2021年2月25日 (木)

妙義神社の庚申塔(豊島区駒込)

久しぶりに駒込の妙義神社を訪問して驚いた。妙義神社が壊されていると思った。しかし冷静にその先を見るとコンクリートの擁壁の上に輝くような社殿の一部が見えたのである。隣りとはいえ神社の移転を見られるのは極めてレアなこと。

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もとの妙義神社は上の写真で、社殿は3mほど高い土地の上に立っていた。ところがこの場所は更地になっており、マンション建設と思われる工事が進んでいるのである。しかし、その先には真新しい擁壁の境内が作られていた。神社の北にはかつて谷田川が流れており広い谷を形成し、妙義神社の前は下の谷と呼ばれ、谷田川に注ぐ細流が削った小ぶりな谷地形である。神社はその高低差をうまく使って建てられている。

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こちらは今の神社の姿である。擁壁の上にはきれいな神殿がある。こちらに移ったのは令和2年(2020)8月とのこと。もともと日本武尊伝説に始まり白雉2年(651)創建と伝えられ1300年の歴史を謳っているが、太田道灌との関係も深く、移転した石塔石仏は太田道灌霊社脇に祀られている。

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右端の角柱は由来碑のようである。「延宝年間既有之、明治五壬申年水無月従奮奮地遷宮標▢、稲荷明神、天満宮祠、弁財天」と書かれている。明治5年にどこから移したのだろうか。中央の自然石は歌碑、その向こうにあるのが板碑型の庚申塔である。

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この板碑型の庚申塔は造立年が寛永19年(1642)霜月(11月)と都内でも有数の古さで、板碑を除くと豊島区では最古である。引越し前も末社の道灌霊社の脇にあった。正面には、「奉造建庚申供養之佛塔也」とあり、駒込村の銘も読める。駒込村の農民が400年近く前に協力して建立したものである。昭和40年(1965)に神社の復興工事が行われた際に境内土中より発見されたものである。説明板によると、『新編武蔵風土記稿』には「末社稲荷庚申・寛永寛文の碑にあり是を神体とす」と書かれているが、寛文の庚申塔は戦災で破壊され失われたと書かれている。

場所  豊島区駒込3丁目16-1

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2021年2月24日 (水)

染井通り民家の庚申塔(豊島区駒込)

駒込駅から染井霊園に続く江戸時代からの直線の道が染井通りである。江戸時代通りの南西側は3万坪の津藩藤堂家の大名屋敷、染井坂のある染井坂通りから先は植木屋の立ち並ぶ江戸随一の園芸通りだった。明治時代の地名は「駒込染井」、昭和に入ってからは駒込三丁目と味気ない名前に変わった。

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通りの途中には植木屋街を思い起こさせるような公園があり「私の庭みんなの庭」という名前がある。昔ながらの東屋の奥にはビオトープのような施設もあり、井戸があったり、ザリガニが採れたりして有名な場所。入口のモニュメントには「花咲か七軒町植木の里」とあり猫が佇んでいる。地元の人々が地上げマンションでつまらない街になるのを何とか止めようと区を動かして作ったらしい。

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実はこの公園の西隣のお宅には石塔がいくつかあり、玄関脇には角柱型の庚申塔が保存されている。上部に日月を拝し、下部には三猿が描かれている。造立年は延宝8年(1680)8月と江戸時代初期から中期にかけてのもの。「湯嶋弐丁目」とあるので古い時代に誰かがここへ移したものだろうか。場所が分かっても個人宅なので、門扉からそっと覗く程度にしていただきたい。

場所  豊島区駒込3丁目8-3

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2021年2月23日 (火)

駒込小前の庚申塔(豊島区駒込)

豊島区立駒込小学校はソメイヨシノの発祥地である染井霊園と山手線駒込駅の間にある。駒込駅前からまっすぐに染井霊園に延びる染井通りは、六義園の角で日光御成道と分かれ、染井の植木屋が建ち並ぶところに向かう江戸時代からの道である。染井通りの南西側は三重県の伊勢津藩藤堂家32万石の大名屋敷で3万坪の大屋敷であった。この染井通りに北東から染井坂を上って突き当たる手前に駒込小学校がある。

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小学校の塀の外にあるのが笠付であっただろう角柱型の庚申塔。日月に珍しい合掌の二猿が彫られ、横には蓮の花葉が大きく描かれている。造立年は寛文12年(1672)3月と江戸時代初期のもの。この時代はまだデザインが流動的だった。その為二猿であり、通常の不見、不聞、不言の三猿ではないのだろう。二猿もなかなか魅力的である。

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庚申塔の向かいには古い大きな蔵と門がある。この門は旧丹羽家腕木門といい、前述の藤堂家大名屋敷の裏門をここに移築したもの。小学校側にある蔵も旧丹羽家の住宅蔵である。丹羽家は江戸時代から明治時代まで染井を代表する植木職人で、もとは土蔵造りだったのを昭和11年に鉄筋コンクリートに建て直した。江戸から明治にかけての染井の植木職人がどれほどの財力があったかがよく分かる。

場所  豊島区駒込3丁目13-1

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2021年2月22日 (月)

無量寺の石仏(北区西ヶ原)

和洋の庭園が楽しめる旧古賀庭園の西隣にある寺が、真言宗豊山派の無量寺である。創建年は不詳ながら江戸時代の初期には既にそこそこの規模であったらしい。古賀邸も無量寺も傾斜のある土地だが、南にはその昔谷田川が流れており、その流れが削った窪地が染井霊園を源頭に刻まれ、やがて藍染川と名前を変えて不忍池に注いでいた。南面の斜面にあり北側には日光御成道が通るロケーションから将軍もしばしば立ち寄ったという。

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入口の近くには両側に丸彫の地蔵菩薩像が対で立っている。写真は向かって右側の地蔵である。もともとは墓石として造立されたもののようだが、没年は享保17年(1732)5月で、六阿弥陀一番目道と書かれているが、向かって左面を見ると、寛保元年(1741)に本所材町の桔梗屋清正によって建てられたとある。向かって左側にも同じような地蔵があるが、こちらの土台には「供養佛」と大きく書かれており墓石ではない感じがする。蓮座の花弁には「新一町地蔵講中」と彫られており、浅草あたりの講中のようだが分からない。

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本堂に参拝し、右奥に進むと境内の隅に板碑型の庚申塔がある。上部に日月、下部に三猿が描かれており、造立年は延宝4年(1676)2月と古いものである。うっすらと残る文字は「奉修庚待二世安樂」と読める。下部には7人の願主名が苗字なしで刻まれている。これ以外にも墓所に庚申講中による地蔵菩薩像があるのだが、コロナの関係なのか墓所は施錠されており入ることが出来なかった。

場所  北区西ヶ原1丁目34-8

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2021年2月21日 (日)

上中里庚申堂<上>(北区上中里)

上中里は崖の街でこちらは崖上の上中里庚申堂。崖下の上中里庚申堂の標高は5.6mなのに対して、こちらの標高は23mと18m近い高低差がある。崖下は彼方まで水田が広がる農村地帯だったが、崖上には日光御成道が駒込から王子に通っており、城官寺と平塚神社の周りに民家が多数あったようだ。

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こちらの堂宇もなかなか立派なものである。堂宇内には江戸時代の絵図などがあり、表には庚申塔の解説が掲示されているなど、崖上も頑張っている感じが伝わってくる。ここから数十m西が城官寺の入口になっている。そしてここから丁字路を南へ行くと間もなく日光御成道に出る。現在は路地裏だが、昔はそれなりに要衝だった。明治時代の地図にはなぜか史跡のマークが付いている。

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祀られている庚申塔は駒型、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。右横には「奉供養庚申待二世安樂所」とあり、左横には年紀がある。造立年は享保6年(1721)10月。ここに祀られる前は、JR上中里駅付近にあったと資料に記されている。ということは崖下か中腹にあったのだろうか。前の場所を調べたいが、堂宇内にあった安政2年(1855)の絵図では坂下と坂上の両方に「庚申」がある。となるとここに移されたのは江戸時代ということになるが。

場所  北区上中里1丁目41-2

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2021年2月20日 (土)

上中里庚申堂<下>(北区上中里)

京浜東北線の上中里は王子と田端の間にあるが人々の記憶にはあまり残っていない駅。しかしここにはかつて平塚城という館城があった。別名豊嶋城といい、平安時代後期から豊嶋氏の城(室町時代中期から本拠地は石神井城)として存在し、太田道灌に攻め落とされる文明10年(1478)まで続いた。そのあとにあるのが平塚神社であり、その脇の蝉坂もなかなかの名坂である。

上中里の江戸時代前期の地名は宮外戸(みやがいと)村。宮は平塚神社を意味している。江戸時代中期の元禄の頃から上中里村という呼び名になったがその理由は不明。明治になると上中里村、西ヶ原村、滝野川村、田端村、中里村が合併して滝野川村となり、大正時代には町制へ、昭和に入ると滝野川区となり、戦後王子区と合わせて北区になったという経緯である。

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上中里は崖の町で、崖上が一丁目、崖下が二丁目と三丁目になっている。大正時代までの崖下は遥か彼方まで水田地帯で、崖上はいわゆる街になっていた。崖下は京浜東北線の周辺のみに民家が広がっていた程度だった。その崖下にある庚申堂には3基の庚申塔が祀られている。

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堂宇の中にあるのが駒型の庚申塔で、摩滅が進んでおり造立年は分からない。日月も不明で、青面金剛像と三猿はきれいに残っている。三猿が菱形なので江戸時代中期以降のものの可能性が高い。正面下部に「施主」「おふへ」という文字のみが確認できる。この堂宇に安置される以前は、現在のJR線路内の石神井川下郷用水側にあったとされるが、位置的にはこの近くである。この用水路はかつて線路沿いに流れ、日暮里駅東側の芋坂下の羽二重団子店と向かいの善性寺の間の街道脇を流れていた石神井川の分流である。

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堂宇の左右には別の庚申塔があり、向かって左側は笠付角柱型の武骨な庚申塔。正面、左右面にそれぞれ一猿があり、正面には「奉造立庚申塔」そして脇に「為二世 安樂也」と書かれている。造立年は寛文5年(1665)8月29日とある。側面にも文字らしき痕跡があるが読めない。

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堂宇の右側にも同じような笠付角柱型の庚申塔がある。こちらの造立年は寛文5年(1665)と同じだが9月と書かれている。とはいえほぼ同時期と見て差し支えないだろう。こちらも正面と左右面にそれぞれ一猿があり、正面には「奉建立庚申塔爲二世安樂也  逆修」とある。また日付の下には宮外戸村とあるのは、前述した上中里村の江戸時代初期の名前。これら両脇の庚申塔も以前は用水路の側にあったらしい。江戸時代鉄道がない頃は、蝉坂がここまで急な下り坂で、下りきると用水路を渡っていた。その脇にあったに違いない。

場所 北区上中里2丁目25-4

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2021年2月19日 (金)

袋村の庚申待供養塔群(北区赤羽台)

北赤羽諏訪神社の参道は宮の前の坂の赤羽桜並木道でぶった切られている。諸説あるが、この道沿いはなぜか巨大な造船ドックのように武蔵野台地を削った窪地になっている。この窪地は中世には稲付川の北側の支流が削った谷地で、そこを利用して軍が射撃施設を建設して広げた際に、明治期に宮の前の坂を切通しにしてしまった可能性が高い。

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実際に参道は道の対岸に延びており、そこから見ると参道が途中で切通しによりぶった切られた様子が分かる。本殿が向こう岸だとすると、こちらの参道部分はどこから来たのかが疑問だが、おそらく岩淵村から袋村に向かうと、参道手前で右に宮の坂が分岐する。そこから参道が始まったのだろう。しかし袋村の鎮守の参道が岩淵村側にあるのも何となく不思議である。

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参道側の切通しの際には5基の石仏が並んでいる。左の4基が庚申塔、右端が供養塔である。北区の資料によると、袋村には元禄時代に始まったとされる庚申講中が存在していて、昔袋村の各地に建てられたこれらの庚申塔が、諏訪神社が村の鎮守だったことから、その参道に移設されたものとしている。

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左端の庚申塔はおそらく駒型だが上部が欠損している。その為日輪月輪のうち日輪の方が欠けている。主尊は青面金剛像で、邪鬼、三猿が描かれている。造立年は享保19年(1734)12月。向かって左側面の年紀の下には「左 板橋道」、右側面には「右 練馬道  奉供養庚申講」とある。その右の廣回り大きな駒型の庚申塔は、享保17年(1732)11月の造立。日月、青面金剛像、自二鶏、三猿の図柄で、向かって右側面には、「武刕豊嶋顧(郡)岩領衾村講中」とあり、この誤字が何とも江戸時代らしい。基壇には沢山の願主名がある。

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続く中央の庚申塔も駒型で、天明5年(1785)12月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており、向かって右側面には「奉納庚申供養塔爲二世安樂也」とある。基壇には「右 大山ねりまみち  左  いたばしみち」とあるので、小豆沢村に近い地区にあったものではないだろうか。右の駒型庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、正面には「武刕豊鳥(嶋)郡岩淵領袋村  奉供養庚申待二世安樂」とある。造立年は元禄16年(1703)11月とここでは最も古く、袋村でも初期のものと思われる。

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右端の駒型の角柱は供養塔で、正面には光明真言百萬遍供養塔とある。天明5年(1785)12月に建てられたもので、百万遍というのは念仏講のひとつであり、念仏を百万回唱えるという浄土宗に見られたもの。1080個の数珠で造った大数珠を、100回順送りに回して唱えることで合わせて108万遍になるというものであり、決して100万回唱えているわけではないようだ。数十年前までは各地で行われていた。京都には百万遍という場所があるが、これは百万遍の寺号を持つ知恩寺に因むもので、実際に14世紀の後醍醐天皇時代には知恩寺で百万遍が行われ疫病を収束したという。

場所  北区赤羽台4丁目19-5

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2021年2月18日 (木)

諏訪神社境内の石仏(北区赤羽北)

赤羽北の諏訪神社は埼京線北赤羽駅の南の武蔵野台地の際にある。諏訪神社というだけに信州の諏訪神社の勧請で、創建は応永3年(1396)と古く、長い時代赤羽の真頂院が別当を務めた。創建時に諏訪から持ってきたという袂杉(たもとすぎ)の切り株が本殿裏にある。境内は台地の縁なので、荒川方面の展望が良い。

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鳥居の前を走る赤羽桜並木道は環八の交差点(北赤羽駅入口)からここまで上り坂で、宮の前の坂という名がある。この坂道は明治から大正にかけて軍が作ったのではないかという説が有力。詳しくは坂のページを参照していだたきたい。階段を上り鳥居をくぐった左側に石仏石塔が並んでいる。

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左端は角柱型の庚申塔。大きな文字で「庚申(塔)」と彫られている。正面右には年紀があり、天保13年(1842)6月の造立。左には「東岩淵宿渡船場〇〇」とある。庚申塔の塔の字はほぼ地中に埋まっている。向かって左側面には「南 野みち」、右側面には「北 當村かしば」とある。また背面には「西 中仙道志村より戸田渡船〇〇」とあり道標を兼ねている。右側の駒型庚申塔は、日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が描かれているが三猿はほぼ埋まっている。造立年は安永7年(1778)9月。向かって左側面には「是より東 川口(わたし)場十五丁  豊嶋郡袋村講中」とある。

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その右にあるのは供養塔で、左の角柱は「奉納大乗妙典日本廻国二世安樂攸」とあり、造立年は明和2年(1765)である。向かって左面には、「武刕豊嶋郡岩淵宿 袋村行者 行言」とある。右の角柱には「八日講諸願成就」とあり、向かって右側面に宝暦7年(1757)2月の造立年がある。反対側には「武外豊嶋郡岩淵宿 袋村講中」とある。毎月8日に講中で集まるコミュニティだが、もとは出羽三山信仰だったようだ。

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本殿裏手には末社が並んでいるが、その中に猿田彦大神がある。猿田彦大神は庚申信仰の一種で、この塔は自然石で造られている。猿田彦大神の碑は自然石が多い。造立年は明治11年(1878)4月。下部には「村講中」とある。袋村には元禄時代に始まった庚申講中が続いており、この塔は袋村内で造立されたが、後にここに移されたものだという。

場所  北区赤羽北3丁目1-2

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2021年2月17日 (水)

民家の庚申(板橋区小豆沢)

龍福寺から寺坂を下る。かつての荒川低地はこのすぐ北に浮間の渡しがあり、浮間を経て川口へ向かう道筋。かつてのこの辺りの小字は下臺という。臺は台の旧字。すぐ東に袋村との村境があったが、下臺は浮間の渡しの南岸の位置づけだったのだろう。そんな坂下の民家の塀に堂宇が作られている。

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ブロック塀によるものだがおそらく昔は木製の堂宇だったのだろう。中にあるのは2基の庚申塔。左側はシンプルな角柱型で、上部に日月があるが、正面は「庚申塔」という文字のみである。向かって左面には「南 いたばし  西 志村根葉吹上道」とあり、右面には「東 岩渕道  北 ▢▢▢」おそらく北は浮間渡だったのではないだろうか。造立年は嘉永6年(1853)4月で明治維新の15年前である。願主は平岩〇〇とある。

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右側は台石に載せられた駒型の庚申塔。時代は新しく、明治36年(1903)3月の造立。青面金剛像、邪鬼が描かれているが三猿は見当たらない。もしかしたら昔の台石にはあったというようなこともあり得る。向かって左面には、「西 中仙道  南 いたばし   小豆沢村」とあり、右面には「北 わたしば  東 あかばね道」とある。台石には「下講庚申講中」とあるが、これは下臺の庚申講中ということだろうか。

場所  板橋区小豆沢4丁目21-20

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2021年2月16日 (火)

龍福寺の境内石仏(板橋区小豆沢)

龍福寺には本当に多数の石仏石塔がある。本堂に向かって左手には、板碑や六地蔵、供養塔など様々な石塔が建ち並んでいる。その中から一部を紹介したい。板碑は中世(13世紀~16世紀ころ)に全国のあちこちで造立された。緑泥片岩で造られたものが多いが、この緑泥片岩は主に秩父で産出したものが中心であるため、都内の板碑も埼玉県のものを持ってきて寺院で保存しているものも多い。

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まず目に飛び込んでくるのは屋根付きの3枚の板碑である。中央の大きな阿弥陀三尊種子の板碑は鎌倉時代中期、建長7年(1255)3月のもので高さが基壇を含め173㎝もある。ほぼ私の背丈と同じくらいだ。右の角がちょっとだけ欠損した板碑は、鎌倉時代後期の延慶2年(1309)5月のもの。左の上部が欠損してしまっている板碑は、南北朝時代初期の建武3年(1336)のもの。

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その後ろの塀沿いに回り込むと、そこには中小の板碑が4基あった。龍福寺には9枚の板碑があるそうだが、境内にあるのはこれら7基である。残りの2基は寺で別途保管されているという。板碑は庚申塔の前身という一面もあるが、造立された目的は死者の冥福を祈る追善供養や、生前に死後の菩薩のための仏事を行う逆修供養と言われる。生きているうちに自分の供養をするという、まあ都合の良い信仰だと思う。

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塀沿いに進むと六地蔵が二組あり、これは向かって左側の大きい方の六地蔵である。造立年代は分からない。面白いのは、基壇の下部に願主名が沢山彫られているのだが、ほぼすべて仮名の女性名である。おさん、おつね、おさつ、おせん、おさき、おとよ、おかる・・・など沢山の女性名が記されている。

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残りの六地蔵はその右手に並ぶ。こちらは天明4年(1784)9月の造立。台石には願主名もあるが、三界万霊、先祖代々一切供養、光明真言百万遍供養、などの文字が刻まれている。

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六地蔵の脇に塀の隅にへばりつくように一基の庚申塔があった。駒型の庚申塔だがかなり摩滅が進んでいる。造立年は享保19年(1734)1月。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄である。右にある文字は「奉造立青面金剛為二世安楽」。左面には「武州豊嶋郡峡領小豆沢村」と書かれているという。この庚申塔は資料によると、板橋区小豆沢4丁目23からの移設とある。ふか坂の坂下、北区との区境の近くであるから、江戸時代は小豆沢村と袋村の村境になる。

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最後に山門を入ったところにある地蔵菩薩を忘れるところだった。造立年は正徳6年(1716)2月で、台石には武刕豊嶋郡小沢村とあるが、小豆沢村のことであろう。龍福寺には石仏石塔がありすぎてまた時間を掛けてゆっくりと拝観したいと思う。板橋区では板碑の寺として知られており、寺で祀っている薬師如来は、平安時代に寺坂の下まで来ていた七々子崎という入江で発見されたという薬師如来を祀っているようだ。この辺りは平安時代は豊嶋荘という荘園で、潮の上がってくる荒川を通って東京湾と容易に往来できた。

場所  板橋区小豆沢4丁目16-3

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2021年2月15日 (月)

龍福寺の石仏塔(板橋区小豆沢)

旧小豆沢村の北の崖線を上る坂道は多く、その中でも龍福寺の北の崖を下る寺坂は巨樹に包まれて昔ながらの姿を残している名坂である。しかし寺坂の表示板もなく意外と知られていない。坂上の龍福寺は真言宗智山派の寺院で、室町時代の創建という寺伝もあるが詳細は不明。かつては20基あまりの板碑があったというが、現在は半分以下になっている。

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境内にある石仏塔は見事である。こういう風に石仏や墓石を集めて無縁仏塔を立てている寺院は多いが、龍福寺のそれは逸品の塊である。主として庚申塔から成り、一部供養塔が混ざる。上下2段に組まれており、最上部に大日如来が座す。この塔だけで20基程度の石仏石塔があるので、いささか長くなりそうである。

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下段から紹介したい。上の写真於左の庚申塔は笠付角柱型の庚申塔で、享保4年(1719)3月の造立。正面は、日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼が描かれ、基壇に三猿が陽刻される。「武刕豊嶋郡小豆沢村」の銘があり、台石には「講中 廿三人  願主 了吉」とある。右の板碑型庚申塔は、年紀が一部欠損していて元禄年間のものだとは分かるが年号が見えない。2月のものである。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で、「奉造立庚申供養二世悉地成就所」と記されている。左側に小豆沢村の文字も見える。

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空から見て反時計回りに回ると、次は駒型のゼニゴケだらけの庚申塔。正徳2年(1712)2月の造立で、日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄。「奉造立庚申爲二世安楽也」「豊嶋郡小豆沢村」とある。右側の舟型の庚申塔は、元禄3年(1690)2月の彼岸中日に建てられたもの。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で、「奉造立庚申待供養所願 成就 結衆」「武刕豊嶋郡小豆沢村」とある。

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その隣にある大乗妙典廻国供養塔については不詳なので写真も割愛。その横が角柱型の庚申塔で、日月と「庚申塔」という文字は認識できるがほぼ摩滅していてよく分からない。左面の隙間には道標も書かれている。その右の板碑型庚申塔もかなり摩滅が酷いが、正面には「奉造立庚申供養二世悉成就也」とあり、右脇に「武刕豊嶋郡小豆村」と(沢)が抜けている。造立年は天和4年(1684)2月彼岸中日とある。この辺は陰暦だろうから今の3月に当たるのだろう。

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板碑型の隣は続けて板碑型の庚申塔。こちらは万治3年(1660)2月と古い。中央に「奉唱念庚申供養一基」とあり、脇に「武州豊嶋郡小豆沢村」の銘がある。右側の駒型庚申塔は正徳4年(1714)2月の彼岸の日の造立。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で、「奉造立庚申供養所願成就二世悉地攸」と書かれている。左の下には小豆沢村の文字も見える。

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下段の最後は駒型の庚申塔。造立年は元禄7年(1694)11月。青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が描かれ、下部には「武州豊嶋郡小豆沢」の銘がある。右脇には「奉造立庚申供養二世悉地成就所」とあり、下の平たいところに願主名が沢山刻まれているが判読できない。

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下段は一周回ったので上段に移ると、上部の大日如来の左腕の下あたりにあるのが日月の飛び出した駒型の庚申塔。造立年は天保7年(1836)5月とある。日月の下には文字で「庚申塔」とあり、その下に三猿が陽刻されている。左面には「中内出」と書かれているようだが、正しくは「中内臺」となるはずのところか。中内臺とは寺坂の下の古い小字である。右側の角柱は秩父・西国・坂東の百箇所巡礼記念の供養塔である。

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反対側の大日如来の右腕の下にある板碑型の庚申塔は貞享3年(1686)霜月(11月)造立のもの。日月の下には「奉供養庚申待二世悉地成就」と書かれており、脇には「武刕豊嶋郡小豆沢村」の銘がある。かなり傷んできているようだ。

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上段青面にあるのは駒型だがちょっと変わった文字塔の庚申塔。造立年は寛政6年(1794)3月とある。「武州豊嶋郡志村講中」とあり、これは小豆沢村ではなく志村のもののようだ。これらの石仏石塔の上に座すのが大日如来像である。

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この大日如来坐像は首が折れた痕跡がある。造立年は宝暦7年(1757)12月だが、台座正面に「八日講所願成」と書かれている。台座には他に「浮間邑講中」の文字も見られ、願主名の多さから複数の村の講中が参加しているのではないだろうか。月待講はあちこちで盛んにおこなわれていたようだが、日待講もまた日の出を待つ講中である。人々が一定の碑二決められた場所で、夜通し忌み籠りなどをして日の出を拝む行事であった。月待以上におそらく歴史は古いのではないかと思われる。

場所  板橋区小豆沢4丁目16-3

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2021年2月14日 (日)

塀の庚申塔[延享](板橋区小豆沢)

小豆沢にはもうひとつ塀に収まった庚申塔がある。新河岸川の崖線をふか坂で上り、そのまままっすぐ南下する道筋、この道は古くからある道で、板橋清水町で中山道に合流した。この道は板橋区と北区の区境の道であり、昔は志村と岩淵町の境であった。

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道路の向かい側は現在は北区赤羽北になる。塀の中は広い駐車場になっているが、これだけのまとまった敷地だとすぐにマンションが建設されそうで、そうなるとこの庚申塔もここにはいられなくなる可能性がある。駒型の庚申塔で安山岩だが色が独特の色。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で、「奉供養青面金剛」と右に、延享▢▢▢天正月と左に、残念ながら年数のところが欠損している。延享年間は1744年から1747年までである。

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側面には、「東 川口ぜんかうじ道(善光寺道) 西 祢りまふじ道(練馬富士道)」反対側には「みなみ 江戸道 北 あづ沢はたしハ(小豆沢渡し場)」と道標を兼ねている。基壇には、「武州豊嶋郡峡田領小豆沢村」とあり、願主名が左右にも記されている。願わくは開発があっても残してほしいものである。

場所  板橋区小豆沢2丁目36-15

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2021年2月13日 (土)

塀の庚申塔[元文](板橋区小豆沢)

小豆沢の住宅街の中にスーパーの東武ストアがある。その向かいに広い一軒家があり、その塀の中に堂宇が作られており、庚申塔が祀られている。

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塀の中のお宅は平岩宅。通りをあるく年配の方が庚申塔の前で手を合わせて拝まれている。人々の生活の中に庚申塔があるようだ。塀の堂宇に納まる庚申塔は駒型で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。造立年は元文4年(1739)11月。下部に小豆沢の銘とともに願主名が19名あるが、筆頭が施主の平岩武兵衛である。おそらく平岩家のご先祖様であろう。

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駒型ではあるが縁取りがあり、他にはあまりない塔型である。材質は安山岩だが、厳密には玄武岩質安山岩と言えるかもしれない。地下のマグマが地殻の上部で急速に冷えて固まると火山岩になり、地底深くでゆっくり冷えて固まると深成岩になる。火山岩は二酸化ケイ素の含有量によって分類され、流紋岩、デイサイト、安山岩、玄武岩の順に重くなる。色合いも重い方がより黒っぽい。火山岩の分類には諸説あるが、安山岩と玄武岩の中間的な石材を玄武岩質安山岩と呼ぶこともある。

場所  板橋区小豆沢2丁目5-16

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2021年2月12日 (金)

弓道場裏の庚申塔(板橋区小豆沢)

情報として場所を知っていなければ絶対に出遭えない庚申塔が小豆沢公園にある。公園の西側にある野球場のさらに西の隅に弓道場があり、その裏の林の中に2基の庚申塔がある。南からアプローチするとまず戸田橋の親柱に気づく。昭和7年(1932)から昭和53年(1978)まで戸田橋の東京側に遺構としてあったもの。銅製のプレートに「戸田橋」「東京府」とある。その左脇の野球場沿いに進むと弓道場がある。

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場所はこんなところ。左のブロックは弓道場の的の後ろの壁である。なぜここに保存されたのかは分からないが、元あった場所は旧中山道の清水坂上(志村2丁目3)だったようだ。清水坂上には現在も複数の庚申塔がある。2基のうち右側は戦災に遭ったのか、上半分が完全に欠損している。

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元の形は不明だが私の推測では舟型だったのではないかと思う。中央には「…世安楽所」とあり、その脇には「…村 大野 他九人刻」、左側には「…五月」とあり、下部には三猿が陽刻されている。左の舟型庚申塔も同じ場所からの移設で、正徳4年(1714)2月の造立。日月の下に、「奉供養庚申講中二世圓満祈所」と書かれている。傍には「武州豊嶋郡志村」の銘がある。土中に埋まっている3つの出っ張りは三猿の頭。また、左右には二鶏も描かれている。

場所  板橋区小豆沢3丁目1-24

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2021年2月11日 (木)

魚籃坂の地蔵尊(板橋区小豆沢)

小豆沢は武蔵野台地の北の端、荒川が作った河岸段丘にある地域である。中でも小豆沢体育館の東を走る魚籃坂は低地から台地上にクサビを打ち込んだように上っている谷地形で、これだけの谷を作る元の水源が台地上にあったと思われる。

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上の写真の左側は体育館で二車線の道が魚籃坂である。右側に上る急坂の上には小豆沢神社と龍福寺がある。台地上の標高は23m、台地の下は6m程なので17m程の崖が一直線に東西に走っているのである。写真の中央に見える小豆沢神社へ上る道の法面に窪みがあり、そこに地蔵が祀られている。昔は石垣の法面だったが、現在はコンクリートに変わっており、地蔵もコンクリートのユニットの中に納められている。

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新しい地蔵菩薩である。造立年は昭和16年(1941)3月とあるので、第二次世界大戦が勃発した時期のもの。台石は新しくなっていた。地蔵は年数が短いが既に傷みが見られ、やはり江戸時代の石材に比べて近現代は良い石材がないのかもしれない。何のための地蔵菩薩なのかは全く分からないが、きっと経緯があるのだろう。

場所  板橋区小豆沢4丁目17

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2021年2月10日 (水)

浮間渡船場跡の石仏(北区浮間)

江戸時代の荒川は蛇行しながら東京都と埼玉の間を流れていた。浮間はその蛇行によって出来た水滴型の低地である。江戸時代の流程は現在の埼京線浮間舟渡駅あたりが北から南に流下する川の中、南下する流れは志村・小豆沢の武蔵野台地にぶつかると北東に反転し北赤羽駅あたりでは南西から北東に流れる。その蛇行の壺の底辺りで、小豆沢の台地に走る中山道から荒川を渡って川口に向かうのが浮間の渡しである。ひとつ上流の渡しは中山道の戸田の渡し、下流の渡しは岩淵の渡しである。

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浮間の渡し場の前にはかつての流程と同じ場所に新河岸川があり、コンクリートのカミソリ堤防が川と人とを遮断している。しかし浮間の歴史は水害の歴史でもある。その為浮間にある旧家は悉く1~2mの高さに嵩上げしている。大切なものを保管する蔵はさらに高くして水塚にしてあるのが特徴。そんな屋敷の傍に4基の石塔が並んでいる。

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一番左の小さな石祠は水神様。こういう地形のところには水神が多い。洪水との闘いの歴史である。その隣は立派な笠付角柱型の庚申塔。造立年は天保9年(1836)6月とある。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれておりなかなかの彫りである。邪鬼が仰向けになっているのは珍しい。基壇には講中18人の願主が刻まれ、講元松澤藤助の銘、左側面には蓮沼村石工清八、小石川久五郎の銘がある。

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右隣りの笠付角柱型の馬頭観音も例にないほど立派なものである。造立年は文化10年(1813)11月で、浮間村の講中35人が、往来する馬の交通の安全を願ってた建てたもの。馬頭観音としては極めて大きく、隣の笠付角柱型の庚申塔よりもさらに高い。本体は同じくらいだが、基壇の大きさが大きいからではある。

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右端にある小さな角柱型の石塔は巡礼供養塔。文政元年(1818)7月に建てられたものである。浮間村の松澤晩右衛門という人物が西国・秩父・坂東の百箇所および四国八十八箇所の巡礼を達成した記念に、その孫の林蔵が建てたものらしい。ということは巡礼の時期は1700年代であろうか。長い旅を意識してか道標も兼ねていて、「右 いゝつか(飯塚) 川口道」「左 浮間村」とある。飯塚は現在の荒川の左岸の地名、ということは石塔は浮間村の北の方にあったと考えられ、元は子育地蔵堂や北向地蔵堂の辺りにあったのではないかと個人的に推察している。

場所  北区浮間3丁目6

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2021年2月 9日 (火)

さくら荘前庚申塔(北区浮間)

線路脇の子育地蔵堂からまっすぐに南下する。この道は江戸時代からある道で、南に進み川岸まで行くと浮間の渡しに至る。現在は巨大なマンションが開発されて元の道は途中から消えてしまっているが、商店街の名前は庚申通り商店街と呼ぶらしい。

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北浮間郵便局の交差点から南へ30m程行ったところに、庚申塔が1基ある。南隣は区立特別養護老人ホームさくら荘である。野ざらしの割にはよい石材を使っているのか摩滅や風化が殆どないのは大したものである。庚申塔は駒型で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄、造立年は寛政11年(1799)4月とある。

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実はこの庚申塔、昔は30m北の北浮間郵便局(浮間3丁目19-1)のところにあった砂岡家の宅地内にあったもの。郵便局の建設に伴い敷地買収が発生し、このさくら荘の敷地の角に移転してきたのである。(郵便局のところに倉庫がありそこにあったという説もある)

場所  北区浮間3丁目11-26

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2021年2月 8日 (月)

子育地蔵堂(北区浮間)

埼京線と東北上越北陸への新幹線が通る高架をくぐると角の隅切り奥に堂宇が立っている。地図を見ると「子育地蔵堂」とあり、小堂の扁額にも同じ名が書かれている。堂宇の中には4基の石仏が祀られていた。

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奥に2基の地蔵菩薩立像、手前には巡礼供養塔と庚申塔が並んでいる。江戸時代から昭和前期まではほぼ完全な農村風景だったが、現在は隙間なく民家やマンションが建ち並んでいる。地理的には旧荒川を浮間の渡しで渡ってくるとここを通り現在の川口市に入っていくルートであった。

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手前の地蔵菩薩には何も彫られておらず、造立年も何もかもが不詳。向こう側の背の高い(台石が高い)丸彫地蔵菩薩が堂宇の名になっている子育地蔵である。台石を見ると、「武州下足立郡平柳▢▢浮間村」とあり、「念佛結衆六十三人」とある。年紀については書かれておらず分からない。63人という講中の人数は当時の浮間の住民の大半だろうと思う。

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手前左にあるのが角柱型の百番巡礼供養塔。上部に陽刻されているのは聖観音座像である。西国、秩父、坂東の百番を巡礼した浮間村の尾熊源左衛門という人物が施主のようだ。そういえばスーパー堤防の近くに尾熊組という事業所があったが子孫だろうか。角の尾熊家には屋敷稲荷もあったので印象に残っている。巡礼供養塔の造立年は分からない。

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手前右にあるのが駒型の庚申塔である。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、造立年は安永6年(1777)2月である。右側面には「浮間村講中」の銘が入っている。昔の浮間村には五大、西、東という洞(ホラ)と呼ばれる小字があったが、この洞単位で庚申講中が組まれていたという。この庚申塔はその中でも東地域の庚申講中によるものらしい。昔は道路の中央にあったが、後にこの堂宇に納められた。

場所  北区浮間3丁目34-26

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2021年2月 7日 (日)

北向地蔵堂(北区浮間)

現在の荒川の下流は明治の末から昭和の初めまで20年を掛けて開削された人工の川である。東京(江戸)の水の歴史は徳川家康が江戸入りしてから昭和になるまで続いた治水の歴史と言える。多摩川も荒川も昔は暴れ川で、その為対岸にも同じ地名が残っている。北区浮間の対岸には川口市浮間ゴルフ場がある。30数年前に初めてバーディーを取った私の記念すべき河川敷ゴルフ場だが、もう四半世紀ゴルフはやっていない。砂だらけのゴルフ場で、草は殆どなかった記憶がある。

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東京都側もここはスーパー堤防が出来ていて、まるで山のような堤防が続いている。それでもカミソリ堤防よりはましであろう。そのスーパー堤防の近くに北向地蔵堂がある。ここの地蔵と庚申塔は、昔はここより100m程北、現在は荒川の河川敷になっている辺りで、河川の掘削工事の折に移動したもの。大正11年(1922)に現在地から南に40mほどのところに移された後、昭和30年(1955)2月に現在地に移されたという。

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中央の丸彫地蔵菩薩が北向地蔵である。地元では「疣取(いぼとり)地蔵」とか「身代り地蔵」と呼ばれているらしい。造立年は享保6年(1721)で、昔は庚申塔と共に浮間村の北の入口に北向きに建てられていた。つまり塞ノ神として村境を守っていたのである。右の駒型庚申塔は右上が少しだけ欠損している。造立年は宝永2年(1705)10月。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、「講中為二十一人二世安穏」とあり、武州下足立郡平柳之内浮間村 願主 西念の銘がある。当時は荒川よりも北の土地だった。昔、浮間村には、五大、西、東という3つの洞(ホラ)と呼ばれる小字があり、洞単位で庚申講中が組まれていた。この庚申塔は五大の洞によるものだという。

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地蔵の左側にはもう一基の駒型庚申塔。造立年は安永6年(1777)2月で、こちらも日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄である。右側面には「浮間村講中」とある。この庚申塔は3つの洞のうちどの洞によるものかは分からない。その後ろにあるのは阿弥陀三尊種子の月待供養の板碑。造立は文明16年(1484)8月23日。応仁の乱の直後である。二十三夜講の結衆による造立で、庚申講や念佛講よりも200年も前に月待講があったようだ。この板碑は大正11年(1922)に河川改修工事の折、氷川神社の近くで掘り出されたという。上流から流されたものか、この地で造られたものかについては分からない。

場所  北区浮間2丁目4-14

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2021年2月 6日 (土)

傘屋庚申(北区浮間)

JR埼京線浮間舟渡駅から東へ500mほどのところ、路地の角に瓦屋根の小堂があり、庚申塔が祀られている。なかなかしっかりした堂宇で、瓦屋根も立派なものである。駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が彫られている。

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造立年は延享3年(1746)12月。地主川屋と書かれている。川屋というのは本名だろうか。実はこの庚申塔は、俗に「傘屋庚申」と呼ばれ、傘屋の屋号を持った家が造立したらしい。そうすると傘屋の本名が川屋ということになる。 本体の側面にはほかに「青面金剛武刕浮間邑講中七人」と書かれている。

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浮間の地名の由来は、人工河川の荒川が掘削される以前の荒川筋(現在の隅田川)がここで大きく湾曲しており、その左岸側に突き出た形が浮島に見えたことからそう呼ばれたらしい。江戸時代は浮間ヶ原と呼ばれていた。浮間村は大正時代になると埼玉県北足立郡横曽根村となり、昭和に入って再び東京都に戻り、北豊嶋郡岩淵村に編入された。そののち王子區となり、戦後北区となる。戦前までは広々とした水田地帯にぽつりぽつりと土地を嵩上げした水屋の農家が点在した風景だったようだ。

場所  北区浮間2丁目24-28

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2021年2月 5日 (金)

善性寺の石仏(世田谷区豪徳寺)

豪徳寺と言えば井伊家菩提寺の豪徳寺が有名だが、周辺には良い寺院が沢山ある。小田急線豪徳寺駅を挟んだ反対の北側にあるのが善性寺。山号を赤堤山といい、土地に根付いた名前である。創建年は江戸時代中期の正徳5年(1715)。しかし創建間もない明和年間(1764~1771)には火災で焼失していたという。

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寺の参道の入口にはきれいな堂宇があり、地蔵と角柱型石塔がある。石塔は享保5年(1720)と寺の創建直後のものだが墓石である。右の地蔵は宝暦4年(1754)10月の造立。台石正面には「百万遍講中」とあり、荏原郡赤堤村と松原村の銘がある。右面には「松原西山谷  念仏講中  女中弐十人」とかかれており、左面には世田ヶ谷宮ノ坂、竹ノ上、羽根木、上北沢村と書かれている。江戸時代の民俗信仰の全盛期のものである。

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参道を進むと、草むらの中に石塔があった。正面には「廻国供養塔」とあり、その脇に安永6年(1777)11月の年紀が記されている。左面には「武刕荏原郡世田谷領松原村 願主 長右衛門」と彫られている。しかし裏面には「文久2年(1862)4月 石橋再建」とあるが、こちらは既存の供養塔に後年刻んだものだろう。

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山門手前には不動明王像がある。この不動明王像の年紀やその他情報は分からない。しかし実は善性寺の本尊は不動明王像である。本尊の不動明王像は有名な良弁僧正がここで庵をむすんで彫刻したものと伝えられる。

場所  世田谷区豪徳寺1丁目55-23

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2021年2月 4日 (木)

西福寺の石仏(世田谷区赤堤)

真言宗豊山派の西福寺は世田谷区赤堤にある古刹。創建は本能寺の変の翌々年の天正12年(1584)で高野山金剛峯寺の傘下にある。寺は実際にはそれ以前からあったようだが江戸時代に火災に遭い昔の記録は焼失したので不詳。本堂はその火災の後文化元年(1804)に再建されたもので築二百年を超える。

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山門手前にまっすぐな参道があり、その傍らに石塔がある。宝暦5年(1755)9月に建てられた道標である。正面には「大師遍照金剛一番西福寺  赤堤村 念仏講中」とある。左右には、「左リ 二十一番当村善性寺 七丁余」、「右リ 二番上北沢村密蔵院 八丁余」とある。当時の道筋から考えてこの道標は、赤堤通りの一本北側の現在のプラウド経堂コートテラスという大きなマンションがある辺りにあったものだろう。

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山門をくぐり本堂をみて左に、墓所に向かう手前に2mを超える高さの地蔵菩薩がある。台石には「百万遍講中」とあり、荏原郡赤堤村の銘があるが、延享▢年2月と年数のところが読めない。延享年間は1744年から1747年までである。左右には惣連(赤堤村)百人、松原村12人、川嶋村4人、三宿村3人などと周辺の村の銘もあり、遠くは和泉村、岩戸村と現在の狛江市辺りまでの人々が百万遍の願主だったことがわかる。

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墓地に向かって進むと、銀杏の大木の下に不揃いな六地蔵がある。この不揃いさが良い。人はさまざまということを語り掛けているようである。年代は享保8年(1723)~享保13年(1728)にかけてのもので、右端から、享保8年(1723)11月、享保9年(1724)11月、享保10年(1725)8月、享保11年(1726)7月、享保12年(1727)7月、享保13年(1728)10月と、一年毎に造立されているのが面白い。どれも赤堤村の女中光明真言講中によるものである。

場所  世田谷区赤堤3丁目28-29

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2021年2月 3日 (水)

給田観音堂の石仏(2) (世田谷区給田)

観音堂の線路側に墓所がある。さほど広くはない墓所で、総面積は250坪ほどだろうか。給田観音堂との間には万年塀が立っており、観音堂川の石仏と同じく、万年塀を背にして多数の石仏が並んでいる。

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右の7基は墓石と思われる。その先からは、庚申塔、庚申地蔵、念佛地蔵など、江戸時代のこの地域の民俗信仰の遺産が並んでいる。これだけ保存されているのは大したものである。

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まず上の写真の右側の笠付角柱型の庚申塔。最上部の宝珠もきちんと残っている。正面には日月に加えて「奉供養庚申」と文字がある。その脇には造立年の宝永5年(1708)10月が刻まれている。側面には一葉の蓮華があり、「武刕世田谷領内給田村 同行三拾人」とある。左側の笠付角柱型の石仏は庚申塔ではなく、大乗妙典六十六部供養塔。造立は宝暦3年(1753)3月。法華経に関係する供養塔である。側面に「肥前国長崎  清誉浄円」とあるが、長崎との関係は分からない。

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その横は駒型の庚申塔である。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、「奉造立庚申  給田村」の銘がある。造立年は寛延元年(1748)11月で、下部には8名の願主名が彫られている。隣りの地蔵菩薩立像の造立年は不詳だが、基壇に「世田谷領給田村 庚申講中」とあるので庚申講中の建てたものである。またその横には「光明真言 供養仏 願主 即じゃう」とあるので、真言宗系のものだろう。

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次に上の写真の右側は面長の地蔵菩薩立像。向かって右面に「奉造立念仏供養六道能地蔵尊」とある。基壇には「武刕多摩郡給田村」の銘。像身の脇には享保元年(1716)11月の年紀があるが、基壇には「宝暦3年(1753)10月 奉造立地蔵尊壱体  惣村女中念仏講中」とある。後に台石が入れ替わってしまったのだろうか。左側の地蔵は基壇に「世田谷領給田村 庚申講中」とあるので庚申地蔵だろう。これも光明真言と彫られている。造立年は享保4年(1719)10月である。

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その隣もまた面長の地蔵菩薩。造立年は不詳。基壇には「世田谷領給田村 庚申講中  光明真言 供養仏  願主 即じゃう」とある。前述の庚申地蔵と同じ講中によるものだろうか。左側は黒い材を使っているのが汚れたのかは分からない。造立年は享保元年(1716)11月。側面に「奉造立庚申供養為二世安樂也」とあり庚申地蔵。台石には「講衆給田村 十二人 敬白」とある。

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次は丸顔の地蔵。造立年等は分からない。台石には「給田邑中  念仏供養」とある。そしてその左、かなり黒っぽいのはここでは珍しい聖観音立像。造立年は享保元年(1716)霜月(11月)とある。下部には12名ほどの願主名が刻まれ、脇には「奉納一百箇所札 成就供養所」とあるので、秩父西国坂東百箇所を意味しているのだろう。

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左端は台石があるものの肝心の石仏はない。これは昭和の中期からないことが写真からわかっている。右側の地蔵菩薩は造立年不詳。台石には「講中同 四十八人  之女人」とあるので、女念仏講中だろうか。こうしてみると、ここの石仏は享保年間のものが極めて多い。享保年間が江戸時代の中でも21年迄と最も長いこともあるだろうが、江戸時代の中期で経済的にも庶民が最も元気があった時代である。

場所  世田谷区給田3丁目15-7

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2021年2月 2日 (火)

給田観音堂の石仏(1) (世田谷区給田)

国道20号線(甲州街道)に並行して昔からの甲州街道が各所に残っている。世田谷区から仙川を渡って調布市に入るが、その世田谷区側に給田観音堂がある。旧甲州街道から南へ路地を入った京王線の線路脇である。昔はもっと広かったらしいが、住宅開発で今の広さまで狭まったようだ。創建は不詳だが、江戸時代に徳川家息女の庵室だったと伝えられる、古くは旧甲州街道沿いにあったが、街道を通る徳川家関係者は馬を下りなければならず、その煩わしさから今の位置に移ったというのは面白い。

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観音堂の前に数基の石仏が並んでいる。一番観音堂側にあるのが舟型光背型の庚申塔で、造立年は延宝8年(1680)とある。月のところが欠けていて分からない。上部に日月、そして主尊は一猿である。このパターンは珍しい。下部には7名の願主名が刻まれている。中折れしたのを補修してあるが、昭和中期の写真でも中折れしている様子なのでそれ以前の傷だろう。

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その隣にある巨大な石塔は宝篋印塔型の三界万霊塔である。宝篋印塔というのは塔の形態で、五重塔のような先っぽの「相輪」、その下に「笠」「塔身」そして「基礎」となっている。三界万霊塔はよく寺院で見かけるが、欲界(食欲や性欲等の世界)、色界(物質の世界)、無色界(欲も物質もない世界)の三つの世界を指す。一言でいうと「生きとし生けるものの供養塔」という感じだろうか。この三界万霊塔は宝永4年(1707)3月のもの。

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その左にあるのは光明真言供養塔。造立年は安永6年(1777)仲冬とあるので11月である。密教では神秘性を保持する為に梵字や陀羅尼を翻訳せずにそのまま読むのが習わしで、光明真言もその陀羅尼のひとつだというが、私にはよく分からない。密教における念佛供養塔と考えても良いだろう。塔の側面には「武刕多摩郡給田村  惣村講中」とある。

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その隣は、大乗妙典廻国供養塔。大乗妙典というのはいわゆる法華経で、これを一定の回数読経した記念に建てるものや書写して納めるものなどいくつかのパターンがある。この塔は中央に「奉納大乗妙典日本廻国」とあり、側面に文政4年(1821)仲冬(11月)と刻まれている。また反対側には「武刕多摩郡給田邑  行者長左衛門」とあるので、裕福な行者が建てたものだろうか。

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上の写真はその隣にある角柱型庚申塔だが、笠が無くなっている。塔身の脇も掛けていていささか無残なものがある。造立年は宝永5年(1708)10月。正面には日月が描かれ、「奉供養庚申」と書かれている。側面には蓮葉が描かれ、「武刕世田ヶ谷領内給田村」とある。笠欠も傷も昭和中期から変わっていないので、戦災によるものだろうか。

以上が観音堂前に並ぶ主な石仏である。

場所  世田谷区給田3丁目15-20

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2021年2月 1日 (月)

和泉四丁目の供養塔(杉並区和泉)

路地裏を歩いていて見つけた石塔である。番屋坂を下り神田川を渡る番屋橋を渡る。そのまま東に緩やかな坂を上っていくと、民家の角に背の高い石柱が立っていた。表には「四国八十八箇所打留」と彫られている。これは一旦何だろうと書かれている文字を読んでみた。こんな場所で打留とは一体何だろうと首を傾げた。

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造立年は安永2年(1773)仲夏とあるので5月。裏には「寄付 筒井三郎兵衛」とある。この丁字路を北に向かうと200mほどで文殊院の山門がある。文殊院は高野山真言宗の寺院で、慶長5年(1600)に駿府(静岡県)に開山、寛永4年(1627)には徳川家に従ったのか浅草に移転、元禄9年(1696)になると白金に移る。そこでは御府内(都内)八十八箇所霊場の打留札所となっていたが、大正9年(1920)に区画整理により杉並区和泉のこの場所に移されたという経緯がある。

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文殊院に向かっていくと寺院の手前の辻にも石柱が立っていた。この石柱は大正10年(1921)に建てられたもので、白金から移転した翌年のことである。御府内八十八箇所というのは港区高輪にある高野山東京別院を一番として、都内の弘法大師ゆかりの寺院を八十八箇所巡るという宗教行事で、宝暦5年(1755)に始まっている。おそらく打留の石柱は白金にあったものを移したのだろう。

場所  杉並区和泉4丁目12-4

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2021年1月31日 (日)

赤羽幼稚園前の庚申塔(北区赤羽西)

赤羽駅と再開発中の赤羽台団地を結ぶ最短ルートは歩行者しか通れない大坂である。この大坂の麓にあるのが赤羽幼稚園。どう見ても団地に上がるショートカットの道なのだが、歴史は古く、江戸時代は宝幢院前を通らずに日光岩槻街道から板橋道に抜ける村道だった。そんな幼稚園の入口に祠や石仏が並んでいるのはいささか違和感がある。

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コンクリートで囲まれた一角にあるのが板碑型庚申塔と雷神の碑。庚申塔の造立年は昭和5年(1930)10月と新しい。「祭主 石井隆三、行者 森みや」とある。施主や願主ではなく祭主というのが珍しいし、行者というのは初めて見た。それ以外の情報は全くない。ただこの庚申塔の材石は鉄平石という安山岩で、長野県諏訪地方、佐久地方で採れる、安定した柱状節理に含まれる材石である。わざわざそういう石を使うこだわりは何のためだろうと考えるが分からない。

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同じ場所には祠が複数あり、その一つにはこれも昭和になってからのものだろうと思われる不動明王像が祀られていた。焔光の中には迦楼羅鳥らしきものもあり、明王の下には二童子がいる三尊形式のものである。不動明王像を見ていてふと庚申塔の「行者」を想起した。江戸の北部から現在の埼玉県あたりには大山信仰のものが多い。大山信仰の主尊は大山不動で、その関係でここに不動明王があり、大山の行者が関係したのが上の庚申塔ではないだろうかという見方である。

場所  北区赤羽西1丁目36-2

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2021年1月30日 (土)

坂本庚申堂(北区赤羽台)

宝幢院前から南西に向かうかつての板橋道はうつり坂を上って小豆沢へ向かっていたが、大正8年(1919)に陸軍被服本廠が出来ると一般道ではなくなり、被服本廠への専用道路になってしまった。現在坂上は再開発工事で建替えの進む元赤羽台団地だが、戦後のこの団地にも昔からの道祖神や庚申塔が残されていたという。(いくつかは赤羽八幡へ移設)

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うつり坂も当然軍用道路だったわけで、大正8年から戦後まで、この坂本庚申堂がどういう状態だったのかについては興味があるが分からない。この庚申塔の講中はまだ続いている可能性があり、9月に祭祀を行っているようだ。講中ではこの庚申塔を「庚申様」のほか「馬頭観音」とも呼んでいるようで、江戸時代末期から明治にかけてはこの混同がしばしばある。

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堂内の庚申塔は板碑型で、あまり大きくない。高さは63㎝で、板碑型でこの大きさの庚申塔は珍しい。中央には「奉造立庚申二世安樂処」とあり、造立年は延宝8年(1680)9月4日。この造立年が今も守られて祭祀日となっているのはのは面白い。

場所  北区赤羽台3丁目1-8

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2021年1月29日 (金)

宝幢院第一墓地の庚申塔(北区赤羽台)

宝幢院から南西に向かう道はかつての板橋道、今はうつり坂を経て赤羽台に上る道で、その一本北側の八幡坂が大恩寺を経て小豆沢から中山道に繋がる道である。この八幡坂の南側に広がるのが宝幢院の第一墓地。本堂のある宝幢院には墓地がない。おそらく昔はあったのだろう。それが陸軍や鉄道に敷地を奪われて今の形になったのではないかと思う。

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北区の資料によるとこの宝幢院第一墓地の中に庚申地蔵があると記されている。墓地内を探し回ると、中央あたりにようやく見つけた。歴史の古い寺院とその墓地なので、同じような舟型光背型の地蔵や如来の墓石が沢山ある。各家の墓地の中にもいくつもあるのである。文字を読みながらようやく見つけた庚申地蔵はなかなか立派なものであった。

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残念ながら右肩上が大きく破損している。昭和の資料の写真も同様なので空襲によるものだろうか。庚申地蔵である目印は基壇にある三猿の陽刻である。地蔵菩薩立像の脇には日輪、月輪があり、下部には蓮弁が描かれている。「為二世安樂庚供養」の文字と「念佛供養」の文字がある。造立年は正徳2年(1712)11月である。赤羽台の石仏には安山岩と同じくらい玄武岩のものが多い。これは材としては特徴的である。

場所  北区赤羽台3丁目4-20

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2021年1月28日 (木)

赤羽八幡猿田彦庚申塔(北区赤羽台)

赤羽駅は都内でも鉄道輸送の要である。京浜東北線、埼京線、宇都宮線、高崎線、に加えて東北上越北陸新幹線が通る。近年は北の扇の要を大宮に奪われた形だが、歴史は古く明治18年(1885)に品川・赤羽間で山手線の前身として開業した。山手線が環状線になってからは、池袋・赤羽間に赤羽線が走っていたのを思い出す。埼京線が出来たのは昭和60年(1985)と新しい。赤羽八幡神社の境内から赤羽駅方面を展望するとそういう歴史の上にこの神社の場所が鉄道の股の間になったことがわかる。

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赤羽八幡は武蔵野台地の東北の岬に位置する。縄文海進の頃にはここが波打ち際である。西側を上る師団坂の名は赤羽が広大な軍事施設を有していた時代の名残りである。崖下と境内との高低差は15mもある。長い石段を登ると本殿前に出る。

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赤羽八幡の創建は平安時代初期、平安京が出来たころで、最澄が比叡山を開山した時代。桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍にし、東北地方の征伐に向かわせた。その時に田村麻呂が陣を張って八幡大神を勧請したのが始まりと言われる。本殿前の左手には古峯神社や北野神社、大国主神社などの末社があったが、近年そこに猿田彦庚申塔群が加わった。

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後ろの大きな石碑は別にして、右の自然石と、二基の駒型庚申塔は、赤羽台団地の猿田彦神社にあったもので、平成29年(2017)4月に団地の再開発工事の為にこの場所に移された。宝幢院前の街道合流地点の周りには庚申塔や猿田彦神が複数路傍に祀られていたが、明治時代から大正時代にかけて赤羽周辺に陸軍の施設が次々と作られていく過程で陸軍被服廠の敷地内に纏められた。この被服廠の跡地が戦後、広大な赤羽台団地となり、それが老朽化して現在大規模な建替え再開発工事に入っている。

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右端の自然石による猿田彦太神碑も庚申塔の一形態である。「猿田彦太神」の下には「當所 講中 廿七人」と彫られている。背面には年紀があり、嘉永4年(1851)4月とある。江戸時代末期のものである。左の駒型庚申塔は大きいもので高さは124㎝ある。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏が描かれ、基壇に三猿が彫られていた。造立年は享保7年(1722)11月、江戸時代中期のものである。庚申塔が最も盛んな時期で、経済的にも高度成長した後で豪華な庚申塔になっている。それを感じさせるのは、両脇に彫られた願主名で、左には男性名が20人、右には女性名が22人記されている。庶民がそこそこの経済力を持ち、お金を出し合って造立したことがわかる。

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左側には頂部が少し欠けた、同じような駒型庚申塔があり、図柄は似ている。造立年は享保5年(1720)11月でこちらの方が2年早い。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、そして基壇に三猿とよく似たデザインは同じ石工が造ったのではないかと思われるほど。ここまでは赤羽台団地の猿田彦神社からの移設。左にある小さな石仏もまた庚申塔で、これは同じ団地の赤羽台1丁目3番の北の端にあったものだという。赤羽台団地の工事が始まって、どこへ行ったのか探していたが、きちんと祀られていて安心した。

場所  北区赤羽台4丁目1-6

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2021年1月27日 (水)

赤羽宝幢院の石仏(2) (北区赤羽)

宝幢院の境内は何となくまとまりがない。明治の初期に鉄道が開通する以前は、日光岩槻街道の要所としてにぎわい、宝幢院の西側からは台地の上にある赤羽八幡社への参道が伸びていた。鉄道が大宮方面に延びた時に、その参道をがっつりと浸食して軌道が通されたので、どことなく手狭な風景になっている。

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本堂の手前東側の駐車場の奥には2基の立派な庚申塔が祀られていた。左の板碑型の庚申塔は北区で最古の庚申塔。造立年は寛永16年(1639)霜月(11月)と古い。時代的には、将軍が三代徳川家光の時代である。家光は家康を深く慕っていたので、日光東照宮へのお参りでしばしば寺の前の辻を通ったに違いない。

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板碑型庚申塔の主尊である阿弥陀如来と二猿は美しい線刻で描かれている。上部には「山王廿一社」とあり、脇に「岩淵赤羽根村」の銘がある。右側の舟型光背型の地蔵菩薩立像は、上部に日輪月輪を拝し、下部には地蔵脇に二鶏がいる。その下には三猿が描かれており、初期の庚申地蔵であることが明白。造立年は延宝8年(1680)10月で、この年は庚申年である。

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本堂側に回り込むと、植込みの中に板碑型と駒型の中間のような庚申塔が立っている。造立年は寛文10年(1670)11月で、上部が少し欠損している。下部には三猿が陽刻されており、中央には「奉造立庚申供養二世之処」と書かれている。法幢院の庚申塔はどれも初期型のもので、典型的な庚申塔ではないが、それだけに江戸時代初期からここが賑わう街道筋だったことを物語っている。

場所  北区赤羽3丁目4-2

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2021年1月26日 (火)

赤羽宝幢院の石仏(1) (北区赤羽)

赤羽駅の北にある宝幢院は正式名を医王山東光寺という真言宗の寺院。開山は寛正2年(1461)と古く、江戸時代には家光から朱印を与えられて繁栄した。元は浮間村西野(現在の浮間四丁目)にあったが度重なる水害でこの地に移転してきた。法幢院前は江戸から来た日光岩槻道が北に折れ、そこに板橋道が合流する交通の要所であった。

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そんな往時をしのぶことが出来るのがこの道標。元文5年(1740)12月に建てられたもので、街道の合流地点で人々に行く先を教えてきた。三面にはそれぞれ、「東  川口善光寺道 日光岩付(槻)道」、「西  西国冨士道 板橋道」、「南  江戸道」と彫られている。以前は囲などなかったが、車が突っ込むのを防止しているのか頑丈な鉄製の囲いが出来ていた。

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道標は駐車場の入口にあったが、本堂前の入口脇にあるのが面白い顔をした地蔵菩薩立像で小堂に祀られている。残念ながら、造立年等の詳細は分からなかった。門の中に入ってみるとそこにも石仏が並んでいる。

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大きな堂宇にあるのが六地蔵。概ね1740年~1741年に作られたものである。右から、元文6年(1741)1月、元文5年(1740)12月、寛保2年(1742)2月、元文6年(1741)2月、元文5年(1740)12月、寛保元年(1741)12月の年紀で、3年に渡っているように見えるが元文6年は3月から寛保なので、1年3ヶ月の間に続けて造立されたものである。赤羽根村の念仏講中、女中念仏講中の銘が多い。

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六地蔵の隣には大きな馬頭観世音塔と出羽三山供養塔が並んでいる。右の馬頭観音は明治41年(1908)4月の造立で、「馬持中」とある。これは当時馬を飼っていた裕福な村人の馬持講中によるものである。出羽三山供養塔は月山、湯殿山、羽黒山の三山の供養で、富士講大山講に次ぐ人気があったようだ。

場所  北区赤羽3丁目4-2

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2021年1月25日 (月)

大満寺岩淵不動尊の石仏(北区岩淵町)

地下鉄南北線の赤羽岩淵駅は北本通り(国道122号線)の赤羽交差点地下にある。この交差点の傍にあるのが大満寺でその中の岩淵不動尊の方が有名かもしれない。大満寺の開山は明暦元年(1655)である。山門を入って正面にあるのが岩淵不動尊、本堂は左手にある。山門の手前脇には幸福地蔵(通称 手わらじ地蔵)がある。

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手わらじ地蔵の造立年は分からないが割と新しいもののように見える。本来は右手の錫杖の部分にわらじが懸けられているようだが、訪問時は何もなかった。ウェブ上の写真を見てもほとんど草鞋があるのを見掛けないので、ある方が稀かもしれない。願い事をすると地蔵が草鞋を履いて歩いて叶えに来てくれるというが、草鞋がなければ来られないのだろうか。京都の鈴虫寺の幸福地蔵と同じようなものとして造られたのだろう。

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山門を入ると右手に小堂があり駒型の庚申塔が祀られている。青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれているが、左側の猿が横向きなのは珍しい。右側には「奉待庚申供養二世安全祈修  敬白」とあり、左には宝永3年(1706)2月の造立年が彫られている。本体は玄武岩らしいが石色は安山岩とあまり変わらない明るい色である。

場所  北区岩淵町35-7

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2021年1月24日 (日)

正光寺の庚申塔(北区岩淵町)

岩淵宿の中心の寺院は浄土宗の正光寺(しょうこうじ)。鎌倉時代に創建され荒川近くにあった西光寺の名跡を継いで、慶長7年(1602)にこの場所に正光寺として創建した。江戸時代には梅王寺や十王寺を末寺とし、八雲神社の別当寺として栄えたという。

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岩淵では最も広い境内を持ち、当時の様子を窺うことが出来るが、やはり目立つのは山門から入って正面に立つ10mほどの高さの岩淵世継大観音(安産子育観音)だが、石仏ではないので割愛したい。広い境内だが、左手の墓所に向かう道脇に自然石の庚申塔がある。

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俳句の歌碑として建てられたもののようで、「庚申塔(庚甲塔と彫られている)」の文字の下に、「月(白)雪に  興ある花乃(の)  木曽路か南(な)」とある。作者はさくら庵加湧居士とあるが何者かは知らない。造立年は嘉永3年(1850)春とある。俳句については全く分からないが、個人的な解釈をすると、春先の残雪の木曽路を旅している時に梅の花に白雪が積もっているのを見て季節の移ろいを感じた…ということだろうか。

場所  北区岩淵町32-11

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2021年1月23日 (土)

梅王寺の庚申塔(北区岩淵町)

岩淵の江戸時代からの中心となる寺院は正光寺だが、その北にある梅王寺は正光寺を中興した小田切将監(寛永元年:1624没)の墓所として創建されたと伝えられる。寺院としては狭い方であるし、入口も路地裏的な場所なので見つけにくいかもしれない。

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山門の少し先に駐車場への入口があるのだが、その入口の塀の陰に庚申塔が置かれていた。祀られているというよりも置かれているという印象が強い。ガードバーを載せたのはちょうどよい場所に庚申塔があったからだろう。この庚申塔、角柱型の文字塔で正面に「庚申」と大きく彫られている。左側面に彫られている造立年は文化9年(1812)2月、右側面には「これより志もむらみち」とある。

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台石にいは講中十八人とあるが、全体的に風化が進んでいる。手前にあるのは年紀不詳の香炉花瓶である。中央にある菱形の模様は柴又庚申堂の題経寺の寺紋だという。題経寺は寅さんで有名な柴又帝釈天のある寺院である。しかしこの庚申塔や香炉花瓶と柴又帝釈天との関係は分からない。

場所  北区岩淵町30-11

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2021年1月22日 (金)

岩淵町路傍の庚申塔(北区岩淵町)

新河岸川土手近くの八雲神社の入口から南へ進むとすぐに大きな民家の門の前に並ぶ庚申塔と供養塔が現れる。広さからして300坪くらいはありそうなお宅なので旧家なのだろうか。その門の脇に並ぶ石仏をじっくりと拝見する。

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右側は上部が欠損しているが角柱型文字塔の庚申塔である。前面に彫られているのは、「奉造立庚申供養塔」という文字で、その脇に造立年が寛保3年(1743)2月と記されている。下部には三猿が陽刻されている。中央の大きな板碑型庚申塔は、日月が二組、中央に「奉待庚申供養二世安樂所」と書かれている。下部には三猿が陽刻されていて、高さは134㎝と大きい。造立年は元禄6年(1693)2月であるが、基壇には天保3年(1832)の異なる年紀があるので、基壇のみ別時代のものだろう。2月と言うのは稀な気もするが実際は都内の庚申塔の1割弱が2月なので決して少なくはない。

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左にあるのは角柱型の供養塔。正面には「奉順礼」とあり、その下に「西国  秩父  坂東  出羽三山  身延山  六阿弥陀」と随分と欲張りなものになっている。塔の右側には天保10年(1839)の造立年が刻まれ、左側には「當宿内安全也」とある。台石には「右下村」とあるが、江戸時代から明治にかけて、すぐ南の丁字路を東に進むと志茂古道に繋がっていたので、当時から場所は殆ど動いていないのではないかと思われる。

場所  北区岩淵町22-17

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2021年1月21日 (木)

延命地蔵尊(北区岩淵町)

岩淵町の新河岸川に近いところに岩淵八雲神社がある。岩淵本宿はこの神社から西側に広がっていた江戸時代からの宿場町。現在は国道112号線だが、江戸時代は日光御成道(岩槻街道)で将軍も往来する道であった。すぐ北にある新河岸川が本来の隅田川(大正時代以前の荒川)で、江戸時代は川口の渡しで越えていた。明治38年(1905)に舟を並べてその上に木橋を渡す舟橋が造られた。しかしその後荒川開削工事が行われ昭和3年(1928)に新荒川大橋(843m)が架けられることとなった。

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八雲神社は創建は不詳ながら江戸時代から岩淵宿の鎮守として地域の中心であった。その八雲神社の隣にある民家の路傍に小堂があり、そこに丸彫の地蔵菩薩立像が祀られている。

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見た感じから新しいもののようで、台座の正面には延命地蔵尊と赤字で書かれている。左側に回り込んでみると、昭和54年(1979)11月、佐野謙次郎・禎子建之とあるので、やはり新しいものである。

場所  北区岩淵町22-18

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2021年1月20日 (水)

水難供養地蔵尊(北区志茂)

西蓮寺、熊野神社を経て、志茂旧道を川上に向かって歩いていく。西蓮寺も古いが、その西蓮寺の住職が正和元年(1312)熊野三社権現を勧請して創建したのが志茂熊野神社。坊さんが神社を勧請するというのはなかなか面白い。毎年2月7日に行われる白酒祭は北区の無形民俗文化財になっているという。氏子総代たちが弓矢で、大きな丸に「鬼」と書かれた的を射抜いてその年の吉凶を占い、その後に白酒と短冊形の切り餅が参拝者にふるまわるらしい(オビシャ行事)。

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そのまま志茂旧道を進むと新河岸川土手の道に出る。そこにはいわゆる「かみそり堤防」が立っていて、川と人々の住む土地とを分断している。かみそり堤防は昭和32年~昭和50年に作られた隅田川周辺の堤防で、薄っぺらい塀のような堤防の俗称で、実際には極めて決壊しやすいようだ。それ以降の堤防はいわゆるスーパー堤防となっており、親水的な造りに変わっている。

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このかみそり堤防の傍にぽつんと立つ地蔵を見つけた。説明板には「この地蔵は昔、水難事故が多く、供養のため地元有志によって建てられた(志茂五水門自治会)」とされ、昭和40年(1965)5月と記されている。かみそり堤防が出来たことで、それまでの土手から川に入って遊び流される人が少なくなったのだろうか。その分、川の存在すら分からなくなってしまったのは大きな反省だったのだろう。首が木製になっている経緯は分からない。

場所  北区志茂5丁目41(道路よりも土手側と川の対岸は41番地である)

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2021年1月19日 (火)

西蓮寺門前の石仏(北区志茂)

西蓮寺の門前には数多くの石仏が並んでいる。まず山門の手前、西側には墓所が広がり白い塀が美しい。その東の端にあるのが六地蔵である。六地蔵の堂宇は割と大きいもので、その隣は門ではなく駐車場、民家の空き家と続き、その先に山門がある。

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台石の文字を読むと宝暦年間(1751~1764)のものらしい。また「武州豊嶋郡岩淵村下村惣講中」とあるので、これも江戸時代に人々が造立し守られて来たもののようである。東に歩を進め、山門の右手にある沢山の石仏を見る。

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左の角柱型の六地蔵は新しいもののようだ。その右には庚申塔があり、柱を挟んで丸彫の地蔵が3基と舟型光背型の地蔵が1基並んでいる。どれも比較的大型のものである。

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庚申塔は舟型の庚申塔だが、尊像をよく見ると馬頭観音であった。しかし基壇には三猿があり、面白い組み合わせである。なぜ馬頭観音を主尊に持ってきたのかは分からない。造立年は宝暦7年(1757)8月とあり、願主は市郎と彫られている。

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柱の右側の丸彫地蔵菩薩立像だが、最左の地蔵の基壇には三猿が彫られており、庚申地蔵である。造立年は享保5年(1720)12月。本体左側面に「奉待庚申供養為二世安樂処」とあるので間違いない。資料によると背面には「武刕豊嶋郡下村」とあるようだ。その右隣りの地蔵は普通の丸彫地蔵菩薩。台石に花のような印があるが何かは分からない。

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右側の2基はともに地蔵菩薩立像だが、丸彫地蔵の方の基壇にはうっすらと三猿の痕跡があるように見えた。北区の資料を調べてみると、本体の左側面に「奉待庚申講二世安樂」の文字があるようだ。基壇の三猿も間違いないようで、造立年は右側にあり、元禄15年(1702)9月。一番右の舟型光背型の地蔵菩薩立像は文字が良く読み取れなかった。

場所  北区志茂4丁目30-4

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2021年1月18日 (月)

西蓮寺入口の庚申堂(北区志茂)

橋戸の子育地蔵尊から志茂旧道を北上すること約200m、西蓮寺の入口に庚申堂がある。5坪ほどもある敷地はきれいな植込みが作られ、地域の人々に守られている庚申堂だというのが伝わってくる。

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堂宇は閉まっていて曇ったガラス越しにしか庚申塔を拝むことが出来なかった。祀られているのは年紀不明の駒型庚申塔で、青面金剛像の下に三猿が彫られているが、その間の台座にふくらみがあり、もしかしたら邪鬼が描かれていたのかもしれない。全体的に溶けた感じに見えるのはもしかして奉納された塩によるものなのだろうか。斜めの色の薄い線も気になるが、中折れした様子はない。

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なお堂宇の前には大正6年(1917)10月造立の三猿が描かれた銘水盤があるのだが、うかつにも植込みに埋まっていたようで見落としてしまった。なぜ西蓮寺の門前ではなくここにこの庚申塔が祀られているのかが気になったが、以前は単体で特別に祀られていたのかもしれない。

場所  北区志茂4丁目30-11

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2021年1月17日 (日)

橋戸の子育地蔵尊(北区志茂)

北区に志茂という地域がある。今は志茂だが、江戸時代から明治時代にかけては下村という村だった。明治時代に下村は大字下とされたが、差別的な印象から「志茂」に文字を変えたという経緯らしい。明治以前は熊野神社と西蓮寺を中心に広がる農村であった。村の中心を南北に走る志茂旧道は現在も残っており、志茂駅南口から赤羽岩淵まで続いている。

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志茂旧道の中でも標高の最も低い辺りに橋戸の子育地蔵尊がある。橋戸というのはこの辺りでこの地を呼んでいた名前らしい。古い地図を見ると、赤羽西の真正寺坂辺りを源流とした稲付川が分流となって流れており(稲付川末流)、橋があったのではないかと推察している。この堂宇には5体の石仏が祀られている。

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一番右の小さい舟型の石仏は地蔵菩薩像。造立は元文3年(1738)で地元(下村)の人々によるもの。左の丸彫の地蔵菩薩立像は、単体でも橋戸の子育地蔵尊と呼ばれるもの。場合によっては4体合わせて橋戸の子育地蔵尊と呼ぶ説もある。造立年は元禄13年(1700)11月で、地蔵の右側には「庚申待供養二世安樂所」とあるので庚申講中によるものである。

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中央左は元禄14年(1701)1月造立の舟型光背型の庚申塔だが、尊像は大霊権現とされている。下部には三猿があり上部には日月がある。下にある基壇にも三猿が描かれており合計六猿になる。一説には基壇は他の庚申塔のものの可能性が高いとされている。その左にある黒っぽい石塔の中央にはうっすらと「庚申」の文字がある。色が黒いのは玄武岩を使っているからだろう。この庚申塔については戦前には旧奥州街道沿いにあったとされているので、現在の北本通り(国道122号)にあったのであろう。手前の地蔵は不詳だが新しいもののようで、昭和の資料には記載がない。

場所  北区志茂4丁目43-2

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2021年1月16日 (土)

椿山荘の庚申塔(文京区関口)

椿山荘は都内でも数少ない江戸時代以前の風景をある程度保っている場所である。この場所は江戸時代後期には久留里藩黒田家の大名屋敷で、明治になって長州萩出身の山形有朋がその風光明媚さに魅了されて買取った。山形有朋はこの自然を守ってくれる人にということで藤田財閥二代目の藤田平太郎に譲渡、第二次大戦でかなりの部分が焼失したが、戦後藤田興行(藤田観光の前身)が引取り庭園を復元した。有名なのは三重の堂だが、それ以外にも歴代の主が集めた貴重なものが多く残る。

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ホテル棟から下り赤い橋を渡って庭の中心である幽翠池(ゆうすいち)の手前に庚申塔がある。これは山形有朋がどこかから持ってきたものだと思い込んでいたが、どうも江戸時代からここに在ったものらしい。江戸時代は大名屋敷だったが、西隣の熊本藩細川屋敷とのとの間には今もある胸突坂の道があるし、この庭の中程にも台地上から神田川に下る野道があった。その路傍には当時からこの庚申塔があったことが知られており、場所はほどんど変わっていないようだ。

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舟形光背型の庚申塔は高さが122㎝もある大きなもので、保存状態もすこぶる良い。青面金剛像、一猿、二鶏の珍しい組み合わせで、「奉造立庚申供養石塔一基為二世安樂也」と彫られている。造立年は古く寛文9年(1669)4月である。幽翠池の西側は江戸時代は旗本の屋敷で、明治になってからは山縣邸ではなく田中邸とあるが、この田中邸は土佐藩士から宮内大臣となった田中光顕の屋敷。その南には江戸時代に松尾芭蕉が住んだという関口芭蕉庵がある。昔の地図から推量ると池までは山縣邸で、この庚申塔も山縣のものだったろう。傍にある小さな六面幢も由来がありそうだが、資料のどこにもなく未だに気になっている。

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少しホテル棟へ戻ったところに羅漢像などの石仏が多数配置されている。説明板によると、江戸時代の有名画家である伊藤若冲の下絵を元に造られたものらしい。京都伏見の石峰寺にあったものを大正14年頃移したというから、藤田平太郎が持ってきたものだろう。私事だが長男が一昔前にここで結婚式を挙げた折、この庭を何度も廻ったが、本当によく出来た庭園で、現在もある滝も元々の水源があった場所である。江戸時代以前からつばきやま(椿山)と呼ばれた椿の群生地だったことや、芭蕉や広重が魅了されたこともよく分かる。

場所  文京区関口2丁目10-8

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2021年1月15日 (金)

光明院の石仏(杉並区上荻)

荻窪駅の少し西で環状八号線が中央本線をくぐる。その西側にあるのが真言宗の寺院で慈雲山荻寺光明院。とても古い寺で、和銅元年(708)開創の伝承があり、荻寺の名前が由来になり荻窪の地名が出来たという。この寺院由来の地名としては環八と青梅街道の交差点四面道もその一つだという。荻窪駅西口から西へ線路沿いに進むと環八を渡り、その先が寺院の入口になっている。

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入口脇には沢山の地蔵菩薩が並んでいる。実は最右の白い地蔵を除いては、二組の六地蔵である。手前の低い方は享和3年(1803)の六地蔵で、それぞれ女性を祀っている。右から二番目の細身の地蔵には「武列多摩郡大宮前新田」の銘があるが、荻窪と大宮前とは関係が深く、西荻窪駅から大宮八幡宮へ斜めに伸びる道路は昔は新田道と呼ばれた歴史ある道である。後の大きい方の六地蔵は、元文5年(1740)の造立。それぞれ下荻窪村、上荻久保村(上荻窪村)、天沼村の銘がある。

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その向かいの竹藪にあるのは不動明王像。脇侍である二童子はいない。造立年は延享3年(1746)11月で、火焔を背景にした立像だが、左上の火焔が一つだけ迦楼羅鳥(かるらどり)の首になっている。迦楼羅は鳥類の王とされ、口から火焔を吐き、龍を捕えて常食すると言われる。『ウルトラQ』の第一話に出てきた原始怪鳥リトラのモチーフかと思って調べたがそうではないらしい。円谷プロよりもはるか昔から人々は迦楼羅の存在を想像していたのは凄いことだと思う。

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少し本堂寄りに進むと凸凹の石仏が並んでいる。寺のHPでは、「小張吉兵衛が建立した阿彌陀様、観音様、勢至菩薩の4体の大きな石仏。吉兵衛が両親と奥さんを相次いで亡くし、悲しみをまぎらすためにお地蔵様を建てた。建てた当時は普通のお顔だったが、だんだん悲しみの顔にかわり、ついに泣きべその顔になった、と伝えられている。」とあるが、小張吉兵衛が造立したのは台石の文字を見ると左の3基のみである。但し4基とも造立年は享保13年(1728)10月。

右の大きい地蔵には小張吉兵衛の名前はない。代わりに講中八十二人、小張今右衛門妻の銘がある。残りの3基は昭和12年(1937)7月に子孫の小張義三氏が修復をしている。それぞれ右から勢至菩薩像、阿弥陀如来像、聖観音菩薩像である。この左の3基を弥陀三尊とする説もある。

場所  杉並区上荻2丁目1-3

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2021年1月14日 (木)

上荻の六面地蔵(杉並区上荻)

環八の西側は青梅街道以北が桃井、以南が上荻という住居表示になっている。高度経済成長期以前は北が中通町、南が上荻窪であった。大正時代まで遡ると井荻町中通だったようである。青梅街道の南側は一部関根という地名だったが、これは荻窪八幡神社の神官を務める小俣家の屋号が関根で、その所有地を関根と呼んだのに因む。

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郵便局から南に入った路地の角にそれほど年数が立っていないきちんとした堂宇がある。施錠はされていなかったので、拝んだ上で開けさせていただいた。堂内には六面幢タイプの地蔵立像が祀られている。石塔には天蓋があり、なかなか立派なものだが、前面の3体しか見ることが出来ない。また尊顔はかなり摩滅している。

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下部の台石に文字が彫られており、造立年ではなく戒名と没年が刻まれている。前面は文政年間(1818~1830)の没年が見られるのでその時代のものであろう。古い写真にはこの角ではなさげな場所に堂宇があり、この六面地蔵が祀られているという情報があったので、決して新しいものではない。

場所  杉並区上荻3丁目27-22

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2021年1月13日 (水)

薬王院の石仏(杉並区桃井)

青梅街道に門のある薬王院は曹洞宗の寺院、創建年は不詳。門扉は閉じているが施錠されておらず、用事のある人は開けて出入りしていた。一礼して境内に入ると、正面に本堂があり、左手にいくつもの石仏が並んでいる。

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創建不詳ではあるものの、一説には元禄時代以前に海光和尚が開山したと言われる。今川氏の保護を受け、元禄13年(1700)に今川氏から土地を寄進され、享保4年(1719)に今川家の祈願所となった。明治に入ってからは観泉寺の末寺となり、境外仏堂となったようだ。

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石仏群の左端は角柱型文字塔の庚申塔。造立年は寛政5年(1793)11月。玉光山薬王院の銘があり、台石には、武刕多摩郡上荻窪村講中に加えて遅野井村の願主名も刻まれている。塔側面には西国、坂東、秩父大悲観世音百尊供養ともあり、かなり混ぜ込まれた感じがする。

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一方右端の二体の丸彫地蔵立像はある意味二子地蔵で、どちらも同じ像形で同じ文字が刻まれている。造立年はともに享保5年(1720)4月。但し、武刕多摩郡上荻村と武刕多摩郡遅野井村の銘のみが異なる。しかし願主名が計24名刻まれているが、その名前は完全一致する不思議な二子地蔵である。

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その左隣にある舟型地蔵2体だが、右側の大きい方は寛文9年(1669)小春(10月)の造立で、念佛講中によるもの。左は墓石らしく、寛文7年(1667)極月(12月)のものである。その他、享保3年(1718)の上荻久保村(上荻窪村)の丸彫地蔵、明治29年(1896)の丸彫地蔵などが並んでいる。

場所  杉並区桃井2丁目4-2

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2021年1月12日 (火)

今川二丁目の庚申塔(杉並区今川)

青梅街道の北数百mを東西に、青梅街道に並行して走る杉並登記所通りの近くに庚申塔が祀られた堂宇がある。杉並登記所通りは区画整理で真っすぐな道になっているが、元々は青梅街道と並行して東西に走る村道筋だった。ここに庚申塔が残るのはそういう過去の経緯があったからだろうと思う。

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隣接する建物も昭和チックで風情がある。高度経済成長期以前、この辺りは中通町と言った。南西にある広い公園のエリアは戦前は中嶌飛行機製作所の工場があったところで、戦後は富士精密荻窪工場から日産自動車荻窪工場へと変遷し、現在は公園とマンションになっている。

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庚申塔は駒型で日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が描かれている。右側には「供養諸願成就」とあり、左右に分かれて「武刕多摩郡遅野井村中通」の銘がある。江戸時代からこの辺りは中通りと呼ばれていた所以である。造立年は、享保10年(1725)9月、願主は保坂源五右衛門、清水加兵衛、講中弐拾七人とあり、遅野井村中通にはかなりの農民が住んでいたのだろう。

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堂宇脇には自然石の石塔があった。「佐平吉辨財天」と自然石に彫られている。特にその他の文字はないので、いつごろのものかもわからない。庚申堂や地蔵堂の脇に小さな石塔があることはよく見受けられる。人々はいろいろな民俗信仰を経て今に至っていることがわかる一面だが、現代は信仰のかけらもない時代。こういう路傍の石仏を守っていくために何かをしたいと思う。

場所  杉並区今川2丁目2-8

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2021年1月11日 (月)

観泉寺門前の石仏(4) (杉並区今川)

観泉寺門前の石仏の最終節は参道の向かいにある今川2丁目8番の一角、南側は中央大学杉並高校だが、筋塀に囲まれたこの広い数百坪の区画はまるで武蔵野の林が残っているような景色である。その中に樹木のないところがあり、複数の石仏が祀られている。まずは参道側の山門をくぐると30坪ほどの場所に6基の石仏が並んでいる。

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ここに別に石仏が並べられている理由は分からない。ただ、とても贅沢な空間だと感じられる。右端から紹介すると、享保15年(1730)3月造立の舟形光背型の如意輪観音像。これを含めて多くは墓石である。右から二番目もまた如意輪観音像で、天和2年(1682)6月のもの。

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右から三番目は地蔵と間違えそうだが舟型光背型の阿弥陀如来像である。造立年は元禄6年(1693)4月でこれも墓石。その隣の背の高い月輪の丸彫地蔵は年代こそ不詳だが墓石ではなく、どうやら水子地蔵としてあったものらしい。左から二番目は享保17年(1732)11月の如意輪観音像、一番左の光背型の石仏は聖観音像で、元禄4年(1691)6月の造立である。

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観泉寺の山門前に戻り東に樹林に囲まれた道を進むと、同じような区画があり、そこに地蔵の道標がある。正面はかなり風化が進んでいて読めない文字があるので杉並区の資料を参照した。正面上部には地蔵菩薩立像が彫られており、その下には明和6年(1769)3月の造立年と「ぞうしがや」の文字。右面には「右 長命寺」、左面には「左 ほりの内」とある。元は観泉寺の無縁墓地にあったもの。

場所  杉並区今川2丁目8

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2021年1月10日 (日)

観泉寺門前の石仏(3) (杉並区今川)

南側の列にあるのは「三谷子育地蔵堂」と呼ばれている堂宇。その左側にはいくつかの新しい小さな石仏が並んでいる。三谷子育地蔵堂の中には地蔵立像と石柱が祀られている。

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右側の舟型の地蔵立像が三谷子育地蔵。造立年は元文2年(1737)11月である。地蔵菩薩立像の脇に「念佛供養」という文字と年紀が彫られている。台石には、「願主 本田与七郎  連衆中  二十八人」とあるので、地蔵講中によるものだろう。左の笠付の石塔には「南無阿弥陀佛」と書かれており、側面には「志やくち道」とあるらしい。石神井道の意味だろうか。また、「念佛供養講中二十五人」の文字も見えるが時代は不詳。台石の水滴による凹みや資料からして江戸時代のものであることは間違いなさそう。この二基は、昭和56年(1981)に桃井4丁目16より移されたものである。今の今川四丁目交差点辺りで、青梅街道に並行した村道にあったようだ。

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石仏の左端には写真の板石がある。これは昭和50年(1975)のもので、「子育地蔵尊供養」と彫られている。「功徳主 羽生たき」と書かれており、「大正15年より助産婦業に従事し、当地に於いて五十有余年出産を取り上げ数一万三千有余大過なく今日に至り、感謝の意を表現して之の碑を奉納す」と裏面にあることから、このスーパー助産婦さんに感謝し供養するものだろう。年換算で260人の新生児を取り上げたとは想像を超える凄さである。

場所  杉並区今川2丁目6

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2021年1月 9日 (土)

観泉寺門前の石仏(2) (杉並区今川)

北側の列は庚申塔が中心で、善福寺池近くの地蔵坂から移された石仏群であったが、西側は地蔵菩薩像が中心になっている。しかし右側の堂宇にゆったりと一体のみ祀られている地蔵菩薩は、庚申塔群同様に地蔵坂から移されたものであることが分かっている。

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この舟型地蔵立像が地蔵坂の坂名の由来であると思われる。右側には「為二世安樂也  道行十九人」とあり、左側に享保17年(1732)10月の年紀に並んで、「願主  越本十郎右衛門  加藤為十郎  傳七」と彫られている。舟形光背型できちんと月輪が描かれているのもなかなかの地蔵菩薩像だと思う。

左側の堂宇(といっても屋根のみ)には三基の石仏が並んでいる。右は、享保14年(1729)11月造立のもので、台石には「地蔵菩薩念仏講女中」とあるので、女性の念仏講によるものだろう。「武刕多麻郡遅野井村  願主  渡部傳左エ門内室  同行三十四人」とあるから大所帯である。もともとは観泉寺の西南角の村道にあったものを、昭和3年(1928)にここに移したと記録されている。

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中央は地蔵菩薩坐像で、宝暦12年(1762)10月に日本回國供養塔として建てられたものを、明治32年(1899)に再建したとある。左の駒型の石仏は馬頭観音で、上部に描かれているのは馬頭観音の座像、明治32年(1899)8月の造立である。この二基は、観泉寺山門参道南端にあったものを昭和9年(1934)にここに移したと記録されている。

場所  杉並区今川2丁目6

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2021年1月 8日 (金)

観泉寺門前の石仏(1) (杉並区今川)

杉並区今川にある観泉寺は曹洞宗寺院で、戦国大名今川家の菩提寺。今川義元は桶狭間の戦いで織田信長に討たれたが、義元の子は徳川家康の庇護を受け今川家は細々と続いた。三代将軍家光の時代の正保2年(1645)に井草の地を所領として与えられた。現在の「今川」の地名はこの今川氏が由来である。

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観泉寺の創建は慶長2年(1597)とされるが、その当時は今川家との関係はない。当初は観音寺という名で、後に今川家の三女が仕えた。その関係で弟にあたる今川直房が井草村の領主となったのが家光の時代である。観泉寺は名庭で知られるが、今回は門前にある石仏群を紹介する。ここには多くの石仏が祀られており、不詳のものも含めると20基以上になる。まずは北側に並ぶ6基の石仏から。

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右端の小さめの角柱は庚申塔である。日月、青面金剛像、三猿が上部に描かれている、延享2年(1745)4月のもの。「武刕多摩郡遅野井村」の銘があり、「奉建立庚申橋供養佛」とあるが、他の石仏と同じく西荻北4-37の地蔵坂より移転したもので、地蔵坂の名前の由来でもあった。その話は「地蔵坂」のページに書いている。

中央の見事な笠付角柱型の庚申塔は宝永2年(1705)12月の造立。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、「御地頭御武運長久祈  現當二世安楽所」と書かれている。側面の蓮葉も見事である。左は文政7年(1824)10月造立の馬頭観音塔。「多摩郡遅野井村」の銘があり、側面には「西ふちう」「東江戸」と道標が記されている。

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左側の3基を見てみると、右からこれもまた見事な笠付角柱型の庚申塔。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、造立年は貞享2年(1685)10月。中央の駒型庚申塔は正徳6年(1716)2月の造立で、日月、青面金剛像、三猿のデザイン。一番左は比較的新しく、明治29年(1896)12月の石段寄附の折の供養塔のようである。この北側の6基はすべて、前述の地蔵坂にあったものとされている。

場所  杉並区今川2丁目6

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2021年1月 7日 (木)

富士向観音(杉並区上井草)

西武新宿線上井草駅からまっすぐにバス通りを南進する。およそ450mほどで上井草グリーンハイツというマンションの入口にある堂宇に到達する。堂宇の中には聖観音立像と庚申塔がそれぞれ祀られている。聖観音像の方は昔から富士向観音と呼ばれていたので、今でも富士向観音で通っている。

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なかなか立派で大きな堂宇で、右側に聖観音像、左側に庚申塔が並ぶ。聖観音像の造立は寛延2年(1749)11月。「武刕多摩郡遅野井村  願主  渡辺賀右門」の銘がある。また「講中  二十一人  同 山口治良兵衛」とあり、この講中は観音であるゆえに観音講と考えていいのか、或は念佛講なのかは分からない。

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左の笠付角柱型庚申塔は、享保7年(1722)10月の造立で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏が描かれている。「武刕多摩郡遅野井村  同行廿二人  願主  山口武左衛門」の銘がある。二基とも、もとは少し西の道沿いにあったが、大正14年(1925)の区画整理の折、ここに移転してきたもの。遅野井村はこの辺りの江戸時代の地名。元の場所は、50mほど西にかつて流れていた妙正寺川の上流である井草川の橋の辺りではないかと思われる。現在も川は暗渠として緑道になっているが、この川を境に北は石神井村、南が井荻村と言うのが近代の区割で、江戸時代は遅野井村の村境だったものと思われる。

場所  杉並区上井草2丁目17-19

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