2019年3月12日 (火)

経堂駅近くの地蔵(世田谷区経堂)

小田急線経堂駅の西北側にはお地蔵さんが2体ある。 かつて経堂駅は小田急線の車両車庫が広がる基地駅だった。 1970年代に入って駅の北口に14階建の小田急経堂ビルが建ち、当時は世田谷にはほとんどビルがない中で、富士山のように独立峰の姿を誇っていた。

広い車両基地の敷地は現在小田急のプロジェクトで次々に中層のビルに代わっている。 そんな激変の経堂駅北口のコルティ(駅ビル)の傍に地蔵が立っている。 駐車場入り口の向かい側、コンビニの角の一角の奥まった植込みにあるのは子育地蔵。

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年代は比較的新しいようだが、中に入れないので台座の文字などは読むことができない。また区の石仏調査の資料にも出てこないので、詳細は不明である。 小田急が高架化する以前、経堂駅には新宿側の開かずの踏切と共に、それより多少開きやすい踏切が地蔵の前にあった。 なので当初は踏切地蔵かと思っていたが、どうも子育地蔵らしい。

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コルティ前の地蔵からそのまま西へ向かいすぐに斜めに分岐した道に入るとその先でまた斜めに分岐する地点、自転車店の角にまた子育地蔵がある。 ここは経堂在家村で南北に分かれた滝坂道の南側のルートが北に向きを変えて、北ルートに近づく分岐点。江戸時代からの分れ道である。

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堂宇は施錠はされていないが、閂が掛けられていて、さすがに開けて撮影するほど大胆ではないので格子越しに撮影した。 この地蔵は造立がはっきりしている。 正徳5年(1715)に建てられたもの。 当時の経堂在家村の地蔵信仰の講中48人が村のこどもの将来を祈って造立した記録がある。当時の地名は武蔵国荏原郡世田谷領経堂在家村。経堂の地名については福昌寺の経堂(お経を納めたお堂)説が有力だが、在家の方は出家の意味を表し、当時この地を治めていた松原氏が敷地内に寺を建立し仏教を信仰していたことから、家にいるまま仏教に帰依したという意味合いの在家らしい。

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2019年3月11日 (月)

桜丘1丁目庚申塔(世田谷区桜丘)

我が家の近所の庚申塔。 昔からなぜこんなところにこんな石塔があるのだろうと思っていたが、20年余り前に長男の夏の課題で地元のことを調べるというのに付き合って初めて庚申塔というものだと知った。この時にいろいろ調べたことが今の自分に繋がっている感がある。

東京農業大学の裏手には東西に走る二本の古道がある。大昔は府中道と呼ばれた道である。 またここには南北に走る用賀二子道という古道があり、この場所はその辻になっていた。 この用賀二子道は関東大震災後に陸軍自動車学校が出来て消滅し、後にその敷地が現在の東京農業大学のキャンパスになった。

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台座は後に設置された大きなもので、合わせると2mほどの高さがある。道標も兼ねているので情報量満載の庚申塔になっている。 上部には青面金剛像、下半分は願主の名前と共に「西 府中道四里」とある。実際に府中の武蔵国府跡までの道のりは16㎞程である。

また裏面には「東青山道 二里半」、南面には「南大山道 二子川迄一里余」、北面には「四ツ谷道二里半余」とある。 東は世田谷ボロ市通りを経て三軒茶屋で大山道に合流し青山一丁目まで10㎞、南二子玉川は4.3㎞と正確な道のりが刻まれている。 北の四ツ谷道も羽根木から甲州街道に出て四谷まで11㎞だから感心する。

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造立は安永7年(1779)だから庚申塔としてはそれほど古いものではないが、ずっとこの古道の辻にあったのだろうか傷みは激しい。文字刻の下には三猿が小さく描かれている。地元の古老の話では、この庚申塔から南側への道は大正5年まであったという。

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大正期の地図の中央下にこの庚申塔がある。 南に下ると現在の世田谷通りで登戸道と出合ったのち品川用水を渡り(北沢橋)、用賀方面に向かっている。現在でも周辺は江戸時代からの道がたくさん残っていて、それと新しい道がうまくリンクしていないので、世田谷はタクシードライバーでも迷うというのはあながち大げさではない。

ただ、古道の道筋を理解すると、全体の道のつながりがすっきりとわかるのもまた面白い。

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2019年3月10日 (日)

北沢4丁目三田用水脇の庚申塔群(世田谷区北沢)

三田用水は笹塚駅の南で玉川上水から分水されていた。 しばらく玉川上水と並んで流れた後、井の頭通りの大山交差点近くで南に流れを変え、現在の都道420号線沿いに渋谷区神泉に向かって流下していた。 その大山交差点のすぐ南に、かつての三田用水跡が都道に合流する地点に庚申堂がある。

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草が伸びまくっているが定期的に地元の方が草木を剪定しておられるので、これだけ生い茂っている時期は多くない。 真ん中を突っ込んでいくと、草の後ろは空間があり、「やきとりこん平」の看板の屋根の下に4基の野仏が並んでいる。

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左端は如意輪観音座像、造立は貞享3年(1686)と保存状態に比べて時代が古い。 その右側の地蔵立像の方が左肩が欠けていて石の感じも古そうだが年代は書かれていなかった。真ん中の小さな石塔には「祖関禅定門」とあり年号は書かれていないが、禅定門というのは江戸時代の戒名によく使われた表現らしく、墓石の一部かもしれない。

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更に右側に目を向けると、右の2基は庚申塔である。 一番右のものは唐破風笠付角柱の文字刻みの庚申塔で天和元年(1681)の造立。 年代からしてこれもなかなかきれいな状態で残されている。

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右から二番目の青面金剛像と三猿の庚申塔が一番状態がよさそうに見えたが、貞享元年(1684)と他のものに遜色のない古さであった。 彫られた名前にはこの近所にお住まいの同姓の方と同じ苗字があり、ご先祖かもなどど想像してしまった。

この庚申堂の西側をかつては三田用水が流れていたことは前述したが、現在でもこの通りが渋谷区と世田谷区の区境になっている。しかも、この場所は代田橋から玉川上水の南側を経てきた世田谷村の村道と東の代々幡村から玉川上水沿いに走ってきた村道の合流地点でもあった。 野仏がいつからここにあるかは分からないが、道の辻、村の境という条件で、まさにここにないはずはないという地点なのである。

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2019年3月 4日 (月)

経堂の馬頭観音(世田谷区経堂1丁目)

馬頭観音は結構いろんなところにある。 自然石のもの、文字塔、三面六臂の像など様々な形をしている。 三面六臂の数違いのバリエーションもあるが、基本的な馬頭観世音の姿というのは三つの顔を持つ菩薩の化身。 牛馬に関係する職業の人々が動物の供養のために建てたものや交通安全を祈願したものが多い。

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古道滝坂道は経堂辺りで南北二つのルートがあるが、南ルートと北ルートの間を繋ぐ道があり、その辻に建っているのがこの馬頭観音である(経堂1-22-14)。 江戸時代はこの辺りがもっとも民家が多かった地区。 東西は滝坂道だが、南へのルートもあり菅刈庄という水田地帯を抜ける村道が繋がっていた。

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造立年は不明だが、馬頭観音は明治以降のものも多く、石の傷みを考えるとかなり後の時代のものだろうと思われる。 正面には西 ふちう道(府中道)、右面は南ふたこ道(二子道)、左面は北たかいど道(高井戸道)とあるが、古い地図を見ても交通の要所というほどの辻ではない。

もっとも経堂の南側には烏山用水(烏山川)が流れており、辺りは菅刈荘と中世から呼ばれた一面の田んぼだった。烏山川を渡る南方面の橋は二つ、経堂農大通りの経堂大橋と、現在の千歳郵便局近くの新道橋。 昭和に入って小田急線が開通すると、経堂駅周辺は急速に住宅開発が進んだが、南側の烏山川流域は戦後までのどかな田園地帯だったが、高度経済成長期から開発が加速し、その風景はもう見られない。

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経堂農大通りの庚申塔(世田谷区経堂)

東京農業大学の最寄駅は経堂駅となっているが、千歳船橋駅の方が実は徒歩3分ほど近い。 それでも農大祭りは経堂駅の南に延びる農大通りで行われ、大根踊りが有名である。この経堂農大通りは実はとても古い道。 現在の経堂駅周辺でかつての滝坂道は南北に二つのルートがあった。 北側がメインルートだが、北側には人が住んでおらず、南側には民家があって便利だったのだろう。この南ルートから厚木街道の用賀に繋がる道があった。 その辻に道標を兼ねた庚申塔が立っており、現在も大切に守られている。

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場所は世田谷区経堂1-12-5。 農大通りはここでわずかに南北の道がオフセットされている。南から来るとこの庚申塔が正面になるのである。 これは北側の道が後に出来たことを表している。 江戸時代は福昌寺に繋がる脇道だった。

南へ伸びる用賀への道は、現在の東京農大キャンパスの真ん中を南北に走り、さらに馬事公苑の真ん中を突っ切っていた。 今でも庚申塔や品川用水の橋の痕跡などが残る。

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庚申塔の造立は文化9年(1826)である。青面金剛像の下に三猿が彫られている。その下には、正面に南二子道、東側に青山道、西側にふちうミち(府中道)とある。渋谷の道玄坂上で厚木街道と滝坂道が分かれてからちょうど一里半(6㎞)の位置になる。 この辺りで小休止をする人もいたことだろう。

経堂在家村は元禄時代から幕末まで天領として幕府の直轄地だった。 石高はあるものの人口は少なかった。 村の寺は福昌寺だが、鎮守はかなり西に離れた天祖神社。

経堂の地名の由来は面白い。 福昌寺は江戸時代の初期の開山だが、当時この土地を所有していたのは松原弥右衛門という人で、彼が僧を迎えて開基したのが福昌寺と言われる。 この松原弥右衛門は幕府の御殿医(お抱え医者)として中国から帰化した人物で、書物を沢山持っていた。 当時の人々は読み書きができなかったので、本=お経と思い込んでおり、松原弥右衛門が屋敷内にお堂を建てて書物を保管していたので、近くの人々はこれを経堂と呼ぶようになり、それが地名になった。(諸説あり)

経堂から千歳船橋周辺には松原姓が極めて多いが、この松原弥右衛門の関係者が大半である。

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三田用水の石橋供養塔(目黒区青葉台)

東京で有名な江戸時代の用水と言えば玉川用水だが、その玉川用水を笹塚駅南で分水して白金までは開渠、それ以降三田(泉岳寺付近)までは伏樋で水を送った用水路が三田用水である。1664年に開削され、1974年に完全廃止された。 用水だから尾根筋を流れる。 東北沢から東大キャンパス北側を流れた後、道玄坂上を南下して西郷山から代官山へ流れる途中、滝坂道のために架けられた石橋があった。

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地図の左の青線は駒場野から流れる空川で谷筋を流下、しかし右の青線の三田用水は尾根を流れているのが分かる。 現在の石橋供養塔があるマンションの住民が供養塔を守ってきたので、赤い★の場所に供養塔がある。

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供養塔が造立されたのは文化9年(1812)である。下部には、中目黒村、白金村、北品川村など13か村の名が刻まれ、右側には滝坂道沿いの若林村、経堂村、上祖師谷村などの地名が彫られている。 当時の石橋は、水が出るたびに流される木橋から飛躍的な安全性を目的に大変な費用を使って築かれた。

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旧山手通りから、旧滝坂道を見ると上り坂になっておりその先で急に下り坂になる。 この尾根部分が三田用水の痕跡である。 ここに石橋があった。 もともと灌漑用水だった三田用水の恩恵によって恵比寿にビール工場ができたり、中目黒付近に海軍の火薬工場が出来たりした。

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駒場から青葉台にかけては、三田用水の痕跡の細道が比較的明確に残っている。 なおかつ渋谷区と目黒区の区境にもなっていて痕跡を追いやすいのだが、恵比寿付近まで行くと極めて分かりにくくなる。 上の写真の辻がまさに石橋があった場所である。

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2019年3月 3日 (日)

成子天神と富士塚(新宿区西新宿)

富士講については様々な研究がなされているが、簡単に言うと江戸時代に富士山信仰が関東を中心に起こり、各地で講中ができ代表者が富士登山をするという民間の信仰である。当時富士山は女人禁制だったので、主に男性のみが御師というコンシェルジュの世話になり富士登山詣でをした。

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行けなかった人や女性たちは江戸市内に数多築かれた人工の○○富士に登ったりして、富士信仰に参加した。 このミニ富士は23区内にも100山以上あったが、そのうち現存するのがなんと9割もある。 23区内で高さが最も高いグループの中に成子富士がある。 人工の山なので高さを競うのに意味はないが、そういう単純なことに江戸っ子は力を注いだりしたのだろう。

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12mほどの高さがあるが、至近で見上げるとなかなかの山である。山麓には浅間神社の祠があり、頂上には浅間神社の祭神である木花咲耶姫命(コノハナノサクヤヒメ)の像もある。 これほどの富士を築いたのは、柏木・角筈地区(現在の北新宿・西新宿)の人々を中心とした丸藤成子講で、富士講の富士の中では末期に築かれたもの。 もともとここには天神山という小山があったのに富士山の溶岩を重ねて大正9年(1920)に構築したようだ。

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江戸時代から明治にかけては東京の西の外れだった西新宿だが、成子天神社の前には青梅街道が通っていて、歴史は古い。創建は平安時代の延喜3年(903)で、菅原道真の訃報を聞いた家臣が建てたという。

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江戸時代になると、周辺の柏木村はマクワウリの特産地となり、成子ウリとしてブランド商品となった。 徳川家が元和年間(1615-1624)に岐阜県美濃の国の真桑村から農民を呼び寄せ、この地と府中の是政の二ヶ所でマクワウリの栽培をさせたのが始まり。小型のウリで甘みがありメロンに近い種類のようだ。

西新宿の高層ビルの一角にこういう神社があることでホッとする。

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2019年3月 2日 (土)

淀橋咳止地蔵尊(新宿区北新宿)

西新宿の高層ビルの一角に地蔵尊がある。 こういうコントラストは粋である。 大手町の清正の首塚のようなおどろおどろしいものではないが、すぐ近くにある成子天神の巨大な富士塚やこの淀橋咳止不動尊は時代を超越しているようで、心が洗われる。

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この場所に地蔵尊がやってきたのは平成18年(2006)。 それまでは現在の新しい都道302号線の南側、新宿フロントタワーが建っている敷地の一角にあったが、道路開発とビル開発による立ち退きで現在の地に、地元の地蔵講の方々が移したもの。

高層ビル開発が始まるまではこの辺りは柏木と呼ばれ、比較的のどかな街だった。木造家屋が立ち並び、路地のある雰囲気のいい庶民の街だったのである。 それがあっという間に変わっていった。 新宿の変化は恐ろしいものがある。

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淀橋咳止地蔵尊の造立は宝永5年(1708)。富士山の宝永噴火の翌年である。 噴火によって胸を患った人が多かったのだろうか。 それで咳止となったのではないかと考えてみると面白い。 堂宇の裏には巴講睦と彫られた石柱もあり、鎧神社の氏子である巴講の人々が協力して、旧柏木地区としての協力のもとに移転が成立したようだ。 21世紀の西新宿エリアにまだ講中があったことにも感動した。

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2019年3月 1日 (金)

杓子稲荷と古道(世田谷区梅丘)

渋谷と調布仙川の甲州街道を結ぶ滝坂道は、環七で分断されるが道筋は続いている。 環七から西に進むと、三又になる。 合流する道は江戸時代からの古道だが村の中の道。 その三又に2012年頃まで馬頭観音があった。

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写真のバイクと自転車のところに左上のような堂宇があり、馬頭観音が祀られていた。 風化してかなり傷んでいたが、明治31年(1898)の造立で100年余り経ったものだった。 明治時代から昭和初期にかけてはまだ馬車で都心に農産物を運んでいたので、あちこちに馬頭観音が立てられた。 この馬頭観音には滝坂青山道と彫られていたと聞く。 こうして野仏が一つずつ消えていくのは時代の流れで致し方ないことだが、個人的には寂しい思いがする。

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滝坂道をさらに西に進み、住宅街の路地(梅丘1丁目60と59の間)を北方向に入ると杓子稲荷がある。 珍しい名前の稲荷神社である。 神社の前の路地は4mに満たない部分もあるが、実は滝坂道よりもさらに古い道である。 しかも古道の中でも重要な鎌倉街道のひとつだった。 今では小田急線にも阻まれて、住宅街の私道のようになっているが、ここから羽根木を経て中野方面に続く主要道だったのである。

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杓子稲荷の創建は不明だが室町時代に世田谷城主の吉良氏が勧請したと伝えられるので、600年ほどは経っていると思われる。 町内できれいに建替えており、境内も整理されているので古い雰囲気は皆無だが、付近では最も古い神社の一つである。

境内には最近建て垂れた奉供養庚申と書かれた庚申塔がある。 私が見た中で最も新しい庚申塔である。 造立は昭和55年(1980)。世田谷区内でも断トツの若さで、次に古い庚申塔は大正、3番目が明治、4番目に古いのはもう江戸時代。 老人ホームの中に赤ん坊がいるような感じがする。

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2019年2月28日 (木)

若林小学校前の庚申塔(世田谷区若林)

若林小学校は淡島通りが途切れるあたりにあるが、元々この地は若林村の中心で若林本村と呼ばれた場所。 小学校の北側を東西に滝坂道が走り、南側は滝坂道から分かれて上町や宮の坂へ向かう古い道筋である。 また小学校の東側を南北に走る通りも古道で、甲州街道と大山詣での厚木街道を結ぶ主要道であった。

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堂宇には2基の庚申塔が祀られている。 小学校の南西角の向かい側になる。 南北の古道と上町・宮の坂への道のの交差点に位置する。 右側の方が古く寛保元年(1741)の青面金剛像、駒型。 左の方は宝暦14年(1764)で、いずれも下に三猿がある。

右の庚申塔は願主了元井上久兵衛とあるが、明治時代にはこの辺りに井上家はない。左の庚申塔は村の講中で根岸氏が中心になって建てたように書かれている。

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江戸時代の半ばにはこの辺りの村は幕府の鷹場に指定されて禁漁区となり、さらに高井戸宿の助郷村となりかなり苦しい労役を強いられたという。 しかし明治以降は、烏山用水が周りの田んぼを潤して豊かな村になった。 小学校の北隣には若林村の村役場も建ち、賑わった辻だったのだろう。

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2019年2月26日 (火)

道玄坂地蔵尊と弘法湯碑(渋谷区円山町)

渋谷は俗の街である。 江戸時代から身分の高い者(武家など)は台地に住み、身分の低い者(町民など)は低地に住んだ。 とりわけ窪地や湿地の周りには岡場所(非公認の売春宿)が発達した。 おそらくは人間のもつ自然なものがそうさせるのだと思う。

上野や浅草は聖なるものに寄り添う俗だったが、渋谷は俗の吹き溜まりのような街として現代に至っている。 現在の駅の再開発をもってしてもおそらくは変わらないだろう。 そんな中で俗の斜面である円山町には幾多のラブホテルがある。 ところが聖なるものの傍に俗が集まるように、俗が集まった場所には聖なるものが出来ることもある。 その辺りはとても人間臭くて良い。

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ラブホテル街を神泉駅に向かって進むと路地裏に竹垣に囲まれた地蔵がある。 道玄坂地蔵尊と呼ばれている。 造立年は宝永3年(1706)で、当時は大山街道にあった。 場所は現在の地から一本表通りに出たところになる。 道玄坂上の交番の辺りだ。 当時は豊沢地蔵と呼ばれた。

明治時代までその場所は大山街道(厚木街道)と滝坂道の分岐点だった。 地蔵は戦後、現在の場所に移設された。 二度の火事で最初の地蔵本体は焼けてしまったが、その一部を今の地蔵の中に封じてあるそうだ。 焼けても滅しないので火伏地蔵とも呼ばれる。

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そしてこの場所は1997年に東電OL殺人事件のあった場所に近く、その被害者は裏家業でここに居たと言われているが、真偽のほどは分からない。 犯人とされたネパール人男性は後に冤罪が判明し釈放された。 しかし真犯人はいまだに分からない迷宮入りの事件である。警察の冤罪事件は相当数に上っているのに可視化が遅れているのは国民として恥ずかしい。

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地蔵から少し南西に行ったところに渋谷らしからぬ石塔がある。 明治19年(1886)に建てられた弘法湯碑(神泉湯碑)である。 ラブホテル街から神泉駅へは崖を下りるように階段が沢山ある。 かつては神泉谷(シンセンガヤツ)と呼ばれていた窪地で、豊富な湧水がありそれを利用した湯治の施設が出来た。江戸時代には旧豊沢村の共同湯となり、大山詣でや富士講登山をする旅人が利用した。明治になり昭和になっても銭湯は続いたが1976年に閉鎖、マンションに代わった。

ここから井の頭線踏切を越えて進んだところに温浴施設爆発事故(2007)松涛シエスパの場所がある。 道玄坂は昔も今もいろんなことが起こる場所である。

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2019年2月25日 (月)

津の守弁財天(新宿区荒木町)

東京のディープなエリアは徐々に消えていきつつある。 やれグローバルだの、東京オリンピックだのと盛り上がり、軽率早計な判断で再開発が進み、ひとつまたひとつと消えていく。 そんな中で多くの人が認めているディープエリアの一つが四谷荒木町である。 人口減少時代、新しいものを作り続けるのは、人の歴史を自転車操業にしてしまい、止まったらコケるものに変えてしまうことに他ならない。 今目にしているものにしか興味がない文化など文化ではない。 先達が何世代にもわたって築き上げたものを大切にして、質を高めることが文化なのである。

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東京スリバチ学会なるものがあり、代表の皆川氏がここを第一級のスリバチとしている。 なんとも不思議な地形で、四谷三丁目の裏にぽっかりと空いた穴のような場所。 ここは周辺よりも標高で10m以上低くなっている。 その底にあるのが策の池で、底に祀られるのが津の守弁財天である。

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策の池と書いてムチノイケと読む。 江戸時代初期、まだこの辺りには民家も少なく、鷹狩りの時に徳川家康がこの辺りの井戸で策(鞭の意)を洗った。 当時この池には高さ4mの湧水の滝があり、それ以降「策の池」と呼ばれるようになった。

天和3年(1683)になり、岐阜県美濃高須藩の松平摂津守がここに上屋敷を拝領、明治になってからは住民に開放された。 住民はそれ以降ずっとこの窪地の弁天様を津の守弁財天と呼んで親しんだ。

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今は直径数mの池だが、かつては長さが100mを超える広さがあった。 聖なるものの傍には俗が集まるという定石の通り、周りには花街が広がって賑わった。 当時、池の周りの花街と言えば新宿十二社、上野不忍池、井の頭池があったが、それに匹敵するものだったようである。

この窪地の北側で江戸時代の暗渠が発見されている。 外濠に注ぐ紅葉川の支流だったが、この北側の地形がどう見てもダムである。江戸以前にダムを築いたのか、あるいは崩れてダムになったのか、前者が定説のようだが、江戸初期以前の詳細な地図が存在しないので正確には分からない。 下記の資料に書かれている暗渠の発見はそれに関連したもので、極めて興味深いものである。..

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資料: 松平摂津守上屋敷跡下水暗渠(江戸東京土木遺産)

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2019年2月22日 (金)

多武峯内藤神社と駿馬塚(新宿区内藤町)

江戸時代の新宿御苑は、長野県信州高遠藩内藤氏の下屋敷であった。 広さは67,000坪。これは現在の市ヶ谷防衛省の敷地7万坪の徳川御三家尾張名古屋藩屋敷に匹敵する広さだが、尾張名古屋藩は62万坪であるのに対して、内藤氏は3万石余りと20倍の差がある。にもかかわらずこれだけの屋敷を持つことが出来たのには理由がある。

内藤氏は関ヶ原の戦い以前から徳川に仕えていた。 秀吉に江戸に追いやられた家康に付随して江戸に内藤家の二代目清成もやってきた。 家康が鷹狩りに新宿辺りにやってきた時に、内藤に、「この辺りを馬で一周してみろ。その土地はすべてお前にやろう。」と言い出した。 内藤清成は四谷、千駄ヶ谷、代々木、大久保を回った。 力を使い果たした愛馬は命尽きてしまったが、家康は内藤家にこの敷地を与えたという。

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その内藤家が勧請して立てられたのが多武峯内藤神社。 主祭神は藤原鎌足なので、奈良の春日神社からいくつかの祭神を勧請している。 もとは現在の新宿御苑内にあったが、明治19年(1886)に今の地に移転した。

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本殿の東側に駿馬塚がある。 内藤清成は屋敷を与えてくれた愛馬を大きな樫の下に埋めて弔ったが、後の内藤家の森林管理役たちが文化13年(1816)にその樫の木の下に塚を作り駿馬の碑を建てた。 この駿馬塚は明治5年(1872)に現在の場所に移されているので、駿馬塚が先に動き、14年後に本殿が移転したことになる。 藤原鎌足には悪いが、駿馬が主役なのである。

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内藤屋敷の場所は江戸にとって極めて重要な場所にある。 その北西角には玉川上水の引込みの四谷大木戸があった。 神田上水では不足した江戸の水道を、玉川上水が大きくカバーし江戸100万人都市の礎となった。 実際の位置はもう少し四谷寄りの四谷四丁目交差点辺りだったようだ。

四谷四丁目の交差点に今もあるビルから、アイドルの岡田有希子さんが飛び降り自殺をしたことを覚えている方も多いだろう。 この交差点に来るたびにそれを思い出す。

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江戸時代の玉川上水の水量はとても多く、昭和に入っても太宰治が入水自殺できるほどの水量があったことは今思えば驚きではあるが、100万人分の水道ということを考えればそれくらい水量がないとだめだろう。

江戸時代の水道は大木戸から都心は木管の暗渠になっていた。 しかし大木戸手前であふれた水は開渠の状態で内藤家の敷地内を流れ、玉川上水余水路を通って青山方面に流されていた。 その開渠跡が今もまだかなりの距離で残っている。 明治になってここで水車を使ってこの水を利用したのが、日本最初の鉛筆工場であった真崎鉛筆だった。 真崎鉛筆は後に三菱鉛筆となった会社である。

上の写真の左側、水路が直角に折れてトンネルに入っていくところがあり、この先にも石の欄干が残っていて、街歩き趣味を煽るものがある。

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聖橋(千代田区神田駿河台/文京区湯島)

JR中央線御茶ノ水駅の聖橋口にあるのがその名の通り「聖橋」である。都心部の神田川に架かる橋の中でもっとも象徴的な橋。 南側が千代田区神田駿河台、北側が文京区湯島、そして南側にはニコライ聖堂、北側には湯島聖堂がある。

橋が架かったのは昭和2年(1927)で、関東大震災(1923)の復興橋の一つとして架けられた。 聖橋の名前は一般公募で付けられたそうである。 おそらく二つの聖堂を結ぶので聖橋という考えが多かったのだろう。 長さが92mの鉄筋コンクリートの近代的な橋である。

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仙台藩伊達家の天下普請で彫られた神田川(仙台堀)の水面近くを地下鉄丸ノ内線が渡り、川岸にはJR中央線と総武線が崖にへばりつくように走る。上の写真はホームの反対側にあるお茶の水橋の上からのもの。 上京した40余年前から気に入っている東京の風景だ。

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一方、上の写真は秋葉原寄りにある昌平橋から撮影したもの。この水路はクルーズ船が沢山通る。 神田川に限らず、東京を川から見るのはいたって面白いので、徐々にブームに火が付いた感がある。 欧州では、都会の川をクルージングするところが沢山ある。 人間という生き物は水があると心が落ち着くらしい。 みんな童心に帰って風景を眺めている。

現在JRはこの聖橋側の駅を人工地盤を設置して大きく変貌させようとしている。 個人的には今の姿が好きなので、ちょっと嫌な気がしている。 無理して作った重ね張りのインフラが都市の成長を描いていて、そこに街の息吹を感じるからだ。 これを現代的なもので覆うようにすると極めてつまらない街になる。 渋谷駅も同様だ。 やっていることは1964年の東京五輪で臭いものに全部蓋をした稚拙な日本人から何一つ進歩していない。

西洋の先進国はすでにそういう街の歴史を大切にした街づくりになっているが、日本は本当に学ばない国である。 建設による経済効果でどれほどの取り返しのつかないものをなくすのかを考える人間が、財界政界に居ないからである。彼らには自分の足で街を歩いて、自分で舟をこいで川面から街を見てもらいたい。 そうすれば少しはまともな考えを持った人間が現れるだろう。

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2019年2月21日 (木)

宿山の庚申塔(目黒区上目黒)

昭和50年代に中目黒に住んでいた。 目立たない街だが渋谷に近く、下北沢、三軒茶屋に準ずる若者文化の息吹のある街だった。 ところがEXILEブームあたりから中目黒は薄っぺらい街に変わってしまった。人間のエネルギーを感じられない、金儲けの臭いのする街に落ちてしまった感じがする(個人的な見解です)。

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江戸時代以前、東京には多くの鎌倉街道が走っていた。 その鎌倉街道の辻にあるのが上目黒の宿山の庚申塔である。 環状七号線の野沢龍雲寺から中目黒、代官山を経て現在の青山学院大学のところで大山街道にぶつかる道は、蛇崩から北上すると、この庚申塔群のところで東寄りに折れ、小川坂を下って中目黒に。 そしてこの道が目黒川を渡る橋が宿山橋である。

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数基の庚申塔が並んでいて、壊れているものもある。 その中でも右から2番目の庚申塔は古そうだ。 かなり風化が進んでいる角柱型青面金剛で三猿が1匹ずつ3面に掘られている珍しいタイプ。 造立は元禄5年(1692)とある。 もともと傘付きだったが落ちてしまったらしい。

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もっとも左のバス通り側にある舟型青面金剛の庚申塔は宝永5年(1708)の造立。 青面金剛の下に三猿の彫られたオーソドックスなものだが、結構な大きさがある。脇には力石が無造作に置かれている。

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実はいちばん保存状態の良い中央の地蔵が最も古く、延宝3年(1675)のもの。 目黒区では唯一の地蔵庚申だという。

宿山という地名は大正時代までの地名である。 ここから東側は烏森、その先の小高い丘は諏訪山、目黒川沿いに下ると小川という字名だった。 小川坂の由来は坂下の町名だが、その先の目黒川の橋が宿山橋というのが不思議である。

諏訪山は中目黒では代官山に勝るほどの高級住宅地。 地形からすると城跡なのではないかと推測しているが、記録はない。諏訪山は遺跡としては、縄文時代~弥生時代の竪穴式住居や環濠集落が出ているが、それ以降のものが記録に出てこない。されど目黒川の北側には渋谷金王神社に渋谷氏の渋谷城があったから、ここも渋谷氏の家来かあるいは太田道灌の家来が守りを固めていたのではないか、などと想像すると楽しい。

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2019年2月19日 (火)

地元稲荷神社前の庚申と地蔵(世田谷区桜丘)

拙宅から駅までの間に毎日のように通る道に地蔵と庚申塔群がある。 桜丘の稲荷森(トウカモリ)稲荷神社の玉垣の外にあり、地蔵は堂宇にあるが、庚申塔は外に置かれている。江戸時代はこの地域は経堂在家村といった。 しかし辺りは世田谷村横根との境で、神社前の道が村境。 稲荷神社は江戸時代の地図では、経堂在家村に食い込んだ特別な土地という扱いであった。
中世の頃は、武蔵国菅刈庄(ムサシノクニ スゲカリノショウ)という大きな荘園の一部だった。 歴史は古い土地である。 江戸時代に経堂在家村だった地域が今も経堂4丁目になっていて、千歳船橋駅前なのに住所が経堂という江戸時代の村名を引きずったままになっている。

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稲荷神社の玉垣の脇にある4基の庚申塔と1基の地蔵は、毎日近所の方が掃除して花を供え、小さな木なども植えられている。 何十年もあまり気にせずこの前を歩いていたが、歳と共にここで一礼をすることが増えた気がする。
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堂宇の地蔵菩薩の造立年は延宝4年(1676)と古いが、形はしっかりと保たれている。この辺りの名家に岡庭家があるが、この地蔵もそのご先祖が主となって立てたものらしい。
前の道路は江戸時代には黒駒裏街道(甲州裏街道)と呼ばれていた道で、南側には熊本肥後の細川家が戸越に抱屋敷を拝領した折に、玉川上水から分水して品川まで引いた品川用水も流れていた。 品川用水は1663~1664年に掘られているので、地蔵はその少し後の時代。 このあたりにも品川用水の恩恵があり人口も増えたのだろう。 品川用水は昭和20年代に埋め立てられ千歳通りに代わった。
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一番道路側の庚申塔は、正徳3年(1713)と刻まれている。 富士山の宝永噴火のすぐあとである。 傘付きの角柱型で青面金剛の下に三猿がある典型的な図柄のもの。
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二番目の庚申塔は、同じく青面金剛に三猿だがこちらは顔が少し強面に描かれている。 造立年は元文4年(1739)と少し後の時代になる。
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三基目は再び破風の形の傘が付いたもの。 このトンガリ帽子タイプと隣の不動明王タイプの青面金剛の違いは何だろうかと思うがよく分からない。 造立年は安永6年(1777)とさらに新しくなる。 新しいと言っても250年ほど昔である。
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最も奥にあるのが小さめの駒型だが、造立年は延宝7年(1679)と地蔵に次いで古いものだった。 綱吉の生類憐みの令が1687年だからその少し前である。
稲荷森稲荷神社の創建は不明だが、吉良氏の時代と伝えられるので、1300年代ではないだろうか。 毎日歩く道を、荘園時代、江戸時代、明治大正と、いろいろな村人が歩いていたことを想像するのもまた面白いものである。

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2019年2月18日 (月)

太子堂 円泉寺(世田谷区太子堂)

世田谷の三軒茶屋駅北側の地名を太子堂という。 この地名の起こりが円泉寺にある太子堂らしい。 円泉寺の草創は南北朝時代と言われるが、安土桃山時代末期の文禄4年(1595)に、賢惠(ケンケイ)という僧が、奈良の久米寺から聖徳太子像を懐に抱いて東国の旅に出て、この地に一泊したところ、夢に聖徳太子が現れて、この地にとどまるべしと告げたという。 賢惠はここ円泉寺を中興し、翌年には太子堂や本堂を再建した。

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太子堂は境内に入って右側の一段高いところにある。 しかし、この地域は南北朝時代から太子堂村という地名であったようだ。 草創時は太子堂が先にあり、後に本堂が建ったという説もある。

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江戸時代になると太子堂村は江戸へ野菜を供給する農村として発展し、庚申供養塔が立てられている。 山門前の通りは江戸時代以前の鎌倉道と言われており、ケヤキの巨木が並んでいるが、もっとも東側のケヤキの幹の空洞の中に庚申塔が収まっている。 巨樹の幹の庚申堂はなかなかの風格がある。

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右手の板碑型青面金剛像は寛文13年(1673)とあり、左板碑型青面金剛像三猿は延宝6年(1678)とある。  最初から欅の空洞にあったのか、後にここに配置したのかを考えてみたが、おそらく後者だろうと思われた。 後で寺のことを調べてみると、もとは門前に安置されていたのを、大欅を切ったのちに納めたということだった。

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境内に入って左側に、可愛い道祖神に囲まれて子育地蔵尊が堂宇に収まっている。 この地蔵尊は寛政3年(1791)の造立なので、庚申塔よりも100年以上も後だが、それでも200年以上も昔である。 縁日本尊として庶民信仰を受けていた地蔵尊だったが、昭和43年(1968)に三軒茶屋からここに移されたもの。玉川六地蔵の第四番らしいが、ここ以外の地蔵が不明。江戸時代にはあったのだろうか。

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子育地蔵の脇にあるのが六地蔵。 こちらは寛政11年(1799)の造立。 寺の墓地の入口には六地蔵を配置するところが多い。世田谷区の六地蔵では桜上水の密蔵院、深沢の医王寺、豪徳寺が1700年以前で古いものだが、ここは比較的新しいほうである。

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実はとても気になったのが社務所の前にある六面塔地蔵。 お寺には聞けなかったが、あまり多くあるものではない。 一塔で六地蔵と同じご利益があると考えられているのだろうか。 いちおう全国にあるようだが、資料が極めて少ない。

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2019年2月16日 (土)

目青不動尊 教学院(世田谷区太子堂)

東京の地名に目黒と目白があるが、江戸には江戸五色不動(府内五色不動)というものがあり、目黒は江戸以前から目黒だったので、由来ではないが、目白の地名はそれに由来するという説がある。

五色不動とは、目黒、目白、目赤、目青、目黄の五つ。 寛永年間(1624~1643)に三代将軍徳川家光が上野寛永寺の天海大僧正の勧めで指定したと伝えられる。 江戸幕府は様々な結界に寺院を置いており、その中の一群が五色不動。

目黒はもちろん目黒不動、目白はもとは椿山荘近くにあった目白不動が今は宿坂の金乗院に移設されている。 目赤は本駒込の南谷寺、目青不動が三軒茶屋駅近くのこの教学院最勝寺である。 目黄不動は二つあり、江戸川区平井の最勝寺と台東区三ノ輪の永久寺だが、これらで江戸城をぐるっと囲むように配置されている。

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目青不動は三軒茶屋の世田谷線の駅わきの踏切の北側の側道を数十m西進すると入口になる。 目青不動は明治の初期まで麻布谷町(現在のアークヒルズ裏あたり)の観行寺にあったが、明治15年(1882)に青山の教学院に移された。 現在でいうと青山通りと外苑西通りの交差点近くである。 その後明治41年(1908)、教学院が青山から太子堂に移転になったため、目青不動も現在の地に移転した。 もちろん江戸城からの方向はほとんど変わっていない。

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仏像は、大きく分けて4つに分類される。 「如来」「菩薩」「明王」「天部」である。「如来」は苦行して悟りを開いた釈迦の姿を現し、「菩薩」は如来の境地に至ろうと努力している姿、「明王」は如来の化身で、「天部」は釈迦の家来がモデルと言われる。

不動明王は大日如来の化身で、火中から子供を救い出そうとしている親の必死の形相で、怖い顔だがよく見ると目が潤んでいるといわれる。背には火炎が伸びており、戦闘能力は相当高そうに見える。 撮影はできなかったが、拝顔すると右手に剣を立て鬼かと思うような形相である。

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教学院最勝寺の門前には3基の馬頭観音がある。 これらはどれも大正期以降のもので、よく読むと軍馬を弔っている。 そういえば三軒茶屋から池尻大橋にかけては北も南も長い間軍の施設だった。 この馬頭観音はその中でも近衛大隊の馬のもの。 ちょうど今の駒場東邦高校と筑波大学付属駒場高校の敷地に近衛大隊があった。

その他境内には元禄時代の仏塔などがあるが、本堂の教学院最勝寺は慶長9年(1604)に現在の皇居内に創建、後に赤坂TBS裏、青山と移転している。 目青不動尊を境内に配するようになったのは麻布谷町の観行寺が廃寺となったためだった。 それだけ古い寺なので、江戸時代中期のものがあるのだろう。

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2019年2月12日 (火)

目黒川の暗渠部分(世田谷区池尻)

目黒川は烏山川と北沢川という二つの支流を集めて天王洲アイルで東京湾に注ぐ独立河川である。 勿論この二つ以外にも目黒川には、蛇崩川、空川、谷戸前川、羅漢寺川などの支流がある。

目黒川のこの辺りには昔は水車が沢山あった。 代表的なのは加藤水車という水車で、その対岸にも進藤水車という水車があった(明治初期)。大山道があり、物資の輸送が容易で、農業、工業に役立っていたという。

目黒川は玉川通り(国道246号線)の大橋から上流が暗渠になっているが、そこから遡上すると650mで烏山川と北沢川の分岐点になる。 目黒川としてはこの650mだけが暗渠区間である。 暗渠区間のほとんどは目黒区ではなく世田谷区になる。

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ただし池尻大橋駅そばの看板は目黒区の設置、だから暗渠部分は描かれていない。 このみどりの散歩道の地図はこの場所から暗渠を上るのには全く役に立たない。

もちろん川に蓋をした状態なので、舗道のタイルの下には目黒川が流れている。 紛らわしいのは舗道に沿って親水設備があることだ。 これは新宿区の落合水再生センターできれいにした再生水を、代沢せせらぎ公園(北沢川暗渠)の地下にある施設でさらに浄化したものを流している。

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この再生水の流れには、鯉、オイカワなどが泳ぎ、カルガモやコサギがやってくる。 周辺の住民もにこやかに散歩している。 水辺があると人は穏やかになるものだ。 ただ、リスクのない水辺はゲームと変わらない。 子供のことを考えるとリスクがあって、それを学べる水辺が必要なのではないかと思う。

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やがて暗渠は東仲橋という橋の跡に差し掛かる。 東仲橋で暗渠と交差する道は古道で、厚木街道(大山道)の池尻と滝坂道の代田を結ぶ道。 大山道の一つ上流の橋がこの東仲橋であった。ちょうどこの橋の北側が急な河岸段丘になっていて、台地上に上るための長い階段がある。

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この河岸段丘は暗渠緑道から13m高い。 眺めがとてもいい。 江戸時代はこの台地はすべて徳川家の鷹狩のための駒ヶ原御用屋敷だった。家光らはここから目黒川流域を眺めて、楽しんでいたのかもしれない。

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東仲橋から100mほどで北沢川、烏山川の分岐点に到着する。 北沢川の源流は上北沢あたり、烏山川の源流は千歳烏山を越えて久我山手前の高源院の烏山の鴨池と言われる。もっとも北沢川も烏山川も多くの支流を集めているので、源流が沢山ある。 なかなかすべてを巡ることは難しい。

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2019年2月11日 (月)

龍泉寺目黒不動尊(目黒区下目黒)

江戸時代から江戸・東京の庶民に親しまれてきた龍泉寺(通称 目黒不動尊)。 町奉行の区域(朱引)まで特別扱いにされていたほどの寺院だったが、現在でもその特別感は十分にある。 まず路線バスが境内にまで細路地を入ってくるのに驚く。 バスは仁王門(山門)の前までやってくる。 お年寄りには親切な環境である。

目黒不動尊は天台宗の寺院。 大同3年(808)年に慈覚大師が創建したと伝えられる。 最澄が比叡山延暦寺を開いたのが788年、空海(弘法大師)が高野山を築いたのが819年だから、その間の出来事になる。 本尊が不動明王なので目黒不動尊と呼ばれる。 江戸時代になって、三代将軍家光の強力な支援を得て、江戸有数の寺院になった。

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江戸時代は大人気の日帰り行楽地としても賑わった。 大半の参詣者は行人坂を下って、遠方の富士山を愛でながら、太鼓橋で目黒川を渡り、目黒不動尊へと向かう。 それは帰り道でも同じで、行人坂を上り一息ついたところで振り返ると西日の富士が見える。

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上の浮世絵は広重の『江戸自慢三十六興』の「目黒行人坂富士」である。 江戸時代の人々はこんな景色が見られたのかと羨ましくなる。 目黒川以遠はほぼ緑に包まれた里山のような環境である。

病弱だった三代将軍家光は目黒不動に深く帰依したが、同時に江戸の街には五色不動という5ヶ所のお不動様が信仰の対象となった。 目黒、目赤、目青、目黄、目白である。この五不動の話はまた別の機会にしたい。

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龍泉寺の本道は急な男坂の階段を上った先にある。 その台地よりもさらに高くなった本堂は民間のあこがれを集めるのに十分な威厳を感じさせる。 裏手には大日如来像もあり、本堂を一周してお参りする。 龍泉寺には他にも様々な見どころがあり、それぞれを紹介するのは大変なので別の機会にしたい。

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別の見どころの中でも男坂の階段下から近い前不動堂は戦災を受けなかった貴重な建造物として重要だ。 概ね戦災で焼けてしまったのだが、この前不動堂と勢至堂は焼けていない。 この前不動堂と勢至堂は江戸時代中期のものである。 昭和44年に修復され、きれいに塗られているので古い感じはしないが、土台の石や木材の状況を見てみると時代を感じられる。

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意外と人気なのが男坂の階段下にある水かけ不動明王。 慈覚大師が独鈷で示したのがここの湧水で「独鈷の滝」と呼ばれた。 斜面の竜頭から何ヶ所か水が出ている。 かつてはこの湧水池と滝は行者の水垢離(ミズゴリ)場だった。 江戸末期にはあの西郷どん(西郷隆盛)が領主の島津斉彬の病気平癒を祈願してここで水垢離をしたという。 やはり水というのは昔から聖なるものなのである。

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行人坂と同じく安藤広重の『江戸自慢三十六興』の「目黒不動餅花」である。餅花というのは、不動尊の祭りの屋台で定番だったお菓子で子供への土産になっていた。 目黒不動周辺には花街がないので、おかみさんたちは安心して亭主を目黒不動にお参りに行かせたという。 しかしそこは江戸っ子、帰りに品川によって遊んで帰るという、騙し合いが面白おかしく伝えられたりしている。

しかしこの広重の浮世絵の女性はなぜこんなに大きいのだろう。 そこが気になって仕方がない。

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2019年2月10日 (日)

太鼓橋(目黒川、目黒区下目黒)

江戸時代の地図で「朱引」「墨引」という区分がある。 管理する「江戸」の範囲によって付けられたのだが、朱引というのが概ね寺社奉行の管理していた範囲で、墨引は町奉行の支配範囲となっている。 だいたい朱引のほうが外側で、町奉行の墨引はその内側であるが、目黒だけは異なっている。

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左下の出っ張りである。そこを拡大すると下のようになる。

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概ね目黒川を境に江戸の内と外に区分されるのだが、中目黒村と下目黒村だけが墨引に含まれている。 これはここに龍泉寺(目黒不動)があるためで、江戸っ子たちはこぞって目黒不動参りに行くのが、今でいうと千葉県浦安の東京ディズニーランドに行く感覚に似ていたようだ。 多くは江戸から行くので、そこまでは警察としての町奉行が管理するという発想なのだろう。

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目黒川から外へ出るのには太鼓橋という橋を渡った。 権之助坂が出来る以前は、行人坂を下り、この太鼓橋で目黒川を渡っていたのだが、行人坂があまりに急なので権之助が新しい坂を切り開いた。 江戸時代は権之助坂を「新坂」、その橋を「新橋」と呼んだ。 行人坂については、ブログでも以前に紹介している。 → 東京の坂 行人坂
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浮世絵は安藤広重の『名所江戸百景』の「目黒太鼓橋夕日の岡」である。左側が目黒駅で河岸段丘が見える。 この絵が描かれたのは安政4年(1857)だからまもなく明治維新という時代である。当時の雅叙園あたりはこんな感じだったはずだ。

太鼓橋は明和7年(1770)頃完成している。 宝暦14年(1764)に木喰上人が架橋に取り掛かり、江戸八丁堀の商人たちが支援して6年越しで橋が完成した。 この橋は江戸で初めての石橋で、橋脚を立てず両側から石を積んでアーチ型にして支えるという西洋的な方法だった。 当時長崎の眼鏡橋など、西洋や中国の技術が鎖国の中でも入ってきて国内に広まったという。 目黒不動への参詣客が数多往来する道筋にこの橋はさらに集客効果があっただろう。 その結果広重の『名所江戸百景』に描かれることになったのだから。

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今の橋はまことに味気ない。 もう少し何とかならなかったかと思われてならない。 それでも橋の西側から見上げると河岸段丘を感じられる。 森に見えるのは雅叙園と大円寺の樹木のおかげである。

行人坂は大円寺が火元になった江戸三大火事のひとつ「行人坂火事」が歌舞伎などで有名である。 雅叙園の入口にお七の井戸が残されているが、江戸のあちこちにお七の話が転がっているのでほとんどが創作話である。 白山の円乗寺にもお七の墓がある。

しかしここの大円寺は火元ということで76年間も再建を許されなかったという史実もあるので、お七の大円寺がここということは間違いないだろう。

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大橋(目黒川、目黒区玉川通り)

玉川通り(国道246号線)が目黒川を渡る橋を大橋という。 最寄駅が東急田園都市線の池尻大橋である。玉川通りはかつての厚木街道。 江戸と厚木(大山)を結ぶ街道として多くの大山詣での人々で賑わった。 現在は首都高速に覆われた国道246号線が片側数車線で南北を分断する形になっているが、大橋の辺りは目黒川の氾濫でたびたび川筋が変わっているので、旧道は今の玉川通りではない区間が多い。

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地図は関東大震災前の大橋の周辺である。 この時にはすでに玉電を通すために直線的に道が通っているが昭和30年代までは片側1車線+軌道の狭い道だった。また目黒川の流程は現在とはかなり異なっている。地図の北側にあるのは駒場の陸軍、そして目黒川の南側は駒沢練兵場で、陸軍一色の街だった。昭和30年代になると、北側の陸軍大隊は警察(機動隊)や学校、病院になった。 南側はしばらくの間防衛庁が占拠していた。

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現在の大橋はいつ渡ったのかも分からないような状態になっている。頭上には大橋ジャンクションがあり、昼なお暗い。 ここは首都高でも有数の渋滞ポイントになってしまった。 全体計画を欠いた状態でパッチワークのように開通させても渋滞は永遠になくならないだろう。

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その大橋から上流の目黒川は完全暗渠になる。 ここから下流は河口の天王洲アイルまで開渠で、両脇に植えられたソメイヨシノが近年になって東京でも千鳥ヶ淵に並ぶ桜の名所になった。

私が中目黒に住んでいた1970年代は川沿いの桜はほとんど知られていなかった。 他にもっといい桜並木は五万とあるのになぜ目黒川がもてはやされるのかが分からない。 ただ、歩いて感じるのは、いろんな飲食店があって花見客の財布からお金を抜き出そうとしのぎを削っている。 商売になるからPRされる。 そうすると単純な花見客はすぐに寄ってくる。 金が落ちる。 さらに宣伝になる。 という循環ではないだろうか。
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大橋から上流は暗渠上の親水公園になっている。 水は落合水再生センターからの供給で、目黒川とは無関係の水である。 昔の目黒川はどこにもない。

『新編武蔵風土記稿』には、「大橋、目黒川に架す。土橋にて長さ七間、幅九尺、此の橋の傍らに水車在り。文化年中、村民勘右衛門と云う者願い上げて作れり。」とある。したがって江戸時代は川幅(橋長)12.7m、道幅2.7mの土でできた橋だったということになる。 洪水の度に流されて付け替えられたのだろう。 また水車は大正時代まであったようだ。

この大橋がちゃんとした鋼橋になった記録は昭和に入ってからである。 となるとそれ以前の明治40年に三軒茶屋まで玉電が開通した時はどうやって目黒川を渡していたのだろうか。 普通のコンクリート橋だったのだろうと考えている。

またこんな小さな橋を大橋と呼んだのは、かつての厚木街道の時代、大坂を下った先にある目黒川の橋は大坂の下の橋ということで大坂とセットで名付けられたという説がある。ただ 多摩川までの区間でもっとも大きな橋ではあっただろうから、地元の人々にとっては大橋だったのかもしれない。

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2019年2月 9日 (土)

千住大橋(荒川区南千住/足立区千住橋戸町)

徳川家康が江戸入城して隅田川に最初に架けられた橋が千住大橋である。 以降、江戸には350以上の橋が架けられてきたと言われる。 それだけ江戸には水路を整備したということにもなる。 その中でも隅田川に最初に架けられた千住大橋の意味合いは特別だ。
当時当然多摩川には橋はない。 もちろん昭和になって完成した荒川もない。 今の荒川は隅田川の放水路として赤羽から人工的に掘られた河川である。 隅田川は当時は荒川と呼ばれていた。 江戸の防御を考えると橋は架けない方がいい。 しかし街道を整備するのに、ここは日光街道、奥羽街道、水戸街道の要なので、渡しでは対応できなかった。
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最初の橋であったので江戸市民は単純に「大橋」と呼んだ。 そのために今の橋のプレートも「大橋」と書かれている。 両国橋などは落橋して大惨事になったが、千住大橋は文禄3年(1594)に架けられてから、明治18年(1885)まで一度も流失しなかったのはすごいことである。 もちろんその間に改修や補修は何度も行われている。
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橋の南にある荒川ふるさと文化館にある模型が江戸初期の様子を伝えてくれる。 木橋としては異常なほどの長寿命。 この橋を架けたのは伊奈備前守忠次で、彼は徳川家康に命じられて江戸周辺の大きな川の治水工事を行った。 東京湾に注いでいた利根川を、銚子方面に付け替えたのも彼の事業。 神田上水を開発した大久保主水と合わせて、江戸の街を作った主役である。 大橋の材には水腐れに強いイヌマキ(高野槙)の巨材を用いたりという工夫もあったようだ。 昔の工事レベルは本当に感心するものが多い。 ちなみに資材調達は伊達政宗が行った。
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今の鉄の橋は昭和2年(1927)に架けられた近代的なアーチ式の鋼橋で、イヌマキの橋杭はこの時まで使われたようだ。 元の木橋があまりに凄いので存在が霞みがちだが、この鋼橋も橋脚のない橋でなかなかの土木技術だと思われる。
松尾芭蕉の『奥の細道』もこの橋が旅立ちの地である。 北千住側に「奥の細道 矢立初めの地」という石碑がある。 ここから先は別世界というのはつい150年前の話。 江戸と東京はそれほど違う。
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橋の下に潜れるようになっている。 千住小橋という橋があって、そこにはここに浮く3つのブイの話が書かれていた。 このブイは木橋時代の橋杭がその下に埋まっていることを示している。 上を歩く人にはまったく気づかれないが、千住大橋にはたくさんの痕跡、史跡があって興味深い。
おそらく千住大橋について調べられることをまとめようとすると1冊の本になりかねないほどの橋であるが、その道の専門家ではないので、ここらへんで。

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2019年1月31日 (木)

常盤塚(世田谷区上馬)

東京は永遠に未完成な都市である。 計画都市とはまったく逆のこの東京を歴史上もっとも理解して開発したのは徳川家康であった。 現代の政治家やディベロッパーの誰もが家康に比べるとビジョンの点で天と地の差がある。 山の手と下町の地形地勢を理解して向こう300年安寧に暮らせる街になることはもうないだろう。

道路計画もすべてが中途半端。 放射状道路と環状道路の組み合わせも遅々として進まず、戦後70年掛けてもまだ道半ば。 何年か前虎ノ門に戦後マッカーサー道路と言われた環状2号線が出来たとはしゃいでいたが、馬鹿の祭りである。 僅か1.4㎞の区間で、事業費は2,700億円、地上げ立ち退きで苦しんだ住民を尻目に、関係者の懐が潤っただけのことだ。

そんな中でもっとも完成形に近づいているのが環状七号線。 私はよく利用する。 トラックが多いものの、そこそこ流れて首都高速よりも便利な場合が多い。 その環七と世田谷通りが交差するのが常盤陸橋。 都内でも有数の交通量がある。

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環七は昭和の道路だから街をぶった切っていて道路の秩序を壊している。 しかし世田谷通りはかつての矢倉沢往還、何百年もの間、甲州街道、大山街道の間の西に向かう主要道だった道で街にしっくりと馴染んでいる。 江戸時代この交差点の少し南に流れていた(現在は暗渠)蛇崩川の支流に架かっていた常盤橋という小橋があった。

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『江戸名所図会』に「常盤橋」として描かれているが、軽く跳び越せるくらいの橋に見える。 しかし名所図会の本文には、「二子街道中 馬引沢村、世田ヶ谷入口 三軒茶屋の往還角の所より、向こうへ三丁許(バカリ)入りて、小溝に渡す石橋をしか名づく。」とある。 小さいながらも謂れのある橋なのである。その橋の欄干だったかもしれない石が近くの駒留八幡神社に残っている。

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境内にある弁天(以前は常盤弁天とあったが現在は厳島神社とある)の前に無造作に常盤橋の一部が置かれている。 溝っ川に掛かっていた小さな常盤橋がここまで土地の歴史上残されているのは「常盤姫の伝説」による。

「江戸時代以前の天文年間(テンブンとよむ:1522~1555)、この辺りは世田谷城主吉良頼康の領地だった。 吉良頼康には12人の側室がいたがとりわけ寵愛していたのが家臣の奥沢城主大平氏の娘である常盤姫だった。 やがて姫は懐妊したが、それを妬んだ他の側室たちが頼康にデマを吹き込み、あの子供は家臣との不義密通の子であると信じさせた。

頼康は疑念から常盤姫の殺害を命じた。 姫はひどく悲しみ、飼っていた白鷺の足に辞世の句を結んで、実家の奥沢城に放った後死んだ。

ところがたまたま奥沢城 近くで狩りをしていた頼康の矢がその白鷺を射落とし、その足に結ばれていた常盤の辞世の句を詠んで、姫の無実を知り、城に戻ったが姫は胎児と共に事切れていた。 胎児は男児だった。

頼康は側室たちを成敗するとともに、常盤姫と息子の鎮魂のために駒留八幡宮に若宮と弁財天を祀った。」

という伝説。 常盤が死んだ場所がこの常盤橋と言う場所で、それが現在の常盤塚の近くだったという。 また白鷺が落とされた場所に生えたのが鷺草という言い伝えから、今でも世田谷区の花はサギソウとなっている。

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常盤塚の場所は世田谷通りの若林三丁目バス停から入ったところだが、そこだけ異空間のように静かに感じられる。 もちろん石碑などは後年のものだろう。 また話も、後の江戸時代になって『名残常盤記』というサギソウ伝説の物語に脚色されて出来上がったもののようだが、今も常盤塚をきれいに保っている地元の方がいらっしゃるのはありがたいことである。 こういう心を日本人は忘れてはならないと思う。

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塚は昭和58年に世田谷区の指定史跡になった。 塚の南にある駒留八幡神社はその物語から若宮八幡宮と呼ばれた。 胎児の霊を八幡宮に祀り、境内には常盤姫を祀る弁天もある。 そして当時奥沢城だった現在の九品仏にある浄真寺にはサギソウが群生している。

かつて常盤塚の石碑の脇には当時の松に替えて、桜の巨樹があったが、それも枯死し今は新しい桜の木が植えられている。

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2019年1月30日 (水)

若林の墓所と計画道路(世田谷区若林)

淡島通りは若林陸橋を渡った先で道路が切れている。 もう何十年もここが淡島通りの終点である。 しかし計画道路と言うのは何十年経っても、事情が変わっても、役所の中では変わらないので、延伸計画はずっと進行している。 計画の実現が早いか、氷河期が始まって東京湾が干上がるのが早いか、競争していると言ったら大げさだろうか。

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そのどん詰まりの先にあるのは墓地。 墓石を見る限り根岸家の墓所のように見える。 根岸家というのは、この辺り若林の名家であったが、近年はほとんど名前を聞かない。 江戸時代は若林村、明治2年(1869)に品川県になり、明治6年(1873)には東京府となった。

当時の人口は232人、世帯数は46戸というのが若林村の規模。やがて明治22年(1889)になると池尻村、三宿村、太子堂村、若林村、下北沢村、代田村、経堂在家村、世田谷村の8村が合併して新しい世田谷村になった。その時の村役場がこの墓所のすぐ北側にある若林小学校の隣りであった。若林小学校は明治35年(1902)に太子堂から今の場所に移転してきた荏原尋常小学校が前身である。

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この墓所にはたくさんの石仏が並んでいる。 名前はないので墓石ではないようだ。 時代的には天和年間(1681~1684)、元禄年間(1688~1704)、宝永年間(1704~1711)、享保年間(1716~1736)、寛保年間(1741~1744)、寛政年間(1789~1801)の石仏があり、東京の都心近くにこんな風に残っている事自体奇跡的なものを感じた。

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真ん中あたりの宝永年間というのでさえ、過去最後に富士山が大噴火した時代である。ということはこの石仏たちの半分近くは宝永大噴火の火山灰を被った経験を有しているということになるのだ。

江戸時代の根岸家は若林村の村役人を務めていたという記録がある。明治末期の辺りの資料を見ると、この辺りには小学生相手の文具店があり、根岸菊蔵という方のお宅だったようだ。 辺りでは根岸家は名主も務めたと伝わっている。また平成に入ってからも根岸家の方が町会長を務められたりしているようだが、墓所との関係は分からない。

昨今こういう歴史的に価値の高い史跡をなくしてしまう開発が多いので、ここはしっかりと歴史を掘り返して保存してほしいものだと思ってやまない。

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代沢滝坂道の地蔵(世田谷区代沢)

駒沢地蔵尊の西側の道路が目黒区と世田谷区の区境になっている。 ここから西へ僅か100m余りで再び地蔵堂がある。 堂宇に入っている地蔵は二体、右の地蔵は掛けているが見た目にも古くない様子。 左側の大きい地蔵はかなりの年代物。

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地蔵の向かって左前面に彫られている造立年は天和元年(1681)である。 駒場地蔵尊の古いほうの地蔵が1692年だったので、こっちの方が少し古い。

駒場地蔵尊は目黒区と世田谷区の区境と書いたが、江戸時代に遡っても同じ場所が上目黒村と下北沢村の村境だったようだ。 そして滝坂道よりも南側一帯は、村域ではなく幕府の駒ヶ原御用屋敷で将軍の鷹狩場であった。

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世田谷区側の地蔵は規模では目黒区側の駒場地蔵尊に劣るが、こちらの地蔵も地元の人が丁寧に世話をされているのがよく分かる。 江戸時代の滝坂道を下北沢村に入って少し進むと北沢川の支流を渡る。 水路としては北沢川溝ヶ谷支流という名前だが、現在は川はなく地形の高低差と道に痕跡が残るだけである。

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淡島交番前という小さな交差点の横断歩道の北側にある歯医者さんの脇に細路地がある。 舗装もされていない。 これが溝ヶ谷支流の痕跡である。 この辺りの民間伝承に「ヤマメの恩返し」という話がある。(以下は『ふるさと世田谷を語る 代田・北沢・代田・大原・羽根木)』に掲載されている民話の引用)

今の代沢2丁目2~3番地辺りは明治の頃は下北沢村字「会の辻」と称され、ここに南北に長い大きな池があった。 池に流れ込む小川の上流が「池の上」で、池の南端が「池尻」である。 この池に長さ1尺余りの大きな魚が一尾いた。滅多に水面に姿を見せず、たまに見かけた人は山女魚に似ていたと言う。松之助は日頃父から、「あれは池の主だからいじめたりしてはならん」と戒められていた。

淡島のお灸(*後記参照)が行われた夏の日のこと、東京の人が淡島通りと森厳寺の間を三々五々行来していた。松之助がいもうとのふみをおんぶしていると、浴衣姿の若い衆二人が池に石を投げつけたり笹竹を突っ込んだりしていた。 近づいてみると大山女魚を見かけたので行方を捜しているようだ。

「大きな魚は池の主だからいじめちゃいけないんだよ」 と松之助がたしなめると、一人が、「何だと!このガキ!」と言うなり、顔を殴りつけ、松之助が転んだ途端、ふみが大声で泣きだした。若い衆は泣き声に慌てて、淡島通りへ去っていった。

その夜、松之助は池の主の夢を見た。 山女魚の顔が近づいてきて囁いた。

「今日は助けてくれてありがとう。あそこも棲みにくくなったので近く北沢川の水底の洞穴に移る。 秋に大水が出てこの辺一帯が水浸しになる。その時に…」

翌朝飯を食いながら松之助が父に夢の話をした。 父が村人に大水を予告したので、何十年ぶりと言われた北沢川の氾濫の時もこの村の被害は少なくで済んだという。

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東京の渋谷と下北沢の間に伝わる明治の話で尺ヤマメというのも驚きだが、私たちが何も考えず暮らしている東京の街もつい100年前には山里と変わりない様子だったのである。

地蔵堂の向かいに利根川食品という面白い八百屋がある。たまに休んでいるが、その時に上のような張り紙がされていた。その下にある近所の方の付箋がまた洒落ている。 明治以前の粋な人々の息吹が感じられるようだった。

*淡島のお灸: 江戸時代初期の慶長13年(1608)に森厳寺が開山、境内には初代住職清誉上人(セイヨショウニン)が勧請した淡島明神が祀られた。 ここで淡島の灸というお灸が始まりご利益があると大流行、お灸のために人々が二日三日も順番を待つほどだった。

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2019年1月28日 (月)

駒場地蔵尊(目黒区駒場)

目黒区は北西に尖がった北海道のような形をしている。 その北海道で言うと稚内あたりになるのが駒場。  渋谷区と世田谷区の間にクサビを打つように食い込んだ駒場の突端は小田急線東北沢駅近くの三角橋だがそこには橋などない。 三角橋という地名はかつて三田用水が流れていた時代にあった橋の名前である。駒場の北境はこの三田用水沿いになっている。 三角橋あたりから取水して北沢川溝ヶ谷支流に分流していた。 この支流沿いには『ヤマメの恩返し』という民間伝承がある。

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淡島通り沿いは古道滝坂道である。 目黒区から世田谷区に入る交差点の角に駒場地蔵尊がある。 傍らに目黒区の立てた説明板が立っている。

「悪病も退散 〆切地蔵 … その昔、隣村で悪病が流行、大勢の人が死んだ。驚いた駒場の村人がこの地蔵様に祈ったところ、誰も病気に患らなかった。以来、悪病締め出し地蔵として、この名が付いたという。」

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一番右の地蔵は新しい。 二番目の地蔵菩薩は古く1692年のもの。 真ん中の大きな地蔵菩薩は1718年、左の小さめの聖観音菩薩は1674年でこれが一番古い。 地蔵信仰は鎌倉時代に民衆に広まり、江戸時代から明治辺りまで、鎮守とは別にまさにその土地のものとして育まれてきた。 最近あちこちで開発や新築時に「気持ち悪い」と言って、業者に破棄してもらうというケースが多いようだが、罰当たりな話である。

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左の間仕切り側にある地蔵についてはよく分からない。水子地蔵尊のようである。 それにしてもここの地蔵堂はしっかりと守られていて素晴らしい。

目黒世田谷には「駒」のつく地名が多い。 ここ駒場に始まり、駒沢、駒留とある。 駒というのは馬のことだ。 駒場というと馬が集う場所で牧場。 ここでは昔から良馬を産出したという。 馬が駆け回った野原ということで駒場野という地名が出来た。

駒沢というのはちょっと違って、上馬引沢村、下馬引沢村、野沢村、深沢村、弦巻村などが合併して明治時代に出来た地名。 しかし駒留には由来がある。 駒留八幡神社の由緒によると、1308年に駒留八幡神社を創建した領主の北条左近太郎入道成願が神社の土地を探す際に、馬が立ち止まったところにしようと決め、神社の場所で立ち止まったことに由来するという。

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江戸時代の駒場はまさに将軍の御鷹場だった。 現在の東大キャンパスの辺りには将軍用の御鷹場施設も作られた。 滝坂道は尾根筋を通っていたので、駒場野の風景は道すがら広大に広がっていた。 その絵図が『江戸名所図会』の「駒場野」に描かれている。

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この景色がつい200年前の景色である。 周辺は徳川将軍の御用屋敷の敷地内で、もともとは上目黒村の加藤家が開拓した土地だったが、江戸時代初期に加藤家は愛媛県の宇和島藩伊達家に献上、宇和島藩の下屋敷になった。 その後1718年に宇和島藩は幕府の鷹狩り場として差し出したといういきさつがある。

この辺りの鳥見役(鷹場の獲物を管理する公務員)の役金は20両だったというので、今の価値にして高いか低いかは何とも言えないが、相対的な生活レベルから言えば歴史学者の換算額はコンサバすぎるので、私の理解としては年収1000万くらいの感じだったのではないかと思う。

それに対して地元民は鷹番として身銭を切る負担を受けていたようで、名誉の代わりに労役を強いられていた。 いつの時代も、管理する側と現場で生活する側では経済的な物差しが違うのである。

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松見坂地蔵尊(目黒区大橋)

松見坂地蔵尊。山手通りと淡島通りの交差点脇にある地蔵堂に2体の石地蔵と三猿の庚申塔がある。堂宇の脇には明治32年の「とほとうみはし(遠江橋)」の親柱が残る。 もとはこの下った脇の小径が滝坂道で、地蔵から下ったところに遠江橋があった。 大正期になってから車道としてその上に直線的な新遠江橋が架かったようだ。

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地蔵は新しいもので、元の地蔵は戦災で破壊された。地蔵堂の西側は谷地形になっているが、ここには空川という川が流れていた。水源は東京大学駒場キャンパスの一二郎池と駒場野公園。 やや下流で目黒川に合流したが、昔の目黒川は今とは違いうねった流程だったので、合流地点は時代によって違っていた。

その場所はおおよそ山手通りの目黒橋辺りから、大橋ジャンクションのオーバル建築物脇の氷川橋あたりで変化した。 明治時代末期に川筋を固定して以降、このジャンクションの場所は昭和の中期までは玉電の大橋車庫だった。 また玉電廃止後は東急バスの営業所として使われていた。

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この辺りは明治中期以前は何にもない土地だった。江戸時代には遠くまで見渡せる野原だった。将軍がこの辺りに鷹狩りに来るので、鷹狩りの関係者が住んでいた。

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それよりも昔、地蔵堂の渋谷寄りには大きな松があり、山賊がその上から滝坂道を往来する旅人を狙っていた。約450年前その山賊の頭の名が道玄だった。それが道玄坂の名前の由来。大小さまざまな地蔵はその時代のいろいろな出来事や苦労を表しているのかもしれない。

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滝坂道は今の道玄坂上から神泉付近を通ってここで川を渡るために大きく迂回する。ここで何人の旅人が襲われ命を落としたか分からない。 古い地蔵と石を見ているとそんな情景が脳裏に浮かんでくる。

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2019年1月27日 (日)

淡島の厄除地蔵(世田谷区三宿)

渋谷から世田谷区若林の間のバス通りを淡島通りと呼ぶ。 この通りは古道滝坂道にほぼ沿っている。徳川家康が江戸にやってきて五街道を整備するのだが、それ以前から当然道はあった。中世以前は府中が武蔵国の国府で、江戸と府中を結ぶ道のひとつがこの滝坂道だった。江戸時代には甲州街道に繋がる道で「甲州道中出道」と呼ばれたが、調布の滝坂で甲州街道と合流したので「滝坂道」とも呼ばれていた。

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写真は渋谷から2.5㎞程西進した淡島交差点近くで、旧道筋が分離するところ。 街道歩きはこういう分岐を見つけて、旧道筋で昔の痕跡を探すことが楽しみのひとつでもある。 この先で北沢川の暗渠と交差するが、そこにあった橋が「大石橋」。旧道脇に大正3年(1914)の親柱が残っている。 大正期まではこのすぐ下流には江戸時代から続く水車小屋もあった。

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かつてここに流れていた北沢川(北沢用水)は水量の多い流れで、天明年間(1780年代)まで橋も架かっていなかった。 たまたま通りかかった藤助と名乗る行者が、村人の難渋を見かねて橋を架けようと言い出し、自らのお金に加え当時の代田村名主から寄附を受けたりして天明9年(1789)ここに橋を架けた。 行者は橋が完成するとまた旅立ってしまったという。 この大石橋の10mほど先の辻に地蔵堂がある。

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堂宇の中には庚申塔と厄除地蔵があるが、この地蔵が墓石のような立方体の石。 これは珍しいが、かつては地蔵だったと思われる。 代田村の言い伝えによると、代田村には東西南北4つの厄除地蔵があり、ここは東向き地蔵で村の境を守っていたという。 南向地蔵と西向地蔵は世田谷代田駅近くの円乗院に移設保存されている。 北向地蔵は代田橋駅近くに現存するが、ここにあった東向地蔵は残念ながら戦災で破壊されてしまったという。 現在の石柱は戦後作られた名残りの石柱なのである。

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堂宇の外にある右手の「日本廻國供養之石塔」は、代田村の村人たちが前述の藤助という行者への感謝と旅の安全を願って建てた石塔で、昭和になって失われてしまったが戦後ここに復活したもの、 天明の年号が入っているのは、大石橋の言い伝えの年代を表している。

また左手には三界萬霊塔があるが、この由緒は分からない。ただ、三界萬霊というのは仏教の輪廻転生に関わる言葉で、欲界・色界・無色界を表す。 欲界(ヨッカイ)とは本能的な欲望が強い物欲の世界、色界(シキカイ)は形質だけの世界で、欲望は解脱したもののまだ形には捉われている段階、無色界(ムシキカイ)は欲望も物質も超えた精神世界というとされる。

無色界の中に「有頂天」という状態があり、我を忘れるほど精神が高まった状態をいうらしいが、ここまではまだ人間界のことで、三界を超越したところに仏の世界があると言われている。 とても到達できそうにもない。

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2019年1月26日 (土)

十二社熊野神社(新宿区西新宿)

西新宿の高層ビル群の先にかつてはホームレスの集合地だった新宿中央公園がある。 その北西角にあるのが十二社熊野神社。 熊野神社は熊野三山を本社とする熊野神を祭神とする神社で、熊野社あるいは十二所(ジュウニソ)神社などと呼ばれる。全国には2~3千社あると言われているが、その地域は東北から九州までと広い。 特に関東中部地方に多いが、東京23区内には5社のみ。 板橋前野、志村、自由が丘、立石とここ新宿である。

熊野三山の信仰は熊野古道などでもわかるように有史以前からの自然信仰で、全国的に広まったのは平安時代から鎌倉時代にかけてである。 熊野三山とは、熊野速玉大社、熊野本宮大社、熊野那智大社を指す。

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十二社熊野神社(新宿)の創建は応永年間(1394~1428)に中野長者といわれた鈴木九郎が、故郷の紀州の熊野三山より勧請したと伝えられる。 新宿の総鎮守とされているが、今でこそ日本最大の街新宿も100年以上前はのどかな農村地帯であった。 神社の辺りは角筈村、北側が柏木村で、青梅街道と甲州街道に挟まれた近郊農業の田園地帯である。

江戸時代の風景は、『江戸名所図会』の「角筈熊野十二社」 に描かれている。 広い池は十二社の池で、江戸時代以降は元からの湧水に合わせて、玉川上水の水を落とした景勝地となり、花街が広がって賑わっていた。ただ淀橋の由来では守銭奴で金の隠し場所を知ったものを平気で殺す鈴木九郎という印象だったので、神社を勧請するという話とは少し距離を感じた。

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鈴木九郎の鈴木家は昔、熊野地方で熊野三山に仕えていた。 源義経について東国を巡り、九郎のときに中野に定着し、この地域を開発した。 その後、九郎は成功し財を成すようになり、応永10年(1403)には熊野三山の十二所権現をすべて勧請した。

江戸の景勝地となったのは、八代将軍徳川吉宗の頃で、鷹狩りの折に将軍も立寄るようになり、滝や池を配した大名好みの風景に人気が高まった。 最盛期には料亭や茶屋が100軒を超え、芸妓も300人以上いたという。

しかし十二社池は昭和43年(1968)にすべて埋め立てられてしまった。 今はビルが立ち並び、当時の面影を探すことは難しいが、一本裏路地に入った大銀杏のあるそば処福助や改装した旅館一直、またそば屋福助の南に残る料亭跡などがある。

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2019年1月25日 (金)

日枝神社(千代田区永田町)

江戸の三大祭りと言えば、神田明神、深川富岡八幡宮、赤坂日枝神社の祭りをいう。 しかし富岡八幡宮は江戸の祭りの中では若干後発で、江戸の初期は北の鬼門に対する神田明神、南の裏鬼門に対する日枝神社の二大祭りだった。 もっとも深川周辺は江戸時代初期は大半がまだ海の中で、後に埋め立てられていった地域である。 今でいうニュータウンの代表と言えるだろう。 しかし近年宮司による殺人事件が起こって大騒ぎになった。 どうも最近の富岡八幡宮は呪われている気がする。

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赤坂日枝神社は溜池の脇にある丸い島(山)に建っている。 もともとは太田道灌が江戸城を築いた文明10年(1478)に現在の皇居に勧請された鎮護の神社だった。 天正18年(1590)に徳川家康が江戸城に入城し、江戸の産神、総氏神としていたが、二代秀忠の時に、城内紅葉山から濠を越えた国立劇場付近に移された。 しかし明暦3年(1657)に江戸を焼き尽くした明暦の大火で焼失し、万治2年(1659)に四代将軍家綱が現在の土地に遷座させた。

丸い山なので、大鳥居が3つあってどれも存在の主張をするのでわかりにくいが、国会議事堂側の鳥居が正門。 上の写真の外堀通りと赤坂通りが接する山王下にある白い大鳥居は裏参道にあたる。 さらに少し見附寄りにはもう一つ西参道の大鳥居がある。多くの人は裏参道を使う。

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本殿はそれほど大きくない。境内からは背後にそびえるプルデンシャルタワーが空に突き出している。

祭神は大山咋神(オオヤマクイノカミ)で須佐之男神(スサノオノミコト)の孫にあたるというが、古事記の世界なので本当の関係は分からない。 大山咋神の守護は猿なので、日枝神社の本殿前は狛犬ではなく猿像が両脇に鎮座している。

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小山の上なので、表参道の階段上から男坂を見下ろすと結構な高さに驚くかもしれない。 脇の車道が女坂と呼ばれるが、車で上るとあっという間だから、同じ高低差とはとても思えない。本殿の標高は29m、表参道下が15mなので階段の高低差は14mほどある。 外堀通り側はもっと低いので山王下交差点とは20mの差がある。立派な山である。

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実は日枝神社の西参道から入ると、千本鳥居がある。あまり人も訪れない入口だが、この稲荷参道は都内でもかなり長い千本鳥居。 さらに高低差があるので、よりご利益を感じられる。 稲荷参道を上った先は本殿の向かって右手になり、そこには末社が並ぶ。

この地形は絶対城跡だと思ったら、やはり太田道灌の城で星ヶ岡城跡だったとある。 辺りの地形を利用して、江戸城の前城として築かれたようだ。 キャピトル東急ホテルの高まりと、日枝神社の山、そして日比谷高校の高台にそれぞれ城が作られ、神社と日比谷高校の間の切通坂は濠の痕跡である。

戦後ビートルズも宿泊したキャピトル東急ホテルを建設するときに、南側の山を崩してしまったので、現在の地形図では分からないが、首相官邸の近くまで山が迫っていたことは少し前の地形図に描かれている。

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2019年1月22日 (火)

淀橋(神田川 中野区中央/新宿区西新宿)

ヨドバシカメラの由来の淀橋である。 青梅街道が神田川を渡る歴史ある橋。 橋の中野区側にはかつて都電の淀橋電停があった。 現在の住所は中野区中央と新宿区西新宿の区境だが、昭和の地名では北東が柏木、南東が淀橋、西側が本町通りだった。 また関東大震災以前は北東が淀橋姿、南東が淀橋、北西が小淀、南西が本郷。

しかし大正時代以前の神田川はほぼ自然河川の流れで、この辺りも複数の流れに分流していた。南東から淀橋付近に合流してくる流れがあった。 「神田上水助水堀」と言われているが、それは江戸時代に玉川上水が出来てから、神田上水に補水する目的の人工水路の扱いだ。

しかしこの流れは地形を読む限り、間違いなく十二社の池から流下していた流れである。十二社あたりと淀橋では5mほどの高低差があり、この間を流れていた小川を利用して江戸時代に水路が開かれたのだろう。

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淀橋周辺には平成の間に高層ビルが林立した。 もっとも新しいのがパークハウスという60階建てのタワーマンションだ。 この脇にはかつて「けやき橋商店街」という素朴な昭和の商店街があった。

少し南にもかつて初台に通じる商店街があり、はっぴいえんどのファーストアルバム(通称ゆでめん)のジャケット写真になった風間商店という製麺所があった。 神田川笹塚支流を渡る商店街通りの橋「柳橋」の脇に、今もまだ古いアパート付き商店がシャッターを閉めたまま残り(風間荘)、これがゆでめんの場所である。

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青梅街道の神田川に架かる橋はいたってそっけないもの。 もっとも長さの何倍も道路幅があるので、車で通る人は橋を感じることはない。 しかし淀橋は徳川家康の江戸入城以前からある古橋である。

『江戸名所図会』にも描かれており、「淀ばしは、成子と中野との間にわたせり。大橋・小橋ありて、橋よりこなたに水車回転(マワ)れるゆゑに、 山城の淀川に準(ナゾラ)へて、淀橋と名付くべき台命ありしより、名となすといへり。大橋の下を流るるは神田の上水堀なり。」と記述されている。

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題名は『淀橋水車(ミズグルマ)』、左頁の木橋が淀橋である。 水車は左頁の最下部にある。右頁にある橋は神田川の分流に架かっていた小淀橋だろう。今は路地にその痕跡を感じることが出来る程度である。

橋の北東側に淀橋という名前以前の『姿不見の橋』についての物語が書かれている。

『淀橋』の名は、江戸時代の三代将軍徳川家光が名づけたといわれる。 古くからあるこの橋は、昔は「姿見ずの橋」とか「いとま乞いの橋」と呼ばれていた。中野長者といわれた鈴木九郎が、自分の財産を地中に隠す際に、他人に知られることを恐れ、手伝わせた人を殺して神田川に投げ込んだ。 九郎と渡るときに一緒にいた人が、帰るときにはその姿が見えなかったことから「姿見ずの橋」と呼ばれた。

江戸時代に鷹狩りに訪れた家光がこの話を聞き、「不吉な話でよくない、景色が淀川を思い出させるので淀橋と改めよ」と命じたので、それ以降は「淀橋」と呼ばれるようになった。

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2019年1月18日 (金)

勝鬨橋 (隅田川 中央区築地/勝どき)

東京の近代化のシンボルでもあるのが勝鬨橋。 2018年11月に豊洲市場移転に伴う環状2号線の開通で築地大橋に隅田川の河口の橋の座を明け渡したが、存在感の点では築地大橋は到底勝鬨橋には及ばない。

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勝鬨橋が完成したのは昭和15年(1940)のこと。 日露戦争に勝利した結果、日本の世界的地位は高まり、国家的イベントして1940年の東京オリンピックと東京万国博覧会が計画されていた。 その東京万国博覧会のメインゲートとして、新たに埋め立てた現在の晴海と豊洲の万博会場と東京市内を結ぶ橋が勝鬨橋であった。 しかし戦争の足音とともに東京オリンピックも東京万博も幻と消えたのである。

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勝鬨橋は珍しい可動橋(跳開橋)である。 これは当時隅田川を通る大型船舶が多かったためで、陸運よりも水運に重点を置いていた時代であった。 橋が跳ね上がるのは9:00、12:00、15:00の一日3回、約20分間開いていた。 戦後、昭和22年(1947)には都電が開通し、開閉回数は徐々に減少し、ついに昭和45年(1970)に閉じたままになった。 ちょうど大阪万博開催の年というのも因縁を感じさせた。

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勝鬨橋が架かる以前はここに「勝鬨の渡し」があった。 渡しというから江戸時代からかと勘違いしそうだが、江戸時代現在の勝どき地区や晴海は海の中である。明治になり、佃島から沖合の浅瀬がどんどん埋め立てられ、月島に工場が立ち並ぶようになった。 明治25年(1892)から月島の渡しが聖路加ガーデン近くにあったが、到底輸送量不足となり、明治38年(1905)に京橋区民の有志が渡しを始め、後に東京市に渡船と渡船場を寄付し、勝鬨橋が出来るまで運行された。

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橋の築地側に「かちどき 橋の資料館」がある。開館は毎週、火、木、金、土曜日という変則、入場は無料。 訪問時は高齢者のボランティアと思える老人が受付におられた。 無料だが貴重な橋の遺産や資料が沢山あって興味深い。 資料館の裏手は、2018年に役目を終えた築地市場がガランとした空間を見せていた。

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2019年1月15日 (火)

柳橋(神田川、中央区東日本橋/台東区柳橋)

神田川の最上流は井の頭公園の水門橋、最下流は隅田川に合流する直前の柳橋である。 神田川が隅田川に注ぐ場所として最初は「川口出口の橋」と呼ばれた。 また近くに幕府の矢倉があったので、矢の倉橋・矢之城橋などとも呼ばれたという。 最初に橋が架けられたのは元禄11年(1698)だが、まもなく江戸時代中期正徳年間(1711~1715)頃には柳橋という名前が定着した。 定説では橋のほとりに柳の木があったからとされている。

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その後明治28年(1895)に鉄橋に架け替えられたが、関東大震災で落橋してしまった。 現在の橋は昭和4年(1929)のもの。 それでも90年経過している。 この妖艶な曲線は戦前のものだと最初に感じたが、果たしてその通りであった。 永代橋に似ていると思ったら、やはり永代橋のコピーとしてデザインされたものだった。 しかし永代橋など隅田川の橋が総崩れになっただけでなく、この柳橋のような小さめの橋まで崩れるとは、関東大震災がとんでもない地震だったことを再認識させられる。

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柳橋から上流にかけて数多くの屋形船が停泊している。 船宿もいくつかある。 柳橋脇にあるのは小松屋。 創業は昭和2年とあるが、実は明治15年に船宿として開業したという記録もある。 この辺りには江戸時代からたくさんの船宿があった。 粋な江戸っ子はこの辺りで船をチャーターし、宴会をしながら隅田川を上る。 やがて待乳山昇天の山谷掘に入り、日本堤から大門をくぐり吉原に入っていった。 この辺りで船に乗るのは、今でいえば修学旅行のバスに乗り込む直前の学生のようなものだったろう。

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上の写真は、上流の浅草橋から柳橋を望んだもの。 今もたくさんの屋形船がある。 ここの屋形船は橋が低いので、屋根が低く作られている。 川船と橋の高さは常に相反するのである。

江戸末期には、幕府の天保の改革などで岡場所が限られてしまい、柳橋に芸妓らが集まり一大花街を形成した。 明治になると、後発の新橋と東京の二大花街と言われるようになった。 その後関東大震災や戦争を乗り越えては復活した花街だったが、江戸の粋も21世紀になる前にはその灯を消してしまった。 それでもまだこれだけの屋形船が並ぶと風情ある景色に感じられる。 

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2019年1月14日 (月)

永代橋(隅田川、中央区新川/江東区永代)

隅田川の橋には歴史のあるものが多い。 江戸時代に4番目に架けられたのが永代橋。元禄11年(1698)に、幕府が伊奈忠順(イナタダノブ)を普請奉行に任命し架けたもの。

伊奈家は代々江戸の治水に大きな貢献を果たしてきた家柄。 利根川東遷事業の大河川改修を率い、伊奈家3代をかけて現在の銚子に流れる利根川の流れを築いた。もともと利根川は江戸川で海に流れ出していた川だったので、とてつもない大工事だった。 利根川東遷事業を行った伊奈忠次の玄孫が伊奈忠順である。

伊奈家は他にも多くの事業を果たした。 玉川上水の開削は玉川兄弟と水道奉行の伊奈忠克により成し遂げられた。 また永代橋を架けた忠順は富士山の宝永大噴火の被災で、ほとんど滅亡しかかっていた足柄地区酒匂川流域の農民への多大な援助を行い、事業半ばで他界したが、村人たちは須走に伊奈神社を建立し、忠順の菩提を弔った。

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現在の永代橋は大正15年に開通したアーチ橋で、夜間にはライトアップされたりして近代の橋ながら美しい橋である。 橋長は185m、幅は22m、アメリカの技術者の援助を受けて架橋した。

しかし江戸時代の永代橋はこの場所ではなく、150mほど上流の日本橋川合流地点の北側に架けられていた。 江戸時代の広重の『東都名所永代橋全図』 は箱崎側からの眺望を描いており、左手に永代橋、右手に日本橋川の豊海橋が見える。

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江戸時代の永代橋はもちろん木橋だった。 そして明治30年(1897)に鉄橋に架け直されたのだが、それはほぼ現在の位置だった。ところがその後大正12年の関東大震災で隅田川の橋はことごとく壊れてしまった。

参考) 江戸深川情緒の研究 驚きの「記録写真」たち―80年前の新旧永代橋

従って現在の橋は関東大震災後の大正15年(1926)に新たに架け直されたもので、間もなく100年になろうとしている。 この橋が今もまだ現役で、しかも美しさを保っていることは、明治から大正にかけての日本の土木建築技術の高さを物語っている。 その結果というべきか、永代橋は、土木学会選奨土木遺産、および国指定重要文化財に指定されている。

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江戸時代の文化年間にあった落橋事故では死傷者・行方不明者1,400人という大惨事になったことは有名。

幕府は財政難から永代橋の維持管理を困難として廃橋を決めたが、町人が自分らで負担して管理するからと嘆願し永代橋は残った。 1807年9月20日、富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼が行われた折、江戸市中から群衆が橋に詰めかけた結果、橋が重さに耐えきれず崩れ落ちた。後ろにいた人間には何が起こったかが分からないので、早く行けとばかりに押し合いへし合いするので、橋の上からどんどん人が落ちていくという悲惨な事故であった。

この話は落語にもなっているので、お時間のある折に30分ほどお楽しみください。

古典落語 『永代橋』 六代目三遊亭圓生

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2019年1月13日 (日)

二重橋(千代田区皇居)

皇居の橋で最も有名なのは言うまでもなく二重橋である。平成31年の新年一般参賀は、平成の最後として154,800人という史上最高の参賀者数となった。 平成2年は喪中で行われなかったが、平成3年~平成30年までの平均が75,793人なので、その倍が参賀したことになる。

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平成6年のピーク111,700人は前年の皇太子と小和田雅子さんご成婚後の一般参賀だったが、平成30年がそれを超えて126,720人となったのは前年末に天皇陛下が平成31年に退位の意向を発表したためである。そして平成31年は15万人超えとなった。

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一般参賀の入口がこの通称二重橋からである。東京に観光に来ると九分九厘この前で記念撮影をする。 一般には、マスコミでさえこの橋を二重橋という名前で扱っているが、実はこれは二重橋ではないことは知られた話。 ところが最寄りの駅名まで千代田線二重橋駅となっているので、大多数の人は疑いもなくこの眼鏡橋を二重橋と思っている。

皇居は皇居である以前に江戸城であったことを思い出すと、元々この橋は江戸城西の丸の登城口で、将軍らは本丸に居たので、西の丸は引退した前の将軍や世継ぎが住むところであるため、二重橋はメインルートではない。 長い江戸時代の間には何度か大火で城が焼けており、将軍が西の丸に住んだ時期もあるが、江戸の最後に近い1862年には本丸、西の丸ともに焼けてしまったので、1863年には西丸に仮御殿を建てこの通称二重橋が正門扱いとなった。その数年後に無血開城となったのである。

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通称二重橋は正式には「正門石橋」という。 その場所に建つと奥の小高いところにもう一本の橋がある。 江戸時代の橋の造りが二重に見える構造の木橋だったので、こちらを本来は二重橋と呼んでいたのである。 明治19年にドイツの会社に依頼してこの橋を架け替えて鉄橋となった。

手前の正門石橋も同年、木橋から石橋に改められた。 総花崗岩造りの美しい橋になった。 戦前はこの二つの橋を渡るのは天皇家、皇族、外国の貴賓と大使公使だけだったが、昭和23年から一般参賀が始まり国民も渡る機会を得ることになった。

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2019年1月10日 (木)

井の頭池・ひょうたん橋と水門橋(神田川)

東京には数千の橋がある。 橋の数え方は「本、基、橋(キョウ)」の三種があるが、河川に架けられるものは「本」を用い、建造物としてカウントする場合は「基」だそうだ。 坂の研究でも第一人者である故石川悌二氏が『東京の橋』というとてつもない書物をお書きになっている。 石川氏の調査のカウントではおよそ5,500橋となっているが、その踏破はさすがに真似できない。

それ以前にあまりの数の多さに、どれを選ぶかという悩みが付きまといそうである。 坂と違って、もちろん橋はまだ全踏破していない。 だから追々書き連ねていくしかないだろう。 日本橋の次はということで、その源流を今回は選んでみた。 神田川源流の井の頭池、その吐出し口に架かっている二つの橋、ひょうたん橋と水門橋である。

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井の頭池の北西奥の岸にある湧水が「お茶の水」、現在は湧水ではなく地下水をポンプで吸い上げている。 都内の自然湧水の多くは同じような状況である。 徳川家康が井の頭池の湧水を関東随一の名水と誉めてお茶を淹れたという伝説から「お茶の水」と呼ばれるようになった。

地下水の水位はかなり変動しているようだが、実は井の頭池の池底のあちらこちらから湧いている。 大雨が続いたりして地下水水位が上昇すると、ほぼ神田川の流量に匹敵する湧水が今でも湧く。 このお茶の水も地下水位さえ上がれば湧水が出てくるのである。

しかし昔と違って、現代は下水排水はすべて下水管に流され、地下に浸透することはほとんどない。 そのために地下水が減少しているといっても良いだろう。 多摩地区の住宅開発が進むにつれて、湧水量が減ったのは致し方ないことなのである。

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井の頭池の水が神田川に流れ出す手前にひょうたん池を通過する。 井の頭池と瓢箪池の間に架かっているのがひょうたん橋。  厳密には神田川の橋ではなく、井の頭池に架かる橋という扱いである。 しかしここで取り上げたのは、ひょうたん池の方が水門橋よりも見た目の雰囲気が良いからだ。

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水門橋は公式な神田川の起点なのだが、ちょっと味気ない造りの橋である。 しかし橋の脇には、石柱とともに説明板が立てられている。

「ここが神田川の源流です。 神田川は善福寺川、妙正寺川と合流して隅田川に注いでいます」 と書かれている。 神田川の全長は約25㎞程だが、東京の中小河川では珍しく、暗渠のない「全開渠」の川である。 神田川を全踏破したのは2015年~2016年にかけてであった。 区が変わると雰囲気が変わるという面白さもあって、おすすめの散歩ルートである。

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2019年1月 7日 (月)

日本橋(中央区日本橋/日本橋室町)

地形のキワ(際)にはいろいろなものがある。 坂道がそうだったし、海岸も、川も地形のキワである。 台地と低地を結ぶものが坂道ならば、此岸と彼岸を結ぶものは橋である。 人生最難関の橋はきっと三途の川に架かる橋かもしれない。いずれにせよ、橋には向こう側とこっち側の関係が少なからずあるものだ。

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最初の橋は迷うことなく日本橋。 大阪にも日本橋という場所があるが、あちらは「にっぽんばし」と発音する。 江戸の日本橋は「にほんばし」であることは言うまでもない。大阪の日本橋は道頓堀川に架かる。 江戸の日本橋は・・・と書いて、川名に困ってしまった。 現在の川名は日本橋川である。 川になったと言えるのは明治33年(1900)に江戸時代には埋め立てられていた、飯田橋から西神田までが再び水流を取り戻し外濠川として復活した。

正式に日本橋川になったのは昭和39年(1964)である。 八重洲口から北へ行くと「呉服橋」という交差点がある。その北側には一石橋という本物の橋がある。さらにその北側には復元工事中で当初は2019年完成予定だったが、難しそうな感じもあった。この三つの橋の真ん中に濠の十字路があり、西には道三堀が江戸城に向かって繋がっていた。

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この濠の十字路は江戸城側の武家の町と反対側の町人の町の境でもあったのだが、その東側に日本橋がある。 だから日本橋は町人の町である。 江戸時代は一石橋の東が日本橋。 日本橋は東海道五十三次の起点でもあるが、江戸時代の決まりでは五街道の起点でもあった。 ここから中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道もスタートしていたのである。

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現在も日本橋の車道の真ん中には道路元標がある。 歩道にあるのはそのレプリカである。 この日本橋沿いの室町側は江戸時代の魚市場(魚河岸)。 当初は家康が大阪から連れてきた佃島の漁師が中心になって市を開き、すぐにあちこちの魚がここに集まるようになった。 江戸で最も賑わった街だったようだ。

しかし大正12年(1923)の関東大震災以降は築地に移り、東京都中央卸売市場となった。主な理由は舟運から鉄道への移り変わりである。日本橋魚河岸は底の平たい平田舟で魚を運んでいたが、大正から昭和にかけては鉄道乗入れが可能な築地が主役となったのである。それが昨年2018年に豊洲に移ったわけだが、築地から豊洲に変わってどれくらい流通のメリットがあるのかはいささか疑問である。まして、最新設備などはすぐに古くなるものだ。 さて、50年後の豊洲がどうなっているか、おそらく日本はもっと産直を考えた方がいいだろう。 全国の市場が活況を呈した方が、国全体の経済は必ず良くなると思う。

という訳で、橋の最初は日本橋だが、あまり日本橋そのものを深く書いていないので、いずれ「さらに日本橋」なんて表題で追記するのかもしれない。

(2018/1/7)

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2018年12月30日 (日)

東京23区の坂道を振り返って

年の瀬である。ようやく東京23区の名のある坂を網羅できた。 地形と遊ぶのは面白い。 NHKのブラタモリが高視聴率を得ている。 地形学、地学、地質学などが陽の目をみることになり、これはタモリ氏の貢献は極めて大きい。

最初のブラタモリは明治神宮から始まった。明治神宮内の御苑から流れる水路が、原宿駅をくぐり竹下通りへ。 少年少女の足元を流れたのちブラームスの小径を流れ、そのところどころに痕跡を覗かせるのを見つけて、タモリ氏と涌井氏が喜ぶという、きわめてマニアックな初回であった。

その少し後、私は山野勝氏の本に出会った。 それ以前から暗渠や水線を歩くのが好きで、代々木八幡・参宮橋の「春の小川」などを辿って楽しんでいたが、谷があれば丘があり、その間には坂道がある。 この坂道を歩いて見るのも面白そうだと思った。

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地形(土地の記憶)は隠しきれないものだが、東京の開発は大規模なものが多く、地形すらぶっ壊してしまうものが出てきた。 近年では玄碩坂を葬った六本木ヒルズ開発がその例だし、間もなく麻布台1丁目の大部分を占める我善坊谷を埋めてしまおうという森ビルの計画が進んでいる。

上の写真はその我善坊谷を三年坂の坂上から眺望したもの。 崖上の歴史ある逓信の建物もなくなりそうである。東京は江戸時代から、丘に身分の高いものが住み、谷にはそれを支える庶民が住んでいた。出世すると標高も上がっていくようなところがあった。

坂は東京(江戸)の文化の骨格だと思う。 タモリ氏はいつも「キワが面白い」というが、キワというのは土地の骨格であり、そこが変わると土地全体の性格が変わるのである。そこには数多の物語がストラタ(地層)の如く積み重なり、掘ればいろんなものが出てくる。

838坂を歩き終えて、埋もれたものが忘れ去られることは、祖国が無機質な、冷たいものになっていく原因だと思うようになった。タワーマンション、高層ビル、商業施設、どれもうたかたの消えゆく泡である。 土地の記憶という生き物を、表面だけ取り繕った文明で覆ってはいけない。

自分にできることは、その土地の記憶を書き留めて残すことかもしれないという思いと共に幾多の坂を上り下りしてきた。 その記憶を何度もオーバーライトするために、これからもまた上り下りするのだろう。

2018年12月30日

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2018年12月29日 (土)

円山坂(渋谷区円山町)

江戸時代の俗は聖の傍にあった。 有名な神社や寺社仏閣の傍には遊郭や岡場所(娼婦の集まる街)があった。 戦後になり、赤線を廃止し、売春など社会の裏側をクリーンにしようとしてきたが、やっているのが人間なので巧くいくはずもない。 歌舞伎町を浄化しようと都庁の輩が躍起になると、渋谷が一大風俗空間として発展してしまう。 昔は、表裏を合わせてバランスを取っていたが、そのバランスを取れない人間が主導するのでどんどんおかしな社会になっていくように思う。

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円山坂はそんな渋谷の恥部的な場所にある坂道。 通りの半分はラブホテルである。なるべく人に会わないようにと時間を選んだが、それでも数組が出入りする脇を歩く羽目になる。坂下の入口に在った円山坂の表示は、道路の拡幅時に取り払われてしまったので、現在はここが円山坂という認識を持った人はほとんど皆無である。

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坂下の向かい角はかつての「松涛温泉シエスパ」、爆発事故を起こした会員制温泉施設である。その裏手は日本でも最高地価の住宅地松涛。 渋谷の混沌の街からも目と鼻の先で、邪悪な空気に包まれた気がしなくもない。

かくいう私もこの街で働いていたことが有る。 まったくカオスな街である。当時は平気だったが、現在は1秒でもそこに居たくない街になってきた。なので、この坂が東京23区の名前のある坂838坂の最後の坂としてやむを得ず再確認に訪問したわけである。

photo : 2018/12/28

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車坂(北) (台東区上野)

「上野のお山」と時代劇で言われるのは、現在の上野公園から鶯谷駅あたりまでの広い地域を指している。 天海が徳川家の庇護のもと築いた寛永寺の寺域は皇居(江戸城)に匹敵する規模であった。

そして現在上野駅は20本程度の線路が走っているが、その駅構内全体には寛永寺の塔頭(たっちゅう)が並んでいた。その塔頭は崖の下になるので、上野のお山と往来するための坂道が通っていた。

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その坂のうち最も鶯谷側にあったのが信濃坂でこれが写真の車坂(北)の場所よりも少し鶯谷寄りの江戸時代の坂である。信濃坂のすぐ都心寄りにあったのが屏風坂。これが現在の車坂の跨線橋(両大師橋)部分とほぼ同じ位置になる。

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現在の橋は1970年頃に架け替えられたもの。 それ以前は明治中期以降何度か架け替えられている。しかし坂名のように車が通れる斜路まで作られたのは昭和に入ってからのようだ。 現在の車坂を歩く人は意外にいて驚いた。しかし歩くと結構長い距離になるので、やはりJRの公園口から上野公園に行くのが良い。

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坂下の歩道橋から見るとなかなかセクシーな曲がり方をした坂道である。モナコGPやマカオGPのコースを思い起こさせる。道路わきの謎の巨大コンクリート建造物が気になって仕方がなかったが、東北新幹線に覆いかぶさるように立っているので新幹線関連の施設なのだろうか。

坂下の町名は現在は上野だが、以前は下車坂町といい、都電の電停「下車坂町」があった。昔の町名は素晴らしい。それに比べて現代の町名は情けないほどセンスがない。役所が管理しやすいのと、人々が暮らしやすいのは違う。 どうも前者に傾いてばかりいるようなところが多すぎる。

photo : 2018/12/28

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渡邊坂(新宿区天神町・中里町)

神楽坂の早稲田通りがヘンテコな曲がり方をしている交差点が牛込天神町。 このカーブ部分とそこから北方向へ下る坂道は地蔵坂だが、途中から渡邊坂に名前を変える。 坂の途中には何の区切りもない。 坂は北野神社の参道辺りで水平になる。

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数十mの距離に地蔵坂の標柱と渡邊坂の標柱があるのに坂は同じ坂という紛らわしいところだ。 坂を下ると山吹町のバス停だが、その辺りを昔は小川が流れていた。 その手前(南側)に渡辺源次郎(源蔵)という千石の旗本の屋敷があったので、渡邊坂と呼ばれるようになった。

江戸時代の道は山吹町に下る手前でクランクになっていたので、それより下を渡邊坂、上を地蔵坂と呼んでいたのだろう。

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緩やかな坂である。渡邊坂の部分の高低差は2m、地蔵坂部分は傾斜があって8mほど高低差がある。地蔵坂上は矢来町。 小浜藩10万石酒井家の下屋敷があり、39,000坪の屋敷内には素晴らしい庭園があった。 三代将軍徳川家光は好んで小浜家を訪問し、庭を楽しんだという。 この屋敷が警備のために竹囲い(矢来)で囲まれていたのが矢来町の地名の由来になった。

10万石39,000坪の酒井家を差し置いて、千石1,750坪の旗本の名が坂名として残るとは、大したことだと思う。

photo : 2018/12/28

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大木戸坂(新宿区四谷)

靖国通りの富久町西交差点から南に下る都道418号線は一旦下ってから、再び上りになり新宿通りの四谷大木戸前である四谷4丁目に至る大通り。 ここは通称外苑西通りで、富久町で計画道路が切れている。しかし少しずつ部分開通しており、環状4号線として富久町以北も延伸事業中。できるのは何十年先か分からない。

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この道は戦前から幅の広い道だったようだが戦前の地図を見ると道幅が一定ではない不思議な道路である。 一番低い場所の交差点が「大木戸坂下」交差点。 実はここで斜めに交差している道が古くからの道である。江戸時代は、御苑の大木戸門から北に麹屋横丁(きくやよこちょう)という通りがあり、大木戸坂下で外苑西通りを越え、富久町に下ってから東へ市ヶ谷方面に繋がっていた。
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坂下から富久町西交差点を望むとそこそこの傾斜を感じる。4mほどの高低差がある。大木戸坂はこの区間を指すのだが、四谷4丁目交差点に向かっては薬研状の坂道になっている。 この窪みがなぜ出来たのかは、瓶割坂で出てきた紅葉川に起因する。

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標高は富久町西が32m、坂の低い部分が26m、そして四谷4丁目が33mである。 紅葉川は新宿御苑の玉藻池(最も東側の池)から北に流れ、大木戸坂下から富久町交差点に流下、そこで北から流れてきた饅頭谷を合わせて東へ流れ市ヶ谷で外堀に注いだ。 饅頭谷は現在の富久さくら公園とイトーヨーカドーの間辺りから、富久町交差点に向かって流れていた沢筋である。関東大震災以前の地図にはまだ水線が残っている。

富久町交差点に成女学園があるが、その入り口に小泉八雲旧居跡の説明書きがある。ここには明治中期に5年間住んだ。この辺りは当時自然の豊かな地域だったが、開発が進むと小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は西大久保に転居したという。西大久保というのは、現在の区立大久保小学校の辺りで、現在は小泉八雲終焉の地として石碑と説明書きがある。私が中学生の時に読みふけった怪談物が懐かしい。

photo : 2018/12/28

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瓶割坂(新宿区新宿)

靖国通りは新宿大ガードから新宿三丁目を経て九段下に至る大通り。 しかし戦前までは細路地だった。 伊勢丹パーキングのある新宿五丁目交差点を過ぎると、次の信号である新宿一丁目北辺りからわずかな上りになる。 高低差は2mちょっと。 遠目に見ると上り坂になっているのが分かる程度である。

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この道は戦後開かれた道。 新宿五丁目東から新宿御苑入口までの南北の都道305号は別名を柳通りとか、花園通りとか、はたまた御苑大通りとか言われるが、定着しない。 ここだけ違和感のある広い道になっているのは都電が新宿通りからこちらへ南下して、新宿通りで東に向かい四谷方面へ走っていた名残りである。

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新宿五丁目東から東に進むと南側に寺が並ぶ。 大通り側は成覚寺と正受院だが、すこし南の太宗寺が有名である。 明治時代までこの太宗寺の池から川が北に向かって流れ、蟹川となって早稲田大学の大隈講堂から脇の庭園を経て、神田川に注いでいた。 成覚寺の西側には蟹川の橋が架かっていて、この通りはそこから東に向かって上り坂だったのである。

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上の写真は東側から見たもの。 歩道橋があるところがかつての新宿厚生年金会館の前になる。 そこが最高地点になって、向こう側(西側)は蟹川に向かって下り、手前(東)側は大木戸から流下していた紅葉川の水域である。 つまりこの微高地は分水嶺になっているわけである。

瓶割坂については、横関英一氏が著書の中で詳しく論説しているが、このお椀を伏せたような形をいうらしい(別説もあり)。

photo : 2018/12/28

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2018年12月28日 (金)

さくら坂[玄碩坂](港区六本木)

記憶では19歳のころ、1970年代の後半、友人の一人に社長の息子がいた。 どんな家業だったかは覚えていない。 一度彼の家に遊びに行った。 六本木通りの麻布警察署先の日産の辺りから下り坂を下りて行った。 スリバチ状の地域にあった家は豪邸で地下室もあり、そこでは映写機やピアノ、ドラムセットなどが置いてあった。 しかし彼の父は戦後まもなく安い時期に買った家だと言う。 昭和20年代前半に数百万で購入した土地に家を建てたらしい。

後になって気づいたのだが、そこは現在の六本木ヒルズの一角、けやき坂とさくら坂の間あたりだった。 現在ではそこに建つマンションの1カ月の賃料が百万円を超す。 しかし、当時は、谷底で六本木の喧騒からは離れているがいささか湿っぽいところだなあ、という印象だった。

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六本木ヒルズは谷を盛土して埋めた開発地である。 おそらく数m以上は盛土をしてあるのではないだろうか。 南側のさくら坂の途中には「さくら坂公園」がある。 ヒルズには外国人セレブが多いので、日中は外国人の親子が公園で遊んでいる。 日本人は少なく、ここが日本であることを忘れてしまいそうになる。 しかし、この公園は元長州長府藩の大名屋敷の中、藩士の長屋があった場所で、乃木希典が誕生した地である。

開発以前は公園も北日ヶ窪公園という名前で、文字通り窪地にあった。 さくら坂公園は低い場所を走るさくら坂と一段高い場所を走る内田坂の間にある。 昔の町名は麻布北日ヶ窪町と呼ばれた。 内田坂と昔あった玄碩坂を結ぶ路地が公園の近くに残っている。

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不揃いの階段は内田坂側から下ってくると、途中から土の中に埋まる。 この階段の下はまだ玄碩坂へ下る途中に過ぎない。かつてはここからさらに下って玄碩坂に降りていたのである。

当時の六本木にタイムスリップしたいときは、二村さんという方が作られているHP『東京 -昭和の記憶-』に行くと良い。 とても懐かしく楽しめるHPである。

photo : 2018/11/19

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2018年12月27日 (木)

安鎮坂(新宿区南元町/港区元赤坂)

安鎮坂は東宮御所(赤坂御所)の北側沿いの道の坂。 昭和61年(1987)頃、ここで皇太子(現在の天皇)が東宮御所の正門から車で出発されるのに出くわした。 当然車は通行止めになっていたが、私は徒歩だったので、しばらくの間足止めを食らっただけだった。

周辺の警察官に緊張が走り、異様な雰囲気になったのちに門から黒い乗用車(センチュリーだったかプレジデントだったかは覚えていない)が前後を警察車両に護衛されて出てきた。数分後、通行止めは解除された。安鎮坂はまさに東宮御所の正門前の坂道である。あとでニュースを見ると、その日は沖縄国体に向かって出発された日だった。

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安鎮坂の別名は権田原坂という。 その他に権田坂、権太坂、権太原坂、安珍坂、信濃坂など多くの別名がある。 歩道の標柱には次のように書かれている。

「付近に安鎮(珍)大権現の小社があったので坂の名になった。武士の名からできた付近の地名によって権太原坂ともいう。」

権太原坂の方の由来は、幕府の代官権田隼人の屋敷があったとか、権田丈之助、権田小三郎の屋敷という説など諸説があって定まらない。

『新撰東京名所図会』には安鎮坂とあり、安鎮僧都の碑があるからとなっている。『江戸名所図会』の説明は権太原坂だから、江戸と明治で違っている。

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坂を下りきったところが、かつて鮫河橋があったところ。 それより先は鮫河橋坂である。 江戸時代、東宮御所は徳川御三家の紀伊和歌山藩の屋敷だった。

この坂下の窪みは赤坂川という川が台地を削って出来たもの。赤坂川は新宿区須賀町の円通寺あたりを源頭に若葉町の商店街沿いに流れ東宮御所内の池でいったん水を溜め、そこから溜池に注いでいた。 江戸時代坂下の谷沿いには岡場所があり、私娼が多くいたという記録がある。 この坂は最高位と底辺の人々が共存した場所になる。

photo : 2017/11/3

(追記:2019/1/2)

外苑東通りと安鎮坂の交差点の名前が「権田原」とある。 そして赤坂御所の住所が「元赤坂」である。 何気なく通り過ぎる交差点や地名に歴史が含まれている。

権田原というのは標柱にもあったように、江戸時代に権田某という人物の屋敷があったからという説が有力だが、切絵図にはほぼ御先手組の大縄地(今でいえば警察官の官舎敷地)が占めている。 権田(権太)についての考察は、時代考証家の大石学氏の『坂の町 江戸東京を歩く』に書かれている内容が詳しく興味深い。

元赤坂については、現在の赤坂と言えばTBSの周りを云うが、江戸初期の赤坂は赤坂御所周辺の地名だった。 そのため「元」がついて元赤坂という訳である。

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2018年12月26日 (水)

梅林坂(皇居東御苑)

皇居江戸城本丸跡に上るルートは5つ。 正門ともいえるのが百人番所前の中之門、その北側には二の丸から上る汐見坂、さらに北側には不浄門といわれた平川門に続く梅林坂(うめばやしざか)がある。 一方西側は狐坂を上る西桔橋門(にしはねばしもん)、北には北桔橋門(きたはねばしもん)がある。

狐坂のある西桔橋門は皇居乾通り一般公開の時にしか通れないので、狐坂は当分の間踏破できない。北桔橋門から北の丸公園への出口は断崖のような高さがある。

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平川門からの道と、二の丸からの道が出合う辻からの上り坂が梅林坂。  いろいろな樹木が二重三重に重なっていて、季節感を感じられる道である。 いささか通用口感があるが、旧天守閣に裏手から上がる。

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梅林坂にも説明板がある。 文明10年(1478)に太田道灌が川越から天神社を勧請し祀った時に、百株の梅の木を植えたのが由来(説明板には数百株とあるが、『江戸名所図会』には梅樹百株とある)。 以前には平川天神の坂と呼んでいたが、道灌が梅を植えてからは梅林坂と呼ばれるようになった。 家康もここを梅林坂と呼んでいたのかもしれない。 もちろん樹齢400年の梅は残っていないので、植え替えられたものばかりである。

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江戸時代半ばから人々は桜を愛でるようになったが、もともと花見と言えば梅の花であった。 戦前くらいまで梅の花見は盛んで、各地で梅が楽しまれていた。 大田区の梅屋敷もそうであるし、二子玉川も元々は将軍が鷹狩りと鮎と梅の花を楽しむ場所だったらしい。

ちなみに読みは「うめばやしざか」だが、「ばいりんざか」とも呼ばれていたという記録がある。

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2018年12月25日 (火)

汐見坂(皇居東御苑)

2018年12月23日は平成最後の天皇誕生日であった(実はまさにその日にこれを書いている)。齡(よわい)を重ねるにつれて、皇室の報道に心穏やかになるという感覚が出てくるようになった。細かいことは抜きにして、2000年近くも続いた国は地球上には皆無に近い。勿論縄文時代が1万年続いたことがそれ以上の奇跡なのだが、皇室の歴史もまた同様の奇跡だろう。

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パレスホテル前の大手濠と桔梗濠の間にある大手門から皇居東御苑へ入城することが出来る。入場は明るい時間帯のみだが無料。丸の内にあるにも関わらず、大手門をくぐるとそこは都会の喧騒をかき消したような別世界になる。

すこし上り坂を上ると広場に出る。 百人番所が長さ50mを超える姿を見せる。江戸時代の検問所で、与力・同心が常時100人詰めていたことから百人番所と呼ばれるようになった。

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百人番所前には見事な石垣が迫っている。 番所を背にして、左側の石垣の切れ目が本丸へ入る中之門、右側の切れ目が東御苑へ行くルート。東御苑は素晴らしい庭園として人気があるが、その西側には白鳥濠が水面を静かに湛えている。白鳥濠の先の巨大な石垣の間を上る坂が汐見坂である。

石垣の脇に説明板がある。

「汐見坂:本丸と二の丸をつなぐ坂道でした。その昔、今の新橋から皇居前広場の近くまで日比谷入江が入り込み、この坂から海を眺めることが出来ました。坂の上には、汐見坂門が設けられていました。」

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汐見坂を上りきると江戸城天守跡が目に飛び込んでくる。江戸城は太田道灌の城を基に、徳川家康が1606年に建立したが、天守の場所は南側の富士見多聞の辺りだった。二代秀忠から三代家光にかけては現在の天守台跡の位置に日本最大の天守閣を築いた。しかし、明暦の大火(1657)で焼失。 そのあと加賀藩前田家の普請で再建させた天守台が現在のもの。しかしこの天守台に天守閣が築かれることはなかった。城を示して権勢を誇らずとも、江戸幕府はすでに天下を統一し安定政権となっていたことも大きな理由のひとつであろう。

photo : 2016/12/3

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2018年12月24日 (月)

清水坂(千代田区紀尾井町/麹町)

千代田区の清水坂は、坂下で紀尾井坂、清水谷坂と交差する。 坂上は新宿通りの麹町本通り郵便局から入る路地。 上智大学の東側をなめるように下っていく。 この坂の名前については諸説あるが、個人的には横関英一氏の『江戸の坂 東京の坂』の「江戸の念仏坂二つ」に含まれる考証を支持したい。

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念仏坂考証の中では、天保元年(1830)に出た『江戸独案内』という古書の中に、麹町にあった江戸の坂として貝坂、紀尾井坂、念仏坂、清水坂が紹介されており、この念仏坂が何処にあったかという点を横関氏は考察している。 その余話ともいえる部分で、清水坂を上智大学の東側の道と確定しているのである。

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写真の白いギリシャ風デザインの擁壁の上は上智大学のキャンパス。 『麹街略誌稿』という古書に、「清水坂、九丁目尾州公表門前より清水谷へ下る坂を云ふ」とあり、まさにこの坂が清水坂だと念押ししている。 尾州公表門前というのは尾張家屋敷の表門をいうが、江戸の切絵図は大名屋敷の正門の場所が分かるように描かれており、それによると紀尾井坂側が正門。しかし、元禄以前の絵図では、現在四ツ谷駅がある四谷見附の側が表門だったことが分かっているので、上智大学東路地が清水坂であるという説は間違いないだろう。

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この坂を下ると清水谷に出る。 清水谷は大久保利通が暗殺された場所である。この場所はその昔から湧水の川が赤坂見附の弁慶濠に流れていた。 辺りは昔から湧水の豊富な場所だった。

清水谷公園には巨大な大久保利通の哀悼碑だけでなく、湧水池や江戸時代の石枡とも木管もある。 大木戸で地下化された玉川上水の幹線が、麹町通りの拡幅工事で発見されたもの。 数十センチ角の木管を通す精巧な石枡の大きさは、人の背丈ほどもあり、江戸時代の土木技術には驚かされる。 これだけのものを無造作に公園に置いているのは、それだけ東京には多くの遺跡や出土品があり、野ざらしにしてもいいと考えられているのかと思わざるを得ない。

photo : 2017/12/8

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2018年12月23日 (日)

桜上水駅前の坂群(世田谷区桜上水)

桜上水駅の南側一帯には名前の付いた坂が5坂ある。 桜上水5丁目の自治会が「道の会」を結成し名付けたもので、2009年に出来た坂名。 きっかけは防災訓練だったそうだ。 防災訓練を実施した時に、相互で場所を伝えようとしたが、なかなか伝えることが出来なかった。商店があるわけでもなく、普通の住宅街だったためである。

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自治会のメンバーはこれではいざという時に困る、という危機感から議論を重ねた結果、住民から坂と通りの愛称を公募した。 そして5つの坂と通りの名前が決定されたのである。 生まれたばかりの坂名が公募であるという点で、取り上げるほどの意味を感じないが、これはこれで平成の坂名としては良いのではないかとも思った。

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東の改札口寄りを南北に走るのが駅南(えきみなみ)坂。 その名の通り、駅の南口から下る坂だからである。 高低差は2mほどしかないが、この坂は北側が坂下で南側が坂上になる。

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西隣の坂は細道坂。 坂名がつけられた中でもっとも道幅の細い坂道である。 この坂も北が低く南が高くなっている。 街路はどれも戦前の耕地整理によって出来た道なので、この道のように細い道が出来たのであろう。 現在では2項道路と呼ばれ、建て替えの時にはセットバックが義務になる。(4mの道幅を確保するための法律)

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その西側はそよ風坂。 この坂も北が低く、坂名は駅に向かって下っていくとそよ風を感じるというのが命名の由来。 ただ、この坂はほとんど高低差がない。 線路に近づいたところで若干下り、1mほど低いだろうか。

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西から2番目の坂はタッピング坂。 この坂の名前を見た時に、誰かがタップダンスで歩いたとか、タッピングねじを作る工場があったとか、そういう由来を想像したのだが、見事に外れた。 戦前から高度経済成長期の頃まで、この坂には3階建ての洋館があり、そこに通訳をしていたアメリカ人のヘレン・タッピングさんという方が住んでいたのが由来だそうである。

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最西の花火坂は花火工場があった…のではなく、この坂上から二子玉川や川崎の花火大会の花火がきれいに見えることから付けられた。 というのも西側のタッピング坂と花火坂は、北が坂上で南が低くなっていて、東側の坂と反対になっている。 これは目黒川支流の北沢川と支沢がこの町の南と北に流れていて、その間の小高い地域に町があるからである。

南側の低地は北沢川の本流筋の源流が削ったエリア。 北側の低地は現在も駅前踏切近くに沢のわずかな半開渠(薄い蓋をしただけ)が残っている。 鉄道が出来る以前は旧甲州街道近くまで沢があったようだ。 水道道路を越えると北側の沢は暗渠になり、松沢中学校、松原高校の脇を流下、日大桜丘高校と緑が丘中学校の間あたりで本流に合流していた。

実は私もこの坂名を付けた自治会のサポートをした世田谷トラストまちづくり(財)の個人会員になっている。 この坂の話はごく一部で活動範囲は広い。 その他の自然保護など、なかなか素晴らしい多様な活動をしている。

世田谷トラストまちづくり(一財)ホームページ

photo : 2016/10/22

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