2019年7月22日 (月)

谷沢川中の橋ほとりの庚申塔(世田谷区中町)

東急大井町線の上野毛駅の東側が世田谷区中町。区立玉川小学校の裏手にある中の橋のほとりに庚申塔が堂宇に守られて祀られている。30年ほど昔、上野毛に住んでいたことがある。知人のアパートがこの庚申塔の川を挟んだ向かいにあった。この川は谷沢川という。有名な等々力渓谷の上流である。

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当時この堂宇があったかどうか全く記憶にない。でもきっとあったのだろう。当時は私も30歳になるかならないかの年齢だから、庚申塔などには目もくれなかった。しかし橋はよく覚えている。落下防止?の網が張られた以外は当時と変わっていない。

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庚申塔そのものは風化が進みすぎて、影として青面金剛像と三猿があっただろうなと見られるくらいで、あとは舟型だろうなと判断するのが精一杯である。造立年は不明。

中町は昔は野良田村と呼ばれた農村。野良田を潤した谷沢川は大昔は呑川の支流である九品仏川の上流だったが、等々力渓谷の源頭の湧水による谷頭侵食によって河川争奪が起き、途中から流れが変わったという説が有名な川である。別説で人工的に等々力渓谷に流したという説もある。どちらも決定的証拠が出ていないので今後も論争が続くだろう。

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中の橋の上流に姫の橋という橋があり、その橋から堰堤が見える。実はこれは堰堤ではない。昔は姫の滝という滝だったのである。地元の人はシメン滝と呼んでいた。滝の高さは5m近くあったという。滝壺は池のようになっていて、幅30m、長さ50mもあったらしい。ところが昭和13年(1938)の水害で滝が崩落してしまったのである。世田谷にそれだけの滝があったというのは魅力的な話だと思う。

場所  世田谷区中町2丁目36-11

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2019年7月21日 (日)

等々力三丁目の庚申塔(世田谷区等々力)

東急大井町線等々力駅の改札を出て右の線路を越え、右に曲がってすぐその先を左に曲がる。そのまま進むとなぜか民家の前に立派なサワラ(ヒノキかもしれない)の樹がある。その下にお堂があり、庚申塔が祀られている。

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久しく守られてきたのだろう。樹木もここまで育つには100年ばかりかかりそうだ。ヒノキとサワラを樹皮で見分けるのは至難の業、葉を観ればサワラの方が先が尖っているのでわかるのだが、とても確認できない高さだった。しかしこの樹木と堂宇の組み合わせはいい。なんだかとても落ち着く。

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堂宇の中の庚申塔は割れかかっていた。板状駒型で、青面金剛像に三猿のデザイン。 造立年は左側に文政4年(1821)とある。等々力村は多摩川の移動により時代によって面積が違ってきた。川崎市にある等々力スタジアムはその名残である。北は深沢村に接し南北に長い村だった。多摩川の両岸をもつ等々力村には等々力の渡しもあった。実は徳川家康は慶長5年(1600)に多摩川に六郷大橋を架けることを命じて立派な橋が出来上がったが、貞享5年(1688)の多摩川の洪水で流されてからは多摩川は渡しで越えるしかない川になった。

場所  世田谷区等々力3丁目10-17

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2019年7月20日 (土)

浄真寺の石仏石塔の一部(世田谷区奥沢)

九品仏浄真寺には数多くの野仏が移されて保存されている。その一つ一つを調べるのは気の遠くなるような作業なので、一部のみ取り上げておきたい。総門を入りすぐ右側のエリアに沢山の聖観音像や六地蔵があるが、その先参道の折れ曲がるところにひときわ大きな十夜塔がある。

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城の石垣のような土台に乗っているのは虚空蔵菩薩像である。奥沢村にも多くの講中があったことは伝えられている。十夜講というのは集まって念仏を唱える行事で、特定の月齢の日に当番の家に集い、飲食・会話を楽しむ懇親的なもので、その夜の月の出を待つというもの。二十三夜塔(廿三夜塔)が多いが、十六夜などもある。十夜塔は珍しい。虚空蔵菩薩像の土台に文政4年(1821)とあるのが造立年だろうか、まだ十分に調べ切れていない。

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その先山門手前右手の三十三間堂周辺にもたくさんの石仏があり、上の写真はそのごく一部である。これらを一つずつ調べるのはもう学術的な領域に入るので立ち入らない方がいいかもしれない。多くは墓石として造立されたものだろうが、江戸時代の世田谷領の農民の信心深さが伝わってくる。

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その三十三間堂前に新しいものがひとつ目についた。昭和5年造立の馬頭観音塔である。こういう新しめのものもちゃんと保存してあるところが素晴らしい。

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ところで前述した九品仏の9体の阿弥陀如来像だが、そのうちの一部が上の写真である。これは上品(じょうぼん)・中品(ちゅうぼん)・下品(げぼん)とあるうちの下品堂に納められている3体である。既に修復が終わった阿弥陀如来像が上品・中品にあったがその黄金の輝きは素晴らしいものであった。写真では表現できないのであえてここでは未修復のものを取り上げた。

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余談だが、九品仏浄真寺周辺にはこの「禁銃猟 警視庁」という明治期に立てた石塔がいくつもある。これは浄心寺の周辺及び寺域で野鳥を討つなどの折衝を禁じたものだが、当時はまさに野山の風景だったらしく、普通に猟師が鉄砲で獲物を捕らえていたようだ。今では想像もできない風景である。

場所  世田谷区奥沢7丁目41-3

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2019年7月19日 (金)

浄真寺山門脇の庚申塔(世田谷区奥沢)

九品仏浄真寺の総門をくぐると、左に閻魔堂(再建中)、右に多数の石仏群があり、その先で西に参道が折れ曲がる。すると眼前に巨大な山門が現れ、左右一対の仁王が門を守っている。この仁王門の建立は寛政5年(1793)で東京都内でこれほどの仁王門を持つ寺はそう多くない。加えて浄真寺は京都の古刹に勝るとも劣らない雰囲気を持っている。

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その仁王門(山門)の北側(右手)に4基の庚申塔が並んでいる。どれも保存状態の素晴らしいもの。江戸時代の奥沢村にはたくさんの地蔵や庚申塔があったという。大部分は昭和初期の大規模な耕地整理で無くなってしまったようだが、道端や辻にあったものは近隣の寺社に移設されたという。浄真寺に移設されたものが最も多いと言われる。

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一番左の庚申塔は、青面金剛像に三猿、元禄3年(1690)の造立である。板状駒型のこの庚申塔は以前は等々力6丁目24-18にあったもので、民家の建替えにより浄真寺に移された。この庚申塔だけでなく、左から3基目までが同じ場所にあったものである。

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左から二番目の庚申塔は青面金剛、邪鬼、三猿がきれいに描かれている板状駒型。造立は享保4年(1719)、等々力村の銘があり、8人の願主の名前がある。高さは112㎝あるが、この庚申塔だけでなく4基ともが高さ1mを超えている大きなものだ。

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左から3番目は、同じく板状駒型で青面金剛と三猿、造立年は元禄17年(1704)である。ここの庚申塔は1690年から1721年という造立で、実は山門よりも相当古い。後からここに設置されたにもかかわらず、寺域の中では一級の場所を与えられているのはその時代の古さからであろうか。

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一番右は違う場所から移されたものらしい。世田谷区の庚申塔の資料にも載っていなかった。 造立年は享保6年(1721)とこの中では最も新しい。新しいと言っても都内の庚申塔の中ではかなり古い部類に入る。青面金剛、邪鬼、三猿が彫られており、「奉青面金剛講中…奥沢村」とある。「武州荏原郡世田谷領」という文字もあるので、奥沢村のものである。

明治の廃仏毀釈で随分とぞんざいな扱いを受けた石仏たちは、昭和の初期まで打ち捨てられるようなことが多かったというが、今になって民俗の貴重な資料と証拠としての価値が問われており、綿々と守られていれば日本の文化財はもっと世界に冠たるものになったのではないかと思う。

場所  世田谷区奥沢7丁目41-3

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2019年7月18日 (木)

浄真寺参道の石仏(2)(世田谷区奥沢)

浄真寺参道に並ぶ8基の石仏の後半。左から5番目(右から4番目)は典型的な庚申塔。かなり古そうな板状駒型の庚申塔で、青面金剛像に三猿が彫られている。造立年は寛文12年(1672)と比較的初期の庚申塔。その30年ほど前に鎖国となり、20年後には元禄文化の華が咲いた時代である。

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庚申供養 武刕荏原郡 世田谷奥沢村の銘がある。江戸時代初期は等々力村と奥沢村の間、現在の目黒通りの南側一帯は未開発地であった。その地域を江戸時代中期にかけて開発し奥沢新田と呼んだ。元禄時代前後のことである。九品仏浄真寺が徳川家の加護により開かれたのは延宝6年(1678)であるから、この庚申塔はそれ以前のもの。こういう古いものに出合うと感心する。

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右隣にあるのは善光寺講の供養塔である。側面に掘られた造立年が肝心の年数のところが欠損していて特定できない。年号についてははっきりと明和と読めるので、時代的には1764~1772年の間のものである。その隣(右から2番目)もまた善光寺講の供養塔。

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唐破風の笠付の角柱だが、こちらは文化11年(1814)と読める。善光寺講というのは江戸時代中期から後期にかけて庶民の間に流行した代参講のひとつ。特定の神社仏閣に参拝する為に講を作り、協力し合ってお参りの旅をした。善光寺講は当然長野の善光寺である。他には伊勢講、金毘羅講、高野講、秋葉講などがあった。江戸時代後半になると、代参講はほとんど町内会の懇親旅行になっていたようだ。

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一番右にある石仏は風化と欠損でほとんど読めないが、側面は読み取れる。昭和の後期に撮られた写真では前面に「庚申塔」という文字が大きくはっきりと見て取れるのだが、現在は見る方もない。造立は文化8年(1811)で、右側には九品仏道とあるので、道標も兼ねていたか。

この8基の石仏石塔の並びは実にバラエティに富んでいて面白い。

場所   世田谷区奥沢7丁目36-12

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2019年7月17日 (水)

浄真寺参道の石仏(1) (世田谷区奥沢)

浄真寺は山号を九品仏という。そのまま駅の名前になっているだけでなく、浄心寺の通称も九品仏である。九品仏の名の由来は浄心寺にある9体の阿弥陀如来像だが、この9体の仏像が実に素晴らしい。どれも眺めていて飽きることがない。もっともテーマは野仏であるから、阿弥陀如来像については別述ということで。

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九品仏駅は踏切の真ん中に改札出口がある。そこから北に少し歩くとすぐに長い参道になる。九品仏浄真寺の縁起については、延宝6年(1678)に徳川幕府より奥沢城跡地を拝領して創建。幸運にも関東大震災や戦災の被害をあまり受けず、多くの貴重なものが残されている。門前の参道を進み、総門が近づくと左側に並んだ石仏群が目に入る。タイプの異なる8体の石仏がアンバランスに並ぶ。まずは左の4基について取り上げたい。

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まず左端にあるのが三界万霊塔。造立年は文政5年(1822)。三界万霊塔は路傍、寺院の入口や境内、墓所などに立てられる供養塔である。「三界」とは、欲界(食欲・物欲・性欲)、色界(物質の世界)、無色界(物質も欲もない世界)の概念だが、過去・現在・未来とする説もある。どの塔にも通じるのは、万物、万霊に対して供養するという意味合いを持っているということだろう。

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二番目は欠損と風化がひどすぎて読める文字は僅かだが、資料を確認すると青面金剛像、三猿を彫った庚申塔である。左面には新田・池上道、右面には九品仏道とある。造立年は不詳。

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左から三番目はひときわ高さのある石塔。実はこれも庚申塔である。このタイプは滅多に見掛けない。造立年は延宝8年(1680)と古いもの。正面には文字で「奉寄進庚申供養」とあり三猿が彫られている。右面には武州豊嶋郡江戸本八町掘四町目とある。さすがに浄真寺程の規模の寺になると八丁堀の講中からも寄進があるのだろう。この塔の高さは2.45mもある。

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四番目は丸彫の地蔵立像である。この地蔵は年代不詳。顔はほとんど欠損している。総門に入る前から、浄心寺の石仏群は重鎮感がある。すべて取り上げると途方もない情報量になり、前に進まなくなりそうなので、代表的なものだけをピックアップしたい。特に三十三間堂前には数十体の石仏があり、再建中の閻魔堂前にも何十もの石仏がある。いつかじっくりと一基ずつ調べてみたいと思う。

場所  世田谷区奥沢7丁目36-12

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2019年7月16日 (火)

等々力六丁目辻の庚申塔(世田谷区等々力)

目黒通りと上野毛通りが分かれる交差点は変則的な形状をしている。真ん中にガソリンスタンドを挟んだ六差路、それも東からは目黒通り一本のみ、それに南北の道が絡み、西には目黒通りと上野毛通りとその北側の古道とがフォークのように分岐する。実は上野毛通りが新しい道で、目黒通りは野毛の渡しを経て武蔵新城へ渡り、上野毛通りの北側の道は二子の渡しを経て高津へ渡る古い街道である。

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上野毛通りと北側の古道の分岐点が樹木に覆われた土地でそこに簡易的な屋根が付いた石仏が並んでいる。一番大きな右側の石塔は道標である。造立は延享3年(1746)で高さは138㎝ある。正面には地蔵座像が彫られ、荏原郡等々力村講中とある。右面には、「右 大山道 二子渡し」とあり、左面には、「左 影向寺中稲毛江」とある。

影向寺というのは現存する古刹で、川崎市宮前区と高津区の区境にある天台宗の寺院。江戸名所図会にも登場する名刹で、開山は古く天平12年(740)で開基は行基と伝えられる。この景向寺の別名が稲毛薬師で、それで影向寺の中にある稲毛(薬師)へ(江)ということなのだろう。

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その隣にはもう影も形も失せかけた赤みがかった石塔の一部があるが正体は不明。その左にあるのが庚申塔である。青面金剛像に邪鬼と三猿を描いたものだが、邪鬼と三猿はほとんどわからない。大正10年(1921)再建とあるが材石が悪いのか傷みがひどすぎる。また再建される前はいつの造立だったかも不明である。おそらくは道標と同じような時代なのではないだろうか。

左端には新しい地蔵立像が横向きに置いてある。これは真ん中の正体不明の石塔の再建モノなのだろうか。なにも彫られていなかったので、これも正体不明であった。

場所  世田谷区等々力7丁目14-28

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2019年7月15日 (月)

等々力七丁目の馬頭観音(世田谷区等々力)

深沢から南に向かい目黒通りに出る少し手前、上野毛通よりもさらに一本北を東西に走る道は古い街道で、目黒方面から来ると上野毛通りと目黒通りが合流する等々力六丁目辺りで分岐、南の道は今の目黒通りの筋で等々力の渡しへ、北の道は上野毛を経て二子の渡しへと繋がっていた。この北側の道にあっただろうと思われるのが、現在等々力7丁目にある馬頭観音塔と道標である。

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四つ角の南東に植込みがあり、その中に3基の石塔がある。道標や馬頭観音は、庚申塔や地蔵と違い、お堂を立てて祀ったりはしていないケースが殆どである。昔は牛馬も死ぬと亡骸を捨てる場所があったりしたというから、そういう場所に馬頭観音が立てられたりしたのかもしれない。

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自然石でつくられた塔が馬頭観音である。自然石の馬頭観音は世田谷ではほとんど見たことがない。裏側には鈴木鎌作の銘がある。その後ろにある小さな石碑はどうやら道標らしいが、欠損がひどくて何も読み取れなかった。

明治22年に玉川村が出来、等々力は大字となった。この辺りは等々力山谷という小字。等々力にはキツネの民話が多く残されているが、その中でキツネの嫁入りを見て化かされる鉄蔵の話があり、鉄蔵は鈴木家の末っ子であると記述されていた。もしかしたら馬頭観音の施主である鈴木鐘作の身内だったのかもしれない。

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左手奥にある道標はわずかに読める部分がある。しかしほとんど読めなかったので世田谷区の資料を確認した。正面には、右 九品仏道、左面(写真では右側)には玉川、裏面には本龍山御嶽不動講とあるという。等々力も講の盛んな村だったようだ。念仏講、善行寺講、大山講、御嶽講、富士講、等々力不動講など20近くの講中があったというが、江戸時代末期から明治大正にかけては、信仰の場というよりも親睦の場としての役割が大きくなっていったという。

場所   世田谷区等々力7丁目13-9

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2019年7月14日 (日)

中村庚申様(世田谷区深沢)

現在の深沢4丁目から5丁目にかけては明治大正時代は中村という字名だった。元々北から辻、八幡という二つの集落が字中村としてまとめられたのは明治になってから。深沢村の地名の由来は、呑川の源流ということで深い沢が多いの意であったと思われるが、諸説あるようだ。この辺りの呑川は細いながらもとても澄んだ流れで、川の水が飲めるほどという意味で呑川とついた。明治の末頃にはこの中村集落には17軒ほどしか民家がなかったという。しかし玉川電気鉄道(玉電)の開通で明治の末からは大きく変貌していったのは言うまでもない。

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裏道の路地の一角に突然鳥居が現れる。民家の門が鳥居…という感じである。実はこれは中村八幡というちゃんとした神社。明治の初期には一旦深沢神社に合祀されたが、昭和13年にこの地に分離独立した。その中村八幡の脇に庚申塔が並んでいる。

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台座は3基分あるのだが、一番右はほどんど形を残していない。左側の庚申塔は駒型、青面金剛像に邪鬼のみ。造立年は文化13年(1816)とある。真ん中は同じく駒型で青面金剛像+邪鬼+三猿が描かれている。造立年のところは欠損していてわからない。年代的には変わらないだろう。左の庚申塔には、当所懇親講中の銘がある。戦前は庚申講と日待ち講が盛んだったと聞くが、戦前戦後あたりでほとんど消滅してしまったらしい。ただ片山(秋山の森周辺)の日待ち講は昭和40年頃まで続いたという。

場所  世田谷区深沢4丁目31-18

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2019年7月13日 (土)

深沢中村の馬頭観音(世田谷区深沢)

深沢不動交差点の南東側の区画は昔は中村と呼ばれる字だった。裏道に入ると間もなく区立深沢中村公園という蔵のある小さな公園に出くわす。遊具などほとんどない、蔵と物置がやけに目立つ小公園である。

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この蔵の出所に関する史料はないが、昔の地図や聞き及んだ話から本田家の蔵の一つだったのではないかと思われる。明治時代の地図によると、この辺りは数軒の本田家があり、ここはその敷地の一つだったからである。この公園から南西にちょっと歩くと、1,000坪はあろうかという大きな庭の邸宅がある。ここは現在の本田家である。

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その本田家の裏通用口に祠に入った馬頭観音像が立っている。造立年は明治23年(1890)で願主は本田市太郎とあるので、当時の当主であろう。昔は世田谷区にはこういう大きな農家の家が残っていたが、少なくなった。深沢近辺はそういうところが多かったが、殆どディベロッパーが駒切りにして売ってしまっているのが現実である。

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明治時代のものとはいえ、かなり腕のいい石工の作品のようだ。駒沢2丁目の品川上水跡の脇にあった馬頭観音に迫る彫りをしている。馬頭観音は大正時代になるとほとんど文字塔になっていく場合が多い。腕のいい職人は明治時代までだったということだろうか。

場所  世田谷区深沢4丁目36-24

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2019年7月12日 (金)

深沢不動堂前の石仏(世田谷区深沢)

駒沢通りと駒沢公園通りの交差点は「深沢不動」という名前。この北西側の角にあるのが、かつては隣接する医王寺の境内仏堂であった深沢不動堂である。現在の正式名は不動堂ではなく深沢不動教会というらしい。明治時代に入って、深沢村でも成田山信仰が広まり、医王寺に不動明王を祀ったお堂が出来た。戦後に医王寺から独立したが、今は再び医王寺との関係を深くしているという。

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不動堂の狛犬については特に記述しない。その北側に地蔵堂、狛犬と地蔵堂の間に地蔵座像と庚申塔がある。この深沢不動の交差点だが、江戸時代から村の中心部であった。不動堂の北隣には火の見櫓があって、明治になって江戸道の東側に新しい道が通った。それが駒沢公園通りである。

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右手の地蔵堂の中をのぞくと小ぶりな地蔵立像が一基ぽつんと立っていた。年代も銘も不明である。明治以前からここにあったという地蔵はこれではなく外にある地蔵座像の方であるから余計に不可思議である。

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地蔵堂の隣にあるのが昔から「だんご地蔵」と呼ばれてきた丸彫の地蔵座像である。造立は宝暦13年(1763)、土台が道標になっている。右面には江戸みち、正面はさがみ海道、左面はせたかや道とある。

この地蔵がだんご地蔵と呼ばれたのには逸話がある。昔、子供たちはこの境内でよく遊んでいたが、当時の深沢村は貧しくて、お地蔵さまには何のお供え物もなかった。そこで子供たちは草を石で叩いてお団子に似せた丸い塊を造り、お地蔵さまに供え、折に触れて願い事を託してお祈りをしていたという。その後のオチはないのだが、そういう子供たちの習慣から「だんご地蔵」と呼ばれるようになったと伝えられる。

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だんご地蔵の後ろの塀際にひっそりと立っているのが庚申塔。文政3年(1820)の造立。駒型で台座部分に道標がある。図柄は青面金剛像に邪鬼と三猿というオーソドックスなもの。道標は、右ほりのうち道、左あわしま道と彫られている。また片山庚申講中の銘がある。

江戸時代中期の深沢村は秋山の森周辺の深沢6丁目の東半分を三岳、西半分を稲荷丸、深沢不動交差点南西を三島、日体大付近を西山と呼んでいた。このうち稲荷丸と御嶽を合わせた地域(現在のほぼ深沢6丁目)を片山とまとめて呼んだという。その片山集落の念仏講が片山庚申講で最近まで続いていたというから今もあるのかもしれない。

ちなみに現在の駒澤大学キャンパスは明治時代は明治天皇の兎狩りの場所で松山とクヌギ山という二つの小山があったそうである。この山の木で村人は炭を作っていたというが、それこそが100余年前の深沢の風景であろう。

場所  世田谷区深沢6丁目1-13

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2019年7月11日 (木)

深沢の秋山の森庚申(世田谷区深沢)

世田谷区には玉川田園調布や成城学園のような高級住宅街があるが、深沢もネームバリューを持った高級住宅街である。深沢には小沢一郎氏の邸宅があり、自民党の核になっていた時代は警察官が何人も周辺で警備をするようになり、小沢邸の知名度から深沢に高級住宅の価値が増したようにも思う。しかし本来の深沢はのどかな農村であった。その痕跡があちこちにみられるのが深沢の良さでもある。

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区立深沢小学校の南東の角に庚申塔のお堂がある。金属製の標柱には庚申塚(庚申様)深沢神社とある。その少し奥にある御影石の標柱には秋山の森、さらにその奥にある標柱にはお地蔵様と書かれているが、ここには庚申塔が一基あるだけである。この庚申塔は風化が激しくて書かれているものが読めない。青面金剛像ですら幽霊の立ち姿になっている。

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秋山の森というのは深沢の名家で、この辺りの森を所有していた家である。非公開ではあるが大正4年築の母屋も保存されていて、周辺の樹林は秋山の森と呼ばれて今もなお武蔵野の原生林を彷彿とさせる。その一部は農芸高校の演習林にもなっていて、ここが東京23区内にある住宅街とは思えない雰囲気がある。

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すぐ近くにある小沢邸は秋山邸に比べれば小屋みたいなものである。そうすると我が家はクロネコの段ボール程度か。まあ、それくらいの規模ということである。明治時代の深沢村の地図を見ると、この辺りには北から南に「江戸道」と呼ばれる道が走っており、その途中には「小便地蔵」「だんご地蔵」があり、秋山の森には庚申塔があったとある。この庚申塔の位置が特定できないが、それが現在あるこの庚申塔ではないだろうか。小便地蔵は昭和後期まであったようだ。

地蔵の傍に大きな松の木があり、子供たちが登って小便をかけるなどいたずらをして地蔵の頭を壊してしまった。そこで片山の和助という人老人が柵を作ってお守りしたが、急に病気になってしまった。ある日夢にお地蔵さまが現れ 「わたしは子供が大好きなので柵を取るように」 と告げた。 柵を取り外すと和助老人は元気になり、 子供たちはまた周りで元気に遊ぶようになった。以来、 この地蔵を小便地蔵というようになったという。この庚申塔の場所は元は小便地蔵のあった場所である。さて、では小便地蔵はどこへ行ってしまったのだろう。また宿題になってしまった。

場所  世田谷区深沢1丁目3-31

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2019年7月10日 (水)

三宝地蔵菩薩(世田谷区松原)

場所は京王線明大前駅のごく近く。甲州街道(国道20号)から20mばかり南に入ったところにある地蔵堂が三宝地蔵菩薩と呼ばれる。堂内には3体の石仏があり、地蔵立像の念仏供養塔を真ん中にして、右には馬頭観音、左には庚申塔が並ぶ。

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中央の地蔵立像の念仏供養塔は高さが139㎝あるが半分は台石、寛保2年(1742)の造立で、武州世田谷領松原村銘がある。また願主は全員女性で、〇〇母とあるのが8人、〇〇内とあるのが4人、母は文字通り母で、内は奥さんだろうか。いわゆる女中念仏講中という集まりだろう。右にある馬頭観音は文政5年(1822)のもの。武州荏原郡松原村とあるが、世田谷領松原村と同じことである。左面に「右り あわしまみち」とあり道標を兼ねてどこかに立っていたのだろう。

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左の白っぽい材石の庚申塔は青面金剛像に邪鬼の組み合わせのもので、松原村念仏講中の銘がある。造立は文化5年(1808)で、「是より二子みち」とあるので、こちらも道標を兼ねていたか。

現在の京王井の頭線は沢が削った谷筋を通り、玉川上水をくぐって吉祥寺に向かう。この谷を見下ろす台地の上の道がこの堂宇の前の道で、江戸時代からある。少し南の現在明大前駅南の最初の踏切、松原5号踏切の道を経て、半田塚手前で大山道に入り、豪徳寺からさらに南に抜けていた。それでこれより二子道と書かれているのだろう。

場所 世田谷区松原1丁目39-21

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2019年7月 9日 (火)

松原の六地蔵(世田谷区松原)

代田橋駅の南にある和田堀給水所から100mばかり西に六地蔵がある。羽根木の子育地蔵の近くから甲州街道に向かう古道の途中、特に目印はない。しかしこの道は江戸時代からある村の主要道路だから地蔵があるのは自然なこと。明治以前はこの道の周りには大きな農家がぽつんぽつんとあるような台地上の畑の中の道だったはずである。

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ごく普通の民家の間に3坪ほどの地蔵堂がある。堂宇は昭和中期に建てたものだろう。手水鉢が内外にひとつずつあるが水は入っていない。さて撮影ととりかかって困ったのは、以前に盗難に遭ったのか、あるいは破壊されそうになったのか、だれも手を出せないように鉄柵と金網で保護されていて、手持ちのカメラではどうしてもその柵と網にピントが合ってしまうのだった。

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まあ致し方ないと妥協。 六地蔵の土台にある文字はひとつづつ読むことが出来る。造立年は、左から順に一番目が延享3年(1746)、二番目が寛延4年(1751)、三番目が享保15年(1730)、四番目が享保13年(1728)、そして右の2体はどちらも延享3年(1746)と書かれていた。古いものと新しいもので23年ほどの差がある。

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六地蔵の後ろのちょうど真ん中に1体の地蔵立像がある。造立年などの情報は読み取れなかった。年号の部分か欠損していたのである。ただし十一年という文字は読めたので、江戸時代に11年以上あった年代からすると、享保11年(1726)、宝暦11年(1761)、寛政11年(1799)、文化11年(1814)、文政11年(1828)、天保11年(1840)のどれかだろう。

場所   世田谷区松原1丁目14-11

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2019年7月 8日 (月)

代田橋の北向子育地蔵尊(世田谷区大原)

京王線代田橋駅は各駅停車のみ止まる駅。しかし代田には地名の由来である「でいたらぼっち」の伝説が残されている。

ある冷夏の年、関東から見える遠くの富士、筑波、浅間、日光連山が良く見える晴天の日、男体山と浅間山の頂上に棹をかけて大きな布で北風を防いでいるのを村人たちが見た。その夜の事、巨人を恐れて家の戸を固く締めた代田の丘に、ドシンドシンと大きな足音が響いた。隙間から覗いてみると、巨人が荒れ地をせっせと耕しているではないか。一夜明けると、そこには池、田んぼができ、巨人の贈り物だと村人たちはたいそう驚いた。翌日、巨人は筑波山に腰を掛け、長いキセルに浅間山の煙で火をつけて煙草をうまそうに吸っていたという。

それが地名の由来になっているというのはいささか荒唐無稽だが面白い。

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代田橋駅の西側に大原稲荷神社がある。線路わきに参道があるが、北側にも参道があり、その入り口に地蔵堂がある。現在は北向き子育地蔵尊と呼ばれるが、元は代田村の厄除四地蔵の一つで北側からの魔物の侵入を防いでいた。

代田村には東西南北にそれぞれ厄除地蔵があったが、現存するのは東向の淡島地蔵とこの北向地蔵だけ。その淡島地蔵も戦災で破壊されてしまい、後に角柱の地蔵塔が建てられた(南と西は世田谷代田駅南側の圓乗院に移されて保存されている)。しかし実はこの北向地蔵も京王線の施設工事の折には場所を移され打ち捨てられていたが、村人がそれをあまりに不憫に思い、現在の地に祀ったという。

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造立は代田村の記録では四地蔵とも承応2年(1653)と相当古い。この厄除四地蔵にも言い伝えがある。代田七人衆と呼ばれた侍たちがこの地に定着して半世紀が経った頃、その二代目、三代目が開墾を担うようになり、村の人口も増えていった。そこで村の平穏と外部からの疫病の侵入を防ごうとこの四地蔵が造られたという。当時の名主、秋本重右衛門が願主だった。

南向地蔵は瀧坂道と堀之内道の辻(現在の若林小学校の北側)、西向地蔵はその少し西北の代田村と赤堤村の境である栗原道と呼ばれた道の路傍にあったという。住宅街の一角に公園があり、栗原稲荷神社跡を示す狐塚之霊碑が立っている辺りだろう。現在の小田急線、井の頭線、京王線の逆Zエリアがかつての代田村。周辺も含めて野仏が多い地域である。

場所  世田谷区大原2丁目27-4

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2019年7月 7日 (日)

向岸地蔵尊(世田谷区大原)

向岸地蔵尊は玉川上水の暗渠緑道の上に在る。玉川上水を渡る何かに由来して向こう岸かと思ったが全く違った。向岸というのは人名だったのである。この地蔵尊、堂宇はないが公園の藤棚のような柵に囲まれている珍しいものである。藤棚のフレームに地蔵の由来が書かれた板がある。書かれたのは平成4年だが、書いた主が「二代目講元」とあった。古い謂れのある地蔵の講元が二代目というのは少なすぎる。しかし平成になっても講が続いていることにうれしさを感じた。

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手前の角柱に地蔵の造立が彫られている。享保元年(1716)に百万遍講中によって建てられたとある。百万遍とは長い数珠をみんなで囲むように輪になって持ち、念仏を唱える講中である。地蔵の土台には、「十億四千八百四十八万遍」と彫られているが、それだけくりかえし百万遍が行われていたことの証だろうか。

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手前の石柱はかなりぞんざいに扱われているようだ。頂部はコンクリートで補修されたような感じ。その後ろ(左奥)には馬頭観音があるが造立年は読み取れない。どこからか移してきたものだろう。頭上の説明板には概ね次のようなことが書かれている。

『今から200年以上も前の事(これが書かれたのは平成4年)、荏原郡北の里(現在の世田谷区大原)に生まれつき身体が曲がっている向岸という独り身の人がおり、自身の境遇を悲しんでいた。ある晩のこと、地蔵様が現れ欲しいものを出せるといい、今後世のため日夜念仏を唱えれば救われると説いた。お地蔵様の教えに従い、向岸は念仏を昼も夜も唱え続け、それを聞き知った人々が集まるようになり二百を超える大きな講中となった。後に向岸は悟りを開いて大往生を成し遂げたという。地蔵尊は、生前の徳を偲んで講中の人が享保元年(1716)の秋に建立したものである。』

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馬頭観音の反対側、向かって右側には舟型の地蔵立像が二つ並ぶ。大きい方は宝永7年(1710)の造立、小さい方は正徳元年(1711)の造立である。これらも地蔵とは特に関係はなさそうである。

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玉川上水はこの少し上流で一部開渠になる。そこに架かる橋はゆずり橋というアーチ式のレンガ橋。江戸時代、多摩川上流の水を江戸の町に飲料水(上水)として引くために掘られた玉川上水。玉川兄弟が工事を指揮したと伝えられる。豊かな玉川上水からは多くの支流の上水に分水された。時代と共に玉川上水はどんどん暗渠化されたが、このあたりだけは開渠として残されている。

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この橋は以前は幅が狭く、ゆずりあって渡っていたので、地域の人々から「ゆずり橋」という名前を付けられた。デザイン的にも素晴らしい橋である。モチーフは地元の子供達が描いた橋の絵だったそうである。歩行者専用の橋で、車止めがあるが、この中にはタイムカブセルが埋められているという。橋が付け替えられたのは平成3年(1991)だから、当時小学校1年生だった子はもう30代半ば、タイムカプセルは開けられたのだろうか?

場所  世田谷区大原2丁目19-1

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2019年7月 6日 (土)

謎のとげぬき地蔵(世田谷区大原)

井の頭通りは渋谷の西武デパートから吉祥寺方面への幹線道路で直線部分が極めて多い。吉祥寺の先は武蔵野の境浄水場まで続く。直線が多いのは境浄水場からこの地蔵のすぐ近くの和田堀給水所の間に水道管を敷設するための用地を道路に転用したためである。昔は水道道路と呼ばれていた。その和田堀浄水場は現在工事中だが、隠れた桜とツツジの名所で普段は入れないがその時期だけは一般公開されていた。

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井の頭通りを西に進み、和田堀給水所に突き当たる数十m手前に不思議な家がある。2リットルのペットボトルがずらりと並び、「とげぬき地蔵」と書かれたのぼり旗が多数並ぶ。但しのぼり旗はもう色あせてしまっている。この家の玄関脇に不気味な地蔵があり、どうやらそれがとげぬき地蔵らしい。

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お堂ではなくまさに玄関脇で、昔の乾燥機のスタンドを使って地蔵の屋根をつけてある。屋根は飛ばないようにするためか、数本のペットボトルを重しにしてある。地蔵の後ろにぶら下がっている乳児のおもちゃも不気味さを加味している。この家にはポストが二つあり、一つは普通のポスト、もう一つのポストには「0センター」とある。しかも家のポストの住所は大原2-8-5で「0センター」のポストは2-8-6となっているが、どう見ても家は一軒のみ。

ストリートビューのアーカイブが沢山あったので見てみたら2009年の時点ではこの家そのものがFor Rentとなっていた。地蔵はなかったがのぼり旗は立っていた。2013年にはもう現在と同じ状況でのぼり旗、ペットボトル、地蔵の組み合わせが出来ている。あまりに謎めいているので、取り上げてみた。

場所  世田谷区大原2丁目8-5

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2019年7月 5日 (金)

新代田駅近くの庚申塔群(世田谷区羽根木)

京王井の頭線の新代田駅は環七通りの下にホームがある。駅の出入り口は環七の内回り側。駅前は幅10mを超える横断歩道があり、駅の存在を主張している。駅を出て横断歩道を渡り、北に向かう。すぐにシェルのガソリンスタンドがあるが、その裏手に稲荷神社と庚申塔群がある。

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庚申塔の存在感がすごいので稲荷神社の方が付け足しにすら思えてしまう。それほど立派な庚申塔が並んでいる。どれもが比較的大型で、保存状態も極めて良いのが素晴らしい。

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一番右にあるのは板碑型の庚申塔で、高さは118㎝、造立年は元禄12年(1699)である。青面金剛の下に三猿が描かれており、下部には願主の名前が8人ほど彫ってある。色が少し薄茶なのは安山岩の中でもこういう系統の石を使っているのかそれとも他の石なのかは見分けがつかなかった。いい色である。

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右から二番目は角柱型の庚申塔。 青面金剛と三猿が描かれ、最も高さが高く136㎝ある。この庚申塔の造立が最も古く、貞享4年(1687)と彫られている。五代将軍徳川綱吉が生類憐みの令を出した年に作られたものである。左右の側面に願主の名前がある。

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右から三番目(左から二番目)は少しだけ小さめの駒型の庚申塔。青面金剛に三猿である。造立は正徳元年(1711)で、庚申塔としてはやや大きなものだが隣が大きいので小さく感じた。どれも保存状態がいいのは、おそらく使っている石材がいいのだろう。彫り師も腕がよさそうに見える。

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一番左だけは庚申塔ではない。 舟型の地蔵立像である。こちらは念仏講中の立てた供養塔である。造立は元禄10年(1697)。どの石仏も江戸時代の前期のものなのにどれも美しいのには感心してばかりだった。

場所   世田谷区羽根木1丁目5-16

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2019年7月 4日 (木)

子育明林地蔵尊(世田谷区松原)

境の辻である徳明地蔵尊から東へ100mほど進む。広い道は作りかけの計画道路なので斜め北に分岐する旧道を歩く。この道は江戸時代からの古道で東松原駅を通り、羽根木の子育地蔵を経て笹塚まで続いていた。江戸時代から大正時代まで羽根木通りと呼ばれ村の幹線道路だった道である。徳明地蔵と明林地蔵そして松原五丁目の細街路奥にある地蔵で三角形を形成しているのは偶然だろうか。

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明林地蔵の脇の丁字路から北西に向かう道もまた、現在は路地だが江戸時代からある古い道である。この羽根木通の南東側は昔、沢があって田んぼが広がっていた。その沢を渡って羽根木に向かう手前にこの地蔵が位置している。昔の小字名は赤羽根。

沢はこの先でY字型になっていて、羽根木の集落はYの上、赤羽根集落はYの左側、そしてYの右側は飛羽根木という小字名だった。羽根木の本集落は宇田川家を中心に栄えていた。この羽根木通は昭和初期まで二間道路と呼ばれる道幅3.6mの道だった。古老は南側にどぶ川が流れていたという。それがY字の右側の沢であろう。昭和中期まで子供が落ちて流されるような事故もあったらしい。

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明林地蔵はコンクリートの頑強な堂宇に守られているが、ちょっと顔が不気味である。造立年などは不詳。壁面に左官さんが彫ったような文字で昭和19年に御堂を再建したことが記されている。沢が流れ、街道が通り、低地には水田、丘陵地には畑が広がる江戸時代から明治時代にかけての松原のこの辺りの地形だが、そういう変化と起伏の多い場所だからこそ、辻(分岐点)ができ、地蔵が多く作られたいきさつがあったのではないだろうか。

場所   世田谷区松原5丁目9-21

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2019年7月 3日 (水)

徳明地蔵(世田谷区松原)

徳明地蔵のある場所は、世田谷区の計画道路の交差点になる予定で、いつまでこの場所に居られるかはわからない。東西に予定されているのは15m幅の補助54号線で、東北沢から下北沢を通り環八千歳台に抜ける。一部が開通している。南北の道は、補助154号線で明大前から駒沢へ抜ける。こちらは徳明地蔵の前まで完成している。そんな危機的な場所にあるのだが、地元の支持が厚いので必ず残されると思っている。

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交差点になることを見越してコンビニが出店していた。現在はコンクリートの擁壁を背にして堂宇があり、その中に徳明地蔵が収まっている。この地蔵は江戸時代末期、文久3年(1863)に造立され、その後何らかの事情で他所に移されていた。しかし昭和の初め、村の子供が多く病にかかったり、不幸が続いたりしたので、村人(世田谷区になったのは昭和7年)たちはお堂を立て、地蔵をこの地に戻し、徳明地蔵と呼んで信仰した。

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しかし台座の正面には正徳5年(1715)の刻もある。「松原村 正徳五乙未天 文久三亥年 庚申講中 十月再建」とあるので、最初に地蔵が造立されたのは正徳5年(1715)で、再建されたのが文久3年(1863)ではないだろうか。その後のいきさつは前述のとおりである。小祠内に収まった丸彫の地蔵は高さが152㎝と比較的大きいもの。

この道路の場所を松原6丁目15とする情報と、松原5丁目11とする情報があるが、ゼンリンの地図で見るとここは松原5丁目と6丁目の境の真上になっている。まさに境の辻にあるのがこの地蔵と言える。

場所  世田谷区松原5丁目11-2 もしくは 6丁目15-1

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2019年7月 2日 (火)

松原五丁目の地蔵(世田谷区松原)

この路地を歩く人はほとんどいない。それでもこの地蔵の脇をクランクで折れ曲がって東松原駅の方に抜ける道は江戸時代からの道である。現在は直進するように地蔵脇を抜けて徳明地蔵の道に出る路地は昔は沢筋だった。おそらくこの沢を渡るために道がクランクしたのではないだろうか。そんな道にある地蔵尊だからか、資料は全くない。

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地蔵尊のためのスペースは意外に広い。向きは南東向き。 地蔵尊自体の傷みもほとんどないので、比較的新しい時代のものではないかと思われる。しかし、再建されて新しくなることもあるので、この地蔵の由来はさらに調べてみたい。

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松原五、六丁目地蔵保存会なるものがあるようで、そこで聞けば何か分かりそうな気がする。この地蔵から南東へ100mほど進むと徳明地蔵の近くに出る。松原地区(旧松原村)にはたくさんの地蔵や石仏がある。この辺りは松原村と赤堤村の村境だったエリア。江戸時代の人々は村境近くに多くの石仏を立てて、悪いものが侵入するのを防ごうとしたのである。

場所  世田谷区松原5丁目10-11

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2019年7月 1日 (月)

松原の豪邸の庚申塔(世田谷区松原)

ここ四半世紀、世田谷区を中心に店舗数を増やしている「スーパーオオゼキ」だが、その一号店は松原である。今年(2019)リニューアルして他の店舗とは一線を画すフラッグシップ店舗になったようである。我が家も30年以上近隣のオオゼキで生鮮食品を購入する。そんな親近感のあるオオゼキの前の道を東に進むと間もなく道の北側に不思議な堂宇が現れる。

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これはだれかデザイナーがいるのではないかと思わせる堂宇である。地図には「上丸実業」とあるが、調べてみると不動産業の会社のようだ。ここはパセオ松原という高級マンションらしい。西隣にあるテラス松原という高級マンションもこの会社の所有である。パセオ松原マンションがコンクリートの柱をモチーフにした現代的なデザインでそれに合わせて堂宇を作ったのだろう。

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庚申塔は笠付角柱型で、青面金剛像に邪鬼と三猿が彫られている。造立年は元禄15年(1702)とある。願主は松原村の12名。庚申塔の前の道はこの先から東側は昔の道に戻るように細街路になる。ここで計画道路が止まって何十年も経つ。補助54号線という計画道路で道幅15mで東北沢から下北沢の街中を抜き、以前に書いた榎交差点を通り、西へ向かう幹線道路で、部分開通はしているがまだ最低数十年かかりそうである。(もうあきらめた方がよさそうに思う)

庚申塔の南には六所神社があるがその周辺を昔は「陣屋の山」と呼んでいたらしい。江戸時代初期からここは天領(幕府直轄)で、服部家が治めていた。その服部家の屋敷があった場所で、まさに武蔵野の林の中だったという。現在も六所神社の一角だけが周囲よりも2~3m高くなっている。

場所  世田谷区松原4丁目8-25

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2019年6月30日 (日)

赤堤三差路の庚申塔(世田谷区赤堤)

個人的に甲州街道に抜けるためにしばしば使う裏道の途中に庚申塔がある。世田谷区には大通りは少ないが、こういう細街路は沢山あり、その一部が江戸時代からある古い道である。だから碁盤の目のようには道が走っておらず、土地の地理に詳しくないと道に迷うとよく言われる。この庚申塔を挟む二つの道はいずれも江戸時代からある古道。明治から大正時代には庚申塔のすぐ北側に松澤村の村役場があった。

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どちらの道も直接甲州街道には繋がっていなかったが(現在は東側の道が甲州街道に繋がっている)、それでも村では重要な道だったのだろう。この辺りは江戸時代初期は赤堤村だったが、元禄時代に赤堤村から松原村が分離独立した。その後明治22年に松澤村に統合され、昭和7年に世田谷区に含まれるようになった。

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地元の記録でも相当古い庚申塔だとあるが、造立年代は塔にも資料にもない。おそらくは江戸時代中期(1700年前後)ではないかと思う。青面金剛に三猿のシンプルな庚申塔だが、大きさはかなり大きい方に入る。角柱型だが昔は笠付だったのかもしれない。

場所  世田谷区赤堤5丁目9-1

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2019年6月29日 (土)

赤堤のささ地蔵(世田谷区赤堤)

赤堤5丁目の一角にほとんど資料のない地蔵がある。民家の一角に立派なお堂が建てられそこに鎮座している地蔵様は、子育地蔵と書かれているが、実は昔はささ地蔵と呼ばれていた。

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地蔵の造立年は寛延2年(1749)という。台座に彫られていた文章を板に書き起こして堂内に掲げてあった。「秩父西国坂東順禯 供羪塔爲二世安楽 法号自見道性上座 施主 藤右衛門」と書かれている。この地蔵は岩田家が大切に守ってきたらしく、昭和63年の事として、「本子育地蔵尊御堂建立を機会に皆様各位からいただいた奉納金は社会福祉協議会に寄付する」とある。奉納者名には富士銀行明大前支店まで入っていて感心した。

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ところで「ささ地蔵」の話だが、この道とすぐ東側にある南への道は古くからある道で、ささ地蔵のすぐ南には松澤村の村役場があった。松澤村は明治から大正にかけて存在した村で、松原村、赤堤村、上北沢村が合併してできた。昭和になって世田谷区に編入された村である。

時代はそれよりも遡る。全国を修行して子供たちの病気を治して歩いた医者を祀ったのがこの地蔵の始まりで、当時医者が倒れた場所がこの近くの竹藪だったことから「ささ地蔵」と呼ばれたという。個人的には「ささ地蔵」の方が響きがいいが、その医者が地蔵になったと思えば子育地蔵も間違いではないか。

場所   世田谷区赤堤5丁目13-16

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2019年6月28日 (金)

祖師谷商店街の庚申塚(世田谷区祖師谷)

ウルトラマンで有名な祖師谷商店街、円谷プロがあったのは南の方だが、商店街は北に長く伸びる。その北側の商店街を駅から450mほど行くと神社の玉垣のような場所がある。木梨サイクルのちょっと先である。商店街の話ではここには祖師ヶ谷の七庚申のうちの二つが祀られている。

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昔は塚だったのだろう。周りよりも1mほど高くなっている。昔からここは庚申塚と呼ばれてきた。商店街の話ではここの庚申を二つとしているが、『ふるさと世田谷を語る』の記述ではここは二つで一つとしている。

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右側の大きい方は高さが146㎝ある。青面金剛像と三猿の板状駒型の庚申塔。造立年は正徳6年(1716)、願主は下祖師谷村の人々とある。左側の小さい方は、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれた庚申塔。高さは84㎝、造立は元文元年(1736)で、祖師ヶ谷村の庚申講中8人によると彫られている。

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今は四角い台地に乗っかった庚申塔だが、昔は南側が大きな塚、次に中くらいの中塚がありそこに庚申塔が乗っていた。さらに北側には小さな山があって三連になっていたようだ。大塚には赤松の名木があったが、昭和20年頃に松が枯れてしまったので、庚申塔を中塚から大塚に移したという記録がある。祖師ヶ谷大蔵周辺には縄文時代の集落跡もたくさん発見されているので、塚は古墳時代辺りまでの墓だった可能性もありそうだ。

場所  世田谷区祖師谷2丁目3-11

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2019年6月27日 (木)

烏山念仏堂の石仏(世田谷区南烏山)

烏山神社の北側に烏山念仏堂がある。念仏堂の隣には昔、寺があったと伝えられるが、村人たちはこの地から離れた三鷹の真福寺、宇名根の常光寺、その他杉並の寺などを菩提寺にしていた。しかし遠くて不便なので、相当数の村人はこの地に共同墓地を設けて先祖を葬っていた。念仏堂は閻魔様が祀られ、明治6年には烏山村で初めての学校「温知学舎」が開設され、後の烏山小学校の発祥の地とされている。

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東京の郊外にはこういう寺ではない墓地をしばしば見かける。船橋観音堂もそうだし、杉並や板橋にもある。ただ、地物との人々の信仰が深いので、多くの石仏が大切に保存されているのが何よりである。入口を入るとすぐ左の屋根付き堂宇に収まっているのが、元禄2年(1689)造立の高さ152㎝の笠付の念仏塔である。「南無阿弥陀仏講」とあり、烏山村10人の名があるが半分は下山姓である。

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念仏堂の奥には多数の石仏(後述)があり、墓所入口には二つの地蔵がある。右側は三界万霊の座像で「百万遍講中 烏山村」とある。造立は不明だが江戸時代初期だろう。百万遍というのは、多くの人が大きな数珠にとりかかり、念仏を唱えながら回す行事(百万遍の数珠繰り)。 正月と盆などに行っていた。

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左の涅槃像はもっと古いと言われている。江戸初期は間違いないだろう。年号がかすれてしまって読めないと昭和中期の資料にも書かれている。涅槃像と最初の念仏塔の間にはいくつもの石仏があるが、手前の左手から6体並ぶのが六地蔵である。文政10年(1827)の造立である。「武刕多摩郡烏山講中」とある。

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六地蔵の右(手前右から2番目)は馬頭観音でこれは造立年不詳である。手前の一番右端の大きなものはも馬頭観音で慶応2年(1866)の造立。烏山下宿とある。甲州街道烏山宿には上宿、中宿、下宿があった。後列の右端もまた馬頭観音で大正4年(1915)と新しい。その左となりの変わった形の石塔は、中段下段は台座だが、上部は地蔵のようだ。座像の可能性もある。造立は宝暦5年(1755)で烏山女中念仏講中とある。

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念仏堂の向かい側にも2基の石塔があるが、右側は墓石のようだ。左側はまったく読めないほど欠損している。それでもきれいな花を供えている方がいらっしゃるということは、昔からここにある野仏なのだろうか。

場所  世田谷区南烏山2丁目23-16

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2019年6月26日 (水)

烏山神社の庚申塔群(世田谷区南烏山)

烏山神社は京王線の南側、千歳烏山駅と芦花公園駅の間にある。古そうだが江戸時代以前の記録はあまりない。創建は元文元年(1736)とされているが、昭和37年(1962)に町内の天神社、神明社、稲荷社を合祀して烏山神社と呼ぶようになった。それ以前は白山御嶽神社と言われていたらしい。この神社の境内には江戸時代の庚申塔が複数並んでいる。

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鳥居の南側の一角、二つの屋根付き堂宇と、玉垣の傍に小さめの庚申塔が2基。江戸時代のこの辺りは粕谷村である。甲州街道を境に北側が烏山村であった。神社の東側には烏山川(古烏山川)が流れ、周辺は低地になっていた。甲州街道を参勤交代する大名は、高島藩(諏訪地方)、高遠藩、飯田藩の3藩と京都から将軍にお茶を献上するお茶壷道中くらいで、比較的寂しい街道だったらしい。賑やかになったのは江戸時代後半、富士講や身延参拝に往来する庶民が増えてからだという。

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向かって右側の堂宇に収まるのは、舟型光背型の大きな庚申塔。高さは114㎝ある。造立年は江戸時代初期の貞享3年(1686)、青面金剛像に三猿の図柄。下部には「品誉連九」とあり願主が9人並んでいると思いきや、10人目に「おかま」という名前がある。このおかまさんがどんな人なのか興味をそそる。

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左側の堂宇にあるのは高さ105㎝のこれも大きめの庚申塔。 青面金剛像の下に邪鬼、さらに三猿が描かれている。造立年は宝暦13年(1763)で江戸時代中期。山型角柱タイプである。

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玉垣の脇にある2つの石塔も庚申塔である。右側は駒型で、青面金剛像+邪鬼+三猿の図柄。造立年は右下にかすかに残っていて、宝暦2年(1752)である。左側はそれぞれ三面に猿が描かれており、山状角柱型で、造立年は裏側にあった。享保12年(1727)とある。どれもかなり時代が古いものだが、きれいに保たれていてありがたい。神社の北側には烏山年仏堂がある。

場所  世田谷区南烏山2丁目21-1

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2019年6月25日 (火)

榎庚申(世田谷区上祖師谷)

安穏寺東側にある榎交差点は江戸時代から交差点であった。東西に走る瀧坂道と南北に走る六郷田無道がここで交差していた、とても歴史のある交差点。この辻から少し北へ六郷田無道を進んだところにあるのが榎庚申である。六郷田無道は現在の中央線の前身である甲武鉄道が明治22年(1889)に開通するまでは、この道が田無方面から大田区の六郷への重要な街道であった。私はこの道が地形に素直に走っているところが好きである。

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榎庚申の台座は新しく黒御影石で作り直されていた。そこには願主たちの名前が刻んであるのだが、御影石は花崗岩だから江戸時代の多くの石仏の材料であった玄武岩よりも風化が早い可能性がある。とはいえこの手の石に使う御影石は風化に強いタイプを使っているのだろうが、200年後にどうなるか見てみたいものである。

この榎庚申の造立年は文化9年(1812)で、駒型の文字塔、但し下部に三猿が彫られている。この辺りの瀧坂道は上祖師谷村と粕谷村の村境であった。そのためか道標の役割も果たしていた。

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正面には「庚申塔」の文字、台座には武州多摩郡上祖師ヶ谷村とある。右面には、「北 ところざハミち 南 せたがや めぐろみち」、左面には「東 たかいどミち」とある。 所沢道は三鷹を経て所沢に繋がる道で、六郷田無道をその先まで含めて示している。東 高井戸道というのは、粕谷村を経て高井戸に行く道で、この方角に進むと間もなく粕谷地蔵尊に至る。

場所   世田谷区上祖師谷1丁目1-3

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2019年6月24日 (月)

安穏寺境内の石仏(世田谷区上祖師谷)

安穏寺は正式名を舜栄山行王院安穏寺という。瀧坂道に面しているので古そうだが実は元禄年間(1688~1703)の開山と伝えられ、比較的浅い歴史である。しかも明治初期には廃仏毀釈もあり寺は荒廃して、明治18年の台風では倒壊してしまった。それから長い年月を経て、昭和に入る頃から復興、檀家も増えたという。

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瀧坂道からの安穏寺の参道は真っ直ぐでいい景色である。瀧坂道は長年の交通不便から寺の裏側に新たな道路の建設が進んでおり、そうなれば門前の安穏寺坂も散策可能な散歩道になりそうである。現在はすれ違いぎりぎりの車におびえながら僅かなスペースを歩くしかない状況である。

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山門は武家屋敷風の風格あるもの。舜英山の扁額か掛かる。この山門と境内の風情はせたがや百景の一つに指定されている。なお別説で安穏寺の開山を寛永年間(1624~1644)というものがあるが、おそらく元禄が正しいだろう。

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山門を回って右奥が墓所の入口。そこには古い六地蔵が並んでいる。いずれも世田谷領上祖師ヶ谷村の村民による造立。左から、正徳6年(1716)、正徳2年(1712)、正徳5年(1715)、右半分は左から、享保2年(1717)、正徳3年(1713)、享保元年(1716)で、右から2番目を除いてはすべて上祖師谷村の女中念仏講が願主である。(残りの1基は個人の願主)

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墓所と本堂の間に3基の石仏石塔がならぶ。真ん中についてはよく分からないが、右の地蔵の台座には「三界万霊 廻国六十六部供養塔」とあり、造立年は正徳元年(1711)、左側も供養塔で、大師編照金剛とあるが、左面に道標も彫られている。「従是 上高井戸宿医王寺迄十八町、下祖師ヶ谷観音堂迄六町廿間」とある。裏面には「武刕多摩郡世田ヶ谷領上祖子ヶ谷村」と彫られ、右面には宝暦8年(1758)の造立とある。これらの石仏からもおそらくは元禄の開山であろう。

場所  世田谷区上祖師谷2丁目3-6

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2019年6月23日 (日)

安隠寺近くの石仏群(世田谷区上祖師谷)

瀧坂道は渋谷から仙川に及ぶ古い街道。経堂駅付近から西に進み、環八脇の千歳清掃工場裏から千歳台交差点を通り、榎交差点からは丘を下り宮下橋で仙川を渡る。安穏寺墓地脇から下りになるが、ここは道路拡幅が出来ないまま現在に至り、乗用車ですらすれ違いにくい道幅でかつ路線バスも走る難所になっている。電柱にはたくさんの擦り傷があるが、なぜかここで警察を呼んだ人を見たことがない。皆、当て逃げならぬ、当たり逃げしているのだろうか。

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坂を下った安穏寺山門の先に広いスペースがあり、地蔵堂の前に石仏が5基並んでいる。左の3基は馬頭観音で、右の2基が庚申塔である。この場所は記憶の限り30年以上変わっていない。名前があってもよさそうなものだが無名である。仕方なく安穏寺近くの石仏群とした。ちなみにこの坂道は安穏寺坂という。

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地蔵堂は施錠されているが、中に祀られているのは岩船地蔵。この地蔵の所有は安穏寺らしい。岩船地蔵というだけに岩のような舟に乗っている。その下に木の舟があるので、舟on舟になっているのがちょっと違和感があった。海沿いの街にたまに岩船地蔵があるようだが、こんな内陸になぜこの地蔵がという疑問が湧く。岩船地蔵は江戸時代中期に起こった集団的な宗教現象を機に各地に設置されたという。当時の新興宗教だったのだろうか。

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さて左の3基の馬頭観音だが、一番右の石塔は摩滅風化が激しくて何も読み取れない。これが一番古そうなのだが致し方ない。真ん中のものは、前面に「嘉永五年 馬頭〇〇」とあることから、造立年は嘉永5年(1852)だとわかる。馬頭観音としては比較的古い方である。そして一番新しい左端のものは昭和26年(1951)の馬頭観音。 私より少しばかり古い。

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右の2基の庚申塔のうち左側のものは高さが107㎝あり大型である。板状駒型で、正面には青面金剛像と三猿がある。その右側に「武州荏原郡祖子ヶ谷村」とあるが造立年は欠損した左下部にあったのだろうか不詳である。しかし「祖師谷村」とあることから、祖師谷村が上と下に分かれた元禄8年(1695)の検地以前ではないかと考えらえる。

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一番右にある庚申塔については年代もわかっている。造立年は宝永6年(1709)である。青面金剛像に三猿が描かれ、多摩郡世田谷領とある。祖師谷村が上祖師谷と下祖師谷に分けられた元禄8年(1695)以降、幕末まで上祖師谷村、下祖師谷村は幕府の天領となったので、造立年と村名が合致する。そんな推理を入れながら石仏を見るのもまた面白いものである。

場所  世田谷区上祖師谷2丁目3-7

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2019年6月22日 (土)

塚戸十字路の庚申堂(世田谷区千歳台)

塚戸十字路と呼ばれる交差点は祖師ヶ谷大蔵商店街の北の端。祖師ヶ谷大蔵の商店街は戸越銀座並に長く、駅からここまでは1.3㎞もある。途中にはとんねるずの木梨憲武の実家の木梨サイクルがあったりして、散策していても楽しい町並み。この北の端は祖師谷通りがかつての品川用水に突き当たる地点で、北西から南東に瀧坂道が通っていた。塚戸十字路は今も昔も交通の要所だったわけである。

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交差点の南東側角に小さな公園のような区画があり庚申堂がある。この庚申堂、昔は向かいにあったらしい。後に区画整理が始まり一旦根ヶ原熊野神社(跡地)に移され、平成になってこの場所に再建されたそうである。もともと2基あったようで、1基は今もまだ熊野神社(跡地)にある。

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ちょっとした広場になっているのがいい。祖師谷商店街周辺には7つの庚申塔があり、地元では「祖師ヶ谷の七庚申」と呼んでいる。この庚申塔はその一つである。山状角柱型の大きな庚申塔で、むしろ道標としての役割の方が大きいと思われる。

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正面には大きく「庚申塔」とあり、その下に「世田ヶ谷道」とある。右には「北 高井戸道」、左には「南 二子道」、また裏には「西 府中」と彫られている。造立年は享和2年(1802)で、高さは123㎝ある。

場所  世田谷区千歳台2丁目46-13

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2019年6月21日 (金)

東覚院門前の石仏(世田谷区千歳台)

現在の住所は世田谷区千歳台、江戸時代はというと幕府領廻沢村、明治になり品川県廻沢村、神奈川県北多摩郡廻沢村、明治22年に市町村制が始まり東京府北多摩郡千歳村に統合された。明治初期に環八以西のエリアの大部分が神奈川県に所属していたことを知る人は少ない。現在の千歳台がほぼ廻沢村である。

東覚院は古刹で開山は正応元年(1288)と古い。鎌倉中期に大和長谷寺より月空という廻国僧がここに草庵を結んだのが始まりと言われる。戦国時代には吉良氏に守られた。その後盛衰を繰り返したが、明治19年(1886)に大部分が焼失し、完全に復興したのは昭和に入ってからであった。

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正式名は青林山東覚院薬王寺。山門には青林山の扁額が掛かる。この山門は明治19年に焼失しなかったと聞いている。330年前のものが現在も残っているようだ。本堂には元亨2年(1323)あるいは享徳2年(1453)の板碑、墓所には文化11年(1814)の庚申塔があるようだが、今回は拝観できていない。

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山門に向かって左側には庚申塔が立っている。駒型で前面は青面金剛像と邪鬼、右面には世田ヶ谷領廻沢村講中拾八人とある。造立年は元文3年(1738)で江戸時代中期。庚申塔には白っぽいゼニゴケが付着していて文字が読みにくい。

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もう片側には寛文9年(1669)建立の舟型光背型の地蔵菩薩立像が立つ。前面には、「念仏供養道行男女五十人 庚申供養道行三拾一人」とあるので庚申塔でもある。「めくりさわ村」の文字もある。

廻沢の地名の由来は地形から。東覚院の西北の窪地は雨が降ると水がたまる沢地で、その為にこの水を烏山川へ落としていて、いわゆる水めぐる沢だったことから付いたと伝えられる。

場所  世田谷区千歳台4丁目11-11

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2019年6月20日 (木)

中和泉の庚申塔兼道標(狛江市中和泉)

小田急線和泉多摩川と京王線仙川を結ぶ松原通の田中橋交差点から少し北に進むと、西に入る細路地がある。この角に野ざらしの庚申塔が1基祀られている。野ざらし雨ざらしなので風化が激しい。全体的な劣化から文字が読み取りにくいのである。

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それでもブロックできちんと囲いがあるのはありがたい。狛江市の資料から彫られている文字を参照した。 形としては駒型で青面金剛像は十分わかるが、他の文字はなかなか難しい。狛江市の資料に同じ場所で昭和52年に撮影した写真があったので使わせていただいた。

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随分と街並みも道路も変わってしまったが、それでも江戸時代の庚申塔は同じ場所に鎮座。こういう写真があると散策していても、イメージが時空を超えて湧いてくるのでありがたい。

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造立年は安政5年(1858)だから明治維新の10年前。道標も兼ねており、右側には「右 高井戸宿」、左側には「左 国領宿」と彫られていたようだ。古地図を見ると細路地を行くと国領に至ることが分かった。また右というのは松原通りを北上し仙川で甲州街道に出る。その先江戸に向かうと高井戸宿になるということであろう。

場所  狛江市中和泉3丁目3-7

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2019年6月19日 (水)

田中橋跡の石仏(狛江市元和泉)

狛江市を多摩川に対して平行に北西から南東へ走っていた品川道(筏道)から南の登戸の渡しに向かう道があった。現在の松原通り(仙川から和泉多摩川への通り)がほぼそれに近い。現在も六郷桜通りとの交差点を田中橋という。この田中橋の下を流れていた水路は六郷用水である。六郷用水は慶長2年(1597)に徳川家康が多摩川下流低地の水田灌漑を目的に工事を命じたもので、慶長16年(1611)に完成した。喜多見の次太夫堀は六郷用水の別名である。

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田中橋交差点に斜めに合流する細街路がある。これが昔からの南北を繋ぐ古道である。三角形の敷地には稲荷神社がこじんまりと収まっている。その社の裏にいくつかの石仏が並んでいる。両脇の大きい石柱は田中橋の親柱である。この親柱には、昭和4年(1929)の竣工年が刻まれているので、江戸時代のものではない。昭和のものなのに江戸時代の他の石仏よりもはるかに欠損が多い。

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二つの親柱の間にあるのが庚申塔である。前面には、「武州多摩郡世田谷領和泉村八人講中」とある。造立年は宝暦13年(1763)である。舟型で青面金剛像の下に邪鬼と三猿が彫られている。塔の中央部分が折れた形跡があり、後年繋がれたのだろう。

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庚申塔の後ろにある墓石のような塔は廿三夜月待塔である。願主は「泉邑石井又市」とある。造立年は安永4年(1775)。日待塔や月待塔については、現在でも登山をしてご来光を拝んだり、初日の出を拝んだりするが、昔は特定の日に場所を決めて人々が集まり、夜もすがら忌み籠りをして日の出や月の出を待つ行事が広く行われていた。本来は満月の夜に行っていたものが、月は勢至菩薩の化身であるという信仰があり、特に23日目は勢至菩薩の縁日であることから、二十三夜待ちが盛んであった。

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参考に、狛江市の資料にあった田中橋の昔の写真を使わせていただいた。昭和39年(1964)のものである。東京オリンピックの頃、23区内は暗渠を埋めて臭い物に蓋をする土木突貫工事がお祭りのように進められたが、この辺りまで来るとまだまだのどかな風景だったようである。

場所  狛江市元和泉1丁目14-19

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2019年6月18日 (火)

和泉工業所の新旧庚申塔(狛江市東和泉)

狛江駅と和泉多摩川駅の間、小田急線と世田谷通りが絡むように走る。ファミリーレストランだった建物が居抜でデイサービス施設になっていた。この辺りは小田急線より南東側が東和泉、北西側が元和泉。以前はまとめて和泉と呼んでいた。デイセンター脇の路地を入ると、和泉工業所という水道設備屋さんのビルがあり、その敷地内に新旧二つの庚申塔が並んでいる。

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この水道屋さんが代々守って来られたのだろうか。左側が新しいものだが、古い方の完全コピーになっている。古い方は造立年が文化7年(1810)と200年以上も昔。 一方の新しい方は平成15年(2003)と極めて新しい。山型角柱で文字塔で「庚申塔」と彫られている。施主は下泉講中20人とある。

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新しい方の土台には三猿も描かれている。古い方の土台がいつのものかはわからないが、水道屋さんの言い伝えで昔の土台には三猿があったなどという話があったのかどうかは分からない。

庚申塔のある細路地は昔は和泉村の主要な村道であった。矢倉沢往還(津久井道)は登戸の渡しから庚申塔の近くまで一旦北上したのち、この庚申塔近くで東に向かう。猪方村を通って現在の二中通りで狛江三差路へ、そこからは現在の世田谷通りとあまり違わないルート。そんな街道から和泉の本村に向かう道がこの道である。

場所  狛江市東和泉1丁目35-9

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2019年6月17日 (月)

猪方の角柱庚申塔(狛江市猪方)

狛江市は明治22年(1889)に和泉村、猪方村、駒井村、岩戸村、覺東村、小足立村の6つの村が合併して狛江村となった。多摩川寄りの村であった猪方村は、その昔源頼朝が狩りで猪を射止めた場所というのが地名の由来と言われている。もっとも猪はあちこちにいただろうから、それなら全国に多くの猪方村がありそうなものだ。地名の由来というものはそういう一面もある。

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猪方1丁目6番地と5番地の間の丁字路の植込みに山型角柱型の文字塔の庚申塔がある。ここは猪方の北の端にあたる。これより北は和泉になる。庚申塔というものはそういう場所に置かれることが多い。民俗信仰というものは境の儀礼を伴うことが多く、塞ノ神を祀って悪いものの侵入を防ぐというのが本来の主旨である。

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この庚申塔の全面は大きく「庚申塔」という文字、それ以外の面は道標を兼ねている。右側が 東 江戸青山道、左側が 南 野みち、裏面が 西 大山道とある。大山道は現在の世田谷通り、別名を津久井道、登戸道とも呼ばれた。二子玉川を通るのも大山道だが、ここから登戸に渡るのも大山道(矢倉沢往還)である。この庚申塔の前の細い道は和泉村と猪方村の境界でもあり、昔の大山道でもあったのである。庚申塔の造立年は文政9年(1826)と江戸後期である。

場所  狛江市猪方1丁目5-7

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2019年6月16日 (日)

慶岸寺門前の庚申塔(狛江市岩戸北)

狛江市は東京のベッドタウンとして急速に発展した。高度経済成長期前の人口は1949年には1万人ほど、1952年に村から町になった。その後、東京オリンピックの1964年には3万人を超え、5年後の1969年には5万人を超えるという爆発的な増加を経ている。現在の人口は約8万人まで来ている。しかし駅を離れるとかつての農村風景が至る所に残る環境がいい。

その狛江市を東西に走る世田谷通りは昔からの街道(津久井道あるいは登戸道)。また江戸の町に木材を供給した青梅地方の筏師が大田区六郷に木材を荷揚げした後、歩いて青梅に戻るための筏道(品川道)という多摩川沿いの街道が交差していた。その街道の辻の傍にある寺が慶岸寺である。

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慶岸寺は南にある慶元寺の末寺で、村民の川合氏が開基となり、正保2年(1645)に僧然度が開山したという浄土宗の寺院。岩戸の住人川合氏は財産の半分を供出した。本寺の慶元寺は徳川以前に辺りを治めていた江戸氏(世田谷城主吉良氏の家臣)が文治2年(1186)に現在の皇居あたりに作った寺院だったが、江戸氏の領地が現在の喜多見に移るとともに移転した。江戸氏は徳川の町である江戸に配慮して、喜多見氏と改名したと言われる。(但しそれ以前に木田見氏がこの地に居たが、どういう関係かはわからない)

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その末寺慶岸寺の門前にかなり風化の進んだ庚申塔が立っている。文字はほとんど読めない。従って造立年も不明。板状駒型で青面金剛像と三猿が描かれていることは分かる程度。雨ざらしというのもあるだろうけれど、材質は安山岩だろう。稀に砂岩や花崗岩の庚申塔もあるが、風化が早いので適さない。安山岩でもやはり300年~400年が限界なのだろうか。

場所   狛江市岩戸北4丁目15-8

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2019年6月15日 (土)

宝性寺境内の石仏たち(世田谷区船橋)

宝性寺の山門を入ると正面に本堂、左手に船橋不動堂がある。船橋不動堂は昭和28年(1953)に宗教法人法の切換えの時、この寺の所有とならず国有財産となっている。そういうこともあるのだといささか驚いた。不動堂は本堂とは違った風情を醸し出している。

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不動堂の裏手には鐘楼があり、その奥が墓所になる。墓所の入口には、念仏供養塔を囲んで六地蔵が並んでいる。真ん中の念仏供養塔は元禄4年(1691)と古い造立で、正面には「意趣者念仏供養為二世安楽也 舟橋村」とあり、12人の施主の名前がある。高さは1.51mもあるなかなか大きな供養塔である。

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六地蔵の年代は正徳3年~5年(1713~1715)で、右から一番二番と六番まで書かれている。いずれも武州舟橋村の念仏講中によるものである。このように真ん中に供養塔があるのは珍しいように思う。

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六地蔵の堂宇の手前にある地神塔もまたたまにしか見かけない石塔。 この地神塔は明治27年(1894)の造立で、土地の神、農業の神を祀った塔である。春分秋分に近い戊(ツチノエ)の日に、田の神と山の神が交代、それが一年の農業の始まりと終わりを表すのである。この日には農具(鍬クワや鋤スキ)を使わずに休ませるという地神講によるもの。明治期にはまだまだ周辺は農村地域で、この辺りの地名は舟橋本村といい農村の中心的な場所だった。宝性寺や隣接する神明神社は本村だからこそここにあった訳である。

場所  世田谷区船橋4丁目39-32

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2019年6月14日 (金)

宝性寺門前の地蔵・庚申塔(世田谷区船橋)

宝性寺は真言宗波羅密山観光院宝性寺といい、川崎市小杉の末寺。開山は寛永年間(1624~1644)と伝わる。天保年間(1830~1844)より明治中頃まで荒廃して、西にある東覚寺が管理していた。明治19年(1886)に東覚寺が焼失した際に、宝性寺に関する史料も焼失し過去不詳になった。本尊は大日如来の木像。

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門前には、山門に向かって右側の植込みに地蔵立像が立っている。造立年は延宝4年(1676)と古いものである。資料によると、門前には夜泣地蔵という元禄年間の地蔵があり、子育地蔵として有名とあるが、この舟型光背型の地蔵立像はさらに古い延宝年間のものである。資料と異なるが、なぜそうなったのかは不明。

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門前にはもうひとつ、この地蔵立像の向かいに古い庚申塔がある。唐破風笠付角柱型の庚申塔で造立年は元禄16年(1703)である。正面には青面金剛像と三猿が彫られている。また側面左右には蓮華が彫られていて、存在感がある。この庚申塔はイボ庚申と呼ばれ、祈念するとイボが取れると信じられていた。

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いぼとりの石仏は各地に見かけるが、なぜ人々がそんなにイボを気にするのかが私には理解できない。しかし全国にはたくさんのいぼとり地蔵がある。疱瘡(天然痘)にご利益のある神もあるがそっちは当時の人知では治せなかったのだからわかる。民間信仰というものは不思議な面が多い。昔から日本人は神仏習合だけでなく道教も民間信仰もすべて吸収して自分たちの信仰を作り上げてきたクリエイティブな民族だった。庚申信仰も道教と仏教の合作に飲み食いの騒ぎを加えて定着した不思議な民間信仰であるから、奥が深い。

場所   世田谷区船橋4丁目39-32

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2019年6月13日 (木)

瀧坂道(船橋)の道標(世田谷区船橋)

赤堤通りは環七の世田谷代田から甲州街道の八幡山駅近くまでを走る区道。十数年前に希望丘通りと城南信用金庫桜上水店前の丁字路で接続した。それ以前は細街路として赤堤通りから荒玉水道道路へ連絡していたが、拡幅されて交通量も増えた。元々この赤堤通りも希望丘通りも古い道だが、赤堤通りのこの辺りは古道の瀧坂道で江戸時代には既に民家も集まっていた。

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ここの道標は小さくて、歩いている人ですらおそらく気付かない。私も探して見つけたくらいだから、よく残してくれたものだとありがたく思った。この瀧坂道は上北沢村と船橋村の村境でもあった。

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道標の正面には「向 土手〇〇」とあり、右側面には「向 右 千歳役場 左 宮坂停留所」とある。造立年は大正15年(1926)と新しいが、小田急線の開通が昭和2年(1927)だからそれよりも前である。「土手」というのは品川用水の土手のことだろう。大正時代以前、千歳船橋駅北西のバス停周辺は土手下という地名だった。宮坂停留所は瀧坂道を渋谷方面に行くと、世田谷八幡神社の北側に出る。そのすぐ近くに現在も世田谷線の宮坂駅がある。当時の千歳村役場は現在の榎交差点の北側にあった。榎庚申から路地を入った都立芦花高校の北側である。

場所  世田谷区船橋5丁目33-20

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2019年6月12日 (水)

世田谷線脇の堂宇(世田谷区若林)

世田谷線の松蔭神社前と若林の間に気になっていた場所がふたつあった。ひとつはこんもりとした森。これは峰松緑地(世田谷区若林3-30-10)で世田谷区が管理している公園だが、出入はできない。閉鎖したまま区の管理となっているのに文書では公園となっているのである。1,400㎡の樹林が鬱蒼と茂っている。

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峰松緑地の50mほど西側に二つ目の気になるものがある。野仏の堂宇である。世田谷区の資料にも載っていないし、どこを探しても記述がない。現地で得られる情報がすべてである。堂宇内には石仏が2基。左側の大きな方が板碑型の供養塔で、万治3年(1660)のもの。右側は舟型光背型なので庚申塔かと思ったら、文字を読み取る限りではこれも供養塔のようである。

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奉造立千手観音現当世成就と彫られている。造立年は貞享元年(1684)とある。これらを代々守ってこられただろうお宅が右隣りの河野氏らしい。これほど古いものがどの情報にも入っていなかったのは驚きであった。どちらも区内の石仏としては最古クラスで、よくこれまで守ってこられたと感心するばかりである。

場所   世田谷区若林3丁目23-8

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2019年6月11日 (火)

勝国寺門前の地蔵(世田谷区世田谷)

勝国寺も烏山川の崖線の際に建つ寺院である。天文23年(1554)に世田谷城主吉良家によって開山された。世田谷城の東北方向、裏鬼門にあたるこの地に鬼門除けとして薬師如来を祀って建立された。江戸時代は中野宝仙寺の末寺だが、この勝国寺も末寺を持っていた。本寺(本山)と末寺というのは主に江戸期に寺社奉行などが寺を管理する為に作り上げた制度で、多くの末寺を持つ寺は本寺、少しの末寺を持つ寺は小本寺と呼ばれる。勝国寺もいくつかの寺を末寺にしていたので小本寺であった。

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室町時代から戦国時代にかけて区役所あたりからこの勝国寺にかけては砦と同じ役割を果たしていたのだろう。吉良家が衰退し、徳川の時代になっても勝国寺は優遇されていた。歴代将軍から御朱印を与えらえたようだ。御朱印は現代も派手に流行しているが、江戸時代は寺はある種行楽地のようなものだった。御朱印も今の記念スタンプと同じようなものである。ただし将軍から与えられた御朱印というのはちょっと違うようだ。

江戸の切絵図(古地図)では神社や寺院はその敷地の範囲を赤く塗られている。幕府より寺社領として認められた場合に朱印を押した朱印状が与えられた。また江戸の町奉行の管理範囲を墨引というのに対して、寺社奉行の管轄範囲を朱引という。朱は寺社の色だったのである。その領内の租税は免除され、収入は寺のものになった。現代の宗教関連への非課税と似ている。

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山門脇に古い地蔵菩薩立像がある。村人たちが建立したものである。造立年は享保17年(1732)。堂宇もしっかりしたものが造られている。今もなお地元の人々に親しまれているお地蔵様である。

場所  世田谷区世田谷4丁目27-4

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2019年6月10日 (月)

くぬぎ公園の庚申塔(世田谷区世田谷)

くぬぎ公園と言っても小さな公園である。東急世田谷線の世田谷駅と世田谷区役所の間、実は区役所の西側は崖線になっていて5m以上の高低差がある。西側の崖線上に建てられたのが区役所の第二庁舎、その南側にくぬぎ公園がある。烏山川が形成した河岸段丘の崖線上の公園である。この公園の小高い丘にボロボロの堂宇に守られた2基の庚申塔がある。

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背後に見えるビルが区役所の第二庁舎。垂木とトタンでこしらえた簡素な堂宇である。しかし中の庚申塔は年代物。昭和中期の地図を見ると、第二庁舎が出来る前は崖線に神社があったようだが、思い出せない。くぬぎ公園は第二庁舎が出来たころに出来たような気がする。そしてこの古い庚申塔はいったいどこから持ってきたのだろうか。

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右の庚申塔は欠損と風化が激しく、年代もわからない。青面金剛像の上半身はかろうじて確認できる。左の庚申塔は折れた形跡があるものの、駒型の青面金剛像と三猿が確認できる。造立年も足元の部分にあり、享保9年(1724)と読み取れる。

場所   世田谷区世田谷4丁目17-17

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2019年6月 9日 (日)

中里の庚申尊(世田谷区上馬)

国道246号線の旧道である上馬~三軒茶屋の間の道は中里商店街という。蛇崩川を街道が渡る辺りを中里といったのだろうか。明治時代はまだ蛇崩川付近には商店が少なく、三軒茶屋側か上馬交差点側に街道筋の商店が集まっていた。三軒茶屋というのは本当に3軒の茶屋があったためについた地名である。田中屋、角屋、石橋屋(信楽)という3軒が大山街道の分岐点にあった。お茶屋というのは座敷にお膳を整えて、茶屋娘を置く接待料理茶屋である。カフェ的ではなく、少し場末になるとすぐに岡場所になるような店も茶屋といったが、三軒茶屋のそれはおそらくそういう店ではなかった。

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この中里通り(旧道)が明薬通りと交差するところにお堂がある。中を覗いてみると、庚申塔が1基祀られている。蛇崩川を渡った駒沢側にあったものが残っているのだろう。

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文字が赤くなっているのは後年誰かが塗り込んだものだろう。造立年は貞享2年(1685)、板状駒型で青面金剛像と邪鬼が彫られているが三猿は見当たらない。下の部分には14人の施主の名前がある。旧街道沿いは野仏が残っていて散歩も味が出る。

場所  世田谷区上馬1丁目33-11

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2019年6月 8日 (土)

小坂の地蔵(世田谷区上馬)

国道246号はかつての大山道である。世田谷区内でも何ヶ所か、旧道が分かれて残っている区間がある。最も長いのは駒沢の西の新町一丁目から二子玉川迄の旧道。その手前では三軒茶屋先から上馬交差点手前までの小坂という坂のある部分、あとは池尻の付近である。小坂は「ぼのぼのぶろぐ」の坂道でも紹介しているし、そこでも地蔵について触れている。(坂の方のページでは2017年の写真)

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地蔵の造立年は正保2年(1645)らしい。というのは再度調べてみたが、坂道散歩当時造立年をどこで知ったかを失念してしまったのである。大山道沿いなのでそれくらい古くても不思議ではない。地図を確認しても江戸末期以前の地図はなく、鎌倉道の詳細もわからないから、詳細は分からない。

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大山道はいずれ歩いてみたいと思っている。ただ大部分が国道246号(玉川通り)になってしまうのでどうも触手が伸びない。やはり旧道を歩くのがよさそうだ。

場所  世田谷区上馬1丁目13-11

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2019年6月 7日 (金)

上馬子育地蔵尊(世田谷区上馬)

環七の東側も西側同様住居表示は上馬。上馬は江戸時代の上馬引沢村に由来する地名である。三軒茶屋から数百m南を蛇崩川が流れており、その流域まで上馬引沢村であった。現在の環七の道筋につかず離れない位置を南北に走っていたのが鎌倉街道のひとつだと言われる。村道がその鎌倉街道に出合う辻に地蔵と道祖神があったのだろう。

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大きめの堂宇の中には舟形光背型の地蔵立像があり、両脇には後に作られたであろう小さな地蔵が並んでいる。地蔵立像の造立年などは分からない。きれいにされているがかなり欠損があり文字などがあるのかどうかわからないのである。見た感じでは江戸時代後期くらいのような印象を受けた。

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世田谷区の調査ではお堂の前にある道祖神の石柱の方の情報が残っていた。それでも造立年は不明である。お堂の表にある説明板には、鎌倉道と大山道が合わさる処、舟型の光背、右手に錫杖左手に宝珠の地蔵尊像と道祖神がある。江戸の頃に疫病が、また大正11年には疫痢が流行し、多くの人や子供が病に苦しんだ。村の人は心配のあまりお地蔵様に祈願を重ねた。幸いにもそのご利益が現れ皆助かった。それからはお地蔵様を子育地蔵尊と名を改めて祀った、とある。

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道祖神は知らなければ標識の石と間違われそうである。世田谷区の資料によると、土に埋まっている部分に道標が書かれているようだ。正面が、右 池上 品川 道、右面が、左 ほりのうち道、左面には、当村と彫られている。こちらも江戸時代後期のものだろうか。

場所  世田谷区上馬2丁目7-1

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2019年6月 6日 (木)

駒留陸橋脇の地蔵堂(世田谷区上馬)

駒留陸橋は環状七号線と弦巻通りと駒留通りが六差路で交差する複雑な交差点。タクシーの運転手の中にも曲がる先を間違える人がいるほどである。もちろん環七は昭和の道路。世田谷通りから玉川通りまでの環七は戦前に拡幅されたが、それ以遠の区間は東京オリンピックに間に合わせるように工事が行われたので、30年以上作り掛けだったことになる。

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駒留陸橋の南西、弦巻通りのひとつ裏の道に入ったところに地蔵堂がある。台座にも文字はなく、造立年などは不詳だが、かなり前からあったらしい。色んな資料を見てみたがこの地蔵の情報は見当たらなかった。弦巻通りのすぐ北側を並行して蛇崩川が流れていた。この地蔵の場所は環七の前にあった南北の村道(鎌倉道)から、品川用水沿いの六郷田無道に抜ける道の分岐点だった。

世田谷区の資料には、明治時代はこの近辺には7軒の農家があり、すべて横溝姓だったという。周辺はのどかな田園風景で、西南には箱根丹沢の山々と富士山、北西は秩父連峰まで一望できたとある。その横溝さんたちが造立したのかもしれない。

場所  世田谷区上馬4丁目33-10

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2019年6月 5日 (水)

上北沢勝利八幡神社(世田谷区上北沢)

珍しい名前の八幡神社がある。京王線桜上水駅の南約700mにある上北沢勝利八幡神社。住居表示は上北沢ではなく桜上水だが、元々この辺りは上北沢村だった。桜上水という地名が現れたのは駅名が「京王車庫前駅」から「桜上水駅」になった1937年以降で、駅の北200mを西から東に流れる玉川上水の堤に桜並木があることから駅名が変えられた。その影響で昭和42年(1967)に地名も桜上水となった。

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創建は古い。神社の説明書きによると万寿3年(1026)年と平安時代である。京都の石清水八幡宮より勧請。境内には合祀された山谷稲荷や天祖神社と並んで、この神社の古い本殿が格納されている。この本殿は区の有形文化財になっている。勝利という名前については、日露戦争以降のもの。氏子が日露戦争に出兵したが無事帰ったことから「勝利」の冠が付いたもの。

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なかなか風格のある本殿は昭和43年(1968)に建てられた。境内社の天祖神社の創建は慶長19年(1614)と古い。神社のすぐ北側をなぞるように北沢川が流れていた。江戸時代以降北沢川は玉川上水の水を分水していたが、流域には田んぼが広がっていた。この場所は小高い丘で、旧本殿はその丘の上に築山され、その上に建っていたと伝えられる。江戸時代から長い間、旧上北沢村の鎮守だったようである。

場所   世田谷区桜上水3丁目21-6

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2019年6月 4日 (火)

密蔵院の庚申塔と草木塔(世田谷区桜上水)

密蔵院には多数の石仏があることは前述した。荒玉水道道路側から訪問すると、手前の閉じた入口の前に2基の大型の庚申塔が出迎えてくれる。これほど大型の庚申塔は珍しい。

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右側の大型の庚申塔は駒型で青面金剛像に三猿が描かれている。造立年は元禄3年(1690)とある。高さは塀よりも高く2mほどはありそうだ。左側の庚申塔でも一般的なものよりかなり大きめなのだが、並ぶと小さく見える。こちらの造立年は彫られていない為不明である。同じく青面金剛像に三猿の彫られた駒型の庚申塔である。

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境内に入ると左の方に大きな地蔵菩薩がある。形がちょっと変わっている。高さは1.5m近くある。少し太り気味の地蔵菩薩。造立年は万治3年(1660)とかなり古い。その近くに珍しいものを見つけた。草木供養塔(草木塔)である。お寺の方に、とても珍しいことをお話ししたがご存じなかった。

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草木塔は山形県に多い。全国では約170基あると言われるが、山形県内に150基とほどんどが山形県にある。県外で最も多いのが東京都で8ヶ所。密蔵院以外では、等々力不動尊、用賀の無量寺、目黒区八雲の常円寺、狛江の泉龍寺、柴又帝釈天、大田区南馬込の長遠寺、そして久が原の安祥寺の8基である。山形にはしばしば渓流釣りに行くので草木塔はなじみ深い。田んぼの畔や村道の脇によく見かけるが、実はかなり珍しいものなのである。山形でも県南に多く置賜地方に7割があるそうだ。

場所  世田谷区桜上水2丁目24-6

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密蔵院と境内の諸尊(世田谷区桜上水)

密蔵院は幽谿山密蔵院観音寺が正式な寺名。縁起は、天正年間(1573~1592)下野国都賀郡水代(現在の栃木県栃木市)の城主だった榎本氏が城を退き、その子氏重と共にこの地にやってきた。当時の地頭であった鈴木家と懇意になり、天正8年(1580)に定住。その後都賀郡から来た僧頼慶法師がこの地にやってきて地頭の鈴木重貞が帰依し法師は当地の観音堂に住むようになり、慶長3年(1598)この地に観音寺が開山した。

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江戸時代には上北沢の勝利八幡神社の別当寺となり、当地にあった安楽寺(縁起元年(1744)開山)を明治8年(1875)に合併した。写真の本堂は延喜元年(1744)の建立である。境内には多数の石仏が保存されている。それらを見て回るだけでもあっという間に時間が過ぎてしまう。また本堂右手には水琴窟があり、静けさを味わうことが出来る。

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境内には古い六地蔵がある。仏教では、生前の悪事によって人は死後に地獄、畜生、餓鬼、修羅、人、天と6つの境遇を輪廻すると信じられている。地蔵菩薩はそれぞれの境遇の衆生の苦しみを救う存在である。地獄道は檀陀(ダンダ)、畜生道は法印、餓鬼道は宝珠、修羅道は持地(ジジ)、人間道は除蓋障(ジョガイショウ)、天道は日光、というそれぞれの菩薩が担当する。この思想が各地に六地蔵を造立させた。

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密蔵院の六地蔵の年代は西暦1670年~1711年の造立。最左は寛文10年(1670)、二番目は宝永8年(1711)、三番目は宝永3年(1706)、四番目は元禄元年(1688)、右から二番目が正徳元年(1711)、最右は元禄5年(1692)である。宝永年間は8年で終わり正徳年間になっているので西暦は同じである。右から二番目を除いて施主は同じなので、経済的な理由か作成時間の理由で41年もかかったのかもしれない。

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多数ある石仏の中から、7基並んでいる享保3年(1718)に造立されたものを紹介。施主はすべて鈴木左内とあり、地頭鈴木家の施し。左から順番に、千手観音立像、聖観音立像、馬頭観音立像、十一面観音立像、如意輪観音立像、准胝(ジュンチ)観音立像、勢至観音立像の7基。同じ日の日付が彫ってある。

場所   世田谷区桜上水2丁目24-6

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