2017年3月30日 (木)

長垂坂(なだれざか)

六本木一丁目、ちょうど首都高速渋谷線が中央環状線と合流する大通りのY字路の1本六本木寄りの路地を入ると長垂坂(なだれざか)である。 素敵な名前だと思う。 坂の上下に標柱がある。「流垂坂、奈太礼坂、長垂坂などと書いた。土砂崩れがあったためか。 幸国坂(幸国寺坂)、市兵衛坂の別名もあった。」とある。

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撮影したのは2015年11月で、新しい高層ビルの建設中だった。 テレビ東京が入った六本木グランドタワーだ。 その昔、バブル華やかな時代には六本木プリンスホテルだった。 クラブで遊びまわってここに泊まったbubblyな方々も多かった。 しかしこの坂は古い江戸の坂なのだった。

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江戸時代、工事現場の向かい(写真右手)には寺が数軒並んでいた。 今は二寺が残るが、江戸時代には6軒ほど連なっていた。 微妙なくねりが古い坂であることを表している。テレ東側は大名屋敷だった。 三河国吉田藩(今の豊橋市)の大名である小笠原佐渡の守の中屋敷だった。

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『新撰東京名所図会』には、急な坂というほどではないが、斜めに傾いた道だったのでなだれと呼ばれたと書かれている。  新しい高層ビルができるとこの辺りもきれいに仕上げられ、この傾き感を残した坂道が消えるのかと思うと寂しい。

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2017年3月29日 (水)

木下坂(麻布)

南部坂とは坂下で接する。坂の途中に標柱があり、「北側に大名木下家の屋敷があり、その門前に面していたために呼ばれるようになった坂名である。」と記されている。南部坂ほどの景色はなく、ただの坂道という感じ。備中足守藩主木下備中守の上屋敷。

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路地裏のかつての大名屋敷の敷地内に当たる場所にはスイス大使館、ノルウェー大使館がある。木下坂は緩やかな坂で、徐々に高度を上げる。

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2017年3月28日 (火)

南部坂(麻布)

仙台坂上から西に下る。坂上の路地裏には伝説のガマ池(蝦蟇池)があるが、道路からは見えない。南部坂の北側は有栖川宮記念公園。しかし大正時代の地図には高松宮御用地とある。明治29年に有栖川宮の御用地のなり、大正2年に高松宮邸になったが、宮家の好意で昭和9年に東京市に下賜され公園になった。

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公園の池は明治時代にはほぼ今の大きさで存在した。おそらくこの麻布台の斜面の湧水が今も湧いているのだう。江戸時代はというと最初は播州赤穂藩の下屋敷、そしてその後大名同志の等価交換で盛岡藩の南部美濃守の下屋敷となる。渓流や池を配した美しい大名庭園だったという。

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坂の上下に標柱があり、「有栖川宮熾仁宮記念公園の場所が赤坂から移ってきた盛岡城主南部家の屋敷であったために名づけられた。(忠臣蔵の南部坂は赤坂)」と記されている。公園の無化側はドイツ大使館が建替え中だった。壁面に描かれたベルリンの壁のヒストリーが目に留まった。

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坂下にはインターナショナル麻布スーパーマーケットがある。昔から外国人とりわけ西洋人の多い場所で、今でこそこういう雰囲気のスーパーマーケットは増えたが、30年以上前はまるで海外ドラマに出てくるような雰囲気にあこがれを感じたものだ。

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2017年3月27日 (月)

仙台坂(麻布)

仙台坂と呼ばれる坂は、大井町とここの2ヶ所。どちらにも松平陸奥守(伊達政宗)の下屋敷があったため仙台坂と呼ばれる。大井町の方は別のところで詳しく説明する予定。一方こちら麻布の仙台坂は一直線の坂で、交差点にも「仙台坂上」「仙台坂下」と始終が明確になっている。

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坂下は古川の二の橋。坂上は麻布台地の尾根筋にあたり、南下すると薬園坂、西進すると南部坂、北進すると麻布の坂のメッカである一本松の辻に至る。坂の途中には韓国大使館が大名屋敷れえるの敷地で広がり、辺りは警察又警察。歩きにくいこと甚だしい。この韓国大使館の土地をさらに広げたエリアが伊達政宗の屋敷だった。

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明治維新後、仙台藩下屋敷は茶畑の広がる農園風景に変わったが、その一角にあった松方家が明治の後半にはそのほとんどを所有することになった。松方正義である。薩摩藩出身の松方は第4代内閣総理大臣となり、その後第6代で第二次内閣を結成している。初代大蔵大臣でもあり、財政政策で有名。戦後は在日韓国人により買い取られ韓国政府に無償貸与、東京五輪後に日韓基本条約が締結されて国交回復、正式に大使館となった。

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坂下に麻布山入口という交差点があるが、この麻布山というのは善福寺のこと。善福寺は824年空海による開山と言われる古刹。その後鎌倉時代には親鸞により浄土真宗の寺に変わり、代々の天皇や幕府に保護されてきた。開国でやってきたハリスもここに最初の米国公使館を設置したが、その歴史を見下ろしていた善福寺の逆さ銀杏が私にとっての主役である。東京大空襲では本堂が全焼したが銀杏は焼けても健在で今に至っている。樹齢は750年以上というから、空海や親鸞の時代には届かないが、江戸時代にはすでに大木だったはずである。この寺にはかつて部下だった男も眠っているので、毎年のようにお参りしている。

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2017年3月26日 (日)

絶江坂(南麻布)

薬園坂の一本東の道が絶江坂である。坂下の標柱には、「承応2年(1654)、坂の東側へ赤坂から曹溪寺が移転してきた。初代和尚絶江が名僧で付近の地名となり坂名に変わった。」とある。
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薬園坂のイラン大使館前から人ひとり通れるだけの路地があるが、古い地図を調べてみると、この路地は江戸期からあるようだ。不思議な曲がり方をしているので何故だろうと思った。イラン大使館周辺は江戸時代は常陸土浦藩の土屋家の下屋敷であった。そこから絶江坂にかけては寺町で、4軒の寺が軒を連ねていたが、その寺と寺の間の路地が今に残っている。明称寺、延命寺(現在は延命院)は現在も残っているが、東徳寺と龍徳寺はない。
 
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絶江坂は延命院と曹溪寺の墓地の間を上っていく。坂上は左に曲がって薬園坂に繋がる。辺りは麻布台地の南端にあたり、その河岸丘の斜面沿いに寺と武家屋敷が立ち並んでいた。今はその寺の周りに大使館やインタナショナルスクールがあったりして、隔世の感がある。
 

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2017年3月25日 (土)

釣堀坂(南麻布)

薬園坂の坂上近くから西に向かって下る路地がある。一見民家の中へ入っていくような様子だが、谷を下って再び上りその先は新坂に繋がっている。

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江戸の古地図にはこの道はない。 明治の終わりの地図にもないが大正時代の地図には載っているからその時期の開設だろう。向こうに見える谷から上る階段がとてもいい景色である。

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坂のくぼみは竹ヶ谷の沢筋である。その沢筋(上の写真の右側)に薬園坂緑地という小さな公園がある。この辺りの地層からは縄文時代の貝塚が発見されている。古川が形成されたのは数万年前、その後海水面が上昇し、四の橋あたりは海となり、この坂のある辺りが海岸となった。その時代のものである。

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2017年3月24日 (金)

薬園坂(南麻布)

奴坂の頂上から下るのが薬園坂。 逆に北へ上っていく(といっても勾配はない)と仙台坂上になる。 古い坂なので曲がりながら下っていく。

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坂の途中で右に釣堀坂の路地がある。坂下にも標柱があるが、「江戸時代前期坂の西部に幕府の御薬園(薬草栽培所・小石川植物園の前身)があった。訛って役人坂、役員坂と呼ぶ。」と記されている。

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坂下にはイラン大使館(イランイスラム共和国大使館)がある。坂下からの緩やかな湾曲を描いた坂の景色はなかなかいい。 そのまま坂下は江戸時代から古川を渡る四ノ橋に繋がり、白金台の三光坂方面に道は進む。

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2017年3月23日 (木)

奴坂(南麻布)

阿衡坂の坂下、本村小学校の角を右へ入ると谷底の道。 その路地を進むと後日説明する釣堀坂の由来となった釣堀衆楽園がひっそりとたたずんでいる。しかし奴坂は阿衡坂からの道を直進する。

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かつては坂上の白いマンションの角に標柱があったが今回はなくなっていた。朽ちたのかとも思ったが、路面もコンクリートで塗り固められていたので、マンションの方から撤去を申請されたのだろう。坂は江戸の坂っぽい曲がりながらの急坂。坂下の谷は竹ヶ谷(たけがやつ)という。竹ヶ谷の小坂で谷小坂(やっこざか)、薬王坂のなまりでやっこう坂、奴が付近に住んでいた坂、などの説がある。
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横関英一氏は「江戸の坂東京の坂」に薬王院があってそれで薬王坂とよんだが、それが訛って奴坂になったと推測している。古地図を調べてみたがその記述はない。しかし、最も納得できる説だと思う。

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2017年3月22日 (水)

阿衡坂(南麻布)

新坂の坂上、フィンランド大使館手前を右折すると大使館の素敵な石垣が終わるころから緩やかな下り坂。右側には本村小学校。明治35年(1902)の開校。都心でも360人の児童が通っている。廃校になる都心の公立学校が多い中では頑張っている感がある。
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この本村小学校一帯は、江戸時代初期には保科肥後守の下屋敷だった。保科正之は2代将軍徳川秀忠の実子(家光の実弟)だが、正室の嫉妬のために高遠藩の養子になったので保科の名になった。秀忠は彼の性格が温厚明敏であることを認め、将軍の侍従として、中国でいう「阿衡:天子の補佐役」の職を務めた。これが坂名の由来。
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保科肥後守は侍従となって家光に仕え高遠藩を離れ、会津城主となる。その後は摂政として将軍家に奉仕し、いったん焼失した江戸城の天守を再興するのに、すでに太平の世になり天守は軍用のもので必要はないとの主張をして、それ以来江戸城の天守閣は建てられなかったその中心人物だった。
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坂は本村小学校の先でもっとも標高を下げて坂下となる。 ここは古川に下る極めて短い沢がかつてはあったのだろう。この辺りには水源があったと思われる地形図の等高線が見て取れる。坂はここから上りになり奴坂に続く。

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2017年3月21日 (火)

新坂 (南麻布)

首都高速の天現寺出口の前にあるのが光林寺。江戸末期ハリスの通訳で、日本で殺害されてしまったオランダ人ヒュースケンの墓がある。落ち着いた山門がいい雰囲気を醸し出している。その先を左折すると新坂に入る。
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新坂といっても江戸時代の坂であるからゆうに200年は経過している。坂下の標柱には、「新しく開かれた坂の意味であるが、開かれたのは明治20年代と推定される。」とある。しかし天保14年(1843)の古地図にはすでに道がある。
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ゆるやかなカーブを描きながら登ると、坂上には左にパキスタン大使館、右にフィンランド大使館がある。フィンランド大使館の石組はなかなかのものだが、この一角は八戸藩南部遠江守の屋敷があった場所。この辺りは江戸時代から本村と呼ばれた地域で、今もその名は本村小学校に引き継がれている。

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2017年3月20日 (月)

青木坂(南麻布)

前述の新富士見坂に対する旧富士見坂が青木坂である。2010年ころフランス大使館の塀が、石垣と図形の入ったコンクリート塀からスレートっぽいコンクリートの成型塀にかわり雰囲気が大きく変化した。もとは樹木に覆いかぶされ、もっと細くて暗い坂だったのに妙に明るくなった。

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坂の上下に標柱がある。「江戸時代中期以後、北側に旗本青木氏の屋敷があった為に呼ばれた。」とある。江戸切絵図(古地図)を見ると青木甲斐守の屋敷は坂の南側である。しかしどうも甲斐守ではなく、摂津藩主である青木駿河守の屋敷はそれ以前坂の北側にあったようだ。江戸時代も長いのでその間に屋敷替えが度々行われた。この辺が江戸時代を読むのに難しいところである。

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青木氏の屋敷は現在フランス大使館の大使が暮らしていると思われる建物の辺り。裏の門の辺りになる。かつては時代感のある雰囲気の江戸の坂だったのに、今は完全に平成の坂になってしまった。

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2017年3月19日 (日)

新富士見坂(南麻布)

営団地下鉄日比谷線の広尾駅から外国人で賑わうナショナル麻布スーパーマーケット側に進み、変形の丁字路を右に入ると道の曲りの所に広尾稲荷神社がある。この稲荷は弘化2年(1845)に青山から麻布一帯を焼いた青山火事によって社殿を焼失、しかし2年後に再建された。

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その際に拝殿の天井に描かれたのが高橋由一の描いた『広尾稲荷拝殿天井墨龍図』。狩野派の流れをくみながら近代洋画最初の画家だった高橋の水墨画は天井から気を降り注ぐように感じられる。

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広尾稲荷を出ると隣には三基の庚申塚がある。元禄時代(1600年代後半)のもの。広尾は江戸時代にはまだ江戸郊外の様子だった。広尾稲荷は江戸後期の古地図には富士見稲荷という名で書かれている。この地の南には渋谷川(古川)が谷を刻み、西にはその支流の笄川が窪地を形成している麻布台地の南端で、西南西向きの坂からは富士山が望めたはずである。

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新富士見坂は「新」と付くだけに比較的新しい坂である。坂の標柱には、「江戸時代からあった富士見坂(青木坂)とは別に明治大正頃に開かれた坂で、富士山がよく見えるための名であった。」とある。坂はクランクして登っていくが、上の角の手前に古い欄干があるが、ここに沢があった形跡はないので、もしかしたら富士を眺める人が落ちないように大正以降に設置されたのかもしれない。

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江戸時代の古地図を見ると広尾稲荷(富士見稲荷)は裏手の傾斜地まで広がっていたようである。台地の上から稲荷に入る道もあったので、稲荷の裏手の高台から富士を望むことは十分できたに違いない。

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坂を上りきると高級な住宅が広がる。広尾駅東側一帯有栖川公園以南は今でこそ南麻布の住所だが、昭和41年(1966)までは麻布富士見町だった。北側の一角は現在ドイツ大使館、そして南側にはフランス大使館があるだけに洋風な雰囲気も濃く、それでいて江戸時代の大名の下屋敷の雰囲気も残した魅力的な異国情緒が感じられる。

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2017年3月18日 (土)

日東坂(日糖坂)

明治坂上から急坂の新道を下って外苑西通りを横切りそのまままっすぐに進むと日東坂の坂上に出る。 坂上に標柱がある。「日糖坂ともいい、日東紡あるいは日本製糖の用地があったからと伝える。大正初年に開かれた坂と推定される。」と書かれている。

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景色はどこにでもある直線の坂道である。ただし白金自然教育園の真裏の道なので木立が視界に広がり、野鳥の声も響いて気持ちのいい環境ではある。 自然教育園は戦前は白金の御料地だったが、それ以前の明治時代は海軍の白金火薬庫だった。

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江戸時代は高松藩の松平讃岐守の下屋敷が概ね白金自然教育園の敷地で、日東坂の周辺は松平和泉守(今の愛知県の西尾藩)の下屋敷だった。  白金台の辺りは江戸の町の中では本当に外れにあたり、そこから先は田畑と野原だったようだ。

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2017年3月17日 (金)

明治坂(白金)

北里研究所前を恵比寿駅方向に歩く。 途中斜めに分かれる路地がある。直進して恵比寿駅に繋がるバス通りは大正から昭和にかけて通された車道で、明治時代まではこの斜め道が白金から恵比寿ビール工場へのルートだった。 当時は今のガーデンプレイスの裏手の線路際から小川が流れ、この道沿いから北里研究所に流れていたようだ。

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その路地から直角に南に向かう上り坂がある。明治坂である。坂下と坂上にある標柱には、「昔から存在していた道であるが、明治坂と呼ばれたのは、大正初年からであると伝えられる。」と書かれている。 明治時代には明治坂とは呼ばれていなかったようだ。

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ややくねりながら登っていく急坂だ。 前述の坂下の路地には古い商店が並んでいたが、大正時代に開けていった商店街の名残りで、白金の住宅に住む住民の買い物の街だったようだが、今はほとんど営業していない。

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坂上はまさに高級住宅街だが、東側は大きな屋敷は少なく、白金台の中では初期の住宅街だと言える。それに比べて西側は大きなマンションが目立つ。この一角は高度成長期前までは都心でも貴重な自然が残る場所だったようだ。  外苑西通りが白金トンネル手前で左に折れ、目黒通りに接道する間の幅広い道路が昭和30年代に開通し、明治坂上からその新道に無理に繋げた急坂が下の写真である。

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都心ではあるが、起伏の激しい白金台は想像力を働かせると、自然に包まれた丘陵だったことを容易に感じられる。 

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2017年3月16日 (木)

蜀江坂(白金)

聖心女子高の裏手からまわり、塀沿いに進むとクランクがある。ここから先が蜀江坂である。 名前の由来は標柱によると、「坂上の丘を紅葉が美しい中国の蜀江にちなんで蜀江台と呼んだことからつけられた。昔の字名は卒古台であった。」とある。

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明治時代の地図にはすでに聖心女子学院があり、蜀江坂の坂名も記載されている。 江戸時代は茶畑に囲まれたエリアだが一番高いところに蜀江臺の記載がある。写真のクランクから坂は下りになる。

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坂の勾配に合わせて段々になった聖心の塀が美しい。 やはりコンクリートではなく煉瓦、さらに木塀、最高なのは石積みの塀だろうか。 煉瓦の中では相当にいい景色の坂である。昔は丸いコンクリート舗装(真空コンクリートパネル舗装)だったがいつからかアスファルトに変わってしまったのがいささか残念である。

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坂下になると勾配は緩やかになり、間もなくバス通りに出る。 出たところは北里研究所の病院である。 最近行った時には大村智氏のノーベル賞を祝った垂れ幕が沢山かかっていた。

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2017年3月15日 (水)

聖心女子高校裏手の坂道

この坂は特に書物に載っているとか、名前があるような坂ではない。それでも私のお気に入りの坂道なのである。

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三光坂の坂上に服部邸の門がある。その先を進むと右手に聖心女子高校の敷地へつながる広い路地があるが、入り口に守衛がいて当然その道に進むことはできない。 一方通行出口の標識の少し先の路地を右に入る。 そこはまるで住宅街の小道のようだが、少し歩くと上の写真の風景が現れる。

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そのまま進む。右のコンクリート塀は聖心女子の敷地。左の石垣は東京大学医科学研究所である。エイズなどの研究が有名だ。聖心の敷地は江戸時代は松平右近(現在の島根県浜田の大名)の屋敷だった。一方の東大医科学研究所は松平阿波守(徳島藩)の屋敷だった。もっとも江戸時代は結構屋敷替えが行われたので、徳島藩は幕末に近い頃のことである。

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今来た坂道を振り返るとそこにはまた反対から眺める薬研の坂。こちらも悪くない風景である。

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2017年3月14日 (火)

三光坂(白金)

三光坂は白金台の坂である。亡父が戦前に一時東京で暮らしていた時に恵比寿の豊澤町の親戚に居候をしていた。天現寺から渋谷の宮益坂まで都電で渋谷に映画を観に行っていたらしい。豊澤町は今の都立広尾病院の辺りである。また彼の行動範囲は白金三光町の方にも広がっていたらしく、そっち方面の話も聞いたものだ。 三光町には友人がいたようなことを言っていた。

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その三光町の通称バス通りから上る急坂が三光坂である。 港区の標柱は、「本来は坂下専心寺にあった三葉の松に基づき三鈷(さんこ仏具)坂だったというが、日月星の三光などという。」と意味の分からない説明で閉口した。 もっとも10%の勾配というのは大した坂ではないが、ここは見通しもよく風情を感じる。

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標柱の解説を紐解くと、坂下には氷川神社と並んで専心寺という寺があり、そこには珍しい松があった。普通松の葉は2本だが、ここの松は3本(三葉)の老松だったという。三代将軍家光が鷹狩りでこの寺に立ち寄った折、この松を愛でて三鈷松と名付けたという。三鈷というのは三又の仏具のことだが、その三鈷に因んだ三鈷坂が転じて三光坂になったという話のようである。

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三光坂を上りきると左側に延々と続く風雅な塀が現れる。門構えも随分と立派で皇族の館の雰囲気がある。 調べてみると服部家の屋敷だったようだ。服部家というのは時計のSEIKOの創始者である。 敷地は17,000平米ある。戦後GHQに奪われたが、その後セイコーが210億で買い戻した。しかし2014年にシンガポールのディベロッパーが305億で取得したらしい。庶民には縁のない話だ。

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服部邸の裏側に魅力的な坂道がある。 日吉坂のときに書いたあの坂道である。ここは宿題になったという隠れた無名の名坂。 この辺りをまたゆっくりと散策したいと思う。

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2017年3月13日 (月)

名光坂(白金)

国道1号線桜田通りの白金台辺りはその昔、葦原の中に沢の流れる風景だった。今の高輪台駅辺りを源頭にして古川橋辺りに流下していたと思われる。この沢が白金台と高輪台を分けているのである。

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坂名の由来は石川悌二氏の『江戸東京坂道辞典』によれば、「この辺りがむかし蛍の名所で、名光の地名になったことによる」とある。その情報元は『府内備考』の記述からのようだ。名光のが転じて、なこう坂とよばれ、また那光坂とも書かれた。

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現在は片側4車線に広い歩道付きの大通り。 さすがに国道1号線である。しかし江戸時代は寂しいところで、1800年代半ばでも葭原と樹木に覆われた谷で樹木谷と呼ばれた。それ以前は、地獄谷とも呼ばれたが、それはそういう寂しい場所だったので斬罪場(首切り処刑の場所)にもなっていたためのようだが、江戸後期には地獄谷とは呼ばれなくなったようだ。

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坂下の白金高輪駅上から国道1号線の桜田通りは魚籃坂を経て慶応大学方面へと方向を変える。 この交差点に古風な町屋が残っている。 人の出入りもありそうだが、調べてみると田中吉左衛門商店の所有となっている。三の橋にはまだこの会社の店舗があるようだ。

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2017年3月12日 (日)

日吉坂(白金)

桑原坂が接する目黒通りの交差点は日吉坂上。 ここから目黒通りは東に向かって下っていく。 この坂が日吉坂。 坂下は清正公の交差点。 清正公は坂下南側の覚林寺の通称。清正公はもちろん加藤清正である。端午の節句の清正公大祭にはわが子の成長を願う参詣客でにぎわう。 祭りの夜店は目黒通りではなく桜田通りを渡った天神坂に並ぶのは、昔の街道が二本榎通りだったことの名残だろうか。

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日吉坂上の交差点と都ホテル前に標柱がある。「能役者日吉喜兵衛が付近に住んだためと伝える。ほかにひよせ、ひとせ、ひとみなどと書く説もある。」と記されていた。

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以前は歩道のない片側2車線の目黒通りだったが、今は拡幅され広く整備された歩道で広々感がある。 坂の途中に三光坂上につながる細道がある。服部邸の脇を通る坂で、無名だが魅力的なので近々再訪したいと思っている。

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坂下の都ホテル東京は今の名前はシェラトン都ホテル東京。 1979年に開業したが、その後海外ホテルチェーンと提携解消を経て今はシェラトンの冠をつけているが、所有は日本の近鉄である。

坂下は昔は小さな川が流れる沼地だった。葭が生え葭原を形成していた。その後江戸期には多くの寺が建てられて台地の武家屋敷も増えていったようだ。清正公の向かいは熊本肥後の国の細川家の屋敷だった。

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2017年3月11日 (土)

桑原坂(白金台)

手前事だが長女が2年ほど前に白金の八芳園で結婚式を挙げた。 その八芳園の角から明治学院大学方面へ下るのが桑原坂である。 坂の上下にある標柱には、「今里村の地名のひとつである。その起源について、特別の説は残っていない。」と港区らしくそっけない。

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八芳園の角に古地老稲荷神社という小さな稲荷があるが、これは文政13年(1830)の鎮座で村人が建てたようだ。 坂の南の裏手にある瑞聖寺(ずいしょうじ)のほうが古く寛文10年(1670)の開山。 現在のこの辺りの住所は白金台だが、明治の初期は南白金村、大正時代になって今里町となったようだ。

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坂の景色のひとつに八芳園の木塀がある。この段々になった黒塀が雰囲気を深いものにしている。 八芳園は大久保彦左衛門の下屋敷の跡だと言われているが定かではない。江戸後期の地図には松平薩摩守の屋敷になっているから島津藩の屋敷だったのだろう。

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坂を下っていくと明治学院大学がある。 島崎藤村の出身校である。 明治学院大学ができたのは明治時代(1887)で、創始者はローマ字を作ったヘボン夫妻、そのヘボン塾が母体である。


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2017年3月10日 (金)

幽霊坂(高輪2丁目)

高輪にはもう一つの幽霊坂がある。 標識もなければ何もないが、高級住宅地の高輪台のなかでも不思議なエリアである。泉岳寺の山門を出て右に進む。 2本目の路地をさらに右折すると、その先左にカーブするあたりからがその不思議な空間になる。 右手に階段を見て工事フェンス沿いに回り込む。この高輪にこれだけの空き地があることも不思議だ。崖の上のオレンジ屋根の家の裏は赤穂浪士の墓。

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この空き地は数年前までパークテラス高輪という低層の高級マンションが建っていた。まだWEB上では物件として部屋の案内が残っていたりする。 築年は1985年だから25年ほどで取り壊された不思議な物件だ。賃貸だったようで広告には4SLDKの部屋が出ていた。リビング52帖、ダイニング19帖、4ベッドルームで8帖~14帖まで、キッチンは20帖以上ある。家賃は100万円は下らないだろう。同じマンションのずっと狭い3LDKの部屋が75万だったから。そんなマンションは見たことがない。しかし解体されたのはなぜか疑問が残る。

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上の空き地の裏手で不思議な角を曲がると正面に急こう配の坂道が迫ってくる。 坂は頂上に着く手前でいったんクランクする。 こういうクランクも何故できたのかという疑問がわく。

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坂上から坂下を望む。遠くに見えるのは住友不動産の三田のベルサールの赤い高層ビル。 坂の名がいつつけられたのか、坂名の由来、ほとんどが謎だが、高輪の中でも魅力的な坂と言える。 この崖は川が作り出したものではなく、遠い昔に海が侵食してできたものだろうと思う。

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2017年3月 9日 (木)

蛇坂(三田)

慶応大学三田校舎の前を白金方面へ進む。都心には似合わないケーヨーデイツー三田店の手前の路地が蛇坂の入り口。 桜田通り側の入り口と坂の途中のクランクのところに標柱がある。ここの説明も幼稚園児並みだ。「付近の藪から蛇が出ることがあったためと想像されている」とだけ書いてある。 手抜き息抜きごぼう抜きな標柱だ。

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江戸時代、慶応大学の敷地は松平主殿頭の屋敷、深溝(ふこう)松平家で三河の国、今の愛知県の幸田町の殿様。国替えを何度かして江戸末期は島原藩を治めた。 その北側のイタリア大使館も松山藩の松平隠岐守の屋敷だった。大名屋敷だったところはそれなりに面積のある施設に変わっていることが多い。

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蛇坂の坂上は安全寺坂の坂上とつながっている。 桜田通り側の崖が急である。 この地区は寺また寺の寺町だったが、今もいくつもの寺が残っているが、寺も厳しいのだろう。写真は西蔵院の裏の墓地だが、蛇坂側から下る階段も荒れ果ててしまっている。

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坂上からは、普連土学園の近代的な渡り廊下の下の公道を通ると潮見坂に出る。この3つの坂の道のつながり方は江戸時代とは変わってしまった。江戸時代は、潮見坂がまっすぐに伸びて丁字路、右へ行くと安全寺坂、左へ行くと蛇坂だったようだ。

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2017年3月 8日 (水)

安全寺坂(三田)

面白い名前の寺があったものだ。現在はもう存在しない。江戸末期の地図にもない。どうやら江戸の初期にあったようだ。 しかし400年も昔の寺の名前が今に残るのは大したものだと思う。 江戸期にはこの辺りは寺だらけだった。にもかかわらず安全寺坂という名前が残ったことに感心する。

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標柱には「坂の西に江戸時代のはじめ安全寺があった。誤って安珍坂、安楽寺坂、安泉寺坂、などと書かれたことがある」とある。 相変わらず簡素な説明だ。坂は直線的に下り、桜田通りに出る。正面は慶応大学三田校舎。

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安珍坂という別名は、安全坂につながる蛇坂と混じって、安珍清姫の話とこんがらがって呼ばれたものと思われる。 このへんは江戸っ子のそそっかしさが出ていて面白い。

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2017年3月 7日 (火)

潮見坂(三田)

潮見坂(汐見坂)という坂は別名を含めて東京に8ヶ所ある。 どの潮見坂も今は海を望むことはできない。この三田の潮見坂は中でももっとも海に近い坂のひとつである。

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今はと言えば、町の路地に過ぎない景色になってしまった。 ただ、三田が鞍型の地形をしていることがこの坂を進むとよくわかる。 坂上で左に折れると普連土学園中学校高校の塀沿いに進んでいく。 この辺の景色はまずまずのもの。

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クランクのところから坂を振り返るとその先にはマンションと高層ビルが見える。 昭和の中頃までは海が見えたのだろう。 そびえているガラスの高層ビルはバンダイナムコのビル、その右側は線路の向こうの田町グランパークタワーである。その二つの高層ビルの間が江戸時代の海岸だったから、この坂から海が見えたというのは想像に難くない。

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2017年3月 6日 (月)

聖坂(三田)

二本榎通りは高輪台から三田台地にかけての背骨である。三田台地というのはいささか大げさかもしれない。 慶応大学のある島に向かって伸びた半島の首が桜田通りのところでほぼ海水面近くまで標高を下げる、この最後の下りが聖坂である。

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この半島を作ったのは古川(渋谷川)だ。 北海道の川の流れを見ると曲がりくねっていて、所々に三日月湖などを形成しているが、この東京でも似たことが文明以前には起こっていたわけである。慶応大学の南側の桜田通りのくびれはどうしてできたのだろう、そういう事を考えるのが面白い。

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区立三田中学校辺りから下り坂が始まる。 長い直線の坂である。 坂の上と下に標柱がある。「古代中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったためという。竹芝の坂とよんだという説もある。」と港区の標柱にしてはしっかりと書いてある。古代中世の通行路というのは二本榎通りである。江戸時代以前の東海道は丸山古墳のある芝公園から桜田通り沿いに南下、慶応大学のところでは曲がらずその先の三田三丁目から聖坂へと通じていた。

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江戸時代の坂道を歩き回っていると、さらに古い道に出くわすことがある。 徳川は五街道を整備した。東海道、甲州街道、中山道、日光街道、奥州街道である。しかしそれ以前にも道はあちこちに続いていた。もちろん京都中心の時代だから、東京は東国の秘境。また鎌倉時代にはいざ鎌倉と駆けつけるために整備された道があり、関東のあちこちに鎌倉街道という名の通りがあったりするから面白い。

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2017年3月 5日 (日)

幽霊坂(三田)

幽霊坂と名付けられた坂は東京に8か所あるが多くは別名が幽霊坂である。おおよそは暗い坂であることからついた別名だが、本名が幽霊坂というのは半分。文京区の目白台に2ヶ所、靖国神社裏に1ヶ所、そして高輪台の幽霊坂とこの三田の幽霊坂である。幽霊坂の条件を寺町であり墓がそばにあるという点では、この幽霊坂が随一だといえる。

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それに加えて若干苔生した石垣が雰囲気を盛り上げている。三田のこの辺りは寺また寺の街である。南西の魚籃坂からこの幽霊坂までの200~300m四方の中になんと15の寺院がある。

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幽霊坂の面白い点はその雰囲気だけでなくここが二段坂になっていることだろう。 一つだけ垂直に接続する丁字路の道筋周辺が踊り場のようになっている。高輪台地が古川に削られた河岸段丘の名残だろうか。この辺は自分の中で宿題にしたいところ。

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さらに雰囲気が高まるのは踊り場から下、桜田通りに出るまでの下り坂。 玉鳳寺の門前から随應寺と忍願寺の間を下っていく、幽霊坂の中でももっとも斜度のある部分。坂に合わせて階段風になった随應寺の塀が綱坂のそれに似ていて優雅さを感じる。

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桜田通り側から望むとこんな感じの風景。 この辺りに寺院が多いのは、江戸の初期に幕府が江戸城の城郭拡大に伴って八丁堀にあった寺院がここに移転させられたからと伝えられる。 しかし八丁堀辺りは江戸入城期に埋め立てられたエリアだから、わずかな期間でここに移転させられたのだろう。例えば随應寺は1611年に八丁堀に創建、1635年にここに移転、玉鳳寺は1599年に八丁堀に創建、1635年に移転。 概ね1635年に多くの寺がここに移されたという記録がある。

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2017年3月 4日 (土)

伊皿子坂(高輪台)

魚籃坂の坂上からそのまま馬の鞍の反対側に降りるように下っていくのが伊皿子坂。 このエリアは幸福の科学の施設が多い。今、話題の新興宗教で、言っちゃあ悪いがどの建物も趣味が悪い。 坂上から見下ろすとビルが多いが、江戸時代は海が見えたはず。

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坂上と坂の途中に標柱がある。「中国人伊皿子(いんべいす)が住んでいたと伝えるが、他に大仏(おさらぎ)のなまりとも、いいさらふ(意味不明)の変化ともいう。」とう訳のわからないことが書いてある。  本当に港区の説明書きはテキトーだ。

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坂の南側に駅のホームのようにずれた歩道がある。 このような場合は段差の追いやられている側が昔の道である場合が多い。 大正期に都電がこの通りを走っていた。 急な傾斜を緩和して新しく道を広げたと推測できる。また、江戸期はこのまままっすぐに大木戸の方に下るのが本来の伊皿子坂だったが、電車が通るとそっちがメインルートになっていった。

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江戸期の伊皿子坂の下半分の名残が大木戸の交差点に向かって下っていく。 この曲がり方は古い道であることを証明している。 下って第一京浜を渡り少し品川駅方面に行くと大木戸跡がある。高輪大木戸は江戸時代中期に芝口門に建てられたものが享保9年(1724)にここに移された。 江戸南の入り口として、道幅約10mの旧東海道の両側に石垣を築き、夜は閉めて通行止めとし、治安維持と交通調整の機能を果たしていた。

一方の新しいほうの道を下ると途中で折れ曲がる。これは泉岳寺の参道に突き当たって参道に合流する形をとっているからである。

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泉岳寺は赤穂浪士の墓が有名で、実際には和洋沢山の参拝客がいる。萬松山泉岳寺は曹洞宗の寺。 慶長17年(1612)に今川義元の孫である門庵宗関(もんなんそうかん)和尚を立てて徳川家康が外桜田に創設(今のホテルオークラ辺り)。 しかし寛永の大火で焼失し、現在の高輪の地に移った。

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2017年3月 3日 (金)

魚籃坂(高輪台)

首都高速2号目黒線が古川の流れに沿って北上する古川橋から南に少し行ったY字路の交差点が「魚らん坂下」その先の桜田通りとの交差点が「魚籃坂下」。同じ名前だが道路標識の名称が漢字と仮名で違っているのが面白い。桜田通りを過ぎて二本榎通りとの交差点「伊皿子」までが魚籃坂である。

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標柱の説明は、「坂の中腹に魚籃観音を安置した寺があるために名付けられた」と極めてシンプルな文章のみ。 魚籃観音があるのは魚籃寺である。寺の創設は承応元年(1652)。江戸の絵図には「魚籃観音」とある。魚籃坂から慶応大学三田校舎の辺りまでは、寺町だった。その南の端が魚籃観音だ。

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伊皿子の交差点から魚籃坂を見下ろすとその彼方には六本木ヒルズがそびえている。坂の中ほどに昭和期には魚籃坂病院という病院があった。この病院と魚籃坂をモチーフに書かれたのが横溝正史の『病院坂の首くくりの家』と言われている。 古い昭和の地図では病院だが今は中くらいのマンションになっている。 奇しくもその位置は標柱の場所だった。

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2017年3月 2日 (木)

葭見坂(高輪台)

天神坂の北側にあるのが葭見坂。 桜田通り辺りは葭原で、古川の支流の沢筋。 今の桜田通りの脇道を入る。 少し先になると軽自動車がやっと通れるかという細道になる。 細道の先でクランクする辺りから若干道幅が広がるが、普通車がやっとの広さ。

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江戸時代は細川越中守の屋敷があったところ。 細川越中守とは細川忠興(ただおき)、正室は明智光秀の娘細川ガラシャ。敷地は広く現在の区立高松中学校と高松宮邸を含めた広さがあった。その南側の路地筋に当たる。この細川邸の名残としては中学校の脇に旧細川邸のシイの老木が残る。

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また上の写真は高輪一丁目アパートの裏手にある大石良雄外十六人忠烈の跡。 忠臣蔵で知られる赤穂事件の折、大石内蔵助ら17人が預けられた細川邸の一部。ここで赤穂浪士たち17人は切腹をしたという場所である。

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2017年3月 1日 (水)

天神坂(高輪台)

二本榎通りを北へ進む。途中魅力的な路地があったがこれは別の機会に紹介したい。東海大学付属高輪高校を過ぎると、角に古風な建物の店舗が現れる。とらや(虎屋)という和菓子屋。 しかしあちこちのデパートにある、あの箱の底に賄賂を忍ばせるあの虎屋とは無関係らしい。

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そのとらやの角を入り桜田通りに下るのが天神坂である。 坂の上と下に標柱がある。 「むかし坂の南側に菅原道真の祠があったためにいう。葭原が見えるので葭見坂・吉見坂といったという説もあるが坂間違いらしい。」とある。相変わらず港区の標柱の説明は短くてテキトーだ。

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坂はなかなかの勾配である。明治の地図を見ると桜田通りの筋には川が流れていた。渋谷川(古川)の支流で、明治学院大学の南側に水源の池があり、そこから北に流れていた。その沢が削った谷がこの坂を形成したようだ。

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2017年2月28日 (火)

洞坂(高輪台)

桂坂の途中、東芝山口記念館の脇を入る路地が洞坂である。洞坂の洞とは窪地の意味である。 魅惑の路地に入っていく感じがする。 記念館の裏手の角まで来ると左に折れる。 そこからが下り坂になる。 その角に標柱がある。

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法螺坂、鯔(ボラ)坂ともいう。 鯔坂は手前の桂坂の「カツラ」を「カツヲ」と読み違え鰹坂と呼んだ江戸っ子が、それならこっちはボラだぜぃと鯔坂と名付けた可能性があって面白い。樹木に囲まれた洞坂ゾーンに入っていく。

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「法螺坂・鯔坂とも書く。このへんの字を洞村と言った。洞村とはむかし法螺貝が出たとも、また窪地だから洞、という等様々な説がある。」と記されている。港区の標柱の開設は簡素に書いてある気がする。 ここから洞坂は急な下り坂。 道幅も細くなる。

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坂下も急カーブ。坂下にも標柱がある。手すりが坂の急さを物語っている。坂の下には東禅寺がある。国指定の史跡である。幕末の安政6年(1859)に最初の英国公使館が置かれた場所。 幕末の開国に伴い、初代英国公使ラザフォード・オールコック(Rutherford Alcock)が着任すると、東禅寺がその宿所として提供された。
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山門脇には石碑で「都旧跡 最初のイギリス公使館跡」と記されて説明板が設置されている。かつては大きな寺だったと見えて、山門の前から第一京浜までしっかりとした広い参道が一直線に通っている。

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2017年2月27日 (月)

桂坂(高輪)

高輪台は国道1号線である桜田通りと国道15号の第一京浜の間にある南北に長い丘陵地である。江戸時代は東海道(今の第一京浜辺り)が主要街道になったが、元々は尾根筋の二本榎通りが古道であった。高輪署前の公園に二本榎の由来の説明板がある。

「その昔、江戸時代に東海道を日本橋から来て品川宿の手前、右側の小高い丘陵地帯を「高縄手」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が2本あって、旅人のよき目標になっていたそうです。誰いうとなくこの榎を「二本榎」と呼ぶようになりました。それがそのまま地名になって続き、榎が枯れた後でも地名だけは残りました。戦後地番変更で高輪何丁目などと地名は変わりましたが、榎は幾度となく新植、移植が行われ、町の大切な象徴になっています。」

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近代になってこの二本榎の交差点には写真手前の警察署と向こう側の消防署ができた。この二本榎出張所(旧高輪消防署)の建物は、ドイツ表現派の歴史的建造物で2010年に東京都選定歴史的建造物に指定された。 火の見櫓からは東京の海が見渡せたと伝えられるが今は無理である。この消防署と警察署の間から下るのが桂坂だが、大正以前はここからではなく、もう少し三田よりの路地からクランクして東海道に下って行った。

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左手に野村證券研修所の石垣、右手に東芝山口記念館の石垣とお屋敷を眺めながらまっすぐに下っていく。 東芝山口記念館は今問題山積の東芝の迎賓館の役割を持った洋館で、大正時代の建築である。こういうのは真っ先に資産処分されるのだろう。しかし、東京に残る戦前の屋敷はできるだけ文化財として残してほしい。どうせ人口は減るのだから、味気ないマンションを林立させるような無粋なことはしないほうがいい。

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桂坂は下から見上げるほうが姿がいい。 残念ながら坂の上のその先には、桜田通り沿いにある高層マンション「高輪ザ・レジデンスのタワー棟」が視界に入る。 とはいえ坂の両側の石垣と木塀は風情を残していて、車で通るのはもったいない坂道である。坂の上下に標柱がある。「むかし蔦鬘(つたかずら・桂は当て字)がはびこっていた。かつらをかぶった僧が品川からの帰途急死したからともいう。」

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坂下には高輪海岸の石垣石が残っている。 当時はこの辺りが海岸線だったようである。明治初期の地図を見てもまさにこの辺りが海岸線で、その少し沖を鉄道が走っている。明治の時代には鉄道を通すと伝染病が渡ってくるとか様々なデマが流れて街道筋や街に鉄道を通すことができず、新橋横浜間も海の中を走るところが多々ある。

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2017年2月26日 (日)

石榴坂(高輪台)

石榴坂については以前にもまとめて書いたことはあるが、データベース風に纏めるために坂を一つずつ改めて書きまとめていくことにした。 品川駅高輪口を出て第一京浜を渡ると高輪ウィング。 そのわきの道路が石榴(ざくろ)坂である。坂の途中の標柱には、「坂名の起源は伝わっていない。ざくろの木があったためか。江戸時代はカギに曲り、明治に直通して新坂とも呼んだ。」とある。

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上の地図は明治初期のもので、この時期はまだクランクしている。 プリンスの駐車場の北側の落ち込んだエリアは池だったことがわかる。 また、品川駅は現在の場所ではなく、乗車場と記されているのが新橋~横浜時代の品川駅で、現在の場所でいうと京急線とJRが並走しているあたり、今のホームの100mほど南になる。そしてそこは海の中だったということもわかる。

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クランクだった石榴坂は明治の終わりには多少まっすぐになったものの、今のような直線になったのは大正になってからだと思われる。 坂の北側は私の時代は京急が経営していたパシフィックホテルという名前だったと記憶しているが、現在は品川GOOSという施設で依然京急の施設。

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坂上から見下ろすと品川駅とその向こうの港南口のビル群が迫ってくるようだ。坂上にはカトリック東京大司教区高輪教会があり、江戸の殉教者顕彰碑が建てられている。 1623年、徳川家光は外国人宣教師を含む50人のキリシタンを迫害政策により江戸市中引き回しの上札ノ辻の小高い丘で火刑に処した。こののちも迫害は進み、当時江戸市中で2,000人が殉教した。これを「江戸の大殉教」と呼んでいる。 顕彰碑は刑場跡の三田の智福寺境内に建立されていたものを、1956年に此処に移設したと記されている。

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2017年2月25日 (土)

明神男坂・女坂(千代田区)

神田明神の周りだけが千代田区で文京区の陣地(台地の上)に食い込んでいる。これは神田の氏子の領域と関係があり、神田、日本橋、秋葉原、大手町が氏子の区域で大部分は千代田区に属するため、神田明神も千代田区に属したのだろうと推測している。 神田明神についてはおそらく分厚い書物になるくらいの話題が転がっているので、そこには突っ込まない。

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神田明神を見上げる外神田からはかなりの高さに見える。ここは本郷大地の東の端で、かつては波打ち際だった。その後江戸時代にかけて海水面が下がり、徳川の街づくりもあって東側は賑やかな街になった。 また徳川の命により伊達政宗が堀った御茶ノ水の神田川で台地は切断されたので、外神田からのアプローチがメインルートになったのだろう。

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上の断彩図の中央の出っ張り台地が神田明神である。北側は嬬恋の沢があって、東側は台地の端、南側は神田川の峪の東端。神社としては最適な地形である。男坂・女坂はこの東側の縁に刻まれている。

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男坂の落ち方はなかなかのもの。 崖を見下ろす感じがある。 坂の上に標柱がある。「この坂を明神男坂といいます。明神石段とも呼ばれます。『神田文化史』には「天保の初年当時神田の町火消、『い』、『よ』、『は』、『萬』の4組が石段を明神に献上した」と男坂の由来が記されています。この坂の脇にあった大銀杏は、安房上総辺りから江戸へやってくる漁船の目標になったという話や、坂からの眺めが良いため毎年1月と7月の26日に夜待ち(観月)が行われたことでも有名です。」

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一方の女坂は後に作られた石段で由来などはわからない。標柱もない。かつては石段で風情が残っていたが、数年前に改修されまったく味わいのない階段になってしまったのが残念である。

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石段は趣があるがコンクリートやタイルの階段は本当に味気ない。 さらに耐久性も極めて劣る。 石段は数百年経っても使用に耐えるが、コンクリートは風化が早く数十年しか持たない。 したがって由緒のない階段はすべてつまらない階段に変わっていく。

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まあ、これも生活道路に過ぎず、千代田区の工事ではあるが予算はかけられなかったのだろう。 もし標柱が建つような坂だったら違ったかもしれない。 実は東京にはこういう階段が沢山ある。 その魅力もなかなかのもので、ぜひ探し回ってみたいといくつも歩いたが、あまりの多さにとても週末の散歩では追いつかないのである。

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2017年2月24日 (金)

三ベ坂(千代田区)

日比谷高校の新坂(遅刻坂)を登りきるクランクして三ベ坂中腹の辻に出る。新坂の北側はメキシコ大使館。その東側の辻はすでに坂道の途中で、下っていけば山王神社と山王坂の間の交差点に出る。

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上の写真の左向こうのビルは議員会館。三ベ坂はS字を描いて下っていく。この辻の石垣は国立国会図書館の裏側で、その石垣の下に標柱があったが誰かのいたずらでほとんど字が読めないほどかすれている。 こういうセコい悪事を許すと世の中は悪いほうに転がる。

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読めない標柱にかすかに書かれている文章 - 「此の坂を三べ(さんべ)坂といいます。
 「新撰東京名所図会」には「華族女学校前より南の方に下がる坂を、世俗三べ坂といふ。昔時、岡部筑前守、阿部摂津守、渡辺丹後守の三部ありし故に名づくといふ」 とあります。また坂上の西側一帯は松平出羽守の屋敷で、松平家が赤坂門の水番役をかねていたところから、門前の坂は水坂ともよばれていました。」

上の写真の左側が華族女学校跡だが、今は参議院議長の公邸になっている。

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2017年2月23日 (木)

新坂(遅刻坂)

前述のプルデンシャルタワーと郵便局のある山王グランドビルの間を入る上り坂が新坂である。 別名の遅刻坂は日比谷高校の生徒があまりの上り坂に走ることができずに遅刻坂と呼んだ説が有力だろう。

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勾配が途中から急になると、石垣に挟まれる素晴らしい景色の区間になる。 右の石垣の上は日比谷高校の校舎。 都会では珍しいが、田舎の学校は災害時のことも考慮して山を切り崩して設置されていることが多く大概坂の上にあるので、私のような田舎者には違和感はない。

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右の石垣は素晴らしい。 石垣の上にある日比谷高校は大正時代まではお屋敷だった。 明治時代は高崎邸、大正期は村井邸となっている。村井邸は煙草で財を成し、ここの屋敷は山王荘と呼ばれた。 石垣の上のツタの絡まる建物が遺構で、村井家の倉庫だった建物。 江戸期は岸和田藩屋敷だった。 多くの歴史を重ねた場所でもある。

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坂の標柱には次のように記されていた。「この坂を新坂といいます。『新撰東京名所図会』には「墨西其公司館の南方を溜池の方に下る坂をいふ」と記載されています。名前の由来は新しくできた坂ということでその名が付けられています。明治9年(1876)の地図には道が入っていませんが、明治17年(1884)参謀本部の図では現在に近い道路が見えています。おそらくそのころできた坂でしょう。また、別の名を遅刻坂とも呼ばれていますが、官庁街に向かう役人、登校を急ぐ学生がカバンを抱えて駆け上がる風景から呼ばれたとも言います。」

明治の坂というのはその通りだが、溜池が埋め立てられてから台地に上るためにできたというのがおそらく正解だろうと思う。

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2017年2月22日 (水)

山王切通坂(千代田区)

赤坂の山王日枝神社の地形はお椀を伏せたような小山になっていて、神社の立地としては典型的な場所になっている。どの方角からアプローチしてもそこそこの登りになるのが都心では稀有な場所だ。しかし切通坂は明治以降の坂である。江戸時代の外堀通りは溜池の幅が広く渡船で神社に渡していた。

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再開発され整備された外堀通り側の鳥居の下の道路は国会議事堂前から首相官邸前を通りここに繋がっている。 整備されるよりも前、赤坂見附に職場があったころよくこの切通坂の先にある路地を車で入って、官邸の前を通り国会議事堂前で霞が関ランプに潜り込むルートをよく走った。 何度も警察に止められたものだ。
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稲荷社の赤鳥居の階段を見ながら時計回りに山王切通坂を周ると、外周に覆いかぶさるように赤煉瓦の建物がある。往年の名門校都立日比谷高校である。 出身著名人は書けばキリがない。とくに政界財界の多くを輩出している。

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坂を巡りきると山王日枝神社の表参道である。 神社の斜面にある山の茶屋はうなぎ屋である。鰻懐石で福沢君二人分くらい。ちょっと入れるレベルではないので、美味いかどうかは知らない。 日比谷高校の隣にそびえるのはプルデンシャルタワー。 この高層ビルになる前はホテルニュージャパン。 あの歴史的なホテル火災の跡地に建設された。 山王日枝神社がここに移されたのも明暦の大火がきっかけ。 何か因縁を感じる。

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2017年2月21日 (火)

山王神社男坂・女坂(千代田区)

江戸三社祭のひとつ山王権現が日枝神社である。文明年間(1469~1487)に太田道灌が江戸城の鎮守として祀り、徳川家康が紅葉山(現在の皇居御所内)に社殿を建てた。その後最終的には四代家綱のときに今の場所に移された。手前事だが自分の初孫のお宮参り、七五三もここでお祝いをさせていただいた。

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江戸期には江戸の代表的な神社になり多くの氏子を抱えるようになった。現代になって平成12年(2000)に赤坂TBS側に巨大な鳥居と階段が作られてまるでそこが入り口のように見えるが、正しくは男坂の下の鳥居が正当な参拝口である。

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男坂の階段下の脇に標柱がある。「この坂を山王男坂といいます。日枝神社の表参道、左側の緩やかな坂〝女坂″に対して名付けられています。二つの坂を比較して急な坂を男坂、緩やかな坂を女坂と呼ぶことは各地にみられます。石段の数は53。山王台地はまたの名を星が岡ともいう景勝の地でもありました。」たしかに景色はよく、赤坂側の階段に並行するエスカレーターからは首相官邸が一望できる。

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また明治の初めころこの辺りは牧場で、日本の牧場としては黎明期のものとなった。江戸の武士が明治維新で失業し、牧畜に転職したという面白い歴史がある。ここから日本の酪農が始まったというのは意外である。

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女坂は車でも上れる道。 こちらにも標柱がある。「この坂を女坂といいます。正面の石段に対しその名が付けられています。また、別名は御成坂とも呼ばれています。『東京名所図会』には、〝左緩やかに通ずる石階を女坂と呼ぶは非なり。昔時将軍家御成りの節、峻坂を避け、此の坂のみ御通行遊ばされしにより、御成坂と申し侍るを女坂と聞き誤りしにはあらぬかと″と書かれています。」なるほど女坂ではなかったのか。 昔は車道ではなく踊り場のついた段々だったようだ。


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2017年2月20日 (月)

山王坂(千代田区)

国会議事堂の裏から赤坂山王日枝神社に向かって下る急坂。坂下を右折すると三ベ坂、直進で山王切通坂になる。 170mほどの見事な坂道。都心でもこれほどの直線坂はまれである。古い舗装路だったが、数年前にきれいに拡幅舗装された。坂上には花崗岩の石柱が「山王坂」の名を知らしめている。

Dscn3301坂の途中に文字の消えかかった標柱がある。しかし坂道の標柱を夜中にこすって見えなくしたり、いたずら書きをして読めなくしたりする許せない輩がいることは許せない。 いたずらに対する罰が軽すぎるのだ。

Dscn3304で、標柱には次のように記されている。「この坂を山王坂といいます。この坂あたり、明治維新までほとんどが山王社(日枝神社)の社地であり、社前に下る坂なのでこの名がつけられたのでしょう。また一名鹿島坂ともよばれていますが、坂の近くに明治時代の豪商鹿島清兵衛の邸宅があったのでそのように呼ばれたといいます。」

Dscn3306坂下には日本料理店と思われる佳風亭とそば店黒澤がある。どちらもとてもいい外観で周辺の議員さんにお似合いに思われた。坂下はいわゆる谷底になっており山王神社側は再び上り坂になる。 江戸期以前はここは現在の自民党本部辺りを源頭にした沢筋でそのまま溜池に流れ込んでいた。ここでは江戸よりもさらに昔に思いを馳せる。日枝神社もここにない時代の風景が脳裏にめぐる。

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2017年2月19日 (日)

茱萸坂(千代田区)

国会議事堂周りはどうも歩きにくい。 一般人に対して何倍もの警察がうろうろしているし、中には親切そうな警察官もいるが、概ね居丈高な印象を受ける。 組織の中ではエリート街道なのだろうが、交番のおまわりさんのほうが何倍もまともに思えてしまう。 この議事堂の南側を走るのが茱萸坂である。

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標柱には、「この坂を茱叟坂といいます。 またの名を番付坂ともいいました。『新撰江戸志』には、丹羽家の表門から見通すことができ、内藤紀伊守、本田伊勢守の間をぬけて 九鬼長門守の屋敷前へ出る小坂で、“両側にぐみの木ありし故の名なり” とかかれています。 また『東京名所図会』には、“番付坂・茱叟坂の一名にして、昔時山王(日枝神社)の祭礼には必ず此の所に花車(だし)の番付札ありて、其行列をあらためしよりいう” とかかれています。」とある。

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茱萸(グミ)坂の茱萸は実のなる低木で、私も子供のころ里山の茱萸の実を摘んで食べた記憶がある。 茱萸の木は今はないが、きっと江戸時代にはこの辺に茱萸の木があってそれで名付けられたのだろう。 江戸っ子はかなり適当な気質なので、そういう安易な名付け方があちこちにみられる。 一本松坂とか、さいかち坂とか、その木が無くなったらなんでその名前なのかわからなくなってしまうなんてことはみじんも考えない。 まあ、それくらいの世の中が一番暮らしやすいかもしれない。

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2017年2月18日 (土)

三年坂(千代田区)

霞が関三坂の最後は三年坂。 官庁街を皇居側から霞が関坂、潮見坂、三年坂と並ぶ。 三年坂というのは大体転んだら三年以内に死ぬというような言い伝えがある。横関英一氏によると、三年坂はもともと三念坂で近くに墓や寺があるようだ。

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この三年坂、坂上から見ると(上の写真)左が財務省、右が文部科学省。 寺などないと思うが、明治初期の地図を見るとこの辺りは三年町という地名で、鳥居のマークもある。さらに江戸期の地図を見ると、虎ノ門辺りは溜池でその畔、つまり文科省辺りにはたくさんの寺が並んでいる。 ここは寺町だったのだ。

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坂の標柱には「この坂を三年坂といいます。『新撰東京名所図会』には「三年坂は潮見坂の南に隣れり、裏霞が関と三年町の間の坂なり。坂を登れば是より栄螺尻とす」 「又淡路坂とも言い一に此処を陶山が関という」とあり、さらに栄螺尻の項目では、「裏霞が関と三年町の間、道路の盤曲する所をさざえしりと呼び、虎ノ門より永田町に出る裏道なり、曲り曲りたる境の名なり、亦此の辺鶯多し、因って鶯谷というよしみえたり」と書かれています」とある。

栄螺尻(さざえのしり)というのは隠語で、(一)心の曲りたる人を罵り云ふ語。(二)世間と交際せざる狭き社会を云ふ。さてこの標柱の意味が分からないが、江戸期は道がくねっていて今のようなまっすぐな街路ではなかったのだろう。

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2017年2月17日 (金)

潮見坂(千代田区)

霞が関坂から外務省を挟んだ南西側の坂が潮見坂。 外務省と財務省の間になる。 官庁街なのでここも広い道路で勾配が弱く感じる。 しかし江戸時代の初期は日比谷の入り江に向かって真っすぐに下っていく坂で、海を眺められたことから名がついたようである。

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日比谷の地名の由来だが、干満の差の大きな日比谷入り江ではその昔沢山の漁師が枝付きの竹を並べて魚を獲っていた。 今でも海苔の養殖に使われるこの仕掛けを「ヒビ」と呼んでいる。 参照→ 浦島海苔のホームページ

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坂の上には国会議事堂が鎮座している(写真では中央分離帯の並木に隠れ気味)。坂の説明柱には次のように書かれていた。この坂を潮見坂といいます。『新撰東京名所図会』には「潮見坂は霞が関坂と三年坂の間の坂なり」と書かれています。中世の頃までは、日比谷公園のあたりが入り江であったといわれ、坂も当時はもっと高く眼下に海をのぞむことができたためにつけられた名でしょう。潮見坂、汐見坂は皇居東御苑をはじめほかにも多くあります。

江戸時代には東京のいたるところから海が見えたので潮見坂は多い。文字違いをまとめると6坂か7坂あるはずだ。

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2017年2月16日 (木)

霞が関坂(千代田区)

今は官庁真っ只中、総務省と外務省の間に走るのが霞が関坂。 坂上は国会議事堂前の公園を経て国会議事堂正門。 周辺の建物は大きいが道が広いので圧迫感はない。 今は官庁街だが江戸時代は武家屋敷の並ぶ街並み。 『新撰東京名所図会』の「霞が関」には黒なまこ壁と石垣で囲まれた武家屋敷が描かれている。おそらく松平安芸守の屋敷であろう。 広島の42万石の殿様。

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霞が関坂の標柱には、「この坂を霞が関坂といいます。中世の頃関所が置かれていたとされ、景勝地として古歌にもうたわれたものが多く、霞が関の名の起こりとなっているようです。江戸時代は広壮な諸大名の屋敷が建ち並んで錦絵にも描かれました。いまは霞が関というと中央官庁街の代名詞となっています。」と普通のコメントが書かれていた。

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坂を真っすぐに降りると日比谷公園にぶち当たる。 江戸時代の日比谷公園辺りはもう少し低かったので、そのあたりまで坂は続いていたのだろう。 江戸城の内堀は濠から濠へ水が流れるように僅かずつ水面の標高が違えてある。 日比谷濠の水面標高は1.43m、桜田門側の凱旋濠は2.85m、皇居広場側の和田倉濠、馬場先濠は日比谷濠と同じ1.43mで、大手門の大手濠は1.87m。 内堀の水はおおむね和田倉、馬場先、日比谷の3濠に溜まって日比谷濠から最後に下水道に流される。

http://www.env.go.jp/press/file_view.php?serial=15454&hou_id=12346

濠は環境庁の管轄らしく、環境庁のHPに詳しく書かれていた(上のリンク)。

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2017年2月15日 (水)

梨木坂(千代田区)

三宅坂から少し西へ歩き、国会図書館の東側を入ると石垣と上り坂がある。 たくさんのタクシーが休憩している。 三宅坂交差点の喧騒からわずか数十mで静かな通りになる。江戸時代は前述の井伊家の屋敷の裏道になり、道を挟んで細川山城守の屋敷、これが国会図書館の辺りになる。細川山城守は肥後熊本県宇土藩の藩主。首相を務めた細川護熙の直系の先祖ではないが、親戚筋とはいえそう。

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坂上を望むとそこには霞が関ビルがある。 昔は巨大で存在感のあるビルだったが、今となっては数多のビルの一つになった感じがする。 国会図書館前の標柱には次のようにある。 「この坂を梨木坂といいます。  『江戸紀聞』では”梨木坂, 井伊家の屋敷の裏門をいふ。 近き世までも梨の木ありしに, 今は枯れて其の名のみ残れり”とかかれています。 さらに『東京名所図会』には”陸軍省通用門と独逸公使館横手の間なる坂を梨木坂といふ”とかかれています。」

国会議事堂の敷地は戦前はドイツ大使館だった。 そして向かいの井伊家屋敷跡は陸軍省。 この坂には軍靴の音が聞こえてきそうだ。

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2017年2月14日 (火)

三宅坂(千代田区)

三宅坂というと首都高速の三宅坂トンネルを思い出す。 昭和のモータリゼーションの時代に育った若い頃は三宅坂の三宅が江戸時代の殿様三宅備前守の屋敷に由来するなどつゆ知らず。 三宅坂を語るに首都高を入れないわけには行かないのが哀しい。

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内堀通りの向こうには桜田濠、手前の壁は首都高速都心環状線の壁で、内堀通りのここから左側が三宅坂である。三宅備前は今の愛知県渥美半島の三河田原藩の藩主であった。南隣は井伊家、今NHKの大河ドラマで井伊直虎をやっているが、そのずっと先の遠い親戚が幕末の井伊直弼、その屋敷だった。 井伊直弼といえば安政の大獄と桜田門外の変である。

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井伊家の前は加藤清正の屋敷だったが、幕府に没収され井伊家に与えられた。それがこの国会議事堂とその前の公園を含む広い屋敷だった。 その清正はここに井戸を掘り、それが「櫻の井」という名水として知られた。 城造りの名手清正は水源に対しても深い知識を持っていたのだろう。

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現在の三宅坂はあまりに広い通りなので傾斜はほとんど感じない。 別名を皀角坂ともいうが、この濠際をサイカチ河岸と江戸時代には呼んでいたようだから、辺りにはマメ科のサイカチが多かったのだろう。今は皇居を回るランナーがあまりに多すぎる。

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2017年2月13日 (月)

鍋割坂(千代田区隼町)

千代田区には二つの鍋割坂がある。一つは千鳥ヶ淵の戦没者墓地裏の坂、もう一つは半蔵門の鍋割坂である。 どちらも形は登って下る鍋蓋型の坂である。

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坂横はホテルグランドアーク半蔵門。 この鍋割坂の情報は意外と少ない。 江戸時代にはこのグランドアークのところに定火消屋敷があった。 「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるがそれだけ火事が多かった江戸の街を火事から守るために大名火消、町火消などを設置したが最も中心となったのは定火消で、これが今の消防署の前身である。

この坂は明治になると消える。 あたり一帯が陸軍病院となりその敷地になってしまったのである。 明治の地図を見ると坂の場所には建物が建っている。 しかし関東大震災の後の地図では坂道が復活している。その様々な変貌を想像するとこの何の変哲もない坂道が面白くなる。

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2017年2月12日 (日)

富士見坂(千代田区永田町)

富士見坂という坂は本当に沢山ある。 複数名を持つ坂の別名を含めると10を優に超え15坂くらいはあるのではないだろうか。 永田町の富士見坂は永田町から国道246号の赤坂見附交差点に下る幅広い道路の坂道。 歴史とともに姿を変えていく道でもある。江戸時代は外濠の赤坂見附という見張り門があり、南には溜池、北西には弁慶濠が位置していた。

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赤プリの工事現場の仕切り板に昔の写真が何枚か張ってあった。 上の写真は1960年、東京五輪の数年前のもの。 右から下ってくるのが富士見坂。 路面電車が行き交う。 弁慶橋のたもとにはすでにボートハウスがある。富士見坂の手前は今は土手上が衆議院議長公邸、土手下が赤坂東急ホテルだが、当時はただの土手とガソリンスタンドだったようだ。

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上の写真は1967年、東京五輪の後。 首都高速道路が弁慶濠に沿って走り、赤坂見附交差点は今と同じオーバーパスになっている。ビルも建ちその上の1960年の写真からは大きな変貌を遂げている。手前の賑わいは赤坂プリンスのプール。当時もっともトレンディな場所だった。

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そして現在の富士見坂。 勾配が急で西に開いているだけに富士山がよく望まれたものと思われる。衆・参議院議長公邸は,雲州松江藩松平出羽の屋敷跡。明治になって公用地となり華族女学校の設立と歴史をつないだ(華族女学校の大きな石碑が公邸の裏にある)。

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勾配、曲がり具合から、大通りでなければなかなかの坂景色だったと思うが、大通りになってもきちんと傾斜を感じさせてくれるのは大したものだ。

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2017年2月11日 (土)

中坂(千代田区)

中坂は特徴のない坂道だが、個人的には思い入れがある。 一昔前に伊豆の海で亡くなった友人が教鞭を取っていた城西大学の前の坂だからである。 最近この坂を二度ほど歩いたが、彼も歩いていたのかなと思わずにはいられなかった。

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城西大学の東の端に標柱が立っている。「この坂を中坂といいます。元禄4年(1691)の地図にはまだ道ができていませんが、宝永(1704~1711)以降の図を見ると町屋ができ、現在の道路の形とほとんど違いがないことがわかります。中坂の名称の由来については、はっきりしませんが、中坂を挟んで北側に町屋、南側に武家屋敷が並んでいる形を見ると、中坂の名称の起こりは案外このへんになるのかもしれません。」とある。

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坂下を左折すると平川天満宮がある。戦国時代の江戸城主太田道灌が皇居内の梅林坂の上に江戸の守護神として祭ったのが始まり。 慶長12年(1607)徳川二代将軍秀忠がそれをここに移して、平川天満宮の名に因みこの周りが平河町と呼ばれるようになった。

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2017年2月10日 (金)

諏訪坂(千代田区)

赤坂見附というのは街の名前だが、もともと見附というのは街道の分岐点など交通の要所に設置された見張り処のことである。江戸時代には、外濠に沿っては赤坂見附、四谷見附、牛込見附などが濠を渡って内側に入るところに設置され、代表的なものをまとめて江戸三十六見附と呼んだりした。 実際の赤坂見附は赤坂プリンスホテルのあった場所の南側にある。
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写真の標柱の裏には次のように記されていた。「左側にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の石垣の一部です。江戸城の門は、敵の侵入を発見する施設であるため、「見附」とも呼ばれ、二つの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。詳しい説明は右に坂を登った角にある説明版に記されています。」
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角を曲がるとそこが諏訪坂。 標柱には、「この坂を諏訪坂といいます。『新撰東京名所図会』には「北白川御門より赤坂門のほうに下る坂を名づく。もと諏訪氏の邸宅ありしを以てなり。」と記されています。道路の向かいの都道府県会館の敷地には、江戸時代に旗本諏訪家が長期間屋敷を拝領していました。また別名を達磨坂といいますが、旧北白川邸が紀州藩邸だった頃、その表門の柱にダルマに似た木目があったため達磨門といわれ、その門前を達磨門前、坂の名も達磨坂と呼ばれたためです。」とある。
 
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赤坂プリンスは大正時代までは宮家である北白川家の屋敷、江戸時代は将軍吉宗を輩出した和歌山の紀伊家の屋敷だった。隣の弁慶濠側は井伊家、その北側が尾張家という大大名の屋敷が並んでいたわけである。前述の紀尾井坂はその御三家の頭文字をとった名前だというのは前に書いたように思う。
 
<2016/2/14 散歩>
 

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2017年2月 9日 (木)

貝坂(千代田区)

見た目は取り立てて坂名をつけるほどの坂ではないが、道は江戸時代からある道である。明治初期の地図を見ると、坂下にはたくさんの池があり、湧水があった可能性が高い。 麹町の新宿通りから3本目の辻から下り坂が始まり、ホテルルポールの裏口辺りで傾斜は終わる。左手には城西大学のビルがある。

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少しくねりながら下っていくのは江戸時代の道だからだろう。近代の道はとにかくまっすぐに作りたがる。坂上の麹町スタジオの角に標柱が立っている。

「この坂を貝坂と言います。『江戸名所図会』には「この地は昔より甲州街道にして、その道の傍らにありし一里塚を土人甲斐塚と呼びならわせしとなり。ある説に貝塚法印といへるが墓なりともいひて、さだかならず」と書かれていますが、貝塚があったというのが現在定説になっています。」とある。

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興味深いのはこの貝坂のくぼみはこの辺りだけのもので、東に向かって下り、桜田濠に落ちる。 そして江戸期の地図には多数の池がある。 という事はこの辺りの水源地だったのではないだろうか。江戸より以前の地図を探してみたくなった。

<2016/2/14 および 2017/1/21>

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