2020年12月 2日 (水)

根生院の庚申塔・石仏(豊島区高田)

金乗寺から東へ路地を100m足らず歩くと根生院がある。根生院はなかなか苦難の末に現在まで続いている寺院である。江戸時代初期の寛永12年(1636)に神田白壁町に建立。神田白壁町は現在の神田駅を含む駅東側の一角の旧地名。内神田は江戸時代職人の街で、白壁町は文字通り左官業が集中していた。ところが10年もしない正法2年(1645)下谷長者町へ移転、さらにその33年後の元禄元年(1688)に本郷切通坂へ移転、しばらく安泰だったが、明治になると明治22年(1889)上野池之端七軒町へ移転、そして現地の豊嶋郡高田には明治36年(1903)に移った。

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山門は時代を感じさせるが、本堂は戦後昭和28年(1953)に建てられ、平成14年(2002)にさらに再建された。山門に向かって左手に2基の庚申塔が祀られている。向かって右側の駒型と思しき庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、造立年は天保6年(1835)と立て札にあるが庚申塔からは読めない。しかし側面に「▢▢年乙未八月庚申」とあるので、立て札通りだろう。

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左側はもともと笠付角柱型だったものの笠が失われた形。日月、「奉供養庚申天子」の下に三猿の図柄。造立年は元禄3年(1690)4月。説明板には「宿坂下、(旧)大榎一里塚より移転したものと思われる」と書かれている。

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山門の中に入ると貴重な石仏にはきちんと説明書きがあって有難い。上の写真は大日如来像である。造立年は寛文6年(1666)8月。この大日如来は胎蔵界のものらしい。金剛界と胎蔵界のものがあって、金剛界の大日如来は「知恵」の面から見た姿、胎蔵界の大日如来は「慈悲」の面から見た姿だという。よく分からない。

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その近くには、「南無大師遍照金剛」と書かれた供養塔がある。造立年は宝暦7年(1757)5月。江戸時代の江戸府内八十八ヶ所の石標らしいが、そのうち現存するのは4基しかないとある。

根生院はもともと河岸段丘の中腹にあったようで、明治時代の地図では現在の境内周辺は広い池になっており、屋敷の庭園を利用して当初は造られたのだろう。無理なことだが、戦前までのこの寺院を見てみたかったと思う。

場所  豊島区高田1丁目34-6

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2020年12月 1日 (火)

目白不動金乗院の石仏(2)

金乗院にある目白不動尊脇の階段を上ると墓所への鉄扉があるが、その先にも石仏は並んでいた。また墓所の奥には丸八忠弥の墓がある。丸八忠弥といっても知る人はほとんどいないが、水道橋駅北東にある都立工芸高校と名門女子校桜蔭学園の間の名坂、忠弥坂のその人である。慶安事件(1651)は油井正雪が倒幕を企んで失敗した乱で、首謀格だった忠弥が江戸城を襲って将軍を誘拐し、京都では正雪が天皇を誘拐するという驚くべき計画だった。未然にバレてしまい、忠弥は死刑、正雪は捕まる前に自殺してしまった。

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鉄扉の奥には、不動明王像と如意輪観音像が並んでいる。不動明王像は文字が何もなく年紀等全く不明。舟形光背型の如意輪観音像は延宝8年(1680)5月の造立で、上部中央には「奉建立」、右側には「観音菩薩尊像」と彫られている。

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坂を戻り、目白不動に登ってみるとそこには10基の地蔵菩薩が並んでいた。どれも年紀等は分からないが、左から2番目から7番目まではひとまとまりの六地蔵である。一番左の大きな地蔵菩薩にはうっすらと元禄17年(1704)と読めた。おそらくはどれも江戸時代前期から中期のもののようだ。

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本堂前に戻ると、そこには倶利伽羅不動庚申があった。見事な倶利伽羅不動で龍が剣を飲み込もうとする姿は迫力がある。下部には三猿が描かれており、造立年は寛文6年(1666)2月とあるが、この見事な倶利伽羅不動は戦前は関口の目白不動尊にあったもので、不動尊と共に戦後金乗院に移されたものである。富山県、石川県の県境にある倶利伽羅峠も有名で、1183年に源平の戦い(倶利伽羅峠の戦い)があったところである。

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さらに本堂左手の植木の脇にも庚申塔が一基ある。駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。「小日向水道町 上野屋」の銘がある。造立年は見当たらなかったが、摩滅が酷いので消えてしまったのかもしれない。古道の坂道、目白不動、という条件からいろいろなものが金乗院に集まってくる何かがあるような気がしてならなかった。

場所  豊島区高田2丁目12-39

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2020年11月30日 (月)

目白不動金乗院の石仏(1)

目白駅で山手線を跨線橋で交差して渡る目白通りは神田川の河岸段丘の崖上に走る清戸道という古道である。目白通りから南側はすべからく急坂で、椿山荘まで名坂がまさに目白押し。最も急峻なのぞき坂から東に進むと次の坂道が宿坂。宿坂は江戸時代以前の街道で宿坂道と呼ばれ、宿坂の関という関所もあり、なおかつ竹木が生い茂る昼なお暗い道だったと伝えられている。

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上の写真の宿坂沿いにあるのが金乗院の不動堂(目白不動)。金乗院の創建は織田・豊臣時代の天正年間(1573~1592)、目白不動は戦前は椿山荘の先にあったが、戦災で焼失したため戦後ここに移された。その金乗院には沢山の石仏がある。

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山門は本堂とは90度向きが異なり、宿坂側にある。山門左手前の地蔵菩薩半跏像は江戸時代の富裕層の墓石だろうか、台石にはいくつもの戒名が彫られ、宝暦年間(1751~1764)、享保年間(1716~1736)、正徳年間(1711~1716)などの享年が刻まれているので、宝暦年間後半の建立と思われる。門の右手にあるのは不動明王像で台石には、享保6年(1721)9月の年紀がある。目白不動と共に移されたものだろうか。

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本堂と目白不動の間に崖上の墓所に上る階段道があり、その周りに沢山の石仏が並べられている。まず目白不動堂脇の2基の庚申塔だが、左の角柱型庚申塔は元禄5年(1692)11月の造立。上部に日月、中央には「奉待念庚申一座」と彫られており、下部に三猿が陽刻されている。右の庚申塔は舟型、延宝5年(1677)8月のもので、上部に日月、中央には「庚申塔信心衆」と刻まれる。下部には同様に三猿が陽刻されている。

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次に階段の左手にある大きな擬宝珠付きの笠付角柱型庚申塔は、日月、青面金剛像、三猿が描かれており、側面には二鶏が陽刻されている。正面右に「奉待念庚申講一座二世安楽所」とあり、左側には寛文8年(1668)5月の年紀がある。青面金剛像のあるものとしては最初期のものだろう。右の舟型光背型の地蔵菩薩立像は寛文10年(1670)10月のもので、「奉供養地蔵二世安楽所」と書かれている。

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階段道の右側を見るとこちらも大きな擬宝珠付きの笠付角柱型の庚申塔。上部に日月、下部には前左右面に合わせて三猿がいる。中央には「奉建立庚申塔婆二世安楽攸」と書かれ、造立年は延宝4年(1676)4月とある。並びには供養塔を挟んで、もう一基の角柱型庚申塔があり、下部に三猿が陽刻、正面には「奉信敬庚申禮三年講結衆諸願成就」と書かれる。造立年は万治2年(1659)11月である。

場所  豊島区高田2丁目12-39

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2020年11月29日 (日)

簸川神社の庚申塔群(文京区千石)

小石川植物園の西側は網干坂、その先に簸川神社があり、簸川神社の西側が簸川坂。どちらも見事な風景の坂である。簸川神社はこの二つの坂が見せる急な斜面の上に立つ神社。坂下にはかつて小石川(千川)が流れ時折洪水を起こしていた。そんな小石川も戦前の昭和初期には埋め立てられて暗渠となってしまったようだ。谷の対岸上の尾根には中山道が通り、ちょうど茗荷谷駅あたりになる。

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簸川神社の創建は飛鳥時代よりもさらに古い孝昭天皇3年(473)と神社庁では説明しているが、孝昭天皇は紀元前475年から紀元前392年というのが在位。もっとも古すぎてどちらもかなり眉唾である。そもそもその時代はここは海岸だった可能性が高い。真偽はともかくとして、そんな神社の境内にはコンクリートで固められた庚申塔群がある。

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上の写真は本殿側から見た図。右側の背の高いのは青面金剛像の形は分かるが、上部の日月と下部の三猿はかすかに痕跡がある程度。年代は分からない。隣りの庚申塔も年代不詳。青面金剛は分かるがそれ以外は殆ど判別できない。その隣は向きが90度変わるが、この庚申塔だけは残された一部で年代が判定できる。延▢▢▢己未五月とあるので、延宝7年(1679)5月とわかる。

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延宝7年の庚申塔は損傷が激しく一部の文字以外は読み取れないが「奉待庚申供養」という文字は見える。おそらく下のふくらみは三猿だろう。その上には上部と中央部が欠損し下部のみのこされ、青面金剛の下半身だけがわかる庚申塔が乗っかっている。邪鬼のふくらみがわかる。これも年代不詳。隣りは青面金剛、鶏、猿の一部が残る庚申塔で正徳4年(1714)の年紀が読めた。

本堂とは反対側(階段側)の駒型石塔は正体が判らない。その左もほとんど形を留めていないが、文京区の資料によると、青面金剛像の庚申塔らしい。年紀などの情報は全く不明である。その資料には「己巳三月」とあるので、元禄2年(1689)か寛延2年(1749)だろうが、もしかしたら文化6年(1809)の可能性も捨てきれない。

場所  文京区千石2丁目10-10

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2020年11月28日 (土)

一行院の庚申塔(文京区千石)

一行院は浄土宗の寺院。江戸時代の初期に開山したが、文化年間(1804~1818)に徳本行者が中興した。この徳本行者が一行院の主役と言ってもいいだろう。紀州(和歌山県)の人で念仏を唱えて諸国を順礼したが、徳川家との繋がりが深く、増上寺の大僧正の願いで一行院に住むようになったという。当時の十一代将軍徳川家斉の帰依を受けた。

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山門は素晴らしいが、特に説明板などはなかった。一行院の山門前の道は、一行院坂という坂である。この坂は一行院あっての坂道である。この辺りになると、指ヶ谷を流れていた小沢も源流以遠となるため坂の起伏は少ない。

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本堂と社務所の裏手に墓所が広がっていて、その中心に徳本行者の墓がある。その後ろに一基の庚申塔があった。駒型で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄である。造立年は享保2年(1717)11月で「庚申講中」とある。江戸時代中期の典型的な駒型庚申塔である。

場所  文京区千石1丁目14-11

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2020年11月27日 (金)

白山神社の庚申塔(文京区白山)

白山神社は天暦2年(948)の創建。もともと本郷元町(現在の本郷1丁目)にあったが、二代将軍秀忠の命により巣鴨原へ移された。今の小石川植物園の辺りである。ところがその場所に綱吉の御殿を作ることになり、移転を余儀なくされ現在の場所に落ち着いた。白山神社の境内にも庚申塔がある。

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境内と言っても、本殿脇の渡り廊下をくぐって奥へ進むと富士塚の小丘があり、浅間神社が祀られている。残念ながら現在は立ち入り禁止となっているが、その麓の鳥居の近くに庚申塔が立っている。紫陽花の公開時期のみ入ることが出来るらしい。この富士山は山の上の富士山のようなものなので、実際の高さは4Mほどしかないが随分高く感じられる。鳥居の右に銀杏の大木があり、そのさらに右側に庚申塔があった。

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角柱型の庚申塔は、上部に日月、真ん中に「奉起進庚申供養」とかかれ、下部にあったはずの三猿はなぜか荒々しく削られてしまっている。造立年は延宝8年(1680)4月とあるが、側面には寛政年間(1789~1801)に白山の庚申講中が再建したとあるので、実際は寛政年間のものであろう。

場所  文京区白山5丁目31-26

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2020年11月26日 (木)

妙清寺の石仏(文京区白山)

都営地下鉄白山駅は薬師坂の地下にある。白山通りからここを通って尾根伝いに通る中山道(国道17号線)に谷を上り詰めるのが薬師坂の道筋。厳密にいうと は坂下から中程までは谷筋を通るが、途中から谷は西に曲がる。東洋大学白山キャンパス辺りが源頭である。この谷のズレから妙清寺は山門を入ると谷底に落ちるように階段を下り境内に至るという不思議な地形になっている。

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階段を下ると石仏が並んでいる。この妙清寺に薬師堂があった為、江戸時代には薬師坂と呼ばれた。同様に心光寺が吸収した浄雲寺にちなんで浄雲寺坂、白山神社にちなんで白山坂などと、いろいろな呼ばれ方をした坂である。

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石垣の奥の折れ曲がりの隅に庚申塔がある。笠付角柱型の庚申塔で、「奉修庚申供養為二世安樂」と書かれた下に三猿が彫られている。造立年は寛文11年(1671)5月。下部に施主名が並んでいるが摩滅が激しいので読みづらい。

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左の本堂近くにあるこの地蔵菩薩像はもとは舟形光背型だったのだろう。しかしかなりの部分が欠損している。下部に寛文9年(1669)9月の年紀が入っている。妙清寺の創建は慶長11年(1606)であるから、まだ坂下は湿地帯だったころである。江戸時代の地名は指ヶ谷という。今でもお七の墓のある円乗寺の門前にはこの説明板がある。

場所  文京区白山5丁目33-3

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2020年11月25日 (水)

心光寺の石仏(文京区白山)

白山にある心光寺の入口は分かりにくいが、薬師坂を歩いていけば建物の切れ目に参道が見つかる。浄土宗浄雲院心光寺と書かれた門柱が目印。そこに足を踏み入れると、すぐに数段の階段があり古い山門をくぐる。この辺りに来ると都会の喧騒が掻き消えて、まるで別世界に入ったような錯覚を覚える。

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心光寺は寛永5年(1628)に本郷田町で建立された。後の大火で現在の場所に移転した。明治43年(1910)に隣にあった浄雲寺を合併し、浄雲院心光寺となった。山門の中の境内には沢山の江戸時代の石仏がある。今回はその一部を紹介したい。

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まずは左に並ぶ六地蔵。すべて舟形光背型だが、石工は異なる印象を受ける。左から、寛文5年(1665)9月の地蔵、二番目は万治4年(1661)4月で上部がかなり破損している。三番目は寛永16年(1639)6月と最も古く、四番目は寛文元年(1661)6月でこの尊像は蓮を持つところから聖観音とも思えるが尊顔や風体は地蔵菩薩っぽい。五番目は万治2年(1659)6月で薬師如来風の地蔵菩薩だろうか。一番右は明暦元年(1655)9月造立である。六地蔵はいろいろなバリエーションがあって不思議である。

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六地蔵の向かいの植込みの奥に庚申塔が立っている。左にある角柱型の庚申塔はかつては笠付だった様子。「奉供養庚申」と書かれた下に三猿、上部には日月が描かれている。造立年は延宝4年(1676)7月。中央の大きな庚申塔は駒型と思われる。日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄で、造立年は元禄16年(1703)1月である。

心光寺の森の中の寺院にいるかのような雰囲気は素晴らしい。これ以外にも素晴らしい石仏がいくつもあったがそれは別の機会に。

場所  文京区白山5丁目36-5

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2020年11月24日 (火)

八百屋お七の墓と庚申塔(文京区白山)

白山にも名のある坂が多い。そのうちのひとつ浄心寺坂下にある円乗寺は元和6年(1620)の開山で、八百屋お七の墓があることで有名である。以前浄心寺坂の取材で来てから約4年ぶりの訪問で、円乗寺がすっきり都会的な改装をしていたのには驚いた。ごちゃごちゃしていた時代感のある山門付近もまるで新しい寺院が出来たかのように広々としてすっきりしていた。もっとも私は前の方が好みだが。

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山門からまっすぐに入っていくと塀側に六地蔵があり、その先に八百屋お七の墓がある。八百屋お七の話については浄心寺坂のページにも書いたので割愛させていただくが、ざっくりと言えば天和の大火が天明6年(1786)12月に起こり、その放火犯としてお七は罰せられ、翌年3月に火あぶりの刑で処刑されてしまった。

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お七の墓には3基の石塔がある。中央の小さなものは諸説あるが供養のために円乗寺の住職が建てたものとされる。右の中折れが痛々しい角柱は、後に歌舞伎役者の岩井半四郎がお七の興行が大成功した寛政年間(1789~1801)に御礼供養として建立したもの。そして左の新しい角柱は270回忌の昭和中期に近所の有志が建立した供養塔である。お七の処刑後わずか3年で井原西鶴は『好色五人女』にこの事件を描き、それ以降300年間もの間繰り返し作品にされてきた。至近のものでは2013年に元AKB48の前田敦子が主演でドラマ化されている。

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お七の墓の先にひっそりと角柱型の庚申塔が立っている。造立年は天明6年(1786)12月だから、八百屋お七の事件の数年後のものである。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で、保存状態は極めて良い。江戸時代の日本は実におおらかで、罪人がヒーローになったり、その傍らで庚申信仰のような民間信仰が盛んにおこなわれていたりする様子は、武士の時代だがとても平和な時代だったことが想像できる。

場所  文京区白山1丁目34-6

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2020年11月23日 (月)

沢蔵司稲荷の庚申塔(文京区小石川)

伝通院山門から東に下る坂は善光寺坂。ここは谷端川(小石川本流)と神田川に挟まれた舌状台地の先端にあたる。その為善通寺坂だけでなく、六角坂堀坂富坂などの多くの坂がある。そしてこの舌状台地は伝通院を中心とした多くの子院、学寮が建ち並んでいた。僧が仏教を学ぶ学寮の僧の中に沢蔵司という極めて優秀な修行僧がいた。この沢蔵司が伝通院の和尚の夢枕に立ち、「余は千代田城の内の稲荷大明神である。かねて浄土宗の勉学をしたいと思い、それがかなったので、これから元の神に帰るが、これからも伝通院を守護する。」と告げたという。

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そこで和尚は境内に沢蔵司稲荷を祀り慈眼院を別当寺とした。それがこの慈眼院沢蔵司稲荷の始まりである。また、『東京名所図会』には、「東裏の崖下に狐の棲む洞穴あり」とある。今も窪地があって稲荷が祀られているという。

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沢蔵司稲荷の前にムクノキの巨樹がある。これには沢蔵司が宿っているという伝説がある。道路はこのムクノキを避けて通っている。伝通院の門前にあるそば屋に沢蔵司はよく蕎麦を食べに行ったという。その日は必ず売上の籠の中に木の葉が入っていたという言い伝えもあって面白い。ムクノキは推定樹齢400年の木だが空襲で上部が焼けたもののまだ元気である。

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手水鉢の裏手に均整の取れた石仏がある。聖観音菩薩立像だが、「奉供養庚申講  二世安楽所」とあるので庚申塔である。造立年は天和3年(1683)5月だが、綺麗な保存状態である。

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その近くに面白い顔の地蔵菩薩立像があった。左下に寛文9年(1669)10月の年紀がある。地蔵の上には穴が開いて貫通いている。不思議な地蔵菩薩である。その他の文字は殆ど読めないが、この顔といい、上部の貫通穴といい、どういうものなのか興味が湧く。

場所  文京区小石川3丁目17-2

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2020年11月22日 (日)

福聚院大黒天の庚申塔(文京区小石川)

伝通院(でんづういん)は徳川家康の実母である於大の方を祀った大きな寺である。徳川家康は愛知県にある岡崎城の嫡男として生まれた竹千代が後に270年の日本の平穏を果たしたのだが、その御母堂の他界は1602年、徳川時代が来たことを見てから息を引き取ったのである。於大の方の晩年の呼び名が伝通院であったので、その名がそのまま寺名になっている。しかしここは伝通院の話ではない。

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伝通院の周りには沢山の子院(末寺)があるが、その一つが山門の手前にある福聚院である。ここで有名なのは「とうがらし地蔵」だが今回は寺院が閉鎖されていたので入口の庚申塔だけの訪問となった。とうがらし地蔵については別の機会に尋ねたい。福聚院は幼稚園がメインという感じの寺で、境内は運動場になっている。その入り口脇に2基の庚申塔がある。

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どちらの庚申塔も相当摩滅していて文字の判別は難しい。仕方なく文京区の資料を見ながら見せて頂いた。左の庚申塔は、上部が欠損しているが舟型光背型で、聖観音菩薩立像に三猿という組み合わせ。造立年は寛文5年(1665)らしい。右側は、舟形光背型の地蔵菩薩立像の庚申塔。文京区の調査では文献から庚申塔としている。造立は寛文8年(1668)11月。この時代の庚申塔の主尊は青面金剛ではないことが多い。これも初期の庚申塔として貴重なものである。

場所  文京区小石川3丁目2-23

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2020年11月21日 (土)

牛天神北野神社庚申塔(文京区春日)

中央大学の西にある牛天神北野神社は縁起によると、源頼朝が1184年に東征の折、小石川の入江の松に舟を繋ぎ波風が静まるのを待つ間、夢に菅原道真(天神)が牛に乗って現れ吉事があるからここに後程社を営むべしと告げたという。東征の後、頼朝はここに神社を築いたとなっている。牛と天神は道真に由来する。

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本殿前の両脇には牛が狛犬のように向かい合っているが、この牛ではなく、牛石というものが境内にあり、それをなでると願いが叶うと信じられている。境内の西側と南側が切り立った崖になっており、その為本殿裏には牛坂という急坂がある。また本殿から西の安藤坂下へは急な階段がある(牛坂のページを参照)。鎌倉時代は日比谷の入江に注ぐ平川の上流に小石川大沼があり、神田川と小石川がそこに注いでいた。この小石川が形成した河岸段丘の崖である。

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本殿と階段の間にあるのが背丈ほどの大きさのある笠付角柱型の庚申塔。造立年は不明。珍しく正面には「道祖神」と書かれているが、これは文京区の資料によると後世に改刻されたものとされている。下部には三猿が陽刻で彫られていて、その下には二鶏がある。さらにその二鶏の間にはひよこ(小鶏)がいる珍しいものである。

場所  文京区春日1丁目5-2

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2020年11月20日 (金)

元禄8年銘道標(品川区西大井)

JR京浜東北線大井町駅からJR湘南新宿ライン西大井駅の間にはNikonの工場研修所があり、その前の通りは光学通りと呼ばれている。Nikonの会社名日本光学に因むものだ。広い歩道とゆとりある車道はまるでニュータウンのようだが、この道はとても古い道である。

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この通りの北側をかつては立会川が流れていた。現在の立会道路がその暗渠で、光学通りは立会道路よりも標高が5mほど高い。ちょうど河岸段丘の縁に通されたのがこの街道で、洗足池で中原街道に合流していた。古道なのでこの道筋にはぽつりぽつりと江戸時代の道標がある。傍らに説明板が立っている。

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『本道標は、元禄8年(1695)に品川用水に石橋を架けた大井村の寂証ら58名の念仏講中が、石橋の安寧と通行者の安全を願って建立。正面に「南無阿弥陀仏」、側面には「従是(これより)池上本門寺道」「従是奥澤九品佛道」という行先を刻んでいる。この道は東海道と中原街道を結ぶ道の途中にあり、池上本門寺と九品仏方面に至る分岐点に建てられたもの。(一部略)』と書かれている。

場所  品川区西大井1丁目6-3

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2020年11月19日 (木)

西大井四丁目庚申塔(品川区西大井)

通り名は西大井本通り、Nikon(日本光学)から環七の馬込銀座までの道路だが旧規格なので幅員が6.5mほどしかない。二車線で車も多いので歩くのはいささか不便である。その途中のマツオカ薬品という漢方薬局の角に石塔がある。小さいので存在に気付かない人も多い。

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よく見ると「奉庚申供養」と刻まれている。造立年は宝暦12年(1762)1月とあり、「施主 大井村」と彫られている。立会川から北は下蛇窪村、上蛇窪村だが、南側一帯は江戸時代は大井村であった。広い村で立会川の河口(現在の旧東海道浜川橋)も大井村である。

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大正時代まではこの辺りは出石という小字で、関東大震災後に人口が増え大井原町となった。この庚申塔の少し東には水神社があり、そこには原の水神池という湧水がある。かつては農家の野菜洗い場で、武蔵野台地の末端のさらに端っこになり、ここに湧水があることが極めて興味深い。

場所  品川区西大井4丁目4-6

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2020年11月18日 (水)

東光寺の庚申塔(品川区二葉)

東光寺の南側には昭和の中頃まで立会川が流れていた。高度経済成長期に他の都内河川と同じように暗渠化されてしまった。かつての川の流れであった立会道路を辿っていくと、東京品川病院の南で流れが姿を現す。この辺りまでは潮が上がってくるようで、臭さの中に潮の臭いがする。そんな立会川も昔はのどかな風情の里に囲まれていた。天文3年(1534)に開山した天台宗の東光寺は寺としては川の傍という珍しいロケーション。村と共に生きるということだったのだろうか。

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山門をくぐると本堂までの間の左手に墓所がある。古い石仏を探して、いくつもの墓石を見ていたときにたまたま住職がやって来られた。尋ねてみると、気さくに記憶をたどり場所を教えてくださった。ごくたまに聞く人がいるそうだ。墓所の端のほうに品川区で二番目に古い庚申塔が立っていた(一番古いのは西五反田の徳蔵寺にあるもの)。

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笠付角柱型のこの庚申塔は下部に三猿が陽刻されているだけのもので、その上に在る文字は浅めの陰刻の為読み取ることがなかなか難しい。中央には「今比三界皆是我有▢▢▢▢」「武刕荏原郡戸越▢▢▢敬白」とある。造立年は寛文3年(1663)12月である。この庚申塔は昔は鬼門除け地蔵堂の前にあったという。

場所  品川区二葉1丁目14-16

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2020年11月17日 (火)

二葉の地蔵堂(品川区二葉)

品川区役所前から西に向かって走っている都道鮫洲大山線、大井町線下神明駅の前で複雑に分岐を繰返すが、実は古い道で江戸時代からある。地蔵堂がある場所は現在は交番と並んでいるが、昔は5方向へ分岐する辻だった。道に沿って用水が流れていたが、立会川の流れは南東に下った東光寺の先である。この辺りの小字を下蛇窪向井といった。

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立派な堂宇で中には地蔵菩薩像が4体ほど祀られている。手前にあるろうそくの台が邪魔で、拝むのにも写真を撮るのにも邪魔で仕方がなかった。地蔵4体とも文字がほとんど読めないので、資料を確認すると、後部中央の大きな地蔵が寛政4年(1792)3月造立の丸彫地蔵菩薩で、下蛇窪村の男女講が建立したもの。

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また、地蔵堂裏手にうち置かれている石塔があるが、どうもそれが宝永5年(1708)10月造立の駒型庚申塔らしい。「奉供養庚申石橋」とあるのはここを流れていた用水の橋なのか、あるいは東光寺先の立会川に架かる橋なのかは分からないが、どちらかだろう。この地蔵堂は東光寺の鬼門(北西)を守る鬼門除けの地蔵堂とのことで、二葉鬼門除け地蔵という呼び名があるらしい。

場所  品川区二葉2丁目1-12

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2020年11月16日 (月)

大原不動堂の石仏(品川区豊町)

東急大井町線戸越公園駅から戸越公園南口商店街を南へ300mほど進んだところに大原不動尊がある。駅の北側にある戸越公園は、江戸時代肥後国(熊本県)藩主細川家下屋敷で見事な庭園を築造していた。その回遊式庭園が現在にも残っている。

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堂宇に祀られているのは六十六部廻国供養塔で、かつて上蛇窪村から、池上、洗足、品川方面へ至る道の分岐点に建てられていたものを昭和38年(1963)にわずかに移動してここに祀ったという。現在の品川区二葉と豊町の一帯は江戸時代には蛇窪村という村だった。実際には細川屋敷側の下蛇窪村と南阿川の上蛇窪村に分かれていたようだ。当時は立会川の上流に当たり、雨が降ると災害になっていたのかもしれない。地名につく蛇と窪は昔の人々がその情報を地名に埋め込んだものである。

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回国供養塔の上には後に不動尊の本尊が載せられたようだが、元々の供養塔は下の角柱部分である。中央に「奉納大乗妙典六十六部廻国」、「国土安全 武州荏原郡品川領上蛇窪村惣道行中」とある。右面には「これより左 せんそくミち 志なかわミち」、左面には「これより右  いけかミ ミち」とある。造立年は享保17年(1732)10月。せんそくは洗足、志なかわは品川、いけかみは池上である。

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堂宇左には板碑型の庚申塔が並んでいる。手前は板碑型の庚申塔で、頂頭部が欠けている。陰刻で、日月、「奉貴待帝釈天王守処」とあり、下部に三猿が彫られている。三猿の脇には小さく7人の願主名が彫られていた。造立年は天和元年(1681)11月とある。

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その奥の庚申塔も同様の板碑型である。造立年は天和2年(1682)10月で、日月の下には「青面金剛守護所」と彫られている。これも下部には三猿が陽刻で彫られていて、同じように三猿脇に願主名がある。森谷姓が多い。

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堂宇の右側には笠付角柱型庚申塔がある。正面には「奉尊禮帝釈天王」と書かれ、その下に横ならびに「處鎮護」とあるが意味は分からない。台石には三猿が陽刻されている。造立年は元禄元年(1688)11月で、上蛇窪村の銘がある。庚申塔はすべて上蛇窪村の村民によって造立されたもので、元々の不動堂の左隣に並んでいたという。

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2020年11月15日 (日)

緑が丘の庚申塔(目黒区緑が丘)

緑が丘駅は東急大井町線の自由が丘と大岡山の間にある。呑川の河岸段丘低地にあるので鉄道は高架になっている。したがってここからは東の東京工業大学方面に向かって上り坂であるし、自由が丘に向かっても上り坂である。緑が丘という地名は昭和になってから付けられたもので、元々は東工大キャンパスの丘陵あたりを中丸山、呑川流域の低地を谷畑下と呼んでいた。

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緑が丘の庚申塔は民家の敷地内にある。もし拝見する場合は礼儀を払う必要がある。元々昭和の初め頃には、中根小学校の辺りにあったものらしく、ここからは650mほど北になる。道路工事で動かされた挙句、近年はこのお宅に2体の地蔵と共に引き取られ安置されている。目黒区のパンフレットにも無断立ち入りをしないようにと記されていた。

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右の駒型庚申塔は元禄9年(1696)11月の造立。日月、青面金剛像、三猿のシンプルな図柄である。「武州荏原之郡衾村之内谷端」とある。谷端は谷畑のこと。中央の地蔵菩薩は舟型のもので、左の地蔵菩薩は丸彫だが、どちらも造立年は分からない。この3基の石仏がここに来たのは、平成17年(2005)とつい最近の事だそうだ。

場所  目黒区緑が丘1丁目10-17

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2020年11月14日 (土)

奥沢神社の庚申塔(世田谷区奥沢)

室町時代、東国支配は鎌倉府によって行われ、鎌倉公方(くぼう)とか関東公方と呼ばれた。鎌倉公方の補佐役として置かれたのが関東管領で、上杉氏がその任にあたった。足利氏の流れをくむ上杉氏配下の吉良氏は、やがて戦国時代に入ると、関東武蔵国の国衆のひとつとして世田谷周辺を支配するようになった。その吉良氏の家臣大平氏が奥沢城(現在の九品仏浄真寺)を築いた時にその守護として勧請して創建した八幡神社が後に奥沢神社となった。

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そんな奥沢神社の境内を入ると本殿手前に銀杏の巨樹がある。その脇に角柱型の庚申塔が立っている。造立年は享保13年(1728)10月。細めの角柱で正面には「奉供養庚申之塔」とあり、左面には「これより右江九ほん仏道」、右面には「これより左江ぬまへ道」とある。ぬまへは沼部のことだろう。

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本殿奥左手には台石に載った地蔵菩薩坐像がある。造立年は享保20年(1735)11月で、「奉納地蔵尊女講中」とあることから、女念仏講によるもの。台石側面には「武刕荏原郡瀬田ヶ谷 奥沢村」の銘がある。

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地蔵の前に並んでいるのが2基の庚申塔と供養塔。右の駒型庚申塔は安永8年(1778)10月の造立。青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、左面には「奉造立庚申供養」、右面には「武州荏原郡世田ヶ谷領 奥沢村八幡前 拾人講中」とある。左側の庚申塔は同じく駒型で、享保3年(1718)8月の造立。8月は珍しい。日月、青面金剛像、二鶏、三猿が描かれており、青面金剛の頭部が蛇になっている。「武州荏原郡世田谷領奥沢村」の銘がある。

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入口に戻って鳥居脇の道標を兼ねた角柱型供養塔を見る。享保13年(1728)11月の造立で、正面上部に如意輪観音像、その下には「右 品川 ミち  左  めくろミち」とある。裏に回ると、「羽黒山、湯殿山、月山、奉納、秩父西国坂東 百番供養塔」「右 ふすまミち  左 九ほんぶつ道」と書かれている。左面には「武刕荏原郡世田ヶ谷領 奥沢沖ノ谷  願主 中山市左衛門」とあり、右面には「天明6年(1786)6月」の造立年と「当地奥沢本村」と彫られている。なかなか欲張りな供養塔である。

場所  世田谷区奥沢5丁目22-1

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2020年11月13日 (金)

小次兵衛窪庚申塔(板橋区成増)

国道254号川越街道は江戸と川越を結ぶ江戸時代からの街道。成増駅南を走るこの川越街道は「成増小学校入口」交差点を境に、川越側が小次兵衛久保坂、江戸側も上りの帳元の坂という地形で、この窪地の辺りは百々女木川(すずめきがわ)の源流にあたる谷である。最も標高の低いのは交番の隣の小次兵衛窪庚申塔の辺りになる。

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ここにある庚申塔は珍しい駒型角柱で高さが134㎝ある。青面金剛の座像の下に「奉建立」と彫られている。側面には「武刕豊嶋郡峡田領上赤塚村」の銘があり、造立年は天明3年(1783)2月とある。願主は並木万次郎、他12名の銘も彫られている。

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昔、ここに流れていた百々女木川に丸太橋が架かっていた。この地の悪者であった小次兵衛が罪滅ぼしにと言って安全な橋を架けたという言い伝えがあり、昔の地形と周辺の様子を思い起こさせてくれる庚申塔である。

場所  板橋区成増2丁目6-1

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2020年11月12日 (木)

ハラン堂の石仏(板橋区赤塚)

板橋区赤塚3丁目近辺の昔の小字名は「原」であった。江戸時代は上赤塚村原、南東にある六道の辻辺りから北側の地域にあたる。この辺りは赤塚台地上の広い平坦な地域で、上赤塚村と下赤塚村の村境にもなっていた。この原という地名が今も残るのが「ハラン堂」と呼ばれる墓所である。

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墓所に入ると中央にあるのが古い板碑型の庚申塔。造立年は元禄14年(1701)2月である。高さが93㎝ある大きなもので、中央に「奉納庚申供養二世安楽所」とあり、上部に日月、下部に蓮華、台石に三猿が彫られている。「武州豊嶋郡上赤塚村  施主 並木与左衛門」以下11名の銘がある。

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隣りにあるのは丸彫の地蔵菩薩像。こちらは明和6年(1769)2月の造立で、「武刕豊嶋郡上赤塚  施主 下田喜三郎」の銘がある。台石も含めると2mほどの高さがある。このハラン堂は正式には「原堂墓地」といい、ここから600mほど北にある寺院の管理となっている。

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ハラン堂から100mほど南に二塚供養塔という塚がある。古い墓塚らしい。室町時代に赤塚村で大きな戦いがあり、この場所に武者の亡骸や馬の死骸、弓や矢等の武器が打ち捨てられていたのを見た村人が二つの塚を作って弔った。現在はその片方のみが残っており、供養碑が建てられている。

場所  板橋区赤塚3丁目15-16

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2020年11月11日 (水)

動いた自然石の庚申(板橋区赤塚)

板橋区赤塚三丁目あたりの古い小字は「原」という。江戸時代の小字で、赤塚台地の原っぱだったことに由来するようだ。そんな原地域にあるヤクルト営業所の隣のアパート階段下にあった自然石の庚申塔がアパートの建て替えで消えてしまった。今回それを確認しようとし、ほぼ諦めていた時、アパートを壊して居宅にした庚申塔のあった場所の住人がたまたま出ていらしたので、思い切って聞いてみた。

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答えは極めてシンプルだった。「マンションの奥に移しましたよ」と案内され、正面の祠を拝んだ後その脇を見るとその自然石の庚申塔と不詳の石塔が移されていた。やはり護る人は代々守るものなのだろう。

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左の石塔についてはお聞きしようと思ったらもう家に帰られてしまい聞けずじまい。右の自然石庚申塔はもともとは大正時代まで新潟県にあったものらしい。造立年は不明。 青面中央に「庚申」とあり、脇に「南無天尊如来」「南無阿命空雲佛」とある。意味はよく分からない。しかし大切に守られているのが分かってホッとした。

場所  板橋区赤塚3丁目30-2

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2020年11月10日 (火)

三畝院墓所の石仏(板橋区赤塚)

野口の庚申様、ケヤキ株横の庚申塔と旧道を南西に歩いていくと100坪ほどの墓所が現れる。裏に回って入口を見つけたが、施錠されていて中に入ることはできない。仕方がないので、外から厳しい角度で撮影することになった。三畝院の由来については分からない。

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門扉の右方向に古い石仏が並んでいる。野ざらしなのでゼニゴケが凄い。5基あるうちの最奥は舟型の庚申塔で、日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄。造立年は享保3年(1718)1月で、「下赤塚村 上谷講中 十七人」とあるが、この上谷というのは上谷津のことである。隣りの駒型の庚申塔は、日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄。寛延3年(1750)12月の造立で、「下赤塚村 講中十七人」とある。真ん中の丸法地蔵尊は元禄7年(1694)の造立で、この地蔵には「武州下赤塚村 上谷津講中」とある。上谷津というのが野口に隣接したこの辺りの古い地名。

手前の小さな2基は左側が舟型の地蔵菩薩で安永5年(1776)10月の造立。資料によると「六道の辻」にあったとあるが、六道の辻は今も交差点名で都道長後赤塚線の六差路の交差点である。一番手前の石柱は「念仏講中」「武州豊嶋郡下赤塚村」の銘が読める。

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5基の石仏の奥にあるのが、聖観音像と庚申塔と思しき石塔。聖観音像は造立年は分からない。右の庚申塔と思われるものは、青面金剛像らしき影は残っているが、摩滅があまりに酷くて文字も読めない。資料によると下部に三猿があるようだが、ゼニゴケが凄くてわからなかった。脇には「下赤塚」の銘もあるらしいが見えず。

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門扉のすぐ後ろにある大きな石碑は明治11年(1878)11月に建てられた地蔵菩薩。薄い陰刻で描かれているので、はっきりとは見えない。ご先祖の供養塔として建てられたものらしく、「嘉永7年(1854)明見自性禅定門、弘化3年(1846)臨菓妙慶信女、享和元年(1801)玉泉珖禅定尼、明治11年(1878)一閑脱念禅定尼」と書かれている。順番がおかしいのは何故か分からない。

おそらく昔はここに上谷津の檀家が支える三畝院という小さな寺院があったのだろう。

場所  板橋区赤塚5丁目5-7

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2020年11月 9日 (月)

ケヤキ株横の庚申塔(板橋区赤塚)

赤塚の台地を東西に走る都道長後赤塚線はもともとあった鎌倉古道と交差する古い道筋に通された道路である。松月院の西200mの交差点から斜めに分岐する道がその道の名残りで、少し西に進むとケヤキの切り株の脇に庚申塔が立っている。ここには1本のケヤキがあったのを、理由は不明だが樹勢もあるのに2018年頃に伐採されてしまった。

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ケヤキとセットで景色を醸し出していたのに残念である。この庚申塔もこの道を行き来する人々の目印になっていたに違いなく、この辺りは野口集落の一部で、前述の野口の庚申様と講中は重複していたのかもしれない。

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角柱型の庚申塔の造立年は宝暦2年(1752)12月。彫られているのは文字だけで、「奉造立庚申供養塔爲二世安楽」と書かれている。願主は春日伊右衛門、講中八人とある。野口の庚申様周辺には多くの民家が江戸時代から集まっていたが、この辺りは民家もまばらだったようだ。民家が今のように立ち並ぶようになったのは1980年代だった。現在はこの辺りには図書館や支所、体育館などがあり地域の中心になっているが、昔は追剥(おいはぎ)が出てもおかしくない景色だったのだろう。

場所  板橋区赤塚5丁目8-3

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2020年11月 8日 (日)

下赤塚野口の庚申様(板橋区赤塚)

松月院の西、大堂の北の路地の一角に庚申堂がある。訪問時、ちょうど樹木の選定や清掃をされている方がいらしたので、少し話を伺うことが出来た。庚申塔の前を北から南に通る道は江戸時代からある古い道で、調べてみるとこれが鎌倉古道だということが分かった。だからこそ庚申堂がここにあるのだ。

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近くに500坪はありそうな山門のような玄関のお宅があったがあれは名主の旧家だろうか。聞きそびれた。管理をされていた方に聞くと、今でも回数は少なくなったが年に一回は庚申講の集まりをしているという。昔は年6回くらいやっていたらしい。しかし現在もしっかりと庚申講が生きている話には嬉しい限りだった。

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祀られている庚申塔は、宝暦13年(1763)1月の造立で、『下赤塚・野口の庚申様』と呼ばれている。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、右面には年紀の下に「下赤塚村野口」の銘がある。左面には「講中十八人」とあるので、割とこじんまりとした集まりだったのだろう。それが250年続いているのである。大切にしたい日本の民俗歴史である。

場所  板橋区赤塚5丁目14-9

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2020年11月 7日 (土)

松月院の石仏(2) (板橋区赤塚)

松月院の墓所を少しだけのぞく。とても広いので、どこに何があるか事前に確認しておけばよかったと後悔。まずは本堂脇にある一団に注目した。新しい水子地蔵の周りに時代を経た石仏が並んでいる。

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水子地蔵の左手にある丸彫の地蔵菩薩立像は元禄7年(1694)10月の造立。当時は地蔵講なり念仏講が盛んだったのだろうか。年紀の下には「結衆敬白」とある。

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水子地蔵の右側には大きな聖観音菩薩像がある。造立年は延宝8年(1680)1月。「松戸右衛門事  帰新宝参良悟禅定門霊位」とあるので、これは墓石のようである。しかしこの時代の石仏はクオリティが高い。

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足元を見るとゼニゴケに一面覆われた小さな舟型の地蔵菩薩があった。造立年は宝永5年(1708)11月。「船岸萬鐵音座」とあるが果たして何を意味しているのだろうか。

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墓所を横切って塀際にある千葉氏霊所を訪問した。時代の古い宝塔が並んでいる。左の大きな燈籠のような石塔は、六角に六地蔵が彫られたもので、重制六面幢というらしい。「奉書写大乗妙典全部一左一字納干地輪」とあるがこれも意味が分からない。造立年も不明であるが、千葉氏の墓所にあるので室町時代から戦国時代のものではないだろうか。

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最後は事務所の壁に祀られている文久元年(1861)6月造立の馬頭観世音菩薩。像高は55㎝と小さいが細かな彫刻が見事である。台の正面には「赤塚中」とあるが、もちろん赤塚中学ではない。江戸時代末期にしては質の高い馬頭観音である。

場所  板橋区赤塚8丁目4-9

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2020年11月 6日 (金)

松月院の石仏(1) (板橋区赤塚)

松月院は大きな寺院である。関東で勢力のあった千葉氏の中でも武蔵千葉氏の自胤(よりたね)が、延徳4年(1492)にこの寺を菩提寺とした。墓所には千葉氏のエリアがあるが、これは武蔵千葉氏のもの。千葉氏は宗家以外に、武蔵千葉氏、下総千葉氏、また分家には、西千葉氏、東千葉氏、九州千葉氏、千田氏がある。ここは宗家に近い武蔵千葉氏の菩提寺である。

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立派な山門だが、その山門の前にも参道があり、参道脇にはいくつかの大きな石仏が並んでいる。江戸時代は幕領であったので、徳川家の加護がありさらに力を持つようになった。

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参道の一番手前にあるのは昭和に入ってからの新しい丸彫の地蔵菩薩立像である。造立は昭和14年81939)10月。台石には「徳性院冨光済美大姉」とあるので、有力者の御母堂か何かの供養に寄進したものだろう。

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その先、山門手前にあるのは、左が享保9年(1724)8月造立の丸彫地蔵菩薩像。願主名については、いくつか名前があり、上赤塚村三十七人、徳丸村十一人、四〇村(おそらく四葉村)五人、下赤塚村四十一人、と書かれている。松月院が江戸時代如何に広い地域に影響を及ぼしていたかが分かる。

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境内に入り、本堂へはさらにもう一つ門をくぐる。そこ門の裏手に多くの墓石が並んでいるが、この聖観音立像(舟型)は目に留まった。造立年は宝暦4年(1754)3月。「静盛禅定門霊位」とある。この先は墓所に入っていくのだが、境内が広くてすべてをチェックできなかったのが残念である。

場所  板橋区赤塚8丁目4-9

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2020年11月 5日 (木)

松月院大堂の石仏(2) (板橋区赤塚)

松月院大堂の石仏の後半。石段が二つあるが、左の石段が大堂への参道、右の石段は八幡神社への参道である。大堂と境内を共有するこの八幡神社はかつての下赤塚村の鎮守のひとつで、創建年代不詳ながら大堂と時代は変わらず南北朝時代かそれ以前かと思われる。この境内は館城かと想像したが、どうも古墳説もあるようだ。

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石段脇の石仏群は並んだ3基の庚申塔の先には一段大きな丸彫の地蔵がある。この地蔵菩薩像の造立年は元禄6年(1693)2月。台石には、「為念仏供養平等利益下赤塚村」とある。この地蔵は通称「疣(いぼ)取りの唐辛子地蔵」と言われて信仰を集めたらしい。なぜ唐辛子なのかはわからない。隣りの舟型光背型の地蔵は、寛文4年(1664)3月と古いもの。一番左の小さな舟型地蔵菩薩像は時代が判らない。「葵天下赤塚村本願禅真諸衆敬」とあるので、幕府領だった時代のものかもしれない。

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その先、上段の石段下にある板碑型の大きな石塔は文字を読むと「奉造立庚申供養石塔現世安穏後生善處者也」とあり庚申塔である。年代は寛文4年(1664)仲春と古い。下部には蓮華が描かれており、優美さがある。上部は少し欠損しているが高さは132㎝もあり大きなものである。

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その先の階段脇両側には六面幢が対に立っている。六面幢そのものも多くないが対になっているのは極めて珍しい。造立年は延宝7年(1679)6月とある。「奉寄進阿弥陀堂 春日伊兵衛」とあるので、この時にはまだ大きな阿弥陀堂が立っていたのだろうか。

場所  板橋区赤塚6丁目40-3

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2020年11月 4日 (水)

松月院大堂の石仏(1) (板橋区赤塚)

板橋区赤塚にある松月院大堂(たいどう)は、鎌倉時代から南北朝時代の創建と思われる。大堂という呼び名については、昔ここにあった阿弥陀堂のことで、南北朝時代の建武延元年間(1334~1340)には七堂伽藍を供えた大寺院だったので、村人は大堂と呼んでいたという。永禄4年(1561)に長尾景虎(上杉謙信)が小田原の北条氏康を攻めた際に、堂宇は悉く焼き討ちに遭って焼失したらしい。

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現在も前谷津川の河岸段丘の斜面の上にあるが、江戸時代の文献にも階段を十四五段登るとあるので、同じような感じであったのだろう。この辺りは江戸時代には幕府の直轄地(天領)で、豊嶋郡峡田領下赤塚村に属していたという。大堂の南には前谷津川が流れていた。ある意味砦としても良い立地である。

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石段下にあるのが珍しい丸彫の庚申塔で、一見庚申塔とは気づかない。しかし地蔵などの石造でもなく、不思議な像形をしている。これが元塚地蔵尊のところで出てきた地蔵塚にあったという庚申塔である。造立年は嘉永2年(1849)11月。高さは台座を除いて87㎝、摩滅が激しく中折れもしているが補修してあり、日月、青面金剛像丸彫、大きめの邪鬼、中段台石にはかすかに三猿の跡が見られる。左側には「番匠免講中」とあり、この地名等については「番匠免の坂」で詳しく書いた。

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庚申塔の後ろには大きな地蔵がある。大きいと言っても台石が大きいのであって、地蔵座像はそれほどでもない。造立年は元治2年(1865)4月で明治維新の直前。近隣の多くの村の寄進で建てられたようである。

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左側の石段の右手に沢山の庚申塔や地蔵が並んでいる。手前の3基の庚申塔は見事なものである。右端は板碑型の庚申塔で、造立は宝永3年(1706)2月。この年の末に富士山の宝永火口大噴火が起こっている。正面には「奉造建庚申供養塔爲現世安穏後生無比楽」とあり、脇に「武州豊嶋郡下赤塚郷  講衆十五人」とある。中央の板碑型庚申塔は寛文2年(1662)2月と最も古い時代のもの。「仲春」とあるのは梅の咲くころのことのようだ。時代によっては2月ではなく3月という説もある。左の舟型庚申塔は元禄5年(1692)2月の造立。「武州豊嶋郡下赤塚村」の銘がある。

場所  板橋区赤塚6丁目40-3

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2020年11月 3日 (火)

増福寺の石仏(板橋区赤塚)

鎌倉古道の先に谷へと下る梶谷津の坂への道が接続している。この坂上にあった庚申塔がどうなったか調べに訪れたが、やはり消滅していた。近所のどこかに移設されていないか回ってみたが見つからなかった。この庚申塔については過去に「赤塚の消えた庚申塔」という題で書いた。仕方なくとぼとぼと200mほど北にある増福寺を尋ねた。

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門前には立派な堂宇があり地蔵が一体祀られている。この門前の地蔵は、正徳6年(1716)4月の造立で、台石正面には「武州豊嶋郡赤塚村」の銘がある。赤塚村には今でも本当に沢山の石仏が残っていて感心する。境内に入ってみると、本堂手前左に六地蔵と聖観音像、その横の塀際に巨大な板碑が立っていた。

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高さは208㎝、往年のジャイアント馬場と同じ。説明板によると、この板碑は「増福寺年不詳名号板碑」と名付けられているらしい。名前の通り造立年は不明だが、14世紀(1300年代)のものと言われる。この板碑は、江戸時代の『遊歴雑記』(十方庵敬順)という紀行文に、「下赤塚村一面了弁の名号石」という名で挿絵付きで紹介されているとある。下部の文字はその書物が書かれた文化12年(1815)時点で既に摩滅して年号が読めないとあるほど、言い換えれば歴史が古い。700年前のものだと思うと、つい手を合わせてしまう。

場所  板橋区赤塚7丁目14-5

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2020年11月 2日 (月)

元塚地蔵尊(板橋区赤塚)

鎌倉古道と赤塚中央通りの交差点から少し北上すると、路傍に立派な堂宇があり「元塚地蔵尊」という額が掲げられている。何の変哲もない新しい地蔵尊で、造立年は昭和50年(1975)11月ととても新しいものである。高さは90㎝程で、篠崎徳栄という名前が彫られているので、さぞかし信心深い方が建立されたのだと思った。

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ところが調べてみるとこの地蔵尊、なかなか奥が深い。この付近にはかつて地蔵塚という小山のような塚があったそうである。その塚には、元禄12年(1679)造立の地蔵尊と、嘉永2年(1849)に造立された庚申塔があったのだが、赤塚中央通りの工事に際して、塚は壊されてしまい、地蔵と庚申塔はそれぞれ松月院と松月院大堂に移されたというのである。

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松月院大堂に行ってみると果たしてこの庚申塔があったので驚いた次第。それについては大堂を紹介する折に説明したい。さて、施主の篠崎徳栄氏についてだが、資料によると、徳栄氏の父である信栄氏が事故に遭い、鞭打ち症で苦しんでいたところ、治療してくれた人から「お宅に地蔵がなかったか?その地蔵様が首がなくて困っている」と言われ、松月院に行ってみると地蔵の首が無くなっていたという。新たに首を修復すると病も回復したといい、その由来で新たに建てられた地蔵が今の地蔵のようだ。

場所  板橋区赤塚7丁目6-6

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2020年11月 1日 (日)

旧鎌倉古道の庚申塔(板橋区赤塚)

赤塚中央通りと急鎌倉古道が交差するところには現在はドラッグストアとビザ宅配店があり、南にタバコ屋が何とか営業している。ドラッグストアの前の植込みに、「旧鎌倉古道の碑」がひっそりと立っている。この交差点で赤塚中央通りを東に横切った先に変則の「逆Kの字」の辻があり、その一角に庚申塔が祀られている。

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塀の窪みに安置された駒型の庚申塔である。造立年は正徳3年(1713)2月で、日月、青面金剛像、三猿の図柄になっている。「供養塔  為現當二世安楽也」と右側に彫られ、左には「願主  春日八右衛門  同修二十四人」とある。資料によると昔は前述の交差点にあったものを、道路拡幅工事の際にこちらに移動したようである。

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その場所の鎌倉古道の碑には、左方向に「至 かまくら」、右方向に「至 はやせ」とある。このはやせというのは鎌倉街道を埼玉県方面に行ったところに「早瀬の渡し」があり、それを指している。現在は高速池袋線が荒川を渡る辺り、赤塚村と下笹目村枝郷の早瀬村を結んだ渡しであった。

場所  板橋区赤塚1丁目16-10

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2020年10月31日 (土)

篠ケ谷戸の庚申塔(板橋区赤塚)

下赤塚駅北口前の商店街を北西にずっと進むと200mほどで商店が集まった辻になり、その先は民家の路地になる。この最奥の商店の辻で商店街とクロスする道は、かつての鎌倉古道。そこからさらに100mほど進んだ次の辻に堂宇があり庚申塔が祀られている。

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こういう辻の角に小さな境内とも呼べる敷地を持った庚申塔の場合今でも庚申講が行われていることが多い。脇には道路整備の記念碑などもあり、おそらくここは今でも続いているのだろう。庚申塔は文化3年(1806)3月の造立で、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。右面には年紀と並んで「庚申供養二世安楽所」とある。

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左面には、「下赤塚村篠ケ谷戸  願主  篠崎藤兵  同  久治  三拾六人」と書かれている。篠ケ谷戸というのはこの辺りの大正時代以前の小字である。若干周辺よりも標高が低いが、ここは高島平で新河岸川に注ぐ前谷津川の源流。江戸時代から農業用水の役割を果たしてきたが、昭和30年(1955)頃には宅地開発が進んで、昭和59年(1984)には完全に暗渠化された。「谷戸」というのはこういう谷筋につけられる地名である。前谷津川源流周辺には竹やささが群生しており湿地帯を形成していたので、竹や笹の意味で「篠」とついたようだ。

場所  板橋区赤塚2丁目15-7

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2020年10月30日 (金)

成田山不動大教会の石仏(板橋区赤塚)

下赤塚駅から100m余り北東の路地に成田山不動大教会という寺院がある。真言宗智山派で、梶山不動尊の別名でも知られており、明治20年(1887)5月に建立、当初は赤塚大師堂と呼ばれたが、昭和17年(1942)に不動教会となり、昭和42年(1967)に現在の成田山不動大教会と名を変えている。

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この大教会には失礼ながら興味はないが、境内にある石仏を見に行った。この身代り不動尊と名付けられている丸彫の地蔵立像は文化9年(1812)3月の造立で、大教会よりもずっと古い。台座左に「梶山 願主 中田」と一部欠損しているがあるので、この地域の人によって造られたもの。元は赤塚2-3にあったというから、赤塚中央通りの西側になる。数十m移動したようだ。ただ、区の資料によると台座は移動の時に組み合わせたものとあるので、もしかしたら地蔵自体はもっと古いかもしれない。

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手前の堂宇にはきれいな聖観音立像が祀られていた。造立年は昭和27年(1952)5月と極めて新しいもの。台の正面には「平和観音」とある。戦没者慰霊のための平和観音とのこと。台座右の「講和発行記念」というのは前年のサンフランシスコ講和条約の事であろうか。戦後、ある意味で確実な平和が訪れたと感じられたのかもしれない。

場所  板橋区赤塚1丁目9-11

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2020年10月29日 (木)

赤塚一丁目中央通り庚申塔(板橋区赤塚)

駅前からわずかに赤塚中央通りを北上する。前述の梶山の庚申塔の先10mほどの交差点のはす向かいにあるのが、また別の庚申塔。駅前に複数の庚申塔が残る街は素晴らしいと思う。

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庚申塔は中央踊りから数m入ったバス通りに面して置かれている。ここでは「ファッションかとう」という昭和の雰囲気満載の洋服店があり、その店舗の花壇のなかに庚申塔が立っている。脇にある板碑型の石塔はいったい何なのかはわからないが、石の材は同じものを使っているので庚申塔と同時に造られたものだろう。

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駒型の庚申塔は、宝暦4年(1754)12月の造立。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿と全部盛りになっている。「講中二十三人」とあり、「願主  中田七右衛門」と書かれている。元からこの場所にあったのかどうかは不明だが、洋服店の裏で分岐する斜めの道は古くからある道で、梶山の集落はこれより北側に集まっていたから、その入口にある庚申塔と見ても良いかもしれない。

場所  板橋区赤塚1丁目9-8

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2020年10月28日 (水)

下赤塚駅前の角柱庚申塔(板橋区赤塚)

東武東上線下赤塚駅前の踏切は昭和の雰囲気の残る私鉄沿線の景色である。下赤塚駅の開業は昭和5年(1930)の12月。実は初期の現都内の東武東上線は池袋から下板橋、上板橋、成増という駅構成だったが、その次に出来たのが下赤塚駅。そして翌年に大山駅が開業している。実は下赤塚駅は古いのである。

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庚申塔は踏切から北へ30mほど。文具店のある雑居ビルの脇に隙間があり、そこに祀られている。一見武骨な感じの角柱型だが、地に根差した感じがしていい景色である。造立年は安政4年(1857)2月、幕末、明治維新のほぼ10年前である。

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正面には「庚申塔」という文字。脇に年紀がある。台石には梶山講中拾九人とほられている。梶山というのはこの辺りの昔の小字名で、赤塚村梶山というのが江戸時代から大正期までの地名であった。川越街道から北上して松月院へ至る道の脇にあった路傍の庚申塔がこうして今も商店街の一角にあるのは嬉しいことである。

場所  板橋区赤塚2丁目1-13

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2020年10月27日 (火)

北町の庚申塚(練馬区北町)

川越街道の地下を東京メトロ有楽町線と新都心線が走っている。地下鉄赤塚駅で地上に出ると、交通量の多い国道254号川越街道。地下鉄赤塚駅の4番出口を出るとすぐ都心側に小さな緑地帯があり、石塔が立っている。

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街道沿いでケヤキの木が並んでいて石塔石仏があるのは昔の風景が残っているわけで、ここは明治時代以前から川越街道と大泉村へ向かう道の分岐点だった。不動産屋ののぼり旗がいささか邪魔だが、植込み内に明治14年(1881)2月造立の自然石の庚申塔が立っている。正面には「庚申塚」とあり、裏面には年紀と田中兼吉の銘がある。また正面下部に「右 川こ江  左 ところ沢」という道標もあるところからここが昔から分岐点だったことがわかる。

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庚申塔ではなく庚申塚である理由は何だろうと考えてみた。古墳説などもあるが、街道筋にある一里塚のようなもので、元々は何らかの小山が造られていて分岐点の目印になっていたのではないだろうか。明治になって田中氏が庚申塔を立てるにあたり、街道の塚の影響を受けて庚申塚と名付けたのではないかと思う。

場所  練馬区北町8丁目37

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2020年10月26日 (月)

民家塀の庚申塔(板橋区志村)

清水坂上の富士大山道の道標と庚申塔の丁字路からさらに100mほど志村坂上方向に進むと、コインパーキングの手前の民家の塀が一部大きく凹んでおり、そこに庚申塔が祀られているのを目にする。

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勿論この道はかつての中山道、多くのお宅が現代的な家に変わってはいるが、昔の街道筋の家という認識があるのだろう。明治時代以前のこの辺りは中山道から小豆沢への道が分岐していたり、前野村への道や富士大山道が分岐していたりする交通の要所だった。だからこそ馬頭観音もあれば庚申塔も、路傍に祀られているのだろう。

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ここの庚申塔は駒型で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。「武州豊嶋郡志村」の銘がある。板橋区の資料では年銘は不詳とあるが、右面に「〇徳三〇」とあるので、江戸時代以降では正徳年間しかない。とすれば正徳3年(1713)ということになる。摩耗がかなりひどく、多くの文字は読み取れない。左面には「乞より・・・道」とあるので、道標の役割も果たしていたようである。

場所  板橋区志村2丁目3-5

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2020年10月25日 (日)

清水坂上の馬頭観音(板橋区志村)

旧中山道の清水坂は名坂のひとつ。江戸から板橋を過ぎると街道の最初の難所清水坂の下りに差し掛かる。志村の台地から荒川低地に下る急峻な坂道だった。ただ、途中カーブしている坂の中腹から遠く富士山が絶景だったと言われる。街道脇の大善寺は徳川吉宗(八代将軍でTVの暴れん坊将軍に描かれている)が鷹狩りの折の休憩場所にしたが、富士山の景色と美味な湧水に感心し、寺の本尊を清水薬師と命名、そこからこの坂の名前が清水坂となったと伝えられる。

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写真は清水坂の坂上だがこの先のカーブから急な下りが始まる。この坂上の石標の10mほど先の民家に目立たない馬頭観音がポツンと立っている。角柱型で正面には「馬頭観世音」とのみ彫られている。

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この馬頭観音は大正15年(1926)10月の建立。比較的新しいものである。脇には建立者市川直次郎の銘がある。この馬頭観音は市川家の飼馬の供養のために建てられたものだという。大正15年というとまだまだモータリゼーションは軍などが中心の時代で、民間の多くは馬を使っていた。それから百年、あっという間に都会から馬は殆どいなくなってしまった。

場所  板橋区志村2丁目7-16

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2020年10月24日 (土)

富士大山道の道標と庚申塔(板橋区志村)

旧中山道の清水坂の坂上には富士大山道の道標と庚申塔が立っている。この場所で中山道から分岐した富士大山道は、中台を経て富士街道に繋がっていたようだが、実際はどのルートで埼玉方面の信者講中が歩いたのかは知らない。

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右の大きな角柱が庚申塔、左の細い方が道標である。古さから言うと道標の方がかなり古い。寛政4年(1792)の造立である。「是より大山道 幷(ならびに)ねりま川こへ(川越)みち」と書かれている。ということは中台を通って川越街道に出合い、その先で富士街道に入ったのだろうか。

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右の角柱型庚申塔は、万延元年(1860)9月の造立。上部に日月、正面に「庚申塔」の大きな文字があり、台石に三猿があるようだが埋まっていた。「武州豊嶋郡志村  是より  富士山 大山道」の銘がある。また、「練馬江一里  柳沢江四里  府中江七里」とある。朝、ここを立つと府中には夕方着く計算になる。今は志村坂上から府中は電車でほぼ1時間である。

場所  板橋区志村2丁目7-1

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2020年10月23日 (金)

延命寺地蔵堂の石仏庚申(板橋区志村)

延命寺から北へ200mほど行ったところに境外墓所のある延命寺地蔵堂がある。今でこそ路地裏だが、関東大震災以前は川越街道の清水坂上に広がる街道沿いの墓所だった。江戸時代から明治にかけての地図を見ても延命寺は延命寺の場所、地蔵堂は地蔵堂の場所にあるので、江戸時代からこの位置関係だったようだ。

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判りにくい路地裏の入口を入ると左に2基の庚申塔が立っていた。植込みの間にあるので油断すると見逃してしまいそうである。左は板碑型の庚申塔で、延享4年(1747)2月の造立。「奉供養庚申待二世安楽」と中央に書かれ、その脇に「武州豊嶋郡堀ノ内村」とある。堀之内というとこの辺りではなじみが薄いが、明治22年に町村制が布かれた時に、王子村になったのが、豊島村、上十条村、下十条村、舟形村、堀之内村だった。現在でいうと北区堀船あたりになる。

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なぜ何キロも離れた堀之内村の庚申塔がここにあるかは不明。板碑型だが下部には三猿が彫られている。一方右の駒型庚申塔は、宝暦元年(1751)11月のもの。日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄で、右面には「武刕豊嶋郡志村 庚申講中」とあるように、地元のものである。この2基の庚申塔は以前は近所の路傍にあったものだが、2016年に墓所内に移された。

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地蔵堂脇にはずらりと石仏が並べられている。様々な尊像の石仏があり、ここで一つ一つ紹介はしないが、ゆっくりじっくり見ていくと面白い。残念ながら六地蔵の頭部が殆ど欠損しており、代わりに石が載せてある。舟型の六地蔵は安政から文久にかけて(1860ころ)のもので、墓所内その他数多くの石仏があり、江戸時代初期から後期まで実に多くのものがある。

場所  板橋区志村2丁目5-9

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2020年10月22日 (木)

延命寺の石仏と板碑群(板橋区志村)

志村にある延命寺は、1524年戦国時代前期、小田原北条氏と扇谷上杉氏がこの地で戦った際に、志村城の落城や自分の子供の討死などで無常を想った見次権兵衛が自分の館を寺にしたのが始まりと言われる。江戸時代には徳川吉宗が鷹狩りの際に休憩所として使った。

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山門が小さな桝形になっているのはたまたまなのか武士の館だったからなのかはわからないが、普通の寺院とは異なっていた。山門の中に入ると左に六地蔵が並んでいる。天明4年(1784)~寛政3年(1791)に造られた地蔵が並ぶ。反対の右に回り込むとそこには大量の板碑が並べられていた。

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創建以前の板碑が多数あり、昭和61年に文化財登録された14基に加えて平成27年に7基を追加登録し、計21枚の板碑がある。板碑の詳細については、ここでは省略するが、建長4年(1252)、康永2年(1343)、貞和3年(1347)という古いものから永正13年(1516)までの紀年の板碑で、板碑の造立が盛んとなる14世紀初めから15世紀にかけてのものがまとまっている点で、極めて高い価値がある。それぞれは城山城址や天神前で明治以降に発掘されたものなどが多い。

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本堂手前の堂宇には珍しい像形の石仏、「蛸薬師」として信仰をあつめた正保4年(1647)2月の庚申塔がある。舟形光背型で中央の尊像は薬師如来坐像、右側には「庚申待」と書かれている。この庚申塔は、皮膚に出来るイボとりに効験があると信じられて信仰されてきたが、実は板橋区内最古の庚申石仏とされている。

場所  板橋区志村1丁目21-22

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2020年10月21日 (水)

西熊野神社の庚申塔(板橋区前野町)

もうひとつの熊野神社、西熊野神社は何となく違和感があった。というのも以前は階段を数段登って境内だったのに、盛土を削られ道路面からそのまま水平に鳥居をくぐるようになっていた。神社の場合、この最初の階段はとても重要で、いわゆる結界のようなものだといつも感じているので違和感になったのだろう。バリアフリーなのかもしれないが、私は賛成できない。

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こちらの熊野神社の創建年代は不詳。伝えるところでは志村城山の熊野神社の分祀らしい。少なくとも江戸時代初期にはあったようだ。鳥居をくぐり本殿にお参りをしてから、右手に回り込むと三基の庚申塔がある。

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左端は舟型の庚申塔で元禄11年(1698)11月の造立。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、正面向かって右に「〇供養庚申待二世安楽所結衆」とある。中央の駒型庚申塔は享保18年(1733)の造立で、日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が描かれている。左面や背面には願主名が多数彫られている。右端はかなり摩滅が進んでいるが、天保7年(1836)4月造立の庚申塔。おそらくは日月、青面金剛像、三猿の図柄である。この風化した庚申塔はもともと前野5丁目48にあったというから、首都高速の志村PAを作った時にそこから移設されたものだろう。

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本堂の反対側(西側)に回り込むとブロックで造られた頑丈な堂宇があり、その中には不動明王像が祀られていた。造立年やその他詳細は不明である。不動明王像には独尊として扱われることが多く、像形としては不動明王一尊のものと、二童子を脇侍とするものとがある。これは後者の中でもひとつの石に三尊を刻むケースである。

場所  板橋区前野町5丁目35-1

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2020年10月20日 (火)

常楽院の石仏(板橋区前野町)

常楽院は真言宗豊山派の寺院。開山は正保・慶安年間(1644~1652)とされる。墓所には古い板碑があるようだが、今回は拝観できなかった。正式名称は熊野さん常楽院法界寺というが、常楽院で通っている。境内は弥生時代の前野町遺跡の場所で弥生時代の集落跡らしい。弥生時代末期から古墳時代にかけての土師器が出土している。

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門前には左右に多数の石仏が並べられている。向かって右側は石仏で、左側のほとんどが墓石の石仏。全体で数十基はあるだろう。こうして並べてみると壮観である。

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右の端にあるのが舟型光背型の如意輪観世音菩薩像。延宝7年(1679)造立で、光背に「延宝七己未年三月廿三日  集菩提也」と彫られている。

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もう一つの如意輪観世音菩薩はいささかスリムな雰囲気がある舟型光背型の石仏。造立年は享保2年(1717)で、こちらは「享保二酉大正月廿七日  智清信女霊位」とあるのでもともとは墓石だろう。

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上の写真の右側は舟形光背型の阿弥陀如来立像。造立年は貞享元年(1684)9月で、「道法禅定門施主…」とある。もうひとつは地蔵菩薩が二つ並んで彫られているもので、こちらは明和8年(1771)10月の造立。「智禅妙宗信女  施主 村田忠左衛門妻宥戒尼」とあるのでこれも墓石だろうか。

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最後は珍しい笠をかぶった傘地蔵。分類としては笠懸地蔵らしい。台石の正面には「三界万霊」とある。造立年は安永5年(1776)2月。別名「延命鶴亀地蔵」とも呼ばれるようだが、由来や詳細は不明である。

江戸時代の墓石にはいろいろな造形があって実に面白い。尊像もさまざまで、「二世安楽」という言葉に至ってはこの世もあの世も良い生活がしたいという江戸時代の人々の豊かな生活の中での願いが想像できる。食べるのに必死であればこんな石仏を造立して願を掛けるなどはしない。もしかしたら現代よりもずっと人々は幸福に生きていた可能性が高いのではないだろうか。

場所  板橋区前野町4丁目20-8

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2020年10月19日 (月)

東熊野神社の庚申塔(板橋区前野町)

板橋区前野町(かつての前野村)には二つの熊野神社がある。東の熊野神社は前野村の鎮守だったというが、西の熊野神社も同様に鎮守だったとある。二つの神社が相対していたのか、深いつながりがあるのかについては分からない。創建は不詳だが、おそらくは江戸時代の初め頃に和歌山の熊野那智大社から勧請されて出来たものである。

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本殿手前の西側には5基の庚申塔が並んでいる。どれも駒型の庚申塔で、江戸時代中期のもの。庚申講の全盛時代にあたる。それでも青面金剛像のひとつひとつが微妙に異なり、どれもなかなか個性があるのが興味深い。

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一番左の庚申塔は日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で、青面金剛は右胸の前に上に向けて剣を立てて持つ。右肩脇には三叉鉾を建てている。面白いのは邪鬼の様子で、オヤジが寝っ転がって肘を立てているような姿である。青面金剛に踏みつけられて「しょうがねえなぁ」といった様相になっている。造立年は天明3年(1783)2月とあり、左側側面には「左ハ 志むらぐち」と道案内が入っている。

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左から二番目は少し黒い石質で青面金剛像のみの造形。三叉鉾は十字槍になっているが、江戸時代初中期の十字を見ると隠れキリシタンかと想像してしまうが、これは違うだろう。造立年は安永8年(1779)1月、右面には「南ハ  右ハ  江戸道  ぞう志やかいどう川越道  川口ぜんかうし」とある。位置的には北西に向かえば川越、盗難に向かえば江戸になる。

右の庚申塔も十字槍である。青面金剛像の上下には日月、邪鬼、三猿が描かれている。造立年は安永2年(1773)8月。右面には「従是戸田道」とある。隣の庚申塔とはもともと立っていた場所が異なるのだろう。

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右端の二基の左側は上部が若干欠損している。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。右側面に年紀があるのだが、「享保〇〇〇十一月…」とあり年数が読めない。享保年間は1716年~1735年と長いので欠損が残念である。右端は、元文2年(1737)11月造立の庚申塔で、日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が描かれている。「前野村講中九人」の銘がある。

場所  板橋区前野町3丁目38-3

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2020年10月18日 (日)

長徳寺の石仏(2) (板橋区大原町)

門脇に興味深い庚申塔や馬頭観音が並んでいたが、本堂前には大型の石仏石塔がいくつも並んでいる。そのうちからいくつかを紹介したい。

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まずは珍しい形の地蔵菩薩坐像。台石と地蔵菩薩はもともとは別のものだったようだ。地蔵菩薩自体の造立年は文政8年(1825)7月。しかし、台石にある造立年とは別に地蔵の後ろに「昭和34年…吉田金三郎 蓮根村石工 野崎辨蔵」とあるのでややこしい。台石の方は「文政8年 武州豊嶋郡前埜村 施主 吉田浄善」とある。この地蔵菩薩が再建モノという可能性は高いが、台石によると月山秩父西国四国八十八所供養とあるので、またまた分からなくなった。

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この並びの石仏は珍しいものが多い。上の写真の石仏は弁財天である。造立年は文化2年(1805)3月。「當村 長徳寺住大道代」とあるのでこの寺にて造立されたものである。

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そしてこちらは大日如来像。とはいえ御本尊ではない。しかし古いもので、造立は寛文11年(1671)。光背には「奉造立大日尊像  天下泰平国土安全  大日▢▢一起 」とある。

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最後に二基、左の光背型の地蔵菩薩立像は宝永6年(1709)7月の造立。尊像は地蔵ではなく釈迦如来である。「稲付村」の銘がある。右の一基は丸彫地蔵菩薩立像である。こちらの造立は享保7年(1722)3月である。

場所  板橋区大原町40-7

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2020年10月17日 (土)

長徳寺の石仏(1) (板橋区大原町)

長徳寺を訪問したのは久しぶりだった。以前門前の「長徳寺の坂」の時に訪問して以来である。長徳寺は大日如来で知られており、明治42年(1909)測量の国土地理院の地図には「大日堂」の名で記されている。寺の南側には東西に首都高速5号池袋線が走るが、この道筋は昔、出井川という新河岸川へ注ぐ支流が流れていた。見次公園の池も出井川の水源のひとつで湧水によって水を湛えている。

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山門をくぐると右手の茂み沿いに石仏が並んでいる。本堂側にもあるが、まずはこちらの石仏群を見てみる。台石に「前野村講中」と大きく書かれたこの石仏は馬頭観世音菩薩。造立年は天保11年(1840)12月。馬頭観音で講中というのは珍しいが、世話人は8人ほどいたようである。

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茂みの奥に何かあると覗いてみると、2基の石塔があった。大きい方は文化5年(1808)の馬頭観世音菩薩。「武州入間郡下安杦(スギ)村」という銘と、「武州豊嶋郡前野村」の銘があるが、下安杦村というのは武蔵の国近辺にもない。左面には「是より 大日道 祢里まみち」とあるので、この長命寺への道標だろうか。小さい方は大正15年(1926)2月造立の馬頭観音。大正8年に蛭間金蔵が建てたものを、昼間丑五郎が再建したもののようである。

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左は「善光寺如来」と書かれているが詳細不明。右は舟型の庚申塔である。造立年は宝永7年(1710)。日月、青面金剛像(馬頭)、二鶏、三猿が描かれている。脇には「奉造立馬頭明王庚申講中」とある。台石には蓮が描かれており、庚申塔全盛期のもの。

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またまた茂みの後ろに庚申塔らしきものが見えたので、覗いてみると天明2年(1782)8月造立の舟型庚申塔。図柄は青面金剛像と三猿のみの組み合わせ。尊顔上部と塔そのもの上部の欠損が残念である。

場所  板橋区大原町40-7

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2020年10月16日 (金)

大原町路傍の庚申塔(板橋区大原町)

都営三田線本蓮沼駅から400mほど北東にある交差点で国道17号線中山道と交差する道は古くからある道である。南の角には現在はセブンイレブンがある。この道は荒川沿いの岩淵から赤羽を通り、ここ本蓮沼を経て川越街道の下頭橋に出る。今はなんということのない交差点だが、江戸時代から明治初期にかけては、東が小豆沢村、北が志村、西が前野村、南が本蓮沼村と、4村の村境の辻であった。

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そこからセブンイレブンの横を少し入ると、はるか以前に閉店してしまった商店らしき木造家屋の前に角柱型のいかつい庚申塔が立っている。造立年は文久3年(1863)12月だから明治維新直前である。正面には大きく「庚申塔」の文字が彫られ、上部に日月が描かれ、台石には大きく三猿が彫られている。

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向かって右面には「富士大山  新井薬師 道」とあり、岩淵を経てここを通り、富士街道に抜けて富士山詣でや大山詣でをしたのだろう。向かって左面には、「武州豊嶋郡蓮沼村」の銘がある。文明開化期には蓮沼村は本蓮沼村だったはずなのだが、もう少し前の江戸時代の地図だとこのあたりは蓮沼村、志村、前野村、小豆沢村が複雑に接している。江戸末期に蓮沼村から本蓮沼村に変わったのだろう。

場所  板橋区大原町11-13

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2020年10月15日 (木)

南蔵院の石仏(2) (板橋区蓮沼町)

南蔵院の石仏の後半。南蔵院には沢山の石仏石碑がありとても紹介しきれないので、ここでは供養塔は出羽三山のもののみで、あとは庚申と主たる地蔵の紹介にしたい。しかし移転した寺院にこれだけ多くの石仏が集まるのも大したものだと思う。

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最初に出羽三山の石仏。左から羽黒山供養塔の聖観音菩薩像、右が月山供養塔の阿弥陀如来像、中央は月山、湯殿山、羽黒山の三山を祀る大日如来像。中央の三山供養塔は安永7年(1777)で「武刕豊嶋郡蓮沼村」の銘がある。右の月山阿弥陀如来は文化元年(1804)の造立で、左の羽黒山聖観音菩薩も文化元年(1804)、いずれも蓮沼村で建てられたものである。

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上の写真は唐破風笠付の庚申塔。側面には蓮葉が見事に描かれているが正面には文字ばかり。「奉供養庚申待結衆二世祈所」とあり、上部に「覚賢寺」「玉光寺」とある。上部に日月は描かれており、「武州蓮沼村結衆合廿四人敬白」とある。三猿が描かれているのは台石正面である。造立年は寛文11年(1671)2月でかなり初期のもの。

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その後ろにある唐破風笠付角柱型の庚申塔は青面金剛像の陽刻に三猿というデザイン。「奉供養庚申二世安楽所」とある。造立年は延宝8年(1680)9月とこれも古いもの。下部には「武州蓮沼村」とある。

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その手前には自然石の庚申塔がある。造立年は嘉永3年(1850)12月。上部には日月も描かれている。台石に三猿が彫られており、左右に「村内安全」「当所講中 世話人 拾五人」とある。

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石仏群から本堂側に目を移すと、そこには地蔵堂がある。その中に祀られているのは、俗称「はいた地蔵」と呼ばれる地蔵尊。造立年は正徳4年(1714)2月で、台石には「三界万霊」そして「蓮沼村」と書かれている。体の病気に関する地蔵はあちこちにあるが、歯痛はあまり見かけない。珍しいものだと思う。

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本堂手前にある大きな地蔵尊は実は庚申地蔵。造立年は承応2年(1653)で、この時代はまだ念仏講、地蔵講、庚申講、日待講などがはっきりと分かれていなかったようだ。地蔵の背面には「奉造立石地蔵一尊庚申待悉地成就拾人」とあり、武刕蓮沼郷の銘がある。

寺院にある庚申塔などは周辺から移設されたものが多いが、ここの石仏は大半が南蔵院に因むもので、これこそが村ごと移転してきた結果ではないかと考える。

場所  板橋区蓮沼町48-8

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2020年10月14日 (水)

南蔵院の石仏(1) (板橋区蓮沼町)

江戸時代の記録によると、蓮沼氷川神社と南蔵院は蓮沼町と共に今の地域に移転してきたという。当初は荒川低地(現在の坂下・東坂下)にあった村が、度重なる荒川の洪水によって住処を追われ台地の上のこの地に移ってきたのは享保年間(1716~1736)かそれ以前と言われている。村には道生沼などの沼が点在する低湿地だったので、移転はやむを得なかったのだろう。江戸時代の移転は幕府の許可なども必要で、相当な重荷を背負ったに違いない。

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山門をくぐるとすぐ左手に笠付角柱型の大きな庚申塔がある。造立年は正徳3年(1713)3月。時代的には移転前から移転後か微妙なところである。尊像は青面金剛像のみで、左右や台石には細かい文字がたくさん書かれている。正面には「武州豊嶋郡蓮沼村庚申講施主」、背面には「供養導師南蔵院住法印」とある。元の場所は東坂下2丁目2だというから、旧中山道沿いにあったのだろう。つまり村の移転前のものということになる。

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その奥にある白っぽい石材の角柱は馬頭観音。馬の顔の出っ張りが絶妙である。造立年は新しく、昭和18年(1943)3月とある。果たして昭和3年頃、牛馬の輸送が行われていたのかとは思うが、都営三田線は東京オリンピックよりも遅い1968年の開通だから、戦前はまだ牛馬輸送があったのだろう。

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笠付角柱型庚申塔と馬頭観音の間に縁がいささかボロボロになった石仏があったが、板橋区の資料を見るとと庚申塔である。造立年は不詳。舟型で高さは49㎝。しかし頭の上には馬頭があり、おそらくは馬頭観音である。「蓮沼村  高山忠右衛門  同 忠兵衛」の銘がある。

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山門くぐって右手には沢山の石仏石塔が並んでいる。六地蔵もあるし、三地蔵なのに六地蔵とされている像群もある。その中に写真の石仏があった。造立年は寛文2年(1662)8月とかなり古い。尊像は大日如来である。縁沿いに「武州豊嶋郡蓮沼村  念佛本願結衆都合廿二人」とかかれている。念仏講によるものだろうか。

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その日大にある低めだがごっつい角柱型文字塔の庚申塔は文化9年(1812)2月の造立。日月に文字で「庚申塔」という図柄、左面に「武刕豊嶋郡蓮沼村中  世話人 九人」とある。

享保年間移転説が強いのは、その時期に壊滅的な被害を与えた荒川洪水があったからのようで、それでも人々はたくましく移転して村を築き上げているバイタリティには脱帽である。

場所  板橋区蓮沼町48-8

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