2018年12月19日 (水)

馬場坂・たぬき坂・縄文坂・西坂(上井草)

上井草碁盤坂の最後の4坂です。この辺りは井草川の源流部になります。大昔の源流は青梅街道井草八幡前交差点辺りでしょう。井草八幡宮が善福寺川と井草川の分水嶺になっています。

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道灌坂の西側にあるのは馬場坂という坂です。 この坂も真ん中で井草川暗渠と交差するので薬研状になっています。暗渠を挟んで南側には都立農芸高校の上井草農場の馬場があるので馬場坂と名付けられました。 しかし2018年訪問時は整地をしていたので、馬場がどうなるのかいささか心配になりました。改修工事のお知らせには、建物を建てる工事ではなく圃場改修工事とあったので、新しくなるだけだろうと思います。

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馬場の北側に暗渠が走り、その北側は農業試験場になっています。 そのため辺りは自然豊かな緑に囲まれた良い環境の坂道です。北側の坂上から農場を回り込むように西側に向かいます。農場にはいろいろな果樹が植えられています。

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西側の道路に回り込むと谷はかなり浅くなっていて、薬研状ではあるもののお皿の断面のような緩やかな傾斜になっています。この坂はたぬき坂といいます。「田抜け」から転じたということですが、「田抜け」がどういうことかよくわかりません。もっともこの辺りでは最近まで狸が出ることが有ったそうですから、たぬき坂というのはそのせいかもしれません。

Dscn9910杉並工業高校の西側は縄文坂です。別名がどき坂(土器坂)。写真の中央右側の銀杏の樹の辺りが井草遺跡で、そこから井草式土器が出土したことに由来します。ここは旧石器時代から江戸時代までの複合遺跡で、縄文前期(約9000年前)の土器が出土、標準の土器となり「井草式土器」という名でよばれるようになりました。 井草川源流域と善福寺川源流域は特に旧石器時代から縄文時代の遺跡が多い地域です。1万年以上の昔から人が暮らしてきた土地と思うと、最近設定された「上井草碁盤坂」も土地の記憶再発見の一役を担っているのではないかと思います。

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最後の坂は縄文坂の北側にある西坂です。この坂だけが少し北東に傾いた坂です。西の山にかかる短い坂という上井草碁盤坂の説明でしたが、この坂の西側の巨大な庭のお屋敷の主が西山家なので、それに因んだのではないかと思わずにはいられません。それだけ大きな屋敷で、巨樹が何本も生えています。

個人宅なので中には入れませんが、西山家穀櫃は杉並区の登録文化財になっている穀物貯蔵庫で天保15年(1844)に作られたものです。

photo: 2018/11/23

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2018年12月18日 (火)

ころころ坂・桜坂・茅坂・道灌坂(上井草)

上井草駅の南側には広々としたスポーツ施設(上井草スポーツセンター)が広がっています。 この一部、グラウンドのある所は1936年~1959年の間、東京球場という名前の球場でした。西武鉄道の開発した土地でしたが、水道橋の後楽園球場のインパクトを受けて、衰退しました。ただ、終戦後神宮球場が米軍に接収された1946年から数年間は、ここで東京六大学野球が開かれていました。

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上井草スポーツセンターの南側には区立井草中学校があります。中学校の東側の坂道がころころ坂と呼ばれています。坂を下り、井草川暗渠を越えた先にあるどんぐり山公園に因んでころころ坂と名付けられたそうです。

中学校の正門前に「千川上水忌要」の説明板がありました。千川上水はここではなく上井草駅の北側を流れていた玉川上水の分流です。上水の廃止は昭和42年(1967)ですが、それを無念に感じた当時の校長が惜念をもって上水を偲んだものの様です。

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中学校の西側の坂道が桜坂。 学校の生垣に何本かの桜が植えられており、卒業や入学の頃の印象から桜坂と付けられました。坂下は井草川までは行かず、丁字路で坂が終わります。井草川暗渠の南側には三谷小学校があります。

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桜坂下を西に進むとすぐに北への道があります。 この一角には設備工事業者があって中型のダンプトラックの往来が多いのがいささか五月蝿い感じがします。この坂道は茅坂といいます。昔は茅場だった場所だからです。 家々が茅葺屋根の頃、その屋根材としての茅の群生しているところを茅場と呼びました。辺りは井草川よりも若干高い土地ですが、傾斜地でしたので、田んぼには適さず、大正以前は茅場にされていたのでしょう。

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茅坂の西側は水道局の上井草給水所。その西側はバス通りで西荻窪と石神井公園を結ぶ主要道です。 昔、環八の井荻トンネルができる以前は、この道で関越自動車道に向かったものです。坂を下りきったところを井草川暗渠が横切っています。 そこにあった橋が道灌橋という橋でしたので、坂名が道灌坂となりました。暗渠に向かって下り、再び上る。そのまま南下すると青梅街道に出ます。

昔はこの橋の辺りで塞ノ神祭り(ドンドン焼)を行っていました。ドンドン焼は地区の外れの村境で悪いものが入ってこないようにと行われていた祭りで、ここは上井草と今川の境の橋だったから祭りの場所になったのです。

photo: 2018/11/23

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2018年12月17日 (月)

広坂・お見合い坂・秀五郎坂・長坂(上井草)

上井草碁盤坂の第2弾、すみれ坂西隣、井草向山公園を挟んだ通りが広坂です。坂名の由来は道幅が広いからだとのことですが、実際は5m道路で決して広い道とは言えません。とはいえ路地としてみれば広いという表現をしても間違いではないかもしれませんね。

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広坂は短い坂ですが、西隣のお見合い坂は比較的長い坂です。 というのもお見合い坂は坂の真ん中が暗渠との交差場所で、北向き坂と同じように下って上る薬研状の坂道であるためにとても長く見えます。 井草川の暗渠より南側は昔は瀬戸原という字名でした。今もまだ、南に瀬戸原緑地という小公園が残っています。

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お見合い坂の坂名の由来は、坂の形が薬研状の為、向こうから来る人とこちらから行く人の顔が見えることから付けられたそうです。北向き坂とこのお見合い坂は比較的早めに開かれた坂で、大正時代の地図には道が描かれていました。 耕地整理以前からある農道だったのですが、当初からまっすぐな道筋でしたから、耕地整理初期のものと考えた方がいいかもしれません。

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その西側の坂はバス通りです。坂の名前は秀五郎坂といいます。 北に進むと下井草駅の踏切を越える道になります。昭和10年の井草村による耕地整理を主導したのは当時の村長の内田秀五郎という人でした。 その人に因んで秀五郎坂という坂名になりました。

内田秀五郎氏の足跡は近辺に多く、80年前にすでに都会化への環境悪化を懸念しそれをコントロールすることを考えた先進のリーダーでした。善福寺公園に秀五郎氏の像があります。

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秀五郎坂の西隣は長坂という坂で、名前の通り長い坂。この道も遠くまで望める坂です。

坂好きとしては、耕地整理後のまっすぐな坂よりも、江戸時代から続く時代を重ねた坂の方が魅力的なのですが、碁盤坂周辺には大正時代以前にあった道は全くと言っていいほど残っていません。その中で井草川の暗渠道だけがくねくねと走っていて魅力的な印象を与えています。

photo: 2018/11/23

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2018年12月16日 (日)

四宮坂・こども坂・北向き坂・すみれ坂(上井草)

ごく最近の坂にも触れてみましょう。 街並みに坂がある地区で、街づくりの一環として坂名を設定している地域があります。 その中からまずは「上井草碁盤坂」を取り上げてみます。

昭和10年に当時の井草村の村長が手掛けた区画整理事業で、碁盤目に区切った街区が後に住宅開発に貢献しました。 地域の中央には東西に井草川が流れていました。井草川は妙正寺川の支流ですが、妙正寺池すぐ下流に注ぐ点では、実質の妙正寺川と考えても良いでしょう。その井草川は杉並工業高校あたりを源頭に東流し、そのおかげで一連の碁盤坂ができた訳です。

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もっとも下流になる東の坂は四宮坂といいます。 坂上標高47mで坂下とは4mほどの高低差。この坂下の北側を西武新宿線が走り、井草川は少し上流で北流して線路を越えているので、この坂と暗渠は接していません。 四宮坂と隣のこども坂の間には四宮森公園があり、四宮坂の名前はその公園に因んでつけられたものです。

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西隣のこども坂は、四宮森公園脇にある児童館(杉並区四宮森児童館)にちなんでつけられた坂名。 坂下には早稲田大学ラグビー部の合宿所などがあり、上井草がスポーツ施設の街であることを感じさせます。児童館の脇を井草川の暗渠が遊歩道として東西に走っています。

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井草川はこども坂では坂下を流れていますが、西隣の北向き坂では少し南側に流れがあるために、北向き坂は下って上る薬研状(お椀の断面の形)をしています。写真の一番低くなったところで井草川の暗渠が交差しています。北斗七星が美しく見える坂なので北向き坂と名付けられましたが、北斗七星は時間と共に方位が変わりますので、まあほぼ北を向いているという意味でしょう。しかし、上井草の坂はすべて南北方向の坂ですから、ここだけ北向き坂というのはいささか無理を感じます。

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北向き坂の西隣はすみれ坂とあります。 坂上の植込みに「すみれ坂」と書かれた木柱が立っていました。 上井草碁盤坂の中で、坂名の表示があるのはここだけ。坂道に野スミレが咲くことが坂名の理由だそうですが、坂下の上井草向山公園に咲くのでしょうか。 どうも花が咲きそうな土地はないように思われました。

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上井草碁盤坂の設定は2011年で、相当新しいのです。しかしこういう試みが広がると、道という存在が光を浴びて、旧道や街並みが大切にされるのではないかと期待します。

「上井草碁盤坂マップ」

photo: 2018/11/23

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2018年12月15日 (土)

和田の坂(練馬区石神井台/石神井町)

石神井公園の真ん中を抜けるバス通りが、石神井公園を過ぎて南に上る坂が和田の坂です。道の東側にはボートの浮かぶ石神井池、西側には自然豊かな三宝寺池があり、和田の坂の東側に練馬区石神井公園ふるさと文化館があります。ここで何冊かの出版物を入手しました。 その中に『古老問書』というのがありました。農村地帯だった練馬の昔を語り継ぐ貴重な本です。

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石神井川はこの二つの池の南側を流れています。池の豊富な湧水は山下橋で石神井川に合流しているのです。 とりわけ三宝寺池は沼沢植物群落を形成し、国の天然記念物になっています。 昭和30年代までは冷たく澄んだ湧水に満ちていました。今は湧水量も減少し、かつての澄んだ水面からは程遠い池になりながらもかろうじて堪えている状態です。

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和田の坂については、『古老問書』の中で、次のように語られています。

「富士街道のことを、ここらでは道者街道といった。この道に沿って今の石神井中学がある四つ角を、石神井図書館の方へ行く道がある。その途中に三宝寺池とボート池の間から上り勾配になったところがあって、昔は和田の坂と呼ばれていた。

 その頃は中央線に出るためにこの坂を通らなければならなかったが、今よりももっと狭く急であった。そして両側は山で茅が一面に繁っており、よくおいはぎが出た。この道は現在石神井農協の前をまっすぐ井草高校の方へ伸びているが、これは新しい道で、昔は石神井小学校の西側を通り、松ノ木橋を渡って石神井川の南の斜面の急な坂を通っていた。」

和田の坂を上りったところで、道は丁字路にぶつかっていたのです。そこから小学校の西側に向かってクランクするようにして石神井川に下っていくのが昔の道ということになります。

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三宝寺池の南には三宝寺と道場寺という二つの大きな寺があります。三宝寺は池の名前にもなっており、応永元年(1394)に開山。 三宝寺池の南側の小山はかつての石神井城の城址で、周辺を治めていた豊島氏の居城でした。 三宝寺は豊島氏から帰依を受けていましたが、後の時代には北条氏、徳川氏からも保護されました。本尊が不動明王なので、石神井不動尊とも呼ばれます。

石神井城は平安末期から室町中期まで現在の東京都の城北部を支配していた豊島氏が築いた城の一つで、城は鎌倉時代の築城。1477年に太田道灌に攻められ落城、最後の城主豊島康経は現在の上中里の平塚城に逃げました。そこでも道灌に再度攻め込まれて、神奈川に逃げていますが、その時の平塚城の戦いで道灌が攻め入ったルートが「攻め坂」→「蝉坂」と転訛した上中里駅からの坂道です。

photo: 2018/12/5

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2018年12月14日 (金)

工兵坂(練馬区常盤台)

練馬区には不思議な形の街区があります。同心円状に広がる街区が平和台と常盤台の町境に広がっているのです。 こういう街区はヨーロッパやアメリカの街づくりにみられます。都内では田園調布の街区が同心円状です。勿論これは近代以降に区画整理された町並みです。田園調布の場合は、大正12年からの土地分譲で開かれたことは「ブラタモリ#96」でも放送されていました。

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さて、この同心円街区ですが、ある説によると、幹線道路計画が北東-南西、北西-南東の45度傾いたルートで計画・開発されたのに、街区は東西南北の道路でつくられた結果、幹線道路との交差角度が90度ではなく45度になったといいます。土木屋さんや不動産屋さんは自分たちのビジネスの価値と効率を求めるのでこういうことになるのでしょうね。

気になったのは農地の時代の土地割。古い地図を見ると、東西南北など気にしてはおらず、地形に対して素直に土地割をしています。それが本来の土地利用なのですが、都会の住宅開発や道路開発は自然や地形を無視したものが多く、そのため人間的な感覚では気持ちの良くない町割や道筋になってしまうのです。昔はまっすぐなのは寺社の参道くらいのものでした。

右上の青い線は石神井川支流田柄川の暗渠。 赤い線が工兵坂。左半分が同心円型の街区。 その間にあるのが工兵坂です。区立仲町小学校の南側を上る坂道で、暗渠の標高が26m、同心円街区のセンターが33mあるので、小学校脇から西に向かっての上り坂です。

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小学校前周辺はほとんど勾配はありませんが、小学校が終わった辺りから上り坂になっています。実際の坂は緩やかな部類に入るでしょう。この地域は江戸時代には下練馬村の一部で、坂の西側が「本村」とあるので、村の中心に近かったようです。

この工兵坂の道筋は今神道という古道でした。今神(いまかみ)というのは下練馬村の小字だった地域で、田柄川沿いの工兵坂の坂下周辺の地名。そこから重現(現在の区立開進第一小学校辺り)に繋がる道が今神道でした。昔は重現の方が人口が多かったようです。

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今神道の田柄川から重現への上り坂は悪路で、農民はかなり難儀をしました。 大正15年にこの道の改修が行われ、それを施工したのは近衛工兵大隊だったことから、村人は工兵坂と呼ぶようになったと伝えられています。

重現には下練馬村の村役場や子供たちが通う開進小学校もあり、困っていた村人が大変助かったので工兵隊への感謝も兼ねてそういう呼び名にしたことは坂名から現在にまで伝わるものとして微笑ましことですね。

photo: 2018/10/28

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2018年12月13日 (木)

静勝寺坂(北区赤羽西)

赤羽にある稲付城址は、武蔵野台地の北東端の一部の舌状台地先端上という自然地形を利用した中世の城館跡。 標高21mほどの台地上に現在は静勝寺がありますが、ここが城の主郭でした。東西と北側が崖になっており南の一部だけが台地と繋がっていて、戦国時代の城のロケーションとしてはベストに近いものです。

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正面から静勝寺(稲付城址)に上る階段は稲付城址坂。 そして南側を回り込む坂道が静勝寺坂と呼ばれます。坂上には静勝寺の山門。 寺には戦国時代の武将である太田道灌の木像があり、寺の前にあったという稲付城は太田道灌の築造とされています。

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太田道灌は1432年~1486年の人ですが、寺の木像は1695年の製作なので、200年以上も後のものだと知ってちょっとがっかりしました。

静勝寺坂は稲付城址の南側を急坂で下る道です。 途中で北に折れ曲がっていますが、さすがにこの傾斜なのでステンレス製の手すりが付いています。

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手すりはクランク部分から下は鉄製塗装のものに変わります。おそらくこちらが古いのでしょう。12mほどの高低差を15%の勾配で上る坂ですが、ここは下りの方が怖く感じます。クランクから飛び出しそうな道筋だからでしょう。

静勝寺は曹洞宗の寺で、創建は永正岩年(1504)に道灌の禅の師匠雲綱が道灌の菩提を弔うため、城址に道灌寺として建てたのが始まりです。のち、明暦5年(1655)に道灌の子孫が建立し静勝寺としたと伝えられています。

photo: 2016/9/18

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2018年12月12日 (水)

かなくさ坂(北区赤羽西)

赤羽西の富士見坂に源頭を発した沢がその下流で削った谷が島下公園周辺の地形として残っています。 南北に走る味の素フィールド西が丘の前の十条駅に続くバス通りは盛土をしてこの谷を渡っているので気づきにくいのですが、島下公園から赤羽自然観察公園は確実に谷地形になっています。

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その谷あいの公園脇からバス通りに上るのがかなくさ坂。 坂下の標柱に説明が書かれています。

「この坂は、島下公園(赤羽西6-10)の北側を東の方へ登る坂です。名前の由来については定かではありませんが、鉄分を多く含む湧水の影響で池土が赤錆色に染まったことを、かなくさ(金属の匂いや味がすることを金臭いといいます)と表現したのではないかという説が知られています。」

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実はこの坂上は南西から北東に向かって不思議な土地が続いています。 道路だったり、空き地だったり、マンションだったり、福祉施設だったりしながら、幅15mだけが周囲の街並みとは異なる向きになっているのです。 これはここにかつて鉄道の引込線があった痕跡です。味の素フィールド西が丘を含む一帯は軍の兵器庫でした。その引込線「東京陸軍兵器補給蔽線」が赤羽八幡の傍から分岐してここに繋がっていました。 ここをブログに書いている人が意外に多いのには驚きました。

1960-1970年代の鉄道の写真と資料

歩鉄の達人 

photo : 2018/9/18

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2018年12月11日 (火)

富士見坂(北区赤羽西/桐ヶ丘)

富士見坂を主たる名前とする坂は都内に14ヶ所。その中で一番北にあるのが、赤羽台地にある富士見坂になります。 赤羽八幡神社の下から西に向かって八幡坂の通りが伸びていますが1.2㎞程西進すると善徳寺前の交差点。 そこから少し下り、再び上る、浅い皿を横断するような坂が赤羽の富士見坂です。

赤羽台は複雑な地形をしていますが、支流の沢のひとつはこの辺りが源頭で、ここからかなくさ坂のある島下公園、区立赤羽自然公園と流れ、亀ヶ池弁財天の近くにあった亀ヶ池に水を貯め、赤羽駅から東に向かい、荒川に注いだ小沢がありまし。流域は江戸時代、赤羽の豊かな田んぼでした。富士見坂はその沢の源頭が作り出した窪みをわずかに感じられる坂といえます。

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この道が今の状態になったのは本当に最近のこと。 北側には広大な桐ヶ丘団地が広がっていましたが、この道は何年か前にやっと拡幅が終わったところです。桐ヶ丘団地は昭和の象徴のような団地で、UR(元住宅公団)ではなく、1957年から東京都が開発した団地。 146棟からなり、5,000世帯が暮らしていました。 最近は老朽化に伴い1997年から建て替えが始まりまだ続いています。平和な住宅地ですが、明治大正時代は陸軍の火薬庫だった場所でした。

坂の東側に御影石の説明書きがあります。

「この坂を富士見坂という。このあたり、昔は人家のない台地で、富士山の眺望がよかったところからこの名がついた。江戸時代の「遊歴雑記」には、「左右只渺茫(ただびょうぼう)たる高みの耕地にして折しも夕陽西にかたぶきぬれば全景の芙嶽を程近く見る、此景望又いうべき様なし」と記されている。 かつてこの近くに周囲500余メートルといわれる 大塚古墳(円墳) があったが、いまは見られない。」

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坂の傍にある善徳寺は関東大震災の後に馬喰町から移転、隣の大恩寺も明治になってから根津神社の傍からここに移転してきました。江戸時代は寺もなく、田んぼと畑だった場所で、この道筋が小豆沢村と稲付村の村境で、赤羽から小豆沢への主要な道でした。

坂の西側には末広稲荷がありますが、ここの石碑に明治以降の歴史が書かれています。稲荷は明治5年から昭和20年まで旧陸軍内の稲荷でした。明治5年に陸軍の火薬庫が完成すると、その火薬庫の災難除けに京都の伏見稲荷大明神を勧請して置かれたものです。 戦後はこの桐ヶ丘は引揚者や戦災者の住居に転用されました。 後に団地が作られるときに稲荷は小さくされ今の場所に収まったということです。

photo: 2018/9/18

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2018年12月10日 (月)

地蔵坂(北区中十条)

最寄り駅はJRの東十条駅ですが、地蔵坂のある河岸段丘の上の街区は中十条、線路から低地側が東十条になります。 地蔵坂は中十条と岸町の町境。 岸町は王子駅からここまでの主に崖線部分を占め、まさに河岸段丘の斜面が街区です。地蔵坂の南にある芝坂も、台地上の中十条と斜面から下の岸町の町境の道になっていました。坂というのは「キワ」であると同時に「境」でもあります。

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今回は坂上から下ってみます。 坂上の標高は22m、約100mで坂下の海抜8mまでを下るので、14%という勾配のきつい坂です。雪が降った時のためでしょうか、坂にはステンレス製の手すりが付いていますが、その道路側に電柱の支線(黄色いカバーの地面に結束してあるワイヤーロープ)があって邪魔しています。東京はコストがかかってもきちんとインフラを地下化すべきではないでしょうか。

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段丘の斜面には古い家が多くみられます。 坂途中にも懐かしい木製和風の板塀があってとても気持ちがいい坂風景です。火災には弱いかもしれませんが、ブロック塀の倒壊で亡くなる人がいるのですから、狭い路地は板塀を増やすべきだと思います。町並みもきれいになりますし、取り換えも容易で、たとえ倒れても命を奪うようなことはありません。

坂の途中に標柱がありますが、以前のものとは文章が変わっていました。以前のものは、

「地蔵坂は、この坂の上の三叉路で合流し、ここを通って下る坂道です。現在の中十条2-11-1地先付近までが崖で、坂道は崖の手前の地蔵同から続いていましたので地蔵坂と呼ばれていました。現在の地蔵堂は、東十条駅の開設にともなう跨線橋の設置や道路の拡幅により今の位置に移転したものです。」

と書かれていました。

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今のものは平成30年に新調されたもので、次のように書かれています。

「江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には、「地蔵坂 往還ヨリ東二丁程ニアリ」との記載が見えます。往還とは、日光御成道のことで、この坂を上っていくと日光御成道につきあたりました。坂名はこのあたりに地蔵尊があったことに由来します。現在の地蔵堂は、東十条駅の開設に伴う跨線橋の設置や道路の拡幅により、今の位置に移転したものです。」

坂下は線路にぶつかる丁字路です。上の写真の右側は線路を越える架橋の台地側の擁壁になります。 橋の途中に東十条駅の南口の橋上駅舎があります 。

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擁壁上の地蔵堂はかなり立派なもの。 お堂の前には庚申塔と花立が狛犬のように並んでいました。庚申塔は寛政3年(1791)のもの。昭和6年(1931)に下十条駅(現在の東十条駅)が開業、昭和12年に道路拡幅されたときにここに移転したとあります。大きいほうの地蔵は子育地蔵尊で、年代不明ですが江戸時代にはすでに祀られていました。 正面の庚申塔は道標も兼ねており、右より練馬みち、左より豊島みちと彫られています。

photo: 2018/9/19

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2018年12月 9日 (日)

鳳生寺坂(北区赤羽西)

赤羽西には多くの坂があります。 太田道灌が戦国時代に築城した稲付城の台地の南の谷に下る坂道が鳳生寺坂。 坂下にある鳳生寺も太田道灌の開基と伝えられる曹洞宗の寺院です。

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鳳生寺の前に標柱がありました。

「この坂は、鳳生寺門前から西へ登る坂で坂上の十字路まで続き、坂上の旧家の屋号から六右衛門坂とも呼ばれます。坂上の十字路を右(北)へ向かうと赤羽駅西口の弁天通り、左(南)へ向かうと十条仲原を経て環七通りへと至ります。名称の由来となった鳳生寺は、太田道灌の開基と伝えられ、岩淵宿にあったものを移したので、現在も岩淵山と号しています。」

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坂は途中から狭くなると同時に勾配を増していきます。道幅が狭い区間は11%の勾配がありますが、広くなった坂下部分は緩やかな坂になっています。 こんな道ですが江戸時代からの道で、まっすぐなところが少ないのは古い道である証です。坂の景色としてはなかなかのものです。

また、坂下の鳳生寺周辺には多くの古墳時代の集落遺跡が埋まっており、稲付公園遺跡とよばれる一帯です。

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鳳生寺坂は坂上まで曲がりくねっています。 坂上をそのまま進むと王子町土地区画整理事業で昭和の初期に耕地整理された碁盤目の街に入ります。この時代北区でも大震災後の復興で各地に土地区画整理事業が立ち上げられました。王子町というのは旧町名で開発されたのは今の西が丘に当たる地域。 このエリアには軍施設が沢山ありましたので、集中的に被災しました。爆撃を受けて破壊された町が整理された町並みになり、戦火を逃れた昔からの道が残る傾斜地には昔の街が残っています。

photo: 2016/9/18 & 2018/9/18

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2018年12月 8日 (土)

芝坂(北区中十条/岸町)

北区の岸町は地名通りの地形です。王子駅から東十条駅に向かって崖線を上る急坂が何本も通っています。 その中には無名の坂も多いのですが、芝坂は王子稲荷の坂、三平坂ともに名坂といえます。線路脇が5~6mの標高なのに対して、崖線上は24mほどあるので、20m近い落差になります。

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岸町という地名は当然ながらその地形から発生したものでしょう。 大昔は王子村(現在の王子周辺)は岸村と呼ばれていました。 隅田川(荒川)の右岸で、洪水が何度となく武蔵野台地を削って出来た崖ですが、それ以前の縄文海進の頃は海食崖だったはず。 海食崖と河岸段丘がブレンドされているというわけです。

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芝坂はアルファベットの「Y」か「T」に似た道筋の坂。途中で左の上りと右の階段道に分岐しています。この坂上に向かって左方向の坂も相当に急です。勾配は16%ほど。自転車は到底無理です。しかし右側の階段道の紅梅は21%あるので、こっちがメインルートになるわけです。

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芝坂の坂名の由来は何だろうと考えてみました。 北区のHPを見ても、「旧坂である。古い坂であるが、あまりしられていない坂のようでもある。芝という名前の由来は不明。」とあるだけです。20年くらい前までは標柱が立っていたらしいのですが、何が書かれていたのかはわかりません。

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芝坂の上からは高架の上を往来する新幹線を眺めることが出来ます。 上越・北陸・東北各地・北海道への新幹線がひっきりなしに通るのが見られます。この坂下の分岐点の北側には昭和中期までの地図には神社の印がありました。位置的には分岐の北側に当たります。しかし何を調べてもここにあった神社のことは分かりませんでした。

この崖線には十条台遺跡群という広大な遺跡が地下にあり、縄文時代から人々が生活を営み続けた場所です。そんな崖線にたくさんの家が立ち並ぶのを見ていると、何千年経っても人の住みやすい場所は同じなんだなとつくづく思いました。

写真: 2018/9/19

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2018年12月 7日 (金)

らんとう坂(練馬区大泉町)

練馬区も大泉あたりまで行くとかつての農村の雰囲気が幾分か残っています。 白子川の削った低地とそれを囲む台地の間には河岸段丘があり、その崖線部分には点々と寺社仏閣が在ります。 とりわけ大泉町1丁目から土支田4丁目にかけては、清水山憩いの森、稲荷山憩いの森と、崖線に沿った自然公園があって散策も楽しい地域です。

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白子川に架かる別荘橋を渡ると右手にこんもりとした林が見えます。 八坂神社です。このあたりは江戸時代、橋戸村と呼ばれた地で、八坂神社は村の鎮守でした。創建は不明ですが、いつからか京都の八坂神社(祇園社)の分霊を勧請して八坂神社となりました。 祇園社の守護神は牛頭天王(ごずてんのう)で、ここの字を中里といったので、村人は「中里の天王様」と呼びました。

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神社には都内でも最大級の富士塚があり、中里富士と呼ばれています。頂上からの眺めは大したものでした。高さは12m、明治初期に富士講中によって築造されましたが、江戸時代から原型があったようです。 練馬から板橋にかけてはこういう大きな富士塚が意外と残っているので大切にしてもらいたいものです。

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八坂神社の前をそのまま進むと北大泉公園(もみじ山)のところから北に分かれる道があります。 こちらが長久保道の古道の道筋。ここから上る坂がらんとう坂。 坂下の信号機に「らんとう坂下」とあります。らんとうというのは「卵塔」と書き、石の土台の上に卵型の石碑が立っている塔の名称です。

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昔この坂の途中に卵塔があったのでらんとう坂と呼ばれるようになりましたが、当初は漢字で「蘭塔坂」としていたといいます。 もみじ山の下一帯は昭和30年代はまだ田んぼが広がる農村地帯でしたが、練馬、杉並、世田谷の昭和前期はどこもそんな感じでした。私が東京に住み始めた昭和50年頃でも環八周辺はのどかだったのをよく覚えています。

photo : 2018/11/7

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2018年12月 6日 (木)

別荘坂(練馬区大泉)

東京都練馬区大泉町を流れる白子川に向かって土支田通りから下っていく坂道が別荘坂。 練馬台地を白子川は深く削り取っています。 歩道もある整備された道路で交通量も多い道です。 坂の高低差は約10m、白子川を渡す橋が別荘橋と親柱に記されています。

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この道は長久保道という古道で、清戸道の旧宮田橋付近で北に分かれ、富士街道(ふじ大山道)を横切って光が丘をぬけ、笹目通りを横断、土支田通りと交差し、白子川の別荘橋を経て膝折(朝霞市)で川越街道と合流します。

清戸道の旧宮田橋付近というのは、おさる坂の坂下にある石神井川の道楽橋をそのまま北西に進んだ十字路あたりで(昔の石神井川の支流筋)、現在も宮田橋敷石供養塔が建っています。長久保道はそこから北西にあった古道でおさる坂とは同じ街道筋ということになります。

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江戸時代、この辺りに元禄時代まで村名主だった「荘」という姓の家がありました。のちに近くに別の「荘」さんが越してきたので「荘埜(そうの)」姓に変えたそうです。そこからこの橋の名前が別の「荘」さんということで別荘橋となったというのが練馬区の伝説にあります。荘埜さんのお名前はレアで全国29,585位、およそ110人しかいません。その中の何割かがご子孫なのでしょう。坂名はこの別荘橋に由来します。

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坂下の別荘橋の大欅のたもとに地蔵と庚申塔が祀られていました。左の小さいほうは嘉永3年(1850)の駒形の庚申塔。右側は天明8年(1788)の地蔵立像。地元の人に守られていることがお供え物や花でよくわかります。

長久保道の長久保というのは旧新倉村の字名ですが、明治24年に東京府大泉村に吸収合併されて地名が消えました。長久保道の起点は前述の旧宮田橋で、この古道沿いには石塔石仏が多く残っているので、いつかまた散策してみたいと思います。

この坂の北隣にある「清水山の森」はカタクリの花が群生する都内の公園として知られています。桜の花の咲き始めるころにあの可憐な紫の花が見られます。 園内には湧水があり、その周りにカタクリが咲くのです。

photo : 2018/11/7

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2018年12月 5日 (水)

おさる坂(練馬区貫井)

練馬区貫井は旧上練馬村の小字。 昔、弘法大師がこの地を訪れ、水不足に苦しむ村人たちの様子を見て、持っていた杖で地面を突いたところ泉が湧き出したという伝説があります。地面を貫いて井戸を出現させるたので「貫井」となった訳です。 もっとも弘法大師は日本全国で杖で地面を指して、水や温泉を出現させています。 本職は鉱山師で水銀などを探していたといいますから、ダウンジングで探し当てたとか(は冗談です)。 しかしあれだけの天才になると、すべてが本職でどれもが卓越していますので、いろんな才能を発揮したのでしょう。

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貫井にはいくつもの坂がありますが、どれも無名で、名前があるのはこのおさる坂くらいです。坂下は石神井川の道楽橋。 名前が気に入りました。流れの対岸である北側には高松八幡神社があります。 この道楽橋から南にくねりながら上っていくのがおさる坂です。

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坂の高低差は6mほど、以前この坂には草に埋もれた二基の庚申塔がありました。 庚申塔には三猿など猿が描かれているのもが多く、それがこの坂の名前になったのではないでしょうか。 ところが日本人は言霊を信じる民俗で、祝儀の花嫁行列はこの坂を通ってはならない、なぜなら「さる=去る」で縁起が悪いからという村の決まり事になりました。 離縁されては困るということです。

この道は古くは清戸道と言われる道で、文京区の関口辺りから清戸(現在の清瀬)に繋がる街道でした。清戸道はほぼ目白通り沿いを東西に走っていた道です。練馬の村々の人々が江戸に出るのには最も便利な道だったので、早朝から作物を運ぶ農民が行き来していました。当時の道は現在の目白通りからこの坂辺りで北に方向を変えていたようです。

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坂上に円光院という古刹があります。正式な名前は南池山円光院貫井寺。 天正13年(1585)の開山です。 古い石碑や地蔵が沢山ある寺で、門前から門内へこれら石塔石像を見て歩くだけでも手ごたえがあります。子ノ聖観世音が御本尊ですが、馬頭観世音として有名で、街道沿いの寺だからこそといえます。 本尊は12年に一度子の年、子の月、子の日に御開帳されます。 寺の建物は戦災に遭っており、昭和38年に建替えられたものですが、往年の雰囲気は再現されているのではないでしょうか。

photo : 2018/11/8

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2018年12月 4日 (火)

中の坂(練馬区向山)

向山庭園のあるどんぶり坂から200mほど西にあるのが中の坂。 この坂も薬研状の下って上る坂道ですが、坂を作った沢の名前は分かりません。 300mほど西にある暗渠筋は、暗渠の道も明確ではっきりしている向山ヶ谷戸支流(貫井川の支流)ですが、中の坂の沢は調査も空しく不明でした。 暗渠マニアでもここの沢の名を明示している人はいないようです。

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住居表示でいうと坂の北側は向山3丁目21、南側は向山3丁目6。小さい沢の窪地とは言え、底の部分は周辺より5mも低くなっています。小沢とはいえ水の力というものは感心するほど凄いものがあります。

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この辺りの住宅開発が進んだのは大正時代に入ってから。 明治時代には隣まで100mも離れているような農村地帯でした。 辺りは明治時代は向山ヶ谷戸という地名で、ゆっくりと開発が進み、大正13年には12戸の借地組合で結成された「城南住宅地」としてスタート、今でも閑静な郊外住宅の環境を保っています。ここが組合という民間の連携で100年もの間環境を守っていることは、この東京においては素晴らしいことです。

photo : 2018/11/8

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2018年12月 3日 (月)

どんぶり坂(練馬区向山)

豊島園の南を東西に走る下って上る薬研タイプの坂道があります。 地元の呼び名でどんぶり坂といいます。 単純に坂の形状をどんぶりに例えたものでしょう。真ん中がくぼんでいるということは、その昔ここに沢が流れていたということを示しています。 豊島園の園内を西から東に石神井川が流れていますが、その支流の沢です。

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今となっては川跡も暗渠もありませんが、戦前の豊島園にはこの沢筋に池が点々と残っていました。 豊島園は大正15年に日本庭園として藤田観光の藤田好三郎が開園したもの。その昔は豊島氏の居城である練馬城があった場所で、豊島氏の名前から園名を付けました。豊島園駅の開業は昭和2年、しかし昭和6年に昭和恐慌のあおりを受けて売却され、昭和16年に武蔵野鉄道(現西武鉄道)がここを所有していた会社を吸収、戦後になって遊園地は再開されました。

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練馬区なのに豊島園という名前なので、不思議に思う人もいるでしょうが、豊島区のとしまではなく、豊島氏のとしまなのです。水源のある坂の窪みの南側には向山庭園(こうやまていえん)があります。 誰か財閥の邸宅跡かと思いましたが、不動産会社がマンション用地として購入したのを住民が反対運動をして、結局練馬区が3億5千万で買取り日本庭園にしたものとのこと。池は古く、豊島氏時代の練馬城の濠跡と言われています。

photo : 2018/11/8

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2018年12月 2日 (日)

神戸坂(杉並区清水)

高田馬場で神田川に合流する妙正寺川の水源地は妙正寺池です。都会の川としては少なくなった、開渠が続く中小河川。水源の池周辺は緑豊かな公園になっています。 昔は豊富な湧水がありましたが、近年湧出量が減少したため、井戸を掘り地下水をくみ上げて合流させています。池の真ん中の中島がとてもいい雰囲気で、水鳥も多い公園です。

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池の南には1352年開山という古刹の妙正寺があり、これが池の名の由来。 湧水地点の標高は40mとやや高めなので開発のインパクトを受けて湧水量が減ったのかもしれません。この池の北側を東から西に上る道があります。 それが神戸坂(ごうどざか)です。

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昔、この地域は府中明神(大國魂神社)の神領でしたので神戸と付けられたといいます。坂上を神戸山(ごうどやま)といい、昔は妙正寺川の支流がこの山裾を回るようにして流れ、池の下で合流していました。 その暗渠は現在も辿ることが可能です。

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坂の途中に中瀬天祖神社があります。 この神社の記録に、「当社は井草八幡宮の境外神社で井草川の西岸神戸坂の上に在り、極めて古き社にして、神体は一大石剣なり」とあって、そこにのみ神戸坂の記載があります。

中瀬天祖神社由緒

奇妙な石の御神体
中瀬天祖神社
祭礼 10/15
祭神 天照大神
御利益 良縁、子宝、子孫繁栄

 井草川の流れは上井草から下井草に向ってゆるやかに東に流れ、区立中瀬中学の裏で西に流れをかえ南に直流する。

 そこに架かる道はとたんに急坂になる。世に言う押手を借りたい神戸坂である。坂を登りつめた左側に祀られているのが中瀬天祖神社で、この社の前身が子宝に恵まれる十羅刹様である。

 中瀬天祖神社の御神体は奇妙な男根状の自然石が祀ってある。伝説によると、昔、江戸へ手車で荷物を運んだ帰り道、空車だと車がはずんで引きづらいので重しのために石を二、三個積んできたと云う。

 ある時のこと、所沢か田無あたりのお百姓が江戸からの帰り道、神戸坂で急に腹痛を起し動けなくなり、その場に座りこんでしまった。近所の人がびっくりして妙正寺へかつぎこみ、和尚さんに祈祷してもらったところ、たちまち腹痛が治ったという。そのとき、ふと和尚さんが手車に乗せてあった男根状の石を見て、これは不思議な石だ、この地に安置されたいために腹痛を起こさせたに違いない、と申され、その石を十羅刹女(じゅうらせつにょ)が祀ってある神戸坂上の十羅刹堂に納めた。それから何十年か後のこと、青梅から江戸へ炭を運んでいた馬方が、いつものように馬の背の両側に炭俵をつけ、神戸坂に差しかかったとき、道端で男根状の石を見つけた。

 大きさが人の頭くらいなので、たいした荷物にならないから持ち帰ろうと、馬の背に乗せて鞍に結びつけ半丁(約50メートル)も行かないうちに急に馬が動かなくなったので、馬方が振り向いて見ると馬はびっしょり汗をかき、苦しそうに息をはずませている。

 馬方はびっくりして 「これはただの石ではない、さわらぬ神に崇りなしだ」 と石をもとに戻したという。すると馬はたちまち元気になり歩きだした。

 江戸の炭問屋に着いた馬方は、この不思議な出来ごとを問屋の主人や友達に話したところ、いつしか、その石の話が井草村にも伝わり、村の人達が集まって、その石を見ると 「十羅刹堂」 の小銅の床に安置してあった石であった。何かのはずみで両から道端へころげ落ちたに違いないと、村で一番の物知りといわれた組頭の四郎右衛門さんが、うやうやしくこの霊石を元どおり硝へ納め、「わしが若い頃に拝んだ時より、生気が満ち満ちていて大分大きくなっているようだ、この石と十羅刹様とを拝めば陰陽がかね備って子宝が授かる」 と話したという。

 その後、世継ぎの神様として霊験あらたかだと評判になったという。

 ここに「本尊木の立像三寸」の十羅刹様と「奇妙な石の御神体」の神明社、いまの天祖神社と結びついて陰陽がそなわったのである。

 そのころ子どもに恵まれますようにと神併を崇めた素朴な井草の人々の気持ちが、いまも伝わって来る。


photo : 2018/11/23

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2018年12月 1日 (土)

稲荷坂(杉並区下井草)

井草周辺の古道に石神道(しゃくじみち)・遍路道(へんろみち)という古道があります。 旧早稲田通りがそれにあたり、江戸時代から大正にかけての主要道でした。 早稲田通りから右折して稲荷坂を上り、下井草駅の手前(ユニクロの交差点)で北西に曲がります。練馬の長命寺(練馬区高野台)へお遍路さんが通った道でした。石神道は新青梅街道で曲がり西の石神井に向かう道で途中同じ道になります。

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稲荷坂は高低差が少ない坂ですが、妙正寺川から下井草駅に向かっては上り坂になります。 坂名の由来は、坂の途中東側に銀杏稲荷神社があることに由来します。昔は200坪の境内を有したと伝えられますが、今は数坪の敷地しかない屋敷神のような小さな神社です。

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道路から奥まった民家の間にあり、銀杏の木はありますが、上部が折れて数mの高さです。 この銀杏稲荷はかつては旧下井草村の鎮守で、神社の裏山には大きな銀杏の木があったそうです。創建は元和2年(1616)で、江戸時代は妙正寺の別当として管理されていました。 小さな稲荷ですが歴史あるだけに祭りは盛大と聞きます。

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稲荷坂と呼ばれたのは戦前までですがが、高度経済成長期にかけてはこの坂下の松下橋脇に牧場がありました。搾乳し、牛乳の販売までしていたらしいのですが、昭和30年代末には消えています。 とはいえ牧場はその昔、赤坂日枝神社の辺りにも、渋谷にもあって、開発と共に徐々に郊外に移転を強いられてきたのが歴史。今は練馬の小泉牧場が23区内唯一残る牧場となってしまいました。

photo : 2018/11/23

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2018年11月30日 (金)

祥雲寺坂(豊島区池袋)

祥雲寺坂は豊島区池袋3丁目と西池袋5丁目の間を走る要町通りの坂。 池袋駅西口から西へ進むと、谷端川の暗渠を越えて要町に行きつきます。 この通りの谷端川暗渠までの下り坂が祥雲寺坂です。何しろ通りが広いので、殆どさかを感じられませんが、信号機の地名表示に「祥雲寺坂」とあります。

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谷端川は千川から椎名町へ南下し、そこで方向を今度は北に変えこの祥雲寺坂下を横切って、下板橋まで北上しています。 ずっと暗渠道があって歩いてもなかなか楽しい道です。坂下の交差点は要町一丁目交差点。交差するのは山手通り。 地下には首都高中央環状線が走っています。

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坂の名の由来となった祥雲寺は明治39年に移転してきた寺です。最初は江戸城の和田倉門内に駒込吉祥寺の末寺として永禄7年(1564)に創建。江戸時代には駿河台、文京区小日向、小石川と何度も移転を強いられ、明治末期にここにたどり着きました。 本尊は薬師如来。

photo : 2018/9/23

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2018年11月29日 (木)

さいとう坂(豊島区南大塚)

あさみ坂の坂下の道を南東に進むと高い墓地の塀が見えてくる。 東福寺というお寺の境内である。 塀沿いに緩やかに下っていくみちは程よい曲がり具合で古道の匂いがするが、江戸時代の東福寺はもっと南西の矢端川までが境内だった。観光山慈眼院東福寺の創建年代は不明だが、元禄4年(1691)に当地へ移転してきたという。

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そのまま塀沿いを進むと階段と山門がある。両脇の石碑は道標にもなっている。「左 巣鴨庚申塚、向 巣鴨監獄道、右 大塚道」と彫られた明治37年のもの。巣鴨監獄道とは現在のサンシャインシティにあった巣鴨拘置所のこと。またその傍には「疫牛供養塔」もある。これはこの山門と矢端川の間が明治から大正にかけて牧場だった痕跡である。

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山門を見上げるとここが矢端川の崖線だったことがわかるが、その先の巣鴨小学校角の路地を巣鴨方面に上るのがさいとう坂である。曲がりながら崖線を上っていくさいとう坂の坂下には坂名の石塔がある(写真上右端)。 この坂は古い道っぽいのだが実は関東大震災以降に開かれた道である。

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坂名の由来は、このあたりの土地所有者であった斉藤さんがその一部を寄付したおかげでこの坂が開通したことによる。坂名の石塔が立てられたのは昭和37年だが、もちろん坂はそれ以前のもの。

坂下の標高は16m、坂上が27mで勾配は11%ある。矢端川の河岸段丘の崖線を感じられる坂である。

photo : 2018/9/19

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2018年11月28日 (水)

あさみ坂(豊島区南大塚)

大塚駅はJR山手線と都電が交差する昔ながらの雰囲気の残る駅前である。 とりわけ南口のロータリーは広く、その真ん中を都電が抜けていくのは見ていて微笑ましい風景である。 このロータリーの巣鴨寄りのところから少し下ってくねくねと曲がった道がある。 実はこの道はかつての矢端川(千川分水)の跡(暗渠)なのである(大塚三業通り)。

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矢端川は池袋の地名の由来ともなったエリアを水源としてお茶の水で神田川に流れる。 源頭は千川用水から、粟島神社の湧水や池袋駅周辺の湧水を集めて南北にうねり、大塚を経て小石川を流れた。 大塚駅近辺が暗渠化したのは昭和に入ってからである。

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矢端川の道をしばらく進むと左手にホテルの並んだ坂道が現れる。この手のホテルはインターチェンジ周辺などにあるのが普通だが、東京のこのあたりは結構な街中にある。通りとしてはあまり知られていない通りだがホテルの前の坂があさみ坂である。

三業通りの「三業」とは、料亭・待合茶屋・芸者置屋の総称である。だからホテルがあっても何も不思議はない。現在の通り名も大塚三業通りとなっているところがすごい。

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坂は10mほどの高低差で勾配は11%ほどある。坂の上は巣鴨の台地で、山手線の車窓を見ていると切通しから高架になると大塚駅。 そして再び切通しになって巣鴨駅。 巣鴨駅から先は駒込まで切通しだが、駒込駅東口は高架である。 山手線が台地と谷を同じ高さで切り抜けていることがわかる。 その台地と谷の高低差が約10mあるので、そういう車窓になるのである。

ちなみにあさみ坂の由来は単純で、近くに浅見という家が沢山あったからだという。江戸時代のこのエリアは巣鴨村、その中でもこの低地は熊野窪と呼ばれていた。

photo : 2018/9/19

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2018年11月27日 (火)

稲荷坂(大田区北千束)

大田区には3つの稲荷坂がある。石川町の稲荷坂、上池台の稲荷坂、そしてこの北千束の稲荷坂である。 その中で、稲荷神社が現存するのはかろうじて上池台の玉倉稲荷のみ。 石川町の稲荷はその痕跡を見つけたが、ここ北千束の稲荷坂の稲荷は跡形もない。

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大田区のHPによると、「この坂道は古くからあり、道幅は9尺(2.7m)くらいであったが、耕地整理により4間(7.3m)に拡幅され、現在の道になった。坂の付近に稲荷社があったのが坂名の由来であると伝えられるが、大正ごろには稲荷社は既になかったといわれている。」とある。 明治時代の地図を確認してみたが、社の記号はなかった。

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しかし、明治時代の地図には坂の途中に学校がある。 江戸時代のこの辺りは石川村、明治になって馬込村になった。坂沿いには洗足池に流れ込む沢があり、清水窪の湧水の沢と坂下で合流していた。 大正期の地図を見ると、この稲荷坂脇の窪地を狢窪(むじなくぼ)と呼んでいたようだ。 そういう怪しいものが出そうな場所だったのだろう。

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ちなみに洗足池にはもう一つ沢が流れ込んでおり、それは環七と中原街道の角にあるオリンピックの敷地にあった湧水池からの沢であった。 その湧水は大正時代に埋められてしまったようだが、北にある清水窪弁財天の湧水は今もこんこんと湧いている。ここは武蔵野台地の関東ローム層の湧水の典型的な場所で、標高30mの地層から水が湧いている。

photo : 2017/1/15

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2018年11月26日 (月)

雪見坂(大田区東雪谷)

東京に雪の付く地名は雪谷だけである。 東雪谷の雪谷八幡神社前の坂が宮前坂だが、そこから少し南東に行くと、雪谷の雪見坂がある。 北国の人にしてみたら東京はちょっとの雪でもすぐパニックになる点でいささかお笑い種でもあるのだが、この坂道は雪が積もったら雪国の人でも登れないだろう。

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坂は石川台希望ヶ丘商店街からすぐに上りになるが、少し進んだところから傾斜が強くなり、坂上で再び緩やかになる。 しかし坂はそこからも高度を増していく。 急な部分の勾配は18%ある。 車やオートバイも慎重に昇り降りする。 宅急便のトラックはサイドブレーキでは止まりきれない。 ギアをPに入れ、木製のストッパーをかませていた。

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坂上に近づくと遠くに武蔵小杉のビル群が良く見える。 雪見坂の名前の由来は、かつてここから富士山の頂の雪が良く見えたためだという。 道は昭和初期耕地整理で出来た道。坂上は権現坂の坂上と交差する。 坂上と坂下にある標柱には、昭和6年から9年の間に道路が整備されその後雪見坂と名付けられたとある。

photo : 2018/11/26

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2018年11月25日 (日)

宮前坂(大田区東雪谷)

坂下は雪谷八幡神社。 創建は永禄年間(1558~1569)。雪ヶ谷村の鎮守であった。この神社にはいろんなものが集約されている。 境内の末社は、水神社、猿田彦神社、清正公、天神社、薬神社、大山祇神社と多い。 水神社は昔は南雪谷五丁目の水神公園のところにあり、今でもこんこんと湧水が出ている。

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宮前坂はこの八幡神社の大鳥居の前を上っていく。 100mほど上ると標高は12m高くなり、勾配は12%という急な坂道である。八幡神社前に木製の標柱があり、次のように書かれている。

「八幡神社の前の坂であるため、宮前坂と呼ぶようになったという。坂下には呑川に掛かる宮前橋がある。」

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この坂道の勾配はそのまま神社境内では階段になってくる。 境内の中でかなりの高低差がある。坂道は昭和初期の耕地整理以前は神社の裏手から上る農道のような道だったが、90年余り前に現在のような道筋になった。

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坂上からは武蔵小杉のビル群を遠望する。 昨今東京23区内に限らず、高層ビルがタケノコのように増殖している。 人口減少の局面に入っているのに大丈夫なのだろうかと心配になる。個人的には、あと10年もするとグローバル化は反転して、殆どの先進国では国内充実傾向が強まると考えている。 すでに日本はその波に乗り遅れているように思えてならない。

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坂下の八幡神社には末社だけでなく、村内各所にあった庚申塔も数多く集められている。 これはこれで歴史を守る重要な方法だと思う。 庚申塔は7基あり、天和元年(1681)から安政4年(1857)までいずれも駒形の庚申塔。雪ヶ谷村は池上本門寺が近いので、殆ど日蓮宗の信者だったので似たような石塔が並ぶ。

photo : 2017/2/28

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2018年11月24日 (土)

権現坂(大田区東雪谷)

大田区東雪谷には無名の坂を含めて魅力的な坂道が豊富にある。というのもここは呑川水系が削り取った谷が切れ込んでいて、標高10mの低地と標高30mの台地とがはっきりと分かれているからである。 人々は台地に住み、低地の田んぼで米を作って生計を立てていた。当然台地と低地を結ぶ道は沢山出来るわけで、それは農業用地が宅地に変わってもそのまま残り、さらに坂道を増やしていくことになる。

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その中で権現坂は他の坂とは性格が違う坂道である。 というのは他の坂は低地と台地を繋ぐように通っているのだが、権現坂は斜面を斜めに上っていく。 他の坂が北東に向かって上るのに、この坂は北西に向かって90度違った方向に上っていくのである。

これは東雪谷三丁目から四丁目の一部が湾のようにえぐれているからである。しかしこのえぐれがどうしてできたのかはわからなかった。

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坂の勾配を見れば権現坂よりも周りの無名坂の方が急である。 にもかかわらずここには権現坂という名前が付いた。 坂の標柱には次のように書かれている。

「この付近に、権現社があり、その地をもとは権現山とよんでいた。坂道は大正末期に行われた耕地整理によって出来たものであるが、地名に由来して名づけられた。」

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この付近にあったという権現の痕跡を探してみたが皆目見当がつかなかった。明治大正の地図をじっくり見てみたがそれでも何も手掛かりはない。 何となくすっきりしない坂名である。石川町の稲荷坂のような手掛かりが見つかると嬉しいのだが。

坂の高低差は10mほど、それを100mで上るので、平均勾配は10%だが標識には14%と書かれている。 そんなにきつい坂という印象はない。

photo : 2017/2/26

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2018年11月23日 (金)

稲荷坂(大田区石川町)

神明坂の一つ南にある坂道を稲荷坂と呼ぶ。 目印は「石川町上の台公園」。 この公園は呑川の河岸段丘の斜面を利用して作られている。 公園内には稲荷坂をバイパスするように階段があり、階段上には展望台まである。 この展望台からの夕日はとてもきれいだが、富士山が望めるかどうかは分からなかった。

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階段上の展望台辺りから公園をなぞるように稲荷坂が下っている。 坂の上下に木製の標柱があり、「坂の由来は、坂の南に稲荷社があったことによる。この坂道は、もとは洗足池の脇から九品仏に通じた、古い道である。」と書かれている。 確かに、江戸時代の絵図にはこの道が描かれている。

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明治時代の地図を見ても確かにこの道はあり、石川村の中では民家も多いエリアになっている。 おそらくは坂下の呑川流域が田んぼで、そこを仕事場にする農家が殆どだろう。この辺りは、石川村と奥澤村の村境は呑川ではなく若干西側にある。呑川の右岸も左岸も石川村の農民の田んぼだったのであろう。

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大田区のHPには、「石川町上の台公園の脇を曲がりくねって上る、狭く急な坂道。坂名の由来は、坂の南側に稲荷社があったことによります。この坂道は、もとは洗足池の脇から世田谷区の九品仏へ通じた古い道です。九品仏への道は、大正14年ごろ東京工業大学ができたことによりなくなったといわれています。」とある。 いったいこれがその古道なのかわからない説明である。

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坂下周辺で稲荷の痕跡を探してみると、民家の裏手にそれらしい祠が朽ちていた。 そこにある桶や木箱もかなり年季の入ったものと見受けられた。果たしてこれがかつてあったという稲荷かどうかは分からない。 しかしこういう社が朽ちているのは見ていてやるせない気持ちになる。これも平成の世のなせる業なのだろうか。

photo : 2018/1/7

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2018年11月22日 (木)

神明坂(大田区石川町)

東京工業大学の南側を西川東へ上る坂道が神明坂である。 東工大のキャンパスは大岡山駅の西側一帯に広がっていて、校内を南北に呑川の河岸段丘が走る。 神明坂もその河岸段丘を上る坂である。 段丘の高さはおよそ10mほど。 それほどの段丘ではないが、ちょうど運動場の脇でかつては九品仏川が呑川に合流していた。江戸時代は呑川の東が石川村、西が奥澤村であった。

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神明坂の道筋は江戸時代からある古い道で東に延びており、道々橋村の花抜坂へ繋がっていた。坂下に木製の標柱がある。 「昔、坂のそばに、村の鎮守の神明社があったので、神明坂というようになったと伝えられる。神明社は現在の石川神社である。」

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石川神社は村の鎮守だったとは想像できないほど小さな神社である。 河岸段丘の崖線にわずかな平地を切り開いて建てられている。しかしながら正保年間(1644年~)開村以来の鎮守で、古くは石川村のみならず遠く品川界隅に至るまで崇敬者が多く、現在でも、除夜祭の際にお配りする御神箸を用いて食すれば忽に歯痛治まると云われる。

この神社と東工大の運動場の間に素敵な坂道がある。

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階段坂なのだが、無名の坂で12mの高低差を50mで上るので傾斜は24%にもなる。 坂下の住民は大岡山駅に行くのにここを上ってキャンパス内を通って近道にしている。 この無名坂からはなんと富士山が望めるのである。 訪問時も地元のご婦人と「今日はよく見えますね」と話しながら富士を眺めた。

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都内で富士を眺められる坂は極めて貴重になった。都心の富士見坂は全滅である。 かろうじて世田谷の多摩川の河岸段丘のいくつかの坂は富士山を望むことが出来る。 またこの坂の途中から石川神社の境内に出る細道もあってなかなかの無名坂である。

photo : 2018/1/7

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2018年11月21日 (水)

洗足坂(大田区南千束・上池台)

洗足坂は中原街道の坂道である。 洗足池前から洗足坂上まで高低差13mを340mかけて上る。 勾配は4%と大したことはないが、昔からの街道についてはほとんどの坂が勾配を緩やかにして拡幅されているので、ここも人馬の通う街道の時代はもっと急だったはずである。

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坂の途中に東京都が設置した銅製の説明板がある。 かすれて読みにくいタイプではあるが、ここは比較的傷が少なく、次のように書かれていた。

「この道(中原街道)は、江戸から平塚の中原に通ずる街道で、江戸期には、東海道の脇往還としてさかんに利用された。明治期以後も産業の発達に伴い、東京への物資の輸送路として大きな役割を果たした。しかし、このあたりは坂が多く、重い荷車は難儀をした。昔の洗足坂は道幅も狭く、現在の坂より短い急な坂であった。大正12年になると道路が改修されて、ゆるやかな坂となり、その後さらに拡幅されて現在の道路となった。坂の下には、その改修記念碑がある。」

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洗足池は日蓮上人がここで足を洗ったのでそう呼ばれるようになったという説がある。また元からの地名は千束で、それが日蓮宗の言い伝えにより、洗足に変わっていった可能性が最も高いと思われる。

この洗足池からは洗足流れという呑川の支流が流出している。 しかし元々は自然池ではなく、人工池で平安時代に沢を堰き止めて出来た灌漑用の池である。

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池の東側には勝海舟夫妻の墓がある。 勝海舟はこの池の風趣を好んで、湖畔に別荘「洗足軒」を作った。

中原街道は江戸から平塚の中原に通じる道のため中原街道の名が付いた。 東海道よりも古い中世の街道で、現在の地名で言うと武蔵小杉、下川井を経て平塚の中原までが中原街道とされている。 江戸時代に東海道が整備されると、脇街道となった。

photo : 2017/1/15

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2018年11月20日 (火)

夫婦坂(大田区北馬込)

夫婦坂の場所は、環七以北は大田区北馬込、以南は坂の東側が中馬込、西側が上池台である。 したがって環七通りの夫婦坂交差点は3つの町の町境ということになる。さらにこの交差点の南西側は鸛の巣流れの谷、北東側は内川源流の谷で、小さいながら分水嶺でもある。

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上の写真は北馬込側から見た夫婦坂で、綺麗な相生地形になっている。環七通りはちょうど青い道路標識に隠れた部分を横切っている。 内川の源流の一つはこの一番低い部分を流れていた。 中馬込側に標柱があり、「この坂は、北馬込1丁目品川境から環七通りを挟んで上池台4丁目地先に連なる坂で、その向い合うさまを夫婦にたとえてよぶようになったといわれている。」と書かれている。

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環七通りはこの坂道の途中を分断して開通したのである。 ただ地形としては環七も西に向けて上り坂のため、外回り車線では慢性的な渋滞が起こる。 トラックの多い平日はさほどでもないが、週末になり一般ドライバーが増えると必ず渋滞になる。 高速道路の自然渋滞と同じ原理である。

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大田区のHPによると、昭和初期までの夫婦坂は、今よりも道幅も狭く曲った坂道だった。また、このころまでの夫婦坂は、間を通る環状7号線もまだ開通せず、急な坂道で竹やぶ、雑木林などに囲まれ、昼なお暗い寂しい坂道であった。なお、この坂は品川道に通じていた。品川道は、洗足池から長原駅付近を通り、東は大井を通って品川へ通じた古い道。 今でもその道は商店街として伸びている。

photo : 2017/5/3

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2018年11月19日 (月)

庄屋坂(大田区上池台)

貝塚坂(旧学研通り)に接続する直角の坂の中で最も上流(北東)にあるのが庄屋坂である。 鸛の巣流れはこの辺りまでくると、学研通りから西にズレる。 そのためにバス通りから庄屋坂を見るとまるで薬研坂のように見えるのである。

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谷底あたりに右から左へ昔は小沢が流れていた。そのため実は手前の下り坂の勾配も庄屋坂に迫る急さである。 しかし昭和初期の耕地整理以前は学研通りはなく、東の尾根に旧目黒道、谷沿いには細い農道が通っていた。 ところがそんな古い時代にも東西の尾根筋から下って上る坂が古い地図には描かれている。 その最も上流の道がほぼこの庄屋坂に重なっている。

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坂の上下に木製の標柱がある。「坂の付近に、昔から庄屋の家があったと伝えられることから、この名がついたといわれる。」と書かれている。 その庄屋の名前や場所については大田区の調査でもわかっていないようだ。

現況はというと、急勾配を形成した鸛の巣流れはこの坂に達すると暗渠が消える。六郷用水関連の資料では鸛の巣流れはここからは道沿いにカクカクと曲がり上池台射水坂公園あたりが源頭と考えられる。

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上池台の地名の由来について調べてみた。 仲池上、池上、とあるが下池上と上池上がないなど、地名の疑問は尽きない。

洗足池をはじめとする多くの湧水池がありそれで池上という地名が生まれた。日蓮上人に仕えた池上氏もその地名由来の氏名だろう。 その「池上」というブランドを使いたいところだが、昭和43年(1968)の町名変更で上池上にしたい住民の反対を押し切って、上池台に決まってしまった。

「上池上」は江戸時代には上池上村という地名もあり古いもので、地域も上池台よりはるかに広かった。それを知っている関係者がここは台地の際だから「台」を使って上池台と決めたのではないかと思う。しかし今になってみると「台」が付くことで高級感が増す時代になってしまった。 とかく東京では「丘」「台」と付くと、自由が丘、麻布台、白金台、高輪台などを連想する人が多いのだろう。 ただし、そういう場所の大半は、江戸時代はド田舎である。時代変われば価値観も異なる。過去を知ることは未来を知ることに繋がる。 そういう点でも街歩きは面白い。

photo : 2017/11/3

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2018年11月18日 (日)

貝塚坂(大田区上池台)

坂上は旧学研通りの貝塚坂バス停から、坂下は同じく旧学研通りの稲荷坂バス停まで、まっすぐな耕地整理後の坂である。 坂の北東の続きは夫婦坂。 貝塚坂はまっすぐだが比較的勾配は少ない。 400mの距離をかけて16mの高低差だから勾配は4%しかない。 しかし長い。

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坂上は変則の六差路。写真左側の道は稲荷坂、大久保坂の坂上を経て猿坂に至る旧目黒道。右の道が貝塚坂で昭和初期の耕地整理によってできた生活幹線道路である。坂上バス停付近に木製の標柱が立っている。

「坂名の由来となった馬込貝塚を、『大森区史』は「馬込の根方に貝塚というのがある。石器時代の器物や矢の根石などがよく掘り出されたといっている。 今もなお好事家の尋ねて来るものが少なくない。」と記している。

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この坂の東側、旧目黒道周辺では貝塚だけではなく集落跡も見つかっている。時代は縄文後期で、約5,000年から2,300年前のもの。遺跡では極めて珍しい埋葬された犬が発見されている。大きさは現在の柴犬ほどの大きさで、このことから縄文時代にはすでに犬が家族として人間と共に生活していたことがわかる。

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大田区のHPには次のように書かれている。

「上池台四丁目と五丁目の境を上る、通称「学研通り」の坂道。この貝塚坂周辺は、貝塚を伴う集落遺跡のあったところで、坂名もそれにちなむもの。『大森区史』には、「馬込の根方ねがたに貝塚といふのがある。石器時代の器物や矢の根などがよく掘り出されたといっている。今もなほ好事家こうずかの尋ねて来るものが少なくない」と書かれている。大田区内の鵜の木、池上、山王とつらなる台地には縄文時代から古墳時代にかけての集落遺跡が多く、貝塚坂周辺にあったといわれる遺跡もその一つ。」

貝塚坂はただひとつ鸛の巣流れと並行して走る道である。 つまり谷底を滑るように下っていて、したがって左右に急な勾配の坂が連続しているのである。

photo : 2017/5/3

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2018年11月17日 (土)

鸛の巣坂(大田区上池台)

仲池上の旧学研通りの南北にある坂のうちで最も勾配のきつい坂の一つが鸛の巣坂である。 ライフ(旧学研本社)の交差点を中心に稲荷坂と相対しているが、鸛の巣坂の方が急坂である。 ライフの脇を進むと目の前に壁のように迫ってくる。

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高低差は坂の舗装が白い部分に限ると、距離80mで落差11mだから14%になる。 坂の上下に標柱が立っている。 そこには次のように書かれている。

「鸛(こうのとり)の巣があったということからこの付近を鸛の巣山と呼んでいた。坂名はそれに由来する。また、坂下に今でも残る水路は、鸛の巣流れと言われている。」

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坂を見上げていると冬が楽しみに感じられる。もし自分が少年だったら間違いなくそり遊びをするだろう。 鸛の巣流れは細流だが大したものである。 ただし現在の鸛の巣流れはすべて暗渠となっている。 農業が盛んだったころは用水路として働き、その後は排水路として働いてきたが、現在は下水道の役割に甘んじている。

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道がまっすぐで耕地整理後の坂かと思いきや、江戸時代からある古い道である。 関東大震災以前は坂下は田んぼがあり、坂周辺の斜面は果樹園と広葉樹という風景だったようである。関東大震災後、東京の西側に宅地が急速に造成されたときに耕地整理され、坂周辺の斜面と台地はほぼ民家で埋まったが、谷の向こう側には昭和中期まで自然が多く残っていた。

photo : 2017/5/3

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2018年11月16日 (金)

蝉坂(大田区上池台)

上池台の蝉坂の道筋は江戸時代からの古道。  池上本門寺から長原まで続く道で、崖線下の低地をなぞるように北上してきた後、蝉坂で崖線を始めて上る。 昭和に入ってからの耕地整理で道幅は広がったが、大正時代以前の地図でも切通しで等高線の詰まった崖線を上る様子が見て取れる。

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大田区のHPには次のように書かれている。 「耕地整理以前からの古い道。坂名は、付近一帯が「池上村蝉山」と呼ばれていたことから名づけられたものと思われる。上池台三丁目41番と42番の間の「洗足流れ」という水路にかかる橋は蝉山橋と名づけられているが、これも蝉山の地名によるものだろう。」

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上の写真はその水路だが、これは洗足流れではなく、そのまた支流の鸛の巣流れである。 小さな支流だが暗渠ははっきりと極楽寺先までついているが、その先で不明になる。坂下のバス通りを昔は「学研通り」と呼んだのだが、学研がなくなって道の名前も消えた。 その学研通りは谷筋にあり、その谷を削ったのが鸛の巣流れである。

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蝉坂はカーブしたのちに勾配を増す。 坂下が12mで坂上が32m、それを200mで上るので勾配はおよそ10%ということになる。 近辺では蝉坂から北側の坂はほとんど勾配が二桁%でどれも見事な坂道になっている。 鸛の巣流れという数十センチの幅の水流がここまでの谷を形成するのは驚きであるが、都内にはそういう谷が多い。

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坂上と坂途中に標柱がある。 「この坂の付近一帯を、もとは蝉山と言っていた。坂名の由来はこれによったらしい。付近に蝉山橋もある。」と書かれている。 蝉山橋というのは2枚目の写真の場所に架かっていた橋の名前である。

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蝉坂の北にもう一つの谷がある。 谷の源頭は小池公園といい、広い池に水鳥が沢山いる市民の憩いの場になっている。かつては洗足池を大池と呼びこちらを小池と呼んだのが名残り。ここから細流が流れているが、大半は暗渠。 景色のよい坂道もあるがどれも無名である。

photo: 2017/5/3

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2018年11月15日 (木)

稲荷坂(大田区上池台)

環七通りの夫婦坂交差点から南へ下ると貝塚坂、その坂下にスーパーマーケットのライフがあるが、ここは以前学習研究社(学研)の本社だった場所である。 昭和30年代生まれの人は学研のおばちゃんが学校に月間の『科学』と『学習』という児童雑誌を販売に来たことを記憶している方も多いだろう。 ここには昭和32年(1957)から2008年まであり、その後組織再編して五反田に移転した。このライフの交差点にあるバス停名は「稲荷坂」。ここから南東に上るのがその坂である。

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稲荷坂はほぼ直線の坂。 125mの距離で12m上るのでおよそ10%の勾配。 坂が開かれたのは昭和初期の耕地整理によるが、それ以前から坂上一帯には民家が多く、いくつもの農道のような坂はあったらしい。夫婦坂を通って池上に抜ける目黒道が坂上を南北に走り、南に行くと猿坂に至る。

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坂上近くには児童公園もあり、稲荷坂を覆う樹木がかつての農道時代の雑木林に囲まれた景色を想起させる。 坂下と公園前に標柱があり、次のように書かれている。

「坂上の上池台5丁目14番の南側角地に、玉倉稲荷という上谷戸(かみやど)の稲荷神社が祀ってあるので稲荷坂と名づけられたという。この坂道は耕地整理により出来たといわれている。」

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玉倉稲荷の場所は坂道から少しだけ離れている。 このことから推察すると、元の農道はくねりながら稲荷の近くに上っていたのではないか。 稲荷坂の南に途中で曲がった坂道があるが、そっちが主要農道だった可能性が高い。明治時代の地図を見るとこちらには道が描かれている。 そしてそのまま坂上は玉倉稲荷に通じるのである。

いささか気になるのは、岡崎清記氏の『今昔東京の坂』には、「坂上に玉倉稲荷の祠があり、その一角だけがこんもり茂っている。」とある。今はそんな様子はないのだが、かつての稲荷はもっと大きな敷地だったのではないだろうか。 稲荷の路地に家が建ったのは戦後、しかし昭和20年代でも周りは数軒の民家とあとは畑が広がっていた。 その頃はまだ稲荷の周囲には林があったようだ。

photo : 2017/5/3

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2018年11月14日 (水)

花抜坂(大田区東雪谷)

大田区東雪谷を南北に走る花抜坂の道筋は古道である。 現在は1本東側のバス通りが荏原病院前を通り、中原街道に抜ける生活幹線になっているが、江戸時代から大正時代までは花抜坂が南北の主要道路だった。 坂下近くには地元の人々にきれいに管理された庚申塔が真新しい小さな堂宇(お堂)に守られている。

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左側の庚申塔は正徳2年(1712)のもの、右側は享保7年(1722)である。右側の庚申塔には、「右瀬田ヶ谷村道、左九品仏道」とあるので、左は呑川沿いに進み奥沢から九品仏浄真寺への参詣道、右は尾根に上り洗足池を経て世田谷へ向かう道という意味で、昔は花抜坂の坂下にあったのではないかと思われる。

一方南側はやがて多摩川に至る鎌倉時代からの道だった。 この尾根は、西側を呑川に、東側をその支流の洗足流れに削られた二つの谷の間の台地である。 その台地の尾根の南端で低地に下る坂が花抜坂という訳である。

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花抜坂以南はというと、道は久が原を抜け鵜の木を経て、そこからは矢口渡に行く道と平間の渡しに行く道に分かれていた。 平間の渡しは現在の下丸子と川崎の鹿島田を結ぶガス橋辺り、矢口渡は国道1号線の多摩川大橋あたりの渡し場である。

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花抜坂の東側にある長慶寺は日蓮宗の寺院として慶長3年(1598)に碑文谷に開山、のちにここに移転した。坂下の標高が9m、坂上池雪小学校辺りが23mで、10%ほどの勾配がある。 江戸時代尾根一体は雪ヶ谷村、尾根の東側は池上村、南側は道々橋村と3村の境になっている。 その地名は新幹線をくぐった南側の交番名に「道々橋交番」という名で残っている。

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坂上からは遠く池上本門寺の大堂の巨大な屋根を望むことが出来、かつて本門寺に参詣し目黒世田谷方面に帰る人々は振り返りその長めに旅の余韻を覚えたのだろう。 坂の上下の標柱には、「『大田区史』に載せられた伝説によると、この付近は野花が美しく咲き乱れ、日蓮聖人が思わず手折ったので、以来「花抜き(花の木ともいう)」の地名でよばれるようになったという。坂名はこの地名に由来する。」とある。

また、大田区のHPには、「東雪谷五丁目12番と13番の間を池雪(ちせつ)小学校脇に向けて上る坂道が花抜坂です。坂名は、日蓮が洗足池から池上へと向かう途中、この付近に野花が美しく咲き乱れ、思わず手折ったので、以来花抜(花の木)の地名で呼ばれるようになったという伝説に由来します。伝説のとおり、この坂は古い道で、中原街道から別れて矢口の渡しまで通じる道でした。昔は現在のようなまっすぐな坂道ではなく、曲った坂道で、両側は高い崖になっていたといい、坂下は竹やぶであったようです。」とある。

photo : 2017/2/26

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2018年11月13日 (火)

大久保坂(大田区上池台)

夫婦坂交差点から南に下るバス通りの大東園前バス停脇から東に上るのが大久保坂。 なぜここのバス停が「大東園前」なのかがわからない。 大東園という不動産会社が貝塚坂の坂上にあるが、バス停の名前が不動産屋というのはあり得ない。 上池台で育った芥川賞作家の加藤幸子さんが地元の講演で下のように言っている。

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「私は1967年から大田区上池台に住んでいて、大田区を大変気に入っています。50年近く前のある時、大好きな野鳥のコジュケイに林の中で出会いました。コジュケイは「チョットコイ」と鳴きます。大田区のイメージは町工場が多いという感じだったので、東京都の中に野鳥のコジュケイがいることに驚き、すっかり魅了され、大田区に住むようになりました。 昔は野原や空き地が沢山あって、湿地になっていました。そこにザリガニや水中昆虫がいて、大東園の林があり、笹が下草として生い茂っていました。遊園地とか児童公園ではなくて、町の中に自然がありそこで子供たちが遊びました。今は整備され面影がなくなりましたが、絵のようにいい思い出として刻まれています。」

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坂の北側に巨大なマンションライオンズヒルズ上池台があるが、このマンションを含む一角は自然林が広がる雑木林だった。 開発されたのは昭和の終わりころで、それまでは自然豊かな林が広がる子供たちの天国だったのである。おそらくその所有が大東園だったのではないだろうか。

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坂上は右に折れて猿坂から上ってきた旧目黒道に突き当たる。 坂上と坂下にある標柱には次のように書かれている。「昭和初年の耕地整理によって出来た坂道で,坂の名は,大久保氏の屋敷跡であったということに由来するという。」

しかし明治初期の地図を見てみると大久保坂の道筋に杣道がある。 大正時代の地図にも破線で道が描かれているので、道はあったのだろう。坂名はこの付近に昔大久保氏の屋敷があったことから名づけられたといわれているが、その大久保氏が何者なのかはわからない。

photo : 2017/5/3

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2018年11月12日 (月)

猿坂(大田区上池台)

呑川の分流に洗足流れ、さらにその分流の鸛の巣流れという沢があった。 この鸛の巣流れの谷から馬込の台地に上る坂道が猿坂である。 この道は江戸時代からある古道で、池上本門寺から子安八幡下を通り夫婦坂に至る道だった。 坂下の辻には祠があり、馬頭観音が祀られている。

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祠はブロック塀に囲まれ立派なものだが、中にある馬頭観音はかわいいものだった。 天保9年(1838)のもので180年前になる。 昔はもっと坂下を南下した、の道路脇に立てられていたが、品鶴線の土地買収により現在位置に移動した。 昔は猿坂が主要道だったが、大正時代から昭和初期にかけて耕地整理が行われて、並行したバス通りが出来るとこっちの道はあまり使われなくなった。

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この道は目黒道とも呼ばれる。 池上本門寺と目黒不動を結ぶ参詣の道でもあった。 坂の上下に木製の標柱があり次のように書かれている。

「『新編武蔵風土記稿』の林昌寺の項に、「境内墓所の側に坂あり、猿坂と呼、昔山林茂りて猿多く往せし故是名あり」と記されている。
おそらく、古くから知られた坂道であろう。」

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坂は墓地の脇をくねりながら上っていく。 この道の曲がり具合がいい。 いかにも古道という風景である。 坂の高低差は20mほどある。 古道だからなるべく勾配が緩やかになるように崖線を斜めに上っていく道筋なのである。

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大田区のHPには、「昔、子安八幡神社、林昌寺(仲池上一丁目14番)からこの猿坂にかけての台地は森林が続き、猿が多く生息していたともいわれ、坂名はそれにちなむものなのでしょう。また、この坂を通る道は、池上本門寺前から仲池上の根方ねがたを通り、猿坂を通って台地に上り、馬込の夫婦坂を経て荏原町に達する古い道です。」とある。

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坂上の民家にもひっそりと庚申塔が立っている。 祠と塀の加工はかなり手の込んだもので、頭が下がる。 享保8年(1723)の庚申供養塔。この道が池上本門寺をお参りしたのちに、目黒不動から江戸に帰る行楽客、参拝客で賑わった道だったことが想像できる。

photo : 2017/5/3

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2018年11月11日 (日)

相生坂(大田区仲池上・上池台)

相生坂という名前の坂は東京23区内にいくつかある。 新宿区東五軒町にある相生坂は二つの坂が平行に並んでいる。 文京区湯島聖堂の前の坂も相生坂だが、これは神田川の対岸の淡路坂とペアにした平行の相生坂、あと五反田駅から白金に上る国道1号線の坂も相生坂だが、これは1本の坂。 しかし実は白金台から下る坂と御殿山から下る坂を並べて相生坂と呼んだのが由来。

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つまり平行に二本の坂が並んでいる場合に相生坂と呼ぶケースが多いということになる。 この相生坂ももちろん新幹線の線路を挟んで対になっている。 坂下の標高が8mで坂上は28mと20mの高低差がある。 しかし北側の坂は途中から北に折れているので12mほどの高低差しかない。

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坂上の標柱には次のように書かれている。

「新幹線を挟んで両側に、二つの坂が並んでいる所から、この坂を 相生坂 という。昭和初年耕地整理により出来た坂である。」

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標柱は北側の坂にも同じものがある。 遠くに武蔵小杉のビル群が見える。ちょっと広い土地があるとすぐに高層ビルを建てたがる街づくりは近視眼的だと思う。 人口も減っていくのだし、もっとサステイナビリティを考えた街づくりをした方がいい。 コンクリートは木造の半分しか持たないことは多くのインフラを見れば明らかなこと。 こうして地形を感じながら街歩きをしていると、そこが気になって仕方がない。

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新幹線が開通したが1964年。 それ以前はどうだったのだろうと調べてみた。この新幹線と横須賀線が平行した路線は1964年以前からあり、昭和4年に品鶴線(ひんかくせん:品川-鶴見)という貨物線として敷設された。旅客線化されたのは1980年で横須賀線が走るようになり、2001年からは湘南新宿ラインも走り始めた。 大正時代には道はあったものの相生ではなかった。北側の坂下が途中で線路から離れていくのはそれが昔の道筋だからである。

photo : 2017/2/26



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2018年11月10日 (土)

八幡坂(仲池上)

子安八幡神社は慶元元年(1256)に当地武蔵池上郷の地頭(領主)だった池上宗仲が、鶴岡八幡宮の分霊を勧請して創建したのち、池上本門寺に場所を譲って現在の地に遷座した。 池上本門寺の日蓮が身延山から常陸に向かう途中で死去したのは今の本門寺である池上宗仲の邸でのことだった。 宗仲は日蓮に帰依した熱心な信者だったので、自分の勧請した八幡を本門寺に寄進して移転したのである。

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池上本門寺は武蔵野台地の最南端にある重要拠点だが、仲池上の八幡神社の場所もそのすぐ北側の台地、崖の上にある。参道の階段は急で長く、標高7mから24mへ一気に登る。 本門寺の高低差には負けるがここも砦や神社には最適な場所である。

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八幡坂は神社の北側を上る急坂である。 当然、八幡神社の脇なので八幡坂と呼ばれた。 坂下には六郎坂と同じ流れ(呑川の分流)があり、そこには子安橋が架かっていた。 鸛の巣流れと洗足池からの流れを合わせた沢である。

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八幡坂は江戸時代の切絵図ではその道筋がない。しかし明治初期の地図にはあるので、もしかしたら江戸時代からあった道なのかもしれない。 訪問時坂上では猫が見事に横断歩道を渡っていた。 ただし八幡神社の境内が終わってもまだ坂は上っている。坂の最上部は28mあり、高低差は21mとかなり落差のある坂道。

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坂上の台地を切通しで東海道新幹線と横須賀線が分断する。 江戸時代は池上村。 池上の地名の由来は諸説あって、かつてこの辺りは湿地帯や池が多く亀が沢山いたので、池と亀で「イケガメ」→「イケガミ」に転化したという説や、蒲田駅と池上駅の間にある蓮沼駅の周辺が大きな池で、その先(上)にあったので池上となったなどという説がある。

大昔から最近まで多摩川は相当な暴れ川だった。そして田園調布以南の多摩川の都心側は低地が広がる。暴れ川の多摩川が池上の辺りに三日月湖のような河跡湖を残した可能性は極めて高い。 池上氏が統治したからだという説もあるが、藤原氏の末裔がこの地で池上を名乗った時にはすでに池上という地名はあったようだ。地名の由来は大部分が地形地質に由来するのがふつうである。

photo : 2017/2/26

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2018年11月 9日 (金)

六郎坂(大田区仲池上)

仲池上1丁目の呑川の河岸段丘(左岸)にある坂で、大尽坂と八幡坂の間にある。坂下で丁字路になる道は、大尽坂下の庚申塔から続く道で、洗足・中根を経て杉並区堀の内まで行く古道。 六郎坂下のこの古道沿いには昭和中期まで川が流れており、丁字路にあった「六郎橋」を渡って六郎坂の上りになっていた。

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六郎坂、六郎橋の由来は、江戸時代後期に池上村のために尽くした海老沢六郎左衛門の屋敷が坂に沿ってあったからだという。 戦前までの呑川流域は大部分が田畑で、六郎坂付近も屋敷森に囲まれた数軒の農家が坂の東側にだけ建っていて、坂の西側(谷側)は畑という、のどかな農村風景だった。

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八幡坂との間にある林昌寺は文亀3年(1503)の開山という古い日蓮宗のお寺。 隣の子安八幡宮は康元元年(1256)の創建で池上の鎮守。相当昔から呑川の流域に人々が暮らしていた。 呑川は現在は汚い川だが、もともと飲み水の川の意の呑川でとてもきれいな川だった。 したがって六郎橋の下を流れていた呑川の分流も澄み切った水の川だったのだろう。

海老沢六郎左衛門について調べてみたがよくわからない。坂下の水路(川)は呑川に注ぐ支流だった洗足流れ(洗足池から下る)と鸛の巣流れ(夫婦坂から下る)を集めて、呑川左岸の池上村の農地を灌漑していたので、それに尽くした人なのだろうか。六郷用水の資料は沢山あるのだが、そこから外れるとほとんど資料がない。

江戸時代以前は農民の争いと言えばまずは水騒動(水の奪い合い)だった。あとは普請(工事)の負担に関するもめ事くらいで、江戸時代には水を原因とする多くの争いの記録がある。 おそらくは水関係の人だったのだろう。

photo : 2017/2/26

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2018年11月 8日 (木)

ガッカラ坂(板橋区上板橋)

川越街道は江戸と川越を結ぶ街道。 中山道と旧板橋宿の平尾追分で分岐し、川越城下に至る現在の国道254号線沿いの旧街道。室町時代に太田道灌が江戸城と川越城の間に開いた街道で、江戸時代は川越往還といい、川越街道という名は明治以降の呼び方である。東京都内の宿場は3つ、板橋宿、上板橋宿、下板橋宿だが、江戸から川越までは11里程なので、ゆっくり行って一泊、早足だと一日の旅程。 途中で一泊するなら朝霞の肘折宿あたりだろうから、もっぱらお茶休憩の宿場の要素が強かったのでは。

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新道の国道254号線に五本ケヤキという中央分離帯がある。かけていた1本が植えられ5本に戻った。 昭和初期、自動車道路の建設に新道(改正道路)が通された。 ここに上板橋村村長宅の屋敷林があり、ケヤキも伐採されることになったが、当地主の強い希望で一部残されることになり、現在の形になった。 今となってはイカしたランドマークになっている。

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旧川越街道は五本ケヤキの北側を平行に走っている。 現在は上板南口銀座商店街で、訪問時は子供御輿の祭りで賑わっていた。 ほぼ直線といえる旧街道で、坂上から西を遠望すると確かに下っているが、歩いていて坂道を感じるほどではない。

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縁日のある街はいい。 表参道や青山よりもずっといい。 直線のつまらない坂道でも人々の生活感ある賑わいがあると良い坂になる。

「郷土板橋の坂道」には、「川越街道の五本欅の東手前から斜めに入る道がある。これが旧川越街道で練馬北町に向かっている。入るとすぐに緩やかな坂になる。坂の中程に子育地蔵堂があるので地蔵通りと呼ばれる。 この通りは、埼玉や練馬・赤塚の農家の人たちが、朝は暗い内から野菜などを市場に運んだ道で、荷車が「ガラガラ」と音を立てて通ったので、ガッカラ坂と呼ばれた。また長い坂なので「ガッカリ」したといい、ガッカラと訛ってこの名が付いたともいう。」とある。

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中程にある子育地蔵堂は地元の人々によってきれいに管理されている。 地蔵菩薩は3体あるが手前脇のものはかなり最近のようだ。 奥の左手は安永6年(1777)のもの、右側の合掌している方は安永7年(1778)である。

説明書きによると、この2体の地蔵菩薩はもと栗原堰の一本橋(茂呂遺跡の北側の石神井川に架かる橋)にあったもの。 台座には貞享5年(1688)の年号もあるので、台座は使いまわしだろうか。 明治初年には駅前商店街との交差点に移設されたが、放置され倒された状態だったのを宝田豆腐店の店主が大正12年頃にここに祀った。当初は3体あったが、1体減っている。そのかわりが右手の新しい地蔵なのだろうか。

この地蔵を中心にして、4月から9月まで毎月七の付く日に縁日が開かれる。東隣の豆腐屋さんは数年前に廃業したようだが、地蔵菩薩に守られて幸せなリタイアだったのだろう。

photo : 2018/10/28

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2018年11月 7日 (水)

大尽坂(大田区仲池上)

大尽坂は大田区の坂道の中でも最も急峻な坂のひとつ。大田区の池上・馬込周辺は人口密集地帯だが、呑川と内川のそれぞれの支流が複雑に谷を形成しており、極めて高低差の激しいエリアである。 西馬込と仲池上の町境は内川(沢尻川)と呑川に挟まれた尾根筋の道で、道なりに北上すると環七通りの夫婦坂交差点に至る、江戸時代からある古道。

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都営浅草線の終点西馬込駅から大尽坂へ向かう道もまた少なくとも明治時代からの村道である。 大田区のHPでは、大尽坂は昭和初期に行われた耕地整理によってできた新しい道路ということになっているが、明治初期、明治末期の地図には大尽坂の道筋は道路として描かれていて、最も等高線の詰まったところを下っている。

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坂上は23m、坂下は8mの標高で、距離は140mなので、平均11%の勾配になる。 江戸時代の絵図ではこの崖上と崖下を結ぶ道は描かれていないので、杣道くらいしかなかったのだろう。 現在は舗装になっているが、この傾斜で土面の坂だったら雨の日は上れそうにない。

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坂の上下に木製の標柱がたてられている。「昔、大尽(財産をたくさん持っている人)が、このあたりに住んでいたということで名付けられたという。」と書かれていた。このお金持ちの大尽が誰なのかは不明のようだ。池上本門寺が近いのでそれに関係する人なのか、また昔は結構大きな農家があったようでその名主や庄屋だったのか。

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坂を下りきったところに庚申塔がある。右側に「池上めぐろ江道」、左側には「せんそくほりの内江道」とあり、旧目黒道と洗足から杉並区の堀の内への道が交差するところを示している。ここで堀の内かい?と思うのだが、目黒区中根の鉄飛坂にある帝釈堂の庚申塔にも「右ほりのうち、左池上」とあったので、同じ道筋であろう。 「めぐろ江道」というのは「江」は送り仮名の「へ」、つまり目黒へ行く道ということ。 江戸時代に目黒道と言われていた道はほぼ目黒不動への参詣道と考えてよい。目黒道を示す石塔は多く、品川区、目黒区、大田区、世田谷区にある。

大尽坂の北側に並行して崖線を上る二本の坂道があるが、どれも名坂である。 真ん中の坂は昭和に入ってからの耕地整理後の坂だが、北側の1丁目と1丁目の町境の坂は明治時代にはすでに開かれていた。

photo : 2017/2/26

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2018年11月 6日 (火)

番匠免の坂(板橋区赤塚)

番匠免という名前は珍しい。 ここ以外では埼玉県三郷市に番匠免という地名がある。番匠免というのは、「番匠」は大工を指して言う呼び名。「免」は免田=免税の田んぼ。また番匠免を「ばんしょうめ」と読んで王朝時代に諸国から京都に交代勤務した木工の称号という意味もある。 いずれにせよ木工や大工という意味。

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赤塚中央通りの大堂の坂を下りきり、写真の暗渠が残る前谷津川に架かる橋本橋を渡って南下すると再び道は上りになる。 これが番匠免の坂である。 この辺りの地名も以前は旧小字が番匠免であった。

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かつて広大な寺であった大堂を建てたり、維持にあたる番匠(大工)が住んでいた。 大工たちは租税を免除されていたという。 それでこの辺りを番匠免と呼ぶようになった。 坂上辺りの古い地名は地蔵塚。 元は篠崎家という家の守り神として祀られていた地蔵尊があった。 地蔵の前は普通の塚だったらしい。 そこに元禄12年(1699)に地蔵尊が建立され、嘉永2年(1849)には庚申塔も立てられた。

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篠崎家は現在マンションになっているが、その脇にひっそりと地蔵堂が残っている。その名は元塚地蔵尊。 これは後に赤塚中央通りが拡幅されたときにできた地蔵で、元の地蔵尊は松月院へ、庚申塔は大堂に移設された。 そう古くない言い伝えがある。

かつてここの家主が交通事故に遭い、ムチ打ちになって首が回らなくなった。その治療をしてくれた人から、「お宅に地蔵がなかったか?今そのお地蔵様は首がなくて困っていらっしゃる」という話を聞いた。 松月院に行ってかつての地蔵を見ると、なるほど首が欠けて立てかけてあった。首を作り直したところ、自分の首も治ったという話である。 そう昔の話ではないだけに、いささか疑問はあるが面白い。

photo : 2016/11/6

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2018年11月 5日 (月)

大堂の坂(板橋区赤塚)

東西に走る松月院通りと南北の赤塚中央通りの交差点である松月院前周辺は江戸時代はほとんど松月院の寺地で、現在も3,860坪の広さがあるが、江戸時代は15,000坪の敷地だった。 山門の南には赤塚八幡神社があり、かつて下赤塚村の鎮守であった。その傍には古墳があり、この上に建てられた松月院の阿弥陀堂が大堂で、板橋区内最古の寺とされ、1300年頃には極めて大きな寺院だったと言われる。

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松月院前の交差点から南へ下っていく坂道がある。大堂の坂と呼ばれる。大堂の東側を下り、前谷津川に架かる橋本橋を渡る古道である。 北豊島郡下赤塚村時代は前谷津川よりも北側は大門、南が番匠免という地名だった。

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広い通りは古道の道筋を拡幅したものなので、綺麗なカーブを描いて前谷津川に向かって下っていく。坂下暗渠手前の路地を西に向かうと赤塚八幡神社と大堂への参道になる。 松月院の山門が標高31m、前谷津川に架かる橋本橋が24mなので、それほど急な坂ではない。

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坂の東側は区立赤塚三中になっている。神社や古刹に囲まれているので古いかと思いきや、1960年の創立。 それ以前は農家が中心のポツンポツンと屋敷林のある民家が立つ村だったのが、高度成長期に開発され数字の名前の中学校になったのだろう。 中学校建設以前は辺り一面の畑だった。

photo : 2016/11/6

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2018年11月 4日 (日)

つるし坂(板橋区赤塚)

赤塚城址公園の池に注ぐ沢の源頭は区立赤塚体育館の北側である。 この沢はごく小さな沢だったが深い谷を形成して不動の滝を合わせ、赤塚溜池に達していた。 赤塚植物園の南側から暗渠がずっと上っている。 この谷を上谷津の谷という。

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つるし坂は下って上る薬研状の坂で、谷を越えて向こう側に通じる道。 現在は緩やかだが、それは中央部分がかなり土盛りされているからで、昔は急な坂だった。もっとも低い部分は橋になっていて、下を暗渠道が通っている。写真の民家は2階部分が映っているのである。坂の南側の台地上には東西に都道446号松月院通りが通っている。

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つるし坂の由来は、大正時代の地元の民謡に地名として残っており、「つる」は水の流れ、「し」は接尾語で、雨天時には雨水が集まってたくさんの水が流れるという意味である。また松月院通りの南側には前谷津川(暗渠)があり、そこを渡る古い橋の名が亀橋、そこから北に進むと再び沢を渡るこの橋の前後を鶴嘴(つるし)坂と呼んで、鶴と亀の縁起を込めたという。

photo : 2016/11/6

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2018年11月 3日 (土)

藪の坂(板橋区赤塚)

赤塚城址の南側は谷地形である。 千葉氏がこの地を主城に選択したのは自然なことで、赤塚城址は南西の角を除いてはすべて崖になっているからである。 四方が天然の要害になっている場所は城跡である場合が多い、逆をいうとそういう場所に戦国時代は城を築いている。その谷に降りられる細い階段道があって、宅地の造成跡があるのだが接道していないので段々畑のような空き地のままになっている。 そこで猫としばし戯れた。

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この谷に南にある東京大仏側から下って再び上る薬研状の坂道が藪の坂である。高さ13mの青銅製の大仏はその名も東京大仏だが世間には知られていない。 昭和52年の建立なのでそれも致し方ないだろう。 乗蓮寺は大仏建立の数年前に仲宿から赤塚へ移転したものの、江戸時代から続く寺院である。

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この辺りは谷底の竹藪笹藪だったようで、道の両側に深く生い茂る笹藪を由来として藪の坂と呼ばれるようになった。 今は多少の緑は残るものの、ほぼ民家に囲まれた細道坂となっている。 辺りは明治以前からバラパラと民家があった地域で、小字を石成という。石成村はのちに成増村と名を変えたという説がある。この辺りから西側が石成だった。

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坂の南側に赤塚植物園がある。 武蔵野の面影を色濃く残した丘陵地の植物園で、昭和56年(1981)の開園。 先を急いだので園内には立ち寄らなかったが、次回はぜひ入ってみたいと思う。 9:00~16:30開園で無料である。月曜と火曜は閉園であることが多い。

photo : 2016/11/6

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2018年11月 2日 (金)

出口坂(板橋区赤塚)

板橋区郷土資料館や板橋区立美術館のある赤塚城址公園は周囲800mほどの丘陵になっている。 自然の地形を生かして、戦国時代(1456年という説が有力)に千葉自胤の居城となった。詳しいことはほとんどわかっていないが、太田道灌と千葉氏は手を結んで勢力を広げたものの、力をつけた小田原の北条氏に従うことになり、その後秀吉が北条氏を滅ぼし、徳川が江戸入りしたころにはすでに廃城になったようである。

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山頂広場は野球ができるくらいの芝生広場になっている。芝生広場からいったん林に入ると急な下り坂になっており、ここが山のようになっていることがわかる。 東方向4㎞にある志村城の関係は、赤塚城が本城で志村城が支城。千葉氏が北条家の内紛に巻き込まれて落ちぶれたのを太田道灌が保護したという関係。 群雄割拠の室町末期から戦国時代、安土桃山時代はなかなか難しい。

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赤塚城の西側を北から南に上るのが出口坂。 坂上辺りが赤塚城の大手口にあたるので出口坂と呼ばれるようになった。現在は2車線の道路に拡幅されている。 明治時代、大正時代は小字を出口といい、出口は地名でもあった。

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緩やかにS字を描いているのはこの道が古い道だからであろう。 赤塚城は真北の荒川の早瀬を一望し、また武蔵北部から南部の下赤塚、江古田に至る鎌倉道でもあって、陸運水運をとらえる要衝であった。  鎌倉道というのはあちこちに言い伝えられており、何本もあるようだが、ここは間違いなく北関東から鎌倉へのルートのひとつだったと思われる。

photo : 2016/11/6

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2018年11月 1日 (木)

赤パッケ坂(板橋区赤塚)

首都高速5号池袋線が新大宮バイパスと合流するところは小山になっている。 岬の突端のような地形で、ここは塚なのだろうか?と訪問時は考えたが、資料を探してもその説は出てこない。 もっともこの辺りからは縄文時代以降の発掘物が出ているので、他の崖線同様に古くから人間の営みがあった場所であることは確かだ。

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バイパス側からアプローチするといきなり崖になっている。この崖を階段で昇り降りするのが赤パッケ坂である。「パッケ」というのは崖の意味の「ハケ」「バケ」の転訛だろう。そして赤は「赤土」を意味するので、赤土の崖ということになる。 坂下には赤塚城址があり、溜池のある赤塚溜池公園になっている。

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昔はこの溜池に南から沢が流れ込んでいたようで、その沢がこのパッケを形成したものであろう。戦前の地図にはこの水線がはっきりと記されている。 太古の源頭は赤塚体育館の辺りのようだが、沢として水線が出てくるのは現在の美術館入口辺りからである。 その少し南の赤塚不動の滝の場所には湧水があり、かつては滝のように流れていたという。

photo : 2016/11/6

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2018年10月31日 (水)

しったり坂(板橋区大門)

武蔵野台地と荒川低地の境目の崖線沿いに都立赤塚公園が東西に延びて崖線の自然が守られている。東側から、辻山地区、徳丸ヶ丘緑地地区、番場地区、沖山地区、大門地区、城址地区とあり、東西1.7㎞程に広がっている。 この中でも大門地区が最も自然環境がよさそうである。崖線に数カ所の湧水があるが、大門地区のしったり坂周辺には2ヶ所が確認されている。

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崖線上からはいきなりの急階段。 公園内の散策路だが、昔のしったり坂はこの筋だったと思われる。崖線下にはニリンソウの群落が4月頃に一面に広がる。 当然水があるので縄文時代からここには人間が住着いていた。 そういう場所である。

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しったりざかはほぼ階段で20mの高低差を稼ぐ。 昔の地図は普通の道路線で描かれているが、ここはおそらく階段だっただろうと思われる。僅か50mほどで20mもの高低差である。よく見る勾配標識の%に換算すると、40%(22度)の坂ということになる。 それはとてつもない坂である。しかも関東ローム層の赤土であったのは間違いないだろう。

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下ってみても坂下に着くとホッとするくらいの坂であった。 昔、大門の人々は徳丸田圃(高島平)へ通うために諏訪神社の西裏手の崖から下るしったり坂を使っていたという記録がある。語源については、農耕具や収穫物をもって上るときに後ろから尻を押す姿から「尻垂れ坂」になり転化してしったり坂になったという説、坂の途中から清水が湧き垂れるので「しったり坂」と呼ばれたという説、湿気がひどいので「湿ったり」が訛ってという説など諸説ある。

江戸市内であれば、胸突坂とか炭団坂とか転坂などと呼ばれたに違いないが、ここはのどかな農村地帯であったので、板橋の方言でしったりというのがあった可能性もあるのではないかと想像するのも面白い。

photo : 2016/11/6

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