2020年7月 8日 (水)

新宿天龍寺の庚申塔(新宿区新宿)

新宿高島屋と新宿御苑に東西を挟まれた一角に都立新宿高校と天龍寺がある。高校と天龍寺の間にはかつての木賃宿、今は名前こそビジネスホテルだが一泊4000円ほどの怪しい宿が並んでいる。このごった煮感が新宿の醍醐味なのだが、新宿高校の生徒はそんなものには目もくれず、なかなか優秀な学校である。天龍寺の山門は立派なもので、江戸時代は内藤新宿の時の鐘を鳴らす寺といわれた。新宿は江戸から遠い為登城に時間がかかるため、江戸にあった8カ所の時の鐘のうち、この天龍寺の鐘のみが朝四半刻(30分)早く鐘を打っていた。また遊興地である新宿から客を追い出す鐘「追い出しの鐘」とも言われていたという。

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天龍寺の境内に入り本堂前を右に行くと墓所があり、その手前に三界万霊塔を挟んで六地蔵と庚申塔が並んでいる。六地蔵は元禄14年(1701)8月に造立されたもの。ただ統一性がないので、時代は前後したのかもしれない。向かって右手にある3つの古い石塔は3基とも庚申塔である。

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一番左はかなり摩滅していて年代は不詳。隅丸の角柱型のようである。青面金剛像があり、その下におそらくは三猿があったのだろうという凹凸がある。中央の庚申塔は駒型で、これも年代は不詳。上部の日月と青面金剛像は割と鮮明だが、下部の三猿はかなり摩滅している。さらに右端の庚申塔はほぼ完全に摩耗していて時代どころかデザインも不詳である。ただよく見てみると僅かに青面金剛像と三猿の凹凸は感じられる。形からして笠付角柱か笠付丸柱だったのではないだろうか。

場所  新宿区新宿4丁目3-19

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2020年7月 7日 (火)

上板橋子育地蔵尊(板橋区上板橋)

上板橋駅の南、東武東上線と国道254号(川越街道)の間にある商店街が旧川越街道。昔の宿場だけあって今でも賑やかな通りである。この商店街の中心になっているのが子育地蔵尊。祭りの御輿なども、この地蔵が起点になっている。古い街道の商店街のお地蔵さんというものは、なかなかいいもので、絶えず誰かが拝んでいたりして、地域住民に密着している様子がうかがえる。

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堂宇の中には3体の地蔵があるが、古いのは奥の2体。左側は安永6年(1777)10月の造立。左に「光明真言四百万遍供養仏」、右には「上板橋栗原講中  宝田市良右衛門 同久良右衛門」とある舟型光背型の地蔵立像。右側も舟形光背型の地蔵立像で、安永7年(1778)2月の造立。「武州豊島郡上板橋村之内栗原村」の銘がある。

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手前の地蔵立像は新しいもののようだが、詳細は分からない。この2体の地蔵はもともと栗原堰の一本橋付近にあったという。現在の桜川1丁目5番地でここから1㎞近く南の石神井川、茂呂遺跡のある辺りである。川越街道のこの地に移されたのは明治の初め。当初は3体の地蔵があったというが、明治時代に1基は失われてしまったらしい。大正時代になって、無残に路傍に放置された地蔵をこの地に祀ったのは豆腐屋を営んでいた宝田半次郎氏。左の地蔵の宝田市良右衛門の子孫かもしれない。

場所  板橋区上板橋2丁目2-19

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2020年7月 6日 (月)

大谷口上町の庚申塔(板橋区大谷口上町)

西光寺の北西の角は大谷口通り(旧大谷道)が五差路になっている。ここから西へはえんが堀への下りになる。しろかき地蔵がもともとあったと言われる坂道(地蔵坂)である。ここにある庚申塔は2基、どちらもなかなかきれいな庚申塔である。

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左の庚申塔は上部に日月、下部に三猿の図柄で、正面には「奉供養庚申二世安楽所」と書かれている。右面には「武州豊嶌郡上板橋大谷口村」の銘がある。左面には「願主 大谷口村」の跡に大野姓が6名名前を連ねている。造立年は元文3年(1738)2月である。右側の庚申塔は三猿が台座に彫られている。青面金剛像は邪鬼を踏みつけ、二鶏も描かれている。こちらは享保16年(1731)2月のもので、同じく「武州豊島郡上板橋村大谷口 願主 大野仁兵衛 講中9人」とある。江戸時代中期の庚申塔全盛期のものだが、見事な細工である。

場所  板橋区大谷口上町83-1

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2020年7月 5日 (日)

西光寺のしろかき地蔵(板橋区大谷口)

板橋区と練馬区の間にかつて流れていた川にえんが堀という石神井川の支流(跡)がある。定説としては千川上水の水が地下にしみこんでそれが湧水となって出てきた流れと言われるが、地形から見てそれは言い過ぎだと思った。最初から細流があって、練馬区旭丘、板橋区向原、大谷口などの地域の湧水を集めて谷を形成したはずである。この辺は以前「地蔵坂(大谷口)」にも書いた。

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大谷口に西光寺という古刹がある。江戸時代初期に創建された観音堂が始まりと伝えられる。この寺の境内にしろかき地蔵がある。年不詳だが、言い伝えによると室町時代の作の可能性が高く板橋区でも最古の地蔵らしい。この辺りは武蔵国の典型で、台地の上に武蔵野の林が広がり、細流が削った谷あいで細々と米作が行われてきた。村に伝わるしろかき地蔵の昔話がある。

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ここの下りは「地蔵坂(大谷口)」で書かせていただいたのでリンクで読んでいただければ幸いである。地蔵菩薩にこのような昔話があることは極めて多い。お互い様、の気持ちで生きてきた日本の農民の民度の高さが地蔵信仰や念仏講になっていったのだと思う。現代の日本人も石仏からいつでもそういう心を学べるはずなのだが、世間は世知辛い。

場所  板橋区大谷口2丁目8-7

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2020年7月 4日 (土)

大谷口の庚申地蔵(板橋区大谷口)

前述の大谷口の庚申塔(2基)の向かいに屋根付きの地蔵がある。ここにこれほどの石仏があることにいささか驚いた。しかもこの場所は大谷口の中心にあたる。普通は塞ノ神として村境に石仏が置かれることが多いのである。おそらくは西光寺が大谷口の中心的な存在だったのだろう。そして昔はもっと広い境内を持っていて、門前にあったのかもしれない。西光寺が面積縮小することでこの場所に残ったという可能性もありそうだ。

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こんな路地だが真っ直ぐ向こうの道も左の道もすべて江戸時代からある道である。微妙な歪曲が昔の道であることを物語っている。庚申塔は2基とも江戸時代初期の古いものだったが、地蔵菩薩像の方は少し時代が若く、江戸時代中期の延享5年(1748)2月である。丸彫の自走菩薩の尊顔は若干剥離が進んでいて時代を物語る。

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台石には「武州豊島郡上板橋大谷口村」の銘がある。願主は大野清左エ門、庚申講中12人とあるのでこの地蔵尊も庚申塔として扱われている。また裏面には石工の名前もあり、「江府駒込肴町 石工 宇兵衛」とある。「江府」というのは聞きなれない地名だが、江戸幕府のあるところという意味である。「えふ」とも「ごうふ」とも読んだようだ。駒込肴町は現在の文京区向丘あたり。大谷口村と駒込の関わり具合いも興味深い。

場所  板橋区大谷口2丁目11-8

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2020年7月 3日 (金)

大谷口の庚申塔(板橋区大谷口)

大谷口の地名の由来は不詳だが、一説には石神井川へ注ぐ沢の入口という意味があるようだ。西光寺の北側の道は大谷道とかつては呼ばれた街道。現在は大谷口通りと呼んでいるらしい。大山で川越街道に合流する。明治時代は農村地帯で上板橋村だった。そんな大谷口の西光寺から少し南に進んだところに、2基の古い庚申塔が立っている。

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どちらも唐破風笠付の角柱型庚申塔でかなりの時代物。まず左は延宝5年(1677)2月の造立。擬宝珠(ぎぼし)もきちんと残っている。下部に三猿が描かれ、正面には「奉供養庚申二世安楽所」と書かれている。側面には蓮の葉が描かれている。右側の小さい方も古く、貞享2年(1685)9月の造立。これも下部には三猿が彫られ、「奉供養庚申家世安楽之処」とあり同行8人となる。この時代にこれだけのものを作れるのはこの辺りの農家が意外に裕福だった可能性も感じられる。

場所  板橋区大谷口2丁目13-12

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2020年7月 2日 (木)

下北沢踏切地蔵尊(世田谷区代沢)

小田急線は永年の計画が実現して2013年に下北沢駅前後(東北沢~世田谷代田)を地下化した。周辺の踏切はほぼ開かずの踏切で、駅の近くには踏切が5ヶ所あった。ここは駅の小田原側最初の踏切だったが車の往来は比較的少なかった。下北沢村だったころは川沿いに水田が開け、沢の形成する谷地が毛細血管のように広がる地形で、この辺りは目黒川支流の北沢川、その支流の森厳寺川のさらに支流で、村の時代は「西山谷」と呼ばれた。その谷を横切るように昭和初期に小田急線が通ったので、ここは土橋にされた。その為踏切は峠越えのような地形になっていて向こう側が見通せない、そんな地形である。

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そんな踏切脇に地蔵尊がある。地元では「踏切地蔵」と呼ばれている。造立は昭和11年(1936)7月。この踏切では昭和の初期に連続して死亡事故が発生した。昭和2年(1929)に76歳の斎藤安五郎さん、昭和7年(1932)に13歳の小関美彌子さん、昭和10年(1935)に10歳の小関清くん、昭和11年(1936)に42歳の崔垣斗さん、とまるで呪われた踏切のようになってしまった。

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小関美彌子さんと小関清くんはなんと姉弟。13歳と10歳だが3年の時間差があるので、お姉さんが亡くなった時、弟は7歳。それが3年後に弟も踏切事故で他界するというのは堪らない。最後の崔さんは、地蔵を計画している最中の事故だったのかもしれない。しかしそれ以降この踏切では一度も死亡事故は起きていないという。地蔵脇に古い如意輪観音座像があった。これは踏切とは無関係だろう。享保14年(1729)の墓石である。

場所  世田谷区代沢5丁目34-1

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2020年7月 1日 (水)

三軒茶屋の大山道道標(世田谷区三軒茶屋)

東急田園都市線は昔は新玉川線と呼んだ。私が上京した年に二子玉川と渋谷区間が開通した。そのずっと前には国道246号(玉川通り)には通称玉電が走っていた。三軒茶屋は瀬田方面と下高井戸線の分岐点。三軒茶屋から下高井戸までは現在もまだ東急世田谷線が健在で、私もしばしば乗車する。どう乗っても147円(Pasmo)でバスと併用しているとバスクーポンで割引になることもある。現在では路面電車部分は亡くなったが、都電荒川線とここだけに残る市電の名残りである。

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玉川通りと世田谷通りの分岐する股の部分の駅出入口脇に大山道道標がある。この道標は昔はここにあったが、交通量が増加し始めると区立郷土資料館に移され、昭和58年(1983)に再びここに戻された。江戸時代からの街道の分岐点だけに、造立年は寛延2年(1749)だが、文化9年(1812)に再建、さらに昭和31年(1956)にも再建(おそらく補修)されている。

正面には大きく「大山道」その上に「左 相刕通」とある。左面には「右富士 世田谷 登戸道」、右面には「此方 二子通」とある。この道標は元は渋谷方向に向けて立っていた。「相刕通」というのは相州通の意味で、相模の国への街道(大山街道)である。世話人の欄には多くの記載があるが、出てくる世話人の住居地は、「太子堂村、江戸日本橋四日市町、三軒茶屋、野沢村、上馬引沢村、中馬引沢村、など広域にわたる。

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写真は昭和30年代のこの場所。交差点の見張り台と交番が並んでいるが、この道標は見当たらないから、郷土資料館に移された後だろうか。ミゼットとオート三輪が懐かしい。左真っ直ぐの電車のいる道が玉川通り二子玉川方面、右が世田谷通りである。記憶ではこの角には協和銀行があった。今はビックエコー(カラオケ)である。周辺は全盛期から再開発に指定された地域だが、渋谷と違いまだ何十年もかかるだろう。

場所  世田谷区三軒茶屋2丁目13-14

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2020年6月30日 (火)

野沢テコテン坂の庚申塔(世田谷区野沢)

世田谷区の環七通りは上馬から南はかつての品川用水の流路を通っている。川は谷の一番低いところを流れるが、用水路は一番高い所を流すのが常である。環七通りから北東に向かうと中目黒だが、その手前には蛇崩川とその支流による谷が形成されていて、尾根筋から蛇崩川に向かって下るのが「テコテン坂」である。

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古い庚申塔が路傍にあるのはそこは古道である証拠である。この道は江戸時代から大山街道の南東側を並走する道で、野沢村と下馬引沢村を結んでいた。日本大学のスポーツ科学部がある辺りが蛇崩川流域の水田地帯だったのだが、環七辺りの標高が40mで日大辺りが27mなので実は13mも高低差がある。テコテン坂は庚申塔辺りで急に下ったのち平坦になり、日大の直前で残り半分の高低差を下っていたが、現在は土地が均されて傾斜はわずかである。

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庚申塔は板碑型で高さが1.66mもある。造立年は寛文10年(1670)10月。「陽月」と書かれているのは10月の事だと初めて知った。三猿の上には「奉造立庚申待供養塔爲二世安楽也」とあり、横に「武刕荏原郡馬牽沢村」とある。下部には願主11人の名前が彫られている。ずっと野ざらしだが、江戸時代初期の石仏は石が良い。

江戸は関東ローム層地質なのでこういう石は存在しない。しかし村人が伊豆辺りから運ぶのは無理である。しかし江戸城周辺の普請で余った石垣の石が大量にあったので、普請が終わっても石工が食えるようにとあちこちで庚申塔や地蔵の建立が盛んになった。石工の工賃は1基300文ほどだったというから、現在価格で22,000円ほど。大工よりもかなり低い(大工は日給で3万円程度)。だから石仏にもいいもの悪いものがあるのであろう。

場所  世田谷区野沢1丁目9-31

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2020年6月29日 (月)

満願寺前庚申尊(世田谷区等々力)

目黒通りは昔は「二子道」と呼ばれ、東ルートは玉川神社満願寺前から現在の世田谷区中町を抜け、上野毛で多摩川の国分寺崖線を下り二子の渡しに至る街道であった。玉川神社は江戸時代は熊野神社で、明治初期の地図にも熊野社とある。明治40年(1907)に等々力村にあった神明社、御嶽社、諏訪社を合祀して村の鎮守となり玉川神社と呼ばれるようになった。地元の通称では「おくまんさま」と呼ばれる。隣接するのが満願寺。江戸時代はこうして寺と神社が並んでいることが多かった。

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満願寺の外塀角に立派な堂宇があり、大きな庚申塔が祀られている。満願寺は等々力不動尊の本寺で、文明2年(1470)に当時の世田谷城主の吉良家によって創建された寺。創建当時は深沢村にあったが、1560年前後に現在の地に移転した。満願寺とこの庚申塔の関係は分からない。

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高さ115㎝ある大きな駒型の庚申塔である。青面金剛像に二鶏、邪鬼、三猿が描かれている。造立年は文化10年(1813)8月、地名は彫られていないが、願主6人はすべて高橋家である。

場所  世田谷区等々力3丁目15-1

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2020年6月28日 (日)

照善寺門前の庚申(大田区田園調布)

田園調布は東京23区内では高輪と並んでとんでもない急坂の多いエリアである。15%超の急坂があちこちにある。もっとも崖上の住民はほぼ車で動いているので、これらの坂を味わうのは学生たち子供達とエッセンシャルワーカーの人々のみだろう。田園調布といっても意外に広く、多摩川方面に崖を下りきった辺りも含む。そこには六郷用水(丸子川)が流れており、洪水を防ぐ余水池もある。

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この余水池は六郷用水が溢れた時に、ここから多摩川へバイパスして排水するようになっている。この池の雰囲気がいい。西日本にはこんな溜池が無数にあり、子供の遊び場だったが、昨今ほとんどすべての池がここと同じようにフェンスで囲まれた。私も川や池に落ちておぼれかけたことがあるが、それは大いなる学びになった。今の子供達にはそれがない。

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池のすぐそばの民家の塀に庚申塔が塗り固められていた。照善寺の門前にあたる場所である。ここは筏道でもあったので、江戸時代には青梅の筏師が続々と帰途を行った道で、途中には休み処もたくさんあった。右隣りも昭和期までは酒屋をやっていて、賑わった街道筋だった痕跡がある。庚申塔は駒型で、青面金剛像に三猿の図柄。造立年は元文元年(1736)11月。正面右にシンプルに「奉納 庚申」とあるが、側面が埋められて見えないのでそれ以外の情報は分からない。

場所  大田区田園調布5丁目50-3

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2020年6月27日 (土)

湯殿神社の庚申石仏(大田区南馬込)

都営浅草線西馬込駅の東北300m程の傾斜地にある湯殿神社。湯殿神社と言えば、私にとってはその裾野の豁で20年以上も毎年遊ばせてもらった月山山塊の湯殿山の神社である。創建年代は不詳、馬込村の根古屋谷の鎮守で、江戸時代には羽黒権現と呼ばれていた。出羽三山は月山、湯殿山、羽黒山である。かなり傷みのある社殿や鳥居だが、それだけに霊験を感じられる。

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境内には巨樹が建ち並び、その奥が斜面になっていて、少し高いところに社殿がある。小さいながら都内でも好きな神社のひとつ。大森町で東京湾に注ぐ内川(沢尻川)という小さな川が西馬込の谷を形成し、その河岸段丘の斜面に湯殿神社がある。江戸時代から今に続く神楽もあるらしい。

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鳥居の傍に屋根付きの石仏群がある。一番右にあるのが、上の写真の駒型の庚申塔。造立年は宝暦12年(1762)9月。青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、右面に「武刕荏原郡馬込村」とある。また左面には「根子屋谷講中」とあるので、地元根古屋谷のものである。

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その左には唐破風笠付角柱型の供養塔に丸彫の地蔵が2体並んでいる。笠付角柱の石仏には如意輪観音座像が彫られている。右面には「武刕千束郷馬込村 施主等」とある。造立年は寛文7年(1667)10月と古く江戸時代の初期のもの。念仏講中によるものと書かれている。左の地蔵2体は年代不詳の丸彫。右の地蔵には、願主名として「菅田、門倉、鈴木」の名前がある。前述の庚申塔の願主名も門倉、鈴木が大半だったので、これも馬込村の人々によるものである。

場所  大田区南馬込5丁目18-7

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2020年6月26日 (金)

夢告観音(大田区南馬込)

都営地下鉄浅草線の南の終点は西馬込駅。この駅の近くにあるのが「夢告観音」という観音像である。馬込文士村商店会という商店街に堂宇があり、その中に観音様が祀られている。

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観音像の造立年やその他情報は分からない。大田区の資料を探してみたが、「紀年銘無し、丸彫の観音菩薩立像。奉加者には、地元馬込村以外にも江戸町民なども含まれる。別称夢告観音。」とだけ記載されている。しかし地元の商店街では大切にされているようだ。

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江戸時代はこの辺りから東側が馬込村、西側が上池上村だった。堂宇内にある説明書には、「馬込牛洗戸北向稲荷辺から塚越に至る中間に、河原栄蔵氏の所有地に無名塚があった。村人はそれを観音塚と呼んだ。しかし今は跡形もなく道路になってしまった。」とある。そこからこの地に移設されたものだろう。この辺りが耕地整理されたのは戦後の事で、戦前まではほぼ農地だった。その場所は今となっては分からない。

場所  大田区南馬込5丁目30-2

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2020年6月25日 (木)

青山の庚申塔(港区西麻布)

都心に残された路傍の庚申塔や地蔵はほとんどない。それだけ開発の毒牙に侵された頻度が高いからである。江戸時代は寺社地も多く、境内には守られているものもあるが、路傍と言うのは本当に珍しい。青山の庚申塔は、殆ど人通りのない場所にある。外苑西通りの西側に飛地の青山墓地(立山地区)がある。墓地本体との間は谷になっていて外苑西通りが走っているが、ここは笄川(こうがいがわ)が流れていた谷筋。坂道シリーズで根津美術館に上っていく「北坂(根津坂)」を紹介したが、その北坂には別説があり、この庚申塔の西側を上る坂がその坂である。

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墓地の南西角にひっそりと立つ事前石の庚申塔は、慶應元年(1865)5月の造立。高さ103㎝、幅94㎝の自然石は下部が舗装のために埋没している。石は根府川石(安山岩)を使っている。正面に大きく「庚申塔」とある。この地域では昭和の初期まで庚申講があったと伝えられている。江戸時代の営みはつい100年近く前までは延々と続いていたのである。

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右下には、「右 あをやま 内とうしん宿 ほりのうち」とあり、これは右へ行くと青山、内藤新宿(今の伊勢丹前)、堀之内(杉並区)という意味である。左下には「左 二十きおくみ屋 百人おくみ屋 ぜんこうじ」とあるが、これは二十騎御組屋敷、百人組の御組屋敷、善光寺」ということだろう。実際に江戸時代の切絵図を見ると。西側には「百人組同心大繩地足地」とあるが、御組屋敷は見当たらない。

場所  港区西麻布2丁目17-16

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2020年6月24日 (水)

板橋中央総合病院角の庚申(板橋区小豆沢)

道を歩いていて歩道の真ん中にポツンと庚申塔が立っていて驚いた。場所は板橋中央総合病院の角。現在の住居表示は小豆沢だが、江戸時代は小豆沢村と志村の村境だった場所である。志村というのは「志村坂上」とか「志村三丁目」という駅名から志村が地名だと思われがちだが、れっきとしたかつての村の名前である。

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高さは95㎝程の隅丸角柱型の文字塔で、青面中央には「奉造立庚申供養塔」とあり、脇に「武州豊嶋郡志村講中」とある。また側面にはそれぞれ、「右ハ 大山道」「左ハ 上いたはしみち」とある。その道標に私は混乱した。この場所から見ると大山道も上板橋宿も同じ方角だからである。しかしよく考えてみると、埼玉の方から大山道は続いていたわけで、この大山道は埼玉側を指すのだろうという結論に至った。しかし、事故などもなくここにずっと立っているとは大したものである。

場所  板橋区小豆沢2丁目19-7

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2020年6月23日 (火)

志村第二公園の庚申塔(板橋区前野町)

都営地下鉄三田線は旧中山道清水坂の脇で地上に出る。「清水坂」は赤羽台地と新河岸川の低地の間の崖線にある。この崖は今はなだらかになっているが元は20mの切り立った崖線だった。その壁から地下鉄が出てくる仕組みである。そんな都営三田線が地上に出た最初の駅、志村三丁目駅から南西に向かい、首都高速をくぐったところに小さな三角形の児童公園(志村第二公園)がある。Dscn6677

手前の鉄格子がちょっと気になるが、時代のある庚申塔3基である。一番右の小さな角柱も庚申塔。造立年は明和7年(1770)らしい。高さは57㎝、左右は道標になっていて、「右ハ はやぞミち」「左ハ  祢里まミち」とある。左は練馬道の意味だろうが、はやぞ道とは何だろう。中央正面には、「奉石橋建立庚申町講中二世安楽所」とあり、「武刕豊嶋郡東叡山領中臺村 願主向臺中」の銘がある。

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中央の駒型庚申塔が一番大きい。文政13年(1830)8月の造立。青面金剛像に二鶏、邪鬼、三猿の図柄。これも「武州豊嶋郡中臺村 向臺中」の銘があり、左右には「向左 祢りま乞り大山道」「向右 祢つは乞り吹上道」とある。清水坂を経て大山詣でのための大山道が繋がっているので、練馬を経て大山道の意だろう。しかし、右の吹上道はどこだろうか。埼玉県北部の吹上ではなく、ここは白子川の向こう、吹上観音への道の意だろう。

一番左の角柱は新しく、明治2年(1869)2月のもの。文字塔で「庚申塔」と書かれている。これも左右に道標があり、「向右 祢りまみち」「向左 かみいたばしみち」と書かれている。古地図を確認すると、この公園の場所は江戸時代から丁字路になっており、東は志村城址、南は中台村向台から上板橋へ、西は蓮根方面に延びていた。

場所  板橋区前野町5丁目56

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2020年6月22日 (月)

西台不動尊の庚申塔(板橋区西台)

西台不動尊の南側にある坂道が「谷津坂」。谷津坂は東に向かって下り、やがて蓮根川となり新河岸川に注ぐ。この支流の沢が削った谷の斜面にあるのが西台不動尊である。斜面にさまざまな石仏が並んでいて面白いが、どれも比較的新しいもののようである。

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西台不動尊は大正7年(1918)に建てられた。本尊の不動明王は太田道灌ゆかりのもので、志村城落城後にここに移されたと伝えられる。そんな中でも崖上の本堂の脇にある庚申塔はなかなかのものであった。

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駒型の庚申塔は高さが122㎝ある。青面金剛像に二鶏、邪鬼、三猿が描かれており、造立年は正徳3年(1713)。「武州豊嶋」の銘とともに「西臺村不動谷」の記述がある。谷津坂の筋を流れていた沢の谷をそう呼んでいたのだろうか。開眼供養したのは円福寺の僧侶らしく開眼師の銘が彫られている。ちなみに西台不動尊は長い間円福寺の管理になっている。

場所  板橋区西台1丁目29-3

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2020年6月21日 (日)

小袋庚申堂の石仏群(北区赤羽北)

赤羽台地の北端は荒川と新河岸川が最接近し岩淵水門で出合う。JRで北上すると赤羽駅で東北本線と埼京線に分かれるが、その股の間にあるのが赤羽八幡神社。そこから星美学園までは台地の端だが、それが新河岸川に向かって落ち込む崖線にあるのが「稲荷の坂」である。戦前はこの台地はほぼ軍の施設だった。稲荷の坂は江戸時代からある台地の上と下を結ぶ道である。

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稲荷の坂の坂下にあるのが穀蔵稲荷。江戸時代この坂下一帯の狭いエリアは袋村という小さな村だった。穀蔵稲荷の穀蔵(地元の読みかたはゴクラ)というのは江戸時代ここに村の年貢米などを保管する郷蔵があったためで、この郷蔵には災害時の蓄えもあったという。村は大袋地区と小袋地区に分かれており、ここは小袋地区の中心だったようだ。そのためここにある庚申堂も小袋庚申堂と呼ばれている。

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庚申堂にあるのは右から、弘法大師供養塔、次は駒型の庚申塔で文字塔と三猿の図柄。元禄15年(1702)11月の造立で、もとは赤羽北1丁目5-6の田辺家にあったが、昭和34年頃ここに移された。その隣の大きな笠付角柱型の石塔は念仏供養塔で、寛文8年(1668)2月の造立。そして左端が再び駒型庚申塔で、宝永元年(1704)9月のもの。青面金剛像に邪鬼、三猿の図柄で、この庚申塔もまた田辺家にあったものを同時期に移したようだ。田辺家の場所には小さな丘の墓所があり、地蔵が門番をしている。しかし環八工事で周辺は大きく変化しているので、この墓所もいつまで残るか微妙である。ただこの小丘は江戸時代からあった寺の跡であり、古墳時代の遺跡「堂山横穴墓」である。開発されないことを望む。

場所  北区赤羽北1丁目6-2

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2020年6月20日 (土)

新田坂の石造物群(板橋区成増)

現在の国道254号線は江戸時代は川越街道と呼ばれ、その名残で今もなお川越街道が通称通り名になっている。成増を過ぎると下り坂になり、白子川を渡って埼玉県和光市に入る。この下り坂の脇に旧道が走っていて、そちらの道は八坂神社のところから急に下っており、江戸時代は往来に難儀をしたであろう坂に思える。この八坂神社の手前に石仏群がある。この下り坂は新田坂(しんでんざか)あるいは白子坂と呼ばれた。

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まずは新調された屋根に覆われた地蔵。この丸彫の地蔵は「白子坂首欠け地蔵」と呼ばれ、延命地蔵として安置されている。元は旧川越街道の白子坂途中にあったが道路拡張のために現在の場所に移設された。首が欠けてからしばらくの間は「首欠け地蔵」と呼ばれて深く信仰されていたが、ある晩のこと、白子坂の旧家「油屋」の主人の夢枕にその首の存在を知らせたという。主人はお告げの通りに草むらを探すと首が見つかって早速修復したという逸話がある。

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地蔵の横に並んでいるのは燈籠、稲荷、自然石の道祖神。道祖神は江戸では珍しく、板橋区内でもここだけらしい。造立年は文久3年(1862)で、もともとは八坂神社の入口付近にあったもの。燈籠(常夜燈)は、文政3年(1830)に造立されたもので、成増2丁目34の角にあったという。成増2丁目34を調べるとこれも八坂神社の一角である。

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脇に双体道祖神があったがこれは近年のもの。安曇野風の最近のものである。川越街道は、もともと太田道灌が江戸城と川越城を築いた折に相互の往来をするために開かれた中世の道。昔は川越往還と呼ばれ、江戸時代に川越藩主が中山道の脇街道としてさらに整備したもので、川越街道と呼ばれるようになったのは明治時代以降である。

場所  板橋区成増2丁目33-17

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2020年6月19日 (金)

徳丸中尾原下の庚申(板橋区徳丸)

板橋区の徳丸、成増は坂の宝庫である。名坂が沢山ある。タモリ氏が師と仰ぐ山野勝氏によると、東京の坂の魅力は傾斜、湾曲度合い、江戸情緒、命名所以にあるという。私はそれに加えて川(沢)の存在と野仏を評価に加えたいと考えている。武蔵野台地を削って谷と台地を分け、坂道を強いたのは川であり、坂の上と下ではあの世とこの世のように違う世界があるゆえに、境の神である野仏が存在する。徳丸の西徳通りの南にある「観音講の坂」もそんな坂のひとつである。

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屋根付庚申塔の手前の道は暗渠である。新河岸川に注ぐ前谷津川の支流のひとつが中尾原の台地から水を集めて流下し小沢になっていた。東西の道が丁字路になっていて、南へ進むとこのすぐ先で左へ曲がり「観音講の坂」の上りになる。従って坂道のところでもこの庚申塔に触れている。

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庚申塔は風化が進んでいて青面金剛像もはっきりしない。三猿も彫られているのかどうか分からないが、資料では日月と正面金剛だけの用である。右側には「右 ねりまみち」左側には「左 戸田みち」とあり、道標を兼ねていた。造立年は享和2年(1802)3月。手前にある角柱は後年立てられたもの。道標になっていて、正面には「右 下練馬、前 赤塚役場、左 志村 赤羽」とある。

場所  板橋区徳丸3丁目38-13

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2020年6月18日 (木)

四葉宮前坂の消えた庚申塔(板橋区四葉)

板橋区四葉に「宮前坂」という坂道がある。坂下は水車公園、坂上をさらに北進すると四葉稲荷神社に至る。宮前坂の中腹に3基の庚申塔が並んでいた。しかし坂道のブログを書いた時期(2018年秋)にはもう新築住宅工事で無くなっていた。名前のある坂道は古道が多いので、その坂道には石仏がしばしば立っている。そんなことから坂道の次に石仏廻りを始めたわけだが、こうして石仏が消えるととても寂しい。

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坂道の右側の擁壁の下にガードパイプに守られた庚申塔が3基立っていた。実はその手前の民家の新しい塀の中にも1基あるのだが、この時は見逃してしまったので、今は宿題になっている。そちらの庚申塔は今もまだきちんと祀られているようだ。一番左にあるのは、舟型の庚申塔で、宝永元年(1704)10月の造立。青面金剛像と三猿の図柄である。左面には「武刕豊嶋郡四ツ葉村 施主11人」と書かれている。

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中央の一番背の高い庚申塔も舟型光背型で、元禄元年(1688)11月の造立。青面金剛像に二鶏、邪鬼、三猿が描かれている。右側には「武刕豊嶋郡四ツ葉村」の銘がある。一番右の板碑型の庚申塔が最も古く、貞享元年(1684)4月のものである。文字で「庚申」と書かれた下に三猿が描かれている。「武刕豊嶋郡 四ツ葉村 施主 村中」の銘が彫られている。どこかに移設されて祀られていればいいのだが。

場所   板橋区四葉1丁目26-5

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2020年6月17日 (水)

赤塚の消えた庚申塔(板橋区赤塚)

以前に板橋区の坂道のひとつ「梶谷津の坂」でも紹介した庚申塔3基である。梶谷津の坂は新大宮バイパスを谷底にして下って上る坂で、西の坂を登り切ったところに3基の庚申塔が並んでいた。並んでいたと書いたのは、どうも新築工事で撤去されたらしいからである。どこかに移設された可能性はあるだろう。この辺りの旧地名は番匠免(ばんしょうめん)という。小字の広がりから見て北の増幅寺あたりかもしれない。

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3基並んだ庚申塔は右から、板碑っぽい駒型の文字塔型庚申塔で下部に三猿が描かれている。造立年は宝永7年(1710)仲春とあるので、3月であろう。「武州豊嶋郡下赤塚村」の銘、願主は12人とある。真ん中はちょっと変わった形をしている。舟型だが枠のような陰刻のデザインの文字塔で、貞享5年(1688)2月の造立。願主は12人、「武州豊嶋郡下赤塚」の銘があるが、左面には「寺家村」とある。この寺家村が分からない。

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一番左の小さめの庚申塔は唐破風笠付角柱型。造立年は元禄16年(1703)2月。青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、「武州豊嶋郡下赤塚村同行7人」の銘がある。残念ながらストリートビューで確認すると3基とも現地には無いようだ。住宅開発で消えていくものが多い中でとても残念なことである。

場所  板橋区赤塚7丁目2-3

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2020年6月16日 (火)

経堂の子育地蔵(世田谷区経堂)

経堂駅の北側を西に向かう道はかつての瀧坂道のひとつである。瀧坂道は宮坂で二手に分かれ、経堂駅の場所を経て赤堤通り近くで再び合流していた。その滝坂道を進むと、閉店した古い自転車店が分岐点にあり、その前に堂宇がある。そこに祀られているのが子育地蔵尊である。

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堂宇はそこそこの敷地にあり、格子が閉じられていた。これより先には烏山川が流れており、大正期までは田んぼが広がっていた。この分岐点は江戸時代から分岐点だったらしく、ここに地蔵が祀られているのは自然なことかもしれない。

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格子の中の地蔵は丸彫の地蔵立像で、造立年は正徳5年(1715)11月。左面には「東国(武蔵国)荏原郡世田谷領経堂在家村 願主 松原市良左右門」とある。松原氏は経堂に住着いた一族である。当時の念仏講中によって建てられたもので、講中男女48人とある。子育地蔵は今となってはピンとこないが、昔は1歳までに亡くなることが多く、そのため延命地蔵や子育地蔵が数多く作られた。

場所  世田谷区経堂3丁目38-1

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2020年6月15日 (月)

梅丘駅前延命地蔵(世田谷区梅丘)

梅丘駅前(南口)にいつからか延命地蔵が祀られている。昔から美登利寿司には何度か食べに行ったが、地蔵の存在は意識しなかった。石仏を廻るようになってから、ふと思い出した。調べてみたが手元の教育委員会の資料には載っていない。それもそのはず、この延命地蔵はかなり新しいものだった。

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建立されたのは昭和26年(1951)だから小生よりも若干年上。小田急線が開通して梅ヶ丘駅が出来たのが昭和7年(1932)。当時は駅の北側には民家はなく、西から東へ北沢川が流れていた。戦後になって住民が急増し、それに伴って駅の東西にあったふたつの踏切で死亡事故に遭う児童も多くなった。

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新しいものだ家に石工のレベルは高くないように見える。バランスがなんとなくおかしいのである。しかしこの地蔵尊は踏切事故で文明の犠牲になった児童たちの鎮魂供養を引き受けた地蔵菩薩。平成8年(1996)までは世田谷区役所に繋がった道の踏切あたりにあったのをいったん豪徳寺境内に移し、駅舎完成後梅丘駅前の現在の地に戻したという。

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実は地蔵菩薩の脇にポツンと置いてある舟型の石仏に目が留まった。見る限り墓石のようでもあるが、造立年は天明9年(1789)とある。踏切とは無関係である。天明9年は24日間しかない。1月25日には年号が寛政に変わっているからである。そういう意味ではレアものだが、出所が全く分からない。

場所  世田谷区梅丘1丁目24-5

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2020年6月14日 (日)

日向橋停車場の庚申塔(杉並区本天沼)

早稲田通りにある「日向橋」というバス停に小さな堂宇があり、庚申塔が祀られている。バス停の名前である日向橋は、しかしながら早稲田通りにはない。早稲田通りが妙正寺川を渡るのは永久橋という橋である。しかしその永久橋のひとつ下流にある橋が日向橋だった。昔からの街道は西へ進むとバス停の先で北へ曲がり、現在の日向橋で妙正寺川を渡っていた。

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妙正寺川はこの辺りでくねっていて、元からの街道はこの先で北に向かい日向橋を渡ってから戻るように東へ進み、その後北へ向きを変えて銀杏稲荷の前の長命寺道になっていたという。ここでは遠回りをすることから橋のあたりを「廻渕」と呼び、日向橋を中心に川の上と下を分けていたという。

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堂宇内の庚申塔は駒型の文字塔である。正面には「庚申講中」とあり、右わきに「武刕多摩郡〇〇村」とあるが、これは井草村だろうか。造立年は元禄6年(1693)11月。下部には12名の願主名がある。庚申塔の前に猿田彦命の札があるが、庚申塔の祭神に猿田彦が祀られているものも多い。江戸時代中期より庚申信仰の本尊に加わるようになった。

場所  杉並区本天沼2丁目47-15

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2020年6月13日 (土)

下井草3丁目の庚申塔(杉並区下井草)

石神井池から南東に延び、下井草駅を過ぎると南に向かう旧早稲田通りは、昔は長命寺道、あるいは新高野道と呼ばれた。江戸から練馬の長命寺への参詣道である。新高野道という呼び方は大正時代までだが、長命寺道は江戸時代から昭和の前期まで続いた呼び名である。いっぽう下井草4丁目の中瀬小学校から北東に延びている道も古道で、こちらは遅野井道と呼ばれた。この二つの道の辻には今も堂宇があり庚申塔が祀られている。

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笠付角柱型の庚申塔で比較的大きいものである。正面には青面金剛像に邪鬼、三猿が描かれ、左面には寛保元年(1741)10月の造立年の下に、「下井草(村)」「講中13人」とあり、その上には「右 志やくち道」とある。右面には、「願主 栗山長蔵」、「南 中の道、うしろ の東 おそのい道」と書かれている。

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おそのい道(遅野井道)がここで出てきたのだが、最初見た時はいったいどこへ行く道だろうと不可思議だった。昭和の初期まで使われていた遅野井道の地名が分からなければ東西の道だとは考えられなかったかもしれない。また「志やくち道」というのは石神井道ということだろうと推測した。江戸時代は村々の方言やアクセントがあり、口に出してみると「しやくちみち」が「しゃくじいみち」と同じに聞こえることが分かった。声に出してみるものだ。

場所  杉並区下井草3丁目28-1

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2020年6月12日 (金)

下井草2丁目の馬頭観音(杉並区下井草)

JR中央線阿佐ヶ谷駅と西武新宿線下井草の間は、早稲田通りを境に南が本天沼、北が下井草である。早稲田通りに絡むように妙正寺川が東流している。当然妙正寺川が最も標高が低く38m程だが、南北の台地は概ね45m前後で7mほど高い。きれいに耕地整理された町並みの中のとある辻に堂宇がある。妙正寺川と早稲田通りの間にあり、標高は44m程なので川筋から台地に登り切ったところになる。

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民家の一角にきれいな堂宇が築かれている。この辺りは、明治時代以前は下井草村(天沼村)大字天沼字割間という場所。のどかな農村地帯だった。堂宇の中を覗いてみると、隅丸角柱型の馬頭観音座像が祀られている。造立年は文化12年(1815)4月。馬頭観音の下には文字が刻まれている。「如是畜生發菩提心  変体生天土地尾礫  草木國土悉皆成仏」とある。

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右面には、「法光山 二十代主 日胡」とあるが、法光山なる寺院が何処にあるのかが分からない。裏面には、「願主  彦三郎 十兵衛 講中39人」とあるが、念仏講だろうか。早稲田通りは江戸時代から明治時代までは長命寺道と呼ばれた街道。別名遍路道と言われ、練馬の長命寺へ参詣する道だった。

場所  杉並区下井草2丁目4-1

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2020年6月11日 (木)

弦巻のいぼとり地蔵裏の石仏(世田谷区弦巻)

以前に「弦巻のいぼとり地蔵」については紹介した。ここでは訂正と追加がある。先日ここにある常在寺の境内を探したが、目的とした庚申塔などの石仏はほとんど見つからなかった。次回訪問時にはお寺の方に聞いてみたい。今回は、いぼとり地蔵のところで紹介したお堂の裏手の庚申塔についてである。庚申塔と思っていたが実は地蔵菩薩の半跏像であった。

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造立年も文字の読み取り作業をじっくりしてみた。半跏像の右には、「奉造立地蔵〇體石意趣者 大願成就」と読める。年代は〇暦9年とある。前回は宝暦7年と読み違えたもの。〇暦の年号で江戸時代は明暦と宝暦しかない。明暦は4年までなので、これが宝暦であることは間違いない。従って宝暦9年(1759)8月16日の造立である。

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そのさらに裏手にある自然石の庚申塔だが、やはり「庚申」の文字しかない。しかし年代的には江戸時代は間違いないだろうと思う。いぼとり地蔵の建立の年代が寛延4年(1751)だから、江戸時代中期から後期にかけてのものだろう。

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もうひとつ、いぼとり地蔵の堂宇の手前にある説明板の下にある手水鉢。これも古いもので、天保11年(1840)3月とある。正面には「地蔵尊講中」とあり、右面には「世話人 惣兵衛内 同 三之助内」とあるので、女性(おかみさん)によるものだろう。

場所  世田谷区弦巻1丁目21-1

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2020年6月10日 (水)

区立郷土資料館の石仏⓶(世田谷区世田谷)

さて、区立郷土資料館の残りの石仏だが、庚申塔の1基は既に紹介している。「駒沢交差点にあった庚申塔」というテーマで取り上げたが、この庚申塔は昭和60年(1985)にここに移された。いったん取り上げているのでここでは割愛したい。

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駒沢にあった庚申塔の一つ右にあるのがこの文字塔角柱型の庚申塔である。正面には「庚申塔 東 目黒道  瀬田村」とあり、左面には「北 府中道」とある。右面には「南 六かう道(六郷道)」とあって、庚申塔としてよりも道標としての役割の方が大きそうである。造立年は文化13年(1816)で、ここに来る前は昭和48年まで、旧瀬田町会事務所の敷地にあった。それ以前は、現瀬田1丁目と上野毛3丁目の境の駒沢通りあたりにあったのではないかとされている。現在多摩美大がある辺りだろう。

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駒沢にあった庚申塔を挟んでさらに庚申塔が1基。これは駒型の庚申塔で、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれた典型的なもの。造立年は享保13年(1728)5月。旧大山街道の世田谷警察署前交差点近くに住んでいた小野家から寄贈されたが、小野家は昭和20年頃他家から譲り受けたという。小野家があった場所の傍には、「中里の庚申塔」がある。若干似ているので、もしかしたら貞享2年(1685)の庚申塔に次いで製作されたものかもしれない。

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その先にあるのは首なしの地蔵菩薩像。造立年は宝暦6年(1756)8月。正面には「念仏講供養仏」、左面には「武州荏原郡瀬田谷領▢内若林村」とあるので、世田谷領若林村のもの。右面には「是より南 いけがミみち」とある。この地蔵菩薩は現在の常盤橋陸橋(世田谷通りと環七の立体交差)付近にあったが、環七の工事の為、若林村の名主である根岸家に移された。昭和57年(1982)に根岸家から寄贈されたものである。「根岸家の墓所の石仏」については別述した。

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最後の一基は、駒型の角柱。天明5年(1785)11月造立の三界万霊塔である。正面には「西 さ加み道(相模道)」、左面には「南 池上道 発願人 当村 伝右衛門」、右面には「北  高井戸宿通り」、裏には「東 江戸道」とある。もとは旧玉川電鉄真中駅から北に入った辺りにあったと伝えられている。

場所  世田谷区世田谷1丁目29-14

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2020年6月 9日 (火)

区立郷土資料館の石仏①(世田谷区世田谷)

世田谷線上町の近くに世田谷区立郷土資料館がある。東京オリンピックの開かれた1964年(昭和39年)に開館した郷土資料館の草分けである。各地の郷土資料館の庭にも同様に、路傍から移された石仏石塔があるが、この郷土資料館にもいくつもある。

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代官屋敷の門脇から資料館に向かうと、右手に大きな自然石の石碑があり目立っている。これは道標で、延享3年(1746)のもの。正面には梵字の下に「さがみ大山道」とあり、その右には年号、左には世田谷上宿同行50人とある。上宿は上町の事である。右側裏手には「登戸道」とある。この道標はもとは両路の三差路にあったという。明治時代の地図を見て考察したが、おそらく駒留通りの終点で、ボロ市通りが用賀へ続く旧大山道と、現世田谷通りの登戸道に分岐するところにあったものだろう。交通量の増加に伴い半分埋もれていたという。

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この道標をここに移設した折、元の場所には似た形の石碑を置いたというので、探してみるとボロ市通りの最終地点近くの鈴正畳店の角に写真の石碑があった。「ここにあった道標は区立郷土資料館前庭に移築す」と書かれている。

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郷土資料館の壁沿いに並んでいるもののうち、まず一番右は文字塔の角柱型庚申塔。なかなかごっつい庚申塔である。造立年は文政10年(1827)11月。左右にはそれぞれ、「右り 江戸道」「左り 世田ヶ谷四ツ谷道」とある。江戸時代は「右」「左」に「り」をつけて表現しているケースがままある。上の分岐点から分岐した大山道が用賀で本線の大山道(厚木街道)に合流する用賀3丁目14あたりにあったものらしい。交通量が増えたので一時用賀の真福寺に置かれたが、後に真福寺から資料館に寄贈された。

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その隣にあるのが品川用水御普請所の標石。天保7年(1836)2月の造立。品川用水は野川中流の新川から取水し、世田谷区、目黒区を流れ、品川区戸越公園にあった熊本藩細川家の下屋敷の庭園の池の水用に開削されたもの。細川家は寛文6年(1666)に用水を廃止しようとしたが、流域の農民が灌漑用水にしたいと願い出て幕府の許可を得た。寛文9年(1669)にはより多くの水が必要なため用水は拡張され、各地の農村を潤した。

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その隣は角柱型の馬頭観世音。文化14年(1813)2月の建立。正面には梵字と「馬頭観世音」の文字、左側面には「右 府中道」、右側面には「左 大山道  用賀村」とある。元あった場所は、用賀4丁目11の三差路というから、まさに用賀駅前のフジスーパーのある辺り。微妙な位置だが、おそらく分岐点から右に分かれていたのは岡本村を経て、大蔵村、喜多見村を越えて府中へ向かう村道だったのだろう。

(郷土資料館⓶へ続く)

場所  世田谷区世田谷1丁目29-14

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2020年6月 8日 (月)

円光院の石仏(世田谷区世田谷)

世田谷線世田谷駅と世田谷通りに挟まれた円光院は以前はもっと広い寺院で境内には幼稚園もあった。ところが梅丘から延びてきた計画道路の拡幅で半分近くの境内を失ってしまったようだ。幼稚園があった場所が道路になり、その幼稚園は850m北に移動、国士舘大学の北側にある。そんな円光院は真言宗の寺院で、創建は天正年間(1573~1591)に遡る。

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山門は太い御影石でできている。その山門を抜けて左手に少しだけ石仏が祀られている。右側の大きい方の石仏はちょっと見慣れない角柱型の西国坂東秩父供養塔。いわゆる百箇所詣での成就祈念に建てたものである。造立年は元文6年(1741)で、「武州荏原郡世田谷郷」の銘がある。

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一方の左の石仏は、馬頭観音像。▢▢二己酉年正月十九日とある。己酉の年は江戸時代後期は享保14年(1729)、寛政元年(1789)、嘉永2年(1849)の3つがあるが、2年とあるのでここは嘉永2年(1849)に決定。馬頭観音が多く作られた時代でもあり、間違いないだろう。またこの馬頭観音には「世田ヶ谷宿」とあるので、上町周辺の馬屋による造立ではないだろうか。

場所  世田谷区世田谷4丁目7-12

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2020年6月 7日 (日)

浄光寺の石仏・庚申⓶(世田谷区世田谷)

浄光寺の本堂脇を進むと墓所に入る。本堂のちょうど裏手に無縁仏が集められている。その手前にある3基の石塔は素性が判っている。世田谷村の上宿(現在の世田谷線世田谷駅~上町駅の辺り)の住民が、当時無縁仏の供養のために、松ヶ丘交番付近(旧地名は供養塚)に建てたもの。その後3基とも仙蔵院(廃寺:現在の桜小学校校庭あたり)に移されたが、さらに大正10年(1912)に大場家が代官屋敷内に安置した。

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さらに昭和39年(1964)に区立郷土資料館の設置を契機に資料館に寄贈され、一般の参観に供していた。ところがそれから地元では不幸が相次いだため、地元有志が協議を行った末に、大場家に依頼し、同所にあった他の石塔<元禄7年(1694)の如意輪観音像、寛保3年(1742)の地蔵菩薩立像、ほか1点>と共に浄光寺に安置した。

右の舟型の地蔵菩薩立像は寛文2年(1664)2月の造立。上部に「念仏供養」とあり、右に「願衆廿六人導師泉蔵院」とあるのは前述の桜小学校のところにあった仙蔵院のことであろう。真ん中の念仏供養塔は元禄8年(1695)3月の造立で、中央に「念仏供養二世安楽所」とある。その横には「同行三拾三人」と書かれている。

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一番左側は珍しい形をした、唐破風笠付丸柱型の庚申塔で、造立年は貞享2年(1685)9月。青面金剛像の脇に日像月像があり、下に三猿がある。左面には「世田ヶ谷上町」とあるので、前述の経緯は間違いないようだ。右面には「同行11人」とあるので、当時の住民の中の庚申講の代表者数はそれくらいだったのだろう。

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無縁仏塔の裏手の隅っこにある文字塔の庚申塔もくし形角柱の比較的珍しいもの。何の情報もなく、ただ「庚申」とだけ彫られている。板碑型の墓石らしき石碑で寛永4年(1627)という古い塔の脇に潜んでいる。

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その左には傾きながらゼニゴケをまとっている馬頭観音塔がある。明治32年(1899)9月のもので、右面に「世田谷上町 願主 嶋﨑千代▢ 世話人」とあるがその下は読めない。当時はまだ世田谷通りはなく、ボロ市通りが街道であったので、牛馬の往来も多かったのだろう。

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このほかにも多くの石仏が境内にはあるはずなのだが、なかなか見つからない。唯一見つけたのは無縁仏塔にあった明治9年(1876)3月造立の馬頭観音。大きく馬頭観音が彫られており、願主は 嶋﨑喜代治とある。世田谷上町で馬屋でもやっていたのだろうか、上の馬頭観音と同じ施主の苗字である。

場所  世田谷区世田谷1丁目38-20

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2020年6月 6日 (土)

浄光寺の石仏・庚申①(世田谷区世田谷)

世田谷の代官屋敷の裏手にある浄光寺は文安元年(1444)の開山。境内墓地には世田谷代官大場家の代々の墓がある。代官屋敷前の道は江戸時代からの街道でなぜかこの前後で街道はクランクしている。この道筋は毎年12月と1月にボロ市で賑わう。戦国時代にはよくわざとクランクを作ったものだが、その名残だろうか。代官屋敷の裏手には区立郷土資料館があり、浄光寺はそのさらに南にある。

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郷土資料館側は山門ではなく勝手口。その勝手口にあるのが上の写真の舟型地蔵立像。像立年は寛文12年(1672)8月で、「武刕荏原郡世田谷上町」の銘がある。念仏供養の講中によるもので、結衆17人と記されている。この勝手口から東側を回り込むように路地を進むと正門の山門がある。

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本堂手前に2基の石仏がある。大きい方は丸彫の地蔵菩薩立像で、宝暦2年(1752)11月のもの。「武州荏原郡世田谷上町 念仏講女中 同行60人」とあるので、これも地元のもの。「石工 青山若松町 石屋八郎兵衛」とあるから、外苑銀杏並木の入口辺りの石屋である。小さい方は丸彫の如意輪観音座像。造立年は天保4年(1833)7月で、「世田谷弦巻…講中」とあるが、代官の大場家が世話人になっている。

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本堂の左に進み墓所に入る入口に六地蔵が並んでいる。これは明治26年(1893)の造立で、比較的新しい。「弦巻村石工富田米次郎」の銘があるので、地産である。これより墓所に入るとさらに多くの石仏があるので、それは別述したい。

場所  世田谷区世田谷1丁目38-20

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2020年6月 5日 (金)

八幡山の馬頭観音(世田谷区八幡山)

世田谷区八幡山は東を赤堤通り、西を環状八号線に挟まれた京王線八幡山駅の南のエリアである。昔は環八などなく、渋谷から甲州街道の滝坂へ抜ける瀧坂道が甲州街道の裏道の役割を果たしていた。現在の住居表示八幡山は江戸時代は東の八幡村、西の粕谷村、南の船橋村のそれぞれの端っこだったが、この3つの村の境にあたる瀧坂道の近くにこの馬頭観音がある。

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馬頭観音は細い道の辻の角にオレンジ色の鉄柱に守られて祀られている。角柱型の文字塔で、造立年は明治42年(1909)12月、嶋田寅次郎建立とある。しかし右側には昭和62年(1987)12月、破損の為修復、嶋田敏男、とある。寅次郎さんの孫かひ孫かは分からないが多分子孫だろう。この辻は滝坂道から少し北に登ったところにある。

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古い地図を見ると、この辻を南に下ると滝坂道に出合い、その南西には烏山川が流れている。この辻から西に向かう村道もあって、その道も烏山川を越えて粕谷村に向かう道。そのままで粕谷村地蔵尊に出る道。江戸時代後期には八幡山八幡神社を中心に民家が集まっていた。

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瀧坂道は明大グラウンドの脇を下り、グラウンドと寮の間を抜けると出られるが、烏山川を渡る辺りに残されているのが「葭根橋(よしねばし)」の欄干の石である。見る限りでは一間ほどの幅の川だったようだ。この橋については、八幡山八幡神社の庚申塔のところでも書いている。

場所  世田谷区八幡山2丁目17-41

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2020年6月 4日 (木)

船橋観音堂の石仏(3)

自宅から歩いて20分弱のところにある船橋観音堂は石仏の宝庫である。しかしいつ無くなるかという不安が常に付きまとう。これまでも船橋観音堂の石仏は紹介したが、まだまだ多数残っている。墓石は含めないという方針なので、今回の3基でほぼ終了だろうか。

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まずは入口から近いところにある、かなり表面の剥離が進行したこの石仏。実は馬頭観音で比較的少ない馬頭座像が描かれている。造立年は万延元年(1860)7月なので、江戸時代の末期。横に施主名があり、「船橋村 徳左エ門悴  伊三郎」とある。悴(せがれ)と書かれているのは極めて珍しい。女性の場合は旦那の名前に母とか女とか付けることが多いのだが、倅は滅多に見ない。

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次は大きなケヤキの木の根元にある如意輪観音座像で舟型光背型の像型である。如意輪観音の上部に、「意趣者念仏供養」とあり、周りに願主名で女性の名前が40人くらい書かれている。みんな「お」がついている。おかめ、おたん、おせん、おつね、おそめ、おはる、おたま、おふくなど多彩である。一部のみつる松というような名前もあるが1割以下である。造立年は延宝3年(1675)1月。江戸時代初期から全盛期になるころで、女性の実質地位も上がってきた頃である。

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最後は、探していたが見つからなかった地蔵菩薩。台石から土の上に下ろしてあった。この地蔵菩薩も船橋村の女中念仏講中によるもので、「六十六部安心」とあり、横には「これより右 たかいとみち」と道標の役目も果たしていたようだ。造立年は寛政3年(1791)11月。こういう状態を見ると、台石が入れ替わってしまうこともままあるだろうと思う。

場所  世田谷区船橋1丁目20-16

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2020年6月 3日 (水)

江岸寺の庚申石仏(文京区本駒込)

江岸寺は日光街道沿いだが駒込の六義園に近い。六義園は江戸時代の大名屋敷、5代将軍綱吉の側用人柳沢吉保の下屋敷として造られた名園である。元禄8年(1695)に加賀藩の旧下屋敷跡地を拝領した柳沢は、千川上水を引き入れて見事な回遊式築山泉水庭園を作り上げた。その六義園から250m程江戸に近づいたところにあるのが曹洞宗の江岸寺である。

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本郷通り(日光街道)から参道が本堂に向かって付いている。入口には背の高い地蔵立像が立つ。謂れは分からないが、台石には正保2年(1645)8月とある。江岸寺は慶長元年(1596)に神田駿河台に創建され、慶長9年(1604)にはお茶の水に移転。調べは付いていないが、家康が神田駿河台の山を削って日比谷入江を埋め立てたために移転したのではないかと思う。ところが1657年の明暦の大火で、駒込の地への移転を余儀なくされた。この地蔵はお茶の水から移されたものかどうかは不明。

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本堂脇の墓所入口には六地蔵に並んで、大きな庚申塔が立っている。角柱型だが上部に瑞雲を冠した特殊な形態である。正面には青面金剛像と三猿が描かれている。造立年は元禄11年(1698)6月。立派な庚申塔で、願主名には、京屋長兵衛、松橋屋三十郎、豊嶋屋庄三郎、信濃屋徳兵衛、上総屋八兵衛、大島屋三左衛門、松坂屋右衛門など、商人と思われる名前が20人余り彫られている。街道沿いの商家だろうか。

場所  文京区本駒込2丁目26-15

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2020年6月 2日 (火)

駒込富士神社の庚申(文京区本駒込)

駒込の富士神社はもともと本郷にあった。天正元年(1573)に名主らの夢枕に木花咲耶姫が立ったことで、現在の東大のキャンパスの場所に浅間神社を勧請した。寛永6年(1629)に加賀藩前田家がその地を上屋敷として拝領するにあたり、浅間神社は現在地に移転した。中世以前からこの丘は存在し、前方後円墳だったという。それを富士塚とよんで富士講の信仰対象にしたのは江戸時代の事である。

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天祖神社やこの富士神社を含む遺跡は駒込神明町貝塚と呼ばれ、富士神社古墳は古墳時代の貴重な遺跡で土師器や埴輪が出土している。しかし江戸時代の富士講は大きく盛り上がり、文京区内だけでも音羽富士(護国寺境内)、白山富士(白山神社)、身禄行者の墓の4座がある。そして東京都内には120ものミニ富士があり、23区内では練馬区大泉の中里富士が最も高い。

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ただここ駒込富士は胎内(溶岩洞窟)まで模した場所があり、その入り繰りには自然石の庚申塔が半分埋もれかかってはいるが存在を見せている。この自然石庚申塔の右側は胎内形式になっているが、崩落が進み子供がけがをしたりするのを防ぐために塞がれてしまっている。

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実はこの埋もれかけた胎内には庚申塔がある。上の写真は3基あるうちの小さい方で、造立年は不明だが駒型であることは分かっている。青面金剛像が彫られ、邪鬼を踏んでいるが、その下は土に埋まっていてどうなっているのか分からない。また、この駒型庚申塔の横には文政9年(1826)9月造立の青面金剛、邪鬼の庚申塔と延宝4年(1676)6月造立の文字塔型角柱の庚申塔があるらしいが、崩落が進んでいて確認できなかった。

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斜面には板碑型の庚申塔が1基立っていた。大きなもので、造立年は寛永17年(1640)3月、江戸時代後期に書かれた資料によると、今よりもずっと右側の高いところにこの庚申塔は立っていたらしい。しかし、大正時代の調査では富士神社山頂にあったことが分かっている。いろいろ移されているのだが理由は分からない。庚申塔の中央には、「庚申待成就後生善處也」とある。現世もあの世も幸せにという、かなり贅沢な信仰である。

場所  文京区本駒込5丁目7-20

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2020年6月 1日 (月)

天祖神社前地蔵尊(文京区本駒込)

駒込天祖神社の前に地蔵堂がある。『縁結び子育地蔵尊御縁起』という説明板が掲げられている。地元の地蔵講によって設置されたものだが、この手の説明板にありがちな、文脈に違和感のある説明である。要は、天祖神社の前に地蔵尊をお祀りした、昔から霊験あらたかと信奉されている、戦後縁結び子育地蔵尊と改称したという3点のようだ。

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地蔵堂の扁額もなかなか立派なもので、堂内には大きな地蔵と如意輪観音に加えて、小さな地蔵が2基祀られている。小さい方についてはまったく情報がないが、右側の如意輪観音像は舟型光背型で寛文11年(1671)10月の造立である。左側の舟形光背型の地蔵菩薩立像は、正徳2年(1712)5月の造立らしい。左側にある水子地蔵は昭和50年(1975)に建てられたものである。

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地蔵堂の裏手に「駒込名主屋敷」という史跡がある。東京都の指定史跡になっている。駒込の名主は高木家、慶長年間(1596~1615)に伝通院領であったこの一帯の開拓を許され、そのまま土着した。その後代々上駒込村の名主を務めたという。残っている表門は宝永年間(1704~1711)に建築されたが、火災に遭って享保2年(1717)に再建されたと伝えられる。よくもまあ戦災をくぐりぬけたものだと思う。

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駒込村は一富士二鷹三茄子で有名とされる。富士はこの少し北にある富士神社、茄子は富士神社周辺に多くの茄子畑があり名産品だったこと、そして鷹というのは、江戸時代天祖神社の南隣の駒込病院の地が鷹匠の街だったことから来ている。当時の江戸は「かねやす」までと言われ、本郷三丁目を過ぎると江戸の外と考えられていたから、この辺りは完全に郊外の農村だった。そんな時代を彷彿とさせる史跡が残っているのも本駒込の魅力だと思う。

場所  文京区本駒込3丁目40-1

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2020年5月31日 (日)

駒込天祖神社の庚申塔(文京区本駒込)

駒込天祖神社はかつて神明社と呼ばれた。神明社よりも東側が動坂町、西側が神明町と神明社に因んだ地名だったが、昭和中期本駒込4丁目~5丁目と変更された。天祖神社の南隣には1879年から140年の歴史を持つ駒込病院があり、その南には明暦の大火で焼失した門前町が大名屋敷になったため、門前町の住民が武蔵野に移り街の名前になった吉祥寺がある。

このあたりは縄文時代から人間が住み続けた場所で、一帯には駒込神明町貝塚が広がっていてその上に街がある。神明社は文治5年(1189)の創建で、源頼朝の奥州征伐の時に始まったと伝えられる。この天祖神社は西の日光街道側が表参道になっているが、動坂側にも裏参道があり、裏参道の入口に庚申塔が7基並んでいる。

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左端は笠付角柱型の庚申塔で、元禄16年(1703)9月の造立。上部に日月、そして正面、右面、左面にそれぞれ大きな一猿がある。右面下部には「駒込道」の文字がある。その隣の庚申塔も変わっている。上部が欠損しているが、頂上は首の欠けた一猿。その下には「奉供養庚申 二世 安樂」とあり、下部には願主名が並び、末尾に「駒込村」とある。

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次は板碑型の庚申塔で慶安元年(1648)9月と極めて古い時期のもの。神社の北側には駒込村の名主高木家の屋敷跡があるが、その高木家が施主のようだ。その右は光背型の庚申塔で、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。造立年は享保5年(1720)10月で、「武刕駒込笹原村」の銘がある。笹原は現地名にはないが、おそらく不忍通りの辺りだろうと思う。

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その隣は最も大きな板碑型の庚申塔で、三猿が下部に描かれている。造立年は寛文8年(1668)でこれも初期のもの。三猿上部には、「為奉待庚申二世安樂」とあり、左に「武州豊嶋郡駒込村」と書かれている。その右側の駒型の庚申塔は、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、造立年は不明だが10月という文字がある。

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右端の庚申塔は舟型光背型で、造立年は延宝4年(1676)4月。青面金剛像のみの図柄。「武州豊嶋郡」の銘がある。これだけ古いものが複数保存されていることは驚きである。神社は戦災で焼失し、戦後社殿が再建されたが、庚申塔が健在であるのは嬉しいことである。

場所  文京区本駒込3丁目40-1

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2020年5月30日 (土)

常徳寺の石仏(文京区本駒込)

徳源院の隣にある常徳寺は浄土宗の寺院。寛永7年(1630)に湯島切通に創建され、天和の大火の後の天和3年(1683)に下駒込村の地に移転したのは、徳源院とほぼ同じパターンである。山門を入ると右手に「おその地蔵」がある。

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おその地蔵は古いものではない。建立されたのは大正11年(1922)。台石には「十万人親縁記念供養塔」とある。説明書きによると、三田その子という女性が嫁ぎ先で結核を患い、幼い娘と別れて療養生活をしていたが他界してしまった。生前に、もし生まれ変われたらお地蔵様になって同じ病で苦しむ人を救いたい、という思いを残して亡くなったのを聞いた宮崎林蔵という檀家の人が、結縁者を募りお金を集めておその地蔵を建立したという。今でいうクラウドファンディングである。

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おその地蔵の前に舟形光背型の地蔵菩薩立像を尊像とした庚申塔が立っていた。中折れを補修した形跡もあるが、「奉供養庚申」とあり、三猿だけでなく日月もはっきりと描かれている。造立年は元禄6年(1693)9月。地蔵の尊顔と宝珠が欠損している。この庚申塔だが、文京区の資料には載っていなかった。しかし石の質も良いもので、おそらく元禄のもので間違いないと思う。

境内には、猿田彦大神の塔(大正9年造立)があるようだが、訪問時は見つからなかった。

場所  文京区本駒込3丁目7-16

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2020年5月29日 (金)

徳源院の石仏(文京区本駒込)

徳源院は地下鉄南北線本駒込駅のある駒本小学校前から動坂に向かう道の途中、蓮光寺の北向いにある臨済宗の寺院。創建は寛永7年(1630)で当初は湯島に開かれたが、天和2年(1682)に現在地に移転した。江戸時代後期の切絵図には「徳源寺」とあるが、今は寺名はない。元禄期の切絵図には徳源院と隣の常徳院は描かれていないので、移転当初はまだ知られていなかったのだろう。

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禅寺らしく質素な境内にこじんまりとした本堂だが、雰囲気はとても厳かである。山門をくぐって左側にあるのが日限地蔵。この日限地蔵は寛政5年(1793)に動坂上に建立された。ご利益があると庶民からは大いに崇拝され、「動坂の日限地蔵」と人気を誇っていた。その動坂にあった日限地蔵が、昭和60年(1985)にこの寺に移された。

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右手に錫杖、左手に宝珠を持つ典型的な地蔵だが、日限地蔵というものは日限り(ひかぎり)地蔵とも読み、日限を切って祈願をする対象の地蔵尊であった。多いのはやはり子育地蔵でそれだけ赤子が大きく育つのは難しかったのだろう。

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日限地蔵の傍には、これもまた同坂上の日限地蔵堂にあった猿田彦大神の石塔が立っている。こちらは文京区の資料だと昭和57年(1982)に移設とあり、日限地蔵よりも3年早い。造立は文化4年(1807)2月で、角柱型。下部には道標となる行先が彫られている。 右面は、千た木(千駄木)、ねす(根津)、やなか(谷中)、うへの(上野)。正面は、すぐ こまこミ(駒込)、小いし川(小石川)。左面は、坂下 たはた(田端)、をく(尾久)、ひくらし(日暮里)、せんしゆ(千住)となっている。地名というものもなかなか面白い。

場所  文京区本駒込3丁目7-4

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2020年5月28日 (木)

蓮光寺の庚申と石仏(文京区向丘)

団子坂と白山上の間の道のうち日光街道の東側の一部区画を江戸時代には「駒込四軒寺町」と呼んだ。ここには浄土宗の寺院である、光源寺、清林寺、栄松院、瑞泰寺が並んでいる。一番東にあるのが光源寺で、その角を曲がると動坂上と白山上を結ぶ「イタダキ横丁」に繋がる道だが、ちょうど光源寺の裏手に位置するのが蓮光寺である。先の四軒寺町の4寺は神田(今の大手町あたり)が御用地化する際、慶安元年(1648)に移転を強いられここに来た。

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しかし同じ浄土宗でも蓮光寺は、浄心寺と同じ湯島嬬恋坂にあったのが、明暦の大火で被災してこちらに移転した形である。江戸は大火の時だけでなくいろんな時に大名屋敷や寺を移転させている。山門をくぐると六地蔵の前後に立派な石仏が並んでいる。上の写真のいちばん手前の大きな石仏は、舟型光背型の聖観音立像で、造立年は延宝7年(1679)11月。どうやら身分の高い人の墓石らしい。

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六地蔵の先には、笠付の聖観音像があり、それも宝永5年(1708)12月造立の立派なものだが女性の墓石のようだ。そして隣が板碑型の大きな庚申塔。日月が浮彫になっていて、中央には「奉庚申待為二世安樂」とあり、下部に三猿が彫られている。造立年は寛文8年(1668)9月と初期の庚申塔である。

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その左には右から地蔵菩薩、観音(種類は私には分からない)、聖観音が並ぶ。地蔵は貞享元年(1684)のもの。中央の観音像は万治4年(1661)、右の聖観音像は寛文9年(1669)である。江戸時代初期の石仏の岩質(石質)は極めて良いものが多い。ほぼ安山岩だが、江戸城の普請に際して、伊豆や真鶴から運ばれてきた通称「小松石」と呼ばれるものが大半を占めている。そのあまりが石仏に使われているケースが非常に多い。

場所  文京区向丘2丁目38-3

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2020年5月27日 (水)

光源寺の庚申塔(文京区向丘)

中山道の白山上と千駄木の団子坂を結ぶ道の中程、北側に光源寺がある。浄土宗の寺院で天昌山松翁院光源寺という。この寺で有名なのは金色に輝く駒込大観音。残念ながらこれは平成5年(1993)に再建されたもの。前の大観音は元禄10年(1697)に建立された高さ5mの十一面観音だったが、東京大空襲(1945年3月10日)で焼失してしまった。今回は下の写真の観音様はパス。

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光源寺は天正17年(1589)に神田に創建された。そして慶安元年(1648)に現在地に移転してきた。観音堂の千駄木側の一角は工事中だったがその中に巨大な庚申塔が立っていた。全高はなんと258㎝もある。アンドレ・ザ・ジャイアントよりも高い。

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この笠付の角柱型庚申塔は、文京区の指定有形民俗文化財。 造立年は明和9年(1772)9月と江戸時代中期になる。庚申信仰もやや落ち着いた時代である。青面金剛、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で、台石にはびっしりと施主願主らの200人以上の名前が彫られている。明和9年は2月に目黒行人坂火事が起こり、夏には豪雨災害が起こって受難の年だった為、江戸の市民が復興を願って纏まったものではないだろうか。

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本堂の前に回ると、境内の脇に角柱型三猿の庚申塔がポツンと立っていた。造立年は貞享4年(1687)10月。三猿の上には「奉庚申 供養」と文字が入っている。初期型のシンプルなタイプで個人的には好きである。

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墓所に回り込み、観音堂の裏手に回り込むと上部が欠損して丸くなった庚申塔が立っていた。欠損の為もとの像形は不明だが、三猿は確認できる。また、正徳2年(1712)2月の造立年も文字が残っている。施主は「里見氏」とある。江戸時代、千駄木から駒込に向けての道は団子坂の菊人形で賑わったが、江戸の街からは少し外れた下駒込村という地域で、御用林があって狸ばやしの言い伝えも残るのどかな場所だった。今も多くの寺が残っていることで、気持ちのいい散策が出来る。

場所  文京区向丘2丁目38-22

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2020年5月26日 (火)

海蔵寺身禄行者の墓(文京区向丘)

今回はちょっと変わり種。庚申塔でも地蔵でもその他石仏でもない。日光街道から少し千駄木方面に路地裏を入った一角に海蔵寺がある。曹洞宗の寺院で天文年間(1532~1554)に現在の丸の内脇の和田蔵門内に創建。その後明暦年間(1655~1657)に文京区向丘に移転した。この寺院でもっとも有名なのが身禄行者の墓である。

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日本人なら誰でも知っている富士山。江戸時代の人々はこの山が噴火をしたのを経験している。上の写真は高尾山の奥、一丁平からの富士の眺め。左の裾の出っ張りが宝永火口で、1707年に山容を変える大噴火を起こした。300年前だが地学的にはつい今しがたの事である。噴火の前後関係なく、江戸時代には富士講が流行っていた。その富士講の中でもっとも有名な行者が食行身禄(身禄行者)である。伊勢の出身で、享保18年(1733)63歳の時に吉田口八合目の烏帽子岩で断食行を行いそのまま入定(にゅうじょう=密教で修業をしながらそのまま即身仏となること)した。

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現在も多くの富士講の遺産として、あちこちに富士が築かれている。身禄行者の墓も同じような溶岩でできた山になっている。海蔵寺のこの墓に眠るのは身禄行者の分骨らしい。 江戸で爆発的な流行を示した富士講、始まったのは戦国時代という。江戸時代中期には身禄行者や村上光清によって広がったが、村上が上層階級に支持されたのに対して、身禄行者は江戸の庶民に絶大な人気を誇ったという。

場所  文京区向丘2丁目25-11

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2020年5月25日 (月)

ほうろく地蔵と庚申塔(文京区向丘)

本郷追分で分かれた日光街道と中山道はしばらく並行して北上する。その間にあるのが曹洞宗の大円寺。創建は慶長2年(1597)で神田柳原(現在の秋葉原駅の南側)に出来たが、慶安2年(1649)に現在地に移った。この辺りで二つの街道が平行するのは地形が東西に細い半島地形であるためで、大円寺は日光街道から数十m、中山道からも数十mの場所にある。

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この寺はほうろく地蔵で有名。ほうろく地蔵は「八百屋於七」に因む地蔵尊で、天和2年(1682)に起きた天和の大火の後、火あぶりの刑になった於七の霊を供養する為に建立されたもの。享保4年(1719)に渡辺九兵衛という人が寄進している。於七の罪業を救うために、熱した焙烙(素焼きの縁の浅い土鍋)を被り、自ら焦熱の苦しみを受けた地蔵菩薩と見立てたのだろう。その後は首から上の病気の治癒にご利益があると信仰を受けている。

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ほうろく地蔵には沢山の虹色に編み込まれたような千羽鶴が見事で、焙烙に見立てた素焼きの蓋のようなものが絵馬の役割を果たしている。昨今のコロナ渦でも多くの奉納があっただろう。このほうろく地蔵の前を守るように3基の庚申塔が立っている。

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向かって左には2基の庚申塔がある。大きい方は駒型で青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が描かれており、造立年は天明4年(1784)8月のもの。「建立願主 白山前 住吉屋五郎佐衛門」とある。右側の小さい方は角柱型で、こちらも青面金剛、二鶏、邪鬼、三猿の図柄。造立年は元文5年(1740)12月で、施主は当寺、金龍山大圓禅寺とある。

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右側を守るのはずっと古い角柱型の庚申塔。三面に一猿が描かれたもので、上部に梵字のキリーク。造立年は延宝3年(1675)とある。 この庚申塔のように江戸時代初期のものは興味深い。元禄時代から宝永年間以降は青面金剛像が殆どになるが、それ以前は地蔵有り、聖観音あり、文字塔ありと様々なタイプがある。

場所  文京区向丘1丁目11-3

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2020年5月24日 (日)

浄心寺の庚申塔(文京区向丘)

本郷追分以北の日光街道沿いには寺が多い。浄心寺もその一つだが、この寺は別の事で有名である。江戸時代初期、江戸の街の大半を焼いた明暦の大火で江戸は江戸城天守閣をも失い、死者10万人という説もある。火元については複数の説があるが、本所、小石川、麹町から同時発生的に起こったと言われる。浄心寺坂のページにも書いたが、円乗寺の前の坂なのに浄心寺坂というのはこの浄心寺という説もあるが、浄心寺の由来とは異なる。

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浄心寺は桜の美しい寺である。入口には巨大な布袋像があり驚かされるが、見るからにハリボテ風なのが悲しい。その脇には春日局が祈っていたという地蔵がある。春日局は三代将軍家光の乳母であるが実母ではない。この地蔵菩薩像も由緒がはっきりしない。

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本堂前には江戸時代初期の庚申塔がある。駒型で文字に三猿の図柄。造立年は寛文12年(1672)9月、地名などは書かれていないが、上部に種子があり、現世安穏、後世清浄の文字がある。浄心寺は元和2年(1612)に湯島の嬬恋坂付近に創建された。それが振袖火事で焼失し、本郷のこの地に移転してきたというのが浄心寺の説明書きであった。

場所  文京区向丘2丁目17-4

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2020年5月23日 (土)

根津神社の庚申塔(文京区根津)

根津神社は1900年余り昔、日本武尊(やまとたけるのみこと)が千駄木の地に創建したと伝えられる古社。文明年間(1469~1487)には太田道灌が社殿を築き、江戸時代になると五代将軍綱吉の時代に現在の地に遷座した。遷座以前ここは三代家光の長男綱重の別邸で、その長子である六代将軍家宣はここで産まれた。境内には家宣の胞衣塚(えなづか)が残っている。胞衣塚については近所の天祖神社のページに書いたので参照いただきたい。

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昨今は赤い鳥居がブームということで、重要文化財の楼門や本殿よりも境内の乙女稲荷神社の千本鳥居の方が人気があるようだ。そこに胞衣塚もあるのだが誰も見向きもしない。後ろの境内の西側は標高20mの台地だが、そこから一気に10m以上落ちた崖下が境内。千本鳥居はその中腹にある。千本鳥居の北側には固められて六面幢のようになった庚申塔群が立っている。

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境内側の正面から右回りに見てみると、まずは後から笠を載せられたと思われる、本来は舟型光背型の庚申塔。造立年は寛文8年(1668)10月で青面金剛像が大きい。文京区内の青面金剛像の庚申塔としては最も古いもの。青面金剛の下には中央に御幣を持つ一猿、その脇に二鶏が描かれている。写真の下になるが台座石に三猿が描かれていたが、おそらく別ものだろうと言われている。青面金剛の左には「武州豊嶋郡江戸駒込村」の銘がある。その右側の庚申塔は、青面金剛、邪鬼、三猿の駒型とみられる庚申塔で、造立年は宝永6年(1709)。こちらには「武州豊嶌郡駒込千駄木町施主」とある。

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裏に回り込むと、次は板碑型にサイズの異なる笠を無理やり載せた庚申塔がある。文字が薄いが「奉造立庚申供養一結衆二世成就攸」と書かれており、「都嶋凍馬米村」とあるが、これは豊嶋駒込村の意味。造立年は寛永9年(1632)初春とあり、文京区では最古の庚申塔である。その右側にあるのは、上部欠損で元の形は不明だが、青面金剛像と三猿の描かれた庚申塔。造立年は延宝8年(1680)6月。

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稲荷側を向いているのは元禄5年(1692)5月造立の、これこそ笠付角柱型の庚申塔で、笠が合っているのはこれだけのようだ。青面金剛像、邪鬼、二鶏の図柄で三猿はない。その右側のものは上部がかなり欠損しており、おそらく舟型光背型だろうとは思われるが違うかもしれない。描かれているのは聖観音菩薩立像で、その右に「〇〇待庚申供養」とあるので庚申塔とわかる。これら6基の庚申塔は昔は別々の場所にあったものをいつからかここに纏めたものだが、出処は不明である。

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庚申塔の後ろにある塞ノ神塔はずっと新しく、明治6年(1873)9月のもの。自然石で中央に大きく「塞大神」とあるが、これは駒込追分の路傍にあったものというが、駒込追分という地名は江戸時代から明治時代のもので、大正期辺りからは本郷区になったので本郷追分と呼ばれた。日光街道と中山道の分岐点でもあるこの歴史的な交差点には現在は名前はない。不思議である。明治42年(1910)に道路拡幅のためにここに移転を余儀なくされたというが、江戸時代北からの脅威を守るために、徳川が信頼している前田家の本郷屋敷を置き街道の監視をさせたという地だけに、力のありそうな塞ノ神である。

場所  文京区根津1丁目28-9

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2020年5月22日 (金)

東光院の石仏(大田区田園調布本町)

密蔵院の北、新幹線を挟んだ先にある緑屋根の本堂が東光院。有慶山東光院といい寺名はない。寺の脇には六郷用水を模した水辺の公園が緑道に沿って伸びているが、この道は青梅奥多摩の材木を筏に組んで下った山人が六郷で荷を引き渡した後、山奥に向かって70㎞程の道を徒歩で帰った街道である。普通に歩いて15時間だが、当時の人々は3日ほどかけてゆっくり筏道を上流に歩いたそうである。

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東光院の山門手前の炉端には地蔵堂がある。文化財の記録にはないので、おそらくは最近のものだろう。丸彫の大きな地蔵菩薩と、輪光背のある小さめの地蔵菩薩が納まっている。その先にある山門はなかなか風格のあるものだ。

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境内にはポツポツと石仏があるが、目に入ったのはこの繊細な彫りの石仏塔。舟型で、千手観音の座像が彫られている。造立年やその他詳細は不詳だが、おそらくは江戸時代中期のものと言われている。塔の上部には日月が、また台石には二鶏が描かれており、庚申信仰との関係もありそうだが、いまひとつそうだと言い切れるものがない。しかし私はこれも庚申塔だろうと思っている。

場所  大田区田園調布本町35-8

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2020年5月21日 (木)

密蔵院の庚申塔(大田区田園調布南)

東急多摩川線沼部駅の近く、新幹線と横須賀線の線路の南側に密蔵院がある。明楽山密蔵院といい寺号はない。創建年代は不詳だが、古くから庚申塔が多くあり、沼部の庚申として知られていたという。安政3年(1856)に大暴風雨があり堂宇が倒壊し、庚申塔群は本堂に移された。明治16年(1883)には多摩川の砂利採掘の監督の夢枕にたびたび青面金剛が立って、衆生救済のために世に出たいと訴え、この監督の病気を治したという。それがもとで人々は庚申様の御利益を信じて、明治40年(1907)には立派な庚申堂ができたという。

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この密蔵院の建っている場所は、門前が六郷用水の流れ、その200m先は現在の多摩川の土手だが、境内の後ろはいきなり10mほどの段丘になっている。そのため門前の多摩堤通りは線路の下をくぐり、裏の道は横須賀線と新幹線を高架で跨いでいる。境内に入ってすぐ右手の観音堂の脇に庚申塔が並んでいる。

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一番目立つのは極めて大きな舟型の庚申塔だが、これは新しいもの。昭和55年(1980)9月に檀家で建てたものである。石質が気になるが、これが200年くらい経ったらどれくらい形を留めているだろうかと思う。現代のものなので、調度品のように細かい造りになっている。青面金剛、二邪鬼、三猿、童子が彫られているが、あまりに現代的過ぎて全く魅力を感じないのは何故だろう。

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近くにあるのは板状駒型で青面金剛と三猿のシンプルな庚申塔。造立年は宝永6年(1709)11月で、これは既に300年を超えている。昭和44年の大田区の資料にはないので、どこかから移管されたものかもしれないと思って調べてみると、以前は現在の田園調布警察前の交差点の辺りにあったものらしく、中原街道の拡幅工事でこちらに移されたものであった。

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近くにある上の庚申塔も同じく田園調布警察前から移されたもので、中原街道が狭く、環八もない頃には、そこの辻に堂宇がありこの2体の庚申塔が祀られていたのである。こちらの庚申塔は、青面金剛、三猿の図柄だが、こちらには日月の陽刻がくっきりと描かれている。造立年は正徳3年(1713)9月で、「武刕山谷鵜木村」の銘がある。一番右には天明姓が3人並んでいるのが鵜の木らしい。

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ひときわ大きな舟型の聖観音菩薩像が庚申塔の間に立っているが、これも庚申塔である。大田区では聖観音像タイプはこれだけらしい。造立年は寛文3年(1663)12月と古く、沼辺村の銘がある。右側に「新奉造立供養意趣者庚申待台塔八人現當二世安樂処」とあり、沼辺村の8人が建立したもの。江戸時代初期のものはこのように青面金剛でないものも多い。

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そして、珍しい一猿のみの舟型庚申塔。年代は延宝2年(1674)10月である。一猿像の上には「庚申供養現當二世也」とある。よく二世とあるのは、この世とあの世という意味で、現世もあの世も幸せでありたいという願望を表している。この造立メンバーに小泉傳右衛門と小泉平左衛門という名があるが、この前を流れていた六郷用水は江戸時代はこのあたりでも小泉次太夫が開削したために次太夫堀と呼ばれていた。その小泉次太夫との関係があるのかもしれない。

密蔵院にはこれ以外にも庚申塔(地蔵)や馬頭観音があるようなので、また再訪しなければならない。

場所  大田区田園調布南24-18

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2020年5月20日 (水)

武蔵新田商店街の庚申堂(大田区矢口)

武蔵新田駅から南に延びるいささか寂れた商店街はかつての鎌倉街道。途中に新田神社もあり、その先十寄(じゅっき)神社で鎌倉街道は緩やかに東にカーブして古市場村へ、そして矢口の渡しに出る。こういう何百年も人々の営みが続いた街が寂れるのは残念でならない。その商店街の一番南にあるのが希望門というアーチで、その下に古い堂宇がある。商店街が昭和26年(1951)に出来たので約70年、新田神社は650年、庚申塔と供養塔は300年前後だから、言葉通り何百年も人通りの絶えない場所だったのである。

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堂宇にあるのは、左の駒型庚申塔。これは元文5年(1740)10月の造立で、青面金剛像、三猿、二鶏の図柄である。「六江領矢口村」とあるが、これは六郷領であろう。「郷」の字は石工泣かせなので「江」としただけの事で間違ったわけではない。右側は念仏供養塔(舟型)で、造立年はさらに古く延宝6年(1678)8月。阿弥陀如来立像が彫られており、「奉造立念佛供養同行18人」とある。

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この少し南に十寄神社があるのだが、ここで祀られている新田義興は矢口の渡しで非業の死を遂げた。義興は鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の次男で、足利家とのせめぎ合いをしていたが、初代鎌倉公方である足利基氏と関東管領の畠山国清の謀略で、多摩川を渡る舟を沈められ最期を遂げた話が『太平記』に生々しく記されている。新田義興の遺体は新田神社の奥にある御塚(おづか)に葬られていると言われ、立ち入ると祟りがあると信じられている。江戸時代に平賀源内がここの竹で矢を造ったのが「破魔矢」の始まりだというのも興味深い。

場所  大田区矢口2丁目10-5

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