2017年12月13日 (水)

弥生坂(根津)

日本の古代史は縄文時代、弥生時代に始まる。 縄文時代は土器の紋様が縄目だったことでわかるのだが、弥生時代というのはいったいどういう意味なのだろうと、これまで思ったことはなかった。 東大の間を根津に向かって下ると、右手に弥生式土器発掘ゆかりの記念碑が立っている。

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東京大学工学部は根津駅近くの本郷台地の縁にある。 工学部の敷地はかつて浅野家の邸宅だったが、明治20年(1887)に東京大学の敷地となった。 その少し前明治17年(1884)、東大の研究者たちは根津の谷に面した貝塚から赤焼の壺を発見し、縄文式土器とは明らかに異なることから、ここの地名を冠して「弥生式土器」と名付けた。 その土器が発掘される時代をそれ以降弥生時代と呼んだ。

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この通りは言問通りという都道である。 台地の縁なので、最後にぐっと高低差を示す。 この坂が弥生坂である。 坂上に説明板がある。

「弥生坂(鉄砲坂): かつてこの辺り一帯は「向ヶ岡弥生町」といわれていた。 元和年間(1615~1624)の頃から、御三家水戸藩の屋敷(現東大農学部、地震研究所)であった。 隣接して、小笠原信濃守の屋敷があり、南隣は加賀藩前田家の屋敷(現東大)であった。

明治2年(1869)これらの地は明治政府に収公されて大学用地となった。明治5年(1872)には、この周辺に町屋が開かれ、向ヶ岡弥生町と名付けられた。その頃、新しい坂道がつけられ、町の名をとって弥生坂と呼ばれた。明治の新坂で、また坂下に幕府鉄砲組の射撃場があったので、鉄砲坂とも言われた。

弥生とは、水戸徳川斉昭候が、文政11年(1828)3月に、この辺りの景色を読んだ歌碑を、屋敷内に立てたからという。」

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弥生坂の坂下の谷を形成したのは藍染川という小さな川である。 この川が本郷台地と上野台地の間の広い谷を作った。 この坂下をそのまままっすぐに進むと善光寺坂を上って上野寛永寺になる。 藍染川は流下して不忍池に注いでいた。

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2017年12月12日 (火)

暗闇坂(本郷)

東京大学(本郷)の敷地は加賀藩前田家の上屋敷だった。 加賀藩といえば前田利家で有名な100万石のトップ大名である。赤門はその加賀藩邸の門で、加賀藩邸の敷地は東京ドーム7個分以上の広さがあった。 また下屋敷の一つが今の東京大学駒場キャンパスというわけで、東大は加賀藩の一部と言っていいかもしれない。 その東大本郷キャンパスの裏手を本郷台地から不忍池に向かって下っていくのが暗闇坂である。

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大名屋敷の裏ということで暗い道だったはず。 反対側は坂上は水戸藩の中屋敷、坂下は寺が立ち並んでいたので、鬱蒼とした樹木の間の道だったと思われる。 現在は勿論明るい道で、東大工学部の煉瓦塀が美しい。

坂の途中に説明板がある。

「江戸時代は、加賀屋敷北裏側と片側寺町の間の坂で、樹木の生い茂った薄暗い寂しい坂であったのであろう。 江戸の庶民は、単純明快にこのような坂を暗闇坂と名付けた。 23区内では同名の坂は12ヶ所ほどある。区内では、白山五丁目の京華女子高校の裏側にもある。(後略)」

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弥生門前に弥生美術館があり、竹久夢二の絵を展示している。 そのため休日はこの狭い歩道を連れ立って女性たちが歩いている。 独特の乙女チックな描画は嫌いではない。 風景画も多く描いている。ただ夢二ブランドというものが出来上がってしまい、本人は風景画を描きたいのに女性画しか売れないと嘆いていたようだ。

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2017年12月11日 (月)

小篠坂(護国寺)

小篠坂(小笹坂)以外に乞食坂の別名がある。 護国寺から池袋へ首都高5号線が走るがその下の道路の一部にあたる。江戸時代は護国寺西側に本浄寺があり、そこから池袋方面に下る坂だった。現在も坂沿いに本浄寺がある。 明治末期以降池袋からの都電がここを走るようになった。 明治期にこの辺りに非人小屋があり、それで乞食坂と呼んだ時代があったようだ。

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坂の説明板には次のように書かれている。

「豊島区と境を接する坂である。 この坂道は、江戸の頃、護国寺の北西に隣合ってあった〝幕府の御鷹部屋御用屋敷(おたかべやごようやしき)″から、坂下の本浄寺(豊島区雑司ヶ谷)に下る道として新しく開かれた。 往時は笹が生い茂っていたことから、この名がついたものであろう。

坂下一帯は、文京の区域も含めて、住居表示改正まで、雑司ヶ谷町とよばれていた。 近くの目白台に長く住んだ窪田空穂は、次のように詠んでいる。

雑司ヶ谷 繁き木立に  降る雨の  降りつのりきて  音の重しも  」

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坂の東側は明治以降陸軍の墓地だった。 そこが共同墓地になり、のちに青柳小学校に一部が提供された。地形的には上っているのか下っているのかわかりにくい。 というのも護国寺前から東に水窪川、西に弦巻川が分かれており、護国寺前の標高が17m、坂のカーブの部分が15m、そこから雑司ヶ谷霊園に向けて再び上りになる。 とても緩やかな坂である。

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2017年12月10日 (日)

薬罐坂(目白台2丁目)

ユーミンが松本隆から作曲を依頼された際に、自分の名前を出さない条件で受けた折の作曲者名が呉田軽穂だった。 そのペンネームのモチーフはハリウッド女優のグレタ・ガルボ(Greta Garbo)だった。 しかしよく似た名前が日本の歌人にいる。 その名前は窪田空穂(くぼたうつぼ)である。 クレタ・ガルボよりも30年ほど前の時代の人だが、私はユーミンは窪田空穂も意識していたのではないかと想像している。

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窪田空穂の話を出したのは、この薬罐坂の上に彼が住んでいたからである。 薬罐坂の別名は夜寒坂。 坂の途中に説明板がある。

「江戸時代、坂の東側は松平出羽守の広い下屋敷であったが、維新後上地され国の所有となった。現在の筑波大学付属盲学校一帯にあたる。 また、西側には広い矢場があった。 当時は大名屋敷と矢場に挟まれた寂しい所であったと思われる。

やかん坂のやかんとは、野猂とも射犴とも書く。 犬や狐のことをいう。 野犬や狐の出るような寂しい坂道であったのであろう。 また、薬罐のような化け物が転がり出た、とのうわさから、薬罐坂と呼んだ。 夜寒坂のおこりは、この地が「夜さむの里道」と、風雅な呼び方もされていたことによる。

この坂を挟んで、東西に大町桂月(1869~1965、評論家・随筆家)と、窪田空穂(1877~1967、歌人・国文学者)が住んでいた。 (後略)」

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薬罐坂を下ると不忍通りに出る。 東へ行くと護国寺だが、広い不忍通りの南北に斜めに接する細道がある。 どちらも江戸時代からの道で、清戸坂から護国寺へ繋がっていたのが北側の平坦な方の道。 南側の少し坂になった道は筑波大学付属盲学校にぶつかり、南に折れると東大病院分院跡沿いに三丁目坂の上に出る。

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2017年12月 9日 (土)

幽霊坂(女子大)

目白通り日本女子大の西側の路地、豊坂から見ると目白通りを渡った道の続きが幽霊坂である。 和敬塾脇を下る路地も幽霊坂だったが、こちらはもっと古く、江戸時代からの幽霊坂。 江戸切絵図にもこの路地があり「ユウレイサカ」と書かれている。

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幽霊坂は清戸坂に向かって緩やかに下っていく。 東側の塀は日本女子大、かつては西側に本住寺がありこの辺りはその墓地だった。 幽霊坂という名の坂は東京に数か所あるが、墓地の傍が多い。 暗闇坂や三年坂も同じく墓地や寺院のある所につけられた名前。ただ近くにある和敬塾の幽霊坂は近年地元で呼ばれるようになったもので由来は違う。

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坂下から見上げると西側のマンションが影を暗くしているが、かつては墓地の幽霊坂側には竹垣があり、竹の間から墓地が見えたという。 坂の別名を遊霊坂ともいう。 東側の日本女子大は明治34年(1901)に成瀬仁蔵によって創立された。 江戸時代は旗本屋敷が数軒並んでいた。

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清戸坂(目白台)

清戸というのは現在の清瀬市あたり、江戸時代の延宝4年(1676)に尾張徳川家の御鷹場御殿が中清戸(現在清瀬市内)にできてから、将軍が鷹狩りに通う道が開かれたのが清戸道(目白通り)。 当時は江戸川橋から目白坂を上り、日無坂の坂上の現日本女子大前を西へ通るのが清戸への鷹狩り道だったわけだ。 その日無坂上から護国寺に下る道が、清戸道へ上がる坂道ということで清戸坂と呼ばれた。

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現在は4車線の広い道になっている。広いので傾斜はあまり感じないが、8mほどの高低差がある。 女子大側の歩道に文京区と東京都のそれぞれの説明板が立っている。

坂上幽霊坂出合いの目白通り寄りに文京区の説明板。

「延宝4年(1676年)、御三家尾張徳川家の御鷹場が中清戸(現 清瀬市)につくられた。将軍もしばしば出かけて鷹狩りを行った。これが現在の目白通りである。首都高速道路(5号線)護国寺出入口(護国寺側)から 目白通りに向かっての広い道は、昔から〝清戸道に登る坂″ということで『清戸坂』といわれた。

江戸時代、この坂の北側一帯は、雑司ケ谷村の畑(現在の雑司ケ谷墓地)で、坂の道に沿って雑司ケ谷清土村百姓町があった。明治10年代から坂の北側には牧場と牧舎が建ち、平田牧場と言った。牛乳を売る小売店があり、人々が休憩した。旗竿には、『官許の牛の乳』と仮名とローマ字で書かれていたという。」

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そこから護国寺方面へ歩いていくと女子大の敷地の端近くに東京都の説明板がある。 これはあの青銅っぽい読みにくいタイプ。

「目白台上の目白通りは、江戸時代清戸道といった。中清戸(元清瀬市内)に御鷹場御殿があり、将軍が鷹狩に通う道が造られた。これが清戸道である。この清戸道から護国寺に下るわき道が清戸坂で,清戸道へ上る坂ということで 坂名がつけられた。坂道の北側に雑司谷清土村があったので清土坂とも呼ばれた。」

読み方は清戸(きよと)道に清土(せいど)村である。

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2017年12月 8日 (金)

日無坂(目白台)

この坂はとても魅力的な坂道である。 坂上は目白通りに出る手前で富士見坂に合流する。もっとも眺め甲斐があるのが坂の上から富士見坂と日無坂を並べて見る景色。 この日無坂は文京区と豊島区の区境でもある。細い路地を隔ててお向かいさんはほかの区の人というわけだ。

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まずは坂下から歩く。入口はわかりにくい。豊川浴泉の一本西の路地を北に入るところに、「この先階段につき…」という看板が出ている。また、電柱と角の塀に「目白台一丁目13」の住所表示板があるので、そこから入っていく。細路地が緩やかに上っていく。

江戸時代はこの坂の東側は大岡家の大名屋敷。 切絵図には「ヒナシサカ」と描かれているので、江戸時代からの坂道である。

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路地はだんだん細くなり、最後は階段になる。細路地に植木鉢という江戸情緒のある風景である。人気のある坂なのに説明板がないのは区境だからだろうか。 坂道の説明版や標柱は主に区が設置している。 縦割り区割りの弊害で名坂であっても区境はお互いの領域を侵さないという忖度が働くのかもしれない。

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坂の最上部に来るとさらに狭まってくる。 しかしこれは区境の道、こんなに接近しても別の区のお向かいさんなのだ。

『新撰東京名所図会』に、「ひなし坂は当町(高田豊川町)の南西角。すなはち駒塚橋の通りより北の方雑司ヶ谷に上る坂をいふ。其の路甚だ狭隘(きょうあい)にして、小車を通ずるを得ず。僅かに一人づつの歩を容るのみ。左右樹木等にて蔽ひ居れば、日無坂の義にてかく呼ぶならむか。」とあるように、昔は暗くて鬱蒼とした細路地の階段だった。

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上の写真の左側が日無坂、右側が豊島区の富士見坂である。日無坂には東坂の別名もあって、どうも街道筋だった宿坂の東側にあるからだという説が有力。最上部の富士見坂に挟まれた細い敷地の民家の雰囲気が素晴らしい風情だが、いかんせん老朽化が激しいのでいつまでこの風景が残っているか不安である。

この坂上からの展望はまさに絵になる。新宿の高層ビル群を遠望しながら、戦災で焼ける前の日無坂の鬱蒼とした森のような景色を想像してみる。 富士見坂は昭和に入ってからの開通なので、大正期まで戻ると日無坂のみの風景になる。

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2017年12月 7日 (木)

小布施坂(目白台)

日本女子大からさらに目白通りを西に向かうと、目白台1丁目遊び場という公園があり、その脇を車は入れない道が下っていく。 小布施坂である。 最初はコンクリート舗装の道路だが、すぐに数段の階段がぱらぱらと現れる。

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坂の上の標高は29mで坂下が9mだから20mの高低差がある。 小布施坂は長い坂道だから勾配はそれほどでもないが、なぜか階段で坂上近辺は歩行者のみのアプローチになる。 ただ子供の遊び場という観点では、こういう道路は平地にもたくさん作ってもらいたい。 昔は空き地が子供の遊び場だったが、管理責任なんていう迷惑なものがあって昨今の空き地はどこも完全に隔離されてしまうから、せめて公共の道路だけでもそういう措置は欲しいものである。どうも自分以外に責任を負わせようとする風潮がこの国に蔓延して来たようなうら寂しい思いがしてならない。

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少し下っていくと傾斜は急になる。  昭和の家屋と塀が坂道にマッチしているいい景色だ。この崖上からの新宿高層ビルの眺望はなかなかのものがある。 坂の上の公園脇に説明板が立っている。「おぶせ」ではなく「こぶせ」と読む。

「江戸時代、鳥羽藩主稲垣摂津守の下屋敷と、その西にあった岩槻藩主大岡主膳正の下屋敷の境の野良道を、宝暦11年(1761)に新道として開いた。その道がこの坂である。坂の名は、明治時代に株式の仲介で財をなした小布施新三郎という人の屋敷がこのあたり一帯にあったので、この人の名がとられた。古い坂であるが,その名は明治のものである。」

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坂下には豊川浴泉という銭湯がある。 昔ながらの外観で、小布施坂のこともこの銭湯のホームページにある。 入ったことはないが懐かしく面白い銭湯のようだ。

残念なことが一つ、小布施坂の脇を道路建設が着々と進んでいる。 どうも豊明小学校の下をトンネルで貫いて不忍通りの清戸坂に出るような気配。 立ち退きはほぼ終わっているので、時間の問題だろうが、目白台の崖線を壊されるのはいささか気になる。

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2017年12月 6日 (水)

豊坂(目白台)

目白台運動公園の西隣は田中邸。数千坪を物納したあともまだビルが二つばかり建つくらいの敷地がある。 私事だが昔、上野毛に住んでいた時、近所に小佐野賢治邸があった(今もある)が、それも多摩川河岸段丘に一辺300m程の広い敷地だった。 わたしの世代にとってロッキード事件というのはとても大きなエポックだったものである。

田中邸の向かいには日本女子大(通称ポン女)、西隣には女子大付属の豊明幼稚園と豊明小学校があり、幼稚園と小学校の間を神田川に向かって下るのが豊坂である。この辺の旧町名は高田豊川町といい、江戸時代は大岡越前の家系である埼玉県の岩槻藩主大岡主膳正(じゅぜんのしょう)、三重県の鳥羽藩主稲垣摂津守、兵庫県の安志藩主小笠原信濃守らの大名屋敷だったエリアを町屋にしていった。

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坂の途中に説明板が立っている。

「坂の名は、坂下に豊川稲荷社があるところから名づけられた。江戸期この一帯は、大岡主膳守の下屋敷で,明治になって開発された坂である。坂を下ると 神田川にかかる豊橋があり、坂を上ると日本女子大学前に出る。

目白台に住んだ大町桂月(けいげつ)は『東京遊行記』に明治末期このあたりの路上風景を、次のように述べている。「目白台に上れば,女子大学校程近し。さきに早稲田大学の辺りを通りける時、路上の行人はほとんど皆男の学生なりしが、ここでは海老茶袴をつけたる女学生ぞろぞろ来るをみるにつけ、云々」

坂下の神田川は井之頭池に源を発し、途中、善福寺川、妙正寺川を併せて、流量を増し、区の南辺を経て、隅田川に注いでいる。江戸時代、今の大滝橋のあたりに大洗堰を築いて分水し、小日向台地の下を素堀りで通し、江戸市民の飲料水とした。これが神田上水である。」

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豊坂は幼稚園の南端でクランクして下っていく。、坂下に豊川稲荷というが、実際の豊川稲荷はこの豊坂の坂下よりも随分と東の幽霊坂下肥後細川庭園寄りにある。 明治33年(1900)に日本女子大が創設され、大正6年(1917)に坂下の早稲田車庫前まで市電が伸びると、この坂は女子大生で賑やかな通学路になった。しかし 当時の坂道は舗装もされておらず、悪天候の日には彼女らはたいそう難儀をしたことだろう。

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幽霊坂(目白台・和敬塾)

目白通りを目白駅方面に歩くと、古い味噌蔵のような建物があり、路地を挟んで小石川消防署老松出張所がある。 旧細川邸にある和敬塾は学生寮。 7000坪の敷地にいくつもの寮が建てられているが、結構古い建物も混じる。 かつての塾生には村上春樹がいて『ノルウェイの森』はこの和敬塾がモチーフである。

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和敬塾の脇を下っていくと、だんだん細く暗い坂道になって下っていく。 この道は細川家が整備して、その後和敬塾の管理となった私道である。昔から大きな木立が両側にあって、またあまり人も通らない寂しい道であった。

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坂の西側は目白台運動公園。 実はこの公園のかなりの面積は、かつての目白御殿、田中角栄の屋敷だった場所。 昭和の宰相としていまだに高い人気を誇る田中角栄だが、晩年は見ていて可哀想なほどだった。 この公園のうち2,000㎡は旧目白御殿の敷地である。(公園の西隣に狭くなった田中邸がある)

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両側から壁が迫ってくるくらい幽霊坂を下るとぱっと開けるような場所に出る。この寂しい坂道を利用して、地元の人々が肝試しの会を行ったという。そして誰ともなく幽霊坂と呼び始めたといわれる。

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坂道はさらに下っていき、左手には肥後細川庭園の松聲閣と公園が広々として陽光を浴びている。 訪問時は松聲閣と公園を整備していたが、もう出来上がっているはずである。ここは熊本の細川家の下屋敷の庭園を一部残した形の回遊式庭園になっている。 上の写真のポリスボックスは田中邸があった時代の名残だが、いつ取り壊されてもおかしくない状態でずっとある。(もしかしたら今はもうないかもしれない)

近辺は散歩するにはもってこいの楽しい崖線である。

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2017年12月 5日 (火)

目白新坂(目白台)

目白通りの起点は九段下である。 江戸川橋からは一旦新目白通りと名を変えて、その先は関越道の入口までを目白通りとしている。 文京区内では、江戸川橋から護国寺方面へ向かいすぐに西側に接続する4車線の目白通りがある。 ここが目白新坂である。別名を椿坂という。

この辺りの旧町名は関口だが、鎌倉時代からこの崖線は椿の名所で、里俗に椿山と呼んだ。 山形有朋がここに屋敷を建てた折に、その屋敷を椿山荘と呼んだのが、現在の椿山荘の名残である。 大正期以降は財閥藤田家の所有で、戦後藤田観光が椿山荘としてオープンした。古来からの椿山の名前が椿山荘として残ったわけだ。

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坂の中腹北側に東京都の建てた青銅?の説明板がある。

「この坂より南にある目白坂のいわばバイパスとして、明治20年代の半ば頃新しくつくられた坂で、古い目白坂にたいして 目白新坂という。明治末に書かれた「新撰東京名所図会」によると「音羽8丁目と同9丁目間より西の方関口台町へ上る坂あり椿坂という、近年開創する所、坂名は椿山の旧跡に因むなり、里俗又新坂ともいへり、道幅広く、傾斜緩なり」とあり、椿坂、新坂ともいう。」

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急だった目白坂のバイパスとして明治20年代に開かれた坂だが、都電はここを通っていない。 しかし当時から広い道だったようだ。 その昔は南の目白坂から目白通りは清戸道といい、江戸川橋と清瀬を結ぶ古い街道だった。 目白坂には、江戸時代に「立ん坊」と呼ばれる自由労働者がたむろしていた。この坂で農民が農産物や下肥を満載した荷車を上り下りさせる際に手助けし、その駄賃で生活していたというが、この新坂ができてから彼らはどうしたのだろうと、今は昔のことを想像してしまう。

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目白坂(目白台)

目白通りの坂は目白新坂で、椿山荘の正門前で出合う旧道が目白坂である。 新坂があまりにきれいな道路なので最近の坂かと思いきや、新坂も明治の後半には開通していた。 もちろん江戸時代はこの目白坂が主要道路である。この辺りは台地の縁なので、大名屋敷が多かった。 坂上には肥後熊本の細川家の下屋敷があったが、それは今「永青文庫」のあるブロックである。

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江戸川橋から護国寺方面へ進み、江戸川橋公園前の交差点を左折して首都高速道路をくぐると目白坂の始まり。 現在も大泉寺や永泉寺などの寺があるが、江戸時代はこの辺りに数軒の寺あった。 神田川側(南側)の寺院は目黒不動別当新長谷寺、蓮華寺ともに今はない。しかし坂の雰囲気はその曲がり方と八幡宮辺りの樹木のおかげで江戸情緒を残している。

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坂下に説明板が立っている。

「西方清戸(清瀬市内)から練馬区経由で江戸川橋北詰にぬける道筋を「清戸道」といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通り、このあたりから音羽谷の底地へ急傾斜で下るようになる。 この坂の南面に、元和4年(1618)大和長谷寺の能化秀算僧正再興による新長谷寺があり本尊を目白不動尊と称した。そもそも3代将軍家光が特に「目白」の号を授けたことに由来するとある。

坂名はこれによって名付けられた。『御府内備考』には「目白不動の脇なれば名とす」とある。かつては江戸時代「時の鐘」の寺として寛永寺の鐘とともに庶民に親しまれた寺も明治とともに衰微し,不動尊は豊島区金乗院にまつられている。」

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坂上にある椿山荘は山形有朋の屋敷跡。 別名不動坂と呼ばれたのはここに長谷寺があり、その中に目白不動があったからである。 長谷寺は戦災で焼けてしまった。 ここが目白の地名の由来なのだが、その元が消えてしまったのは残念なことである。

江戸時代幕府に大きな影響を与えた上野寛永寺の天海(慈眼大師)が、江戸の守護のために5色の不動像を作り、目黒、目白、目青、目赤、目黄を設置したのがはじまりである。目赤不動は本駒込、目青不動は世田谷区太子堂、目黄不動は江戸川区平井にある。(ただし目黄不動だけは複数ある)

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2017年12月 4日 (月)

開運坂(大塚)

面白い坂名である。 不忍通りの富士見坂から坂下通りを大塚に向かって進むと、吹上稲荷神社がある。元和8年(1622)創建、宝暦元年(1751)に旧大塚村の総鎮守となったのち移転を何度かしたがここに落ち着いている。境内には牛馬車止地などと彫られた古い石碑なども転がっていて、その無造作ぶりが面白い。

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坂下通りは水窪川の川筋の暗渠道なので当然谷底の道筋である。東側が小石川台地の首根っこ、西側が雑司ヶ谷の台地になり、吹上稲荷は雑司ヶ谷側の斜面にある。昔の町名は大塚坂下町。古い町並みも若干残っていて歩いて楽しい。 吹上稲荷の裏手はとてつもなく広い豊島岡墓地で皇族の墓所として有名。もとは護国寺の領地だったが明治政府が取り上げた。 標高が34mと高いので権現山と呼ばれていたようだ。

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坂下から少し上ったところに説明板がある。

「坂名の由来についてはよくわからないが、運を開く吉兆を意味するめでたい名をつけたものであろう。このあたりは、富士見坂(大塚3丁目の交差点から護国寺前)の下であるところから、旧町名を大塚坂下町といった。それでこの坂の下の道を坂下通りとも呼んでいる。

坂の上の南側には、5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の願いで建てられた護国寺がある。護国寺の東側には、明治6年(1873)に開かれた豊島岡墓地(皇族墓地)がある。豊島岡墓地の東側は、大塚先儒墓所である。江戸時代の公明な儒学者である木下順庵、室鳩巣、尾藤二州や古賀精里などの墓がある。」

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文京区が発行している『ぶんきょうの坂道』に開運坂の由来が判明したという記述が載っていた。 かつて坂上には講道館の道場があった。 その講道館の古い資料に、師範である嘉納治五郎がこの坂を開運坂と命名したとあるそうだ。しかし何故嘉納治五郎がそう命名したかはわからない。

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2017年12月 2日 (土)

富士見坂(大塚)

白鷺坂を上り詰めると大塚三丁目交差点、国道254号(春日通り)と不忍通りが交差する。 そこから護国寺へ向かって下る不忍通りが富士見坂である。 不動坂ともいう。

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坂下に説明板には、「坂上からよく富士山が見えたのでこの名がある。 高台から富士山が眺められたのは、江戸の町の特色で、区内にはも同名の坂が他に二か所ある。 坂上の三角点は、標高28.9mで区内の幹線道路では, 最高地点となっている。 むかしはせまくて急な坂道であった。 大正13年(1924)10月に、旧大塚仲町(現大塚3丁目交差点)から護国寺前まで電車が開通した時、整備坂はゆるやかになり、道幅も広くなった。 またこの坂は多くの文人に愛され、歌や随筆にとりあげられている。」とある。

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大正13年(1924)に電車が通るまでは狭くて急な長い坂だったが、電車を通すために傾斜をなだらかにし拡幅した。ところが盛土をしたので、並んでいた商店が道よりも低くなり軒より下が崖下に隠れるという状態になってしまって気の毒だったという記述がある。坂下通りの角の蕎麦屋など、今でも道路わきの数軒は道路よりも低いところに立ち上がっているが、その名残だったというわけだったのである。

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2017年12月 1日 (金)

白鷺坂(大塚)

文京区の地形は西から、目白台、弦巻川と水窪川の音羽谷、小日向台地、小石川台地、千川(小石川)の谷、本郷台地と、台地と削られた谷とで形成されている。 文京区の北部は大塚だが、大塚の北に豊島区南大塚があるのはいささか地名の違和感を感じる。

そんなアップダウンの地形を東西に横切るのが不忍通り。 本郷台地から猫又坂で下ると、千川跡を過ぎてから小石川台地へ白鷺坂で上っていく。 大通りだから大河のようにゆったりと登っていく(下っていく)感じがする。

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坂下の標高は11mだが坂上は28m、高低差が17mもあるのに大通りで緩やかに登るので車だとあまり傾斜を感じないし、歩いていても緩やかな上りがだらだら続く感じである。 大塚小学校の前の千石三丁目バス停後ろの植え込みに説明板が立っている。

「このあたり一帯は、かつて伊達宇和島藩主の下屋敷であった。近くの区立大塚小学校地は、池を中心とした伊達屋敷の庭園部に相当すると伝えられる。明治時代を迎えて荒廃するが、「古木老樹がうっそうとしげり白鷺の集巣地となって日夜その鳴声になやまされたものである。」とは土地の古老の話である。この白鷺にみせられたアララギの歌人古泉千樫は、ここに毎日通いつめて白鷺を題材とした短歌をつくったといわれる。

明治末期の東京市区改正に伴う道路整備によって不忍通りの前身が伊達屋敷内を貫通したため往時をしのぶものもなく、そこにできたこの長い坂道にも坂名のないままであったが誰いうとなく白鷺にちなんだ坂名が愛称となった。大正から昭和にかけての人によってつけられた坂名といえる。」

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明治末期に都電が走るまでは、この道は狭い道だった。 千川の両岸には多数の池があり、当然白鷺などの水鳥も多く飛来したことだろう。 明治の地図では大塚小学校の辺りは伊達邸とある。 宇和島藩主が明治の中頃まで住んでいて、飛来する白鷺を保護していた。

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2017年11月30日 (木)

宮坂(千石)

豊島区南大塚1丁目と文京区千石3丁目の間の道。 区境の道なので区で分離するときは困る。 2車線の歩道付きの比較的広い直線路である。坂下は砂利場坂同様に、千川の暗渠道路にぶつかる。

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この坂もじゃり砂利場坂同様に説明板がない。 ただ「ぶんきょうの坂道」には説明が載っていた。 この坂道は昭和9年(1934)に尾張屋銀行が住宅開発を行った際に造成された昭和の坂である。それ以前は崖下に池のある荒れ地の斜面だったようだ。

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有栖川宮の屋敷があったので「宮坂」と呼ばれるようになったという。明治11年(1878)有栖川宮は皇族方の外出を意識して自然を愛でる場所として借りた。 その後明治19年(1886)にはここの館を譲り受けたが、明治40年(1907)に手放した。 この有栖川宮家を住民はたいそう慕い、ここを宮坂と呼んだと伝えられる。

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広い坂道は日当たりもよく、猫たちがのんびりと昼寝を楽しんでいる。なんとなくのどかで散歩中の一休みに猫たちを眺めて私も楽しんだ。

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2017年11月29日 (水)

砂利場坂(千石)

猫又坂と宮坂の間にある坂道。 途中折れるように曲がっているが、それ以外はほぼまっすぐな道筋である。本郷台地と小石川台地の間に流れていた千川に向かって、この辺りは崖筋になっていた。

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文京区が発行している「ぶんきょうの坂道」に記述がある。もとは伝通院の領地だったが、護国寺造営の時に、砂利をここの斜面で取っていた。 それ以降は30年ほど荒れ地になっていたが、享保の頃(1716~1735)地主たちが護国寺より拝領して開墾し、新田という地名になった。

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その後、明治以降になってもこの辺りは崩れやすい斜面だったようで、当時東京市に住民が願い出て道路普請をしたと伝えられる。 その道がこの砂利場坂である。明治大正にかけてもこの辺りの斜面は川崎家ほかの大きなお屋敷だったが、今はマンションと小型の住宅が立ち並ぶ。 坂下で交差する路地は曲がりくねっているが、その道が千川の暗渠跡である。

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2017年11月28日 (火)

茗荷坂(小日向)

拓殖大学の正門前から茗荷谷駅に向かって上るのが茗荷坂。 東側には滝沢馬琴の墓がある深光寺があってその林がいい雰囲気である。 昔、このあたりでは茗荷の栽培が盛んで、それが坂名の由来になっている。

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坂下拓大正門前に古い説明板が立っている。

「茗荷坂は、茗荷谷より小日向の台へのぼるさかなり云々」と改撰江戸志にはある。これによると拓殖大学正門前から南西に上る坂をさすことになるが、今日では地下鉄茗荷谷駅方面へ上る坂をもいっている。

茗荷谷をはさんでのことであるので両者とも共通して理解してよいであろう。さて、茗荷谷の地名については御府内備考に「……むかし,この所へ多く茗荷を作りしゆえの名なり云々」とある。自然景観と生活環境にちなんだ坂名の一つといえよう。

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駅が近くなると道が細くなる。 ここの大谷石の石垣もなかなか風情がある。 拓殖大学の北側を西の小日向台地に上る坂もいい。 大学のキャンパス全体が小日向台地の縁にあるので、ここが江戸時代に美濃大垣新田藩(岐阜県掛斐郡大野町)藩主である戸田淡路守の下屋敷だった時代には素敵な大名屋敷だったことが想像できる。

明治初期の地図を見ると、北と西に谷が切れ込み、合流地点には二つの池がある。 北側の池には中島があって、相当景色のいい屋敷だったはずである。

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2017年11月27日 (月)

釈迦坂(小石川)

地下鉄車庫トンネルのもう一つ、茗荷谷駅方面への道を行くとトンネル先で左に折れ、その先で逆S字型のカーブを描いて上っていく坂がある。 釈迦坂である。 崖の北側は徳雲寺の境内で、江戸時代は藤坂あたりまでの広い境内だったが、さすがに今ではかなり狭くなった。

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S字カーブの所に説明板が立っている。

春日通りから、徳雲寺の脇を茗荷谷に下る坂である。「御府内備考」によれば、「坂の高さ、およそ1丈5尺(約4m50cm)ほど、幅6尺(約1m80cm)ほど、里俗に釈迦坂と唱申候。是れ徳雲寺に釈迦の石像ありて、ここより見ゆるに因り、坂名にするなり。」

徳雲寺は臨済宗円覚寺派で、寛永7年(1630)に開山された。『新撰江戸志』に寺伝に関する記事がある。境内に大木の椎の木があった。元禄年間(1688~1704)5代将軍綱吉が、このあたりへ御成のとき、椎木寺なりと台命があった。そこで、この寺を椎木寺と呼ぶようになった。後、この椎の木は火災で焼けてしまったが、根株から芽が出て、大木に成長した。

明治時代になり、その椎の木は枯れてしまった。椎木寺が椎の木を失ったことは惜しいことである。徳雲寺の境内には六角堂があり、弁財天が祀られ、近年小石川七福神の一寺になっている。

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坂名は寺のそばの坂なので釈迦坂といわれるようになったのがはじまりという。 しかし寺のそばの坂など数えきれないほどあるのに、ここしか釈迦坂がないのは腑に落ちない。

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2017年11月26日 (日)

藤坂(小石川)

蛙坂下の地下鉄車庫のトンネルの辻は面白い。 下の写真の右手線路沿いの道が蛙坂下、まっすぐに抜けるトンネルの先が藤坂、左のトンネルを抜けると釈迦坂。 そして、後ろには拓殖大学前から上る茗荷坂がある、四方向の坂の辻にあたるトンネルである。

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藤坂はトンネルを抜けた先、丁字路を左に曲がると春日通りへ上る急坂がある。 勾配標識は20%とある。勾配の単位はいろいろあって面倒くさい。 20%というのは角度だと11.3度になる。鉄道などだと1000m走って200m高度を上げる(100mで2mでも同じ)のが20%と同じ角度である。

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坂下の東側に傳明寺がある。江戸時代の切絵図には「藤寺ト云傳明寺」と書かれているので、相当昔から傳明寺は藤寺と呼ばれていたようだ。 坂下に説明板がある。

「藤寺は箪笥町より茗荷谷へ下るの坂なり、藤寺のかたはらなればかくいへり、」(『改撰江戸志』) 藤寺とは坂下の曹洞宗傳明寺である。

『東京名所図会』には、寺伝として「慶安三年寅年(1650)閏十月二十七日、三代将軍徳川家光は、牛込高田辺御放鷹(はなしたか:鷹狩りのこと)御成の時、帰りの道筋、この寺に立寄り、庭に一面藤のあるのを見て、これこそ藤寺なりと上意があり」との記事があり、藤寺とよぶようになった。

昔はこの坂から富士山が望まれたので、富士坂とも言われた。

『続江戸砂子』に、「清水谷は小日向の谷なり、むかしここに清水が湧き出した」とある。またここの傳明寺には名木の藤あり、一帯は湿地で、禿(かむろ:河童)がいて、禿坂とも言われた。

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現在は富士山など見えようもない。またこの谷が「茗荷谷」なのか「清水谷」なのかもわからない。そして家光が感動したという藤の木も今はない。 しかし、元は富士坂と呼ばれていたのが、樹木が繁って富士山が見えなくなったので、寺の藤の木に転化して藤坂と呼ぶようになり、家光の逸話は後で作られた可能性もありそうだ。

坂上の春日通りを渡った向こう側は桜の名所播磨坂である。

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2017年11月25日 (土)

蛙坂(小石川)

切支丹坂の坂上を茗荷谷駅方向に進むと左手にメゾン蛙坂というマンションがある。 麻布のガマ池のマンションはメゾンがま池だったが、メゾン蛙坂も入居者には抵抗のある名前だろうに、それでもしっかりと名付けてくれていることに坂好きとしては感謝である。

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右に左に曲がりながら、貞静学園の脇を下っていく。 坂の上の方に説明板が立っている。

「蛙坂は七間屋敷より清水谷へ下る坂なり、或は復坂ともかけり、そのゆへ詳にせず」(改撰江戸志)

『御府内備考』には、坂の東の方はひどい湿地帯で蛙が池に集まり、また向かいの馬場六之助様御抱屋敷内に古池があって、ここにも蛙がいた。むかし、この坂で左右の蛙の合戦があったので里俗に蛙坂とよぶようになったと伝えている。

なお七間屋敷とは、切支丹屋敷を守る武士たちの組屋敷のことであり、この坂道は切支丹坂へ通じている。

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地下鉄の車庫辺りが江戸時代には湿地帯で、拓殖大学の方から流れてくる小川があり、この辺り全体が谷を形成していた。 それが清水谷という谷だったようだ。 その小川はちょうど蛙坂を下りきった辺りに流れていた。 蛙が多くいても当然な場所だったといえよう。

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2017年11月24日 (金)

庚申坂(小石川)

切支丹坂と相対する坂道。 地下鉄丸ノ内線の車庫から春日通りに上る。 茗台中学校の脇に出る階段坂である。 茗台中学校は1960年の創立で新しい学校。 しかしこの場所はかつて小石川高等小学校があった場所である。 明治41年(1908)に創立、昭和22年(1947)に廃校となっている。その後校舎は「小石川工業高校」「小石川高校」となったが、今は再び茗台中学校となり、最初の高等小学校とほぼ同じ年齢の子供たちが集う場所になった。

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坂上に説明板がある。

「小日向第六天町の北、小石川同心町の界を東より西へ下る坂あり・・・略・・・この坂を切支丹坂というは誤りなり、本名“庚申坂”。昔、坂下に庚申の碑あり・・・」『東京名所図会』
 庚申信仰は庚申の日(60日ごと)人が眠ると三尸(さんし)の虫が人の体から出て、天にのぼり、天帝にその人の罪を告げるというところから、人々は一晩中夜明かしをした。この信仰は中国から伝わり、江戸時代に盛んになった。したがって切支丹坂はこの坂の地下鉄ガードの向側の坂のことである。
 「・・・両側の藪の間を上る坂あり・・・これが真の切支丹坂なり」『東京名所図会』

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この坂の坂上から下ると丸の内線が往来するのが見られ、坂下ではトンネルをくぐって切支丹坂に抜ける。 地下鉄の下のトンネルというのはなんとも不思議な感覚である。

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2017年11月23日 (木)

切支丹坂(小日向)

ユニークな名前の坂道である。 坂名の由来は、坂上の切支丹屋敷跡に因む。 正保3年(1646)に建てられた転びバテレン(布教のために来日した宣教師・神父の呼び名)の収容所があった場所である。 江戸幕府はキリスト教を禁止し迫害した。 バテレンを収容し監禁したが、ここでは処刑するのではなく、生活を保障してバテレンの持つ知識や情報を得るのに使われていた。(別説でここでは拷問や処刑も行われていたというものもある)

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坂に説明板はないが、坂についての情報は多い。 明治時代の地図を見ると、この切支丹坂ではなく、丸の内線をくぐった先の春日通りへ上る階段坂「庚申坂」が切支丹坂と書かれている。真相はわからないが、ここではあちらを庚申坂、こちらを切支丹坂として区分したい。

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丸の内線の車庫のある場所には昔小川が流れていた。現在の拓殖大学辺りを水源とする小川が南流し神田川に注いでいた。 石川悌二氏によると上記坂名のズレについては、江戸時代は現在の同じ坂名と坂であったが、明治時代に誤って庚申坂を切支丹坂と呼び始めたのが混乱の元になっているらしい。

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夏目漱石もこの坂について書いており、明治期は小石川から庚申坂を難儀して下ると、谷の向こうにまた険しい切支丹坂があった。 坂は赤土の坂であったため、雨などでぬかるむと下駄で上るのはなかなか困難なことだったと記述している。当時は本来の地層の土面が現れていたのだろう。 現在の東京でそういう地面を見ることは極めて難しい。

昔は曲がりくねっていて樹木の生い茂る暗い坂だったと伝えられる。

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2017年11月22日 (水)

荒木坂(小日向)

神田上水の通っていた巻石通りから北に上る坂道。 坂上は丸の内線の電車車庫。 巻石通りの標高は7mで電車車庫は20mなので、13mほどを一気の上る坂道である。江戸切絵図で見る荒木坂(アラキサカ)は短い。称名寺の位置が今と同じなので、称名寺の裏手の墓地の角までが江戸時代の荒木坂である。

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坂下に説明板がある。

称名寺の東横を、小日向台地に上がる坂である。『江戸砂子』によれば「前方坂のうへに荒木志摩守殿屋敷あり。今は他所へかはる」とある。坂の規模は「高さ凡そ五丈程(約15m)、幅二間二尺程(約4m)(『御府内備考』)と記されている。この坂下、小日向台地のすそを江戸で最初に造られた神田上水が通っていたことから、地域の人々は、上水に沿った通りを〝水道通り″とか〝巻石通り″と呼んでいる。(後略)

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この辺りは第六天町と呼ばれていたが、坂下の先の神田川(江戸川)に第六天の社があったからである。 町名は昭和41年(1966)に消滅した。 第六天は第六天神社とも呼び、元々は神仏習合の時代に第六天魔王(他社自在天)という神を祀る信仰からできた神社である。 第六天は関東を中心に東北から中部まで存在するが西日本にはないという。

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2017年11月21日 (火)

猫又坂(千石)

千川通りと不忍通りの交差点、千石三丁目は千川が刻んだ谷筋の辻である。 千川は蛇行していたが、猫又橋の場所は交差点から北東に50mほどの路地筋だった。 千川通りに並行したこの路地はくねくね曲がった道でいかにも暗渠だということがわかる道である。

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上の写真は大塚窪町公園前から猫又橋方向を見たもの。 いったん千石通りに窪み、その向こうで斜面を登るように続く不忍通りの景色である。かつてはこの道筋を都電が走っていた。 なかなか素敵な景色だっただろう。

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猫又橋のあった場所には親柱の袖石が残っている。説明板がある。

「この坂下にはもと千川(小石川とも)が流れていた。 昔、木の根っ子の股で橋を架けたので、根子股橋と呼ばれた。江戸の古い橋で、伝説的に有名である。この辺りに狸がいて、夜な夜な赤手ぬぐいをかぶって踊るという話があった。ある夕暮れ時、大塚辺の少年僧がこの橋の近くに来ると、草の茂みの中を白い獣が追ってくるので、すわ狸かと慌てて逃げて千川にはまった。 それからこの橋は、猫股橋(猫又橋)といわれるようになった。 猫又は妖怪の一種である。

昭和の初めまでは、この川でどじょうを獲り、蛍を追って稲田(千川たんぼ)に落ちたなど、古老がのどかな田園風景を語っている。 大正7年3月、この橋は立派な石を用いたコンクリート造となった。ところが千川はたびたび増水して大きな水害を起こした。それで昭和9年千川は暗渠になり、道路の下を通るようになった。石造りの猫又橋は撤去されたが、地元の故市川虎之助氏はその親柱と袖石を東京市と交渉して自宅に移した。ここにあるのは袖石の内2基で、千川名残の猫又橋を伝える記念すべきものである。(後略)」

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大通りの坂道ではあるが、千川通り付近の曲がり方も含めていい坂である。 猫又橋の脇に猫又坂の説明板もある。

「不忍通りが千川谷に下る(氷川下交差点)長く広い坂である。現在の通りは大正11年(1922)頃開通したが、昔の坂は、東側の崖のふちを通り、千川にかかる猫又橋につながっていた。この今はない猫又橋にちなむ坂名である。」

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上の写真の歩道の右、ガードレールわきの細い隙間の坂がかつての猫又坂の上部の名残である。 電車道が開かれる以前はこの右の細い部分が猫又坂だった。

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この坂の一番の景色はこの脇の名残道の上からの遠景だと思う。 100年ちょっと前は電車道もなく、人だけが通れる狭い道が台地の上に向かって続いていた。その上から猫又橋の谷を見下ろす感じに近いのではないだろうか。

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2017年11月20日 (月)

簸川坂(小石川)

網干坂の西側に簸川神社(氷川社)がある。 江戸切絵図には湯立坂から下ると千川に祇園橋が架かっていてそれを渡ると神社の参道になる。 境内には宗慶寺別當とある。 氷川神社の方が古いので、江戸時代の名所だった氷川神社の参詣客を宗慶寺が狙って分院を建てたかどうかはわからないが、そんな想像もできるほど簸川神社は賑わっていた。

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簸川坂は氷川神社の裏口にあたる道筋で、境内を抜けて坂上に出ることができる。 説明板は簸川神社と簸川坂の両方を兼ねたものだった。

・簸川神社:社伝によれば、当神社の創建は古く、第五代孝昭天皇のころと伝えられ、祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)である。源頼家(1039~1106)が奥州平定の祈願をした社といわれ、小石川・巣鴨の総社として江戸名所の一つであった。もとは現在の小石川植物園の地にあった白山御殿造営のため、元禄2年(1699)この地に移された。社殿は空襲で焼失したが、昭和33年(1958)に再建された。(後略)

・簸川坂(氷川坂):氷川神社に接した坂ということでこの名がつけられた。 氷川神社の現在の呼称は簸川神社である。坂下一帯は明治末頃まで「氷川田んぼ」といわれ、千川(小石川)が流れていた。洪水が多く、昭和9年(1934)暗渠が完成し、「千川通り」となった。神社石段下には千川改修記念碑がある。

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網干坂よりも急角度の坂である。簸川神社の裏手から一気に落ちるような下り坂は、悪天候時は難儀しそうだ。 大正時代、坂下は昔たんぼを埋め立てた後中小の工場が集まる町になった。 その後町屋に変わっていった。

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坂下を複雑に流れていた千川。 そのほとりにあった工場の一つであった「太田胃散」の本社がある。 私は太田胃散は薬の名前だと思っていたが、ここを訪れて初めてそれが社名でもあることを知った。

坂上には林町小学校があるが、これは江戸時代簸川神社の裏手が林大学頭の下屋敷だったため、林町と呼ばれていた地名の名残である。 小学校の名前にみる貴重な昔の町名がうれしい。

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2017年11月19日 (日)

網干坂(小石川)

湯立坂を下り窪町東公園交差点で千川通りを渡ると、右手に小石川植物園の塀を見るようになると上り坂が始まる。 植物園の西側には簸川神社がある。 きれいになった御殿坂とは反対に、こちらの網干坂は昔の万年塀のままで、昭和のノスタルジーが残る。

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坂の途中に説明板がある。

「白山台地から千川の流れる谷に下る坂道である。小石川台地へ上る「湯立坂」に向かい合っている。 昔、坂下の谷は入江で船の出入りがあり、漁師がいて網を干したのであろう。明治の末頃までは千川沿いの一帯は「氷川たんぼ」といわれた水田地帯であった。

その後、住宅や工場がふえ、大雨のたびに洪水になり、昭和9年に千川は暗渠になった。なお、千川は古くは「小石川」といわれたが、いつの頃からか千川と呼ばれるようになった。」

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網干坂は、氷川坂、簸川坂の別名がある。もちろん簸川(氷川)神社に由来する。 この坂の風景の魅力は植物園の樹木に尽きる。 万年塀を嫌う人もいるが、私は悪くないと思っている。 ブロック塀よりははるかにいい。

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坂上からはかなりの遠景を望むことができる。坂下の標高は10mなのに対して、坂上は25mあり、15mの高低差がある。  国土地理院の古い地図を見ると、明治から昭和にかけて「網曳坂」と書かれているが、江戸の切絵図には「アミホシサカ」と書かれているのでどこかで変わってしまったのだろうか。

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2017年11月18日 (土)

湯立坂(小石川)

茗荷谷駅前の春日通りから筑波大学東京キャンパスの方へ入ると、キャンパス沿いに下る長い坂。 湯立坂である。 筑波大キャンパスには大学の施設と付属小学校と文京区民センターがある。 キャンパス内でかなりの高低差があり、茗荷谷駅側は標高28m、裏手の占春園は11m。 当然それに沿って下る坂道も長い。

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坂上のキャンパス脇に説明書きがある。 「里人の説に往古はこの坂の下は大河の入江にて氷川の明神へは川を隔てて渡る事を得ず。故に此所の氏子とも此坂にて湯花を奉りしより坂のなとなれり。」とある。湯花というのは、湯を沸騰させたときに上がる泡のことで、神社で巫女がこれを笹の葉につけ、参詣人にかけ清める。この儀式を湯立という。

私はてっきり、ここで一服と湯を沸かして茶を飲んだくらいに思ったが、どうも神事のようだ。

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筑波大は元は東京教育大。 今はつくば市が主体なので、茨城の大学のようだが、本来は東京の大学である。政府の閣議決定でつくばを研究都市にするために移転したのがいきさつである。 この場所は江戸時代、松平大学頭(陸奥国守山2万石)の上屋敷であった。 大学頭が大学になったわけだ。

坂下の窪町東公園前から東に上る坂があり、地元ではかつてこの坂を幽霊坂と呼んでいたらしい。 こちらの坂も曲がりながら上っていくいい坂である。(下の写真)

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坂下の公園や交差点に残る「窪町」の地名。 ただし窪町小学校は坂上の茗荷谷駅前にあるが、1966年の町名変更で東京教育大周辺は大塚窪町から大塚3丁目になってしまった。 大塚窪町は現在の小石川5丁目の一部までを含んでいた。

坂下西の占春園は水戸光圀の弟である松平頼元がここに屋敷を構えた。頼元の子が頼貞で後の松平大学頭。 その親子時代の大名屋敷庭園の名残である。江戸時代はホトトギスの名所でもあったようだ。 坂下の千川あたりの湿地には蛍も多くいたと伝えられる。

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2017年11月17日 (金)

団平坂(小石川)

団平坂、別名として、丹平坂、袖引坂という名前もある。 文京区立竹早公園の南東側を千川筋に向かって下る坂道。 この竹早公園は戦前は竹早小学校だったが、空襲で焼失し廃校になってしまった。

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公園の横に小石川図書館があるが、その前に説明板がある。

「町内より東の方、松平播磨守御屋敷之下候坂にて、里俗団平坂と唱候、右は先年門前地之内に団平と申者ツキ米商売致住居仕罷候節より唱始候由申伝、年代等相知不申候」と『御府内備考』にある。

団平という米つきを商売とする人が住んでいたので、その名がついた。何かで名の知られた人だったのであろう。庶民の名のついた坂は珍しい。

この坂の一つ東側の道の途中(小石川5-11-7)に、薄幸の詩人石川啄木の終焉の地がある。北海道の放浪生活の後上京して、文京区内を移り変わって四か所目である。明治45年(1912)4月13日朝、26歳の若さで短い一生を終わった。

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つい見落としがちな場所にその碑があった。 この碑が建てられたのは平成27年とごく最近のことである。説明板もあり、「石川啄木終焉の地歌碑」とある。

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2017年11月14日 (火)

播磨坂(小石川)

桜並木で都内でも有名な坂道である。 戦後新しく造成された環状三号線で、名前は古風だが江戸の坂ではない、昭和の新しい坂である。 江戸時代は坂上は小さな武家屋敷が立ち並び、坂下は松平播磨守の屋敷だった。 松平播磨守は水戸常陸国府中藩の藩主。

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江戸時代、大名屋敷の坂下には千川が流れており、辺りは田んぼだった。「播磨田んぼ」と呼ばれ湿地帯でもあったようだ。 現代の姿は40m幅の広い道路の真ん中を半分の幅で遊歩道がついていてその中央に桜並木が植えてある。

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坂の途中にある説明板には次のように書かれている。

この道路は終戦後の区画整理によって造られたもので、一般にいわれる環三道路(環状3号線)である。 かつてこのあたりは松平播磨守の広大な屋敷のあったところである。坂下の底地一帯を「播磨たんぼ」といい伝えており、この坂道もこの土地の人は播磨坂とよんでいる。 昭和35年頃「全区を花でうずめる運動」が進められ、この道路も道の両側と中央に樹令15年位の桜の木約130本が植えられた。そして地元の婦人会の努力によって「環三のグリーンベルト」は立派に育てられている。昭和43年から桜まつりが行われ、文京区の新名所となった。

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2017年11月13日 (月)

吹上坂(小石川)

坂下は小石川植物園前の変則交差点。 ここから播磨坂と吹上坂が小石川台地に上って行くが、どちらも実は戦後の坂道。 ただし、吹上坂は路地筋としては江戸時代からあった道である。 江戸時代から、宗慶寺も善仁寺も存在した。

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写真は宗慶寺。 近代的な寺院になっている。 この辺りは戦火でほぼ焼けてしまったようで、この吹上坂がそのおかげで真っすぐに春日通りに延びた。 春日通りの向こう側の谷へ降りるのは階段の庚申坂である。

坂下に文京区の説明板がある。

「このあたりをかって吹上村といった。この地名から名付けられたと思われる。
「吹上坂は松平播磨守の屋敷の坂をいへり(改選江戸志)。」
なお、別名「禿(かむろ)坂」の禿は河童に通じ、都内六ヶ所あるが、いずれもかっては近くに古池や川などがあって寂しい所とされている地域の坂名である。この坂も善仁寺前から宗慶寺・極楽水のそばへくだり、坂下は「播磨たんぼ」といわれた水田であり、しかも小石川が流れていた。この水田や川は鷺の群がるよき場所であり、大正時代でもそのおもかげを止めていた。

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小石川は千川とも呼ばれる。 宗慶寺の坂上にあった松平播磨守の屋敷には湧水の大きな池があり、水の豊かな地だったようだ。 この池は戦後の地図からは消えているので、昭和の初めころまではあったようである。 その湧水が吹上坂の由来になっている。

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2017年11月12日 (日)

三百坂(小石川)

三百坂という名前はユニークである。 そして伝わる由来もまたユニークである。 坂の景色はというとほとんど魅力的なところはない。 東京学芸大学附属高校竹早高校のグラウンドの裏を下る普通の道で、坂下手前でくの字に曲がっている。

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坂の途中にある説明板には次のように書かれている。

「別名、三貊坂(さんみゃくざか)

『江戸志』によると、松平播磨守の屋敷から少し離れた所にある坂である。松平家では新しく召抱えた「徒の者(かちのもの)」を屋敷のしきたりで、早くしかも正確に、役に立つ者かどうかをためすにこの坂を利用したという。

主君が登城のとき、玄関で目見えさせ。後衣服を改め、この坂で供の列に加わらせた。もし坂を過ぎるまでに追いつけなかったときは、遅刻の罰金として三百文を出させた。このことから,家人たちは「三貊坂」を「三百坂」と唱え、世人もこの坂名を通称とするようになった。」

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学校の敷地の大半は松平讃岐守の下屋敷で、周辺は小さな武家屋敷がずらりと並ぶ街並みだった。 三百坂の東側の武家屋敷の裏手はほぼ伝通院境内の中にある寺院だったが今では3軒ほどしか残っておらず、往時の姿を想像するのも難しい。

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2017年11月11日 (土)

御殿坂(白山)

蓮華寺坂の坂上をそのまま南西に進むと下り坂になると同時に西側に樹木が生い茂った小石川植物園が見えてくる。 小石川植物園の敷地は江戸の初期、館山藩主松平徳松の屋敷だったが、5代将軍綱吉の頃、南麻布にあった御薬園が廃止され、この地に移転(1684)。 8代吉宗の時にほぼ今の敷地に拡大された。現在は東京大学の施設となっている。

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上の写真は2010年のもの。 万年塀と人ひとりがやっとの隙間の歩道だったが、数年後に再訪すると、道路幅は広げられとても歩きやすい道になっていた。 ただ、江戸の坂の雰囲気はいささか失われたように感じられた。

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ただ、坂の説明板だけは昭和のものがそのまま使われていて、ちょっと意外な気がした。その説明板には次のように書かれている。

「別名、大坂、富士見坂。「御殿坂は戸崎町より白山の方へのぼる坂なり。この上に白山御殿ありし故にこの名遺れり。むかしは大坂といひしや」(『改撰江戸志』)

「享保の頃、此坂の向ふに富士峰能く見へし故に、富士見坂ともいへり」(『江戸志』)

白山御殿は、5代将軍徳川綱吉が将軍就任以前、館林候時代の屋敷で、もと白山神社の跡であったので、白山御殿といわれ、また地名をとり小石川御殿ともいわれた。綱吉の将軍職就任後、御殿跡は幕府の薬園となった。享保7年(1722)園内に“赤ひげ”で有名な小石川養生所が設けられた。また同20年には、青木昆陽が甘薯の試作をした。明治になってからは東京大学の付属植物園となった。」

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きれいにはなったが、うっそうとした林の脇の道の方が坂道の情緒は高まる。 とはいえ坂上標高23m、坂下が9mで14mの高低差を緩やかなカーブを描きながら下るこの坂のかたちは素晴らしいものがある。

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2017年11月10日 (金)

伊賀坂(白山)

指ヶ谷の地名は昭和41年の町名変更で消えたが、指ヶ谷小学校の名前に残っているのは嬉しい事である。3代将軍家光が鷹狩りに来て、「あの谷も遠からず人家が出来るであろう。」と指し示したことから、指ヶ谷の地名が出来たという。 子供が少なくなり小学校が消えると地名も消える、そんな場所が東京にはいくつもある。

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その指ヶ谷小学校の前を上るのが伊賀坂である。 小学校の校門脇に説明板がある。

「白山台地から白山通りに下る坂で、道幅は狭く、昔のままの姿を思わせる。 この坂は武家屋敷にちなむ坂名の一つである。 伊賀者の同心衆の組屋敷があった(『御府内備考』)とか、真田伊賀守屋敷があった(『改撰江戸志』)という二つの説がある。 『東京名所図会』では真田伊賀守説をとっている。 伊賀者は甲賀者と共に、大名統制のための忍者としてよく知られている。」

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小学校の上で複雑な交差をするが細長い民家の東側の道が昔の伊賀坂筋である。 周辺は傾斜地で昔は石垣も多い曲がりくねった道だったようだが、今では明るい雰囲気になっている。戦前は小学校の裏まで細川邸の屋敷が広がっていたことからも、緑の多い薄暗い雰囲気だったことが想像できる。

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2017年11月 9日 (木)

蓮華寺坂(白山)

白山通りの白山下交差点から西に上る坂が蓮華寺坂。  坂上は台地になっていてしばらく平坦になった先、小石川植物園に達すると下り坂になる。 この台地は小石川台地で、少し南に行ったところが崖の突端になる。 現在そこには日立製作所の小石川迎賓館〝白山閣″がある。 旧細川家の屋敷で明治から戦前まで細川邸となっていた約2,000坪の館。

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蓮華寺に戻ろう。 坂の途中に説明板がある。

「『蓮華寺即ち蓮花寺といへる法華宗の傍らなる坂なればかくいへり。白山御殿跡より指が谷町の方へでる坂なり」と改撰江戸志にある。 蓮華寺は、天正15年(1587)高橋図書を開基、安立院日雄を開山として創開した寺院で、明治維新までは塔頭が六院あったという。 なお,この坂道は 小石川植物園脇の御殿坂へ通じ、昭和58年(1983)にハナミズキやツツジが植栽され、春の開花、秋の紅葉が美しい並木道である。」

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蓮華寺坂は小石川植物園脇の御殿坂からみた意味合いで、御殿裏門坂という別名がある。 御殿というのは、小石川植物園が江戸時代に綱吉が開いた屋敷だったためである。 のちに御薬園となった。

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2017年11月 8日 (水)

逸見坂(白山)

白山通りの白山下よりも少し北に上ったところ、焼肉幸楽苑別館(本館は蓮華寺坂下)の脇を上る路地が逸見坂である。 特にこれといった特徴はないが、白山通りからぐいっと上りそのあと平坦になっていくのは、この白山通り沿いのほとんどの坂に見られるパターン。

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しかしこの逸見坂は江戸時代の切絵図にも「ヘンミサカ」と記されている古い坂。 昔は白山通りはなかったので、白山神社の南参道からすぐにこの逸見坂の入口だった。 坂の途中にある説明板には次のように書かれている。

「白山神社裏門の南、小石川御殿町と指ヶ谷の間より南へ御殿町へ上る坂あり、逸見坂といふ。旧幕士逸見某の邸、坂際にありしより此名に呼ぶなり」(『東京名所図会』) 武家屋敷にちなむ坂名である。このあたり「旧白山御殿町」で、逸見坂はその北のはずれに当たる。 町名の由来は、白山御殿(後に5代将軍になった館林候綱吉の屋敷)からきている。 御殿廃止後、幕府の薬園(現在の小石川植物園)となる。 坂の西側の「本念寺」には蜀山人(太田南畝)の墓がある。

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江戸切絵図を見ると、この辺り一帯は武家屋敷が立ち並ぶが、逸見の名前は見当たらない。 しかし坂名として「ヘンミサカ」と書かれている。 江戸の坂道は武家の名前が付けられているものがいくつもあるが、もっと以前の切絵図には逸見と書かれているのであろうか。

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2017年11月 7日 (火)

一行院坂(白山)

浄土宗 天暁山 一行院 満徳寺。 一行院の正式な名前である。 寛永3年(1626)現在地に草庵を結び一寺を建立したのが始まり。その後廃寺になりかけるが、文化14年(1817)徳本行者(念仏聖として諸国をめぐって念仏を広めた)が再興した。 きれいな寺院である。

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白山通り側から入ると最初は傾斜があるがすぐに緩やかになる。 辺りは酒井雅楽頭の屋敷だった場所で、今の白山通りの辺りは大名庭園の大きな池だったところ。 この池は時代と共に徐々に縮小し、昭和の中頃まで存在した。

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一行院がなければ歩かない坂と言えるかもしれない。 それくらいこの坂で一行院の塀はインパクトになっている。  江戸時代は一行院の裏にある通りがメインストリートだった。

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2017年11月 6日 (月)

暗闇坂(白山)

あちこちに暗闇坂(闇坂)という名の坂はある。 単純に武家屋敷の間とか林の間で暗い場所をそういう場合が多い。 この白山の暗闇坂は武家屋敷の間の暗闇坂である。 坂の西側には酒井雅楽頭の屋敷、東側には森川伊豆守の屋敷があり、それぞれに広い屋敷なので樹木の生い繁る暗い道だっただろう。

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現在は京華女子中高校の手前の路地を入る狭い急坂。坂に関する情報が少ないからか、説明板はない。 坂上の道も細い路地だが、江戸時代の切絵図にもある古い道。白山神社の裏から暗闇坂の上を通り、その先で東に曲がり中山道に出るが、江戸時代は右も左も大名屋敷で、この路地も暗かったと思われる。 明治時代の地図を見ると、坂下には川が流れている。その川の水で池が出来ている場所もあり、それは現在の京華商業高校の敷地のようだ。

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明治の末頃、寺田寅彦はこの坂の上に住んでいた。当時も鬱蒼とした樹木に覆われた通りだったと書き残している。 また、『新撰東京名所図会』には、昔はこの辺りは家屋なく原野だったため、単に原と呼んでいたが、そのうちに家が建つようになり、原では困るので大小を付けて大原・小原という地名で呼ぶようになった、とある。明治時代の地名は小石川原町であった。

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2017年11月 5日 (日)

薬師坂(白山)

白山通りの白山下から中山道(旧白山通り)白山上に上る都営三田線白山駅の通りが薬師坂である。 別名が多い。 薬師坂のほかには、薬師寺坂、浄雲寺坂、白山坂という別名がある。 昔は二間幅(3.5m)の細い道だったが、今では広く車も人通りも多い道である。

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白山駅出口の歩道に説明板が立っている。

「『妙清寺に薬師堂有之候に付、里俗に薬師坂と相唱候』(御府内備考) 坂上の妙清寺に薬師堂があったので、薬師坂と名づけられた。また、坂下に浄雲院心光寺があったので、浄雲寺坂とも呼ばれた。また近くに白山神社があり、旧町名が白山前町で、白山坂ともいれわるなど、別名の多い坂の一つである。

『新撰東京名所図会』には、「薬師堂は、土蔵造一間半四面。「め」の字の奉額、眼病全快者連名の横額あり」と、明治末年の姿を記している。 このお薬師は特に眼病に霊験あらたかであったようである。 土蔵造は、江戸の防火建築で、湯島本郷辺の町屋が土蔵塗屋づくりを命じられたのは、享保15年(1730)の大火後である。現存するものに無縁坂の講安寺本堂がある。」

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妙清寺は曹洞宗の寺院で慶長11年(1606)の開山。薬師如来がご本尊。 この辺りは江戸時代は白山権現を中心に多くの寺院が並ぶ寺町だった。 明治末期になって路面電車が通された(1911年:明治44年)。

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坂上近くの駅前から参道が伸び白山神社(白山権現)に導く。 縁起は古く、天暦2年(948)。 写真の鳥居のある東側がメインの参道だが、社殿は南向き。 白山通り脇の旧道とみられる路地から入ると長い参道の階段がある。 この南の階段が白山神社が立つ台地の縁で指ヶ谷を一望する崖上突端になる。

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2017年11月 4日 (土)

浄心寺坂(白山)

浄心寺坂に現在浄心寺はない。 あるのは八百屋於七で有名な円乗寺だが、江戸時代にはその西隣に浄心寺があった。 現在は本郷通りの東側に浄心寺があるが、寺の縁起を見ると湯島の嬬恋坂に創建されて、振袖火事により焼失し文京区向丘に移ったとある。 坂にある浄心寺はどこに消えたのかわからない。

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坂の上り初め北側に円乗寺があり、その入り口脇に八百屋於七地蔵尊がある。八百屋於七の墓は円乗寺内である。入口に説明板がある。

「お七については、井原西鶴の『好色五人女』など古来いろいろ書かれ語られて異説が多い。お七の生家は、駒込片町(本郷追分など)で、お七の家が焼けて、菩提寺の円乗寺に避難した。その避難中、寺の小姓(こしょう)の佐兵衛(または吉三郎)と恋仲になった。やがて家は再建されて自家に戻ったが、お七は佐兵衛に会いたい一心でつけ火をした。放火の大罪で捕らえられたお七は、天和3年3月29日火あぶりの刑に処せられた。数えで16歳であったという。三基の墓石のうち中央は寺の住職が供養のため建てた。右側のは寛政年間(1789~1801)岩井半四郎がお七を演じ好評だったので建立した。左側のは近所の有志の人たちが、270回忌の供養で建立したものである。」

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浄心寺坂の説明板は坂上にある。

「小石川指ヶ谷町より白山前町を経て東の方、本郷駒込片町へ登る坂あり。浄心寺坂といふ。(新撰東京名所図会)

浄心寺近くの坂なので、この名がついた。また坂下に「八百屋於七」の墓所円乗寺があることから「於七坂」の別名もある。」

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浄心寺坂と白山通りを越えた蓮華寺坂は下って上る薬研地形になっているが、この坂下の谷あいの一帯を昔は指ヶ谷と呼んでいた。 町名「指ヶ谷」の由来については、3代将軍家光が鷹狩りに来て、「あの谷も遠からず人家が出来るであろう。」と指し示したことから、指ヶ谷の地名が出来たという。

小石川の支流である指ヶ谷なる川は、千石から流れてきた細流と、白山神社を挟んだ東側の細流を合わせて谷を形成し、東側の流れは於七地蔵尊下を流下、福山坂下の富士湯の前をくねりながら富坂方面へ流れていた。 道路は正直にその痕跡を残している。

町名「指ヶ谷」の由来については、3代将軍家光が鷹狩りに来て、「あの谷も遠からず人家が出来るであろう。」と指し示したことから、指ヶ谷の地名が出来たという。

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2017年11月 3日 (金)

中坂(白山)

胸突坂と浄心寺坂の間にあるから中坂。 中坂という名の坂にはそのパターンの由来が多い。 説明板はないが、江戸時代の切絵図にもこの道は描かれているので、間違いなく江戸時代の坂である。 ただし、当時は雨が降ったら登れないだろうと思われるほど、傾斜がきつい。

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上の写真は2016年1月に訪問した時のもの。半分はコンクリートのスリット舗装で、かろうじてすべり止めになっているが、今回2017年11月の訪問では、工事中の場所に新しい家が建ち、道路が狭まっただけでなく、すべり止めもなくなってしまった。

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実はこの坂の坂下は丁字路で、これまで多くの人が止まりきれず激突したらしく、注意喚起の表示があった。 いやさすがにこの坂は怖いだろう。

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坂下の建物は文京区の白山児童館である。コンクリートには欠けやヒビが見られた。江戸時代この辺りは小さめの武家屋敷が立ち並ぶエリアだった。 崖線の上は阿部家の敷地が細長く、西片からこの近くまで広がっていたので、胸突坂よりも南の小武家屋敷の玄関は西にあり、小川を橋で渡した玄関だったと思われる。 一方胸突坂以北は、坂上を玄関にしている。 この辺は武家屋敷が標高をもって評価され、より上の方が位が高いと認識されていたからだろうか。

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胸突坂(白山)

胸突坂下の南北に走る道は本郷台地の崖線の道である。 浄心寺坂の坂下、八百屋お七で有名な円乗寺前から崖線の下に沿って道がある。 その道筋が、この胸突坂で東に折れ、急な上り坂になって中山道に出る。 現在は路地だが江戸時代からある道である。

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上の写真は曲がる前の崖線下の道。 黄色い通学路標識の所で左に曲がり急坂になる。坂下に文京区が設置した標識がある。

「胸突坂(むなつきざか)  (峰月坂・新道坂)
 「松山新町と駒込西片町との界にある坂を胸突坂といふ。坂道急峻なり、よって此名を得、左右石垣にて、苔滑か」と『新撰名所図会』にある。台地の中腹から、本郷台地に上る坂、坂上から白山通りをへだてて、白山台を望む。『胸突坂』とは急な坂道の呼び名で区内に3ヶ所ある。この坂のすぐ南の旧西片町一帯は、福山藩の中屋敷跡で「誠之館」と名づけた江戸の藩校があったところである。」

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坂下の1本下の路地は暗渠で、白山から流れてきて、富坂辺りで小石川からの流れと豪遊し水道橋に注ぐ流れだった。 現存する富士見湯もこの小川沿いにある。この小さな流れが本郷台地の崖線を作ったのである。 胸突坂より南側は福山藩阿部家の広大な屋敷の一部だった。

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辺りの旧町名は丸山福山町といい、樋口一葉は『にごりえ』の中で、「柳町、指ヶ谷町から白山下までが水田であったことは、さう昔のことではない。」と書いている。また『新撰東京名所図会』には、「左右石垣にて苔滑らか」と書かれているので、難儀な坂だったのだろう。

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2017年11月 2日 (木)

胸突坂(目白台)

目白台には名坂が多い。 その代表の一つが胸突坂である。 神田川沿いの関口芭蕉庵から急な崖を上る階段坂だ。 関口芭蕉庵は椿山荘の一角にあるかつて松尾芭蕉が住んだ庵である。

時代は1677年~1680年の間、芭蕉は神田川の改修工事に参画し、「龍隠庵(りゅうげあん)」と呼ばれる庵に住んでいた。 のちにこの庵は関口芭蕉庵と呼ばれるようになった。芭蕉はここから望む早稲田田んぼを琵琶湖に見立て、その風光を愛したと伝えらえる。

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坂の東にある椿山荘の敷地は江戸時代は椿が自生する景勝地で「つばきやま」と呼ばれていた。椿山荘の由来である。江戸時代この場所は上総久留里藩黒田豊前守の下屋敷だった。明治になってここを購入したのは軍人で政治家の長州人山形有朋。 目白台の崖線を利用した素晴らしい庭園を築いた。

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胸突坂という名前の坂は23区内に4ヶ所、文京区内に3ヶ所ある。 どの胸突坂よりもここが一番その名にふさわしい厳しい勾配である。 にもかかわらず多くの人が上り下りする。坂の西側には水神社がある。 坂下にある説明板には次のように書かれている。

「目白通りから芭雨園(もと田中光顕旧邸)と永青文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」ともいわれる。東は関口芭蕉庵である。

坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人々の苦労がしのばれる。」

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何度目かの訪問時、坂上の細川邸跡の永青文庫では「春画展」をやっていて路地は人々でごった返していた。

昔、江戸川上水(神田上水)は、坂下の関口でいったん流れを堰き止め、木樋をかけて分水を北側台地沿い(巻石通り)に導いて配水していた。 これが関口の由来。坂下には今は橋があるが、江戸時代は橋が架かっていなかった。 この坂を無謀に下った車夫が勢い余って神田川に落ちた話も伝えられている。 坂上からの展望は僅かな隙間しかないが、江戸時代の風景は歌川広重の「江戸名所百景」の『せき口上水端はせを庵椿やま』に描かれている。 これが当時の神田川と早稲田の景色である。

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2017年11月 1日 (水)

薬罐坂(小日向)

横町坂の東突き当りを北に曲がると袋小路だが、一本だけ抜けられる。途中右に入る路地がある。 すぐに突き当りに見えるが、その突き当りは崖になっていて、崖の上は墓地である。巻石通り沿いに4軒並ぶ寺院の裏手が広い墓地になっており、その西端の崖下を通るのが薬罐坂である。

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高度成長期以前はこの辺りには家はなく、袋小路もなかった。 ただ、横町坂から素直に薬罐坂に道が続いていた。 薬罐というのは、元は野狐のことを野犴(やかん)と呼んでいて、それが薬缶(薬罐)に転化したものらしい。また江戸時代の俗語で、夜鷹のことを「ヤカン」と呼んでいたので、その説もある。 寂しい墓場の裏通りに私娼が立っている、そういう場所だったのだろう。

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戦後になり、この坂の周辺は住宅建築が進み、昔の雰囲気は薄れていった。 この辺りの昔の地図を見ていて、薬罐坂の場所は江戸時代から変わったのではないかという推察を私は持った。江戸時代の尾張屋清七版を見ると、小日向台町からくる道がこの薬罐坂上と出合った辻あたりの東西の道に「ヤカンサカ」と書かれている。 しかし、地形図を見ると薬罐坂の方が傾斜道で、東西の道の高低差は僅かしかない。

かつて江戸の坂を研究した先達達は誰もここに着目していない。本当はどっちの道が薬罐坂だったのか、今もなお私の中では未消化状態である。

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2017年10月31日 (火)

横町坂(小日向)

横町坂、よこちょうざかと読むのか、よこまちざかと読むのかは両説ある。 服部坂上から東に下る坂道で、坂の北側には福勝寺がある。 江戸時代この辺りは御持筒組(鉄砲組)の屋敷があった横丁だった。

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由来は単純に横丁の坂なので横町坂だったようである。坂になっているのは西側の一部のみで、この坂についてはいろいろな文献を調べたが詳しい記述がない。

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とはいえ微妙に曲がっている道といい、変化する傾斜といい、坂道のつくりは江戸の雰囲気を残している。  突き当りを左に曲がり薬罐坂へ向かう。

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2017年10月30日 (月)

服部坂(小日向)

大日坂下から東に歩く。 モダンな4階建の学校のような建物が文京福祉センター江戸川橋、区の福祉施設だが元は黒田小学校(後の区立第五中学校)で、戦国武将黒田官兵衛の子孫の創立。 卒業生に永井荷風、黒澤明がいる。 2012年にここを建替える折の発掘調査で神田上水の白堀(開渠)の遺構が発見された。

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道路脇の軒下にガラス張りの部分があり、そこから覗き見ることができる。 江戸時代の重要な上水は水道橋まで流れ、そこから神田川を懸樋で渡して、神田の街に水を供給していた。

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その先を左折するとまっすぐな坂。 これが服部坂である。 坂の途中の文京江戸川橋体育館の入口に説明板がある。

「坂の上には江戸時代、服部権太夫の屋敷があり、それで「服部坂」と呼ばれた。服部氏屋敷跡には、明治2年(1869)に小日向神社が移された。永井荷風は眺望のよいところとして、『日和下駄』に「金剛寺坂荒木坂服部坂大日坂等は皆斉しく小石川より牛込赤城番町辺を見渡すに良い」と書いている。坂下にある旧文京区立第五中学校はもと黒田小学校といい、永井荷風も通学した学校である。戦災で廃校となった。」

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第五中学校がある時代は、西の中学校と東の体育館は渡り廊下で結ばれていた。 この辺りの景色は以前とはずいぶんと変わった。 それでも永井荷風の書いたように、坂の上に上り振り返ると神楽坂方面をわずかに遠望できる。

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坂の上には小日向神社。  八幡坂の由来となった田中八幡と氷川神社が合祀されて、服部家のあったこの地へ移された、比較的新しい神社である。 ここまで上がると神田川の向こう岸を見渡すことができる。

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2017年10月29日 (日)

大日坂(小日向)

大日坂は小日向台地から神田川(江戸川)に下る長い坂道である。 別名八幡坂。 この坂の説明板はなんと3種類ある。 ひとつは坂の途中にある文京区教育委員会のもの、他は坂上の植え込みの中に彫像の土台に真鍮板に彫られているもので、これは文京区土木部公園緑地課のもの、最後は坂下の妙足院の入口にある文京観光協会のものだ。

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坂上の植え込みには古地図と文章が併記されている。 この古地図が実に面白い。 どちらかというと民間の地図のようで手製感があるが、当時の様子が生き生きと伝わってくる地図なのである。

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鼠坂下は岡場所でもあったが、その上流では紙漉きも盛んだったことが判ったりする。また神田上水には神田御上水と「御」の字が加えられ、幕府と庶民の関係が見え隠れする。こういう古地図はなかなかないのでとても貴重である。

古地図の横には、文京区土木部公園緑地課の説明書きがある。

「この坂は昔、坂の上にあった田村八幡宮にちなんで八幡坂と呼ばれていました。後に八幡宮が音羽町八丁目の裏通りに移転してからは、坂下の妙足院の大日堂にちなみ、大日坂と呼ばれるようになりました。

大日堂は、大日如来を祭り江戸時代から小日向の名所として知られてきました。明治時代に入ると、毎月八の日の縁日には、水道通りに沢山の露店が並び賑わっていました。また、坂下の神田川(通称江戸川)は、明治末まで土手に植えられた桜並木が有名でした。」

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坂の途中には、東京都文京区教育委員会の説明板。

「「・・・坂のなかばに大日の堂あればかくよべり」(改選江戸志)。この「大日堂」とは寛文年中(1661~73)に創建された天台宗覚王山妙足院の大日堂のことである。坂名はこのことに由来するが、別名「八幡坂」については現在小日向神社に合祀されている田中八幡神社があったことによる。この一円は寺町の感のする所である。」

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坂下の文京区役所・文京観光協会のものは、妙足院の入口脇にある。

「坂の名の由来は、坂の途中に大日堂があったことから里俗に呼ばれるようになったものであろう。堂のあるこの寺は天台宗で、覚王山妙足院と号し、開祖は浩善尼上人(紀州家の奥女)で、堂廟の創立は寛文2年(1662)といわれている。

その後 何度か火災にあったので、堂は現在に至っていないが、坂の北の方の道造りは、妙足院で施工したと伝えられている。小日向の名の由来については、古く鶴高日向という人の領地だったが 絶家した後、「古日向があと」といっていたものが、いつか「こひなた」と呼ばれるようになったのであろうと、「御府内備考」では述べている。」

それぞれに特徴があって、同じ人が書いたものではないことが推し量られる。

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鼠坂(小日向)

江戸時代の切絵図を見ると『子ツミサカ』と書かれている。 鳩山会館の北側、坂下は水窪川の跡、そこからいきなり階段坂がまっすぐに伸びる。 21mの高低差をほぼ真っすぐに登るため、ちょっとしたチャレンジに感じられるかもしれない。

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坂の手すりは新しいものと古いものが混在、古いものは塗装した鉄製、取り換えられたものはステンレス製である。 こんな坂だが多くの人が登り下りしている。 人のいない写真を撮るのはなかなか難しかった。

江戸時代の坂下は鼠ヶ谷と呼ばれ、一種のスラム街のような場所で私娼も多くいたという記録がある。風来山人(平賀源内)は、この辺りの岡場所を「下品下生」と最低の評価を与えている。 江戸時代のこういう里俗な情報は実に面白い。

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坂の途中には新しくなった平成17年(2007)製の説明板がある。

「音羽の谷から小日向台地へ上る急坂である。鼠坂の名の由来について『御府内備考』には「鼠坂は音羽五丁目より新屋敷へ上るの坂なり、至ってほそき坂なれば鼠穴などいふ地名の類にてかくいふなるべし」とある。

森鴎外は「小日向から音羽へ降りる鼠坂といふ坂がある。鼠でなくては上がり降りが出来ないと云ふ意味で附けた名ださうだ・・・人力車に乗って降りられないのは勿論、空車にして挽かせて降りることも出来ない。車を降りて徒歩で降りることさへ、雨上がりなんぞにはむづかしい・・・」と小説『鼠坂』でこの坂を描写している。

また〝水見坂″とも呼ばれていたという。この坂上からは音羽谷を高速道路に沿って流れていた、弦巻川の水流が眺められたからである。」

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途中で分岐する階段の脇道も面白い。 階段上のさらに先にも階段があり、車も来ないので、階段の間の区間では近所の親子がキャッチボールをしていた。 再び鼠坂の中腹に戻り、坂上を目指す。

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坂上から振り返ると微妙に曲がっている。 この曲りが江戸の坂の特徴でもある。 昭和の坂のほとんどはまっすぐに通される。 ところが江戸時代の坂は、登山道のように通りやすいところにできるので真っすぐにはならない。 それが景色のアクセントにもなっているのである。

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2017年10月28日 (土)

八幡坂(小日向)

鷺坂は昭和の坂だが、この八幡坂は江戸時代からある坂道で、江戸切絵図にもある。 水窪川の東側に田中八幡、そして別當西蔵院と書かれている。 裏手は久世大和守の屋敷で、北側一帯は御賄組の屋敷が集合住宅のように集まっている。 この田中八幡は現在は音羽今宮神社になっている。 元の田中八幡は氷川神社と合併されて服部坂上の小日向神社となったのは明治2年。 その後明治政府の神仏分離令で護国寺境内にあった今宮神社がここに移ってきたという経緯である。

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いきなり階段で始まる坂だが、八幡坂は坂上まですべて階段の坂である。 この辺りの小日向側の崖はかなり急で、高低差も20mほどあり、それを一気に登る感じだ。

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途中、鷺坂からの道を合わせて左に折れる。 そこから見下ろすと(上の写真)結構急な坂であることがわかる。 ここからさらに階段坂が続く。 江戸時代はこの坂を御賄組が管理していたという。 十分な管理がなければ坂として維持できないくらいの傾斜がある。

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さらに坂上に向かって上る。 短い区間だけ、鷺坂からの道がそのまま車道になっているが、それもすぐに階段坂に戻る。 鉄製の手すりがないと悪天候時は上り下りもままならないだろう。

説明板は坂下にある。「『八幡坂は小日向台三丁目より屈折して、今宮神社の傍らに下る坂をいふ。安政四年(1857)の切絵図にも八幡坂とあり。』と、東京名所図会にある。明治時代の初めまで、現在の今宮神社の地に田中八幡宮があったので、八幡坂と呼ばれた。坂上の高台一帯は「久世山」といわれ、かつて下総関宿藩主久世氏の屋敷があった所である。」と書かれていた。

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坂上谷側の新しいマンションは石川啄木初の状況下宿跡の説明板がある。「盛岡中学校を卒業直前にして退学した啄木は、文学で身を立てるため、明治35年(1902)単身上京した。そして、中学の先輩で金田一京助と同級の細越夏村の旧小日向台町にあった下宿を訪ねた。」とあり、ここには1日だけしかいなかったようである。 それでも説明板があるのはやはりビッグネームと言える。

大日坂上に古い真鍮の説明板に古地図が描かれているのだが、その地図によるとこの八幡坂の下、水窪川沿いの音羽九丁目には「このあたり私娼あり」と書かれている。 やはり谷筋は俗世間、「俗」の字に「谷」が含まれるのは意味があることなのだろう。

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鷺坂(小日向)

文京区小日向には素敵な坂がいくつもある。 その主役ともいえるのがこの鷺坂。 スズキのバレーノというほぼ無名の自動車のCM映像を見た時、「このCMの映像を作った人は相当な坂好きだろうな」と思った。 《スズキ バレーノ CM映像》

さて、鷺坂の入口は旧目白通り(目白坂)の音羽通りの向かい側、江戸川公園前交差点。 最初の辻を過ぎると上り坂が始まる。 手前左の石垣は見事で、まるで城郭のようだ。 坂下で交差する路地はその昔、水窪川という川の跡である。水窪川より上は関宿藩藩主久世大和守の下屋敷だったから、その時代の石垣ではないかと想像を膨らませる。

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鷺坂は逆Z型を描いて上って行く。 左に折れるところには、説明板と石標が立っている。 説明板下には文京区の都市景観賞2008のプレートがある。「鷺坂は、急な勾配と昔ながらの石積みが現存し、江戸風情を色濃く残した坂として人々に親しまれ、「坂の街・文京」の景観づくりに貢献しています」とある。

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説明板には次のように書かれている。

「この坂上の高台は、徳川幕府の老中職をつとめた旧関宿藩主・久世大和守の下屋敷のあったところである。そのため地元の人は「久世山」と呼んで今もなじんでいる。この久世山も明治大正以降住宅地となり堀口大学(詩人・仏文学者。1892~)やその父で外交官の堀口九万一も居住した。この堀口大学や、近くに住んでいた詩人の三好達治、佐藤春夫などによって山城の久世の鷺坂と結びつけた「鷺坂」という坂名が、自然な響をもって世人に受け入れられてきた。

足元の石碑は、久世山会が昭和7年7月に建てたもので、揮毫は長城堀口九万一による。一面には万葉集からの引用で、他面には今日風で「山城の久世の鷺坂神代より春は張りつつ秋は散りけり」とある。文学愛好者の発案になる「昭和の坂名」として異色な坂名といえる。」

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坂好きならずともこの景観には感動するに違いない。 江戸時代は大名屋敷の中だった場所で、明治大正期は久世山という丘陵の林、昭和になってようやく開かれた坂なのに、ここまで江戸情緒を醸し出す例は珍しい。

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スズキのCMで使われたのはこの上のZクランクである。 タクシードライバーでも往生する急角度の折り返しだが、時折上る車を見かける。 さすがに地元住民は上手い事抜ける。坂下との高低差は12mほどだが、まるで登山道のような道が台地の下と上を別世界に感じさせてくれる。

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