2024年6月17日 (月)

油面高地蔵(目黒区目黒)

目黒通りの油面(あぶらめん)交差点で知られる油面の地名は、この辺り一帯が菜種の栽培地で、生産された菜種油は芝増上寺や祐天寺の燈明に使われていた。そのおかげで油の生産業種に対して免税が行われ、「油免」が「油面」に転じたらしい。また面という文字には村の意味もあるようで、油の取れる村の意も兼ねていたと言われる。

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油面交差点から西に進む道は油面地蔵通りという通り名だが、その由来がこの高地蔵である。現場には「油面子育地蔵尊」とあった。昔この地蔵菩薩は目黒通り(昔の二子道)近くの小高い角地にあった。目黒通りの拡幅に現在地に移転を余儀なくされたのだが、目黒通りにあった頃は基壇が長く2mほどの高さがあったので「高地蔵」と呼ばれた。

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堂宇の外にあるこの石柱が昔の基壇のようだ。正面には「南無阿弥陀仏」とあり下部に「祐天寺道」とある。左には「是より左 九ほんぶつ道」、右には「是より右 ゆうてんじ」とある。堂宇に入れるために、基壇であったこの石塔と、現在の基壇である「六十六部供養」と書かれた石塔を入れ替えたのだろうか。

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造立年については目黒区の資料によると、「・・丙戌五月・・」とあるので、宝永3年(1706)明和3年(1766)文政9年(1826)のどれかだろうとしている。ただ台石には享保18年(1733)7月の紀年があるらしい。この地蔵が目黒区に面して角に立っているとすると、道標の九品仏方面と祐天寺方面は合点する。

場所  目黒区目黒4丁目26-15

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2024年6月15日 (土)

栗山家馬頭観音(目黒区自由が丘)

目黒区自由が丘は昭和中期から近年に渡ってトレンドの舳先にあり続ける街と言えるだろう。昭和後期には松田聖子らのタレントを街で見かけることもあったり、シナボンという外食チェーンの2号線が吉祥寺に続いて開店したりしたが、どちらも2,3年で閉店した。自由が丘駅が開業したのは昭和の初め、当時は九品仏駅という駅名で、2年後に自由ヶ丘駅に改称した。

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そんなオシャレな街の一画にひっそりと守られている石仏もあり、最も駅に近いのが熊野神社の庚申塔。次がこの栗山家の馬頭観音である。自由が丘駅からは数百m離れている。この辺りは昔は谷畑と呼ばれた土地で、谷畑坂の坂名にも残っている。谷畑は少し小高い台地上で、現在駅がある辺りは大正期までは川の周りの田んぼエリアだった。

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駒形の馬頭観音は、大正11年(1922)8月の造立。栗山家はもとは衾村の名家で、江戸時代は代々「年寄」という名主や庄屋を補佐する村の重要な役職を務めた家であった。栗山家のかつての古民家は碑文谷のすずめのお宿緑地公園内に移築されている。

場所  目黒区自由が丘2丁目6-19  

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2024年6月13日 (木)

九品仏名号題目道標(目黒区自由が丘)

東急東横線自由が丘駅の北西700mの通り沿いに覆屋があり、立派な道標付の石仏が納まっている。光背の大きな邸宅の前庭に堂宇を建てて納められているようだ。南から上ってきた谷畑坂の坂上にあたる場所である。

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正面にまず見えるのは赤文字で「左 九品仏江」という文字だが脇の・・・は何を意味するのか不明。右側側面には「南無妙法蓮華経」と大きく書かれ、左側面には「南無阿弥陀仏」と同じような大きな文字で刻まれている。

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上部に乗っかっているのは地蔵半跏像だろうか。造立年がないかと後ろ面を見てみると、寛保4年(1744)12月と刻まれていた。この場所は九品仏浄真寺の700mほど北東にあたる。確かにこの道標を正面に見て左に進むと九品仏に至る。等々力と衾村を結ぶ目黒道(二子道)から浄心寺に向かう道の道標として建てられたものだろう。

場所  目黒区自由が丘3丁目1  

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2024年6月11日 (火)

東光寺の石仏(目黒区八雲)

目黒区八雲にある東光寺には隣の常円寺とペアの大銀杏がある。常円寺の銀杏は幹回り4m、樹高25mの雌株で、東光寺の銀杏は雌株である。東京には有名な銀杏の樹が多い。火事の街でもあった江戸で焼け残る強い銀杏に対する尊敬の念もあったのだろう。

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東光寺は貞治4年(1365)の創建で、世田谷城主吉良治家が早世した息子の供養に建てた寺院。当時は臨済宗だったが、江戸時代に入ってからは曹洞宗に変わった。目黒通りは現在の幹線道路だが、一本裏手の東光寺寄りの曲がった八雲通りがかつての鎌倉街道、江戸時代は目黒道と呼ばれた旧道で、八雲通りには常円寺と東光寺の入口がある。この辺りがかつての衾村の中心地であった場所で、二寺と八雲神社を中心に人々が住んでいた。

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東光寺門前には堂宇があり立派な丸彫の地蔵菩薩像が祀られている。寺伝によると造立年は元禄15年(1702)9月と伝えられる。基壇の蓮には願主名が刻まれており、時代を経たなかなかの地蔵菩薩である。

場所  目黒区八雲1丁目9-11  map

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2024年6月 9日 (日)

常円寺の石仏(目黒区八雲)

目黒区八雲にある常円寺は日蓮宗の寺院。昔はこの辺りは衾(ふすま)村という地名。常円寺の東に走る柿の木坂通りは向かいの北野天神に因んで天神坂と呼ばれた。天神坂のページで常円寺の大銀杏のことを書いた。

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日蓮宗常円寺の創建は天正18年(1590)。前述の大銀杏は目黒区の保存樹木の第一号。日蓮宗の寺院には石仏は多くないのだが、ここには貴重な地蔵がある。境内の墓地入口に小堂があり、その中に2基の地蔵菩薩が祀られている。

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右の丸彫の地蔵座像は年不詳だが、おそらくは江戸時代中期のものだろう。左の顔だけの地蔵菩薩は、かつて広島市細工町の西蓮寺という寺院にあった子育地蔵で、昭和20年(1945)8月6日の広島市原爆投下で破壊されてしまったもの。爆心地から100mほどの場所だったらしい。その後縁があって目黒区の村山氏によって目黒区に移され、毎年8月6日には法要が行われる。

場所  目黒区八雲1丁目2-10  map

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2024年6月 7日 (金)

市役所通りの石仏群(稲城市東長沼)

JR南武線稲城長沼駅の東側を南北に通る市役所通りの北の端は川崎街道との辻。実は稲城市役所までは800m以上あり、市役所通りはここから市役所前まで続いている。昭和中期までは旧川崎街道が主要道で、この辻は街道筋の要衝であった。

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石仏群は現在は川崎街道ではなく市役所通りに面して並んでいる。一番右手前にある笠付の大きな石柱は、「石尊大権現・青沼大権現」と記されたもので、石尊大権現は大山信仰に基づく神仏習合の神、青沼大権現は水田に関わる神様らしい。造立年は寛政6年(1794)11月で「村中」の銘。右側には「秋葉山大権現」ともあり、これはやはり火事の神様だろう。さらに裏面には「小御岳大権現、榛名山大権現」とあり、この石塔はおそらくは燈籠だったと思う。

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もっとも大きな中央の櫛型角柱型の石橋供養塔だが、造立年は安永10年(1781)2月。「武州多摩郡小沢庄長沼村願主惣村」とある。文字を読んでみたが神仏習合でいろんな信仰が混じり合ったような偈文が書かれている。石橋供養塔の右側には庚申塔、左側には馬頭観音が並んでいる。

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左の馬頭観音は3基。左後ろの角柱型の馬頭観音は明治24年(1891)3月のもので、左面には願主篠𥔎孫右衛門の銘がある。中央手前の馬頭観音は文字がほとんど消えているが、側面に明治29年(1896)5月の造立年がある。右奥も馬頭観音と思われるが摩滅が進みすぎて詳細は不詳。

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石橋供養塔右手前にある2つの石仏はともに庚申塔である。左の小さい方は駒型の文字塔で、上部に日月があり、「奉造立庚申供(養)」の文字、その左右に享保5年(1720)10月の造立年と、「武刕多摩郡府中領・・」の文字がある。右の上部欠損した庚申塔はおそらくは舟型だったように見える。青面金剛像と三猿が確認でき、右に「庚申供養所」、左に元禄5年(1692)2月の造立年と、「武刕多摩郡長沼村」の銘が見られる。また「高雄山七里八丁」とあるのは高尾山か。反対側には「大山道」とある。

場所  稲城市東長沼590  map

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2024年6月 5日 (水)

上新田の庚申堂(稲城市大丸)

多摩川右岸の古道である旧川崎街道を川下方向に歩いていると、赤い堂宇の前に鳥居のある神社のような建物がある。頑丈な二重扉になっていて大きな閂(かんぬき)があり施錠されている。と思ったら閂を止めている南京錠は閉じていなかった。しかし開けるのは忍びないのでそのまま拝観した。

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鳥居は新しいものだが、鳥居の右後ろにある手水鉢は明治34年(1901)の紀年があった。赤い堂宇の前には大きな香炉台があり、その香炉台の正面には三猿が彫り込まれている。

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この香炉台は昭和9年(1934)のものらしい。三猿が陰刻風に彫られているのと上部の香炉台の直線基調がアンバランスで面白い。香炉台には稲城市東長沼の銘もあるようだ。

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格子の隙間から庚申塔を撮影しようとしても奥の格子が邪魔してうまく撮れなかったが、資料に依ると駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。造立年は享保11年(1726)で「奉供養庚申 大丸村」の銘があるようだ。

場所  稲城市大丸173  map

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2024年6月 3日 (月)

上新田の庚申塔(稲城市大丸)

幹線道路の川崎街道(県道9号線)と並走するのはJR南武線で、その南武線と絡み合うように多摩川の下流に向かって繋がっているのが昔からの川崎街道。府中街道とか八王子道の別名がある。この道すがらにはいくつもの石仏石塔がある。

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稲城長沼駅の北西の旧川崎街道の丁字路の駐車場脇に、極めて立派な土台の上に載った小さな駒型庚申塔がある。摩滅が甚だしくて文字は全く読めない。日月、青面金剛像、三猿の面影がわかる。造立年は当然分からない。ここから先、川崎方面に向かってはこの旧川崎街道沿いに数百メートルおきに石仏がある。

場所  稲城市大丸236  map

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2024年6月 1日 (土)

山崎通りの石仏(稲城市大丸)

円照寺前から山裾を南東に向かう道が山崎通り。古くから丘陵の裾に延びる道である。近年宅地開発が進み丘陵の上は向陽台という大きな街になっているが、1980年頃までは丸々山であった。低地の山崎地区から斜面を登って向陽台に向かう天神山通りと、山崎通りが交差するところに小さな墓所がある。

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以前はいささか鬱蒼とした雰囲気の崖に切り開かれた墓地だったが、最近とてもきれいに改修された。まるで新築民家のようなフェンスの裏側には小さな墓苑がある。階段を上ると左側にある御影石の堂宇に、地蔵菩薩と庚申塔が祀られている。ここに地蔵と庚申塔が祀られた経緯が下部にあり、「道路拡大小路の為稲城市より償金を受取り善意と信仰により須恵ハツエ氏の協力を得てこの地に地蔵堂を再建し供用する(昭和40年5月)」とあるが、これは以前の木造の堂宇のことだろう。左端に「令和6年春彼岸改修」とあるのがこの御影石の堂宇にした時だと思われる。

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庚申塔は舟型光背型で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。造立年は元文5年(1740)3月、「奉建立庚申供養」の文字と「武刕多摩郡大丸村」の銘がある。庚申塔の下の基壇は実は右の丸彫地蔵菩薩の基壇であったもので、堂宇をこじんまりとしたのでこういう組み合わせになったようだ。その基壇には享保12年(1727)3月の造立年と文字が見える。「奉霊〇〇地蔵〇〇・・・念仏講中」とあり、ゼニゴケで読み取れない。資料に依ると「奉造立地蔵大菩薩二世安楽 武州多摩郡大丸村念佛講中」と書かれているようだ。

場所  稲城市大丸68  map

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2024年5月30日 (木)

円照寺の石仏(稲城市大丸)

稲城市大丸にある円照寺は臨済宗の寺院。創建年代は不詳だが、天正15年(1587)に中興したという記録がある。円照寺境内の本堂前の池は昔は湧水によって水が満ちていたというが今は水は出ていない。稲城市の公式チャンネルでこの円照寺にまつわる「舌を抜かれたお獅子」という言い伝えがあってYouTubeになっている(5分余りです)。

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日本の昔話はいささかシュールだったり残酷だったりする。盗みはいけないという戒めも含んでいるのだろう。円照寺は丘陵の迫る傾斜地が境内で、本堂は安永8年(1779)の改修らしい。寺の入口には2基の石仏が祀られている。ひとつは二十三夜塔、もう一つは庚申塔である。

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右は自然石の二十三夜塔。前面に「廿三夜塔」とあり、基壇に當村講中とある。脇に安政4年(1857)12月の造立年と「現月隣炷薫拝書」の文字。左は笠付角柱型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれ、青面金剛はショケラを持っている。側面には享保8年(1723)3月の造立年と、「奉建立庚申供養為二世安楽」の文字。反対側には「円照寺現住泰然座主」「武刕多摩郡大丸村」の銘が刻まれている。

場所  稲城市大丸851  map

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2024年5月28日 (火)

帝釈天王庚申塔(稲城市大丸)

JR南武線南多摩駅の近く、自動車用品店の駐車場にポツンと立っている石塔がある。医王寺の石仏で前述したが、南多摩駅にはかつて大きな露頭があり、また駅寄りも多摩川側のエリアは「砂場」という地名。法面が養生されたこの露頭は稲城砂層という地層で昭和40年代から継続して採掘が行われてきた痕跡である。

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露頭とは反対の東側の道路脇に立つ石塔には「帝釈天王擁護庚申塔」と書かれている。裏面を見ると昭和27年(1952)8月の造立とあり、吉野伊太郎建之と刻まれている。前の道路は実は古い道で、是政の渡しに向かう道。昔は南多摩駅付近が川岸のこともあった。

場所  稲城市大丸942  map

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2024年5月26日 (日)

医王寺の石仏(稲城市大丸)

稲城市大丸(おおまる)にある医王寺の後ろにはJR南武線から望める広大な露頭があったのだが、近年法面工事が行われ地層が見えなくなってしまい残念に思う。とはいえ災害対策としては必要な工事なので致し方ない。ちなみに南多摩駅というのは新しい駅名で、昔は大丸駅という駅名であった。地形図を見ると、この大露頭が出来たのは戦後まもなくの頃らしく、おそらくは土砂を採ったのだろう。

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医王寺は道路面よりも数m高い。蓮光寺を経て関戸に至る道は昔からある峠越えの道なので、道路拡幅時に高低差が出来たのだろう。また昔の地図では医王寺は新大丸交差点の辺りにあったようだから、少し移動したのだろうか。この医王寺は一向宗(浄土真宗)であった寺院を元文2年(1737)に天台宗に改宗して開山した寺院で、一向宗時代の創建年は不詳。

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本堂向かって右手の墓所入口に新しい六地蔵があり、その脇に古い丸彫の地蔵座像が並んでいる。左の大きな方の地蔵の台石正面には「賢者全栄塔」とある。造立年は文政5年(1822)。右の地蔵は稚児を抱いている。こちらは嘉永3年(1850)9月の造立である。

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地蔵の後ろには笠付角柱型の庚申塔がある。日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄で、造立年は正徳6年(1716)2月と刻まれている。正面には「奉納庚申供養二世祈所」と書かれ、側面には「武列多摩郡大丸村」の銘がある。

場所  稲城市大丸1417  map

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2024年5月24日 (金)

大山福地地蔵尊(板橋区大山町)

板橋区大山町の商店街ハッピーロード大山は昔ながらの商店街だが、最近は周辺にマンションも増えて風景が変わってきた。東武東上線大山駅からハッピーロードを西に進むとアーケードが切れたところで川越街道に出る。

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アーケードの終わりの交差点が大山西町交差点だが、そこを北に向かうとすぐに綺麗な玉垣が現れて、大山福地地蔵尊がある。手前に丸彫の新しい地蔵尊があるが、そちらは「お身洗い地蔵尊」というらしい。近年のものである。奥の頑丈な堂宇に祀られているのが大山福地地蔵尊。現在の者は昭和26年(1951)に再建されたものである。

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文化文政の頃というから1800年代の初め頃、この辺りが山中村と言われていた時分に、お福と呼ぶ女行者がこの地に棲み付き、多くの庶民の難病や苦業を救った。お福の死後も周辺の人々が慕って、地蔵尊を築いたのが先代の大山福地地蔵尊である。かつては参詣者が絶えなかったと言われる。

場所  板橋区大山町54  map

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2024年5月22日 (水)

仲町の庚申塔(板橋区仲町)

川越街道から北上する古道鎌倉街道の途中に大きなサミットというスーパーマーケットがある。その南角の向かいに小さな堂宇があり、庚申塔が祀られている。仲町というのは最近の地名で、ここは山中村と上板橋宿の境あたりになるだろう。

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堂宇に祀られているのは駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されえ、主尊の左手にはショケラが下がっている。右側面には「奉造立庚申供養塔敬紀」の文字、左には造立年があり、宝暦6年(1756)2月とある。下部には願主名があるようだが、確認はできなかった。資料によると、小宮姓、山本姓、高橋姓が多いようだ。

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江戸時代以前もここから100mほど南に川越街道が通っており、そこから少し下った位置になる。おそらく別述の轡神社の道標ももともとはこの辺りにあったのではないかと推測する。

場所  板橋区仲町21  map

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2024年5月20日 (月)

轡神社の石仏(板橋区仲町)

板橋区仲町の西側を南北に走る古い道はかつての鎌倉街道と言われている。石仏の多い専称院から南下すると200mほどで小さな神社がある。名前を轡(くつわ)神社という。創建年代は不詳だが、徳川家康の乗馬の轡(くつわ)を祀ったとも、馬蹄を祀ったとも言われる神社。昔は轡権現社と呼ばれていたらしい。

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この神社は百日咳に霊験あらたかな神社として知られ、参拝者も多かったという。神社の境内の南角には明治4年(1871)10月建立の角柱型の道標があり、「是より二丁 轡神社道」とあるので、これは二丁(218.8m)という距離から川越街道の辺りにあったものだろう。

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もう一つの石塔は櫛型角柱型の巡拝塔である。「奉納大乗妙典六十六部日本廻国」とあり、造立年は寛政2年(1790)3月。「轡大権現社建立 初戸谷村 山中村 下板橋宿」の銘がある。江戸時代は川越街道からこの旧鎌倉街道に入って轡神社にお参りする人も多かったのだろう。

場所  板橋区仲町46  map

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2024年5月18日 (土)

金子家の馬頭観音(板橋区仲町)

板橋区仲町は東武東上線大山駅と中板橋駅の間にある地域。明治時代の地図を見ていると、仲町を第1コーナーと第2コーナーに見立てたような競馬場が描かれている。実は明治41年(1908)に開場した板橋競馬場で、一周1マイルの距離があった。しかし2年後には廃止となり、目黒競馬場に統合された。

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現在の仲町あたりはかつては山中という字名であった。さらに江戸時代に遡ると、豊嶋郡下板橋宿山中村という村名になる。現在の豊島病院通り沿いには複数の路傍の石仏がある。その中でも一番山中の集落に近いのがこの金子家の馬頭観音である。競馬場と何らかの関係があったのかは分からない。

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頂部が欠損しているが舟型だろうか。三面六臂の馬頭観音が描かれているが、摩滅が酷く文字はまったく読めない。堂宇のお宅は金子家。今も綿々と馬頭観音を守っておられるようだ。

場所  板橋区仲町32  map

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2024年5月16日 (木)

延命子育地蔵尊(板橋区中板橋)

東武東上線中板橋駅のホームから北側に見える寺院が曹洞宗の福泉寺。埼玉県の坂戸に創建したのは寛保年間(1741~1744)で、昭和17年(1942)に中板橋に移転した。福泉寺が移転してくる前、この場所には石神井川の水を利用した「遊泉園」というプールがあったらしい。当時の地図を見ると東上線の北側におむすび型のプールがあったようだ。

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その遊泉園プールがあったので、現在の中板橋駅の場所には臨時停車駅が出来た。それが昭和8年に常設されて中板橋駅となったという近代史である。昭和17年に福泉寺と共に移転してきた、門前の延命子育地蔵尊は、一時中板橋の商店街に移設され、それをきっかけに縁日が始まったりして中板橋の発展と共に信仰を厚くしてきた。

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地蔵菩薩は丸彫の半跏像で、説明板には延享3年(1746)10月とあり、台石右側に刻まれている。造立年の脇には講中150人、当寺三世孤峯とも書かれている。正面には「万霊塔」、左面には「願以此功徳普及於一切 我等與衆生皆共成仏」の文字がある。

場所  板橋区中板橋29

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2024年5月14日 (火)

武蔵野大学裏の馬頭観音(西東京市向台町)

深大寺街道を南下、ほうろく地蔵、背の高い馬頭観音を過ぎて、田無工業高校と武蔵野大学の境の辻に来ると、武蔵野大学側の角に一基の馬頭観音が立っている。角柱型の馬頭観音は中折れと欠損を補修してあり、文字が読めないところが多い。

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高さは1mほどだろうか。正面上部には馬頭観音の座像が陽刻されている。馬頭観音像の下には、「武列多摩郡田無村向台」「荒井安右衛門、松原三右衛門、講中三拾人」ときざまれている。向台はこの深大寺街道よりも西側、かつての田無市側の地名である。

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造立年は一部欠けているが干支から安永7年(1778)9月のようである。左面右面には道標が刻まれているが側面の傷みがひどいので解読が難しい。「西 府中道」「東 ?」「北 ?」「南 ?」というくらい読めない。

場所  西東京市向台町1丁目10  map

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2024年5月12日 (日)

馬頭観音文字塔(西東京市柳沢)

かつての田無市と保谷市の市境になっていた深大寺街道を青梅街道から五日市街道に向かって南下すると、二つの街道のほぼ真ん中あたりの辻に背の高い馬頭観世音塔がある。

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今はマンションの角の植木に覆いかぶさられるようになっていて目立たないが、この馬頭観音単独で立っていたらさぞかし目立つだろうと思われた。角柱型の馬頭観音の高さは180㎝もある。上部には梵字と「馬頭観世音」の文字があり、脇に天下泰平、風雨順時と刻まれている。

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造立年は文政元年(1818)10月で、「奉供養秩父西国坂東為二世安楽也」とあるので、馬頭観音と巡拝塔の合体か。「武州多摩郡上保谷村新田 願主平井嘉右衛門」の銘がある。下部には道標が兼ねられており、「右 深大寺道」「左 柳沢所沢道」と書かれている。

場所  西東京市柳沢4丁目1  map

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2024年5月10日 (金)

ほうろく地蔵尊(西東京市南町)

青梅街道から南下する深大寺街道は以前は田無市と保谷市の市境であった。深大寺街道の東が保谷市柳沢、西が田無市南町である。斜めに交差する文化通りは西武新宿線の都道ガードから分岐し、南東に延びるが、ほうろく地蔵尊の辻から先は柳沢団地通りと名前を変える。おそらく合併前の地名を引きずっているのだろう。

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植込みもある境内があって堂宇は古いもののしっかりしている。斜めに交差する文化通りは昔は札野道と呼ばれた村道で吉祥寺方面へ伸びていた。堂宇の中には小さな地蔵もあるが他は新しいもののよう。主役のほうろく地蔵は地蔵菩薩半跏像で立てた左足の膝が雨ざらしの時代があったのか凹んでいる。造立年は不詳だが、立派な頭光がある。

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この頭光がほうろく(焙烙)と呼ばれる小さな土製の鍋に似ていることからほうろく地蔵と呼ばれるらしい。文京区向丘の大円寺にもほうろく地蔵があった。由来の全く分からない地蔵だが、相当な年月を経ていることは見てとれる。

場所  西東京市南町1丁目9-9  map

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2024年5月 8日 (水)

上柳沢橋の庚申堂(西東京市柳沢)

石神井川の流程は小金井公園を源頭にし、田無~柳沢~東伏見~上石神井と東流、練馬区板橋区を流れ、王子駅で音無川を備えて間もなく隅田川へ注ぐ25㎞程。柳沢あたりはかなり上流になる。青梅街道の西武柳沢駅南の交差点下を石神井川は流れているが、その手前の小さな橋が上柳沢橋。この橋を渡って南下する保谷二小通りは実は古くからの道で深大寺街道と並走している。

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上柳沢橋の北側に少し大きめの堂宇が立っている。堂宇の扉は頑丈な錠前で閉ざされているが、格子の上部から中に祀られている庚申塔を拝むことができる。中にあるのぼりには「猿田彦大神宮」の文字がある。この庚申塔はもともと青梅街道に面した場所に立っていたが、道路拡幅の為昭和45年(1970)に現在地に移された。

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中には笠付角柱型の立派な庚申塔があるが、やむなく上部と下部を別々に撮影。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、青面金剛の左手にはショケラが下がる。この近辺でのショケラは珍しい方である。尊像脇には「為奉造立庚申供養二世安楽也」とあり、造立年は宝永5年(1708)11月。願主名は細田姓、岩崎姓、下田姓、都筑姓が複数ある。

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堂宇後部の下の方に穴が開いており、そこから何やら石塔らしきものが見える。回り込んでみると駒型の庚申塔がその穴の前に立っていた。日月はなく、青面金剛のみ。ただしこの青面金剛もショケラを下げている。この庚申塔には「小傳」以外の文字がなく、造立年等も不明だが、旧保谷市の資料では最近の造立とされている。「小傳」の傳は現物は手偏、意味は堂内の庚申塔に対して小さい方というくらいの意か。ショケラ伝説は興味深く、小鬼説、女人説、人魚説など多彩である。

場所  西東京市柳沢2丁目19-15  map

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2024年5月 6日 (月)

柳沢庚申塔(西東京市田無町)

ちなみに西武柳沢駅を知る人はこの柳沢の読みが「やぎさわ」で西東京市の地名柳沢の読みも分るのだが、そうでないとなかなか「やぎさわ」とは読めない。もともと柳沢の東側には青梅街道の柳沢宿があり、多くの旅籠や店が並んでいた。前述の高野山道標の向かいに立つのが柳沢庚申塔という大きな石塔なのだが、この庚申塔は元々100mほど西にある青梅街道と所沢(秩父)街道の分岐点にあった田丸屋の前にあったもの。

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田丸屋があった場所には看板だらけのビルがあったがそれも取り壊され今は戸建の民家が立っている。大きな笠付角柱型の庚申塔は青梅街道の歩道に囲いに囲まれて立っていた。屋根はなく野ざらしである。この庚申塔は道標も兼ねており、交通の要衝であった場所からの移設だが、ここもまたかつての交通の要衝である。

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日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、造立年は享保8年(1723)10月。前面縁には「奉供養庚申待 武刕多摩郡田無村」の文字、側面には蓮葉が描かれ、「是より左リ あふめミち 為二世安楽也」とある。道路側には「是より右 はんのふ道」とあるので、青梅街道と秩父街道の分岐点を指していることは明らかである。

場所  西東京市田無町2丁目22-10  map

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2024年5月 4日 (土)

東高野山道標(西東京市田無町)

青梅街道が西武新宿線のガードをくぐった先で、富士街道(ふじ大山道)と出合う辻の保谷寄りに堂宇がある。堂宇の中には「弘法大師」と書かれた石柱が立っている。中折れしているが補修してある。

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この石塔は「東高野山道標」と呼ばれる。東高野山というのは関東地方で東の高野山と呼ばれて信仰の厚かった練馬区高野台にある長命寺のことである。青梅街道を来た人、富士街道を来た人が、東高野山長命寺に立寄るのは十分あった話だろう。

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石柱には文字があるがいささか読みづらい。造立年は嘉永7年(1854)8月で、左面に「東高野山道 是よ里廿四丁」とある。だいいしのもじは読めないが、資料に依ると「田無村、練馬江三里、府中江二里半、所澤江三里、青梅江七里」とあるようだ。田無市と保谷市が合併して西東京市になる以前はこの堂宇の少し東側に市境があった。

場所  西東京市田無町1丁目12-1  map

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2024年5月 2日 (木)

六角地蔵尊(西東京市保谷町)

西武柳沢駅の北側を東西に延びるかつての富士街道(ふじ大山道)が線路に最も近づいたところに堂宇がある。堂宇の後ろには西武新宿線の線路が通っている。この踏切の道は細道で車は通れない。しかしこの道はかつての深大寺道という古道で、榎ノ木通りという通り名があり、武蔵野大学前で複数の街道を束ねる。

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踏切手前の堂宇には背丈ほどもある六角地蔵幢が祀られている。それぞれの面に地蔵菩薩が陽刻された六角柱で、造立年は寛政7年(1795)9月とある。この辺りは今は西東京市保谷町だが、昭和の頃は保谷市本町、それ以前は上保谷村西浦という土地だった。かなり薄れているが、「武刕新座郡上保谷村」の銘と願主の野口家の名前がある。

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説明板があり、「つやという女性と、光山童子の菩提を供養する為に、野口助右衛門と秋本十右衛門が江戸市ヶ谷田町の石工角田屋に注文して建立。富士街道と深大寺道が交差するところに立ち、道標を兼ねており、毎月西浦地蔵講が供養している」と書かれている。西浦というのは昔のこの辺りの字(少し北の地域)。資料に依ると、「西ハ大山道、北ハ▢▢道、東ハねりま道、南ハ志んたい寺道」という文字があるようだ。

場所  西東京市保谷町4丁目7-21  map

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2024年4月30日 (火)

立野の庚申堂(西東京市保谷町)

古い人間なのか未だに西東京市という名前に違和感を覚える。田無市と保谷市の方がしっくりくる。西武柳沢駅の北東に西武柳沢駅東という五差路の交差点があり、その一角に庚申堂が立つ。南北に延びるのは伏見稲荷通りで江戸時代からの古道、東西に交差するのは富士街道あるいは大山道と呼ばれた古道で、ここは江戸時代からの辻である。

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右にあるのが笠付角柱型の庚申塔。笠は一部欠損している。基壇の石は別ものらしい。宝永6年(1709)7月の造立年があり、「奉造立庚申供養二世安楽所」「武州新倉郡上保谷村」と刻まれている。願主名には日留間姓、名護姓、北島姓がみられ、南の島からの移住者かと思ったが、恐らくそうではないだろう。

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左の櫛型角柱型の石塔は大乗妙典供養塔である。造立年は享保5年(1720)10月で、「奉納大乗妙典六十六部日本廻国所」とあり、脇に「武刕新庫(倉)郡上保谷村」の文字がある。「天下泰平国土安全」は大乗妙典供養塔には高い確率で記載される文字。保谷市の資料を見ると、昔は屋根だけの覆屋だったようだ。堂内には寄付者名の書かれた板があり三面に及ぶ。

場所  西東京市保谷町3丁目8-10  map

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2024年4月28日 (日)

自然石文字庚申塔(西東京市柳沢)

青梅街道の東伏見交差点は五差路である。東西南北の幹線道路以外に北西に向かう道路があり、東伏見稲荷神社の脇を北上する。もともとはこの道が保谷の南北を繋ぐ道で、トンネルで抜ける都道はごく最近の道路である。

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覆屋は道路から奥まっており注意しないと見逃してしまう。手前に踏み石が置かれ、覆屋の向こう側は駐車場である。庚申塔は自然石で上部に向かって細くなっている。基壇はしっかりした角石で出来ているが、基壇に文字は見えない。

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正面中央に大きく「庚申塔」と書かれている。その下には「頓覚清心信士」とあるので、珍しい墓石を兼ねた庚申塔だろうか。施主は金子▢五郎とあるが、この辺りの名家である金子家のご先祖様であろう。造立年は嘉永6年(1853)12月と書かれている。江戸時代はこの辺りで庚申信仰が盛んであったらしい。

場所  西東京市柳沢1丁目5-4   map

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2024年4月26日 (金)

東伏見の夜泣き地蔵(西東京市東伏見)

青梅街道と都道が交差する東伏見稲荷神社の南にある東伏見交差点から、10mばかり北へ進むと通りの東側に堂宇がある。石神井川を渡る少し手前である。

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中を覗いてみると、丸彫の地蔵菩薩像が3体祀られている。文字を探してみたが見当たらない。伝承によると江戸時代末期の文久年間(1861~1864)のものらしい。ここのかつての地名は上保谷村坂下である。

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真ん中の地蔵が一番大きく、左の地蔵が一番小さい。青梅街道拡幅以前は中央の分離帯あたりにあったという。三体とも頭部を欠損していたが、現在地に移した時に頭を再建した。由来の分からない地蔵ではあるが、何故か「夜泣き地蔵」と呼ばれている。

場所  西東京市東伏見6丁目10-10  map

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2024年4月24日 (水)

関前橋の庚申塔(武蔵野市八幡町)

武蔵野市西部の南北を走る伏見通り。東伏見稲荷神社に由来する通り名だが、西武新宿線と東伏見公園をアンダーパスで抜けるようにトンネルが掘られ、渋滞が少なくなった。伏見通りと青梅街道の東伏見交差点から400mほど南に、伏見通りが千川上水を渡る関前橋がある。この南西角にやや広い庚申堂の敷地がある。

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庚申堂の左脇に由来碑が立っている。この由来碑は春風亭柳昇(春風亭昇太の師匠)が建てたものでここは柳昇の秋本家の土地であったらしい。春風亭柳昇の五代前の建てた秋本家個人のものだったが、疫病が流行し人々が庚申様にお祈りをするようになって信仰を得た。元の場所は現在地とは違っていたが、中島飛行機の工場を建てるにあたり、昭和13年頃こちらに移設されたという。

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堂宇の左にある由来碑のさらに左側に真新しい背丈ほどもある角柱があるが、これは新しい庚申塔で、正面には「庚申塔者為所願成就祈願也」とあり、「施主庚申講中」と書かれている。造立年は昭和61年(1986)1月、柳昇の建てた庚申碑が昭和57年だからそれよりも後である。一方堂宇内にはシンプルな角柱型の庚申塔が祀られている。こちらは文化10年(1813)11月の造立で、「願主 紋左ヱ門」とあるのが、春風亭柳昇の6代前のご先祖である。

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堂宇の右手には2基の石仏がある。どちらも馬頭観音で、左は「〇保〇年〇卯」の字がかろうじて読めるので、天保2年(1831)だろうか。側面に「施主秋本〇〇」の文字がある。右の馬頭観音は紀年等はほとんど読めないが、側面の願主名に「秋本〇〇」「西林〇〇」の銘が見える。これらも秋本家に関係するものなのだろう。

場所  武蔵野市八幡町4丁目14-2  map

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2024年4月22日 (月)

大日如来墓石(西東京市東伏見)

多摩地区を西に延びる青梅街道が、西東京市に入ると東伏見という町名になる。興味深いのは西東京市に入ると「東伏見坂上」という名前の交差点があること。さてはここから西に下って東伏見稲荷の先の石神井川上流の青梅街道橋までを東伏見坂と呼ぶのかという考えが浮かんだ。しかし調べてみても命名された坂道としてはない。ただ坂上と橋との標高差は9mほどあるので、物理的な坂ではある。堂宇の辺りの古い地名は上保谷村下野谷である。

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この東伏見坂上に大きなケヤキの木と共に堂宇がある。ジープのディーラーの隣りである。堂宇の前には複数の燈籠もあり、格子の間から中を覗いてみる。堂内には笠付角柱型の石仏があった。天保3年(1832)11月造立の大日如来像である。資料によると、願主は保谷以左、施主は保谷源蔵で、角柱上部に大日如来が陽刻され、その下に男性女性各一人の戒名と文政9年(1826)11月の没年月があるようだ。

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おそらくは夫婦であろう。施主は保谷家の子孫。元は青梅街道に面して雨露にさらされていたが、当主保谷源蔵氏の祖父源五郎が小祠を建てたという。保谷家は元々練馬の三宝寺の檀家で、大日如来を本尊としてきたらしい。この石仏が、後年保谷市内や練馬の大泉あたりまでの信者がついて参詣されていたという。

場所  西東京市東伏見3丁目8-16  map

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2024年4月20日 (土)

更新橋の庚申塔(武蔵野市緑町)

千川上水は元禄9年(1696)に水戸藩小石川御殿、湯島聖堂、上野寛永寺、浅草浅草寺への給水を目的に玉川上水から分水された用水路で、本郷、湯島、外神田、下谷、浅草などの町にも給水された。宝永4年(1707)になると流域の練馬周辺の村々からの利水の嘆願が起こり、村々へも農業用水として利用されるようになった。

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千川上水に架かる更新橋のたもとに堂宇がある。本来千川上水の流れは練馬区関町南に属するはずだが、この堂宇の管轄はなぜか武蔵野市緑町となっている。史料についても、練馬区の資料にはここの庚申塔は取り上げられていない。また庚申堂ならば庚申橋となるところが、なぜ「更新橋」なのかも疑問がある。謎の多い場所である。ただ明治大正期の地図を見てみると、町村境界が用水の北側にある時代もある。

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堂宇は施錠されていて、格子の隙間から庚申塔を拝む。堂内には3基の庚申塔があった。中央にある大きな駒型の庚申塔は日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄らしい。前掛けで見えない。造立年は安永4年(1775)11月で、「武刕多摩郡」の銘の他、「右 府中道」「左 深大寺道」とあり道標も兼ねていたようだ。

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左脇にある舟型光背型の石仏も庚申塔らしく青面金剛の顔が見える。その下は確認できない。時代的には少し新しいもののような感じがある。

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右側には小さな水鉢と、その後ろに角柱型の庚申塔がある。小さいものである。これも青面金剛像は見てとれるが、胴から下がどうなっているのかは分からない。一番大きな庚申塔については、堂宇の前に在る説明板には、「もとは三郡橋(今は無い)の傍らにあった」とあり、「正面には天下泰平の文字があり、側面には西窪村の下田伊右衛門他の銘、正面下部には吉祥寺村片居木清▢他の銘があり、この庚申塔は西窪村と吉祥寺村の共作である」と記されている。

場所  武蔵野市緑町3丁目2番地先  map

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2024年4月18日 (木)

長久寺の石仏(三鷹市大沢)

三鷹市大沢にある長久寺は真言宗の寺院で、慶長3年(1598)の開山。幼稚園を併設している。東八道路と天文台通りの交差する天文台北交差点から少しだけ南に下ったところにある。

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広い境内は平日は幼稚園児の遊び場にもなるのだろうか。その境内をまっすぐに進み本堂を拝んだ後、すぐ左手にある石仏群を拝観する。

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右から、六角幢の六地蔵塔、丸彫の地蔵菩薩が2基、笠付角柱の庚申塔と小さな庚申塔、説明板の左には鷹場標石が並ぶ。右端の地蔵六面幢は明治25年(1892)11月の造立。大小の丸彫の地蔵菩薩像は紀年が確認できない。

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隣りの笠付角柱型の庚申塔は大きいもので、造立年は元文4年(1739)11月で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されている。「奉守護(講)庚申供養」の文字が見られる。すぐ左脇の角柱型の小さな庚申塔は、明和7年(1770)10月の造立。青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており、「導師長久寺現住賢泰」「大澤村講中」の文字がある。元は国立天文台の構内にあったものらしい。左の板碑型の石仏は不詳。

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脇には何の変哲もない石柱があるが、これは三鷹市の指定史跡となっている鷹場の標柱で、「従是東西北尾張どの鷹場」と書かれている。鷹狩りは日本では古くから行われており、江戸時代になって三鷹周辺は徳川家の鷹場として守られてきた。牟礼野(井の頭公園周辺)や大沢の辺りがその地域で、この標柱は将軍家の鷹場と御三家尾張藩の鷹場の境にあった標柱。元の位置は不明らしい。

場所  三鷹市大沢2丁目2-16  map

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2024年4月16日 (火)

山野庚申塚(調布市深大寺北町)

調布市の北の端にある地域の古い地名が山野である。2分も歩けば三鷹市野崎に入る。少し西にある国立天文台の東側を走る天文台通りは昔は野川の支流が流れ下る谷筋でワサビを栽培していた。当時の南北の道は、野崎八幡に向かうかつての深大寺道(現在の武蔵境通り)と、山野地区の真ん中を通る道筋で古くからの鎌倉街道と呼ばれる道。後者の道筋近くにあるのが山野庚申塚である。

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上の写真の左の道は南にある宿神明社から北進する道で、庚申塚の先で主要村道に合流していたが、実は庚申塚前の道が鎌倉街道のようである。武蔵野の道は今でも古道が残っていて、微妙な曲がりがあるので面白い。

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公園のようだが何の施設もない三角空き地の北寄りに覆屋があり、大きな庚申塔が祀られている。江戸時代中期のもので、徳川吉宗が新田開発を奨励して開墾されたひとつがこの地域である。昔はもっとたくさんの高い樹木があったが今は灌木が多い。

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左の駒型庚申塔は享保6年(1721)7月の造立で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄である。「奉建立庚申供養塔」「神代村講中七人」の銘がある。中央も駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、三猿が描かれており、正徳5年(1715)11月の造立。「野崎村、深大寺村山野、深大寺宿」の地名が読める。右の少し尖った駒型庚申塔は享保4年(1719)11月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、「奉供養庚申」「深大寺村庚申講中 同行拾五人」とある。

場所  調布市深大寺北町6丁目8-19  map

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2024年4月14日 (日)

武蔵境通りの聖観音(調布市深大寺北町)

調布と三鷹を結ぶ都道武蔵境通りは野川の御塔坂橋から南方向も北方向も緩やかな上り坂。川を渡る地点が一番低いのは当然だが、野川から北方向の坂が「御塔坂」である。ところがなぜか南の坂の上にある交差点が「御塔坂」となっていていささか紛らわしい。さて、北に向かい御塔坂を上ると、御塔坂は通称小坂という坂になり、やがて平坦な武蔵野台地上の道になる。

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紛らわしい御塔坂交差点は中央自動車道をくぐる辺りにあるが、1.4㎞ほどの畑と駐車場に面した広い武蔵境通りの西側の歩道脇に覆屋がある。質素な小屋の中には笠付角柱型の石仏が祀られている。この石仏は聖観音菩薩のようであるが、石塔に刻まれた年号が万治3年(1660)3月と極めて古いものである。

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近くにあったバス停は「深大寺北町」となっていたが、次のバス停は「山野」と古い地名になっている。バス停名は土地の歴史を残すことが多い。この石仏は畑の地主の加藤家の先祖が江戸時代初期に建てたもので、墓石ではあるが貴重なもの。昭和前期までは浅間神社の観音とともに毎年8月の縁日の主尊であったという。

場所  調布市深大寺北町7丁目27-7  map

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2024年4月12日 (金)

浅間神社の石仏(調布市深大寺北町)

調布市にある神代植物公園の少し北、拡幅されてきれいな幹線道路になった武蔵境通り(都道12号線)に面して建つ深大寺富士嶽浅間神社は神社としては珍しく新しいもの。創建は明治14年(1881)で、江戸時代後期から盛んになった富士講が主体となったもの。

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比較的さっぱりとした境内なのは新しさゆえなのだろう。鳥居はなく、入口の左右に自然石の石塔があり「富士嶽浅間神社」とあるが、その石塔には明治17年(1884)12月の紀年が入っている。この新しい神社の境内に創建以前の石仏があった。

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比較的珍しい笠付角柱型の聖観音像である。造立年は安永2年(1773)10月で、「武州多摩郡深大寺村山野」の銘がある。基壇には願主や施主の名前と、「講中拾四人 名主 浅田平蔵」の文字があった。以前は道路の西側(向かい側)にあったものを浅間神社に移したらしい。

場所  調布市深大寺北町1丁目38-3  map

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2024年4月10日 (水)

辻の庚申塔(調布市深大寺北町)

諏訪神社から南西に続く道は古くからの村道。諏訪神社は野ヶ谷という谷地の右岸に立つ神社で、現在もこの辺りは少し標高が低い。かつてはこの谷地全体に田んぼが広がり、諏訪神社より高い所には桑畑が広がる農村地帯であった。その南西への村道がもう一つの北西から南東への村道と交差する場所に庚申塔が立っている。

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この辻は確かに視界が悪く出合頭の事故も多そうな場所で、その為か交通安全ののぼりが立っている。祀られている庚申塔は駒型で、寛延元年(1748)10月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄である。尊像右には「庚申供養塔」、左には造立年があり、下部には「深大寺村講中 三十人建之」の文字がある。

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昔は野ヶ谷の十字路で通行人の目印になっており、昭和前期には覆屋があり馬頭観音もあったという。裏の地主の渡辺家が守り続けているらしい。それが300年近く経っても良い保存状態である理由なのだろう。後ろにある小さな地蔵菩薩坐像は昭和16年(1941)5月の建之。他には特に刻まれていない。

場所  調布市深大寺北町4丁目1-1  map

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2024年4月 8日 (月)

諏訪神社の庚申塔群(調布市深大寺東町)

調布市の北の端、東八道路沿いにあるJAXAの脇の道を南へ下ると500mほどでこじんまりとした諏訪神社がある。諏訪神社の創建年代は不詳ながら、深大寺村の野ヶ谷にあり多聞院が別当寺を務めていた神社。

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本殿手前にある手水鉢は文政2年(1819)9月の建之年が刻まれている。手前の石鳥井の先には二つ木製の鳥居があり、その奥に本殿がある。石鳥居と次の鳥居の間に5基の庚申塔が祀られている。

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入口側から、まずは左側の駒型の庚申塔。造立年は元禄8年(1695)2月とあり、日月、青面金剛翁、邪鬼、三猿の図柄で、その下に願主名が刻まれている。右隣りは同じく駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。こちらは享保10年(1725)11月の造立。下部には「武刕多摩郡野谷村 同行18人」と書かれ、上部には「奉供養庚申像為二世安楽」の文字がある。左隅に鶏が居るが、右隅の鶏は補修で消されてしまっている。

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3基目の庚申塔は残念ながら上部が完全に欠損している。おそらくは駒型の庚申塔だったのだろう。青面金剛像の胸から下、その下に三猿が見える。その右には「庚申供養二世安楽為菩提」の文字、左側の文字はほとんど読めないが、左側に造立年があったようだ。右の舟型光背型で下部に三猿を描いた庚申塔は主尊が阿弥陀如来。造立年は延宝4年(1676)10月と極めて古いもの。

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一番奥にあったのはこの諏訪神社の古い庚申塔群の中でも最も古いもので、寛文6年(1666)霜月の造立である。主尊は地蔵菩薩像で下部に三猿が描かれている。もうほとんど読めないが資料によると「奉造立庚申」「願主 念仏女人 同行十人」とあるらしい。

場所  調布市深大寺東町8丁目1-3  map

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2024年4月 6日 (土)

GS脇の庚申塔(三鷹市上連雀)

三鷹市役所前交差点の北西角にあるエネオスのガスステーション、都道121号線と都道110号線が交差する。東西に走る都道110号線はかつての人見街道である。辺りは100年前には人見街道沿いに桑畑が広がっていた地域で、南通と呼ばれた地域の東の端にあたる。

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このガソリンスタンドの南西角に石仏が祀られている。近代的なものと古いもののコンビネーションがいささか違和感を感じさせるが、守られている感じがあってよいと思う。右の小さな石仏は頭部が欠損した地蔵菩薩坐像である。何も文字がないのでいわれは分からず。

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左の庚申塔は駒型で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれている。右面には元文2年(1737)10月の造立年、左面には「講中拾二人」のもじが刻まれている。

場所  三鷹市上連雀8丁目4-5  map

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2024年4月 4日 (木)

玉川上水脇の庚申塔(三鷹市上連雀)

三鷹駅北口ロータリーから西に延びる玉川上水沿いの桜通りが都道121号線と交差する欅橋の交差点の南西角に立派な堂宇がある。玉川上水に架かる欅橋は現在も交差点脇にモニュメントとしての橋の欄干がある。この辺りは昔は堀合(ほりあわい)と呼ばれた土地。

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面白い堂宇で、北向に半分が開口しこちらには庚申塔がある。東向きに開口している都道側には出羽三山供養塔がある。東側にまわり出羽三山供養塔を見てみると、シンプルな角柱型の石塔で、「奉納 月山 湯殿山 羽黒山観世音 西国四国秩父坂東」とあり、「清明和順 當村行者伊助」の銘。造立年は嘉永4年(1851)3月である。基壇には「武蔵国 多摩郡 蓮雀村」とある。

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この石塔は小林家の先祖である伊助という行者がおり、出羽三山、坂東、秩父、西国、四国を廻った。出羽では狼に襲われ、松の木の登って唱を唱えて助かったので、帰って来てから欅橋の脇に観音の石碑を建立したという風に伝えられている。江戸時代にはまだ日本にはそこそこの数のオオカミが居たということであろう。

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北側正面に回ると立派な笠付角柱型の庚申塔がある。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、造立年は享保14年(1729)7月。「奉納庚申供養」の文字と紀年がある。側面には「武列多摩郡上蓮雀村」の銘と、多数の願主名が刻まれている。

場所  三鷹市上連雀1丁目2-1  map

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2024年4月 2日 (火)

泉龍寺の石仏(狛江市元和泉)

小田急線狛江駅北口の駅前に在る泉龍寺は、奈良東大寺の別当良弁僧正が天平神護元年(765)にこの地を訪れたのが始まりで、天暦3年(949)には天台宗の寺院となったとされる。中世の戦乱で荒廃したが、安土桃山時代末期の天正18年(1590)に曹洞宗の寺院として再建した。本堂は宝永3年(1706)築、鐘楼門は天保15年(1844)築と貴重な建築である。

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境内の空間は駅前とは思えないほど静寂で、山奥の寺院のような雰囲気がある。山門をくぐると正面に鐘楼門、その先に本堂がある。本堂までの参道の左右に多数の石仏が祀られている。

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本堂に向かって最初に右側にあるのが笠付角柱型の廻国供養塔である。なかなか大きいもので1.5mほどの高さがある。正面には「有縁無縁三界万霊等」とあり、右面は「奉納大乗妙典六拾六部所願成就為師之」、裏には「武州多麻郡泉村拾人・・・」とあり、造立年は宝永4年(1707)10月とある。

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その先にあるのは六地蔵と主尊。主尊は台石と合致しているのかは不明だが、台石には「奉納六十六部供養」「願主 泉村 石井佐平次敬白」と書かれ、造立年は元文2年(1737)11月。六地蔵は宝暦6年(1756)11月の造立で、右から畜生道、餓鬼道、地獄道、修羅道、人道、天道と並んでいる。

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参道の反対側にはさらに多くの石仏が並んでおり、手前から四番目が駒型の庚申塔。造立年は貞享3年(1686)10月と古いもので、主尊がまだ青面金剛になりきっていない時代であったためか、上部に日月があり烏帽子着衣の合掌一猿像が主尊である。「武州多麻郡泉村 同行廿人」と刻まれている。右の舟型の地蔵菩薩は上部が欠損、造立年は元禄元年(1688)10月とこれも古い。「奉造立這箇尊像念仏講供養」の文字がある。

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その先にある丸彫の地蔵菩薩像は享保19年(1734)10月の紀年がある。「念仏供養」「講中男女42人」「武列多麻郡泉村 願主谷田部某」の銘がある。右の角柱型の石塔は寛政4年(1792)3月の読誦塔。正面には「奉読誦普門品供養塔」と書かれている。左側に「武州多麻郡和泉村 本願主 荒井新右衛門」の銘がある。江戸時代は「多摩郡」を「多麻郡」と書いたものが狛江には多い。

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その隣にある櫛型角柱型の石塔は主尊が欠損しているが聖観音と思われる。側面には願主名が刻まれている。右の丸彫の地蔵菩薩像は背中に寛文7年(1667)正月という紀年が刻まれており、泉龍寺の石仏でも最も古いもののひとつ。背中に「為宝珠院殿梅林貞香大姉増長仏是也」と書かれている。

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本堂の左手、墓所の手前にあったのが地蔵菩薩坐像。正面には「有縁無縁三界万霊塔」とある。造立年は文化11年(1814)8月。施主については泉龍寺の僧侶のようである。

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最後は比較的新しいものだが、東京都内にも10基あるかどうかという草木供養塔。最近植木組合などによって徐々に増えてきたが、これは昭和61年(1986)4月に狛江造園組合によって建てられたものである。資料によるとまだまだ墓所にも古い石仏が沢山あるようだが、さすがに墓所は今回は遠慮させていただいた。

場所  狛江市元和泉1丁目6-1  map

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2024年3月31日 (日)

品川道の庚申塔(狛江市東和泉)

小田急線狛江駅から南東へ150mほどの場所の古道品川道の分岐点に植込みに巻かれた庚申塔が祀られている。この道は品川道、あるいは筏道とよばれ、江戸の建築材を六郷まで筏に乗って多摩川を下った青梅地方の筏師たちが帰る道筋である。

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狛江駅前から南下した品川道はここで左の方へ進むが、その先は不明瞭である。この辺りは明治時代以前には駄倉と呼ばれたところ。かつては狛江駅のすぐ北側を六郷用水が流れており、用水を渡る橋が駄倉橋といってまだ親柱がある。そこからこの二又までは200mほど。この樹木の下にはかつて3基の石仏があったらしいが今は2基。

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右の駒型の庚申塔は日月、青面金剛像、三猿の図柄で、「奉庚申供養」の文字。また「武州多麻郡泉村」の銘があり、造立年は正徳3年(1714)霜月と刻まれている。下部の願主名には谷田部姓が多い。左の石柱は猿田彦大神と書かれたこれも庚申塔のひとつで道標を兼ねている。正面には「西ふちう」右には「のぼりと」の文字があり、裏面には「庚申待講中」の文字。これ以外にあと地蔵菩薩坐像が1体あったらしいが見当たらなかった。

場所  狛江市東和泉1丁目7番地先  map

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2024年3月29日 (金)

玉泉寺の石仏(狛江市東和泉)

小田急線和泉多摩川駅前にある天台宗の玉泉寺。山門は駅とは反対側の東側にある。駅側は寺の裏にあたる。鎌倉時代からの鎌倉街道は現在の松原通り沿いに北から、御台橋~田中橋を経て泉龍寺脇を少し東へ回り、水道道路の入口あたりを通って玉泉寺の東側を通っていたので、駅の反対側に山門があるのは当然で、駅がずっと後に出来ただけである。

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玉泉寺の創建は永正元年(1504)、その昔は多摩川の右岸にあり大輪寺と言ったらしいが西暦600年頃の話なので真相はどうだろう。多摩川の左岸(狛江市側)に移転したのが1504年のようだ。東側の山門は閉じていて、隣接する玉泉寺照隈殿の脇の入口から境内に入る。境内に入るとすぐに本堂があり、南側に墓所が広がっている。今となっては駅前が墓所である。境内に入ると山門の脇には霊場を表す石仏群がある。

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色々な観音像や線刻の自然石の石仏が所狭しと並んでいる。なんだか別世界に入ったような感覚になる。そこから山門の裏に行くと、2基の石仏が祀られている。左が丸彫の地蔵菩薩像、右は笠付角柱型の読誦塔である。

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地蔵菩薩像は宝暦13年(1763)12月の造立。基壇には「奉造立地蔵尊像一躰」とあり、脇には「多麻郡世田谷領緒方村 願主敬白」の文字と願主名がある。小川姓が多い。右の笠付角柱型の読誦塔は正面に「奉読誦普門品供養塔」とある。造立年は寛政4年(1792)3月。「武州多麻郡和泉村 本願主 荒井新右衛門」の銘がある。その右手にも小さな馬頭観音等の石仏が多数並ぶ。

場所  狛江市東和泉3丁目10-23  map

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2024年3月27日 (水)

畑の地蔵菩薩(狛江市緒方)

緒方中通り(かつての大山道)の馬頭観音から少し北に歩く。東側は駐車場、西側は畑で、広々とした散歩道である。すぐに畑の側に鉄柵で囲まれた堂宇があるのに気づく。

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いつからこんな頑強な囲いになったのだろうか。覆屋の中には丸彫の地蔵菩薩像が祀られている。地蔵菩薩は昭和48年(1973)5月に再建されたもので、「施主 石黒昭平」とある。

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右下に置かれている四角い石は昔の地蔵の基壇である。ここには寛政9年(1797)1月の造立年が刻まれている。「緒方村」の銘もあることから江戸時代後期にはこの辺りは農家が広がっていたのだろう。覆屋の前の道は実は古くからある道で明治時代の初期の地図には載っている。

場所  狛江市緒方3丁目9-16  map

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2024年3月25日 (月)

駐車場角の馬頭観音(狛江市緒方)

狛江市の緒方地区はまだ畑の残るのどかな住宅地である。昭和の終わりころまでは世田谷区の西部もこんな感じだった。東京の宅地開発は恐ろしい速度で進んできたが、人口増加が止まった今、いつまで開発するのか、未来を見据えている者は果たしているのか気になる。そんな長閑な道だが、緒方中通りという通り名がきちんとある。

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駐車場の角にブロックに囲まれて1基の石仏が建っている。後ろにあるのは百日紅の樹だろうか。1基の馬頭観音の境内としてはとても広い。石仏を見てみると馬頭観世音菩薩が描かれており、寛政6年(1794)9月の造立年が刻まれている。

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左側には「緒方村 小川清兵衛」の銘がある。像形は舟型と呼ぶべきか、板駒型の上部が丸いタイプである。主尊は三面六臂。この緒方中通りはかつての大山道で、円住院の石仏で書いた大山道と二本あるうちの北側のルートである。

場所  狛江市緒方3丁目13-14  map

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2024年3月23日 (土)

円住院の石仏(狛江市駒井町)

狛江市の駒井は昔、北が岩戸村、西に緒方村、東は宇奈根村に囲まれた地域で、南を流れる多摩川の洪水に何度も苦しんでいた。ここにはかつての大山詣りの大山道のひとつが通っており、知行院~慶元寺~多摩川の渡しと人々は歩いていた。大山道が複数あるのは、多摩川の氾濫によって時代が異なると流程によって違う場所に道が造られるからである。

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駒井にある円住院は日枝神社と並んでいる。明治初期の廃仏毀釈以前は寺院と神社は一体で僧侶が神社を管理するところも多かったという。1000年も続いてきた神仏習合を明治政府が破壊したのは応仁の乱で京都を焼いたこと以上に日本の損失であった。日枝神社ももとは円住院の鎮守として創建され、江戸時代は駒井村の鎮守、しかし明治4年に分離されている。円住院は天台宗の寺院で、承久3年(1221)の創建という古刹である。

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本堂脇にあった丸彫の地蔵菩薩像、頭は後年再建されたもののようだが、厄除地蔵として祀られている。造立年等の文字は見当たらなかった。振り返って山門に向かうと境内の隅に3基の石仏が祀られている。右の小さな舟型光背型の石仏はひどく傷んでいるが主尊を見る限り馬頭観音と思われる。紀年等は不詳。

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中央は駒型の庚申塔である。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、造立年は享保9年(1724)12月とある。「武州玉郡世田谷領駒井村施主」とあり、秋本家・古川家・伊庭家の名前が並んでいる。左側の角柱型石塔は狛江市では珍しい二十三夜塔である。市内では田中橋跡の一画に二十三夜塔があった。この石塔の造立年は天保4年(1833)2月で、正面に「廿三夜塔」とある。台石には「講中」の文字と駒井村、宿河原村の人々の銘がある。現在川崎市の宿河原は多摩川の対岸だが、昔は多摩川の流程があちこち変わっていたので、右岸左岸に同じ地名があることが多い。

場所  狛江市駒井町1丁目6-10  map

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2024年3月21日 (木)

慶岸寺境内の石仏(狛江市岩戸北)

慶岸寺は浄土宗の寺院で、世田谷通りの近くにある。創建は江戸時代初期で村民によるもの。かつては津久井道と呼ばれた世田谷通りは成城の河岸段丘を下ると野川を渡り、慶岸寺前。この辺りは岩戸と呼ばれた土地で今も岩戸北という住居表示である。慶岸寺前には昔は多摩川を取水した六郷用水が流れており、次太夫堀公園を経て大田区まで水を供給していた。

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岩戸村では南の寺=明静院で、北の寺=慶岸寺というのが土地の区分けだったという。山門の手前にはかなり摩滅の進んだ庚申塔が立っているが、花を欠いたことがない。おそらく江戸時代中期のものだと推測できるが、青面金剛像と三猿の痕跡しか確認できないほど摩滅が進んでいる。この慶岸寺門前の庚申塔については別述している。

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残念ながら文字はほとんど読めない。狛江市の資料にも摩滅が酷くて不詳と記されている。庚申塔を拝んでから境内に入る。本堂の左手に地蔵堂と墓所への入口がある。その脇からは世田谷通りに抜けられる。訪問時外国人女性が同じ石仏を見ていた。私がいろいろ調べているというと多くの質問をしてきたが、共通言語は英語だけでかつお互いにそれほど流暢ではない。地蔵の説明などに四苦八苦した。

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説明の題材になった六地蔵だが、丸彫の六地蔵で、造立年は安永10年(1781)2月と(資料によると)ある。実際の文字は見つけられなかったが、「女中念仏講  奉▢▢六地蔵尊 武州多摩郡岩戸村」とも書かれているらしい。

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六地蔵の向かいにある覆屋は溶けた石仏が複数並んでいる。この中央の地蔵は「塩地蔵」あるいは「塩なめ地蔵」と呼ばれ、横の溶けたような石仏の痕跡は先代の塩地蔵だろう。中央の地蔵はかつて世田谷通りの二の橋近くにあった魚屋の稲毛屋さんの西に在ったが、戦前に道路拡張でここに移設されたということが分かっている。

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墓所の入口に祀られていた2基の舟型の石仏が古いもの。右の舟型光背型の聖観音像は寛文2年(1662)2月。「奉造立念仏供養為二世安楽也 岩戸村同行廿六人」と刻まれている。左の地蔵菩薩は狛江市指定文化財になっている庚申地蔵である。造立年はおなじく寛文2年(1662)2月。「奉造立庚申之歳供養為二世安楽也」「慶岸寺施主八人岩戸村」などの文字が刻まれている。

場所  狛江市岩戸北4丁目15-8  map

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2024年3月19日 (火)

長福寺の石仏(府中市宮西町)

府中市宮西町にある長福寺は珍しい時宗の寺院。時宗は鎌倉時代後期に一遍上人が開いた宗派で踊念仏で知られ、念仏を唱えれば極楽浄土という教義。踊る宗教は世界各地にあるが、脳科学などでは面白いテーゼだと思う。長福寺は寛喜2年(1230)の創建だが、まもなく正応年間(1288~1292)に時宗に代わる。一遍上人の没年が1289年だからちょうどその頃になる。

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なんだか現代にぴったりの教義ともいえそうな時宗だが、長福寺は山門をくぐると六角堂(もしかしたら八角堂)が本堂である。本堂は昭和46年(1971)に再建されている。

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本堂脇にある古い石仏のひとつ、舟型光背型の地蔵菩薩像は寛文2年(1662)8月の造立。府中市内でも最も古い地蔵菩薩のひとつである。尊像脇には「武州田摩郡府中(領)念仏講供養 同行女十四人」とあるので女念仏講中による建立のようである。

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本堂の前にある丸彫の地蔵菩薩立像の方は、元文元年(1736)10月の造立。玉石のの基壇には「願誉上人 誓蓮社 祐円和尚 当寺廿七世」とある。なお旧甲州街道から山門までは細長い路地だが、もともとの参道だったはず。甲州街道に長福寺の石標がある。

場所  府中市宮西町4丁目18-1  map

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2024年3月17日 (日)

高安寺の石仏(府中市片町)

府中市片町にある高安寺はかなりの古刹である。元は初期の坂東武士であった藤原秀郷(890頃~958頃)の館城で、秀郷は藤原鎌足の七代目。平将門を討った武将として知られている栃木県の武士だが、武士のはじまりのひとりとされる下野国の国司である。その館城を鎌倉幕府滅亡後に足利尊氏が全国に建立した安国寺のひとつとして再建したのが始まり。当時は臨済宗寺院だったが、江戸時代初期に曹洞宗に代わっている。

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昔は今の何倍もの広さがある伽藍であったようだが、今でもその片鱗は残る。本堂裏手にある秀郷稲荷の脇の崖を下りていくと、「弁慶の硯井戸」がある。かつて武蔵坊弁慶がここの湧水で墨を磨り文を書いたといい、暫くの間弁慶もここに住んでいたらしい。

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本堂手前にある無縁仏群の中央には角柱型の三界万霊塔があり、その両脇に古い石仏が主尊として祀られている。左の舟型光背型の如意輪観音像は、元禄2年(1689)霜月の造立で、「武州多麻郡府中番場町善信女、奉造立念仏講衆、為頓証菩提也」と書かれ、下部には同行33人とある。右の舟型光背型の地蔵菩薩像はもう少し古く、天和2年(1682)中秋の紀年がある。こちらは「武州多麻郡府中領番場宿同行23人」「奉造立念仏講衆為顕証菩提也」と刻まれている。

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入口に近いところに観音堂があるが、その前に地蔵菩薩の堂宇がある。延命地蔵尊の旗が複数はためいているが、主尊の丸彫の地蔵菩薩は享保8年(1723)の造立年が刻まれている。この地蔵については府中市の資料にも載っていなかったが、高安寺は意外に古いものがさりげなくある。

場所  府中市片町2丁目4-1  map

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2024年3月15日 (金)

屋敷分浅間神社の石仏(府中市美好町)

かつての甲州街道は府中大國魂神社を過ぎると、片町、そして屋敷分村、本宿と続いていた。現在の分梅通りは江戸時代から、この地域の南北の幹線道路であった。光明院坂から北上すると、甲州街道とのちょうど真ん中あたりに屋敷分浅間神社がある。

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浅間神社の創建年代は不詳ながら江戸時代には既に屋敷分村の鎮守であったようだ。境内の鳥居は嘉永7年(1854)2月の建立年が刻まれており、屋敷分村氏子中とある。この鳥居の手前、北側にある覆屋には複数の石仏が祀られている。

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ひときわ大きな笠付角柱型の庚申塔が主役だろう。府中で最古の庚申塔で、延宝2年(1674)2月の造立。日月、青面金剛像、二鶏、三猿が描かれており、「府中屋敷分村」の銘がある。右の角柱型の石塔は普門品供養塔で「奉読誦普門品供養塔」と書かれている。造立年は寛政2年(1790)4月、「武州多摩郡屋舗分村観音会講中」の銘がある。

場所  府中市美好町3丁目42-2  map

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2024年3月13日 (水)

元応の板碑(府中市美好町)

分倍河原の光明院から光明院坂を上る。坂道は南武線の踏切を過ぎてさ緩やかになり、間もなく西側に神社の境内が見えてくる。この神社、現在は八雲神社となっているが、明治初年の神仏習合の時に天王さまの天王宮だったのを政府が改名させた。鎌倉街道に面していることからも、鎌倉時代からあったとされている。

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鳥居には安永7年(1778)3月の造立年があり、當村氏子中と書かれている。本殿は文久3年(1867)に再建築されたらしく、そのすぐ後に天王宮から八雲神社に変わったことになる。神社の東北角の向かいに板碑がある。

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実は板碑もそれを囲んでいる樹木もレプリカである。元は本物の樹木に抱かれるようにして傷みのひどい板碑が祀られていたらしい。年号は元応元年(1319)霜月とある。後醍醐天皇が即位した翌年である。下部脇には「往生十七ヶ年所奉造立地」とある。

場所  府中市美好町3丁目40-16  map

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2024年3月11日 (月)

光明院の庚申塔(府中市分梅町)

光明院は真言宗の寺院。創建年代は不詳だが、鎌倉時代に北条家の家臣小川義継が建立した祈願所が始まりらしい。古い寺院である。光明院の辺りが多摩川の河岸段丘の崖線のひとつになっており、門前の道は光明院坂と呼ばれる坂道である。

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光明院坂は鎌倉街道とも呼ばれる古道で、別名「根っこ坂」とも呼ばれる。これは昔この坂道が荒れていた頃、道の両側に木の根っこが沢山あったことに由来するらしい。坂下は分倍河原で、原稿3年(1333)に新田義貞と北条義家が合戦した地である。

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山門脇に1基の庚申塔が立っている。笠付角柱型の庚申塔で、日月、青面金剛像、三猿が描かれている。造立年は元禄10年(1697)7月、側面には「庚申帝釈天  武刕江戸 天野清左衛重有」と刻まれている。また「当寺八代目 法印海誉」の銘もある。これ以外にも、府中市の資料に依ると、享和元年(1801)の笠付角柱庚申塔があるらしいが見当たらなかった。

場所  府中市分梅町1丁目13-1  map

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