2021年12月 6日 (月)

滝野川庚申塔(北区滝野川)

都電西ヶ原四丁目電停から北へ100mほど進むと分岐する路地の角に2基の石仏が祀られている。向かって左側が駒型の庚申塔、右が舟型光背型の聖観音像である。石仏前の道は昔は王子道といわれた道で、この道筋には反射炉分水という用水路が流れていた。この反射炉分水は大正時代まであったようだ。元治元年(1864)に江戸幕府が大砲を鋳造する為に千川上水を巣鴨で分水、しかし幕府が倒れたことで用水路は出来たが反射炉は使われなかった。

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庚申塔の造立年は元文5年(1720)12月。日月は痕跡のみ残り、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が描かれている。下部には願主8人銘があり、縁には「是より右王子道」「是より左弁天道」とある。側面には「武州豊嶋郡滝野川村 江府狛込石工 宇兵衛」とあるが、狛込は駒込の誤字だろう。風化の為かなり読めなくなっており資料を参考にした。

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右の舟型光背型の聖観音立像は文字を読む限り戒名が複数あり墓石のようである。一説には安永年間(1772~1781)のものという情報もあったが、左隅に享保4年(1719)8月の年紀が読み取れた。この辺りは江戸時代は滝野川村。実際にこの東側にかすかな谷があり、そこから王子の石神井川に注いでいた滝野川という川があった。北区立滝野川第三小学校の北側をくねくねと曲がった小道があるがそれが滝野川の痕跡である。

場所  北区滝野川1丁目77-11

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2021年12月 5日 (日)

白泉寺の庚申塔(豊島区巣鴨)

巣鴨の北西、中山道でもあった白山通りの東に分岐する朝日通りという道がある。とはいえ本来の中山道は巣鴨地蔵通りであり、現在の白山通りはそのバイパス。関東大震災の後に区画整理され市電が走るようになり開通した道である。朝日通りは明治末期に近辺に白泉寺や本妙寺が移転してきてから通された道。

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白泉寺は慶長16年(1611)に静岡県遠州田中に創建。江戸時代に浅草に移転し、明治44年(1911)にこの地に移転してきた曹洞宗の寺院である。遠州田中は現在の静岡県藤枝市。円形廓(くるわ)であった田中城が有名である。築城は武田信玄。それを落とした徳川家康が拠点としていた。江戸に越してからは浅草北清島町(浅草新寺町ともいい現在の稲荷町駅付近)にあり、明治末に巣鴨に移った。

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境内の稲荷神社の前に小柄な庚申塔が祀られている。猿の彫り方が古い時代を感じさせる。像形は舟型と言っていいだろうか、上部には日月があり、その下に「奉祈庚申供養延命所」と書かれている。造立年も大きく書かれ、万治元年(1658)4月とある。高さは43㎝と小さい。

場所  豊島区巣鴨5丁目32-5

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2021年12月 4日 (土)

本妙寺の石仏(豊島区巣鴨)

江戸の大火といえば、明暦3年(1657)の明暦の大火、明和9年(1772)の目黒行人坂の大火、文化3年(1806)の文化の大火を三大大火というがそれ以外にも大火事は数知れず。その中でも明暦の大火は江戸城を焼き尽くし、10万人以上の死者を出したことで史上最大級の火災であった。明暦の大火はまず1月18日に当時本郷丸山にあった本妙寺から出火(とされているが真偽不明)、翌日には小石川伝通院前と麹町からも火が起こった。この時の主役と言い伝えられているのがこの本妙寺である。

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本妙寺は山門に「徳栄山」とあるように徳川家の繁栄を祈願した寺院で、元亀2年(1571)に駿府浜松に創建、徳川の引越しに追従して天正18年(1590)に江戸清水御門内に移転、その後幾度か引越し本郷に落ち着いたところで明暦の大火となった。しかし特にお咎めを受けたということもなく、実は老中阿部家の屋敷が出火元だったのを罪を被ったとかいろいろな説がある。巣鴨のこの地に越してきたのは明治44年(1911)とさほど昔ではない。

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本堂裏手には明暦の大火の供養塔がある。写真の右側の板碑型の供養塔である。中央に「妙法蓮華経」、右に「一葉所感焼死群類(焦)」、左には明暦の大火があった明暦3年正月18日、19日とある。その隣の釈迦如来坐像も明暦の大火の供養塔らしい。左の無縫塔(卵塔)は安政の大地震の供養塔である。

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墓所へ赴くと遠山金四郎景元(遠山左衛門尉景元)の墓(五輪塔)で、没年は安政2年(1855)2月だから日米和親条約よりも後で意外に近代に近い。安政の大地震が起こったのはその年(1855)の10月である。この後井伊直弼が大老となり、安政の大獄が起こるが、時代は開国への道を進むのである。右の自然石はそれよりも前の天保13年(1842)のもののようだ。ちょっと混乱しているのは左の五輪塔の下に3段の基壇があるのだが、そこに嘉永7年(1854)12月建之とある。没年よりも2ヶ月前のものということになり、辻褄が合わない。

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その先には剣豪千葉周作の墓もあった。北辰一刀流の開祖で千葉道場の主である。千葉周作の没年も安政2年(1855)と同じだが12月なので、10月の安政の大地震は体験していることになる。本妙寺は日蓮宗の寺院なので民間信仰の石仏はほとんど見かけなかったが、面白いものがいくつもあって楽しめた。

場所  豊島区巣鴨5丁目35-6

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2021年12月 3日 (金)

染井墓地十二地蔵碑(豊島区駒込)

駒込から染井通りを進み墓地に入るところの分岐の頂部に大きな舟型光背型の十二地蔵碑がある。とても大きなものなので、霊園に向かう人ならば必ずといっていいほどその存在に気づくだろう。

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高さは1.7mほどはあるだろう。三吉朋十氏の『武蔵野の地蔵尊』にも載っており、「江戸中期のころのものと推定されるが、文字がないので造立の由来を知ることができない」と書かれている。大きな石仏の全面の上部に六地蔵、下部にも六地蔵が並んでいる。

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上段の地蔵の上に描かれているのは桜の花びらのようである。染井の桜は江戸時代から名所であったので、ここ一面に桜の花を描いたのだろう。下段の地蔵の背景にも桜が描かれている。六地蔵碑は時折みかけるが、十二地蔵碑はまず見かけない。三吉氏の著書には「一石に十二の地蔵尊を掘りつけた例は埼玉県幸手町のうち神明内(しめち)というところの路傍に一面三体、四面十二地蔵尊を浮彫した一碑がある」とある。

場所  豊島区駒込7丁目3-2

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2021年12月 2日 (木)

西福寺の石仏(豊島区駒込)

駒込駅の北西、巣鴨駅の北にある染井霊園はソメイヨシノ発祥の地。江戸時代から植木職人が多数集まり、切絵図を見ると染井通り沿いに植木屋がずらりと並んでいる。この江戸時代の染井通りはそのまま現在の染井通りと同じで何百年も変わっていない道筋。染井通りの南西側は三重県伊勢津藩の藤堂家32万石の下屋敷があり、武家も町民も混じり合って歩いている姿を想像できる。

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西福寺は染井通りから北へ下る染井坂の坂上にある真言宗の寺院、西ヶ原無量寺の末寺だが、江戸時代は津藩藤堂家の祈願所であり、染井の植木職人たちの菩提寺でもあった。江戸時代には明暦(1655~1658)、天明(1781~1789)、嘉永(1848~1854)年間の3度火災で焼失している。

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境内にある無縁仏の一画に舟型光背型の大きな六地蔵碑がある。高さは1.6mほどあり、造立年は明暦元年(1655)11月。「某造立六地蔵尊容為二世安楽也」と書かれ、北豊嶋之郡染井村、施主10人銘が刻まれている。練馬区錦町の金乗院にこれとよく似た六地蔵碑がある。三吉朋十氏もほぼ同じ造立年で同じ石工によるものだろうとしている。

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無縁仏塔周りの石仏はほぼ墓石だが、六地蔵碑の左後ろにある舟型の聖観音菩薩像は供養塔である。造立年は元文3年(1738)2月で、「奉納大乗妙典 六十六部供養塔」とあり、「天下和順 日月清明乃至法界平等利益」と書かれている。江戸時代の西福寺はずっと広い境内を持ち、染井坂の下には谷戸川(藍染川)が流れ、川の向こうには日光御成道が通る尾根が見えたことだろう。

場所  豊島区駒込6丁目11-4

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2021年12月 1日 (水)

松原家の馬頭観音(練馬区春日町)

現在の住居表示は練馬区春日町二丁目、大正時代までの地名は中之宮、現在の環八通り、昔のふじ大山道の少し北にあるこの場所は、昭和の東京オリンピックの頃までは練馬の里とも呼べる風景であった。広がる田畑の中に、松島のように屋敷森が点在していた。富山の農村平野部の風景がそのまま60年前にはここに在ったのである。

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現在は区画整理がなされた住宅地だが、練馬区の史料によると30年ほど前まではこの辺りも住宅が「点在」する程度で、梅林があり、その角にこの馬頭観音が立っていたという。

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角柱型の石塔で、正面には「馬頭観世音菩薩」と彫られている。側面には大正4年(1915)3月の年紀が刻まれている。年紀の横には「松原福太郎」の施主名がある。この場所にある松原家のご先祖であろう。

場所  練馬区春日町2丁目30-2

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2021年11月30日 (火)

本寿院の僧形馬頭観音(練馬区早宮)

本寿院は日蓮宗の寺院。江戸時代の初期に中山道の板橋宿で開山の日宜上人が一宇を建てたのが起こりで、長く板橋にあったが、昭和12年(1937)に中山道の工事に当たり現在の場所に移転した。山門脇の題目塔は明治14年(1881)に造立されたものだが、大正13年(1924)に維持修理が行われている。ここに移転してきた時の題目塔である。

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日蓮宗の寺院には石仏が少ないが、ここには珍しい石仏がある。馬が法衣をまとって数珠を持つ僧形の馬頭観世音菩薩がそれである。とても珍しいもので、文政6年(1823)に三河屋安次郎という人物が、可愛がっていた子馬の供養に建立したものと言われている。

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右面には「駄善孩子 文政六年 六月廿日」、左面には「施主 三河屋安次郎」と彫られている。全体的な像形は舟型光背型で、このような馬頭観音は私にとって初めて見たものであった。

場所 練馬区早宮2丁目26-11

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2021年11月29日 (月)

擁壁角の庚申塔(練馬区春日町)

いささか分かりにくい場所にあるが、環八通りのふじ大山道道標兼一里塚子育地蔵のある交差点からちょっと南に下り、すぐに東に延びる道を進むと450mほどで小さな稲荷神社があり、その先の丁字路の角に凹みがあって庚申塔が立っている。この角は戦前、練馬仲町と練馬春日町の町境だった。明治時代はおそらく下練馬村と上練馬村の村境だったと思われる。塞ノ神の意味合いがありそうだ。

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1.5mほどの擁壁の内側は畑で、おそらくはこの畑の持ち主がこの凹みを作って庚申塔を代々守って来られたのだろうと思われる。庚申塔は駒型で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。邪鬼がかろうじて確認でき、三猿は殆ど土中に埋まっている。

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上部には「奉造立」「庚申尊像」と彫られ、造立年は明和3年(1766)で右側面にあり「再興講中十六人」とある。一方の左側面には、「これより左 中村ミち」とあり、さらに「元禄15年(1702)願主六人」と書かれている。元は元禄15年に建てられたが、何かの事情で明和3年(1766)に再建されたようだ。

練馬区春日町1丁目32-9

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2021年11月28日 (日)

中ノ宮の馬頭観音(練馬区春日町)

春日町1丁目の路地だが、石神井川沿いの海老ヶ谷戸と富士街道を結ぶ村道として江戸時代からあった古い道の途中にある旧家の塀際にくぼみを作り馬頭観音が祀られている。

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この馬頭観音があるお宅は広い農家で長谷川家という旧家。馬頭観音よりも北側は家屋がある区画だが、南側は畑が広がっている。道路の微妙なカーブが古道であることを物語っている。馬頭観音は角柱型で正面には「馬頭観世音」と大きく書かれ、側面には造立年である明治39年(1906)3月の年紀と長谷川幸太郎の施主名がある。

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当然ながらこの長谷川家のご先祖様であろう。ここに立っていると明治時代ののどかな練馬の農村風景を見ることができる、素敵な場所である。ただ道行く人が気づくことはほとんどなさそうである。

場所  練馬区春日町1丁目36-22

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2021年11月27日 (土)

中ノ宮の廻国供養塔(練馬区春日町)

都営大江戸線春日町駅周辺は現在は春日町だが、この地域の古い地名は中ノ宮という。東中ノ宮、中ノ宮、西中ノ宮という地域があった。現在も春日町と光が丘の中間に練馬区立中ノ宮竹林公園があるが、その辺りが中ノ宮の西の端だったようだ。江戸時代中ノ宮には名主の家や高札場、郷蔵などがあり、村の中心だった。

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村の中心だった春日町駅付近から東へ住宅地の中の路地を進む。300m余り進んだ路地の丁字路に駐車場と車庫の間のくぼみがあり、そこに角柱型の石塔が立っている。六十六部廻国供養塔である。正面には「奉納大乗妙典六十六部日本回国供養塔」とある。

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造立年は文化6年(1809)10月、「武州豊嶋郡練馬村海老ヶ谷戸 行者 篠田淺右衛門」と記されている。海老ヶ谷戸は上練馬村の字名で、上練馬村には中ノ宮、海老ヶ谷戸、尾崎などの地域があった。現在の春日町1丁目の東から南にかけてが当時の海老ヶ谷戸である。海老ヶ谷戸の南側は石神井川の低地で米作が盛んだった。

場所  練馬区春日町1丁目26-8

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2021年11月26日 (金)

一里塚子育地蔵(練馬区春日町)

都営大江戸線春日町駅から環八通りを北東に450mほど行った信号交差点の角に堂宇があり、石仏が祀られている。環八通りは春日町手前からこの先迄がアンダーパス化されているので交通量は少なくて静かである。堂宇の後背は広い畑が残っていて、一里塚農園というプレハブの無人販売所がある。練馬の里にわずかに残った農村風景が味わえる貴重な場所である。

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一里塚は環八通りがかつてふじ大山道だったころの名残り。試しに旧川越街道からの距離を測ると2.5㎞ほど、4㎞先となると環八高速下で首都高5号池袋線と交差する辺りになる。堂宇の中には地蔵菩薩が2基、六十六部供養塔が1基あった。

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左の背の高い地蔵菩薩は古そうに見えるが造立年が分からない。台石には「奉造立」、その下の基壇には「講中五十二人」とある。右隣りの背の低いのは水子地蔵。新しいもので造立年は昭和6年(1931)4月。小生の亡母と同じ年月の生まれである。施主名に篠田家の4人の名前がある。もしかしたら後ろの畑の地主さんかもしれない。右にある櫛型角柱型の石仏は六十六部供養塔。安永3年(1774)10月の造立で、正面には「奉納大乗妙典六十六部供養塔」とある。左面には「武州豊嶋郡上練馬村 願主 道西」と彫られている。

練馬区春日町2丁目9-8

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2021年11月25日 (木)

愛染院境内の石仏(練馬区春日町)

正式には練月山愛染院観音寺というが通称愛染院。真言宗寺院で、永享9年(1437)に現在の春日小学校付近に開山したというから石神井川に近い場所である。江戸時代の初期、寛永年間(1624~1644)に現在地に移転し、御朱印寺となり栄えた。明治になり廃仏毀釈の折、周辺の多くの寺院が廃寺となり、向山の成就院、高松の高松寺、上田柄の養福寺、中田柄の泉蔵院の4寺を廃して合併し、末寺として中村の南蔵院、貫井の円光院、当地の寿福寺、板橋区中台の延命寺が残された。

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昭和55年(1980)11月、3年の歳月を費やし本堂・大師堂・表書院・鐘楼・稲荷社・山門など諸堂伽藍が完成し、入仏落慶法要が盛大に挙行されたとあるが、山門はすでにかなり褪せていた。本堂に向かって左の塀沿いに石仏石塔が並んでいる。

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まず最初に上の写真は延命地蔵。安永2年(1773)2月の造立で、台石正面には「奉造立地蔵菩薩」とあり、施主名があるが僧侶のようであるが、両心音菩提のために造立したとも書かれている。

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右隣りには高さ3mを超える丸彫の地蔵座像がある。珍しいのは普通に腰掛けている姿であること。両膝を立て、右耳で人々の声を聴いているような仕草をしている。竿部には男女の戒名がそれぞれあるので名主レベルの人の建立だろうか。造立年は天保8年(1837)である。その先の明治25年(1892)の宝篋印塔の脇を左に曲がると墓所に向かうが、その右手にずらりと石仏が並んでいる。すべてを紹介するのは大変なので若干かいつまんでいる。

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上の写真は手前の2基の石仏で、右側が笠付角柱型の庚申塔。造立年は寛保2年(1742)11月。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、右側面には「奉供養庚申爲二世安樂  武州豊嶋郡上練馬之内 敬白」とあり、左面には年紀と「高松村講中三十二人」の銘がある。左の駒型庚申塔は、宝永6年(1709)10月の造立で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されている。右脇には「奉造立庚申石塔一基二世安樂祈所」とあり、左脇には「武刕上練馬之内高松村施主十二人」と記されている。

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庚申塔の左は舟型光背型の聖観音菩薩像。造立年は寛文7年(1667)3月。右脇には「妙源菩提」とあるので、もとは墓石だったのだろうか。時代が遡るが保存状態は野ざらしにしてはかなり良い。

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聖観音の左にはソーシャルディスタンスを取ったような並びで六地蔵が連なる。どれも元文4年(1739)10月の造立で、上練馬村の講中によって建てられたものである。

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六地蔵の左にはさらに2基の丸彫の地蔵菩薩立像が立つ。どちらも延命地蔵で、右は元禄10年(1697)11月のもの。「奉造立地蔵菩薩 現當二世安樂所」とある。左は少し顔の大きな延命地蔵で、享保12年(1727)霜月(11月)の造立。「武刕豊嶋郡 上練馬邑上田柄村 願主 相原杢右衛門 四拾六人」とある。その左にも数基の地蔵があり概ね享保年間、あと聖観音も立っていた。

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並びの左端には馬頭観世音と板碑がある。板碑は弥陀の種子があるが年代等は分からない。馬頭観音は高さが150㎝もある角柱型で、大正5年(1916)4月の造立である。

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墓所側に回り込むとそこにも六地蔵が並んでいた。基壇の文字を読んでいくと明和5年(1768)10月の建立らしい。前述の六地蔵よりも20年弱のちに建立されたもの。「武刕豊嶋郡上練馬村」の銘が読み取れた。

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その斜め向かいにあったのが地蔵のペアで、左が舟型光背型の地蔵菩薩、右が丸彫の地蔵菩薩である。丸彫の方は摩滅とゼニゴケで年号が読み取れないが12月というのは読めた。また「武刕上練馬村講中」という文字もある。左の舟型の方は、延宝9年(1681)9月のもので、右脇には「奉造立地蔵菩薩尊像 為二世安樂▢▢」とある。なかなか多数の石仏を拝んでいるといささか疲れた気がした。

場所  練馬区春日町4丁目17-1

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2021年11月24日 (水)

愛染院参道の石仏石碑(練馬区春日町)

愛染院の参道は富士街道から始まる。入口には富士街道の碑があり、「ふじ大山道は道者街道、富士街道とも呼ばれ、かつて丹沢大山の阿夫利神社や富士への道者が通った。北町一丁目で川越街道と分かれ、石神井、田無を経て伊勢原に達していた。」とある。

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参道の入口にもう一つ、六十六部供養塔が立っている。造立年は正徳2年(1712)10月。正面には「奉納 大乗妙典六十六部 供養」、右面には「武刕豊嶋郡上練馬村 願主 玄海」とある。六十六部供養塔とは廻国供養塔で、大乗妙典である法華経を六十六部書き写し、これをもって全国六十六ヶ国を廻り、国ごとの代表社寺に一部ずつ納めるというもので、鎌倉時代辺りから続いていた。

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対面には大きな石碑が2基そびえている。左が練馬大根碑、右が鹿島安太郎顕彰碑。練馬大根碑は昭和15年(1940)、鹿島安太郎碑は昭和41年(1966)のもの。説明板によると、練馬大根の生まれの百姓又六のことが書かれ、東京市の発展に伴って練馬大根が特産品として特に沢庵が有名になった経緯から建てられたとある。その品種改良に貢献したのが鹿島安太郎ともある。百姓又六の姓が鹿嶋だったようだが安太郎がその子孫かどうかは分からない。

場所  練馬区春日町4丁目15-2(大根碑は4丁目16)

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2021年11月23日 (火)

春日町青少年会館の石仏(練馬区春日町)

愛染院会館の南、春日町駅の手前に区立の春日町青少年会館がある。ここにはかつて練馬国民学校(明治10年開校)があり、これは初等科と高等小学校を兼ねた学校だった。その後の変遷はよくわからないが、戦後の地図には学校マークが見られないので、昭和20年代に移転したのだろう。現在この地には青少年会館と銀行などがある区画になっている。

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青少年会館の前庭には2基の石仏が保存されている。どちらも駒型だが、右は『又六庚申塔』と呼ばれる庚申塔、左が『海老谷戸の馬頭観音道標』と言われる馬頭観音である。それぞれに説明板があるのはさすが区立の青少年向け施設である。右の庚申塔は、日月、青面金剛像、三猿の図柄で、造立年は享保2年(1717)霜月(11月)とある。

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庚申塔には「奉造立庚申二世安樂所」「中宮村講中十三人」とあり、「講親 鹿嶋又六」と刻まれている。説明板によると、「練馬大根発祥の伝説に関わる石造物。又六は『武蔵演路』(安永7年:1780)で練馬大根を作り始めた上練馬村の百姓として紹介されており、又六の実在を証明する唯一の遺物がこの庚申塔。徳川綱吉が脚気(かっけ)の為練馬で療養していた時、旧家に栽培させたという言い伝えなどがある」らしい。この庚申塔は元は春日町3丁目33の富士街道沿いに建っていたが道路拡幅でここに移設した。環八春日町交番前の一本東の通り辺りだろうか。

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左の馬頭観音は造立年が安永7年(1778)霜月(11月)と古いもので、「豊嶋郡練馬之内海老谷戸村」「願主 若者中」の銘がある。説明板によると「海老谷戸はこの辺りの古い地名で、もとはここから南東へ1.3㎞の豊島園沿いの道が二又に分かれた場所(練馬4-18の北端)にあった」とある。側面には「右ハ 中村南蔵院道」「左ハ ぞうしかや道」とある。元の場所は以前にこの馬頭を探したことがある旧豊島園のすぐ傍である。海老谷戸はまさに旧豊島園の北側の旧地名である。

場所  練馬区春日町4丁目16-9

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2021年11月22日 (月)

愛染院会館前庚申塔(練馬区春日町)

春日町駅前に至る豊島園通りの愛染院会館前の角に屋根付の庚申塔が立っている。この場所は以前は堂宇はなく、角地を削って窪みを作りこの庚申塔が祀られていた。愛染院会館は寺院愛染院併設の斎場のようだ。

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道路わきながら庚申塔は良い保存状態である。笠付角柱型で日月、青面金剛像、邪鬼、参猿の図柄。右側面角には「奉造立庚申供養二世安樂所」と書かれている。左側には「武州豊嶋郡上練馬邑中宮村」とあり、享保16年(1731)11月の造立年がある。

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側面の蓮の花葉も優雅である。下部には、講中二十四人、願主 鹿嶋庄三郎」の銘がある。ここから少し南に行ったところで交差するのが富士街道。この南北の道はもともとは川越街道から田柄を経て中村に至る主要な村道であった。

場所  練馬区春日町4丁目17-1

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2021年11月21日 (日)

田柄不動堂の石仏(練馬区田柄)

愛染院田柄不動堂は愛染院の境外仏堂。本院愛染院の約700m北にある不動堂は新しい堂宇。一部に大銀杏を独断で伐採したなどの苦情が出ているようだが、出合ったお坊さんは感じのいい方だった。もっともそういう大きなことを決めるのは、宗教組織でも上の方の人間だろうから、その人とは関係ないのだろう。

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不動堂の左の通路を進むと後が墓所になっているが、その手前に2基の石仏が祀られている。左にあるのは、舟型の如意輪観音像で、延宝2年(1674)8月の年紀があるが、その脇に宝暦(1751~1764)の年号も記されていてはっきりしない。主尊右上には「奉造立正如意輪贈」とあり、下の方には為菩提▢▢とあるので墓石であろう。

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右の山型角柱石塔は庚申塔。日月が上部にあり、基壇に三猿が彫り込まれている。正面には「青面金剛尊」とある。造立年は安永9年(1780)2月。左側面に「武州豊嶋郡上練馬村」の銘がある。基壇には、「南 なかむら道 講中 二拾壱人」「北 ふきあげ道 願主 直心 妙圓」と書かれている。この庚申塔が元あった場所は、田柄3丁目10の練馬高校入口らしい。現在某ハンバーガー店舗があるところだろうか。以前はゴルフ練習場だったばしょである。

場所  練馬区田柄3丁目13-1

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2021年11月20日 (土)

民家脇の庚申塔(練馬区田柄)

この庚申塔は存在を知らなければ発見できないような場所にある。光が丘美術館前の通りをそのまま進むと道筋が消え、その先には近年つくられた光が丘東大通りに無理やり出るような道の造りになっている。大通りの北側には広々とした小学校と中学校があるが、この辺りはその昔、上田柄の集落の一部で変則の五差路になっていた辻である。しかし今は大通り主体で街づくりが進み、路地裏のそのまた裏になっている。

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白く塗られたブロック塀に囲まれた中に駒型の庚申塔が祀られている。高さは120㎝程。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻され。上部には「奉造立庚申」とある。右横には「像諸願成就所 鳥海源太良」とあるがこの時代の「良」は「郎」の意であることが多い。造立年は元禄11年(1698)11月。願主名は他にも五十嵐山三良、▢木右エ門という文字が見られる。

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こういう路傍の庚申塔は極めて貴重である。この場所から北東へ消えてしまった古道を辿ると、現在の豊島園通り(旧田柄西道)になる。そのまま田柄川の左岸を下って川越街道に至る幹線の村道であった。大きな通りが開通するとこういう古い道筋が分からなくなる。しかしその痕跡はいろいろなところに点々と残り、それを見つけるのもまた面白いものである。

場所  練馬区田柄5丁目23-11

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2021年11月19日 (金)

光ヶ丘美術館の石仏(練馬区田柄)

光が丘美術館は都営大江戸線光が丘駅から400mほど東にある。隣りには北の八幡神社がある。館内には入っていない。入館料も500円と安いが、どうも美術品には造詣がない。有名彫刻や絵画よりも土偶や壁画の方に魅力を感じるが、それは個人的なものである。この美術館はナマコ壁が印象的な建物で、そば屋を含めた広い敷地の一角に建てられたもののようだ。

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美術館の敷地の道路側の一画にいくつかの石仏が集められている。美術館が独自に集めてきたものだろうか。庚申塔が1基、馬頭観音が4基ある。この辺りはかつては上田柄という集落で、田柄の中では中心的な場所だったようだ。北の八幡神社は上田柄の氏神として平安時代からあったらしい。

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手前にある巨大な山状角柱型の石仏は馬頭観音。正面には「馬頭観世音菩薩」と大きく書かれている。右側面には文化元年(1804)10月の造立年が刻まれ、その下には「ふきあげ道」とある。高さは2m近くある。

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塀沿いにある左の二基のうち小さい方、角柱型でかなり摩滅して苔が付いているが「馬頭観世音 位」とある。側面には安政4年(1857)12月の年紀と相原玉左ヱ門の願主名。右の大きい方の櫛型角柱型の石仏も馬頭観音で、正面には「馬頭観世音菩薩像 観音講中」とあり、側面には文化5年(1808)の造立年と、「武刕豊嶋郡上練馬邑上田橋」の銘がある。どちらも文字の彫りが薄く、摩滅も進んでいるのでかろうじて読める程度である。

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右の二基は左側が馬頭観音、右奥が庚申塔である。馬頭観音は駒型で一見庚申塔かと思ったが頭上に馬頭がある。造立年は宝暦5年(1755)霜月(11月)とあり、右上には「武刕豊嶋郡上田柄▢▢」とある。右奥の庚申塔は元は氷川台2丁目6にあったもので、造立年は享保9年(1724)6月。日月、青面金剛、邪鬼、三猿の図柄で左手にはショケラがある。「奉造立庚申供養為二世安樂也」とあり、「武刕豊嶋郡上練馬村上田柄邑講中二十人、願主 相原▢衛門」と刻まれている。その場所は工兵坂の坂下にあったかつての字今神あたりと思われる。

場所  練馬区田柄5丁目27-25

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2021年11月18日 (木)

床屋前の庚申塔(練馬区春日町)

少し西(170mほど)にある歩道上の庚申塔の近くに斜めに田柄通りに接続する路地が現在の田柄と春日町の町境である。しかし江戸時代から戦前にかけてはこの辺り一帯は広く東田柄で道沿いにぽつぽつと民家があった。現在は床屋のある交差点の角に笠付角柱型の庚申塔が立っている。

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庚申塔の笠が妙に小さく貧相なのが愛嬌。日月、青面金剛像が陽刻されており、主尊の下部には「中田柄村 施主 吉田安右エ門 施主 拾人」とある。三猿は台石に彫り込まれている。左側面には「奉造立庚申像一基  二世安樂祈攸」とあり、元禄9年(1696)12月の造立年が刻まれている。

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側面には蓮が描かれているが全体的にかなり傷んでいる。実はこの庚申塔の建つ路地は現在の春日町と北町の町境。期せずして、昔は小字の内だったが現代は町の境になっている場所に庚申塔が立っている。この辺り一帯の耕地整理は昭和初期に行われ、戦後になって高度経済成長期に人口が爆発的に増えた地域である。

場所  練馬区春日町2丁目18-21

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2021年11月17日 (水)

歩道の庚申塔(練馬区田柄)

平和台から光が丘へ東西に走る田柄通りの歩道上に1基の庚申塔が立っている。現在は民家やマンションの前になっているが、昔の資料を見るとキグナス石油のガソリンスタンドの前だったようだ。昭和末期の写真では庚申塔は車道側を向いているが、平成3年(1991)段階ではまだGSのようだが向きは180度変わっており、そのままの向きで2008年までには民家になっている。

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比較的大きな駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されている。造立年は延享2年(1745)9月。「武刕豊嶋郡上練馬村田柄 講中 拾一人」と右側面にあり、左側面には「願主 上野又助」と彫られている。高さは127㎝あるので存在感がある。

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田柄通りも古くからの道で、この辺りの小字は東田柄。西に行くと前田柄、その先は中田柄、上田柄と続いていた。この辺りは東田柄の集落内だったので、江戸時代に果たしてここに在ったのかは分からない。ただ江戸時代はこの辺りで南西に脇道が分岐しており、その辻にあったのかもしれない。

場所  練馬区田柄1丁目1-16

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2021年11月16日 (火)

田中家の馬頭観音(練馬区北町)

練馬区田柄と北町の境界は都道442号線北町豊玉線から西が田柄、東が北町である。北町の中心には陸上自衛隊の練馬駐屯地がある。しかし戦前は軍の施設ではなく田柄川右岸の農地だった。北町の南東の境を貫く環八通りは実は古い道でかつては富士街道と呼ばれた。ほぼそのままの道筋が環八通りになっている。

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近年有楽町線と並行して走る地下鉄副都心線が地下を通って便利になったが、この馬頭観音の東隣の高圧線鉄塔の辺りの地下を有楽町線と並んで走っている。しかしこの辺りは練馬の里。ゆったりした民家の配置で意外に路傍の馬頭観音が似合う。

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田中家は以前は広い庭の庭木が素晴らしいお宅だったが、最近洋風に建て替わった。しかしその角にある馬頭観音は健在。昭和6年(1931)9月の造立で、正面には「馬頭観世音」と書かれている。かれこれ90年この地に続く貴重なものである。馬頭観音前の東西の道は江戸時代からある古い村道で、出合う道も江戸時代からの道。田中家は昔からこの辻に建っていたようだ。

場所  練馬区北町7丁目10-1

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2021年11月15日 (月)

子守富久江地蔵(練馬区田柄)

豊島園通りから斜めに分岐した路地の辻に堂宇があり、中には丸彫の地蔵菩薩立像が一体祀られている。石仏の状態から推測するにそれほど古いものではなさそうである。東西の路地はこの辺りだけが不思議にくねっており、庭の広めなコーポ吉田というアパートの一画に堂宇はある。

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堂宇の中を覗くと、木板に手書きで「子守富久江地蔵」と書かれていた。地蔵の台石には大きく「吉田」と書かれている。コーポ吉田の大家さんなのだろうか。地蔵が大家さんってなかなか素敵だと思うが、むろん地蔵が家賃を取っているわけではない。命日7月14日とあるが、おそらくは吉田家のどなたかが亡くなりその供養のために建てられたものだろうと思われる。

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もともとこのくねった路地は豊島園通りが田柄西通りだったよりもはるか以前、川越街道から分岐して谷原村、田中村、上石神井村へとつながる幹線ともいえる道だった。昔はこの道を田柄道と呼び、地蔵のひとつ東の辻で交差する南北の道を埼玉道と呼んだ。現在もその南北の細い道は一方通行ながら都道442号線北町豊玉線である。今は静かな路地だが昔は人通りの多い幹線道路だったことがわかる。

場所  練馬区田柄2丁目25-13

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2021年11月14日 (日)

勝俣商店前庚申塔(練馬区田柄)

田柄高校角から北東へ伸びる豊島園通りを進み、田柄小学校の近くまで来るとレンガ外装の建物の路地角に庚申塔が立っている。以前は株式会社カツマタという看板が立っていたようだが近年はずっとシャッターが閉まっている。

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高さは1.2mほどもある大きな駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が陽刻され、尊像はショケラをぶら下げている。造立年は宝暦14年(1764)2月と右側面に刻まれており、反対の左側面には「武州豊嶋郡上練馬村神明ヶ谷戸 講中 拾七人」と書かれている。

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練馬区刊の「練馬の庚申塔」(昭和61年)には田柄4-29という住所があるが、もしかしたら昭和末期まではもう1ブロック西にあったのだろうか。また「神明ヶ谷戸」の地名だがこの地の南には愛宕神社と神明社の二社があり、その間には微低地の谷があった。今は天祖神社と呼ばれるが、慶長3年(1598)に伊勢神宮より勧請し村民が社殿を築いて神明ヶ谷戸の産土神として祀ったと伝えられる。神社の南側は田柄用水で東西に流れていた。

場所  練馬区田柄2丁目13-11

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2021年11月13日 (土)

田柄三叉路の庚申塔(練馬区田柄)

田柄4丁目を東西に走る道路は豊島園通りと書かれていたが、豊島園はずっと南にあったので何故だろうと不思議に感じた。調べてみるとどうも川越街道から南西に延びる道が田柄で南に向きを変え、南下して春日町を経て豊島園に至る通りになっていた。しかし豊島園が閉園してしまったので、この名前も変わるかもしれない。というのもこの通りは昭和時代は田柄西通りと呼ばれていたのだが、いつしか豊島園通りになった経緯があるからである。

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田柄4丁目のファミリーマートのある三角地帯の角の植込みの中に一基の庚申塔がある。駒型の庚申塔で、造立年は元禄12年(1699)11月と路傍の庚申塔の割には古く、それでも保存状態が良い。高さは108㎝ほどあり、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏が描かれている。状態は比較的よく、文字も読み取れる。

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尊像脇には「一基諸願 成就祈所 奉造立庚申」と書かれており、「上練馬内田柄村 同行十一人」と刻まれている。この三差路にはもう一本北西に向けて分かれる路地があり、全体ではアルファベットのKを左に倒したような辻になっている。この道筋は江戸時代から同じで、この辻の北エリアは北神明、南東側は少し標高が低いので神明谷戸という字だった。江戸時代からこの辺りには農家がある程度集まっていたようだ。

場所  練馬区田柄4丁目34-6

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2021年11月12日 (金)

赤塚新町川越街道の庚申塔(板橋区赤塚新町)

光が丘公園から川越街道に接続する広い道路が赤塚新町三丁目で丁字路で川越街道に出る。その少しだけ江戸寄りの五差路にあるタバコ屋小林商店(もう10年以上前から開いていないようだ)の前に自然石の庚申塔が立っている。

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もともとここは江戸時代から川越街道を挟んだ五差路だったらしく、川越街道よりも北は下赤塚村、南が上練馬村であった。庚申塔は上練馬村側にあり、下赤塚村側を向いている。庚申塔の高さは約2mあり、自然石に彫られた日月と「庚申塔」の文字、そして台石には道標がある。「南 あらいやくし道、右 はやせ道、左 吹上道」とある。あらいやくしは当然新井薬師で、はやせは戸田への渡し、吹上は和光市にある吹上観音を指している。

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造立年は万延元年(1860)臘月再建と書かれているので、それ以前には元の庚申塔が立っていたはずであるが、それについては何も書かれていない。ただ、「昭和15年(1940)9月 道路改修にて移転」とあり、川越街道が国道として拡幅された時にセットバックさせられたものと思われる。

場所  板橋区赤塚新町3丁目12-23

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2021年11月11日 (木)

長遠寺の石仏(2)(大田区南馬込)

長遠寺の参道の左手には手水舎がありその周りにはいくつもの石仏が並んでいる。日本の民俗信仰の面白いところは、同じ場所同じ村人で庚申講があり念仏講、地蔵講があり、その中には富士講に参加している人もいて、そのダイバーシティが心豊かな日本の文化という気がしてならないのである。

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上の写真の右の笠付角柱型の石塔は観音霊場供養塔。造立年は安永3年(1774)2月。正面上部には大日如来坐像があり、「奉順禮秩父、坂東、西國供養塔」と書かれている。右側面には「武刕馬込村住人」、左面には「現當二世安楽所」とある。中央の舟型光背型の石仏も大日如来像のようである。造立年は安政10年(1798)3月。右の大日如来が智拳印という忍者のどろんぱみたいな印相(手の形)なのに、こちらは法界定印という印相。詳しくは知らないが、金剛界大日如来は智拳印で胎蔵界大日如来は法界定印らしい。左の小さな地蔵半跏像は元禄8年(1695)のもので顔が欠損している。

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その左にある背の高い丸彫地蔵菩薩立像は子育地蔵。天保12年(1841)7月の造立。よこの地蔵半跏像は台石に「弥勒地蔵大菩薩」とあり、天保10年(1839)2月のものである。天保といえば天保の大飢饉が想起されるが、そういう時代を背景とした子育地蔵なのだろうか。左端は新しいもののようである。

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その先にあったのが聖観音菩薩立像。顔が比較的きれいだと思ったら、昭和51年(1976)の大田区の史料を見ると顔欠になっている。それ以降に修復されたのだろう。造立年は享保13年(1728)11月で、奉供養 秩父坂東西国順禮とあるので巡礼供養塔である。右側面には「武刕荏原郡馬込村」の銘に加え、その下の台石には多くの願主名が彫られている。

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六地蔵はかなり最近のものなので特に取り上げないが、六地蔵堂の裏には古い水鉢があった。元禄9年(1696)のもののようである。こういうものもきちんと残されているのはいいと思う。

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もう一基の手水鉢。こちらは文久3年(1863)9月のものである。上の手水鉢からは160年余り後のもの。お寺にはいろいろな形の奉納物がある。前述の西国坂東秩父の巡礼供養塔については、観音信仰によるもので、観世音菩薩は33の化身を行って道を説くと言われ、そこから三十三ヶ所の観音霊場を廻る風習が生まれた。室町時代には紀伊国から美濃国の西国三十三ヶ所、相模国から安房国の坂東三十三ヶ所、そして一番こじんまりとまとまった秩父三十三ヶ所に加えて一寺で百箇所巡礼が固まった。これらをすべて順礼するとその記念に建てるのである。

場所  大田区南馬込5丁目2-10

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2021年11月10日 (水)

長遠寺の石仏(1)(大田区南馬込)

真言宗の寺院長遠寺は天仁元年(1108)の草創、文亀2年(1502)に当地に移転。馬込八幡神社と並んでいる。草創の地は馬込村堂寺と伝えられるが、堂寺というのは現在の環七通りと第二京浜の交差する松原橋交差点の北西側内回りループの辺りの地名のようである。その辺りは池尻川の支流が作った細尾根の一画である。そこから南の谷を越えて、広い荏原台の現在地に移ったようだ。

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寺の門前にはやや大きめの堂宇があり、その中には3基の石仏が祀られている。左の一番小さな駒型風の石仏は摩滅が酷く文字も全く読めないので分からないが主尊の影からすると馬頭観音の可能性が高い。右側の駒型の石仏もかなり摩滅して剥離しているが、頭の上に膨らみがありおそらくは馬頭観音とみていいだろう。造立年については剥離していない部分で寛政元年(1789)の年紀が読める。

主役は中央の大きな方形の庚申塔で、実は裏面には阿弥陀如来坐像の念仏供養塔があり両面石仏となっている。造立年は延宝5年(1677)11月と古いもので、庚申講と念仏講の関係が深いことを伝えてくれる。表は日月を青面金剛が持ち、邪鬼を踏み、右手に大きなショケラをつかんでいる。脇には二鶏が陽刻され、下には三猿が描かれている。裏面は阿弥陀如来坐像が中央にこじんまりと陽刻されている。当時は庚申講は男が多く、念仏講は女が多いというのが常だったようだ。側面の願主名には男女が入り混じっているのが面白い。

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参道を進み手水舎の右奥を覗くと庚申塔がひっそりと立っていた。造立年はどこにも書かれていない。日月はなく、青面金剛像が左足で邪鬼を踏み、手前に張り出した台石の前の香炉台に三猿が陽刻されている。

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本堂の前に一対の燈籠が立っている。どちらの燈籠も竿には薬師如来坐像が彫られている。右の燈籠の造立年は万治3年(1660)8月、左の燈籠は万治2年(1659)11月で左の方が9ヶ月古い。右の燈籠は渡辺対馬の逆修供養を兼ねているが、左に逆襲の文字はない。どちらの燈籠も元々は松原薬師堂にあったものを昭和54年(1979)にここに移したものである。松原薬師堂は前述の薬師堂墓地のことである。

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珍しいものとしては本堂左手の植込みにある御影石の草木供養碑。都内の植木職組合で近年時折立てられることがあり、ここの草木塔は新発見だった。造立年は平成9年(1997)6月、大森造園協力組合によるものである。

場所  大田区南馬込5丁目2-10

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2021年11月 9日 (火)

長遠寺旧薬師堂墓地の石仏(大田区南馬込)

国道1号線と東海道新幹線+湘南新宿ラインが交わるのは国道1号(第2京浜)の馬込橋辺り。ここは台地の尾根なのでなぜ橋があるのか訝しく思った。この新幹線ルートは元々昭和4年(1929)に開通した品鶴線という貨物船で、それを越える国道1号線の跨線橋の名前が馬込橋であるらしい。第2京浜が通ったのは昭和15年(1940)でその時に鉄道との立体交差になったようだ。昭和初期の馬込橋は国道の西脇で新幹線をくぐりながら湘南新宿ラインを跨いでいる。

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国道1号線と新幹線高架に挟まれた三角地帯にはやや広い長遠寺の墓所がある。かつて薬師堂(松原薬師堂)があったらしく長遠寺旧薬師堂墓地という名前。墓地の南側は数m低くなっており、池尻川の支流のひとつが作った谷で、そこに鉄道を通したようだ。上の写真の2基の立派な石仏は墓石だが特別な存在として際立っていた。左が寛文2年(1662)5月造立の聖観音菩薩像。「奉造立石佛一基為妙善三十三回忌菩提」とある。右が寛文2年(1662)10月の虚空蔵菩薩像で、こちらも同じ三十三回忌と刻まれている。

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墓所の隅に関係僧侶の供養塔と思われる石塔が並んでいる。一番右の丸石の上に四角い石の乗っている石塔は廻国供養塔。造立年は享保12年(1727)で、廻国行者自観居士の菩提を弔うために造立されたものである。

場所  大田区南馬込1丁目4

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2021年11月 8日 (月)

久保谷の庚申燈籠(大田区南馬込)

萬福寺の北に馬込神明社という小さな神社がある。隣接する瑞穂幼稚園の方が数倍広く賑やかなので幼稚園の一画に神社がある感覚。神社の創建年代は不詳。瑞穂幼稚園併設とあるのでこちらが主体で幼稚園がサブなのである。『新編武蔵風土記稿』には「村の東方にて坂上にあり、此所は増上寺領の内にて、かの領内の民の鎮守なり。(中略)百姓組合持にして別當寺は祭祀を司るのみ。」とある。

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『新撰武蔵風土記稿』には別当寺は泉生寺とあるがそのような寺院は近辺にない。南馬込では萬福寺と長遠寺が大きな古刹で、古い地図にも近くに寺の印はない。神社の西側の角の植込みの中に燈籠が一基立っており、これが極めて珍しい庚申燈籠である。

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竿部が角柱型風の庚申塔の図柄になっている。造立年は享保3年(1718)11月。区指定の文化財で、馬込村久保谷の庚申講中が造立したものである。右側面に「奉供養庚申石燈籠講中」とある。日月、青面金剛像、三猿が陽刻されており、全高は123㎝程。これほど普通の庚申塔のように燈籠の竿に彫り込まれているのは極めて珍しい。

場所  大田区南馬込1丁目40-11

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2021年11月 7日 (日)

萬福寺の庚申石仏(大田区南馬込)

慈眼山無量院萬福寺は曹洞宗寺院で、建久年間(1190~1199)大井丸山の地に密教寺院として創建。元応2年(1320)に焼失し、現在の寺の場所は鎌倉幕府に大井村を領地として与えられた梶原氏築城の平山城だった場所だが、この地に梶原景嗣によって再興した。荏原台の丘陵の突端に築かれた城で、三方が斜面になっていて、南側の谷は深くそこに南坂という坂があったという説もあるが、寺の境内そのものが低地から台地上までを含めているので坂の同定はできていない。境内図によると山門と上の門の間が男坂、右の狭い階段が女坂とはあった。

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階段を上り山門をくぐる。その先の階段をまた上り無量門をくぐると本堂の高さの境内に至る。右手に魔尼輪堂がありその崖側に六地蔵、その前を進むと崖ぎりぎりのところに宝篋印塔が立っている。この宝篋印塔は日待供養塔とある。説明板によると寛永15年(1638)11月に馬込村の村人によって建立されたという。

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元は中馬込3丁目25番地付近の梶原塚と呼ばれたところに建てられたが昭和30年頃寺の境内に移されたというから富士講燈籠の近くだろうか。馬込地区では大正時代まで日待ちの習慣が続いていたらしい。「武刕▢▢荘荏原郡 馬込佳谷」とある。

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その隣に立つのが、舟型光背型の六地蔵念仏供養塔。造立年は分からない。一石に二段に6体の地蔵を陽刻する。区の史料では18世紀初頭と推定している。上部中央には「関東道武蔵國荏原郡馬込江」「奉造立六地蔵尊像」と書かれており、その右には「施主念佛供養之衆男女▢▢」とある。左側のもじは薄くなっていて読めない。

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鐘楼門の両脇にあったのが対の燈籠。谷に向かって立って右側の燈籠の竿部には観音立像がある。造立年は寛文元年(1661)で、施主は馬込村仲居里北村七左衛門。左側の燈籠の造立年は寛文10年(1670)11月で、竿部の尊像は阿弥陀如来である。この燈籠は馬込村の庚申講中が建てたものとされている。「坂東武蔵國荏原郡馬込村」「男子拾人宿念庚申爲供養奉待受」などの文字が見られる。

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庚申燈籠の脇にあったのが板碑で、上部に日月があり、どうも庚申板碑らしいが造立年などは不詳。秩父石を使っているところからすると江戸時代以前かもしれない。というのも寺には他に50基ほどの板碑が保存されているそうで、それらは現在の地に移転する前の大井村にあった頃、真言宗時代に造立されたというからである。まあ、これらの石仏も素晴らしいが、萬福寺は建物も楽しみたい。鐘楼門も素晴らしいし、魔尼輪堂、本堂も素晴らしい。

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女坂を下り山門に戻ると山門の脇にある磨墨の像を再び眺める。説明板によると、その昔馬込一帯は丘陵台地で馬の放牧が盛んだった。名馬「磨墨」はその馬込産の馬だったと言われ、その関係でこの地に葬られたとある。さすがに時代も鎌倉時代になると、どこまでが史実でどこからが後付けの話なのかが分からない。

場所  大田区南馬込1丁目49-1

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2021年11月 6日 (土)

東谷北野神社の庚申塔(大田区南馬込)

南馬込の北野神社は天文年間(1532~1555)馬込村東谷の平林重郎左衛門という人物が京都の北野神社から分霊を奉祀したものと言われる。参道を進むと大正13年(1924)建之と書かれた石鳥居がある。鳥居の柱には「東区」とあるが、この辺りから東の池尻川低地にかけては東と呼ばれた地域である。

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本殿向かって左奥に3基の庚申塔が並んで立っている。大きさが違っていてまさに大中小という感じなのだが、大きい方が古く小さい方が新しい。左にあるのが駒型庚申塔で造立年は宝暦7年(1757)立秋(7月:旧暦)。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄である。小さいと言っても78㎝ある。尊像右には「奉供養 武州馬込村 東谷中」とある。

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中央は珍しい像形の庚申塔。大田区の分類では破風型とされていた。日月、青面金剛像、三猿が描かれており、右側面には「奉造立庚申供養為二世安樂也 石橋壹ヶ所 願主 平林重郎左衛門」とある。北野神社勧請の重郎左衛門の子孫だろうか。それでも造立年は享保9年(1724)2月だから江戸時代中期の話。左側面には「武州荏原郡馬込村天神谷 一講同行十四人」とある。右の笠付角柱型の庚申塔は150㎝程もある。青面金剛像と三猿が描かれている。文字が沢山刻まれているが、年紀は右側面に延宝8年(1680)天黄鐘吉祥日とある。「黄鐘」というのは11月を意味するらしい。正面右縁には「東海道武陽馬込村東之里 百八人全男…庚申二座奉一念待…」とあり、左側面には「慈眼山萬福寺…」という文字もある。

場所  大田区南馬込2丁目26-1

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2021年11月 5日 (金)

平張の庚申塔(大田区南馬込)

富士講燈籠のすぐ近くに小さな堂宇があり、その中に庚申塔が祀られている。あまりにこじんまりとしているので犬小屋と間違えそうな雰囲気がある。明治時代の地図を見るとここで村道がY字に分かれ、左へ行くと北野神社前を通り現在の馬込銀座あたりにかけて坂を下る。右へ行くと途中から急な坂を下り池尻川の谷に下りる。こちらの道沿いが小字東と呼ばれたエリア。

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堂宇にある庚申塔は駒型の庚申塔。日月、青面金剛像が陽刻され、台石に三猿がある。造立年は貞享元年(1684)10月。かなり摩滅していて文字が読みにくいが、駒型としては古い部類で、欠損もなくよく保存されている。高さは1mちょっと。

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尊像の右側には「奉造立庚申供養為二世安樂也」「武州荏原郡馬込村」「施主山﨑市右門」と書かれている。左には年紀がありその下に「同行十三人敬白」とある。シンプルだがとてもバランスの良い図柄の庚申塔である。

場所  大田区南馬込2丁目24-3

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2021年11月 4日 (木)

南馬込の富士講燈籠(大田区南馬込)

旧小字名の残る平張稲荷神社の北、東谷北野神社の南の昔からの村道の傍らに小さな緑地があり、富士講燈籠がある。この場所はかつての尾根筋で、北方向も東方向も西方向もすべて下り坂になる。この富士講燈籠は文政7年(1924)に馬込村の富士講の人々が中心になって建立したもの。彼らは「東のお燈籠」と呼んでいたようだ。左の富士講碑は明治20年(1887)に造立されたもの。こちらにも多くの講員の名前が記され、馬込村の大半が参加していたようだ。

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道標と常夜燈を兼ねている。台石には寄進者の名前が100人以上も刻まれている。その中には萬福寺も世話人として入っており、富士登山の際には、東谷北野神社に参籠し、この燈籠の前で祈願をしてから富士山へと旅立ったという。台石にある石工名は石工清三郎。道標は「北 品川道 馬込村、南 池上道」とある。

場所 大田区南馬込2丁目25-16

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2021年11月 3日 (水)

不動堂脇の石仏(大田区南馬込)

磨墨塚の北側道路の斜め向かいに不動堂が立っている。昔は平張と呼ばれていた地域である。不動堂は閉まっていて中に何があるのかは分からない。しかし不動堂の左脇には大きな石仏石塔が3基並んでいる。

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この不動堂の由緒も分らなかった。北にある萬福寺は磨墨ゆかりの寺で、磨墨塚も万福寺の管理であるから、この不動堂も同じだろうとは思う。その左脇にある石仏は、手前から、笠付角柱型の念仏供養塔、五輪塔、板碑型の供養塔の3基である。

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左の供養塔は念仏供養塔で、延宝7年(1679)11月の造立。正面に「南無阿弥陀仏」と書かれ、脇に年紀があり、枠外には「同行三十五人」とある。右側面には「奉念佛講▢▢」「本願 加藤三十郎」と書かれている。中央の五輪塔は典型的な五輪塔でそれぞれの段に梵字が刻まれている。右奥の板碑型供養塔の正面には「権大僧都法印栄定和尚」とあり、その脇には延宝7年(1679)4月の年紀がある。なかなか古いもので、江戸時代の初期からこの辺りには多くの人が住んでいたのだろう。

場所  大田区南馬込3丁目8-29

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2021年11月 2日 (火)

磨墨塚の石仏(大田区南馬込)

臼田坂上にある磨墨塚(するすみづか)の言い伝えは、「磨墨(するすみ)は源頼朝の家臣梶原景季(かげすえ)の愛馬で、平家物語で有名な宇治川の合戦で先陣を争った名馬である。その磨墨の亡骸をこの場所に埋めたという言い伝えがあり、明治33年(1900)に馬込村の有志がここに塚を築き石碑を立てた。」と説明板に記されている。磨墨伝説は全国各地に残っており、真偽のほどはかなり怪しい。

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塚の上には中央に明治33年(1900)8月に建てられた磨墨塚碑がある。似たような自然石を使った石碑が左にもあるが、そちらは明治3年(1870)5月に建立された道標である。「午の方 阿ふみの谷 子の方 駒落之谷」とあり磨墨塚の補足説明のようなものだが、もしかしたら塚の築造以前に立てられていたものかもしれない。

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右にあるのは駒型の庚申塔。造立年は享保5年(1720)11月。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、「奉供養庚申」と横にあり、下部には願主名と並んで、「武蔵馬込邑平張谷」と刻まれている。願主名は9名中4名が加藤姓である。平張谷はどのあたりだろうかと調べてみると、明治時代のこの辺りの小字が平張で、地形としては東にある馬込二小にかけての200mほどの短い谷あいから尾根筋の磨墨塚辺りのことを平張と言ったらしい。磨墨塚は萬福寺の管理になっているが、その万福寺は塚から見て北にある谷の向こう側の斜面にある寺院である。

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磨墨塚の裏側には角柱型の馬頭観世音菩薩がある。造立年は大正元年(1912)10月。施主名は剥離していて読めない。時代から見て磨墨塚の馬に寄せて、当時の運搬の担い手であった牛馬の供養を目的に建立されたものだろう。

場所  大田区南馬込3丁目18-21 磨墨塚

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2021年11月 1日 (月)

臼田坂上金剛地蔵尊(大田区南馬込)

大田区南馬込の荏原台の尾根筋を通る古道臼田坂の坂上にある地蔵堂には大田六地蔵のひとつ臼田坂上金剛地蔵尊がある。Google Mapには臼田神社とあるがそのようなものではない。境内は地蔵堂にしてはかなり広い部類になるが、歴史は古そうである。

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堂宇の中にあるのは一体の舟型光背型の子育地蔵尊。この辺りに多いと言われる臼田家は甲州山梨県から移り住んだ一族で、臼田家の先祖が故郷から運んだと伝えられる地蔵尊である。戦災でかなり破損しており補修の跡が痛々しい。戦前は「金剛剣難除け地蔵尊」と呼ばれ、戦地に出征する若者の参詣祈願を集めたという。

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布で覆われているのと破損摩滅のために文字を読むことは叶わない。六地蔵は寺院の入口に見かけることが多いが、元々は村境や辻や墓の入口に置かれていたものが多かった。人は六道(りくどう)を輪廻転生するが、そんな衆生を救うのが地蔵菩薩で、六地蔵の信仰は平安時代に始まる。六地蔵のルールはある程度決まっているが、地域によっては墓石の地蔵を集めて六地蔵にしたりもしていて比較的自由な感じがする。

場所  大田区南馬込3丁目31

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2021年10月31日 (日)

中井谷熊野神社庚申塔(大田区南馬込)

南馬込4丁目は東の臼田坂の尾根道(旧田無街道)、南の桜並木の内川暗渠筋に挟まれた台地と谷の地形である。小沢によって刻み込まれた小さな谷が沢山あり、尾根筋に反して歩くと上り坂下り坂の繰り返しになる。中井谷熊野神社は谷筋を下る鐙坂(あぶみざか)の東の尾根の突端に位置する。創建年代は不詳ながら、江戸時代には馬込村小名井谷の鎮守だったとされる。台地の縁であることは境内が数mの高さの石垣の上にあることからもわかる。

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本殿に向かって境内の右隅を見ると小祠と桜の古樹に挟まれて駒型の庚申塔が祀られている。板状駒型の庚申塔には、日月、青面金剛像、二鶏、三猿が陽刻されており、造立年は享保5年(1720)11月とある。尊像脇には「奉庚申供養石碑」と刻まれ、下部には「武刕荏原郡馬込村中井」の銘がある。

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三猿の下には他に願主11名の名が刻まれ「同行中敬白」と締められている。苗字は北村姓4、加藤姓2、鈴木姓2など。台地下の内川はもともと苗川、一川などと呼ばれていた荏原台からの小流だが流れ下る先は海苔の養殖が盛んだった大森海岸。現在では東海道本線から下流が開渠となっておりそれより上流は暗渠化され道路になっている。

場所  大田区南馬込4丁目13-24

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2021年10月30日 (土)

お茶あがれ地蔵(豊島区上池袋)

東武東上線の北池袋駅の北側の踏切は危険な踏切である。東上線プラス埼京線の踏切でお年寄りは渡り切れないことがある。その為に地下道が設けられているがお年寄りに階段は厳しい。こういう場所ほど早く何とかしてもらいたいものである。踏切警手の廃止が進んで久しいが、場所によっては踏切警手を置く責任を鉄道会社や自治体は負うべきだと思う。

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その踏切から100m余り東へ行くと交番の手前にコンクリート製の堂宇があり地蔵菩薩と庚申塔が祀られている。説明板があり「お茶あがれ地蔵」と書かれている。地蔵菩薩は丸彫の地蔵立像で、江戸時代に結婚を阻まれたまま病死した女性の供養のために建立されたもの。女性が幽霊になって「お茶あがれ~」と出てきたので供養したという経緯らしい。造立年は分からない。

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地蔵の右下にあるシンプルな笠付角柱型の石塔は庚申塔である。造立年は宝永元年(1704)5月。正面には「奉供養庚申石塔息災祈所」と書かれている。複雑な像形のお茶あがれ地蔵に比べて極めてシンプルなデザインに最初は地蔵の説明柱かと思ったくらいである。

場所  豊島区上池袋3丁目47-5

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2021年10月29日 (金)

池袋本町公園庚申塔(豊島区池袋本町)

池袋駅から北へ約1.5㎞の街中にある広い池袋本町公園は「池袋本町プレーパーク」という、子供たちが焚火をしたり、木登りをしたり、穴を掘ったり、泥んこになって遊べる良き公園になっている。もちろん管理されたうえで行われている。そんな公園の北西の角にポツンと大きな角柱型の庚申塔が立っている。

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こういう角柱型のデザインはありそうでない珍しいものである。正面中程に三猿が陽刻され、左右の側面にはそれぞれ一鶏が陽刻されている。造立年は寛文2年(1662)春2月彼岸中日と古いものである。石仏の日付をいう時の月は旧暦の月だから現在の暦よりも1ヶ月強前になる。現代暦でいうところの3月20日頃である。三猿の上には「奉供養庚申待三歳一座所」左右には「説種々性欲所宜聞法」「随種々心行開観照門」と刻まれている。そのっ下には願主名が12名ほど書かれていた。

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この場所が公園になったのはそんなに古い話ではない。開園は昭和53年(1978)である。ではこの庚申塔はそれ以前はどこにあったかというのが気になった。豊島区発刊の「文化財を探る 第六集」(昭和55年発刊)では池袋本町1-25とある。公園の西側エリアにあった生花市場の入口に立っていたらしい。その後の写真を見ると公園に移設されてからはもう少し道路寄りにあったが、園内でも移設されたようだ。正面に書かれている「三歳一座」は庚申講中に関する言葉で、3年間に18度の庚申待を行うことを「一座」という。まだまだ庚申講中が浸透する前の珍しい文言である。

豊島区池袋本町1丁目27-1

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2021年10月28日 (木)

重林寺の石仏(豊島区池袋本町)

重林寺は国道254号線(現川越街道)に面し、頭上を首都高速池袋線が走る交通賑やかなところにあるが、この道が出来たのは昭和に入った頃で、大正時代まではのどかな農村地帯であった。それ以前はさらに田舎で池袋村の外れであった。真言宗の寺院で、創建年代は不詳ながら江戸時代初期にはあったと言われる。

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山門をくぐり左に回り込むと背の高い七面幢がある。塀の外からも上部が見えているが、この七面幢は享和3年(1803)10月の造立で、七面にそれぞれ聖観音や勢至菩薩、如意輪観音などが彫られた芸術性に優れたもの。「當寺中興第十世 法印快音造立之 飛鳥山石工 伊藤廣重」とある。この七面幢は西国、坂東、秩父、四国の札所巡礼供養塔として造立された。

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本堂の左手には太子堂が並び、本堂との間を進むと墓所手前の右手に無縁仏塔、左手に子育地蔵などが並んでいる。江戸時代のものと思われる石仏石塔は多数あるが、子育地蔵の列にある2基の舟型光背型の地蔵菩薩立像がなかなか見事な石仏である。

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右の舟型地蔵は天明7年(1787)12月の造立、左の舟型地蔵は前年天明6年(1786)12月の造立である。水子地蔵の脇に立っているが、どちらも墓石ではない可能性もある。「重林寺・・中興開山法印・・」とあるので江戸時代中期に寺を再興した僧に対する供養目的の地蔵菩薩かもしれない。

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大師堂の脇に戻って道路わきの塀沿いにある石仏を拝観する。一番手前にあるのがかなりすり減った笠付角柱型の庚申塔。造立年は享保元年(1716)で、日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が描かれている。尊像右には「奉信孝庚申天子」とあり、右側面には「是よりミなみ高田むら」、左側面には「是よりきた板はしむら」とあるようだ。右側の板碑型の石塔は中央に「南無阿弥陀仏」と大きく書かれた念仏講による供養塔。万治元年(1658)12月の造立でこの寺の中では極めて古い時期のものである。

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その先にある笠付角柱型の庚申塔は、享保2年(1717)10月の造立。台石に三猿が刻まれている。正面には「奉造立庚申宝塔」と書かれていた。左右には願主名があり、施主は佐久間孫太郎の銘がある。境内には寺の創建よりも古い、天文24年(1555)の板碑があり、中央には「奉庚申待供養逆修」とあると資料にはあるが、探し方が悪く見つからなかった。再訪時に確認したい。

場所  豊島区池袋本町2丁目3-3

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2021年10月27日 (水)

南町庚申尊(板橋区南町)

現在は南町という何の味もない町名だが、江戸時代は中丸村という農村だった。もともと谷端川の左岸の傾斜地だったが、関東大震災後に開発が進み人口が急増した。高度成長期に入った頃、広い材木工場になったが、昭和38年(1963)に斜面を削って広い平地に変え、ハタスポーツプラザが誕生。プールや当時大流行したボウリング場など様々な施設が作られたが、スーパーマーケットのマルエツが2020年に閉店したのを最後に再開発が始まった。

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敷地の南の角に以前からあったのが南町庚申尊という庚申塔の堂宇で、工事が始まってもこの一角はそのまま残されていてホッとした。中丸村などの地名の痕跡は少ないが、山手通りのバス停の名前が「南町庚申通り」という名で残っている。あとは工事敷地の北の端の交差点で山手通りと交差する通りが「中丸通り」といい、南町庚申通りの北のバス停は中丸町という。

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堂宇に祀られている庚申塔は立派な笠付角柱型。日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄で、青面金剛の頭には蛇がとぐろを巻いている。造立は宝永5年(1708)10月。「奉造立供養青面金剛尊像庚申講中 二世安楽祈所」と記されている。

場所  板橋区南町22

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2021年10月26日 (火)

上篠崎柳島の庚申塔河原道石造道標(江戸川区上篠崎)

上篠崎柳島の庚申塔河原道石造道標 江戸川区の東部に鹿骨(ししぼね)街道という道がある。現在はかなりまっすぐに変わったが、古道としての鹿骨街道は江戸川河畔からくねくねと曲がりながら千葉街道に達していた。名前の由来は、奈良の春日大社の創建との関係がある。栄華を極めた藤原氏は香取神社と鹿嶋神社の神を春日大社に勧請した際に、神の使いである鹿を1年かけて多数奈良に運んだときの通り道だったと言い伝えられている。

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鹿骨街道脇にはかつて用水路が通っていた、その用水路と鹿骨街道がこの場所で急に北に曲がっていたのだが、用水路は暗渠として残ったのである。この前のバス停が新皆面橋(しんかいめんばし)という名前。庚申塔は「上篠崎柳島の庚申塔河原道石造道標」という長い名前で江戸川区の文化財に指定されている。

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駒型で日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。正面下部には「右 かわら道 講中」とあり、左面には文化13年(1815)6月の年紀がある。右には「左 江戸道」とある。方向からすると昔とは逆向きに置いてあることになる。手前の地面に埋められているコンクリート版には「帝釈天構子 御用観音前」と書かれているが何を意味するかは不明。この辺りは1960年代までは民家もほどんどない田んぼの中だったが今では住宅密集地になっている。

場所  江戸川区上篠崎3丁目13-17

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2021年10月25日 (月)

弥陀堂跡の石仏(江戸川区上篠崎)

篠崎街道にある上本郷の庚申塔の路地を入り最初の角を右折すると墓所がある。阿弥陀堂(弥陀堂)と呼ばれている墓地で、無量寺の境外堂跡である。説明板があり「区内の民謡の中に『弥陀堂の和尚』という歌があり、これによると江戸時代に篠崎村の阿弥陀堂に一人の和尚がいて、木魚を横に抱えて謡い踊りながら、人々を教導した」とある。

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鉄扉を入るとその先のコンクリート製の屋根の下に石仏石塔が祀られていた。一番左には自然石でこの阿弥陀堂の改修の由緒のようなことが書かれているが昭和46年(1971)に改修がなされたらしい。ただ明治時代の地図を見ても寺の印はないので、無住になったのはそれ以前の可能性が高い。

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その横にある大型の舟型光背型の地蔵尊は上部が折れたのを補修してある。この地蔵は庚申講中によるもので、寛文5年(1665)8月の造立。高さは163㎝ほどある。沢山の文字が刻まれているが、「青面庚申之結衆▢善根」「庚申講結衆」というような文字が読める。時代が古いだけに素晴らしい彫りである。その右の舟型光背型の聖観音像も古く延宝7年(1679)5月の造立。「為日還法師菩提」とあるので僧侶の供養に造られたものだろうか。

場所  江戸川区上篠崎2丁目21

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2021年10月24日 (日)

上本郷の庚申塔(江戸川区上篠崎)

篠崎街道沿いには古い地名を残したバス停がある。京葉道路のすぐ北にあるバス停は「中図師」、鹿骨街道の出合の北にあるのが「上本郷」というバス停。都内各地にもバス停と小学校名は歴史上の地名を付けたものが多く、西新宿の「十二社」などはその典型である。

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上本郷のバス停の100mほど北の角に1基の庚申塔がある。塀を少し凹ませて祀られているが、かなり広いこの民家は石井家のお宅で、代々続く家のようである。

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駒型の庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の描かれたもので、造立年は文化2年(1805)11月と記されている。尊像の左手には形はややはっきりしないがショケラを下げている。左側面には「石井氏」の願主名もあり、庚申塔のあるお宅のご先祖様が建立されたもので間違いないだろう。

場所  江戸川区上篠崎2丁目24-13

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2021年10月23日 (土)

東光寺浄苑の庚申塔(江戸川区篠崎町)

江戸川区篠崎町に東西に延びる本郷用水跡の本郷用水親水緑道の少し北に墓苑がある。入口に「篠崎東光寺浄苑」とあり寺そのものはない。東光寺跡らしいが周辺に東光寺が存在しないので廃寺だろうと古い地図を見ていると、300mほど北に寺のマークがある。現在の住居表示では篠崎町1丁目37番にあたる。1900年以降の地図にはないので明治の前期には廃寺になったのだろう。現在の墓苑からその寺の位置まで、当時は民家もほとんどなかったようだから、広い境内の一部が残ったということだろうか。

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墓苑は整備されておりとてもきれいである。墓地の中程に無縁仏塔が一塊になっており、その中に庚申塔と思われる石塔が見いだせる。

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西側には大日如来の梵字がありその下に「庚申▢…」とあるが下部は見えない。裏に回ってみると「宝暦14年(1764)」という文字がかろうじて確認できる。塔型は山状角型で、下部に三猿があるかないかなどは全く分からない。この辺りは昔上篠崎本郷と呼ばれた地域で、本郷用水の名前の由来の地名である。篠崎街道の前身である河原道はこの辺りをくねりながら南北に走っており、西側はひろい水田地帯だった。

場所  江戸川区篠崎町1丁目41-24

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2021年10月22日 (金)

河原渡場道の庚申塔(江戸川区篠崎町)

京葉道路が江戸川を渡る江戸川大橋のたもとに子馬に乗れるポニーランドがある。その篠崎ポニーランドの建物の前にあるのが河原渡場道の庚申塔石造道標(江戸川区の説明板にはこう書いてあった)。路地の奥は江戸川区こども未来館・こども図書館がある。

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文政8年(1825)10月造立の駒型庚申塔で、日月と三猿の間に「青面金剛」の大きな文字。下部正面には「此方 江戸道」とあり、側面は摩滅して読めないが、説明板によるとそれぞれ「此方 下かま田新川道」「此 かわら渡シ場道」と書かれている。

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元は現在の場所よりも10mほど東にあったらしいので、ちょうど江戸川の土手の下あたりかと思われる。河原道という古道は複数あって、とうぜん川は洪水ごとに流れを変えるのでそうなるわけだが、時代が下るにつれて網の目のように沢山の河原道ができたという。江戸時代に河原の渡しがあったのはずっと南の下篠崎町辺りで、明治時代の地図には中州という地名があり渡し船が対岸の本行徳との間にあった。昔は篠崎街道辺りまで民家はなかったので、おそらく洪水の度に篠崎街道辺りまで川幅が動いたのだろう。

場所  江戸川区篠崎町3丁目12-17

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2021年10月21日 (木)

無量寺の石仏(江戸川区篠崎町)

真言宗の金龍山無量寺は平安時代の開山という古い寺院。明治17年(1884)に篠崎の弥陀堂を合併している。弥陀堂以外にも境外仏堂として観音堂と六斎堂があった。今はもうどれもなくなってしまったが、篠崎村の中心的な寺院だったことが分かる。

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山門をくぐると正面に本堂、左手に観世音堂がある。観世音堂の脇から墓所に向かう道があるが、その途中にいくつかの石仏が並んでいる。

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墓石の聖観音菩薩の先にあるのが、この舟型光背型の地蔵菩薩立像。造立年は万治元年(1658)12月。下の方には無量寺とあるので、江戸時代初期から境内にあったのだろうか。

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その先の墓所入口に立っているのがこの笠付角柱型の庚申塔。日月、青面金剛像、二童子、邪鬼、三猿の図柄で青面金剛は左手にショケラを下げる。右側面には、「奉造立庚申像 金龍山無量寺」の銘がある。左側面には年紀があり、造立年は享保9年(1724)2月である。

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本堂側に向かうと堂宇があり中に3基の石仏が祀られている。どれも摩滅というかとろけ気味で文字は全く読めない。一番右は笠付角柱型の庚申塔で、青面金剛像と三猿が見て取れるが、造立年等は全く分からない。中央の丸彫地蔵菩薩像もとろけ気味だが、見事に幽霊のように見えるのは左の舟型光背型の聖観音菩薩立像である。この堂宇は上部に「善龍寺(中寺)門前石仏」とあるがその名の寺院はかなり遠くまで行ってもないので何かの間違いだろう。あるは3つの境外堂のどれかをそう呼んでいたという可能性があるかどうか、わからない。

場所  江戸川区篠崎町3丁目5-15

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2021年10月20日 (水)

篠崎町の庚申塔(江戸川区篠崎町)

六斎地蔵尊からさらに北東へ350mほど行くと変形五差路の角に庚申塔が祀られている。堂宇はないが摩滅はそれほどしていない。石材が良いのだろうか。この辺の摩滅の違いがどうして起こるのかはよくわからない。この五差路はもともとは篠崎街道を横切るように流れていた篠田堀の水路が暗渠化されて五差路になったもの。

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庚申塔は駒型でブロック塀に囲まれている。日月、青面金剛像、二邪鬼、二童子、三猿という珍しい図柄で、青面金剛の左手にはショケラがぶら下がっている。右側面には、「奉供養庚申講中  武刕葛西下篠崎村」と刻まれている。左側面には年紀が記され、享保9年(1724)2月の造立と書かれている。

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この庚申塔の向かいに以前は下篠崎町会会館があったらしい。ということは旧六斎堂もこの庚申塔の辺りにあったということになり、ここの篠田堀と篠崎街道の辻は村の中心のひとつだったということだろう。この辺りの旧小字は前図師といい北に行くと中図師といった。町境会館では前図師、中図師、その先の下図師の講中が集まり講を開いたという。毎月4日が地蔵講、21日が大師講だったらしい。庚申講はまた別の形で行われていたのだろう。

場所  江戸川区篠崎町4丁目33-15

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2021年10月19日 (火)

六斎地蔵尊と庚申(江戸川区下篠崎町)

篠崎街道を北東に進むと南篠崎町から篠崎町に入る。今は空き地もないくらい建物が建ち並ぶ街だが、人口が急増したのは東京オリンピック以降である。それまでは田んぼの広がる地域だった。

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比較的大きな交差点の一角に稲荷と一緒に庚申塔が祀られていたのだが、訪問時には消えてしまっていた。まだ痕跡はしっかりと残っている。通りかかった車椅子のおばあさんと介護士らしき女性が話していた。「ここにお稲荷さんがあったんだけどねぇ」と。私もつい「そうですよね、前はありましたよね。」と話したが、仕方がないのでこの先の六斎地蔵尊に向かうことにした。

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すると六斎地蔵尊の一画に稲荷と並んでいた庚申地蔵があったのである。工事で稲荷神社が撤去された時に庚申地蔵はここに移されたわけだ。造立年は宝永6年(1709)8月。舟型光背型の尊像の右には「奉造立庚申供養」とある。

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家主ともいえる六斎地蔵尊は天和2年(1682)8月の造立で古いものである。無量寺の別院である旧六斎堂の御本尊だったらしい。昭和40年(1965)11月に、旧六斎堂からこの場所に移設されたと書かれている。旧六斎堂は下篠崎町会会館の隣にあったとあるが、それがどこかは別別述する。地蔵には「為三界万霊六道四生一切含識成仏也」と書かれており、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)のどの状態でも救いを与えるというのが六斎なのだろう。

場所  江戸川区下篠崎町9-13

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2021年10月18日 (月)

西光寺観音寺墓地の庚申(江戸川区南篠崎町)

街中の旗状地の奥にこじんまりとした墓地がある。こういう墓地はたまに見かけるが、通常かつて寺で現在は廃村になったとか、単独寺院の第二墓地というケースが殆どで、このように二つの寺院の共同墓地というのは珍しい。

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西光寺はここからすぐ南にある真言宗西光寺だが、この辺りに観音寺というお寺はない。ただ『新編武蔵風土記稿』には江戸時代ここが上鎌田村だった時代に観音寺という寺がまさにこのあたりにあったという。年不詳ながら廃寺となり、西光寺に吸収されたと考えるのが自然だろう。

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庚申塔は墓地に入って左隅にいくつかの石塔と一緒に置かれている。ここはおそらく観音寺時代の石仏石塔だろう。日月、青面金剛像、三猿の図柄でゼニゴケが汚れて張り付いている。尊像の右には「奉造立庚申」、左には正徳3年(1713)4月の年紀が刻まれている。

場所  江戸川区南篠崎町1丁目10

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