面金剛像、三猿の図柄。少し古く元禄3年(1690)10月の造立で、同じく「庚申供養一結衆志」「現当二世安楽也同行17人」の銘がある。右は摩滅して年代不詳だが、説明版によるとさらに古いものらしい。笠が小さい笠付角柱型で、日月、青面金剛像、三猿の図柄。こちらも「庚申供養一結衆〇」「現当二世為安楽也」の銘がある。

江戸名所図会によると当時の広尾は笄川が渋谷川に合流する低地で、ススキの原が広がり、草摘み、虫取り、月見などで江戸町民が行楽地として親しんだ土地。三代家光や八代吉宗らがこの原で鷹狩を楽しんだ。そんな時代のものが今もここにあるのが感動ものである。

場所 港区南麻布4丁目5-61

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2025年9月 1日 (月)

大嶽神社の新旧地蔵(小金井市緑町)

連雀通りが武蔵野市境町で二股に分かれ、やや北西方向に延びるのが富士見通り。この道筋は江戸時代からの道で、中央線の東小金井駅を過ぎると地蔵通りと名前を変えてさらに西に延びていく。東小金井駅から1㎞ほどで地蔵通りは終わる。

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東小金井駅から500mほど西進したところに小さな神社がある。小さな社に不似合いな鳥居が立っている。これが大嶽神社である。西多摩郡桧原村の大嶽神社を勧請したもので、第二次世界大戦末期に創建した。当時までこのあたりは小金井村下山谷という集落で、隣組で火除け盗難除けの神様を分祀、社殿は終戦後に千葉県茂原市の農村修練場にあった廃社を移築した。

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神社の角にブロック造りの覆屋があり、2基の丸彫地蔵菩薩立像が祀られている。本来は1基だが、左が古い地蔵で右が新しく再建された地蔵。新旧が横並びというのは珍しい。右の地蔵は平成17年(1009)に建てられたものだが、左の地蔵は寛政6年(1794)の造立である。小金井村下山谷の念仏講中46人によるもので、願主は清水右衛門、鴨下佐吾兵衛。この土地では百万遍の儀式が江戸時代中期から平成元年(1989)まで続いていたという。台石には「右 ふちう 大山みち」とあり、地蔵の前の道が大山詣の参詣道だったことがわかる。

場所 小金井市緑町1丁目3-31

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2025年8月29日 (金)

墓地の六面幢(小金井市緑町)

小金井市緑町二丁目にある共同墓地(緑町共同墓地)は明治時代の地図にもある古い墓所である。この辺りは当時は小金井村下山谷という地域で、桑畑の広がる農村地域で、集落は現在の北大通りに沿って並んできた。その集落の北側にあるのがこの墓地である。

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墓地は鉄扉が閉まっており、施錠はされていなかったが、中に入るのははばかられると思い外から撮影した。その対象はこの明治20年(1887)造立の地蔵六面幢である。六面幢は六地蔵の代わりに置かれることが多いように思う。基壇には「念仏講中」の文字と、二子石工俣松五郎の銘が見られる。

場所 小金井市緑町2丁目5番地先

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2025年8月26日 (火)

北関野八幡神社の庚申(小金井市関野町)

北関野八幡神社(関野八幡神社)は江戸時代の中期、享保年間の創建。当時はこの辺りを関野新田と呼んだようだが、小金井市の武蔵野台地のあちこちに新田のつく地名が残っており、武蔵野の林を切り開いて農地を開墾した当時の人々の苦労が感じられる地名である。

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北関野八幡神社はこの関野新田の鎮守で、もとあった場所から昭和18年(1943)に移転したという。その場所は小金井公園の東門あたりだというから、現在の武蔵野市桜堤にあたる。戦前までは桑畑などが広がる農地だったが、太平洋戦争直前には地図が真っ白になっており、昭和15年(1940)の紀元2600年記念事業で小金井大緑地が造られた。

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境内社の中で本殿並みに目立つのが、脇にある猿田彦神社。頑丈な堂宇の中に祀られている。堂宇の前にある御影石の石柱には、「寄進 平成14年6月 庚申堂壱棟 内田雪雄」とあるので比較的新しい堂宇である。

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堂宇の中には一基の駒型庚申塔が祀られていた。これが猿田彦神社の御本体だろうか。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、延享3年(1746)7月の造立。関野八幡神社の創建とほぼ同年代である。庚申塔には「奉刻彫青面金剛供養」「武刕多摩郡関野新田願主」の文字がある。

場所 小金井市関野町1丁目5-2

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2025年8月23日 (土)

仙川上の馬頭観音(小金井市梶野町)

梶野通り沿いに流れる水路は仙川の上流。通りの西側を北に向かって流れていた仙川は、二本松の庚申堂の少し先で、通りの東側に位置を変える。この流程は江戸時代から変わらない。

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まるで水路に架かる橋のようだが、水路は道路の反対側から道路を潜って流れてきて、ここで再び90度向きを変えて北流する。橋の名前は特になさそうだ。この水路のドン付きに石造りの角柱がある。実はこれが馬頭観音なのだが、普通に歩いているひとはまず存在に気付かない。

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南側の面には「馬頭観世音」の文字の上部が見える。造立年は側面にあり、弘化3年(1846)2月である。左面を見ると「南・・」とあるので、昔とは90度向きを変えているようだ。文字が埋まっているので資料を確認すると「南 いし原 そめや ふちう道」とあるらしい。昭和40年当時はまだ読めたという。梶野新田の講中が造立したものだそうだ。

場所 小金井市梶野町4丁目20番地先

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2025年8月20日 (水)

市杵島神社の参道の庚申堂(小金井市梶野町)

東小金井駅から梶野通りを北に進むと、東京電機大学中学・高等学校の先に二本松が見えてくる。二本松の脇に庚申堂があり、この堂宇は川の上に基礎を築いて建てられている。この小さな水路は成城学園前から野川に注ぐ仙川の上流で、武蔵小金井駅の北にある山王稲穂神社辺りが水源とされる。

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梶野通り沿いの仙川に架かる橋はこの西側にある梶野市杵島(いちきしま)神社の参道の始まりになっている。この神社はこの辺りの新田開発が始まった享保17年(1732)の創建で、この辺りは当時は梶野新田と呼ばれた地域。境内社のひとつに猿田彦神社があり、それがこの川の上に立つ庚申堂である。

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堂宇は立派なもので、中には笠付角柱型の庚申塔が1基。格子には絵馬がいくつも掲げられている。扁額の位置には可愛く「庚申塔」と描かれた飾りがあり、地元の人々に親しまれている様子が伝わってくる。

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庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、造立年は宝暦2年(1752)9月と刻まれている。新田開発盛んな時代だろう。右側面には「武刕多摩郡梶野新田講中」と書かれている。昔の民家は梶野通りよりも一本東側を南北に走る玉川上水の分水(梶野分水)沿いに並んでいた。この梶野分水は築樋(つきどい)で用水路として少し高い位置に築かれており、仙川を渡る樋の橋もあったようだ。用水路の下流は深大寺(調布市)まで伸び深大寺用水となって流れていた。

場所 小金井市梶野町4丁目12番地先

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2025年8月17日 (日)

太陽寺の石仏(小金井市東町)

太陽寺は東小金井駅から富士見通りを東に500mほど進んだところにある。太陽寺という名前が珍しい。真言宗の寺院で創建は昭和27年と新しい。南関野集落の有志によって建立された。

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新しい寺だが古い石仏もある。本殿前にあるこの六地蔵、見た感じは多少バラバラ感があるが大きさは概ねそろっている。造立年は不詳だが、供養対象の仏様の没年が刻まれている。一番古いのが右端だろうか、天保13年(1842)、天保12年(1841)の紀年がある。一番新しいのは一番左で、安政6年(1859)の行年。他もこの18年の間に入っている。

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六地蔵の近くにあった石仏は右が舟型光背型の地蔵菩薩像で、こちらは年不詳。大きいほうの地蔵菩薩立像は安永6年(1777)3月の造立である。門前の富士見通りは江戸時代からある村街道で、太陽寺の辺りは下染屋という小字だった。南関野はもう少し南の連雀通り筋の小字である。

場所 小金井市東町3丁目18-6

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2025年8月14日 (木)

栗山通りの馬頭観音(小金井市東町)

JR中央線東小金井駅を南に進む。ちょっとした商店街になっていて、栗山通りの表示がある。栗山というのはここから南へ800mほど下ったあたりを東西に走る連雀通りを中心として栄えた集落の名前である。一方、北に栗山通りを進むと1㎞余りで五日市街道と玉川上水に至る。今はない地名だが、通り名に残っているのは何となくうれしい。

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商店街の南の方に一本松があり、その前に堂宇がある。中をのぞいてみると舟型光背型の石仏が祀られている。尊像の下部には「馬頭観世音」と書かれているが、尊像そのものは聖観音である。側面にある造立年は、昭和7年(1932)9月とあり、比較的新しいもののようだ。

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石仏は丁寧に作られた立派なもので、昭和のものとしては質が高い。裏面には文字があり、「東京市街野方願主西浦家」と書かれているらしい。ということはここ(栗山)の物ではないのだろうか。

場所 小金井市東町4丁目38-28

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2025年8月11日 (月)

パールセンターの石仏(杉並区阿佐谷南)

JR中央線阿佐ヶ谷駅から南に延びるアーケード商店街が阿佐ヶ谷パールセンター。夏には阿佐ヶ谷七夕まつりで賑わい、シャッターの閉まった店舗がほとんどない活気ある商店街である。この商店街の中ほどの辻に石仏が祀られて大切にされている。

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撮影は賑わう昼間を避けて朝だったのでまだ石仏の場所を提供している建物の店舗は閉まっていた。この場所は明治時代に杉並村だった頃は村の主要道の交差点だった。パールセンターを南へ下ると青梅街道に出る。北に向かうと世尊院や神明宮のある本村。左の石仏は舟型光背型の地蔵菩薩像で、元禄4年(1691)の造立。痛みが激しいが「奉造立念仏講石塔一基二世安楽所」とあり、「武刕阿佐ヶ谷村」の銘のほか願主名がいくつか見られる。

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右の笠付角柱型の石仏は庚申塔。こちらも同じ元禄4年(1691)の造立で、 日月、青面金剛像、二鶏、三猿が描かれている。右面には「奉供養庚申講二世安楽攸」の文字がある。杉並区が東京市に併合されたのは昭和7年(1932)だが、パールセンターの通りは鎌倉時代に鎌倉街道の枝道として栄えた筋。南北朝時代には江戸氏一族の流れをくむ阿佐谷氏という豪族がこの辺りを支配して、阿佐ヶ谷の地名があったらしい。大正時代には阿佐ヶ谷駅が開業し、その後多くの文筆家が住む町となった。

場所 杉並区阿佐谷南1丁目34-11

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2025年8月 8日 (金)

連雀通りの庚申塔(小金井市貫井北町)

JR中央線はとても古い路線である。明治時代に開通した自分は甲武鉄道という私鉄で、お茶の水から八王子までを結んだ。明治22年(1889)に立川、八王子までがつながった。そんな中央線を西走すると吉祥寺駅の次が境(今の武蔵境)、その次が国分寺である。随分駅間が長い。連雀通りは昔も今も同じ場所で中央線を横切る(くぐる)。

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連雀通りが中央線の北側になると間もなく、北側の路地角にトタン屋根とブロック塀の堂宇が見える。簡素な堂宇だが、なかなか広い。中をのぞくと駒型の庚申塔が祀られている。造立年は文政5年(1822)11月。日月、青面金剛像、三猿の図柄である。

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基壇の正面には「講中」の文字があり、本体の右側面には造立年、左側面には「武州多摩郡貫井新田」の文字がある。基壇の角には、「西 沙(砂)川道」「南 府中道」「東 江戸道」という道しるべが刻まれている。確かにここで進路を南に取ると府中市の中心部に着く。

場所 小金井市貫井北町5丁目20番地先

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2025年8月 5日 (火)

車屋の坂の庚申塔(小金井市貫井南町)

貫井神社の前のハケの道を西へ少し進むと、右上のハケ(崖)の林を上る道が分岐する。林の上には、貫井不動が祀られた不動堂がある。貫井神社のハケの森は大きな樹木の多い少しうっそうとした雰囲気である。この坂道には「車屋の坂」という名前がある。貫井弁天に通じる道だったので「弁天坂」の名前で呼ばれることもあるらしい。ちなみに小金井市中町にも同盟の坂があるが、私はこっちの方が好み。

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特に覆屋もなく、それでもしっかりとした土台の上に祀られているのが、駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、三猿のシンプルな組み合わせで、野ざらしのわりに右上の欠損を除いては保存状態も良い。造立年は正徳元年(1711)11月と刻まれている。

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尊像右には「奉造立庚申供養」の文字があり、下部には「貫井村 同行拾三人庵主真宥」と書かれている。小金井市の資料には載っていなかったが、意外とこの辺りには未記載のものが多い。一部は小金井市文化財センター(小金井市緑町)に移設保管されているものもある。

場所 小金井市貫井南町3丁目8-7

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2025年8月 2日 (土)

車庫脇の庚申塔(小金井市貫井南町)

野川のほとりから貫井神社に向かう。途中湧水の道という細路地があり、まもなく貫井神社のあるハケの道にぶつかる。ここを右へ行けばすぐに貫井神社がある。

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この丁字路の南西側にあるお屋敷の車庫の脇に、生け垣(網付き)に隠れるようにひっそりと石仏が佇んでいる。みると下部に三猿の痕跡が見られるので庚申塔である。形状は板状駒型のようだ。

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真ん中が凹んでいるのはなぜかわからない。かなりの風雨に摩滅してしまったのだろう。従って文字も読めず、造立年などの情報も分からない。しかし古くからあるもののようだ。

場所 小金井市貫井南町4丁目26-19

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2025年7月30日 (水)

庚申塚通りの庚申塔(小金井市貫井南町)

庚申塚通りを西に進むと三叉路+脇道の変形五差路がある。この西側の角に簡素な堂宇があり、中には古い庚申塔が祀られている。おそらくこれが庚申塚通りの名前の由来だろう。

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この辺りが昔の小金井村貫井坂下集落の中心だったようだが、庚申塔は村境にあることが多いがここは皆が集まる場所に立てられたものと思われる。また道しるべを兼ねているので分岐に立つのは自然なのだろう。

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摩滅が激しく読めない文字も多いが、資料を参照すると、正面には「絶三尸罪(ぜっさんしざい)」とあり、台石には「貫井村講中」の文字がある。塔自体は櫛型角柱型で、右には「右 小川すな川道」、左には「左 こくぶんじ道」と書かれている。造立年は寛政6年(1794)11月で、それほど古いものではないが、小金井市指定の有形民俗文化財になっている。

場所 小金井市貫井南町4丁目11-42

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2025年7月27日 (日)

庚申塚通りの地蔵堂(小金井市貫井南町)

庚申塚通りを西に歩くと、辻の角に堂宇が立っていた。格子戸をのぞいてみると中には地蔵菩薩がある。この辻をまっすぐ北に進むと野川を渡って貫井神社に突き当たる。新しい道っぽいが、わずかにカーブしており、古い道だとわかる。

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堂宇の中の地蔵菩薩は丸彫の地蔵菩薩立像で、台石には「地蔵供養本願・・」とある。造立年は享保8年(1723)10月で、その下にも文字は続いていそうだが賽銭箱?の陰になって見えない。

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おそらくは古くから貫井坂下の人々に信仰されてきた地蔵尊なのだろう。江戸時代にはこの辺りから西にある庚申塚の三叉路辺りに多くの民家が並んでおり、この庚申塚通りが当時の村の主要道路だったことがわかる。

場所 小金井市貫井南町4丁目19-9

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2025年7月24日 (木)

閻魔堂墓地の六地蔵(小金井市貫井南町)

貫井南町を東西に走る庚申塚通り。庚申塚通りの名前の由来は分岐点にある庚申塔だが、それ以外にも石仏が点在している。この辺りの昔の地名は貫井坂下。現在でもマクドナルドの傍にあるバス停の名は「貫井坂下」という名前である。

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庚申塚通りに入って間もなく閻魔堂墓地がある。閻魔堂がどれか確認できなかったが、閻魔堂の中には複数の仏像が保存されているらしい。墓地の入口には、古い六地蔵があった。造立年は文化12年(1815)。墓所には文政12年(1829)の馬頭観音もあるようだが見つからなかった。

場所 小金井市貫井南町4丁目19番地

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2025年7月21日 (月)

橋場下墓地の石仏(小金井市前原町)

武蔵小金井駅から南へ伸びる都道15号線が霊園通りと分岐してまもなくかなり細くなった野川を渡る。そのすぐ先に変則的な交差点があり、南西の一角に墓地がある。この墓地は橋場下墓地と呼ばれている。おそらく小字では橋場という地名があったのだろう。

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都道側に数段の階段の入口がある。入るとすぐ左手に大きな堂宇があり、石仏が3基並んでいる。左端(都道側)の背の高い丸彫の地蔵菩薩立像は正徳4年(1714)8月造立。「奉造立念仏供養有無二縁尊」「武刕多摩郡府中領小金井村」の銘がある。隣は丸彫の地蔵菩薩坐像だが頭部は欠損している。造立年は明和5年(1768)4月で「奉納四国西国坂東秩父供養塔」の文字が基壇に刻まれている。

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堂宇の右端には笠付角柱型の庚申塔が祀られている。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、安永3年(1774)11月の造立。「武刕多麻郡府中領小金井村講中」の銘がある。

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堂宇を背にして、都道側の塀沿いに複数の石仏が並べられている。その中に珍しいものがある。写真の駒型の線刻で描かれた庚申塔である。造立年は宝永5年(1708)で、青面金剛像は確認できる。「奉造立庚申并百万遍念佛供養所」の文字もある。線刻は極めて珍しいもの。小金井村の村人12名の講中によるもので、しっかりとした保存をしてほしいものである。

場所 小金井市前原町5丁目16-26

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2025年7月18日 (金)

金蔵院墓地の庚申塔(小金井市中町)

小金井神社の前の通りは薬師通り、この道を神社から西に向かうと200mほどで墓所の入口がある。ここは金蔵院の墓所だが訪問時は閉まっていた。墓所内には小金井小次郎の墓というのがあるが、名士ではなく、「小次郎は旧下小金井村名主関家の次男で、関東一円に勢力を持った大親分。流刑先の三宅島では持ち前の義侠心から島民のために井戸を作ったり、自由の身になって再び島を訪れて木炭の製造を指導したりした。」という変わり種のやくざだろうか。

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墓所の入口が開かないので、小金井市指定の庚申塔を門扉から探してみたら、右の方に2基の石仏が並んでおり、その右側がそれだと分かった。墓所の訪問はなかなか難しい。

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左の地蔵菩薩像は不詳。右が市指定文化財になっている寛文六年庚申塔。上部が欠損している。主尊は地蔵菩薩像で、江戸時代初期には多い。造立年は寛文6年(1666)10月。「武州多麻郡付中領(府中の意)小金井村」「奉納庚申供養二世安楽所」という文字がある。地蔵本体の下部に三猿が彫り込まれている。

場所 小金井市中町4丁目11-10

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2025年7月15日 (火)

路傍の地蔵堂(小金井市中町)

小金井市のハケの道は野川の北側(左岸側)にあり、高低差が15m~20mの崖が続いている。何度かこれまでも出てきたが、国分寺崖線の一部で、大昔の古多摩川が削った河岸段丘である。このハケの道沿いには湧水も多く、地表面の土層の下には富士山の火山灰が層をなし関東ローム層を形成、その下には水を通しやすい武蔵野礫層、さらにその礫層の下には粘土層があって、この礫層の下部(粘土層の上)を地下水が通っている。

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ハケの道は江戸時代から明治大正にかけて青梅の木材を多摩川を筏で流して六郷に運び、そこから戻る職人たちの街道でもあった。そのため路傍の石仏も多い。白伝坊の坂とおお坂(中念坂)の間に道幅が変化するところがあって、そこに鉄骨とコンクリートで造られた覆屋がある。

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覆屋の中には舟型光背型の地蔵菩薩立像とみられる石仏がある。上部には阿弥陀三尊像の種子が刻まれている。右脇に文字があるがまったく読めない。後ろにあるのは昔の石仏の基壇と思われる。文字があるが、舟型の地蔵との間がくっついていて読めなかった。従って造立年も不詳である。

場所 小金井市中町1丁目9-5

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2025年7月12日 (土)

観音坂の子育観音(小金井市中町)

国分寺崖線の坂は様々で面白いが、比較的広くて新しい坂のひとつに観音坂がある。もともとはハケの坂と呼ばれていた坂道で、坂の西側にある渡辺家がもともと「ハケの家」と呼ばれていたことからハケの坂と呼ばれていたが、小金井市の公募で観音坂という名前が付いた。

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坂はカーブを描きながらかなりの傾斜になっているが道幅は広めである。坂の西側、観音様の裏手崖上が渡辺家らしい。明治の地図をみるとカーブしておらずかなりの急坂だったようだ。

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斜面には広い覆屋が造られており、その中には子育観音が祀られている。子育観音は別名子安観音とも呼ばれるが、一般的には江戸時代以降の民間信仰で仏教の教軌に捕らわれない自由な作風である。基壇には「子育観音」の文字のほか、「渡辺善一、キミ、建之」の文字や、昭和46年(1971)1月8日の造立年が刻まれていた。

場所 小金井市中町1丁目12-1

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2025年7月 9日 (水)

下小金井村地蔵尊(小金井市中町)

小金井市中町2丁目の路地裏の角地になかなか立派な地蔵堂がある。「下小金井村地蔵尊」と説明版には書かれている。『ここに置かれている地蔵尊、庚申塔は、その昔この南の江戸道(今の連雀通り)中念坂の分離点西側の三角地にお祭りしてあったもので、中山谷部落の農民が信仰する仏様・・・』とある。

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江戸時代から近年にかけてこの辺り、野川左岸は中山谷と呼ばれた地域で、江戸道は現在の都道134号線(連雀通り)で三鷹の牟礼につながっていた。面白いのは牟礼のこの江戸道沿いも中山谷と呼ばれ、同じ地名だったことで、それは偶然かもしれない。中念坂はおお坂とも呼ばれる坂で、連雀通りと薬師通りの分岐の三叉から下る。明治末期までこの三叉路に地蔵堂があり、念仏講が行われており、中山谷の念仏講から中念坂の名前が付いたもの。

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堂前にある大きな燈籠の基壇は文化9年(1812)に建てられたもので、農民の守護神「大山石尊大権現」と「榛名大権現」をお祭りした燈籠の下部になる。前述の三叉に建てられたが、土砂崩れに遭い、道路拡張もあって連雀通り(江戸道)の北側に移されたが、昭和45年(1970)に現在地に移転した。

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堂宇内の右端にあるのが笠付角柱型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、文化2年(1805)10月の造立。「講中30人 世話人権八」の銘がある。その隣は地蔵菩薩立像らしいが本体はほとんど見えない。頭部も欠損しているようで、基壇の情報のみになる。享保元年(1716)7月の地蔵菩薩像で、「右国分寺道 左加奈川道」の道標記載がある。堂内の板書きによると基壇のみで本体はいつかしら失われたとあり、明治期に隣の地蔵とともに本体を載せたらしいと書かれている。なお新しい説明版には「左手に錫杖、右手に宝珠を持った地蔵立像で、加茂下忠右衛門他3名によって建てられた」と記載されていた。

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その隣の地蔵が上の写真の右の舟型の地蔵菩薩像である。造立年は庚申塔と同じ文化2年(1805)で、「念仏講中 下小金井村」の銘がある。下小金井村の念仏講によって造られたものだが、これは前述の中念坂の記載からの歴史がわかっているだけに興味深い。左下の小さな舟型光背型の地蔵菩薩像は文字が消されており詳細は不詳である。

場所 小金井市中町2丁目15-40

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2025年7月 6日 (日)

地蔵通りの庚申塔(小金井市緑町)

東小金井駅から西北西に延びる道は地蔵通りと呼ばれる。駅から200mほどで都道247号線と交差するが、その少し先の奥まったところに堂宇があり、石仏が祀られている。訪問時は都立小金井北高校の生徒がたくさん歩いていた。

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この通りが地蔵通りと呼ばれる所以はこのさらに先にある地蔵堂に由来するもので、この庚申堂が由来ではない。堂宇はブロックではあるがしっかりと造られ、2基の石仏石塔が祀られている。平成18年(2006)までは都道との交差点にあったが、道路拡幅工事のためにこの場所に40mほど移転したとある。

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右は笠付角柱型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。造立年は宝暦元年(1751)11月で、「武刕多麻郡小金井村」と願主21人の銘がある。また「右り 府中みち、ひたり 京とみち」という道標がある。かなりざっくりとしている。左の小さな角柱は巡拝塔で、「奉納 秩父坂東西国 二世安楽供養」の文字がある。造立年は寛政7年(1795)と刻まれていた。

場所 小金井市緑町1丁目1-19

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2025年7月 3日 (木)

滄浪泉園の石仏(小金井市貫井南町)

小金井警察署の南にある滄浪泉園は有料庭園だが入場は100円と安い。明治大正から戦前の政財界人である波多野承五郎の別荘で命名は犬養毅。狭くなったがそれでも10,000㎡ほどの武蔵野崖線の自然を残す庭園として保存されている。園内には湧水もあり、縄文時代から人が住んできた歴史がある。

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滄浪泉園(そうろうせんえん)は国分寺崖線のハケだが、それは武蔵野台地から沖積層の低地へ移るところで、常緑樹と広葉樹の混在する森が土壌を豊かにして湧水環境を作り上げている。そんな庭園内を回遊すると中には3基の石仏が祀られていた。

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まずは角柱型の馬頭観音である。もとは笠付角柱型だが笠欠となっている。造立年は文化8年(1811)11月とあり、「武列多麻郡貫井村中」の銘が刻まれている。

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次は「おだんご地蔵」と名付けられた丸彫の地蔵菩薩立像。造立年は正徳3年(1713)で、基壇には「奉念仏供養」の文字があるので念仏講中によるものだろうか。月がその左にあるのだが摩滅が激しく読み取れないがどうやら9月のようだ。説明書きは感想文のような内容でどちらかというと小学校低学年向きの印象がある。

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最後は鼻欠け地蔵尊という小さな舟型光背型の地蔵菩薩立像。造立年は寛文6年(1666)正月と古いもので、「奉納勤庚申構者也」とある。おそらくは庚申講の初期の物だろう。「武列多麻郡貫井村 施主敬白9人衆中」の銘がある。これらの石仏が波多野氏によって集められたのか、あるいはそれ以降に移設されたものなのかはわからない。

場所 小金井市貫井南町3丁目2-28

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2025年6月30日 (月)

龍源寺の石仏(三鷹市大沢)

三鷹市大沢にある龍源寺は曹洞宗の寺院。旧街道が野川を渡る西側にあり、創建は不詳ながら江戸時代初期と伝えられる。この辺りの小字を坂下といい、野川左岸の少し高くなった段丘上を坂上と呼んだ。高低差は10~15m程度ある。野川の河岸段丘ではなく、多摩川流域を含めた河岸段丘で国分寺崖線の一部になっている。

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山門脇に複数の石仏が並んでおり、この寺は近藤勇の墓所でもあるのでそれを謳う碑もある。山門側から並ぶ3基の石仏は、右から石橋供養塔、庚申塔2基で、石橋供養塔は摩滅がひどく文字が読みづらい。角柱型で「石橋供養塔」「多麻郡大澤村村中 願主箕輪清□」の文字は読めた。造立年も読めないが「2月」の文字は確認できる。

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真ん中の笠付角柱型の庚申塔は日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、明和9年(1772)11月の造立。「願主箕輪氏講中14人」の銘がある。左の大きな笠付角柱型の庚申塔は、日月、青面金剛像、二鶏、三猿が描かれ、基壇や側面に蓮葉が描かれている。造立年は宝永3年(1706)で月は不明。「奉供養庚申待・・・」の文字が見える。

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境内に入ると、大きな江戸時代初期の燈籠の脇に舟型光背型の聖観音像が祀られている。これは日待塔で、「奉紀信日待之供養」の文字がある。造立年は寛文7年(1667)10月と古いもので、大沢村の銘もある。

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山門を出て東側の角には2基の馬頭観音が立っていた。左の大きな自然石の馬頭観音の正面には「馬頭観世音」の文字。裏側に文字らしき痕跡もあるが造立年などは読めない。右の小さい自然石の馬頭観音は正面に「馬頭観世音」の文字と、明治5年(1872)3月の造立年が刻まれている。

場所 三鷹市大沢6丁目3-11

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2025年6月27日 (金)

殿ヶ谷戸庭園の馬頭観音(国分寺市南町)

JR中央線国分寺駅の南に静かな庭園がある。入場料は若干必要だが、この殿ヶ谷戸庭園は静かで自然も多く保たれた素晴らしい回遊式庭園である。この庭園は国分寺崖線にあり、湧水もある。縄文時代からここには人が住まい、暮らしてきたという。

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湧水を溜めたのかどうかは知らないが、見事な大名庭園のような池と島を施した木立の中の散策が楽しい。湧水量は毎分37リットルもあるらしいので、池の水はおそらくそうだろう。水温は年間通じて15~18度だから、木陰と相まって夏は特に良い。庭園の一角に古い馬頭観音が祀られていた。

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櫛型角柱型の文字塔で、正面には「百万遍成就 馬頭観世音」と記されている。造立年は文政7年(1824)7月、施主は国分寺村の本多氏という。おそらくはここに移設されたもので、もとは国分寺村の道端に祀られていたはず。資料によると庭園は三菱系の貴族院議員の江口氏がここに別荘を持っていたのを、昭和の初めの三菱の社長が買い、庭園を完成させたという。山県有朋が築いた椿山荘の庭を少しコンパクトにしたような素敵な庭園である。

場所 国分寺市南町2丁目16

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2025年6月24日 (火)

三谷神社の石仏(府中市多磨町)

府中市多磨町の大部分は多摩墓地が占めている。明治から大正期にかけて東京市では人口増加で墓地が不足、当時の公営墓地は、青山、谷中、染井、雑司ヶ谷、亀戸の5か所で、府中の多摩墓地が開かれたのは大正12年(1923)であった。多摩墓地の東側を西武多摩川線が走り、この辺りが住居のある多磨町である。

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その多磨町にある三谷神社だが創建は不詳。古地図を見ても神社の印はない。地図に現れるのは戦後である。意外と新しいのかもしれない。すぐ北にはアメリカンスクールインジャパン(ASIJ)があり、神社の周りを英語で雑談しながら通り過ぎるティーンエイジャーが目立つ。ASIJは東京ではここと六本木にある。

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三谷神社の鳥居脇に堂宇があり、石仏が3基祀られている。左端にあったのが駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄。上部に「奉供養」の文字がある。右面には「武州多摩郡忍立村新田」の文字があるがこれは「押立」の誤字だろう。ただし押立はここから2~3㎞南なので、移設されたものかもしれない。造立年は享保7年(1722)10月とある。

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その右には背の高い丸彫の地蔵菩薩坐像。弘化3年(1846)10月の造立で、基壇には「三界万霊 講中」の文字と、よし、つま、たき、くりという女性名らしきものが見られる。右の舟型の地蔵菩薩立像は文政3年(1820)8月のもの。「念仏講中13人」「武州多摩郡府中領押立村新田 願主 文右衛門 源蔵」の銘がある。調べてみるとこの辺りは「押立山谷」と呼ばれた土地で、多磨町全体がそうだったらしい。ただ明治大正の地図を見てみるとほぼ武蔵野の林地である。桑でも植えていたのだろうか。

場所 府中市多磨町1丁目37

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2025年6月21日 (土)

二枚橋の坂馬頭観音(小金井市東町)

中央線武蔵境駅から府中是政の間を走る西武多摩川線。多摩地区のローカルな西武線の趣きが楽しい。途中西武多摩川線が野川を渡るあたり、之川沿いの武蔵野公園とICU(国際基督教大学)の間を走るのだが、線路に沿って二枚橋の坂がある。二枚橋は昔、野川に架かっていた橋の名前で、大岡昇平の小説『武蔵野夫人』の舞台になった道。

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その道の途中、西武線の線路の土手に一基の石仏がある。笠付角柱型の馬頭観音である。文政5年(1822)造立のこの馬頭観音は二枚橋の坂のシンボルのような気がする。上の写真は2025年のものだが、下の写真は2017年のものなので、草の生え方が異なっている。また昭和30年代の写真を見ると、ここには2本の松の木が道しるべのように立っていた。

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ここに馬頭観音があるのは、その昔この辺りが「捨て場」と呼ばれる場所で、無縁の人や牛馬や犬などの亡骸を捨てた場所であったためである。江戸時代はこういう捨て場があちこちにあった。当然ながら今の都心部にもあったという記録がいくつもある。

場所 小金井市東町5丁目12番地先

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2025年6月18日 (水)

関野天神社の石仏(小金井市東町)

三鷹市から西に連雀通り(都道134号線)を進み、田中屋を過ぎて200mほどすると、通りの北側に関野天神社がある。関野町はずっと北にある小金井公園の辺りの地名だが、3㎞程離れた連雀通り辺りは関野新田村の飛地だったらしい。

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現在の地名は東町なので東町天神社ともいうが、もとは関野天神社の名で享保7年(1722)以来、この飛地の鎮守であった。関野天神社の入口脇、道路に近いところの草むらの中に2基の石仏(石塔)が祀られている。

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ひとつは笠付角柱型の庚申塔。笠は何度も落っこちたのか角が取れている。日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄で、青面金剛像は童顔である。左面に延享4年(1747)11月の造立年がある。右面には「宝刻彫青面金剛 武刕武蔵野南関野新田講中」とあるので、この辺りは江戸時代には南関野新田と呼ばれていただろう。

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もう一つは角柱型の石橋供養塔。造立年は文久3年(1863)9月とある。「関野新田世話人 氏子中 鴻田源蔵」の銘がある。昔は連雀通りの北側沿いに農業用水が並行して流れていた。この辺りは南を流れる野川よりも十数m標高が高いため、北を流れる玉川上水より分水していたようだ。貫井北町で分水し、武蔵小金井駅を流れ、駅南から連雀通り沿いに下る用水があり、それに架けられた石橋を供養するものだろう。

場所 小金井市東町2丁目12-8

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2025年6月15日 (日)

田中屋の庚申(小金井市東町)

小金井市東町はその名の通り小金井市の東の端にあり、その東は三鷹市井口になる。三鷹から小金井市に入ってすぐに田中屋という酒屋があり、その店前に自然石の庚申が祀られている。ちょうど東町一丁目のバス停の傍になる。

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おそらくこの田中屋は歴史のある酒屋だろうと思う。この都道134号線は古い街道筋で、田中屋の辺りは江戸時代から民家が集まっていた。街道の北側には用水路が流れていたので、少し東にはのぼり湯という銭湯も残っている。水路があるところに昔は銭湯が営まれていたものだ。

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自然石の庚申塔は正面に「庚申神 講中」の文字がある。裏面には明治4年(1871)8月の造立年と、「世話人 田中太右衛門」の銘があり、この太右衛門氏は田中屋のご先祖ではないかと思う次第。

場所 小金井市東町1丁目44-25

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