2019年5月19日 (日)

渋谷郷土博物館前の庚申塔(渋谷区東)

渋谷区に郷土博物館があることを知らない人も多いと思う。実は國學院大學のすぐ裏手に「白根記念渋谷区郷土博物館・文学館」という施設がある。考古学の世界ではその手前の國學院大學博物館が秀逸で素晴らしいのだが、渋谷区も細々と頑張っている。入館料は100円だが、館前の庚申塔は敷地に入れば見ることが出来る。館内は1階がイベント的な特別展示室、2階が常設展示で有史以前からをコンパクトにまとめているが、全体としては文学館の要素が大きい。

与謝野晶子夫妻も渋谷の大和田(現在のセルリアンタワー辺り)に住んでいたし、国木田独歩は宇田川町(現在のセンター街付近)に暮らし『武蔵野』を書いた。不動産ディベロッパーのCMで「ホタルの棲む渋谷」と謳っているが、100年前には蛍は多数飛んでいたのである。今の渋谷になってからまだ半世紀しか経っておらず、それ以前は比較的長閑なエリアだった。

しかし、渋谷にはあまり江戸時代の野仏などが多くないのは、谷である地形と、すぐそばまで大名屋敷が迫っていて、農民はもっと郊外に多く住んでいたからではないだろうか。現在の郷土博物館の辺りは、江戸時代は麻布村の西の外れで下澁谷村との村境。向かいには島津藩の下屋敷があった。

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二基の庚申塔はもともと桜丘町29番の斎(いつき)家にあったものを移設している。現在のセルリアンタワーの裏で、アーティストの学校が並んでいるところだ。 左の高い方は、山型角柱型庚申塔で造立年は寛文12年(1672)、右は舟型光背型で享保4年(1719)である。

都心が近くなると、路傍の野仏はほとんど絶滅している。開発の中でどんどん打ち捨てられていったのだろう。資料館のような場所に移設されると保存はしっかりとされるのだが、近所の人が花を手向けたり供物を供えたりすることがなく、なんだか庚申塔から命が抜けてしまったように感じる。見ていて寂しくなるのである。

場所  渋谷区東4-9-1

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2019年5月18日 (土)

上目黒氷川神社の大山道標(目黒区大橋)

国道246号線(玉川通り)と環状6号線(山手通り)の立体交差の傍、ほぼ首都高速道路に近い高さにある神社が上目黒氷川神社。大橋になるのに上目黒とはと思うが、江戸時代この辺りは上目黒村。従って神社の名前はそのまま村の名を取って上目黒氷川神社である。ここは台地の突端でもあり、東側の山手通り脇には目黒川支流空川の谷、南側には目黒川本流の谷がある。

かつての大山道は道玄坂上から一気に大坂を下り、空川を渡った後、この台地の突端を迂回するように三軒茶屋方向に走っていた。ここに昔からあったのが氷川社。ちなみに元の石段は文化13年(1816)に築かれたという。

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この崖の高さは10mを超える。国道の拡幅で敷地を削られて一段と階段が急になった。階段の左上には移設されてここにやってきた富士講の目黒新富士がある。文政2年(1819)に代官山の目切坂上に築かれた目黒富士だったが、明治11年(1878)に岩倉具視が別所坂上に別荘を建てることになり、目黒富士はこの地に移設された。その後目切坂上の富士塚は東武鉄道社長の邸宅改築のために取り壊された。

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階段下の左手に供養塔と道標がある。供養塔の造立年は不明。「武刕荏原郡古菅刈荘目黒郷」と書かれた供養塔は上部が欠損している。もしかしたら「目切坂再建供養塔」かもしれないが、わからない。 右側の角柱型の石塔は道標。 大山道という正面の大きな文字の下には、「せたがや通り 玉川通り」、右側面には「右 ひろう(広尾) めぐろ 池かミ 品川みち」。左側面には「左 青山 あさふ みち」とある。この道標はここにあったものではなく、玉川通りから目切坂へ向かう日向道(山手通りと並行した北側の道)が目切坂の上りを分岐する場所にあったものを、明治の末に移したという記録がある。

場所   東京都目黒区大橋2丁目16-21

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2019年5月17日 (金)

半田塚(世田谷区松原)

菅原天神通りと松原大山道の分岐を南から左の菅原天神通り側(凧坂)に進む。すぐに左手に「赤松ぼっくり庭園園地」という面白い名前の公園があり、その数十m先の右手にひっそりとネットに囲まれた半田塚がある。 この半田塚の名前から、この凧坂ではなく、一本東の松原大山通りを半田坂と呼ぶのが不思議でならなかった。さらに半田坂という名前は地元では閻魔坂と呼ばれていた方がメインで、かつてこの大山道沿いに閻魔堂があったという。その閻魔堂は現在は下北沢の森厳寺に移設されている。

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コンクリートの階段を数段登るが、昔はこんもり盛り上がった塚だったのだろう。入口に世田谷区教育委員会が設置した説明板が立っている。

文政9年(1828)に脱稿した新編武蔵風土記稿の松原村の項に「墳墓、半田塚、小名スナハチ半田ト云。コノ塚アルユヘニ地名モ起レリト云。高サ4、5尺、敷ノ径1間許。何人ノ墳ナリヤ ソノ来由ヲ伝ヘザレバ、詳ナルコトヲ知ラズ」「小名、半田、村ノ中央ニアリ。東西3丁バカリ、南北8丁余ノ地ヲ云。」とあり、赤堤村の項に「小名、半田塚、村ノ巽(南東)ノアタリヲ云。東隣松原村ニ半田ト呼ベル塚アリ。ソノ地続キナレバ此ノ唱アリ」と述べられている。(中略)

地元の古老の話では、大正年間には「大塚サマ」と呼んでいたという。(後略)

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長々と書かれているが、要はわからないということである。江戸時代の地図を見ると松原大山通り以東が赤堤村になっていて、以西が松原村となっている。明治初期の地図(フランス式の地図)でも同じである。これでは説明板の文章に納得がいかない。現在は周辺は松原で、南と西に赤堤が広がっている。世田谷区の『ふるさと世田谷を語る』にある地図は東が松原で西が赤堤ということで、私の結論は江戸期の一部の地図と明治初期の地図が間違っているということになった。困ったものである。

もっとも赤堤村は元禄時代に松原村から独立している。この辺りは江戸時代の前半に開墾された地域で、松原村の人が開墾すれば松原村になり、赤堤村の人が開墾すれば赤堤村になるというようなこともあった可能性がある。

半田塚の諸説の中である程度確かなのは、この塚が1,300年以上前からここにあったということと、塚の上には祠があったということだけ。但し諸説には、鎌倉時代に新田義貞の軍勢が川越城を攻め落とした後に、鎌倉を攻めたが、多摩川原の戦いで敗れて傷つき、その残党がここまでたどり着いて息絶えたのを葬ったというものがある。これもなかなか興味ある説である。

場所   東京都世田谷区松原6丁目20-8

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2019年5月16日 (木)

松原の馬頭観音(世田谷区松原)

小田急線の北側を東西に走る赤堤通りと甲州街道(国道20号)を結ぶ古くからある道。 豪徳寺駅から北上するとその道が途中で二つに分かれる。 東側が松原大山道、西側は菅原天神通りといい半田塚から菅原神社を経て甲州街道に出る。甲州街道では200mほどの距離で、二つの通りが昔から必要だった理由がよく分からない。

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その分岐点の鋭角な角の真ん中に小さな馬頭観音がある。左の道は半田塚があるのに「凧坂」と呼ばれ、右の道がなぜか「半田坂」(地元の呼び名はえんま坂)と呼ばれる。ただしその馬頭観音は昭和15年(1940)という新しいものである。道の歴史からすると古そうだったのでいささか拍子抜けした。

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ただ江戸時代の地図ではこの場所は死んだ家畜を捨てた「死馬捨場」と書かれている。表には馬頭観世音と彫られ、裏面には造立年と施主池田半助とある。私の考えではここには昔から馬頭観音があったが朽ちてしまったので、池田氏がこの石塔を建てたのではないだろうか。

大山道というのは、江戸時代に城北から大山詣でに行くのに大山街道まで南下する道として使われていた街道だったと思われる。この手の大山道は鎌倉街道に準ずるほど点々と都内に残っているが、名前が残っているものは少なくこの松原大山道というのは貴重な名前である。

場所  東京都世田谷区松原6丁目32-1

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2019年5月15日 (水)

駒沢交差点にあった庚申塔(世田谷区世田谷)

ボロ市で有名な代官屋敷の敷地にある移設された庚申塔のひとつである。 移設されてしまうと、多くは元の場所が分からなくなってしまう。 しかしこの庚申塔は素性がはっきりしている。現在は代官屋敷の奥、世田谷区郷土資料館の入口脇に多くの庚申塔や道標などと一緒に並んでいる。

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元あった場所は国道246号線(玉川通り)と駒沢公園通りの交差点(駒沢交差点)の北東側の角。駒沢2丁目17-1にあったものである。昭和60年に当地の加藤家から資料館に寄贈されたとある。造立は延享4年(1747)で、正面には「西は大山道」と大きく彫られている。右側には「東ハ赤坂道」、左側は「右めぐろ道」とあるが裏は読めない。

大山道は三軒茶屋で二手に分かれ、北は代官屋敷を経て用賀へ、南は上馬から桜新町を経て用賀へ、それ以外にも大山道は一本ではなく複数あったというのが分かっている。こういう庚申塔や道標は路傍にあって近所の人に守られているものがベストだと思う。寺社や資料館などへ移設されたものが多いが、素性が分かれば中級、分からないものはやはり残念である。私が知る限りでもここ数年でたくさんの野仏や石碑が撤去されている。何百年もの歴史を経たものをもっと大切にする文明になってもらいたいものである。

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2019年5月14日 (火)

上馬引沢村の馬頭観世音(世田谷区駒沢)

国道246号線玉川通りの北側にかつて品川用水の流路だった道がある。駒沢大学駅前の交差点から北上すると駒沢病院、その先の信号が自由通り(正式には国道246号線以北は自由通りとは呼ばない)とかつての品川用水跡の交差点になる。昔からの道はこの自由通りではなく、一本西の駒沢病院の裏を南北に走る路地である。 その道が品川用水を渡る橋のたもとに当たる場所にこの馬頭観世音の祠がある。

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正面には「上馬引沢村 惣村中」とあり、左面には「右り あわしまみち」とある。道標をちょっとだけ兼ねている。 江戸時代、大山道から北上し、ここで橋を渡ると道が左右にあり、左は世田谷代官屋敷への道、右は若林村を経て滝坂道(淡島通り)まで続いていた。それであわしまみちとあるのだろう。お堂は平成時代に建替えられている。

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造立年は文化13年(1816)とある。なかなか彫りのしっかりした素晴らしい馬頭観音である。この道は、六郷田無道であったという説がある。 六郷田無道は大田区の多摩川六郷土手から田無へと続く古道で、池上本門寺を経て北上し、現在の品川上水沿いでここまで来る。ここからは北に向かい代官屋敷方面へと続くのが六郷田無道だったとされる。 実は私もこの六郷田無道の一部を歩いて最寄り駅に行くというとても身近な道なのだが、周辺にはそれが古道であることを知る人はほとんどいない。

場所   東京都世田谷区駒沢2丁目4-12

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2019年5月13日 (月)

移設門と道標(世田谷区駒沢)

駒沢地区の品川用水跡は駒沢郵便局の東側で玉川通りと分かれて北へ迂回する。その用水跡はそのまま道路として残っていて、異様に道幅のある路地が上馬交差点近くまで続いている。その途中に駒沢小学校があるが、小学校の西側に洒落たメゾネットタイプのテラスハウスが並んでいる。ガーデンテラス駒沢という高級賃貸マンションである。

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メゾネットは2階建てで何棟も立ち並び、囲まれた中庭は素敵なガーデン(庭ではなく欧州風のガーデンである)になっている。その中庭への入口の一つが、なかなか古風な山門になっていて感心して見入っていると、その足元に石橋供養塔があるのに気づいた。どうみてもこれは本物だと思ったので植込みの中をのぞいてみた。

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上馬引沢村にあった石橋供養塔である。裏面に造立年が彫られていた。寛政11年(1799)とある。道標を兼ねていて、正面には めくろ いけ上 道(目黒・池上道)、左には ふちう のほりと 道(府中・登戸道)とある。 右には ほりのうち 道 ともう一つあるが、その文字が読めない。 きくさま という読み方が素直だが、きたさわ(北沢)ではないかと推測。

面白いテラスハウスだと思って調べてみると、現在は満室、3LDK(100㎡)~最大の部屋は200㎡で、家賃はなんと31万~70万。都心並みである。いやぁ世の中バブリーだなと思いつつ、ここに山門と石橋供養塔を移設したのはいったい誰だろうと、そのギャップに頭を抱えてしまった。

場所   東京都世田谷区駒沢2丁目18

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2019年5月12日 (日)

新町庚申講(世田谷区駒沢)

国道246号線に面した庚申堂が新町庚申講である。 玉川通りの駒沢交差点から数十m西に進んだ北側の歩道に面して、立派な庚申堂が立っている。周辺は毎日何万台もの自動車が往来し、頭上には首都高速3号線が走りこれもまた何万台という交通量で、一時も静まらない場所。こういう場所に庚申塔があるとなんだか石仏に申し訳ない気がしてくる。

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堂宇はきれいに保たれており、中には大型の庚申塔が2基祀られている。 どちらも造立年などはまったくわからない。 風化が激しく、幽霊地蔵のようになってしまっているからである。 左の舟型光背型の庚申塔は青面金剛のシルエットが分かり、その下の三猿も何とかわかるが、詳細はぼやけてしまっている。

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右側の駒型のものも青面金剛像がかろうじてわかるくらい。三猿はうっすらとしていてよく分からない。そしてどちらも青面金剛の部分が黄色くなっている。これは化粧なのかいたずらなのか考えてしまったが、いたずらではないだろう。

駒沢交差点にはかつて玉電の駒沢電停があり賑わっていた。現在は駒澤大学が至近で学生で賑わっている。この場所に庚申塔があるのは、この辺りが昔の下馬引沢村と世田谷新町村の村境だったからであろう。特に下馬引沢村は庚申講の盛んだった村で、村の庚申講は寛文11年(1671)から大正時代まで続いたという。現在でも講の人々が春秋には親睦旅行に出かけるほどのコミュニティを保っているらしい。

場所   東京都世田谷区駒沢3丁目2-5

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2019年5月11日 (土)

久富稲荷神社(世田谷区新町)

目黒区から大田区を流れて羽田空港で東京湾に注ぐ呑川の源流は世田谷区桜新町である。そこから世田谷区深沢を流れた呑川であるが、小さな川でよく氾濫し、深い谷を形成したのが深沢の地名の由来。そしてその水は飲めるほどきれいだったので呑川という川名になったという。ついぞ100年も昔はそんな川が都内を流れていたのである。その呑川源流の左岸(東側)にあるのが久富稲荷神社である。

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この神社の変わったところは長い参道があるところである。神社の境内が230坪しかないのに、参道は270坪もある。本殿から厚木街道(旧道)まで250m近くある。結構甘い管理のようでバイクが置いてあったり、民家の勝手口が付いていたりと、かなりアバウトな状態である。この辺りの江戸時代の小字名が稲荷丸というのはもちろんこの稲荷のあるためである。

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神殿は昭和に入って建替えられたものだが、その前の建物は嘉永年間(1848~1853)の建築だったらしい。しかし神社の創建については不明である。 古くから新町村の鎮守社として親しまれてきたというが、江戸時代中期以前の情報は皆無である。ただ東京都神社庁のHPには鎮座四百有余年と書かれている。

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北側の長い参道に比べると南側は勝手口のような近さ。すこし南には国道246号線が走る。しかし元々こちら(南側)には道はなく、長い参道こそが江戸時代から続くこの神社の参道である。

ちなみに久富稲荷の西側、呑川の源流の左岸一帯は明治末期に開発された日本で最初の高級分譲住宅だった。サザエさんで有名な長谷川町子美術館のある周辺で、過度の交番はその分譲住宅地が開発されたときからあの場所にある。その住宅の道路にはソメイヨシノの並木が植えられ、玉電の電停も「新町」から「桜新町」に変更された。この高級住宅地が南に延びたところが現在の深沢の高級住宅街である。最初の開発エリアは商業地化が進み、昔の風景はとどめていない。

場所   東京都世田谷区新町2丁目17-1

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2019年5月10日 (金)

桜新町2丁目の地蔵堂(世田谷区桜新町)

世田谷通り馬事公苑から桜新町への道はかつての品川用水である。品川用水は旧厚木街道にぶつかると東に流れを変えていた。現在の道路は旧厚木街道にあたる直前でなぜかクランクしている。大正時代までの地図を見ると用水は街道までまっすぐに流れているが、昭和に入ってからの地図を見ると現在の道のクランクと同じ流れになっている。一方の大正時代までの水流は遊歩道になっており、こちらもかなり暗渠臭い。しかし明治期の地図を見るとクランクの道路の方に水線はないものの水車のマークがある。ということはここで流れは二手に分岐してすぐに合流していた可能性が高い。どちらも水路だったというのが一番腑に落ちる。

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遊歩道が旧厚木街道にぶつかるところに地蔵堂がある。中には地蔵菩薩像があり、造立は安永9年(1780)である。世田谷新町村の女念仏講中による造立。 このあたりはもとは世田谷村の飛地だったが、万治年間(1658~1660)に分村して世田谷新町村となった。その時代のものである。明治になって明治22年に世田谷新町村は駒沢村に編入されている。

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地蔵の向かい側にRUSSE桜新町という大きなマンションがある。この区画は明治の終わりころから関東大震災までブライアン・チャールズというイギリス人銀行家が住んでいた豪邸があった。ブライアンはミッキー・カーチスの叔父である。周辺の民家とはまったく異次元の邸宅であったが、レンガ造りだったので関東大震災で倒壊してしまった。昭和10年頃には第一生命がこの土地を買いチャールズ家はイギリスに帰った。第一生命はここに社宅を建てて使っていたが、昭和後期にマンション開発されたという歴史がある。

場所  東京都世田谷区桜新町2丁目17

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2019年5月 9日 (木)

弦巻の野中の地蔵(世田谷区弦巻)

現在の弦巻通りは三軒茶屋の西側から自然発生的に始まり、駒留陸橋の六差路を経て、ボロ市通りからの直線路に突き当たると、弦巻四丁目交差点で左に折れ用賀に抜ける。 この折れ曲がるところにあるのが通称「野中の地蔵」で、現在は地蔵と馬頭観音がコンビニの駐車場にぽつんと立っている。一応小さな屋根は付いているが、雨除けにはなりそうにない。

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コンビニは以前はサンクスだったが最近ファミリーマートに代わった。 店舗のような新しいものはランドマークにはならない。 それに比べて地蔵や道標は何百年もランドマークの役割を果たしている。背の高いほうの地蔵は天和2年(1682)造立の地蔵立像で、弦巻村の念仏講が立てたもの。その台座が道標になっている。 左り 大山道、そして 右り 世田谷道・堀之内道とある。堀之内というのは現在の杉並区堀ノ内で、堀ノ内道と彫られた道標は大田区あたりにも多い。鎌倉時代の鎌倉街道が大宮八幡宮を経て練馬城へ向かっていた名残りで、道標にも大宮八幡宮に近い堀之内が示されることが多いのではないかと思う。

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地蔵の表面はかなり風化が進んでいて顔もよく分からないが、あちこち補修がなされていて三百年余りの間人々に大切にされてきたのだろう。施主の名前が13人分ほど台座に彫られている。

コンビニが出来るよりずっと前、ここには地蔵堂があったようだ。私もこの地域に30年近く住んでいるが、記憶がはっきりしない。しかし世田谷区の資料にはこの住所には別の2体の石仏が記録されている。ひとつは聖観音立像で元禄元年(1688)のもの、もうひとつは如意輪観音座像で元禄10年(1697)に弦巻村の女念仏講が立てたものである。この2基が何処に現在保存されているのかまだ調べて切れていない。

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現存するもう1基は馬頭観音である。造立年は不明だが、馬頭観音なのでそれほど古くはなさそうである。弦巻通りがこの地蔵にぶつかる東側一帯を昔は渋柿横丁と呼んだ。渋柿の樹が道路わきに植えられ、秋にはたくさんの渋柿がなったという。

上記地蔵が立てられた元禄年間の弦巻村の人口は二百人余りで戸数は35戸という記録があるように、農家がぽつぽつとある風景だったようだ。1戸あたり6人以上というのは当時としては普通の構成だっただろう。明治になる少し前(天保年間)になると戸数は45戸と少し増え、商店もできたという。現在の街の様子からは想像もできない。

場所  東京都世田谷区弦巻5丁目2-12

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2019年5月 8日 (水)

弦巻五丁目庚申堂(世田谷区弦巻)

弦巻の地名の由来は諸説あるが、台地の地形であったことから「水流巻(ツルマキ)」と呼び、水の流れが渦を巻くほど激しいところという由来が個人的には好きである。弦巻を東西に流れていたのは蛇崩川で、その源頭は弦巻村の西のババ池とその南のジジ池の二つの湧水だったという。ジジ池は現在の馬事公苑の東(弦巻5-32)で弁天の小祠が残っている。ババ池は桜新町駅の近くにあったようだが、両池とも戦後不法占拠され既得権として開発されたいきさつがある。蛇崩川は小さな川だが一旦大雨が降ると氾濫する川だったので、水流巻が弦巻になったという説が気に入っているのである。

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世田谷通りのカーブに松ヶ丘交番という派出所がある。弦巻地区の小学校は弦巻小学校と松丘小学校、松が丘の地名の由来についてはいろいろ調べたがまだ掴んでいない。松ヶ丘交番の斜めに分岐する道を進むと1~2分で写真の庚申堂に着く。地元の古老の話でもお堂はイボ地蔵とここの2ヶ所にあったというので、昔から場所は変わっていないだろう。きれいなお堂で、かつ隣接の戸建の塀がステゴザウルスのデザインになっているのが洒落ている。

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堂宇の中には庚申塔が1基のみ、大切に守られている。駒型の青面金剛像が邪鬼を踏みその下に三猿が描かれている。造立年は安永2年(1773)である。古老の話だと弦巻の辻にはお地蔵さんがあちこちにあったというが、現在はほどんどない。戦前は弦巻はほとんど農家だったという。少し南に行くと、蛇崩川洗い場跡というところがあり小さな公園になっている。

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ここにはユニークなレリーフがある。大山詣の姿を描いたものらしい。大山(丹沢)は雨乞いの山岳信仰で江戸時代に広く信仰された大山講の信仰対象の山。青山方面から、世田谷、二子、溝ノ口、長津田、伊勢原を経て大山に至る道の世田谷部分がここを通っていた。三軒茶屋から世田谷通り、ボロ市通り、そこから弦巻に南下し、用賀を経て二子に至るのがこの街道である。このレリーフは後期の大山詣に出かけたプチブルジョアの商家の主人らしく、江戸時代後期になると、帰りに江の島や鎌倉で観光をして遊んだお気楽な大山詣の姿のようだ。

場所  東京都世田谷区弦巻5丁目19-20

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2019年5月 7日 (火)

さわら庚申(目黒区中町)

駒沢通り沿いにある庚申堂。 堂宇があまりに立派なのでいささか驚く。 瓦葺のお堂だが、まずその瓦が立派。 鬼瓦があり、柴又題経寺(柴又帝釈天)の菱形の渦巻きの寺紋が付いている。 「さわら庚申」という名前の由来は、近くにサワラの樹があったためと極めて単純。この場所は江戸時代から目黒村の重要な辻(交差点)であり、かつ目黒川支流の谷戸前川の源頭でもあった。その流れは現在も暗渠として残っている。

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昔からの道が駒沢通りに出ようとするその場所にさわら庚申があるので、道は二つに枝分かれしている。その三角地帯には、さわら庚申以外にも様々な石塔が立っている。一番大きいのは皇太子殿下御降誕記念とある。これは石ではなくコンクリート製。 造立年は昭和9年(1934)と新しいもの。ただ、コンクリートなので他の石塔よりも早く朽ちてしまうだろう。

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堂宇には3体の庚申塔が所狭しと肩を擦り合わせるように並んでいる。 左は駒型青面金剛像で造立は元禄10年(1697)と古い。真ん中は一番大きく、舟型青面金剛像に日月と三猿が描かれている。こちらの造立は元禄5年(1692)とこれも古い。 しかし最も古いのは右側の板碑型の庚申塔で、献開眼帰命帝釈天王と彫られている。 この庚申塔が帝釈天との関係が深いのだろうか。造立は寛文3年(1663)と江戸時代初期のものである。

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庚申堂手前に朽ちかけた道標がある。造立年は消えかけているが安政年間(1854~1860)であることは間違いない。 正面には、おく沢 ひもんや いけかみ道とあり、南西方向に向かって街道が伸びていたことがわかる。右側は、ごほん木 ふたこ道とあり、昭和通りを経て玉川通方面へ抜ける街道があった。 左側には、あさふ あお山道 とあり、都心に向かう駒沢通りそのものを案内している。道標はその位置関係が分かるととても面白い。

場所   東京都目黒区中町2丁目38

 

 

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2019年5月 6日 (月)

昭和通り地蔵(目黒区祐天寺)

東急東横線祐天寺駅の南に昭和通りという商店街がある。江戸時代は祐天寺前の街道は駒沢通りの変則交差点祐天寺二丁目から真南に下り鷹番に向かっていた。祐天寺以南の駒沢通りは昭和になってから通された車道である。この祐天寺二丁目交差点から西に向かう古道が現在の昭和通りだった。現在では商店はまばらになったが、高度経済成長期までは商店が立ち並んでいる通りだった。

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祐天寺駅前ロータリーに続く南北の商店街は古への鎌倉街道。 この鎌倉街道から昭和通りに入り、東横線の高架をくぐる手前に小さな堂宇がある。 前述の五本木庚申塔群からも数分の距離にある。また、昭和通りは江戸時代は上目黒村と碑文谷村の村境であった。現在は祐天寺と五本木の町境である。 そういう場所には地蔵が置かれることが多い。

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地蔵はいささか風化が進んでいるが、造立年は宝永5年(1708)と読める。この地蔵より西側は、五本木庚申塔群のところでも書いた蛇崩川支流の谷だった場所で、大正時代までは水田が広がっていた。現在は2m程度の高低差だが、当時は倍ほどの高低差があったようだ。現在は辺りは一面の住宅街だが、大半は関東大震災で西に住宅を求めて引っ越してきた人々によって昭和になってから発展した街である。

場所   東京都目黒区祐天寺2丁目15

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2019年5月 5日 (日)

五本木庚申塔群(目黒区五本木)

東横線祐天寺駅の南に目黒区立守屋図書館がある。この場所はかつて、実業家の守屋善兵衛(1866~1930)の邸宅だった場所で、昭和5年(1930)の没後に区に寄贈され公共施設となった。守屋図書館は同氏の名前を取ってつけられた。図書館の裏手の道を進むと旧道らしい曲がりくねった道筋になり、間もなく巨樹に囲まれた五本木庚申塔群が見えてくる。

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庚申塔群前の古道は、蛇崩川支流の源頭の谷の右岸(東側の縁)に通された道だった。守屋氏の邸宅はこの谷を見下ろす斜面に建っていたのである。支流の暗渠は東横線の高架下から謡坂に向かって現在も残っている。この旧道は一説には鎌倉街道と言われている。とはいえ鎌倉街道は東京に何本もあったようで、特定は難しい。

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石像群は一段高いところにあり、アプローチの階段脇に念仏塔が立っている。ここの石仏の保存状態はとても良い。一番右が地蔵菩薩立像であとの4基は庚申塔である。地蔵菩薩立像は五本木地蔵と呼ばれるが、上部に日月が描かれているので庚申塔の可能性もある。造立年代は元禄というのは読めたがあとは分からない<元禄年間(1688~1704)>。

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庚申塔は右から、駒型八臂の青面金剛像で二鶏、三猿、邪鬼が描かれている。造立は宝永11年(1761)とある。 真ん中の庚申塔は、駒型青面金剛像三猿だが、造立年は不明。 左から二番目が最も古く、貞享3年(1686)の駒型青面金剛像で二鶏、三猿が描かれている。 

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一番左側の庚申塔は、元禄8年(1695)のもので、駒型青面金剛像+三猿。 これで終わりかと堂宇の左手に回り込むと、上部の欠けた文字塔の庚申塔が立っていた。「庚申供養塔 上目黒五本木組」とあり文化7年(1810)の造立のようである。

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この五本木庚申塔群は、目黒区の指定有形文化財となっている。区内の庚申塔で有形文化財に指定されているのは、ここと田道庚申塔群、鉄飛坂庚申塔群のみである。五本木の地名は住居表示としては昭和43年に新設されたものだが、由来は古く、江戸時代の目黒村は、上知(アゲチ)、宿山、石川、五本木という4つの組から成っていた。 鎌倉時代までさかのぼると、鎌倉街道沿いに五本の大樹があったことに由来するという説が有力である。

場所  東京都目黒区五本木2丁目20

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2019年5月 4日 (土)

こぶとり庚申(目黒区中央町)

これもわかりにくい場所にある。学芸大学駅から線路沿いを渋谷方向に歩き、突き当たったら左でさらにすぐ左の路地に入ると目立たないお堂がある。こぶとり庚申と呼ばれているので、かつてはイボやコブを取ってくれるご利益があると言われていたのだろうか。

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お堂の中にある石仏はちょっと変わった庚申塔である。かなり風化が激しくてわかりにくい。 中央の像は猿のようだが、猿は山王の使いとされている。像の上に「最高青面金剛守護」とあり、脇に日月が描かれている。下部には7人の施主の名前がある。造立年は元禄3年(1690)とある。

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南北の道路は昔からある道で蛇崩から碑文谷への主要道だった道。 お堂のある脇道も農道としては明治以前からあったようだ。学芸大学駅寄りの東西の道は品川用水が流れていた用水脇の道。環七通りと駒沢通りの交差点の北側に、東西にバイパスするように走る道があるがこれが品川用水の跡である。用水はこの先、武蔵小山で南に流れを変え、かつて大名屋敷(抱屋敷)だった戸越公園に流れた。

場所  東京都目黒区中央町2丁目38

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2019年5月 3日 (金)

四郎兵衛地蔵(目黒区五本木)

場所はかなりわかりにくいが、駒沢通りの三谷バス停の西側三角地帯の裏の道、駐車場の壁面にお堂を築いて安置されているのが3体の石仏である。 お堂前に御影石の石柱があり、正面に四郎兵衛地蔵尊とあり、側面に昭和44年下馬史跡保存会と彫られている。 おや?ここは五本木3丁目。どうも以前は世田谷区下馬にあったものらしい。

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とてもしっかりしたお堂で、区を飛び越えても大切にされていることがよく分かる。3体の石仏は真ん中が最も大きく地蔵尊、続いて右側はその3分の2ほどの高さの地蔵尊、左側はかなり小さな石仏で詳細は不明、どれもかなり溶けたようになっている。造立年などは3体とも不明である。

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世田谷から移転したというので世田谷の資料を掘り起こしてみた。駒沢通りをもう少し下り、野沢への道を分けた少し先の世田谷区下馬6丁目15にあったという記録があり、堂宇ごと移転したようだ。また左側の石仏についても、馬頭座像で文化3年(1806)に高橋氏によって造立されたものということが分かった。

場所  東京都目黒区五本木3丁目27

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2019年5月 2日 (木)

五本木三丁目庚申塔馬頭観音(目黒区五本木)

葦毛塚の道を南へ下り下馬五丁目で名薬通りと接する手前の路地を入ると、小さな公園(五本木西みどり街かど公園)の向かいの角に大小の堂宇が並んでいる。右手の大きな堂宇には石仏が3基、左手の小さな堂宇には1基がある。

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大きなほうの堂宇の3基は馬頭観音が2基と庚申塔が1基。 真ん中にあるのが庚申塔。 五本木三丁目庚申塔と呼ばれている。 舟型の庚申塔で青面金剛像が彫られている。造立年は享保16年(1731)である。

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向かって右側の角柱タイプの石塔は文字塔の馬頭観音。造立年は大正12年(1923)と新しいが、馬頭観音は明治以降が多い。左側の浮彫の馬頭観音像の造立年は分からない。このタイプを浮彫半跏像(ハンカゾウ)塔というらしい。仏像の一形式で、台座に腰掛けて左足を下げ、右足先を左大腿部にのせて足を組む姿を半跏という。立派なたてがみの馬頭観音である。

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小さな堂宇に入っている馬頭観音は、角柱型の文字塔馬頭観音で造立年は不明。正面の馬頭観世音という文字も見えにくい。おそらく大正前後だろう。近年に作られることの多かった馬頭観音は石質が良くないものが多い。宮大工の話では、匠の技術は鎌倉時代をピークに江戸時代ではかなり衰え、現在では江戸時代にすら遠く及ばないらしい。石工の技術も同じだろう。

場所   目黒区五本木3-11

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2019年5月 1日 (水)

葦毛塚(目黒区五本木/世田谷区下馬)

下馬通りの起点のすぐそばに道路が二つに分かれて再び合流するところがある。同じような景色は北区西ヶ原の日光街道一里塚、川越街道上板橋の五本けやきなどがあるが、ここの葦毛塚はまるで西欧のロータリーのように道路が大きく迂回している。また下馬通りからこの葦毛塚の通りは目黒区と世田谷区の区境(さらに昔は下馬引沢村と中目黒村の村境)になっているが、この道路は戦後通された道。戦前は道路はなく、関東大震災以前はこの場所まで蛇崩川が蛇行しており、まさに川岸だった場所である。

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葦毛塚の由来は、蛇行していた蛇崩川に深く関係する。鎌倉時代になろうという時代、源頼朝が葦毛の馬に乗って、この地を通った時、その馬が何かの拍子に沢にはまって死んでしまったという伝説に由来しているのである。この地にその馬が埋葬され塚が築かれた。ただこの辺りは大昔から馬の放牧場で、そのために馬に関する地名が多い。

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ただ気になるのはこの石碑が立てられたのは昭和44年(1969)と新しい。 道路が新設されたから作られたもので、昔からあるものではない。石碑の後ろにある巨樹は都内では珍しいサイカチの樹で、大きな豆の実がなる。この実は昔、石鹸として使われていた。今でも究極のオーガニック洗剤として使う人もいるという。

場所  東京都目黒区五本木1丁目18

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2019年4月30日 (火)

平川庚申尊(世田谷区下馬)

道標の角柱型庚申塔の次の路地の入口にあるのが平川庚申尊。 これほど近くに別々の庚申塔があるのは珍しい。 前を走る野沢通りの江戸時代の呼び名は馬引沢村道。 この辺りを里俗姥ヶ谷と呼んでいた。前述の道標庚申塔が上目黒村と下馬引沢村の村境だったということは、どんどん焼などもこの辺りで行われていたのだろう。

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しっかりとした塀に囲まれた堂宇の中に庚申塔がある。昔の地名の姥ヶ谷というのは、世田谷公園付近から下馬1丁目47にあった弁財天(姥ヶ谷弁財天)を経て蛇崩川に注いでいた沢の名前でもあった。その注いだ地点は葦毛塚の辺りである。

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堂宇内の庚申塔は、舟型光背型、青面金剛が邪鬼を踏みつけ、その下に三猿がある。造立年は元禄7年(1694)とかなり古い。

ちなみに庚申尊の少し西側、野沢通りを迂回するように細路地がお椀型にあるが、ここにかつての姥ヶ谷の沢が横切っていた。野沢通りは戦後拡幅されるまで、この細い路地が道筋だった。

場所  東京都世田谷区下馬1丁目10−5

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2019年4月29日 (月)

蛇崩の道標庚申塔(世田谷区下馬/目黒区上目黒)

野沢通りという通りは渋谷区鉢山町から旧山手通り(三田用水跡)をくぐり、LDL(Exileの事務所)脇の交差点で山手通りと交差、そこから坂を上って蛇崩交差点を過ぎ環七野沢龍雲寺までの道で抜け道になる準幹線道路である。蛇崩というのは近くを流れていた蛇崩川(暗渠)に由来する名前だが、ちょうど目黒区と世田谷区の区境になる路地の入口に道標付の庚申塔が立っている。 この庚申塔は知らなければまず気づかない、それほど目立たない場所にある。

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まるでかくれんぼをしている子供のような感じで立っているのだが、正面には「奉納庚申供養」とあり、間違いなく文字塔型山型角柱の庚申塔である。造立年は明和3年(1766)で田沼意次が老中となる数年前、世界的にはアメリカ独立戦争より少し前である。「武州荏原郡世田谷領下馬引沢村」とあり、四面に東西南北の行先が書かれている。

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正面には、東 登戸道、左側には 南ゆふてんじ(祐天寺)、裏には西 せたがや道、右側は北 かみめぐろ道とある。下の黒い部分には施主の名前がいろいろ彫ってあるようだ。明治時代の地図を見ると、この路地は蛇崩で野沢通りと分岐した五本木通りへショートカットするようについた道で、蛇崩橋手前で五本木通りに合流する。その先には葦毛塚もある。

場所  世田谷区下馬1-10-6

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2019年4月28日 (日)

東山の馬頭観音(目黒区東山)

目黒区東山という場所、現在は広い公園と中層のマンションが立ち並び、裏手には自衛隊の駐屯地や自衛隊中央病院がある。実は幕末期に駒場野演習場を広げようとしたところ、周辺農民の一揆が起こり、幕府は止む無く拡張を取りやめた。しかし明治政府は国民にものを言わせず軍事力強化のためにここに練兵場を開発した。

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その東端の坂の途中にきれいな堂宇に守られた馬頭観音が祀られている。周辺はかつて駒沢練兵場で、陸軍近衛第一師団5,000人の将兵と、1,300頭の軍馬が訓練に励んでいた。この傾斜地での訓練は、馬に大砲を牽かせて坂の上り下りを繰返すという過酷なものだったという。この馬頭観音は一兵卒が訓練に倒れた2頭の軍馬の供養に建てたものだという。背面には、「苫良号、腰椎骨折、大正11年没、福富号、急性伝染性貧血、大正11年」と彫られているようだ。堂宇を築いているのは、目の前の東山中学校の生徒や地元の人々らしい。

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ここにある相当高価なマンションは実は日本最大級の公務員宿舎で、賃料は3DK(65㎡)で4万円、駐車場は平置きで5,650円と、一般市民を馬鹿にしたような値段。周辺の相場は同じくらいの面積だと25万~30万程度、駐車場は4万円程度なので、一般の人々の6分の1(15%)しか払わずに生活できるということである。入居資格は国家公務員であることとある。それでいて公務員の給与水準は民間を超えているのだから、税金泥棒と言われても仕方がない。マスコミではこういうことこそしっかりと報道してもらいたいと思う。

いい話と悪い話を同時に知った散策となった。

場所   目黒区東山1-24

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寿福寺の石仏(目黒区上目黒)

玉川通り(国道246号線)と駒沢通りの間の野沢通りにある寿福寺は天台宗の寺院。 新清山観明院寿福寺という。創建は元和元年(1615)。近くの宿山にある烏森稲荷は、寿福寺の境内にあった稲荷社を移したものである。しかし境内にある鎌倉時代の板碑から、本当の創建はもっと昔である可能性もあるという。

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野沢通りの入口からまっすぐな雰囲気のある参道を進む。この参道に植えてあるのはオカメ桜という種類の桜で開花時にはライトアップもされ、中目黒の目黒川の桜よりもはるかに素晴らしい夜桜を見ることが出来る。オカメザクラはカンヒガンザクラとマメザクラの交配種なので、花期は早く2月下旬から3月上旬。

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参道を進むとやがて山門になる。この山門の両脇に地蔵と庚申塔が並んでいる。 寿福寺は、享保年間(1716~1736)には上野寛永寺子院の護国院の末寺となって栄えた。もとは中目黒八幡神社の別当であった。最近は目黒不動龍泉寺の末寺となっている。

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向かって右の2基の地蔵尊は相生地蔵と呼ばれる。右側の地蔵は、明和2年(1765)の造立で、正面には「奉建立地蔵尊」、背面には「上目黒邑五本木願主…」とあるので、五本木あたりにあったものだろうか。いずれも寿福寺の銘が刻まれている。

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もう一つの小さめの地蔵は、宝暦9年(1759)。こちらの願主は宿山組とあり、寿福寺の周辺の願主のようである。こちらにも寿福寺の当時の住職の銘が彫られている。

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左端は庚申塔である。造立年は寛文6年(1666)。舟型光背型の青面金剛像で、像の浮き具合が素晴らしい。またこの像は剣を持っている。通常は合掌している姿のものが多い。庚申塔の右隣りは座像だが、よく分からない。勉強不足である。

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野沢通りを挟んだところに寿福寺の飛地の墓地がある。実はこの墓地、江戸時代の切絵図を見ても野沢街道の反対側に墓地があるので、江戸時代からここは寿福寺の墓地だったわけだ。その奥に古い馬頭観音がある。右側は古そうだが造立年は不明、駒型浮彫座像で迫力がある。左側は造立が安政2年(1855)とあり、角柱型の文字塔である。馬頭観音は江戸時代なら古いほうに入る。多くは明治大正期である。

場所   東京都目黒区上目黒5-16-6

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池尻庚申堂(世田谷区池尻)

池尻稲荷神社と古畑病院の間の道は古い道筋で、三宿神社から現在の中目黒へ抜ける道だった。大山道をさらに東南に進むと小さな坂の途中に鳥居が見えてくる。 池尻庚申堂である。

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地元の人が守り続けている素晴らしい庚申堂で、堂宇の中には2基の庚申塔がある。鳥居をくぐると右手には猿の石像が狛犬ならぬ狛猿の役割で迎え入れてくれる。 

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この猿の土台は塔は常夜灯になっている。塔には大正元年(1912)建立とある。 その後ろには法華経関係の石塔が並んでいるが、その手前にぽつんとある小さな三猿の庚申塔が気になった。造立年などは全く分からない。

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堂宇の中の庚申塔だが、施錠されていて小さな穴からの撮影になってしまった。どちらもきれいに保存されているが、右側のやや大きいほうが板碑型で、造立は延宝8年(1680)と古い。 左側の板状駒型の庚申塔は元禄5年(1692)でこちらも年代物である。

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堂宇の左側(道路側)には新しい屋根の下に地蔵菩薩立像が立っている。 こちらは宝永元年(1704)の造立。こちらもきれいに保存されている。

池尻から東山にかけては、旧石器時代・縄文・弥生・古墳~近世の複合遺跡になっている。都内でも有数の遺跡で、何千年もの間人々が生活をしてきた豊かな土地だったことが証明できる。

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2019年4月27日 (土)

池尻稲荷神社(世田谷区池尻)

池尻稲荷神社は池尻大橋と三軒茶屋の間、玉電時代は池尻電停のすぐ目前の場所にある。現在の田園都市線が開通したのは昭和52年(1977)だから私が上京した翌年である。昔の玉電の駅(電停)は渋谷、道玄坂上、大坂上、大橋、池尻、三宿、太子堂、三軒茶屋と駅間は近かった。 しかし玉電の記憶は残念ながらない。というのも玉電は昭和44年(1969)に廃線になっていたからで、記憶では渋谷から二子玉川に行くのに自由が丘経由で不便だということと、まだ二子玉川園があったことだろうか(昭和60年(1985)閉園)。

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玉電が開通したのは明治40年(1907)で、それまでは裏を走る大山街道側が入口だった。玉電の電停が出来てから、現在のように国道246号側が玄関のようになった。従って社殿は大山街道側から入る方が表参道になっている。池尻稲荷神社の創建は明暦年間(1655~1657)、江戸時代初期である。しかし昭和の初め頃までは地域の小さな産土神に過ぎなかった。大きくなったのは昭和になってからである。

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神社の渋谷側には古い川の痕跡が残っている。大山街道裏手から流れて数百mで目黒川沿いの湿地帯に流出していたと思われる沢である。しかしこの沢のお陰だろうか、神社の手水舎の水は「薬水の井戸」と呼ばれ、いかなる時も枯れることのない井戸として昔から大切にされてきた。街道筋の名水となれば神社があっても不思議はない。

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しかしこの水路が水線だったのは江戸時代末期あたりまでで、それにもかかわらず今にまでこの暗渠でございます!という痕跡が残っているのは何故なのだろう。ただ大半は自転車の放置場所になってしまっている。

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こちらが大山街道側の入口である。やはり旧街道というのは歩いて楽しいものがある。入口に在るカゴメカゴメの子供の銅像は創作モノだが、昔はこんな風に奉公の子供たちがちょっと水汲みついでに遊んでたのかな?などとイメージが湧く。枯れずの井戸は現在、地下水をポンプで汲み上げているが、これは東京に関しては致し方ない。おそらく明治大正期から比べると湧水は数十分の一に減少しているはずである。何しろ、コンクリートとアスファルトで覆われた台地と、地下開発のために、かろうじて残った湧水は宝石並みの価値がある。

場所  東京都世田谷区池尻2丁目34-15

 

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2019年4月26日 (金)

三軒茶屋ピーコック裏の庚申堂(世田谷区三軒茶屋)

世田谷通りと環七通りの立体交差点は若林交差点だが、その立体交差の橋は常盤陸橋という名前、どうも行政としては決めきれない人間模様がありそうに思えてしまう。その三軒茶屋側の角に20階建てのタワーマンションが建ったのが2004年、この辺りは戸建の密集したエリアだったが地上げでまとめたのだろうか。1階にはピーコック(スーパーマーケット)が入っている。この高層マンションの裏手にひっそりと残された庚申堂がある。

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堂宇の中には庚申塔が2基、写真手前には馬頭観音、堂宇の裏手には力石や富士講碑などいろいろ集まっている。堂宇も立派なもので、小ぶりな神社といってもいいくらいである。よくぞこの一角に残してくれたと、有難みを感じる。

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堂宇の左手に立っている大きめの石仏は馬頭観音像、造立は新しく大正13年(1924)。馬頭観音は概ね新しいものが多く、明治から戦前にかけて軍馬が多く使われていたので軍で祀ったものも多い。 この像は台座に馬頭観世音とあり、大きめの馬頭観音が載っている。眉の形などは新しさを感じさせるデザインである。右面に建立者の名前が根岸新蔵とある。

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堂宇内右手の庚申塔は傷みが少ない板状駒型のもの。 造立年は延宝8年(1680)と古い。青面金剛像と三猿のものだが、とても丁寧な造りである。青面金剛像の彫りも深く、腕のいい石工の作品だろう。

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堂宇内左手は少し小ぶりの庚申塔。こちらもとても丁寧な造りをしている。造立年は寛延2年(1749)と少し新しいが、庚申塔としては普通の年代。 青面金剛像の下の三猿の彫りがいい。青面金剛像が踏みつけているのは邪鬼だろうか。

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堂宇の裏手にある三角の石碑は富士講の三十三回登山を記念して立てられたものである。写真では分かりにくいが「冨」の上に富士山の山型が描かれ、「平」の字は丸で囲まれている。下北沢村、馬引沢村の人々による丸平講という富士講の33回登山大願成就の祈念碑。

富士山に対する信仰は原始的な山岳信仰として奈良時代からの記録があるが、庶民の間に富士信仰が盛んになったのは富士の行者である食行身禄が現れて庶民救済の教義を提唱した18世紀以降のこと。食行身禄の弟子たちは独立して講を結成し、さらにそこから多くの枝講が生まれた。こうして富士講は19世紀の初頭にその隆盛期を迎え、「江戸八百八講」と呼ばれる程の発展を遂げた。

場所   東京都世田谷区三軒茶屋2丁目56−9

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2019年4月25日 (木)

駒留八幡神社(世田谷区上馬)

常盤塚のところでも書いた駒留八幡神社。(常盤塚のページ)現在の住所は上馬だが、上馬、下馬というのは省略された地名。 江戸時代の初め頃は馬引沢村という一つの村だった。天正18年(1590)に徳川家康が江戸入城すると村は徳川氏の直轄地となった(後に井伊家・大久保家に拝領)。寛永年間(1624~1643)に村は上馬引沢村と下馬引沢村に分割。さらに上馬引沢村から中馬引沢村が分かれた。もっともそれ以前から村は上郷、中郷、下郷という三地区で成り立っていたという。ちなみに江戸時代の馬引沢村は三軒茶屋から駒沢までの広い村だった。

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駒留八幡神社は鎌倉時代の徳治3年(1308)の創建。駒留というのは馬が止まる意味で、地頭であった北条左近太郎が八幡宮を勧請しようとして馬を放ち留まったところを鎮座の地とすると馬がここで留まったという伝説による。またこの神社は常盤姫の悲話と関連が深い。

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常盤姫伝説というのは現在ではほぼ創作話だろうということになっているが、何百年もの間土地の人々が信じてきた物語である。常盤の身体に身籠っていた胎児の霊を吉良氏がこの神社に祀ったことから、若宮八幡とも呼ばれる。

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境内の奥には厳島神社の社があり、ここに常盤弁天が祀られている。その傍には常盤橋と彫られた橋の欄干が無造作に置かれている。本物かどうかは分からないが、暗渠を歩いていると稀に同じタイプの古い欄干を目にすることがあるので、あながち否定はできない。

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境内に1基だけ古い角柱型の庚申塔があった。女塚社の後ろにひっそりと立っているが、造立年は天和3年(1683)と古いもの。正面は青面金剛像と二猿、右側面と左側面にそれぞれ一猿というレアなタイプである。

場所  東京都世田谷区上馬5丁目35

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2019年4月23日 (火)

弦巻のいぼとり地蔵(世田谷区弦巻)

このいぼとり地蔵は地元の人々にとても親しまれている地蔵尊である。 現在の地、常在寺の山門の向かいに移転してきたのは2013年9月。 それまでは常在寺の反対側のやや南の辻にあった。

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常在寺は日蓮宗宝樹山常在寺、言い伝えでは世田谷城主吉良氏の愛妾である常盤が開基となっている。開山は永生3年(1506)で、常盤姫がその末期に際し、常在寺の井戸に投げ込んだものが寺に安置されている鬼子母神像だということになっている。

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いぼとり地蔵の名前はここではいぼ地蔵尊となっているが、真新しい堂宇にゆったりと収まっている。説明板によると、寛延4年(1751)弦巻村の女人21人がお金を出し合って造ったもので、昔からいぼとり地蔵として地域に親しまれてきたという。いぼが出来た時、台座の前にある小石を借りて患部をなでるといぼが取れると信じられていた。また全快したら小石を倍にして返す習わしであった。

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気になったのは堂宇の右手の奥に庚申塔が1基、ぽつんと祀られていたこと。その裏手には自然石の庚申塔がもう1基。 造立年は最初の文字が削れてしまい二文字目が暦なので、おそらくは宝暦年間(1751~1764)であろう。年数はかすかに七と読めるので、宝暦7年(1757)だろうか。三猿は台石に埋まってしまっている。

場所  東京都世田谷区弦巻1-21

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2019年4月22日 (月)

成城1丁目の庚申堂(世田谷区成城)

余程気を付けて周辺を観察するか、あらかじめここに庚申堂があることを知っていなければ発見できないと思う。世田谷通りの北側の崖線の樹木に隠れているからである。階段を上ると、左側に杣道が付いていて、その先に堂宇がある。

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堂宇の裏手には小さな稲荷神社の祠がある。その周りは畑らしく畝がきれいに耕されている。とても東京都しかも成城という場所には思えないほど農村感のある場所。そしてここは国分寺崖線。 何千年も人々が生活をしてきた場所である。

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階段の上部で木陰から見えてくる景色が特に良い。 右側に地蔵菩薩像、左側に庚申塔が並んでいる。地蔵菩薩は享保4年(1719)の造立。野田の地蔵講中30人によるものとある。 野田というのは昔この辺りが喜多見村だった頃の字名で、現在小田急線と並んで野川を渡る道の橋名が上野田橋、世田谷通りが中野田橋(現在はなぜか略されて中ノ橋となっている)で、この辺りは野川に加えて次太夫堀が整備され民家も多かったので、この辺りの人々が地蔵講で造ったものであろう。

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左の庚申塔は享保7年(1722)の造立。青面金剛像と三猿の板状駒型庚申塔。古い喜多見村の地図ではここに富士講の塔があったと書かれているが現在はない。

この周辺は嘉留多遺跡が広がっている場所で、旧石器時代から縄文、奈良・平安まで様々な遺跡が出土している。それ以外にも古墳も多く、考古学には特別な場所らしい。そう思うと300年前というのは大したことないように思えてくるから、国分寺崖線恐るべしである。

場所  東京都世田谷区成城1-6

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2019年4月21日 (日)

大蔵庚申神社(世田谷区大蔵)

環八から世田谷通りの旧道に入る。サミット裏口の地蔵様からゆっくりとくねりながら下る旧道を進むと、急なカーブが現れる。左の分岐に入ると横根稲荷神社。その路地の角にある民家の一角にあるのが大蔵庚申神社である。この旧道を挟んで北側が砧、南側が大蔵になる。

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昔の道路は川を渡るときには直角に橋を架ける。この旧道もまた然り、谷戸川を越える橋を直角にするためにこういう道筋になっていると考えるのが自然である。そして橋の東側の民家の敷地に大蔵庚申神社がある。神社というよりも庚申堂が3棟、そのうち庚申塔が入っているのは1棟だけである。

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庚申塔があるのは真ん中(上の写真の右側)の堂宇である。 造立年などは分からない。青面金剛+三猿の板状駒型の庚申塔である。見た感じはそれほど時代を遡る石肌ではない。

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ただしこの大蔵庚申神社から横根稲荷神社を経て南への道も古道で、古い鎌倉街道のひとつだったと言われる。現在では砧公園になってしまったが、谷戸川沿いに下っていった街道だったのだろう。前述の横根村は明治8年に大蔵村に編入されて、稲荷神社は大蔵氷川神社に合祀された。ところがそれ以降この地で天災や疫病が続いたので、人々はお稲荷さんの祟りだと恐れ、現在の場所に稲荷神社を戻したといういきさつがある。

場所   東京都世田谷区大蔵1丁目6

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三本杉の地蔵様(世田谷区砧)

環八通りと世田谷通りの立体交差点を三本杉陸橋と呼ぶ。かつての登戸道(世田谷通り)はサミットの南側を通り、NHK放送技術研究所前で現在の世田谷通りの筋に戻っていた。三本杉の地名はこの旧道から南に行った横根稲荷神社に由来するらしい。

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小さな神社だが以前から旧小字横根の鎮守として稲荷講の信仰を集めていた。 この神社に昔あった杉の木は、根元部分に大きな空洞があり、上部は三又に分かれていたので、三本杉のお稲荷様と呼ばれていたという。 他にも三本杉に関しては説があって特定できないが、古い街道筋だけに杉の大木の三本位はあったのかもしれない。

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この辺りの世田谷通り旧道は写真のようにくねっていていかにも旧道らしい。緩やかな坂を下ると谷戸川という小河川を渡る。谷戸川は祖師ヶ谷大蔵東側から流れ、砧公園を縦断して、岡本静嘉堂文庫下で丸子川に注ぐ。丸子川というのはいわゆる次太夫堀で、江戸時代初期に掘られた用水である。

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世田谷通り旧道が環八に出る手前にサミット砧店の駐車場の裏入口があるのだが、そこに地蔵堂が立っている。説明板も何もない上に、区の資料にも載っていない。 造立年も、もしかしたら裏側に掘られているのかもしれないが、全く分からない。

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しかし『ふるさと世田谷を語る』の砧のところに、古老への聞き取り内容が資料として残されていた。 まさにこのブロックにお住いのY氏でおそらく大正末年生まれくらいの古老の話と手書きの地図を見ると、この場所に「お地蔵様」と書かれている。 昭和9年頃と地図には書かれているので、この地蔵は当時から間違いなくここに鎮座していたもの。

古老の語りでは、三本杉は200mくらいの間に、団子屋、めし屋、花屋、篭屋、床屋、駄菓子屋、八百屋、製粉工場などが立ち並び、三本杉というバス停もあって渋谷と国領を結んでいたという。道路北側には欅の大木の並木があり、根が張っていて、人々はそれに腰を下ろして休憩していたらしい。残念ながら現在はケヤキは1本も残っていない。

場所  東京都世田谷区砧1-1

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宇山路傍の庚申塔(世田谷区桜丘)

世田谷通りのトヨタディーラーから一方通行出口を入り少し進むと畑が広がる。この先の丁字路を右折すると久成院と宇山稲荷神社がある。これらの細道はすべて江戸時代からの村道で、少しくねった道筋が昔の道であることを物語る。環八通りができる遥か昔、登戸道(世田谷通り)が東西に走り、南北に何本かの村を結ぶ道があった。この道は廻沢村、船橋村から岡本村、用賀村へ繋がる道である。

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丁字路には農家の直売所がある。 その脇に野ざらしの庚申塔が立っている。造立年は享保4年(1721)、駒型のこじんまりとした塔で、青面金剛像と三猿が描かれている。下部に願主の8人の名が彫られているが、すべて名字がなく伊左衛門、半兵衛、徳右衛門などの名前だけでそれがむしろ微笑ましい感じがした。

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こういう野仏は早々に取り払われることが多い中で、まだ農地が残るエリアだからこそ現代まで存続しているのはとてもありがたい。

場所   東京都世田谷区桜丘4丁目14−14

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2019年4月20日 (土)

久成院と野仏(世田谷区桜丘)

現在の世田谷区桜丘はかつての横根地区と宇山(ウザン)地区からなる。宇山地区は世田谷通り以南、環八以西の一部も含んでいた。宇山という字名の由来については、二子玉川の北側、東名高速以南の地域を今も宇名根と呼ぶが、その宇名根村の人がこの地域に入植して開墾したため、宇名根山屋という村名で呼んだのが起こりだという。宇山地区の鎮守は宇山稲荷神社だが、もともと小さな稲荷だったようだ。

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宇山稲荷神社の向かいにあるのが久成院(クジョウイン)。 南照山久成院東耀寺が正式な寺名だが、地元では久成院で通っている。創建年代は不明だが、開山したと伝えられる良尊法師の没年が元和6年(1615)ということから、江戸時代初期の開山と思われる。宇名根から入植した関係で、宇名根にある観音寺の末寺と言われる。また宇名根の観音寺は深大寺の末寺なので、本山は深大寺。

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久成院の山門を入るとすぐ左側に庚申塔の堂宇がある。三基並んでいるが、中央は地蔵立像で、左右が庚申塔である。


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真ん中の地蔵立像は念仏講によるものだろうか、造立は天和2年(1682)と彫られている。五代徳川綱吉が生類憐みの令を発する少し前、江戸もかなり安定した時期で、世田谷のこの辺りも江戸に野菜等を供給する農村として人口が増え始めた時代である。

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左側の庚申塔は青面金剛を三猿が支える典型的なもの。板状駒型で造立年は地蔵立像と同じ天和2年(1682)である。右側の庚申塔も板状駒型で似ているが、造立年は宝暦4年(1754)と時代が少し新しくなる。

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本堂の右手に回り込むと六地蔵がある。宇山(宇名根山屋と彫られている)の念仏講中によるもので、宝暦13年(1763)の造立。周辺には多数の石像石柱石仏があり、周辺が開発されるにつれてここに移設されたものたちなのだろうかと推察してしまう。

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昭和初期の馬頭観音などもあり、戦前までは牛馬による農村生活があったのだろう。上の写真の右側の石仏は道標の上に地蔵が載っているもので、この地蔵は首なし地蔵と呼ばれてかつては桜丘小学校(筆者自宅の最寄り小学校)の傍らにあったもの。「左 村中道 右  府中道」とあり、昔小学校の真ん中を府中道が通っていた時代のものであろう。地蔵の造立は寛延元年(1748)とある。

久成院はかつての農村の姿を現代に残してくれる貴重な存在である。

東京都世田谷区桜丘4丁目13 

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2019年4月19日 (金)

けこぼ坂庚申塔(目黒区上目黒)

目黒区役所は現在上目黒にある。中目黒駅から近く、東急東横線の東南の駒沢通り沿い。ここは高度経済成長期まではアメリカンスクール、そこに1966年(昭和41年)に千代田生命の本社が建てられた。その優美な建物をそのまま利用して、2003年から目黒区役所になっている。私がこの駅寄りの目黒銀座に住んでいたのは1976年~1978年だから、認識の上では完全にここは千代田生命の広大な本社敷地だった。

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目黒区役所の駒沢通り側の緊急車両出入り口脇に大谷石で組まれた荘厳な堂宇に包まれた1基の庚申塔がある。 けこぼ坂庚申塔と呼ばれている。この駒沢通りの坂道がけこぼ坂と呼ばれるのは、坂の傾斜を緩やかにするために切通しの工事を行ったが、両側の土手の赤土がむき出しになり崩れやすくなったという。こういう赤土を土地の方言で「けこぼ」といい、それがそのまま坂名になったもの。

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庚申塔の造立年は元禄8年(1695)とある。舟型青面金剛+三猿のオーソドックスなもの。駒沢通りは江戸時代から上目黒村と中目黒村の村境であると同時に、碑文谷村に向かう街道でもあった。さらに祐天寺までは江戸町奉行の管轄で、江戸の範囲内とされた特別な地域。 坂下の正覚寺辺りには正覚寺や祐天寺詣でをする江戸っ子のための水茶屋があったりもしたそうである。詳しくは坂道『けこぼ坂』のページにて

場所 東京都目黒区上目黒2丁目10

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2019年4月18日 (木)

中目黒八幡神社(目黒区中目黒)

目黒川周辺の住居表示は目黒、中目黒、下目黒、上目黒とあって、目黒川の上流東横線付近が上目黒、そこから下流に向かって、中目黒、目黒、目黒通り以南が下目黒となる。明治時代までは上目黒村、中目黒村、下目黒村、三田村とあり、現在の住所の目黒は三田村を含んでいる。この辺りでは三田が最も古い地名かもしれない。田町の三田はかつては御田とも書き、江戸時代は町奉行領で、目黒の三田は大名屋敷の拝領が多かったが、ルーツは同じ武蔵国の御田郷である。

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現在の中目黒は駒沢通以南、田道までを中目黒という。寺社を見る場合、江戸時代や明治以前の村境を意識するとそのテリトリーが分かりやすいが、上目黒、中目黒、下目黒はほぼ江戸時代の村域に近い。中目黒八幡神社はとても古い神社で古くから中目黒村の鎮守として村の中心になっていた。ここは目黒川右岸の河岸段丘にあたり、鳥居前の標高が11mに対して社殿の標高は21mと10mの高低差がある。この先は500m南西の祐天寺でも標高25mだからなだらかな台地の端である。

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そういう地形なので境内には神泉と言われる湧水もある。 現在は水脈が枯れてしまい、井戸水を深いところから汲み上げているが、昔はこの崖線にはあちこちに湧水があった。崖があって高低差がある周辺は高級住宅街になっていて、SMAPの某メンバーの豪邸もすぐ近くにある。昭和の頃はそんな高級住宅街ではなかったのだが、平成に入った頃から中目黒は人気の街になってしまい、古くからあった目黒銀座などの人情風情は消えてしまった。

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境内の階段脇にさざれ石がある。『君が代』の詞に出てくるあのさざれ石である。意味としては「小さな石」だが、火山の噴火で石灰岩が分離してまた集積し凝固した岩石で、全国のあちこちでこれを祀る神社がある。地質学上では石灰質角礫岩という。現在は採掘禁止の石材らしいが、戦前の法制化以前に入手したため無事神社の宝としてここに鎮座している。

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境内には多くの巨樹がある。そのため、都会の中の鎮守の森という雰囲気を味わえるところになっている。森も水も豊かという土地であることから、境内では縄文時代の土器なども発掘されており、「八幡神社裏遺跡」と名付けられている。

場所  東京都目黒区中目黒3丁目10−5

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2019年4月16日 (火)

めぐろ歴史資料館前の庚申塔(目黒区中目黒)

めぐろ歴史資料館は分かりにくい場所にあるが、かつての目黒区立第二中学校の跡地で建物をそのまま利用した施設である。2006年に生徒数減少のため統合され廃校になった。今世紀に入って消え去った東京都心の小中学校は極めて多い。校舎の中程が資料館の入口になる。昔ながらの赤ポストがあったりしてレトロ感を出しているが、2008年に作られた比較的新しい資料館である。

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外観はほとんどかつての中学校である。しかしこういう廃校利用の施設はあちこちにある。いいことだと思う。中に入ると、右手に資料館の入口がある。大昔の目黒、古代、中世、近世と展示が並ぶ。これは他の区の資料館とほぼ同じ。いっぽう前庭には五輪塔や道標などの石造物が展示されている。中の展示と違ってこちらは本物である。

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屋外展示は道標が多い。田道橋道標など大正期という新しいものもあるが、宿山組道標は寛政11年(1799)の造立で江戸の中期にあたる。これは道標であるが、青面金剛像があることから庚申塔である。

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庚申塔の正面下部には、北 ほりの内 あわしま 道、右側には せたヶ谷道、左側には 江戸 あさふ 道、裏には ゆうてん寺 めくろ 道とある。以前の所在地は不明だが、資料館では上目黒1丁目あたりと推察している。個人的な見解だが、目黒川が蛇行して入り組んでいた上目黒村と中目黒村の村境あたりにあったのではないだろうか。現在でいうと中目黒日比谷線事故慰霊碑のあるガードだというのが私の推理である。ここは確かに上目黒1丁目、当時すぐ裏手には目黒元富士という富士講の富士もあり、新坂(といっても江戸時代の坂)が目切坂から分かれてこの辻に下りてきている。 ここは村境でもあり、交通の要所でもあったのである。

場所  東京都目黒区中目黒3丁目6−10

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大鳥神社の庚申塔(目黒区下目黒)

大鳥神社境内の大聖院寄りに8基の石塔が並んでおり、その中に4基の庚申塔がある。整理された印象で、目黒村のどこかから集められたものであろう。どれも江戸時代前期から中期にかけてのものである。

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真ん中の注連縄のある自然石型の石碑の右に3基の大型の庚申塔、すぐ左手に小さな庚申塔がある。

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一番右の庚申塔は唐破風笠付の角柱型青面金剛と三猿のもの。造立年は元禄元年(1688)とある。 下部には8人の施主の名前が刻んである。

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右から二番目は、駒型の青面金剛像+三猿の庚申塔。造立年は宝永元年(1704)と彫られている。

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右から3番目の庚申塔は中でも最大のもの。青面金剛像+三猿は同じ。 造立は一番右と同じく、元禄元年(1688)とある。

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最後は左側にある小さな庚申塔。 駒型文字庚申塔で三猿のみのようだ。 しかし造立年はこれが最も古く、延宝3年(1675)である。

周辺の主な寺社仏閣の創建年を比べると、目黒不動龍泉寺が大同3年(808)、大鳥神社も大同3年(808)と同じ年になっている。目黒不動の開基は円仁(慈覚大師)という天台宗の名僧で、全国に多くの寺を開いた。比叡山延暦寺をはじめとして、山形山寺の立石寺、中尊寺、毛越寺など700余りの寺を開いている。大鳥神社が同じ年に創建しているのがたまたまなのか、あるいは円仁に関係しているのか興味の湧くところである。

場所  東京都目黒区下目黒3丁目1−2

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大鳥神社(目黒区下目黒)

山手通り(環状6号線)と目黒通りの立体交差点角にあるのが大鳥神社。アンダーパスになっている大きな交差点名も「大鳥神社」で、江戸時代から今日までずっと下目黒のランドマークである。神社の由緒は日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征にゆかりがあるそうで、創建は大同元年(806)と目黒区では最古の神社らしい。目黒通りを挟んだ西側には昔、金毘羅大権現があったが明治時代に廃寺となった。大鳥神社交差点から西側の目黒通りは緩やかな坂になっており、この坂の名前が金毘羅坂と呼ばれ、今でも名前の痕跡として残る。⇒金毘羅坂のページ

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幹線道路が拡幅されて境内は狭くなってしまったというものの江戸時代から境内はそれほど広くはなかったようだ。しかし11月の酉の市は東京でも有数の賑わいを見せ、酉の市としては都内で最も古いものと言われる。江戸時代は、目黒三社(目黒不動、大鳥神社、金毘羅大権現)は特別な賑わいの行楽地だった。

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古江戸9社というのは、根津神社、湯島天神、神田明神、牛嶋神社(向島)、王子神社、金王八幡宮(渋谷)、赤坂氷川神社、築土神社(飯田橋)とここである。古江戸の時期は、太田道灌が江戸にはいった長禄年間(1457~1461)の頃をいうが、実はあまり明確ではない。大鳥神社は江戸名所図会にも描かれており、それによると目黒通り沿いには小川が流れていたようだ。 

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大鳥神社の狭い境内にある御神木がアカガシである。樹木の前に説明板がなく、離れたところに立っているが、玉垣で囲まれた枯れた巨木が元都指定天然記念物のオオアカガシである。通常のアカガシとは異なるものとして貴重なものだそうだ。平成に入ってからは枯死していることが確認され、ついに平成24年に天然記念物指定が解除された。それでもまだ石碑は「都天然記念物大鳥神社のオオカガシ」と彫られて立っている。

場所  東京都目黒区下目黒3丁目1−2

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目黒の切支丹燈籠(目黒区下目黒)

目黒区の寺社を歩いていて面白いものに出合った。切支丹燈籠である。最初に禁教令(バテレン追放令)をを発したのは、天正15年(1587)の豊臣秀吉だった。ただしまだ取り締まりは緩かったようである。江戸時代徳川の世になり、最初は不況は黙認されていたが、慶長17年(1612)になると幕府は江戸・京都・静岡での布教を禁止、ここから10年くらいの間でかなりの迫害が行われた。それでもこっそりと信仰をするものもいて、燈籠の竿(柱)にキリスト教の像らしきものが彫られた切支丹燈籠が作られた。東京都内で十数基のみという希少なものだが、大鳥神社とその別当寺大聖院に4基がある。

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大聖院の入口にあるのが3基の切支丹燈籠。これらは織部式燈籠とも呼ばれる。もとは権之助坂の上にある三田千代が崎にあった旧島原藩松平主殿守の下屋敷(後に大村伯邸となる)の林の中の小祠内にあったが、大正15年(1925)にここへ移された。これらは徳川幕府の弾圧を受けた隠れキリシタンが庭園の祠に礼拝物として密かに隠しておいたものだと言われている。とてもレアなものなのである。

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旧島原藩松平家の下屋敷は地図の右上、朱線を引いた部分である。そして大鳥神社と大聖院は左下の朱で囲んだ部分。目黒のこの崖線には島原藩の他、現在の雅叙園周辺を熊本の細川家、上の古地図の中央の緑部分は後の時代には久留米藩の下屋敷となっており、九州の大名の下屋敷がここに集まっているのは何か切支丹との関係があるのだろうか、などと想像してしまう。

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大鳥神社にはもっと燈籠っぽい形の切支丹燈籠がある。これも同じく島原藩屋敷にあったものらしい。時代はキリシタン弾圧が激化した、寛永(1624~1644)・正法(1644~1648)・慶安(1648~1652)から江戸初期~中期にかけて造られたものと推定されている。品川駅からプリンスホテル脇の柘榴坂を上ると、坂上には江戸の殉教者顕彰碑がある。「江戸の大殉教」と言われ、1623年に徳川家光によって、外国人宣教師を含む50人を市中引き回しの上、高輪の丘で火あぶりの刑にした。それに続いて女子供の区別なく、タレコミなどでばれると処刑され、江戸全体では2000人が殺されたという惨い事件である。

大聖院  東京都目黒区下目黒3丁目1−3

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蟠龍寺の石仏たち(目黒区下目黒)

山手通り沿いに参道があるお寺。特に立派な山門があるわけではないので見落としがちだが、山手七福神の弁財天を祭る寺である。門からは車も人と一緒に侵入する。入口の石柱には、「岩屋辨天」と彫られているが、それは山手七福神の弁財天のこと。

蟠龍寺は慶安元年(1648)に称明院として行人坂近くに開かれ、後の宝永6年(1709)に増上寺の僧が称明院蟠龍寺として現在地に改名再建した。江戸時代から大鳥神社から目黒不動への道すがらにあり、参詣者も多かっただろう。

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山手通りから門をくぐり少し進むと数段の石段、その脇にこじんまりと佇むお地蔵さんは荷葉地蔵。造立は元禄11年(1698)。台座の下に過度の丸い石があり、その下の台座が六角形で、上面に荷葉(蓮の葉)がの彫刻が付いているために荷葉地蔵と呼ばれる。

そのまま奥の本堂手前まで進むと、いかにも寺院の庭という雰囲気の池があり、その裏手におしろい地蔵と呼ばれる地蔵が堂宇に守られている。(堂宇は最近作られたものらしい)

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この地蔵は、関東大震災で被災をしたため、浅草からここに移されたもの。顔が欠けているお地蔵様だが、その昔、顔に痘痕(あばた)のある娘が、そのために人並みの結婚が出来ず悩んでいた。ところがこのお地蔵様に願掛けをしたところ痘痕が消え、幸せな生涯を送ることができたという。

江戸時代には歌舞伎役者がおしろいに含まれる鉛の害に苦しみ、おしろいをお地蔵様の顔に付けて願を掛けたと言われ、その風習が現在まで続いている。顔だけでは幸せになれないもので、逆にそのことを諭しているという理解の方が教えらしい気がするが。

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さらに奥の本堂裏手に進むと洞窟があり、窟屋弁天が祀られている。これが山手七福神のひとつ。もっとおどろおどろしい洞窟かと思ったが、綺麗で明るい洞にちょっと落胆。弁財天だけに境内の池が関係しているのだろうかと思い調べたが明確な資料はなかった。ただ、目黒不動の湧水や羅漢寺川跡の湧水など、目黒川右岸にはいくつかの湧水や湧水跡があり、「日本地下水学会」の資料には蟠龍寺の湧水という記述もあったので、元々はここに湧水があり、それで弁財天が置かれたと思われる。

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蟠龍寺の境内にはあちこちに年代物の石仏がある。本堂前にポツンと置かれている上の地蔵尊は彫られた文字を読んでみると、寛文13年(1673)とある。寛文年間は9月21日に延宝に年号が変わっているからその年の前半だろう。

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また草むらにぽつんと置かれていたこの石仏は、貞享年間(1684~1688)。これ以外にも300年超えの石仏があちこちに置かれている。寺の説明板には境内には元禄11年(1698)の地蔵尊があると書かれているが、それ以前のものもいくつも存在する。1709年にここに移転してきたときに周囲から集められたものなのか、それ以降にここに移されたものなのかはわからない。

しかし石仏をじっと眺めている不審人物にうつりはしないか一抹の不安を持ちながら、それでも眺めていると結構なタイムスリップができるのである。ちなみに蟠龍寺は江戸名所図会にも描かれていて、それは ⇒こちら。

 

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成就院の庚申塔と地蔵(目黒区下目黒)

蛸薬師成就院の山門脇に地蔵や庚申塔が並んでいる。歴史のあるお寺なのに意外と数は少ない。

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真ん中の背の高い台に載っている地蔵は橋和屋地蔵と呼ばれる。蓮花台の上にやさしい顔のお地蔵さまがある。金剛宝地蔵菩薩、不動の門前にあった橋和屋という料亭の主人が、若くして他界した愛娘を偲んで天保10年(1839)に建立したと伝えられる。橋和屋は江戸時代末期、ハリスの通訳をしていたオランダ人ヒュースケンを殺害した尊王攘夷派の7人の薩摩藩士たちが秘密会議をした場所である。ヒュースケンは万延元年(1860)外国人襲撃事件の初めての犠牲者となった。

ヒュースケンは麻布中ノ橋付近で殺害された。大江戸線の赤羽橋駅付近である。墓所は天現寺ランプの傍の光林寺にある。古川の五の橋が近い。光林寺にはヒュースケン墓所までの案内図も掲げられている。

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左手にあるのが庚申塔。高さもあり、保存状態も良い。江戸時代中期、元禄9年(1696)造立の、笠付青面金剛に三猿の立派な庚申塔である。またこの庚申塔は正面上部にアーンクの種子(ジュシ)が模られ、屋根の造詣も細かい。アーンクとは梵字(サンスクリット)で、密教では神仏を表現するための特殊な文字のひとつ。私にはよく分からないが、うちの仏壇の掛け軸にもそれらしき文字が書かれていた。

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蛸薬師成就院のお静地蔵(目黒区下目黒)

江戸時代の西の大行楽地目黒不動の参道に面して興味深いお寺がある。通称蛸薬師、天台宗成就院である。蛸薬師の呼び名は、本尊が三匹の蛸が支える蓮華座にのる薬師如来像であるため。開山は古く天安2年(858)慈覚大師によるものとされる。目黒不動も慈覚大師の開山と伝えられ、そちらの開山は大同3年(808)らしいから、成就院は50年遅れて開かれたことになる。慈覚大師(円仁)は794年~864年に生きた人なので、若くして目黒不動を開き、老いて成就院を開いたことになる。目黒不動は14歳の時だから、本当だろうかと考えてしまう。彼が最後の遣唐使として二度の失敗の後、唐に漂着したのが838年(30歳)と昔の偉人は早熟かつアクティブだったのかもしれない。

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境内は比較的こじんまりとしているが、見どころは満載。本尊の蓮華座の蛸も慈覚大師の遣唐使のエピソードを反映している。中でもお静地蔵は最も有名。お静というのは、徳川二代将軍秀忠の側室。彼女が我が子保科正之の栄達を祈念してお静地蔵を奉納したもの。保科正之は後に兄弟である三代将軍家光の計らいで、信州高遠城主、山形城主、会津藩城主と国替えをしながら最後は23万石の殿様となった。

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地蔵は普通六地蔵なのだが、ここは7体。真ん中の一段と高いのが阿弥陀如来。あとは右側に観音が3体(十一面観音、聖観音、准胝(ジュンチ)観音)、左の3体は地蔵(金剛願地蔵、金剛幡地蔵、金剛宝地蔵)。年代は不詳だが、お静の方の奉納ということから江戸時代初期ではないかと思われる。お静の方は秀忠の寵愛を受けて子供を授かることを祈願して、まず右の観音像3体を奉納、めでたく男子が産まれると、左の地蔵3体をを奉納したという。後にその子が保科正之として大名になると、真ん中の阿弥陀如来像を大願成就として奉納した。

 

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2019年4月15日 (月)

比翼塚(目黒区下目黒)

小泉・ブッシュの居酒屋会談や、映画『Kill Bill』で一躍有名になった西麻布の権八。 店名の由来は江戸時代の人物として歌舞伎に登場する白井権八だそうだが、実はこの白井権八はとんでもなく悪いやつであった。ところがこの権八の話はいろいろと広がっていく。歌舞伎のための創作なのか、どこまでが史実なのかはわからない。わからないが面白い。

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目黒不動尊の立派な山門(仁王門)前に小さな比翼塚がある。比翼塚というのは、愛し合って死んだ男女、心中した男女、あるいは仲睦まじかった夫婦を一緒に葬った塚のことである。この比翼塚は、「権八・小紫の悲話伝える比翼塚」という説明板が立っている。彼らはここには眠っておらず、後に歌舞伎の演目で有名になり、行楽地の目黒不動の門前に築いたものである。

その話は、目黒不動から少し東にある禿坂(かむろざか)の小さな遊園地にも書かれていた。

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今から300年ほど前の話、数々の悪事を重ねた鳥取藩の武士、平井権八郎直定(歌舞伎では白井権八)が鈴ヶ森で処刑され、目黒の冷心寺の僧に引き取られ葬られた。かねてから権八と相愛であった吉原三浦屋の花魁の小紫は目黒へ急ぎ向かい、権八の墓前で自害してしまった。三浦屋の主人は小紫を心配して、小紫のかわいがっていた娘を迎えに行かせた。(花魁の付き人である少女はおかっぱ頭にしていたので禿:かむろと一般的に呼んでいた。)

かむろが目黒に着くと、すでに小紫は息がなかった。泣きながらかむろが帰途につき、桐ケ谷近くに差し掛かった時、突然暴徒に襲われ逃げきれず、目の前にあった二ツ池に飛び込んで死んでしまった。それを見た村人はかむろを哀れに思い、丘の中腹に丁重に葬り、かむろ塚と呼んでいた。その話が現代にまで坂名として残っているのである。

個人的には、権八と小紫の悲話よりも、かむろの悲話の方がよっぽど可哀想だと思う。権八は金に困り、辻斬りをして稼いでいたお尋ね者で、現代でいうと通り魔連続殺人犯である。同情には値しない。なお、比翼塚が現在の場所になったのは最近のことで、昭和中期までは商店街の道を林試の森公園方向に50mほど西進したところにあった。また権八を引き取った寺は目黒不動の参道にあったが明治初年に廃寺となった東昌寺。現在は痕跡もない。

 

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2019年4月14日 (日)

青木昆陽の墓所(目黒区下目黒)

  青木昆陽の名に初めて出会ったのは小石川植物園だった。園内の中央に甘藷試作跡という石碑があった。享保20年(1735)に青木昆陽がサツマイモの栽培を試みた場所である。日本橋の生まれだと言われるが、京都に行き儒学を学んだ後、儒学者として江戸に戻った。南町奉行所の大岡越前守忠相に取り立てられ、時の将軍徳川吉宗からも重用された。そんな青木昆陽の墓所が目黒不動の裏手にある。

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目黒駅から行人坂を下って太鼓橋を渡り、目黒不動、青木昆陽墓所へは高低差のある道のり。勿論目黒川が長い年月をかけて武蔵野台地を削った結果なのだが、不思議なのは目黒駅側の台地の標高と、青木昆陽墓所・目黒不動の標高が10mほど違う点である。これは同じ武蔵野台地でも形成された時代が異なるためで、目黒駅側は約15万年前~7万年前に形成された地質で、目黒不動側は7万年~1万8千年前と新しい。東京23区の地質はこの2種類と、川によって運ばれた土砂堆積地質の3種類でほぼ形成されている。

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山手通りから路地を入ると、急に丘になり階段で上る。この階段道は目黒不動尊の裏手の道になる。青木昆陽墓所にはもう一つ、五百羅漢寺店前から上る南ルートもあるが、こちらも長い階段になる。この五百羅漢寺前の道は高度経済成長期前までは羅漢寺川という川が流れ、太鼓橋下流で目黒川に合流していた。青木昆陽墓所のある目黒不動の墓地は川に削られた岬にあたる場所なのである。そのため青木昆陽の墓所はとても見晴らしのいい場所にある。

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青木昆陽は通称甘藷先生と呼ばれて親しまれている。近しい人々からは文蔵と呼ばれた。儒学者となって江戸に戻ってからは強力なバックボーンを得て、書物方となり、書物奉行まで上った人物だが、吉宗の命で蘭学も学びマルチな能力を発揮した。享保20年(1735)に『蕃薯考』を書き、享保の飢饉以降の食物飢饉への対策を進言した。その結果、後の天明飢饉や天保の飢饉の際にも餓死者を防ぐことが出来、世間からは甘藷先生と呼ばれて尊敬された。

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甘藷先生は目黒不動でも厚く祀られている。上の写真は目黒不動尊の裏口だが普段は閉鎖されている。しかし毎月28日は解放される。そして10月28日には「甘藷祭り」が、青木昆陽を偲んで現在も行われている。以前は命日である10月12日に行われていたが、戦後から毎月28日の目黒不動の縁日に合わせて変更された。

ちなみにサツマイモが日本に入ってきたのは江戸時代になってから。琉球を経て、鹿児島に伝わったので、サツマイモという訳である。

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2019年4月13日 (土)

大円寺境内の庚申塔(目黒区下目黒)

大円寺の境内には様々な魅力的な石造石塔がある。その中ではほどんど見向きもされていないと思われる3基の庚申塔だが、保存状態も極めて良好で、かつとても大きい。素直な感想としては、補修されているような気がしなくもない。人間でいえば整形手術である。江戸時代初期の野仏でこれだけきれいなものはまず見たことがない。

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山門を入ってすぐ、右に首を振ると一般的な庚申塔の数倍の大きさの立派な庚申塔が3基並んでいる。手前の黒御影石の説明石柱はごく最近のもの。庚申信仰が天台宗のもののように書かれているが、あくまでも民間信仰なので違和感がある。一番右の板碑型庚申塔は造立が寛文8年(1667)の三猿のみのもの。

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真ん中の笠付は貞享元年(1684)の造立。もっとも大きな左側の庚申塔は、寛文7年(1667)とある。あまりの状態の良さにつくづく驚くとともにどうすればこんな状態にできるのかを知りたくなった。

ちなみに庚申塔の脇には高い石塔があり、「行人坂敷石造道供養碑」とある。高さは164㎝、行人坂を利用する念仏行者たちが悪路に苦しむ人々のために目黒不動や浅草観音に参詣し、人々から報謝を受け、これを資金として行人坂に敷石の道を造り、安全な道にしたという碑文が記されている。行者の代表は西運である。

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2019年4月12日 (金)

大円寺(目黒区下目黒)

目黒の行人坂にある大円寺については、これまで行人坂の項目や目黒川架橋供養製紙菩薩石像の項目でも書いたが、ここでは大円寺そのものについてというテーマでまとめてみたい。 行人坂は数ある東京の坂道の中でも代表格の坂だろう。 江戸時代は目黒不動への参詣道として江戸庶民ならだれもが知る坂道だった。

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天台宗松林山大円寺の由緒は、江戸の初期、元和年間(1615~1624)に山形湯殿山の行人、大海法印が建てた道場としての大日如来堂に始まると伝えられる。境内に入ると、真ん中の本堂を挟んで、右手に阿弥陀堂、左手に釈迦堂と3棟が並ぶ。右の阿弥陀堂には、弥陀三尊が祭られ、お七地蔵の木像も安置されているそうである。本堂は大黒天を祭り、山手七福神の一つとされている。釈迦堂には重要文化財である寺の本尊釈迦如来像が安置され年に数回のみ御開帳となる。

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境内で目立つのは向かって左手の崖の斜面一面に並ぶ五百羅漢の石像であろう。目の前に圧倒する五百羅漢はそれぞれに表情が異なり、いつまで見ていても飽きることがない。520体ほどあるというこの石仏は、行人坂火事の犠牲者の供養のために石工により50年をかけて造られたと伝えられている。江戸の街は焼けることを前提に造られた街だった。 それでもここで出火した火事が神田から千住までを焼き尽くすとは恐ろしいことである。昨今、磯田道史氏らの活躍で災害の歴史から学ぶ姿勢が進んでいるが、高層ビル化が進んでも意外と災害には脆いのではないかと思う。過去から学ぶ姿勢を忘れてはならないだろう。

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五百羅漢の手前に面白い地蔵がある。とろけ地蔵という。江戸時代品川沖で漁師の網にかかって出現された地蔵尊で、庶民の悩みを解消してくれるご利益があるという。この手の地蔵はしばしば幽霊地蔵として祀られることが多いが、ここでは見た目のままを表現した呼び名になっているのが面白い。脇には摩尼車(まにぐるま)という念仏車のピカピカの新品がある。1回回すとお経を一遍読んだのと同じご利益があるとされているが、これだけ新しいと疑問を感じるから不思議である。

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前述の寺の本尊である釈迦如来像だが、「旧国宝」の重要文化財となっていた。どう見ても格下げにあったように思えてしまうが、それについての説明は見当たらない。この本尊は、建久4年(1193)に造られた寄木造りの釈迦如来像で重文指定は昭和32年となっているから、国宝は戦前の話であろうか。

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2019年4月11日 (木)

目黒川架橋勢至菩薩石像(目黒区下目黒)

行人坂を下ったところにある目黒川に架かる橋は太鼓橋というが、現在は何の味気もない普通の橋。 しかし江戸時代は魅力的なアーチ石橋で、これを渡って人々は目黒不動参りに行った。「太鼓橋」というテーマで過去に記載した通りである。 太鼓橋に下る行人坂の途中に江戸三大火事の行人坂火事の火元である大円寺がある。

この火事は別名明和の大火とも呼ばれ、明和9年2月29日に放火により大円寺から出火した火事は、南西からの風にあおられ、麻布・京橋・日本橋を襲い、武家屋敷を焼き尽くし、神田・千住まで広がった。死者は14,700人、行方不明は4,000人を超えた災害だった。被害規模としては明暦の大火に次ぐ大火事である。

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大円寺の坂上(実際は大円寺の敷地らしい)に勢至堂がある。中には目黒川架橋勢至菩薩石造が祀られている。造立年は宝永元年(1704)で、菩薩像自体は52㎝程の高さだが蓮座、台座を含めると169㎝になる。なかなか立派なお堂で、後ろの壁の上部には板書きが掲げられている。板書きには勢至堂菩薩の延喜が延々と書かれている。

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台座にも同様の延喜が彫られている。要約すると、大円寺の名僧西運が目黒川に橋を架けるのに、目黒不動と浅草観音に毎日参詣し、その途中で人々の施しを受け、これを基に目黒川の両岸に石壁を造り、アーチ式の太鼓橋(石橋)を架けたとある。時代を遡った天和年間に火事の避難先の本郷駒込の円林寺で寺の若僧の吉三に恋をした八百屋お七が、避難から帰宅したのちも彼を忘れられず、火事になればまた会えると放火をして捕まり、市中引き回しの上鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑に処せられてしまった。

この話は様々な方面で取り上げられ、中でも井原西鶴の『好色五人女』や数々の歌舞伎のお七シリーズが有名である。この吉三はお七の菩提を弔うために念仏を唱えながら諸国巡礼し、江戸にもどってからは目黒川の架橋を祈願して念仏行を続けたという。お七の事件は1670年代で、行人坂火事は1772年だから100年も時代が違うが、火事繋がりで江戸っ子にはウケたのだろう。

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堂宇の外にも新しめの石像が立っている(何の像かわからない)。菩薩とは、悟りの段階の高さで「天部」「明王」「菩薩」「如来」と上がっていく三番目の仏の姿である。菩薩のひとつである勢至菩薩は、阿弥陀如来の脇侍として観音菩薩と対になるように控える菩薩。菩薩にはいろんな種類があるが、例えば文殊菩薩は智慧、虚空蔵菩薩は記憶力など。 勢至菩薩は強い智慧で無知な衆生が地獄道・餓鬼道・畜生道に落ちないように救う役割を果たすものと信じられている。

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2019年4月10日 (水)

茶沢通り村田屋横の庚申堂(世田谷区北沢)

小田急線が地上を走っている時代は開かずの踏切で使い物にならなかった茶沢通りが、小田急地下化に伴って抜け道になり、多くのタクシーや営業車が走るようになって久しい。スズナリ横丁の先の交番前の踏切(跡)を過ぎると茶沢通りがなぜかクランクしており、その真正面に「傘履物 村田屋」という看板の商店と庚申堂がある。1980年頃この庚申堂の裏手の一角に私は住んでいた。だからとても懐かしいのだが、当時村田屋は下駄屋として営業していたが、最近は開いているのを見たことがない。とうの昔に廃業してしまって看板だけが残っているのだろう。

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ならびにある庚申堂も昔のままである。このクランクは不思議だが、江戸時代古地図でもクランクになっている。 おそらくは江戸時代からここには庚申堂があったのだろう。30mほど東側には森厳寺川が流れていた。高度成長期までは開渠だったが、東京五輪前後に暗渠化された。それ以前はこの庚申堂より東側は湿地帯で、大正期までは田んぼでもあった。森厳寺川の東側は下山谷という小字、西側はなぜか薩摩という小字だった。江戸時代から明治にかけての呼び名だが、慶長11年(1606)から元禄7年(1694)まで薩摩藩の抱屋敷がここにあったという記録がある。ここから南は現在は下北沢駅を中心とする大密集繁華街だが、数日前に書いた南口商店街出口の北沢庚申堂までは江戸時代初期には全く民家がなかったというから信じられない。

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堂宇には3体の庚申塔が祀られている。向かって左の角柱型の庚申塔は延宝5年(1677)のもの。シンプルだが青面と両横に猿が彫られている。右側の庚申塔は上部が欠損してしまっている。青面金剛像に三猿のオーソドックスなものだが、元禄5年(1692)とこれも古い。

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真ん中の庚申塔は不思議で、裏面に掘られたのは明治32年(1899)とずっと時代が先になる。板状駒型の庚申塔である。しかし正面に刻まれているのは元禄5年(1692)なのでどちらが正しいのかは不明だが、おそらくは修繕されたのが明治でオリジナルは元禄なのだろうと思う。これら3基とも江戸時代初期に薩摩藩抱屋敷のあった時代のものということで、300年を遥かに超えた時代を教えてくれているようだ。

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この庚申堂の裏の村田屋の増床部分がまた何とも昭和っぽくてうれしくなる。下見板張りの外壁は素晴らしい技術だと思う。気温差の少ない潮風の吹く島の民家などは塩の影響が少ない為か多いように思う。デザイン的には令和の時代にもむしろノスタルジック・モダン的に支持されるのではないかと思う。さて、いつまでこの景色がみられるでしょうかねえ。

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2019年4月 9日 (火)

大原一丁目の地蔵と庚申塔(世田谷区大原)

環七を挟んで西側の羽根木と相対するのが大原、その南が代田。東松原駅前から環七の羽根木交差点を抜け笹塚に至る道は、地元では羽根木道あるいは代々木道といわれた古くからの街道で鎌倉道中ノ道と言われる。羽根木から来て環七を渡ると大原だが、すぐ南は代田で、大原と代田の町境にあたる道に地蔵と庚申塔が並んで堂宇に収まっている。細街路だが、どの道も明治初期からある古道。その三角辻にある。

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この辺りに家が立ち並び始めたのは関東大震災以降のことである。それ以前は畑地で、北沢川の支流の谷の谷頭にあたる場所だった。湧水もあったようで、地蔵の場所の標高が41mほど、その下の40m以下のエリアには水田もあった。この沢は流下すると、京王井の頭線新代田駅の東側を抜け、下北沢南口商店街の南出口辺りで北から流れてきた森厳寺川と合流し、代沢小学校のところで北沢川に注いでいた。そんな谷頭にあるのは、ここで昔から農業が営まれていたからであろう。

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向かって左手は青面金剛像と三猿の庚申塔。元禄6年(1693)の造立である。右手の地蔵立像も同じく元禄6年(1693)の銘が彫られている。こういう農村由来の野仏は過去の記録がなく、いろいろなことを想像して楽しむしかない。参考になるのは古い地図と、東京なら1m単位で標高のわかる地形図、明治後期以降だがどこに水田があり、どこが畑で、どこが林だったかが克明詳細に判り、当時の風景を想起するのに役立つ。

 

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2019年4月 8日 (月)

羽根木の子育地蔵尊(世田谷区羽根木)

羽根木は京王井の頭線・京王線・環状七号線に囲まれた地域の住居表示だが、戦前は小田急線梅ヶ丘駅の北側まで羽根木町であった。 梅丘というのは新しい地名で、小田急線の梅ヶ丘駅ができてから付けられたものである。なので、羽根木公園の住所が梅丘なのに何故羽根木公園なのかという疑問に対しては、昭和に入ってから地名が羽根木から梅丘に代わったためだと言えるのである。

ちなみに梅ヶ丘駅に対する地名の梅丘という違いについては理由が不明である。梅丘の地名の由来については、小田急の社史によると、世田谷代田(昔の名前は世田谷中原)と豪徳寺の間の新駅である梅ヶ丘駅が出来た時に駅名を考えた。その中で辺りはもともと北沢窪という地名で、かつて一基の古墳があり、梅ヶ丘は埋ヶ丘に因む命名とする説と、この地の大地主(相原家)に梅の古木があり、家紋も梅を模ったものだったことに由来するという説があった。大地主宅を訪れていた関係者が相原家の家紋を見て、これに因んで梅ヶ丘というのはどうかと同意、小田急に提案して採用されたという話がある。

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梅ヶ丘駅から羽根木公園の西側を北上、松羽稲荷神社前を抜け、京王井の頭線東松原駅、環七羽根木交差点と繋がる曲がりくねった道が、鎌倉時代の鎌倉道中ノ道という古道である。その鎌倉道沿いの羽根木もまた古くからの地名で、言い伝えでは、昔から樹木が多く茂っていて、いろいろな鳥が飛んできて止まるので、鳥の羽根と合わせて羽根木になったと言われる。

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東松原駅から450mほど北上したところにきれいな囲みをされた地蔵堂と数基の庚申塔が祀られている。羽根木の子育地蔵と呼ばれている。地蔵の造立は、明和6年(1769)で羽根木村念仏講中とある。敷地の端に立て札があり、そこに地蔵の説明書きがある。しかし別説では享保18年(1733)という造立年も伝えられ、どちらかはよく分からない。

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この子育地蔵尊の謂れは、今から約300年前の享保年間(1716~1735)に遡る。永年に渡って天候が悪く、米、麦、粟などの穀物が不作で食べるものも少なく、その上疫病が流行して農民たちが苦しんでいた時のこと、ある夜、地蔵菩薩が一人の老人の夢枕に立って言った。「私を石橋のほとりに祀りなさい。そうすれば困ることのないようにしてあげよう。」というお告げであった。その後もお告げは毎夜続いた。

当時この石橋の近くには宇田川家があって、その裏の杉林辺りからは清水が湧き出し、松原方面へ流れていた。老人はさっそく村人と話し合い、当時沼地で葦が生繁っていた一里塚の傍に地蔵尊を祀った。村人が一生懸命にお参りを続けるうちに、天候も安定して豊作となり、疫病もなくなって安心して暮らせるようになった、と言い伝えられいる。

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地蔵堂の向かって左手には、3基の石仏があり、一番左の小さな馬頭観音は表面が欠損しているが、造立は明治31年(1896)のもの。地元の宇田川家が死んだ馬の供養のために建てたと言われる。残りの2基は庚申塔。真ん中の舟形光背型の庚申塔は寛文11年(1671)と彫られている。右の一番大きな舟形光背型の庚申塔は貞享4年(1687)の造立である。

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堂宇右手には笠付の庚申塔が2基並んでいる。ともに唐破風型笠付の庚申塔。 右側の庚申塔の造立は宝永3年(1706)、左側は天和元年(1681)である。羽根木村はよくこれらの庚申塔を守ってきたものだと感心するが、名家宇田川家の尽力も大きかったのだろう。梅ヶ丘駅の南側でも広い敷地のお屋敷で宇田川家を見かけた。世田谷の宇田川家は吉良氏の家臣が土着したものと思われる。

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