2019年9月22日 (日)

庚申橋の庚申塔(渋谷区東)

渋谷駅から恵比寿に向かって流れる渋谷川は最近時折脚光を浴びて存在を知られるようになった。江戸時代以前はかなりの暴れ川で、現在の金王八幡宮には館城があり渋谷川はその堀の役割を果たしていた。江戸時代になり、赤坂御門で江戸城内から出てきた鷹狩りの将軍などは、宮益坂を下り、東横デパートの場所にあった渋谷川の橋を渡って駒場方面へ向かった。そちらの道は大山街道で、そこが将軍や御三家の遊びに使われるときは、下流に架かっていた橋を民衆は使うことになる。江戸時代にも渋谷から恵比寿にかけては数本の橋が架かっていたが、その代表がこの庚申橋である。

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江戸時代、橋の江戸城側には宝泉寺、福昌寺、鷲峯寺があり、橋を渡ったところには横田筑後守という御小姓組(軍事担当の武官)の小旗本の抱屋敷があった。小さいがそれでも2千坪の別邸屋敷である。その橋の旗本抱屋敷側の屋敷の向かいに庚申橋南詰の庚申塔が立っており、現在も大切に祀られている。

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庚申塔であるが、実質は橋供養塔である。高さは137㎝もある大きな角柱型で、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれているが、それは石碑の上部のみで、他の大部分は人名と町名で埋め尽くされている。裏面にまでびっしりと彫られていて、橋講中世話役や各種講中の名前。渋谷区周辺は本より山の手全域の地名がある。

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渋谷川に架かっていた水車、三田用水の利用関係者、世田谷方面の農産関係の人々らが、この橋の大切さを刻み込んでいるように思われる。そのことは庚申塔の傍にある教育委員会の説明板にも書かれている。

場所  渋谷区東3丁目17-17

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2019年9月21日 (土)

目黒銀座馬頭観音(目黒区上目黒)

今から40年以上も前の事、目黒銀座の入口に住んでいた。その頃は存在すらも気づいていなかったが、お世話になった電気店の裏手に目黒銀座の馬頭観音堂がある。当時の目黒銀座は昭和の商店街そのもので、大きなビルと言えば富士銀行の事務センター(現在はみずほ銀行の事務センター)と千代田生命本社(現在は目黒区役所)くらいのものだった。駅前の銀行は東海銀行だった。山手通りの向かいには狭いダイエーがあって買い物客であふれていたが、目黒銀座で買い物をする人の方が多かった。

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堂宇左奥に並ぶ石碑の内いちばん大きいのがここに馬頭観音堂が造られたころに立てられた馬頭尊祈念碑である。 大正12年(1923)のもので、「武州上岡妙暗示住職十九世佛光書」とある。武州上岡とはなぜと思うかもしれないが、この馬頭観音を勧請した元が、東松山市上岡にある妙安寺からの分霊だからだそうだ。

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線路わきの公園への通路を背にしていくつかの馬頭観音が並べてある。 最も古いのは割石作りの文字塔で正面に「馬頭観世音菩薩」とあり、台石に「樋口氏」とあるもので、明治40年(1907)4月の造立。

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上の写真の馬頭観音は時代が新しく昭和6年(1931)の角柱型文字塔で、正面には「馬頭観世音」また「目黒町上目黒 山崎トサ」とも彫られている。

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上の写真の石像は浮彫半跏像塔というらしく、馬頭観音が唯一彫られているものだが、時代はずっと新しく昭和47年(1972)7月のものである。背面に椎橋氏の名前が記されているが、もとは碑文谷にあったものをここへ移し、さらにそれを再建したものらしい。それでもこれが一番馬頭観音らしくて好きである。

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もう一つの馬頭観音塔は目黒区の史料にも載っていなかった。風化しやすい石で作ってあるのか。 真ん中に「馬頭観世音菩薩」とあり、その右側に「大正十〇年」とあるので、それくらいの年代なのだろう。

大正時代の終わり頃、この辺りには小規模な乳牛牧場や馬力運送の業者が多く、「目黒恵比寿畜舎運送組合」というものを形成していた。その組合や地元の神山氏らが発起人となり、牛馬の息災を護り、弔いをするために、東松山の妙安寺から馬頭観音を分霊したという。現在は勿論、40年余り前もその面影はすでになかったが、大正時代以前の地図を見ると、蛇崩川の左岸は諏訪山のふもとに田んぼが広がっていたが、右岸(現在の目黒銀座周辺)は武蔵野の林の残る傾斜地で、そこで牛馬を飼っていたとしても不思議ではない。明治時代の地図では、現在の中目黒GTあたりは駒沢通りまで牧草地帯だったようだ。

場所  目黒区上目黒2丁目14-6

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2019年9月20日 (金)

別所坂上の庚申塔群[後列](目黒区中目黒)

さて、別所坂上庚申塔群の後ろの列にも3基の石塔がある。前後に特に意味はないようだ。戦前の地図を見ると、ここには鳥居マークが描かれていて、鎗ヶ崎で駒沢通りを水道橋で越えて来た三田用水が、この坂上で60度ほど南カーブして、その先にあった新富士の大外を回るように流れていた。別所坂のところだけが崖線が少し凹んでいるのは、ここに滝があったかららしいが、記録では用水の水が落ちていたというから台地を削るようなものでもない。おそらくはちょろちょろと流れる細沢があったのだろう。

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さて後ろの3基について右から紹介していくと、一番右奥は板碑型の庚申塔で文字はほとんど読めない。そのため目黒区の史料等を参考にした。文字は「奉開眼供養 南無妙法蓮華経 帰命帝釈天王」とあり、下部に三猿が薄く描かれている。造立年は寛文5年(1665)12月である。(下の写真)

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後中央(下の写真)は、明和元年(1764)12月の角柱型っぽい庚申塔で、6基の中では最も時代が新しい。青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏の図柄。見る限り造立年は読めないが目黒区の史料を参考にした。この塔の邪鬼は立っていて上から青面金剛像に踏みつけられている珍しいものである。

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そして後左の庚申塔は元禄10年(1697)11月の造立、駒型で青面金剛像、三猿、二鶏の図柄。この塔も彫りが深くてくっきりとしていて腕のいい石工の作品だと思われる。

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ただ左上部が少しだけ欠けている。しかし1600年代の庚申塔が4基、1700年代が2基、このように綺麗に残されているのは素晴らしいことだと思う。目黒川河岸段丘の崖線、三田用水、村境の塞ノ神である庚申塔と、歴史が詰まったポイントである。またこのすぐ東側の崖線上には目黒新富士があったことも忘れてはならない。

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現在は公園になっているが、坂下からの階段と坂上のかつては大蔵省財務局出張所であった隣接マンション敷地の両方からアプローチできる。しかし、坂下の入口は閉鎖されていることが多く、坂上のマンション脇も監視下に置かれ昼間(8:00~17:00)しか入れない。方角的に夕日がとてもきれいに見られると思うが、その時間帯に入ることは叶わないのである。公園に新富士の説明板がある。

「この場所の北側、別所坂を登り切った右手の高台に、新富士と呼ばれた富士塚があり、江戸名所の一つになっていた。この新富士は文政2年(1819)、幕府の役人であり、蝦夷地での探検調査で知られた近藤重蔵が自分の別邸内に築いたもので、高台にあるため見晴らしがよく、江戸時代の地誌に「是武州第一の新富士と称すべし」と書かれるほどであった。新富士は昭和34年に取り壊され、山腹にあったと言われる3つの石碑がこの公園に移設されている。」とある。

ちなみにかつての富士塚の標高は地理院地図では39.1m、しかし現在は30.73mほどになっている。ここは目黒三等三角点が置かれている場所である。

場所  目黒区中目黒2丁目1-20

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2019年9月19日 (木)

別所坂上の庚申塔群[前列](目黒区中目黒)

私の最も好きな坂道のひとつである別所坂の坂上に庚申塔群がある。この庚申塔のすぐわきを昭和の中頃まで三田用水が流れていた。三田用水は玉川上水を笹塚で取水し、目黒川の河岸段丘上を流して五反田から三田にかけてを潤した。三田用水の痕跡はもうごくわずかしか残っていないが、それを探すマニアもいる。

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その急な別所坂(傾斜13度/23%)の坂上にコンクリートの堂宇があり、6基の庚申塔が祀られている。近年のものかと思いきや、『新編武蔵風土記稿』に「庚申塚、除地五坪 村の東の方 小名別所通に在り」と書かれているようだ。江戸時代からここには庚申塚があったことになる。もっとも別所坂は江戸時代から多くの人が通った道であったし、複数の村境でもあるので納得がいく。

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庚申塔は6基とも立派な大型のものである。堂宇の脇には平成9年(1997)制作の真鍮の銘板で解説がある。「庚申塔は庚申を信仰する庚申講の仲間たちが建てたものである。60日に一度来る庚申の日に眠ってしまうと、三尸(さんし)という虫が体内から抜け出し、天の神に日頃の悪事を報告され、罪状によって寿命が縮められるので、集まって飲み食いしてその夜は徹夜した。」旨が明解に書かれている。一般の人にもわかりやすい説明板である。

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手前右の庚申塔は、元禄元年(1688)10月の造立。駒型で青面金剛像と三猿の図柄である。右下に「庚申」とあり、左側に「元禄元戊辰年十月吉祥日」と銘がある。

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手前中央の板碑型庚申塔は、延宝8年(1680)11月の造立の文字塔。文字は薄いが、「奉供養南無帝釈天王」「武州荏原郡中目黒村」と銘がある。

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手前左側の庚申塔は彫りがきれいである。駒型で青面金剛像に三猿、二鶏がきれいに描かれている。造立年は享保元年(1716)11月、「奉納庚申供養」の文字だけが読めるが、他には書かれていないようである。

坂のところでも書いたが、別所と言う地名は新しく切り開かれた場所に付けられる名前である。しかし、ここは別説である目黒の方言で突き当りとか行き止まりをいう呼び名という方がしっくりくる。坂を上る人も下る人も、ここで一息入れたに違いない。

場所  目黒区中目黒2丁目1-20

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2019年9月18日 (水)

新富士坂の馬頭観音(渋谷区恵比寿南)

一時消えた恵比寿南の道標から新富士坂を別所坂方面に歩くと、間もなく右手に馬頭観音堂が現れる。辺りは目黒川河岸段丘の崖線上で近年戸建がどんどん消えて高級マンションに変わってきている。戦前は原町、大正以前は鎗崎という地名だったエリアである。河岸段丘の崖線ギリギリが最も標高が高いので、ここに三田用水が通されていた。昭和の終わり頃まで、駒沢通りにも新茶屋坂通りにも三田用水の水道橋があった。

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新富士坂を上る途中のこの馬頭観音堂辺りが、江戸時代は三田村と下澁谷村の村境だったが、江戸時代の地図を見ると、別所坂上の周辺で、下澁谷村、三田村、上目黒村、中目黒村が村境を突き合わせているような地区割になっている。三田用水がらみが要因なのだろうか。この馬頭観音堂の前に説明板がある。

縁起によると、享保4年(1719)頃この辺りに悪病が流行し、これを心配した与右衛門という人が、馬頭観音に祈って悪霊を退散させた。そのお礼に石で観音を造り、祐天寺の祐海上人に加持祈祷を願い、原(このあたりの地名)の中程へ安置したという言い伝え。村人はその後毎年2回百万遍(念仏講)を続けたので周辺に再び悪病が流行ることはなかった。

この道(新富士坂)は目黒・麻布を経て、江戸市内に入る最短の道で、急な別所坂を下って正覚寺から祐天寺へと続いていた。

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堂内の馬頭観音座像は高さ41㎝と小柄な光背型。像の造立年は延喜3年(1746)2月とあるので、縁起の時代とは四半世紀のずれがあるが、願主は与右衛門となっている。なので当初のものかどうかは分からない。馬頭観音の座像は珍しいと思う。

場所  渋谷区恵比寿南3丁目9-7

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2019年9月17日 (火)

恵比寿南三丁目の道標と欅(渋谷区恵比寿南)

恵比寿駅周辺は21世紀になって再開発が止まらない。昔は山手線の駅で渋谷の次は目黒と言われたくらい忘れられた街だったのだが、バラエティの芸能人がやたら出没したりして人気になり、かつての街の姿はすっかり消えてしまった。強いて言えばかつては駒込のような雰囲気の駅だった。駒沢通り沿いのアーケードは昔からあり、おもちゃ屋さんや洋服やなど普通のお店が並んでいた。その先は海軍省の敷地、戦後は英国軍豪州軍のエビスキャンプとなり、後に自衛隊の防衛研究所になった。その門の少し手前に、ゆるやかな新富士坂があり、坂の入口に道標があった。

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道標の造立は安永8年(1779)5月、角柱型で正面には「南無阿弥陀仏」、右には「ゆうてんじ道」、左には「不動みち」と彫られていた。この敷地の盛土の上は国家公務員宿舎原町住宅だったが、いつしか払い下げられ近年野村不動産のプラウドという高級マンション(恵比寿ヒルサイドガーデン)が建設中になっていた。2020年完成だそうである。

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道標がなくなったと思いきや、説明書きが貼ってありホッとした。マンション完成後は少しだけセットバックして再建されるとある。2020年の春には新たにここに道標と、隣にある小さな猿像…これが出所不明で何も文字が書かれていないのでわからない…も戻ってくるようだ。猿像は初期の庚申塔にみられるので、結構古いものではないかと想像する。

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いいことがあれば悪い事もある。道標の場所から少しだけ新富士坂を進んだところに欅の巨樹があった。渋谷区の保存樹木に指定されていたのだが、伐採されてしまったようである。工事標識を見ると伊佐ホームズという会社がビルを建てているようだ。この会社、世田谷区瀬田にある会社で植樹をしたり、自然にいそしんだりするイベントを開いたりする自然派の建築屋さんなのだが。

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地主が伐採を指示したのか、樹木医がもうこれは植え替えは不可能と判断したのか、いろんなことを想像するが真相は分からない。都会の巨樹はこうして消えていく。それを今までたくさん見てきた。自然の樹木や岩に神が宿るという日本古来の信仰が、まったく世間で通用しなくなってきていることは時代の流れだが、いつか自然の反撃を受ける気がしてならないのは私だけだろうか。

場所  渋谷区恵比寿南3丁目11-17

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2019年9月16日 (月)

目切坂上の地蔵と猿楽塚(渋谷区猿楽町)

代官山のヒルサイドテラス脇から目黒川沿いに下る有名な抜け道が目切坂。 この辺りは江戸時代以前の痕跡が意外に多い。地蔵の南側にはかつて目黒富士があった。富士塚は文化9年(1812)に上目黒村の富士講中が築いたもので高さは12mもあったという。しかし文政2年(1819)には別所坂上に新目黒富士が築かれるとそちらが新富士と呼ばれ、こちらは元富士と呼ばれた。歌川広重の『名所江戸百景』には両方とも題材として描かれている。しかし元富士は明治になってから壊され、大橋の上目黒氷川神社に移された。

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その少し西側には神田正輝と松田聖子がデートを重ねていたというヒルサイドテラスがある。その一角にこんもりと盛り上がった小山があるのだが、これが猿楽塚で、猿楽町の地名の由来になった場所。この築山は6~7世紀の古墳で二つの円墳からなり、そのうちのひとつを人々は長年猿楽塚と呼んだ。古墳の脇を初期の鎌倉道が通り目黒川に向かって崖を下っていたらしい。

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さて再び100mばかり代官山交番の方へ戻り地蔵にお参りする。この地蔵は文政元年(1818)7月に造立されたもの。台座の正面には「右 大山道 南無阿弥陀仏 左 祐天寺道」とある。右の道は目切坂、左の道は駒沢通りにあった新道坂を示している。目切坂は今でも薄暗い坂道だが、昔は崖線の森の陰でさらに薄暗く、暗闇坂とも呼ばれていた。

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上の写真と前掛けの柄が違うのは上が2016年、下が2019年の写真だからである。左の小さな地蔵立像については資料もなくほとんどわからない。文字はまったく読めないが聖観音像ではないかと思われる。この辺りの標高が33mほどあるのに対して目黒川は10mほどだから、ここから南へ行くと20mの崖を下らなければならない。そんな高い場所にかつては三田用水が流れていた。場所的にはまさに地蔵の真ん前である。そして三田用水よりも北側が中豊澤村、南が上目黒村という村境でもあった。分れ道、村境、橋、というすべての条件がそろった場所なのである。

場所  渋谷区猿楽町30-3

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2019年9月15日 (日)

猿楽古代住居跡の石仏(渋谷区猿楽町)

流行の先端を行く代官山の街、40年ほど前は急行の止まらない静かな住宅街だった。渋谷から明治通りを恵比寿方向に行ったところにある並木橋から、鎗ヶ崎への道を上るとJR山手線を跨線橋で越える。そのすぐ先の渋谷側に路地を入ると天狗坂という坂があり、坂の脇に横山邸があった。横山邸の庭には古い石仏が数体祀ってあった。

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写真は横山邸と右側の道が天狗坂である。横山邸(猿楽町5-2)の門の左側に説明板があり、その後ろ側に5体の石仏があった。石仏たちは最近猿楽町の古代住居跡公園の奥に移設されたので見に行った。横山邸にあった頃は、網があってうまく撮影できなかったのである。

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公園では大きさ順にきれいに並べられていた。後ろの網の向こうは区立猿楽小学校のグラウンドである。ここは弥生時代の遺跡で、古代住居跡がコンクリートで固められている味気ないもの。しかし札束をゴミのように使う開発に取り囲まれた中でこういう施設を残してくれるのは何よりもうれしいことである。

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さて、一番右だがなかなか大きな庚申塔である。板碑型で高さは129㎝ある。青面金剛像に三猿の図柄、造立年は延宝5年(1677)10月と江戸時代初期のものである。その隣の石塔は廿三夜塔。舟型の勢至菩薩像で高さは110㎝ある。造立年は延宝3年(1675)11月とあり、隣の庚申塔よりも古い。武州豊嶋郡中澁谷村の銘がある。

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廿三夜供養塔というのは、月待塔の一種である。始まりは室町時代と言われるが、流行したのは江戸時代に入ってからで、特定の月齢の夜に集まり飲食を共にしたのち念仏を唱えたりして悪霊払いをした風習。十三夜塔、から廿六夜塔まであるが、廿三夜塔がもっとも多い。二十三野党の左には、ほぼ同じサイズの板碑型庚申塔がある。青面金剛像に三猿の図柄は最初の大型の庚申塔とほぼ同じ。造立年は元禄16年(1703)11月で少しだけ時代が新しい。願主が10人記されているが海老沢姓が4人いる。

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その隣にあるかなり摩滅風化した石像は道標の地蔵立像。「左 目黒道」は読めるが他の文字が殆ど読めない。年代については〇暦3年とあるので、明暦か宝暦だろうが、明暦だと1657年、宝暦だと1753年だから可能性は宝暦3年の方が高そうだ。「右 〇〇道」の方については推理が楽しそうである。もし、並木橋あたりにあったとすると、左目黒道は目切坂上を目指しそこから目黒不動へ向かう道と推定できる。そうすると右は上目黒を経て大山道に出る道を指し「右 大山道」だったか、あるいは三田用水沿いに行き滝坂道へ向かう意味で「右 滝坂道」だったかなど、推測は尽きることがない。

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一番左にあるのが猿が一匹だけのいわゆる一猿と呼ばれる猿像。 これも当然庚申塔である。造立年は宝永8年(1711)4月。これにも海老沢姓が半分入っている。すべてが横山邸にあったものだが、江戸時代初期から中期にかけての貴重な石仏を今に残してくれたことには深い感謝の念を覚える。

場所  渋谷区猿楽町12-5

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2019年9月14日 (土)

立帖場の石仏(世田谷区北烏山)

千歳烏山の北、かつての烏山上宿と中宿の境を南北に走る松葉通りを北上し、国道20号線を越えると西側に墓地が見えてくる。角に大きな碑が立っていて、「武州烏山村 史跡 立帖場の碑」とある。

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「往昔 この地域を武蔵国多摩郡烏山村といった。松葉山の南端であるこの地と里人は立帖場と呼んでいた。松葉山の東側一帯は大神、南西一帯を西の谷、北側一帯を丸山と呼び、古府中道に面していた。丸山には大昔からの湧水地である亀の子出井があり、古烏山川の源頭。この地は源氏東征にも深く関わっており、源義家がこの地に宿営。(中略)江戸時代になり烏山は天領と旗本領の境となった折、この立帖場が基準地となった。(後略)」と長い歴史を刻んでいる。

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墓所には野ざらしの地蔵が2基立っている。左の大きな地蔵は天明6年(1784)のもの。「烏山念仏講中 天明4年11月」とあり、女性名が27名ほど彫られている。いわゆる女念仏講中であろう。右の小さな地蔵は以前は首がなかったが現在は補修されている。造立年は不詳。風化と傷みが激しくて文字もほとんど読めない。右面に仮名の名前があるのでこれも同じく念仏講中のものだろう。

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その隣には庚申塔が立っている。前面はかなり傷んでいるが昭和の後期の写真はこれほど傷んでいないのでもしかしたらいたずらに壊された可能性もある。櫛型角柱型の庚申塔は青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、土台に烏山講中とある。造立年は享和2年(1802)10月と書かれている。

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その脇に気になる板碑風の石碑がある。区の史料にも出てこないが、梵字がいくつか彫られている。上部真ん中はキリークだろうがあとはほとんど私には読めない。このタイプは古いものが多い。これまで見てきた中では新しいものでも1600年代後半なので、それ以前の可能性もある。板碑はほぼ寺社仏閣内に保存されているのでなかなか野で見ることはないのだが、これは板碑型の念仏塔の上部であるような印象を受けた。ひとつ宿題になった。

場所  世田谷区北烏山3丁目8-16

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2019年9月13日 (金)

烏山・下山地蔵尊(世田谷区南烏山)

甲州街道(旧道)脇に佇む庚申塔と地蔵尊がある。 傍のバス停の名前は烏山下宿。 甲州街道には烏山宿という宿場はなかったが、東の高井戸宿と西の布田五宿の間にあったのが烏山村で、街道筋には商家もあった。この辺りが下宿で、ここから西に進み古烏山川を渡ると仲宿、その先松葉通りの西側が上宿と呼ばれる。江戸時代初めは中宿が、後期には上宿が最も栄えていたという。

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甲州街道が開かれたのは江戸時代の初期、徳川家は海から攻められた時の避難場所を山梨と決めていたらしく、その目的で甲州街道を整備した。多くの大名は東海道や中山道を使って参勤交代したが、甲州街道で参勤交代したのは、諏訪の高島藩、高遠藩、飯田藩の三藩のみ。それ以外では京都から新茶を将軍に献上するお茶壷道中くらいだったので、道幅は狭いままだった。それでも、江戸後期になると富士講などが流行し、甲州街道を使う民衆が増えてきたので十分商売になったという訳である。

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一番右にある大きな唐破風笠付庚申塔は並ぶ4つの石仏の中で最も古く元禄13年(1700)のもの。高さは161㎝もある。 立派な笠の下には角柱型の庚申塔。 青面金剛像に邪鬼、猿は正面と左右面にそれぞれ1匹ずつ描かれている。「奉供養庚申 烏山村」の銘があり、台石には多数の願主名がある。その横の地蔵立像は正徳2年(1712)の造立。烏山講中の銘の他に無数の願主名が彫られている。

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左側の2基はどちらも庚申塔である。右側の笠付角柱型の庚申塔は宝永元年(1704)の造立。青面金剛像と三猿の図柄で、烏山村と9名の願主の銘がある。左の小さな庚申塔は山状角柱型で、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。享保18年(1733)10月の造立。「烏山村同行」「奉納庚申供養塔」の銘と共に8名の願主。 ここでようやく下山家の名前が3人入ってくる。下山家は江戸時代後期の地頭名主で、世田谷区史の大家である下山照夫氏はその末裔だろうと私は思っている。近年まで活動しておられたが、昭和2年生まれだからまだお元気かどうか気になっている。

場所  世田谷区南烏山4丁目1-13

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2019年9月12日 (木)

平太夫堀の辻の庚申塔(世田谷区北烏山)

平太夫堀を遡った庚申塔のところで登場した辻の庚申塔である。平太夫堀を遡った庚申塔から南へ260mほど下ったところにある。国道20号線からは100mほど北になる。 この通りはかつての千駄山通りで、昔は国道20号線は無かったので、このまま南下して(烏山)下宿で甲州街道に出た道。

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右の道が千駄山通りが下宿へ向かうルートで、左は平太夫堀の分流沿いの作業道だったようだ。昔の街道の宿場は間口税が掛けられていたので、甲州街道では10mほどの幅の土地でも裏に回ると何百mも奥まで土地が短冊のようになっていたはずである。これはどこの街道でも見られる区割り。

この辺りは薪や茅などが大量に獲れたところで、千駄山という地名の由来でもある。昔の単位で一駄というのは1頭の馬に背負わすことが出来る荷物の重さでおよそ36貫(135㎏)。千駄というと13.5トンという凄い量になる。それくらい薪や茅が豊かに獲れたということだろう。茅は当然ながら茅葺屋根の茅である。またこれより北東は上高井戸村だったので、ここは村境。従ってこの庚申塔も塞ノ神として祀られたのではないだろうか。

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向かって左の駒型の庚申塔は、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれている。造立年は嘉永5年(1852)11月。烏山村と9人の願主の銘がある。右側の舟型光背型の庚申塔は古く、造立は享保12年(1727)11月。こちらは青面金剛に三猿の図柄。施主には9人の銘がある。志村姓が多く、どちらも3人の志村姓が見られる。

庚申塔の近くには区立千駄山広場という公園があり、昔の地名をわずかに今に伝えている。

場所  世田谷区北烏山1丁目8-11

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2019年9月11日 (水)

平太夫堀を遡った庚申塔(世田谷区北烏山)

個人的にたまに行く甲州街道の烏山のスシロー、その近くにあった庚申塔が2015年頃なくなった。空き地の駐車場だったところに簡素な堂宇がありそこにあったのだが、新たに住宅が建設され堂宇と共に消えてしまったのである。上高井戸から北烏山を散策していた折に、北烏山でその庚申塔を見つけたときはとてもうれしかった。

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上の写真はGoogleストリートビューからいただいた2015年のその庚申塔の堂宇。現在この砂利敷きの駐車場は3棟の新築住宅になっている。庚申塔などの野仏が消えるのはよくある話で、神仏を信じなくなった現代人が経済優先で物事を進めると往々にして消えざるを得ないのは時代の流れ。 だからこそ今のうちにとどめておこうとこうしてブログを書いているのだから仕方がない。

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場所は辻にある2基の庚申塔よりもずっと北に進んだところ。区立武蔵丘小学校の近くである。この道は古くは千駄山通りと呼ばれた古道で、道に沿って平太夫堀という用水路が流れていた。歩道が広いのはその用水路跡だからである。平太夫堀は昭和の中頃まで開渠であった。しかし文献にもまったく登場しない用水路なので、詳しいことは分からない。ただ、各時代の地図を見ると、平太夫堀は2基の庚申塔の辻で二手に分かれ、西側の流れはそのまま南へ流れて数年前まで庚申塔があった辺りを通り南烏山へ流れていたことがわかる。庚申塔は用水路跡を上流に登った訳である。

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新しい管理人さんにきれいな堂宇を立てて磨いてもらった庚申塔は見事なものである。駒型で青面金剛像に邪鬼、そして台石に三猿が描かれている。 造立年は安永9年(1780)11月。願主は28人、プラス世話人2人だが、全員苗字は書かれていない。かつての場所は南烏山3丁目18-15である。

場所  世田谷区北烏山1丁目45-2

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2019年9月10日 (火)

畑の庚申塔(杉並区上高井戸)

杉並区上高井戸の一角に1,000坪はあろうかという畑が残されている。南北100mはあるその畑の持ち主が気になるが、住宅地図にも敷地内の屋敷の主の名は書かれていない。さらにノミで削られた石柱がこの家の敷地の境目にいくつか立っている。畑におばあさんがいたが、気が引けたので話しかけられなかった。個人情報保護法がない時代なら声をかけていたと思う。

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そんな広い畑の南の角の辻に庚申堂があり、1基の庚申塔が祀られている。写真の奥にはおばあさんが麦わら帽子をかぶって畑仕事をしているのが写っている。この風景は堂宇がブロックで造られていることを除けば、概ね100年前とさほど違わないのではないかと思われた。無論、遠景の家は近代的だが、この写真を見てここが東京の杉並区だとは思わないだろう。

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庚申塔は駒型で、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。 造立年は宝暦4年(1754)10月とある。願主は16人の名前があるが苗字はない。この庚申塔の西側を南北に走る道は昔の人見街道で、別名やまん街道と呼ばれる道。現在の人見街道とは異なるがこちらが江戸時代以前からの人見街道らしい。人見街道は府中の多摩墓地辺りにあった人見村に繋がる道だった。また、やまん街道は山の街道が転化したという説がある。

場所   杉並区上高井戸2丁目11-56

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2019年9月 9日 (月)

上高井戸細淵家地内庚申塔(杉並区上高井戸)

環八中ノ橋交差点にある佐川急便の杉並営業所の裏手に庚申塔がある。この辺りの土地はかつて上高井戸宿の名家細淵家の土地だったところ。中野橋交差点から西に200m程のところに第六天神社がある。そこに玉川上水を渡る木橋があり天神橋と呼ばれていた。そのすぐ南側に玉川上水の分水があり、水車が回っていた。上高井戸細淵家はその水車の管理責任者で、水車は昭和初年まで使用されていたという。

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ここには今、3基の庚申塔が祀られている。甲州街道には上高井戸宿と下高井戸宿があり、この2宿は半月交代で宿駅としての業務を行っていた。そのため高井戸二宿と呼ばれた。上高井戸宿は現在の環八以西、ちょうど旧道が国道20号線から分岐しているがその辺りが中心だった。一方の下高井戸宿は現在の上北沢駅入口辺りから東が町の中心で、昔は9m四方、高さ3mの一里塚があった。その傍に問屋の細淵家があったという。

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庚申塔は右が最も古く左の方が新しい。右側の庚申塔は、造立年が延宝元年(1673)で、板碑型のもの。三猿のみが描かれており、世田谷区最古の1658年の宗円寺の庚申塔と似ている。ただこちらは三猿の上に何らかの像が描かれていた可能性がある。中央の大きい庚申塔は舟型でも上部が丸い珍しい形。 青面金剛像に三猿の図柄で、造立は正徳6年(1716)正月とある。右側には「庚申供養導師尊海」とあり、下部には10名の願主の名前がある。新川姓が4人と多い。左の笠付角柱型が最も新しいといっても享保13年(1728)である。「武列多摩郡上高井戸」とある。いずれの庚申塔にも細淵姓がいないのがいささか不思議である。

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庚申塔の後ろには山門らしきものと社のようなものがある。一体これらが何なのかが気になった。そしてここの細淵家と、下高井戸宿の問屋の細淵家の関係も気になる。ちなみに少し南にある生産農家も細淵さんで15代目だという。

ちなみに水車があったのはちょうどこの庚申塔の辺りで、そこから分流は南へ向かい、現在ヤマダ電機があるあたりから八幡山駅を通り松澤病院の敷地へ流れていた。

場所   杉並区上高井戸2丁目2-41

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2019年9月 8日 (日)

中央道高架下の庚申塔(杉並区上高井戸)

中央高速道路の高井戸インターは出ることはできるが入ることが出来ないインターチェンジである。杉並区では1970年代に高井戸ICの反対運動が激しく住民の合意が得られないということで入口が出来なかったという経緯。後年入口を造らなかったことによる経済損失の大きさから都と区は前向きな姿勢になっているようだが、外環自動車道の工事も進んでいる折、コスト対効果を考えるともう無理ではないかと思う。明治時代の汽車や電話線が疫病と災害をもたらすと信じた庶民と似ているが、便利というものは常に何らかの犠牲の上に成立しているので、入口を造らなかったことが良かったのかどうかは分からない。

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それでも首都高の入口にはなっているので、しばしば利用している。この道路の一部はかつては玉川上水の流れだったのだが、上北沢駅入口で道路に飲み込まれてから西は、高速道路が南にカーブする下、浅間橋まで玉川上水の痕跡はほとんどない。ところが玉川上水、現在もかなりの水量が流れているのを知る人は少ない。とはいえ太宰治のように入水自殺できるほどの水位ではないが。

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そんな中央道に続く高架下に庚申塔が堂宇に守られて祀ってある。笠付角柱型で青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。造立年は享保20年(1735)とある。「上高井土村庚申供養講中」とあり、東原10人、中橋8人、下町8人、下川8人の願主の銘がある。東原は「ひがしっぱら」と読み、今の上高井戸3丁目辺りだからまさに庚申塔がある区画の旧地名である。中橋はこの先西に進むと玉川上水を渡る中ノ橋があった辺り。現在でも交差点名は中ノ橋(なかのばし)。下町は、ずっと東の下高井戸4丁目辺り、高井戸第三小学校の付近に「下町会」なる町内会がある。ただ、下川だけは分からない。

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この庚申塔(庚申堂)は昔は80mほど東の、旧高井戸2-506にあったらしい。当然高速道路も広い都道もない時代で玉川上水がこんこんと流れていた頃の話である。そこには玉川上水に架かる庚申橋という橋があり、当然橋名は庚申塔があることから付けられたものだろう。江戸時代に遡ってみると、「堂之下橋」という橋名になっている。江戸時代も庚申堂に入った庚申塔であったのだろうか。

ところがここで数十m幅の道路を渡る歩道橋の名前が「庚申橋歩道橋」となっているのである。現代にもまだ続いていた名前の痕跡を見つけた気がした。この橋を渡る道は、江戸時代は浜田山からここに通じ、ここからはほぼ赤堤通りの筋を通って、滝坂道に繋がっていた。歩道橋名も気を付けてみると意外に面白い。

場所   杉並区上高井戸3丁目8-27

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2019年9月 7日 (土)

下高井戸鎌倉街道の庚申堂(杉並区下高井戸)

東京にはいくつもの鎌倉街道が走っている。概ね南北の方向の鎌倉街道が多い。 鎌倉時代にはあの狭い鎌倉に幕府が置かれ、幕府は多くの御家人を抱え、御家人は幕府から呼ばれると「いざ鎌倉」と鎌倉に馳せ参じた。後年、江戸時代辺りになると、昔からの道で鎌倉の方向に向かっているものは何でも鎌倉街道と呼ばれたようである。

その中でも、東京都内では上道、中道、下道というメインルートがあった。上野国(こうずけのくに=群馬県)から埼玉県の狭山を通り、府中から多摩丘陵を抜けるのが上道。分倍河原の合戦などの史跡もある。中道は赤羽岩淵から世田谷あるいは渋谷を通って多摩川を渡るルートで何本かある。下道は茨城方面から浅草、日比谷を抜け、古東海道である池上通りから多摩川へというのが主なルート。

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阿佐ヶ谷から上北沢へ抜ける鎌倉街道は中道の別ルートで、現在豊島園になっている練馬城、阿佐ヶ谷神明宮、駅前商店街のパールセンターを抜け、この鎌倉街道に繋がっていたようだ。パールセンターの中程にも古い庚申塔が残っている。しかし庚申塔は江戸時代の民俗文化なので、鎌倉街道とは直接の関係はない。鎌倉時代の痕跡などもう東京ではほとんど見られないのである。

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堂宇の前には庚申堂由来の碑があるが、これは昭和60年(1985)に立てられたものである。特別なことが書かれているかと思いきや、一般論と簡易な説明だったのでいささか落胆した。

堂宇の中には大型の庚申塔が2基と、馬頭観音が1基祀られている。左の駒型庚申塔は高さが128㎝もある大きなもの。青面金剛像、三猿が描かれ、造立年は元禄8年(1695)11月と結構古いものである。「武列(武蔵国の意)多摩郡野方領下高井土」とある。高井戸の戸が土になっていたりするのは江戸時代の石仏の常。願主名12名があるがそのうち7名は鈴木姓である。

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真ん中の笠付角柱型の庚申塔は文字塔で、翌年の元禄9年(1696)10月の建立。「奉庚申信仰敬白」とあり、武列多摩郡下高井土と彫られている。願主は15名。 右側の小さなのは角柱型の馬頭観音で「南無妙法蓮華経馬頭観世音」とある。施主は荒川氏。安政2年(1855)の造立である。

この鎌倉街道にはコミュニティバスの「すぎまる」が走っているが、傍のバス停の名前が「庚申堂」である。南隣のバス停は旭橋で、これは玉川上水に架かっていた鎌倉街道の橋の名前である。

場所   杉並区下高井戸5丁目5-27

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2019年9月 6日 (金)

石橋地蔵尊(世田谷区下馬)

日大ラグビー部事件で世間は随分沸騰したが、最近その話題を聞くことは皆無になった。メディアは少し野仏でも眺めて自分たちを振り返ってもらいたいものである。当時、マスコミが殺到した場所のひとつが、日本大学危機管理学部スポーツ科学部のある三軒茶屋キャンパスであった。実はその近所に石橋地蔵尊がある。

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江戸時代には、道の発達とともに石橋による架橋が増加、洪水の時、人間の生き死にや村の存否に関わる石橋には魂が宿ると信じられ、新設や修復の普請に際しては、永久に壊れないようにと祈り、供養塔が盛んに建てられた。この石橋地蔵尊もその一つで、昔は岩橋地蔵尊とも言われた。石も岩も同じようなものである。砂は学問分野では砂は1/16㎜以上2㎜以下とされ、2㎜以上のものは石とされているが、石と岩は分類されていない。ちなみに1/16㎜以下は土である。

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この石橋地蔵尊、舟型光背型の地蔵立像で、宝暦4年(1754)の造立である。「奉納庚申供養石橋三所建立講中」と書かれている。すぐ近くに蛇崩川の暗渠があり、この道は薄橋で蛇崩川を渡っていたので、その橋と近くの橋の守護のために建てられたのであろう。この道は江戸時代の地図にもある道である。

周辺は下馬引沢村でも「原」という地域であったが、関東大震災以降多くの移住者があり人口が急増した。つい100年前まではのどかな農村地帯だったのである。

場所  世田谷区下馬2丁目15-7

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2019年9月 5日 (木)

西澄寺の石仏(世田谷区下馬)

三軒茶屋の東側、蛇崩川暗渠岸の駒繋神社の北西側にあるのが古刹の西澄寺。 始まりは弘法大師伝説、空海が諸国不況の折、この地へ薬師如来像を発見し整地と定めて薬師堂を立て、傍らにマキの樹を植えてその下に像を埋め再び旅立ったというもの。その後天文2年(1533)に高野山で修業した僧が薬師堂を中興し、江戸時代になると領主の加護を得て西澄寺が建立された。

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西澄寺には多くの石仏がある。それらをすべて紹介するわけにもいかないので、主だったものをいくつか。 両側に墓所の広がるまっすぐな参道を進むと山門をくぐる。この山門は武家屋敷門で、港区芝にあった阿波徳島藩須賀家の中屋敷門を、大正時代末期に移設したもの。25万石の風格を感じさせる門の先には鐘楼があり、その手前に水子地蔵をはじめとする4基の丸彫の地蔵がある。

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鐘楼に向かって右には3基の地蔵があるが、その一番左側の六十六部供養仏の造立年が興味深い。正面には天保15年(1844)再建とある。右面を見ると、明和9年(1772)願主安藤忠兵衛という銘と、文化2年(1805)横山氏再建立という銘がある。つまり30~40年おきに二度再建立されたのである。左面には「武刕荏原郡下馬引沢村」とある。どこがどう変わったか知る術はない。

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探していた石仏が見つからなくてうろうろしている時にたまたま住職がいらしたので聞いてみた。親切にいろいろと教えてくださった。墓所の中程に中山谷庚申尊の石碑があり、その一角に多くの石仏が並んでいる。先代の住職があちこちに散らばっていた石仏をここに集めたのだそうだ。中山谷は野沢から蛇崩までの尾根筋、今の学芸大学附属高校辺りを指す。

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中山谷庚申尊碑の脇にあるのは馬頭観音像。これは以前学芸大学附属高校南側の下馬中央公園の傍(下馬6-37-16)にあったもので、なくなったと諦めていたがここで出合えて縁を感じた。造立年は安政2年(1855)で下馬引沢の銘がある。

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その隣の大きな舟型光背型の地蔵立像は庚申供養のものである。右側に「奉造立庚申塔」とある。造立年は宝永3年(1706)とあるので、富士山大噴火の前年である。

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後にこじんまりと収まっているのは庚申塔。上部が少し低めだが、青面金剛像に邪鬼と三猿が描かれている。正徳2年(1712)造立の板状駒型庚申塔。 願主9人の銘がある。ちなみに中山谷庚申尊は最初学芸大学附属高校の南にあったと書いたが、そのあとはそこから少し西の下馬3-5あたりに移されたそうである。学芸大学附属高校は関東大震災後の開発で青山師範学校だったものが、戦後学芸大学になり、昭和の中頃から附属高校になった。

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その後ろには元禄8年の地蔵立像。ゼニゴケが下半分にまんべんなくついている。 右側には「念仏供養塔」とある。願主の名前がちりばめられている。男性の名前と女性の名前が半々という珍しいもの。名前を読んでいると面白いのは、「梅沢吉兵衛、同母、」などと書かれており、男には名乗る名前があっても女性にはなかった江戸時代の事情が見えてくる。

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そのさらに後ろには一度折れたものを補修した舟形光背型の聖観音立像がある。こちらは男の名前ばかりだが、この石仏も元禄8年(1695)の造立で、こちらは男性名ばかりである。

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沢山の石仏を堪能したのち、参道を戻る途中にある馬頭観音像に立ち止まる。この馬頭観音は造立年不詳。以前はこのならびに多くの石仏があったと住職は言う。 その方が個人的にはよかったが、先代の住職がまとめたのはそれなりの理由があったのだろう。

場所  世田谷区下馬2丁目11-6

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2019年9月 4日 (水)

駒繋神社の庚申塔(世田谷区下馬)

世田谷区下馬周辺には源氏伝説が多い。鎌倉時代の始まりの頃、源頼朝が奥州平泉の藤原氏征伐に向かう道すがらこの蛇崩川に差し掛かったところ、突然頼朝の乗っていた馬が暴れだし、沢の深みに落ちてしまった。頼朝達は馬を救おうとしたが馬はまもなく死んでしまった。 その馬を葬ったのが下馬の道路の真ん中に鎮座し車を左右に避けさせる葦毛塚である。

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頼朝は「以後この沢(蛇崩川)は馬を引いて渡るべし」としたので、馬引沢村の地名が生まれ、それが江戸時代に上馬引沢村、下馬引沢村に分かれ、その名残が上馬、下馬という地名になった。 また駒繋神社は明治時代からの神社名でそれ以前は子の神と呼ばれていた。

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神社の境内の下が蛇崩川の暗渠になっているが、そこに「こまつなぎはし」が架かっている。欄干の一方には「神橋」とも書かれている。頼朝が馬を繋いだという松は既に三代目になっているが、現在工事中で以前の場所には今回たどり着けなかった。頼朝がこの地に立寄ったのは文治5年(1189)というから古い話である。

愛馬を死なせた頼朝の前に、一人の老婆が現れ、馬の死という不吉を祓って選奨を祈るために、近くの子の神(ねのかみ)に詣でるように進言した。その後奥州征伐に成功した頼朝が帰りにお礼参りに立寄り、その時の馬を繋いだのが駒繋の松という伝説である。明治になり神仏分離が進んでから駒繋神社の名前になったのはいささかわざとらしい。

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神社の境内に1基の庚申塔が立っていた。山状角柱型で「奉納庚申供養」とあり、横に享保7年(1722)の造立年が彫られている。各面には多くの願主の名前がある。神社の場合庚申塔は隅っこにあることが多いが、この庚申塔は参道の傍にある。文字塔なので、廃仏毀釈の時に捨てられずに済んだのだろうか。

場所  世田谷区下馬4丁目27-26

 

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2019年9月 3日 (火)

東山谷庚申・お猿庚申(世田谷区下馬)

通称お猿庚申尊、またの名を東山谷庚申尊というお堂である。江戸時代までの道筋としては、蛇崩川の北側に芝溝道(芝道)が三軒茶屋から目黒方面へと東西に走っていた。下馬の南側には品川用水が西から東へ流れ、用水沿いに用水道が通っていた。それを南北につなぐ道が、東山谷道と中山谷道である。二つの道の間には蛇崩川の支流が北へ流れていた。下馬4丁目(戦前は中三谷地区)と5丁目(戦前は東三谷地区)の境は谷筋になっているが、それがこの支流筋にあたる。

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お猿庚申は最初からここにあったわけではない。お猿庚申本体は昔は大教寺墓地の角にあったといい、庚申塔は昔、東山谷の中程にあったというが、現在その場所を特定することは難しい。現在の大教寺は国道246号線と山手通りの交差点に近い、日本地図センターの近くにある。大教寺の歴史を見ると、まず下高井戸に創建、後の正徳3年(1713)に下馬引沢村へ移転、明治28年(1895)に現在の目黒区青葉台に移っている。江戸時代から明治にかけての場所は現在の下馬1丁目20の辺り、三宿からの通りと蛇崩からの通りの交差点の南側である。従って、お猿庚申は中山谷にあったのである。

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そのお猿庚申、庚申塔としては極めて珍しいタイプである。造立は寛文11年(1671)と江戸時代初期のもの。上部は猿像で、土台には「為庚申待供養也」とあり、武刕荏原之郡(下)馬引沢村、願主10人の銘がある。これが御幣猿かどうかは分からないが、後の時代の御幣猿像は池尻庚申堂に大正元年(1912)のものがある。 しかし他の場所ではほとんど見かけたことがない。

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中山谷から移された猿像の庚申塔を中央にして、向かって左側には見事な庚申塔がある。駒型で、青面金剛像と三猿の図柄。こちらは元禄7年(1694)の造立である。年号の下に、施主であろう思本久右門と銘がある。下には10名ほどの名が刻まれている。

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お猿庚申の右側には自然石のまま角柱風に加工した「南無青面金剛尊」と彫られ石塔があるが、これについては何もわからない。それほど古いものではなさそうである。

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その足元にある周りが欠損してしまった庚申塔が面白い。元の形は分からないが、角柱が折れた後削れたのではないかと思う。文字は欠けているが「庚申供養」が中央の文字だろう。左は荏原郡下馬引沢村。面白いのは「下」という字が後で取ってつけたように彫られている事である。右を見ると、癸亥(みずのとい)11月とある。

江戸時代の癸亥は1623、1683、1743、1803、1863の5つがあるが、後で「下」を取ってつけたとすると、馬引沢村が上馬引沢村と下馬引沢村に分かれた頃ではないかと推測できる。その時代は寛永年間(1624~1643)とされているので、おそらく5つの造立年の中では最初の1623年(元和9年)の可能性がある。ただし、あくまでも推理上の話である。世田谷で庚申信仰が広まったのはもう少し後の時代と考えられる点で、区の教育委員会もそういう説は一切載せていない。

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しかしここには板碑の上部もある。 元禄7年の庚申塔の土台の前に埋まり掛けるように置いてある。板碑は鎌倉時代から室町時代くらい、西暦でいうとほぼ1200年代から1500年代まで造られている。そして江戸時代以前には「申待」とか「庚申供養」とだけ書かれた文字塔も多い。この辺りには鎌倉道も通っており、頼朝伝説も残っている。こういう石碑石仏を作る文化が鎌倉時代からあった可能性がある。

そうすると上の庚申塔は、一猿、三猿そして青面金剛に移行する前の黎明期のものである可能性がゼロではない。たかが石だが、400年前のことを想像することにはとても深いロマンがある。

場所  世田谷区下馬5丁目25-17

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2019年9月 2日 (月)

鬼子母神堂の石仏(世田谷区野沢)

さて、根岸邸の鬼子母神堂境内にある石仏群だが、まずこの草庵の名前が書かれた新しい石碑が鬼子母神堂の右側にある。そこには「馬引澤水神」と「野澤山正徳寺」という二つの名前が書かれている。

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一体どっちなんだろうと思ったが、両方なのだろう。もともとは水神様があり、ここにお堂を立てて正徳寺としたのではないかと思われる。もっともこの石碑は昭和44年のもの。では、左手前から石仏群を見てみたいが、その手前に五輪塔に似た石積みがあるのが気になった。ただしそれが何なのかは全く分からない。

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最初にあるのは観世音菩薩立像。 文字は全く見当たらないので年代も不詳である。平成5年(1993)の取材をもとに書かれた『ふるさと世田谷を語る』の野沢の項の写真では同じ位置に各石仏が並び、この観世音菩薩像はゼニゴケだらけだった。 後にきれいにしていただいたのだろう。

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その脇にはなんだかわからない石仏がある。実はこれ、平成5年の上記の野沢の項ではちゃんと首がある地蔵座像のように見える。過去何度か首が取れたのだろう。 首にボルトが打ち込まれているので、新たな頭部を作って修復したが再び壊されたような感じである。根岸家の看板の「わるいこと」というのと何か関係があるのだろうかと疑ってみる。

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その隣にあるのは角の取れた、おそらくは自然石であろう馬頭観音である。この馬頭観音は嘉永6年(1853)の造立。 世田谷の馬頭観音としては江戸時代のものはあまり多くない。その向こう側には庚申塔。造立年は不詳である。 「庚申」としか彫られていない。

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左の列のうちでもっともお堂に近いところにあるのがここでは最大の廿三夜供養塔である。高さは113㎝ある。造立は寛政6年(1794)である。下部には女人講中とあり、二文字の女性名が並ぶ。「タウ、セン、ウメ、ハナ、ステ、タメ、ミワ、セン」とあり、興味深い。江戸時代の女性たちの名前はそんな感じだったのかと感心する。

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お堂の前には「大乗妙典供養」と書かれた供養塔がある。これが最も古く、造立年は宝暦10年(1760)。施主は尾渕家の3人の名前がある。大乗妙典は法華経の経典の事で、正式には「妙法蓮華経」というが、読んでいたお経を読経にとどまらず読誦(ドクジュ)塔に刻む時代もあった。特に法華経関連に多い。それぞれの時代にいろいろなバリエーションがある。

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右側にはただ一つ、聖観音像がある。 これも何も書かれておらず、時代も不詳である。

ところで野沢の水神の伝説がある。

品川領戸越の里に4万5千坪の抱屋敷をもらった若狭守が、屋敷の庭の池の用水として玉川上水から引水をしたのが品川用水の始まりである。工事を進めるうちに野沢の辺りまで達した時に、急に水の流れが消えてしまうという現象が現れた。掘っても掘っても水は消えていくうちに1年が過ぎた。そこで皆で水神様を祀り祈ると水が復活した。そして7里(28㎞)の工事は無事に完成したという。

人々はこの水神様を、ドンドン水神様と呼び、正徳寺内に移して手厚く祀ったそうである。ちなみに水神様のご神体は白蛇らしい。

場所  世田谷区野沢3丁目10-20

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2019年9月 1日 (日)

野沢水車と根岸邸鬼子母神堂(世田谷区野沢)

かつての品川用水は上馬から環七の筋を南下し、野沢交差点で斜め左に向かう道筋に沿っていた。その先は学芸大学駅の北を二子道に沿って流れ、戸越方面を潤していた。しかし世田谷区周辺の農民は品川用水の恩恵をあまり受ける事が出来なかった。明治に入り、明治22年(1889)になると野沢村、上馬引沢村、下馬引沢村、弦巻村、世田谷新町、深沢村が合併し、駒沢村が出来た。 そして明治29年(1896)に初代村長谷岡氏により、品川用水の水を引き入れた野沢水車が設置された。

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水車は大正9年(1920)に落雷を受け焼けてしまったが、その後大規模に再興し、直径10mの巨大水車になったという。当時の技術力も凄いものだが、昭和の初期に書かれたという上の絵の水車はいささか小さめに描かれているようだ。

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現在ここにあるバス停の名前が水車橋。 しばしばバス停は歴史をその名に残してくれる。ところでこの水車の大工事に際し、土を掘り下げていくと土中から7体の人骨が出てきたという。そこで村人はその霊を慰めるために「南無妙法蓮華経」を7万回写経し、そのうち3万を水車の棟木に、3万を近くの正徳寺の一部に納め、残りの1万を品川用水に流して施餓鬼供養をしたと伝えられる。

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寛文4年(1664)に品川用水の通水祈念のため建てた馬引沢水神が今も根岸家によって守られている。 マンション裏の階段を上って辿り着く、普通は誰も入らない場所だが、多くの石仏が並んでいる。関東大震災の時に用水の土手が崩れたのをきっかけに、品川用水は閉鎖され、昭和になると暗渠化された。しかしこのお堂(鬼子母神堂)は今も健在である。

お堂の境内に入ると、根岸家が書いた看板が目に留まる。「子供さんたちにお願い・・・。この場所は日蓮上人と鬼子母神というありがたいみ仏様がお祭りしてあるところです。この場所で悪い事やいたづらをするととてもおそろしい事が君達におこります。おまいりしてお願いすると良い事があります。今日からはよい子になりましょう。 根岸」

現代の子供はこんなところで遊ばないだろうが、中学生くらいのワルなら来るかもしれない。恐れを知るというのは人が生きる中でもっとも大切なことのひとつだから、根岸家の言葉を誰かがかみしめてくれたらありがたい。ちなみにこの鬼子母神堂、地図には野澤山正徳寺とある。

場所  世田谷区野沢3丁目10-20

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2019年8月31日 (土)

浦村宅庚申塔(目黒区八雲)

昨日アップした目黒区東が丘の五十嵐宅庚申塔から南へ700mほどの住宅街に場違いな感じの庚申塔がある。目黒区では「浦村宅庚申塔」としている。 環七の二本松のあった野沢交差点(現在二本松はない)から南へ下る柿の木坂通り、駒沢通りの柿の木坂交差点を過ぎて数ブロック先にある。 傍に今では珍しい公衆電話もあるのでそれを目印にしても良いかもしれない。

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この庚申塔、実はとても古い。板碑型で、寛文3年(1661)の造立。目黒区内でもトップクラスの古さである。板碑の文字は読みづらいが、箱?の内側に「庚申供養二世安楽為也」と書かれている。この路地状地の奥にある大きなお宅が浦村さん宅なのだろうか。これもまた頭の下がることである。 この庚申塔は環状七号線の工事の折に、上馬からこちらに移されたと言われる。

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立派な堂宇ではないが心がこもっているのが分かる。この辺りは江戸時代は衾村だが、庚申塔が元あったというのは衾村と碑文谷村、もしくは野沢村の村境である。現在の環七通りは江戸時代は堀ノ内道と呼ばれ、高円寺の南、妙法寺辺りが堀ノ内村で、そこと池上本門寺あたりを結ぶ街道であった。そのため堀ノ内道周辺には多くの石仏が残っていたようだが、もう数は少なくなってきている。

場所   目黒区八雲4丁目3-2

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2019年8月30日 (金)

五十嵐宅庚申塔(目黒区東が丘)

世田谷区野沢と目黒区東が丘の街境の西半分は環状七号線ではなく細街路で区分けされている。 この細街路は江戸時代からある道で「二子道」と江戸時代には呼ばれていた。碑文谷村から野沢を通り駒沢で大山道に合流する。江戸時代は野沢村と深沢村の村境であった。境で古道とくれば大概何らかの石仏がある。

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五十嵐建設という看板のある家の脇に庚申堂が立っている。 目黒区では「五十嵐宅庚申塔」としている。貴重な石仏を守っていただいており頭が下がる。この辻から南へ下る脇道も江戸時代からの道。ここから南下すると呑川を渡る事になる。当時は衾村(現在の碑文谷あたり)へ繋がる道だった。呑川もここいら辺りは上流だが、それなりに谷を刻んでいて、呑川筋は10m近く低くなっている。

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堂内には二つの庚申塔。 右の大きい方は板碑型で三猿のみの図柄。 造立年は延宝4年(1676)とかなり古い。うっすらと「妙法奉寄進庚申供養」と読めた。左の庚申塔は駒型で青面金剛像と三猿らしき形は見えるものの風化が激しくて文字などは全く分からない。年代も不詳である。

昭和初期の手書きの地図が世田谷区の史料に残されている。そこにはこの場所に「五十嵐大さん、石地蔵」と書かれていた。ここから東に向い環七に出たところ、現在は東京ガスの野沢四丁目整圧器室という設備がある所には道標の石地蔵と二本松があったとも描かれている。こちらの地蔵尊は資料によると野沢龍雲寺に移設されたとある。Web上の写真を見ると並ぶ地蔵の中に大きな土台に「世田ヶ谷道 堀ノ内道」と書かれた地蔵座像があるのでレポートしたい。

場所  目黒区東が丘1丁目12-19

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2019年8月29日 (木)

野沢稲荷神社の庚申塔(世田谷区野沢)

環七通りに程近いところにある野沢稲荷神社。創建の年は不詳だが、江戸後期の地誌である『新編武蔵風土記稿』には、江戸時代から野沢村の中心に稲荷があったと記されている。また、庚申塔の存在も記述があり、江戸時代から神社も庚申塔もここにあったことがわかる。

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野沢稲荷の鳥居前から北に進む。神社の境内の北の角に樹木に囲まれた階段、その先には庚申塔の堂宇があるのだが、訪問時は樹木の生い茂り方が半端なかったので、枝をくぐっての庚申塔参拝になった。

野沢村は、正保年間(1644~1647)に荏原郡六郷領沢田の田中七右衛門と、葛飾郡葛西領の野村次郎右衛門が入籍して開墾開発し、万治年間(1658~1660)に馬引沢村から独立した。その時に七右衛門の来た沢田と、野村の最初の文字を取って野沢村にしたという。しかし現在の環七の筋を流れていた品川用水の取水は認められず、細々と畑作をしていた。

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庚申塔は駒型で高さは1mほどある。青面金剛像に邪鬼、三猿が現在もまだくっきりとわかる保存状態の優れたもの。造立年は元禄8年(1695)と300年を超えている。左側に「野澤村」と彫られているので、元禄時代には既に村として成立していたことがわかるが、元禄時代の戸数は僅か7軒だったという記録も残っている。東京の環七の内側だが、300年前は開墾してやっと畑が造れるようになった村だったというのが、歴史を感じさせる。

場所  世田谷区野沢2丁目2-13

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2019年8月28日 (水)

上馬宗円寺の石仏(世田谷区上馬)

上馬交差点と言えば国道246号線と環七の立体交差。環八では国道246号線との瀬田交差点が8.5万台でトップだが、環七になると国道246号線との上馬交差点は第4位の7.2万台、1位は甲州街道の大原交差点の9万台に続き、大森東(第一京浜)、大和町(中山道)の次になる。それでもやはり凄い交通量である。そんな上馬交差点のすぐそばにあるのが宗円寺。

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広い寺ではないが、宗円寺が特別なのはここには世田谷区最古の庚申塔があることであろう。宗円寺の創建は慶長元年(1596)と言われるが、世田谷区の説明板には文保元年(1317)に小さな草庵が始まったということが書かれている。元は馬引沢村の八幡として始まったものらしい。

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山門を入ると寺の狭さが感じられるが、すぐ左側には延喜元年(1744)の地蔵菩薩がある。台座に「地蔵講中為二世安楽  世田谷上馬引沢村願主西念」とある。西念は僧の名前だろうか。 右側には「宗円九世来山叟代」とある。「叟」は老人の意である。それぞれのつながりはよく分からないが、江戸時代寛永10年(1633)に中興されているが、明暦の大火(1657)後に浜町から築地に移転、関東大震災(1923)被災後、昭和4年(1929)に現在の地に移ったとあるが、明治時代の地図にもここには宗円寺が描かれているので、どうもつじつまが合わない。

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山門をくぐって右側にあるのが、世田谷区最古の庚申塔である。三猿のみの図柄の板状駒型の庚申塔で、造立は明暦4年(1658)である。三猿の上が色が違って見えるのが気になった。もしかして青面金剛像か文字が描かれていたのだろうかと想像してしまう。世田谷区最古にしてはそっけなくサカキ(と思われる)の間におとなしく収まっている印象。他の区でも明暦以前はまずない。都内で最古は根津神社の寛永9年(1632)のものと言われるので、庚申信仰初期のものというのは間違いない。

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その傍らには聖観音立像があるが、これも古い。造立は寛文2年(1662)である。願主に白井利兵衛他同行15人とある。この像もさらっと置いてある感じはこの宗円寺の魅力でもある。

江戸時代から昭和初期まで、ここには品川用水が流れていた。品川用水は武蔵境で玉川上水を分水し、現在の戸越公園まで水を引いた寛文9年(1669)完成の用水である。戸越公園は寛文年間頃、熊本藩主細川家の下屋敷であった。きっかけは細川屋敷だったのだろう。しかしそれ以上に戸越周辺の灌漑用水が必須であった。明治時代まで水を盗んだという争いが絶えなかったようである。

場所  世田谷区上馬3丁目6-8

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2019年8月27日 (火)

小坂緑地の庚申塔(世田谷区瀬田)

国分寺崖線には名所が多い。 二子玉川は高島屋を中心としたショッピングゾーンだと大多数の人は思っているだろうが、実は国分寺崖線を背景に見どころが極めて多い。 そのため江戸時代から行楽地として人気を博し、多くの著名人が崖線に別荘などの施設を造った。美術館で有名な静嘉堂緑地もその一つ。三菱財閥二代目の岩崎彌之助、四代目岩崎小彌太のコレクションが収まる美術館の周りには、ジョサイア・コンドル設計の霊廟が立ち、森の一角には民家園があったりして、芸術派にも自然派にも良い。

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静嘉堂の門の向かい側にも崖線の緑地が広がっている。こちらが小坂緑地である。北側に馬坂、南側にとうかん坂があるが、このとうかん坂の階段を上るとここが崖線であることを体感できる。小坂緑地は旧小坂家住宅に付随する庭園で、衆議院議員であった小坂順造氏の別邸として使われていたもの。都心から玉電で行くリゾート地だったのである。

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庭園を入ると2基の庚申塔が目に入る。 左側はとても大きな唐破風笠付の角柱型庚申塔。 青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており、宝永5年(1708)の造立である。願主15人の銘もある。 もう1基は中型で一猿のみのデザイン。こちらは元禄2年(1689)とさらに古いもの。

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この2基の庚申塔はもとは六郷用水よりも多摩川寄りの玉川4丁目36にあった幽篁堂庭園にあったもの。昭和初期に築造された幽篁堂庭園は幾度も所有者を変え、東京五輪前には不二サッシ(株)の関連会社の所有になり、再び迎賓館として作庭され、多くの石造物を有していた。平成13年(2001)年にはその庭園も廃止になり、石造物は他所に移されたが、この2基は世田谷区に寄贈されここに設置されたというのが経緯である。

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小坂緑地から南に下ると丸子川(六郷用水)を下山橋で渡る。その南の一角に新しいマンションがあり、遊歩道に囲まれているが、その遊歩道の一角に幽篁堂庭園という石標が立っている。二子玉川がショッピングゾーンではなく、ブルジョア層のリゾート地であった歴史をこの石標から感じられれば、時空の旅を経験できるかもしれない。

場所  世田谷区瀬田4丁目41-21

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2019年8月26日 (月)

教習所前の庚申堂と地蔵(世田谷区玉川)

二子玉川の多摩堤通りにコヤマドライビングスクールなる巨大な自動車学校がある。還暦を過ぎた私たち世代には想像もできないが、いろんな車がありAudiやBMWなど好きな教習車を選べるコースなどがあったりする。少子化に伴って教習所も随分と変わったようである。 コヤマドライビングスクールの多摩堤通りの反対側に確か庚申塔があったと探してみたが植込みに埋まってしまっていた。

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植込みの裏に回り込んでみると倒壊し架けた堂宇があり、その中に庚申塔が堂宇を支えるように屋根の下の力持ちになっている。残念である。この庚申塔、板状駒型で青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。土台には願主の名前が並び、造立は享保13年(1728)と極めて貴重なものである。何とか再建ならないものか。 コヤマドライビングスクールなら、東京都トップをひた走る都内No.1教習所だから、交通安全を祈願して堂宇の建替え等は爪のアカ程度の費用でできると思うのだが。
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その50m二子玉川寄りにはこちらも垣根の隙間に地蔵尊がひっそりと立っている。高さ70㎝程の地蔵立像と、その向こうには時代を感じる30㎝程の自然石に彫られた地蔵らしき石仏が並んでいる。文字は全く読めない。世田谷区の史料を探したが情報はまったく見つからない。近代の開発の波にのまれて消えかけているような印象を受ける地蔵である。
場所
地蔵  世田谷区玉川3丁目29-5
庚申塔  世田谷区玉川3丁目29-9

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2019年8月25日 (日)

二つの大山道道標(世田谷区玉川)

瀬田から二子玉川にかけての大山道は二つのルートがあったことは以前にも書いた。用賀駅南の延命地蔵尊で左右に別れて、西の慈眼寺ルートと日東の行善寺ルートがあったのである。世田谷区の製作したパンフレットの一部を使わせていただいたのが下の図である。

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暴れ川多摩川なので、ある時代は上の図の二子の渡しがある時代は兵庫島近辺にあったりしたようだ。一方多摩川に沿って国分寺崖線下を青梅から大田区六郷まで通っていたのが「筏道」。こちらは江戸の街に木材を供給する為に、奥多摩の材を筏にして多摩川を下り、六郷で江戸の商人に受渡した筏師が3~4日かけて青梅に戻る道で、世田谷区辺りはほぼ国分寺崖線下に沿うように通っている。

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慈眼寺ルートの慈眼寺坂を下り、丸子川にかかる治大夫橋を渡ると交差点の角に石碑がある。「右 むかし 筏みち」そして「むかし 大山みち」と彫られている。治大夫橋は以前は車道と歩道の高さが違い、舗道は数段の階段を上って越えるようになっていたが、2010年頃架け替えられた。丸子川は江戸時代に狛江市の水神社辺りで多摩川の水を取水し、二子玉川、田園調布を流れ大田区の水田を潤していた。この場所が大山道と筏道の江戸時代の交差点である。

世田谷区では掘削をした代官の名を冠して次太夫堀、また女性も工事を手伝ったとして女堀、全体としては六郷用水といろいろな名前を冠している。現在の河川法では丸子川という川名になっている。始まりは慶長10年(1605)の徳川家康の小泉次太夫の六郷用水・二ヶ領用水の開削命令。両用水は数年で完成した。

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行善寺ルート側にあるのは古い道標。立派な石組のコンクリート製の台座に載せられ、ガードレールまで付いている。道標はとちゅう2ヶ所中折れした痕跡があるが、この道を走る車に当てられたのだろうか。それで立派な土台になったのではないかと思う。横を流れるのは丸子川(六郷用水)で、この道がかつての筏道である。

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左の道標は、安永6年(1777)の造立。瀬田村の庚申講中が建てたものである。「南 大山道」と中央にあり、「左 西 赤坂道」「右 東 目黒道」とあるが、赤坂道は三軒茶屋、渋谷、青山を経て赤坂見附御門に至る。目黒道は上野毛通りから目黒行人坂に至る道である。 右の小さな石碑はかなり短くなってしまっていて上部のみが残った状態。 富士講碑と言われている。 東、南、西の文字が見えるが下は分からない。これも同様に道標を兼ねていたのだろう。

場所

治大夫橋脇の石碑  玉川4丁目10-15

行善寺ルートの石碑  玉川2丁目13-5

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2019年8月24日 (土)

法徳寺門前の庚申塔(世田谷区瀬田)

法徳寺は瀬田にある浄土宗の寺院。行善寺坂を下る途中に東に登る行火坂がある。 この行火坂を上った先にあるのが法徳寺である。永禄元年(1558)の開山。 行火坂のページでは瀬田の白井氏が開いたと、極めて簡素に書いた。瀬田の白井氏というのは戦国時代の古河公方系列のさらに家臣が土着して寺を開いたもの。公方というのは、もともと皇族を指したが、そのうち権威ある武将も公方と呼ばせるようになり言葉遣いとしては混乱をきたしている。

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法徳寺には江利チエミの墓があるというが墓所に行ったことはない。 江利チエミの全身を模ったような墓石らしい。私の年代にとっては実写版「サザエさん」で通っている。高倉健と結婚していた。多彩なタレントだったが45歳でこの世を去った。残念である。

そんな法徳寺の門前向かって左側には多くの墓石(地蔵立像など)が積み上げられているが、その一番上に駒型の庚申塔がある。造立年は不詳。青面金剛像と三猿の図柄で、7名の願主とともに瀬田村の銘がある。

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法徳寺とは似ても似つかないのが隣接するSt.Mary's International Schoolである。いわゆるアメリカンスクールで、昔は結構な米国人の悪ガキがいたが、最近はおとなしくなっているらしい。東京にはいくつものアメリカンスクールがあるが、クリス・ペプラー、マイケル富岡、桐島ローランド、ダン野村(メジャーリーグの日本人選手の代理人)らが通ったそうである。

そういえばそのすぐ北側には就任中に亡くなった大平正芳首相の家もあったことを思い出した。

場所   世田谷区瀬田1丁目7-7

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2019年8月23日 (金)

行善寺と境内の石仏(世田谷区瀬田)

大山道の西が慈眼寺ルートならば東は行善寺ルート。 こちらも国分寺崖線の崖上にある寺院。門前にある説明書きによると、開山は永禄年間(1558~1569)というから織田信長が勢力を広げ室町幕府を倒した時代。 ただし慈眼寺と同じく、当所は崖下にあったが、寛永年間(1624~1644)に崖下から台地上へ移転したと伝えられる。当時は多摩川の氾濫が度々起こり、人々は徐々に台地上の開墾を行うようになって瀬田村が開発されていった。

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行善寺の標高は35m、目の前の道路が行善寺坂だが坂下は14mだから、20m以上の高低差がある。そのため多摩川方面の眺望に優れており、江戸時代から風光明媚な景勝地として人気があり、徳川11代将軍家斉、12代家慶、13代家定らが好んで立ち寄ったという。 その行善寺八景とは、瀬田の黄稲、岡本の紅葉、大蔵の夜雨、登戸の晩鐘、富士の晴雪、川辺の夕烟、吉沢の暁月、二子の帰帆の八景というが、その出処の成島司道の『玉川遊記』については全く知らない。

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瀬田の黄稲、岡本の紅葉については秋に広がる風景として想像できる。また富士山が望めることもわかるが、まあ江戸時代に風流を感じられる場所だったということであろう。現在も本堂裏手からの展望はあるが、高島屋が大きすぎて興趣を欠く。また夏は下草が伸びていて展望が悪いので、冬の空気がきれいな時期に富士を眺めるのが良いかもしれない。

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墓所入口にはいくつもの石仏がある。六地蔵は享保5年(1720)の造立。 台座の文字については、一番左の地蔵は「瀬田村下中通り 女念仏同行22人」、次が「念仏同行 19人」、3番目が「念仏同行22人 下中通」、4番目は「念仏同行19人」、5番目が「念仏同行19人 瀬田村」、一番右は「念仏同行19人」とある。あちこちの念仏講でまとまって造立したのであろう。

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六地蔵の後ろには地蔵立像が並ぶ。後列左側の地蔵立像は、延宝4年(1676)のもの。「為二世安楽念仏供養 武刕荏原郡之内瀬田村」とある。真ん中の子育地蔵は新しい。 右側の地蔵立像はこれも左と同じく舟型光背型で寛文7年(1667)と古い。 「奉造立庚申供養 武刕荏原郡 瀬田村」とあるので庚申講によるものだが、この年代は貴重である。

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また境内には猫塚という石碑がある。別に行善寺は猫寺ではない。明治から昭和初期にかけて、二子玉川は鮎釣り場としての人気が高く、加えて多摩川の舟遊びと土手の花街の賑わいがあった。 以前は富士観会館という結婚式場があった辺り(現在はマンション)は土手の川側に含まれ、多摩堤通りにある堤防の外になっているが、そこが花街だった。

その花街では三味線が使われ、三味線のために皮をはがされた猫の供養にと料亭街の中に猫塚が築かれた。それを後に行善寺に移したものである。富士観会館がなくなった時に、二子玉川は普通の街になってしまったような感覚があったが、玉電が終わった時に住んでいた人は同じような気持ちだったのだろう。

場所   世田谷区瀬田1丁目12-3

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2019年8月22日 (木)

慈眼寺門前の庚申塔(世田谷区瀬田)

江戸時代大山道は二子の渡しで多摩川を渡るのに瀬田の延命地蔵尊から、「慈眼寺ルート」と「行善寺ルート」という二つの道に分かれていた。玉川は暴れ川でしばしば流れを変えていたので、時代によって渡し場が移動したために二つのルートが出来たという。 西側のルートが慈眼寺ルートである。慈眼寺は隣りの玉川神社と並んで、このルートのランドマークでもある。

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道が国分寺崖線を下り始めるところに笠付の立派な庚申塔があり、ここが慈眼寺の参道。唐破風笠付の角柱型庚申塔は元禄10年(1697)の造立。青面金剛像と三猿の図柄で、願主16人の名前と荏原郡瀬田村の銘がある。 慈眼寺は徳治元年(1306)の開基、瀬田村で最も古い寺院である。初めは修験の地で小堂が崖下にあったが、天文2年(1533)に崖上に移転し、真言宗喜楽山教令院慈眼寺となった。

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向かって右に並ぶのは、駒型の庚申塔で摩耗が進んでいるが、青面金剛像と三猿の図柄で、造立年は享保16年(1731)とある。 その隣りは、馬頭観音で、こちらは新しく大正11年(1922)のもの。願主は中嶌忠次の銘。 この庚申塔から右にターンすると、慈眼寺の山門がそびえる。

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本堂と山門は戦後昭和50年(1975)に建て直されたものだが、とても立派できれいである。前後に四天王が配置されている。境内に入ると、本堂まではこじんまりとした感じだが、左手から墓所に入る部分にはいくつもの古い石仏がある。その中で、無縁仏のまとまりの頂上部に、墓石に混じってその中心として地蔵立像が置かれている。

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地蔵立像の造立年は元禄9年(1696)。「念仏供養現世後生二世安楽所 武刕荏原郡瀬田村」とある。 「女人同行16人」とも記されているので、女念仏講中で建立したものだろう。 いつも不思議に思うのだが、江戸時代中期の石仏は傷みが少なく保存状態がいいのに、明治大正期のものは摩滅がひどいものが多い。 材質にもよるのだろうが、やはり江戸時代の技術は凄いものがあったのだろうと思わざるを得ない。

場所  庚申塔  世田谷区瀬田4丁目11-25

       慈眼寺  世田谷区瀬田4丁目10-3

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2019年8月21日 (水)

大山道道標と旧陸軍標石(渋谷区代々木)

参宮橋駅を降りる。はて参宮橋とはどこにあるのだろうと思い探してみると、川を渡る橋ではなく、西参道が小田急線を渡る跨線橋が参宮橋だと知った。甲州街道から西参道に入るとすぐに広い道路の左右に大きな灯篭がある。大正9年に建てられたもので、甲州街道から玉川上水を渡った直後にあった。この初台側には当時、京王線の神宮裏駅があった。そこから500mほどで小田急線を越える参宮橋である。ただここにはそれ以前から代々木練兵場への連絡道路として広い道が既にあった。その東側にある、文化学園大学脇から南下してくる道が江戸時代からの道である。

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この古道が小田急線を渡るところに小糸邸があり、その入り口の植木に囲まれて大山道の道標が立っている。ここから現在の富ヶ谷(渋谷川支流の宇田川が谷を形成)を越え、東大駒場キャンパスを南北に貫いて、瀧坂道から大橋に下り厚木街道(大山道)に合流していた。道標の高さは141㎝とかなり高い。

正面上部には天狗が2面、大山石尊大権現と中央に彫られ、右に大天狗、左に小天狗とある。使用によると、左側面には「左 目黒不動尊 祐天寺」、右側面には「右 相州大山 北沢淡島」、弘化3年(1846)の造立とある。願主は、小糸弥兵衛氏の銘。

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もう一つ、気になっていたものがあり、それは参宮橋の上りホームと道路の間の鉄柵脇に立つ「陸宮省所轄…」とある標石である。調べてみると、江戸城や江戸の街に詳しい黒田涼氏の『大軍都 東京を歩く』に載っている。現在国立オリンピック記念青少年センターがあるところは、時代のうねりに伴って変遷している。江戸時代は大部分が農地と農家で主に茶畑が広がっていたが、明治40年(1907)に陸軍の代々木練兵場になった。この段階で明治神宮はすでに御料地であった。まだ小田急はなく、電車が通るのは昭和2年(1927)のことである。

1945年に終戦を迎えると、この場所は進駐軍に占拠された。代々木公園も含めた広いエリアがワシントンハイツと呼ばれる米軍宿舎である。それが日本に戻ってきたのは東京オリンピックを迎えて、ここに選手村を作った1964年であった。それまで南は現在のNHKに至るまでが米軍の住居になっていたのである。オリンピックが終わってからは、選手村の事後活用として宿泊施設が残されて現在に至っている。

歴史を踏まえて、明治神宮の森を眺めてみると、平和な茶畑~陸軍練兵場で厳しい訓練を受ける兵士たち~異国の地を楽しむ米兵の広大な街~世界のアスリートが集まる選手村~現在という、大きな変化が瞼に映る。

場所  大山道道標 渋谷区代々木3丁目42-7

        陸軍省所轄の標石  渋谷区代々木4丁目6-7

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2019年8月20日 (火)

瀬田の弁財天と馬頭観音(世田谷区瀬田)

この場所を見つけるのはスマホ出現前なら至難の業だった。 最近はGoogle Mapなど、便利なアプリケーションが進化して、正確に目的地に辿り着けるだけでなく、事前の準備確認もかなりの精度で行えるようになった。野仏散策にはとてもありがたいことだが、たまに行ってみてなくなっていたりして、そんな些細なことにも喜怒哀楽があるが、野の仏は「まあまあ気を楽に…」となだめてくれる。

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瀬田は40年くらい前までは農地の多い地域だった。東京インター(用賀インター)が出来てから、多くの小売店や飲食店が出来て現在は様変わりしているが、当時は大地主が沢山いた。その名前には並んでいなかったが、この野仏を守っておられる西尾家には頭が下がる。隣地にはまだまだ広い畑があり、生産農地として機能している。

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左の馬頭観音は大正6年(1917)3月の造立。願主は当時の当主であろう西尾権太郎氏である。右の弁財天はもっと古く、天保7年(1836)11月の年号が記されている。こういう野仏が一番心を和ませてくれる。いつまでも守っていただけると嬉しい。

場所   世田谷区瀬田5丁目11-28

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2019年8月19日 (月)

代々木八幡福泉寺の石仏(渋谷区代々木)

代々木八幡神社に隣接する寺院が福泉寺である。代々木八幡の創建は建歴2年(1212)、鎌倉時代初期だが、東隣の福泉寺は創建年は同年(1212)、また正保元年(1645)に紀伊殿の妾である円住院が中興、浄土宗から天台宗に改めたという記録があるが、代々木八幡と同じ時期に草庵から始まったとみていいのではないだろうか。 ちなみに小説家の平岩弓枝は代々木八幡の宮司の娘である。

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代々木八幡神社の参道が左に曲がっているところをまっすぐ行くと福泉寺、その路傍に庚申塔が並んでいる。明治時代に神仏混淆(しんぶつこんこう)が禁止されるまで、代々木八幡宮と福泉寺は兄弟のようにしてきたが、その後もお上はお上で、我らは我らという具合に、関係を保ってきたような様子が感じられる。明治政府の神仏分離、廃仏毀釈は史上稀に見る悪政だが、それでも寺がこういう野仏を守ってきたことには有難みを感じる。

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一番左にあるのが三猿のみの庚申塔。 三猿のみというのは意外と例が多い。この庚申塔は日月と三猿だけ。真ん中に「奉造立庚申」とある。造立年は分からない。高さ78㎝と中くらいだが、ここの庚申塔はほぼこのサイズが並んでいる。

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二番目の庚申塔は正面金剛像がはっきりと描かれている。三猿も下に彫られている。 駒型で高さは77㎝。造立年は宝永6年(1709)だから、2年前の富士山の宝永噴火の影響の残る中で造られたものである。あまり知られていないが、宝永大噴火の1ヶ月ほど前には南海・東海連動の大地震が発生しており、マグニチュードは8.4だが、さらにその4年前には元禄大地震(震源地は千葉県野島崎、マグニチュード8.2)が発生し、地震と津波で1万人以上が亡くなっている。そういう地学的な時代背景を考えるとこの時代の民間信仰の野仏が多いのは納得感がある。

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三番目の庚申塔は光背型の地蔵立像である。右側に「庚申構中(講中の誤字)」とある。日本人は信仰もボーダレスなので、念仏講や庚申講、山岳信仰、仏教、神教などを容易に融合する。元に、クリスマスのあとは除夜の鐘、そして初詣と、なんでもありである。この地蔵立像の庚申塔は宝暦5年(1755)の造立。左側に外輪村の銘がある。

外輪村というのは村ではなく小字。今の代々木神園町、神宮前1丁目、千駄ヶ谷3丁目にあたる。江戸時代、その東側は隠田村だった。住んでいる人がいるかどうかは分からないが、場所でいうと代々木神園町は明治神宮と代々木公園である(調べてみたら100人余り住んでいる)。神宮前1丁目は原宿ラフォーレや竹下通りのある辺り。今は全国区の人気エリアだが、江戸時代は村の外れだった。

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四番目の庚申塔はこの中で最も新しく、寛政6年(1794)のもの。駒型で青面金剛像と三猿の図柄である。

代々木八幡と福泉寺の境内は東に河骨川、西に初台の沢、南に宇田川が流れる台地の突端。 しかもここだけが高い。標高は37mあり、小田急線の標高は21m、北側の道は32mなので、地形としては城郭っぽい。大昔は波打ち際で縄文人が生活をしていた場所だが、鎌倉時代以前には地方豪族もここに館を構えていたのではないかと推測したりするとまた面白い。まあ、遺品が出土していないので望み薄ではあるが。

場所  渋谷区代々木5丁目2-13

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2019年8月18日 (日)

田中地蔵尊(渋谷区元代々木町)

田中地蔵尊という地蔵堂が代々木上原駅の東側、代々木八幡駅との間にある。田中さんという人の名前が由来ではない。縁起によれば、元文3年(1738)に向井七左衛門という人が、五穀成就、庶民安楽、子供の延命を祈り、福泉寺領の田地に地蔵尊を安置したと伝えられる。この辺りは田んぼの真ん中だったから田中地蔵尊なのである。もっとも田中地蔵という名前は、寛政2年(1780)に奈良岡寺の観音像を模写し、各尊像の台座を新調してから定着した。当時、計谷は一本の杉を植えて目標としたというから、野中のお堂だったのである。

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ビルに伍して建てられている存在感のある堂宇である。向かって左後ろは延命地蔵尊で、高さは72㎝、後部真ん中は鶏亀地蔵で同じく72㎝の高さ。武蔵国豊嶋群代々木村の銘がある。 後右は如意輪観音像、念仏四千六百八十万辺 供養とあるので、念仏講(百万遍)の講中によるものであろう。

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手前右側の丸彫の地蔵座像、手前左側の舟型の地蔵立像も合わせて、造立年は元文3年(1738)とされている。なお、渋谷区教育委員会の掲げた説明板とは手前の左右の地蔵が逆になっている。複数基が入った地蔵堂の場合よくあることである。

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地蔵堂手前左には石碑と庚申塔がある。石碑は元文3年のものだが、庚申塔は享保10年(1725)とちょっと古い。きれいに維持された庚申塔で、青面金剛像、邪鬼、三猿がくっきりと見える。高さは僅か47㎝の小型のものだが造りはとてもいい。石碑には田中地蔵尊の建立年月が彫られ、裏側には施主の向井七左衛門の銘がある。

場所   渋谷区元代々木町24-4

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2019年8月17日 (土)

元代々木町の庚申地蔵(渋谷区元代々木町)

渋谷区代々木から幡ヶ谷にかけては明治時代までは代々幡村という農村であった。今でこそ代々木駅周辺が代々木だと思われているが、実は代々木上原と代々木八幡の間が代々木では最初に開墾された地区。 渋谷川支流の宇田川の源流の沢が武蔵野台地を削って作った低地に田んぼを切り開いた。現在は小田急線が走っている周辺で、東は代々木八幡神社から西は雲照寺の東側の谷筋まで、江戸時代から昭和中期まで代々木本町という地名だった。それが昭和中期の町名改変で元代々木町となったのである。

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小田急線の北側をくねるように東西に走る細い道がある。江戸時代は代々木八幡から下北沢村の大山に繋がる村の主要道であった。現在も地形にしたいして素直に曲がりくねる私の好きな道のひとつである。その道の途中に庚申塔と地蔵菩薩がある。渋谷区の立てた説明板は概ね一般論で、この石仏についての説明はない。

昔はこの道から北側が台地に向かって上り斜面でポツポツと家があり、道から南側は宇田川流域の田んぼであった。今は想像すら困難だが、つい100年ほど前まではそんな農村風景だった。

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真ん中にある二つの石仏の内、左の地蔵立像についてはよく分からない。周辺が欠損していて補修した跡があるが、文字が消えている。読み取れないので渋谷区の資料を確認すると、舟型地蔵立像の供養塔で元禄6年(1693)もしくは元禄16年(1703)の造立らしい。供養同行拾七人とあるので、念仏講の供養塔か。右側の石仏は舟型の庚申塔で、青面金剛像と三猿の図柄。造立年は不明。おそらく隣の供養塔に近い年代であろう。間の小さい石仏については全く分からない。

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目立たないが、庚申塔の右側にも文字塔の庚申塔がある。正面には「庚申供養 橋誦中」とあるが意味が分からない。石橋供養で庚申講中の意味だろうか。年号についても読み取れないが、寛永18年(1641)もしくは享保18年(1733)だろうというのが渋谷区の資料にある説だが、その後誰かが年号部分を修復して享保18年というのが決まりのようである。

場所  渋谷区元代々木町23-11

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2019年8月16日 (金)

中之橋地蔵堂の庚申塔(世田谷区大蔵)

仙川が世田谷通りをくぐる辺りは、多摩川と野川によって形成された国分寺崖線に、北から流れてきた仙川が谷を削って下る場所で、小田急線辺りから比べると仙川の川床に高低差がある。川面の標高をみると、野川は小田急線下で18m、仙川は33mで、仙川の方がずっと高い。仙川が世田谷通りをくぐる辺りの標高は25mまで下がる。そして東名高速下では19mまで下がりほぼ野川と同じになる。

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座頭ころがし下の打越辻からさらに下ると中之橋という橋になる。ここの標高は20mを切り、これより上流にはかつての川の段差に合わせた小堰堤がいくつもある。その橋の近くに二つの堂宇がある。向かって左の堂宇には地蔵立像が1基、右の堂宇には庚申塔が2基並んでいる。この辺りは大蔵村の中でも石井戸と呼ばれた地区で、住民にも石井さんがやたら多い。

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まず左の堂宇の舟型の地蔵立像だが、文字が殆ど読めない。後年の説明書きから、造立年は元文5年(1740)と推定。右側の肩の横あたりに「庚申」の文字も見えるので、庚申塔のひとつとしての地蔵立像だろう。詳しいことはおそらく鎮座祈願をした住職もわからないと思う。

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右の堂宇の庚申塔(左側)は、駒型で青面金剛像に邪鬼、三猿の図柄。造立年は享保13年(1728)で、大蔵村講中12人とある。また隣にある右側の庚申塔も駒型で、右上がちょっと欠損している。こちらも青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、造立年は享保15年(1730)と隣の庚申塔の翌翌年である。こちらは大蔵村講中10人の銘がある。

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ここの庚申塔は、昔は座頭ころがしの下にあったものらしい。引越しの年度は分からない。堂内の説明板には次のように書かれていた。

中の橋地蔵尊  地蔵尊・庚申様新築上屋根工事由来

地蔵尊は今から260年前、子育・火防・盗難除け・病気平癒・身体健全と庶民のあらゆる願いを叶えてくれる仏として祈願されたと言われております。今や時代も変わり、子供は元より老人まで交通安全の仏として広く信仰されております。

庚申様二体は古く、今から272年前庚申供養石像が建てられ霊験あらたかな神として大蔵石井戸村民の構成する地域共同体意識を基に維持信奉されてきたと思われます。

今般関係諸官庁、工事関係者(小樽工業)と石井戸工務店関係業者のご厚意により、上屋根の完成を観ることが出来ました。今日自治会奉賛開院・他諸団体長を招き、祭主妙法寺住職鵜小林教一師により鎮座祈願式典を挙行いたしました後、石仏の今昔を偲び妙法寺久遠庵にて直会を施行いたしました。

平成12年3月12日

今週もお盆の墓参りに妙法寺へ行ってきた。

場所  世田谷区大蔵5丁目7-1

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2019年8月15日 (木)

座頭ころがしの庚申塔(世田谷区大蔵)

砧公園の西側に広がるのが世田谷区総合運動場。 その西側は国分寺崖線の崖筋で、湧水も多く、ザリガニやカエルも見掛ける。以前はマムシもいたくらいの自然豊かな崖線である。その崖線の一部、東名自動車道に掛かるグランド橋から下って仙川の中之橋までの道が座頭ころがしという坂道。坂下に近い辻は愛宕坂と座頭ころがしが出合う辻である。そこに庚申塔を中心に3基の石塔がある。堂宇に記されている名前は「打越辻地蔵尊」だが、地蔵ではない。

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座頭ころがしには言い伝えや民話も残っているが、それは坂道ブログの「座頭ころがし坂」で紹介している。このお堂の下には右から、巡拝塔、庚申塔、道祖神が並んでいる。巡拝塔と庚申塔については資料があるが、道祖神については下記説明書き以外は何もわからない。何となく岡本太郎の太陽の塔にも似た道祖神で不思議な雰囲気がある。

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右の巡拝塔の正面には、「秩父天下… 坂東百杖成就供養… 西国安全」とあり、右面には「武州世田谷領大蔵村」の銘がある。造立年は寛政7年(1795)である。中央の庚申塔がひときわ目立つ。 唐破風笠付角柱の庚申塔で、高さは82㎝程。 青面金剛像と三猿の図柄で、造立は享保元年(1716)と側面に書かれている。また、願主は講中鎌田村6人、大蔵村1人の銘がある。

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お堂の中に説明板がある。『地蔵尊庚申様新築上屋根工事由来』と題して、

「打越辻地蔵尊は、建立年代等不明であるが、子育て・火防・盗難除け・病気平癒・身体健全とあらゆる願いを叶えてくれる神として祈願されたと言われております。今や時代も変わり子供は元より老人まで交通安全の神として広く信仰されております。

庚申様は古く享保元年、庚申供養石像が建てられ霊験あらたかな神として、大蔵村、鎌田村、村民の構成する地域共同体意識を基に維持信奉されて来たと思われます。

石仏の一体は、田の神との言い伝えであるが諸体は不明である。又、鎌倉道の道標は盗難に遭い今は無い。今般中の橋際地蔵尊上屋根新築時の御奉納の一部を使わせて頂き、関係諸官庁、石井工務店、い志井造園、浜村板金工芸、安藤建鉄、の御好意により、この度上屋根の完成を観ることが出来ました。

今日、奉賛会役員、工事関係者、近隣の皆様方を招き、祭主妙法寺住職小林教一師により鎮座祈願式を挙行いたしました。

平成12年12月吉日」

とある。実は最後の妙法寺には我が家の墓所があり、御住職小林教一師には山口県より父母の遺骨を移転した際にご供養いただいたという個人的な関係もあったりして、この説明板を読んで一番驚いたのは自分であったのである。

場所  世田谷区大蔵4丁目6-1

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2019年8月14日 (水)

谷戸川の庚申と地蔵(世田谷区岡本)

小田急線祖師ヶ谷大蔵駅の北東エリアを源頭として、砧公園の真ん中を南北に流れ、東名高速をくぐって谷戸川はこの庚申と地蔵のところに流れてくる。この地区は江戸時代から大正時代くらいまで谷戸と呼ばれた。西には仙川が流れ、その東側にある小さな谷あいの集落だったために谷戸の地名になったのだろう。

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上の写真の右側にある小さい堂宇が地蔵、左の鳥居の奥の堂宇にあるのが庚申塔である。地蔵は宝暦13年(1763)のもの。 青面には「地蔵大菩薩」、右面には「武刕多麻郡世田谷領岡本村」、左には造立年、裏面には講中14人と世話人綱嶌庄兵衛の銘がある。

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地蔵堂は最近建て直されたお堂らしく、以前は川の反対側にあったような記憶がある。一方の庚申塔はかなり古い堂宇。 昔から鳥居があるのは知っていた。堂内の庚申塔は風化が激しく、おそらく舟型光背型で青面金剛像と三猿が彫られていただろうくらいしかわからない。ただ、鳥居と堂宇の間に石碑があり、由緒等が記されていた。

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書かれていたのはおおよそ次のようなことである。

庚申社  御祭神  猿田彦大神

当社はその縁起は不詳だが、『新編武蔵風土記稿』に庚申坂の名を記し、また石像風化の状態から推定すると、この辺りでは相当古い祠である。長年岡本の護りとして時代の変転の中で住民の信心を得て来た。祠の前の道は小径だが、耕地整理がなされる以前には、東の庚申坂を登れば大山街道に通じていた。また西の庚申橋を渡れば、府中方面に至り、人々の往来も多く、堂宇自らが道標の役割を果たしていた。

昭和58年5月吉日

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この橋が庚申橋、向こうに見えるのは奥の民家への入口(私道)だが、この道が昔、庚申坂と呼ばれた坂だったと思われる。『岡本の大六天森のすねこすりたぬき』という民話が地元に残されている。

岡本の村では、若い娘が庚申坂を通るとふくらはぎをくすぐる者がいるという。時には荷物を盗まれたりもした。天狗の仕業か妖怪かと村人は騒いでいたが、ある日母親のために薬をもらいに行った娘がすねこすりにあった。 娘はうずくまってしまった。すると、可愛い狸が現れて、崖を急いで登っていった。

その時、突然狸が足を滑らせて、崖から落ちて気絶してしまった。娘は駆け寄り、母にともらった薬を狸に飲ませた。子狸は目を覚ましたが、きょとんとしたまま離れようとしなかった。でも娘は母狸が心配していると思い、大六天の森に連れて行って子狸を放してやった。

不思議なことにその日からすねこすり事件はピタリと止んだ。村人は大災害が起こるのではないかと心配していたが、1年ほど経ち、娘が隣りの村に嫁入りすることになった。嫁入り道具をどうしようとしていたところ、ある夜、狸の一家が現れて、箪笥、長持、晴れ着を抱えてお祝いにやってきたのだった。

という話である。近くに大六天はと探してみると、東名道の脇を走る道がある箇所だけ急に迂回する場所があり、そこに大六天があったという。その辺りは現在は東名高速道路が砧公園の脇に差し掛かるところにあたるが、昔は狸も棲む森だったのである。この岡本大六天は岡本八幡神社に合祀されたそうである。

なお、仙川と谷戸川の間の台地の上にも数年前まで大六天があった。東名と外環自動車道の工事に合わせて大蔵の氷川神社に合祀されたが、実はその傍で結構事故が多いのが私は気になっている。

場所  世田谷区岡本3丁目17-8

 

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2019年8月13日 (火)

瀬田の地蔵堂(世田谷区瀬田)

環八瀬田の庚申堂の脇道をそのまま進む。 この道は環八が出来る前の南北を結ぶ村の主要道で、砧公園を抜けて三本杉へ繋がっていた道。世田谷通り(矢倉沢往還)を越えて滝坂道まで行くことが出来た。250mばかり進むと再び道は分岐する。右は三本杉への道、左は座頭ころがしを経て大蔵への道である。この分岐点に地蔵堂がある。

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大きなケヤキの保存樹木の下に立派な地蔵堂があり、その中に地蔵立像が収められている。ちょうどこの近所には伴順三郎と清川虹子が住んでいた家があったのを思い出したが、場所を忘れてしまった。ここから環八側の区画は住宅展示場になってしまったのでなくなってしまったのだろうか。

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お堂は施錠されていたので格子から中を除かせていただいた。ちょっとひょうきんな顔の地蔵立像である。堂宇が出来る以前は道標の役割が主体であった地蔵だ。正面には「百万遍供養仏」とあり造立年の明和3年(1766)が彫られている。左面は「是より右 高井戸道」右面は「是より左 府中道」とあり、右へ行くと現在の環八とつかず離れず甲州街道の高井戸まで、左へ行くと座頭ころがしから大蔵を経て筏道で府中までということだろう。百万遍はこの辺りで盛んだった念仏講の儀式である。

場所  世田谷区瀬田5丁目22-1

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2019年8月12日 (月)

環八瀬田の庚申塔(世田谷区瀬田)

インターチェンジで唯一「東京」の名を冠する用賀の東京インター近く、瀬田交差点から環八が右にカーブして東名高速の東京インターに向かうところに環八から斜めに分岐する路地があり、その分岐点に庚申堂がある。この場所は環八外回りの車に対してもっとも目立つところにあるので看板が折り重なるようにして立っている。

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写真の四段看板に見える左のガードレールの後ろに小さな堂宇がある。これが庚申塔である。瀬田交差点の一日の交通量は10万台近い。警視庁のデータ(2006年)だと、環八が4.2万台、玉川通り(国道246号)が4.3万台、大山街道旧道が0.2万台とあるが、増えているようである。都内の交差点では交通量第4位らしい。そんな場所にひっそりと庚申塔が残っているのである。

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写真は夏真っ盛りの時季で、オシロイバナが群生していたが、正面から堂宇までは踏み跡が付いている。なんだか杣道を歩くような感じで堂宇に近づく。この植物たちが、自動車の排気ガスを少しでも浄化してくれていると嬉しい。

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中には高さ1mほどの駒型の庚申塔がある。造立年は安永5年(1776)、右側に「世田ヶ谷領瀬田村」左側に年号が彫られ、正面は青面金剛像と邪鬼と三猿の図柄、下部には15人の願主名がある。庚申堂が向いている道(路地)は環八が出来るまでの南北の古道で、現在の砧公園の真ん中を突っ切って三本杉交差点のサミット裏のお地蔵さんの前に出ていた。「三本杉の地蔵様

場所  世田谷区瀬田5丁目2-1

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2019年8月11日 (日)

瀬田の延命地蔵尊(世田谷区玉川台)

東京でも有数の渋滞ポイントである瀬田交差点、環八と国道246号が交差し、近くには東名(首都高)のインターチェンジもある。時間を遡って昭和30年代を見ると、環八はまだ車が何とかすれ違える程度の道幅で、用賀から二子玉川への玉電の大山街道は電車が並ぶと車が通れないほどの狭い電車道だった。

さらに時代を遡り江戸時代、用賀を通る大山街道は用賀村と瀬田村の村境で二又に分かれていた。南西に進むと慈眼寺ルートで二子の渡しへ、南に進むと行善寺ルートで同じく二子の渡しへ向かっていた。どっちを通っても大した変わりのない大山街道の瀬田~二子玉川間だが、江戸時代の渡しは多摩川の水量によって川止めになったり、その時の水の加減によって渡し場の位置が上流になったり下流になったりしたようである。

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その二つのルートが分岐するところにあるのが延命地蔵尊。頑丈な堂宇に守られていて、直接地蔵を拝めないが、スリットの隙間から見ることはできる。地蔵は丸彫の地蔵立像で、高さは157㎝、台石の正面には「法界万霊」、左面には「用賀村女念仏講中」、右面には「安永6年(1777)11月」と刻まれている。

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念仏講は、戦前はこのあたりでも各集落ごとにあって、毎月15日と誰かが亡くなった時に集まり、数珠を回しながら、輪になって念仏を唱えるという百万遍の儀式を行ったらしい。毎月15日の集まりは「月並念仏」と言われ、各家が輪番制で当番を決めてその家で行っていた。用賀村については、本村と向原(向)では昭和の終わりころまでこの儀式が行われていたという。

場所  世田谷区玉川台2丁目3-15

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2019年8月10日 (土)

用賀真福寺の石仏(世田谷区用賀)

明治時代の終わり、明治40年に玉電(玉川電気鉄道)が渋谷~三軒茶屋~用賀~玉川で開通した時、用賀駅の駅前から大山街道までは駅前の道だったが、大山街道から真福寺への道は街道から参道であった。つまり用賀駅と真福寺は向かい合っていたのである。現在の大山街道の商店街の一角に参道の入口があり、両脇に石柱が立っている。

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左の角にある高さ90㎝程の石柱は巡礼塔で、正面には「上達法身下及六道」、側面には「四国八十八箇所霊場 六十六番讃岐国雲辺寺」とあり、造立年は安永6年(1777)である。 右側の塔も同じサイズで、こちらは正面に「三界万霊」とあり側面には造立年がかすかに見え、明和4年(1767)とある。左側の住所は用賀4-12-1、右側は用賀4-13-4である。

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参道の突き当りにある山門をくぐる。正式名は実相山真如院真福寺、創建は天正6年(1578)。すぐに左側に二つの堂宇が見える。手前が庚申堂で、奥が太子堂。もともと大山街道の向原にあったのを昭和39年(1964)にここに移したもの。向原とは昔の小字で現在は首都高速の下に谷沢川が流れる筋と国道246号(玉川通り)と大山街道(旧道)の三角地帯にあたる。

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左の庚申堂には1基の庚申塔が祀られている。二つの堂宇の間にある由来碑によると、弘化4年(1847)の造立。駒型で、青面金剛像に邪鬼、三猿の図柄。道標を兼ねており、右面には「北 青山道」左面には「南 大山道」裏面には「東 六郷道」とあるので、大山街道(旧道)の現在の消防署近くの路傍の東側に立っていたのだろう。

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太子堂にあるのは造立嘉永3年(1850)の聖徳太子の像である。しかし建てたのは庚申講の人々。 右面に「用賀邑講中」とある。正面には聖徳太子、庚申講中と彫られているので庚申塔扱いしている。

由来碑には、「武州荏原郡用賀村字向の高橋亀太郎、鈴木長兵衛を世話人とする講中25名が、地区街道の安全と村民の除災獲福祈願として庚申塔を建て、さらに嘉永年間には職方の守り本尊として聖徳太子像を建立(現用賀町1-233)した。この度、その境内の地を消防署拡張の用地として提供したため講中で話し合い真福寺にお願いした(昭和39年)」ということが書かれている。

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真福寺には元文5年(1740)造立の六地蔵もある。こちらは用賀村下女中念仏講中の銘がある。色がそろわないところが逆に魅力的でもある六地蔵である。

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墓所の入口には写経読誦塔があり、その右手に7基の地蔵が並ぶ。この写経読誦塔は文化5年(1808)のもの。左面には、開山から四代の住職の名が刻まれている。開山法師宗円 天正6年(1578)、二世 宗慶 元和4年(1618)、三世 宗重 寛永5年(1628)、四世 宗音 寛永10年(1633)。宗円さんは40年もの間寺を守って、二世宗慶さんは10年、三世宗重さんは5年とだんだん短くなっている。

開基とされるのは飯田図書(1578没)という用賀村の開拓者。飯田帯刀、図書の父子は小田原北条氏に仕えていたが、14世紀にこの用賀村にきて着農した。用賀に土着してから勢力をもつようになり、苗字帯万を許され彦根藩の代官職を務めたという。

場所  世田谷区用賀4丁目14-4

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2019年8月 9日 (金)

用賀無量寺の石仏(2)

無量寺は浄土宗の寺院で正式名を崇鎮山観音院無量寺という。院号にあるように十一面観音が主役の寺である。しかしそれ以外にも魅力的な石仏石碑が多数ある。まずは山門をくぐると、「南無阿弥陀仏」と彫られた大きな自然石の日が目に入る。その脇にある名前は第29世の現在の住職名だった。そこからふと塀側に目をやると、かつて関心を持ったタイプの石塔が目に入った。

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目黒の大鳥神社と大聖院で見た切支丹燈籠である。まさかこの寺にあるとは驚きだが、何の説明書きもない。資料を調べても何も出てこない。しかし形はどうみても切支丹燈籠である。 → 目黒の切支丹燈籠

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本堂の左手に大日堂がある。その脇にあるのが二つの地蔵。奥(左)側にあるのは丸彫の地蔵菩薩で、台石には三界万霊とある。造立年は宝暦11年(1761)である。その右にあるのが珍しい六面地蔵。

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このタイプの六地蔵は滅多に見ない。享保3年~9年にかけて造立されたとあるので、造立年は享保9年(1724)になる。高さは187㎝と高く、表情が少しずつ違っているのが見ていて微笑ましい。明治24年(1891)に再建されているので、廃仏毀釈で破壊されたものを作り直したのだろうか。明治時代の再建者名は高橋五郎とある。石仏の分類としては大乗妙典日本回国供養塔とあるので、六地蔵ではなく供養塔になるのだろう。

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さらに驚いたことに、その近くには東京に8基しかないという草木塔がある。実は世田谷区に3基あり、千歳船橋と桜上水の間の密蔵院、等々力不動境内、そしてこの無量寺である。ただ調べてみると極めて新しいもので、平成11年(1999)に東京緑化倶楽部という団体が造立している。この団体は世田谷区近辺の造園業組合である。

無量寺には朽木観音という小さな祠もある。朽木観音は開発の犠牲になったり、枯れた樹木の霊を慰めるために建立されたもの。草木塔と発想は同じところにある。草木を供養するという気持ちは上杉氏が治めた置賜の里でもここでも同じなのである。

場所  世田谷区用賀4丁目20-1

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2019年8月 8日 (木)

用賀無量寺の石仏(1)

用賀には二つの大きな寺がある。二つの寺院は250mほどしか離れていないが、実は明治時代までこの間には小さな川が流れていた。そこには現在商店街があるが、それがかつての沢筋だと思われる。無量寺の標高は35.6m、商店街が34.6m、真福寺が35.2mなので、最大1mほどの高低差しかない。水源は天神池と言われる湧水で現在は公園があるのみ。無量寺の起こりは文禄3年(1594)とされる。真福寺よりも若干新しい。

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山門はなかなか立派である。山門前には数基の石仏石塔がある。京都東寺の築地塀を模した塀が良い。門に向かって一番左の橋には中丸地蔵がある。門脇左には地蔵座像、門脇右には地蔵立像、馬頭観音、供養塔が並ぶ。

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山門右側の地蔵立像は高さが172㎝、丸彫の地蔵菩薩で、天明8年(1788)のものである。台石の正面には三界万霊とあり、左面には「武州荏原郡世田ヶ谷領用賀上本村 女念仏講中」とある。江戸時代中期は女性の念仏講中が盛んだったようだ。この三界万霊の地蔵は天明から数年にわたる飢饉や大雨などでの多くの犠牲者の霊を祀ったものと言われる。

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地蔵の右下にあるのが馬頭観音。大正11年(1922)のもので、中村信四郎の銘がある。そのさらに右、道路に近い所には「観音堂入口」の石碑と並んで供養塔が立っている。これは写経塔と呼ばれるもの。通常はもっと大きなもので、信者が書き写したお経を収めたりする。写経塔は寛保3年(1743)のもので、正面には「南無十一面観世音菩薩」とあり、右面には「武刕荏原郡野良田村 願主粕谷氏万英」の銘。隣の上野毛の粕谷家のものらしい。

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観音堂というのは境内にある十一面観音を収めたお堂の事だが、この観音様には謂れがある。一説にはこの観音は行基の作と言われる。天正年間(1573~1592)に用賀の住民であった高橋某という人物が、品川の浜で漁師の網に掛かって揚げられたものを譲り受けて自宅に祀っていた。ある日夢枕に観音が現れて、これを無量寺に安置せよとのお告げがあり、無量寺に十一面観音があるという訳だ。この話からすると寺の始まりと関係がありそうだがそれについては何の話もない。

場所   世田谷区用賀4丁目20-1

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2019年8月 7日 (水)

用賀四丁目の庚申塔(世田谷区用賀)

東急田園都市線用賀駅の北側には高層ビルの世田谷ビジネススクエアがあり、そのさらに北側には城南信用金庫の事務センター、ディスカウントスーパーのOK、無量寺、とアンマッチな建築物が並んでいる。駅近なエリアが昭和の後期まで建物が少なかったのはもともと水田地帯で地盤が弱かったためだろう。その少し北側には戦後間もなくから住宅が建ち始めたエリアがあった。京西小学校の周辺である。

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その一角に不思議なお堂の庚申塔がある。庚申塔の堂宇はマンションの塀の一部。ここのマンションはずいぶん昔からあったが、オーナーが先祖代々庚申様を守ってきたのだろう。知らなければ通り過ぎてしまいそうだが、いつも花が供えられて守られている感がある。

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庚申塔の保存状態は良好。高さは94㎝で中くらいの部類。板状駒型で、青面金剛像に邪鬼・三猿の図柄。造立年は元文5年(1740)とある。明治時代初期この辺りは畑であった。陸上自衛隊用賀駐屯地の西側、用賀中町通り脇にあった湧水の天神溜池から沢が流れ、現在の用賀の街中である無量寺と真福寺の間を流下して、田中橋(旧大山街道と首都高速の重なる所)で合流していたのである。谷沢川の源頭は3つの湧水池を中心にして田中橋ではそこそこの水量になっていたという。

場所   世田谷区用賀4丁目26-11

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2019年8月 6日 (火)

中丸地蔵(世田谷区上用賀)

東名高速の用賀インターから200mほどのところにかつて中丸地蔵という不思議な顔の地蔵があった。中丸というのは用賀のこの辺りの旧地名で、昔は大字用賀の中心は現在の上用賀3丁目バス停辺り、用賀中町通りと砧公園通りが交差する周辺であった。中丸には世田谷通りあたりを水源とした谷沢川の最上流が細々と流れ、その水を利用した水田が広がっていた。昭和に入って耕地整理が進み、谷沢川は碁盤目の道に合わせた流れに替えられた。その暗渠は現在も明確に残っている。

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かつて中丸地蔵があった場所はそのまま半畳ほどの区画で残されており、中丸地蔵と書いた石碑と小さな立て札が立っている。「中丸地蔵 この場所に中丸地蔵がありました。昔は道標の役目もしていたようです。現在は無量寺に移されました。」とある。早速無量寺へ行ってみる。無量寺の山門前、いくつかの地蔵や馬頭観音があり、西の端に不思議な顔の地蔵が立っている。これが中丸地蔵である。台座の正面には、「三界万霊」と中央に書かれ、その右に「右府中道」、左には「左大山道」とある。左面には「世田ヶ谷領 用賀村 女念仏講中」右面には造立年が彫られている。造立は享和2年(1802)である。

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この不思議な顔は外国人をモチーフにしたものではないかと思うが、真偽は分からない。用賀の地名の由来がインド発祥のヨガから来ているというネタをバラエティ番組で時折言っているのに感化されてしまったかもしれない。郷土史では、鎌倉時代初期に勢田郷(瀬田)にユガ(梵語)の道場が開設されて、後にユガがヨーガと転訛したのではないかと言われている。

大山街道が江戸時代に賑やかになってくると、村の中心は現在の用賀駅周辺に変わっていった。旧道(かつて玉電が走った道)が首都高速と交差する場所には田中橋が今もある。田中橋という名前は大山街道が主要道になっていった頃でもまだ、田んぼの中にある橋ということで名付けられたと伝えられる。現在は頭上に何万台もの車が行き交う賑やかな場所だから、とても想像がつかないだろう。

場所   世田谷区上用賀5丁目7-23

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2019年8月 5日 (月)

上用賀三峯神社の庚申塔(世田谷区上用賀)

東急田園都市線用賀駅から北側、世田谷通り以南が上用賀。 環八通りの向かいには砧公園と清掃工場があり、上用賀の東地区には馬事公苑がある。砧公園の北東端の交差点が世田谷清掃工場前という名の交差点、はす向かいに三菱自動車のディーラーがある。上用賀三峯神社はその裏手にある小さな神社だが、神社より庚申塔と地蔵菩薩が目立っている。

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誰がここに三峯神社を勧請したとか土地を提供したとかの情報は皆無。 ただ世田谷にはここから1.5㎞北西に砧の三峯神社がある。砧の方は江戸時代中期に秩父の三峯神社を勧請して建てられたもの。三峯神社の本社は秩父の有名なパワースポットとして最近急に人気を博し、日によっては駐車場までの山道の渋滞が数時間以上ということもあるおかしなことになってしまった山神社である。ニホンオオカミ伝説もあるが、もとは修験道の神社で、雲取山、白岩山、妙法ヶ岳の三山を信仰したことによる。雲取山は東京都の最高峰で2017mの高さ、白岩山は雲取山の北にある1921mの峰、妙法ヶ岳はやや低く1332mだが三峯神社に近い。

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鳥居の前に屋根付きで佇む庚申塔は狛犬のような存在。三峯神社だからオオカミでなくてはならないのだが、そこは大目に見て、しかし一番の存在感である。駒型庚申塔で青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれている。造立年は天明7年(1787)である。庚申塔の左を進むと三峯神社、右を進むと地蔵菩薩がある。

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丸彫の地蔵菩薩像、高さは178㎝ある。造立年は宝暦6年(1756)と江戸時代中期である。台座には女性の名前が多数彫られており、女中念仏講かと思ったら、正面には男性の名前もある。

三峯神社は東京の郊外には結構あるのだが、都心にはない。山岳信仰だから江戸の街には似合わなかったのだろうか。しかし農村部は天候に関わる山岳信仰があり、奥多摩の御嶽神社などは御師的な宿坊があり、多摩川沿いの農家には今もお参りして宿泊するところもある。その辺のつながりを調べてみるのも面白いかもしれない。

場所   世田谷区上用賀6丁目4-21

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2019年8月 4日 (日)

雲照寺の庚申塔(渋谷区西原)

四半世紀以上小田急線で都心に通勤している。代々木上原駅に営団地下鉄千代田線が乗り入れたのは昭和53年(1978)。それまでは小田急線代々木八幡と千代田線代々木公園前を乗換駅として人々は利用していた。駅の完成で南北の視界が遮られたが、代々木上原と代々木八幡は渋谷川の支流が削り取った谷底の駅だから、両側の台地を車窓から望むことは十分にできた。

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上は周辺の地形図。卍マークが今回紹介する雲照寺、八幡というのが代々木八幡である。代々木上原駅は雲照寺の左下(南西)にある。昭和の最初に開通した小田急線はこの谷筋を通したのである。代々木公園・明治神宮の台地を囲むように渋谷川の支流が谷を形成したのがよく分かる。こんな地形だから縄文時代の遺跡も多い。当時はここまで海が迫っており、魚や貝も豊富に獲れたからである。しかも川がこれだけあるということは湧水も豊富なので、生活用水の確保もできる。その陸と水の間で何千年も人間は生活を営んでいるのである。

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雲照寺に併設された徳教会館は小田急線からよく見える体育館のような建築物で、車窓から何だろうと思いつつ眺めている人も多いと思う。線路の通る谷から北、西原の台地を上ると雲照寺の石段がある。台地の縁をうまく利用している。隣駅にある代々木八幡もそうだが、昔からこういう突端の土地は寺社仏閣か戦国時代の城跡であることが多い。雲照寺は大正10年(1921)に小石川目白台にあった蔵王寺を移転して改名した寺で新しいが、よくこの場所を確保できたものだ。

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階段を上り門を入ると、左手の大きな欅の下に舟型の観音菩薩立像がある。造立年を読み取ろうとしたがかすれてよく見えない。かろうじて寛文と四という文字が見えたので、寛文4年(1664)と推定した。江戸時代初期、徳川光圀が『大日本史』の編纂を始めたころである。新しい寺によくこんな古いものがあるなと感心したが、雲照寺にはもっと昔の板碑も保管されているらしい。

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欅から右手に視線を移すとそこには都内でも最大級(高さ143㎝)の板碑型の庚申塔が、最高の保存状態で残されている。この庚申塔にはしばらく目を奪われた。板碑型は比較的初期のものが多い。この板碑型庚申塔も寛文12年(1672)と古いもの。青面金剛像、邪鬼(天邪鬼)、三猿、日月、二鶏がくっきりとしており、青面金剛の持つ武器や獲物もここまでクリアなのは珍しい。

こうなると板碑も見たくなったが、あまり開かれた寺ではないようなので無理をせず再び谷に下った。

場所   渋谷区西原3丁目31-1

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