2018年8月18日 (土)

弁天池の坂(北区赤羽西)

赤羽駅西口のイトーヨーカドーの裏手、もとは川筋だった弁天通り。 その名の由来でもある亀ヶ池弁財天は静勝寺の弁天を勧請して祀る地元の弁天講による弁財天で、歴史はかなり新しいもの。 昭和の後期、1980年頃のものらしい。

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江戸時代は亀ヶ池という大池の周りに湿地帯が広がっていたようだが、その亀ヶ池の北側の湿地帯の名残りがこの弁天の池かと思われる。 弁天の脇から路地はさらに伸びるが、その先の辻で崖線に出くわす。

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ここを上るのが弁天池の坂。 昭和の新坂である。

「亀ヶ池弁財天の西から南に赤羽台団地へ登る坂で、昭和34年(1959)から始まった赤羽台団地の造成にともなってできた新坂です。かつては、亀ヶ池弁財天から東北に登る坂があり、これを池の坂といいましたが、団地造成の時になくなりました。坂名は、この池の坂と亀ヶ池弁財天にちなんでつけられました。亀ヶ池は大正元年(1912)11月にほとんどが埋立てられ、現在はわずかに亀ヶ池弁財天にその名残りをとどめています。」

と北区の説明には書かれている。

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坂上は赤羽台団地の台地である。 大正時代から戦前にかけて、軍の被服庫だった頃、この坂上近くまで西側から引込線の鉄道が入り込んでいた。 坂上の遊歩道はその鉄道跡である。 被服庫は昭和中期までそのまま残っていたが、1962年に住宅公団の初期の大団地である赤羽台団地になった。 

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2018年8月17日 (金)

弁天坂(北区赤羽西)

赤羽台と稲付城の台地に挟まれた谷から南側の稲付城の台地に上る坂道。 なかなかの急勾配で谷底の道から尾根筋の道へ上っていく。 坂下の目印は今は珍しくなったコンビニのサンクス。 しかしコンビニの出退店は激しいのでランドマークにはなりにくい。 一辻先の赤羽西4-21-24の茶色のタイルの民家の方が坂下の目安になるかもしれない。

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坂を上り始めて間もなく右手に小さな祠がある。民家の屋敷神のようだが、道路に面していて地蔵尊が祀られている。 年代などは不明。  小さいながら弁天坂の中では存在感を放っている。

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坂下標高7m、坂上が21mで高低差は14mある。 坂下の弁天通り辺りはかつて大きな溜池だった場所。 江戸名所図会には「静勝寺 亀ヶ池 五葉松」とあるが、これは現在の京浜東北線の方から稲付城を眺めた構図。 稲付城の向こうに大きな池があり、それが当時の亀ヶ池である。

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「赤羽西四丁目の南の台地に登る坂。亀ヶ池の跡地には、現在商店が立ち並び道路も整備され、弁財天が祀られている。弁天祠に近い坂なのでこの名がつけられた。」と北区のHPにはある。

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2018年8月16日 (木)

三日月坂(北区赤羽西)

中坂の坂上から北に下る急坂が三日月坂である。 坂上には勾配20%の道路標識がある。 上部は標識通りの急坂になっている。 周辺の地形は興味深い。 北東に延びた突端地形の先は稲付城址。 稲付城は太田道灌が築いた戦国時代の砦の跡。 その首根っこから北側の谷に急落するのが三日月坂である。

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坂は少しだけ曲がっている。 この坂の周辺が開発されたのは昭和初期。 坂下の平たい低地は大正時代まで田んぼだった。坂下の窪地にある亀ヶ池弁財天の東側、現在のイトーヨーカドーの裏手は明治の初期まで大きな溜池だったようだ。

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坂上に標柱があり、次のように書かれている。

「道灌湯から東南に登り中坂へでる坂です。道灌湯のあたりに、大正3年(1914)帝国火工品製造所(導火線工場)ができ、この工場のためにできた坂といいます。工場へ往来する馬車などでにぎわいましたが、大正4年5月に工場は爆発事故で焼失しました。その後このあたりは住宅地となり、坂を登りきった北側あたりに三日月茶屋ができました。坂名はこれに由来しています。また、道灌湯が開業したことから道灌坂とも呼ばれています。」

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坂下の道灌湯は現在はない。 2006年に廃業したとある。 もちろん三日月茶屋もない。 しかし赤羽の地形を理解するのに重要な坂道である。 谷の奥には赤羽自然観察公園があり、縄文後期からの沼地や湿地が今に残されている。

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2018年8月15日 (水)

中坂(北区赤羽西)

中坂も江戸時代からの古道である。 昔は普門院の裏手から、真正寺坂に出る農道クラスの道だった。 真正寺坂の坂上近くにこの道とつなぐ無名の階段坂がある。  この階段坂は後の時代に7mほどある二つの坂を結ぶ目的で開かれたと思われるが、江戸時代の切絵図になるとここに道があったように描かれている。 明治頃にいったん消えた道が昭和初期に復活したのだろうか。

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中坂は徒党460号線(旧岩槻街道)からすぐに高度を上げる。 現在は広い道になっているが、昔は狭い道だったようだ。 13mほどの高低差を一気に登るので勾配はかなりきつい。 坂上で北方向に下る道が三日月坂である。

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北区の説明によると、岩槻街道から赤羽台へ上る坂道で、昔は農道で坂の途中に清水が湧いていた。 今は土地の人々の協力により切通しの道幅の広い道になっている、とある。 三日月坂は後に開かれた坂だが、この坂は赤羽台の尾根に急登する昔からの道。上り始めてすぐに左の切通しに上がる階段があるが、この地形が昔の中坂に近いのではないだろうか。

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2018年8月14日 (火)

真正寺坂(北区赤羽西)

赤羽駅西口と十条を結ぶ都道460号線は江戸時代の岩槻街道(日光御成道)。 赤羽駅南口から500mほど南西に下ったその岩槻街道沿いに交番があり、そこから真正寺坂に入る。 すぐに道路端の庚申塔が目に入る。 通常はお堂があったりするものだが、路肩にポンと無造作に立っている感じがいささか違和感がある。

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この庚申塔は1769年(明和年間)造立で塔の側面に「これよりいたはしみち」と彫られている。さすがに250年の年月が経過しているので、正面の青面金剛立像も台座の三猿も風化が進んでいるが、その年月を感じさせる素晴らしい石塔である。

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100mほど進むと上り坂の傾斜が急になる。 ここから赤羽台地へ上る。 この辺りは江戸時代の稲付村。 真正寺坂は岩槻街道と中山道の本蓮沼を結ぶ村の主要道だった。 坂の北側にある普門院は1307年(徳治年間)の開基の古刹。 坂は古道らしいくねりを見せながら上っていく。

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標柱は坂下の庚申塔の傍にある。

「岩槻街道沿いの赤羽西派出所から西へ登る坂です。坂の北側(赤羽西2-14-6付近)に普門院末の真正寺がありましたが、廃寺となり坂名だけが残りました。坂の登り口南側にある明和6年(1769)11月造立の庚申塔に「これよりいたはしみち」と刻まれていて、日光御成道(岩槻街道)と中山道を結ぶ道筋にあたっていたことがわかります。かつて稲付の人びとは縁起をかついで「しんしょう昇る」といって登ったそうです。」 と書かれている。

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坂上には古い蔵を利用したと思われる消防ポンプ小屋がある。 「稲付自治会災害対策部」と書かれている。  その下の大きなマンション(2014年築)は戦前戦後の地図を見ると工場になっている。 何の工場かはわからないが、この西側にはいくつもの軍施設があったのだが、戦後も残っていたところを見ると軍需工場ではなさそう。 昭和後期に別の施設(どこかの社員寮)になっていたような地図上の記載だが、気になって仕方がなかった。

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2018年8月13日 (月)

大坂(北区赤羽西)

赤羽駅から程近い坂道。 赤羽八幡神社方向へ進むと、日高屋がありその脇を入って赤羽台団地へ上る坂道が大坂である。 小さな坂なのに大坂と呼ばれるのはいささか不思議な感じがする。 とはいえ岩槻道から板橋街道へ抜ける江戸時代からの古道である。

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赤羽台には主に3つの谷がある。 南にあるのが稲付川、北にあるのが桐ヶ丘から流下する沢跡、そしてその間にあるのが赤羽自然観察公園から流下する沢筋で、明治時代まで赤羽駅西口の低地にあった溜池(亀ヶ池)に流れ込んでいた。 大坂の南側を並走する崖下の道がかつての沢の跡である。

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その沢筋の暗渠道を行くとやがて亀ヶ池弁財天に到達するが、それは弁天池の坂のところで説明したい。 大坂はその道を分けて赤羽台の台地へ上っていく。 坂下の分岐に植え込みに埋もれそうになりながら標柱が立っている。

「この坂は、赤羽駅西口から赤羽台団地へ登る坂で、古くから往来の多い坂です。昔は、赤羽から上の台に登り、旧板橋街道に抜ける坂でした。大坂の名は、その昔「小坂」と呼ばれた清瀧不動の石段に対するものとして付けられました。ここは、狸にまつわる民話が残っているところで、狸坂とも呼ばれます。また政右衛門坂と呼ぶ人もいます。」

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坂の途中に祠がある。脇に狐様がいて赤い鳥居だから稲荷だが、なぜこんなところに忽然と建っているのか不思議だった。 赤羽は戦前は軍施設が多く、赤羽台団地は被服庫だった。 辺りには引込線もあって現在は緑道になっている。 1962年に日本初の大規模団地として開発されたが、現在は老朽化が進み建て替えが進んでいる。

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2018年8月12日 (日)

野間坂(北区赤羽西)

日本の出版社の双璧は講談社と小学館と言われた。 講談社は音羽グループの中心、小学館は一ツ橋グループの中心。 現在は出版業界も激変し、縮小傾向にあるが、戦前戦後の講談社のブランドは相当なものだった。 その初代社長が野間清治。 そこから数十年野間家が講談社を支配した。

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右側の擁壁とフェンスに挟まれた坂道が野間坂である。 下の道の南側に稲付川が流れていた(現在暗渠)。 右側の擁壁は最近の工事で新しくなった。 壁の上は稲付公園である。 この崖の上は稲付川と別の沢が台地を削った突端になっている。 その向こう側は再び窪地になっていて、そこには鳳生寺がある。

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左側のフェンスは崖の高低差があるため、人が落下するのを是が非でも防止しようという意図が伝わってくる。 途中の稲付公園の入口に標柱があったのだが、訪問時は工事で養生されて見えなかった。

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標柱には、「この坂道の名前は、大正・昭和前期に活躍した出版事業家で、講談社の創立者でもある野間清治氏(1878-1938)の旧別邸前の坂だったところから由来しています。現在、野間氏の旧別邸跡地は北区立稲付公園となっており、区民の憩いの場として親しまれています。」とある。

北と東と南の眺望を備えた最高の邸宅立地だったはずである。

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2018年8月11日 (土)

水車の坂(北区赤羽西)

旧稲付川の崖線にある階段坂。 極めてよく似た階段坂が70mほど西に在り、どっちが本物の水車の坂か混乱する。 そもそも坂上の標柱に記されている住所がおかしいのである。

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「現在は石段(北区西が丘2-27-12地先)となっていますが、昔はこの下に水車小屋があり、近くの農家が利用していました。水車に荷を運んできた馬が坂の途中から落ちて死んだこともあり、お稲荷さんと馬頭尊とが並んで立っていました。現在は稲付川も暗渠となってしまい、水車もありませんが、石段は西が丘から十条銀座を通って十条駅へ向かう通勤の人でにぎわっています。」

とあるが、西が丘2-27はもうひとつの階段坂なのである(下の写真)。

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しかし明治時代の地図を見ると水車があったのは、先標柱がある方の階段坂の下であるから、ここは標柱の位置は正しく、表記が間違っているとすべきであろう。

水車の坂ももう一つの坂も途中でクランクになって下っている。 本当に瓜二つの坂なのである。

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この傾斜が階段でなく普通の坂だとしたら、これはもう登山道の領域である。馬でも途中で落ちることは十分にありそうだ。 しかし西が丘からこの谷を越えて十条へ通うといのはいささか疑問。 赤羽駅に出る方が距離も短いし、道も楽だからである。

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坂下にあったという水車は稲付川が二つの流れに分流している部分にあったもので、もう一つの流れは游鯉園の坂の下を流れていた。二つの流れの間には田んぼがあって、水車の坂と游鯉園の坂はその谷を横切って稲付村と上十条を結ぶ数少ない道だった。

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2018年8月10日 (金)

游鯉園の坂(北区十条仲原)

赤羽駅の南西一帯の地名でもとは上十条の一部が分離して十条仲原と呼ぶようになった。 十条台地の野原の中央という意味である。地形としては、小河川である稲付川(北耕地川)が削った谷の南側にあたる。 この稲付川の谷は台地を結構深くえぐっている。 その流域から南の十条仲原へ上るのが游鯉園の坂。

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またこの坂道の道筋は十条仲原3丁目と上十条5丁目の町境にもなっている。 谷の下と上を結ぶ道である。 江戸時代は谷を流れていた稲付川が南の十条村と来たの稲付村の村境だった。しかし江戸時代にはまだこの坂道はなかったようだ。 地図を読む限りでは明治になってから開かれた坂道である。

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坂の途中に標柱がある。

「十条仲原の台地から稲付川(現在は暗渠)に下る坂です。大正時代から戦前まで、坂下の川下にあった川魚料亭が遊鯉園で、この坂の名前は、その料亭の名に因んで付けられた俗称です。明治の頃、坂下に水車小屋があり、旧稲付村(ほぼ、現在の赤羽西、西が丘、赤羽南にあたります)の農家がよく利用していました。」 と書かれている。

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坂上一帯は関東大震災で焼け出された人々のための新興住宅地として開発された。 大正後期から昭和初期にきれいに耕地整地され同潤会が売り出した。 現在の表参道ヒルズや代官山が「元同潤会アパート」として有名だが、北区の赤羽西と十条仲原も大規模な同潤会の事業であった。 同潤会は関東大震災に寄せられた義援金を基に設立された団体(財団法人)で、大規模なディベロッパーで、その開発は東京横浜のあちこちにたくさんあった。

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2018年8月 9日 (木)

清水坂(北区中十条)

旧街道や古道の周りには小さな神社が多い。 北区王子から赤羽辺りを歩いていても、つい見落としてしまいがちな小さな神社や祠が沢山ある。 江戸時代はこの辺りも小さな集落に分かれていて、それぞれの集落の入口に厄や災いを入れない意味合いで神社を祀った。 現在各地で正月に行われるどんと焼(どんどん焼)もそこで前の年のお守りなどを焼く儀式を行った名残である。

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環七の交差点が馬坂の頂上、清水坂もそこから赤羽方面に下っていく。 坂道はかつての岩槻街道(日光御成道)である。 坂の途中に東京都設置の青銅の読めない説明板がある。

「十条の台地から稲付の低地に下る岩槻街道(日光御成道)の坂である。昔はけわしく長い坂道だったので十条の長坂などとも呼ばれた。切り通しの崖からはたえず清水が湧き出ていたので、清水坂の名が付けられた。現在は崖が削りとられて、その跡に児童遊園が設けられているが、そこは貝塚遺跡でもあった。」 と書かれている。

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清水が沢山湧出ていたので、それを利用して岩槻街道を行き交う旅人を狙いにお茶屋があったという。 ここは台地のハケになっていて、たくさんの湧水があった。 そのため江戸時代どころかずっと古い時代の貝塚などもある。 このハケの湧水を合わせた小川が、ここから王子に流下し、音無川に注いでいた。

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その貝塚(清水坂貝塚)があった場所は小高い丘になっていて、若宮八幡神社が鎮座している。 地元ではここを八幡山と呼ぶ。 享保年間(1716~1736)に鎌倉の鶴岡八幡宮から分祀したという。 そのために「若宮」と付いているようだ。

貝塚があったというのも、この場所は古代は波打ち際の海岸線だったためで、このエリアは「清水坂遺跡」といい、縄文時代から弥生時代にかけての遺構や出土品が多い。 この上野台地の崖線沿いは上野駅周辺まで途切れなく遺跡が出てくる場所で、古代から人々の営みが綿々と続いてきたエリアである。

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2018年8月 8日 (水)

馬坂(北区中十条)

環七通りが京浜東北線を越える跨線橋「平和橋」に向かって下るのが馬坂とされている。 現在は交通量の極めて多い大幹線で、平和橋の上には東北上越新幹線も走っている。 坂上の歩道橋脇に十条八雲神社がある。 小さな神社で見落としがちだが、創建は寛政年間の1796年。 北区史によると老杉の大木があったらしいが現存はしていない。

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環七通りの歩道に東京都設置の御影石の標柱が立っている。

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「昔は低地の村村から板橋宿へ通じる急坂で、坂下に荒沢不動の池があった。この道は姥ヶ橋地蔵尊の付近で王子へ通じる稲荷道と交差し、御成橋を経て板橋宿に至る。坂の名は豊島村馬場の「馬」に関係があるように思われるが、坂の地形が馬の背に似ていたからともいう。以前は農家の耕地への往復にも役立っていたが、付近の都市化と環状七号線の開設で役割も形状も著しく変化してしまった。旧道は平和橋手前を右に下っていた。」 とある。

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北区の説明でも環七通りを(新)馬坂、脇の階段の道を(旧)馬坂としているが、古い地図を見るとこの階段坂を下り線路を横切るルートが昔の道筋である。 急坂なので荷馬が立ち往生してしまうため馬坂と呼ばれるようになった。 かつては階段下の線路側の斜面に旧道の跡があったらしい。

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坂下にあったという荒沢不動の池は移設されていて、線路沿いを少し東十条駅方向に行くとある。 小さな祠だが、かつて村に疫病が流行った時、出羽の国羽黒山の荒沢不動を勧請して祀っていた。 環七脇にあったというが、昔は線路から東側にはたくさんの池が広がっていた。

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2018年8月 7日 (火)

石神井坂(北区中十条)

JR東十条駅の西口、改札を出て歩道橋を渡るとそのまま崖線上になる。 ここから西は埼京線十条駅まで繋がる商店街の一角。 昔ながらの賑わいを見せている。 この商店街の路地から線路際の道路へ下る坂道がある。 これが石神井坂である。

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坂上の料亭跡らしい家は、商店街側だけがレンガ張りになった不動産屋。 表と脇とではまったく顔の違う家屋で面白い。 裏手には崖線上へ上る階段がある。 崖線上の都道460号線は昔の岩槻街道。 こちら側が本来街であった。 一方現在は賑やかな線路の東側は関東大震災までは一面田んぼだったが、関東大震災以降住宅開発が急速に進んだエリアである。 石神井坂は明治時代からこの崖下の田んぼと岩槻街道を結ぶ道だった。

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道路付けだけを見ると線路わきに降りるのが目的の後からつけた道のようだが、この道が周辺では岩槻街道の次に古い道というのは意外である。

北区のHPではこの坂ではなく駅への階段を石神井坂としている。「旧石神井坂は、東十条駅北口の崖に沿って南から東に下る坂で、昔は台地から耕地への通路であった。新石神井坂は、東十条駅の北口通路として設けたもので、中央部は跨線橋であり、その両端に階段が設けられており、橋の中央部に北口がある。」

しかしこの設定には違和感がある。 もともと古い道は写真の道であり、駅の階段こそ後付けの道だからである。

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2018年8月 6日 (月)

御代の台の坂(北区滝野川)

国道17号線中山道の滝野川5丁目の変則五差路から北東に入る路地はかなり寂れた宮元商店会という商店街。 細路地の商店街を歩くと、店主の顔が見える。 戦後の高度成長期に育った私は、故郷に帰った時、昔あんなに賑わっていた商店街がまるでゴーストタウンのようになっているのを見ては時の流れを痛感する。 ここはそれに近いものがある。

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しばらくは高低差のない平坦な道である。 街灯に商店街のバナーがたくさん下がっているのは、残った店主たちが頑張っている証拠であろう。 こういう道は東京にはたくさんあるが、概ね古い道である。 ここも例に漏れず江戸時代からの古道である。

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標柱はないが、北区のHPにこんな説明がある。

「旧中山道から滝野川村への道で、『御府内(場末)往還其外沿革図書』に載っている旧道の一つ、両側は商店街となっている。坂の途中の八幡神社への参道の商店街を越えて坂を降り切った所に、寛文11年(1671)滝野川右平造立の、子育地蔵が満願御礼の奉納布に包まれて祀られている。」

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坂下付近の辻には交番(現在は御代乃台地域安全センターという施設だがお巡りさんが居た)があり、その向かいに古い商家がある。 軒先に、「江戸へ三里」と彫られた石碑が置かれている。 「滝野川船津」とあり、由緒ありそうな風情、滝野川中央自治会とあり八幡神社の祭礼の中心となるお宅のようだ。

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そこからさらに下ると、子育て地蔵尊がある。 これも歴史を感じさせる。「御代の台」という由来在りそうな地名については調べてみたがわからなかった。 別名ごぼう坂とも呼ばれていたらしい。交番のところに標柱があったが車がぶつかって壊れたまま取り外されたそうである。

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2018年8月 5日 (日)

狐塚の坂(北区滝野川)

JR板橋駅(埼京線)を出て東口の先には東西に旧中山道が走る。 駅ロータリー前には近藤勇の墓があり、パワースポットと言われるが、この手の都市伝説はほぼすべてフェイクである。 寺社仏閣や墓所はそういうものではない。

旧中山道に出る直前、道路が盛り上がっているが、これはかつての千川上水の跡。 駅前から中山道へ出たところは一里塚があったところで、痕跡はないが地図には平尾一里塚跡とある。 この少し東側から北へ伸びる路地がある。 昔は賑やかな商店街だったのだろう。 「きつね塚通り」という街灯が立っている。

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この狐塚通りは滝野川八幡まで続いている賑やかな道だったが、昭和になって新中山道(国道17号線)が開設されて途切れた。 途切れた先には現在滝野川消防署三軒家主張所があり、その左手を下るのが狐塚の坂である。

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「滝野川第六小学校の南から 南西へ登る坂です。坂名は、坂を登った東にある滝野川消防署三軒家出張所のところに狐塚という塚があったことによります。ここから南西向かい側の重吉稲荷境内にあった寛政10年(1798) 造立の石造廻国塔に、「これより たきの川べんてん・たきふとう・おふし・六阿弥陀・せんぢゅみち」という道標名が刻まれ、岩屋弁天・正受院への参詣や六阿弥陀詣での人びとが利用したことをしのばせます。」 と標柱には書かれている。

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坂を下っていくと視界が広がり小学校が見える。 ここは滝野川第六小学校だった。 平成29年(2017)に閉校になり、2018年9月には跡地利用の案が作成される予定。 小学校がなくなることは、国が滅亡することに繋がることだと思う。 効率を考えての校区改変のようだが、お金の問題ではない。 また地域崩壊が起こるのかとがっかりした。

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坂下にはその名の通りの坂下堂というお店がある。 こういう地形を由来にした名前はいい。 いっぽうの坂上の狐塚は現在はないが、消防署の東側に稲荷の祠がある。「滝野川伏見稲荷」とある。 昔の人は屋敷稲荷をはじめ、稲荷神社を大切にした。 そのため稲荷神社の柱数は最も多い。 稲荷に続くのが八幡である。 稲荷は19800柱とも32000柱とも言われているが、屋敷神を入れるとはるかに多いのではないかと思う。

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2018年8月 4日 (土)

谷津観音の坂(北区滝野川)

谷津観音の坂はごく短い直線の坂道で極めて緩やかな坂道で、石神井川にかかる観音橋から北にある真言宗寿徳寺までの短い坂である。 首都高速中央環状線の開通で様相が激変した西巣鴨から滝野川八幡神社前を通り石神井川の観音寺橋に至る道は江戸時代からの古道である。

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橋の北側に谷津大観音が鎮座している。 これは2008年に寿徳寺の境内外に設置されたいささか俗っぽい観音様。 さすがに拝観料などは取らないが、個人的にはなぜこんなものを作ったのが疑問に感じた。

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谷津観音の坂はここから50mほどの緩い坂。特に何も表現のしようがないが、寿徳寺の参道の一部だった道なので、歴史は古い。 寿徳寺の創建は鎌倉時代。 境内には新選組近藤勇の墓がある。 板橋あたりからこの滝野川では、近藤勇はある種ヒーローの様な印象がある。

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坂上から見ても向こう側が少しだけ低いな、という程度のものである。 江戸時代の切絵図にはこの道に大門道と書かれている。明治維新の新選組隊長の近藤勇は板橋刑場で斬首された。 そして首は京都の三条河原にさらされたが、胴体はここ寿徳寺に埋葬されていると伝えられる。

寿徳寺には谷津子育観音が安置されており、境内のイチョウはかつては遠くからも望めた大銀杏だったが、今は枯れて折れた後再び枝を芽吹かせている状態である。

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寿徳寺の入口の右側に近藤勇のレリーフなどがある。 左の地蔵脇には坂の標柱がある。 不思議な場所に建てたものである。

「この坂は、石神井川にかかる観音橋の北から寿徳寺へ登る坂です。坂名は、坂上にある寿徳寺に谷津観音の名で知られる観音像がまつられているからです。江戸時代には大門通ともよばれていました。谷津というのはこの当りの小字名です。今でも 谷津子育観音とも呼ばれる谷津観音へお参りに行く人々などに利用されています。」 とある。

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2018年8月 3日 (金)

三平坂(北区岸町)

江戸時代に王子村の名主畑野孫八が邸内に築いたのが始まりで、名主の滝の呼び名もそこが起源である。1850年頃には安藤広重に描かれているので、江戸の末期だろう。明治になって畑野家から垣内氏に所有が変わり、庭園として整備された。 昭和13年に精養軒が買取りレジャー施設にしたが空襲で焼失、現在の姿は1960年に東京都が公開した状態である。

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現在は水が湧いているわけではなく、地下水を汲み上げた水を落としている。 園内には4つの滝があるが、稼働しているのは男滝だけ。 他の3つの滝は水がないが、安藤広重の絵には男滝と女滝が見事な滝として描かれている。

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この名主の滝公園の北側を上るのが三平坂。 稲荷坂と同じくらいの傾斜の名坂である。 この道も江戸時代からある道で、江戸時代はこの辺りを「岸」と呼び、坂上を「岸ノ上」と呼んでいた。 またこの坂は江戸時代の王子村と十条村の村境でもあった。

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北区の情報では、「名主の滝公園の北端に沿って台地へ登る曲がりくねった坂道である。坂名の由来は、江戸時代の絵図にある三平村の名からとも、室町時代の古文書にある十条郷作人三平の名からともいわれている。農家の人が水田へ下る通路であったが、名主の滝への道としても利用されたようである。」とある。

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三平坂の坂下標高は6m、坂上は23mあるので、実際に歩くと長い坂だと感じる。 王子稲荷坂とほぼ同じくらいの傾斜だと感じた。 坂上まで名主の滝公園の盛土の擁壁と鉄格子が続いている。 この鉄格子が木製だったらもっと雰囲気が良いのにと思ったのだが。

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2018年8月 2日 (木)

王子稲荷坂(北区岸町)

北区にある王子駅から東十条駅までの台地側の崖線とその下の街区は「岸町」という。  ここに台地の上と下を結ぶ坂道がいくつもある。 かつて江戸湾が入り込んでいた時代、この辺りは海岸だったので、「岸村」という村が出来た。それが王子村となったが、昭和41年に岸町という名前として海岸線の名残りが復活した。 この京浜東北線沿いの崖線は海食崖である。

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岩槻街道(日光御成道)の王子大坂を上ると崖線上の台地の道になる。 そこから岸町へ落ちるように下っていく坂道が王子稲荷坂である。 坂上は王子第二小学校。 そこから急傾斜で下る。 反対側には中央工学校、田中角栄は中卒というフレコミだが、実は専門学校であるこの中央工学校を出ている。 総理大臣になる前はここの校長も務めていた。

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坂の途中に王子稲荷神社の横入口がある。 王子稲荷は江戸でも有名で、『名所江戸百景』には「王子装束ゑの木大晦日の狐火」というおどろおどろしい作品がよく知られている。現在の線路の向こう側にある王子装束稲荷神社の大榎の下に関八州の狐が集まり、王子稲荷へ列をなしてお参りに行くというものだ。

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坂の途中に標柱がある。

「この坂は、王子稲荷神社の南側に沿って東から西に登る坂で、神社名から名前がつけられています。また江戸時代には、この坂を登ると日光御成道があり、それを北へ少し進むとさらに北西に続く道がありました。この道は姥ヶ橋を経て、蓮沼村(現板橋区清水町)まで続き、そこで中山道につながっていました。この道は稲荷道と呼ばれ、中山道から来る王子稲荷神社への参詣者に利用されていました。」 とある。

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王子稲荷の参道は崖下にあり、立派な山門から入り階段を上って社殿に至る。関東稲荷総社の格式で江戸時代から庶民に親しまれた。 境内にある「狐の穴跡」は落語「王子の狐」の舞台にもなっている。

崖下のエリアは社域に占める幼稚園の割合が大きく、山門と幼稚園が絡む何とも不思議な景色である。

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2018年8月 1日 (水)

王子大坂(北区王子本町)

権現坂の坂下近くから北に延びる上り坂がある。 王子大坂である。 現在は普通の街の道なのだが、江戸時代は日光御成道だった道である。 日光御成道は飛鳥山の南側を巻いて石神井川に下ると、現在の王子駅北口辺りで大橋という橋で石神井川を渡り、Uターンするように権現坂下に至っていた。 その先には名主の滝方向から流れてきた沢があり、三本杉橋で沢を渡ると上りが始まる。 まっすぐに上るのが王子神社へ向かう権現坂。 右に折れると赤羽を経て日光へ繋がる日光御成道であった。

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写真の辺りの王子大坂の坂下付近は権現坂と同じく階段道だった。 それだけ急な坂道だったのであろう。 坂下には王子子育地蔵尊が奥まってある。 この子育地蔵は室町時代末期に建てられたもの。 空襲で傷んでしまったがまだきちんと祀られている。 土地の人はこの坂を地蔵坂とも呼んでいる。

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カーブが終わった辺りに標柱がある。

「飛鳥山に沿って東におりた岩槻街道は、石神井川を渡って左に曲がり、現在の森下通りを抜け、三本杉橋の石の親柱の位置から北西に台地を登る。この坂が王子大坂である。岩槻街道は江戸時代、徳川将軍の日光社参の道で日光御成道と呼ばれた。登り口に子育地蔵があったので地蔵坂とも呼ばれ、昔は縁日でにぎわった。また、坂の地形が、海鳥の善知鳥の嘴のようなので「うとう坂」の名もある。」

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江戸時代はこの坂道まで王子稲荷の社域だったようだ。 坂下の標高5mから、坂上の十条台地(標高23m)までを上る坂道なので長い。  日光御成道(岩槻街道)はほぼ現在の台地の上の都道455号線、460号線で赤羽まで道筋は変わっていない。 古い道なので交通量は多いが両側に民家が迫っている。

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2018年7月31日 (火)

権現坂(北区王子本町)

王子駅前にそびえる北区のビル「北とぴあ」の前の道、JRのガードをくぐると上り坂が始まる。 権現坂は上りきる手前で左に折れる。 まっすぐの道も左へ折れて王子神社の鳥居に向かう道も江戸時代からある古い道で、権現坂の由来は王子神社がかつて王子権現と呼ばれていたことに帰する。

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江戸時代にはこの坂下に十条方面から流れ名主の滝を合わせた川が流れており、三本杉橋が架かっていた。 江戸の切絵図はこの坂道は階段道として描かれている。  駅からくる道が権現坂の坂下に出るところに古い石柱がある。 かつての三本杉橋の親柱である。 こういうものが残されているのは極めてうれしいこと。

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坂の途中に標柱がある。

「権現坂とは、この坂を下った交差点から王子神社の鳥居付近まで登っていく坂道をいいます。権現という坂の名称は、王子権現社の権現から採った名前ですが、これは、神仏分離以前の王子神社が王子権現と呼ばれていた点に由来しています。坂の下の交差点付近は江戸幕府の将軍が日光東照宮に参拝するための日光御成道の路上にあたり、ここは、三本杉橋という橋も架かっていました。三本杉橋は橋の袂(たもと)に三本の杉があったのでつけられた名称といわれています。」

坂の途中、カーブが始まるところで交差する道の王子神社側が権現坂の続きである。

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王子神社の創建は1322年。 豊島郡を支配していた豊島氏が、石神井川の高台に紀州和歌山県から勧請した王子大神を祀る熊野神社を建てた。 豊島氏から北条氏に代わってからも寄進を受け、江戸時代には徳川家との関係も深くなった。

8代将軍吉宗は紀州の出身(紀州徳川家)だったため、この王子神社をたいそう盛り上げ、飛鳥山を江戸町民の憩いの場所にするなど、特に深い思い入れをした。

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境内には大きな銀杏の木がある。「王子神社のイチョウ」として都の天然記念物に指定されている。幹回り5.2m、樹高24.2mあり、推定600年の樹齢と言われている。 この巨木は音無川親水公園の上にそびえるように立っていて、震災や戦災を越えて生き続けている迫力を感じさせる。

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2018年7月30日 (月)

飛鳥大坂(北区王子)

都電荒川線の飛鳥山駅から王子駅前駅の区間、都電が明治通りの真ん中を車と並走するのが飛鳥大坂である。 都内では少なくなった路面電車区間は独特の風情がある。 大通りながら10mの標高差をカーブで下る景色は圧巻である。 別名は飛鳥坂、飛鳥山大坂。

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坂上の飛鳥山脇に御影石の標柱がある。 「いまはきわめてゆるやかな勾配だが、「東京府村誌」には「飛鳥山坂、本村(滝野川村)にあり飛鳥橋の方に下る長さ一町十二間三尺、広さ三間、坂勢急なり」と記されているように都内でも有数な難所であり、荷車の後押しで手間賃をかせぐ人もいた。昔は将軍家の、日光御社参の行列もここを通った。」と彫られている。

飛鳥山は徳川吉宗が王子権現に社領を寄進して桜を植えさせ、江戸の街のリゾートに仕立てた場所である。 江戸時代にはここから筑波山を眺めたという。

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40年くらい前、下北沢に住んでいた。そこから東北方面へ車で行くときはなぜかここをよく通った。首都高速が浦和までなかった時代で、ここから赤羽岩淵、川口と走った記憶がある。その当時から景色があまり変わっていない坂である。 都電のイメージに及ぼす役割はとてもインパクトのあるものだ。

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江戸時代の地図ではここは日光御成道になっていて、王子村と滝野川村の村境だった。 六石坂から飛鳥大坂の間には「此辺茶屋多シ」とある。当時は水茶屋といって、近代の喫茶店の様なものだった。

大正時代には都電が開通している。 都電のレールのあるこの坂をJRのガード越しに見る風景が私は好きである。

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2018年7月29日 (日)

妙見寺坂(北区西ヶ原)

飛鳥山公園の東側に沿って上るのが妙見寺坂。 説明板や標柱はない。 線路沿いの路地を進むと、やがて飛鳥山公園の敷地の端までくる。 路地はそこから右に折れ線路から離れる。 飛鳥山公園の石垣に沿って急登が始まる。

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雰囲気のいい坂道である。 戦前、坂下の線路沿いの道は水路に沿った道だった。 この水路今は消えてしまったが、流程からすると王子街道沿いの音無川である。 この線路わきの道は王子街道の名残り。 戦後のバラックに小料理屋やスナックが並ぶ場末感のある路地を入ると間もなく飛鳥山線路側の遊歩道的な道になる。とても街道だったとは思えないが、古い地図では妙見寺坂下で線路のある場所に街道が続いている。

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妙見寺坂も江戸時代からある古い道である。 坂を上りきったところが西ヶ原の一里塚。 今は静かな坂だが、江戸時代はもっと人通りのある坂だったのだろう。 しかしこの坂は古い道筋でも無名の坂だったようだ。

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戦後、坂上に日蓮宗の妙見寺が移転してきた。 それによって妙見寺坂と呼ばれるようになったという。 それ以前は、地元の人々は飛鳥山公園の敷地にあった渋沢栄一の邸宅の横から裏に回る坂という意味で「横裏坂」と呼んでいたという話がある。またこの辺りには王子七滝のひとつ大工の滝があったとも言われる。

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2018年7月28日 (土)

牛蒡坂(北区西ヶ原)

道音坂の坂上から北に入る路地の坂道である。 標柱もなければ特徴もないので、あらかじめ用意した地図がなければ探し当てられない坂だろう。 かつては坂の入口にパン屋さんがあったが、店舗を畳んでしまった。隅切りにある自動販売機がパン屋さんの名残り。

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あとは牛蒡坂に入って2軒目の栗山耳鼻咽喉科が目印だが、これもいつまであるかはわからない。 坂はここから下り、辻で底になり、都電の踏切にむかって再び高度を上げる。

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牛蒡坂の由来は、周辺の地域がかつてゴボウ、ニンジンの生産地で、特にゴボウは滝野川牛蒡と呼ばれたブランド農産物だったことから来ている。 辻の低い部分は北側を流れる逆川の脇流によるものだろう。

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都電が通ってからぽつぽつと民家が増え始めたが、まだ畑ばかりの土地だった。 しかし関東大震災以降急速に民家が建ち始め昭和に入ってから畑は消えてしまったという。

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2018年7月27日 (金)

道音坂(北区西ヶ原)

最寄り駅は都電荒川線の西ヶ原四丁目駅。 西ヶ原四丁目にあるこの道音坂(どういんざか)は現在は路地の様な道だが、江戸時代から続く道で、日光御成道と中山道を結んでいた鎌倉街道のひとつである。

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江戸時代坂下には王子の音無川に注ぐ支流の沢が流れており、その谷から台地に上る坂道。 谷田川の流れに近いが、地形図を見ると飛鳥山西脇の方が標高が低い。 この谷は「逆川」の痕跡。

大昔の石神井川は王子の手前で南流し谷田川筋を流れて不忍池辺りで海に注いだ。 王子駅周辺の地形については、古石神井川が海岸線の段丘を突き抜けて東に注いだという河川争奪説と、人工開削説があるが、私は前者を支持したい。 この逆川が後に時間をかけてできたとすると、人口開削は中世以前になり、それだけの大規模な土木事業はまだできなかったという考察をしている。

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道音坂途中の分岐の道もまた江戸時代からの古道である。 坂を上らずに左に進むと江戸時代の道は下瀬坂に繋がっている。旧東京外語大のキャンパスの中を通っていた古道だ。

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坂の途中に標柱がある。

道音坂は、西ヶ原4-29-1地先から滝野川1-32-6地先まで続く坂道で、旧西ヶ原、滝野川の村境に沿った坂道でした。明治時代の「東京府村誌」に「坂名ハ道音塚アルニ由ル」とあり、江戸時代の地誌には西ヶ原村内「滝野川地ニアリ」と塚について記されています。道は浅草道と呼ばれ、本郷と上野の二つの台地を結ぶ道で、中世は鎌倉街道だったと伝えられる古道です。

と書かれている。

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2018年7月26日 (木)

車坂(北区上中里)

蝉坂とモチ坂の間にあるのが車坂。 この辺りは崖線下に鉄道が何本も敷かれるに従って、崖の上下を繋ぐ道が次々と消滅して行った。 現在車坂は滝野川女子学園を巻くように上っているが、江戸時代の坂はこの辺りから崖を下り、坂下の音無川を渡り王子街道に出ていた。

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車坂は昔は車が通れるような広い道ではなかった。しかし現在は周辺に車が通れる坂は少なく、ここを通る車も多い。 今は蝉坂の道と合流して跨線橋で何本もの線路を越えている。

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この坂とモチ坂の間は、江戸時代将軍鷹狩り場の管理をする御用屋敷だった。 今は影もないが、その御用屋敷沿いに下る坂道だったので、当時は別の名前があったのではないかと思う。とはいえ、現在線路が広がる場所は当時の田んぼであり、台地上に住みそこで農作業をする人々のための農道の役割が大きかったのではないだろうか。

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2018年7月25日 (水)

モチ坂(北区上中里)

モチ坂は現存しない。 崖っぷちにポツンと標柱が立っている。 かつてのモチ坂の道筋は崖で突然終わっている。 各地に痕跡を残す古い坂道はいくつもあるが、きちんと標柱のあるものはほとんどない。

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崖っぷちには現在道路が通っていて、落下防止の金網の手前に標柱はある。

ここは坂の坂上に位置し、崕雪頽(がけなだれ)という急斜面を蛇行して下る坂道の跡がわずかに残されている場所です。坂は上駒込村から上尾久村方面へと向う上尾久村道の途中に位置していました。鉄道が通るようになると坂下には踏切が造られ,大正時代の末から昭和の初期には跨線橋がつくられるにいたりました。モチの木が坂上にあったといわれ、明治10年代の『東京府誌・村誌』にはモチ坂とありますが,この名称は後にはあまり使われなくなっていったようです。

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モチ坂は漢字では黐坂と書く。 食べるモチは餅だが、こちらはモチノキの黐でありトリモチの黐である。 しかし坂名は尻餅をつくほど急坂だったことでしばしば付けられる坂名なので、なぜ漢字表記が黐坂なのかはわからない。

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現在は20本ほどの線路が走っていて上記地図の北側にも尾久駅があり400m近い幅で数十本の線路が走る。 しかし上記地図(関東大震災前)は3本ほどで、モチ坂はくねって高度を下げ、最後は数mの高さで鉄道と小川(音無川)を越えて、王子街道に出ていた。神田あたりの江戸っ子が飛鳥山へ行楽に行くのに往復していた道で、当時から続く羽二重団子の本店も日暮里にある。

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2018年7月24日 (火)

庄内坂(北区中里)

山手線唯一の踏切である第二中里踏切、もちろん山手線だけに開かずの踏切だが、平日の朝夕を除くと意外と開く。 しかし地元では小学生の通学路にもなっていて、内側の田端小学校へ外側から踏切を渡って通学する児童がいるという。 おそらく踏切が開かずに遅刻する子もいるのではないかと思う。最も近いう回路も300m近く離れている。 難儀なことだ。

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踏切の中里三丁目側の標識が汽車ポッポのデザインなのが面白い。 電車の形ではバスと見分けがつかないので、蒸気機関車のデザインを使っているのかと思ったが、電車のタイプもあり、なぜわざわざ山手線唯一の踏切に汽車ポッポなんだろうか。 個人的には好きだが。

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この踏切の脇を上っていくのが庄内坂である。 坂上には山形県の学生寮があって、稲荷神社の前に黒御影石の標柱が立っている。 学生寮の名前は駒込学生会館。 明治時代からの伝統ある学生寮でかつては「館」といい、旧庄内藩の学生会館だった。

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現在はやまがた育英会が経営母体となり、建替えられて駒込学生会館という名になっている。 その折に庄内の名前が消えるのを惜しんで、関係者がこの坂を庄内坂と命名し碑を建てた。

ちなみに山形県の庄内と荘内の違いは同じものとされている。 庄内地方でも混在していて紛らわしいが、明確な線はないのだから仕方がない。

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2018年7月23日 (月)

八幡坂(田端)

八幡神社の脇の坂道で八幡坂である。 八幡神社の正式名は上田端八幡神社。 江戸時代はこの辺りは田端村で、村内は上田端と下田端という二つの地域に分かれていた。 下田端の鎮守は東覚寺脇の田端八幡神社で現在はそちらの方が有名。

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境内にある末社の白髭神社の由来が鎌倉から室町の伝承を有しているが、八幡神社は江戸期辺りからのようである。 都内にもこういう経営とは無縁の神社が多数あるが、時代と共に寂れてしまう傾向にあるのは残念だ。

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八幡坂は神社脇をほぼまっすぐに上っていく。 神社脇に説明板がある。

坂の名は、坂下にある八幡神社に由来します。八幡神社と大龍寺の境あたりの道を挟んだ反対側にあった紅葉館に小説家の堀辰雄が下宿していたほか、この坂の近くには、小説家の菊池寛、詩人の室生犀星、画家の倉田白洋、彫刻家である吉田三郎や池田勇八が住んでいました。芥川龍之介はその随筆に「踏石に小笹をあしらったのは、詩人室生犀星の家」と書いています。

とある。やはりここも坂の説明にはなっていない。

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北区は文士村を前面に押したいのだろう。しかし文士村は明治末期以降のもので歴史は浅い。神社そのものはもっと深い歴史を持つので、民俗的なものを追及する姿勢も欲しいものである。

江戸時代の八幡坂は神社裏手でいったん北西に折れて再び北東に向かう路地が当時からの道筋。 現在は計画道路にぶった切られているが、台地の街道に接続していた。

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2018年7月22日 (日)

江戸坂(田端)

田端駅前から田端高台交番への坂道。 台地の上の道と切通しの道を繋ぐ連絡道になっている。現在は生活主要道路の連絡路だが、江戸時代は高台から現在の線路東側の低地へ下る農道だった。 かつては20mもの断崖を下る道だったが、鉄道が敷かれて田端駅が開かれてからは連絡橋の高度までの道になって高低差は半分になった。

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坂のイン側にある高層ビル田端アスカタワーの敷地に「田端文士村記念館」がある。 文化人というのは坂の街に住まうのが好きな様子で、本郷辺り、大森駅周辺といずれも急な坂道の多い場所に集まっている。

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坂の途中に北区の説明板がある。

田端の台地から下谷浅草方面へ出る坂道で、坂名もそれに由来するもののようです。この坂の近くに、詩人の室生犀星、俳人の滝井孝作、画家の池田輝方、池田焦園夫妻、画家の岩田専太郎、詩人の福士幸次郎が住んでいました。坂上の左手に露月亭という茶屋があり、陶芸家である板谷波山が35歳の頃、そこで、飛鳥山焼と銘を入れた徳利と猪口を売ったことがあったということです。

と書かれているが、江戸坂の説明になっていない。

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坂名の由来についてはかつて日光御成道からこの尾根筋の道に入ってくると、この辺りの高台から江戸の街が見えたのではないかと思われる。 ここ20年で田端駅周辺は変貌してしまい、文化村の名残りの個人商店もほとんどなくなった。 時代の流れである。

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2018年7月21日 (土)

ポプラ坂(田端)

明治末期以降の坂。 江戸時代からある石坂と八幡坂の間にある坂で、住宅街の中のなんの変哲もない細路地の坂道だが、田端文士村の中で存在価値を上げている坂道である。

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坂上の田端保育園のところに説明板がある。

ポプラ坂
     (田端文士村)
田端保育園はポプラ倶楽部の跡で、ポプラ坂の名はこれにちなむものです。 ポプラ倶楽部は、明治41年ごろ、洋画家の小杉放庵(未醒)が作ったテニスコートで、田端に住む洋画家の社交場となったものです。 陶芸家の板谷波山、洋画家の山本鼎、彫刻家の吉田三郎、詩人の室生犀星、小説家の菊池寛などが、このすぐ近くに住んでいました。大正2年、田端に越してきた芥川龍之介は、その1か月目に、ポプラ倶楽部のことを手紙に書いています。

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エンジに塗られた歩道は数年前に舗装されたようで、坂道の滑り止めになっているが、かつての痛んだアスファルトの方が坂風情はあったように思う。 坂の高低差は10mほどで、坂下の谷は谷田川の流れによるものである。

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2018年7月20日 (金)

石坂(田端)

田端高台交番前の交差点から田端小学校へ下る道である。途中田端小学校の角で新しい計画道路にぶった切られ、そこから南は少し道がズレている。 しかしこの道は江戸時代から続く古い道。 段丘の下から連続して続き東覚寺前の道に繋がっていた。

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小学校南側の計画道路は古河庭園前から東覚寺坂下の都道458号線に繋がるようである。 住宅地にドンと広い道路があるのは違和感があるが、何年かしたらここの交通量が増加し小学生が危ない思いをするようになるのだろう。 しかしこの道路もう50年以上工事中で、いつできるかはわからない。 山手線を渡す部分などはもう工事不可能な気もする。

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江戸時代に切絵図はまっすぐに繋がっているのにこの道のズレはどうしてだろうかと考えた。 調べてみると、戦前はまっすぐだったようだ。 空襲で焼け野原になって再開発時に計画道路があったのでこんな風になってしまったのではないかと推察している。

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計画道路から先もまだ下り坂が続く。 坂下は関東大震災以前は藍染川(谷田川)が流れていた。 現在は完全暗渠になっている。 都道458号線に谷田橋交差点があるが、交差する道がかつての谷田川、現在は二車線の道路になっている。

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2018年7月19日 (木)

田端八幡男坂・女坂(田端)

田端八幡神社は、田端村の鎮守として信仰された神社で、応神天皇を祭神とする。1189年(文治5年)に源頼朝が奥州征伐を終えて凱旋するときに鎌倉鶴岡八幡宮を勧説してここに創建した。東覚寺は別当。 江戸時代は赤紙仁王はこの参道入口にあり、八幡神社の門が閉ざされて本殿で参拝することができなかったため、仁王尊のところで参拝するのが通例だった。

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参道の中程、一の鳥居の手前には石橋が埋められているが、これは昭和初期の改修工事によって暗渠となった谷田川に架かっていたもので、記念保存のためにここに移された。境内には稲荷社の他に富士浅間社と三峰社があり、富士講も行われていた。

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直進が男坂、右側の坂が女坂である。 大きな神社には必ずと言っていいほど、この男坂・女坂がある。  田端八幡で面白いのは別当の東覚寺が神社を取り囲むように位置している点である。 廃仏毀釈でいじめられても、民間信仰(赤紙仁王)に支えられて寂びれることなく続いた。

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仁王像の患部と同じ場所に赤紙を貼り、治癒すると、草鞋を奉納する。 この草鞋が稲刈りの掛け干しのようにぶら下がっているのはそれだけご利益があるからだろう。 別当というより、八幡と東覚寺は共存共栄している感じがする。

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女坂の脇に富士講の富士塚がある。現在でも毎年2月20日に富士講の祭事が行われている。 そして田端八幡が位置する上野台地には高い密度で寺社仏閣が点在する。 氏子を考えても、あまりに密度が高すぎるような気もするが、それだけ人々の季節ごとの催事(祭事)が生活に深く密着してきたのであろう。

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2018年7月18日 (水)

東覚寺坂(田端)

田端駅前(北口)の通りは新しくできた都道458号線。 動坂下から田端駅周辺までの通称道路名は田端駅前通りという平凡な名前。 低地との標高差20mほどの上野台地の半島地形を切通しで抜ける。 この切通しが作られたのは関東大震災の復興時あたり。 法面には見事に石垣が積まれているのは、大正~昭和初期の高い土木技術のなせる技だろう。竣工は昭和8年とある。 この石垣の南側には芥川龍之介らの文士村があった。北側の崖上の道は途中で折れており、芥川旧居に向かう。 一方南側は切通し先の田端八幡下から上り坂で台地上まで上っている。 これが東覚寺坂である。

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坂下の都道の歩道に青銅の読みにくい説明板がある。『田端切通しにそって台地へ上がる旧坂で、昔は田端八幡神社の別当寺東覚寺墓地への参道で、「東京府村誌」に長さ20間、広さ1間3尺と記されている。寺の前には、2基の大きな仁王の石像があり、病のある部分に赤紙を貼ると、病がなおると信仰されており、谷中七福神の一つ、福禄寿も祀ってある。蜀山人の狂歌「むらすずめ さはくち越えも ももこえも つるの林の鶴の一声」の碑がある。』と書かれている。

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東覚寺の山門脇にある赤紙仁王尊(1641年作)はユニークだ。 九品仏堂の前にある金剛力士像には赤紙がベタベタ貼られている。 通称赤紙仁王と呼ばれ、病を患った人が自分の幹部と同じところに赤紙を貼ると治癒するという信仰である。 江戸時代は田端八幡の門前にあったが、明治初期の廃仏毀釈運動でここに移された。 こういう庶民信仰は実に面白い。

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東覚寺坂は、昔、東覚寺の墓地が田端八幡の北裏にあった頃、葬送の列が神社を通ることは許されないために開かれた坂である。 昭和に入って切通しの都道が出来たため、その側道的な位置づけになってしまったが、江戸時代からの道は形を変えながら今に残っている。

もともと江戸時代まではお寺と神社と庶民信仰が見事に融合して民間信仰を形成していたのに、明治の廃仏毀釈で日本の文化そのものがかなり破壊されてしまった。 これは日本の歴史の中でも最大級の汚点だと思っている。 時に人は集団になるとこういう愚かなことをやってしまう。 しかしそういう行為をする文化がすぐに滅ぶことも、大日本帝国やドイツナチス、イスラム国などを見れば容易に理解できる。 つくづくもったいないことをしたものだと思う。

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2018年7月17日 (火)

上の坂(田端)

上の坂、または上之坂と書いて「かみのさか」と呼ぶ。 坂上には芥川龍之介の旧居跡がある。 とはいえ場所だけで、現在は普通の民家が建っている。 芥川は大正3年から自殺する昭和2年までの13年間ここに住み、「羅生門」「鼻」「河童」などの小説や俳句を執筆した。 芥川旧居跡から不動坂に向かって30mほど進んだところから谷に下るのが上の坂だ。

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芥川の旧居は澄江堂といったが、この辺りは空襲で焼け野原になり跡形はない。 上の坂も戦前は階段坂ではなく、昇り降りに難儀するような急坂だったようだ。 反対側の田端駅に行くのも急坂、こちらに下るのも急坂、芥川はいわゆる馬の背に住んでいたわけだ。

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坂上の北区が設置した説明板には次のように書かれている。

「坂名の由来は不詳です。 この坂上の西側に、芥川龍之介邸がありました。 芥川龍之介は大正3年からこの地に住み数々の作品を残しました。 またこの坂の近くに、鋳金家の香取秀真、漆芸家の堆朱楊成、画家の岩田専太郎などが住んでいました。 芥川龍之介は, その住居を和歌に詠んでいます。
    わが庭は 枯山吹きの 青枝の
      むら立つなべに 時雨ふるなり」

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この崖線は脆い地質なのか法面の崩れた部分を何ヶ所か見かけた。 しかし文人というのは坂のある場所が好きなようで、坂歩きをしていると文人の住居跡をよく見掛ける。江戸時代にはこの道はない。 関東大震災前の地図にもない。 しかし杣道の様な道があったのではないかと思う。

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2018年7月16日 (月)

不動坂(田端)

JR田端駅にはホーム中程から桟橋を上った南口がある。 とてもマイナーな駅前で山手線の駅前としてはもっとも長閑な印象。 駒込駅東口も鶯谷駅北口もローカル色満載だが、田端駅南口は断トツ。 ローカル線の駅にも似ていてホッとする。 南口は田端の崖線の中腹にあり、そこから崖上に上る階段道が不動坂である。

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不動坂は大きく分けて下側の階段と上側の階段がある。今ではマイナーになってしまった石の階段だが、コンクリートよりも滑りやすいものの歩く感触は遥かにいい。 標高は線路が5m、改札が14m、不動坂の上が23mある。

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最上反対の垂れ幕がある。 写真は2016年のものだが、現在は階段の南側に葬祭会館がオープンしている。 駅近の斎場で周辺にも迷惑は掛からないから良いだろう。 うちの近所にも斎場があるが、アクセスの悪いところに多いように思う。

踊り場から崖下を望むと、新幹線や在来線がひっきりなしに通る。 縄文海進の頃はここは波打ち際だった。 江戸時代の崖線を上下につなぐ道はこの不動坂と、田端駅北口近くの江戸坂辺りにあった。

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坂上に標柱があり、次のように書かれている。

「田端駅東口から南西へ登る坂です。 坂名はかつて田端駅東口付近に石造不動明王立像が安置され、不動の滝があったことによります。 この不動明王像は、明治45年(1912)5月に始まった田端駅拡張工事により現在地付近へ移され、さらに谷田川改修工事にともない, 昭和10年(1935)11月に現在地(田端3-14-1隣接地)へ移され、田端不動尊となっています。」

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もとは田端新町の方に下る長い坂道だったが、大部分がJR線路の貫通で分断されて一部が残ったのが現在の階段坂。 大正時代から昭和の初めにかけて多くの文豪がこの崖上に住んでいた。 芥川龍之介、室生犀星らが文士村を形成していた。 東大時代の芥川が親友への手紙に、『ただ厄介なのは田端の停車場へゆくのに可成急な坂がある事だ。それが柳町の坂位長くって路幅があの半分位しかない。だから雨のふるときは下駄で下りるのは大分難渋だ。そこで雨の降るときには一寸学校が休みたくなる。」と書いている。

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2018年7月15日 (日)

与楽寺坂(田端)

与楽寺は今でも大きな寺である。 与楽寺坂はその西側の斜面を上る。 坂下に北区設置のバス停風のユニークな説明板がある。

「坂の名は坂下にある与楽寺に由来しています。「東京府村誌」に「与楽寺の北西にあり、南に下る、長さ二十五間広さ一間三尺」と記されています。この坂の近くに、画家の岩田専太郎、漆芸家の堆朱楊成、鋳金家の香取秀真、文学者の芥川龍之介などが住んでいました。芥川龍之介は、書簡のなかに「田端はどこへ行っても黄白い木の葉ばかりだ。夜とほると秋の匂がする」と書いています。」

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与楽寺坂もまたくねり方の素晴らしい名坂だと思う。 この道は古く江戸時代からの道筋で、不動坂を経て崖下の田端駅東口側の低地に繋がっていた。 今は民家が並ぶがかつては与楽寺脇を上っていく坂道であった。

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与楽寺の開山は不明だが、境内には南北朝時代の石塔もあるので1300年代は下らないだろう。 坂の途中に魅惑的な階段坂もあり台地の上に続いているようだ。 与楽寺本尊の地蔵菩薩は、別名「賊除け地蔵」と呼ばれる。

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賊除け地蔵の由来は、ある晩押入った盗賊をどこからともなく現れた多数の僧侶が追っ払ったのだが、翌朝地蔵の足に泥が付いていて追っ払ったのは地蔵だとわかり、大変なご利益があると人気になった。 なんだか本当かウソかわからないような逸話だが、それがまた面白い。

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2018年7月14日 (土)

幽霊坂(田端)

田端の台地側、道灌山の手前にある坂。 もともと京浜東北線沿いが武蔵野台地の海食崖ライン。  標高は崖下の5mから崖上の23mに18mも駆け上がる。 ところが少し崖から離れると再び標高が低くなる。これは谷田川(藍染川)が削った谷である。 しかし規模が大きい為、おそらくは旧石神井川が谷田川筋を流れていた頃から削られたものと思われる。

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坂上にある田端台公園辺りは江戸時代の道灌山の平らな頂上にあたる。 そこからくねりながら与楽寺裏に下っていくのが幽霊坂。くねり方も遠望も優れた名坂だが、江戸時代はこの坂は与楽寺の境内の中だったようだ。明治32年に与楽治の南側の敷地に東京脳病院が出来た。 病院は戦時中の昭和18年に閉鎖されたが、その記録が面白い。 「戦争熾烈となり、院長健康を害し廃院」とある。 現在の精神病院だが、裏のストーリーがあったのではないかと訝る。

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道が出来たのは病院の開院の頃ではないかと思われるが、元々人通りのある道でもなく、与楽寺の樹木と南側の樹木に覆われて、さぞ暗い坂だっただろう。 単純に幽霊坂と呼ばれたのも寺の裏手だけに致し方ない。 暗闇坂でもよさそうなものだ。 坂歩きの先人もこの坂には高い評価を与えているが、私も同感である。

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2018年7月13日 (金)

六石坂(北区西ヶ原)

六石坂も岩槻街道(日光御成道)の坂である。 王子飛鳥山の南東の端から下りになり、北区飛鳥山博物館辺りまでの区間を呼ぶ。 古くは鎌倉街道に始まる古道で、江戸からの一里塚が坂上にある。 国指定史跡の西ヶ原一里塚である。 日本橋から日光御成道を進んで二里目の一里塚。 徳川時代から場所はそのまま、なので道路も塚を迂回して走る。

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大正時代に道路改修で取り壊されそうになったが、渋沢栄一らが反対してそのまま残された。 一里塚というのは江戸の初め(1604年)に主要街道の1里毎に道の両側に塚を築き、榎を植えたもの。 街道のマイレージになるとともに、駕篭賃などの基準にもなり、休憩所にもなって、一里塚の周りには商家民家が集まるという経済的に大きな変革をもたらした。 これを意図した徳川家康はやはり大したものだと思う。

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大通りだけに勾配はあまり感じられないが、高低差は8mほどある。 飛鳥山側の歩道に東京都の御影石の標石があり次のように書かれている。

東京府村誌に「長さ二十四間、広さ三間、元と坂上に租六石を納る水田あり故に云ふ」とある。江戸切絵図には「六コク坂」と記されている。この道は岩槻街道(旧日光御成道)で、飛鳥山の前へと続いているため花見時などには賑わいをみせた。付近にはこの辺りに鷹狩などに来た将軍の休み場としての御立場(おたちば)もあった。

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現在の滝野川公園周辺は将軍の御鷹狩り場で、「御林御殿山」と呼ばれた。御用屋敷もあり、当時の鷹狩りは何千人もの家来を同伴する大がかりなものだった。 8代将軍徳川吉宗が鷹狩りの度に飛鳥山に足を延ばし、石神井川の流れを故郷の紀州の音無川に重ねた。 そして庶民の娯楽になるようにと桜を植えさせて、安寧の世ならばこそと夜桜見物まで庶民に許し今の飛鳥山の花見が始まったという、テレビの暴れん坊将軍を彷彿とさせるストーリーに繋がっている。

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2018年7月12日 (木)

木戸坂(豊島区駒込)

木戸坂は明治以降の坂である。 駒込の台地から谷田川へ下る崖の道だった。 坂上には現在駒込東公園がある。 この公園も台地の縁にあり、戦災復興区画整理事業により1965年に生まれた公園で桜の名所、谷田川沿いの低地の眺めがいい。

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この公園の裏手(東側)から下る曲がりくねった崖の道が木戸坂。 この公園の向かい側一帯が明治維新の政治家、長州藩の木戸孝允の屋敷だったことから木戸坂と呼ばれるようになった。 木戸孝允は維新以前は桂小五郎という名前だった。西南戦争中に病死したが、西郷隆盛とは対立していた。

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実際にこの崖線は10mほどの高低差だが、昔のままの傾斜が残っている坂道だろう。 山手線の駒込駅を知る人は最初に不思議に感じるのだが、本郷通り側の改札はホームから階段を上っていくのに対して、霜降橋側の東口はホームから階段を下りて出る。そして道はガード下に通っている。 谷田川の川筋はもう一本田端寄りのガード下になる。

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2018年7月11日 (水)

妙義坂(豊島区駒込)

駒込駅前から本郷通りを霜降橋まで下る道が妙義坂。 この道は古い道で、鎌倉街道~日光御成道~岩槻街道~本郷通りなどいくつもの通り名がある。 坂下の霜降橋は谷田川を渡る橋があったところで、この谷田川も境川、谷田川、谷戸川、藍染川、蛍川などいろいろな名前で呼ばれた。

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道幅が広いのであまり坂という印象はないが、坂上は23m、坂下は13mで10mの標高差がある。  この谷田川水系は一説には石神井川の流れだったと言われ、ある時王子の飛鳥山脇で海食崖を崩して当時海岸線だった王寺駅で海に直接注いだという。 現在の石神井川はそのまま堀船で隅田川に注ぐが、地形を見ると頷けるところがある。

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さすがに歴史ある道なので史跡には事欠かない。江戸時代から続く妙義坂子育地蔵尊が坂の東側にある。 また坂の西側の裏手には妙義神社がある。 染井の台地が妙義神社のところだけ突端のように突き出しているその高台にある。

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あたりの地形を観察すると、現在の本郷通りは盛土をして傾斜を緩やかにしているが、昔はもっと急な坂だったようだ。 一方妙義神社は昔からの台地の縁にあるので、数mの標高差を階段で上ることになる。 神社の説明だと創建は651年、日本武尊によるものらしい。あまりに古すぎる。中世戦国時代になって太田道灌の戦勝祈願の神社として栄え、妙義坂の名前の由来でもある。

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「坂の西方駒込3丁目にある妙義神社が坂名の由来であり、「大日本名所図会」に「妙義神社は駒込妙義坂下にあり、道路の西に、『これよりみょうぎみち、やしろまで半丁』と記せし石標を建つ。(中略) 当社の祭神は日本武尊にして、左に高産土神、右に神功皇后、応仁天皇を奉祀す。社伝に『日本武尊東征の際 此地その陣営となりたれば後に一社を建て白鳥社と号す』」と記されている。」

と駒込駅前にある青銅の説明板には書かれていた。

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2018年7月10日 (火)

染井坂(豊島区駒込)

染井坂は西福寺と駒込小学校の間の坂道。 道筋としてはそのまま谷田川(藍染川)まで下り、そこから東進して霜降橋に出る。 坂下までは上駒込村、川沿いからは西ヶ原村だった。西福寺の開山は不明だが、江戸時代初期にはすでにあったとされている。境内には染井稲荷神社がある。

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坂下の駒込小学校の辺りは、江戸時代は大分県豊後府内藩二万石の抱屋敷だった。坂を上ると植木屋通りに面して、三重県伊勢津藩32万石藤堂家の下屋敷があった。 そして現在の染井霊園の辺り、谷田川(藍染川)の源頭の湧水池がある辺りには兵庫県播磨林田藩1万石竹部家の下屋敷があり、そこに湧いていた名泉を「染井」と呼んだのが始まりで、そこから村の名前にまでなった。

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江戸時代の染井は相当賑わったようで、江戸の市民の経済が1700年過ぎから国の安定と共に大きく拡大し、植木の人気は極めて高かったという。 今でも下町に行くと家の軒下に植木鉢が並ぶ風景を目にするが、この染井がそういう江戸の街の姿に影響を与えてきたのである。

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坂上には植木屋として活躍した旧丹羽家の住宅蔵が残され、旧津藩江戸下屋敷の門が移築された公園がある。 この門は前述の伊勢津藩藤堂家の門だったものを丹羽家が持ってきた。 その移築方法は現在も残る曳家という方法で、明治の初期に染井通りの向かいの丹羽家に移築し、さらに近年そこにマンションを建てるため、この裏手の公園に曳家で移築したようだ。

門は腕木と言われる梁で屋根を支える建築様式で、江戸時代の腕木門としてはこれが唯一現存するものらしい。

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2018年7月 9日 (月)

有松坂(豊島区駒込)

駒込駅南口の六義園の角から北西にまっすぐ伸びる道は江戸時代の道である。 六義園は奈良の大和郡山藩(15万石)の下屋敷で今でも六義園の人気は高い。 この斜めのまっすぐみちの奥に染井霊園があり、その手前には北島康介、寺川綾を輩出した東京スイミングセンターがある。

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この東京スイミングセンター前から北に下る道がある。 これが有松坂。 この道も江戸時代からの道である。 江戸時代、駒込駅からのまっすぐな道には植木屋が立ち並んでいた。 有松坂の由来は単純というか、かつて坂上に有松という人が住んでいたために呼ばれるようになったという。

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有松坂は植木屋通りから谷田川(藍染川)に向かって下っていく。 谷田川の源流はこの辺りで二つの流れに分かれていて、南側の流れが坂下になる。 そこには法成寺という寺があるが、これは昭和になってここに移転してきたもの。 昔は傾斜地は植木の栽培、川沿いの低地は田んぼが広がっていた。

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2018年7月 8日 (日)

下瀬坂(北区西ヶ原)

ゲーテの小径を南に進むと北区と豊島区の区境の道に出る。 私は染井霊園の間の道からアプローチした。 現在はとてもきれいな坂道に整備されているのが下瀬坂である。 かつての東京外語大学のキャンパスを南から西に回り込むように上っていく。 新しい道に見えるが実は江戸時代からの道筋。

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坂下は藍染川の源流。 江戸時代はいくつもの湧水があり、それらを集めて上野に流下していた。またここはソメイヨシノのふるさとでもある。 東京外国語大学は戦前神田、麹町、西ヶ原と移転し、1933年に滝野川区西ヶ原の元海軍爆薬部跡地に落ち着いたが、空襲で全焼。 戦後この地で再興し、2000年には府中に移転した。 跡地は西ヶ原みんなの公園という広々した公園になっている。

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坂の途中の標柱には次のように書かれている。

この坂名は、明治32年(1899)、ここに設けられた「海軍下瀬火薬製造所」に由来します。戦前に製造所は舞鶴(京都府)へ移転し、跡地は東京外国語大学のキャンパスとなりました。(現在は移転)。このあたりは、江戸時代に幕府の御薬園があり、谷田川の水源となる湧水もありました。

谷田川とは藍染川の別名。

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2018年7月 7日 (土)

熊野坂(北区西ヶ原)

北区西ヶ原にゲーテの小径なる通称道路がある。 小径というには広く、二車線で両側に歩道が付いている。 1989年に北区が小径プロジェクトというのを始めたところ、ここにゲーテの記念館を建ててゲートの小径とするという、ちょっと無理とも思える施策をやり通したようだ。 施設名は東京ゲーテ記念館という。

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ゲーテの小径の一本東の本当の小径が熊野坂である。  江戸時代からある古い道だ。 坂の下寄りに標柱がある。

「この坂は、谷田川通りから西ヶ原3-30の不動院墓地までの坂で、名称は昔、不動院境内にあった熊野神社に由来します。江戸時代の地図によれば,当時の不動院の境内はこの坂に面していて、その北の隅に宝永(1704-11)年間にまつられたという熊野神社が描かれています。つきあたりの道は鎌倉道といわれ、本郷台地から推定豊島郡衙跡に至るので鎌倉時代以前の道とも考えられます。」

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不動院は現存する寺院。 江戸時代の初期の開山。 また反対側(坂の西側)のマンションは2013年頃建てられたが、それ以前は万年塀があって暗い細道の坂の雰囲気があったのが一気に現代的になった感がある。

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2018年7月 6日 (金)

大炊介坂(北区西ヶ原)

北区の旧古川庭園の前から駒込の霜降橋で下る道が大炊介坂である。 現在は本郷通りの一部として広い道になっている。 古川庭園は武蔵野台地の斜面を利用した和洋折衷の館で、明治時代の陸奥宗光の屋敷だった。 後に宗光の次男が古川家の養子となり、古川家所有になった。 ジョサイア・コンドルの洋館と庭園を一体化したデザインは彼の作った鹿鳴館やニコライ堂、旧岩崎邸と共に名建築とされている。

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古川庭園の東側を下る大炊介坂の名前は、この辺りに住んでいたという中世の武将保坂大炊介にちなんだものとされている。 また坂上にある平塚神社に因んで宮坂と呼ばれたり、樹木が生い茂っていたので暗闇坂と呼ばれたりもした。

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現在本郷通りとされるこの道は、江戸時代は日光へ続く岩槻街道で、将軍が日光東照宮へ社参する時の道でもあったので、日光御成道とも言われた。 坂下は霜降橋という交差点になっているが、ここには染井から流れる川があった。 この川の下流は藍染川といい、谷根千から上野の不忍池に流下する。現在は暗渠である。

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古川庭園の側の歩道に東京都の設置した説明石柱がある。 古川庭園の石垣は布積み(整層積み)と言われるもので、日本古来の積み方ではなく西洋風の積み方である。 もちろんモルタル接着などが施されていて危険はないが、日本古来の積み方の方が(私は)好きである。

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2018年7月 5日 (木)

御嶽坂(南池袋)

南坂の北側にあるのが御嶽坂。 この坂も弦巻川が削った谷から台地に上る坂道である。 別名三丈坂とも書く。 場所的にはこの坂を上るとその北側一帯が雑司が谷霊園になる。

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坂の北側にあるのは御嶽山清立院という古い寺院。 神仏習合時代からこの寺は御嶽神社を祀っていたので、この坂の名前になった。  この坂は地図を確認しながら行かないと見つからないかもしれない。

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清立院の創建は1229年~1232年頃とある。 境内に雨乞いの松があり、日照りの度に人々が集まり、緑を潤す雨を願い雑司が谷に雨を恵んだという。 江戸時代の切絵図を見ると、弦巻川が清立院の西から南へ巻くように流れている。 周辺は寺院、武家屋敷、百姓地が混在するのどかな土地だったようだ。

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高台にあるので境内からの眺めもいい。 坂の南には江戸時代旗本大久保氏の抱屋敷、坂の北側清立院の裏手一帯は御鷹部屋となっており、今の墓地の西半分には将軍の鷹狩りのための施設があった。 明治になって墓所を持たない東京市民のために共同墓地が造営され雑司が谷霊園となった。

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2018年7月 4日 (水)

南坂(雑司が谷)

雑司が谷は昭和のノスタルジックな街並みを味わえるエリア。 雑司が谷の地名の由来は諸説ある。 しかしどの説もイマイチ。 鎌倉時代から呼ばれていた地名なので判らないのも無理はないのかもしれない。

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南坂は古い商店街の街並みからの上り道にある。 この商店街は雑司が谷弦巻通り商店会というが、実は昔の川筋である。 ここに流れていた川は弦巻川という。 弦巻川は池袋の地名の由来と言われる丸池を水源として、法明寺門前から流れていた幅4mほどの川だった。

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弦巻川の辺りで源義家が弓の弦を巻き直したという言い伝えから弦巻川と呼ばれるようになったと伝えられる。 江戸時代には蛍も飛んだ自然豊かな流れだったようだが、今は暗渠の体すら薄れている。

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南坂はこの弦巻川が台地を削ってできた坂道。 緩やかな屈曲を上っていくと、写真の分岐に出るが、右側が南坂の続きである。  一方の左側を進むと、清立院下に至るが、この左側の道よりも北側が標高が高くなっており、川が削ってできた地形はきちんと残っている。

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2018年7月 3日 (火)

豊坂(目白)

銀鈴の坂を下りて線路沿いに高田馬場方面へ少しだけ進む。 すぐに西からの道に当たるが、その角に細路地がある。 ここを入っていくと塩ノ屋というちょっと怪しいビジネスホテルがある。 実は和風のビジネス旅館でコアなファンもいるそうである。

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塩ノ屋の先には稲荷神社がある。 学習院椿の坂のところで出てきた学習院キャンパス内にあった稲荷神社が、ここに移転遷座した。豊坂にあることから豊坂稲荷と呼ばれている。

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また、江戸時代には八兵衛という人がお宮を守っていたので八兵衛稲荷という別名もあるという。 豊坂には車は侵入不可、バイクなら何とかという細路地である。 この細路地にしっかりした稲荷神社があるのも不思議だが、この界隈は大正~昭和初期の雰囲気の残る街なので違和感はない。

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豊坂稲荷の上で道はクランクしている。 その上は路地裏らしいくねくねと曲がった道筋で、旧近衛邸大欅のある通りに出る。 こんな細路地だが意外に人通りは多く、西の下落合界隈の人々が豊坂を通って目白駅に向かうからである。

細路地の坂は別枠で捉えてもいいくらい魅力を有している。 東京の古い街にはこういう路地がたくさんある。

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2018年7月 2日 (月)

銀鈴の坂(目白)

目白駅の改札を出て西に向かうと、ビルの間を下る階段がある。 2004年に通称道路名として名称を設定された銀鈴の坂である。  大正時代以前、目白通りは山手線を橋で越える道と踏切で越える道の二つがあったようだ。 南側が踏切で、北側が橋になっていた。 南側の道は立体交差の側道のように北側を法面にしていた。

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銀鈴の坂はその上の道(目白橋)と下の道の高低差を現在でも理解できるカギになっている。 ちなみに目白橋の欄干と親柱の一部が学習院大学の西門の前に残されている。 目白駅そのものは山手線を通すときに、台地を削って切通しにして建設された駅である。 標高15mほどの高田馬場と、標高32mの池袋駅の間に設置するのに、目白を切通しにしないと神田川から台地上の目白までが急傾斜で汽車が登れない。 その削られた切通しに下っていくのがこの坂である。

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目白通りは関東大震災以降に大通りとして拡幅され、下の道は消滅した。 気になったのは目白駅のホームからも見える、銀鈴の坂の横の線路内にある古い階段。 この階段がいつ頃までどういう目的で使われていたのかが気になったが、いまだにわかっていない。

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2018年7月 1日 (日)

学習院椿の坂(豊島区目白)

山手線目白駅を出ると東側に学習院大学の広いキャンパスがある。 駅側の角には西門があり、その手前を南に山手線に沿って下る緩やかな直線坂が学習院椿の坂。 昔からの名前は西坂と呼んだが、2006年に新たに通称道路名として「学習院椿の坂」が設定された。

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元々は緩やかにくねりながら下る細い坂道だったが、関東大震災の後まっすぐな車道に付け替えられている。 東側の学習院キャンパスの緑に囲まれた気持ちのいい坂道で、この樹木がなければほとんど評価のない坂道であろう。
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坂の途中、線路側には切手博物館がある。マイナーだが切手の博物館は世界でも珍しい。 日本郵便がやっているのではなく財団法人によるもの。 
学習院大キャンパス内にはかつて稲荷坂という坂があり、学習院椿の坂の坂下から校内を上る坂だった。 別名は稲荷坂、久貝坂。 くねりながら正門の方向に向かって上る坂だったようだ。ここにあった稲荷神社は豊坂稲荷と呼ばれ、目白駅の反対側の豊坂脇に移された。

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2018年6月30日 (土)

のぞき坂(豊島区高田)

宿坂の西側の坂道で、まるでスキーのジャンプ台のように感じられる坂である。 都内にはこれ以上の勾配の坂もいくつかあるが、この道幅で一気に下るのは勇気が要るほどである。坂上ぎりぎりまでいかないと坂下が見通せないので「のぞき坂」と呼ばれるようになった。
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大正時代以前の坂下は湿地と田んぼが広がっていた。 国土地理院の地図を見ると、この坂が車道として開通したのは明治末期か大正初期のようだ。 坂上にあった岡部邸の真ん中を抜く形で道路が敷かれている。 しかしのぞき坂の圧倒的な迫力に歴史が気にならない。
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この坂が22%という圧倒的な傾斜を誇るのに対して、すぐ西側を通る都電の坂道は急坂ではない。 不思議だが、坂の長さはのぞき坂が60mほどで崖を下るのに対して、都電は祖雑司ヶ谷駅から神田川まで500mを切通しにして下っているからである。 のぞき坂の急な部分の勾配は25%に達するが、都電は3%でしかない。
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この坂を積雪時に通る人はいるのだろうか。 「東京の坂」という写真集を出している中村雅夫氏が書いているのは、かつて東京で大雪が降った折、のぞき坂では除雪作業をせずに一日通行止めにして、子供のソリのゲレンデとして開放していたという話。 現在は責任問題になるとかいろいろ五月蝿い事情があって不可能だが、昭和はそういう時代だった。

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