2018年2月24日 (土)

どりこの坂(田園調布)

田園調布せせらぎ公園の北側沿いを上るのがどりこの坂である。 興味をそそる坂名だが、坂の上下の標柱を読んで思わず笑ってしまった。その標柱に書いてあるのが次のような説明だ。

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「昭和の初めころ、坂付近に「どりこの」という名の清涼飲料水を開発した医学博士が屋敷をかまえたので、誰言うことなく「どりこの坂」と呼ぶようになったといわれている。それまでは池山の坂と言っていたという。」

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坂上にはハイツどりこのやテラスドリコノなどというマンションがあってそれもまた面白い。博士の家がそこにあったかどうかは分からない。 それに「どりこの」というネーミングも意外性があって気にかかる。 と思ったら坂学会のHPにちゃんと調べてあった。さすがである。

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南の田園調布せせらぎ公園は昔の多摩川園跡。その後テニスクラブとなり、現在は広い崖線の公園になっている。このどりこの坂(池山の坂)は江戸時代からあった道。 沼部の台地と田園調布の谷地とを結ぶ農道のようなものだったと思われる。 線路が通っている辺りは、明治以前はほとんど田んぼだった。 中原街道筋の沼部がにぎわい、こちらは山村の風景だったと想像できる。

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2018年2月23日 (金)

富士見坂(田園調布)

田園調布にはかつて多摩川園という遊園地があった。 駅名も多摩川園という名だったが、現在は多摩川駅に改名している。 路線は東急東横線と目蒲線の2線が入っていた。 目蒲線は目黒~蒲田間を走っていたが、現在は多摩川~蒲田間になり多摩川線と呼ばれている。

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多摩川園は大正14年(1924)に開園、昭和54年(1979)まで55年間営業。 田園テニスクラブや田園コロシアムも併設されていた。 ジャズフェスやプロレスの興行でも有名だった。 その敷地の一部はは現在では、田園調布せせらぎ公園として、子供たちの遊び場になっている。 公園は崖線にあり、滝や散策路がいくつもある。

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田園調布せせらぎ公園の南側にはマンションが建ち、その外側を下っているのが富士見坂である。 大正末期の耕地整理によってできた坂道だが、曲がりくねっていて樹木に覆われていて、もっと古い時代の坂道に思える良い坂である。

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坂上と坂下に大田区の標柱があり、その辺の情報がかいつまんで書かれている。 昔はここから富士山もよく見えたそうだ。 現在はマンションや樹木に隠れて富士山を眺めることは難しい。 坂上には12%の勾配標識があるが、適度にカーブが続くのでそれほど急な感じはしない。

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桜坂(沼部)

福山雅治の大ヒット曲『桜坂』のモチーフがこの桜坂だというのはあまりに有名な話である。 曲がヒットしたのは2001年、もう十数年が経過するのにまだまだこの坂を見に来る若者は多い。 しかし花見のマナーが最悪で問題になったりもした。

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さくら坂交差点からさくら坂上交差点までが桜坂。 この道は昔の中原街道であり、このまま下ると沼部駅の先で多摩川の土手になり、そこには丸子の渡しがあった。 丸子橋が昭和9年に開通するまでは、神奈川と東京を結ぶ重要な渡しとその旧街道であった。

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坂の上下に大田区の標柱と石柱がある。 標柱には、「この坂道は、旧中原街道の切通しで、昔は沼部大坂といい、勾配のきつい坂で荷車の通行などは大変であったという。 今はゆるい傾斜となっているが、坂の両側に旧中原街道のおもかげを残している。坂名は両側に植えられた桜に因む。」と書かれている。

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切通しの両側に桜が植えられたのは大正時代。 以前の中原街道時代の沼部は、荷車や旅商人の往来で賑わい、坂の両側には腰掛茶屋などが並んでいたという。 並行して切通しの上を通る道があるが、これが旧道の名残りかどうかは分からない。

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中原街道は江戸時代に東海道が整備されると、参勤交代や公用交通は徐々に東海道に移っていったが、距離的に江戸に近いこの中原街道を使う旅人も多かった。 旧道の名残りを残しているところは少なく、この桜坂は貴重な雰囲気を残しているといえる。

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2018年2月22日 (木)

おいと坂(沼部)

東急多摩川線沼部駅周辺は見所が多い。 多摩川の河川敷はかつての丸子の渡し。 駅の北側は六郷用水跡。 その周りには東光院、密蔵院と古刹がある。 東光院の開山は不明という説と、文禄3年(1594)という説がある。密蔵院も不明だが、鎌倉時代という説が有力。 六郷用水を家康が構築したのが1600年代初めなので、その頃から人通りの多い界隈だったのだろう。

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東光院前から東に向かって上る坂がおいと坂である。 古くは雄井戸坂といった。 坂の上下にある大田区の標柱に由来が書かれている。

「『大森区史』は、「下沼部にある。伝えるところによれば、北条時頼行脚して中原に来た。病を得て難治であった。井戸水があって使用したところ程なく全治した。その井戸は沼部に一つ、中原に一つあった。後、中原の井戸を沼部に移し、雌井(めい)、雄井(おい)と称した。おいと坂は即ち雄井戸坂のことであろう」と記している。」

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北条時頼は鎌倉時代中期の武将。 今でこそまっすぐな坂道だが、耕地整理で真っすぐになるまでは、竹藪の中の急な曲がった坂だったようだ。 明治初期の地図には坂上に熊野社として鳥居マークがある。関東大震災以降の地図にはない。 雄井戸、雌井戸の場所は不明とされている。 謎の多い坂である。

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坂上近くから多摩堤通りに下る無名の坂道がある。 遠くに武蔵小杉のビル群を眺めながらやや曲がりながら下っていく。 下ったところには六郷用水の跡がある。 左に折れると密蔵院。 密蔵院にある庚申供養塔は寛文元年(1661)の造立で大田区最古である。

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2018年2月21日 (水)

河原坂(鵜の木)

富士見坂を下ると多摩堤通りを渡って東急多摩川線鵜の木駅。 年配者には目蒲線の方が馴染みがよい。 多摩堤通りに出る手前で坂道が3本合流する変形の辻。 南が富士見坂、真ん中は無名の坂、北が河原坂である。

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無名の坂はなかなかの坂で真ん中が階段になっている。 名前を付けたいくらいだが、昭和時代の比較的新しい坂である。 富士見坂は明治時代からある坂で、上の写真のまっすぐの道は明治以前からある河原坂である。

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この路地は緩やかな坂なので、つい普通の路地だと思ってしまうのだが、途中に大田区の立てた標柱があるので、河原坂と気付く。 大正時代まではこれがメインルートで、この先の広くなっているところで坂上に向かって曲がっていたのである。

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現在はこの切通しの坂が環八方面へ行くルートになっている。 この緑のガードレールの道の上にも大田区の標柱がある。

「現在の鵜の木2、3丁目付近は、昔、多摩川の河川敷であったので、河原の地名がある。 坂名の由来は、河原に出る坂道であることによる。 今は切通しになってゆるやかであるが、以前は道幅も狭く急な道で、河原の畑を往復する荷車などは、難儀したという。」 と書かれている。

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切通しの上は鵜の木松山公園。  鵜の木一丁目横穴墓群がある。 古墳時代から奈良時代(7世紀~8世紀前半)の古墳で、この丘陵沿いにいくつも並んでいる。 坂の上を越えると六郷用水の暗渠道になる。

六郷用水は江戸の街のディベロッパーである徳川家康が1597年から作り始め、1611年に完成させた多摩川下流域の灌漑用水。 六郷の地名は、当時の大田区の平地部の呼び名だった。工事代官は富士宮出身の小泉次太夫で、世田谷区には次太夫堀公園がある。

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2018年2月20日 (火)

富士見坂(鵜の木)

鵜の木駅はかつて目蒲線、現在多摩川線の駅。 鵜の木という地名の由来は、かつてあったと思われる鵜の森神社に由来するという。 鵜の森は鵜が集まるような森ということで、それがカワウであったかウミウであったかは分からない。 時代的には鎌倉時代あたりから鵜ノ森という地名が使われていたようだ。

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地形的には鵜の木は面白い地形である。 久が原台地の最も多摩川寄りではあるが、河岸段丘は鵜の木駅の東側にみられるものの、その東側は低くなっており、久が原台地に向けて再び徐々に高度を上げていく地形になっている。 古代現在の環八通り辺りに小川があってそれが台地を削ったのではないだろうか。 鵜の木駅東側の地形は細長い突端地形になっていて、その突端の先に光明寺と光明寺池がある。

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肝心の富士見坂(鵜の木)については記録がなく、ただ地元で富士見坂と呼んでいるだけのようだ。 しかし周辺もマンション建設が進み、1990年頃からは見えなくなったらしい。 さらに武蔵小杉に高層ビル(マンション)がタケノコのように建つようになってからは、この辺りからの富士山方向の景色は厳しくなったようだ。 それでも多摩川の土手を上流下流に動けば今でも富士山はよく見えるという。

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ぬめり坂(下丸子)

江戸以前に関東が日本の中心になったのは鎌倉時代である。 源頼朝が幕府を開くと、越後、信濃、上州などから鎌倉への道が開かれた。鎌倉時代はそれぞれに街道名があったが、江戸時代になってから五街道が整備され、古い鎌倉街道はなべて鎌倉街道と呼ばれるようになった。 あちこちにあるのでどこがどう続いているのか分からなくなることもしばしばである。

江戸時代に五街道が整備されて東海道が主要道になると、それまで鎌倉への道だった、池上道は本門寺への街道要素が濃くなった。しかしもとは鎌倉街道としてできたルートで、多摩川を平間の渡しで越えると平間街道で鎌倉に続いた道である。鎌倉街道には上道(かみつみち)、中道(なかつみち)、下道(しもつみち)の主要道があったが、ここは下道である。

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ぬめり坂は南久が原で久が原台地を下り、光明寺前で六郷用水を渡り、下丸子の先の多摩川を渡し船で越えるルートの台地の端の坂道である。平間の渡しは現在はガス橋になっている。 坂の途中には庚申塔と道標が残っている。 また、坂下には藤森稲荷神社がある。

光明寺は環八が長く開通しなかった区間の寺である。 環八の計画が墓地を通すルートになったが、墓地というのは所有者が移転を承知しなければならず、檀家が全員合意するまで手間取ったという。 開通したのは平成元年(1989)だった。 私に言わせれば、墓地を計画ルートにした都に全面的な問題がある。

光明寺は行基の開山の古刹。 江戸名所図会にも描かれているほどの寺である。 環八に削られた今も、なかなかいい雰囲気を残している。

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坂の上下に大田区の標柱がある。 「『大森区史』は「鵜の木に用水を渡ってうっそうとした樹下を登るなだらかな坂がある。 なだらかな坂ではあるが、ぬめって上れなかった。 付近の豪邸に美しい娘があった。 娘は人々の難渋を気の毒に思い、自ら望んでその坂に生埋めとなった。 以来その坂の通行は容易となり、大いに付近は繁栄したという」と記している。」と書かれている。

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昔は多摩川は暴れ川でたびたび流れを変えている。 この辺りは低湿地で大雨が降ればすぐに坂がぬかるんで難儀をしたのだろう。 この台地の端は関東ローム層の武蔵野面の突端である。 ということは赤土の滑りやすい地質なので、ツルツルと滑ったのかもしれない。

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宮坂(久が原)

大田区の台地は主に荏原台と久が原台、どちらも武蔵野台地の突端になる。 池上本門寺は荏原台の突端で、そこから呑川が削ってできた低地を渡り、久が原台に渡ったところにこの宮坂がある。 歩いてみると坂の南側が久が原台に出来た小さな谷地地形になっていることがわかる。久が原5丁目交差点から西へ進むと花壇の道になるが、これが暗渠で。暗渠の1本北側の道から丁字路で北に上るのが宮坂である。

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幅の狭い路地の坂道だが、江戸時代からある道である。 坂上の丁字路も江戸時代からの道で、東に進むと呑川を渡り本門寺へ繋がっていた。 坂の東側にある本光寺も古く、本門寺の末寺として慶長14年(1609)の開山。

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坂上と坂下に大田区の標柱があり、「久が原東部八幡神社の前の坂道で宮坂と呼ばれるようになった」と書かれている。 あちこちにある宮坂と同じ由来である。

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八幡神社の創建は不明。 社殿の建て替えは文久2年(1862)と伝えられるが、八幡神社の多くは鎌倉時代の創建でその後荒廃し、江戸時代に再建されるケースが多いので、この久が原八幡も同様の歴史をたどったものであろう。

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2018年2月19日 (月)

車坂(池上)

池上本門寺境内の大坊坂坂上、経蔵裏手から此経難持坂の西側へ下る広い坂道が車坂。 南側の坂の中ではもっとも勾配が緩い。 ゆるやかにカーブを描きながら、両脇の大きな樹木をくぐる。 途中多摩川から川崎方面を遠望できる。

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坂上にある車坂の石柱は最近のもの、坂下に大田区の標柱がある。「『新編武蔵風土記稿』に「車坂、経蔵の背後の坂なり」とあり、また、「池上長泉山本門寺記」天明元年(1781)には、車坂が描かれている。昔からある古い坂道である。」と書かれている。

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『江戸名所図会』にも本門寺は複数ページに渡り描かれている。図絵では大坊坂の幅はもっと広く、車坂は鐘楼の辺りに登り詰めているように見えるが、そこは『新編武蔵風土記稿』とは違う点である。 江戸時代にはすでに荷車が使用されるようになっていたので、荷車を通す坂という意味での車坂の呼び名だと思われる。 そうすると鐘楼への道は現在の階段を描いているのであって、車坂ではなさそうである。

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『江戸名所図会』はこれを誤って描いたものかもしれない。これが車坂なら荷車は上れないからである。鐘楼と経蔵の裏手の崖線の樹木が切れているように見えるのが、車坂の筋なのではあるまいか。

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2018年2月18日 (日)

大坊坂(池上)

池上本門寺境内、紅葉坂の西側の崖線を下るのが大坊坂。 階段坂である。 地形的には本門寺は周りから20mほど高い台地になっている。 その崖線のほとんどが急峻でそのためにあちこちに階段がある。

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大坊坂の傾斜もなかなかのもので、途中踊り場が上る人には助けになる。 坂上と坂中に標柱がある。「『新編武蔵風土記稿』に「大坊坂、方丈の右の坂なり、大坊へ行く道なればこの名あり」と記されている。 本門寺山内西隅の石段坂で坂下に大坊と呼ばれる本行寺がある。」と書かれている。

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崖線は緑に包まれて日陰になっている。 石段は6層になっていて、擦り減り具合が時代を感じさせる。 坂下の大坊本行寺は日蓮が入滅した時にこの地の領主であった池上宗仲の屋敷があった場所。 そして本門寺全体は池上氏の土地の一部だった。 日蓮を崇信していた池上宗仲は日蓮の死後、屋敷を寄進し、日澄を開山僧として大坊を起こした。

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中程の踊り場から北に下る石段の先に朱塗りの宝塔が見える。 日蓮を荼毘にしたところで、朱色の多宝塔が特別な場所であることを思わせる。 建立は文政11年(1828)、幾度かの修復を経て現在に至っている。

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2018年2月17日 (土)

紅葉坂(池上)

池上本門寺の境内の真ん中あたり、大堂の北側を横切る坂道が紅葉坂。 そのまま東に進み、墓所に入ってさらに進むと昭和のヒーロー力道山の墓所がある。 反対の西へ行くと大坊坂の階段になる。

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上の写真は大堂、本門寺は本当に広い。 大堂は祖師堂ともいい、遠くから本門寺を眺めた時に見える大屋根はこの大堂である。 紅葉坂脇に大田区の標柱がある。

「『新編武蔵風土記稿』には「紅葉坂、方丈の左の坂なり。裏門へ通う坂なり』と記されている。坂付近にはモミジの樹が多いことから、この名がついたのであろう。 坂下で交差する道を北に行くと、西側に松濤園という庭園があり、都の旧跡に指定されている「西郷、勝両雄会見の処」という記念碑がある。」と書かれている。

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現在は紅葉の樹が多いということはなさそう。 裏門というのは、紅葉坂を下った朗峰会館の入口あたりにあったという。 写真に見えるのはそれではない。 松濤園の東側の辺りだと思われる。

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2018年2月16日 (金)

朗師坂(池上)

池上本門寺に南から上がる坂道は、此経難持坂、おんな坂、それに朗師坂の3つである。 どれも階段坂で、朗師坂は朗子会館と池上会館の間の崖を本門寺の墓地に上る。 朗師坂の朗師と朗子会館の朗子の字が異なるのは何が違うのか調べてみたがわからない。 朗師というのは日蓮門下の六老僧の一人、日朗のことをいうが、その教えを受ける意味での朗子なのだろうか。

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坂下の自転車があるところには石塔がある。「日朗聖人ガ三十九年ノ間 日蓮大聖人ノ御墓所ヘ日日往復ナサレ給ヒシ坂ナリ」と刻まれている。 日朗(1243~1320)は祖師(日蓮)入滅後、寺窪(現在の照栄院付近)に草庵をつくり、以後三十有余年毎日この坂を上り、山上の日蓮御廟所へ参拝したといわれる。

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階段は23mの高低差の崖線を上っていく。 樹木に囲まれ、静かなよい坂道である。 現在池上会館がある場所は昔、寺窪といい、日蓮が入滅したのち身延山に務めた日朗がその後に幽棲した場所である。したがって坂もかつてはもう少し東側にあったようだ。

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坂上には大田区の設置した木製の標柱があり、「日蓮聖人の愛弟子日朗聖人は、祖師入滅後 ささやかな草庵をつくり山上の日連聖人御廟所へ、毎日この坂を上って参詣したといわれる。」と書かれている。

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2018年2月15日 (木)

めぐみ坂(池上)

池上本門寺へ車で行く道は西に車坂、北に二本、そして東の五重塔の脇を抜けて下るめぐみ坂がある。 五重塔の脇を行く車は意外といるので驚いた。 本門寺を出ると、堤方神社の脇を下っていく。

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あたりは寺町だが、少し下ると「池上どろんこ保育園」がある。 魅力的な名前の保育園だが都会派には好まれないか。 しかし食米を自給自足し、田植え稲刈りを魚沼で体験など、年間の農業計画が満載の素敵な保育園である。 私が行きたいくらいだ。

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坂道はくねりながら下っていく。 この道筋は歴史ある坂っぽくていい。 実は江戸時代からある道なのである。 当時は相当ぬかるんで難儀な道だったことが想像できる。どろんこ保育園の下には、「日本キリスト教団大森めぐみ教会」がある。 これが坂名の由来のようだ。

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坂の上下にある標柱には次のように書かれていた。 「現在では、坂の西側にめぐみ教会があるため、めぐみ坂と呼ばれることが多いようである。かつては、昭和4年までこの地にあった料亭「あけぼの楼」にちなみ「あけぼの坂」とも、古くは「相の坂」とも呼ばれた坂道である。」

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池上本門寺の門前にキリスト教会というのはなかなか面白い。 あけぼの楼については、明治時代にこの辺りで温泉が出たため、曙楼、池上温泉場、などが出来、崖線上は景勝地でもあったので明治大正期には多くの政治家や文人、軍人で賑わったという。 日露戦争の戦争祝賀会なども行われた。

今は静かな風情ある坂道で、時折子供たちの声がどこからともなく聞こえてくる。 私のすきな坂道の一つである。

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2018年2月14日 (水)

妙見坂(池上)

池上本門寺の東側、本門寺山内の妙見堂に上る階段坂。 もちろん坂名は妙見堂に因んでいる。 本門寺総門手前の呑川を渡る霊山橋から呑川沿いを下流に下ると、池上小学校の先に照栄院があり、その脇を入ると間もなく急な階段坂の妙見坂が現れる。

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半島の海食崖を想起させる急な階段である。 坂下と坂上に標柱がある。

「『大日本名所図会』には「妙見堂、妙見坂の上にあり。妙見大菩薩を安置す。寛文4年甲辰7月紀伊頼宣氏の造立せし所なり。 即ち照栄院の鎮守とす。」とあり、坂名はこれに因む。また照栄院には元禄期に南谷檀林(なんこくだんりん)が開設された。本門寺に寄進された妙見菩薩立像は、のちに檀林の守護鎮守として、坂上のお堂に移されたと伝えられる。」 と書かれている。

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妙見菩薩立像は、像高43㎝の木像で、寛文4年(1664)に徳川家康の子で紀伊徳川藩の祖である頼宣のために造られたもの。 頼宣の妻(加藤清正の娘)が本門寺に寄進したものがここに移管された。 記録の明らかな妙見像として貴重だという。

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坂下の照栄院は日蓮が臨終に際して指名した六老僧のひとり日朗上人が隠棲した場所。のちに荒廃したが、日寿上人という僧が60年後に再興したと伝えられる。 妙法坂の階段の石の一つ一つにはノミの後がしっかりと残っていて時代を感じさせる。

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おんな坂(池上)

此経難持坂の脇にジグザグに上る階段がある。 多くの神社仏閣にみられる女坂のパターンで、本門寺でも「おんな坂」としているようである。 作られたのはごく最近の2002年のことで、バリアフリーとは言わないがお年寄りでもゆっくりと上れる安心な坂ということであろう。

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確かに踊り場はいくつかあるものの足の弱い方には此経難持坂はきつい。 寺としての配慮は悪くないと思う。ただ、おんな坂を上り下りする人はほぼ見かけなかったの残念である。

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個人的には、有象無象善悪貴賤がごった煮のような此経難持坂よりも静かに上れるこのおんな坂の方が心安らかに上れる。 もちろんコンクリート造りなので此経難持坂のような歴史を感じながらという点では魅力はない。

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此経難持坂(池上)

池上本門寺は日蓮宗の大本山、正式な名前は長栄山大国院本門寺。 池上本門寺は古くからの通称である。 起源は弘安5年(1282)、日蓮が最後の時を池上宗仲(いけがみむねなが:鎌倉時代の武士)宅で過ごす。日蓮が没すると池上宗仲は法華経の字数(69,384)に合わせ、69,384坪を寺領として寄進し、日蓮の弟子が本門寺として継承した。 江戸の南を守る寺として長く庶民から親しまれてきた。 その正門にあたる階段が此経難持坂である。

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「この石段坂は、慶長年間(1596~1615)加藤清正の寄進によるものと伝えられる。「法華経」宝塔品(ほうとうぼん)の詩句96文字にちなんで石段を96段とし、詩句の文頭の文字「此経難持」をとって坂名とした。なお、石段は元禄年間(1688~1704)に改修されたといわれる。」と標柱には書かれている。

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教育委員会の説明板も立てられている。 上記標柱の説明のほか、この階段が元禄時代に改修されているが、そのまま造営当時の祖型を残していて貴重な石造遺構であると記されている。 加藤清正は慶長11年(1606)に祖師堂を寄進建立し、寺域を整備しているので、階段も同時期のものと推定される。

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昨今の健康ブームとマラソンブームでこの階段を昇降トレーニングに使う輩が多いが、参詣客が多いときは危ないのでやめてもらいたいものだ。 犬の散歩でフンを放置したりする者もいるようで、罰当たり極まる。

坂下の総門は総欅造の高麗門。元禄年間に建造されたという記録が残っている。もう300年以上経過しているのに立派なものだ。

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貴船坂(池上)

池上本門寺のエリアと南馬込・大田区中央の一部のエリアは地形的には逆Y字型の半島のような台地地形になっている。その間は谷地地形で、谷地の最奥にあるのが池上本門寺の松濤園の池。 境内の最奥の日蓮上人御廟所の東は崖になっていてその下にあるのが松涛池である。池と御廟所の高低差は15mほどある。小堀遠州の造園と言われる回遊式の名園で毎年9月に公開される。 また、幕末に勝海舟と西郷隆盛が江戸城開城の会見を行った場所でもある。

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松濤園の東側を北に向かって上るのが貴船坂である。坂上に大田区の立てた標柱がある。 「坂名の由来となった貴船神社(神狐の石像)は、東之院(池上1-7)に昔、本門寺の鬼門除けとしておかれていたが、神仏分離令で同寺院と分離され、近くの太田神社に合祀されたと伝えられる。」と書かれている。

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貴船神社は現在の本門寺公園(池上本門寺の東側にある広い公園)にあった。 太田神社には明治45年に合祀された。 坂上からは眺望もあり、蒲田駅周辺に立ち並ぶビル群が望める。坂上はそのまま進むと、東京都交通局の馬込車両検修場で、都営浅草線の車両基地になっている。京急、京成、北総の車両もあってなかなかにぎやかだ。

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2018年2月13日 (火)

蓬莱坂(池上)

汐見坂は台地を東に下る坂、そしてこの蓬莱坂は南に下る坂である。 南面の坂道は歩いていても異様に明るい気がする。 周辺は閑静な住宅地。 坂上からの眺望はいい。 傾斜は標識では12%と書かれている。

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以前は坂下に標柱があったが、訪問時にはなくなっていた。ガードレールが緑色の新しいものになった時に撤去されたのだろうか。 以前の標柱には次のように書かれていた。

「坂上の東北に通称「黒鶴稲荷」という稲荷社がある。伝説によるとその境内で捕獲された黒い鶴を、将軍家に献上したところ吉兆であると喜ばれたという。「蓬莱」とは、縁起のよいことに使われる意味もあり、坂名はその黒鶴伝説に因みつけられたのであろう。」

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坂上の東側の崖線には縄文時代の横穴古墳群があった。 その時代から人が生活を営んでいた場所だった。

ただ黒鶴稲荷は汐見坂のさらに向こうにある。 どうして遠いほうのこの坂にその名を当てたのかは疑問が残る。 この坂ならむしろ坂の西側にある太田神社が近く太田坂と呼んでもいいように思ってしまう。

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太田神社は那須与一を祀っている。 壇ノ浦の戦いで船上の扇を射抜いた有名な那須与一から、一度の挑戦をモノにしなければならない試験の合格祈願・学業成就祈願、スポーツや競技の勝利祈願などは特にご利益があるとされている。

この坂が開かれたのは大正時代くらいのようだ。 耕地整理が行われ、民家が増えてからのことである。 池上本門寺の高台の突端と並んだ、もう一つの突端地形で、その間は桐ケ谷と呼ばれていた。

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2018年2月12日 (月)

汐見坂(池上)

汐見坂(潮見坂)というのは概ね海が見える坂道につけられる坂名である。 鐙坂の坂下の内川の暗渠を支点に再びゆっくりと高度を上げた道は再び台地の上へ。その稜線から東に下る道が大田区の汐見坂である。

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坂上と坂下に標柱がある。「かつて、この坂から大森の海や白帆、海苔篊(ひび)などがよく見えたため、汐見坂とよばれた。またこの坂道は池上本門寺への旧池上道の近道でもあった。」と書かれている。海苔篊とは、海中に立てておく木や竹を束ねたもの。

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昭和初期に耕地整理が始まるまでは、汐見坂は道幅も狭く、赤土のぬかるみやすい道だったようだ。 ただ眺めはよかったと伝えられる。 現在は大森方面にビル立ち並び海は全く見えない。

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2018年2月11日 (日)

鐙坂(馬込)

臼田坂から続く旧田無街道(古道)から内川の流れる将監谷に下る坂道がある。 坂下の目印は内川暗渠道路である馬込桜並木通りの交差点。 そこから北へ向かうと最初の辻に素敵なデザインの木造家屋が建っている。 その家の木塀の前に坂の標柱が建っている。

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そこから坂はカーブしながら上っていく。 標柱には、「大正末期から始まった耕地整理によってできた坂道で、もとは狭い農道であった。 坂の名は、伝説によると、梶原景季(1162~1200)の愛馬磨墨が、鐙を谷に落としたところという、鐙谷の地名から名付けられたものという。」 と書かれている。 ここでもまた磨墨が登場した。

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鐙谷という地名が指すのは臼田坂上から南西の低いエリア。 耕地整理以前の農道は薬1mほどの道幅しかなく、この坂の下には水田が広がっていた。 大正以前、この斜面を下る道がもう一つあり、少し東にある熊野神社の北側の路地がそれである。 ちょっとおかしなカーブを描いている路地なのだが、かつての道は神社の南側を回り込んで、坂を下っていた。 神社側に曲がらずにまっすぐに入る私道がその名残のようである。

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2018年2月10日 (土)

おいはぎ坂(馬込)

第二京浜のオートバックス裏から南に延びるやや広めの道は内川の流れの上に出来た道。南馬込4丁目の出世稲荷下で東に向かって川の流れは変化し、大森町方向へ流れていた。この出世稲荷は、正しくは北向稲荷神社らしい。 この地域の旧家森氏の守護神がのちに馬込村上臺の鎮守となったと伝えられる。

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北向稲荷の鳥居の前をくねりながら上っていくのがおいはぎ坂である。 名前の由来は、かつて通行人がたびたびおいはぎの被害にあったことから生まれたといわれる。また、この坂は牛洗戸坂とも呼ばれた(由来は不明)。

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坂の南側は北向稲荷神社と万福寺の墓地が広がっているが、北側は住宅が並んでいる。 大正期はこの北側は樹木が生い茂っており、暗い坂だったようだ。 今でもこの坂の雰囲気はやや狭めの道、曲がりくねり方、急坂と三拍子そろっており、昔からの坂を強く感じる。 それも江戸市中の感じではなく、里山近くの鎮守のそばの坂という感じである。

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標柱も何もないが、坂下の通りにある「馬込文士村の案内地図」においはぎ坂と記されている。 明治初期の地図を見るとおいはぎ坂はすでに描かれている。 書物によっては北向台上稲荷とあるが、昔の小字地名を見ると、根古屋の南には上臺(うえだい)となっているので、稲荷神社の名前は北向上臺稲荷神社ではないかと思う。 坂下の内川沿いの湿地帯は将監谷と呼ばれていた。

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2018年2月 9日 (金)

南坂(馬込)

第二京浜の馬込坂の東側、二本木坂の道筋の続きで再び台地に上っていく坂が南坂である。 何に対して南坂かというと、坂上にある馬込八幡神社から見て南ということらしい。 馬込八幡は馬込村の総鎮守として、鎌倉時代からこの辺りの中心であった。 江戸時代になるよりも前にその北隣に長遠寺が移転してきた。昔は玉川八十八カ所霊場の第七十二番札所、また御府内八十八カ所霊場の八番札所の馬込不動として有名だったという。

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坂の南には湯殿神社があり、その境内周辺は戦国時代北条氏の家臣である梶原氏の城があった場所。 ここが北西の端で、北側の内川と南の呑川の間の台地全体のおよそ1㎞四方が中世の城郭だった。 南坂の辺りの古い地名を根古屋(根古谷)と呼んだが、その城郭は周囲が崖に囲まれ、周辺の谷には沼を配置して敵の攻めに備えていたという。

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昔の南坂は道幅も狭く、急峻な坂道で、西は二本木坂を通って旧池上村の根方(現在の中池上1丁目辺り)に繋がっていた。 坂上の区立馬込小学校はとても古く、創立は明治11年(1878)で、古くからこの辺りが栄えていたことがわかる。

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坂上と坂下に標柱がある。「馬込の中心にある八幡神社から見て、南側にあるので南坂と言われている。昔の坂は、道幅も狭く急な坂で、今の第二京浜国道の中央あたりまであったという。この坂道は西へ下って、二本木を通り、池上の根方に通じた古い道である。」 と書かれていた。

昔は、坂は切通しで高い崖に挟まれていて、東の崖には樹木が生い茂り、西側は竹藪だったという。 明治大正以降の耕地整理で坂は相当緩やかになった。

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八幡神社の鳥居と、その前の「村社」と彫られた石柱が素晴らしい。村社という呼び名は明治時代のもので、江戸時代は総鎮守と言われていたようである。 鎌倉時代初期、源頼朝の家臣の渡辺氏が松原橋の辺りに住んでおり、京都石清水八幡宮の分霊を勧請し開いた。その後荒廃したが、江戸時代後期に名主らが再興したと伝えられる。

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2018年2月 8日 (木)

二本木坂(馬込)

馬込は「馬込九十九谷」と呼ばれるように、丘と谷が複雑に入り組んだ地形をしている。その複雑な地形に、第二京浜と東海道新幹線を直線で切通した形になっており、新旧入り乱れた地形になっている。この坂道は、窓目の八幡神社付近の南坂を通り、旧池上村根方方面に向かう古い道である。坂名は、馬込村の小字二本木に由来する。

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この付近一帯は、馬込村小字二本木と呼ばれていて、坂名はその地名に由来する。新幹線にかかる橋は、二本木橋と名づけられた。坂下には、地下鉄東京都交通局馬込車両工場があったが平成16年(2004)に廃止され、跡地は立正大学付属中高校になっている。

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大正期以前には坂の中腹に神社があったようだが、現在は存在していない。坂下の川について標柱には内川の清流とあったが、同時に周辺は湧水があちこちにあり良好な水田地になっていた。馬込文士村の文士たちの記述では、環七沿いに流れていたのが池尻川、その東側に並行して流れていたのが溝川と呼ばれていたようである。実はもう1本小川が池尻川の西に万福寺の辺りから流下していたようだが、その川名はわからない。

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二本木坂の坂上は新幹線と在来線が並走するのを見下ろせる鉄道ファンにはうれしいポイント。貨物線だった品鶴線は昭和4年に開通し、それを拡幅して昭和39年に新幹線の軌道を通している。品鶴線は「ヒンカクセン」と読む。元々貨物線だったが1980年に横須賀線が通るようになり、2001年からは湘南新宿ラインも通り始めて、今では数多くの列車が駆け抜ける。

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2018年2月 7日 (水)

馬込坂(馬込)

馬込坂は馬込橋陸橋あたりから、都営地下鉄西馬込駅方面へ下る第二京浜国道(国道1号線)の坂道。 第二京浜が開通したのは昭和24年頃、「馬込坂下」というバス停が出来てからいつともなく馬込坂と呼ばれるようになった。

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6車線の広い道路なので坂の感覚は薄いが、実は坂上と坂下では標高が15m近く違うのである。 第二京浜は、昭和11年に着工し、全面舗装が終わったのは昭和34年。それ以前この付近一帯は小高い丘や水田で、坂下には内川の清流が流れていたという。

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坂を歩いてみると現在でも大きな地主の宅地や、庭に広い畑のある農家のような広い家が残っている。坂上の松原橋は明治時代この辺りが小字松原だったためである。 坂上の歩道橋のある交差点で国道を横切っているのは臼田坂から続く昔の田無街道。 北に少し行ったところの大田区立馬込図書館はかつて馬込村役場があった場所である。

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2018年2月 6日 (火)

蛇坂(馬込)

臼田坂を上り田無街道を北進すると、万福寺前というバス停がある。 大田区郷土資料館の近くだが、バス停から万福寺まではかなりある。 それでも停車場名になるという万福寺は大きな寺院であった。 慈眼山無量院万福寺は建久年間(1190~1199)に創建された古刹。 臼田坂で見かけた磨墨塚の名馬するすみが万福寺に祀られていた。

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万福寺脇の道を北へ進むと、新幹線の線路の手前で曲がりながら下っていく坂道があり、蛇坂の標柱が立っている。

「蛇のように曲がっていることから、この名が付いたといわれる。また、昔は坂の辺りにヘビが居たことによるともいわれる。」と書かれている。

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昔はヘビなどどこにでもいただろうとは思うのだが、どちらかというと曲がり方が蛇っぽいので形から呼ばれた方に納得する。  現在はマンションと民家に挟まれたきれいな坂道でヘビなどは居られそうにない。

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坂上から坂下にショートカットする階段がある。 なかなかいい階段である。 ほとんどの人は蛇坂の方を上っていく。 古い地図を見る限りでは、大正期あたりに開かれた坂のようである。 当時は坂下を内川の支流の小川が流れていたようだから、蛇はたくさんいたと思われる。 今、近所にいる長いものは東海道新幹線くらいのものだ。

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2018年2月 5日 (月)

右近坂(馬込)

臼田坂の社のある路地を入り少し進むと下り坂になる。 この道は古い道で、臼田坂の田無街道から新井宿へのショートカットのような道だったと思われる。 昔、環七沿いの地域には内川という川があり、北馬込あたりや第二京浜と環七の立体交差のある松原橋あたりを源流にしていた。 環七通りは長原駅前までは尾根筋を走るが、そこから夫婦坂、松原橋と下り坂になり今度は谷筋を走る。松原橋はここにあった川を渡る橋ではなく、第二京浜が環七を跨ぐ立体交差の橋の名前である。

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社の路地を進むと遠景が開け下り道になる。 この1本南の道筋に、川端康成と石坂洋次郎が住んでいた。どちらも短期間しか居住していないが、馬込文士村の説明の碑がある。 川端康成宅の道もなかなかの坂だが、こちらは昭和に入ってからの道のようである。

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右近坂が開かれたのは江戸の末期と言われる。 坂下に標柱がある。

「この坂名の由来については、近くに「右近」という者、あるいは「おこん」という女性が住んでいたからとか、いろいろな伝説があり、あきらかでない。」 と書かれている。

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右近坂の由来は諸説あって、臼田坂の右近くから谷中におりる坂道であるから右近坂と呼ばれるようになったという説、近くに「右近」という者、あるいは「おこん」という女性が住んでいたという話、そしてうこん色の着物を着た娘がよくこの坂を通ったことによるなど、どれが正しいのかはわからない。

大正から昭和の初期にかけてはかなり辺鄙な人通りの少ない道だった。両側には椎の木などが繁り、雨の日は泥んこの滑りやすい道だったそうである。

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2018年2月 4日 (日)

清浦さんの坂(大森)

大森駅山王口前からジャーマン通りの山王交番前に抜ける道が清浦さんの坂である。 坂名の由来は坂の上下の標柱にある。

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「大森駅前池上通りから山王の高台に続くこの坂道は、大正から昭和にかけて坂の中程に居を構えた第23代内閣総理大臣「清浦奎吾」にちなんで、「清浦さんの坂」と呼ばれていました。

都心から程近く、海の見える緑豊かな大森山王周辺の高台は、閑静な住宅地として人気があり、多くの政治家や文人などが暮らしていました。」 とある。

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この真新しい標柱は、平成27年(2015)に大森八景地区まちづくり案という区の計画事業で新設された。 それ以前は「さん」が付かず、「清浦坂」と呼ばれていたのだが、区による忖度が働いたのだろうか。 どうもこういう名前の付け方は好きでない。 それまでに地元で呼んでいた名前をそのまま採用してもらいたかった。

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八景坂(大森)

大森駅西口(山王口)は池上通りに出る。 池上通りは海岸沿いの東海道が整備される以前は鎌倉街道で、品川~池上~鎌倉と続く古道で「古東海道」とも言われる。  以前区役所のあった中央は昔は新井宿と呼ばれる宿場で、大森駅周辺は入新井という地名であった。  入新井の大森駅周辺は最初の鉄道が通った時に停車場が出来、八景園が成功をおさめ賑わった。 その大森駅から新井宿方面へ下る池上通りが八景坂である。

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現在の大森駅東口よりも山王口は7mほど高くなっている。また八景園のあった台地はさらに14m高くなっている。 ここは大昔の海食崖、駅前の天祖神社の階段の急峻さは海食崖である所以である。 神社の下に八景園の説明板がある。

「今でこそゆるやかな坂道であるが、昔は相当な急坂で、あたかも薬草などを刻む薬研の溝のようだったところから、別名薬研坂とも呼ばれた。

この坂の上からは、かつて大森の海岸より遠く房総まで一望でき、この風景を愛した人たちにより、「笠島夜雨、鮫洲晴嵐、大森暮雪、羽田帰帆、六郷夕照、大井落雁、袖浦秋月、池上晩鐘」という八景が選ばれ、八景坂というようになったといわれる。

かつて坂上には、源義家が鎧をかけたと伝えられる松があり、広重らの浮世絵に描かれ、有名であった。」

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源義家の松は明治時代に枯死したが、今も昔もここは台地の縁で魅力的な場所である。元の八景坂は天祖神社の脇を上る道だったといわれるが、明治期の地図ではここより鹿島神宮側に八景坂の記載がある。 地形図から推定すると現在の池上通りとそれほどズレてはいないと思われる。

八景坂がいつごろからの名前なのかが明確でないので諸説ある。 縄文時代にまでさかのぼって考えれば、20m以上の海食崖を下る道はあちこちに付いていたであろうし、時代とともにそのうちの一つか二つが街道になっていったということだろう。 ビルの林立で表面的には地形がわからなくなっているが、底地形を見つめると諸説あって問題なしという気がする。

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2018年2月 3日 (土)

臼田坂(馬込)

最寄り駅は西馬込か大森か微妙なエリアにある坂だが、荏原町から池上通りの大田文化の森へのバス通りの一部である。 坂下の大田文化の森というのは面白い名前だが、森はない。 区民情報センターのビルでスタジオなどいろいろな施設が入っている。元は大田区役所だったが、1998年に蒲田駅東口のバブリーな庁舎に移転した。 かつて区役所のある区の中心だったから中央という地名にしたのかどうかは調べたが明確には書かれていなかった。容易に分かりそうなことなのに解明できずにいささか消化不良気味である。

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臼田坂は緩やかにカーブしながら上っていく。昭和時代には区役所があった関係で臼田坂の坂下までは賑やかな商店街だったが、役所の移転後は寂れてしまった。池上通りは昔、鎌倉街道で平間街道(池上道)とも呼ばれ、多摩川を平間の渡しで越えていた東海道のサブルートだった。

臼田坂の由来は単純で、坂の上下にある標柱には、「坂付近に、古くから臼田を姓とする人が多く住んでいた関係から、この名が起こったといわれている。」とある。

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大田区によると、昔から馬込より大森に出る主な道で「田無街道」と呼ばれていた。 馬込を抜け、荏原町から三軒茶屋を経て田無に向かう道という意味合いだそうだが、三軒茶屋から田無はいささか遠すぎる気がする。 ただ、明治になってからもこの道路は府道56号大森田無線とされていたので、間違いではないようだ。

この田無街道は実は台地の峰を這うように続いており、3D地形図を見ると見事に稜線を走っているのがわかる。江戸時代から主要地方道だったといえるだろう。

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坂上の社は何の説明も書かれていないので正体がよくわからなかったが、その先の民家の間にある塚は磨墨塚(するすみづか)という由緒ある塚で、源平の合戦で活躍した磨墨(するすみ)という名馬がこの地の産だとか、ここで死んだとか伝えられ、それにちなんで明治33年(1900)に馬込村の人々が建てたもの。しかし磨墨塚は全国にいくつもあるという。

また周辺は馬込文士村と言われ、大正末期から昭和にかけて多くの文人が好んで住んだエリアである。臼田坂には川端康成や石坂洋次郎が住んでいた。

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2018年2月 2日 (金)

闇坂(大森)

大森駅前池上通りの八景坂の途中、西に向かってくねりながら上る坂道が闇坂(くらやみざか)である。 角のセンチュリー21の脇に坂をショートカットする階段があるが、これは新しいもの。 闇坂は右に左にカーブしながら高度を上げていく。

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坂上と坂下に大田区の標柱がある。「むかし、坂側に八景園という遊園地があり、その反対側に加納邸があって、この坂道は細く曲がり、八景園の樹木が鬱蒼と覆いかかり、昼間でも暗かったために、この名が付いたといわれている。」とある。

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八景園の坂の北側にあった(写真右上のマンション敷地)。 開園は明治17年(1884)、久我邦太郎が大森駅前の畑地1万坪を買収し開発。 当初は施設はなかったが、梅や桜を植えて景色を整え、茅葺屋根の三宜楼という料理屋を開業して以来、訪問者が増えた。 景勝地としての人気はその後も続いたが、大正時代前期には廃業となった。

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坂上にあたる八景園の裏手は明治22年(1889)から昭和12年(1937)にかけて長く射的場であった。 現在大森テニスクラブとなって、9面の広いコートが広がっている場所である。 坂上を右に入ったところに、「日本帝國小銃射的協會跡碑」の石碑が立っている。

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坂上の南側では弥生時代末期の山王遺跡が発掘された(現在はマンション大森さん脳ホームズの敷地)。 比較的大型のマンションだが、その敷地全体に集落遺跡が広がっているのが、建設時(1979年頃)に見つかり発掘調査が行われた。

大森は縄文時代後期のモースの貝塚で有名で、何千年ものあいだ人間が好んで住んできた場所。 縄文時代は縄文海進で、駅周辺まで海が迫っていたが、その後徐々に海水面が低くなり海岸線は大森海岸まで伸びていった。それでもかつてはこの台地から眼下に東海道と江戸湊を望む場所であり、地下にはその歴史の数の遺跡が埋まっているはずである。

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鶯坂(大岡山)

東京工業大学の北側、大岡山北口商店街の中程から西に入る道を進むと、途中から急な下りになる。 この坂が鶯坂である。 大岡山は、洗足池の水源である大田区北千束1丁目の清水窪弁財天から流れる川の作った谷と、呑川の作った谷に挟まれた、細長い半島のような台地にある。 鶯坂は西側の呑川に下る古道である。
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坂の途中に目黒区の標柱と石標がある。 標柱には次のように書かれている。
「昔このあたりは切通しになっていて、両側に竹や杉が繁り、ウグイスがよく訪れて鳴いていたので、この坂名になったといわれる。」
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大岡山(おおおかやま)という地名はよく聞くと多くの人が「おおかやま」と発音しているが、「お」が3つ並ぶのは言語としては稀有だと思う。 外国人に聞き取りをさせてみたい地名の一つである。 丘の土地なので大岡山と付いたのだろうが、詳しい由来はわかっていない。
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坂の南側は東京工業大学の広いキャンパスになる。東工大は呑川の崖線の上下に敷地を持っていて、崖線上には主に校舎、崖線下にはグラウンドという作り方をしている。 実はこの崖線上の校舎からは富士山がよく見える。
 

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2018年2月 1日 (木)

谷畑坂(自由が丘)

谷畑坂(やわたざか)は自由が丘駅の北西にある坂。江戸時代以来この辺りの地名は谷畑だった。 南に九品仏川、北に呑川が流れる間の台地の南側が谷畑である。二子道から下り、九品仏川を越えて九品仏浄真寺に至る古道がこの谷畑坂の筋である。
 
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坂上の標柱には、「旧衾村の字谷畑にあることから谷畑坂と呼ばれた。この坂下はかつて湿地で鷺草が自生していた。またこの道は、二子道(現目黒通り)から九品仏方面への道として耕地整理以前から現在に近い形で、直線的にあった古道であった。」とある。
 
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古道は坂下で西に折れ、白山神社前を通って湿地帯を抜け九品仏川を渡り、浄真寺に至った。坂上には自由ヶ丘学園があり、ここだけが今でも自由が丘ではなく自由ヶ丘と書く。
 
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その昔、斜面は早期ばやしの間に畑が広がり、坂下の自由が丘駅周辺は一面の田んぼだった。現在も九品仏川緑道が暗渠として街を横切っている。九品仏川の水源は浄真寺の裏手あたりになる。等々力6丁目18のマンションリベルテ等々力の敷地の裏手にわずかな開渠が残されているが、おそらく源頭はこのあたりだと推測している。
 

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睦坂(自由が丘)

睦坂は通称自由通りにある坂。 自由通りは国道246号の駒沢大学駅前交差点から雪が谷大塚駅前までの都道だが整備されたのは昭和中期の高度成長期になってからである。目黒通りの中根交差点から自由が丘に向かって下る。

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坂の途中にある目黒区の標柱には、「この坂のある道は、昭和の初めの耕地整理によって新しく作られた道である。当時この付近に住んでいた人々が親睦を願って名付けた。」とある。 坂の途中の民家の擁壁に、個人所有の睦坂のレリーフがある。 命名にかかわった方のお宅ではないだろうか。

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自由が丘は昭和後期にあれよあれよと人気の街になっていった。 昭和2年(1926)に東横線・大井町線が開通し、江戸時代以来「矢畑」の地名で田園地帯であったが、商店や住宅が建ち始めると私立学園「自由ヶ丘学園」が出来た。その幼稚園・小学校部門がトモエ学園となったが、そこに通っていたのが黒柳徹子さん。 『窓際のトットちゃん』で学園のことを描き大ベストセラーになった。

電鉄側は旧村名から「衾駅」としていたが、住民の活動により「自由ヶ丘駅」となった。現在は街区も駅も「ヶ」ではなく「が」の表記で自由が丘となっている(東京オリンピックの後に変わった)。

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自由が丘には熊野神社がある。かつて谷畑と呼ばれた地で、この辺りの氏神様で、「谷畑の権現様」と地元では親しまれていた。 平安時代から江戸時代まで浄土信仰の広がりにより那智熊野神社を極楽浄土に見立てた熊野詣が盛んであった。 江戸時代に谷畑の住人が熊野本宮の勧請を受け、祀ったのが始まりと伝えられる。神楽で催される「目黒ばやし」が有名。

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個人的には社殿の右手奥にある伏見稲荷と参道の鳥居脇にある熊野神社庚申塔が気になった。 庚申塔にはお供え物や花が添えられており、華やかな自由が丘の街の中にあって、ひっそりと何百年の時代の変化を見守っている姿がありがたい。

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天神坂(都立大前)

柿の木坂という街区は目黒通り、環七、柿の木坂通りに囲まれた区画である。舟形をした街区は、野沢、柿の木坂陸橋、都立大駅前を頂点としていて、その西側の八雲との街境が柿の木坂通り。 都立大は2011年に閉学、首都大学東京(南大沢)に生まれ変わった。 その広大な跡地には、区立の目黒パーシモンホール、都営アパート、都立桜修館中等教育学校(中高一貫教育の6年コース)が出来た。

天神坂はその柿の木坂通りの都立大駅前からパーシモンホールのめぐろ区民キャンパス交差点までの坂道である。

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坂の途中に目黒区の標柱がある。

「坂の途中に北野神社があり、天神様(菅原道真)を祀っていることからこの坂名となった。坂のあるこの道はもとは駒沢方面へ通じる古道であったが、現在は直線的になり経路も変更になっている。」 とある。

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北野神社は小ぶりな社。 もとはこの辺りの田んぼの脇にあり、農業神として崇められていた。 江戸時代は常円寺の寺域にあったが、昭和初期の耕地整理と区画整理の時に現在の地に移された。 ご本尊は木造で「柿の木坂の天神様」と呼ばれている。

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柿の木坂通りの古道は北野神社前から少し西寄りに進み、現在のスーダン大使館の裏あたりには神社があって二又に分かれていた。 左へ行くと現在の駒沢公園や東京医療センター(旧国立第二病院)辺りへ、右に行くと現在の環七野沢交差点(昔は二本松という地名)。野沢には品川用水が流れていて、その南には世田谷区真中あたりを源頭にした呑川柿の木坂支流が谷を作り、都立大駅辺りで呑川に注いでいた。

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坂の西側には常円寺、東光寺があり、その先は氷川神社。 日蓮宗小杉山常円寺は天正18年(1590)の開山。境内の大銀杏(幹回り4m、高さ25m)は樹齢300年の巨樹で目黒区の保存樹木第1号とある。 西隣りの東光寺にある雄の大銀杏と合わせて夫婦銀杏と呼ばれる。

世田谷城主だった吉良家は1365年頃には碑文谷、衾村を領地に加え、ここに東光寺を建てた。したがって東光寺はさらに古い寺である。境内には頼朝の腰掛石なるものがあり、その昔、隅田宿にあったものを隅田川(当時は江戸川)の河川改修時に移設したとある。

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氷川坂(八雲)

目黒区の八雲の地名は比較的新しいものだが、由来はその昔に遡る。 「やくも」と読み、「やぐも」とは濁らない。 氷川神社の祭神である素戔嗚尊(すさのおのみこと)が古事記の中で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、生贄にならずに済んだ櫛名田姫(くしなだひめ)を妻にし、「八雲たつ・・・」と日本最初の歌を詠んだ伝説がある。 その八雲を地名にしたわけである。

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氷川神社は古すぎて創建の年代がわからないという。 改築が1855年という記録があるのでそれよりも何百年か古そうである。 柿の木坂下で斜めに分岐して曲がりながら氷川神社参道前まで通る八雲通りは昔の目黒通り(二子道)である。二子道は神社の鳥居前から氷川坂を通り、やがて上野毛通り筋で上野毛に至っていた。

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坂下近くに目黒区の標柱がある。「近くに氷川神社があるので氷川坂と呼ぶようになり、この坂下あたりを坂口といった。坂のあるこの道から氷川神社の前を右折し、商店街を通る道は二子道と呼ばれた古道である。」とある。

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しかし氷川坂というのは比較的最近の坂名で、以前は宮前坂と呼んだ。氷川神社は衾村の鎮守で、農村時代の村の中心だった。また神社は「癪封じの神」として有名で周辺各地からの参拝客も多かったようである。「癪」というのは、おなかの痛みをいうらしい。

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氷川神社境内には「大辻の庚申」という庚申塔が2基あり、昭和の初期までは柿の木坂のあぜ道にあったものが、あちこち転々として平成23年にようやくこの氷川神社の境内に落ち着いた。 三猿の塔は1674年、もう一つは1749年のものである。

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2018年1月31日 (水)

化坂(八雲)

地下水の湧く河岸段丘などを武蔵国の呼び方では、ハケ、バッケ、バケなどと呼ぶ。 多摩川の河岸段丘ではハケの道という呼び名が普通に使われる。 多摩川のような大きな川であれば川が消えることはないので、ハケは崖線の意味でずっと理解されるが、開発が進んだ街中では川が暗渠化して見えなくなるので、地形を理解しないとわかりにくくなる。

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化坂はこのハケ坂が訛ったものである。 ここは南に呑川、東に呑川駒沢公園支流が流れており、特に駒沢公園支流は本流よりも急な崖線を作っている。 関東大震災後の区画整理再開発以前、氷川神社から駒沢への古道が現在の化坂の近くを通っていた。 それが本来の化坂で、この辺りの小字も化坂と呼ばれた。

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坂上に目黒区の標柱がある。 「元の化坂は耕地整理のため消滅している。武蔵野台地の斜面に多い赤土層に砂礫層が露出し、湧水が出るところを「はけ」といった。それが転じて化坂となったといわれる。また、この坂が衾(ふすま)と深沢の堺を分けたので「分け坂」とも呼んだという。」

宅地開発以前の坂下周辺は田んぼで、小川(駒沢公園支流)を越えると金蔵院と氷川神社であった。 道は少し曲がって斜面を下って上り、現在のようなまっすぐな景色とは全く違ったはずである。

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2018年1月30日 (火)

しどめ坂(八雲)

太鼓坂の東側、宮前小学校の裏手にある坂がしどめ坂。 ただし小学校の正門はしどめ坂側から路地を入ったところにあるので、どっちが裏かは微妙である。 八雲周辺の呑川の崖線でこの坂の辺りが最も傾斜が急で、等高線が詰まっている。その様子は写真の通りである。

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小学校の校舎の角に目黒区の標柱が立っている。

「しどめ」とはバラ科の草ぼけ(しとみ)のことで、赤い花の咲くとげのある木である。昔はこのしどめが、呑川の岸辺に群生していたので、坂名になったといわれる。」

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説明がわかりにくいが、ボケの木の仲間でしどみという樹がある。 落葉小低木で、別名を草ボケという。「クサボケ(しどめ)の説明のあるサイト」 春に咲く水辺の花なので、さぞ可憐に咲いていたのだろう。

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関東大震災以前にはこの辺りには家1軒すらなかった。 当時は目黒通り筋が二子道でその周りには民家があり、呑川からずっと北側の丘の上、化坂(ばけさか)の辺りまで行くと、氷川神社から深沢への道があり、民家があった。 しかし呑川の両岸はほとんどが田んぼもなく、竹林を含む樹林だったようである。しどめ坂はほぼ農道であったが、呑川を渡る橋は架かっていた。 また太鼓坂の1本西の道を下り呑川を渡る辺りには水車もあった。 その水車の下流の次の水車が岡田の森の下の蜀江坂の水車である。

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太鼓坂(八雲)

目黒区八雲はその西側を世田谷区深沢に接し、目黒通りを挟んだ南側は中根と自由が丘というのが現在の街区である。 目黒通りはこの辺りではほぼ台地の崖線上を走っている。 東京オリンピックから万博までの高度成長期に目黒区の町名が改定された。以前の八雲の町名は宮前町、中根町、衾町だった。

柿の木坂以遠の目黒通りは意外と最近の道路で、開通したのは東京オリンピック前後だったようである。 この目黒通りにより八雲と中根が分かれる。太鼓坂にある小学校の名前は旧町名時代に開校したので宮前小学校である。

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写真の左側が宮前小学校。 ここから急な坂になる。 小学校の壁に太鼓坂の説明板がある。 「昔、この坂が太鼓のような形をしていたので、または、急坂のため太鼓を転がすように人が転げ落ちたので、太鼓坂と呼ばれるようになったといわれています。」 とある。

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この坂を形成したのは無論呑川である。 宮前小学校は1958年創立。私の生まれた年だ。意外と新しい。 現在の坂は切通しになってきついとは言っても昔に比べれば緩やかになっている。 昔は本当に急な坂で、本当に転んだら止まらないような坂道だったようだ。

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坂下の遥か彼方に大きな建物がそびえている。 東京都立大理・工学部跡に日商岩井と長谷工の建てた深沢ハウスという巨大マンション群である。なんとマンションが13棟も林立し、反対運動や訴訟がいくつも起きた問題物件であった。 長谷工が行政の意見をほぼ無視して強硬に建築を進めたが、住民で確実な勝訴を勝ち取れた者はいなかったと聞く。 ゼネコンと行政の癒着も疑われたが、住民には打開することが出来なかった。

不透明な条件下での法に触れない権利だったのだろうが、日本の民主主義の後進性が見えた典型だと思う。建てたもん勝ちの状況は現在も変わっていない。

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兵庫坂(中根)

寺郷の坂の長屋門のある名主岡田家の敷地であったのが岡田家の北側にある中根公園。 岡田家から目黒区に寄贈されて公園となったが、それ以前も地元の人々が自由に立ち入れる「岡田の森」という個人所有の公園のようなものだったらしい。岡田家の塀の外に岡田の森があったので地元の子供たちの格好の遊び場になっていた。今でも広葉樹の大木が何本もあるこの公園は作った公園というよりも昔からあるあそび場の雰囲気を残している。

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公園の北側を西から東に下るのが兵庫坂(ひょっこさか)。 道家剛三郎氏によると、戦前、公園の坂側に兵器庫があったので「ひょうこ」→「ひょっこ」と転訛したという。 別名を蜀江坂というが、これも「ひょっこ」を江戸っ子が発音すると「しょっこ」になるので付いた名前だという。 しかし、古い地図を見るとこの坂はもっと北側にあったので、この道の公園とは反対側が兵器庫だったはずである。

当時の呑川は岡田の森の北側に沿って流れていた。現在の呑川暗渠は川を付け替えた後に暗渠化されたもので、中根の崖線に沿って岡田の森には川が流れ、斜面に森が広がり、現在の中根公園よりもはるかに広いエリアだった。

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坂の西側200mほどのところにある寺郷の坂の寺、立源寺に上る崖線の坂道が現在の兵庫坂の数十m北側にあった。 その坂は水車があった呑川に掛かる土橋から急坂で崖を上り立源寺に至る細い道だった。

関東大震災後、鉄道の開通とともに市街地化の波が襲い、農地は次々と宅地化され道は整然とした区割りに変更されたので、現在は痕跡もないが、目黒区の資料による古老の話では、竹藪と杉山に挟まれた2~3m幅の未舗装路で、日陰で赤土の急坂だったので相当難儀をしたという。

また蜀江坂というのがこの古い坂に付いていた名前で、1365年に世田谷城主の吉良氏が、子供が死んだ時に東岡寺(東光寺)を建立し、蜀江の錦と土地を寄進した事に由来して蜀江坂となったという。この辺は道家氏の説とは異なる部分。

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何か痕跡がないかと探してみたが何も見つけられなかった。土地造成開発というのは時に土地の記憶すらも消してしまうことがあるのかと落胆した。上の地図は古い地図から推定した当時の坂と川の流れを記載したものである。

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2018年1月29日 (月)

旭坂(緑が丘)

緑が丘の南面3本坂の最後は旭坂。 目黒区の資料では、戦前から旭坂と呼ばれたという。 坂の途中のアパートの名前が「旭坂コーポ」とある。 こういう歴史ある名前を付けてくれるのはとてもありがたい。 一般的には不動産価値を高めようと、このあたりだと自由が丘を付けてみたりするケースも多い中でうれしいネーミングである。

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戦前はこの南向き斜面に宅地が急速に張り付いたものの、坂下の田んぼはそのまま残っていたようだ。 そのため広い敷地を確保できたので緑が丘小学校をはじめとしたいくつもの施設ができたと思われる。

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この辺りを歩いていて感じるのは、各民家が緑にあふれていることだろうか。 昭和のはじめころからそういう街づくりをしようと住民が協力したのだろう。 また一時期海軍軍人が多く住んでいたという。 軍人が住むところは便利でかつ安全性の高いところだという。

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ちどり坂(緑が丘)

緑が丘の稲荷坂の西にある坂で、由来もよくわからない。 ちどり坂という名がいつごろから呼ばれるようになったのかもわからないが、大正末期から昭和にかけて開発されたころにつけられた名前であろうか。

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坂は坂上が北で坂下が南、そのため日当たりのいい斜面ということで震災後の早期に開発が進んだ。 昔から見晴らしと日当たりは人気宅地の条件である。 また緑が丘周辺は碁盤目に道路が開かれている。 大正末期から昭和にかけて東京横浜電鉄(東横線)、目黒蒲田電鉄(目蒲線)、目黒蒲田電鉄大井町線(大井町線)が開通したのも、宅地開発を急加速した要因だった。

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稲荷坂(緑が丘)

寺郷の坂の岡田長屋門の前の丁字路を南に行く路地がある。 九品仏川と呑川に削られて荏原台に出来た岬のような突端にあるのが東京工大の緑が丘キャンパス。 その台地の岬の南側(九品仏川側)にあるいくつかの坂道の内の東側の坂が稲荷坂である。 住宅街のあいだを下っていく。 また九品仏川の古い名前は丑川と呼ばれていた。

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この道が開かれたのは関東大震災の後。 震災前の地図には散り散りに農家が見られるだけの斜面だが、震災後昭和に入ったころには多くの民家が立ち並ぶようになった。 この辺りも都心の震災から逃れて来た人々の宅地だったのだろう。

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震災前の地図(大正前期)を見ると坂下あたりに鳥居の地図記号が載っている。 これが坂の途中にあったという、名主岡田家の建てたお稲荷さんだったのではないか。 それが稲荷坂の名前の由来である。

この辺りは東谷畑と呼ばれる場所で、現在の自由が丘駅北側辺りは西谷畑、その間が中谷畑といった。 自由が丘には谷畑坂がある。昭和に入ってからの町名変更で谷畑の地名は消え、緑の多い高台という意味で緑が丘となった。

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寺郷の坂(中根)

鉄飛坂とは相対する位置の坂で、呑川が削った谷が形成した坂道である。緑ヶ丘駅辺りで九品仏川が呑川に合流するが、その二つの川の間で岬のようになった丘から東に下る坂と南に下る坂がそれぞれある。寺郷の坂は東に下る坂。鉄飛坂の途中から寺郷の坂を遠望するとなかなか壮観。

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坂途中の「岡田家長屋門」前に目黒区が設置した標識がある。
「この坂上には立源寺があり、かつてこの周辺を「寺郷」といった。また、この坂は江戸時代、九品仏へ向う道で、この辺りい水茶屋があったため「衾の茶屋坂」とも呼ばれていた。」

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岡田長屋門は名主岡田家の屋敷。昔この辺りは「岡田の森」と呼ばれ、森の裾を流れる呑川には水車があった。風格のある母屋や長屋門は江戸時代の建築である。裏手にある中根公園も岡田家の屋敷の敷地内であった。門の裏の母屋には今もお住いのようである。

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寺郷の坂は別名茶屋坂とも呼ばれたが、江戸時代の初め、衾村の寺郷(この辺りの地名)に奥沢の九品仏浄真寺参りの参詣客を当て込んだ4軒の水茶屋があったことによる。一休みするのに格好の場所にあったのがこの寺郷の坂周辺だったようである。

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寺郷の意味を目黒区では立源寺(りゅうげんじ)があったこととしている。寛永元年(1624)の開基で、碑文谷の法華寺の僧が開いた。しかし寺郷というのに寺は1軒のみというのがいささか違和感あり。道家剛三郎氏は宮前に対して寺郷という地名にしたのではないかと推察していた。目黒通りの向こう側にある氷川神社と対比したのだろうか。

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2018年1月28日 (日)

鉄飛坂(中根)

地元の人が使う抜け道で、環状七号線の南交差点付近から八雲に抜ける道がある。 柿の木坂の渋滞を避けられる。 この道は尾根筋の環七から呑川(暗渠)に下り自由が丘に上っていく。 自由が丘駅は台地ではなく、呑川支流の九品仏川沿いにある。 駅の南側を九品仏川緑道が暗渠として残っている。

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坂上に目黒区の標柱がある。

「てっぴとは山頂、てっぺんを意味し、それが坂名になったといわれているが、他にもポルトガル人テッピヨウスという人物が住んでいたからや、鉄砲鍛冶が居たからなど諸説ある。」 と書かれているが、諸説はさまざまである。

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古い地図にも鉄飛坂の名前は記載されており、大正期には小字も鉄飛となっている。 諸説のいくつかについては、徳川幕府初期のころポルトガル人のヒモンヤスとテッペヨースから佐渡金山の技術改善のためのアドバイスを受けたという記録があり、そのテッペヨースが由来というのがある。 ヒモンヤスというのも碑文谷に遠くないので面白いが、いささか怪しい説とも思える。

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坂上に帝釈堂があるが、ここには6体の鉄飛坂庚申塔群がある。 時代的には1680年から1881年までと開きがあるが、4体の堂内の碑については見られないものの、堂外の2体は常時見ることが出来る。 堂外のひとつは道標になっており、「右はほりの内 左は池上」と彫られている。 堀の内が杉並の堀の内という説もあるが、明治時代の和田堀内村の前の和田村、堀の内村時代の堀の内を指している可能性はありそうである。

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2018年1月27日 (土)

柿の木坂

柿の木坂は昔はかなり急な坂道で、目黒から二子へのこの街道を二子街道と呼んでいたが、二子街道の難所として有名であった。 坂下には立ちん坊(荷車の後押しをして小銭をもらう者)もいたという。 世田谷方面の農家は神田や京橋の市場に野菜を出荷していた。途中の柿の木坂はその傾斜が難所で、数人で協力し合って荷車を上らせたとも伝えられる。

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現在の緩やかな傾斜からは想像もつかないが、都市開発によって多くの坂はなだらかになっているのである。  古老の話では柿の木坂が一番難所で二番目が権之助坂だったというから、相当な坂道だったのだろう。

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坂の途中に東京都の立てた説明板がある。 ここも落書きで読みにくい。

「坂の途中に人目につく大きな柿の木があったので、この名がついたといわれる。 また、近所の子どもが、この坂を通る野菜を運ぶ荷車から柿を抜き取ったため、「柿抜き坂」が変わって「柿の木坂」になったという説もある。 目黒通りが今のように広くなる前は、現在の東横線高架橋の高さまで登る急坂であった。」

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この坂を形成したのは呑川である。 都立大駅前で上馬から流れてきた支流を合わせて流下していたが現在は暗渠である。 柿の木坂の周りには清水がたくさん湧いていたそうだ。 呑川もきれいな川でフナ、鯉、鰻が獲れたという。 呑川という名前は一般的にはきれいで飲料にできる水の川につく名前なので不思議はない。

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2018年1月26日 (金)

どぜむ坂(碑文谷)

環状七号線と目黒通りの交差点は柿の木坂陸橋で立体交差している。 環七は概ね尾根筋を走っており、目黒区のこの辺りはわかりやすい。 柿の木坂陸橋より都心側がどぜむ坂、外側が柿の木坂になって下っている。 碑文谷には1975年から昭和の東京を象徴するダイエー碑文谷店があったが、2016年にイオンスタイルに変わってしまった。消えゆくダイエーをを見るたびに昭和が遠のく気持ちになるのは年配者にはお解りいだだけると思う。

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そのダイエー前から柿の木坂陸橋までがどぜむ坂である。 スーパーオオゼキの前に東京都の説明板が立っている。

「坂名の〝どぜむ″は堂前(どうぜん)の意味で、昔このあたりの道端にお堂があったことから〝どぜむ坂″と呼ぶようになったといわれる。また、この土地の〝土左衛門″なる人が開いた坂なので〝どざえもん坂″、それがなまって〝どぜも坂″と呼ばれるようになったともいわれている。」

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坂下は大正期まで田んぼと雑木林で、現在の立体交差の辺りを殿山と呼び目黒村と碑衾村の境界だった。 柿の木坂やどぜむ坂を上ってきた人々はこの辺りで一休みするので、江戸時代の後半には茶屋や団子屋でにぎわっていたという。

碑文谷の由来は諸説あるが、碑文谷八幡宮に残る碑文石にまつわるというのが通説のようである。 また目黒通りは古い街道で、権之助坂を下り碑文谷を経由して等々力に抜ける現在のルートと同じだが道筋は蛇行していた。

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目黒名物は筍(たけのこ)が有名で、昔はあちこちに竹林があったが、大半が消えてしまった。その中でどぜむ坂の東側にある「すずめのお宿」には素晴らしい竹林が残されている。 昭和初期にはこの竹林には数千羽の雀が住んでおり、地元の人々がそう呼んだ。 園内には古民家がある。 衾村の旧家栗山家の母屋を移築したもの。

すずめのお宿の先には碑文谷八幡宮もあり、周辺は散策が楽しい。

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2018年1月25日 (木)

三折坂(目黒)

目黒不動の入口になっている仁王門。 その手前西側に池があり、滝見茶屋と豊川稲荷、恵比寿様がある。 元は羅漢寺川の水でできた池かと思われる。 その先がバス停で、目黒不動を訪れるとよくもまあこんな路地をバスが走るものだと感心する。

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その西門(江戸時代の絵図では裏門とある)を出て境内に繋がる崖線に向かって上っていく坂が三折坂である。 坂下の標柱には、「三つに折れ曲がった形状から三折坂と呼ばれるようになった。また、目黒不動への参詣者が、この坂を降りていくので、「御降坂(みおりざか)」とよんだとも言われる。」と書かれている。

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昔は坂上は土山という竹藪や林で、斜面の下は谷戸と呼ばれる谷筋であったので、タケノコや栗が採れたという。 当時の目黒不動では名物として、春はタケノコ飯、秋は栗ご飯が売られていた。 

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江戸名所図会にも三折坂は描かれているが、裏参道だけにかなり広い道であったようだ。 ただし曲がり方は現在と同じと思われる。 坂上の公園前の路地を東に進むと甘藷先生(青木昆陽)の墓がある。江戸時代中期の儒学者、蘭学者だが、享保の飢饉の折に、薩摩から種芋を取り寄せて各地に配布し、栽培方法を教えて、関東一帯にサツマイモの栽培を広めた。 それが江戸時代の飢饉対策になり、庶民からは甘藷先生と呼ばれたという。 この辺りには無名の好坂があるが別の機会に紹介したい。

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2018年1月24日 (水)

目黒不動女坂

崖の上(山の上)にある参拝者の多い寺社には、まっすぐに上る急な階段の男坂、少し迂回しながら踊り場を付けたりして緩やかにした女坂がある場合が多い。 都内の主だったものを挙げると、神田明神、湯島天神、赤坂日枝神社、市谷亀岡八幡宮、愛宕神社、穴八幡宮など例が多い。 目黒不動もその一つである。

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また男坂女坂は登山道につけられている場合もある。高尾山は参道か登山道かは微妙だが、蛸杉の先で男坂の階段と女坂のう回路に分岐している。 しかしたまに急峻さが同等あるいは逆転している場合もある。逆転していると思えるのは駿河台の男坂女坂で、どうみても女坂の方がきつい。 同じくらいというのは神田明神の男坂女坂である。ただし神田明神の場合の女坂はもともとは嬬恋坂方面に下る坂だったが神社では「旧女坂」扱いになっている。

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目黒不動の女坂は文字通りの女坂である。ステップも広く、歩きやすい。 江戸時代の切絵図をじっと眺めてみたがそれらしい階段が描かれているようだ。

目黒不動の高低差は石古坂のところで書いた羅漢寺川という沢が削った地形である。羅漢寺川は現在の不動小学校の辺りを源頭にして、林試の森公園の北側を流れていた。 現在も暗渠が残っている。 不動の下を流れた川は五百羅漢寺前を流れその先で目黒川に注いでいた。 羅漢寺川の由来はこの五百羅漢寺だと思われる。

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目黒不動男坂

目黒不動は江戸の一大観光地であった。天台宗泰叡山龍泉寺が正式名。上野寛永寺の末寺で、慈覚大師が大同3年(808)に比叡山に向かう途中、中目黒で宿をとった折、神人の夢を見た。その後大師が唐に留学して、ある日長安の青竜寺を訪れ不動明王を拝んだところ、中目黒で夢を見た神人と同じ姿だった。大師は帰国後、すぐに不動尊像を彫り目黒の地に安置した。その後平安2年(858)にお堂を造営したのが泰叡山龍泉寺の始まりとされる。

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江戸時代になり、寛永7年(1630)に上野護国院の末寺となり、将軍家の保護を受けるようになった。きっかけは徳川家光が目黒に鷹狩りに来た折に、鷹が行方不明になり、それを目黒不動の僧に祈らせたところ、鷹が無事に帰ってきた。家光は深く不動を信仰し、寺の堂塔の建て直しも行った。

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目黒不動男坂は47段の石段で真ん中に鉄製の手すりがあるが、傾斜は相当急である。上り口に独鈷の滝があり、慈覚大師が独鈷を投げたところ湧き出したとある。いわゆる台地の縁の湧水であるが、いまだに枯れたことがないと札には書かれていた。日照りで清水が枯れることはあまりない。どちらかというと地震で止まることの方が多い。なぜなら湧水は時には何十年も地下を流れてから地表に出ることがあるからである。

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たださすがに東京都内の開発の影響が出たのだろうか、最近は往年のような水量ではなくなったらしい。都内の湧水がひとつまたひとつと枯れていくとすると、それは過度な都市開発によるものだと思う。守りたいものである。

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2018年1月23日 (火)

金毘羅坂(目黒)

目黒通りの坂。 山手通りとの立体交差の大鳥神社から碑文谷方面に上る。 大鳥神社の前の歩道に東京都の石柱説明がある。

「坂の西側に金毘羅権現社(高憧寺)があったので、坂の名がついたといわれる。金毘羅権現社は、江戸名所図会の挿絵にその壮観がしのばれるが、明治の初めに廃寺となった。坂の東側には、明治40年に目黒競馬場ができ、昭和8年に府中に移転するまで、この坂は競馬場にゆきかよう人びとでにぎわった。」

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江戸時代、大鳥神社は目黒不動、金毘羅権現と合わせ目黒三社と言われ人気の高い神社だった。 創建は大同元年(806)で目黒区内で最も古い神社である。毎年11月の酉の市は有名。境内には天然記念物の大アカガシがあったが枯れてしまった。また境内には古い石塔が複数あり、神社の歴史を感じさせる。

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目黒通りは幅広く坂を感じさせないが、ここは14mほどの標高差があるので走っていても坂であることがわかる。 坂上の目黒寄生虫館は意外にもデートスポットだという。 その先には元競馬場という交差点とバス停がある。
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昭和8年まであったという競馬場は、現在も街路にそのまま周回路が残っていたりして痕跡を見せてくれる。 湯面から入る道は元競馬場通りという通り名。 また目黒通りにはトウルヌソル像という馬の彫像がある。 日本ダービー初代優勝馬ワカタカの父で、計6頭のダービー馬を子に持つ名種馬だというが、私は知らなかった。

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