2017年5月26日 (金)

土器坂(飯倉)

土器と書いてかわらけと読む土器坂は飯倉交差点から南に下り赤羽橋へ達する緩やかな坂道である。 とても広い道路で坂道感はない。とはいってもこの坂は国道1号線だから致し方ない。坂名の由来には複数の説がある。 南の三田界隈に渡辺綱の伝説が多くあるが、その渡辺綱がここで河原毛(褐色系の毛色)の名馬を求めたためという説。また、この地域に土器師が多かったためという説などである。土器(かわらけ)というのは赤土で作る焼物のこと。

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坂下の赤羽橋の名前にも由来があり、赤羽というのは赤埴(あかはに)の転化だという。 赤埴というのも赤土で作った焼物のことである。赤羽橋そばの芝公園には丸山古墳もあり、この辺りにそういう文化があるのは納得性がある。

昔はもっと勾配のある道だったが、都電が通される折にかなりなだらかに変えられたようである。江戸時代は、通り沿いは町屋で東側は増上寺の周辺に幾多の寺院が並ぶ寺町だった。坂上の熊野神社は江戸期から今に至ってランドマーク的な神社だったが今はビルに埋もれている。しかし創建は養老年間(717-724)ときわめて古く、長い時代この地の鎮守として今に至る。

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2017年5月25日 (木)

榎坂(飯倉)

飯倉の交差点から六本木方面に下る坂道。 東京タワーしたの永井坂から繋がるように下っていく。少し上ったところにはロシア大使館があり、最近は警察の警備が厳しく写真が撮れない。実はロシア大使館の裏にはアメリカンクラブという会員制の施設があって、一度入ったがほぼ完ぺきにUSA。この二つがくっついているのが不思議だった。

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写真のNOAビルの前は土器坂の坂上、かつ永井坂の坂下。 この交差点が鞍部になり、榎坂はここからの上り。 この坂に標柱はない。 榎坂の由来は赤坂の榎坂同様に、ここに一里塚があったのだろう。 そして榎が植えられた。

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ロシア大使館前で勇気を出して撮影する。 運よく取り締まられなかった。ただこれは2015年の撮影。 今年行ったときはとても撮れる状況ではなかった。東京タワーが青空に刺さっている。 都会の中でもわくわくする景色である。

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2017年5月24日 (水)

富士見坂(芝公園)

坂というよりも坂の痕跡である。 東京タワーの東側は台地からストンと落ち込む崖のような地形で、その先には広い芝公園や増上寺およびその元敷地がある。この東京タワー下の芝公園の一角にその痕跡がある。

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写真のお堂は西向観音堂。 このお堂のある場所を昔は富士見台と呼んでいた。『今昔東京の坂』(岡崎清記氏)によるとこの数段の石段がその痕跡らしい。 台地にある東京タワーの地面は標高21mであるのに対して、下の芝公園は10mだから11mの崖という事になる。

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人口の滝ではあるが、こういう滝(もみじ滝)ができるほどの崖になっていて、公園の中は涼しげである。崖下にある芝公園の芝丸山古墳は都内でも最大級の古墳である。 大きさはおよそ106m×40mの前方後円墳。5世紀ころの豪族の墓だろうと言われているが、具体的な記録は残っていない。

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2017年5月23日 (火)

永井坂(飯倉)

飯倉交差点から東京タワーに向かって上る坂が永井坂。 標柱には、「江戸時代から明治初期にかけて、この付近の地を芝永井町といったことからこの名がついた。」とある。飯倉交差点に向けて下る榎坂から再び上って東京タワーに向かう。

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飯倉交差点を東にわたり永井坂を上るにつれて、昭和のシンボルである東京タワーが空を突き刺すようにそびえるのが目に入る。ただ江戸時代は東京タワーの辺りは寺が立ち並び、増上寺の裏門前のようなところだった。 道は永井坂の上で切通坂方面へぬけ青松寺に抜けた。

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今は東京タワーのベストビューとして、海外の観光客がたむろすようになった。石川悌二氏は『江戸東京坂道事典』の中で、この坂を榎坂としている。 今東京タワーがある場所は金地院という寺だった。金地院は今も東京タワーの向かいに存在する。徳川家康にゆかりがあり、今も広い墓地を保持している。

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2017年5月22日 (月)

江戸見坂(赤坂)

霊南坂と潮見坂を開いた扇子の両端とすると、円周にあたるのが江戸見坂である。2本の坂の勾配を1本でこなすため、勾配はすこぶる急である。坂下から見るとまさに見上げる感じで、坂上からは見下ろす感覚がある。坂の標柱には、「江戸の中心部に市街が開けて以来、その大半を眺望することができたために名付けられた坂である。」と書かれている。

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さすがに勾配20%というのはめったにお目にかかれない。 これに勝るのは雑司ヶ谷ののぞきざか(22%)くらいである。歩いて上ると前傾姿勢になる。 車はローギアかセカンドで上ってくる。

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昭和の初めまではこの坂上から東京の街を望むことができたという。また江戸時代には、この江戸見坂は九段坂とならんで江戸を一望できる坂としてたいそうな人気だったらしい。残念ながら今はビルに囲まれて、そのすごい傾斜だけが往年の様子を維持している感がある。

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坂上はホテルオークラ。 日本を代表する高級ホテルである。 この風格のホテルを見上げる景色も都会としては悪くない。 ただやはり坂の勾配がもっとも印象に残る。 ヤマハの電動自転車のHPで「激坂チャレンジ」というのがあるが、その東京代表はこの前述ののぞき坂、砧の富士見坂(正式名称は岡本三丁目の坂)、そしてこの江戸坂である。 現代でも東京の三本指に入る急坂と言っていいだろう。

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2017年5月21日 (日)

汐見坂(赤坂)

霊南坂の坂下から東に下る坂が汐見坂(潮見坂)である。 右手はホテルオークラの塀が続き、左には国立印刷局のビルがあったが、今はどちらも工事中で白い仮囲いに覆われている。江戸時代は海が見える坂を潮見坂と呼んだので、あちこちに汐見坂があるが、23区内に海の見える潮見坂はおそらくもう存在しない。それだけ海岸沿いに高層建築が増えたのである。

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坂の上下にある標柱には、「江戸時代中期以前には、海が眺望できた坂である。南側に松平大和守(幕末には川越藩)邸があって、大和坂ともいった」とある。すでに江戸の中期には海が見えなくなったということは、浜離宮庭園と関係があるのではないかと推測する。この坂の方向は浜離宮の方角になる。しかし、この延長上を1~2度右に見るとそこはもう愛宕山にひっかかる。 愛宕山の左にわずかに海が見えたが、浜離宮は江戸の中期以降になると屋敷が建てられたりするようになり、樹木も育ったりしたので見えなくなったのではないだろうか。 そんな想像をすると坂歩きはさらに面白くなる。

江戸名所図会: 溜池(左下に霊南坂、下中央に汐見坂がみえる)

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霊南坂(赤坂)

さて、アメリカ大使館脇、工事中のホテルオークラとの間のまっすぐに上る坂、霊南坂である。 大使館の塀は白くまるで武家屋敷のような風情を残している。慶長年間(1596~1614)に芝高輪の東禅寺を開山した嶺南和尚の庵があったので、嶺南坂となり、それが訛って霊南坂となった。

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上の写真の右の塀手前の警察詰所の脇に、赤坂ライオンズクラブが建てたここの3つの坂の丸い案内碑があるのだが、警察は白塀側には渡らせてくれない。 坂途中の標柱を撮影するのに道路を横切ったら若手がすっ飛んできて、「こっち側に来るな」と怒鳴った。その時撮影したのが下の写真。

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現在、ホテルオークラの集古館一角は工事中である。なのに工事している側しか通らせないとは意地悪なことだ。 江戸時代まではうっそうと樹木の茂った道だったようだが、その時代と言わないまでも、数年前までの大使館の白塀とオークラの雰囲気のある塀が両側に続く姿はなかなかの景色だった。

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願わくは、社会の歪が緩和されて、世の中が平和になって、ここを家族連れが散歩するような時代になってもらいたいものである。(ちなみに警察は西洋人に対しては礼儀正しく対応しているように感じられた。ある意味人種差別をしていると言えるかもしれない。)

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榎坂(赤坂)

アメリカ大使館の正門前は坂の辻になっている。 西の六本木通りから上ってくる榎坂、大使館正門前の変形交差点を直進すると汐見坂、右折して大使館沿いに上る直線の道が霊南坂である。 前にも書いたように、ここ最近はこの辺りを歩くのも難しくなり、というのも警視庁の監視が2,3年前の何倍にも強化されていて、写真が撮れないので、写真は2015年のもの。まったくもって困ったものだ。

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大使館正門前に標柱があったのだが10年以上前に撤去されてしまった。古街道の一里塚だったこの辺りに榎の大木が江戸以前からあったと言われている。昔は街道の道しるべとして榎が植えられ、一里塚の脇には必ずと言っていいほど榎があった。 高輪台の二本榎もそのパターンである。 古文書にはこの榎は池(溜池)のほとりにあったとあり、江戸以前にはここまで溜池が広がっていたと推定できる。

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新榎坂(赤坂)

この坂は平成になってから開通した真新しい坂道。 2005年ころ開発された赤坂インターシティビル(アメリカ大使館西隣)の建設時に桜坂の坂上から繋げられ新設された道である。歴史のない道なので区の標柱などはないが、インターシティビルを建設した興和不動産が立てたと思われる黒い板碑のような標柱があり、坂名のみ記載されている。

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坂下には道路にバリケードを張る警察官が複数いてとてもカメラを出せる状態ではない。2,3年前までは普通にどこでも写真を取れたのだが、最近は警察もピリピリしてきて、カメラを構えると威圧的に注意されるようになった。この辺は世の中には伝わっていないが事実である。

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とかく住みにくい時代になってきたのが、こうして毎年歩き回っているとわかってくる。警察などの組織の管理職が現政権の意向を相当に忖度して、かつ事なかれ主義に陥っているので、「今日は何も問題ありませんでした」というのを最良の結果として報告したいのだろう。そんな了見で本物のテロリストを抑えられるとは到底思えないだけに、いささか滑稽でもある。

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桜坂(赤坂)

桜坂で有名なのは大田区沼部の桜坂で福山雅治の最大のヒット曲になった坂。最近でも桜の時期に限らず坂道とは無縁の人々も多く訪れている。 赤坂の桜坂はANAインターコンチネンタルホテルの北側の坂。 ゆるやかに曲がりながら坂上で新榎坂に丁字路で当たる。

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坂の上下の標柱には、「明治中期に新しく作られた道筋で、坂下に戦災まで大きな桜の木があったことからこの名がついた。」とある。インターコンチネンタルホテルができる前は風情のある坂道だったようで、『今昔東京の坂』で岡崎清記氏はその雰囲気を讃えている。

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坂下は六本木通りと首都高速だが、江戸時代にはなかった道で、大通りの辺りは福岡県の筑前福岡藩の松平美濃守の屋敷。今の赤坂山王下からANAコンチネンタルホテルまでの広大な敷地がその中屋敷だった。 江戸初期には盛岡藩南部家の屋敷だったらしいが、江戸後期はずっと筑前福岡藩だったようだ。 しかしとてつもない広さの屋敷で、赤坂では幕末に屋敷を取り潰しされた毛利家(現ミッドタウン)に次ぐ大きさだった。

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鼓坂(赤坂)

鼓坂はアメリカ大使館と霊南坂教会の間の道で、霊南坂教会からANAインターコンチネンタルホテルに向かって下っている。 坂の脇にある陽泉寺と澄泉寺は江戸時代の切絵図にも記載されている。明治以降に開かれた坂と言われる。

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江戸期にも道はあったが、この坂の上の方で霊南坂教会側に折れ曲がっていたようだ。その先には「ガンギ坂」の記述のある切絵図もあるから、三谷坂下へ階段で下っていた可能性がある。江戸時代の道の名残りらしき坂上の横道を進むと三谷坂からの道と立体交差になっている。

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サントリーホール脇で上の道から下の道に降りる真新しい階段がある。 ここにはかつて石組みの階段があったがどうもこれは雁木坂ではない。 古地図と合わせてみると、サントリーホールの裏、アークヒルズの住居棟が並ぶテレ朝アーク放送センターとの間の通路が江戸時代の雁木坂に当たるようだ。 マンション内のタイル舗装なので全く痕跡はない。

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さて、鼓坂に戻って下ると、ストンと高度を下げてすぐに坂は終わる。写真の坂上右の樹木の向こうに霊南坂教会がある。昭和世代にとっては山口百恵と三浦友和が挙式を上げた場所としてあまりにも有名である。

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2017年5月20日 (土)

三谷坂(赤坂)

アークヒルズやホテルオークラのあるエリアだが、アークヒルズの名前がARK=Akasaka Roppongi Knotであるように、まさにその敷地の中に赤坂と六本木の町境が通っている。昔は麻布谷町と霊南坂町の境だった。いつの時代もここは街の境で、三谷坂(さんやざか)はホテルオークラから今よりもずっと谷のほうまで続いていた。

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現在は何という事のない短い坂だが、江戸時代はこの坂下の辺りからさらに下に今井三谷町という町屋が広がっていた。上の写真の正面のホテルオークラの溜池側半分は定火消屋敷だった。アメリカ大使館の坂上半分も定火消だった。また上の写真の左の植え込みの辺りは御先手組の屋敷があったようだ。

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坂上はかなりの勾配だが、坂下は緩やかになる。かつてはこの先の突き当りからさらに下る坂道があって、そちらが主役の三谷坂だったのだが、今は坂上の一部だけが残っているといういささか残念なことになってしまった。

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スペイン坂(麻布台)

スペイン坂というとやはり渋谷宇田川町の旧パルコへ上る坂が有名である。 ここ六本木一丁目にもスペイン坂がある。 というかこちらの坂上にはスペイン大使館があるので、むしろこっちが本家かもしれない。道源寺坂とほぼ平行に通っている。

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坂下に森ビルが設置した坂の説明板がある。「1986年(昭和61年)、20年近い歳月を経て、赤坂(Akasaka)と六本木(Roppongi)の結び目(Knot)にアークヒルズ(ARK Hills)が誕生しました。当時の民間における都市開発事業としては最大級の規模(56,000㎡)を誇り(中略)。そのアークヒルズの南側に位置するこの坂道は、六本木通りからスペイン大使館に繋がることから「スペイン坂」と名付けられ、多くの人に親しまれています。(後略) 2001年」とある。

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並木の包む坂の雰囲気は近代の坂道にしてはよくできていると思う。 道源寺坂の景色が良いのでそれと比べると趣に欠けるが、まっすぐの坂にしなかったセンスを評価したい。こういう街路においては車道でも曲げることでスピードも緩み、結果的には住民も使いやすい道になると思う。もちろん長くなる分コストは嵩むが、看板の色などで規制するよりも、こういう景観センスで規制するほうが街は素敵になり発展すると思うのだが、マネー優先の社会はそうも行かないのだろう。

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道源寺坂(麻布台)

近年大変貌を遂げている六本木一丁目駅周辺。 世紀の変わり目である2000年12月12日に大江戸線が開通し都営地下鉄の六本木一丁目駅ができた。それ以前から全日空アークヒルズはあったがどの駅からも若干遠さを感じざるを得なかったが、ジャンクションの真下にできた駅はその後の開発を加速させた。

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その中でひっそりと江戸情緒を保っている坂道がこの道源寺坂。 上の写真は2011年冬のもので、当時は右側のアークヒルズサウスタワー(20階建)が工事中だった。鉄骨と仮説囲いが風景の邪魔だと感じた。

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坂下の西光寺と坂上の道源寺の間をくねりながら登っていく坂の景色に、右側から迫ってくる工事の養生設備が難儀だった。この坂道は江戸時代は赤坂方面からの重要な道路で、かつ昭和までは箪笥町と谷町を分ける境界でもあった。坂の上下にある標柱には、「江戸時代のはじめから坂の上に道源寺があった。その寺名にちなんで道源寺坂、あるいは道源坂と呼んでいた。」とある。

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上の写真が2017年の景色である。 初夏なので樹木と蔦の生い茂る坂になり、2013年に竣工したサウスタワーのグリーンゾーンもあって若干ましになったが、標柱は植え込みの中に移設されてしまいそう遠くないうちに埋もれてしまいそう。区の仕事としては間抜けている。

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坂上道源寺山門とその門前のケヤキ。このケヤキが残されていたのはうれしいことだった。これがあるとないとでは景色は全く違う。目の前には首都高速環状線と3号線のジャンクションがあってひっきりなしに車が通るので静かではない。

坂上には大正9年から終戦にかけて小説家の永井荷風が「偏奇館」という木造2階建の独居を建てて執筆した。 ペンキ塗りの洋館だったのでもじって名付けたという。ただ昭和20年の空襲で焼失した。 荷風は軽佻浮薄な日本近代を憎み、市井に隠れて、滅びゆく江戸情緒に郷愁を見出すという思想と作風だったという。 それにこの坂道はとても似合っている。

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しいのき坂(麻布台)

平成の坂である。スウェーデン大使館の脇から、仙石山レジデンスの裏手を周り、我善坊谷坂上に出る極めて新しい坂道。この区画は2012年に再開発された。

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とてもきれいな歩道付き車道で周りにはたくさんの樹木が茂っていて、これはこれでありかなと思ってしまった。 アークヒルズ仙石山森タワーの資料に紹介がある。

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この場所は江戸時代は大名屋敷。 岩手県の南部八戸藩、埼玉県の本庄の小藩などの屋敷が並んでいた。 坂下に周辺の地図があり、そこにしいのき坂と記載されている。

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昭和の地図を見ると、この場所には生活改善技術研修館なるものがあったようだ。農林水産省の施設で、省職員や地方公共団体の職員の教育機関だった。 昭和34年(1959)にここに作られ、2006年につくばに移転した。大正時代までは東久邇宮家の邸宅。東久邇宮は終戦直後から内閣総理大臣に皇族として最初で最後に就任し、終戦処理を行った。 総理大臣の名前に東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)を知る人は今はもうほとんどいないかもしれない。 明治・大正・昭和・平成を生きられ、102歳まで存命だった。

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2017年5月19日 (金)

御組坂(麻布台)

泉ガーデンの裏にある短い坂である。 我善坊谷は御先手組の屋敷町だったと書いたが、我善坊谷坂を上った台地の上にも御先手組の屋敷が広がっていた。 ちょうど現在の泉ガーデン全体くらいの規模だろうか。 今は泉ガーデンギャラリーとパークコート六本木ヒルトップに挟まれた路地だが、2011年に来たときはパークコートが工事中だった。

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泉ガーデンギャラリー側には中層のマンションがあった。 その石垣がなかなかきれいだった。

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2017年に再び訪れるとパークコートが完成しており、反対側の中層マンションが取り壊されて工事中になっていた。路面にはタイル型コンクリートできれいに化粧舗装してある。標柱も新しくなっていた。

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坂上から望むと上の写真が2011年、下が2017年である。都心の街の変化の速さには舌を巻く。標柱には、「幕府御先手組(おさきてぐみ・戦時の戦闘部隊で、常時は放火盗賊を取り締まる)の屋敷が南側にあったので坂名となった。」とある。小さな坂だが江戸時代はそれなりに重要な麻布台の坂だった。

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一本南側のアーク八木ヒルズに日本国憲法草案審議の地がある。1946年に吉田茂らとGHQが日本国憲法の草案をここで審議した場所なのだが、憲法論議が盛んになっている今、だれも見向きもしないのが寂しい。 憲法は権力が暴走しないように作られた法なのに、それを十分に深く時間をかけて議論しないこの国はやはりおかしい。与党もダメ、野党はもっとダメになってしまったのは国民が駄目だからなのだろうか。

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2017年5月18日 (木)

西久保八幡男坂・女坂(麻布台)

麻布台の突端ともいえるのが西久保八幡神社である。縁起としては、寛弘の時代(1004~1012)に源頼信が石清水八幡宮の神霊を勧請して溜池の近くに創建した。 のちに太田道灌が江戸築城(1457)した折にこの地に移転させられた。 徳川時代になり二代秀忠の正室お江の加護を受け発展した。

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地理的には麻布台の南側の突端になる。最突端は愛宕山だが、古代にはこの辺りが入り江の海岸だったため、神社の裏手斜面には貝塚がある。正式に発見発表されたのは遅く、昭和57年(1982)のことだった。この地には縄文時代後期に人が住んでいたことがわかっている。

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愛宕神社の階段ほど高さがあるわけではないが、それでも10m近い段差にはなっている。日本には昔から数多の八幡と稲荷が作られた。 一説によると一番多いのが稲荷神社で35,000社、次が八幡神社で24,000社と言われる。八幡の大本家は宇佐八幡宮で、京都の石清水八幡宮も鎌倉の鶴岡八幡宮も宇佐をルーツとしている。

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西久保八幡には多くの神社にあるように、男坂と女坂がある。男坂は急峻な階段。女坂は緩やかな車道になっている。 私が興味を持ったのは女坂の玉垣(石柵のこと)。相当に古い。ヒビが入って所々傾いているが、それが歴史の重みとして伝わってくる。 江戸名所図会にも神社の姿が描かれている。
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また神社の右手裏には北参道があって、いつも通れるとは限らないようだが、この台地の突端のさらに先に降りていく感覚がなかなかのものだ。 コンクリート製の階段ではあるが、草付きが多く、その目立たないひっそりとした感じが素晴らしい。

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2017年5月17日 (水)

雁木坂(麻布台)

三年坂の坂上を進むと左手に谷に下る階段があり、雁木坂という。 標柱によると、「階段になった坂を一般に雁木坂というが、敷石が直角に組まれていたことからなどともいい、当て字で岩岐坂とも書く。」とある。

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今年(2017)訪れた折には標柱が新しくなっていた。しかし以前に何度か来たすべての折にここの鉄柵に自転車が止めてあった。 同じタイプの自転車だが以前は黒だったが、今回は白になっていた。おそらく同じ人間の仕業だろう。昔の写真を見ると階段の両脇の鉄柵の外側も階段になっていてかなり幅広い雁木坂だったようだ。

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途中に踊り場があり、そこから榎坂方向へ細路地がつながっている。 雁木坂そのものは江戸時代は倍以上の幅の階段道だったのだろう。切絵図には「ガン木坂」と記されていて、飯倉を通る現国道1号線と同等扱いの道だった。昭和の写真も相当幅がある。その時代のこの坂を見てみたかったが、かなわない。

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2017年5月16日 (火)

三年坂(麻布台)

我善坊谷坂の対角にあるのが三年坂(三念坂)。あちこちに三年坂という名の坂はあって、ほとんどが墓地や寺院の近くだが、ここには墓地も寺院もない。迷信みたいなもので、三年坂で転ぶと三年以内に死ぬという、まるで小学生の都市伝説のような話がまかり通るのも江戸の面白さであるが、この坂は江戸時代は無名坂だった。

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しかし我善坊谷は徳川二代秀忠の夫人の荼毘所のあった場所なので、ここを三年坂と呼ぶのはごく自然の成り行きだったのだろう。三年坂は谷から上がっていくとまず急な坂になり(ここだけなら勾配は20%以上ある)、左にクランクすると階段になる。

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この階段がなかなかいい景色を見せている。 真ん中に自転車通路があるのだが、横関英一氏の本の写真にはなく、地方の古刹の参道のような、土の坂の中央を石の階段が通っている景色だ。

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坂上からの景色はまことに素晴らしい。ここが開発されてなくなってしまうのはあまりに惜しい。 階段の上下には洒落た石の説明板がある。「三年坂の由来---いつのころよりこの坂がそう呼ばれたのか定かではありません。しかし、東京が江戸と呼ばれていた時代には無名ではあります。すでにこの坂があり、のち石段になったようです。また、三年坂は別名三念坂などとも呼ばれ同じ名前の坂がほかに数か所あります。京都清水のそばに同名の坂があります。昔の人が遠くふるさと京都をしのぶ気持ちを坂の名前にこめたとしたらロマンでしょうか。(麻布土木事務所)」と書かれている。

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坂の上下の舗装の切れ目にはそれぞれ円柱の杭が立っていて、三年坂という名前と仏の姿が彫りこんである。江戸時代の切絵図には我善坊谷坂からそのまま続く坂として描かれている。 明治の地図には三年坂の名はないが、昭和に入る頃から三年坂という記載が残っている。岡崎清記氏が『今昔東京の坂』の中で、もし霊友会釈迦堂がなければ、その先に西久保八幡の森が見えるさらにいい景色だっただろうと書いたのは全く御意である。 石川悌二氏の『江戸東京坂道事典』ではここが雁木坂とされている。 昔はどうだったかわからないが隣の雁木坂と混じっていた可能性はあるだろう。

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2017年5月15日 (月)

我善坊谷坂(麻布台)

さていよいよ我善坊谷の名を冠した我善坊谷坂である。 落合坂の坂下から、右へ曲がると三年坂、左へ曲がると我善坊谷坂になる。 この辻あたりが谷の中で最も低い場所。右を見ても左を見ても崖の上のポニョならぬ、崖の上のさらに高いマンション。

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坂下にある古い下見板張りの木造家屋が昭和の香りを濃厚に漂わせる。 下見板張りというのはまさにこういう上板を外に、下板を内にわずかに重ねたもので、ここのは押縁という縦の木材が下見板を押さえている昭和の典型タイプ。 坂は急で、坂下には車止めがあって歩行者専用とあるが、坂上には何もない。

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この坂に標柱はない。 昭和の町屋を囲む笹垣が素敵だ。 江戸時代は坂下は御先手組(機動隊宿舎)、坂上は八戸藩の殿様のお屋敷だった。 江戸時代は坂の上は武家屋敷、現代は坂の上は高級マンションという、格差高低差は変わらない。

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坂上から望む変形の三階建家屋がある。 家の前に沢山の植木を出していていい雰囲気である。 お花屋さんのようだが店舗は飯倉下の桜田通りにあるようだ。 ここが店舗でも悪くない気がした。

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坂上から我善坊谷を望む。 左向こうの斜めの屋根は霊友会釈迦堂。右下の瓦屋根が昭和の下見板張りの町屋、向こうの崖の上に赤い郵便車が並び、その右手はかつての郵政省、現麻布郵便局のレトロな建物。 昭和5年(1930)に旧逓信省貯金局として建てられたアールデコ風の建物。ところが・・・

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この我善坊谷を森ビルが開発する計画が進んでいる。 恐ろしいことだ。 計画概要はこちら。また街が破壊される。 この麻布郵便局も我善坊谷もろともにシンゴジラが通ったようにつぶされてしまう。 行合坂も埋められる。 私にできることは、今のうちに何度も訪れて、我善坊谷を写しておくことだけ。 札束にはかなわない。

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2017年5月14日 (日)

落合坂(麻布台)

我善坊谷の川筋に当たる道が落合坂である。 行合坂から入るといきなり標柱がある。「我善坊谷へ下る坂で、赤坂方面から往来する人が、行き合う位置にあるので落合坂と呼んだ。位置に別の説もある。」と記されていた。

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坂の向こうに見える大きな建物は霊友会釈迦殿。 宗教法人って儲かるんだなと、伊皿子坂の幸福の科学といい、ここ霊友会といい、いつもながらに眉をひそめてしまう。 この坂の中に入っていくと、そこは六本木エリアの再開発ブームから置いてけ堀を食らったような昭和の雰囲気がする。(しかしここにも開発の魔の手が伸びているのは一軒ずつ見てみるとなんとなくわかる)

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ただ戸建て民家も多いので、まだまだしばらくはこのままではないかと期待している。 坂は緩やかに下っていく。 谷底の道だが、谷がまっすぐなので道もほとんどまっすぐである。

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我善坊駐車場という名前がみえるが、元々は龕前坊らしい。麻布七不思議にこんな話がある。「昔この辺りに古寺があり、龕前坊というお坊さんがいた。とても怖い顔をしていたが子供達には優しく人気があり慕われていた。」まあ、この手の話はあちこちにあるので、それが我善坊谷の由来かどうかはいささか訝しい。

坂学会会長の山野勝氏が港区の広報に寄稿している。

「寛永三(1626)年10月、二代将軍徳川秀忠の正室であるお江与 (崇厳院)が逝去し、その葬礼が芝増上寺で行われた。 荼毘に付されたのは、今の六本木駅近くにある深広寺の旧地だったが、葬列の途中の道筋にあたる、坂下のこの谷地に仮御堂が置かれた。この仮御堂のことを龕前堂と称し、 後にこの一帯が龕前堂谷と呼ばれるようになり、やがて我善坊谷に転訛したという。もう一つの説は、この谷地で座禅を組むお坊さんがいたので座禅坊谷という地名が起こり、これがなまって我善坊谷に変わったともいう。 」
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途中クランクしているのがこの坂道の特徴でもあるが、この道筋に沿って江戸時代は御先手組の屋敷があり、御先手組とは今でいう警察と機動隊のようなものだったので、昔からの城下町づくりと同じ要領でこういうクランクを作ったのではないかと思った。しかし江戸時代の切絵図にはクランクはなく、坂下の三年坂・我善坊谷坂の辻のところに「ガゼンボ谷」とだけ記されている。 謎の多い谷である。霊友会釈迦堂の向こうには東京タワーがそびえている。やはり東京タワーはいい。

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行合坂(麻布台)

六本木周辺は次から次へと大きな再開発が行われるので1年も間を開けると街が変わってしまっていることがよくある。 首都高飯倉出口前の六本木グランドタワー(テレ東の入った住友不動産の40階建ビル)が今年の4月開業だが、オフィスが埋まらないらしくあちこちに告知がある。そろそろ供給過多でやばい時期に入ったかもしれない。

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最初の写真(上)は2年前のものだが首都高速の反対側はほとんど変わっていない。 泉ガーデンが出来たときはまったく街の姿を変えてしまったが、今は落ち着いている感じがある。 行合坂の名の由来は標柱に書いてあった。「双方から行合う道の坂であるため行合坂(ゆきあいざか)と呼んだと推定されるが、市兵衛町と飯倉町の間であるためか定かでない。」 やはり港区の説明書はあてにならない。

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2枚目の写真は今年の写真。 凹型をしているのがよくわかる。ここは我善坊谷という谷の源頭である。 不思議な谷で、麻布台がここだけ落ち込んだ形で逃げ込んだら出られないという風にも言われた。その形をここでは今も見ることができる。その我善坊谷がこの行合坂を作ったというわけである。
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一方反対側(麻生十番方向)から見ると、両方の勾配はほぼ同じくらいに見える。 きれいな薬研地形である。何故かこちら側の麻布通りとの合流地点に警察官が二人いたが、何の警備かはわからなかった。今の麻布小学校があるところは明治時代は紀州徳川邸だった。明治維新以後も徳川家は広い屋敷に住むことができたのである。(本家は千駄ヶ谷だった)

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坂の途中にはピザの老舗であるニコラスがある。隣の地下へのトンネルは会員制の麻布ナイトクラブ・スペアキーへの入り口で、なんだかとても怪しい雰囲気。 ニコラスの創始者二コラ・ザペッティは米軍に寄生していたアンダーグラウンドの闇商人で、六本木マフィアのドンだった。力道山や当時の自民党政治家も彼の世話になっていたと言われている。

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2017年5月13日 (土)

山王神社参道

赤坂日枝神社は山王神社とも呼ばれる。 文明10年(1478)に太田道灌が江戸城を築城するにあたり、川越山王社を勧請し現皇居内紅葉山に創建。徳川が江戸に入ってきたのち、二代秀忠の時に今の隼町付近に移転させられたが、明暦の大火(1657)で焼失した。 四代家綱はすぐに三河吉田藩屋敷だった邸地を召上げて、今の場所に山王神社を移転した。

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赤坂日枝神社といっても神社があるのは千代田区永田町。 今は内堀通りを渡ればすぐなので赤坂の一部に見えるが、本来の参道は国会議事堂から下る山王坂で、あちらの鳥居と階段が正門。 赤坂側は山王パークタワーが出来たときに建設された、エスカレーターまでついた裏参道に当たる。山王鳥居と呼ばれている。

山王パークタワーの前身はホテルキャピトル東急でそのまた前は東京ヒルトンホテル。 1966年にビートルズが来日した折に宿泊したことで有名。10階フロアはビートルズ専用となり、3日間の宿泊料は380万円だった。消費者物価指数は今の2割程度だから2000万円くらいだろうか。当時の大卒初任給は24000円だから、給与ベースだと4000万以上になる。まあ、ビートルズにとってははした金だが。

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日枝神社にはもう一つ鳥居があってグレーの鳥居でこちらも山王鳥居という名。 この北隣はかつて1982年(昭和57年)に死者33名を出す火災を起こしたホテルニュージャパンだった。 またニュージャパンの地下にあったナイトクラブ「ニューラテンクォーター」は力道山が刺された場所。 この辺りは近代になってもニュースが多い場所である。

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グレーの山王鳥居をくぐると石の階段がある。 こちらは山王稲荷へ上る参道。 ここからは京都の伏見稲荷というわけにはいかないが、東京ではあまり見かけない赤鳥居のとんねるが味わえる。

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121段ある階段のうち、鳥居に覆われたのは77段ほど。 東京のど真ん中でこの雰囲気を味わえるのは素晴らしい。 上りもいいし、空いているから下りも楽しい。

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ちなみに日枝神社という名前は明治以降の称号だが、江戸時代から山王様で通ってきたのでいまだに山王神社と呼ぶ人が多い。 我が家の孫たちもここ山王神社でお宮参りと七五三をした。 都心にありながら、厳かで静寂なこの場所はそういう神事には最適だと思う。

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檜坂(赤坂)

昭和の街区名は坂の南側が檜町、北側が氷川町だったが、今は赤坂9丁目と赤坂6丁目と味気ない。また坂上の南側は以前は三河台町、今は六本木4丁目とこれも味気ない。できることなら昔の町名に戻したいと考えるのは私だけだろうか。檜坂は氷川神社や今井城址の台地から赤坂通り筋の清水谷に一気に下る。清水谷に下るので清水坂の別名あり。

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檜坂の南西側の現東京ミッドタウンは、江戸時代は長州萩藩毛利家の中屋敷、幕末近くなって蛤御門の変に端を発する幕府の長州征伐に絡んで屋敷は取り潰しになる。明治には帝国陸軍、戦後は米軍将校の宿舎、その後返還され防衛庁、そして2007年に初めて民間に開かれて東京ミッドタウンがオープンした。

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都心のこれだけの広さの土地が保たれていたのはそういう歴史があったからこその奇跡である。港区の標柱には、「江戸時代には檜の木が多いため檜屋敷と呼ばれた山口藩毛利邸(旧防衛庁、檜町公園)に添う坂であった。」と書かれている。

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坂下で折れ曲がる檜坂に対してまっすぐに再び上っていく細い無名坂があるが、この坂上にかつて友人が住んでいた。当時は檜町公園も今とは違い静かな公園で池も今の池よりももっと広かった記憶がある。当時現赤坂小学校は檜町小学校だった。3校合併により赤坂小学校に変わったのは都心の子供が激減したからである。

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南部坂(赤坂)

南部坂は都内にふたつある。一つは広尾の有栖川公園とドイツ大使館の間の南部坂。そしてもうひとつがここ赤坂の南部坂である。有名度でいえばこちらに軍配が上がる。というのも忠臣蔵赤穂浪士の討ち入りの「南部坂雪の別れ」の舞台だからだが、実は私はまだ忠臣蔵を見たことがない。人生60年の間に何故見なかったのかはわからないが、見ていないのだから仕方がない。

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南部坂の勾配は16度とかなりの急坂である。坂の西側はアメリカ大使館の宿舎で、ジグザグの不思議な建物が並んでいる。グーグルアースで見ると面白いし、六本木ヒルズの展望台からも見ることができる。この米国大使館宿舎の場所は、江戸初期には岩手の盛岡南部藩屋敷だった。そのため南部坂と呼ばれていた。

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明暦2年(1656)、南部藩屋敷はここから広尾に移転したが、坂名は残る。しかし南部藩はいなくなり、坂は急峻なままであるため難歩坂(なんぶ坂)などと別の字を充てられるようになる。また南部藩の引っ越し先の広尾の坂も新たに南部坂と呼ばれるようになるという、江戸時代の坂名の変化を残していて面白い。その後忠臣蔵で有名な浅野内匠頭の屋敷になり、江戸後半では、真田幸村の兄の系譜である松代藩真田信濃守の屋敷となったが浅野坂や真田坂にはならなかった。

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坂は石垣と土塁に迫られて味わいがある。江戸中期の古地図には六本木通りの走る筋が川になっている。また坂を下りながら見上げるとアーク森ビルとインターコンチネンタルホテルの高層ビルが空を奪っている近代的な景色。江戸と現代が一つの額縁に入ったような風景は脳裏に残る。 坂下には石のような標柱があるが、コンクリート製で昭和42年とある新しいものだった。

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2017年5月12日 (金)

氷川坂(赤坂)

氷川神社を挟んで本氷川坂の東側の道が氷川坂である。 本氷川坂が結構な勾配を持つのに対して、こちらはなぜか大した勾配でない。 これは並行する坂によくあることで、人間の錯覚も混じるとはいえ不思議である。

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その理由を考えてみると、本氷川坂は一部の勾配が大きく、氷川坂はだらだらと長い坂であることだろう。ただ、江戸時代の切絵図はこの坂沿いに氷川門前町がある。赤坂の人々はむしろこちらの道を通って参詣したように思う。 坂の標柱にはあっさりとした表現で、「八代将軍徳川吉宗の命で建てられた氷川神社の元正面に当たる坂である。」と書かれている。 事実、写真の樹木のある部分は氷川神社の横からの参道になっている。

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こちらの参道から入ると境内へは階段を上ることになる。 微妙な高低差である。境内には樹齢400年の銀杏もあって神々しい。 氷川神社ができたのは享保15年(1730)だが、その時にはすでに樹齢100年を超えていた。

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赤坂の氷川神社周辺は溜池に流れ込む沢によってできた谷地地形であるが、長年を経て谷にも丘にも宅地が密集するようになったので、往年の雰囲気を感じることは難しい。 ただ、氷川神社にいるとここが小高い丘の上で、戦国時代には城でもあったということが何となくうなづける。

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2017年5月11日 (木)

本氷川坂(赤坂)

赤坂南部の坂の中ではこの本氷川坂と南部坂が私は好きである。 本氷川坂の坂下は、勝海舟の昔の邸宅があった場所。 海舟が咸臨丸で渡米したり、江戸無血開城をに成功したころはここに住んでいた。

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江戸時代は武家屋敷の林でうっそうとした急坂だったようだが、雰囲気は今も変わらない。
くねりながら勾配を登っていくのは気持ちがいい。 また途中にある石垣も江戸情緒を感じさせてくれる。

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石垣は氷川神社のものだと思われる。江戸時代は氷川明神と氷川神社と別々にあったらしいが、明治時代に合祀され今の氷川神社になった。 なかなかの神社で、名木も多く気持ちのいい時間を楽しめる。 境内には平安時代には今井城があった。 当時の城は天守閣などはなく、豪族の屋敷のようなものだったが、地理的には攻めにくい丘の上の城だったといえそうだ。

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坂上には由緒正しそうな門構えのお屋敷がある。 どうも日銀の持ち物のようだが、別説では江戸時代ここに屋敷を構えていた大名本多氏の子孫が住んでいるという話もあって、面白い。 それ以上深堀りしないほうがここの散歩を楽しめる。

坂上を左に曲がると氷川神社の鳥居があり、大銀杏が多いのでギンナンの時期は大変である。

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2017年5月10日 (水)

転坂(赤坂)

昭和30年代までの東京は魅力的な地名町名に溢れていた。 赤坂も前述の福吉町、中ノ町、赤坂氷川町などが赤坂通りの南側にあったが、現在は赤坂2丁目と6丁目というプラスチックのような町名になってしまった。

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福吉町から氷川町方面に歩くとまずは氷川公園がある。江戸時代の前期には広島藩浅野家の屋敷があった場所。その後は主を変えながらもずっと武家屋敷の中にあった。 明治の末期にこの公園のところに氷川小学校ができたが昭和初期に近所の火事が延焼して消失し跡地が公園になった。 小学校は港区立赤坂こども中高生プラザの場所に移転したが、そこは勝海舟の最後の屋敷だった場所である。勝海舟については別件にて、今回は転坂。三本松の先から下りが始まる。

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坂の彼方には東京ミッドタウンがそびえている。 あちらは毛利の殿様の屋敷だったところ。 今はさしたる勾配ではないが、江戸時代は相当急な坂だったようで、標柱には、「江戸時代から道が悪く通行する人たちがよく転んだ為に呼んだ。一時成徳寺横の元氷川坂もころび坂といった。」と記されている。

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転坂下は氷川坂の坂下でもあるが、坂下を右折してさらに左折すると再び勝海舟邸跡の説明版と標柱が現れる。 (坂下を左折すると氷川坂)

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勝海舟はよほど赤坂が気に入っていたらしく、24歳の新婚の時から没する76歳までのほとんどを赤坂に居を構えていた。 最初はみすじ通りのあたり、その後上の写真の場所(氷川神社の下、元氷川坂の坂下)に住み、大政奉還した徳川慶喜に伴って静岡に一時引っ越したものの、明治5年には再び赤坂に戻り、上の赤坂プラザの土地に屋敷を構えた。 その場所が勝海舟の没後、最初の氷川小学校になったわけである。 その小学校も子供が減少したため1992年に廃校になってしまった。

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2017年5月 9日 (火)

福吉坂(赤坂)

赤坂の谷の南側の段丘につけられた階段の道である。 江戸時代から明治・大正までこの階段の下には川が流れていた。 江戸時代の切絵図を見てみると、上流は檜坂下あたりで江戸期には清水谷と呼ばれていた。

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清水谷が南の沢、それに乃木坂からの沢、新坂からの沢が合い、ここを流れて溜池に下っていたが、町家の裏手を流れていたので江戸時代はほとんど下水状態だったと思われる。 道になったのは大正の終わりか昭和に入ってからだろうと想像する。

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坂の途中の踊り場の掲示板に福吉町の名前が残っているのがうれしい。 10年ほど前の写真と比べると、福吉坂の周りの飲食店はほとんどが入れ代わっている。 赤坂という街の変化の激しさを感じる一面である。

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坂上から見るとなかなかの高低差である。上の写真の右壁に大きな金属の板が貼ってあり、改修工事のいきさつが書かれていた。

「私共地元の赤坂福吉町会は、永年の懸案として後輩著しくなったこの福吉坂石段の改修工事を計画、土地所有者の(株)コクド様の全面的なご協力と共に港区役所の助成金と、地元の多くの方々の御協賛を得て完工したものであります。(云々) 平成九年三月」

昔も今も江戸っ子は街が好きなんだなと思った次第。

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2017年5月 8日 (月)

乃木坂(赤坂)

昨今「乃木坂46」なる綺麗なおねえさん達のグループが人気で、それに続いて「けやき坂46」と坂バージョンで広がりを見せている。 秋元康のセンスには舌を巻くが、身近な可愛い娘たちを集めたAKB48の後に、もうちょっときれい系の娘たちを集めて、人気のシナジーを計算したところなどは本当に感心する。しかし、彼女たちは乃木坂の由来を知っているのだろうかと心配するのは爺さんの余計なお世話かもしれない。
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青山通りから六本木交差点へ繋がる外苑東通りをトンネルでくぐる赤坂通り。 外苑東通り沿いの宮殿風の建物は桂由美ブライダルサロン。 その下にはトンネルがあり、そのさらに地下には営団地下鉄千代田線の乃木坂駅がある。乃木坂駅は出口を間違えるととんでもないことになる。こちらは東口で、西口に出ると青山墓地になる。
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乃木坂はトンネルからの道と合流して赤坂通りになる。 そこには乃木神社がある。 もちろん明治天皇の忠臣である乃木希典を祀った神社である。 実は私はここで結婚式を3分の1世紀前にした。 長州人であるからという理由もあった。 しかし乃木坂と呼ばれる以前は、ここは幽霊坂と呼ばれていた。 明治の終わりの地図にもはっきりと幽霊坂と書かれている。そして今とは違いまっすぐに上の通りに接道していたので、相当な急坂だったようだ。 乃木希典の邸宅はその下、今の乃木神社の場所にあった。 幽霊坂の説明は石碑にも記されている。
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これほど大きくて立派な坂の石碑は例を見ない。 乃木坂46ファンはこの前で記念撮影をするのだろうか。 神社の隣には結婚式場の乃木会館があり、その先には原宿から昔移転してきたジャニーズ事務所がある。 先般SMAP事件で大騒ぎになった事務所である。
昔はこの赤坂通りよりも北側を新坂町(前述のシンサカにちなむ)、南側を檜町と呼んだ。 ここは赤坂に流下する沢の源頭で、今のトンネルの辺りから、江戸以前には湧水が湧いて沢になっていたのだろう。 都会の下に眠るそういう歴史を感じられる乃木神社周辺である。
 

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2017年5月 7日 (日)

紀伊国坂(赤坂)

現在の赤坂御所は四谷左門町(四谷三丁目付近)や信濃町駅周辺などからの沢を集めて一つの川になっていた地形で、江戸時代は徳川御三家である紀伊国(和歌山県)の紀州藩の大名屋敷だった。 沢あり池ありで当時はさぞ風光明媚な大名庭園だったはず。 さすがに御所内は散歩できないが、幾つかの名前のついた坂もあって、御所になったことでそのまま保存されていると信じたい。

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坂は弁慶濠と御所の間になるが、標柱には、「坂の西側に江戸時代を通じて紀州(和歌山県)徳川家の広大な屋敷があったことから呼ばれた。赤坂の起源とする説がある。」と記されている。 また坂の別名を茜坂という。 安土桃山時代以前はこの辺りはまだ山地や畑で人もあまり住んでいなかった。当時はこの紀伊国坂の坂上は茜草(あかねぐさ)が茂っていて、赤根山と呼ばれていた。 その赤根山へ登る坂なので赤坂と呼び始めたのが、赤坂の起源というわけである。

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今は幅広い通りと、頭上には首都高速が生き物のようにくねっている風景だから、数百年前の景色は想像が難しい。道家氏の著書に面白い事が書いてあった。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の『怪談』にあるのっぺらぼうの妖怪むじながこの坂に出現したという言い伝えである。 確かに弁慶濠の死んだような水面からは夜になるとなにかおぞましいものが出てきても不思議はない。ましてや辺りはうっそうとした大名屋敷である。 現世ならば稲川淳二の恰好のネタになる。

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坂上のかつて赤根山だったあたり(迎賓館脇)から見ると緩やかに下っていく大通りを眺められる。 坂上の信号交差点はなぜか「紀之国坂」という漢字。 ここで濠を渡り喰違を越えるともう一つの紀州藩の屋敷になる。 そこには紀州藩、尾張藩、井伊家が並んでいたんで紀尾井町となったことは有名である。

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新坂(赤坂)

新坂という名前の坂は多い。東京23区内にも二桁ある。赤坂周辺だけでも、日比谷高校に上る坂も新坂だし、この青山通りからカナダ大使館脇を下っていく坂も新坂と二つの坂がある。今でこそ赤坂8丁目という町名だが、最近まで新坂町という名前の住所だった。 行政上都合があるのだろうが、町の名前は勝手に変えないでほしいものだ。

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坂上と坂下に標柱がある。「できた当時は新しい坂の意味だったが、開かれたのは古く元禄12年(1699)である。しんさかとも発音する。」と記されている。 なぜか新坂には古いものが結構ある。江戸っ子が面倒だったので名前を変えずに呼び続けたという可能性が高いのではないだろうか。 江戸切絵図には「シンサカ」と片仮名で記されている。坂上のカナダ大使館と高橋是清記念公園の一角は丹波篠山藩の青山備前守の中屋敷、坂下の反対側は山口県徳山藩の毛利淡路守の上屋敷だった。

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坂下から見上げるとまっすぐな坂道で、坂下のほうが勾配がきつい。 地形から推定するに、赤坂の谷は、前述の黒鍬谷、このシンサカの下でY字型に出合う谷、乃木坂から下る流れ、そしてかつての萩藩毛利邸(現東京ミッドタウン)の池から流下する檜坂の谷筋の4本が合流して、赤坂氷川公園の北側を流れ、福吉坂下を通って溜池に流出していた。とはいえ赤坂付近に人が住み始めたのは、縄文時代の6000年ほど前の話だから、その小川も江戸以前にまで遡らないと無垢な姿にはならないだろう。

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稲荷坂②(赤坂)

薬研坂の通りを南に下ると稲荷坂①で北に降りていく坂が稲荷坂②としているのは、両方とも稲荷坂なので単純に区別しているだけである。 『大江戸坂道探訪』の山野勝氏もそうしていたし、『東京の坂風情 』の道家氏もそうだが、『江戸の坂東京の坂』の横関氏や『江戸東京坂道事典』の石川悌二氏は同名の別の坂として扱っている。

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坂下は山脇学園のちょうど裏手にあたり、以前は芙蓉寮という女子寮があった。 しかし江戸時代は黒鍬組屋敷があり(いわゆる江戸城中の土木作業担当役人)女子寮とは180度逆のタイプの町だった。

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坂はすぐにカーブしてさらに高度を下げていき、途中から道が細くなっている。 この幅広い道は坂上の高層マンション、パークコート赤坂ザ・タワーが建設されたときにセットバックして広げられたが、以前は坂上から細い道だった。

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勾配は相当急なのだが、道幅が広くなって江戸情緒は消えた感じがする。 近年東京五輪に向けてさらに再開発があちこちで進むにつれて、昔からの道がなくなっていく寂しさを感じざるを得ない。

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坂下の細道部分から見上げると上の写真の風景で、この辺りは昔の街の雰囲気が少しだけ残っている。 この通りは江戸切絵図には黒鍬谷と記されているが、ちょうど薬研坂の凹みの辺りには明治初年まで大きな池があった。 山脇学園の西の端、高層マンションとの間くらいにおそらくは湧水の池があったようだ。そこから黒鍬谷を流れ、浄土寺の脇を細い水流で下っていたはずである。

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稲荷坂①にも稲荷があったが、こちら稲荷坂②にも稲荷がある。 坂上の民家に間借りするように細々と、しかし赤い壁が目立つ末広稲荷で、江戸期の地図にもある。この稲荷は元禄(1688~1703)に東の方からここへ移転させられたようで、それ以来300年あまりここにある。

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2017年5月 6日 (土)

稲荷坂①(赤坂)

赤坂の稲荷坂は薬研坂の南側の坂上から両側に下る道である。 一ツ木方面に下るのを②として別に説明したいので、ここでは南側に下る稲荷坂①を見てみたい。 稲荷坂①の坂下は新坂からつながる通りと丁字路になっている。江戸時代はここに円通寺と稲荷があったようだ。ただこの円通寺が円通寺坂の円通寺かどうかは違うと思う。正しくは円通院で、この江戸時代の切絵図の間違いではないだろうか。別の切絵図には円通インと記されている。 現在はパインクレストという大きなマンションになっている。

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坂下にある標柱にはやはり、「坂下北側に円通院があり、その境内の稲荷への門があったための坂名。坂上には江戸城中清掃役の町があり掃除坂ともいう。」と書かれている。 道は緩やかに曲がりながら上り、さらにクランクになっていて、いかにも江戸時代の道らしさが残る。

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坂の途中にあるリキマンションという目立つ建物は、別に力道山が住んでいたわけではない。 力道山が住んでいたのは、リキ・アパートという自己所有のマンションで、それ以外にもこのリキマンションを所有していただけである。 しかし昭和生まれの感覚では赤坂と力道山は切っても切れない関係だから、そういうデマが流れるのもわからないではない。

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坂上のクランク部分の路地を入ると赤坂三分坂下の窪地を一望できる。 凹凸の多い街である。 稲荷坂の別名である掃除坂の由来は、坂の一帯に江戸城中御掃除者町屋敷があり、200人ほどが働いていたようだが、この街にどれくらいいたのかはわからない。広さからして半分くらいはここに住んでいたのではないかと思う。

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2017年5月 5日 (金)

薬研坂(赤坂)

青山通りの赤坂区民センター脇から下って上り、TBSの裏手に向かう道が薬研坂。 薬研というのは、漢方薬を製造する際に薬種などを細かく砕くために使う舟形をした真ん中がくぼんだ道具。 江戸時代のものは下の写真のような形である。

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両坂上に標柱があり、「中央がくぼみ両側の高い形が薬を砕く薬研に似ているために名付けられた。付近住民の名で何右衛門坂とも呼んだ。」とある。 どんなに文明が進化しても地形を変えることは困難だという事がわかるように、現代でも見事にその薬研の形のままである。

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昔はこの凹みの部分に小さな水流があって薬研谷と呼ばれていた(地形については円通寺坂を参照)。昨今雑誌でよく記事を書かれている皆川典久氏が東京スリバチ学会を発足したきっかけはこの薬研坂の谷だったという。眺めといい微妙な曲がり方といい、坂の最高傑作のひとつかもしれない。

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別名の何右衛門坂というのがまた面白い。赤坂の火消人夫であった何右衛門という男が、喧嘩で頭を殴られて気が変になった。かれがこの坂の付近に住んでいて、江戸で有名になるにつれて、当時は口コミの世界だったので、名前も吉右衛門とか善右衛門とか呼んでいるうちに何だか分からなくなってきて何右衛門となったという。 いい加減さが江戸っ子らしくて面白い逸話である。

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牛鳴坂(赤坂)

牛鳴坂は青山通りから山脇学園に向かって上る坂道で、赤坂区民センターの所で再び青山通りに合流する。途中北から上ってくる弾正坂と接するあたりまでが上り坂。その先の青山通りとの合流点では変則交差点で薬研坂と出合う。

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上の地図は明治期のもの。都電が通るに際してそれまでの街道だった牛鳴坂を回避して直線道路にしたが、江戸時代は牛鳴坂のほうにしか道はなかった。この道が厚木道で、そのまま西進すると大山街道となる。今は国道246号。

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平日と土曜日は山脇学園の生徒たちがこの坂を毎日上り下りするが、今でもかなりの勾配がある。 坂の上下に標柱があり、「赤坂から青山へ抜ける厚木道で、路面が悪く車を引く牛が苦しんだために名付けられた。さいかち坂ともいう。」と書かれている。

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江戸時代は坂の北側に定火消の屋敷があり、火の見櫓がそびえて居たらしい。今はというと、たくさんのビルが林立して視界はほとんどない。

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2017年5月 4日 (木)

弾正坂(赤坂)

弾正坂(だんじょうざか)と読む。 弾正とは警察のような役割を持つ役人で、犯罪の取り締まりを行っていた。 標柱には、「西側に吉井藩松平氏の屋敷があり、代々弾正大弼(だいひつ)に任ぜられることが多かったために名付けられた。」とあるが、それを読んでも何のことかわからない。
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大体吉井藩松平氏が弾正役人を代々任ぜられたのは史実のようだが、西側にあったのは播磨の明石藩の殿様の上屋敷。 もしかしたらそれ以前に吉井藩の松平氏の屋敷があったのかもしれないが、どうも江戸時代の松平は、今でいう佐藤と鈴木と高橋と田中と伊藤を足したくらいのシェアがあった上に、大名は何度も名前を変えるので追跡が難しい。
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坂は青山通りに二分されているが、本来の街道は牛鳴坂から山脇学園の前を通る道で、都電を通すのに開いたのが青山通りだから、江戸時代は二つの弾正坂は一本だった。この青山通りに電車を通すという作業で、いろんなものが動いた。 旧赤坂小学校、豊川稲荷などだが、それでも羊羹のとらやは500年以上ここで商売しているというのがとてつもなく凄いことに思えるのだった。
 

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九郎九坂(赤坂)

九郎九坂(くろぐざか)は赤坂豊川稲荷の東側を赤坂御所に向かって下る坂。 豊川稲荷は愛知県の豊川稲荷の直轄の東京別院だが、元は一ツ木通りの大岡越前守忠相の屋敷にあった豊川稲荷の分霊を現在の地に移転し祀っている。

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大岡越前の屋敷は牛鳴坂の江戸城側、現在一ツ木通りが青山通りにぶつかるあたりの西側の一角だったから、現代風に言うと青山通りを渡っただけである。牛鳴坂下にある羊羹のとらやは創業が室町時代の1500年だから、隣近所の好(よしみ)で大岡越前も買ったことだろう。

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豊川稲荷はそのとらやのほぼ真向かいだから、元の九郎九坂はもう少し長かったかもしれない。 坂の上下に標柱があり、「江戸時代の一ツ木町名主秋元八郎左衛門の先祖、九郎九が住んでいて坂名になった。鉄砲練習場があって鉄砲坂ともいう。」とある。 江戸末期の地図には定火消御役屋鋪とあり、今でいう消防署があったところが豊川稲荷である。

となると豊川稲荷はいつからあるのかという疑問にあたるが、それは明治20年のことらしい。愛知県の豊川稲荷を信仰したのは今川義元、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と軒並みトップの支持を受けた。 大岡越前が分祀していたのもわかる気がする。

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別説には大正期に赤坂小学校(青山通りにあった)を創設するにあたり、南側にあった稲荷を現在の場所に移したというのもある。

今の赤坂小学校は赤坂通りを少し乃木坂方面に行ったところにあるが、元は青山通り沿いにあった。ここにはこれから国際医療福祉大学赤坂校舎が建てられる。 桧町に知人がかつて住んでいたが、その頃は赤坂小学校、桧町小学校、氷川小学校があった。それが1993年に統合された。俳優の神田正輝は旧赤坂小学校出身である。 江戸時代以降赤坂の街の変化は激しすぎる気がする。

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2017年5月 3日 (水)

円通寺坂(赤坂)

赤坂周辺の地形を断彩陰影図で見ると下のようになる。 実は結構入り組んでいて、江戸以前はいくつかの沢が流れていたのだろうと思われる。茶色の線が名前のある坂道。

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断彩陰影図の真ん中にあるクランクの坂が前述の三分坂。そのすぐ北側の直線が円通寺坂だ。 元禄8年(1695)に円通寺が近くの別の場所(三分坂の上あたりらしい)で火災にあいここに移転してきた。日蓮宗の寺院。

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三分坂の尾根筋の通りから円通寺の通りに入るとすぐに標柱があるが、勾配は少し進んでから始まる。 標柱には、「元禄8年(1695)に付近から坂上南側に移転した寺院の名称を取った。それ以前に同名の別寺があったともいう。」と記されている。

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ちょうど円通寺前から勾配がきつくなる。江戸三祖師の赤い旗が見える。日蓮聖人自ら入魂した木像三体の祖師像「江戸三祖師」の1つの寺院で、江戸時代には厄除け祈願で盛況を博した。また円通寺の鐘は江戸時代には時刻を知らせる「時の鐘」として知られていた。時の鐘は江戸城の周りを取り囲むように7ケ寺あったうちのひとつだった。

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赤坂の寺ではあるが、墓所を募集していて、永代使用料や管理費は世田谷のうちの墓所の倍くらいだった。 墓も不動産相場に準ずるのだろうか。『府内備考』にある、「円通寺坂、黒鍬組屋敷と円通寺の間の坂なり」というように坂下には江戸城の土木役人が住んでいた。 坂下の路地裏にある鈴降稲荷辺りまでの通りの北側が組屋敷だったようだ。

黒鍬組とは、江戸時代に城内で土木作業が必要な折に従事した今でいう公務員で、当時の絵を見るとちょっと強面の屈強な男の図が多い。

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2017年5月 2日 (火)

三分坂(赤坂)

赤坂と言えばTBS、その裏手にある有名な坂が三分坂。さんぶんざかと読む。サカス前の赤坂通りを乃木坂に向かって進むと、赤坂五丁目交番の角から坂と急斜面の緑がみえる。

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三分とは江戸時代の貨幣の重量単位で、銀1匁(もんめ)の3割のことをいう。今だといくらだろうか。おそらく300円くらいだろうと思う。この先の三分坂を上るのに、車を後押しする人足の割り増し、あるいは荷揚げの料金と言われており、それが坂の名になった。

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なかなかの勾配だが上り下りする人の数は意外に多い。 江戸時代も今も重要な坂なのである。 坂上の東側のTBSの敷地は、江戸時代は広島県の広島藩藩主の浅野家(松平安芸守)の中屋敷だった。 忠臣蔵のあの浅野内匠頭の浅野家である。

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坂下の報土寺には江戸時代の最強力士雷電為衛門の墓がある。天明・寛政年間(1781~1801)に相撲界に伝説の時代があった。谷風、小野川、そして雷電の三大関(当時は大関が最高位)が大活躍した。雷伝は初土俵でそのまま優勝してしまう。なんと身長は197cm、体重は169㎏というから、マッチョな曙くらいの体格を想像すればいいだろう。21年の在位の間、勝率96%、優勝27回という桁外れの力士だった。顔はどっちかというと片岡千恵蔵風のいかつい顔だったようだ。

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報土寺は雷電で有名だが、この練塀もとても有名だ。これだけの練塀が坂道にあるのはなかなか珍しいし、これだけ残っている場所は少ない。記憶では増上寺の塀が同じ感じだった。 今になっては江戸の建築技術を伝えるものとして極めて貴重な建造物と言えるだろう。

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2017年5月 1日 (月)

丹後坂(赤坂)

赤坂は坂の街である。 江戸時代から武家屋敷と町屋が交じり合う活気ある街だったが、おおむね坂の下には町民や下級武士が住み、坂の上には大名と住み分けをしていた。 丹後坂はその坂上の武家屋敷から下る階段の坂。 古い写真では石組みの階段だが、今はコンクリートで固められて御影石のタイル風になってしまって風情が失われた。

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以前は真ん中の手すりも植え込みもなく、鑿(ノミ)の後の残る階段だったが、昭和初期と中期では様子が違うので、定期的に整備されてきたのだろう。 丹後坂の由来については、標柱には、「元禄(1688~)初年に開かれたと推定される坂。その当時東北側に米倉丹後守(西尾丹後守ともいう)の邸があった。」と書かれているが・・・。

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横関氏の本によると、どの大名を指して丹後守を名付けたかは特定が難しいようだ。 江戸時代は一人の大名が何度も名前を変えていた。江戸時代は西尾丹後守だったり、ある時期は坂の反対側の竹腰丹後守だったり、それでも江戸末期に向けてはやはり米倉丹後守が最も市中に知られていたようで、その時代にタイムワープしてみなければわかりそうもない。

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丹後坂の坂上の道はそのまま行くと山脇女学園前の牛鳴坂の中腹に接道する。 赤坂署の裏手を周るこの道こそが江戸時代からの主要道で、青山方面から赤坂見附を経て城内に入るのに多くの人々が通った道だった。 青山通りの開通は明治時代の中頃、路面電車が通ったことで広い通りが開かれた。

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2017年4月30日 (日)

永坂(麻布)

以前に更科蕎麦の発祥について書いた。 江戸の老舗というと藪蕎麦、砂場、更科が有名。 そのうちの更科は麻布の蕎麦。 その麻布の更科蕎麦には3つの老舗があり、その一つが永坂更科布屋太兵衛。その本社は首都高環状線の麻布十番とは反対側にある。

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本社脇にいかにもの石碑がある。また近くには古い案内看板もあり、麻布十番の入口角が協和銀行となっていて歴史を感じる。(協和銀行は1991年に埼玉銀行と合併し今はりそな銀行になっている)

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その永坂更科本社から道路を渡ると永坂である。高速道路とその下の麻布通りの建設に伴って、永坂は真ん中をぶった切られてしまった。そのため坂下の一部と坂上の一部だけが今は残る。坂下は50mほどしかない。

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坂の中央部のほとんどが麻布通りに吸収されている。首都高の飯倉出口あたりで永坂の上部が左に分岐するように残っている。

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永坂はとても長い坂なので江戸の前期には長坂といわれていた。それが享保年間(1716~1736)辺りから永坂となった。 永坂にはお亀だんごの言い伝えがある。 麻布永坂の浪人が品川沖で子亀を釣り上げたが、珍しい亀で多くの人が見物に来るようになった。知恵者の女房が郷里から米を取り寄せて団子を作り見物客に売って大儲けをしたという話である。

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永坂を坂上から振り返ると、かつては本当に長い坂だったことがわかる。坂上は六本木交差点から飯倉への大通り(外苑東通り)で、この通りは江戸時代と道筋が変わっていない。

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2017年4月29日 (土)

七面坂(麻布)

大黒坂の坂下から麻布十番商店街に向かって下る坂が七面坂である。 標柱には、「坂の東側にあった本善寺(戦後五反田に移転)に七面大明神の木像が安置されていたためにできた名称である。」と記されている。

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現在は短く傾斜もあまりない坂道である。 標柱にある本善寺は戦後五反田に移ったと書かれているが実は廃寺のようであると横関英一氏の本には書いてあったが、調べてみると五反田駅と高輪台駅の間に本善寺は存在し、七面明神座像もご本尊としてあるようだ。

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坂下は麻布十番商店街なのだが、昔から何故十番なのかが気になっていた。 調べてみると江戸時代に古川の改修が行われ、その第10番目の工区だったからだとされているようだ。『御府内備考』(1820年代幕府編纂)という書物にその記述があるようだが、難しい古文を自分なりに読み解くと、10番目の工夫を出した町ということも、10番目の土置き場だったという事も書かれており、よくわからない。

港区のHP を見てみると1975年当時の写真があり、そうとうな傾斜に見える。

http://www.city.minato.tokyo.jp/azabuchikusei/mirai/04-06.html

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2017年4月28日 (金)

大黒坂(麻布)

麻生一本松に集う四辻の最後のひとつは大黒坂。 古地図には大黒坂の位置に一本松坂と記載されているものもある。 道筋としては同じ道筋で、暗闇坂と狸坂はこの通りの脇道という位置づけになろうか。 新撰東京名所図会には、辻よりも上を一本松坂、下を大黒坂というと記されている。

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坂上から望むとビルの上から東京タワーが顔を出す。 標柱には、「大国坂とも書く。坂の中腹北側に大黒天(港区七福神のひとつ)をまつる大法寺があったために呼んだ坂名である。」と書かれている。ただ大法寺は過去形ではなく今もある。

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大黒天の大法寺は日蓮宗の寺院。 創建は享保15年(1597)であるから、徳川が江戸に入る直前。 昔から地元では大法寺の名よりも大黒天の名で親しまれている。大黒坂の坂下をそのまま進むと、麻布十番納涼祭りの行われる道路の真ん中のケヤキ広場。

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大黒坂の南側は江戸時代は一角すべてが寺院の寺町だった。ある江戸切絵図を数えただけでこのブロックには22の寺院がある。その中心は善福寺である。 ただそれらの寺院は通りからは少し奥まった配置になっていて、通り沿いは町屋が並んでいた。 江戸時代の寺は庶民が何かと集まる場所だったから、この界隈は相当な賑わいだったのだろう。

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2017年4月27日 (木)

一本松坂(麻布)

一本松坂の一本松は平安時代から引き継がれた名木である。天慶2年(939)、平清盛を攻めた源経基はその帰路ここにあった民家に泊まった。翌日来ていた装束を松の木にかけて出発したという言い伝えがある。それで冠松とも呼ばれた。

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江戸名所図会にもこの松のある辻が描かれており、麻布一本松という題になっている。絵を見る限り今よりもにぎわっていたかもしれない。茶店もある。4つの坂(暗闇坂、大黒坂、狸坂、一本松坂)の辻という稀有な条件で、今で言うと六本木交差点みたいなものか。また電話ボックスがあるのが今日となっては珍しい。

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昭和20年に建てられた一本松の由来を記した石碑がある このわきにある松を囲む医師の土台には、「世話人、若者、安政2年」とあり、名前が4人掘りこんである。安政2年は1855年だから江戸末期に組まれた石囲いか。

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一角の藪の中に一本松と堀った石柱がある。この年代は不明。1000年以上もの間、枯れると新たに植えられ、人々に親しまれた松である。 江戸初期には家康が関ヶ原の戦いから持ってきた首級(しるし)を検分した場所で首吊塚と呼ばれたらしい。さらにもっと昔は古墳だったという話もある。

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標柱には、「源経基などの伝説をもち、古来、植え継がれている一本松が坂の南にあるための名である」とだけ記されている。確かに植え継がれて三代目とも五代目ともいわれている松だが、1000年を超える歴史を持つ辻として、数え切れいないほどの人々を見てきたのだろうと感慨深いものがある。

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2017年4月26日 (水)

狸坂(麻布)

狐坂の坂下の辻を真っすぐに進むと再び急な上り坂になる。狸坂である。まみ坂(まみは狸の意)、旭坂、切通坂の別名がある。旭坂は朝日坂からの転化らしく、この坂はほぼ東に向かって登り、朝日がまぶしい上りになるからだろう。

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大正前期までこの谷筋はススキの原だったようで、坂の南側には大きな楠があってその根っこに狸の親子が巣を作っていたという記録もある。狸坂は都内にもう一つ、千駄木にある。千駄木は狸坂、狐坂、むじな坂が平行に並んでいる。

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坂上近くには教会があって、麻布グレイスゴスペル教会セントメアリー記念礼拝堂という。 もっともこの協会は結婚式の前撮りや、結婚式そのものがメインのようで、さすがにお洒落な雰囲気を醸し出していた。写真の石垣はその協会の石垣だがもとはここにあった邸宅の建設時に組まれたものだろう。

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坂の上下に標柱がある。「人を化かす狸が出没したといわれる。旭坂というのは東へ上るためか。」と相変わらずあいまいな港らしい説明書き。 しかし麻布の坂の中でも特にいい雰囲気と景色の坂である。


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2017年4月25日 (火)

狐坂(麻布)

宮村坂を下り終えると狐坂のほぼ坂下に接する。 狐坂は尾根筋のテレ朝通りから麻布の谷筋に下る道で、北側に中華人民共和国大使館の無機質な塀を見ながらとなる。ちょうどこの大使館の塀が始まるあたりから下りになり、隣りのアラブイスラム学校前から勾配が増す。

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道の彼方に見える高層ビルは、パークコート麻布十番ザ・タワーとシティタワー麻布十番。そのうち出てくるが神明坂の神明神社のそばにある高層マンションである。江戸時代なら海が見えたのではないだろうか。 この坂上の辺りを昔は大隅山と呼び、そこから下る坂なので大隅坂ともいう。坂の北側に浄土宗の長玄寺、南側に日蓮宗の本光寺があり、江戸期の記録にはこの辺りは狐の縄張りで古狐が毎夜化けたという記述がある。

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狐坂の坂下は狸坂の坂下でもあり、江戸期以前は宮村坂から下る沢と蝦蟇池近くから下る沢がこの辺りで合流し、麻布十番商店街筋に流下、そこで六本木の芋洗坂から流下する吉野川に合流、今の麻布十番商店街を流れ下り、古川に合流していた。

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2017年4月24日 (月)

宮村坂(麻布)

この坂はわかりにくい。比較的新しい昭和初期の坂道である。 明治以前はテレ朝通り沿いの尾根からの緩やかな谷筋に畑や田んぼが広がる場所だった。麻布消防署の脇の路地を入ると、変則十字路がある。右手に民家のような白い建物があるが実はサンマリノ大使館。大使館の左側の路地を入っていくと下り坂になる。

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僅かにクランクした道は地図にも明確に表示されていない路地である。もともと麻布のこの一帯は麻布宮村町と呼ばれていた。 この辺りにかつて氷川神社があったのが宮村の名前の由来だという。

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クランクの所に橋の欄干のような遺構がある。この辺りは石畳の道になるが、もとはもっと上の方からこの石畳だったようだ。明治の地図を見るとこの辺りには水路がいくつかあったようだ。その名残だと嬉しいのだが、石の橋ではなくコンクリートだったので昭和の中期のものだろうと思われる。坂を下りきると狐坂に出る。

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2017年4月23日 (日)

羽沢坂(広尾)

この坂も区境の坂である。エリア的には渋谷区に思えるのだがこの道が区界で、道の北側は港区、南側が渋谷区になる。恵比寿駅から北へ進む駒沢通りが六本木通りにぶつかる手前、一つ南が東四丁目の交差点でここは珍しい六差路になっている。 実は六本木通りとの交差点である南青山七丁目は変形の七差路。マルチ交差点の連続は全国的にもないのではないだろうか。

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東側の2本の道(上の写真)は右側が東京女学館への道、左側が羽沢坂である。 明治時代からあるのはこの羽沢坂から向かい側の國學院大學の間を抜けて東三丁目へ出る筋。この東四丁目の六差路でイモリ川を渡り、その橋の脇が根津美術館方面への道との三叉路だった。昭和になって青山学院脇から南へ抜けて東京女学館への道ができ五差路になった。昭和の後期東京オリンピックのころ六本木通りが開通したのと同じ時期に駒沢通りがつながって六差路になった。

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昔の道筋らしく微妙に曲がりながら上っていく。 源頼朝が飼っていた鶴が卵を産み、ひなが初めて羽ばたいたので、沢地のここを羽沢と呼ぶようになったという言い伝えがある。江戸時代は大名屋敷が田畑の間にポツポツとあるような風景だった。

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羽沢坂(上の写真の左の道)は青山からの道(右の道)を合わせて日赤医療センターへの道になるが、青山からの道も古い道。微妙な高低差が景色を面白くしている。江戸時代に広尾あたりから目黒不動へお参りする人々は、この道を来て羽沢坂を下り、氷川神社を通っていたという。 若干遠回りのような気もするが。

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2017年4月22日 (土)

堀田坂(広尾)

堀田坂は日赤医療センターの北側の広尾ガーデンヒルズの前の道路から外苑西通りへ下る坂道。 この道は北が港区で南側が渋谷区になる区境の道である。ケヤキ並木がきれいな整備された道を東へ進むと、急に北へ曲がって下る坂が現れる。

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坂の上下に標柱がある。「江戸時代には大名堀田家の下屋敷に向かって登る坂になっていた。」とだけ書かれている。 堀田家は下総佐倉藩の藩主。 老中にまでなった家なのでその名がついたのだろう。

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この坂に続く崖は笄川の河岸段丘と思われる。この河岸段丘の端は広尾の聖心女子大学の敷地である。その南側で笄川は渋谷川に合流する。 広尾商店街は戦前は五の市といって5日、15日、25日に市が立った。 今はもう見られないようだが、江戸時代の末頃から栄えてきたらしい。それ以前の風景は安藤広重の「広尾ふる川」に描かれているようなのどかな風景だったと思われる。

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(国会図書館データベースより引用加工)

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