2020年1月29日 (水)

松が丘の地蔵堂(中野区松が丘)

狭めの道だが頻繁に路線バスの往来する新井薬師前駅西側踏切の哲学堂通りを北に歩く。350mほど進むと、西側の道路わきに地蔵堂がある。この一角はとても小さな三角地帯だが、ここは新宿区と中野区の区境。西落合二丁目がこの周辺だけ妙正寺川を越えている。地蔵堂脇から分岐する路地は江戸時代からある道筋で、ここは昔から辻だった。しかし大正時代以前は妙正寺川が村境で、こちら側が上高田村、川向うが片山村であった。

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この辺りは大正時代までは畑が広がり、路地の坂を上っていくと民家が数軒集まっているというような農村風景だった。堂宇を覗いてみると3基の石仏が祀られている。右から、板碑、地蔵、庚申塔の准である。右の板碑は、造立年などは不明。明治時代後半に片山橋東側の高台付近の農業施策地で土中から発見されたもの。片山橋というのは妙正寺川ではなく、路地が中野通りを越えるためのオーバーパスの橋。昭和の高度経済成長期に造られた。

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中央のいちばん背の高いのは地蔵菩薩立像。元禄年間から松が丘北野神社(妙正寺川の近く)にあったものを明治の初め頃この地に移した。この近辺は鼓ヶ原と呼ばれていたので、この地蔵も鼓ヶ原子育地蔵と呼ばれた。この地蔵は大正時代末期に大破し、さらに昭和20年の戦災も受けた為、地元の有志によって昭和25年頃再建された。左端は角柱型の庚申塔で、青面金剛像と三猿の図柄。これも昭和25年(1950)1月再建となっているので、地蔵と同じような経緯があったのだろう。

場所  中野区松が丘1丁目29-22

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2020年1月28日 (火)

新井薬師の諸仏(中野区新井)

中野区の新井薬師は区内でも最も有名なお寺。駅の名前も新井薬師前駅とあるが、実は500mほど離れている。参道は南東側からで駅からではない。当然鉄道の方が後からできたわけで仕方がない。この寺も真言宗豊山派である。中野区には豊山派の寺院が多い。梅照院(新井薬師)と並んで中野区最大級の寺である宝仙寺も豊山派である。やはり中野に犬屋敷があったことで綱吉の母を祀る護国寺(豊山派)の勢力が強かったのだろうか。

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境内には多くの石仏が集められているが、その中でひときわ目を引くのこの板碑である。残念ながら造立年などは分からない。上部に彫られているのはキリークで真言の意味のようだが、私にはまだ理解できていない。台石には興味深い文章が彫られている。昭和2年(1926)に武州北多摩郡砧村喜多見で水道工事の折に出土したような話である。東光寺の名もある。東光寺は新井薬師駅の反対側にある寺。どうも気になったが東光寺はいずれ訪問予定。

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板碑の近くの無縁仏等の集合体の中にいくつかの庚申塔や馬頭観音が埋め込まれている。上の写真は庚申塔で、唐破風笠付角柱型で正面金剛像と邪鬼・三猿・二鶏が描かれている。年代は元禄14年(1701)10月、「武列経多東郡新井村 願主 久保寺清兵衛 同行8人」とある。新井村のどこかにあったものが打ち捨てられここに拾われたのだろうか。

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庚申塔っぽいものが他にもあったが、刻時が全く読めない。上の写真の右側は比較的新しい時代のもののようである。こういう石仏を丸く集めてコンクリートで固めてあるが、個人的には固めるのは好きではない。もっとも盗難防止の目的はあるかもしれない。

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上の写真は左側が馬頭観音で、右側は庚申塔である。青面金剛像と三猿の図柄で、元禄7年(1694)11月、武刕新井村の銘がある。新井薬師の正式名は新井山梅照院薬王寺だが、巷ではほぼ新井薬師で通っている。創建は天正4年(1586)。本尊である薬師如来と如意輪観音像はなんと大きさが一寸六分(約5.5㎝)とまるでミニチュアの世界。写真では拝見したが12年に一度の寅年の御開帳のみなので、もちろん見たことはない。

境内には他の古い石仏もあるようだが、再訪して探してみたいと思う。

場所  中野区新井5丁目3-5

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2020年1月27日 (月)

沼袋2丁目墓所の地蔵尊(中野区沼袋)

新青梅街道の区立第七中学校から比較的幅のある道が南へ伸びていて、南下するとやがて新井薬師に至る。その道の途中に50坪ほどの墓所が残っている。墓のほとんどが矢島姓で実相院の墓所だと判る。この墓所には江戸時代の墓石がたくさん残されている。中には入れないが見ていて興味深い。

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墓石の供養塔だが唐破風笠付の立派なものがある。その墓所の道路寄りに、一基だけ墓石でない地蔵立像がある。資料によると、造立年は寛延3年(1750)10月、「奉造立地蔵尊為西国坂東秩父市刻八十八所供養 施主 矢島甚吾左衛門」とある。矢島家の誰かがはるばる行脚を遂げたのであろう。

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昔はこの地蔵立像の隣に庚申塔があったと記録されている。その庚申塔は唐破風笠付の角柱型で正徳5年(1715)造立のものだが、現在は実相院に移されている。「実相院の庚申塔」の項で最後に紹介した庚申塔である。「武刕多麻郡沼袋村」に加えて「願主 矢島六郎衛門 他10名」の銘がある。ここの墓所と実相院の間には禅定院もあり距離もあるが、矢島家は妙正寺川流域に大きく広がっていたのだろう。

場所  中野区沼袋2丁目10-1

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2020年1月26日 (日)

東福寺の諸仏(中野区江古田)

真言宗豊山派の東福寺は正式名を金峯山世尊院東福寺という。創建年代は不詳だが、天正年間(1573~1593)頃に江古田村の村民が始めたという言い伝えがある。江戸時代には鷹狩りに来た三代将軍家光も休憩に立寄るなどし、八代吉宗の御膳所にもなっていた。豊山派の総本山は五代綱吉の母桂昌院を祀る護国寺だから江戸時代は手厚い保護を受けて来たのだろう。

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山門を入ると左が斜面になっており丘の上が墓所、その斜面に数多くの石仏が並んでいる。もっとも目立つのが六地蔵で、その左脇に控えるのがこの地蔵菩薩立像だった。造立年は寛延4年(1751)であるが、光背の中に葵紋が描かれている。寛延年間というと九代家重の頃で、徳川家との関係がこの図柄になったのであろう。

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六地蔵の後ろには古そうな角柱型の庚申塔が立っている。独特のデザインで下部に細長い三猿が描かれている。側面には蓮の葉の浮彫があり、青面中央には「奉寄進庚申供養安樂也」とある。造立年は寛文8年(1668)11月で相当古い初期の庚申塔である。

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更に斜面を上ると大型の馬頭観音と思われる、唐破風笠付の角柱型石塔があった。造立年は寛保2年(1742)9月で、馬頭観音としてはもっとも古い時代のものかもしれない。側面に「武刕多麻郡中荒井村」と書かれている。馬頭観音のようだが三面上の馬頭は欠損している。平成時代に境内をきれいにしてとても明るい寺院になった。中荒井村は江戸時代から大正時代まであった村で現在の豊玉(上、北、中、南)にあたる。

場所  中野区江古田3丁目9-15

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2020年1月25日 (土)

お経塚(中野区江古田)

品川駅は品川区ではなく港区にあり、目黒駅は目黒区ではなく品川区にあるのは比較的知られている事だが、江古田駅も江古田にはない。中野区江古田(えごた)は新青梅街道を南端、妙正寺川を北端にした住居表示で、住民は東武東上線の江古田(えこだ)駅は使わない。より近い大江戸線の新江古田(しんえごた)駅を利用する人はいるが、新江古田駅も江古田ではない。もともと江古田村は多摩郡の東端の村だったが、明治以降は合併して野方村になっている。

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お経塚はそんな江古田の真ん中にある。南には現在リニューアル閉館中の中野区立歴史民俗資料館、北には江古田氷川神社がある。お経塚のある場所は、現在は五差路だが昔は三差路で、氷川神社の参道のような位置づけにある。説明板によると、大正時代までは人の背丈ほどの大きな塚があったという。大正期に塚の盛土を整備したら人骨と経筒が出土した。氷川神社の東にある東福寺が焼けた時に経文や過去帳などの灰を埋めて塚を築いたと言われる。

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屋根付きだが半ば吹きさらしの堂宇の右手にあるのが経塚地蔵と言われる舟型の地蔵立像。造立年は元文3年(1738)で「武州多麻郡江古田村 念仏講中」の銘がある。

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左にある小さい石仏は馬頭観音像。造立年は安永15年(1777)と馬頭観音としては相当古い部類に入る。頭上の馬の図柄はしっかりと残っているが、馬頭観音の顔は削れてしまっている。

前述の出土した経筒だが、資料によるとその中身を調べる前にいつの間にか無くなってしまったという。誰も中身を調べたものはおらず、経筒であったという確証はないらしい。一方の人骨は埋められて、この堂宇の下に眠っているそうである。

場所  中野区江古田2丁目14-5

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2020年1月24日 (金)

禅定院の庚申塔(中野区沼袋)

かつての野方村の本村(中心)は現在の沼袋4丁目で、現在の野方駅前商店街がほぼ本村の中程を通っていた。実相院は村の中心にあったわけだが、少し東にある禅定院は村の東に少し外れた場所になる。禅定院の正式名称は瑠璃光山禅定院薬王寺。真言宗豊山派の寺院で総本山は護国寺である。開山は貞治元年(1362)と言われ、実相院が矢島姓を大半とするのに対して、旧上沼袋村の伊藤家の菩提寺であったので伊藤寺とも呼ばれたという。

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比較的こじんまりした寺院であるが、山門を入ると六地蔵がならび、諸仏が迎えてくれる。その中にひときわ時代を感じさせる庚申塔が立っている。

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唐破風笠付角柱型の庚申塔は三猿のみの図柄でいかにも古い時代のもの。「奉供養庚申石塔二世安樂處」とある。造立年は寛文6年(1666)と都内でもかなり古い部類に入る。「禅定院」の銘も刻まれていることから、当時からここにあったものと思われる。江戸時代初期には青面金剛像がない庚申塔が多い。世田谷区最古の上馬の宗円寺の明暦4年(1658)の庚申塔も三猿のみ、世田谷区野沢のテコテン坂の寛文10年(1670)の庚申塔も三猿のみである。この時代は三猿のみが結構多い。

場所  中野区沼袋2丁目28-2

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2020年1月23日 (木)

実相院の諸仏(中野区沼袋)

実相院は真言宗如意山実相院世尊寺が正式名称。正平7年(1352)に新田一族が足利軍と戦った時に、その一派(子孫)が沼袋に土着したのが起源と言われる。沼袋と江古田には矢島姓が多く、檀家にも矢島家が多いので別名矢島寺とも言われるらしい。そんな実相院の山門を入ると両側に石仏がランダムに置かれている。

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右側にあるひときわ大きな地蔵立像は天和2年(1682)11月の造立。「奉建立地蔵菩薩・・・」とある。

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左の方には上部が一部欠損した馬頭観音がある。コンクリートのような表面だが石である。側面に大正13年(1924)9月の造立年が記されている。

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その少し山門寄りにあるのが如意輪観音像。 造立年は元禄4年(1691)11月とある。このほかにも、貞享元年(1684)10月造立の如意輪観音像、元禄15年(1702)1月造立の(おそらく)大日如来像などが並んでいる。墓所入口にも何基かあり、勉強になった。

場所  中野区沼袋4丁目1-1

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2020年1月22日 (水)

実相院の庚申塔(中野区沼袋)

実相院は西武新宿線沼袋駅の北、商店街から西へ少し入ったところに山門がある。山門をくぐると両側に石仏が並ぶ。本堂前でお参りをして、左の墓所の入口を見ると、両側に石仏が並んでいる。これらのうち5基が庚申塔である。墓所に向かって左側の5基のうちの4基、右側の列のうちの1基である。どれも素晴らしい庚申塔なので1基ずつ紹介したい。

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左列の一番手前にある唐破風笠付角柱型の庚申塔は、下部に三猿が描かれており、その上には「奉庚申供養 石塔二世安樂」と書かれている。左右側面には蓮華蓮葉の模様が彫られている。造立年は見当たらなかったが、笠付角柱型は江戸中期に多い。その隣は勢至堂菩薩のようである。

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その隣は笠付角柱型庚申塔。青面金剛、邪鬼、三猿、二鶏が描かれている。 脇に「武刕多麻郡沼袋村 奉造立庚申供養二世安樂所」と書かれている。造立年は正徳3年(1713)11月。

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その隣、右から二番目のひときわ笠の大きな笠付角柱型庚申塔は正面金剛像と三猿の図柄。こちらは「奉供養庚申待二世安楽所」とあり、造立年は元禄10年(1697)10月である。

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一番右は笠のない駒型の庚申塔。青面金剛像と三猿の図柄で、こちらも「奉造立庚申待二世安楽所」とある。造立年は、これも元禄10年(1697)11月である。

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反対側(墓所向かって右側)にある庚申塔もまた見事なもの。唐破風笠付角柱型で、青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏が描かれている。「奉造立庚申供養二世安楽所」「武刕多麻郡沼袋村」と銘があり、造立年は正徳5年(1715)11月となっている。どれも1700年前後の江戸時代最も華やかな時期の庚申塔で立派なものであった。

場所  実相院  中野区沼袋4丁目1-1

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2020年1月21日 (火)

沼袋4丁目の庚申塔(中野区沼袋)

新青梅街道の沼袋交差点周辺がかつての字丸山地区である。交差点の辺りから中野区立歴史民俗資料館の辺りまでが丸山の集落として多くの民家があった場所。妙正寺川の北側を東西に走る新青梅街道の道筋は江戸時代からの道である。この道は西に向かうと沼袋交差点から200mほど西で二手に分岐し、北側は所沢街道として籠原観音前を通って中村方面へ伸びていた。この分岐点の南に庚申塔を祀った堂宇がある。

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庚申塔は唐破風笠付角柱型の大きなもので、青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏の図柄がある。「武刕多麻郡江古田村 講中24人」の銘があり、造立年は正徳3年(1713)11月。 右側面には「右 中村道」、左側面には「左 さぎのみや」とあり、前述の分岐点で道標となっていたことがわかる。おそらく東向きに立っていたのだろう。

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中野区の資料でも、この庚申塔は新青梅街道の拡張計画に伴って、昭和12年頃現在の場所に移設されたとある。前の場所は、中野区江古田4-35-1。庚申塔の保存状態はとてもよく、長い年月大切に守られてきたことがうかがえる。

場所  中野区沼袋4丁目33-6

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2020年1月20日 (月)

籠原観音(中野区丸山)

野方駅の北、環七丸山陸橋以北のエリアの住居表示が丸山。環七の外側が丸山2丁目で内側が丸山1丁目になる。この辺りの旧地名は籠原という。籠原は南の妙正寺川と北の江古田川(妙正寺川の支流)の間の江古田川寄りの台地である。当時の丸山は籠原の東、現在の江古田4丁目辺りで、旧地名と現住居表示が違ってしまった残念なケース。

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旧籠原地区には中野区立緑野小学校と緑野中学校が南北に並ぶ。緑野小学校は少子化に伴って、丸山・沼袋・野方の3小学校が統合されたもので、緑野という地名は存在しない。中学校の敷地の北西端にある地蔵堂が籠原観音と呼ばれている。現在は堂宇に収まっているが、昔は草むらに点在していたという。緑野中学校は区立第六中・第十一中が統合されたもので、以前ここは第十一中学校であった。その第十一中学校が出来た昭和38年頃にこの一角に堂宇を建てて集めたらしい。(数字の学校名も味気ない)

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堂宇には4基の石仏があるが、2基は姿がない。もともと左側2基は聖観音像、右側から二番目は不動明王であったという。不動明王像は地元の不良中学生が壊してしまったらしい。今頃罰が当たっているかもしれない。左の端には聖観音像の丸彫座像があったようだが、現在はない。左から2番目の舟型座像の聖観音像、そして右端の馬頭観音のみが現存している。

聖観音像は「奉誦光明真言百万遍供養 西国坂東秩父百番順礼供養塔」とあり、寛政10年(1798)11月の造立。願主は隣りの無くなった償還音増の台石と同じで石川七兵衛とある。残された左の台石には、「右 中むら道 左 ほりのうち道」とあるが、これはこの前の道が旧所沢街道だったためである。右端の馬頭観音は、馬兼といわれた人が農耕馬を供養する為に建てたと言われる。

場所  中野区丸山1丁目16-16

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2020年1月19日 (日)

くろんぼ川のお地蔵さん(中野区野方)

「くろんぼ」というのは差別用語として放送禁止用語になっている。しかし差別用語を指定することこそが最も差別だと思う。個人個人の受取り方で決めるべきだと常々思っている。このくろんぼ川のお地蔵さんの場合、ここに流れていた小川の名前がくろんぼ川という名前だったというだけの話。川のほとりに化け物が出没し、土地の人々が恐れていた。

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村人は何かの祟りだろうと考え、草ぼうぼうだった辻の塚のあったこの場所に、供養のために庚申塔を建てたという。それがこの庚申塔である。この場所は現在でいえば野方駅と沼袋駅のちょうど真ん中あたりになり、線路を挟んで南に清谷寺がある。線路がない時代は清谷寺から北に進むとこの丁字路に出た。

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路傍の庚申塔は、唐破風笠付角柱型の立派なもので、青面金剛像に邪鬼、三猿の図柄で、台石に「奉造立庚申尊像 元文5年(1740)」とある。さらに台石の左右には、「右 中村みち、左 中野道」とあり、道標にもなっていたようだ。くろんぼ川は清谷寺の北側を北西から流れ、妙正寺川に注いでいた沢筋である。明治時代にはほぼ川の形は無くなっていたようである。

場所  中野区野方4丁目1-16

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2020年1月18日 (土)

清谷寺の板碑(中野区沼袋)

西武新宿線野方駅と沼袋駅のちょうど真ん中あたりの南側に清谷寺がある。清谷寺の南東には妙正寺川が流れ、台地から低地に下り始める崖線上に寺はあるが、昨今はこの地形も感じにくくなってきた。清谷寺の創建は不明だが、かつて地蔵堂屋敷だったものをとある僧侶が一寺として興したと伝えられる。おそらくは鎌倉期か室町時代辺りからあったのではないかと思う。

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清谷寺本堂の前に板碑が並んでいる。これは都内の寺院では珍しい。板碑は大切に保管されていることが多く、こうして表に出ている例は少ないのである。この3基の板碑の他に近くに小さな板碑が1基、合計4基の板碑が公開されている。東京近辺の板碑はほとんど秩父の緑泥片岩を使っている。片岩というのは近くの中で極めて高い圧力を受けて変成し、薄く割れやすいミルフィーユのような構造の片理が進んだ岩石で、長瀞などで沢山みられる。はがれやすいので薄く作ることが出来、それで板碑に使われているのである。

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中央の大きな板碑は中野区指定の文化財になっている十三仏種子板碑で、造立年は応永6年(1399)と室町時代前期のものである。左の小さな板碑は阿弥陀三尊種子の板碑で室町時代中期、文明2年(1470)のもの。右にあるのは時代が分からないが、左と同様に阿弥陀種子の板碑である。手に降れる場所にあるのが何よりうれしかった。

場所  中野区沼袋3丁目21-7

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2020年1月17日 (金)

がんかけ地蔵尊(中野区野方)

妙正寺川の北のY字路にあるがんかけ地蔵尊。南北に走る道は広い道ではないがバスも走る。この道は江戸時代からある中野村から青梅街道へ繋がる古道。西武新宿線の踏切の庚申塔も、中野囲町北にある辻地蔵もこの道筋である。がんかけ地蔵尊を右(北東)に行くと清谷寺がある。かつては妙正寺川流域の田んぼから台地に上ったところであった。

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屋根のある堂内には庚申塔と地蔵尊、屋根の外には二十三夜塔が祀られている。庚申塔は唐破風笠付角柱型の大きなもので、青面金剛像と三猿・二鶏の図柄、「奉造立青面金剛二世安樂」、台石に「願主 矢島久右衛門妻講中31人敬白」とある。また台石には、「右 中村道 左 さぎのみや道」とあり道標を兼ねていた。造立年は享保21年(1736)3月。

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右側の丸彫の地蔵尊は、「秩父坂東西国右百箇所奉納為二世安樂也」とあり、「願主 沼袋村 矢島辰右衛門」のほか女性名も多い。造立年は延享元年(1744)9月。右側にある二十三夜塔には逸話がある。土地の事で近隣の揉め事があった時に、御嶽教の祈祷師がいて祈祷によると、昔この場所に二十三夜塔があったが無くなってしまったので再建するようにとお告げがあった。そこで関係者が昭和2年(1926)12月に現在の根府川石の二十三夜塔を建てたということである。

場所  中野区野方3丁目7-1

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2020年1月16日 (木)

北向地蔵(中野区野方)

南向地蔵があれば北向地蔵もある。下北沢村の南の代沢村には東西南北の地蔵があった(現存は2地蔵のみ)。野方第二公園脇の南向地蔵から北上すると妙正寺川を渡る手前に北向地蔵がある。この辺りは大正時代まで三谷という地名であった。その地名は今では妙正寺川に架かる三谷橋とこの地蔵の南にある三谷稲荷にのみ残っている。

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屋根付きの堂宇には馬頭観音と地蔵があり、手前には如意輪観音像がある。馬頭観音は享和2年(1802)2月の造立。馬頭観音なのだが、「奉巡礼西国坂東秩父百箇所供養 為二世安樂也」とある。これは三谷の人たちが西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所の観音霊場巡礼を成就した記念に建てられたものらしい。

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右側の地蔵はあちこち修復の跡があり、文字は欠落して半分ほどしか読めない。造立年も消えていて読めないが、下沼袋の銘が読めた。北を向いた地蔵はご利益があると信じられているのはここに限ったことではないが、ここの北向地蔵も遠くからお詣りに来る人がいるという。手前にある如意輪観音像も文字部分が削れていて時代等ほとんど認識できない。小字だった三谷の人々が北の塞ノ神として祀った石仏が南北で残っているのはなかなか貴重である。

場所  中野区野方2丁目29-11

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2020年1月15日 (水)

南向地蔵(中野区野方)

野仏は村の入口にあることが多く、いわゆる塞ノ神との関係が深い。中野駅の北、早稲田通り以北、西武新宿線以南の地域は江戸時代は下沼袋村枝郷新橋村であった。枝郷というのは新田開発によって新たにできた村で元の村を元郷とか本郷というのに対して枝郷、枝村とか新田と呼んだもの。南向地蔵はその枝郷であった新橋村の南西にあったものである。

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現在は野方第二公園の隣にあるが、実はこの地蔵堂は昔は環七に近い野方2丁目56にあった。交通が激しくなったからと現在の地に移転したのだが、そのいきさつについては「環七の交通安全地蔵」に記した。堂宇の中には2基の石仏があり、左側が庚申塔、右が地蔵立像である。右の地蔵は舟形光背型で子育地蔵とされる。元禄2年(1689)10月の造立で、「為奉造立地蔵尊二世安樂也」とある。

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左側の庚申塔は舟型で下部に三猿、その下に二鶏が描かれている。上部には文字のみで、「奉供養庚申安置二世安樂所」とある。造立年は貞享4年(1687)12月。武州多麻郡沼袋村 秋元弥右衛門 道行14人」の銘がある。

場所  中野区野方2丁目24-16

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2020年1月14日 (火)

辻地蔵(中野区野方)

中野駅の北西のエリアは近年大きな再開発が行われ。警察の敷地だった広大な駅前ゾーンは一部に警察病院と警察署を残すのみとなり、大学等の教育機関と公園になった。江戸時代はお犬様の「御囲い御用屋敷」だったエリアの一部だが、それでも広い。現在の住居表示は中野だが、昭和の中期まで「囲町」という町名だった。そのエリアの北西部分に警察病院がある。警察病院の北側を東西に走るのが早稲田通りで、これより北は野方となる。

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警察病院と野方警察署のある交差点の北西角に1体の地蔵が祀られている。ここは江戸時代から丁字路になっていて、荒井村、上沼袋村、高円寺村、中野村の4つの村の村境だった。そして古くから「辻地蔵」と呼ばれていたが、最近は子育地蔵とも呼ばれているようである。地蔵の右側にある四角い石には東西南北と彫られておりそれが横倒しになっている。左の石柱は道標らしいが、それぞれの面に中野宝仙寺、高田、鷺宮の文字が読めるがここにあったものかどうかは分からない。

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中央の地蔵の右側面には、寛保元年(1741)3月の造立年が刻まれ、願主浄念とある。左には「沼袋村新橋念仏講中」とあるので、新井村の塞ノ神だったのかもしれない。新橋は新井村の小字で、現在の区立平和の森小学校辺り。その北側には明治から昭和にかけて監獄(豊多摩刑務所)があった。しかし監獄は明治以降の話で、江戸時代は下沼袋村枝郷新橋村であった地域。

この辻地蔵については、中野区の資料に興味深い話が載っている。その昔、この角に饅頭屋があり、等身大の地蔵があったが、邪魔だと言って饅頭屋が移動し小さい地蔵に変えてしまったところ、間もなく饅頭屋に不幸が起こり、夢枕に地蔵が立ち「よくもこんな小さな体にしたな」と呪ったので元に戻し丁重に供養したという。

この場所にはかつて庚申塔もあったらしいが、その所在は不明である。

場所  中野区野方1丁目1-1

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2020年1月13日 (月)

環七の交通安全地蔵(中野区野方)

環七通りと早稲田通りが交差する大和陸橋の北、歩道橋の北東側の角に地蔵堂がある。 地元では交通安全地蔵尊と呼ばれている。この地蔵尊、実はかなり新しい物であった。

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この路地を入った先、約300mほどのところに南向地蔵がある。南向き地蔵は環七が出来る前からこの辺りにあったという。昭和に入った頃、関東大震災以降西に広がってきた耕地整理が進み、この辺りは沢山の民家が立ち並ぶようになった。そんな中で南向地蔵は東へ300mほど移動することになった。

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2体の石仏が移転してしまうと、なぜかこの場所で交通事故が頻繁に起こるようになったという。環七が出来てもその状態は続いた。そこで地元の篤志家がここに新しく交通安全地蔵尊を建てたところ、交通事故は減ったという。昭和41年(1966)の事だから東京オリンピックの後である。新旧に関わらず地蔵にはそういう力があると思う。人々が地蔵があることで注意を払うようになるからかもしれないが、それでも人の心に何かが伝わってのことである。

場所  中野区野方2丁目55-1

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2020年1月12日 (日)

大和町の厄除不動尊(中野区大和町)

育英地蔵尊の隣に並ぶのが厄除不動尊。こちらには3基の石仏が祀られている。中央に不動明王像があり、左右には庚申塔という並びで、バランスのいい景色である。主役は中央の不動尊なのだろうが、個人的には庚申塔の方が主役に思えてしまう。二つのお堂の前の道は八幡通りという。もともと上沼袋村の中心を東西に走る道だった。

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不動明王像の造立年などは分からないが、左右の庚申塔にはきちんと彫られている。左の大きな方の唐破風笠付角柱型の庚申塔は、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、「武州多摩郡上沼袋村大場 講中22人 願主 伊藤作左衛門」の銘がある。造立年は宝暦13年(1763)10月。大場というのは明治時代までの小字で、妙正寺川の北側(左岸)の一部である。

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右の庚申塔も唐破風笠付角柱型の角柱型。こちらの造立年は元禄6年(1693)11月とこっちの方が古い。青面金剛像と三猿のシンプルな図柄で、こちらには「武州多摩郡大場村」の銘がある。元禄時代は大場は小字ではなく村だったのだろうか。

場所  中野区大和町2丁目42-11

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2020年1月11日 (土)

大和町の育英地蔵尊(中野区大和町)

中野区大和町は野方の南、妙正寺川以南で、環七通りを東の境界、早稲田通りを南の境界にした一帯の住居表示。もともとは上沼袋村に属していたエリアである。大和町となったのは昭和に入ってからだが、これもまた「元から住む住民と新たに転入してきた住民とが大きな和をもって発展する町」ということで改名したらしい。残念な改名である。大和町の中心にある大和町八幡神社は上沼袋村の中心にあり、奥州征伐に源義家が祭祀を行った地ということで村人が天喜4年(1056)に八幡社を創建して村の鎮守となった歴史ある神社である。

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その八幡神社の参道の隣にあるのが育英(こそだて)地蔵尊と厄除地蔵尊で2棟が並んでいる。育英地蔵尊には大小7基の石仏が祀られている。育英地蔵は中央の最も大きい丸彫地蔵。造立年は延享3年(1746)9月。念仏講供養仏とあるので念仏講中によるもの。武州多摩郡上沼袋村 願主 橋本文左衛門 講中23人とある。

言い伝えでは、子供が大病になった時、夢の中に地蔵が現れ、祈願すれば治ると告げられた。そこでこの地蔵に毎日参詣して祈願したところ全治したという。

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左隣の舟形光背型の地蔵立像は、貞享2年(1685)2月の造立。その隣の小型の舟形光背型の地蔵立像は元禄6年(1693)12月のものである。一番左の角柱型の石塔は石橋供養塔で、「上沼袋村大場 石橋講中23人」の銘がある。宝暦年間(1751~1764)のもの。右の3基はどうも新しいもののようだが、かつての上沼袋村でも講が盛んにおこなわれていたことがわかる。

場所  中野区大和町2丁目42-11

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2020年1月10日 (金)

野方6丁目の庚申塔(中野区野方)

野方駅から商店街を北に進み、200mほど先の路地を西に入ると庚申堂がある。この庚申塔は中野区の資料にももれていた。江戸時代、この辺りは下沼袋村。すぐ南には北原小学校がある。この東西の道も古くからある道で、それらしく曲がっている。

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庚申塔は唐破風笠付角柱型の立派なもので、「奉供養庚申待二世安樂所」とあり、下部に三猿が彫られている。造立年は寛延元年(1748)10月で、当時の念仏講中10人によるもの。「武刕多摩郡上沼袋村」の銘がある。上沼袋村はもっと南西の地域で、妙正寺川の向こう岸である。元はどこにあったのだろうか。

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側面には道標が彫られており、「右 中村ミち」「左 さきのミやミち」とある。願主名は江川辰四良内と書かれている。おそらく近所の方がこの庚申堂を守って来られたのだろうと思うが、なぜ中野区のリストから漏れていたのか、なぜ上沼袋村なのか、と謎の残る庚申塔である。

場所  中野区野方6丁目28-4

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2020年1月 9日 (木)

踏切脇の庚申塔(中野区鷺宮)

鷺宮1丁目の庚申塔から南東に延びる道がある。江戸時代からある古道で南中の道、あるいは雑司が谷道と呼ばれた。野方の南を過ぎてから南下し、中野駅のある方角へ伸びている。中野駅の西側一帯は江戸時代はお犬様の施設があった場所で、区役所も大学も公園も繁華街もみな犬小屋の一部に過ぎない。その道が西武新宿線を横切る踏切脇に庚申塔がある。

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この庚申塔は昔は踏切の南側、現在でいうと中野区若宮1-55-1にあったものをここに移設したもの。昭和の後期に出版された中野区の刊行物にはまだ旧地点の庚申堂とされているので平成になってからの移設ではないだろうか。庚申塔は唐破風笠付角柱型で、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。側面に「奉庚申供養 さぎの宮村願主8人」とあり、反対側に年号がある。造立年は正徳4年(1714)10月である。

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旧場所ではこの庚申塔は野ざらしでしばしば倒れっぱなしになっていたりしたらしい。戦前その場所は交通事故が多く、住民が丁寧に供養すると事故が少なくなったらしい。堂宇を作ったのは戦時中からで、現在の堂宇は三代目。左側にある折れた角柱には「〇法大師」とあるがこれは福蔵院と宝仙寺への道標だったようだ。千羽鶴や花を見ると現在も地元の方に大切にされていることがわかる。

場所  中野区鷺宮1丁目1-9

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2020年1月 8日 (水)

野方の笑い地蔵(中野区野方)

西武新宿線野方駅のすぐ近くの路地裏に笑い地蔵という地蔵堂がある。丸彫の座像で造立年代は不詳。路地裏にお祭りのような結構賑々しい地蔵堂があって、地元の祭りも盛んだという。

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この周辺一帯は戦前「三角原」と呼ばれる野原だった。戦後、駅の近くの一角に映画館(西武劇場)を建てた坂本恒雄氏が旧家の庭先にあったものをここに移設したと記録されている。昭和22年(1947)1月の事だった。その時は堂宇は無かったが、昭和42年(1967)に地元の篤志の寄付によって増築された。

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地蔵はとても小さなものである。坂本は、敗戦に打ちひしがれた人々が、日々生活苦に追われ笑いを失っていることを憂慮して、商店街の繁栄を願ってここに笑い地蔵を安置したという。

場所  中野区野方5丁目18-13

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2020年1月 7日 (火)

若宮2丁目の庚申堂(中野区若宮)

中野区若宮は西武新宿線鷺ノ宮駅と野方駅の間の南側一帯、妙正寺川以北のエリアを指す。若宮という地名は昭和後期からで、それまでは鷺宮の一部であったが、住民の公募により「若くはつらつとした街」のイメージで若宮となったらしい。ある意味私が嫌う地名の改悪である。明治から大正にかけては鷺宮村の中でも下鷺宮と呼ばれていた地域なので、それが一番しっくりくるのだが、どうも住民は「下」とつくのが嫌だったのではないだろうか。極めて稚拙な見栄だと思う。そうやって全国あちこちで地名が破壊された、ここもその一つである。

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当然ながらこの堂宇の前の道も古くからある道である。都立家政駅前の商店街を南下してくると斜めの丁字路に当たり、20mばかり東に行くと四辻になる。交差する南北の道もまた江戸時代からの道。その四辻を南に曲がるとすぐにブロック塀の間の堂宇が現れる。

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中に納まって祀られているのは駒型の庚申塔で、青面金剛、邪鬼、三猿、二鶏の図柄のもの。「奉納為庚申供養二世安樂  武州多摩郡中野領鷺之宮村 講中16人」の銘がある。堂宇はブロックと檜で造られている頑丈なもの。道標も兼ねているらしいが堂宇は施錠されていて側面が見えなかった。造立年は享保10年(1725)10月である。

場所  中野区若宮2丁目7-15

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2020年1月 6日 (月)

福蔵院墓所の地蔵(中野区鷺宮)

都立家政駅の北西の路地裏に、鷺ノ宮駅南側にある福蔵院の墓所のひとつがある。明治時代の地図を見ると、西武新宿線は当然なく、福蔵院から北へ進むとこの墓所がある。当時の地図でもこの場所は墓所である。この墓所の入口に2基の地蔵が堂宇に入っている。

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左側は三界万霊塔の丸彫座像の地蔵尊。寛政4年(1792)10月の造立である。右側は地蔵尊だが長榮上人とある。年代は宝暦13年(1763)と江戸時代の中期のものである。昔、この場所には地福院という寺があり、ここはその地福院の墓地であったが、寺は廃寺になり墓所以外は住宅地に変わってしまった。墓所の一部だけが残ってしまったので、現在は福蔵院が管理しているという経緯のようである。

場所  中野区鷺宮3丁目8-1

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2020年1月 5日 (日)

鷺宮1丁目の庚申塔(中野区鷺宮)

鷺宮周辺には野仏が多い。それだけ江戸時代の民間信仰が盛んで、それを昭和まで守ってきた人々がいるということだろう。新青梅街道ルートの古い街道は都立家政駅の北、都立家政入口バス停の辺りで二股になり、北側は江古田・丸山へ、南側は野方への道になっていた。南側の道沿いにも野仏が残っている。この南側の道は江戸時代は雑司ヶ谷道あるいは南中の道と呼ばれていたようだ。

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分岐点からすぐ、民家のような場所に手水鉢や庚申塔がある。元々この庚申塔は分岐点にあったという。正面には「青面金剛」と大きく彫られているこの庚申塔、実は極めて珍しい物。正面は「天下泰平国家安穏 青面金剛 西」とあるが、右側には「観世音菩薩 なかのみち 南」、左側には「上鷺宮村 馬頭観世音菩薩 そふしかやみち 北」、裏には「寛政12年(1800)庚申11月 上鷺宮村 願主 大野一郎右衛門 大野浅右衛門 当所17人講中 東」とある。1基の庚申塔が、馬頭観音と聖観音を合わせているレアな石仏であまり例を見ないものである。

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庚申塔の右側にある小さめの角柱には青面金剛像らしい浮彫がある。実は何の塔なのかわからない。記録も資料も何もないが、青面金剛の上には不動明王のような炎模様が描かれている。民間信仰の面白い点はこういうよく分からないものがある事にもある。江戸時代の民衆が何を考えどういう生活をしていたのか、そんなことに思いを馳せると作り掛けや中途半端な石仏があってもいいような気がしてくる。

場所  中野区鷺宮1丁目30-22

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2020年1月 4日 (土)

白鷺2丁目の庚申塚(中野区白鷺)

鷺ノ宮駅から中杉通りを南へ500mほどで次のバス停である白鷺二丁目がある。バス停のすぐ先に変則的な五差路があり、そこに庚申塚がある。東西に交差するのは若草通りという道。高度成長期以前はこの辺りの住居表示は鷺沼2丁目、さらに大正時代に遡ると中杉通りの東は宮前、西は原という地名であった。またこの五差路は以前は庚申前と呼ばれていた。

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変則五差路の三角地帯には5基の石仏が並んでいる。花が飾られ今でも地元の人々に守られ親しまれていることがわかる。明治20年代に流行り病があった時にここにお祈りをしてご利益があったと伝えられる。いまだに病気治癒の祈願をする人がいるという。戦後、子供たちがいたずらして倒したりしていたが、昭和30年頃から整備され、地元の旧家の人々が管理をしているらしい。

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右から紹介すると、まず右端は舟型の馬頭観世音、造立年は明和3年(1766)3月というから馬頭観音としては相当古いものである。施主は菊田孫右衛門とあり、奉千老供養馬頭 武刕多摩郡下鷺宮村講中18人の銘がある。右から2番目は駒型の庚申塔。青面金剛、邪鬼、三猿の図柄で、造立は延喜3年(1746)10月。中野区の資料によると「奉造立庚申講中二世為安樂 武州多摩郡鷺宮村講中15人」とあるらしいが文字が見当たらなかった。

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中央の石仏も庚申塔。駒型で青面金剛・二鶏・三猿の図柄、造立年は正徳2年(1712)10月。「奉庚申待二世安樂所 願主 同行8人敬白」とある。ここの石仏の中ではこれが最も古い。

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左から2番目は地蔵菩薩の立像。「南無阿弥陀仏 武刕多摩郡下鷺宮村 奉造立地蔵菩薩 念仏講中二世安樂所 講中21人」とあり、造立年は宝暦3年(1753)3月である。そして左端は聖観音像で、これは新しい。大正8年(1919)9月とあるので丁度100年前のものである。これだけ並んでいるとなかなか壮観で、しばし拝ませていただいた。

場所  中野区白鷺2丁目35-12

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2020年1月 3日 (金)

福蔵院の石仏(中野区白鷺)

鷺宮の地名の由来鷺宮八幡神社の別当寺福蔵院は大永元年(1521)の創建。江戸時代から鷺宮の中心である。南へ1㎞あまり進むと早稲田通り。早稲田通りも古い道で、井草から高田馬場への重要な運搬ルートだった。南側に参道と山門があり、山門迄の両側は異なるタイプの築地塀が続いていていい雰囲気である。

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参道に入って右側には2体の地蔵尊、右側の小さい方は「子授地蔵菩薩」とあり、明治34年(1901)に念仏講中による造立。左側の大きい方も念仏講中による地蔵尊だが造立年等は分からない。こちらの背景の築地塀は蔦が絡み野趣あふれる雰囲気だが、反対の築地塀は最近建てたかのようにきれいでところどころアクセントの入ったデザインである。こちらには馬頭観世音像が立っている。台石には「天下泰平 国土安穏」とあるが造立年はこちらも不明。

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山門を入ると十三仏が並び壮観な眺めである。右から不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩・地蔵菩薩・弥勒菩薩・薬師如来・観世音菩薩・勢至菩薩・阿弥陀如来・阿閦(あしゅく)如来・大日如来・虚空蔵菩薩で13体が並んでいる。うち8体は寛文6年(1666)から貞享2年(1685)の間に造立され、残る5体は破損したと思われ、後の寛政8年(1796)に真言講中により再建されたとある。

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本堂前には立派な唐破風笠付角柱型の庚申塔が立っている。文字塔で下部に三猿が描かれ、中央に「奉供養庚申二世安樂」とある。造立年は天和2年(1682)9月と古い物。これ以外にも多くの石仏があったが今回は割愛した。

場所  中野区白鷺1丁目31-5

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2020年1月 2日 (木)

福蔵院前の北向地蔵(中野区白鷺)

福蔵院の北側に垢離不動尊があり、南側には北向地蔵がある。北向地蔵は向きが北だからそう呼ばれるのだが、この地蔵はこぶとり地蔵とも呼ばれている。ちなみに福蔵院の正門(山門)は南側にある。こぶとり地蔵がある一体も福蔵院の墓所だと思われる。

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この地蔵の造立年は不明である。地蔵本体はかなり風化が進んでしまいいささか危ない感じがする。こぶとり地蔵というのは「小太り」ではない。真面目にコブやオデキを取るというご利益のある地蔵の意味である。地元では、コブやオデキができると小石を供えて祈願し、コブやオデキが完治すると団子をお供えしてお礼をするという風習が続いていたようだ。

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これだけの風化はおそらく以前は堂宇がなかったのではないかと思われる。かつて鷺宮周辺が民家も稀な農地だった時代から、人々が小石を供え続けてきた様子をずっと見守って来たのだろう。ちなみに別当寺である福蔵院と鷺宮八幡宮を回り込むように妙正寺川は流れており、もし古代にここに館城があったとしても不思議ではない地形の立地である。この南側は宮前と呼ばれる地域で、そこには民家もあったようだ。

場所  中野区白鷺1丁目16-12

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2020年1月 1日 (水)

福蔵院の垢離不動尊(中野区白鷺)

福蔵院の北側の壁に堂宇があり、2体の不動明王像の石碑がある。「垢離不動尊」と書かれている。垢離(こり)とは水垢離(みずごり)などのように、神仏に祈願する前に、海水や冷水を浴びて身を清め、心の穢れを落として清めることをいう。滝行とは異なり、山岳信仰などで聖域に入る時や出発するときに行う儀式である。

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左の石塔はやや小さく、右の石塔は大きい。右側は敷石供養塔とある。年代などは読み取れなかった。堂宇の後ろには溶岩が敷き詰められていることから、富士講と関係があるのではないかと思われる。

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私の推測だが、こういう垢離不動尊は概ね川の傍にある。ここもすぐ北側は妙正寺川である。そして溶岩を用いたのはおそらく富士講の人々だろう。鷺宮周辺から富士山へ富士講の代表として出発するときに、妙正寺川で身体を清める水垢離を行い、ここで道中の安全を祈願したのではないだろうか。近くに水道もあり、近年はこの石碑に水を掛けてお参りするようである。

場所  中野区白鷺1丁目31-5

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2019年12月31日 (火)

交通危除地蔵境内の石仏(中野区白鷺)

中杉通りの西武新宿線の踏切を南に渡るとすぐに妙正寺川を渡る。この橋を八幡橋という。すぐ南東に鷺宮八幡神社があり、これが鷺宮の地名の由来である。康平7年(1064)に前九年の役に勝利して東北を平定した源頼義が建立とされ、当時周りは鬱蒼とした林で鷺の巣が集まっていたことから鷺宮大明神と呼ぶようになった。その周辺の土地として鷺宮という地名が生まれたと言われる。

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交通危除地蔵そのものは新しく、昭和12年(1937)に造られたものだが、説明碑によると日本で最初の交通安全の地蔵尊だという。ただ願主が交通事故防止安全会地蔵講とあり、今も地蔵講が生きていることは素晴らしいと思う。この境内には、近くにあった石仏や道標が集められている。

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まず庚申塔が1基。駒型で青面金剛像に邪鬼、三猿が描かれたもの。造立年は寛保2年(1742)9月で、元あった場所は踏切の北の方、新青梅街道の手前の三差路(鷺宮4丁目415というから、現住所は鷺宮4丁目44-1)。「奉造立庚申尊像 武州多摩郡上鷺宮村 講中男女15人」と書かれている。施主は篠家で、この辺りの名家である。

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その隣にある地蔵2体だが、右の大きい方は庚申塔と同じ場所にあったもの。享保16年(1731)10月の造立。台石に「奉供養地蔵大菩薩 念仏講中為二世安樂  願主 篠勘三郎 他信男信女67人」とあるので、なかなか大きな地蔵講だったようだ。元の場所には現在三角形の敷地にビルが建っているが、以前は普通の民家兼店舗が並び、地蔵と庚申塔があったのは少なくとも昭和中期だろう。70年前の国土地理院の地図にはこの三差路に立像のマークが付いている。

場所  中野区白鷺2-48-1

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2019年12月30日 (月)

御嶽神社と子育地蔵(中野区鷺宮)

笠の落ちた庚申塔と上半身欠損の地蔵尊の向かいにあるのが御嶽神社。とても小さな神社でまるで屋敷守のように小さい。この神社は武州御嶽神社(青梅)の分社で、鷺宮4丁目(旧地名:中内)と6丁目(旧地名:大境)に住む約30人の講員によって維持管理されている。川崎の梨農家が御嶽神社へお参りする話は知っていたが、この地域にも同じ風習があったのかと驚いた。

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この御嶽神社の前に地蔵尊がある。地元では「子育地蔵」と呼ばれている。丸彫の地蔵尊は宝暦9年(1759)10月の造立。「武州多摩郡上鷺宮村 施主 大野弥三郎」の銘がある。施主の大野弥三郎は子供が育たないので、祈願してこの地蔵を建立したと伝えられる。

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そして御嶽神社の方はというと、明治41年(1908)の建立。地蔵よりもずっと新しい。上記御嶽講中によって建てられたわけだが、それには事情があった。御嶽神社は昔から農家の作神様として多くの信者が武蔵野に居た。もとは鷺宮3丁目30番地というから鷺ノ宮駅の少し北側に御嶽神社があった。元亀3年(1572)に地域に悪疫が流行った折、青梅の御嶽神社にお参りしたところ悪疫は収まり、篠源左衛門によって創建されたものである。ところが後に管理されなくなり無くなってしまった。この御嶽神社と上鷺宮2丁目の北原神社は、もとはこの鷺宮3丁目の御嶽神社から講中により分祀されたもので、そっちの方が現在も残っているという訳である。

場所  中野区鷺宮5丁目12-4

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2019年12月29日 (日)

鷺宮5丁目の庚申と地蔵(中野区鷺宮)

鷺宮4丁目の庚申塔で旧新青梅街道と交差した鷺宮村から井荻村への古道を南西に進むと、5分ばかり歩けばまた同じように辻に植込みがあり野仏がある場所に差し掛かる。そのまま進むと西武鉄道の変電所のある辺りに出るが、そこには昔、西鷺ノ宮駅があった。昭和17年(1942)に開業したが、2年後に閉鎖され、9年間放置された後、昭和28年(1953)に正式に廃止されたという謎の駅である。

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ブロック塀が凹んだところに庚申塔と地蔵が並んでいる。塀の向こう側は今となっては希少な畑になっている。近づいてみると右側の地蔵は上半身がない。台石は道標を兼ねているらしいが左面は塀側で読めず、右面は「いくさ道」(井草道)とある。造立年は元文3年(1738)11月。「奉供養地蔵尊 講中36人  武州多麻郡上鷺宮村」とある。

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むかって左側の庚申塔は本来は唐破風笠付の角柱型だが、笠は後ろに落ちていた。青面金剛像に邪鬼・二鶏・三猿の図柄で、造立年は延享2年(1745)10月である。「奉造立庚申尊像  武刕多摩郡上鷺宮村 講中28人」とある。この辺りはかつては大境と呼ばれた地域で、妙正寺川流域の水田と台地の畑を使った農家が散らばっていた。開発されたのはほんの数十年前の高度経済成長期、それまではのどかな農村風景だった。

場所  中野区鷺宮5丁目11-1

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2019年12月28日 (土)

つげの木地蔵(中野区上鷺宮)

ここも新青梅街道からちょっと外れた旧道にある地蔵尊である。この辺りは昔、上鷺宮村の中でも北原と呼ばれていた地域。南に流れる妙正寺川の対岸には原という地域があるのでそれと対応しているのであろう。つげの木地蔵の名前の由来だが、昭和20年頃までは大きなツゲの木がこの地蔵を覆い、祠の役目を果たしていたことからそう呼ばれるようになったらしい。

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現在ツゲの木はないが、後ろのアパートの敷地にあるみかんのような柑橘系の樹木が雰囲気を出している。地蔵の造立年は寛政3年(1791)10月で、台石の右側面に年号が彫られている。台石正面には鷺宮村の銘があり、念仏講中27人が願主となっている。

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手前の自然石には「つげの木地蔵尊」と彫られ、「右 目白道 左 田無道」とある。この石がいつからあるかは分からない。そして残念なことに、台石は江戸時代のものだが、地蔵本体は終戦間もない頃、何者かの盗難に遭い見つかっていないという。現在の地蔵は昭和29年(1954)に再建されたものである。仏を盗む輩は許せない。多くの信者が傷ついたことだろう。罰が当たっていることを望むばかりである。

場所  中野区上鷺宮2丁目10-1

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2019年12月27日 (金)

鷺宮4丁目の庚申塔(中野区鷺宮)

都立家政駅と鷺ノ宮駅はとても近くホームの端から隣駅のホームの端まで300mしかない。野方と都立家政の間も近いがそれでも600mはある。電車を待つなら間違いなく歩く距離である。これは昔、中野高等家政女学校(現在は鷺宮高校)の要請で都立家政の駅を作ったからである。鷺宮は中野区でも最も開発の遅れたエリアで、妙正寺川の流域の低地には水田が広がっていた。この流域の開発が進んだのは高度経済成長期以降で、都営アパートなどが沢山作られた。

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西武新宿線の北側を並行して東西に走るのは新青梅街道である。「新」とつくのにこの道は江戸時代からある古い道である。そしてこの道筋には時代に応じた野仏が残されている。中杉通りの交差点の西からまっすぐな新道と旧道が分岐しているが、この旧道筋の途中に古い庚申塔が立っている。植込みに紛れている様子だが、唐破風笠付角柱型の立派な庚申塔である。

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青面金剛像は無く、下部に三猿が浮彫になっている。正面には「奉供養庚申二世祈所」とあり、造立年は元禄10年(1697)2月である。東西の旧道と交差する北東から南西に延びる道は、上鷺宮村から井荻村へのメインルート。この小さな辻には昔から多くの人々が往来していたのである。

場所  中野区鷺宮4丁目6-5

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2019年12月26日 (木)

上鷺宮の願掛け地蔵尊(中野区上鷺宮)

西武新宿線鷺ノ宮駅から中杉通りを北へ600mほど歩くと路傍に2基の地蔵が立っている。地元では「子連れ願掛け地蔵」と呼ばれている。中杉通りは江戸時代からあった道筋。阿佐ヶ谷村から下鷺宮村、上鷺宮村を繋ぐ街道であった。当時この辺りは中村、上鷺宮村、下鷺宮村のそれぞれの村境が近く、現在も上鷺宮と中村東の町境である。どちらも北向であることから、おそらくは上鷺宮村にとっての塞ノ神だったのだろう。

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左側の大きい方の地蔵は正徳5年(1715)10月の造立。「奉供養念仏講中」とあり、台座に「上鷺宮村 願主 篠氏」とある。いっぽうの小さい方の地蔵は造立年不詳、「奉造立菩提念仏供養念仏中二世安樂」とあり、こちらも台座には「多摩郡上鷺宮村篠丈右衛門」の銘がある。このふたつの地蔵には面白い言い伝えがある。

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祈願する人が白装束で夜中に念仏を唱えながら小さい方の地蔵を倒すと、大きい方の地蔵は倒された小さい地蔵を起こしてもらいたいために願い事を叶えるというのである。成就すると、祈願した人は自分が倒した小さい方の地蔵を起こしに行くという風習である。なかなか面白い村人の風習だと思う。

場所  中野区上鷺宮1丁目2-13

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2019年12月25日 (水)

鷹番馬頭観音(目黒区鷹番)

目黒区に鷹番という住居表示がある。現在は学芸大学駅の西側も含む広いエリアを指すが、昔は鷹番小学校の周辺の小字だった。江戸時代将軍の鷹狩場があったのは主に江戸城から5里(20㎞)の範囲内で、目黒のこの辺りは頻繁に将軍の鷹狩が行われた地域である。周辺は碑文谷原と呼ばれ、広大な原野や水鳥の多い池が散在した。鷹番というのは、鷹狩り場(鷹場)の番人を指すことが多い。そんな人々が住んでいたのがこの辺りで、明治末期までは家も20軒ほどしかなかったという。

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そんな鷹番小学校の南側、目黒通りに出るすこし手前の辻に馬頭観音の堂宇がある。実はこの辻、江戸時代から重要な交差点で、どの道も古道で何百年も使われてきた道である。東西の道は目黒からは二子道、反対からは目黒道と呼ばれた街道筋。また南北の道は祐天寺から南下して円融寺を経て等々力へ伸びた道であった。現在はこんな路地だが、今でいうと環七と目黒通りの柿の木坂交差点のような場所であった。

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馬頭観音は摩滅が進み細部が分からなくなっている。目黒区の資料によると、造立年は嘉永3年(1850)らしい。台石には「武州比企郡諏訪山妙安寺」とあることから、目黒銀座の馬頭観音と同じく、埼玉県東松山市の妙安寺から勧請されたと思われる。中目黒駅の西側の小高い丘で現在は高級住宅地になっているところを諏訪山と昔から呼んでいた。東松山の諏訪山妙安寺と中目黒の諏訪山の関係が気になるが、それについて書かれた資料はまだ見たことがない。

場所  目黒区鷹番1丁目5-15

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2019年12月24日 (火)

清水庚申尊(目黒区目黒本町)

目黒通りの目黒郵便局から武蔵小山方面に250m進むと斜めに円融寺通りと交差する。現在はピザ店があるその角に清水庚申尊がある。近くのバス停の名前も「清水庚申」であり、地元では広く知られた場所。この斜めの交差点は江戸時代からこの角度で交差している。現在の目黒区役所は中目黒の元千代田生命本社の場所にあるが、2000年に千代田生命が倒産した時に目黒区が購入した。それまで区役所があったのは目黒区中央町2丁目4の区画で、現在は大きなマンションになっている。そのためこの辺りは本町とか中央とかいった地名になっている。

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その清水庚申尊だが、脇に従えている燈籠は一見して切支丹燈籠である。ところがこれが近年の創作なのか昔からどこかにあったものか、全く情報がない。目黒区にはいくつも切支丹燈籠が現存していて、本物の可能性もゼロではないと期待はしているが、どうも見た感じ薄そうである。

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主役の庚申塔は角柱型、前面に「南無妙法蓮華経 庚申講中」とある。造立は嘉永7年(1854)10月と意外に新しいが一応江戸末期。道標を兼ねており、右面には「向テ右 いけかみ まりこ 左 めくろ ゑど みち」、左面には「向テ 右 せたかや ふちう 左 しな川 みち」とある。 学芸大学駅からここを通って中原街道平塚への道は品川用水沿いにできた道である。ところがこのあたりだけは品川用水から離れている。おそらく品川用水掘削以前から円融寺道があり、その為にここだけ離れてしまったのではないかと推測する。

場所  目黒区目黒本町1丁目10-18

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2019年12月23日 (月)

碑文谷鬼子母神堂の石仏(目黒区目黒本町)

目黒本町なのに碑文谷なのは昭和後半で味気ない地名で住所を決めたからだろう。もともとこの辺りも碑文谷村の一部だった。高度成長期以前は学芸大学駅あたりを水源とする川が鬼子母神堂の前を流れ、区立向原小学校の前で立会川の本流に合流していた。上流にあった川を堰き止めたため池は今も残っていて清水池公園の池になっている。この鬼子母神堂は元和2年(1616)に安藤藤八郎という人物が建立したらしい。

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この場所は「法華塚」と呼ばれ、江戸時代から除地として租税を免れた土地になっていたらしく、円融寺との深い関係があったのではないかと思われる。またこの土地は5世紀~6世紀の古墳跡であるという説もあり、千数百年もの間聖なる一角として扱われてきた。境内にある石碑石塔はまるでストーンヘンジのように周りを囲んでいる。

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手前にも右奥にも石塔石碑が並んでいるが、区の資料に残されているのは手前の5基のうちの中央の角柱に近い駒型の馬頭観音のみ。「十羅刹下馬頭観音」と言われ、元はここではなく目黒本町5丁目24にあったというから、前述の川が立会川に合流する辺りである。造立は明治14年(1881)3月で、道標を兼ね「右 東京目黒みち 左 丸子奥沢みち」と側面に彫られている。

ただし5基の中ではこの馬頭観音が最も新しく、左端の板碑型供養塔は寛文4年(1664)、左から2番目の角柱は寛保3年(1743)、右から2番目の角柱は文政10年(1827)などとかなり古いものが多い。この塚は改めてじっくり調べたい場所である。

場所  目黒区目黒本町6丁目24-11

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2019年12月22日 (日)

碑小前の庚申塔(目黒区碑文谷)

東京の町名はほぼ悪化の一途を辿ってしまい、かつての土地の名前が消えてしまったケースが極めて多い。「丘」「台」をつければ不動産価値が上がるなどと愚かなことを考えるので、窪地なのに自由が丘などと付けてしまう。そんな中でバス停と小学校名は土地の記憶を残していることが多く、いつも有難く思っている。23区内でいうと、港区の笄(コウガイ)小学校、目黒区の菅刈(スゲカリ)小学校、そしてこの碑(イシブミ)小学校などは何百年あるいはそれ以上の歴史をまとった名前である。

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目黒区立碑小学校は円融寺と並んでいる。円融寺の東門を出て右に小学校があるが、すぐに屋根付きの石塔が見つかる。「碑小前の庚申塔」と呼ばれている。しかしかなり新しいもののようである。見ると角柱型の文字塔庚申塔で、昭和31年(1956)7月の再建とある。私とほとんど変わらない。

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以前の庚申塔は、円融寺の東門の前にあったというから、10mも動いていないはずである。たった60年余りで記録がないのが残念でならない。僅かに目黒区の資料には、道標を兼ねた庚申塔があったとある。この辺りの昔の地名は「門前」という。円融寺の正門は南側だが、東門周辺の方が遥かに民家も集まり利用者が多かったのではないだろうか。

場所  目黒区碑文谷1丁目18-2

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2019年12月21日 (土)

円融寺と石仏(目黒区碑文谷)

碑文谷八幡宮の北東200mばかりのところに円融寺がある。とても広い寺院で幼稚園を含めると表から裏まで250mほどある。この円融寺は目黒不動や祐天寺に押されてあまり知られていないがなかなかの名刹である。山門と釈迦堂がとくに素晴らしい。創建は平安時代の仁寿3年(853)で慈覚大師が天台宗法服寺として開山。

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山門の向こうに見えるのが釈迦堂。山門の両側には東京都の指定文化財である黒仁王像が対に立っている。作られたのは永禄2年(1559)で江戸時代には庶民の人気が高かったという。山門(仁王門)も同時期のものかと思われる。天台宗の法服寺は、弘安6年(1283)に日蓮の高弟日源上人により日蓮宗に改宗され法華寺となった。従って江戸時代は法華寺で、江戸後期の天保5年(1834)から再び天台宗に戻り円融寺と改名した。

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釈迦堂は都内で2番目に古い木造建築。この建物は国の指定重要文化財になっているが、さりげないたたずまいである。室町時代初期の建築とされる。鎌倉の寺院を訪ねたかのような錯覚に陥る風情がある。その釈迦堂から西に進むと墓所になるが、その手前にいくつかの石仏が並んでいる。

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右のほうの小さい石仏は墓石、その中でも大きな舟形光背型の如意輪観音像は宝暦14年(1764)の廻国供養塔である。六十六部廻国とあるが、この六十六部というのは四国八十八ヶ所とか、西国三十三ヶ所というように寺が決まっているわけではない。日本全国から比較的自由に六十六ヶ所を決めて巡るのである。なかなか興味深い。

中央の大きいものは金竜地蔵と呼ばれ、三界万霊の供養塔で、明治27年(1894)のもの。左の堂宇らしきものに入っているのが出世地蔵尊とあったが、どうも寛文10年(1670)と古い物らしいが、文字が良く読めなかった。墓所に行くとまだまだいろんな石仏があるのだが、きりがないのでこれくらいにしておいた。

場所  目黒区碑文谷1丁目22-22

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2019年12月20日 (金)

碑文石(目黒区碑文谷)

目黒区の環七内側に碑文谷というところがある。江戸時代は碑文谷村という村で、昭和7年に東京市目黒区に入った。かつては竹林の多い土地で筍が名産であった。民話『すずめのお宿』に因む竹林も古民家と共に残されている。碑文谷八幡神社の西にあるすずめのお宿という区の施設である。旧衾村の栗山家の母屋をに移築復元している。

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碑文谷八幡宮はマンションの多い環七沿いからすぐの場所でありながら豊かな樹木が林立している。環七筋が尾根だと以前に書いたが、その尾根から立会川に向かって少し下った斜面上に神社があるので、参道から入ると徐々に上っていく形になる。鎌倉時代の源頼朝の家臣である畠山氏が勧請して創建したと伝えられる古い神社である。

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神社の境内にガラスの堂宇に入った「碑文石」がある。これが碑文谷の地名の由来と言われている。碑文を彫った石のある里という意味で碑文谷の地名になったらしい。梵字が刻まれ、自然石の板碑のようなものと考えられる。昔、神社の西側を通っていた鎌倉街道沿いの土中に埋まっていたもので、時代は室町時代とされている。鎌倉街道については下道のルートの一つのようで、代官山猿楽町から目切坂を下り、蛇崩川を渡って葦毛塚を通り、碑文谷池の傍から環七筋に走っていたのが鎌倉古道のひとつであった。

場所  目黒区碑文谷3丁目7-3

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2019年12月19日 (木)

高木神社の庚申塔(目黒区南)

東京に立会川という川がある。京浜急行線に立会川という駅があるが、そのすぐ南を流れ東海道の浜川橋(泪橋)を下ると勝島運河から京浜運河に注いでいる。この源流は数年前に碑文谷池バラバラ殺人事件で無期懲役となった事件現場の碑文谷池である。無期懲役という曖昧で甘すぎる刑には個人的に反対なのだが、2016年のあの事件がここを訪れるとどうしても蘇る。そんな碑文谷池を水源とした立会川は、もう一つの水源である清水池からの流れを合わせて目黒区から品川区へ流れていく。

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碑文谷池から南に流れる立会川が環七を尾根とする台地のために流れを東に変えるところにあるのが碑文谷八幡宮で、そのすぐ南にあるのが高木神社である。高木神社の創建は不詳。江戸時代は第六天社として祀られ、明治になってから高木神社と改名した。おそらくパワースポット好きが好みそうな雰囲気がある。この辺りは江戸時代は碑文谷村子ノ神という集落であり、その守護神だった。

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境内には道標を兼ねた角柱型の庚申塔がある。造立年は天明8年(1788)12月、それ以来雨風にさらされてきたからかまるで甌穴のようになった角柱の頂上部分が凄い。この庚申塔が別名「子ノ神庚申塔」と呼ばれるのは、子ノ神集落の人々が護ってきたものだからである。塔の上部に東西南北が彫られており、北面は「武州荏原郡 庚申講中 碑文谷村」と上半分、「目黒 仁王尊 道」と下半分にある。東面は「品川 大森 道」、南面は「丸子 池上 新田 道」、西面は「東 品川 大森 道」とある。

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しかしこの頂上の甌穴はどうやってできたのか想像が膨らんだ。甌穴のようにそこにあった石が広げたということはないだろう。樹木から落ちる雫が削ったとも思えない。ごくまれにこういう石仏石塔があるが、謎である。

場所  目黒区南2丁目1-40

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2019年12月18日 (水)

清水窪弁財天と馬頭観音(大田区北千束)

中原街道脇にある洗足池、昔からの周辺の地名は千束であったが、日蓮が身延山久遠寺から常陸の国へ当時に向かう途中、池のほとりで足を洗ったという言い伝えから洗足池となったと言われる。真偽のほどは分からない。そんな洗足池は、一説には大昔に築堤によって造られた人工池だという説がある。確かに地形的にはその通りである。洗足池に流入する支流はいくつもあったが、現在も残るものは清水窪弁財天の池の湧水だけである。

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弁財天の脇には滝のように落ちる水流があるが、これは人工の滝である。実際の湧水は池のほとりで判るか分からない程度湧いているようだ。井の頭池や代々木公園の清正井のようにはいかない。その他の水源は環七と中原街道の交差する南千束立体交差の辺り、大岡山駅付近、東工大キャンパスの南東付近である。勿論どれも現存しない。この清水窪弁財天の奥に馬頭観音がある。

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造立年などは全く分からない。おそらく昭和後期辺りではないかと思うが、どこにも記録がない。自然石の板状のものに「馬頭観世音」とのみ彫られている。ちなみに清水窪弁財天は、江戸時代初期に地元の岸田家先祖が祀ったのが始まりという。縄文海進の頃はこの辺りまで海が迫っていたようで、大森区史には洗足池は海の名残りと書かれているようだが、多分違う。

場所  大田区北千束1丁目26-5

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2019年12月17日 (火)

鉄飛坂庚申塔群[境内](目黒区平町)

帝釈堂内の4基の庚申塔(供養塔)は見事なものだが、小さな境内にある二つの石碑もなかなかのものである。現在の地名は平町(たいらまち)だが、明治時代から大正時代にかけては平という地名、その小字に鉄飛があった。 江戸以前の古道は南北に何本かの鎌倉道があり、その間を六郷田無道が通っていた。またこの辺りでは池上本門寺に向かう池上道も分岐している。

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鉄飛坂の坂下には呑川が流れ、その向こうは寺郷という集落。間の谷筋には田んぼが広がっているというのが大正時代までの様子である。現在は帝釈堂の場所は四辻になっているが、昔は丁字路で南には道が伸びていた。少し南下したところに神社があったようだが、昭和後期以降の地図からは消えている。(神社跡はマンションになっている)

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境内にある二つの石碑の内一つは駒型の見事な庚申塔である。青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている駒型の庚申塔は残念ながら造立年が分からない。目黒区の資料によると港区から移設したとあるが、元の場所は分からない。

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もう一基の石碑は角柱型の庚申塔で道標を兼ねている。正面には「庚申供養塔」と彫られ、左面には「武州荏原郡世田ヶ谷領衾村」とある。また正面には「右ハ目くろミち  左ハ二子の渡し」とあり、右面には「右ハほりの内  左ハ池上 ミち」と書かれている。ほりの内は杉並区の堀ノ内である。この庚申塔は昔はここから東へ200mほどの四辻にあったもの。「切石庚申」と呼ばれていた。

場所  目黒区平町2丁目18-3

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2019年12月16日 (月)

鉄飛坂庚申塔群[帝釈堂内](目黒区平町)

目黒区の中でも鉄飛坂は名坂のひとつである。 その鉄飛坂の坂上にあるのが帝釈堂、そして複数の庚申塔が堂内と境内にある。帝釈堂は日蓮宗にみられる。葛飾の柴又帝釈天も日蓮宗の寺院である。不勉強なので細かい宗派の違いは私にはわからないが、日蓮宗は「妙法蓮華経(法華経)」の題目「何妙法蓮華経」と唱えることを重視した宗派。私は曹洞宗の寺院で両親を弔ったが、比較的近所にあったのが日蓮宗の寺院だったので、墓所は日蓮宗の寺院の境内にした。あの世で「般若心経」と「何妙法蓮華経」と一体どっちだと怒っているかもしれない。

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窓の間から堂内を覗くと4基の立派な石塔が祀られている。順番に紹介すると、右端は板碑型庚申塔で、造立年は延宝8年(1680)11月。「奉敬礼帰名帝釈天王」と書かれている文字塔。右から2基目は角柱型の題目塔で、「南無妙法蓮華経」と書かれている。造立は天保13年(1842)。三番目は頂点のきれいな板碑型庚申塔で、「南無妙法蓮華経」とあり下部には帝釈天王が彫られている。造立年は明治14年(1881)11月。

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上の写真では柱に隠れていた左端がこれである。 板碑型の文字塔型庚申塔で造立年は貞享2年(1685)11月。こちらも「奉尊敬帰名帝釈天王」とある。日蓮宗系なのは池上本門寺が近いからだろうか。ここには南北にも街道が通っていて、多くの信者が池上本門寺に通ったらしく、あちこちに池上への道標が残っている。

場所  目黒区平町2丁目18-3

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2019年12月15日 (日)

平町墓所脇の庚申塔(目黒区平町)

桜森稲荷神社の70mほど南に墓所があり、一角に石塔がいくつか祀られた境内がある。民家と墓所の間にあるが道から直接見えないので見落としてしまいそうだ。平町はヒラマチではなくタイラマチと読む。江戸時代には衾村字平根、平根の「平」が残って1965年の改定で正式に平町となったが、明治時代の地図を見ると「平根」、大正時代は「平」、昭和に入ってからは「平町」という地図表記になっている。

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ブロック塀の階段を上ると左に屋根付きの石碑がある。板碑型の庚申塔で、造立年は延宝6年(1678)11月と相当古い。文字塔で「帝釈天王」と書かれている。高さは1mを超える大きさ。なぜこの場所にこれがあるのかなど不思議が多い。

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板碑型庚申塔と向かい合うようにして、墓所の塀の前に並ぶのが馬頭観音他計3基の石仏。新旧混じってなかなか面白い。左端の丸彫の像は昭和60年(1985)7月造立の極めて新しい馬頭観音で、このタイプは見たことがない。

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中央も馬頭観音で文字のみが正面に「馬頭観世音」と彫られている。脇を見ると、造立年は昭和15年(1940)9月と彫られている。右にあるのはどうも墓石のようだが、なぜここに祀られているのかはわからない。ただ造立年は元禄2年(1689)9月と相当古いので、板碑型庚申塔と関係があるのかもしれない。

場所  目黒区平町2丁目14-14

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2019年12月14日 (土)

桜森稲荷の庚申塔(目黒区平町)

東横線都立大学駅の南東250mほどのところにある桜森稲荷神社。正式には旧字の櫻森稲荷神社という。創建年代は不明だが、一帯に桜が多く咲いていたので桜森と呼ばれるようになったという。稲荷神社は屋敷守から伏見稲荷のような大きなものまで様々なタイプがある。これは中くらいの規模の稲荷神社。

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稲荷神社の鳥居の脇に堂宇があり、比較的大きい2基の庚申塔が祀られている。右の大きい方は舟形光背型で、青面金剛像に邪鬼、三猿の図柄で青面金剛の頭には蛇を巻いている。造立年は享保5年(1720)10月。台石には6人の願主名があるが半分切れている。左の小さい方は、駒型でこちらも青面金剛像に邪鬼、三猿。石の質が右のものよりも悪いのか風化進んでいる。造立編は文化7年(1810)7月と右のものより90年ほど新しい。

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中根から東は呑川の流域で一段低いが、東に進むと再び河岸段丘を上る。桜森稲荷は田んぼ地から台地に変わる坂の途中にある。この辺りから都心側は衾村(碑衾村)と呼ばれた地域。現在の環七通りは尾根筋にあり、碑衾の地名は碑文谷村と衾村を合わせたものである。衾村の地名の由来は種々あって定まらない。碑文谷村は碑文谷八幡宮にある碑文石によるものと言われる。

場所  目黒区平町1丁目16-10

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2019年12月13日 (金)

目黒通り中根の庚申塔(目黒区中根)

目黒通り沿いのマンションの一角に庚申塔と馬頭観音が並んで祀られている。八雲三丁目バス停の少し都心寄りの南側である。目黒通りの前身となった街道は江戸の出っ張り最西端の目黒不動から九品仏浄真寺や野毛の渡し、二子の渡しへ向かう道筋であった。二子から来ると西片(現在の中根あたり)で道は分岐し、北側は目黒へ、南側は鉄飛坂を経て長原や碑文谷へ繋がる道だった。その分岐点が現在も残っていて、そこにこの野仏が現在も祀られているのである。

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右側が庚申塔。「中根西三差路庚申塔」と呼ばれる。造立年は不明である。像型も駒型なのか角柱なのか破損によって分からなくなっている。僅かに道標の跡らしき「左・・道」と読める。図柄は青面金剛像に邪鬼と三猿である。一方の馬頭観音塔は明治6年(1873)造立。こちらも風化が激しく像型が不明瞭だが、三面の上に馬頭がある。

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マンションの脇に立派な黒御影石の堂宇を作って祀られているのはなかなか豪華である。目黒通りが出来る前の同じ道筋の街道は二子道と呼ばれていた。くねくねと曲がっていた二子道は昭和になってから徐々に整備された。しかし何ヶ所か昔の二子道が残っている。その一つが中根から八雲神社へ北上する道で、神社手前で参道と分かれて東に曲がり都立大学駅付近で再び目黒通りに出る。耕地整理された中に、くねくね曲がる道があると古道かもしれないと歩いてみる。意外と発見があったりするものだ。

場所  目黒区中根1丁目25-17

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2019年12月12日 (木)

石井戸の地蔵堂(世田谷区大蔵)

石井戸は現在の大蔵3丁目、4丁目、5丁目辺りの古い地名。 うちの菩提寺もこの石井戸の妙法寺。 但し私はたまたま境内に墓所を買っただけでもともと長州の人間である。宗派も気にしないので、故郷では曹洞宗だったがこちらでは日蓮宗にお世話になっている。 石井戸は仙川の谷に狭い田んぼを耕していた土地である。仙川と野川の間にある丘は昔は殿山と呼ばれ、鎌倉時代の石井氏の館跡と伝えられる。

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永安寺から尾根筋を北に延び妙法寺門前を経て世田谷通りと成城への道の分岐点に達するルートは古道である。また砧公園裏から世田谷区立総合運動場裏を下る座頭ころがしを経て仙川を渡り丘を登ってこの地蔵堂前の丁字路に達する道もまた古道である。その丁字路に昔からあるのがこの地蔵。

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地蔵の造立は元文5年(1740)、地蔵の右には「念仏供養之所」とあり、左には年号と「多麻郡大蔵村」の銘がある。それ以外のことは不詳。もしかしたら妙法寺の住職に聞いたら何かご存知かもしれない。 逆戻りになるが、ここから座頭ころがし方面へ下り仙川を渡る橋が中之橋という橋で、その少し上流に江戸時代から昭和中期まで水車があったという。現在左岸の大蔵団地の建替えが始まっているが、団地が出来たころ(1959年)まではあったようである。

場所  世田谷区大蔵5丁目19-21

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2019年12月11日 (水)

大蔵氷川神社の庚申塔(世田谷区大蔵)

世田谷区大蔵は南北に長い地域で、北は小田急線祖師ヶ谷大蔵駅の少し北から、南は多摩川沿いまで。昔は環八の西側から南北に延びる横根村という村があったが、明治8年(1875)に大蔵村に併合された。横根村の住民の一部はかつて千歳船橋駅付近に開墾のために移転したので、千歳船橋の稲荷神社の氏子はいまだに横根睦という会である。大蔵村に氷川神社が出来たのは暦仁元年(1238)で江戸氏が勧請したと伝えられる。

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大蔵村の鎮守様である氷川神社は野川と仙川が形成した国分寺崖線の突端にある。地形はまるで岬のようである。神社の階段の脇にあるのが庚申塔の堂宇でなかなか立派なもの。右の2基が庚申塔、左の1基は供養塔と思われるが不詳。右端の庚申塔は駒型で高さが62㎝と小さめ、青面金剛像に三猿の図柄である。大蔵村講中の銘がある。造立は享保17年(1732)11月。

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中央の庚申塔は文字のみの駒型角柱の文字塔で極めてシンプルなもの。造立年は文化7年(1810)11月で大蔵本村講中の銘がある。ただどうも台石は当時のものだが上部は違うような気がしてならない。ちなみに大蔵村の本村は永安寺と氷川神社の周辺の小字。明治時代まではこの辺りが最も人口が集まっていた。さて、謎の左端の石塔だが、折れたのか最初からこの高さなのかはわからない。正面には「法界」とあり、寛延2年(1749)10月と彫られている。

場所  世田谷区大蔵6丁目2-6

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