2017年10月20日 (金)

堀坂(宮内坂)

富坂のある春日は昔から交通の要所だった。東西に春日通りが、南北に白山通りが走る。その北西側、大塚へ伸びる道は昔は谷端川(やばたがわ)だった。豊島区要町を源頭に椎名町まで南下したかと思うと、急に北に流れを転じ池袋の北の下板橋まで、そこからまた流れを南に急転し大塚駅を横切り、小石川から春日そして後楽園を突っ切り神田川に流下した。 現在は暗渠になっている。

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小石川の坂はほぼこの谷端川が武蔵野台地を削ってできた地形による坂である。 富坂もそうだし、この堀坂も同様だ。 堀坂の別名は宮村坂(くないざか)、源三坂。 まっすぐに伸びた坂で、いかにも切り開いた感じがする。 坂の途中に説明板がある。

「堀坂は中富坂町の西より東の方。すなわち餌差町に下る坂をいふ。もと其の北側に堀内蔵助(ほりくらのすけ)2,300石の邸ありしに因れり。今坂の中途に〝ほりさか″と仮字にてしるしたる石標あり。此坂は従来宮内坂または源三坂と唱へたるものにて。堀坂といへるは其後の称なりといふ」(『新撰東京名所図会』)

この場所の北側に旗本堀家の分家利直(のちに利尚、通称宮内)の屋敷があったことから、この坂は別名「宮内坂」と名づけられた。また、当時の名主鎌田源三の名から「源三坂」ともいわれた。「堀坂」という名称は、文政(1818~30)の頃、堀家が坂の修復をして「ほりさか」と刻んだ石標を建てたことからいわれるようになった。 坂下にこんにゃくえんまの伝説で名高い「源覚寺」がある。

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こんにゃくえんまは面白い名前だが、宝暦(1751~1763)の頃、眼病の老婆が願を掛けたところ、閻魔が自分の片目を与えた。 老婆は好物のこんにゃく断ちをしてそれを供え続けたという伝説が面白い。

ここには元禄3年(1690)の釣り鐘があり、汎太平洋の鐘と言われている。 戦争に際して鉄砲玉用にサイパンに供出されたが、その後米国のテキサス州にあることがわかり、サンフランシスコ祭りに展示されたのちに源覚寺に戻ってきたものだ。

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都会の路地裏のような寺だが参詣客は多い。 この近くにはもう一つ興味深い神社がある。 小石川大神宮だ。 まるで古いマンションの駐車場の入口のような神社。

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ビルの裏に社殿がある。 創建は昭和41年。 私よりもずっと若い。 神社って作れるのかと、とても不思議に感じた。 伊勢神宮の分社のような位置づけで、異例の出来事で創建されたようだ。 さすが八百万の神の国である。

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2017年10月19日 (木)

富坂(西富坂)

春日駅は谷合いの立地である。 東富坂(真砂坂)から下ってきた春日通りは、文京区役所を過ぎると上りに転じる。 区役所の前で東西を眺めるとどちらも上り坂。 昔の富坂は地下鉄丸ノ内線脇を下り(旧東富坂)、今の区役所辺りから礫川公園を通り、中央大学前のカーブで現在の道筋に繋がるのが昔の道筋だ。

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礫川公園前に説明板が立っている。

「とび坂は小石川水戸宰相光圀卿の御屋敷のうしろ、えさし町より春日殿町へ下る坂、元は此処に鳶多して女童の手に持ちたる肴をも舞下りてとる故とび坂と云」と『紫の一本』にある。鳶が多くいたので鳶坂、転じて富坂となった。

また春日町交差点の谷(二ヶ谷)をはさんで、東西に坂がまたがって飛んでいるため飛坂ともいわれた。そして、伝通院の方を西富坂、本郷の方を東富坂ともいう。 都内に多くある坂名の一つである。

この近く礫川小学校裏にあった「いろは館」に島木赤彦が下宿し、〝アララギ″の編集にあたっていた。

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坂上から眺めるとバブリーな文京区役所の形が独特である。 区役所、礫川公園、東京ドーム、後楽園ゆうえんちを含む南の一帯は、関東大震災辺りまで砲兵工廠(ほうへいこうしょう)だった。 ここで陸軍の武器を製造していたのである。 ドームや遊園地で楽しむ人々はそのことを九分九厘知らないだろう。

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2017年10月18日 (水)

曙坂(白山)

福山坂下から富士見湯の前を進み最初の路地を右に入る。 路地は石垣に突き当たり北に向きを変える。 見事な本郷台地の崖である。 崖の高さは10m以上ある。間もなく東側に階段坂が現れる。 曙坂である。

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坂下の石碑は一見古そうだが、昭和22年とある。 この坂も戦後復興で整備された坂なのだろうか。 昔の写真を見ると土がむき出しになり、1m間隔で石の雁木が敷かれた坂だったようだが、その後今のコンクリート坂に改修された様子。 関東大震災前の地図をみるとこの道は既に開かれている。当時は凄い坂だったに違いない。

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坂上の説明板には次のように書かれている。 「『江戸砂子』によれば、今の白山、東洋大学の北西は、里俗に鶏声ヶ窪(けいせいがくぼ)といわれるところであった。 明治2年(1869)に町ができて、鶏声暁にときを告げるところから、あけぼの(暁と同じ)を取り町名とした。 この坂の場所と、旧曙町、鶏声ヶ窪とは少し離れているが、新鮮で縁起の良い名称を坂名にしたのであろう。

この坂は西片と白山を結び、人々の通学や生活に利用されてきた。 昭和22年(1947)には旧丸山福山町・曙会の尽力により石段坂に改修された。」

別名は徳永坂。 その由来はわからない。 坂上を北に進むと、誠之館(せいしかん)跡がある。福山藩が江戸詰めの藩士の子弟のために設けた藩校で、現在も誠之小学校(区立)として続いている。小学校としての歴史は140年だが、藩校は1855年の開校なので、さらに22年ほど前からここは学び舎だったわけだ。

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2017年10月17日 (火)

福山坂(新坂)

福山坂の辺りは、江戸時代は福山藩阿部家の中屋敷で、福山坂は江戸時代には存在していない。 明治時代に開かれた坂である。 明治になって1万坪を残して5万坪を貸したというが、明治初期の地図を見ても残された庭の一辺が200mほどもある屋敷である。
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坂の途中の説明板には、「『新撰東京名所図会』に、「町内(旧駒込西片町)より西の方、小石川掃除町に下る坂あり、新坂といふ」とある。この坂上の台地にあった旧福山藩主の阿部屋敷へ通じる、新しく開かれた坂ということで、この名がつけられた。また福山藩に因んで、福山坂ともいわれた。新坂と呼ばれる坂は、区内に六つある。
坂の上一帯は、学者町と言われ、夏目漱石はじめ多くの文人が住んだ。西側の崖下一帯が、旧丸山福山町で、樋口一葉の終焉の地でもある。」と書かれている。
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坂下の十字路に椎の木稲荷がある。福山邸の庭にあったという椎の木は高さ12m、幹回り6mの見事な大樹だったというが、戦災で焼けてしまった。
坂下の椎の木の前の道には江戸時代には川が流れていた。明治になってからもこの川は開渠で、今の白山駅辺りから流下していた。そういう場所にはかなりの確率で銭湯があるものだが、ここも例にもれず富士見湯という素晴らしい外観の銭湯がある。先代のオーナーが大正期に買い取った銭湯らしい。文京区ではここだけが番台を残している。とはいえ文京区に残っている銭湯は6湯っきりになってしまった。
 

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2017年10月16日 (月)

石坂(西片町)

文京区西片一丁目、昭和40年までの旧町名は田町。俗にいう丸山に属し、古くは菊坂田町と称した。一帯は昔、田畑と菊畑であったので菊坂田町。寛永5年(1628)御中間方拝領地となり、元禄9年(1696)頃町屋が開かれた。この田町という旧町名は白山通り西片から菊坂下までの狭い地区の地名である。そこから備後福山藩中屋敷のある台地に上って行く坂が石坂である。

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坂の途中に説明板がある。「町内より南の方(かた)、本郷田町に下る坂あり、石坂とよぶ」『新撰東京名所図会』この坂の台地一帯は、備後福山藩(11万石)の中屋敷を幕府の御徒(おかち)組、御先手組の屋敷であった。

明治以降、東京大学が近い関係で多くの学者、文人が居住した。田口卯吉(経済学者・史論家)、坪井正五郎(考古学・人類学者)、木下杢太郎(詩人・評論家・医者)、上田敏(翻訳者・詩人)、夏目漱石(小説家)、佐佐木信綱(歌人・国学者)、和辻哲郎(倫理学者)など有名人が多い。そのため西片町は学者町といわれた。

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福山藩阿部家は明暦の大火の別説の火元の老中屋敷である。明治になってから6万坪の屋敷の内、1万坪を自宅に残して、後を貸地として公開した。それで学者たちが平均百坪程度づつ借りて住むようになった訳である。

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2017年10月15日 (日)

金魚坂(本郷)

本郷菊坂の坂上近くにある路地。 一見すると、戦後金魚屋が適当に付けた坂名のように見えるが、実はさにあらず。 歴史ある金魚屋で、坂名も江戸末期からあるものなのである。

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2016年に訪れた時、菊坂側は更地になっていた。 この土の面の段差は江戸期からの土地の記憶である。 段になって坂奥が高くなっていく。 2017年に再訪すると、さすがにこの更地はビルになってしまっていた。

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坂奥の金魚屋は健在。 何せ本物の老舗である。

金魚坂(旧 吉田晴亮商店)の創業は1854〜1859年頃 (安政年間)。元は、吉田晴亮商店を名乗った金魚・錦鯉の専門問屋。現在では、魚料理やカレーを出すカフェや、金魚すくいができる釣り堀などを併設。金魚のテーマパークのような憩いの場となっている。

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この金魚屋、自称では創業350年とうたっている。 しかし金魚は古くから日本の文化として、庶民の間に浸透してきた。 店を構える前に行商を代々やっていた可能性は否定できない。 現金魚屋女将は7代目という。 それから計算するとやはり、江戸末期が適当だろう。 しかしここもいつまでも頑張ってほしい老舗の一つである。

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菊坂(本郷)

本郷の菊坂は東京でも有名な坂の一つ。 中山道であった本郷通りから西片近くの菊坂下までは650m、坂上標高20m、坂下は9mで11mの高低差の緩やかな坂道である。 この坂は川が本郷台地を削った谷筋で、関東大震災前の地図には本妙寺坂の先まで開渠になっている。 坂上本郷通りの別れの橋跡はこの川がまだ加賀藩上屋敷(現東京大学)から流れていたころに掛かっていた橋の名である。

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菊坂下に入って最初の路地が胸突坂だが、本来は胸突坂が菊坂であった。 しかし、江戸時代以降菊坂町という町名になってからはこの菊坂町筋が菊坂と呼ばれるようになっていった。 この菊坂を中心にいくつもの坂が合流している。 また、南側に並行する暗渠筋の路地(菊坂下道)との間には落差があり、いくつもの魅力的な階段道が通されている。

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少し坂を上ると蔵が目に入る。 樋口一葉(1872~1896)が菊坂の家に住んでいたときから、生活が苦しくなるたびに通った質屋で、彼女が下谷区竜泉町に移ってからも通ったという伊勢屋質店の跡だ。 この少し先には宮沢賢治の旧居跡、北側の梨木坂には田宮虎彦、
本妙寺坂辺りには石川啄木が住んでいた。

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菊坂の説明板は坂の途中の長泉寺の入口にある。 入り口は狭いが奥は広い墓所が広がり、本妙寺坂上からも入ることができる広い寺である。 入り口脇の菊坂の説明板には次のように書かれている。

「此辺一円に菊畑有之、菊花を作り候者多住居仕候に付、同所の坂を菊坂と唱、坂上の方菊坂台町、坂下の方菊坂町と唱候由」(『御府内備考』)とあることから、坂名の由来は明確である。今は、本郷通りの文京センターの西横から、旧田町、西片一丁目の台地の下までの長い坂を菊坂と言っている。また、その坂名から樋口一葉が思い出される。一葉が父の死後、母と妹の三人華族の戸主として、菊坂下通りに移り住んだのは、明治23年(1890)であった。今も一葉が使った掘抜き井戸が残っている。

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坂上本郷三丁目付近はいささか雑居感が強くなり、江戸風情はなくなる。 昔の菊坂は菊坂下から半分くらいまでを言ったようだ。 ただし文豪の様々な説明板はこの坂上まで街路灯などに設置されていて、それを目的にした散策グループも多い。

菊坂辺りは空襲で焼けなかったところが多く、その為古い民家がまだ残っていたりするが、さすがに戦後70年を超えてそろそろ再開発の波が押し寄せてきている。 本妙寺坂の赤心館に住んでいた石川啄木が生活苦に死を考えていた時、金田一京助が彼を援助して引っ越させた蓋平館(のちの旅館大栄館)もマンション化のため崩されてしまった。

菊坂界隈の魅力を味わえる残りの時間はそう多くないかもしれない。

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本妙寺坂(本郷)

徳川家康が全国を平定してから半世紀、江戸の町は安定した平和な街になっていた。 江戸に攻め入る大名は最早皆無で、戦国時代から安土桃山時代を経てついに日本に平和が訪れた時期でもあった。 しかし、人間の敵は人間のみにあらず、明暦3年(1657)3月、歴史上最大の都市火災に見舞われることになった。 これが世にいう明暦の大火である。火元については諸説あるが、もっとも知られているのが本郷丸山の本妙寺出火説だ。

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菊坂と交差して北も南も坂になっているこの道が本妙寺坂。 電柱に長泉寺の案内があるが、江戸時代はこの坂上に本妙寺と長泉寺の二つの大きな寺があった(本妙寺は現在豊島区巣鴨に移転)。 この北側の坂を上ると、東側のプラウド本郷の前に説明板がある。

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本妙寺には遠山の金さん(遠山左衛門尉影元)や幕末の剣豪千葉周作らの墓所があった。 諸説があって本妙寺火元説はかなり怪しくなっているが、振袖火事の別名を持つこの本妙寺説が物語としては庶民に受け入れられやすいためにこの説が主流になったのではないだろうか。

麻布の裕福な質屋の娘、梅乃が墓参に本妙寺に来た帰り、上野の山で出会った美少年に一目惚れした。 梅乃は寝ても覚めても少年のことが忘れられず、寝込んでしまう。 両親は不憫に思い、少年が着ていたのと同じ柄の振袖をしつらえ、梅乃はそれを抱いて死んでいった。 両親は娘の棺にこの振袖を掛けて本妙寺に葬った。

当時はこういうものは寺男たちがもらっていいことになっていて、転売され上野の町娘キクのところに。 ところがキクも間もなく他界し、再び御棺に振袖はかけられ、元の本妙寺に葬られた。 本妙寺の寺男たちはさすがに因縁を感じ、寺で焼いて供養しようととすると、この振袖が燃え上がりながら空に舞い上がり、寺を焼き尽くした。 折から季節風の強い冬のことで、あっという間に江戸中に延焼し、外堀の内側のほとんど、江戸城も含めて焼き尽くしたという話である。

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菊坂は谷筋である。 しかも北西から南西に切れこんだ谷。 山釣り人は谷を駆ける風をしばしば経験するが、冬の季節風の時期、谷を駆けのぼる風が吹いていたのだろう。また別説の一つに、菊坂下の北側にあった老中阿部家の屋敷が火元だったが、老中の阿部家が火元となると幕府の威信に関わる為、本妙寺が罪をかぶったというのがある。 こっちのほうが正しいのではないかと(私は)思っている。 その証拠に、本妙寺は取り潰しにならず、幕末まで優遇されたという事実がある。

南側の坂の途中に本妙寺坂の説明板がある。「この坂は、本郷の台地から菊坂へ下っている坂である。菊坂を挟んで真向かいの台地にには(現在の本郷5-16あたり)かつて本妙寺という法華宗の寺があった。境内が広い大きな寺で、この寺に向かって下る坂であったところから本妙寺坂と呼ばれた。 本妙寺は明暦の大火(振袖火事・明暦3年-1657)の火元として有名である。明治43年豊島区巣鴨5丁目に移転した。」

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今、江戸城跡(皇居)に天守閣がないのは、この明暦の大火以降再建されなかったからである。 明暦の大火は江戸の三分の二を焼き尽くし、3万人近い死者を出したが、これ以降江戸幕府はさらに安泰となり、数十年後の元禄時代には江戸文化が最盛期を迎えた。

昔は天変地異などがあると年号を変えることが多く、明暦の大火のあと、明暦は天皇の崩御とは関係なく万治に変更された。 どうせ西暦を使う時代なのだから、昔のようにフレキシブルに政府も対応すればいいのだと思う。 平成は東日本大震災の時に変更され新しい年号になっていれば世の中ももっと違ったのではないかと思う。 最も当時の菅政権にはひっくり返ってもできなかっただろうことも事実ではある。

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炭団坂(本郷)

樋口一葉旧居跡の路地に入る菊坂に閉口した路地を南東に歩く。  菊坂との間には3m近い段差があるので、所々に階段道がある。 梨木坂向かいの細い階段の先に、宮沢賢治旧居跡の階段がある。 その10mばかり手前に南に入っていく細い路地がある。 これが炭団坂への入口だ。

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車は通れないと思っていたが、以前散歩した時炭団坂下に軽自動車が止まっていた。 よくこの路地に入ったものだ。 昔は菊坂の谷は菊坂町、坂上は真砂町と呼んだ。 真砂町は寛永(1624~1644)以来、真光寺門前と称して桜木神社前の一部だけが町屋であった。 明治になって武家屋敷町だった真砂町は多くの民家に変わっていった。 真砂町は昭和40年に本郷4丁目に改名されてしまったが、やはり真砂町の方がはるかにしっくりくる。

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路地の奥まで進むと昭和風の門構えのところから階段になる。 これが炭団坂。 別名を初音坂という。 この辺りは昔は樹木が鬱蒼としており、鶯やホトトギスの声が菊坂の谷間に聴こえていた。 それで初音坂となったようだ。 炭団坂の坂上を真っすぐに進むと建部坂に繋がる。 建部坂も別名を初音坂という。

坂の途中にある説明板には次のように書かれている。「本郷台地から菊坂の谷へ下る急な坂である。名前の由来は「ここは炭団などを商売にする者が多かった」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」ということから付けられたと言われている。台地の北側の斜面を下る坂の為にジメジメしていた。今のように階段や手すりがない頃は、特に雨上がりには炭団のように転び落ち泥だらけになってしまったことであろう。この坂を上り詰めた右側の崖の上に、坪内逍遥が明治17年(1884)から20年(1887)まで住み、「小説神髄」や「当世書生気質」を発表した。」

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坂上には坪内逍遥の説明板もある。逍遥は自宅を「春廼舎(はるのや)」と呼び、当時は「春廼舎は東京第一の急な炭団坂の角屋敷、崖渕上にあった」とされているので、まさにこの手摺りの向こう側が坪内逍遥の家だったわけだ。 逍遥宅はその後明治20年には伊予藩主久松氏の育英事業として、「常磐会」という寄宿舎になった。俳人正岡子規は翌年からここに入り、その他多くの俳人が集まった。 子規の詩に次のような句がある。

ガラス戸の外面に夜の森見えて清けき月に 鳴くほととぎす (常磐会寄宿舎から菊坂を望む)。 まさに上の写真の場所から明治初期の菊坂の風景を望んだとき、この谷は自然あふれる谷だったのであろう。

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2017年10月14日 (土)

梨木坂(本郷)

梨木坂、別名を梨坂という。 菊坂の途中北側に上る路地の坂道である。 入口両脇には時代を忘れたように、リヤカーと道路にはみ出した植木があり、江戸の坂道の雰囲気を盛り上げている。 前に来た時にはリヤカーはなかったので、たまたまかもしれないが、今時リヤカーが置いてあるだけで昭和へワープしてしまいそうである。

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坂上近く、天理教手前に説明板が立っている。 「梨木坂は菊坂より丸山通りなり。むかし大木の梨ありし故坂の名とす」と『御府内備考』にある。また、『南向茶話』には、「戸田茂睡(『紫一本』の著者、1629~1706)という人が、この坂のあたりに住んでおり、梨本と称した」とある。
 いっぽう、江戸時代のおわり頃、この坂のあたりは、菊の栽培が盛んで、菊畑が広がっていたが、この坂のあたりから菊畑がなくなるので、「菊なし坂」といったという説もある。戦前まで、この近くに古いたたずまいの学生下宿が数多くあった。

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坂上は胸突坂の坂上に出合う。 この坂の西側は崖になっていて、途中の民家がかつて使ってたであろう急な階段が残っている。 しかし坂上は平凡な印象。 やはりこの坂は坂下からの眺めがすべてである。 坂下の菊坂の向かいに魅力的な階段路地が、菊坂に並行する川跡の道に繋がっている。

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2017年10月13日 (金)

樋口一葉旧居跡の階段路地

鐙坂の途中、金田一京助・春彦旧居跡の下に民家に入っていくような路地がある。 本当に人々が暮らしている路地なので、ゆっくり散策というような訳にはいかないので、すっと通り抜けるのが礼儀だろう。

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石垣沿いに進み、その先を左折すると、階段から視界が広がる。 下見板の大正・昭和の名残りの壁、そこに張り付けてある文京区本郷四丁目31の住居表示板。 それは昔の小説家が眺めたであろう景色とほとんど違いのない風景が目の前に現れる。

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鉄製の手すりもいい。 立てかけてある梯子も素晴らしい。 この短い階段、14段とその3mほどの高低差が見せてくれるものはまるで時代をワープしたような感覚である。 階段下は樋口一葉旧居跡。

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この階段は多くの雑誌などにも取り上げられた、東京でも有名な場所。 それだけに通行禁止にならないように訪問時は心掛けたい。 階段下には、樋口一葉も使ったと伝えられる井戸が今も残っている。

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2017年10月12日 (木)

鐙坂(本郷)

鐙坂は菊坂周辺の坂の中でも秀逸の名坂である。 坂下から見上げる景色も、坂上から望む景色も素晴らしい。 馬の鞍に下げる鐙(あぶみ)を作る職人がいた、あるいは坂の形が鐙に似ているというのが坂名の由来。

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坂の西側の見事な石垣の上は財務省関東財務局の真砂住宅(官舎)。 江戸時代は松平右京亮の大きな大名屋敷だった。 坂下の古い門構えの屋敷の塀前に説明板がある。 説明板の下には、文京区の景観賞のプレートがついている。

「本郷台地から菊坂の狭い谷に向かって下り、先端が右にゆるく曲がっている坂である。名前の由来は「鐙の製作者の子孫が住んでいたから」(『江戸志』)とか、その形が「鐙に似ている」ということから名づけられた(『改撰江戸志』)、などといわれている。 この坂の上の西側一帯は上州高崎藩主大河内家松平右京亮の中屋敷で、その跡地は右京山と呼ばれた。」 と書かれている。

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坂上の木造建築は金田一京助・春彦の旧居跡。 この地に住んでいた金田一京助は同郷盛岡から上京した石川啄木の最大の援助者であった。 この建物がその家だったかどうかはおそらく違うと思うが、なかなか魅力的で情緒深い昭和の民家である。 坂の途中の路地は、樋口一葉旧居跡に抜ける有名な路地だが、生活の中にある路地なので失礼のないように歩くことを心掛ける必要がある。

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2017年10月11日 (水)

見送り坂と見返り坂(本郷)

菊坂の坂上は本郷通りにぶつかる。 菊坂はもともとは川筋で、本郷通りのこの辺りはその源頭にあたる。 菊坂と並行した路地があるがもとは川である。 そんな地形を意識して、本郷三丁目交差点近くに立つと、先も後ろも上り坂になっているのに気づく。

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湯島方面を遠望するとわずかに上り坂になっている。 菊坂の出合いの所が一番低い。 そして、東大赤門方面を見るとこちらも緩やかな上り坂。

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脇にある説明板には次のように書かれている。

別れの橋跡・見送り坂と見返り坂

「むかし太田道灌の領地の境目なりしといひ伝ふ。その頃追放の者など此処より放せしと・・・・・・いずれのころにかありし、此辺にて大きなる石を掘出せり。是なんかの別れの橋なりしといひ伝へり・・・・・・太田道灌(1432~86)の頃罪人など此所よりおひはなせしかばここよりおのがままに別るるの橋といへる儀なりや」と『改撰江戸志』にある。
 この前方の本郷通りはややへこんでいる。むかし、加賀屋敷(現東大構内)から小川が流れ、菊坂の谷にそそいでいた。『新撰東京名所図会』(明治40年刊)には、「勧業場所、一条の小渠(しょうきょ)、上に橋を架し、別れの橋といひきとぞ」とある。
 江戸を追放された者が、この別れの橋で放たれ、南側の坂(本郷3丁目寄)で、親類縁者が涙で見送ったから 見送り坂。追放された人が ふりかえりながら去ったから見送り坂といわれた。
 今雑踏の本郷通りに立って 500年の歴史の重みを感じる。

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江戸を追放された者がこの別れの橋で放たれ、南側の坂で親類縁者が見送ったから「見送り坂」。 追放された人が振り返りながら去ったから「見返り坂」という呼び方は風流かつ叙情的ないい呼び名である。

交差点近くの小間物屋かねやすは享保年間の創業からおよそ300年営業している。 江戸時代の川柳には、「本郷も かねやすまでは 江戸の内」という句があり、そこいらの江戸末期の老舗がかすんで見える。 創業当初、歯科医の兼康祐悦が売り出した乳香散(歯磨き粉)が大流行した話がある。 現在は洋品雑貨を扱っている。

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2017年10月10日 (火)

東富坂(真砂坂)

東富坂は新しい坂である。 元の旧東富坂には路面電車を通すことが出来ず、明治時代末期に春日通りとして新道を開設した。 今は大通りで、広々とした坂を多くの車が上り下りする。

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坂下の文京真砂アパート脇に説明板が立っている。

「東富坂(真砂坂)  本来の東富坂は、この坂の南を通る地下鉄丸ノ内線に沿った狭い急坂である。 現在は「旧東富坂」と呼んでいる。 もともとの坂は江戸の頃、木が生い繁り、鳶がたくさん集まってくることから「鳶坂」といい、いつの頃からか富坂と呼ぶようになったという。

現在の東富坂は、本郷三丁目から伝通院まで、路面電車(市電)を通すにあたり、旧東富坂上から春日町交差点まで新しく開いたゆるやかな坂である。 この市電は、1908年(明治41年)4月11日に開通した。 現在文京区役所を挟んで反対側にある坂を、「富坂(西富坂)」と呼び区別している。」

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坂の北側には江戸時代は松平右京亮の中屋敷があり、辺りは右京ヶ原と呼ばれた。 小説『姿三四郎』の決闘の場面になった舞台の原っぱである。 実は坂下の春日町を少しだけ水道橋方面に行くと講道館がある。

別名の真砂坂は単純に真砂町にある坂道というだけの意味である。

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2017年10月 9日 (月)

旧東富坂(本郷)

銀座線と丸の内線は浅い地下を走っている。 銀座線の開通は戦前の昭和2年だが、二番目に古い丸の内線のこの部分は昭和26年に起工し、昭和29年に開通した。 その次にできた日比谷線は昭和36年の開通だから、丸の内線は銀座線に次ぐ古い路線ということになる。

その丸の内線はあちこちで地上に現れる。茗荷谷~春日、小石川~後楽園、神田川鉄橋、四ツ谷と意外と地上を走っている。 後楽園駅を出て銀座方向に進む丸の内線はこの旧東富坂脇を走り地下に入っていく。

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この丸の内線の軌道がこの坂の傾斜を強調している。 坂の途中にある説明板には次のように書かれている。

「むかし文京区役所があるあたりの低地を二ヶ谷(にがや)といい、この谷をはさんで東西に二つの急な坂道があった。 東の坂は木が生い繁り、鳶が沢山集まってくるので、「鳶坂」といい、いつの頃からか「富坂」と呼ぶようになった。(『御府内備考』による) 富む坂、庶民の願いがうかがえる呼び名である。

また二ヶ谷を飛び越えて向き合っている坂ということから、「飛び坂」ともいわれた。  明治41年、本郷三丁目から伝通院まで開通した路面電車の通り道として、現在の東富坂(真砂坂)が開かれた。 それまでは区内通行の大切な道路の一つであった。」

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元からあった旧東富坂の傾斜では都電が登れないので、北側に新道を設けたのである。 向かいになる斜面は特に名前は残っていない。 丸の内線脇を走り、区役所前の礫川公園を横切り、今の富坂に繋がっていた。 都電を通せなかった道の脇を、地下鉄が走っているのはやはりここが交通の要所であるという事だろうか。

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2017年10月 8日 (日)

新坂(外記坂)

壱岐坂下の交差点はよく見ると五差路である。 真東に接続する路地を入ると、左手には水道橋グランドホテル。 正面には階段の坂が現れる。 これが新坂(外記坂)である。 新坂と言っても例にもれず江戸時代の坂。 昭和63年製の説明板が階段の途中にある。

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「区内には、新坂と呼ばれる坂が六つある。 『東京案内』に、「壱岐坂の北にありて小石川春日町に下る新坂といふ」とある。 『江戸切絵図』によると、坂上北側に内藤外記という旗本の大きな屋敷があり、ゲキサカとある。 新坂というが、江戸時代からあった古い坂である。

この坂の一帯は、もと御弓町、その後弓町と呼ばれ、慶長・元和の頃(1600年頃)御弓組の与力同心六組の屋敷が置かれ、的場で弓の稽古が行われた。 明治の頃、石川啄木、内藤鳴雪などの文人が住んだ。」 と書かれている。

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今も人通りの多い階段である。  江戸時代初期に御弓組を置いたのは、この辺りが江戸城の鬼門にあたるという考えに基づくようだ。 階段を上った正面角のマンションがシティハウス本郷弓町とある。 辺りには弓町の名前を付けた建物がいくつかあって、歴史が残されていることにほっとする。

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2017年10月 7日 (土)

新壱岐坂(本郷)

壱岐坂を分断した新壱岐坂。 面白いのはどちらの説明板にも古い壱岐坂への同情めいた記述があることだ。  壱岐坂の説明板には、「この古い壱岐坂は、新しくできた広く大きな新壱岐坂に途中で分断される形となった」と書かれている。

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この新しい新壱岐坂は東京ドームとラクーアの間の道の続きで、白山通りより東で本郷台地に上っていく。 坂上の東洋学園大学の前に説明板がある。 「大正12年(1923)の関東大震災の復興計画によって、新しく開かれた昭和の坂である。 この坂の中ほどにある東洋学園大学の脇で、この坂と斜めに交差している細い坂道がある。 「壱岐(殿)坂」という。 壱岐坂の水道橋寄りに小笠原壱岐守の下屋敷があったので、この名がついたと言われる。 江戸時代からあった古い坂である。 長い歴史のある壱岐(殿)坂の名を取って、この坂を「新壱岐坂」とした。 現在は、区内の幹線道路として広く知られるが、もとになった壱岐(殿)坂の名前は忘れられようとしている。」

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なぜこうも江戸からの壱岐坂が廃れているというような表現をするのか、教育委員会の担当者?はこの分断をそれほど惜しんでいるのか。 そういう想像をしてしまう説明板である。 いくつかの文献を調べてみると、市販の地図にこの新壱岐坂を壱岐坂と記されているのをみて、忘れられているのではという感覚を持った知識人が多かったようだ。

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2017年10月 6日 (金)

胸突坂(本郷)

菊坂下から菊坂に入る。 菊坂は文化の詰まった坂で、話題に尽きないが、本来菊坂と呼ばれていたのはこの胸突坂だった。 菊坂の最初の北側の路地を入ると、カーブを描きながら急坂を上る。 これが胸突坂(菊坂)である。 いつしか本通りの菊坂に名前を奪われはしたが、坂上には鳳鳴館などの老舗旅館が残り、風情はなかなか。

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残念ながらこの坂に説明板は設置されていない。 ただ、坂上はその昔、菊畑が広がっていてそれが菊坂と呼ばれた所以だという。 そしてこの坂の傾斜が急だったために胸突坂と呼ばれるようになり、そっちが主な坂名となった。 昭和中期まではこの辺りは台町と呼ばれていた。

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江戸切絵図には「ムナツキザカ」という坂名が描かれている。辺りはほとんど町屋である。隣の新坂も江戸時代の坂だが、切絵図を見る限りでは胸突坂のほうが古そうだ。 北側は新坂あたりから向こうは本多美濃守の下屋敷だった。 本多家は家康の重臣本多忠勝の家系である。 明治になってから屋敷跡周辺は様々な文化人が住む町となった。 やはり崖のあるところには文化が集まりやすいのだろうか。

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2017年10月 5日 (木)

新坂(本郷)

本郷菊坂の春日側の菊坂下から一本先に細い路地がある。 いきなり急坂になる。 坂の途中に説明板がある。

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「新坂: 区内にある新坂と呼ばれる6つの坂の一つ。 『御府内備考』に「映世神社社領を南西に通ずる一路あり、其の窮る所、坂あり、谷に下る、新坂といふ」とある。 名前は新坂だが、江戸時代に開かれた古い坂である。

この辺りは、もと森川町と呼ばれ、金田一京助の世話で、石川啄木が、一時移り住んだ蓋平館別荘(現太栄館)をはじめ、高等下宿が多く、二葉亭四迷、尾崎紅葉、徳田秋声など、文人の逍遥の道でもあったと思われる。」

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2016年正月に訪れたときには、坂上の蓋平館の跡に建った太栄館は消え去っていた。 団体旅館で修学旅行の生徒が宿泊する古い旅館だった。  石川啄木ゆかりの宿ということで有名で、明治大正から昭和の雰囲気を残していたが、時代の波には勝てず、ここも7階建てのマンションに変わってしまう。 残念なことだが仕方あるまい。

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2017年10月 4日 (水)

壱岐坂(本郷)

ぶった切られた坂である。 江戸時代からの壱岐坂は現在の細路地。 江戸時代は壱岐殿坂と呼ばれていた。 切絵図にも「イキトノサカ」と描かれている。 東洋学園大学の裏手に説明板があるが、下半分はどの路地が元の坂なのかわかりにくい。

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ところが大通りに面した一角に女体の彫刻が立っていて、その土台の銅板をよく見ると壱岐坂の説明板になっている。 二種類の説明板があるのだ。 彫像の下の銅板には次のように彫ってある。

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壱岐坂(壱岐殿坂)  江戸時代には、社寺や大名屋敷はほとんど移転することがなかったので交通の重要な目印となっていました。 この坂は昔、この地にあった小笠原壱岐守の下屋敷にちなんで壱岐殿坂と呼ばれていました。 当時、小笠原家は、九州佐賀県唐津六万石の大名でした。 壱岐坂は、白山通り(本郷1丁目20・22の間)から上り、東洋女子短大の所で通称大横町へいたる細坂道です。(文京区土木部公園緑地課)
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壱岐坂通りを斜めに横切り、東洋学園大学本郷キャンパス裏へ道は続く。 こちらの坂上には別の説明板が立っている。 こちらは最近(平成28年)に付け替えられた。 古い説明板には、「壱岐坂は御弓町へのぼる坂なり。彦坂壱岐守屋敷ありしゆへの名なりといふ。按に元和年中(1615~1623)の本郷の図を見るに、此坂の右の方に小笠原壱岐守下屋敷ありて吉祥寺に隣れり。おそらくは此小笠原よりおこりし名なるべし。」(改撰江戸志)と書かれていた。

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平成28年3月の新しい説明板は次のような文章だった。

「壱岐殿坂」ともいう。 江戸時代からある古い坂である。 近隣に屋敷があった武家の名前から坂名がつけられたとみられるが、江戸時代の地誌に「彦坂壱岐守」の屋敷があったことによって名付けられたとか、「小笠原壱岐守下屋敷」があったことによって名付けられたとかあって、江戸時代においても諸説があった。(御府内備考)   この古い壱岐坂は新しくできた広く大きな新壱岐坂に途中で分断される形となった。 (文京区教育委員会)

何だか教育委員会の方が今一つ。 NHKの「諸説あり」が影響しているのだろうか。

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2017年10月 3日 (火)

金毘羅坂(本郷)

この坂の情報は少ない。 解説した標柱も説明板もない。 桜陰学園の裏から忠弥坂と平行に西に向かって下る坂道である。

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関東大震災前に工芸高校の端にあった金毘羅宮がこの前身かどうかはわからない。 当然ながら香川県の金毘羅様が本山、ここは末社になるが、現在の社殿は1964年の再建である。

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金毘羅さんの鳥居はこの坂の途中ではなく西側の路地にある。 しかしこの坂の坂名は近くの金刀比羅宮東京分社に因む。 江戸時代、この辺りの地図を見ると、青山大膳の上屋敷と松平讃岐の守の中屋敷が並んでおり、特に神社の敷地があったわけではなかったが、松平讃岐の守の屋敷に勧請された金毘羅様があったと言われる。それが明治以降に人気になり、金毘羅様の脇の坂なので名づいたようだ。

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坂が実際に開かれたのは明治以降だろうか。 金毘羅宮の中でも正式な東京分社で「水道橋のこんぴらさん」として親しまれている。

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普段から賑わっていて、さすが金毘羅さんは人気があると感心する。 脇には水道橋稲荷大明神も祀られている。

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2017年10月 2日 (月)

忠弥坂(本郷)

建部坂の坂上を西に進むと、変則交差点の先から視界が広がる。 右手には名門女子高の桜陰学園、左には都立工芸高校と都会風のグラウンドがある。 そこから忠弥坂の下りになる。 並行するお茶の水坂とは異なるこの高低差はなかなかの風景である。 桜陰学園の西には宝生能楽堂の入ったマンションがあり、少しくねりながら下っていく。

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大正の頃までは坂の南側に金毘羅宮があったが、のちに能楽堂の北側に移ったようである。 坂の途中桜陰学園裏手には不思議な橋の欄干がある。 いまだにこれがなぜここにあるのか謎だ。 もっとも金毘羅宮があった時代はこの坂はまだなかったようである。 歌舞伎などで取り上げられて江戸時代のものと勘違いしてしまうかもしれないが、おそらくは大正期の坂である。

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忠弥坂の説明板がこの欄干の脇に立っている。

「坂の上あたりに丸橋忠弥の槍の道場があって、忠弥が慶安事件で捕えられた場所にも近いということでこの名がつけられた。道場のあった場所については諸説がある。〝慶安事件″は、忠弥が由井正雪とともに慶安4年(1651)江戸幕府の転覆を企てて失敗におわった当時の一大事件であった。忠弥の名は浄瑠璃や歌舞伎の登場人物としても有名である。」

日比谷高校の新坂もこの忠弥坂も未来明るい高校生が沢山往来する学園坂。 きっと彼らにもこの坂は思い出の坂として残るのだろう。

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2017年10月 1日 (日)

お茶の水坂(本郷)

お茶の水坂は神田川放水路に沿って走る外堀通りの順天堂大学から水道橋までの坂道である。 江戸時代は昌平橋の上流に橋はなく、次の端は水道橋だった。 ただし、その水道橋の東側に上水専用の神田上水懸樋があった。

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明治になってお茶の水橋が作られた。 当時の御茶ノ水駅は現在の駅の場所ではなく、お茶の水橋の西側に作られた。 しかし関東大震災で神田川放水路の土手が崩壊し、駅も橋も大きな被害を受けてしまった。 復興として聖橋が架けられ、お茶の水橋と聖橋の間に駅が移された。

上の写真の神田上水懸樋は明治34年(1901)まで、江戸東京市民の上水として活躍したが、今は石碑を残すのみである。 模型や資料は、東京都水道博物館に展示されている。

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建部坂のある元町公園辺りから水道橋までの長い下り坂。 道路が広いので傾斜をあまり感じないが、坂上の標高19mから水道橋の標高6mまで13mを下っている。

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坂の途中に説明板があり、次のように書かれていた。

「この神田川の外堀工事は元和年間(1615-1626)に行われた。それ以前に、ここにあった高林寺(現 向丘2丁目)の境内に湧水があり〝お茶の水″として将軍に献上したことから、「お茶の水」の地名がおこった。
 『御府内備考』によれば「御茶之水は聖堂の西にあり、この井名水にして御茶の水に召し上げられしと・・・・」とある。この坂は神田川(仙台堀)に沿って、お茶の水の上の坂で「お茶の水坂」という。坂の下の神田川に、かつて神田上水の大樋(水道橋)が懸けられていたが、明治34年(1901)取りはずされた。」

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2017年9月30日 (土)

建部坂(本郷)

富士見坂の西側の通りが建部坂。 元町公園の東側の坂道で、そのまま北上すると壱岐坂上、真砂坂上を経て、菊坂近くの炭団坂にたどり着く。  この道も江戸時代の道そのままの道筋をたどっている。坂の別名を初音坂という。

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坂の途中に説明板がある。

「『新撰東京名所図会』に「富士見坂の北(注:西)にある坂を建部坂といふ。幕士建部氏の邸地あり因って此の名に呼びなせり」とある。 嘉永3年(1850)の『江戸切絵図』で近江屋版を見ると、建部坂の上り口西側一帯(現在の元町公園)に建部氏の屋敷が見える。直参(じきさん:江戸幕府の旗本,御家人 の総称で、将軍に直属して1万石以下の知行地もしくは蔵米を受けた家柄をいう)、1400石で、880坪(約2,900㎡)であった。

『御府内備考』に次のような記事がある。建部六右衛門様御屋敷は、河岸通りまであり、河岸の方は崖になっている。崖上は庭で土地が高く、見晴らしがよい。崖一体に藪が茂り、年々ウグイスの初音早く、年によっては12月の内でも鳴くので、自然と初音の森と言われるようになった。 明和9年(1772)丸山菊坂より出火の節、藪が焼けてしまったが、今でも初音の森と言っている。初音の森の近くで、一名初音坂とも言われた。」

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この道筋北詰めの炭団坂の別名も初音坂でそちらはホトトギスの初音。 こちらはウグイスの初音が伝えられ、この辺りが江戸時代には自然豊かな武家屋敷だったことを想起させる。

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富士見坂(本郷)

富士見坂という名の坂は各地にある。 大半は西向きの坂だが、ここは珍しい南向きの坂。 実際に東京から見る富士山の方向は真西ではなく、西南西である。 したがって南向きの坂で西側が開けて居れば富士山の眺望は無理がない。 昭和の終わり頃までは、接するお茶の水坂から富士を眺められたという。

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坂の説明板や標柱はない。 この道は現在は路地だが、古い道で江戸時代の明暦の大火の火元と伝えられる菊坂の本妙寺門前からまっすぐに南下するとこの坂に至る。 『新撰東京名所図会』には、「富士見坂、油坂の北にありて東に上るを富士見坂といふ。富士山の眺望に適す。」と書かれている。 昔は方角もアバウトだったようだ。

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坂上は本郷給水所公苑の西側の通りになる。 坂の東側のガラス張りの建物は順天堂大学の学術メディアセンター。  大学専用のメディア図書館だが、最近の都心の学校はオフィスビルと見分けがつかなくなってきた。

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2017年9月29日 (金)

油坂(揚場坂)

順天堂大学の渡り廊下の下をくぐる坂が油坂である。 短い坂だが坂下標高は17m、坂上が21mでそこそこの勾配があるはずなのだが、見た感じは急さがない。 訪問時はちょうど校舎の工事をしていたのでその関係もあるのだろうか。

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坂の途中に説明板がある。

「この坂は、油坂または揚場坂と呼ばれている。坂上の左側は本郷給水所公苑である。『油坂、元町1丁目と東竹町辺の間を南に下る坂あり、油坂と呼ぶ』(新撰東京名所図会)とあるが、その名の起りは不明である。
この坂は別名『揚場坂』といわれているが、その意味は神田川の堀端に舟をつけて、荷物の揚げおろしをするため、町内地主方がお上に願って場所を借りた荷あげ場であった。この荷揚場に通ずる坂道を揚場坂道を呼んだのがのちに『揚場坂』と言われるようになった。」

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坂上を進むと、本郷給水所公苑があり、敷地内に東京都水道歴史館がある。 無料だが、とても興味深い展示が沢山ある。  明治25年(1892)に水道局が給水所を建設、配水池の上に人工地盤を設けて公園が出来たのは昭和49年(1974)である。 バラ園が有名。

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無縁坂(湯島)

さだまさしの曲に「無縁坂」というのがある。 「母がまだ若いころ 僕の手を引いて この坂をのぼるたび いつもため息をついた」という歌詞で始まる。 歌詞はそのあと、「忍ぶ不忍 無縁坂」とあり、もちろんこの無縁坂がテーマになっている。 坂の下は不忍池。 旧岩崎邸庭園の煉瓦塀と石垣、向かいのマンションは煉瓦塀に似た色合いで、時代感を醸し出す坂道である。

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岩崎弥太郎の屋敷だけあって、三菱一号館と同じような煉瓦。 目地の色が何度も塗りなおした感がある。 また、坂下の突き当りは不忍池西の交差点で、北側は上野の名店東天紅。 この辺りは文京区と台東区の区境が複雑に入り組んでいて、東天紅と岩崎邸は台東区だが、無縁坂北側のマンションは文京区。  岩崎邸の裏にある切通公園は文京区。 とにかく区境が入り組んでいる。

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坂の途中に昭和55年(1980)製の説明板がある。

「『御府内備考』に、称仰院前通りより本郷筋へ往来の坂にて、往古坂上に無縁寺有之候に付右様相唱候旨申伝・・・・・」とある。団子坂(汐見坂とも)に住んだ、森鴎外の作品『雁』の主人公岡田青年の散歩道ということで、多くの人びとに親しまれる坂となった。その『雁』に次のような一節がある。
「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れに不忍の池の北側を廻って、上のの山をぶらつく。・・・・』
坂の南側は、江戸時代四天王の一人康政を祖とする榊原式部大輔の中屋敷であった。坂を降ると不忍の池であある。」

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さだまさしの歌とは違い、江戸時代は周辺は大名屋敷と寺院だった。坂上は東大の敷地で赤門の大名屋敷、加賀百万石前田家の裏手にあたる。 山野氏によると、武家が多いエリアだったので、武辺坂、あるいは武縁坂と呼ばれたという説もあるが、山野氏はやはり坂上の講安寺のあたりにあったという無縁山法界寺に由来する説を中心においている。

湯島の坂の中では静かで江戸情緒を残している名坂である。

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2017年9月28日 (木)

切通坂(湯島)

湯島天神の北側は春日通りの切通坂。 かつてはここを都電16系統が走っていた。 16系統は大塚から錦糸町の間、現在の茗荷谷~春日~上野広小路~錦糸堀を走った。 当時の停車場の名前を見ると昔の東京の地名が満載。 現代の地下鉄をはるかに凌駕する交通網で東京を縦横無尽に走っていた。 そんな都電もこの坂はいささかきつかっただろうと思う。 昭和になってからはモーターの出力も上がったが、大正以前は歩くような速度だったかもしれない。

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この坂下には天神下の停車場があった。 現在の地下鉄湯島駅の場所である。 湯島天神の夫婦坂下に説明板がある。

「『御府内備考』には「切通は天神社と根生院との間の坂なり、是後年往来を開きし所なればいふなるべし。 本郷三、四丁目の間より池之端、仲町へ達する便道なり、」とある。 湯島の台地から、御徒町方面への交通の便を考え、新しく切り開いてできた坂なので、その名がある。

初めは急な石ころ道であったが、明治37年(1904)上野広小路と本郷三丁目間に、電車が開通して緩やかになった。

映画の主題歌「湯島の白梅」〝青い瓦斯灯境内を、出れば本郷切通し″で、坂の名は全国的に知られるようになった。

また、かつて本郷三丁目交差点近くの「喜之床」(本郷2-38-9・新井理髪店)の二階に間借りしていた石川啄木が、朝日新聞社の夜勤の帰り、通った坂である。」

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2017年9月27日 (水)

天神新坂(夫婦坂)

湯島天神には3つ目の坂がある。 天神裏手の春日通りの切通坂に下る夫婦坂(新坂)だ。 坂の説明はない。 文献の一部にその情報があるだけである。 本殿の北側の崖上にあたるところに戸隠神社がある。そのわきにある階段が夫婦坂である。

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この階段途中の門は登竜門と呼ばれ、彩のある装飾が見事。 男坂よりも緩やかだが、女坂よりも急なので、夫婦坂と呼ばれるようになった。

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戸隠神社の脇に笹塚稲荷が並んでいる。 戸隠神社は小さな社だが、菅原道真を祀り始める前から、ここに祭られていたのはこの戸隠神社の祭神である、天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)だ。  それは何の神様かというと、天照大神が天岩戸に籠って、ようやく顔を覗かせたときに、天照大神を引っ張り出して岩戸を開いたのが天之手力雄命である。

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2017年9月26日 (火)

天神女坂(湯島)

天神男坂(石坂)に対して天神女坂。 一般的に台地のヘリにある神社には男坂、女坂の二つの坂がつけてあり、男坂は女坂よりも急になっているのが常である。 湯島天神も例にもれず、かなり迂回して緩やかな石段になっている。

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坂下のヒサカキの樹の足元に北島三郎書の「おんな坂」の石碑があった。 よく見ると原田悠里「おんな坂」歌唱記念と書かれている。 なるほどおんな坂という歌があるのか。 坂下は妾の住んだという街、演歌の雰囲気がある天神下のたたずまいである。

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男坂が台地のキワを直線的に上り下りするのにたいして、女坂はそっと脇を抜ける感じで、その辺は日本人の感覚にはしっくりくるのだが、昨今は女性が強くなったというより立場が逆転し始めているので、未来には男坂と女坂が逆になるときも来るのかもしれない。

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2017年9月25日 (月)

天神男坂(天神石坂)

湯島天神の東側、天神下方面からアプローチするのが天神石坂(天神男坂)とその脇の女坂。 男坂はさすがに急で下から見上げると圧迫感がある。 しかしながらこの崖線の一番南にある神田明神男坂が68段、間にある実盛坂58段、等に比べると38段は大したことがないと感じるかもしれない。 神田明神の標高が20m(実盛坂上も同じ)だが、湯島天神の標高は17mなのでその差である。

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坂下の説明板にはこう書かれている。

「38段の石段坂である。別名は天神男坂。すぐわきにあるゆるやかな坂、女坂に対して男坂という。  江戸時代の書物〝御府内備考″によると、湯島神社(天神)参拝のための坂であったが、その後本郷から上野広小路に抜ける通り道になったという。」

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昔はビルもなかったのでここから墨田川が眺められたという。 坂下は「天神下の隠れ家」と言われ、妾宅などが多かったという話もある。 そういう雰囲気は今も残っている。  神田明神も同様だが、台地の上からのルートがメインで、台地の下から階段を上って参詣する比率は極めて低い。 現代でもそれは同じである。 そういう街の雰囲気が湯島なのかもしれない。

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2017年9月24日 (日)

中坂(湯島)

湯島天神は当然ながら学問の神様菅原道真を祀っているわけだが、それ以前起源458年から、天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀る神社があったという。 菅公を祀るようになってから太田道灌、徳川家の保護を受けながら発展していった。 そんな湯島天神の銅鳥居(表鳥居)の前から下るのが中坂である。

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この銅鳥居は寛文7年(1667)の寄進で、都内でも最も古い部類に入る。 年末や年明けに立ち寄るとこの神社は数え切れないほどの受験生で埋まっていることがある。 ゆっくり参詣したければ、学生の逆のタイミングで参詣する必要がありそうだ。

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銅鳥居から30mほど南に行ったところが湯島中坂上の交差点。 そこから湯島駅の方に下るのが中坂である。 上の写真は受験生がまだ余裕ある夏前に訪れたときの中坂の様子。 湯島にはラブホテルがいくつもあり、この通り沿いにもちゃんとある。 この道が年末年始になると下のようになる。

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怪しい街なのか、学問の街なのか、よくわからない。 ただ湯島は門前町であると同時に、里俗には天神芸妓と呼ばれて、いわゆる花街でもあった。 昔から神仏と俗とは常に表裏一体だということ。 中坂沿いに参詣者は並ぶ並ぶ、どこまでも並ぶ受験生たち。 ただ並んでいる間に本を読んでいる学生は少ない。 もっとも並んでいるうちの半分以上は親としか思えない年齢の男女だから、本人は自宅で勉強しているのだろうか。 しかし自分で参詣しないとご利益もなさそうな気がするが。

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結局坂下の駅まで列は続いていた。  ちなみに中坂の由来は、嬬恋坂と天神男坂の間にあるからという説がある。 マンション建設で数年前撤去されてしまった説明板には、次のように書かれていた。

「『御府内備考』に「中坂は妻恋坂と天神石坂との間なれば呼名とすといふ」とある。 江戸時代には、二つの坂の中間に新しい坂ができると中坂と名づけた。したがって中坂は二つの坂より後にできた新しい坂ということになる。また『新撰東京名所図会』には「中坂は、天神町1丁目4番地と54番地の間にあり、下谷区へ下る急坂なり。中腹に車止めあり」とあり、車の通行が禁止され歩行者専用であった。このあたりは、江戸時代から、湯島天神(神社)の門前町として発達した盛り場で、かつては置屋、待合などが多かった。」

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実盛坂(湯島)

実盛坂は初めて訪れた折、強い印象を受けた。 寺社仏閣が台地のキワに立地して、平地から階段を上って参詣するパターンは多い。 湯島エリアにおいても、神田明神、湯島天神ともにそういう造りになっている。 しかし実盛坂は他の坂と平行にあるのにここだけが明神、天神と同じような急階段になっているのだ。 ガイ坂側からアプローチしても、三組丁筋からアプローチしても、その高低差には驚く。

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ガイ坂下から西側の細路地を除くと、路地奥に階段が見える。 近づくにつれて、この階段が目前に迫ってくると、湯島が本郷台地のキワであることを強く実感できるのである。

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階段上に文京区が立てた説明板がある。

「『江戸志』によれば、「…湯島より池之端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり…」とある。 また、この坂下の南側に、実盛塚や首洗いの井戸があったという伝説めいた話が『江戸砂子』や『改撰江戸志』にのっている。 この実盛のいわれから、坂の名がついた。

実盛とは長井斎藤別当実盛のことで、武蔵国に長井庄(現・埼玉県大里郡妻沼町)を構え、平家方に味方した。 寿永2年(1183)源氏の木曽義仲と加賀の国篠原(現・石川県加賀市)の合戦で勇ましく戦い、手塚太郎光森に討たれた。 斎藤別当実盛は出陣に際して、敵に首を取られても見苦しくないようにと、白髪を黒く染めていたという。 この話は『平家物語』や『源平盛衰記』に詳しく記されている。

湯島の〝実盛塚″や〝首洗いの井戸″の伝説は、実盛の心意気に打たれた土地の人々が、実盛を忍び、伝承として伝えていったものと思われる。」

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文京区の説明板は詳しく丁寧に書かれており、読んで興味深い。 東京23区の中でも文京区のものは秀逸である。 この実盛坂、別名を貝坂という。 その由来は別説からくるもので、実盛塚はもともと古墳、あるいは貝塚であったという説である。 台地のキワには、兵どもが闊歩した以前、縄文弥生の時代から人間が棲み付き、そこに営みがあったという点ではこの貝塚説も十分可能性がある。

ただ江戸は徳川がとてつもない土木工事を経て百万都市を構築したので、それ以前の歴史が語られることは皆無に近い。 坂の散歩では江戸以前にまで遡って街を見るという、考古趣味も入っていて、江戸幕府以前をも振り返ることがある。 それがまた面白いのである。

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2017年9月23日 (土)

芥坂(ガイサカ) (湯島)

三組坂の坂下近くから北に向かって下る坂がある。 実は三組坂よりもずっと古い坂で、江戸切絵図には「ガイサカ」と書かれている。 江戸時代の地図ではこのガイ坂までは三組坂に沿った道があった可能性を示しているが、明治初期の測量図では現在の三組坂の崖には道がない。 ガイ坂は立爪坂の一本東側の道筋と繋がっているから、切絵図とは全く異なる。 この辺は地図に悩まされるところである。

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坂の説明板などはないので、明確なことはわからない。 ただゴミに関係する坂の多くはその実態がよくわからないことが多い。 概ね崖の下はゴミ捨て場になっているのが江戸の常だが、それでも町内がきちんと管理することを幕府が監督していた。 そのゴミが江戸湊を埋立て街を広げることにも一役買っていたのである。

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湯島は本郷台地の東側の一角で、それが複雑な坂を織り込んでいる。 歩いていて様々な発見があるエリアである。

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三組坂(湯島)

三組坂は昭和になってからできた坂である。 江戸時代から湯島天神南側の三組丁はよく知られていて、その為に江戸時代の坂のように勘違いしてしまいがちだが、江戸切絵図にはこの坂はない。ここの崖が急すぎて道が開けなかったのである。 その様子は実盛坂を見ればよくわかるが、三組坂は急な崖を整地して緩やかな斜面にして通した坂なのである。ただ、この崖を往来する階段が二本はあったことが明治期の地図には描かれている。

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ホテル江戸屋の石垣の前に説明板が設置されている。 「元和2年(1616)徳川家康が駿府で亡くなり、家康お附きの中間(ちゅうげん)・小人・駕籠方「三組の者」に、当時駿河町といわれていたこの地一帯を与えた。 その後、元禄9年(1696)三組の御家人拝領の地である由来を大切にして町名を「三組町」と改めた。 この町内の坂であることから「三組坂」と名づけられた。 元禄以来、呼びなれた三組町は、昭和40年(1965)4月以降今の湯島3丁目となった。」

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江戸切絵図を見ると、三組坂~芥(ガイ)坂~実盛坂のあたりに南から、御駕篭者屋敷、御小人屋敷、御中間屋敷が並んでいる。 御駕篭者とは帯刀を許された将軍付の駕篭担ぎ。 御小人とは江戸城中の玄関などの警備、物品の運搬を職務とした者。 御中間とは、大奥や台所の警備や将軍お出かけの際のお供をした。 今でいう霞が関の機動隊のようなものだろうか。

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立爪坂(湯島)

嬬恋坂の坂の途中、北側に突然階段が現れる。 坂下に7段の階段、坂上には12段の階段があって、間にある家は車での出入りが不可能な、最近では珍しい立地。 江戸切絵図では妻恋稲荷の裏手を周るように道がついていて、「立爪サカ」と描かれている。

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階段の石は以前に来た時よりもきれいになっていた。 そんなに人通りがある道ではないが、以前の階段はコンクリートでひび割れもしていたから、新しくブロックで新設したのだろう。 コンクリートは階段のように水が流れやすい場所ではすぐに傷んでしまう。 近代文明の発明品だが耐久性は極めて弱いのがコンクリートである。

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立爪坂は別名芥坂(ごみざか)ともいう。 こういう場所は江戸時代にはゴミ捨て場になっていたと言われる。 また名前の由来は階段になるほど急なので、爪を立てて上るくらい険しい坂だったということだろう。 古い資料には立爪坂を、「坂の脇の崖下を芥(ゴミ)捨場にした時分には、辺りの人々は俗に芥坂と呼ぶようになったが、このゴミ捨て場の管理は町内の負担であった」という事が書かれている。 こんな路地が江戸時代から綿々と続いていることに嬉しさを感じる。

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妻恋坂(湯島)

現在は裏道だが、古い道である。 清水坂の途中から東に向かって下る。 ラブホテルと並んで妻恋神社がある。 2015年に設置された新たな神社の説明板がある。 それによると、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征でこの地を訪れた折、倉稲魂神<ウカノミタマ>(稲荷神)を祀ったのが起源。 江戸時代になって、妻恋稲荷大明神と呼ばれるようになり、多くの参詣者を集めた。 江戸の稲荷社の番付では行事筆頭として、ここから多くの稲荷が分祀された。

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神社の辺りから徐々に下り坂が始まる。 再訪した折に新しい坂の説明板が出来ていた。 真新しい説明板は2016年のもの。 「大超坂・大潮坂・大長坂・大帳坂と別名を多く持つ坂である。 『新東京名所図会』に、「妻恋坂は妻恋神社の前なる坂なり。大超坂とも云ふ。本所霊山寺開基の地にて、開山大超和尚道徳高かりしを以て一にかく唱うといふ」とある。 この坂が妻恋坂と呼ばれるようになったのは、坂の南側にあった霊山寺が明暦の大火(1657)後浅草に移り、坂の北側に妻恋神社(妻恋稲荷)が旧湯島天神一丁目あたりから移ってきてからであろう。」 と書かれている。

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江戸時代の切絵図を見ると、妻恋稲荷の前の道は「ツマコイザカ」と書かれている。 妻恋神社の西で道は北に折れ(これが今の清水坂の一部)、湯島天神に向かう三組丁の通りになる。 妻恋稲荷より北は湯島天神の門前町になる。

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2017年9月22日 (金)

新妻恋坂(湯島)

妻恋坂に対応して新しい坂道ということで新嬬恋坂である。開かれたのは昭和に入ってからで、記録によると昭和4年(1929)の開通。通称通り名は蔵前坂通り。 緩やかに上る幅の広い大通りなので、坂の魅力は皆無である。

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一本北側の路地が江戸時代から続く妻恋坂。そちらには色々な史実があるが、こちらは皆無。 おそらく昭和になって、有名な妻恋坂から派生して新妻恋坂と名づけたが、平成の現在に至ってはこの坂名はほぼ忘れられているのだろう。

坂の歴史ではないが、江戸時代の前期、清水坂の話で登場した霊山寺がこの道の辺りにあった。大超和尚が開山し、元は徳川家康の命で駿河台のニコライ聖堂辺りに開かれた寺で、その後徳川家光の時に湯島に替地を命ぜられ、ここに2万坪の敷地を与えられた。2万坪といってもピンとこないが、一般的に東京ドーム1個分というのが15,000坪にあたるので、その広さは相当なものだった。 しかし明暦の大火(1657)で寺は焼失し、浅草へ移ってしまった。

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ただ、地形をじっくり見てみると、江戸時代以前には妻恋神社の西、清水坂の辺りを源頭にした沢が末広町に向かって流れていたと思われる。古い時代を想像すると、この新妻恋坂は水田が広がり、細い小川が流れているそんな景色が思い浮かぶ。

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清水坂(湯島)

樹木谷坂と横見坂のひとつ東側の道、蔵前橋通りの清水坂下交差点から北に上るのが清水坂である。 短いもののなかなかの勾配があって上るのには息が切れる。 江戸時代にはなかった道筋だ。 江戸期の切絵図を見ると、この坂の辺りは旗本島田弾正の屋敷になっている。 島田家は町奉行の家柄、三河から江戸に来て徳川秀忠に仕え、八丁堀に住んでいたが、明暦の大火の後、ここ湯島に越してきた。

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坂の途中に説明板がある。 「江戸時代、このあたりに、名僧で名高い大超和尚の開いた霊山寺(りょうせんじ)があった。 明暦3年(1657)江戸の町の大半を焼き尽くす大火が起こり、この名刹も焼失し、浅草へ移転した。 この霊山寺の敷地は、嬬恋坂から神田明神にかかる広大なものであった。 嘉永6年(1853)の『江戸切絵図』を見ると、その敷地のうち、西の一角に島田弾正という旗本の屋敷がある。 明治時代になって、その敷地は清水精機会社の所有となった。 大正時代に入って、湯島天満宮とお茶の水の間の往き来が不便であった為、清水精機会社が一部土地を町に提供し、坂道を整備した。 そこで町の人たちが、清水家の徳を讃えて、「清水坂」と名づけ、坂下に清水坂の石柱を立てた。」 と書かれている。

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坂下の石柱は東側の歩道にある。  坂の上と下の標高差は10mだが100mもない坂なので、勾配は10%程度ある。  坂の上をそのまま進むと、三組坂の坂上になる。 別説で坂の下に清水が湧いていたので清水坂というのもあるが、歴史が新しいだけに清水精機会社の説が信憑性が高い。

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2017年9月21日 (木)

横見坂(横根坂)

樹木谷坂を下り、おりがみ会館の交差点を渡ると、再び上り坂になる。 これが横見坂(横根坂)である。 おりがみ会館は元々「ゆしまの小林」という染め紙屋で、創業は安政5年(1859)の染紙、千代紙の老舗。 伝統技術の和紙染めは文京区の文化遺産に指定されている。

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坂は比較的短い坂。 坂の途中に説明板が立てられている。 「(前略)坂下の蔵前通りの新妻恋坂の一帯は、かつて樹木谷といわれ、樹木が茂っていた。 この谷から湯島台に上るこの坂の左手に富士山が眺められた。 町の古老は、西横に富士山がよく見えて、この坂を上るとき、富士を横見するところから、誰いうとなく横見坂と名付けられたといっている。 坂の西側一帯は、旧湯島新花町である。 ここに明治30年頃、島崎藤村が住み、ここがその作品『春』の中に、「湯島の家は俗に大根畠と称えるところに在った。…大根畠は麹の香りのする町で」 とある。ローム層の台地は、麹室には最適で、『文政書上』には、百数十軒の糀屋が数えられている。」

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別名を横根坂というが、単純な転化のようだ。 坂上には霊雲寺がある。 立派な門構えの寺で江戸時代から続いている。 寺は徳川五代将軍綱吉が建てたもの。 当時は本堂のほかにも堂塔や学寮の並ぶ大きな寺だったが、関東大震災で焼け、再建したが今度は戦災で再び焼失してしまい、開山堂だけが残った。

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2017年9月20日 (水)

傘谷坂(湯島)

傘谷坂は湯島の西、本郷に近いエリアを南北に走る薬研状の坂道である。 確かに傘を裏返しにして対角線の骨に例えるとまさに似た形になるのだが、それが由来ではない。 江戸時代にこの街には傘職人が沢山住んでいて、ここが傘製造街だったことが由来だという。 ただ横関英一氏の見立てではこの坂の形が傘谷の名前になった可能性を捨てていない。

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今は当然傘屋街ではない。 江戸時代末期には傘職人はいなくなっていた。 また江戸期にこの通りは金助丁と言った。 旗本牧野金助の屋敷地だったが、大半をお上に召上げられ御家人の組屋敷になった。 幕府の財政悪化が進むと貧乏な御家人は内職で傘を作って売ることが多かったという。

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坂の南側にサッカーミュージアムがある。 かさを反対から呼んでサッカー?という訳ではなかろうが、そのうちサッカー谷と呼ばれる時代も来るかもしれない。

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2017年9月19日 (火)

樹木谷坂(湯島)

湯島聖堂から本郷通りを西に進み、ホテル東京ガーデンパレス手前を右折すると、蔵前橋通りまでの短い下り坂。 距離はわずかだが、樹木谷坂の名の付いた坂道である。 散歩していても見逃してしまいそうな脇道だが、短い坂の途中に説明板がある。

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説明板には、「地獄谷坂とも呼ばれている。この坂は東京医科歯科大学の北側の裏門から本郷通りを越えて、湯島1丁目7番の東横の道を北へ新妻恋坂まで下る坂である。そして、新妻恋坂をはさんで横見坂に対している。
 『御府内備考』には、「樹木谷3丁目の横小路をいふ」とある。(中略) 徳川家康が江戸入府した当時は、この坂下一帯の谷は樹木が繁茂していた。その樹木谷に通ずる坂ということで、樹木谷坂の名が生まれた。地獄谷坂と呼ばれたのは、その音の訛りである。
 なお湯島1丁目の地に、明治14年(1881)渡辺辰五郎氏(千葉県長南町出身)が 近代的女子技術教育の理想をめざし、和洋裁縫伝習所を創立した。その後伝習所は現東京家政大学へ発展した。」と書かれている。

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江戸時代の初期、坂上のこの辺りは桜の馬場と呼ばれた草原だった。 湯島聖堂ができるい以前の話である。今の東京医科歯科大学の辺りである。 現在はビルの谷間の路地の風景。坂下西側にはおりがみ会館がある。 最近孫娘が折り紙に凝っていて、次にこの辺りを歩くときは立ち寄ってきれいな折り紙を入手しようと思っている。

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湯島坂(湯島)

中山道は日本橋を起点にまず北上し、神田を通って昌平橋で神田川を渡る。 橋を渡ってから左折し、神田明神を右に、湯島聖堂を左に見て坂を上って本郷へと向かう。 この坂が湯島坂である。 江戸時代の湯島坂は神田明神の手前で明神の参道の脇の道へ入り、現在の御茶ノ水インホテル裏から再び湯島聖堂前に戻って現在の17号線本郷通りになる。

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写真は神田川にかかる昌平橋。 最初の橋は寛永年間(1624~1644)に架けられた。現在の煉瓦橋は昭和3年(1928)のものである。 橋を渡ったところで川沿いに上るのが相生坂(昌平坂)、その一つ先で左折するのが中山道の筋。 曲がると間もなく上り坂に。 湯島坂である。

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現在は大通りだが、江戸時代は幅も狭く、かなりの急坂だったという。 また以前は柳並木だったという話も聞く。 今は銀杏並木である。 この周辺の文京区と千代田区の区境はとても複雑で、明神の氏子領域の絡みなどいろんな可能性がありそうだが、少なくとも神田明神前で区境がむかしの中山道の路地になっているのは、中山道の名残りと言えそうだ。明治の後半に路面電車を通しているが、神田明神まで張り出していた東京師範学校の敷地を削って、まっすぐな電車道にしたのではないかと推測している。

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江戸時代の湯島聖堂はもっと広くて、今の東京医科歯科大学までが聖堂内だった。その後聖堂の西半分は東京師範学校になり、昭和に入ってから医学校に変わった。 湯島坂の別名は本郷坂、明神坂。 明神と湯島聖堂に挟まれて本郷に向かうのだからどれも間違いではない。

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2017年9月18日 (月)

昌平坂(湯島)

湯島聖堂の脇、秋葉原側の路地が昌平坂。 ただ、相生坂で書いたように、どれが昌平坂かという点では若干の混乱がある。 地形的には湯島聖堂の敷地は本郷台地の東の崖線に沿っており、伊達政宗が掘削した神田川放水路の最下流左岸。 聖堂の東端は7mと低く西端は18mと高い。 敷地内で11mの標高差がある。
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昌平坂の高低差は8mほど。こちら側にも築地塀が続いていて石垣もいい景色になっている。坂上近くに説明板が立っている。
「湯島聖堂と、東京医科歯科大学のある一帯は、聖堂を中心とした 江戸時代の儒学の本山ともいうべき「昌平坂学問所(昌平黌)」の敷地であった。そこで学問所周辺の三つの坂を、ひとしく「昌平坂」と呼んだ。この坂もその一つで、昌平黌を今に伝える坂の名である。(後略)」 と書かれている。
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坂の南端には『古跡昌平坂』という石柱が立っている。 いっぽう北端角には石柱の根元はあるが地面15㎝ほどの所で折れて逸失してしまっている。 折れたのはいつかわからない。 15年前には折れていた。 さらに不思議なことだが、15年前の折れた石柱と今の折れた石柱の場所が違うのである。 向きも違っている。 折れたまま掘り起こして再び埋め戻したようだ。
坂上の大通りは国道17号線本郷通りの湯島坂。  かつての中山道である。
 

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2017年9月17日 (日)

相生坂(昌平坂) (湯島)

御茶ノ水駅の聖橋口を出るとすぐに聖橋が神田川を跨いでいる。 そのまま線路沿いを神田に向かって下る坂と川向こうの湯島聖堂と神田川の間を下る坂を合わせて相生坂と呼ぶ。 江戸っ子は坂が平行に並んでいる場合や、U字型に向こうの坂とこっちの坂で対峙する場合にこの相生坂という名前を付けることが多い。 この坂は別名を持っていて、どちらかというと昌平坂という名の方が通っている。または団子坂と呼ぶ場合もある。

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聖橋から見下ろす相生坂の下には地下鉄丸ノ内線が地下に潜り込むトンネルの入口がある。その下の神田川は徳川家康の命により伊達政宗が台地を切通して流した旧江戸川(神田川)で、縦に複雑に絡んだ歴史が面白い。
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相生坂真上から見下ろすと、湯島聖堂の築地塀(ついじべい)が見事。 どの角度から見ても破たんしない秀逸なデザインで恐れ入る。 築地塀は増上寺や赤坂の報土寺で見られるが、ここの物が一番美しいと思う。
この築地塀は江戸時代の画家もお気に入りだったようで、安藤広重の『名所江戸百景』の中には夏と冬それぞれの昌平橋と昌平坂(国立国会図書館版)がある。 夏版は梅雨時期だろうか、湯島聖堂の築地塀がはっきりと描かれているし、冬版にもやや遠景になるがきちんと描かれている。 広重の絵を見るとこの坂は相当に急な坂だったように見える。
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湯島聖堂は孔子の儒学の振興を図るために徳川五代将軍綱吉が建てた昌平坂学問所である。 江戸時代の大学のようなもの。 関東大震災で倒壊し、今の孔子廟などはそれ以降の建築で、鉄筋コンクリート製である。
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坂下に相生坂の説明板がある。「相生坂(昌平坂)…神田川対岸の淡路坂と並ぶので相生坂という。『東京案内』に、「元禄以来聖堂のありたる地なり、南神田川に沿いて東より西に上る坂を相生坂といい、相生坂より聖堂の東に沿いて、湯島坂に出るものを昌平坂という。 昔はこれに並びてその西に一条の坂あり、これを昌平坂といいしが、寛政中聖堂再建のとき境内に入り、遂に此の坂を昌平坂と呼ぶに至れり」 とある。 そして後年、相生坂も昌平坂と呼ばれるようになった。 昌平とは聖堂に祭られる孔子の生地の昌平郷にちなんで名づけられた。」 と書かれている。
何だか紛らわしいが、相生坂と昌平坂の角に古跡昌平坂という石柱がある。 これもどっちの坂とも取れる位置に立てられているのが困りものである。

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2017年9月16日 (土)

バッケの坂(中井)

落合村中井の最後の坂はバッケの坂(坂上通り)。 この坂もまた新宿区の通称通り名にリストアぷされた坂道のひとつ。 坂下は妙正寺川。 そこから目白学園に沿って上る。 坂上でごりょう坂が出合う。

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坂の標柱には、「この地域の斜面は古くからバッケと呼ばれており、この坂は坂下のへの近道であったため、バッケの坂と呼ばれていた。 大学に向かう道路と思ったが、調べれ見ると明治期からあった道らしい。

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坂上にはごりょう坂通りの標柱があるが、バッケの坂の標柱は下にあるだけである。 バッケというのは崖のことで、武蔵野ではハケ、バッケなどと呼ぶことが多い。 ここでは坂下にある川沿いの運動公園が、昔はバッケが原という野原だったころから、バッケへの近道という意味でついた名前。

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ごりょう坂(中井)

中井御霊(ごりょう)神社の正面に接続するのが八の坂であるのに対して、神社の西側を上るのがごりょう坂。 御霊神社の裏だからごりょう坂という直結命名である。 ただ正面の道ではないところが面白い。

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坂は直線的に西から東へ上ると直角に曲がり北へ上る。 曲がったところが御霊神社のまさに裏手である。 この道が開通したのは、60年代か70年代の高度成長期の頃。 この辺りは東京オリンピックの時代にはまだ開発されていなかった。
Dscn4893角を曲がると再び直線の坂道。 右側の樹木がある部分が御霊神社。 坂上の向こうには目白学園の校舎が見える。 途中には御霊神社の裏階段があるが人ひとりがやっと通れるほどの狭い階段である。
Dscn4894「中井地区の鎮守である御霊神社に面している通りのため、通りにこの名称がついた」と新宿区のHPには記されている。 安産守護子育ての神様とされる。 この神社も台地の際にあることは例にもれず、しかしこの裏道はほんの数十年の歴史のみである。

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八の坂(中井)

番号坂の最後は八の坂。  江古田から南流してきた江古田川は哲学堂の上流で妙正寺川に合流し、妙正寺川は合流点から北東向きの流れを南向きに変える。 その流れが新井薬師のある上高田の台地に阻まれて東流に転ずるが、北側の台地の西端に御霊神社がある。

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八の坂の勾配は隣の七の坂とほぼ同じパターン。 坂上が御霊神社の鳥居脇になる。 しかしこちらは神社からすると裏道脇道で、開通したのも昭和になってからである。 坂上の御霊神社は静かで落ち着く神社である。

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落合村中井の鎮守だけに古い石塔などが本殿の裏手にあったりして、興味深い。 庚申塔には宝暦八年(1758)と刻まれていて、裏のごりょう坂に出る小さな階段がある。 本殿前の狛犬は正徳五年(1715)に下落合村の氏子によって奉納されたもの。 狛犬としては現存するものでは都内最古である。

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坂上からの景色。坂の舗装が一般的な〇窪みのすべり止めでなく、スリットになっているのは珍しい。 個人的には〇よりもこっちの方が好みである。

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七の坂(中井)

七の坂は、文字通り六の坂と八の坂の間で、この坂も東西に走る御霊神社の参道までの坂道である。  大正時代にはなく、この辺りはまだ崖線の林の中だった。 昭和になって、この落合崖線にそって家が建てられるようになり、参道へ接続するこの坂道と西隣の八の坂が開通した。

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七の坂は「しちのさか」ではなく「ななのさか」と読む。 坂下の東側の住宅のブロック塀に古びたブリキ板で「七の坂」と書かれている。 坂は途中の辻から急に勾配を上げる。 この辺りは妙正寺川が川の流れを湾曲させている部分で、川のカーブの内側に当たるため、四の坂辺りよりも傾斜の緩やかな崖線になっている。 おそらく手前の区画は宅地造成時に多少削ったのだろう。

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坂上から見下ろすと、坂下は接続道路の向こうが即西武新宿線。 積雪時にスリップするとそのまま線路に突っ込みそうである。 坂上はふたたびなだらかになり丁字路になる。

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坂上の民家にある白樫の樹に町会で作ったブリキ看板が巻いてある。 七の坂「上」とある。 これは昭和35年頃に町会が坂名を付けてから設置されたもので、この町会の坂に対する愛着が伝わってくる。

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六の坂(中井)

六の坂は明治以前からある道。  五の坂と同様だが、不動谷から前谷戸を経由して御霊神社へ向かう台地の上の道から妙正寺川の低地へと多くの人が上り下りしてきた。 明治初期の地図では、五の坂周辺が茶畑で、六の坂周辺は普通の畑と描かれている。 家は坂上の台地の道にしかない。

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坂下は東側角の家のガレージ脇にある、昔町内会で設置した手書きの坂名板があって、落書きにイジメられながらも健気に残っているのがうれしい。 緩やかに曲がりながら高度を上げていくいかにも昔からの道っぽいところがいい。

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坂上西側は中井御霊神社の参道の東端。 細い石塔が建つ。 御霊神社は「ごりょうじんじゃ」と読む。創建は不明で、古くから落合村中井の鎮守であった。 こういう村の神社は人の営みが始まった頃から続くものが多く、東京都内にも数多あるが、創建が不明なものが意外に多い。

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