2024年2月26日 (月)

武蔵野八幡宮の石仏(武蔵野市吉祥寺東町)

武蔵野市の五日市街道にある武蔵野八幡宮はもともと水道橋にあった神社。明暦の大火で檀家衆が焼け出されて現在の吉祥寺に移ってきたのと同じように、水道橋付近から現在地に寛文年間(1661~1672)に移転してきた。それいらい吉祥寺村の鎮守として守られてきた神社である。

Cimg0398

水道橋での創建年は延暦8年(789)と伝えられ、奈良時代の末期(長岡京時代)と古い。鳥居の脇には巨樹が見上げる高さにそびえている。その手前、五日市街道から入った参道の左手に石仏石碑が祀られている。

Cimg0402

手前は2mほどもある井の頭弁財天への道標。「神田御上水井之頭辨財天」と記されており、造立年は天明5年(1785)3月。五日市街道から井の頭弁財天へ参詣する人々のために建てられた道標で、昔は八幡宮の対角に立っていたもの。大正時代に道路拡張工事のために井の頭通りと雉乗寺通りの交差する吉祥寺駅前交差点(当時は踏切)に移転。その後、昭和44年(1969)には江戸東京たてもの園にあった武蔵野郷土館に移され、平成20年(2008)に元あった傍の現在地に落ち着いた。

Cimg0404

道標の奥には覆屋があり、笠付角柱型の庚申塔が祀られている。かなり傷みが激しく、文字はほとんど読めない。中折れの跡もあるので戦火に見舞われたのだろうか。青面金剛像の脚がかろうじて見られるのと、その下に三猿の痕跡がある。文字が判別できないので造立年も不詳である。

場所  武蔵野市吉祥寺東町1丁目1-1

| | | コメント (0)

2024年2月24日 (土)

安養寺の石仏(武蔵野市吉祥寺東町)

吉祥寺には吉祥寺はない、というのは知られた話である。町名の元になった吉祥寺は本駒込にある曹洞宗の大きな寺院で、室町時代に太田道灌によって開かれた。武蔵野市の吉祥寺の地名は、明暦の大火(1657)に焼け出された門前町の町民が移転する土地として与えられた折に、吉祥寺の信心からその名を村名にしたことによる。

Cimg0383

安養寺は吉祥寺駅の北口を通る五日市街道に面した寺院で、吉祥寺駅からも近い。宗派は真言宗の寺院で、創建は江戸時代初期とされている。おそらく吉祥寺村が開墾されてからの開山だろう。

Cimg0384

参道を歩いていくと山門の手前に古い石仏石塔が並んでいる。一番手前は大きな念仏車。説明板の下にあるのは板碑型の石塔だがどうやらこれは墓石らしい。元禄7年(1694)5月に亡くなった女性を弔っている。その右は馬頭観音と思われるが、大きく剥離してしまっていて詳細は分からない。造立年は大正11年(1922)とあるのが何とかわかる。

Cimg0390

写真中央の板碑型の石仏が説明板に書かれている「甲辛供養塔」である。甲辛はおそらく庚申の間違い字だろう。ただ多摩エリアでも最も古い庚申塔のひとつで、寛文5年(1666)12月の造立。当時の代官野村彦大夫により吉祥寺新田の検地を受けた翌年のもの。右の駒型庚申塔は享保4年(1719)の造立で月の部分が中折れで読めない。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、「武刕多麻郡吉祥寺新田村」の銘がある。

Cimg0394

本堂の脇には丸彫の地蔵菩薩像が建っていた。寛保2年(1742)11月の造立で、「奉造立地蔵菩薩安楽処」とあり、「無理多磨郡吉祥寺村」の銘がある。境内にはもう1基の庚申塔、寛保元年(1741)造立があるはずだが、見落としてしまった。また吉祥寺に寄った折に探してみたい。

場所  武蔵野市吉祥寺東町1丁目1-21

| | | コメント (0)

2024年2月22日 (木)

西向庚申塔(府中市住吉町)

京王線中河原駅の北側にスーパーマーケットのライフがある。その北側の角に沿うように鳥居と堂宇があり、一見神社かと思うが実は庚申塔である。昔は、ライフの北側一帯が中河原の村落だった。真言宗の寺院法音寺の周りに村が広がっていた。

Cimg0376

立派な鳥居と玉垣があるが、立派な黒御影石の説明書きがあり、「庚申とは方位でいうと西南西を示し、お社の向きもこれに倣うものだが、中河原の庚申様は真西を向いており非常に珍しいが、なぜ西向なのかは不明」とある。江戸時代の庚申塔は様々な理由で今ではまちまちな向きになっていることが多い。ライフが建つ以前はどういう向きだったのかが興味深い。

Cimg0382

堂内には2基の庚申塔がある。左の角柱型庚申塔は青面に「庚申供養」とあり、台石には「三疋猿」と書かれている。造立年は文化元年(1804)2月とある。左側には「三組講中」とあるが意味は不詳。右は舟型光背型の庚申塔。造立年は正徳5年(1716)3月で、日月、青面金剛像、三猿の図柄。「同行11人」とある。これ以外にも慶応3年(1867)の燈籠の竿部が境内にあるらしいが見落とした。

場所  府中市住吉町1丁目84-1

| | | コメント (0)

2024年2月20日 (火)

下河原墓地の石仏⓶(府中市南町)

下河原共同墓地の石仏については数が多いので二つに分けさせていただいた。こちらは向かって右手の列に並ぶ石仏である。どうも傷みが激しく文字も確認しづらい為、府中市の資料に依るところが多くなる。

Cimg0373

右側が入口になる。一番右は顔が欠損した地蔵菩薩像だが詳細は不明。中央の背の高いのは駒型の庚申塔で一面ゼニゴケに覆われている。造立年は明治17年(1884)4月で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。左側に加藤治左ヱ門建之とある。左側の駒型の庚申塔は、日月、青面金剛像、二鶏、三猿が描かれており、造立年は享保10年(1725)3月。「講中17人」の文字がある。

Cimg0369

その先に並んでいたのは、舟型の地蔵菩薩だがこれは墓石のようだ。その隣は角柱型の庚申塔で「庚申塔」の文字の一部が見える。造立年は文化8年(1811)10月で、上部がかなり欠損している。左隣の石仏もほぼ破損と摩滅で不詳。一番左は寛保2年(1742)4月の紀年が見られるが墓石らしい。

現在は墓地の南に幼稚園があり、その向こうにバス通りが通るが、昔はこの墓地の前の道が主要道で、中川原から多摩川河畔の分倍河原古戦場に沿って、東は今は郷土の森になっている芝間に繋がっていた。

場所  府中市南町3丁目51-4

| | | コメント (0)

2024年2月18日 (日)

下河原墓地の石仏①(府中市南町)

府中市南町を西に歩く。ふるさと通りにある大きな幼稚園の裏手に回り込むと、水路跡があり、その傍に下河原共同墓地がある。どうも寺に属さない民間墓地のようだ。この地域は多摩川河畔に広がる農地の一画で、このすぐ南の多摩川の河原が分倍河原の古戦場である。鎌倉時代後期、新田義貞が幕府軍を追い詰めて南下、ここで北条氏を打ち負かし一気に鎌倉幕府陥落に進んだ。

Cimg0354

墓地の真ん中に地蔵堂があるが新しい地蔵が祀られている。ところがその手前に、沢山の庚申塔が左右にずらりと並んでいるのである。今回は向かって左列のもの。一番手前は大きな笠付角柱型の庚申塔。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、享保13年(1728)正月の造立。かなり摩滅しているがもしかしたら鬼はあったかもしれない。三猿は埋まっている。資料では「奉造立申供養為二世安楽也 下河原村」とあるようだ。右隣りの石仏は窪みに尊像があったと思われるが欠損していた。

Cimg0355_20240215213701

その隣には上部に地蔵半跏像が彫られた大乗妙典六十六部供養塔。「奉供養大乗妙典六十六部」とあり、「勢州田丸領勢子村」とある。勢州とは伊勢のこと。伊勢の西に田丸城址がある。右にあるのは舟型光背型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、宝暦4年(1754)2月の造立年がある。

Cimg0356

更に奥に進むと、上の写真の左の石仏は駒型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており。造立年は享保11年(1726)3月とある。加藤家中心の願主名。中央のゼニゴケの少な目だが上部欠損の舟型光背型の庚申塔は文字が赤く塗られている。造立年は正徳6年(1716)3月で、日月、青面金剛像、三猿の図柄。右端は寛延2年(1749)3月造立の舟型光背型の庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており。資料によると「武州多摩郡下河原村 庚申講中・・所願成就」の文字があるようだ。

場所  府中市南町3丁目51-14

| | | コメント (0)

2024年2月16日 (金)

加藤家供養塔(府中市南町)

府中市南町を歩いている時、下河原通りのとある万年塀の脇に石塔があるのを見つけた。個人宅の敷地だが、舗道から何も遮るものもないので、御参りさせていただいた。

20240214

奥に回って文字を読んでみると、「百番観世音菩薩、四国八十八ヶ所 供養」とあり、造立年は文政10年(1827)8月とある。施主は加藤嘉左エ門である。観音霊場巡礼供養は近畿三十三ヶ寺を巡るのが平安時代末期に主流になり、続いて西國三十三ヶ所、鎌倉中期になると坂東三十三ヶ所、そして室町時代には秩父三十三ヶ所の札所が成立した。秩父は後に一ヶ寺加えて三十四ヶ所となったので、三十三ヶ所ふたつと秩父を合わせるとちょうど百ヶ所になるという訳である。

場所  府中市南町4丁目7-3

| | | コメント (0)

2024年2月14日 (水)

芝間稲荷の庚申塔(府中市南町)

郷土の森のある府中市南町5丁目、6丁目あたりは昔は芝間と呼ばれた地域だった。西側の4丁目は下河原という地域。こういう古い地名が消えて〇丁目となっていくのは残念でならない。

Cimg0340

芝間稲荷神社の創建は不詳。この辺りの村々は多摩川の洪水があると近くの別の場所に移転するという歴史を辿っている。洪水と共に歴史の記録も消えた可能性が高い。この稲荷神社の一画に庚申塔がある。

Cimg0346

左の舟型の庚申塔は日月、青面金剛像の図柄で、下部や基壇に三猿を探すも見当たらない。造立年は文化7年(1810)11月とある。「芝間講中」による建之。右の駒型の庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿と多く描かれているが、造立年が分らない。どちらの願主名にも、林姓、小林姓が多い。

場所  府中市南町6丁目46-1

| | | コメント (0)

2024年2月12日 (月)

府中郷土の森の石仏(2)

郷土の森にある石仏の後半。まずは前述の庚申塔の裏手にある、まいまいず井戸を訪ねた。まいまいず井戸と呼ばれるのはここだけではなく、武蔵野台地に多く掘られた井戸の一種である。直径数mから数十mの大きな穴を掘削し、火山の河口のようにする。窪地の底が出来てそれからようやく井戸を掘るのである。

Cimg0308

井戸に下りる道は渦巻き状に造られているので、かたつむり=まいまいということでまいまいず井戸である。武蔵野は広義には多摩川と荒川の複合扇状地で、台地の標高よりも数m~十数m低いところに地下水脈が流れている。昔の武蔵野に暮らす人々はこの地下水脈を掘り当てて生活用水にしていたのである。

Cimg0315

まいまいず井戸を出て南に向かうと人工河川がある。小川だが古の雰囲気を再現している。流れを越えて少し上るとその先には樹木園が広がっている。その入口の角に笠付角柱型の庚申塔が立っている。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、正徳3年(1713)11月の造立。「奉造立庚申宝塔武州多麻郡府中領之内人見村同行25人」とある。元は若松4丁目にあったらしく、多摩墓地の南、人見街道沿いだろう。

Cimg0325

萩のトンネルを潜るとその先には旧越智家住宅が移築されている。ハケ(崖線)の下にあった農家で、武蔵野の屋敷森の雰囲気を残してくれている。越智家住宅の前には古い舟型光背型の地蔵尊がある。造立年は寛文10年(1670)と月古いもの。元は府中競馬場前駅近くの普門寺にあったらしい。「尊容一躯二世安楽所施主部首府中新宿念仏講中34人」という文字があるようだがかなり薄れている。

Cimg0320

その先の田んぼの手前にあったのが写真の石橋供養塔。但し下部に三猿が陽刻されている。造立年は享保19年(1734)3月で、「供養石橋」の文字の脇に「武州多摩郡下染屋村」の銘がある。この供養塔は、旧下染屋の水田のあぜ道の小石橋脇にあったらしい。

Cimg0334

石橋供養塔の前の田んぼの脇にあったこの道標は大正12年(1923)建立の道標。元の場所は押立5丁目とある。調布市との市境の近くである。博物館がリニューアルオープンしたら再訪したい。

場所  府中市南町6丁目59

| | | コメント (0)

2024年2月10日 (土)

府中郷土の森の石仏(1)

府中市は関東の「府」の中心として遥かな昔から武蔵の中心であった。律令時代から武蔵国の国府が置かれていた土地で、江戸が中心になったのは遥か後の時代、江戸時代に入って徳川家康が入府してからである。多摩川に近い府中市の南部に郷土の森という施設があり、その中心は郷土の森博物館。ただし2024年は5月末まで改修の為休館となっている。

Cimg0336

旧府中町役場の角で西に折れ、次の郵便局の建物を左に曲がると、裏手にポストがあり、その向かいに馬頭観音が立っている。三面の馬頭観世音座像が正面に描かれており、後ろには嘉永3年(1850)11月の造立年がある。基壇の世話人の文字の下には多くの願主名が刻まれている。元は府中町2丁目の小金井街道の辻にあったらしい。

Cimg0302_20240207201601

少しだけ南に進むと、左の梅の木の下に舟型光背型の庚申塔が立っていた。日月と三猿だけの庚申塔で、天和元年(1681)11月の造立と古いもの。正面には「奉建立右意趣者庚申待為供養」とあり、「武州車返村」の銘がある。この舟型庚申塔は元は白糸台5丁目の八幡神社にあったらしい。

Cimg0307

まいまいず井戸の手前にあったのがこの3基の庚申塔。左の駒型の庚申塔は日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。造立年は享保9年(1724)11月。「奉造立青面 播主武州多摩郡中車返村」の銘があり「金剛為二世安楽也」の文字がある。中央も駒型庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれている。造立年は元文4年(1739)11月で、「奉造立青面金剛為現当両益成」「武州多摩郡車返村講中」とある。右の小さい庚申塔も駒型で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。造立年は元文3年(1738)11月。「青面金剛為二世安楽」の文字と、武州多摩郡車返村講中の文字は隣りと同じ。この3基の庚申塔も白糸台5丁目の八幡神社にあったもののようだ。

場所  府中市南町6丁目49

| | | コメント (0)

2024年2月 8日 (木)

井口八幡入口の庚申塔(三鷹市井口)

都道の新武蔵境通りは随分と広くてきれいな幹線道路になった。歩道も広く、自転車との住み分けが出来ている。この南北を貫く街道はもともと江戸時代からあった街道である。江戸時代に開墾された井口の鎮守である井口八幡があり、その入口のビル前に堂宇がある。

Cimg0295

井口八幡神社は井口新田開発に伴って元文元年(1736)に創建された。入口の堂宇の中には駒型の庚申塔が祀られている。こうして個人の信心によって守られている石仏は特に魅力がある。

Cimg0297

駒形の庚申塔は日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、この辺りでは珍しく左手にはショケラを下げている。「上連雀井口新田施主講中」の文字があり、石質に難がありそうなのにしっかりと守られてきた感じがする。

場所  三鷹市井口1丁目10-7

| | | コメント (0)

2024年2月 6日 (火)

井口院の石仏(三鷹市上連雀)

連雀通りの神明社の脇の参道を進むと井口院に入る。真言宗の寺院で、中野宝泉寺の末寺。連雀周辺を開拓した石神井村の井口八郎左衛門春重が宝泉寺の和尚を迎えて寛永12年(1672)に開山した。

Cimg0282記事一覧

山門をくぐると正面に本堂があるが、その手前に弥勒菩薩坐像が祀られている。この弥勒菩薩は文政11年(1828)3月の建立で、下連雀村、上連雀村、野崎村、深大寺新田、井口新田の人々が、雨乞いの為に建てたものである。

Cimg0284_20240203134801

山門をくぐってすぐ、左側に地蔵堂がある。中には沢山の地蔵菩薩が祀られている。中央の大きな丸彫の地蔵菩薩は享保6年(1721)9月造立。基壇は見えなかったが資料によると、「再建施主念仏講中、武刕多摩郡蓮雀前新田村念佛講中、奉供養為二世安楽」とあるらしい。六地蔵は明治5年(1872)~明治6年(1873)の造立で、「上蓮雀村元井口新田」の銘がある。

Cimg0285

六地蔵の左手前には2基の地蔵菩薩があるが、手前の地蔵菩薩は子育地蔵尊で、昭和12年(1937)秋彼岸の造立。「子相田鉄五郎氏在世中百万遍ノ念仏称名發履‥」とある。この地蔵は昭和6年に往生した妻を想って建立したものらしい。右の地蔵は詳細不明。

Cimg0287_20240203134801

向かって右手前にも2基の地蔵がある。左の大きい方は新しいもので幼児を抱いている。昭和52年(1977)6月の建之で、「追福供養」とあり2名の戒名がある。右の地蔵は詳細不詳。

Cimg0289

地蔵堂の左側には複数の馬頭観音が祀られていた。左端の新しい三面八臂の馬頭観世音菩薩は詳細が分からない。その右にある1mほどの自然石平板の石碑も馬頭観音で、こちらは大正10年(1921)11月の造立。馬名は敷島、そして朝日という名がある。施主は加藤長次郎。

Cimg0293

右奥の2基も馬頭観音。左の隅丸角柱型の文字塔「馬頭観世音」は大正3年(1914)7月のもので施主名は齋藤由五郎とある。右の角柱型の馬頭観音は明治8年(1875)3月の建立。上連雀村井口新田の銘がある。明治初期の地図を見ると、当然井口院も神明社もあるが、連雀通りには民家が並び、その後背は畑地が広がっていた。とれた農産物を牛馬で都心に運んでいたのだろう。

場所  三鷹市上連雀7丁目26-26

| | | コメント (0)

2024年2月 4日 (日)

神明社の庚申塔(三鷹市上連雀)

三鷹市の中央部を東西に走る連雀通り、新しく開通した武蔵境通りとの塚交差点の少し東に上連雀神明社がある。練馬区関町の井口家の分家である井口権三郎という人物がこの辺りを開墾し連雀新田を開いた。そして村の鎮守として寛文12年(1672)に創建したのが上連雀神明社である。

Cimg0275_20240201204601

比較的新しい神社ではあるが、それでも350年は経っている。祭神は天照大神だが、隣の井口院が別当寺となっている。どちらも同時期に創建している。江戸時代は上連雀村という村名だったが、明治時代は塚交差点の辺りは二ツ塚、その西側が井口という地名だったようだ。神社の前の連雀通りに面して堂宇がある。

Cimg0278

堂宇の中には2基の庚申塔が祀られている。右の小さい方は舟型の庚申塔で摩滅と欠損がある。日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄で、造立年は宝永3年(1706)11月。かすかに「武刕多摩郡・・」「為現当二世安楽也」の文字が見える。左の大きい方は笠付角柱型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。頭上に蛇を載せる。「奉供養庚申待 為現当二世安楽也」とある。「武刕多摩郡上連雀村」の銘があり、多数の願主名がある。

場所  三鷹市上連雀7丁目26-24

| | | コメント (0)

2024年2月 2日 (金)

コープ脇の庚申塔(三鷹市下連雀)

連雀通りを西へ進む。通りの北側に黄檗宗(おうばくしゅう)禅林寺がある。江戸時代に始まった宗派で、この寺には森鴎外や太宰治の墓所がある。門前は禅林寺前という交差点。禅林寺の向かいにはコープとうきょう下連雀店があり、この一角に庚申塔がある。

Cimg0273

防空壕のような頑丈な堂宇に祀られているのは舟型の庚申塔である。青面金剛、三猿が見てとれるが、文字は摩滅していて読み取れない。かろうじて「庚申供養」の文字と「11月」という文字が見える。造立年は不詳。

Cimg0272

少し西に南北に走る三鷹通りがあるが、昔はこの庚申塔の脇で禅林寺の山門を見て西に曲がり、すぐに北に折れるのが道筋であった。道筋が変えられたのは昭和の後期である。

場所  三鷹市下連雀7丁目16-22

| | | コメント (0)

2024年1月31日 (水)

連雀通りの地蔵(三鷹市下連雀)

都道134号線通称連雀通りは古い道。江戸時代からの街道筋で、玉川上水の北には五日市街道、南に連雀通り、さらに南には人見街道が東西を結んでいた。下連雀は東側、上連雀が西側になる。明暦の大火で江戸の街を出た神田連雀町の商人たちがお鷹場の原野を開墾して定住したのが村の始まり。江戸時代の名付パターンで京都に近い方を上、遠い方を下とした。

Cimg0270

連雀通りに面した角に覆屋があり、2基の地蔵が祀られている。交差する南北の道も昔からの道で、この辻あたりは昔は通筋と呼ばれた。堂宇の中の地蔵菩薩はどちらも丸彫の地蔵である。

Cimg0265

左の地蔵は享保15年(1730)11月の造立でかなり傷んでいる。基壇の文字は「日本廻国六十六部」とあり、「武刕多摩郡下連雀村」の銘がある。右の地蔵は享保15年(1730)10月のものを、昭和13年(1938)11月に再建したものである。こちらも「日本廻国六十六部 下連雀村」と刻まれている。

場所  三鷹市下連雀7丁目6-32

| | | コメント (0)

2024年1月29日 (月)

童心居の庚申塔(武蔵野市御殿山)

井の頭自然文化園は1905年に渋沢栄一が御料地の一画を皇室から拝借して、非行少年を収容する養育院感化部(後の井の頭学校)を創設した地。第二次世界大戦直前に井の頭学校が移設されると小動物中心の小規模な動物園として開園。昭和17年の事である。そして『七つの子』『赤い靴』『青い眼の人形』『シャボン玉』などなど多くの童謡を捜索した野口雨情が大正時代に吉祥寺に住んでいた時の居宅を昭和33年(1958)に公園に移設したのがこの「童心居」である。

Cimg0260

その童心居の脇にある竹垣のふもとに自然石の庚申塔が祀られている。灌木に紛れて見失いがちだが、面白い形の庚申塔である。

Cimg0262

面には大きく「庚申」とあるが土中に「塔」の文字があるかもしれない。裏面には寛政12年(1800)の造立年が刻まれている。ここに入るには400円の入園料が必要だが、私はおじいさんなので半額の200円であった。

場所  武蔵野市御殿山1丁目17-6

| | | コメント (0)

2024年1月27日 (土)

井の頭辻の地蔵(三鷹市井の頭)

井の頭弁財天の本堂である大盛寺の南の辻の覆屋に丸彫の地蔵菩薩が祀られている。井の頭弁財天から階段を上って南西に向かう道と井の頭自然文化園から南東に延びる井の頭公園通りが出合う辻である。写真は側道だが、井の頭公園通りも通り名が付いているが車がすれ違うのも大変な狭い道。

Cimg0254_20240125204701

堂宇の中にある地蔵は高めの基壇に載っている。正面には「三界万霊有無両縁蠢動含識菩提也」とあり、右には「導師大盛寺賢者法印春芳堂」とあり、左面には「念仏講中男女▢▢」の文字がある。

Cimg0255

地蔵菩薩の造立年は明和4年(1767)10月である。今は細い道だが、江戸時代は井の頭弁財天から牟礼を通り、甲州街道の烏山に繋がる街道であった。井の頭恩賜公園はその名の通り東京都(当時は東京市)が大正2年(1913)に皇室から下賜した公園で、大正6年(1917)に開園している。

場所  三鷹市井の頭4丁目25-6

| | | コメント (0)

2024年1月25日 (木)

井の頭弁財天の石仏(三鷹市井の頭)

井の頭公園の池の西の端にあるのが井の頭弁財天。天慶年間(938~946)に関東源氏の源経基がここに弁財天を安置したのが始まりとされる。弁財天の周辺では関東ローム層上を流れてきた地下水が湧き出すようすを見ることもできる。この水が井の頭池の池尻から神田川となって両国橋で隅田川に出合う。

Cimg0243

手前の石橋(太鼓橋)も古いもので、文化10年(1817)5月に造られた。多少の補修はされて来たのだろうが、200年余り経ってもしっかりしているのは江戸時代の建築土木の技術と言えそうである。石橋で境内に及ぶように、弁財天は池の中の島にある。

Cimg0248

弁財天脇にある七井不動尊の太刀持ち露払いの位置にある石仏のひとつが、この角柱型の庚申塔。正面に「庚申」とあるだけで造立年等は分からない。

Cimg0249

左脇にあるのは舟型光背型の弁財天である。造立年は延宝4年(1676)正月とある。七井不動尊は堂宇の中らしいが、この七井の意味は井戸が七つということ。それだけあちらこちらから水が湧き出しているということである。弁財天はすぐ傍の崖上にある大盛寺(天台宗)の管轄だが、この弁財天が江戸時代から江戸市民の信仰の対象になっていたので、江戸時代以降が隆盛だったのだろう。

Cimg0250

七井不動尊の裏手には3基の地蔵菩薩が並んでいる。右の地蔵は新しいもので、昭和53年(1978)10月建之とある。中央の地蔵菩薩は造立年不詳。左の地蔵尊も造立年は不詳である。ただ左の地蔵については、公園内から掘り出されたものを安置したようだ。

Cimg0251

弁財天横には宇賀神像が祀られている。おそらく正式には「人頭蛇体蓮葉上丸彫像」というのだろう。明和4年(1767)9月の造立で、台石には凄い人数の願主名が刻まれている。江戸町内の多数の商人が寄進をして建てたものなのだろう。この名前を見ても井の頭弁財天が江戸市民の深い信仰にあったことが分かる。

場所  三鷹市井の頭4丁目1

| | | コメント (0)

2024年1月23日 (火)

鎌倉街道の庚申塔(府中市本町)

府中本町駅の西側、鎌倉街道であったとされる都道18号線の三小前の南西角に自然石の庚申塔がある。この場所は興味深い場所で、20m東に南北に通る下河原緑道はかつての鉄道軌道下河原貨物線が走っていた筋。多摩川の砂利を運搬していた東京砂利鉄道の廃線跡である。敷設の10年後(1920)には鉄道省が買収し国鉄となった。しかし武蔵野線が開通したことで1976年に廃線となった。

Cimg0235

広い歩道の一画に植込みがあり、その橋に自然石の庚申塔がある。正面には「庚申塔」の文字。裏には文政5年(1822)11月吉日講中とある。下部には本町の願主名があり、善明寺の中興の五十嵐姓や大久保姓、夏目姓がある。

Cimg0234

この庚申塔はもとは本町三叉路角にあったというから、現在で言うと府中街道の大國魂神社西の五差路あたりだろうか。今は本町商店会の道が繋がっている。100年余り前はこの辺りは東西に用水路が伸び、田んぼが広がる下河原と呼ばれた農地だった。

場所  府中市本町3丁目3-1

| | | コメント (0)

2024年1月21日 (日)

善明寺の石仏(府中市本町)

南武線と武蔵野線が連絡するJR府中本町駅。鉄道開通以前は南北に府中街道(川崎街道)が通り、東西は古甲州街道(江戸時代初期以前)が通る交通の要衝であったのは同じである。古甲州街道は江戸時代になると大國魂神社の入口を東西に走る旧甲州街道に取って代わっていった。この辺りが中心部であったことは現在も残る府中市役所前の高札場跡から知ることができる。

Cimg0222

善明寺は高札場跡から200mほど南西にある天台宗の寺院。創建年代は不詳だが、かつては大寺だったようだ。山門はちょうど河岸段丘の崖上にあり、眺望はすこぶる良い。現在は比較的こじんまりとした寺院だが、境内はきれいに整備されていて、門前の清水下小路は南武線の線路を見下ろす気持ちのいい散歩道になっている。

Cimg0224_20240120085301

山門をくぐって右手には大きな石仏石塔がある。左の題目塔(名号塔)は慶応2年(1866)2月のもので、正面には面白い字体で「南無阿弥陀仏」とあり、台石には「郷中安全」と刻まれている。右は笠付角柱型の庚申塔。造立年は摩滅して見えないが9月という文字が見える。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、以前は山門の外にあったものを移したらしい。

Cimg0227

更にその奥にあったのが、自然石で造られた馬頭観世音塔。文政11年(1828)9月の造立で、「南無馬頭観音大士」の文字。「本町篤信講中」の文字もある。交通の要衝に位置しているので、馬頭観音は自然な感じ。この馬頭観音ももとは西側の土手上にあったという。

Cimg0229

山門から入って左手にあるのが3基の地蔵菩薩。ひときわ背の高い地蔵半跏像は慶応3年(1867)10月の造立。三界万霊塔でもある。本町の願主名が刻まれ、染屋村の石工によるものらしい。左端の舟型地蔵は摩滅が進んで文字が読めない。中央の舟型光背型の地蔵は墓石、元禄8年(1695)正月の紀年が入っている。

場所  府中市本町1丁目5-4

| | | コメント (0)

2024年1月19日 (金)

妙光院の庚申塔(府中市本町)

府中街道に山門がある、安養寺の北側に隣接する妙光院は真言宗の寺院。境内墓地の北側は崖になっており、階段を上ると金毘羅堂。妙光院の境外仏堂らしい。この階段が金毘羅坂と呼ばれている名のある坂道。

Cimg0533

金毘羅堂もかなり古そうな感じだが、このハケ(崖)の上下に境内が広がるのは珍しい。妙光院の創建は古く、平安時代初期の平城天皇の第三皇子である真如法親王によって貞観元年(859)に開山した。京都仁和寺の末寺である。

Cimg0212

府中街道に面した山門は新しくきれいなもの。地形的に興味深いのは山門の南側に水路があるのだが、これは昔からある多摩川の支流。流程を見ているとどうも古い時代の用水路のようである。矢崎村は河岸段丘下の低地の一面田んぼが広がる中にあった村で、この辺りは用水路が張り巡らされていたのだろう。山門から本堂までまっすぐに参道が伸びているが、その途中右手に大きな無縁仏塔群がある。十一面観音がおそらく主尊だろう。その左後ろに、唐破風笠付角柱型の庚申塔がある。

Cimg0215_20240115101801

大きな笠を載せた庚申塔だが、造立年は宝暦5年(1755)5月とある。前面には、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており、府中本町矢崎の銘がある。ちょうどこの辺りが江戸時代の矢崎村である。施主かいゑんとあるがこれは僧侶名だろうか。

場所  府中市本町1丁目16-13

| | | コメント (0)

2024年1月17日 (水)

安養寺の石仏(府中市本町)

東京競馬場の北東にある天台宗寺院の安養寺。川越の喜多院と同じく慈覚大師(794~864)が開山し、永仁4年(1296)に再興したと伝えられる。相当な古刹である。山門は西側、東側は駐車場の入口になっている。

Cimg0205_20240113160101

西の山門から参詣するのが正式なのだが、都合で東の駐車場側からお詣りした。東の入口には複数の石仏が並んでいる。

Cimg0194

手前(左)にあるのは笠付角柱型の庚申塔。日月、青面金剛像、二鶏、三猿が描かれており、元禄10年(1697)10月の造立とある。右側面には「武州多摩郡府中矢崎村」の銘がある。府中市の資料によると、この庚申塔は元都矢崎村1-10の府中街道沿いにあったというので、現在の山門の西に通っている都道府中街道のどこかにあったのだろう。

Cimg0199_20240113160101

右の方には馬頭観音が3基並んでいる。両脇が舟型光背型の馬頭観音で、文字はまったく見当たらない。小さな角柱も馬頭観音で、正面に「馬頭観世音」の文字と施主名が刻まれている。

Cimg0207

本堂前を過ぎて、山門を出たところにあったのがこの一連の石仏。舟型の石仏は摩滅が進んでいて文字がほとんど読めない。左端と左から2番目は不詳。ひときわ大きな舟型光背型の地蔵菩薩はかすかな痕跡からおそらく延宝2年(1674)正月造立のものだろう。資料には「奉造立石地蔵為現当二世願主等敬白」「府中下河原村念仏講中廿三人」と刻まれているとある。右から2番目の角柱は馬頭観音で、平成3年(1991)2月の新しいものであった。

場所  府中市本町1丁目17-10

| | | コメント (0)

2024年1月15日 (月)

東京競馬場近くの馬頭(府中市宮町)

府中市にある東京競馬場、荒井由実の『中央フリーウェイ』で「右に見える競馬場♪」と歌われているが、中央自動車道はフリーウェイではなく有料道路である。日本最大の競馬場で20万人近い観客が入る。2位は千葉県の中山競馬場で18万人弱、3位は京都競馬場で14万人強、4位以下はさすがに10万人には届かない。

Cimg0176

そんな競馬場の周辺には馬頭観音が多数ある。スタンドの真北にあるハケ(崖線)の一画に並んでいる馬頭観音を今回は取り上げた。馬霊塔の周りにも多数あり、各競走馬名が刻まれている。上の写真の馬頭観音は10坪ほどの境内に祀られているもので、大正2年(1913)建之。三面馬頭観音が描かれ、台石には大正2年ア月26日に22頭が火災に遭って亡くなったと記されている。

Cimg0183

前述の馬頭観音の後ろの崖にあったのがこの角柱型の馬頭観世音。こちらは昭和34年(1959)10月の建之で、愛馬キンハク号の弔い。レース中の事故で亡くなったらしい。

Cimg0187_20240113082601

最初の馬頭観音の左には自然石で造られた馬頭観音がある。造立年は明治43年(1910)6月。下部には陰刻の馬姿が3頭見られる。これら以外にも周辺には沢山の馬頭観音があるが、さすがに多すぎて一部しか紹介できない。

場所  府中市宮町3丁目21番地先

| | | コメント (0)

2024年1月13日 (土)

京所道の庚申塔(府中市宮町)

普門寺から大國魂神社へ西進、ちょうど中間地点辺りの交差点の北西角に角柱型の庚申塔が立っている。西の方を眺めると大國魂神社の東の鳥居が見える。この辻を北に行くと新宿庚申塔の分岐点に繋がっている。この辻は江戸時代からあり、当時から民家が集まっていたようだ。

Cimg0171_20240108095301

京所道というのは、甲州街道が慶安年間(1648~1652)頃に開通するよりも以前、江戸から甲州への街道だったという古道である。品川通りが旧甲州街道に合流する東府中駅あたりから、今の旧甲州街道の少し南を東西に走り、大國魂神社の社前を通っていた。京所と書いて「きょうづ」と読む。

Cimg0173

ただし庚申塔は比較的新しいもので、造立年は大正4年(1915)3月建之と刻まれている。山型角柱型で、中折れしているがこれは戦災によるものだろうか。台石には「京所」とある。

場所  府中市宮町2丁目10-8

| | | コメント (0)

2024年1月11日 (木)

普門寺前の庚申塔(府中市宮町)

京所道と競馬場正門通りが交差する普門寺前交差点の北西角に古い石塔がポツンと立っている。真言宗の普門寺はこのはす向かいにあり、目の薬師として知られている。

Cimg0167

歩道の植込みに設置されているのは板碑型の古そうな庚申塔。造立年は延宝8年(1680)と実際に古いもの。文字は摩滅でほとんど読み取れないが、部分的に解読できるところもある。

Cimg0169

「▢▢庚申▢結▢▢▢」の文字があり、八幡宿の銘がある。中折れしているのは戦災だろうか。中折れの上下には願主名が多数記されている。資料によると、普門寺境内の一隅にあったとされるので、本来の場所は分からない。八幡宿はこの交差点から北側に広がる宿場名である。

場所  府中市宮町2丁目25-11

| | | コメント (0)

2024年1月 9日 (火)

普門寺前の塚(府中市八幡町)

小金井街道と旧甲州街道が交わる八幡宿交差点。かつての府中八幡宿の名を残した交差点名である。実は都道としての小金井街道はここが終点で、これより南は競馬場正門通りになる。次の普門寺交差点の手前のライオンズマンション府中第二の脇に塚が残っている。

Cimg0162

比較的広い塚で、Google Mapには庚申塚とあるが、庚申ではない。敷地の奥の方に一基だけ立っている。舟形光背型の石仏で、中央には釈迦如来と思われる主尊が描かれているが、印相が釈迦如来とは違う気もする。

Cimg0166_20240101215801

中央には「奉書写大乗妙典釈迦坐像」とあり、造立年は元禄4年(1691)2月。「武州多摩郡府中新宿」の銘が刻まれている。法華経では石経塔とよばれる石仏らしく、この下には書写された法華経が納められているのだろうか。

場所  府中市八幡町1丁目16-5

| | | コメント (0)

2024年1月 7日 (日)

新宿庚申塔(府中市府中町)

甲州街道沿いの村々は調布の西の飛田給を過ぎると、下染屋、車返、上染屋、常久を経て、府中に入る。府中の中では八幡宿、新宿、本町、番場宿があり、次の宿場は日野宿である。新宿というのは各地にあるが、府中の東側の入口にあたる。

Cimg0155

本来の甲州街道は京王線の線路よりも200mほど南を通っていた。この辺りは明治以前は桑畑の中だった。現在セブンイレブンがあるこの分岐点は江戸時代からの分岐点で右の道を行くと小金井の前原につく。その先は埼玉県の志木まで続いたようで、志木道の名前が残っている。明治時代初期の地図には桑畑の中のこの分岐に石塔のマークがあるので、場所は昔から変わっていないはずである。

Cimg0161_20231230124401

覆屋に祀られているのは山状角柱型の大きな文字庚申塔で、「庚申塔」の大きな文字と新宿講中の字が見える。造立年は嘉永5年(1852)2月である。基壇には「此方 ふじ大山道」側面には「此方 田なし」などの地名があり道標でもあったようだ。願主名のほかに、染屋石工与市の名前もある。

場所  府中市府中町2丁目2-5

| | | コメント (0)

2024年1月 5日 (金)

府中駅前の庚申塔(府中市宮町)

府中は大化の改新以来武蔵国の国府が置かれた地で、いわば関東の中心地のような場所であった。国府の置かれた土地ということで府中となったほど歴史がある土地で、京王線府中駅の駅前には延々と天然記念物指定のケヤキ並木が並び、この参道を南へ行くと間もなく大國魂神社に至る。大國魂神社の創建は西暦111年という社伝なので、1900年余りの歴史がある。

Cimg0146

ケヤキ並木の中に、近年再開発で新しくなった街のなかで異彩を放つように堂宇があり、庚申塔が祀られている。堂宇の中には2基の庚申塔があり、右の庚申塔は比較的原形をとどめているが、左の庚申塔は文字も全く読めないほど摩滅している。

Cimg0154

右の庚申塔は、櫛型角柱型で天保7年(1836)12月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、台石には「武州安達郡鳩谷宿 願主 松坂屋八太郎」の銘が入っている。安達郡は足立のことで、鳩谷宿は今の鳩谷であろう。なぜここにと思うが、そこは府中である。石工は新宿追分の石工甚蔵の名前がある。左の庚申塔は台石に三猿の痕跡が見てとれるが不詳。資料によると、正面には「庚申塔」の文字、そして台石下段には「講中」「右 小金井道」とあり、造立年は文政10年(1827)10月とあったらしい。こちらは府中由来のもののようだが、なぜにこれほどまで摩滅したのかは分からない。

場所  府中市宮町1丁目100番地先

| | | コメント (0)

2024年1月 3日 (水)

溝合神社の庚申塔(府中市小柳町)

府中市小柳町は京王線多磨霊園駅の南側、多摩川河畔までの地域。街の北部を東西に走るのが筏道。この筏道沿いに寺院や石仏が点々とある。ちょうどこの筏道は、多摩川の河岸段丘にあり、ハケの道とも呼ばれる。ハケとは崖のことである。新しい9中通りを橋で越えて、少し坂を下ると五差路に出る。この五差路から北に昇っていく坂道(写真左)が庚申坂である。

Cimg0130_20231229120701

鳥居の右の道は筏道(ハケの道)。その間にこんもりとした区画があり、溝合神社と呼ばれているが、祀られているのは2基の庚申塔である。神社として祀られている祭神は猿田彦大神なので、庚申塔で間違いないのだろう。

Cimg0131

左のかなり傷んだ石仏はおそらく舟型光背型の庚申塔だったと思われる。日月は摩滅で消えかかっているがかろうじて見える。青面金剛像は認められるが三猿は痕跡のみである。補修はコンクリートで行われており、細部は不明。造立年も不詳である。右の駒型庚申塔は大正6年(1917)3月に造立されたもので、日月、青面金剛像、三猿の図柄である。側面に「小田分中 同青年中」の文字がある。

Cimg0145

境内には「庚申石橋供養塔」と書かれた石碑がある。山状角柱型で、文化10年(1813)12月の造立。右面には「念仏講中 庚申講中」の銘があり、左には「石橋講中」と「小田分村 願主 細野‥、馬場」の銘が刻まれている。小田分村というのは、ハケの道よりも南側の低地にあった農村で、昔の領主が小田姓であったことからついた名前らしい。

場所  府中市小柳町2丁目59番地先

| | | コメント (0)

2024年1月 1日 (月)

丸石の庚申(府中市清水が丘)

東郷寺通りが9中通りに交差する多磨霊園駅北交差点から北へ15mほどのところにコンクリートの堂宇に守られた自然石の庚申塔が立っている。二つの通りと東西の道が絡まって小さな三角の区画を作っていて、4件の家がある。その一角である。この変な道の絡みは江戸時代から続いている本来の道の交差点で、甲州街道の南側の一画としては交通の要衝だったのだろう。

Cimg0123

この辺りはかつては染屋の西側の小さな村で常久村(つねひさむら)という地域だった。それ以前は多摩川沿いだの是政あたりにあった集落が洪水で流失、段丘上のこの地に移ってきて常久村を形成したらしい。この辺りで多摩川の洪水で移り住んだ話は多い。現在中央自動車道が走っている辺りは度々多摩川の洪水に見舞われた地域である。

Cimg0125_20231228145701

庚申塔は丸い石で、河原の石と思われる。正面には「庚申」、左には「おし立船ば道」、右には「府中道」とある。台石には常久村の文字があり、嘉永元年(1848)の建之と記されている。多数の男性名(苗字無)が並んでいる。移転してきた人々の名前だろうか。

場所  府中市清水が丘3丁目22-21

| | | コメント (0)

2023年12月30日 (土)

染屋不動尊と観音(府中市白糸台)

旧甲州街道と東郷寺通りが交差するのが不動尊前の交差点。交差点の南側には染屋不動尊がある。染屋という地名の由来は、調布(手作りの布)を染めたところで、鎌倉時代には染殿というものがあったらしい。それからこの辺りは染屋と呼ばれた。今はほぼ白糸台辺りである。

Cimg0118_20231228143001

この染屋不動尊の宝物殿内には国宝の阿弥陀如来像があるらしい。厳重に施錠されていて覗く隙間もなく、拝観することは叶わなかった。この阿弥陀如来像は銅造で鎌倉時代の弘長元年(1261)に上野国八幡庄にて造立されたという。新田義貞の守護となったりしたが、江戸時代に入り多摩川洪水の為染屋に移されたもの。国宝の観音様は拝めなかったが、染屋不動尊の向かいに堂宇があり、観音像が祀られている。

Cimg0117

時代はかなり新しいもののようである。聖観音像の左には女性の戒名が記されている。右側には「交安観世音菩薩」とあるので、この交差点で事故があったのが所以かもしれない。年代等は不明である。

場所  府中市白糸台1丁目11-11 (向かいの観音は白糸台1丁目14番地先)

| | | コメント (0)

2023年12月28日 (木)

品川道上車返村庚申塔(府中市白糸台)

江戸の百万人マーケットで度々起こる大火の度に家を建て替えるニーズの為、青梅、奥多摩地方から材木を筏にして多摩川に流し、六郷土手辺りで荷揚げをしたのち、人夫(変換で出ないのでもしかしたら差別用語か)が山に帰るために辿った帰り道の街道が品川道である。別名筏道とも呼ばれており、田園調布辺りから東府中駅で旧甲州街道に合流するまで繋がっている。

Cimg0106

西武多摩線白糸台駅の南西に第四小学校があり、その南東角に駒型角柱型の庚申塔がある。文字のみの庚申塔で、青面には大きく庚申塔、左側面には道標として「東品川 西府中 道 上車返村」と刻まれている。

Cimg0108

造立年は現在の石塔は昭和3年(1928)3月だが、これは再建年。元あったものは嘉永6年(1853)4月だったという記載もある。東府中から飛田給迄の品川道は江戸時代の前期には甲州街道としても使われていたらしい。ここはまさにその区間で、1600年代には多くの人々がこの前を往来していただろう。その当時にもさらに先代の庚申塔があったのではないかと想像する。

場所  府中市白糸台1丁目58番地先

| | | コメント (0)

2023年12月26日 (火)

白糸台駅前の馬頭観音(府中市白糸台)

西武多摩川線の白糸台駅の駅前の植込みにひっそりと立つ馬頭観音がある。白糸台駅はかつては北多摩駅という駅名だった。多摩川線の中では基地的な駅になっている。1917年(大正6年)に多摩川線が出来た時は武蔵境から北多摩駅までの区間で、ここは終着駅だったが、2年後に延伸された。

Cimg0102

興味深いのは、一つ北にある駅名が多摩駅なのに南隣りのこの駅が北多摩駅だったのは何故だろうという疑問。調べてみると、北隣の駅は多磨墓地駅という駅名で後年開業したが、2001年に多磨駅と改称した為、混乱するという理由で駅名を改め、昔からの地名白糸台駅にしたのだという。なんだかドタバタな感じがする。

Cimg0103

植込みの中の馬頭観音は昭和4年(1929)12月19日建之と裏側に刻まれている。相談人や発起人の名前もあり、黒御影石に刻字を施したもの。資料によると、この周辺には昔馬車営業の馬持が多かったという。すぐ北には旧甲州街道、すぐ南には品川道が通っていたからであろう。

場所  府中市白糸台2丁目72番地先

| | | コメント (0)

2023年12月24日 (日)

西武多摩川線踏切の庚申(府中市白糸台)

旧甲州街道と西武鉄道多摩川線が交わる踏切の傍に庚申塔がある。西武多摩川線は西武の中でも長閑なローカル線のひとつで、多摩川左岸の是政とJR中央線の武蔵境の間を走っている。なぜか京王線との繋がりが悪く600m(約8分)ほど歩いて白糸台駅と武蔵野台駅を乗り換える。ひとつ西の京王線多磨霊園駅で乗り換えても歩く距離は殆ど変わらない。それでも多くの人がこの間を歩いている。昔は畑の間を歩いていたのだが、最近では民家がかなり増えた。

Cimg0101

話は旧甲州街道に戻る。西武多摩川線の踏切の脇に、コンクリートの囲いがあり庚申塔が祀られている。笠付角柱型の庚申塔は、日月、青面金剛像、三猿の図柄で、側面には蓮が描かれている。摩滅が激しく、造立年等の情報は全く読めない。三猿の下に願主名が刻まれていて、数名の名があるが、これも半分くらいしか読めない。田中姓が多いようだ。

Cimg0094

庚申塔の右後ろにある石仏はかなり剥離していて、何の石仏かは分からない。左後ろの角柱型の石仏は一猿の座像。像形は分かるが文字などは殆ど読めない。庚申塔のひとつだろう。この場所の住居表示はないのだが、白糸台2丁目8番と10番の間にあたる。

場所  府中市白糸台2丁目8番地先

| | | コメント (0)

2023年12月22日 (金)

観音院の石仏(府中市白糸台)

旧甲州街道と白糸台通りの交差点車返団地入口の北東角にある寺院が天台宗の観音院。創建年代は不詳。江戸時代のこの辺りは下染屋村というところで、甲州街道に沿って人口が多かったエリアである。

Cimg0075

綺麗な寺院で、山門をくぐるとすぐに本堂になる。下染屋の地名の由来が寺の脇にある石碑に記されている。それによると、調布(手作りの布)を染めたところで、鎌倉時代には染殿というものがあったらしい。上染屋と下染屋に分かれたのは江戸時代初期以前と書かれている。

Cimg0073

山門をくぐり本堂にお参りする。手前の庫裏の前に覆屋がある。覗いてみると丸彫の地蔵菩薩が祀られていた。衣の前部に「念仏供養」の文字があるが、資料によると享保4年(1719)9月の造立。「武州多摩郡下染屋村」の銘がある。

Cimg0078

山門からいったん外に出ると、山門に向かって左側に大きな角柱型の馬頭観世音が立っている。造立年は文政4年(1821)2月。基壇には、下染屋村、下車返村、中車返村の各村の願主名が刻まれている。

Cimg0079_20231217202801

山門向かって右には多くの石仏が並んでいた。右端の櫛型角柱型の石塔は正面に「奉納大乗妙典六十六部日本廻国所願成就所」とあり、「武州多麻郡府中領下染谷村」の銘と、正徳5年(1715)8月の造立年がある。右から二番目と三番目の丸彫地蔵は文字がなく不詳だが、大きい方は府中市の資料にある寛政5年(1793)2月の念仏講中によるものだろうか。中央の大きな舟型光背型の地蔵菩薩は宝永7年(1710)2月の造立で、「奉読誦大乗妙典一千部供養塔」の文字がある。その左は庚申塔で、左端の石仏群は不詳。

Cimg0080_20231217202801

庚申塔は一見駒型かと思ったが、横に回り込むと山状角柱型で、日月、青面金剛像、三猿の図柄である。尊像右に「庚申供養塔」の文字、左側面には「武州多麻郡下染屋村」の銘がある。右面に刻まれた造立年は、享保3年(1718)2月。大胆でシンプルなデザインの庚申塔である。

場所  府中市白糸台3丁目10-7

| | | コメント (0)

2023年12月20日 (水)

本願寺の石仏(府中市白糸台)

鎌倉時代源頼朝の奥州征伐の帰途、藤原秀衡の守り本尊とされる薬師如来を畠山秀忠に命じて鎌倉に運ばせていた途中、夢告によってこの地に庵を建てて仏像を安置することになった。その際に運んできた車をここで引き返させたことから「車返」の地名が起こったものとされる。

Cimg0066

その草庵が現在の浄土宗本願寺である。ハケの道の崖上にあり、山門の前が河岸段丘になっている。その後何度か再建中興されて、天正2年(1574)に現在のような寺院となった。

Cimg0057_20231216133601

山門に向かって左手にあるのは角柱型の供養塔。「奉納大乗妙典六十六部供養仏」とあり、「武州玉ノ郡府中領車遍村」とあるが、多摩郡車返村のことである。願主は戸井田伝右衛門の銘がある。

Cimg0062_20231216133601

ハケの道の山門の一番手前にあるのが駒型の庚申塔。背後には高くそびえるサイカチとケヤキの巨樹がある。異なる樹種なのだが、根元で合体するようにくっついているのが面白い。庚申塔は寛政12年(1790)8月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、左手にショケラを下げている。台石は新しくなっているが、造立年などは旧台石にあったと資料にあり、武州多摩郡車返村の銘があったようだ。

Cimg0067

庚申塔と山門の間にあった3体の地蔵菩薩。どうも本体はすべて新しいもののようだが、基壇には往年の文字がある。右の地蔵は基壇も新しくなっており、昭和50年(1975)7月再建となっているが、元は享保4年(1719)8月の造立で念仏講中によるものらしい。中央の基壇には、享保4年(1719)9月の造立で、「武州多摩郡上車返村」の文字。左の地蔵の基壇には、安永7年(1778)2月の造立年と、「武州府中領下車返村」の銘が見られた。3基とも念仏講中が建立している。

場所  府中市白糸台5丁目20-3

| | | コメント (0)

2023年12月18日 (月)

車返八幡神社の石仏(府中市白糸台)

府中市東部の甲州街道は江戸時代の初期には今の旧甲州街道ではなく、飛田給駅の近くの飛田給薬師堂で現在残っている旧甲州街道の道筋よりも南側を西に向かっていた。この道は品川道でもあるが、東府中駅まではこの南側のルートが江戸時代初期の甲州街道だった。この品川道よりもさらに南に通っていたのがハケの道、あるいは筏道と呼ばれていた街道で、この道沿いにも歴史的な痕跡が多い。

Cimg0042

おっぽり坂の坂下を過ぎて、白糸台通りの上を越えると右手に大きな銀杏の樹が見えてくる。これが車返八幡神社で、隣接する本願寺が別当寺。鳥居をくぐると、本殿の手前左側に石仏石碑が並んでいる。

Cimg0044

右端の笠付角柱型の石塔は庚申塔。造立年は安永4年(1775)3月とある。府中市の資料によると笠は別物を載せたらしい。正面には「奉造立青面金剛為二世安楽」とあるが、青面が青百となっているのはいかにも江戸時代らしい。

Cimg0045_20231214205201

石塔の下部には複数の願主名が刻まれている。田中、小勝、加藤姓が複数ある。周辺には小勝姓よりも雄勝姓が多くみられたように思う。左の櫛型角柱型の石塔は不詳。

Cimg0047

その先には上部が欠損して下部のみが残された自然石の石塔がある。元々は庚申塔の文字が正面にはあったらしい。裏には嘉永2年(1849)3月の造立年が刻まれている。基壇には「車返村 中分講中」とある。左の上部が欠損した石塔には「庚塚」の文字があり、文中に天保8年(1837)9月の紀年が入っている。

場所  府中市白糸台5丁目20-4

| | | コメント (0)

2023年12月16日 (土)

車返稲荷神社の庚申塔(府中市白糸台)

府中市の東部に車返団地がある。面白い名前だが、鎌倉時代の話に由来している。源頼朝の話だが、この地域にある本願寺に関係するので改めてそこで書きたい。そもそも府中市を東西に走る府中崖線は多摩川の河岸段丘で、昔暴れ川だった多摩川によって出来た地形。かつて江戸の街に木材を供給した青梅の筏運搬者の帰り道に使われた筏道がこの河岸段丘沿いに通っていた為か、興味深いものが沢山ある。

Cimg0027

飛田給駅から西へ向かい最初にあったのは氏子神社と呼ばれる車返稲荷神社。三角形の広い境内で銀杏の巨樹が見事である。鳥居の先には古い水鉢があり、寛政13年(1750)11月の紀年が入っていた。神殿の前には背丈ほどの大きなお狐様の狛犬が一対あるがこれは新しいもののようだ。境内をいったん出て、東側に回ると庚申塔がある。

Cimg0038

この2基の唐破風笠付角柱型の庚申塔は造立から対として造られたものである。両方とも造立年は寛延3年(1750)11月。右は日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄でショケラを下げている。左面には「下車返村 講中」の銘がある。左側もほぼ同じ図柄だが、ショケラはなく、青面金剛は合掌であるのと、青面金剛周りが若干異なる。こちらにも「下車返村 講中」の銘がある。保存状態の極めて良い庚申塔である。

場所  府中市白糸台6丁目33-1

| | | コメント (0)

2023年12月14日 (木)

新川八幡社前の石仏(三鷹市新川)

人見街道に面して新川の交差点の少し東に新川八幡社がある。創建年代などは不詳だが、明治時代の地図には鳥居マークがある。建物の奥に回り込むようにして社殿に参拝する。

Cimg0021_20231211103801

鳥居に向かって右に堂宇が一つあり、中には丸彫の地蔵菩薩が祀られている。台石にある文字から、造立年は享保4年(1719)9月、「奉供養地蔵尊」の文字がある。資料によると基壇には「同行講中14人」とあるらしく、地蔵講のものだろうか。

Cimg0015_20231211103801

少し西側にももう一つ覆屋があり、そこには庚申塔が祀られている。笠付角柱型の庚申塔で、日月、青面金剛像、三猿の図柄。側面には蓮葉が見られる。造立年は元禄5年(1692)10月で、「奉供養庚申講中」の文字がある。足元にあるのは丸彫の地蔵菩薩で2体の子供があることから子育地蔵として祀られたものだろう。覆屋外の自然石は明治43年(1910)3月彼岸に建立された法会供養碑で、新川宿組中とある。

場所  三鷹市新川6丁目3-6

| | | コメント (0)

2023年12月12日 (火)

墓地の石仏(三鷹市新川)

都道110号人見街道は古くからの街道で、三鷹市で仙川を野川宿橋で越えた先の街道沿いにブロック塀と万年塀に囲まれた墓所がある。特に何の表札もないので、どこの寺の境外墓地なのかは分からない。ただ明治時代からここに墓地があるのは古い地図から見て間違いない。

Cimg0008

江戸時代この辺りは街道筋の宿場の外れだったようで、明治時代までは一面桑畑だったようだ。覆屋の中に祀られていたのは、丸彫の地蔵菩薩坐像。造立年は寛政8年(1796)12月とある。基壇正面には「奉建立地蔵菩薩二世安楽」と書かれ、右側面には造立年と「念仏講中29人」、左側面には「武州多摩郡野川村 領主 鈴木作右衛門」の銘がある。

Cimg0012_20231210195701

すぐそばにあった地蔵菩薩六角幢もなかなか立派なものである。ところが意外と新しく、造立年は明治17年(1884)10月。基壇には「奉建立六地蔵尊」とあり、「北多摩郡新川村」の銘と多数の女性名が並び「女念仏講中」の文字が見える。

場所  三鷹市新川6丁目28番地

| | | コメント (0)

2023年12月10日 (日)

塀の庚申塔(三鷹市新川)

三鷹市新川の仙川左岸に丸池公園という広い公園がある。公園内に勝淵神社がある。この神社は柴田勝家の孫である柴田勝重が、大坂夏の陣ののちに上仙川村、中仙川村付近を所領とした。勝重は祖父勝家から与えられた兜を水神の森に鎮めて勝淵神社をそこに建立したと伝えられる。

Cimg9998

勝淵神社の裏手(北側)の道を西に進み稲荷橋で仙川を渡ると角の家の塀の凹みに庚申塔が祀られている。笠付角柱型の庚申塔で、擬宝珠も残っている立派なもの。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、側面には蓮葉が描かれている。

Cimg0004

側面には文字も刻まれているが、中折れしているので文字が切れている。三鷹市の資料も参考にすると、造立年は享保元年(1716)霜月(11月)と左面にあり、「武州多麻郡上仙川村講中22人 永成村裏鎮護神敬白」の文字があるらしい。右面には「奉拝立庚申尊天伏攸 得無上楽宗念寺記元」と書かれているようだ。

場所 三鷹市新川3丁目21-16

| | | コメント (0)

2023年12月 8日 (金)

新川三丁目の石仏(三鷹市新川)

三鷹市新川は野川支流の仙川の上流部の流域の地名。明治初期、野川村と上仙川村が合併した際に新川村と名付けられたのが始まりで、後に三鷹村大字新川となり、三鷹市新川に至る。給田から北西に走る都道117号線の交差点新川三丁目の西側に道の分岐がある。江戸時代から明治にかけてこの田有は谷端と呼ばれた土地で、仙川の左岸にあたる。谷端の名前は仙川に架かる橋の名前に残っている。

Cimg9992

分岐している細い方の道が昔からの道筋である。周辺はかつては桑畑が広がっており、農家では養蚕が盛んだったのだろう。この分岐の南側に大きなお宅があり、その塀の凹みに石仏が祀られている。

Cimg9994

暫く見入ってみたが何の石仏なのかが分からない。何かの座像である。資料を確認しても不明とある。右側面には「志ん大寺ミち」、左側面には「東▢ごうミち」と書かれているようだ。右は深大寺道だろう、左はわからない。個人宅にこういう石仏が現代まで守られているのは嬉しいことである。

場所 三鷹市新川3丁目6-1

| | | コメント (0)

2023年12月 6日 (水)

苦楽院地蔵堂(三鷹市中原)

中原の庚申塔の向かいには墓所があり、春清寺の境外墓地で苦楽院と名付けられている。墓所の前の道は古い道で、是より東側には多くの村人が住み中仙川と呼ばれた地域。墓所の南西端に道に向かって開いた堂宇があり、地蔵菩薩が多数祀られている。中央の丸彫の地蔵菩薩坐像は宝暦4年(1754)2月の造立で、「中仙川村75人」の銘がある。

Cimg9988

丸彫の地蔵菩薩が手前に2基、後ろに3基あるが、手前の左右は享保4年(1719)11月のもの。どちらも「武刕多摩郡府中領中仙川村」の銘がある。後ろの3体は、右と中央が宝暦4年(1754)2月、左が享保4年(1719)11月のものなので、元は享保4年の六地蔵だった可能性がある。何らかの理由で欠けると新しい地蔵を建立してきたのだろう。すべての地蔵の台石に府中領中仙川村とあるので、歴代大切にされたものと思われる。

場所 三鷹市中原3丁目6-19

| | | コメント (0)

2023年12月 4日 (月)

石造庚申供養塔(三鷹市中原)

三鷹市立中原小学校脇を入り進むと中嶋神社の裏手に出る。中嶋神社は周辺の神社を集めた神社で、境内には厳島神社、須賀神社、稲荷神社などの境内社がある。神社の裏の路地を出て、そのまま南に進み、突き当りを右に折れると次の角に庚申堂がある。

Cimg9980

なかなか頑丈なコンクリート製の堂宇である。住居表示の脇に説明板がある。三鷹市の指定文化財らしい。「この庚申塔は三鷹市域で最も古いもので、青面金剛が像として刻まれる初期のものです。」とある。

Cimg9981

堂宇の中にあるのは舟型の庚申塔で、日月はなく、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄である。造立年は寛文6年(1664)11月。「奉造立所宝塔為庚申供養也 願主23人」の文字がある。資料によると、「願主33人 中仙川村」の文字もあるようだ。

Cimg9983

堂宇の手前にある2本の石柱を見ると、手前の低い方の石柱はこの堂宇の寄進碑で、「寄進土地庚申堂」とあり、昭和38年(1963)9月30日の日付がある。右奥の角柱は燈籠の竿部のようである。「奉納御宝前」の文字があり、寛政10年(1798)11月の建立と書かれている。

場所  三鷹市中原4丁目16-27

| | | コメント (0)

2023年12月 2日 (土)

春清寺の石仏(三鷹市新川)

三鷹市新川にある春清寺は曹洞宗の寺院。通常禅宗系の寺院は石仏が少ないが、ここは豊富である。創建は江戸時代初めの慶長7年(1602)で、中興の柴田三右衛門は柴田勝家の子孫と言われる。柴田勝家と言えば織田信長の重臣で信長の妹のお市の方の二番目の主人。清須会議にも参加した。

 Cimg9961

山門をくぐると正面に本堂があり、右に小ぶりな三重塔がある。三重塔の右手には幼稚園がある。とてもきれいな寺院である。本堂手前の左側に鐘楼と堂宇がある。

Cimg9965

堂宇の右側には駒型の庚申塔が祀られている。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、明和4年(1767)仲春(2月)の造立年が刻まれている。左側面には「神仙川村東講中9人」の銘がある。

Cimg9966

庚申塔の隣りにあるのは3枚の板碑。右の大きな板碑は上部が欠損している。摩滅が進んでおり戒名が2つ見られるが紀年等は分からない。左奥の背の高い板碑は「逆修」の文字があり、造立年は貞和5年(1249)2月とある。その手前に立てかけてある小さな板碑は文字不詳。

Cimg9970

板碑の左にあるのが舟型光背型の地蔵と角柱型の石柱。舟形の地蔵は顔の部分が凹んでいる。右肩上には「南 ぢんだいじ道」とあるが風化が進んで読めない。どうも庚申地蔵らしい。造立年は宝暦6年(1756)で、左の角柱は明治20年(1887)の馬頭観音である。以前は300mほど南東の三叉路にあったものだという。

Cimg9972

隣りにあるのは地蔵六面堂である。比較的新しいもので、造立年は明治16年(1883)霜月(11月)とある。三界万霊塔のようだが、明治時代のものとしては質の良い地蔵六面幢である。

Cimg9977

鐘楼の脇には珍しい草木供養塔が立っていた。かなり新しいものである。造立年は平成15年(2003)2月。平成以降のものでぼちぼち見かけるようになったが、古いものは山形県にほとんどがある。

場所  三鷹市新川4丁目4-22

| | | コメント (0)

2023年11月30日 (木)

観音寺の石仏(三鷹市北野)

北野庚申堂を管轄する寺院が曹洞宗の観音寺。北野庚申堂から南東へ数百mほどのところにある。お寺の入口が市境で、山門に向かって左側の電柱には「調布市緑ヶ丘2-12」の表示、向かって右側の電柱には「三鷹市北野4丁目7」の表示がある。道路舗装の状態から、南西側1.5mほどが調布市で北東側が三鷹市だろう。

Cimg9957

寺院は訪問時境内の改修工事中で、確認できたのは通り沿いの堂宇に祀られた六地蔵と角柱型の弘法大師等「南無大師遍照金剛」のみ。六地蔵は元禄年間から正徳年間にかけてのもので、それぞれなかなかの像形である。武刕多摩郡世田谷領北野村の銘や、念仏講中供養施主同行男女92人の銘がある。

場所  三鷹市北野4丁目7-8

| | | コメント (0)

2023年11月28日 (火)

北野庚申堂(三鷹市北野)

仙川の流れと中央自動車道が交わる辺りは市区境が複雑なところ。仙川河畔の天神山城跡は三鷹市北野、北野庚申堂から東へ200mほど行くと世田谷区給田、庚申堂の南50mからは調布市新川になる。現在は外環自動車道と中央自動車道のインターチェンジ工事が着々と進んでおり、北野庚申堂はインターチェンジの一画に位置するようになる。

Cimg9956

庚申堂の入口はとても分かりにくい。写真左の高架は外環自動車道になる部分。その脇にブロック塀があって戸建の屋敷の門のようになっているのが北野庚申堂の入口である。玄関前に立つとコンクリート製の立派な堂宇に納められているが、この堂宇は昭和49年(1974)に建立されたもの。

Cimg9944

正面には4基の庚申塔が並んでおり、右端は上部が欠損しているのものの日月、三猿の図柄のここでは最古の庚申塔。造立年は延宝8年(1680)9月と刻まれている。「奉供養庚申」「同行十五人」の銘が見られる。左の舟型光背型の庚申塔は日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、享保9年(1724)10月の造立。右側に「奉造立供養庚申待」の文字がある。

Cimg9945

左から二番目の背の高い駒型の庚申塔は上部に日月、基壇に三猿?と思われる彫刻がある。しかし眺めていると12猿くらいに見えてくる。造立年は宝暦13年(1763)11月で、中央には「奉供養青面金剛庚申需為二世安楽」とあるが、一部意味が分からない。左の板駒型の庚申塔は延享元年(1744)11月の造立で、日月、青面金剛像、三猿の図柄。

Cimg9946

左隅の脇には角柱型の馬頭観世音が立っている。造立年は弘化2年(1845)とあるが他の文字は読み取れない。

Cimg9947

対角の右脇隅にあったのは「神」と書かれた角柱。右側面には「建之」の文字が見えるので、上部が欠損したものだろう。地神なのか水神なのか、はたまたそれ以外なのかは全く分からない。

場所  三鷹市北野4丁目15-6

| | | コメント (0)

2023年11月26日 (日)

新川天神社の庚申塔(三鷹市新川)

三鷹市新川の東八道路沿いにある新川天神社、創建年代は不詳ながら、野川村天神山に鎮座していたのを寛永16年(1640)に現在地に遷座して今日に至るという。東八道路と並行して東西に延びる人見街道は府中市の若松町と杉並区の大宮八幡を結ぶ街道。野川村の天神山というのは仙川が中央自動車道を潜る北にある天神山遺跡(城跡)のことだろう。戦国時代に築かれ今でも土塁が残っているらしい。

Cimg9925

東八道路側から鳥居をくぐると社殿は彼方突き当りの右手にある。天神様なので勿論菅原道真を祀っている。江戸時代初期に台風で天神山の社殿が大破したので移転し、元禄時代に再建、明治時代には村社に昇格した。

Cimg9933

鳥居の左手に進むと庚申塔が祀られている。古いもので、舟型で日月、そして三猿のみの図柄である。造立年は延宝8年(1680)9月とあるので、遷座してから間もなくの時代である。「奉供養庚申」の文字があり、下部には10人ほどの願主名が刻まれている。

Cimg9935

今回戸惑ったのはこの黒御影石に載せられた2基の石仏。右の駒型の庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。造立年は宝暦7年(1757)とあり、右側面には「右天神みち 多摩郡瀬田谷領 野川村領主 武右門」、左には「左 神大寺みち 講中拾貮人」とある。これはここから南へ進んだ新川2丁目2番地の角にあったもので、何らかの理由でここに移設されたもの。脇の破片もどうやら青面金剛像の道部分で右下に鶏の上部が見える。これも同じ場所に在ったもの。確認のため、その場所に行ってみると戸建の新築が建築中であった。

場所  三鷹市新川2丁目1-21

| | | コメント (0)

2023年11月24日 (金)

火の見櫓の庚申塔(三鷹市牟礼)

牟礼6丁目の都道110号線と都道134号線の分岐の少し西の辻に三鷹市消防団第五分団の施設があり、火の見櫓が立っている。手前の都道の分岐もこの火の見櫓の辻も江戸時代からの道筋で、昔から往来のあった場所。火の見櫓の脇に小屋根があり、石仏が並んでいる。

Cimg9913

左端は説明の碑だが、屋根の下にあるのは庚申塔が2基、とあと小さな庚申塔の一部がある。左側の背の高い擬宝珠までしっかりとある笠付角柱型の庚申塔は、造立年が元禄5年(1692)9月とある。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、「奉造立庚申供養攸 結衆 敬白」の文字がある。下部には沢山の願主名がある。

Cimg9916

この庚申塔の基壇の右下に頂部だけが見えているのもどうやら庚申塔らしい。見えているのは一猿(不聞猿)の上半身のみで、下半身は石とコンクリートで固められている。もしかしたら見えない(あるいは欠損した)下部に2猿があるのかもしれないが、全く分からない。

Cimg9917

右側の笠付角柱型の庚申塔の造立年は、元禄3年(1690)9月とある。こちらも日月、青面金剛像、三猿の図柄で、青面金剛の顔面が壊されているのが残念である。右側には「奉供養庚申二世安楽所」の文字、左側には「武刕多摩郡牟礼村結衆等敬白」の文字がある。

場所  三鷹市牟礼6丁目1-3

| | | コメント (0)

2023年11月20日 (月)

大盛寺別院の石仏(三鷹市牟礼)

大盛寺別院は牟礼にあるが、大盛寺は井の頭にあり、井の頭公園のすぐ南側である。井の頭弁財天から公園の外に出るとすぐに大盛寺になる。とはいえ牟礼のこの場所から本院までは1.5㎞程の距離ながら昔からの街道筋で結ばれていた。

Cimg9894

墓所の北側を走る都道110号線側から入ると、両脇に3体ずつの六地蔵が迎えてくれる。造立年は不詳。花がいっぱいに供えてあり台石の文字が読めない。資料によると、念仏講中による建立で、秩父坂東西国の巡拝供養塔として建てられたらしい。

Cimg9903

別院の建物の脇に複数の石仏が並んでいる。墓所側にあるのが丸彫の地蔵菩薩像で、享保4年(1719)霜月(11月)の造立。「▢供養地蔵念仏講中」「武刕多麻郡無礼村」の文字があるが、牟礼を無礼と書き間違えた石仏がいくつかあるのが興味深い。右の角柱型石塔には「大乗妙典千部塔」とある。こちらは弘化4年(1847)仲春(2月)の紀年がある。

Cimg9904

向かいにあったのが角柱型の不動明王像。こちらは嘉永5年(1852)2月の造立。角柱型の不動明王像はあまり見かけない。台石には多くの願主名が並んでいるが板橋姓が7名もあった。

Cimg9907

墓地脇にあったのがこの隅丸角柱型の石塔。これは墓石ではないようである。「浄心念仏請中」とあり、文化4年(1807)5月の造立年が刻まれている。三鷹市の資料を見ると念仏塔となっているが、どんな目的で建てられたのだろうか。

場所  三鷹市牟礼2丁目14-16

| | | コメント (0)

2023年11月18日 (土)

牟礼二丁目の地蔵(三鷹市牟礼)

牟礼に丁目の交差点に地蔵堂と道供養塔がある。後ろはモダンな歯医者さんで、地蔵堂とのコントラストが面白い。北東側の道は上りだがその先には玉川上水がある。牟礼二丁目交差点辺りよりも玉川上水の方が標高が3mほど高い。用水路というのは高い所を流れていないと農地への水の供給が出来ない。北東側の小山を越えると上水である。

Cimg9890

地蔵から西側は平坦な地形。この辺りは中山谷、西山谷といって、昔は田んぼが広がっていた。この辺りはかつての烏山川の源頭のひとつである。牟礼という地名の由来は盛り上がった土地を指すという説もあり、東の小高いエリアを元々牟礼と言ったらしい。さて地蔵堂の地蔵だが、丸彫で造立年は正徳3年(1713)10月と古いもの。「奉納大乗妙典六十六部供養」とあり、「武刕多摩郡中野領牟礼村」の銘がある。かつて地蔵の頭部がなくなったので昭和45年(1970)に石屋に小早川トメさんという方が注文して修復したらしい。

Cimg9887

脇にある角柱型の道供養之塔と大きく書かれている石柱は、文化9年(1812)6月の建之。後ろに「三ヶ年間 村中庚申待講銭を以て助力」とあるので庚申講中が築いたものだろう。ただ、角筈新町の銘もあり、新宿の角筈と牟礼との関係が今一つ分からない。

場所  三鷹市牟礼3丁目8-18

| | | コメント (0)

«欅の下の庚申塔(三鷹市牟礼)