2022年8月18日 (木)

赤稲荷神社の庚申塔(江戸川区松江)

江戸川区松江にある赤稲荷神社の創建は不詳。首都高速の用地買収で窮屈になってしまったが、昔はもっと広い境内だったという。赤い社殿から赤稲荷と呼ばれているが、各地に赤稲荷と呼ばれる稲荷神社は時々見かける。もともと稲荷神社のイメージカラーは赤だが、屋敷稲荷などになるとそうでないものが多い。

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赤稲荷神社の鳥居と社殿を見上げるとその向こうに首都高速小松川線の高架が圧迫するように覆っている。稲荷神社の境内が周辺に対して1m余り高いのは盛土されたのだろうか。

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フェンスに寄せるように立っている駒型の庚申塔は正徳3年(1713)9月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で野ざらしにしては保存状態は極めて良い。

場所  江戸川区松江1丁目1-7

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2022年8月17日 (水)

東善寺の石仏(江戸川区松江)

江戸川区松江にある東善寺は真言宗の寺院で創建は戦国時代の1500年代とされる。現在の本堂は鉄筋コンクリート造りで昭和45年に建てられたもので、山門(門扉)などもモダンな造りになっている。この辺りは昔は東小松川村の中でも新道と呼ばれた場所で、千葉街道からまっすぐに江戸川の今井に新道(今井街道)が通っていた。

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ちなみに前述の今井街道沿いに1925年に鉄道が敷設された。東荒川駅~中之庭~松江駅~一之江駅~瑞江駅~今井駅という路線で、城東電気軌道という路線。しかしうまくいかず1942年には東京市電の一部に組み込まれ、鉄道はトロリーバスになり、1968年にはそれも廃止になった。

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境内に入ると本堂前から左に進んだところに、庚申塔が3基並んでいる。右の駒型の庚申塔は天明5年(1785)の造立で月は欠損していて読めない。日月、青面金剛像、邪鬼で三猿は見えないが、基壇には家内安全と大きく書かれている。右側面の紀年に対して左側面には道標らしき文字があるが「江八こう中」と読める。こう中は講中であろう。江八はわからない。中央の大きな駒型庚申塔は天保12年(1841)7月の造立で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿(台座)の図柄でショケラを下げている。左の駒型庚申塔は紀年が見られない。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、かなり摩滅が進んでいる。基壇の文字だが申申申と3つ並んでいるように読めて謎である。

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墓所入口にはこの舟型光背型のとろけ気味の地蔵菩薩像があった。光背部に文字が刻まれていたようだが、摩滅していてほとんど読み取れない。近くには享和2年(1802)2月造立の宝篋印塔もあったが、そちらはどうも一個人(一家)で建てたもののようで、江戸時代末期の豪農だったのだろうか。

場所  江戸川区松江1丁目4-4

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2022年8月16日 (火)

民家内の庚申塔(江戸川区東小松川)

首都高速7号線小松川ICの入口で、自動車以外は侵入できない入路の前に茶色いレンガ色のビルが2棟あり、その二つのビルの間に小さな箱庭のようなスペースがあって、そこには庚申塔が1基祀られている。

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首都高と30度ほどの角度で交差する道があり、耕地整理でできた道かと思ったら江戸時代からある道らしい。このすぐ東が「新道」と呼ばれた地域で、見事に千葉県境の今井橋まで直線で繋がっている。道筋は江戸時代から変わらない。小松川IC下の庚申塔のある民家敷地の入口は施錠されていて外から拝見するしかないが、私有地だから致し方ない。フェンスの上から覗かせていただいて撮影した。

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駒型の庚申塔で、台座青面には三猿が彫りこまれている。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄である。造立年は右側、つまり道路側の面に刻まれており、文政7年(1824)とあるが月の部分は欠損していて読み取れない。その下には願主名が続いているようだ。

場所  江戸川区東小松川2丁目9-5

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2022年8月15日 (月)

親水公園前庚申堂(江戸川区東小松川)

小松川境川親水公園を流れる水は再生水である。首都高速7号小松川線の小松川IC脇で水が出ており、南方向に流れている。境川と呼ばれた川があったのは昭和の高度経済成長期あたりまでで、それ以降は暗渠になった。東京の多くの川が暗渠にされたのは東京オリンピック直前で、臭いものに蓋をする政策によるものである。

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境川の左岸、東小松川村側に小さな堂宇があり、その中には庚申塔が祀られている。首都高速道路が出来る以前、ここには椎橋という橋があり、そのたもとにあったものだろう。昔の地図で西蓮寺だったところは現在は梅澤邸になっており、西蓮寺は東隣に移転しているが、これも珍しいケースである。

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堂宇は施錠されていないので拝顔させていただいた。駒型の庚申塔で、基壇に三猿が彫りこまれている。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で若干粗削りな感じがする。左側面に文政13年(1830)9月の造立年がある。石川博司氏の記録には文政3年とあったが、書き換えの様子はない。

場所  江戸川区東小松川2丁目9-23

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2022年8月14日 (日)

仲台院西方寺の石仏(江戸川区西小松川)

仲台院は小松川境川の西側にあるので西小松川村である。仲台院(ちゅうだいいん)の創建は天文8年(1539)。徳川八代将軍吉宗の時代から将軍の御膳所になった。吉宗は頻繁に紀州から呼び寄せた鳥の管理役の加納甚内が住むこの地に来て鷹狩りを楽しんだという。

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山門右側の西小松川保育園は仲台院の経営らしい。お寺には保育園や幼稚園を併設するところも多く、私も60年ほど昔、寺院経営の幼稚園にいたが、歌う歌が友人の行くキリスト教系の幼稚園とは違うのを不思議に思ったものである。その山門の手前に2基の庚申塔が並んでいる。

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右側が元禄12年(1699)11月造立の駒型庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄である。右肩に「奉造立庚申供養」と刻まれている。左側は駒型の庚申塔だが、日月と青面金剛像は認識できるものの、それ以外は溶けたようになっており判別がつかない。三猿に関しては基壇にそれらしき痕跡があるように見える。造立年は不詳。

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山門を入ると左に自然石の弁財天がある。大きなものだが、上部に大蛇の図柄がありどうも顔があるように見える。弁天様はいろいろな形があるがこのパターンは珍しいと思う。紀年等は分からない。

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弁財天の後ろには無縁仏がいくつも塀沿いに置かれているが、手前には2基の丸彫の地蔵菩薩像が建っている。ただ蜘蛛の巣が張っていて、保育園児も足を踏み入れてない様子。造立年等は全体を見てみても分らなかったが、左の小さい方の地蔵には「三界万霊」と書かれていた。

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無縁仏の多くは墓石なのだが、この舟型光背型の地蔵は違いそうである。造立年は享保18年(1733)6月とあるが、戒名などは一切記されていない。しかしどこにあったものでどういう謂れがあるのかなどは皆目わからない。

場所  江戸川区西小松川11-17

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2022年8月13日 (土)

永福寺の石仏(江戸川区東小松川)

小松川境川親水公園の緑道の東側に宝積院と永福寺が並んでいる。永福寺の入口は路地を入った奥にあり、なぜこういう入口なのだろうと不思議に思った。昔の地図をいくつか見てみたが境川の流れを挟んで江戸時代から沢山の人家があり、どのルートがメインという形ではなかったようで、この路地もちゃんとした重要な生活道路だったのだろう。

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門をくぐり、林の中の道を奥へ進んでいくと新しい立派な山門が建っていた。左右には阿形吽形の木像があり、相当立派なものである。まずはこの山門をくぐり本堂にお詣りする。

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本堂手前の墓所入口辺りには、善照寺と同じように大きな宝篋印塔と対の燈籠がある。善照寺も永福寺も同じ真言宗の寺院で、永福寺は1500年代中頃の開山とされる。宝篋印塔は宝暦14年(1764)2月の造立で、「武刕葛飾郡東小松川村」の銘がある。手前の対の燈籠は個人の供養塔らしくこれは善照寺と異なる。燈籠の造立年は天和元年(1681)12月である。

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山門に戻り林の道の北側に2基の石仏が建っている。左は不動明王像で、裏側に寛政4年(1792)9月の紀年がある。基壇には「万人講」とあり、側面には「南無興教大師」「四國三十四番土州種間寺写  永福寺」とある。種間寺は四国八十八ヶ所霊場の第4番札所。右の石仏は駒型の庚申塔である。造立年は安永8年(1779)6月とあり、右側面には「奉造立庚申」とある。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、青面金剛は左手にショケラを下げている。基壇には「入庭講中」とある。「入庭」というのは集落名で、東小松川村には大江川、上の庭、新道、中の庭、入の庭、渡し場、品清という集落があってその一つ。入の庭には今も水神講があり祭礼を行っているという。

場所  江戸川区東小松川2丁目1-15

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2022年8月12日 (金)

善照寺の石仏(江戸川区東小松川)

善照寺は真言宗の寺院、創建年代は不詳ながら、1500年頃とされ、江戸時代初期に中興している。慶安元年(1648)には幕府より御朱印状を拝領し、元禄時代に寛永元年に横綱となった明石志賀之介が引退相撲を境内で行ったことからそれ以降毎年草相撲が行われ、相撲寺と呼ばれるようになったという。江戸時代は大関が最高位で番付上横綱はなかったが、大名の後押しでプラスアルファの役付けとして存在したらしい。

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門の奥には立派な山門があり、いかにも大きな寺院だったことが分かる。小松川周辺は大正時代以前は荒川が掘削されていないので、中川以東は陸続きの平坦な農地だった。現在の小松川緑道の北西側が西小松川村、南東側が東小松川村で、善照寺は東小松川村にあった。すぐ西には善通寺という寺があったがこれは今の江戸川競艇場辺りになる。また小松川を挟んで来たには神明祠があり今は西小松川天祖神社となっている。

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本堂手前右側には大きな宝篋印塔が対の立派な燈籠を露払い太刀持ちのようにして立っている。宝篋印塔は享保12年(1727)10月で、手前の対なる燈籠は天明4年(1784)3月の造立。燈籠にはそれぞれ「奉為高祖九百五十遠忌報恩謝徳也」とあるので、弘法大師空海の遠忌塔として建てられたのだろう。

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山門近くに多くの無縁仏が集められている場所があり、様々な石仏があって面白いのだが、その中に複数の興味深い石仏があった。上の写真は頂部と脇が欠損しているが、地蔵菩薩像の左肩に「庚申待供養(結衆)」という文字が見える庚申地蔵である。左下に紀年があるようだが見えない。寛文12年(1672)8月とあるようだ。

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前述の庚申地蔵は上の写真於右下のものだが、そのすぐ後ろに頂部が欠損した青面金剛像が見える。現在は石仏の間が詰まっていて文字を読むことができないが、下の方に宝永8年(1711)2月の紀年があるという。主尊は青面金剛なのだが、三猿などは無いようである。その後ろの自然石による巡拝塔は「月山・湯殿山・羽黒山 奉造立…」とあり、裏側に回ると弘化2年(1845)11月の造立年が見られた。

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無縁仏塔の反対側(左側)には六地蔵と八観音がきれいに並んでいる。どれも同時代に造立されたもののように見受けられるが、六地蔵はすべて座像で、基壇のひとつに天明3年(1783)の造立年が刻まれている。後ろの左から4番目の観音は馬頭観音である。これだけ揃うと誠に壮観で、しばし見入ってしまった。

場所  江戸川区東小松川3丁目3-19

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2022年8月11日 (木)

アモール東和の庚申堂(足立区東和)

ローカルな商店街がどんどん寂れていく中で足立区東和にあるアモール東和もまた例に漏れない。JR常磐線亀有駅の北西にあり、数百mの長さの商店街だが営業している店もかなり少なくなっている。アモール東和の道筋は足立区だが、並行する南側の道は足立区と葛飾区の区境になっている。

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この区境の道はもとは古隅田川の川筋であった。その川筋がそのまま現在まで区境になっているわけで、当然ながら江戸時代は北が蒲原村、南が砂原村で村境であった。アモール東和と川筋の道との間は僅かなので、商店街は建物の表がアモール東和側で裏が川筋の道側となっている。

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二つの道の間は10mあるかないかで、そこには黒御影石の庚申堂の由来が立っていた。「先人が昭和30年(1955)に、①旧流山街道ぞ笈の東和2丁目8番地中央に、上部が欠損し半ば埋もれていた庚申塔があったのと、②東和1丁目9番地西角の路傍にあった庚申塔、この二つをここに移設し新たに堂宇を作り信仰してきた」とある。①は現在は大きなマンションになっている庚申堂の北側の区画、②は現在はまだ畑地になっているあたりだと思われる。

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①の庚申塔は左の上部が斜めに切れた方で、三面に一猿が陽刻されている。上部が欠損しているので紀年などの文字は殆ど分からず、ただ「道」の崩し字が見え、上部が道標になっていた可能性が高いと考えられている。②が右の駒型の庚申塔だが、こちらも造立年は不明。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が陽刻され、ショケラがぶら下がる。左側には「右 千住宿 左 飯塚渡 道」、右側には「此方成田道」とあるようだ(資料にて確認)。ここから数百m南には水戸街道が走っていたので、成田道は想像がつく。飯塚の渡しは昭和30年まで中川の渡しとして大谷田~南水元の間にあった。今は飯塚橋が架かっている。

場所  足立区東和2丁目3-7

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2022年8月10日 (水)

円性寺の石仏(足立区東和)

真言宗の円性寺は江戸時代初期の開山とされる。訪問時は境内の大掛かりな改修工事が行われていた。山門は飾り気のないもので、山門を入ると正面に本堂があるが、この本堂は昭和57年(1982)に再建されたもの。円性寺は「えんしょうじ」と読む。

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この辺りは東和という地名になる前は昭和中期まで蒲原(かばら)町といい、すぐ南が北三谷町であった。農村地帯で水路があちこちに張り巡らされた平坦な土地だったが、江戸時代の初期にこの寺に墓所のある河合平内なる人物らが開拓した。

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山門内すぐ左側には堂宇があり、願掛け地蔵の石碑が立っている。堂内には丸彫の地蔵菩薩像が祀られていた。造立年は享保12年(1727)9月とあり、「施主 源兵衛 女講中」と書かれている。地蔵講なのか念仏講なのかは分からない。

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山門入って右側には2基の角柱型の石塔が立っている。右側は真言宗の寺院には必ずと言っていいほどある弘法大師供養塔で、造立年は天保5年(1834)3月。正面には「南無遍照金剛」とあり、基壇前面に「惣且中」と書かれている。惣且中の意味は分からない。左の角柱は巡拝塔で、正面には「坂東西國秩父百番供養塔」とあり、造立年は文化2年(1805)9月。蒲原村や北三谷村の願主名が見られる。

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墓所の方に回り込むと、3基の庚申塔がまとめられていた。中心は大きな笠付角柱型の庚申塔で、擬宝珠もきれいに残っている。側面には蓮の華葉が陽刻され、正面には青面金剛像、その下に一猿、一鶏が彫りこまれている。この組み合わせは極めて珍しい。造立年は寛文6年(1666)10月で、「奉造立庚申供養二世安樂処」と書かれている。江戸時代の庚申信仰が広まり始めたころの初期のものである。

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左後ろにあるのは駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄である。造立年は宝暦9年(1759)9月で左側面に刻まれていた。

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右側にあるのは駒型だが文字が刻まれた庚申塔である。「奉▢立庚申橋供養二世安樂」とあり「施主 同行 拾五人敬白」と書かれている。円性寺の北側の環七南通りはもともと用水路だったところに造られた道で、橋はあちこちにあったと思われ、橋の供養塔も兼ねているのだろう。下部に凸凹が見られるが、じっと見ていると三猿が描かれていたのではないかと見えてくる。ただかなり剥離と摩滅が進んでいるので確かではない。

場所  足立区東和1丁目29-22

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2022年8月 9日 (火)

高木神社の庚申塔(葛飾区西亀有)

西亀有の高木神社は、国府台の合戦に敗れた里見氏の家臣武内家がこの地に住み、氏神第六天を祀ったのが始まりとされる。国府台(こうのだい)合戦というのは2回あり、第一次が天文7年(1538)に足利氏対北条氏で北条氏の勝ち。第二次が永禄6年(1564)に里見氏対北条氏で北条氏の勝ち、という戦国時代の合戦である。北条氏は鎌倉幕府の北條ではなく、小田原北条氏で、秀吉に滅ぼされるまで関東の最有力大名だった。

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高木神社は江戸時代には第六天社として砂原村の鎮守となっていたが、明治維新の神仏分離で高木神社となった。庚申塔は境内にあるのではなく、境内の入口の鳥居前は写真のような三角の森になっており、そのとば口に祀られている。

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駒型の庚申塔だが、剥離や摩滅が進んでおり文字を読み取ることはなかなか難しい。上部にかすかに日月が残り、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、青面金剛像の足元で中折れして補修してある。造立年は享保3年(1718)11月とあるが、右の文字は欠損していて読めない。葛飾区の資料によると「奉造立庚申供養二世安樂処」と書かれていたようだ。

場所  葛飾区西亀有4丁目15地先

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2022年8月 8日 (月)

善養寺の石仏(葛飾区西亀有)

浄土宗南照山善養寺は目立たない寺院。江北橋通りに面しているが大きな山門はない。しかし門前の江北橋通りはかつての水戸街道である。この辺りの古い地名は砂原といい、水戸街道に面して民家が集まっていた。元禄時代から続いた砂原町の地名は昭和40年に西亀有の一部に改められた。

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砂原は昔、東京低地が陸化する際に後退した海岸線付近に出来た砂州がもとになっているらしいが、この地の海抜は+0.4m、それでも周辺はマイナスだから少し高いと言えそうだ。門扉を挨拶をしながらくぐらせていただき境内に入る。

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境内に入ってすぐに目に入ってくるのがこの3基の石仏。中央の大型の舟型光背型の石仏は阿弥陀如来像で、寛文3年(1663)正月の造立。右側には「為師聖父母菩提修是」とあり、左には「三回有縁無縁平等利益」とある。右の駒型の庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、造立年は享保3年(1718)10月。「奉造立供養庚申 武刕西葛西領砂原村講中」の銘がある。左にある小さな舟型の石仏は如意輪観音像で、右に「一心供養」とあり、左には明和元年(1764)1月の紀年がある。

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その先にあるのは舟型光背型の六地蔵菩薩。造立年は一部のものを参考にすると元禄10年(1697)と思われる。刻銘は右から「輪廻生死焼罪苦」、二番目は紀年に加えて「奉供養六道地蔵二世安樂所」、「実相成就風颯之」、「法▢無作遊阿土」、「奉造立六地蔵 十方旦那二世安樂処」と刻まれている。やはり6基セットで組まれたものであろう。

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六地蔵の右後ろ、ヤツデの影にあったのが舟型光背型の庚申地蔵である。造立年は寛文12年(1672)8月。右側に「法寄進庚申供養」とあるので庚申地蔵と判定した。上部や側部が若干欠損しているがきれいに保たれている。

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もう一基目立っていたのがこの丸彫の地蔵菩薩像。造立年は元禄11年(1698)7月である。蓮台に「奉造立念佛供養 為仏果増進也」とある。どうやら女念仏講中によるものらしい。おそらく江戸時代に入って100年ほど経った頃、ここは水戸街道沿いで多くの旅人が通っていたことだろう。そんな想像ができる境内の石仏であった。

場所  葛飾区西亀有3丁目43-5

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2022年8月 7日 (日)

下河原公園の庚申塔(足立区東綾瀬)

下河原公園は地元では鬼の城とか鬼公園と呼ばれている。というのも鬼ヶ島をモチーフにした大きな遊べるモニュメントがあるからだが、この公園の南側を走る緩やかなカーブの道が足立区と葛飾区の区境になっている。江戸時代は下河原公園の辺りは北三谷村、綾瀬駅周辺から南は普賢寺村だが、この緩やかなカーブの南は上千葉村という別の村だった。この道は実はかつての古隅田川の流路なのである。

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庚申塔群があるのは南側ではなく北東の角。ちなみに古隅田川の南側の上千葉村には旧水戸街道が青戸に向かって通っていた。青戸で中川にぶつかって道のまま東には行くことが出来なかったのである。そういう場所ということもあって、庚申塔の脇には道標が立っていた。

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正面には「水戸街道」とあり、左面には「大正四年(1915)東渕江村青年会」と刻まれているので、元は水戸街道沿いにあった可能性が高い。右面には「本村大谷田渡船場ヲ経テ二合半方面 至 ▢里余」「綾瀬村経テ千住町至ル▢三十丁」と記されている。二合半という地名はこの辺りの石仏石塔に時々出てくる。今の三郷あたりのことで、関東郡代の伊奈氏が徳川家康にこの土地を一生(一升)支配(四配)することを命じられたことから、一升の1/4の二合半(二郷半)という地名になったと言われる。なかなか粋な地名である。

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庚申塔は右端から、角柱型の文字塔で「奉供養庚申塔」と大きく書かれており、造立年は安永6年(1777)正月とある。下部に「講中」の文字があり、「左 江戸道  右 六阿ミ陀道」という道標の役割もある。その左にあるのは真新しい板碑型の庚申塔。左側面を覗くと平成8年(1996)9月の造立年が見える。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれ、ショケラもぶら下げている。

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隣りの駒型の庚申塔は文久2年(1862)12月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、左側面には「庚申講中」と大きく書かれている。その左の像形像容不明の石仏だが、推測するに平成の庚申塔を立てる前の古い庚申塔なのではないだろうか。戦災で見る影もなくなってしまい、平成まで活動を続けてこられた庚申講中によって再建されたのではないかと思っている。それほど古い事ではないので、文献を探していけば経緯が分かるかもしれない。

場所  足立区東綾瀬1丁目11番地先

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2022年8月 6日 (土)

宿の庚申塔(足立区東綾瀬)

綾瀬駅から北東へ道なりに進むと江北橋通りを越えた先に堂宇がある。明治大正時代までは東渕江村宿添という地名だった辺りだが、元は宿(しゅく)という土地だったようだ。堂宇の脇に御影石の道標があるが、殆ど文字は読めない。説明板には詳しく書かれている。右面には「水戸街道を経て向島方面」、正面には「二合半及び松戸町 二里」「綾瀬村を経て千住方面 二十丁」、左面には「大正四年東渕江青年会」とあるようだ。

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宿という地名の由来については、「旧二合半流山道より南にやや離れて蛇行した川(現在暗渠)は南を葛飾区と境をなす古隅田川。治承4年(1180)10月、下総より武蔵を経て鎌倉入りする源頼朝が古隅田川の沿岸の隅田宿に宿陣、このことから宿と呼ばれた。

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堂宇の中には駒型の庚申塔が祀られている。造立年は元禄13年(1700)8月。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄である。「奉造立庚申供養石像一体二世安樂所」と書かれている。ちなみに宿はその昔普賢寺村という村に属しており江戸時代の切絵図にはくねっている古隅田川の流路の巾着のような地形の中が普賢寺村になっている。この庚申塔は普賢寺村の北の端、北三谷村との村境にあったものではないだろうか。

場所  足立区東綾瀬1丁目19-19

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2022年8月 5日 (金)

円泉寺の石仏(足立区加平)

足立区加平にある円泉寺は浄土宗の寺院。正保3年(1646)の開山。この辺りは当時嘉兵衛新田と呼ばれ、名主伊藤嘉兵衛と同じころ開拓に加わった吉田家が中心になって建てられたようだ。

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円泉寺には多くの石仏が保存されている。山門を入り左側にずらりと並んでいるのは壮観である。地蔵あり、庚申塔あり、供養塔あり、宝篋印塔ありと多彩だがどれもなかなかのものであった。

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一番奥にあったのは舟型光背型の六地蔵。きれいにそろっている。基壇には造立年の明和4年(1767)11月という記述に始まり、「邑中 庚講中 」と書かれており、庚申講中による六地蔵の可能性もある。

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六地蔵の手前には5基の庚申塔が一つの台に載せられていた。それぞれ大きさと像形が異なっていて面白い。自然石庚申塔1基、駒型庚申塔3基、舟型庚申塔1基が並ぶ。

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まず右端は自然石型の庚申塔で、正面には「庚申塚」の文字がある。造立年を探してみたがどこにもない。左の斜め側面には「當村大工八五郎 小合村大工茂八」の銘がある。小合村というのは馴染みのない地名だが、享保14年(1729)に古利根川の流路の付け替えが行われた当時今の水元辺りにあった村らしい。隣りの駒型庚申塔は寛政9年(1797)正月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で左手にはショケラを下げている。

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中央の舟型光背型の庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれたものだが、造立年が見当たらなかった。寺の説明板によると、施主名に弾誉上人吉田三右エ門の名があり、その人物は円泉寺の第12代住職で享保18年(1733)9月に没しているので、その当時のものと記されている。青面金剛の足下の辺りに文字が見えるが現在は読み取れる状態ではない。

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左の小さな2基の庚申塔は、右が青面金剛の駒型、左が文字の駒型である。右の青面金剛の像は、日月、青面金剛、邪鬼、三猿の図柄。側面に紀年が見えるが文政12年(1828)のようだ。しかしその下が読み取れない。左端の文字庚申塔は正面に「青面金剛」と刻まれ、こちらの造立年は文政11年(1761)12月とあるがこれもかろうじて読める程度。なぜか足立区の資料には宝暦11年と載っている。

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山門近くにあるのがこの剛健な宝篋印塔。こちらは文化6年(1809)7月の造立で、施主名が吉田増右衛門とある。やはり円泉寺は吉田家の銘が多いようである。

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もっとも山門側にあるのが3基の巡拝塔。右から櫛型の大乗妙典日本廻国六十六部供養塔で明和元年(1764)2月の造立。中央は南無阿弥陀仏為三界万霊とあるがこれも日本廻国六十六部供養塔で、寛永6年(1629)7月らしい紀年があった。しかしいささか古すぎることから嘉永6年(1853)の方が可能性が高いように思う。左も同じ供養塔で、こちらは文政元年(1818)12月の紀年である。

場所 足立区加平2丁目6-16

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2022年8月 4日 (木)

龍慶寺の石仏(足立区綾瀬)

水天宮を門前に持つ曹洞宗の渕江山龍慶寺は、正保3年(1646)の創建。開基は牛込五郎兵衛というが、この土地の西側がかつて五兵衛町と呼ばれていたのとは関係はなさそうである。山門は曹洞宗らしく質素な造りであった。

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右の屋根が別述した水神宮である。山門の手前にはいくつかの石塔があり、そのうちのひとつが自然石の敷石供養塔と思われるもので、何となく興味をそそった。

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正面には「奉納大乗妙典六十六部 天下泰平  日月清月」とある。ところが左面に回ると「中庭敷石建立 願主 金蔵」と刻まれている。右面には紀年があり、安永7年(1778)中春七日とあるが、中春は仲春のことで旧暦の2月。大乗妙典は法華経だから曹洞宗の寺院にあるのはちょっと違和感がある。

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山門を入り本堂に進むと手前に一対の大きな石仏がある。なかなか手の込んだ立派な石仏で、右が聖観音像、左が地蔵菩薩のそれぞれ座像である。足立区の登録有形文化財になっているとのことで、造立年は天保5年(1834)である。千住二丁目で幸手屋という旅籠をやっていた神谷万右衛門が千住四丁目の石工助七に彫らせて奉納したという。見事なものである。

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墓所入口に萬国戦死病歿者諸英霊追善供養塔なるものが建っているが、その基壇に1基の駒型庚申塔が載っていた。よく見てみると、造立年は明和2年(1765)で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、左手にはショケラがある。この庚申塔は綾瀬4丁目20-19から消えたもので、ここに移設されていたのを訪問時に初めて知った。

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無縁仏の集められている中に板碑型のいささか荒っぽい石塔があった。「念佚供養塔」とあるが念仏供養塔の誤字だろう。造立年は貞享5年(1688)10月とある。江戸時代は識字率が意外に高かったようだが、石仏石塔を見ていると誤字が随分と多いのもまた面白い。

場所  足立区綾瀬7丁目10-18

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2022年8月 3日 (水)

水神宮の庚申(足立区綾瀬)

JR常磐線綾瀬駅から北へ1.3㎞程の綾瀬7丁目、南北に伸びた綾瀬1丁目~7丁目で最も北にあるのが7丁目。そこにある龍慶寺の横に付随するように水神様がある。かつてこの辺りは五兵衛町と言った。それ以前は五兵衛新田である。

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ここに水神様が出来た経緯は分からない。もともと龍慶寺に付随する民間信仰の対象だったのだろう。伊勢信仰あるいは産土神として信仰されてきた。昔の若者の力比べを伝える力石もある。

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左側には駒型の庚申塔がある。造立年は宝暦6年(1756)11月で、日月、青面金剛像、三猿のシンプルな造り。「庚申講中」という文字が右下に刻まれている。その後ろには自然石を使った道標で、「成田山道 従是十六里 講中」と彫りこまれている。

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右側にはゼニゴケで白くなった手水鉢がある。側面の文字を読んでみると、正面には「奉納」と大きく書かれ、側面には「庚申子中」とあり願主名が10人銘見られる。反対側を見ると造立年は文政元年(1818)12月とある。仲右ヱ門、藤四郎の施主名も刻まれていた。

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鳥居を見上げると、鳥居に掛かった扁額の裏に文字が刻まれている。「奉献 吉田氏」「万延元年庚申歳 九月」1860年である。果たして庚申講中によるものかどうかはこれだけではわからない。しかし寺院の門前にこれだけ様々な民間信仰を想起させるものが残っているのは素晴らしいことである。

場所  足立区綾瀬7丁目10-8

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2022年8月 2日 (火)

下谷中稲荷神社の石仏(足立区谷中)

東京メトロ千代田線には不思議な路線がある。綾瀬~北綾瀬間の支線で、元々北綾瀬駅のさらに先には千代田線の車両基地があるためで、通常は一駅間だけを往復しているがたまに10両編成も停まるのでホームは長い。この広い車両基地は元々なんだろうと思ったが、戦後しばらくはこの辺りは一面の田んぼだったから前は農地である。

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北綾瀬駅の西側にしょうぶ沼公園という広い緑地があり、その南100mほどのところに下谷中稲荷神社がある。創建年代は不詳ながら、江戸時代に開拓されたこの辺りの長左衛門新田の鎮守であったらしい。すぐ北隣(現在の環七以北)は久右衛門新田、その先は辰沼新田、西は嘉兵衛新田、南西には五兵衛新田など江戸時代に開拓された地名があった。長左衛門新田は村の戸数が少なかったため祭りの御輿などは五兵衛新田に参加をしたりしていたという話である。

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稲荷神社の最初の鳥居脇には2基の巡拝塔と2基の庚申塔がある。右端の小さな角柱型の巡拝塔は安政2年(1855)12月のもの。日月の下に「月山・湯殿山・羽黒山、西國・坂東・秩父百番とある。右から二番目は大きな舟型光背型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が陽刻され、青面金剛はショケラを下げている。造立年は元禄6年(1693)重陽(9月)とあり、「奉供養庚申講」の文字と14人の願主名が刻まれている。

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その隣は小さな駒型の庚申塔。造立年は宝暦11年(1761)10月。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、上部に「庚申」とあり、下部には講中十七人とある。一番左にあるのは大きめの巡拝塔。造立年は安永8年(1779)正月とあり、こちらも月山・湯殿山・羽黒山、西國・坂東・秩父百番の文字がある。

場所  足立区谷中1丁目12-8

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2022年8月 1日 (月)

正王寺の庚申塔(葛飾区堀切)

真言宗の正王寺は堀切菖蒲園駅の北東250mほどのところにある。創建は治承2年(1178)で鎌倉時代が始まる前という古刹。山門が赤く塗られており、地元では赤門寺という通称もある。

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後鳥羽院や源頼朝の時代に八王子社(現在の堀切氷川神社)の別当として創建され、その後慶安年間、三代将軍家光公が鷹狩で境内を通り、八王子の宮(氷川神社)に詣で、征夷大将軍の始祖たる源氏の勧請と聞き5石の荘園を与えたと伝えられる。当時は武州葛飾郡下千葉村。

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山門をくぐり左に回ると太子堂がありその先に駒型の庚申塔がある。造立年は享保6年(1721)11月。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、右側に「造立庚申供養」とある。

場所  葛飾区堀切5丁目29-14

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2022年7月31日 (日)

東堀切民家の庚申塔(葛飾区東堀切)

葛飾区東堀切の住宅地の路地の奥に1坪ほどの区画があり、古い庚申塔が祀られている。場所を知っていなければ通りすがりということはあり得ない道すがらだけに、なぜここに在るのか不思議である。

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この場所について古い地図を調べてみたが、戦前には民家もないし田んぼだった場所。そんな場所なのでどこか近所からの移設ではないかと言うのがまっとうな推定だろう。元々は野ざらしだったが2018年頃にきれいに整備をして堂宇を建てたようだ。

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板碑型の庚申塔は上部に陰刻の日月があり、下部には陽刻の三猿が描かれている。中央には、「奉待庚申供養」とあり下の方には20人の願主名が刻まれている。願主は佐五左エ門ほか、造立年は元禄7年(1694)10月とあり、下千葉村九品寺の銘がある。九品寺は200mほど北にある真言宗の古刹で鎌倉時代初期の創建。この辺りは九品寺の檀家の地区だったのだろう。

場所  葛飾区東堀切1丁目4-9

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2022年7月30日 (土)

堀切五丁目の庚申地蔵(葛飾区堀切)

京成本線堀切菖蒲園駅の北東500mほどの路地の角に妙に広い境内をもった堂宇がある。一見駐輪場にも見える境内には何もない。奥の堂宇は施錠されているが、中には石仏が祀られている。

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白い枠の参道が何のためなのかは分からない。素直に参道と受け取るべきなのだろうか。堀切という地名も室町時代からある地名なのだがはっきりとした由来は分かっていないらしい。室町時代は利根川が東京湾に流れており、葛飾区で利根川は東に古利根川、西に古隅田川に分岐して流れ分岐したところが亀無(亀有ではない)、その下流が青戸と木庭袋(後の千葉村)、その南が堀切、立石と言うのが昔の地名。

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堂宇の石仏は舟型光背型の地蔵菩薩像。右に「奉供養庚申二世成就之所」とあることから庚申講中による地蔵である。造立年は寛文3年(1663)9月と古いものだが保存状態は極めて良い。

場所  葛飾区堀切5丁目41-9

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2022年7月29日 (金)

浄慶庵の石仏(葛飾区堀切)

堀切にある真言宗の浄慶庵は正王寺所属の庵室。昔この地域は下千葉と呼ばれ、さらに江戸時代に遡ると下千葉村という村であった。その下千葉村の郷士相川重右衛門が開祖となり創建したと伝えられる。年代は不明。境内には相川家の墓が多い。

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規模は小さめの寺院だが、墓石も含めて古いものが多く魅力的であった。寺前の道は曲がっているがこの曲がりは江戸時代の地図も明治時代の地図も同じように曲がっており、古くからの道である。明治時代以前はここから北はほぼ農地で、民家は南にのみあった。

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境内に入るとすぐに3基の石仏が迎えてくれる。右端は駒型の庚申塔で上部に日月、下部に二猿というちょっと変わった像容。造立年は寛文8年(1668)9月と古い。「奉造立石塔一宇庚申供養二世安樂所」と正面には刻まれている。中央は板碑型の庚申塔。造立年はさらに古く明暦2年(1656)8月とある。「奉待庚申供養二世安樂成就攸」「武刕江戸田所町 小▢▢左衛門 施主 敬白」とある。田所町というのは日本橋にあった町名で現在の日本橋堀留町あたりである。左の不動明王像は明和6年(1769)10月の造立。竿部に「奉供養日本廻国  浄苑  恵観」とあり、側面には「法界会識永離宮苦道」と書かれている。

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左脇には板碑型と自然石の石仏があるがどちらも墓石のようだ。左の板碑型の供養塔は寛文8年(1668)8月、右の自然石の供養塔は不詳。左の墓石の基壇には相川とあるのでこれも相川家のものだろう。

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本堂の裏手にはいくつかの相川家の墓所があり、その手前に板碑型の供養塔がある。造立年は寛文4年(1664)2月彼岸で、正面に刻まれた文言から、相川文右門夫妻が生前供養(逆修)として信仰する湯殿山の供養塔を建てたものらしい。「奉造立石佛一基湯殿山供養二世成就之所」と刻まれている。一般的には出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)とするのだが、湯殿山のみというのが意外に珍しい。

場所  葛飾区堀切6丁目30-24

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2022年7月28日 (木)

土橋観音菩薩(葛飾区小菅)

正覚寺は綾瀬川の右岸(西側)だが、東側の左岸にも同じように大きな水道施設(小菅水再生センター)がある。屋上の日本庭園の池にはカワセミもやってくるらしい。

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水再生センターの東隣の角に堂宇があり、堂宇前の石塔には「南無大慈大悲観世音菩薩」とある。裏側には「奉納 祈願 病気平癒 昭和55年4月18日 中山左喜蔵」と書かれていた。施錠されている堂宇の格子から中を覗かせていただく。

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広い堂宇の中にはいささかアンバランスな舟型光背型の聖観音菩薩像が祀られていた。台石の正面には「小菅講中」とある。首のところで中折れしており補修した形跡がある。そして上部と首から下では石の材質が異なっている。紀年などは何も書かれていない。私の推測では、首から上の部分は昔からあった聖観音像のもので、戦災で首から下が破壊されてしまったのではないだろうか。それを補修して昭和50年代になってようやく再建相成ったという経緯。首から上の像形の素晴らしさに対して、首から下は素人が作ったようにしか思えない造作に見えたのでそういうストーリーを組み立てた。

場所  葛飾区小菅2丁目10-26

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2022年7月27日 (水)

正覚寺の石仏(葛飾区小菅)

小菅一丁目は荒川放水路と綾瀬川が合流する最後の三角地帯。高速道路よりも荒川側には東京都水道局の水処理施設があり、屋上が公園やフットサル場になっている。民家は殆どないがお寺が一軒だけ、それが正覚寺である。小菅の地名の由来については菅は「かや」で、この辺一帯古隅田川に面し、茅などが密生していたのが由来という。

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正覚寺は真言宗の寺院で安土桃山時代の創建とされる。山門は閉まっていたが、左側の通用門が開いていたのでそちらからお邪魔する。すぐに枯れた古木の洞(うろ)に石仏があり、その隣には弘法大師堂がある。

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弘法大師堂の裏にひっそりと隠されたように駒型の庚申塔が立っていた。葛飾区の資料にも載っていないが、どこから持ち込まれたものだろうか。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が陽刻され、右側には「奉造立庚申供養」とあり、左側にかろうじて紀年が見える。造立年は享保4年(1719)9月である。地名などは書かれていないようだ。

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その先には正覚寺で最も有名な念仏結集地蔵がある。きちんとした説明板が立てられている。造立年は寛文元年(1661)霜月(11月)とある。念仏結集を願う兵左衛門と同行衆によって建立された。右の紀年に続いて「六親菩提施主敬白」、左側には「念佛結集本願兵左衛門同行廿一人」と刻まれている。

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その先の小さな舟型光背型の地蔵半跏像も興味深い。造立年代は不詳ながら区の資料では江戸時代と推定している。輪光があり、半跏像になっている。

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すぐ近くにある舟型光背型の地蔵菩薩は庚申地蔵。若干周辺の欠損が見られるが、右側には「奉念申供養…」とあり、左側には元禄10年(1697)の紀年が読める。月以下は摩滅していて読み取れない。こういう下半分の摩滅が激しい石仏があるが、どういう原因でそうなるのだろうか。土に埋まっていたとか、そういう想像をするが確信はない。

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その先にあった小さな舟型光背型の地蔵菩薩像には三猿が描かれていた。猿があることで庚申地蔵だと思われる。文字はどこにも見られないので造立年は分からない。

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墓所入口には六地蔵と中心の舟型地蔵が吹き抜け堂宇に祀られている。六地蔵は丸彫だが中央の地蔵は舟型光背型。刻銘には「庚申念佛二世安樂」とあるので庚申地蔵。寛文3年(1663)8月の造立年があり、同行9人攸と続いている。

拝観はできなかったが正覚寺には「とげぬき地蔵」という古い石地蔵が納められているという。この地蔵は、以前に旧水戸街道の北側にあったものを、大正4年の荒川の開削工事の折に正覚寺に移設したもの。とげぬきは「咎(とが)抜き」の転訛で、小菅監獄から罪を終えての帰途、この地蔵に願を掛けると罪が抜けるというのでいつしか「とがぬき」が「とげぬき」になって伝わったものだという。

場所  葛飾区小菅1丁目3-6

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2022年7月26日 (火)

小菅神社の庚申塔(葛飾区小菅)

首都高速小菅ジャンクション、常磐自動車道から三郷線に来ると、東北自動車道からの中央環状線と綾瀬川の上空で混じり合う交通量の多い高架、その下にひっそりと佇むのが小菅神社である。

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左の鳥居が90度向きが違うが、鳥居の正面にあるのが田中稲荷という小さな稲荷神社。実は江戸時代にはこの田中稲荷が小菅村の鎮守であった。そこに小菅神社が移ってきたというのが経緯である。田中稲荷の右側の隙間を進むと、裏手に2基の庚申塔と複数の祠が隠れている。

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左の庚申塔は自然石の玉石型で、正面に「庚申」と大きく彫ってある。横には文化8年(1811)2月の造立年が記されていた。他には何も書かれていない。右の舟型の庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれ、文字は殆ど読めないが資料によると、造立年は享保13年(1728)11月とあるようだ。「奉建立庚申供養」という文字も刻まれているとあるが、今は摩滅が酷くて像形も文字もほとんどわからなくなりつつある。

場所  葛飾区小菅3丁目1-2

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2022年7月25日 (月)

薬師寺墓所の石仏(足立区綾瀬)

薬師寺の続き。薬師寺の参道の突き当りには本堂があり、左手には薬師堂が建っている。本堂には発掘された板碑が保存してあるという。ひとつは造立年不詳だがもう一つは区の有形文化財になっており、文正2年(1467)の銘があるらしい。文正は1466年2月28日に始まり、翌年の3月5日には次の応仁になっている。時の室町将軍は北山文化の足利義政。文政2年には応仁の乱が始まってこれ以降10年間京の都は荒廃した。

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この辺りは江戸時代以前は低湿地帯で、人の居住には適さないと思われていたが、板碑が出土したのはここで人の営みがあったという証拠になる。左の薬師堂内には本尊の薬師如来があるという。両脇を日光菩薩、月光菩薩が挟んでいるという。薬師堂の手前を左に行くと墓所に至る。

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最初にあったのは新しい馬頭観世音菩薩。舟型光背型できちんとした造りになっているが本体に造立年はなかった。基壇の側面に「永代供養料金百万円奉納 為馬頭観音菩薩倍増法楽也 平成15年(2003)3月」と書かれたプレートがあった。21世紀に造られた馬頭観音の意味合いは何だろうと不思議に思った。

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その先には舟型光背型の六地蔵と丸彫の地蔵、そしてもう1基舟型光背型の地蔵が堂宇に並んでいる。六地蔵の造立は彫りや文言から見て同一年代だと思われるが、同行40人というのが複数あるだけで、造立年は分からない。右端の舟型の地蔵は墓石のようだが、寛文5年(1665)正月の造立年が刻まれていた。

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その先には圧倒的な広さと規模で無縁仏が集め並べられている。中央の丸彫の石仏がみちびき地蔵である。墓地の区画整理を行った際、多くの無縁の墓石があり、一カ所に集めて無縁塔を建立し、石彫家八柳五兵衛氏に制作を依頼した地蔵尊をその中心に据えて「みちびき地蔵」と名付けたもの。

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みちびき地蔵の両脇に立つ石仏は、向かって左側が舟型光背型の如意輪観音像で墓石だが、造立年は元禄2年(1689)5月と古いもの。右は上の写真の舟型の聖観音像で、こちらは元禄13年(1700)11月の造立。ただ観音の左肩に「庚申供養造立之祈所」とあることから庚申講中によるものと判断できる。

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無縁仏のずっと左の端の方、ほぼ六地蔵の堂宇に近いところに1基の舟型光背型の地蔵菩薩立像がある。頂部が少し欠けているが、右側には「為庚申供養之造立也 施主 敬白」と書かれており、造立年は寛文9年(1669)正月と刻まれている。ちなみに薬師寺の辺りは戦前は伊藤谷(いとや)と呼ばれていた。現在も綾瀬川に架かる伊藤谷橋や伊藤谷公園に名前が残っている。

場所  足立区綾瀬1丁目14-20

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2022年7月24日 (日)

薬師寺参道の石仏(足立区綾瀬)

綾瀬にある薬師寺は真言宗の寺院。宝珠山普門院薬師寺といい、創建は寛永9年(1632)。西には綾瀬川があり、その向こう岸には異彩を放つ小菅の東京拘置所がある。この東京拘置所は薬師寺の出来た江戸時代初期には治水に活躍した関東郡代伊奈家の屋敷があった。徳川吉宗の時代になって、将軍様がここを鷹狩りの休憩所とし、小菅御殿が設けられた。しかし明治以降はずっと監獄~拘置所である。

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山門手前にも複数の石仏がある。右の植込みの裏には大きな笠付角柱型の庚申塔がある。とても大きなもので、時代も古そうな様子。

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文字は摩滅が進んでいて読み取りにくいが、足立区の資料によると造立年は正面左にかすかに残る延宝9年(1681)。正面の文字も削られてしまって読めないがこれは「奉念庚申本尊青面金剛」と書かれていたらしい。台石に三猿が陽刻されている。左側には「夫庚申▢依之輩現送三尸之毒虫 伏仰願一結諸集現當二世得安樂 半夜凌離生死當登三身之蓮台 欽白」と刻まれ、三尸が天に悪行を伝える旨の記載は珍しい。

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庚申塔の対面にあるのは舟型光背型の如意輪観音像。基壇には「念佛一千万遍供養塔 戒琛 敬白」とあるが、戒琛は僧侶の名前だろうか。基壇にも蓮の花葉が描かれている。石仏正面には「有無縁三界万霊等」とあり、左側に紀年らしき痕跡があるのだが読み取れない。おそらくこれも江戸時代の初期と思われる。

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山門をくぐると右側に駒型の庚申塔がある。台石の正面に「當村講中」と大きく彫られている。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、左手にはショケラを下げている。造立年は右側にあり、天保15年(1844)7月と比較的新しいもの。左面には「當村講中世話人吉田四郎吉」ほか計7名の願主名。この庚申塔は「耳病除庚申」とも呼ばれている。耳の病が治ったらひしゃくに穴を開けて返す習わしだという。手前の香炉台の足も三猿で造られていて面白い。

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駒型庚申塔に並んで堂宇に祀られている石仏は台石に「長命大師」と書かれている。台石には数多くの願主銘があり、小菅、隅田村、堀切、千住、牛田など近隣各方面の願主名が見られる。大師像は弘法大師(空海)の像である。造立年は見当たらなかった。

場所  足立区綾瀬1丁目14-20

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2022年7月23日 (土)

養福寺の石仏(足立区綾瀬)

JR常磐線綾瀬駅から南へ250mほどのところにある養福寺。真言宗の寺院で文殊山薬師院養福寺という。創建年代は不詳ながら、永正元年(1504)に中興したという記録があるので、室町以前の創建である。

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小ぶりな山門を入ると正面に本堂がある。左側には宝塔などがあり、中でも宝篋印塔は立派なものである。造立年は宝暦2年(1752)晩春と記されている。武刕足立郡渕江庄普賢寺郷文殊山薬師院養福密寺とも書かれており、続けて造立年の記載がある。

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本堂左手から墓所に向かう途中に無縁仏塔と並んで、舟型の地蔵と丸彫の六地蔵が並んでいる。左端の舟型光背型の地蔵尊は下半分が溶けているような状態で文字が一部読み取れない。造立年は元禄10年(1697)11月とある。地蔵の右に「奉造立地蔵尊 庚申供▢…」とあるので庚申講中による地蔵である。左には「逆修本室妙岸 宝徹妙法戒發」とあるのは法名だろうか。

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右の六地蔵も特徴のある興味深いもので、左から二番目の地蔵の基壇には三猿が彫りこまれている。これも庚申地蔵ということは、六地蔵全体がそうなのかもしれない。文字が殆ど見られないので、造立年等は分からない。

場所  足立区綾瀬2丁目19-13

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2022年7月22日 (金)

綾瀬北野神社庚申祠(足立区綾瀬)

JR常磐線綾瀬駅のすぐ南にある北野神社。創建年代は不詳ながら、かつてあった稲荷社、天神社、第六天社、八幡社を合祀して土地の鎮守となったとされる。綾瀬駅から商店街の東側を南へ少し下ると、鳥居がある。

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参道はすぐに右に折れてその正面に社殿がある。社伝の手前道路側に撫で牛と並んで2基堂宇、大きな方の堂内に石祠がある。撫で牛はとても大きなもので、天神様にしばしばみられるもの。別名臥牛(がぎゅう)ともいう。

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大きな堂宇の中には2基の石祠が並んでいる。これは珍しい庚申祠(庚申石祀:せきじ)というもので、当時の村人たちが建立したもの。右の祠は元禄8年(1695)9月造立で、「奉造立石之宮殿第六天村中庚申供養」と刻まれている。一方の左側は元禄13年(1700)10月の造立で、「庚申供養造立石宝殿一宇二世安樂処」と刻まれている。また5人の願主名も見られる。

場所  足立区綾瀬2丁目23-14

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2022年7月21日 (木)

猿仏塚(足立区栗原)

東武伊勢崎線西新井駅の北にある区の施設ギャラクシティ(こども未来創造館などがある)の北東角の向かいに古い堂宇があり、猿仏塚とある。猿払塚にある区の説明板には中に3基の庚申塔があると書かれているが、実際は1基が念仏供養塔で2基が庚申塔である。この猿払塚の由緒が興味深い。

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江戸時代の初め頃、この辺りの農家に一匹の賢い猿がいた。ある日猿が留守番をしていると、赤ん坊が泣き始めたので、湯を沸かし行水をさせたが湯が熱すぎて赤ん坊が死んでしまった。それからというもの猿は食事もとらず赤ん坊の墓を守り続け、ついに死んでしまった。村人はこの猿の心を哀れみ、「仏になって子供たちを守っておくれ」と手厚くここに猿を葬ったという。後に塚は子供の厄除塚となり、地域の村人に深く信仰されていた。

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すべて板碑型である。右の石塔が念仏供養塔。造立年は寛永14年(1637)10月ととても古い。「奉唱念佛講結集供養所」と中央にある。下には10名ほどの願主名がある。中央は庚申塔で、造立年は寛永6年(1629)2月と足立区内で二番目に古いもの。「奉待庚申十六▢成就供養所」とある。▢は読み取れないが「夜」の可能性がある。下部には多数の願主銘がある。左端の小さい庚申塔は延宝8年(1680)11月の造立で、「奉待庚申供養所願成就」とあり、その横には「渕江石塚村大施主十六」と読める。

場所  足立区栗原1丁目4-25

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2022年7月20日 (水)

来迎寺の庚申塔(足立区島根)

足立区島根にある来迎寺は真言宗の寺院で創建は建久6年(1195)と伝えられる。今放送されている大河ドラマ「鎌倉殿」の時代である。しかし古い地図にも寺の印がないものが多いのがいささか不思議である。

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山門は立派なものだがそれほど古いものではなさそう。ただ境内には古木が多く、森の中にあるような雰囲気がある。山門の右側に別の入口があり、そちらからお邪魔する。

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まず手前に地蔵堂があり、中には丸彫の地蔵菩薩像がある。木札にも香炉台にも「子育地蔵尊」と書かれていたが、造立年等は刻まれていないようだ。地蔵堂の横には4基の立派な庚申塔が並んでいる。

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一番入口側は大きめの駒型庚申塔で、うっすらと日月らしいもようがあり、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。造立年は正徳3年(1713)11月で、「奉造立青面金剛庚申供養二世安樂  施主 敬白」と刻まれている。左の庚申塔は駒型で上部に日月、その下に「奉造立庚申待二世安樂攸」という文字があり、下部には三猿が彫りこまれている。造立年は元禄4年(1691)9月。願主名が9名ほど刻まれていた。

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左の二基のうち右側は板碑型の庚申塔で三猿が下部に陽刻されている。造立年は天和2年(1682)10月と古いもので、「奉造立庚申供養現當安樂所」とあり、縁に願主道慶、そして15名の願主名が刻まれている。左の中央に大きな三猿が陽刻された板碑型の庚申塔はさらに古く、寛文6年(1666)辰月(3月)の造立。「奉供養庚申 宝塔二世安樂処」とあり、下部には16人の願主名と島根村の銘がある。

場所  足立区島根3丁目11-9

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2022年7月19日 (火)

島根古蹟庚申塔(足立区島根)

足立区島根は国道4号線(日光街道)と環状七号線の北東のエリアの地名である。江戸時代は島根村という農村で、周辺の地域よりもわずかに高い微高地であったことから島根の地名が付いたとされている。その中で旧日光街道の西のかつては石塚と呼ばれていたあたりに今は足立区立島根中堀公園がある。

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この公園の一角にブロック組の堂宇があり、中には2基の庚申塔が祀られている。公園に移設される以前はどこにあったものなのかは分からない。

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左の舟型光背型の庚申塔は、日月、青面金剛像、三猿の図柄だが、青面金剛の載っている台が見ようによっては平べったい邪鬼にも見える。左側に顔があるようだ。足立区の資料には「鬼」とあるが、これが本当に邪鬼かどうかは確信が持てない。造立年は貞享元年(1684)10月で、「現當二世造立之供養也」と記されている。右の駒型庚申塔は宝永2年(1705)9月の造立で、こちらは「庚申供養」の文字の下に三猿が陽刻されている。下部には願主名が6人銘見られる。

場所  足立区島根4丁目36地先

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2022年7月18日 (月)

大塚邸稲荷の庚申塔(足立区六月)

歴史ある島根鷲神社の東にある交差点に屋敷稲荷がある。この稲荷神社は誰でも御参りできるように道路に面して開かれているが、訪問時は自転車などが手前にならんでいていささかお参りには苦労した。

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この右側の南北の通りは普通の生活道路に見えるが実はかつての日光街道である。徳川家光以来多くの将軍の行列がここを通っていたのである。左の道は六月と島根の町境になっているが、江戸時代の六月村と島根村の村境は少しだけ南にあったようだ。どうも昭和中期の住居表示改定の時に境が変わったようである。とはいえ村境の庚申塔とみても良いかもしれない。

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右に小さな自然石の水神、左が自然石の庚申塔である。庚申塔の造立年は裏に大正2年(1913)9月と刻まれている。「大塚善蔵之立」とあるのでここの大塚家のご先祖だろう。庚申講中によるものではなく、おそらく個人の信心に基づいて建立されたのではないだろうか。

場所  足立区六月2丁目1-20

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2022年7月17日 (日)

六月二丁目の庚申塔(足立区六月)

炎天寺から少し南に下がった辺りから日光街道へ古道っぽい曲がりを繰り返しながら繋がる道は江戸時代からある道筋で、日光街道に出る手前には歴史の古い鷲神社がある。その道の途中にある懐かしいコンクリート瓦の堂宇に2基の庚申塔が祀られていた。

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この辺りは江戸時代は六月村の中心部に準ずるような地域だったようだ。六月は「むつき」と読んでしまうが、正しくは「ろくがつ」である。炎天寺に源義家が滞在したのが炎天の六月だったためというのが言い伝え。

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右の駒型の庚申塔は、天保9年(1838)11月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄だが、台石の前面に大きく二鶏が描かれている。左側面には「関八州石工司子孫 草加宿 神流斉 青木宗義」という石工名が彫りこまれている。左の板碑型庚申塔は古く、造立年は延宝3年(1675)10月。前面には「奉造立庚待二世安樂所」と記されている。下部には蓮葉が大きく描かれている。

場所  足立区六月2丁目4番地先

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2022年7月16日 (土)

炎天寺の石仏(足立区六月)

足立区六月は竹の塚の南側の地域。竹の塚の南の端が西光院で、炎天寺はそこからすぐのところにある。どうやら西光院の南側の東西の道で地名が変わっているようだ。炎天寺を訪問した日は猛暑日でまさに炎天下であった。

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炎天寺は真言宗の寺院で歴史はとても古い。天嘉4年(1056)に奥州鎮定に赴いた源頼義、源義家父子が創建したという寺伝。その為か隣接して境内を繋げているのが六月八幡神社。八幡神社の創建に源義家が出てくることは多いが寺院も一緒にというのは多くない。寺伝ではその時に頼義義家父子がここの地名を六月と改め、その時の天気が炎天続きだったので炎天寺と名付けたという。

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炎天寺は俳人小林一茶との関係も深く、一茶の詩碑やヤセガエルのモニュメントのある池がある。一茶は「蝉鳴くや 六月村の 炎天寺」という俳句も残しているという。そのカエル池の右後ろにひっそりと庚申塔が一基立っていた。

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舟型光背型の庚申塔は日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、青面金剛は左手にショケラを下げている。造立年は貞享3年(1686)10月で、「奉造立庚申供養二世安楽所」とあり六月村の銘がある。

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少し山門に戻った所には真新しい堂宇に収まった板碑型の大きな供養塔があった。文字が摩滅でほとんど読めないが、中央部分には阿弥陀如来の線刻の像が刻まれている。左脇には「念佛供養」とあり、右には年号があるようだが、▢▢七年というところしか読めない。像形などからして江戸時代初期のものではないかと思われる。

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その横のもうひとつの新しい堂宇に祀られていたのはきれいな舟型光背型の馬頭観音。なかなか見事な彫りだが、造立年は文化2年(1805)9月とある。反対側側面には願主名があったようだが摩滅して消えていた。

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並んでいる石仏を見ていくと、この聖観音像が気になった。舟型光背型の聖観音像で左脇に「庚申講中」とあり、台石の前面に三猿が陽刻されている。造立年は文政4年(1821)4月と刻まれていた。

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もう一基、こちらは舟型光背型の地蔵菩薩像で、これも左肩の脇に「奉造立庚申供養」とあるので庚申講中によるものである。造立年は享保元年(1716)9月で、六月村では享保年間の頃庚申講中が華やかだったのだろうか。

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一番山門側にあったのは櫛型角柱型の読誦塔。天保6年(1835)4月の紀年が入っている。「奉読誦普門品一萬巻供養塔」と中央には刻まれており、六月村講中敬白とある。左の自然石は馬頭観世音で昭和27年(1952)5月と新しいものであった。

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本堂の手前には弘法大師の鋳造仏があり、その足元に珍しい燈籠がある。竿部の正面には「奉納庚申供養」とあり、脇には「国土安全 天下泰平」と書かれていた。造立年は享保17年(1732)11月とある。1000年近い歴史のある寺院の中に余りに多彩な石仏があって、炎天下なのに結構な時間を過ごしてしまった。

場所  足立区六月3丁目13-20

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2022年7月15日 (金)

西光院の石仏(足立区竹の塚)

先日は北千住の千住曙町の西光院の庚申塔について書いたが、同じ西光院でもこちらは足立区竹の塚にある西光院である。どちらも真言宗の寺院だが、千住曙町の方は真義真言宗、こちらは真言宗豊山派と少しだけ異なる。創建は河内与兵衛胤盛という人物が開基となり江戸時代初期らしい。もとは小田原北条氏の家臣だったようだが、後に竹塚村に土着し、徳川に仕え、代々村の名主だったという。

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山門を入る正面に本堂があり、右に大きな銅製の大日如来像がある。この大日如来像は元禄12年(1699)9月に建立されたもので、河内家の子孫らの名前が記されている。

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大日如来の脇にあるのが2基の庚申塔。右の駒型の庚申塔は享保11年(1726)正月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が陽刻されており、脇には「奉供養青面金剛所願成就所 竹之塚村」とある。左側の小さい方は舟型光背型の地蔵菩薩立像だが、「▢蔵庚申供養二世安楽 講中九人」とあるので庚申講中による地蔵である。造立年は元禄11年(1698)10月で大日如来とほぼ同年代になる。

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墓所入口の無縁仏塔の中にはなかなかの石仏も混じる。右端手前の舟型光背型の如意輪観音像は「為妙栄禅定居士」とあるので墓石と思われるが、寛文3年(1663)5月の造立でひときわ目立つ石仏である。左端の丸彫の地蔵菩薩は墓石ではなく「奉待菅谷吉兵衛尉重」とあり、造立年は宝永4年(1707)8月。地蔵講中や念仏講中の可能性もあるし、豪農が単独で建之したものとも考えられる。

場所  足立区竹の塚1丁目13-16

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2022年7月14日 (木)

常楽寺の庚申塔(足立区竹の塚)

足立区竹の塚が地名で竹ノ塚駅とは表記のカナ部分が異なる。もともとは武蔵国足立郡竹塚村で地域には多くの塚(古墳)がありその塚に竹が自生しており竹塚(たけのづか)という地名になったという。読みに濁りが消えたのは昭和41年の住居表示変更に伴ってのこと。近代の地名が歴史を重んじていない事には毎度ながら残念に感じる。

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竹ノ塚駅から南へ800mほど、大正時代までは渕江村に属していた地域に常楽寺がある。東には南北に日光街道が通り、それに合流する越谷方面からの赤山街道の少し南に寺はある。赤山街道は江戸時代初期、江戸の治水を担当した伊奈氏が川口市の赤山陣屋からの土木道で、水路と道路が並んでいた。常楽寺の東300mにある増田橋で日光街道と接続していた。

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山門をくぐり右の新しい六地蔵の裏手にあるのが自然石の石仏(詳細不明)と笠付角柱型の庚申塔。この庚申塔は天保11年(1840)3月の造立で、大きな笠の下に青面金剛像、邪鬼が陰刻され、その下に三猿が陽刻されている。資料によると地面に埋まっている台石の正面には「庚申講」と彫られているようだ。山門脇には古い六地蔵が纏まって納められていたが、古い六地蔵の方が新しいものよりも魅力的であった。

場所  足立区竹の塚1丁目10-16

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2022年7月13日 (水)

西光院の庚申塔(足立区千住曙町)

足立区北千住の南東、京成本線、東武スカイツリーラインがクロスし、隅田川、荒川に挟まれたボトルネックのような地形の土地にある西光院は千葉山西光院薬師寺といい、牛田薬師の名前でも知られる。寺の説明によると、千葉氏の分家が徳治2年(1307)に創建したとある。

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山門をくぐると左手に国学者石出常軒の碑というものがある。私の知らなかった人物だが、江戸時代前期明暦の大火の折に小伝馬町の牢獄から囚人を解放して命を救った(切放という)人物らしい。人物の名前は知らなかったが、小伝馬町の牢獄から囚人を解放した話は聞いたことがある。ほとんどの囚人が戻ってきたと言われている。

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山門を入り、本堂手前の塀の傍にはかなり大きな庚申塔が並んでいる。ほぼ私の背丈ほどもある大きなものが2基、角柱が1基、手水鉢が1基ある。銀杏の木の前にある角柱は寺の碑である。

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右端の角柱型の庚申塔は文化8年(1811)11月の造立。正面には「庚申青面金剛」と大きく書かれ、基壇には三猿が彫りこまれている。脇には紀年のほかに「講中」という文字が見られる。左の板碑型庚申塔は背丈ほどの高さのあるもので、基壇と下部にはそれぞれ蓮の花葉が描かれている。文字は薄くなっているので資料も参考にすると「三密六大▢▢證輪円具足法界有情之覚躰也」とあるようだ。造立年は古く正保3年(1646)と刻まれている。「結集等毎年六度之待庚申祈現後二世悉地成就所 敬白」という文字も見られる。

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隣りには同じほどの高さの舟型光背型の庚申塔。こちらは極めて珍しいタイプのもので、日月、青面金剛像、二童子、邪鬼が描かれているが、その下には一猿一鶏が薄く彫りこまれている。また青面金剛像は四臂でこれも珍しい。造立年は延宝2年(1674)霜月(11月)とこれも江戸前期。右側には「為庚申供養二世安楽之造立也」とある。

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一番左にあるのは三猿の手水鉢。後ろの壁は近年追加されたようである。造立年は天和3年(1683)9月。脇には「西光院宥尊」「奉庚待供養石鉢▢造立▢」とある。江戸時代の西光院近辺は牛田という地名で知られているが、川に囲まれた中洲のような土地で、明治から大正期には水運を利用した織物工場などが複数立ち並んでいたが、現在は静かな住宅街になっている。

場所  足立区千住曙町27-1

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2022年7月12日 (火)

理性院の庚申塔(足立区柳原)

北千住駅は都内でも有数のターミナル駅でデータ上の乗降客数は常に日本の(世界の)TOP10に入っている。そんな駅だが大多数は乗換え利用で、駅勢圏の規模は大きくない。もともと日光街道側の西口が開けており、東口に至ってはローカル駅かと思うほどで、それは今もあまり変わっていない。東口から500mほどのところに真言宗の理性院柳原寺はある。

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この辺りは江戸時代は葛飾郡柳原村という農村地帯で、寺は扇型の道路に接している。寺の東南側が山門だが、広い道路の北西側はかつては古川という名の水路だった。古川は綾瀬川の残した三日月湖のような水路で、荒川掘削以前には綾瀬川も度々氾濫を繰返していたことが計り知れ)る。山門をくぐると正面に本堂があり、右に小さな太子堂、左には2階建ての会館がある。庚申塔は見当たらない。

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分からないので墓所入口にいらした片づけをしていたお婆様に尋ねる。おそらくご住職のお母様だろう。ご親切に2カ所別々のところにある庚申塔をご案内いただいた。もう一基あるはずの庚申地蔵については分からないとのことだった。本堂の右を奥に回り込むと、一番奥の一画に駒型の庚申塔がある。造立年は元禄8年(1698)2月。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄だが青面金剛像の股の間に狐の顔が見える。不思議な図柄である。右には「庚申供養」左下には「六人」とある。

左後ろに一部見えているのは角柱型の巡拝塔。造立年安政6年(1859)6月の「四国西国秩父坂東巡拝供養塔」とあり、「神田川川柳橋 越中屋徳兵衛」の銘がある。

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もう一基は、本堂の反対側、墓所に入って本堂の裏に近い隅っこにある駒型の庚申塔。造立年は寛政10年(1798)11月。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で前述の庚申塔よりも一回り大きい。側面には「奉造立庚申供養塔 柳原村中」とある。

最近は寺院も檀家以外を拒絶するところもあったりする中で、とても幸せな体験をさせていただいたことに感謝したい。

場所  足立区柳原2丁目5-1

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2022年7月10日 (日)

六町神社の石仏(足立区六町)

足立区六町はつくばエクスプレス六町駅が出来てから大きく変貌しつつある街。この辺りはもともと花畑村の六丁という字名の地だったが、今の六町駅あたりが西の渕江村との境界だったようだ。今でも花畑村は南花畑という町名に残っている。六町駅は地下駅だが地上に出て東に向かうとすぐに六町神社がある。

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実は六丁は竹ノ塚神社域の飛地であったため、住民は遠く本村の氏神である八幡神社や竹ノ塚神社の二社に参拝していた。ただし六丁では清水清家の邸内社である三峰神社も崇拝してきた。清水家は現在の神社の東側にあった旧家で、その関係で六町神社の狛犬はオオカミ狛犬になっている。

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鳥居の前にある石柱は意外に古そうな道標。道路側が正面にあたり、「鷲大明神 矢納弁才天 道」とある。方角に合わせて立っており、他の面には「東、八条領 二合半領、道、榎戸 八丁 千住 壹里」、「西 此道馬ひく編可ら須」、そして北側には「▢永二年酉二月」とある。年号の▢は宝永であれば(1705)、嘉永であれば(1849)にあたる。西の意味はこの道馬を引くべからずとなるが何故かはわからない。

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西の道路側に石仏が多数並んで祀られている。左から庚申塔、標柱、丸彫地蔵座像、舟型地蔵(とろけ)、首と祠、祠、駒型の供養塔、駒型の弁財天である。摩滅が激しくて文字が読めないものが多い。

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庚申塔は最初祠かと思ったが大きな笠の笠付角柱型の庚申塔である。造立年は寛政5年(1793)正月とある。青面金剛像、邪鬼、三猿が彫りこまれており、青面金剛像は左手に小さなショケラを下げている。台石には多くの願主名が刻まれている。やはり清水家、伊藤家が多い。

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右端の2基が興味深い。小さい方は摩滅してボロボロになった供養塔だが、造立年は天保11年(1840)10月の紀年が読める。願主名も仙▢とある。右の駒型の石仏は弁財天。「花又村 施主 中村▢▢▢ 不動院」とある。花又村は花畑村の誤字だろう。造立年は宝永3年(1706)9月とある。弁財天は稀に蛇頭女として描かれることがある。これもその一つであろう。

場所  足立区六町1丁目12-16

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駅前地蔵尊(大田区羽田)

日本を代表する羽田空港は多摩川の河口にある。近年は巨大な海上滑走路が造られたり、今年(2022)3月には川崎と結ぶ多摩川スカイブリッジが開通したりしたが、昭和からの100年で大変貌を遂げたエリアである。元々昭和6年に羽田飛行場が出来、現在大きな赤鳥居がある沖合まで京浜急行が線路を伸ばして、「穴守」という駅があった。

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その辺りは海水浴場だったり、漁師町だったり、穴守稲荷神社の門前町で、羽田鈴木町、羽田穴守町などの街があったのだが、終戦後GHQが羽田空港をHANEDA AIRBASEとして拡張工事、「48時間以内に全住民は撤去しろ」という無茶苦茶な命令で住民はすべて追い出された歴史がある。

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現在もある海老取川を渡る手前にも駅があり、GHQが空港を支配したのちは川の西側の稲荷橋駅が京急羽田線の終点になった。おそらく駅前地蔵尊はこの時代の稲荷橋駅前にあったものではないかと推測している。稲荷橋駅は戦後羽田空港駅と名前を変えている。

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地蔵尊は全部で4体という珍しい数。紀年等は分からないが、地元の人々が守っている様子が見てとれる。穴守稲荷神社もこちら側に移されて、多くの人々の参詣を受けている。かつての稲荷橋駅はこの地蔵尊のすぐ北にあったが、500mほど西に出来た穴守稲荷駅に取って代わってしまった。

場所  大田区羽田5丁目15地先

 

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2022年7月 9日 (土)

西加平神社横庚申塔(足立区西加平)

環七通り加平ランプより200m余り西にある西加平神社は創建年代不詳、嘉兵衛新田の開墾に伴い創建されたらしい。天祖神社や稲荷神社と合祀分離をしたりして移転があったりしたのち現在に至る。とても広い境内で、野球ができるほどの広さだが社殿はこじんまりとしている不思議な境内である。かつての嘉兵衛新田は綾瀬川で東西に分断していたが、戦後西側で独立してこの神社を鎮守とするようになった。

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西加平神社の北側の角に4基の石仏が祀られている。神社と共に動いてきたようなので、この敷地も神社の一部なのだろう。一番右にある大きな舟型光背型のおそらく地蔵菩薩立像と思われる石仏は、摩滅ととろけが進みすぎて詳細は何も分からない。

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その左にある舟型光背型の阿弥陀如来立像は下部に二猿が陽刻された庚申塔である。このパターンは極めて珍しい。造立年は寛文10年(1670)10月と古く、庚申講中の黎明期にあたる。阿弥陀如来の左肩には「為奉供養庚申現當二世也」とある。右足脇に「願主 浄誓」とあるが、僧侶の名前だろうか。

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左の2基のうち大きい方は駒型の庚申塔で、上部に日月、その下に大きく「庚申塔」と刻まれている。造立年は天保8年(1837)とあるが月は分からない。左の駒型庚申塔は天明8年(1788)7月造立のもの。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で青面金剛は左手にショケラを下げている。側面には「奉供養庚申講中  渕江領  嘉平新田西」とあるので、この時代には西は西で講中を作っていた可能性がある。

場所  足立区西加平1丁目1-36

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2022年7月 8日 (金)

一ツ家稲荷神社の石仏(足立区一ツ家)

一ツ家稲荷神社は文禄年間(1592~1596)頃にこの辺りの開発がすすめられ後の栗原新田となった土地の鎮守。当時から現在まで、地元の人々によって守られてきた神社で、道を切り開いた村道祈念碑(敷石供養塔)なども境内にある。

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隣りは駐車場だったが現在はマンションでも建設されているのだろうか、その足場と養生で視界は閉ざされている。手前の鳥居の脇には4基の石仏が並んでいる。

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手前は舟型光背型の地蔵菩薩立像。安永9年(1780)12月の造立とある。「栗原新田念仏講中」の銘があるので、この時代には栗原新田の地名は一般化していたようだ。その隣の駒型の石仏は巡拝供養塔。造立年は安永8年(1779)霜月(11月)とある。「月山湯殿山羽黒山奉納」「西国坂東秩父為二世安樂」と記されている。尊像は大日如来だろうか、私にはよくわからない。

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継にあるのが2主尊を陽刻した巡拝供養塔。造立年は宝永8年(1711)10月とあるが、実は宝永は8年4月25日で正徳に変わっている。したがって正しいのかどうかは私には判別がつかない。尊像は右が大日如来で左が聖観音だろうか。「湯殿山拾五度所願成就」「奉納秩父坂東二百三十三度」とあるのは、湯殿山に15回はともかく、秩父坂東233度というのも秩父34ヶ所、坂東33ヶ所をどう組み合わせればいいのか分からない。謎の多い供養塔である。左の駒型の庚申塔は日月が塗られていて綺麗である。元禄6年(1693)4月の造立でここでは最も古い。下部には二鶏と三猿が描かれ、「奉造立庚申二世安樂祈」と記されている。

場所  足立区一ツ家4丁目2-18

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2022年7月 7日 (木)

地蔵堂の石仏(足立区弘道)

足立区弘道は新しい地名。江戸時代は弥五郎新田、次郎左衛門新田、嘉兵衛新田、保木間村などが入り混じった農村地域だったが、論語の一説から名前を取った弘道小学校が地名の由来となり足立区弘道になった。その弘道を東西に走る環七南通りは新しい道のようだが実は江戸時代からある道筋。

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弘道第一小学校の北に隣接する区立第十一中学校の脇に堂宇があり、庚申塔と地蔵菩薩像が祀られている。江戸時代の切絵図を見ると寺名はないがこの場所は寺域となっている。果たして寺があったのかどうかは分からない。

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左の駒型庚申塔は宝暦8年(1758)11月の庚申講中による造立。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、青面金剛像は左手にショケラを下げている。右の舟型の地蔵菩薩像には「奉念佛供養結衆二世安樂處」とあり、下部には左右6名、渓12名の願主名が刻まれている。造立年は古く寛文11年(1671)10月とある。

場所  足立区弘道1丁目39-8

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2022年7月 6日 (水)

長性寺の石仏(足立区西綾瀬)

西綾瀬にある長性寺は真言宗の寺院で、創建は寛永元年(1624)と伝えられる。ゆったりした広い境内は都心の寺院とはちょっと違う雰囲気を持っている。江戸時代は弥五郎新田の菩提寺だったと思われるが、長性寺は開基岡村紀宿元春以来地元岡村家の菩提寺だったとも伝えられる。

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山門を入ると右手には墓所が広がり、左手には無縁仏が集められ、地蔵堂が立っている。地蔵堂の手前には一対の燈籠が立っているが、この竿部にはそれぞれ三地蔵、左右で六地蔵が陽刻されていた。

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堂内の中央には地蔵菩薩半跏像が祀られている。延命地蔵尊とのことだが、造立年は享保4年(1719)11月で、五反野村の地蔵講中が盛んでその講中によって建立されたという。

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無縁仏塔群の脇には自然石で造られた馬頭観音が立っている。比較的大きなもので、裏面には昭和12年(1937)2月の造立年が刻まれており、願主名は中村氏と石橋氏の名前がある。

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無縁仏群の後ろの方に舟型光背型の阿弥陀如来像がある。阿弥陀如来の左肩に「奉造立庚申供養二世安全所」とあるので、庚申講中による建立である。造立年は寛文4年(1664)10月と古く、寺の創建から間もない時代のものである。

場所  足立区西綾瀬3丁目19-19

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2022年7月 5日 (火)

民家塀の庚申塔(足立区西綾瀬)

綾瀬駅の西を流れる綾瀬川。かつては日本一汚い川として有名だった。1980年から15年連続でワースト1の座をキープしたが、近年は水質改善が進みかなりきれいになってきた。そんな綾瀬川だが堤防はカミソリ堤防で、川と人々の間が刑務所のように分断されているのは残念である。

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そんな綾瀬川右岸(西岸)のある民家の塀に凹みがあり、その中に駒型の庚申塔が祀られている。なかなか広いお宅で、古い地図を見てみると子には江戸時代から民家があったようだ。

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庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄だが、三猿は左の一匹が摩滅で確認できなくなっている。側面には「丹波野講中」とあり、造立年は文化2年(1805)11月と記されている。綾瀬川は江戸時代からある農業用水河川で、江戸時代は東側が五兵衛新田、西側が弥五郎新田と呼ばれていた。丹波野というのは、ここから400mほど北に丹波野公園という区立公園があることから、この辺りの古い小字と思われる。

場所  足立区西綾瀬4丁目2-25

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2022年7月 4日 (月)

路傍の馬頭観音(足立区綾瀬)

足立区綾瀬の綾瀬駅北部は五兵衛新田と呼ばれた農村地帯であった。綾瀬駅は現在は大きな駅前の商業ゾーンを持つ駅だが、常磐線に綾瀬駅が出来たのは昭和18年と新しい。馬頭観音がある場所は江戸時代から五兵衛新田と北にある嘉兵衛新田を結ぶ主要路だった。嘉兵衛は現在では加平と呼ばれる地域のことである。

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中華料理屋の脇の駐車スぺースの一画に屋根があり、その下に板駒型の馬頭観音が祀られている。摩滅が激しくて造立年やその他の情報については全く読み取れない。

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足立区の資料によるとこの場所にはかつて明和2年(1765)造立の庚申塔があったということが記されていた。しかし探してみたが庚申塔は見つからない。それでも今もなおこの馬頭観音を守る人がいることは想像できた。

場所  足立区綾瀬4丁目20-17

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2022年7月 3日 (日)

観音寺の石仏(足立区綾瀬)

常磐線綾瀬駅西口からすぐのところにある真言宗の観音寺。創建は江戸時代の初期だと伝えられる。この辺りは江戸時代に入って開発が進み、五兵衛新田と呼ばれていたらしい。その時代からの地元の菩提寺である。

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境内に入るには左の方にある勝手口のような門から。本堂前にあるのはひときわ大きな舟型光背型の聖観音立像で、造立年は寛文4年(1664)極月(12月)と刻まれている。「奉造立庚申供養二世安穏所也」とあるので、庚申講中による建之である。下の方には右に10名、左に8名の願主名が刻まれている。

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左脇にある駒型の庚申塔は、寛政10年(1798)11月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、左手にはショケラを下げている。右側面には「庚申講中廿五人」とある。右の一部欠損した舟型の地蔵菩薩像は元禄4年(1691)8月のものだが墓石らしい。

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3基の後ろには2基の石仏がある。左は舟型の丈菩薩像で、文政10年(1827)3月の造立。「為有縁無縁先祖代々菩提」と書かれている。右の舟型光背型の如意輪観音像は上部が欠損している。造立年は全く同じで、分析10年(1827)3月。こちらには「先祖代々三界万霊増進仏果」と書かれている。脇にある願主名「現住憲澄代 金子左内」というのも同じなので同時に建てられたものだろう。

場所  足立区綾瀬4丁目9-6

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2022年7月 2日 (土)

根岸幼稚園前庚申塔(台東区根岸)

資料には根岸小学校前とあるが正確には根岸幼稚園前である。とても有名な庚申塔群で、あちこちで紹介されている。外から見えるのは3基だが、コンクリートの堂宇の中にも1基あり、計4基の庚申塔が祀られている。

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コンクリートの堂宇の中には資料によると、天明5年(1785)7月造立の駒型庚申塔がある。もとは安永元年(1772)に造立されたものだが、破損等により僅か13年後に根岸・新田講中が再建したとされる。今回は隙間からも撮影が困難であったため、写真は宿題となった。

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一番左の手水鉢の脇にあるのは舟型光背型の聖観音立像。造立年は寛文8年(1668)9月と古いものである。正面には「庚申供養二世安樂所」と刻まれており、下部に願主名が6人銘ある。中央部分斜めに折れたような跡が残っている。

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右隣りにあるのが駒型の庚申塔で、三角形の配置で三猿が描かれている。造立年は元禄16年(1703)9月である。これも保存状態はかなり良い。

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堂宇の脇にあるのは板碑型の庚申塔。下部に三猿が陽刻されている。中央には「奉待庚申供養二世安樂所」と刻まれている。三猿の下には11人の施主願主名が記されている。庚申塔の上部にある扁額には、「猿田彦大神」と大きく中心に書かれており、「日光山中禅寺立木観音講」とある。ずらりと並ぶ木板の千社札が素晴らしい。

場所  台東区根岸3丁目9-7

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2022年7月 1日 (金)

西蔵院の庚申塔(台東区根岸)

台東区にある真言宗の西蔵院は不詳ながら寺伝では推定1400年代としている。2012年に落成した山門を額縁に見立てて本堂を見る。この場所にはかつて根岸小学校があったらしい。先代の林家三平の出身校である。明治7年(1874)に開校し、大正に入るまでここに在ったようだ。

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江戸時代この辺りは金杉村根岸という土地で、切絵図にはウグイスの絵が描かれている。JR山手線の鶯谷駅のもとになったウグイスである。ただ現在の地名に鶯谷はない。江戸時代に寛永寺の住職として京都から皇族が赴任してきていた。元禄時代に公弁という住職が「江戸の鶯は訛っている」と言ってわざわざ京都から鶯を運ばせて放したという伝説がある。

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山門をくぐると左手に堂宇があり、珍しい石仏が祀られていた。笠付の角柱だが、3面にそれぞれ二地蔵が描かれ、四面六地蔵となっている。三吉朋十氏は有蓋四面塔と記している。造立年代は不明。そもそも有蓋の四面六地蔵はここと文京区向丘の蓮光寺にしかない、極めて珍しいものらしい。ただ蓮光寺でその存在には気づかなかった。

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本堂の左手、墓所への入口に多数の石仏が並んでいる。どうも拝観を好んで受け入れていないようで、さっと撮影するのみであった。手前にあった写真の板碑型庚申塔は文字塔で下部に蓮花が描かれている。造立年は宝永5年(1708)霜月(11月)とある。中央には「奉待庚申爲供養」とあり、脇に願主名が8人銘刻まれていた。

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その先にあるのが板碑型だが中央に三猿が陽刻されている庚申塔で、下部には蓮華と蓮葉が描かれている。造立年は寛文8年(1668)8月と古いもの。中央上部には「奉待庚申供養二世安樂処」とあり、三猿の下には8名の願主名がある。

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継にあるこの舟型光背型の地蔵菩薩像は、足元に三猿があることで庚申地蔵とすぐに分かる。地蔵の右手には「奉造立庚申供養」と大きく書かれており、造立年は欠損していて読めないが、資料によると正徳元年(1711)7月らしい。「金杉村講中」の銘がある。

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庚申地蔵の右隣りにある板碑型の石仏だが、どうも庚申塔らしい。下部には蓮華が陽刻されているが、文字はほとんど読めない。造立年不明だが、資料でもよく分からない。

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少し先にある駒型の庚申塔は上中部が折れて補修した跡があり、書かれていた文字などは殆ど分からない。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されている。左手にあるのは資料によるとショケラらしい。おそらく3つに割れてしまったものを何とか修復したようである。

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さらに奥にある板碑型の庚申塔は左肩が欠損している。造立年は最も古く明暦2年(1656)12月とある。この翌月に明暦の大火が起こっている。下部には線刻の蓮華があり、正面には「庚申供養修営貴躰」「寒念佛明暦ニ丙申天」「一生成辨極月吉辰」とある。縁にある文字は「願主金杉村」「内田丹後修行之」と刻まれている。

場所  台東区根岸3丁目12-38

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2022年6月30日 (木)

世尊寺の石仏(台東区根岸)

根岸にある真言宗の世尊寺は豊島氏の左近将監輝時が開基となり、応安5年(1372)に創建したという古い寺。この辺りは江戸時代は金杉村という村で、金杉通りという通り名にその名は今も残っている。金杉通りはかつての日光街道である。

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山門をくぐると左右に立派な堂宇がある。左の堂宇は子育地蔵と書かれている。おそらくは中央に祀られている全体的にとろけた様子のお地蔵様が中心の子育地蔵だと思われるが、左右にも丸彫の地蔵尊が立っている。

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後ろの壁には沢山の小さな舟型地蔵が奉納されていて、小さいながら存在感を出している。台石には「角尾張 見世 二階中」と書かれているが意味は分からない。

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その少し先にあるのが笠付の地蔵六面幢である。地蔵の六面幢は珍しいが、旧下谷区には5基が纏まっている。そのうちのひとつがこの六面幢である。造立年は文化11年(1814)11月と台石に書かれている。台石正面には「地蔵尊像壱基 百萬紙供養塔」とあるが百万遍の誤字だろうか。

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その先の無縁仏塔の頂上にある舟型光背型の石仏は墓石ではないようだ。「奉造立地蔵尊庚申講衆二世安樂攸」とあるので庚申地蔵である。造立年は元禄6年(1693)2月とある。なかなか美しい彫りの地蔵菩薩像である。

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反対側の堂宇にはとても珍しい線刻の六地蔵碑が祀られている。その脇には念仏車があり、これもなかなか良いものである。六地蔵臂は文久3年(1863)7月の造立。台石にはなぜか8月と刻まれていた。願主名は村田市兵衛の名がある。

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本堂左の墓所への通路脇に珍しい駒型の庚申塔が立っている。駒型なのに造立年は延宝2年(1674)11月とかなり古い時代のもの。日月、青面金剛像、その脇に二童子、足元には四夜叉があり、その下に一猿と二鶏が陽刻されている。このパターンは他に例がないのではないかと思う。少なくともこれまでに見た庚申塔にはなかった。

場所  台東区根岸3丁目13-22

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