2023年9月23日 (土)

金子厳島神社の庚申塔(調布市西つつじヶ丘)

西つつじヶ丘の住宅街にある金子厳島神社は創建年代不詳。かつては社前に清水を湛える池があり、その昔住民が農耕や生活に必要な水に感謝の念を込めて池のほとりに弁財天を祀ったのが始まりと伝えられる。厳島神社となったのは明治の初年の神仏分離の頃という説が有力。

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手前の一の鳥居は大正4年(1915)11月の建之とあり、奥の小さい方の二の鳥居は天明5年(1785)9月の紀年が刻まれている。おそらく江戸時代から昭和まで、金子村の人々によって信仰されていたのだろう。奥には小さな本殿があり、その左脇の松の木の下に駒型の庚申塔がある。

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庚申塔の造立年は安永6年(1777)10月。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄の駒型で、保存状態は極めて良い。武州多摩郡金子村講中26人の銘がある。野ざらしの庚申塔でこれほど程度のいいものは珍しい。

場所  調布市西つつじヶ丘1丁目15-8

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2023年9月21日 (木)

金子村の馬頭観音(調布市西つつじヶ丘)

国道20号線のつつじヶ丘交差点から北へ伸びる神代植物公園通りの上り坂が左にカーブする手前に堂宇がある。グーグルマップには庚申塔とあるが実は馬頭観音である。この道は江戸時代からある道である。この辺りが山のようになっているのは南を流れる野川と北側にある支流の入間川に挟まれた舌状台地であるためである。

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江戸時代はこの辺りは金子村という村だった。明治時代には神代村となったが、高度経済成長期の味気ない町名変更があるまでは金子町などと金子の名前を保っていた。金子というのは平安時代の領主の名前である。実はつつじヶ丘駅も昔は金子駅という駅名だった。

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堂宇の中には角柱の石仏が祀られている。文字はほとんど読めないが、左に弘化5年(1848)2月建之とある。右には「金子村 倉田勝右衛門」とあるようだ。もともとは旧金子村の馬捨場(現在の西つつじヶ丘2丁目16)にあったものを明治時代に移設したと伝えられる。舌状台地の突端に近い辺りだったようだ。

場所  調布市西つつじヶ丘1丁目36-4

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2023年9月19日 (火)

金龍寺の石仏(調布市西つつじヶ丘)

国道20号線から続く参道の先に豪華な山門を抱く曹洞宗の金龍寺は寺伝によると建永元年(1206)の創建とされる。江戸時代初期から禅寺として金子村の有力寺院であったようだ。山門は朱塗りの見事なもので、金色に輝く阿吽の仁王像が立つ。

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曹洞宗の寺院としては珍しいきらびやかな雰囲気だが、開かれた感じがして好ましい。山門をくぐると正面に本堂があり、右奥に墓所が見える。石仏は本堂前の向かって右側に並んでいる。

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一番手前にあるのが背の高い舟型光背型の庚申塔。造立年は貞享元年(1684)9月と古く、青面金剛像に三猿の図柄で左手にはショケラを下げている。下部には7名の願主名が刻まれており、鴨下姓が多い。

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左隣の紫陽花の樹の下には角柱型の馬頭観音がある。造立年は大正2年(1913)9月で、左側には願主小林泰蔵の銘がある。

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その左に立つのは丸彫の地蔵菩薩坐像で子供を抱いている。造立年は明治30年(1897)10月とあり、基壇正面には「為禅亮恵戒尼上座菩提」とある。右側には「永代施餓鬼料 金拾圓寄付 西多摩郡福生村阿部暉女建立」と書かれている。

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その先の覆屋には3基の立派な石仏が祀られている。右は舟型光背型の聖観音像で延宝9年(1681)3月の造立。中央は薬壺を持つ丸彫の薬師如来像で正徳6年(1716)6月の造立。「奉造立瑠璃光如来尊像」「武蔵国金子村住人 石井宗三為二世菩提也」と刻まれている。左の舟型光背型の地蔵菩薩像は寛文4年(1664)3月と古いもので、元は墓石らしい。

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反対側の植込みの奥には地蔵堂があり、中を覗くと駒型の地蔵菩薩像が祀られていた。造立年は天保14年(1843)9月とあり、天保年間、文化年間に亡くなった女性と子供の戒名が刻まれている。

場所  調布市西つつじヶ丘2丁目14-1

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2023年9月17日 (日)

大正寺の石仏(調布市調布ヶ丘)

調布駅北口から布田天神通り商店街を北進し、国道20号線を渡った角にあるのが真言宗の大正寺。その先には西暦900年からあるという旧郷社の布田天神があり、大正寺はその別当寺である。

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布田天神に向かっていく参道の途中に立派な山門がある。かつて上布田にあった栄法寺と下布田にあった宝性寺、そして布田小島と上布田宿の境にあった不動院寿福寺の3寺が合併して、大正4年(1915)に創建したのがこの大正寺である。布田天神が近く人通りが絶えないことから、自由に参拝しづらい雰囲気がある。

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山門の先には本堂があるが、その左手前に舟型光背型の石仏が並んでいる。後ろの説明板には六地蔵とあるが、手前の大きさのまちまちな6基はどうも墓石を集めたもののようである。後ろの中央にある大きな舟型光背型の地蔵菩薩像は寛文2年(1662)2月のもの。文字が欠損しているが、武刕多摩郡の文字が読める。六地蔵の右外にあるのが舟型の聖観音菩薩像。これは元禄9年(1696)正月の紀年がある。

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少しばかり山門側に戻ると、草に囲まれて正体の分からない笠付角柱型の石仏がある。調布市の資料ではこれは庚申塔で、造立年は元禄7年(1694)10月。下札村(下布田村)の銘があり、もともと旧甲州街道沿い布田駅付近にあった宝性寺の角地に安置されていたらしい。廃寺とともに移された。

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墓地方面にも多くの石仏があるが、檀家以外は歓迎されないようなので遠目に見ると、一基の庚申塔があった。駒形の庚申塔で、日月、青面金剛像、三猿の図柄。中折れが2ヶ所ある。「奉納庚申 武州多摩郡府中之内下布田村 同行十四人」とあり、造立年は正徳2年(1712)11月とある。資料では奥にも複数の馬頭観音を含めた沢山の石仏があるが今回は拝観できなかった。

場所  調布市調布ヶ丘1丁目22-1

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2023年9月15日 (金)

小島地蔵堂の石仏(調布市小島町)

調布駅の北口近く、国道20号線と旧甲州街道の間に大きな地蔵堂がある。境内にある案内板によるとどうも大正寺の境外仏堂らしい。多摩川34観音の20番札所とあるが御朱印は大正寺で出している。

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山門のゲートを開けて境内に入ると、地蔵堂正面には丸彫の地蔵がある。ただ文字などが何処にもなく、調布市の資料でも不詳となっている。上の写真の山門の右、塀の裏手に小さな屋根が見えるが、この屋根の下には別の地蔵菩薩が祀られている。

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この地蔵は北向地蔵と呼ばれており、まさに北方向を向いて立っている。舟型光背型で造立年は延宝8年(1680)10月とある。下部には願主名も刻まれている。

場所  調布市小島町1丁目18-4

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2023年9月13日 (水)

常演寺の石仏(調布市下石原)

天台宗の常演寺もまた旧甲州街道に面した寺院である。創建年代は不詳。明治時代以前は西から、飛田給、上石原、下石原、と宿場が並んでいた。その間にポツポツと寺院がある。多くは街道の南側にある。

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入口の写真の右端にある燈籠は仁王堂常夜燈で、嘉永3年(1850)5月に建立されたもの。かつては少し入ったところに山門もあったと聞く。燈籠の脇には堂宇がある。

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堂宇の中には丸彫の地蔵菩薩像が一基祀られている。基壇を見ると明和元年(1764)11月の建立らしい。「武刕多摩郡府中領下石原村、女中念仏三拾人」の銘がある。

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本堂へ向かう途中にあったのが、この櫛型角柱型の巡拝供養塔。「奉納 秩父西國坂東百ヶ所供養塔」とあり、安永10年(1781)4月の造立。「多摩郡下石原村 施主 越山房右衛門」と刻まれている。

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本堂手前の大きな岩の上に石仏が並んでいる。右端は舟型の聖観音像で、元禄12年(1699)9月の造立。「奉造建子安観世音為二世悉地成就也」とあり、導師花火院増信の銘がある。一番大きなものが舟型光背型の地蔵菩薩像で、貞享2年(1685)9月のもの。「念仏供養同行拾三人 多摩郡石原村」の銘がある。左から2番目は舟型の聖観音像で、これも貞享2年(1685)2月の造立。左端は欠損と摩滅で文字が読み取れないが如意輪観音像のようである。

場所 調布市下石原1丁目52-4

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2023年9月11日 (月)

踏切前の馬頭観音(調布市下石原)

京王線は近年地下化が進んでいる。調布駅の前後も、国領駅までの間、2.5㎞程が地下化した。西の端のトンネル出口の上には一反木綿のベンチがあったりしてユニークである。深大寺のゲゲゲの鬼太郎にあやかったのだろう。調布駅から西へ進む線路が地上に出て2個目の踏切の前には馬頭観音がある。

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なかなか大きな馬頭観音だが、大正14年(1925)12月建之とある。願主は関口徳蔵、関口由蔵の名が記されている。

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願主の関口徳蔵の息子が由蔵らしい。ともに馬喰(ばくろう)で馬を可愛がっていた。ある時馬を買い働かせていたら身籠っていた。間もなく子馬が産まれたが、母馬は妊娠中に働き過ぎたのか死んでしまった。仕方なく子馬に牛乳を飲ませていたところ、子馬も死んでしまった。牛乳は馬には濃すぎたらしい。その弔いにこの馬頭観音を建てたと伝えられる。

場所  調布市下石原1丁目44-1

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2023年9月 9日 (土)

源正寺の石仏(調布市下石原)

上石原の西光寺から少し東に向かって都心方向に旧甲州街道を進む。現代では国道20号線に斜めに繋がる方が都道229号線で、分岐してさらに東に進むのが都道119号線、これが旧来の甲州街道である。分岐してすぐに源正寺がある。

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本堂は近年再建されたらしくとてもきれいである。扁額には「大雄殿」と書かれた立派な本堂で脇には花頭窓もしつらえてある。主だった石仏は殆どが甲州街道に面した堂宇に祀られている。

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左側に並んでいるのが月輪を備えた丸彫の六地蔵菩薩。基壇に安政2年(1855)3月の紀年が刻まれている。かなりきれいになっているのでもしかしたら再建モノかもしれない。

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右側には、左から角柱型の庚申塔。青面金剛像と邪鬼のみの図柄である。造立年は右面に文政12年(1829)正月とあり、シンプルなもの。中央の舟型光背型の如意輪観音像は元禄6年(1693)8月の造立で、「奉造立如意輪観世音菩薩善女人」「念仏講供養金剛山源正禅寺境内」「武州多摩郡府中領下石原」と書かれている。右の笠付角柱型の庚申塔は寛延2年(1749)6月のもの。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄である。

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覆屋の右にある大きな角柱型の石塔は廻国供養塔。前面に「奉納大乗妙典日本廻国供養塔」とあり、左面には「武州多摩郡下石原宿 願主 太田善三郎 繁信 敬白」と書かれている。天明の浅間山の大噴火の後、国の平和を祈って立てられたものらしい。

場所  調布市下石原1丁目36-1

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2023年9月 7日 (木)

西光寺の石仏(調布市上石原)

旧甲州街道沿いにある西光寺は天台宗の寺院。天台宗に改宗したのは寛文年間(1661~1672)と伝えられるが、創建は室町時代あたりらしく詳細は不明。立派な山門をくぐるとその先には大きな仁王門が立ち、その奥に観音堂や本堂がある。仁王門は宝永年間(1704~1710)の建立とされる。

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山門脇には新選組の近藤勇のブロンズ像があるが、上石原一帯に近藤勇ののぼり旗が沢山ある。この街が近藤の生誕地らしい。山門をくぐると、左側に複数の石仏が並んで祀られている。

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一番手前の堂宇には、左から角柱型の馬頭観音がある。右に文政9年(1826)9月の造立年があり、左には施主増岡佐五兵衛とある。ちゅおうは丸彫の聖観音菩薩立像。造立年は貞享3年(1686)11月で、武州多摩郡上石原村拾九人の銘があり、「奉造立為観世音念仏供養二世安楽也同行」と書かれている。右の櫛型角柱の石塔は廻国供養塔で、宝暦7年(1757)11月のもの。武州多摩郡上石原村 願主 原孫市の銘がある。

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その右奥には六地蔵と中心尊となる地蔵菩薩像が一基。六地蔵は宝暦4年(1754)11月の造立で、武州多摩郡府中領願主上石原村 念仏講中などの銘がある。中央の少し大きな丸彫の地蔵菩薩像は巡拝塔で、「西国坂東秩父百ヶ所、四国八十八所諸仏菩薩」とあり「奉供養為二世安楽也」とある。造立年は元文3年(1738)2月と台石に刻まれている。

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一番奥の堂宇には舟型光背型の地蔵菩薩像があり、こちらは貞享2年(1685)5月の造立。「奉造立為地蔵一躰念仏講供養同行廿九人」「武州多摩郡上石原村」の銘がある。後ろにあるのは板碑だが、こちらは詳細不明。右は櫛型角柱型の庚申塔である。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿の図柄で、享保17年(1732)11月の造立。「庚申供養塔 奉造立所願成就攸」「武州多摩郡上石原村下宿講中」とある。

場所  調布市上石原1丁目28-3

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2023年9月 5日 (火)

浄水場前の馬頭観音(調布市富士見町)

国道20号線、天文台通りそして中央自動車道が交わる上石原交差点から天文台通りを北進、40mほど先の分岐点の植込みに石仏がある。天文台通りの斜め向かいは浄水場で、石仏の傍には「浄水場」バス停がある。

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この自然石の石仏には、「駒形大明神」と「馬頭観世音」という二つの名前が刻まれており、双体神となっている。駒形も馬頭も牛馬の意であろうから、同じものを示している感がないでもない。右には「保食神止申天牛馬及五穀移植主賜布尊神奈里」とある。下部には「右ハ じんだいじ道、やぎさわ道」「左ハ おふさわ道、ところさハ道」とある。深大寺、柳沢、大沢、所沢の意であろう。

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裏には嘉永5年(1852)10月再建とある。基壇にも文字があるが土中に埋まり読めない。資料によると、上石原村と上飛田給村の馬持が発起人らしい。「府中観音講、馬▢労連中、・・・」などの文字が土中に埋まっているようだ。

場所  調布市富士見町1丁目20-3

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2023年9月 3日 (日)

道正塚(調布市上石原)

上石原交差点は国道20号線と天文台通りの交差点だが、頭上には中央自動車道が走る立体的な交差点である。その交差点の一角に不思議な石柱が立っている。正面には「道正塚」と刻まれている。

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角柱の裏面には昭和9年(1934)4月建之とある。どうも言い伝えでは分倍河原の合戦を埋葬した跡という説もある。元は少し違う場所に在ったようだが(調布市の資料では塚は上石原1丁目53番地にあったが、その場所に家を建てた人が供養造立したとある)、ここに落ち着いたという雰囲気である。かつてこの近くには山王様があったという。前述の道生神社の道祖神で取り上げた、道生神社の前身がこの山王様ということになるのだろう。今は言い伝えも想像できないほどの交通量が過去を見えなくしている。

場所  調布市上石原1丁目35-10

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2023年9月 1日 (金)

大師堂の石仏(調布市上石原)

調布市にある味の素スタジアム南東、国道20号線を越えたエリアに墓地がある。西光寺の下寺で大師堂(寮)と呼ばれている。墓地は飛田給共同墓地で、おそらくは西光寺の境外墓地ではないかと思われる。

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「この先行き止まり」と出ているが構わず進んでいくとやや広めの墓地に入る。左の樹木の脇にあるのが大師堂であろうか。その脇の墓地の入口に地蔵菩薩が祀られている。

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右の仏形座像は墓石のようである。紀年は文化14年(1817)11月とあり戒名が刻まれている。仏形像は法界定印を結んでいるが、薬壺のようなものを抱いているので薬師如来と言いたいところだが見た目が異なる。左の丸彫の地蔵菩薩立像は、明和8年(1771)11月の造立で、正面には「大乗妙典六十六部日本廻国」とあるので巡拝塔。「武刕多摩郡上石原村 行者 慈性」の銘がある。

場所  調布市上石原1丁目1-8

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2023年8月30日 (水)

道生神社の道祖神(調布市飛田給)

道生(みちおい)神社は京王線飛田給駅の南東にある小さな神社。創建年代は不詳。元は調布飛行場の場所に在った山王社が道生神社と明治時代初期に改称、飛行場の建設によって移転を余儀なくされ飛田神社を合祀して現在地に移ったという。神社の前の道はかつての品川道であり、青梅奥多摩から多摩川河口へ筏に乗って木材を運んだ筏師が戻る街道(筏道)であった。

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神社の鳥居は旧品川通り側ではなく、側道側にあるが、これは道路側の敷地を公園としたためだろうか。現在の鳥居をくぐり手水鉢の手前に一基の角柱の石塔がある。正面には「道祖神」と書かれ、嘉永4年(1851)7月の造立年がある。左側には「上飛田給下組講▢」とあるが、これは筏道とも関係しているのだろうか。

場所  調布市飛田給2丁目39-20

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2023年8月28日 (月)

飛田給薬師堂の石仏(調布市飛田給)

調布市飛田給は昭和の東京オリンピックのマラソン折り返し地点。近年は東京FCのホームスタジアム(味スタ)でイベント日には多数の観客が集まる。飛田給という地名は珍しい地名だが、中世の荘園時代に飛田某という領主から与えられた給田だったことから「飛田給(とびたきゅう)」という地名になったと伝えられる。そんな飛田給の旧甲州街道に面しているのが薬師堂である。

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門の両脇には文化13年(1816)4月に建立された対の燈籠が立ち、奥には薬師堂がある。薬師堂の中には薬師如来像があるが拝観はできなかった。貞享3年(1686)4月造立の丸彫の石造薬師如来らしい。由来碑によると、貞享年間に仙台伊達家の忠臣松前氏が諸国行脚の後ここに庵を建て、医者および仏師として暮らした。彼は薬師如来像を完成させたのちに他界したという。

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境内にあった3基の角柱から成るこの行人塚はその松前氏を祀っており、造立年は元禄14年(1701)正月と刻まれている。左右の角柱はもともとは薬師如来像の左右にあったものをここに移設したらしい。この対の角柱には貞享3年(1686)4月の紀年があるので、こちらの方が古いことになる。「施主為松前意仙行重二世安楽」とあることから、松前氏を祀るものである。

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行人塚の左脇に立っていたのは角柱型の敷石供養塔である。造立年は明治18年(1885)9月。「当所 発起 萩原与兵衛 世話人 念仏講中」と書かれている。行人塚の反対側(右側)には手水鉢があり、その後ろに多数の石仏が並んでいる。

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右端は背の低い角柱型の庚申塔で、正面には「庚申塔」の文字がある。文化15年(1818)4月の造立年があり、左右には「北所沢道」「南相州大山」とある。左の庚申塔は元は舟型光背型で、日月は不詳、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、宝暦2年(1752)の造立だが月の部分は読めない。「奉造立庚申▢願成就 如意満足所」「多摩郡」の文字がある。

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その隣には板碑型の庚申塔がある。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、享保13年(1728)4月の造立。「奉造立庚申供養塔 各願成就處攸」「▢刕多摩▢総村講中敬白」の文字がある。左は角柱型の馬頭観音で、造立年は文久元年(1861)9月。「世話人 念仏講中」「当所 願主 峯岸久次郎」とある。

場所  調布市飛田給1丁目25-4

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2023年8月26日 (土)

滝坂下の庚申塔(調布市東つつじヶ丘)

甲州街道(国道20号線)の滝坂を下った坂下の南側にブロック造りの堂宇がある。中には3基の石仏が並んでいるが、ここの小さな路地が実は昔からの道筋で、ここで甲州街道と分岐して滝坂小学校の現敷地内を通り、つつじヶ丘駅の南にある金子稲荷神社と常楽院の脇を通って野川を渡り、国領の矢ヶ崎に至る道だった。この道はかつての鎌倉街道だったという。

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左の一番大きな石仏は駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、二童子、二夜叉、三猿のなかなか豪華な図柄である。造立年は寛政12年(1800)11月とある。左側面には「武州多摩郡入間村」の銘、右には紀年が刻まれている。

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中央の庚申塔は古いもので、駒型ながら頂部がやや欠損、日月、青面金剛像の図柄となっている。造立年は天和3年(1683)とあるが月名は不明。「奉供養攸」の文字が見える。右の小さな舟型光背型の地蔵菩薩像は元禄13年(1700)7月の造立年が見られる。欠損と摩滅が酷く、詳細は分からない。

場所  調布市東つつじヶ丘1丁目5-10

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2023年8月24日 (木)

旧滝坂道の石仏(調布市東つつじヶ丘)

甲州街道の仙川とつつじヶ丘の間の坂道は江戸時代から滝坂と呼ばれてきた古い坂道である。かつては滝坂上に道標があったらしいが深大寺に移された。しかし現在は民家の隅にレプリカのような道標が立っている。(深大寺に移された道標は何倍も大きいもの)

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滝坂という坂道、高低差が11mほどあり、並行して現在の国道20号線が車路を変更する工事をしている。坂下では国道を見上げるような高低差になっている。八王子よりも都心側でかつての景色を留めている貴重な場所と言われる。

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滝坂の名前の由来は、「大雨の時、雨水が路上を滝のように流れ下った」様子から来ているという。写真の左にある林の手前(坂上側)に2基の石仏が祀られている。

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右の大きい方が舟型光背型の薬師如来坐像である。基壇の記載を見ると、中央に「薬師如来」の文字があり脇に二名の戒名がある。右面には文政13年(1830)4月と、文政10年(1827)8月の命日があるので、おそらくは文政13年に建立されたものであろう。左の丸彫の地蔵菩薩像は首が欠損している。「▢▢女念仏供養敬白」とあり、基壇には享保4年(1719)10月の造立年がある。武州多摩郡世田谷領入間村滝坂▢中とある。

場所  調布市東つつじヶ丘1丁目15-3

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2023年8月22日 (火)

下仙川村辨天坂庚申(調布市緑ヶ丘)

甲州街道(国道20号線)の仙川駅入口の交差点を駅とは反対の北側に進むと、間もなく右手にスーパーいなげやがある。道はそのまま下り坂になって弁天橋で仙川を渡る。仙川の少し手前の坂下の角には小さな堂宇があり、庚申塔が祀られている。

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写真左の坂道は昔から弁天坂と呼ばれてきた坂道だが資料はなく、仙川に架かる弁天橋もこの弁天坂も、なぜ「辨天」の名を持つのか分からない。橋の北側には八幡神社があるが辨天ではない。堂宇の中の庚申塔は駒型で、日月、青面金剛像、三猿の図柄である。

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造立年は左にあり、宝永元年(1704)10月とある。「同行九人 下仙川村」の銘がある。尊像右側には「奉造立青面金剛童子現當二世安楽祈所」とあるが弁天の文字はない。庚申塔だから無理もないが、北千住の千住仲町の氷川神社には庚申弁天があったので、例がないわけではないが。

場所  調布市緑ヶ丘1丁目1

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2023年8月20日 (日)

昌翁寺門前の庚申塔(調布市仙川町)

京王線仙川駅から北に向かうと甲州街道(国道20号線)にあたる。この辺り数百mの国道20号線は江戸時代の甲州街道と同じ道筋を通っている。甲州街道の北側にあるのが昌翁寺。天台宗の寺院で、江戸時代の初期に仙川領主の飯高主水貞政が開基となり、創建した。飯高貞政はもともとは今川家の家臣で、後に徳川家康の家臣となり、仙川の地を与えられた。

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立派な山門のある昌翁寺だが、明治12年(1879)に全焼し、再建されたのは大正13年(1924)で再建迄には45年も掛っている。山門の奥に本堂があり、右手の墓所にも石仏があるが今回は遠慮した。山門の手前、甲州街道ギリギリのところに3基の石仏が祀られている。

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左は駒型の庚申塔で、青面金剛像、三猿の図柄。造立年は元禄10年(1696)11月とあり、右上に「奉供養庚申待‥」の文字、左側の紀年に加えて下仙川村の銘がある。中央の駒型の小さな石仏は「奉納大乗妙典六十六部供養塔」と書かれた廻国供養塔で、法令8年(1758)8月のもの。右の舟型の庚申塔も青面金剛像、三猿の図柄で、こちらは元禄3年(1690)拾月とある。調布市の資料によると、2基の庚申塔は、仙川八幡神社の東、向山に存在した寺院にあったものらしい。

場所  調布市仙川町3丁目7-1

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2023年8月18日 (金)

椿地蔵(調布市布田)

京王線の南側を走る品川通り、布田駅から布田南通りが伸びて交差するのが椿地蔵前という交差点になっている。布田南通りも実は江戸時代からある古い道で、品川通りも同様に古い道である。

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堂宇の後ろにある樹木が有名らしく、堂宇脇の説明板は地蔵の説明ではなくこの「シロハナヤブツバキ」という調布市の天然記念物の樹木の説明だった。昭和30年の品川通り拡幅の際に5mほど移されたらしい。ツバキとはいえかなりの古木らしく、この樹木に因んで堂宇の丸彫の地蔵も椿地蔵と呼ばれている。

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基壇には「念仏講中」「下布田村」とあるが、地蔵の文字は未確認。資料によると、台石にはその他、開眼師宝勝寺▢▢とあり、享保20年(1735)11月の建立年が刻まれているらしい。「武州多摩郡府中領下布田村上ヶ給村講中」と書かれているという。

場所  調布市布田6丁目41-2

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2023年8月16日 (水)

正雪地蔵尊(新宿区矢来町)

新宿区は古い町名が多く残っていて極めて興味深く、歴史好きにとっては有難い。地下鉄東西線と大江戸線の間を南北に通る牛込中央通りから少しだけ入ったところに秋葉神社がある。秋葉神社は結構あちこちにあり、基本火除けの神様である。本宮は秋葉山本宮秋葉神社で浜松市の北の山の上にある。40年ほど前、天竜スーパー林道という道が出来た時に走りに行ったが、素通りしてしまったのが残念。

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矢来町という町名はここに屋敷を構えていた大名酒井若狭守に因む。酒井家は京都府の若狭地方小浜藩の藩主で、江戸時代初期に家光よりここに下屋敷を拝領。周囲の土手を竹の矢来(粗めの竹囲い)で囲み名所となっていたのが町名の由来。以前から牛込寺町に火除けの神として鎮座していたが、酒井家の邸内に遷座。戦後酒井家からこの地に移転した。

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秋葉神社の境内には堂宇がありその中に一体の石仏が祀られている。正雪地蔵尊とよばれるもので、酒井家邸内で発掘されたもの。頭部の欠けた織部型の切支丹燈籠だという。この街には江戸時代のクーデター首謀者由比正雪が住んでいたというだけで正雪地蔵と呼ばれるようになった。しかし、酒井家はもともとキリシタン大名で、その関係のものであって由比正雪はこの地蔵を信仰していたらしい。

場所  新宿区矢来町1-19

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2023年8月14日 (月)

松庵稲荷神社の庚申塔(杉並区松庵)

杉並区内には井の頭通りと五日市街道がほぼ平行に走っている。井の頭通りはかつて水道道路と呼ばれた近代の道。五日市街道は古くからあり江戸時代には「青梅街道脇道」とも呼ばれた道で、高円寺で青梅街道と分岐してから西進、現在の吉祥寺を通り、玉川上水沿いに延びた街道であった。江戸時代はこの辺りは松庵村と呼ばれ、江戸時代初期に松庵という医者が開いた村らしい。

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現在は松庵稲荷神社だが、江戸時代は天台宗の円光寺という寺院であった。しかし明治維新の廃仏毀釈で廃寺となり神社だけが残った。現在も裏手にかつての僧侶たちの墓所がある。その後昭和9年に隣の中高井戸村の稲荷神社を合祀して松庵稲荷神社となった。庚申塔の堂宇が参道に背を向けているのはそういう歴史も関係しているのだろうか。

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右の舟型光背型の庚申塔は、日月、青面金剛像、三猿の図柄。元禄6年(1693)の造立だが月のところが欠損している。「念庚申供養▢▢安楽所」とある。左の笠付角柱型の庚申塔も、日月、青面金剛像、三猿の図柄で、こっちの造立年は元禄3年(1690)11月とある。右側面には「武列野方領松庵新田」とあるので、元禄時代はまだまだ開墾されて間もない田んぼだったのだろう。

場所  杉並区松庵3丁目10-3

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2023年8月12日 (土)

赤稲荷の庚申塔(調布市国領町)

品川通りの国領5丁目交差点に稲荷神社がある。通称「赤いなり」と呼ばれているらしいが、基本稲荷は赤い。屋敷稲荷が境内を持ったようなサイズの小社だが、時代は古そうである。

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赤稲荷のブロック塀が凹んでいるところがあり、そこには2基の庚申塔が祀られている。この辺りは古い地名では上ケ給(上給)だと思われるが、下布田と上布田の間でもある。ブロック塀の凹みには右に上部欠損の舟型庚申塔、左に角柱型の庚申塔が並んでいる。

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右の上部欠損の庚申塔は青面金剛像と一猿が見てとれる。右に「庚申供養」、左には元禄14年(1702)10月の造立年と同行十九人の文字がある。左の大きい角柱型庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼が描かれ、台石に三猿が陽刻されている。造立年は天保9年(1838)4月。台石には願主名や村名がある。上給村、下布田村、国領村の村名があり、願主には杉崎、榎本、石坂などの苗字が見られる。

場所  調布市国領町5丁目37-2

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2023年8月10日 (木)

杉崎稲荷神社の石仏(調布市国領町)

品川通りに近い調布市立第二小学校の南東側に稲荷神社がある。杉崎家が祀ってきた稲荷神社なので杉崎稲荷と呼ばれているようだ。国領町には実に沢山の稲荷があり、大部分は屋敷稲荷なのだが、この杉崎稲荷のように境内を持つ神社がいくつもある。

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境内は極めてシンプルだが、向きがそれぞれ違っていてちょっと違和感がある。境内のケヤキは小さいが幹が太い。そのケヤキの左側に舌状の自然石が立っている。廻国供養塔のようだ。

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境内にはチェーンが張ってあって入れないので資料も確認する。「奉納大乗妙典六十六部供養塔」の文字は遠くからも見える。造立年は明和5年(1768)11月で、上給村願主榎本武左衛門の銘がある。ただ杉崎家の神社とされながら、願主名が異なるのが疑問であった。上給(あげきゅう)村は江戸時代に布田宿から分かれて村となったが、戦後になっても上給の地名で呼ばれていた。

場所  調布市国領町4丁目22-1

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2023年8月 8日 (火)

矢ヶ崎稲荷神社の石仏(調布市国領町)

矢ヶ崎稲荷神社を探すのにいささか往生した。近辺にはいくつも中小の稲荷があり、どれも矢ヶ崎稲荷ではなかった。地図を確認して、住宅の間の路地を覗いてみると、奥に鳥居を発見。

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この住宅の裏の水路敷のような路地を奥まで進んでいくと、再び鳥居があり、矢ヶ崎稲荷神社に辿り着く。矢ヶ崎稲荷神社の創建などについては情報が得られていない。もともとこの辺りは矢ヶ崎村という土地で、甲州街道を狛江方面に進むと、下布田、矢ヶ崎、山谷、松原を経て和泉に至る。半分以上は現在地名から消えている。

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境内の堂宇には6基の石仏が祀られている。背面には説明書きが大きく書かれている。「この石仏群はもと矢ヶ崎村、現在の国領(調布市)にあったものを祀った」とあり、上部には木の札で種類と造立年が書かれていた。

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右の2基はともに庚申塔である。右側の灰色の方は舟型光背型の庚申塔で、日月と青面金剛像だけというシンプルな図柄。正徳2年(1712)10月の造立年があり、「待庚申」「武州多摩郡府中領矢加崎村同行十五人」とある。誤字は江戸時代には多い。左側は櫛型角柱型の庚申塔で、こちらは日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄である。造立年は寛政12年(1800)11月で、「武州多摩郡 講中十三人」の文字がある。

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主尊のように中央に立っているのが丸彫の地蔵菩薩像。何となく新しい。基壇の正面には天明3年(1783)9月の造立年に「奉造立地蔵尊」とあるが、左側面には「大正14年(1925)3月新調 願主女講中 石工橋本安兵ェ」とあるので、実際の建立年は大正14年だろう。右側には「北多摩郡矢ヶ崎村」の銘がある。

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左の3基は、右が百万遍供養塔で櫛型の角柱、寛政4年(1792)3月の造立。「奉修唱六字名号百万遍供養塔」とある。六字名号は南無阿弥陀仏だろう。数珠の欠けられた舟型光背型の地蔵菩薩像はかなり摩滅しているが、明和2年(1765)2月の造立らしい。そして左端の小さな石片は塞ノ神の一部だという。

場所  調布市国領町7丁目54-19

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2023年8月 6日 (日)

デニーズ裏の庚申塔(調布市国領町)

狛江から国領駅を通って甲州街道へ抜ける狛江通りが、東西に走る品川通りと交わる国領町八丁目の交差点角にデニーズがある。その駅側の路地入口に堂宇があり石仏が祀られている。

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この細い脇道は昔、布田村に入る古道であった。それでこの角に布田村の講中が建立したものとされている。戦災で壊れたのだろうか、かなり欠損したり折れたりしたものが目立つ。左端はごく最近の地蔵菩薩でこれについては調べていない。

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右端の庚申塔は中折れしている。本来は駒型で、日月、青面金剛、とセメントで補修された下に三猿が一部覗いている。資料によるとセメントの部分には邪鬼があるようだ。造立年は明和9年(1772)11月で、「奉庚申供養」「武州多摩郡府中領布田村」の銘がある。左の上部と脇が欠損した庚申塔ももとは駒型で、日月、青面金剛像、三猿の図柄。造立年は正徳5年(1715)11月で、「▢▢世安楽同行拾二人」「武州多摩郡布田村」とある。

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左側の庚申塔は最もダメージが少ないが、文字は読みづらい。駒型で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が見られる。造立年は右に「奉納庚申」に続いて、宝暦6年(1756)12月とある。左には「武州多摩郡布田村講中八人」とあり、3基とも布田村の講中によるものである。

場所  調布市国領町4丁目52-3

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2023年8月 4日 (金)

調布稲荷の馬頭観音(調布市国領町)

郷土博物館の庭に保管してあった2基の庚申塔は資料によると、「調布稲荷(国領町1-12)から一時中央公民館に移し、その後調布市郷土博物館に移した」とある。その元々あった調布稲荷を訪れてみた。

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数本の樹木はあるものの、ほぼ更地に近い境内で、2基の赤鳥居の先に小さめの祠がある。国領町には屋敷稲荷が沢山あるので、ここは違うのかもと思ったが、やはりここが調布稲荷である。もっとも正徳5年と天保11年の2基の庚申塔がここに在ったのは戦後間もない頃だったのだろう。

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境内の端に一基だけ、角柱型の馬頭観世音が祀られていた。左面には昭和7年(1932)10月の建立年と、願主小山嘉吉建之の文字。右面には「馬名 北野 岩風」とある。資料によると、北野号は永年、代かきや作物の運搬、肥とりに使われた馬で、コンクールでも銅賞を獲得したらしい。その後飼われたのが岩風で、その2頭が祀られている。

場所  調布市国領町4丁目12-4

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2023年8月 2日 (水)

くいちがい一里塚庚申(調布市国領町)

旧甲州街道の国領駅からの道の交差点から西へ100m余り進むと、甲州街道の南側に堂宇がある。堂宇の脇にはケヤキが植えられている。この堂宇に祀られているのは角柱型の庚申塔。

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この辺りも平成以降大きなマンションが建ち並ぶようになったが、この庚申堂は存在感がある。古い呼び名では「くいちがい一里塚庚申」と呼ぶらしい。江戸時代の街道には一里ごとに塚が築かれ、ここは新宿追分から15㎞程だからおよそ4つ目の一里塚だろうか。食い違いというのはクランクになっている場所を言うのだが、この辺りにクランクがあったのだろうか。

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庚申塔の造立年は寛政10年(1798)2月。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、「下布田村比浦講中」とあるが、この辺りは北浦というのが古い字名なので誤字であろう。新宿を出ると笹塚が最初の一里塚。次が下高井戸辺りになる。給田あたりにあったらしい次の一里塚は見つからなかったが、これが4つ目ならば何となくうれしい。

場所  調布市国領町1丁目41-1

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2023年7月31日 (月)

谷戸稲荷神社の石仏(調布市国領町)

調布市の旧甲州街道沿いには興味深い場所が極めて多い。布田駅前交差点の常性寺前から200mほど東に橋本石材という石材店がある。石仏などを作っている石屋さんである。その裏手に入っていくと駐車場があり、そのさらに奥まった、かくれんぼしているような場所に稲荷神社がある。

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谷戸稲荷神社というが、祠の手前鳥居の下の入口は施錠されている。鳥居の右下に角柱石塔がある。これは念仏供養塔で、造立は文政6年(1823)3月とある。「奉唱講一萬遍供養」とある。他の石仏も同様だが、以前は他の場所に在ったが、橋本石材店に預けられここに安置されたらしい。先日訪問時はさらに境内が狭くなっており、石仏の堂宇の位置が変わっていた。

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堂宇の中には右から、寛延元年(1748)10月造立の駒型庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、「奉講中 国領村 庚申供養 名主谷戸▢▢清 年番四人 講中十六人」とある。中央の丸彫地蔵菩薩は資料によると享保年間(1716~36)のものらしいが、基壇の文字などが資料とは異なっておりよくわからない。左の少し欠損した駒型の庚申塔は正徳5年(1715)11月の造立。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、「奉造立庚申供養二世▢満祈攸敬白」とある。

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堂宇の前にある板碑型の石塔は資料には載っていない。造立年は文字が欠けていて不明だが11月というのが読める。「奉読誦大乗妙典一千部」「下布田村 施主新井五郎兵衛」の銘が読める。

場所  調布市国領町1丁目19-13

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2023年7月29日 (土)

円福寺の石仏(調布市国領町)

旧甲州街道を常性寺より少し東に歩くと、街道の南側に円福寺の入口がある。わかりにくいが入口に御影石の円福寺と書かれた石塔が立っている。円福寺は浄土真宗の寺院で創建年代は不詳。鎌倉時代に北条泰時(『鎌倉殿の十三人』の主役の嫡子)の舎弟が鎌倉の切通しに創建したと伝えられる。その後多摩川沿いに移り、江戸時代初期に現在地に移転したらしい。

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山門を入るとすぐ右手に堂宇があり、丸彫の地蔵菩薩立像が祀られている。台石には「奉▢立地蔵大菩薩」とあり、天明5年(1785)10月の造立。「武州多摩郡国領村 願主念西」の銘がある。

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その左隣には、六地蔵があるが、造立年は分からない。ただ基壇に書かれた祀られた故人の命日は、右から、天保2年(1831)、安政4年(1857)、文久2年(1862)、安政2年(1855)と万延2年(1861)、文久元年(1861)と明治2年(1869)、明治2年と3年(1869/1870)とある。江戸時代末期の没年だが、何度か再建された可能性もありそうである。

場所  調布市国領町1丁目10-11

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2023年7月27日 (木)

常性寺の石仏(調布市国領町)

京王線布田駅の北、旧甲州街道と三鷹通りの交差する布田駅前交差点の北東角にある真言宗の常性寺。境内には調布不動尊があり参詣者が多い。常性寺の創建は不詳だが、鎌倉時代に多摩川沿いに創建したと伝えられる。慶長年間(1596~1615)に現在地に移転してきた。境内の調布不動尊は成田山新勝寺の不動尊を勧請したもの。

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山門手前左には新しい念仏車がある。やはりこの手のものは古い方が良い。境内はとてもきれいで、正面奥に本堂があり、左の三鷹通り側に調布不動尊、右側には一眼地蔵堂がある。入れ替わり地蔵堂に入ってお参りする人が続いていて感心した。

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地蔵堂脇の植込みの中に舟型光背型の庚申塔が立っている。日月、青面金剛像、三猿の図柄で、右側に「奉供養庚申」とあり、左には元禄16年(1703)の造立年が刻まれている。資料によると子の植込みには駒型の庚申塔(元禄10年(1697)11月)があるはずなのだが、そちらは見当たらず。庚申塔が入れ替わった?といささか混乱。

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地蔵堂の前にあったのが舟型光背型の地蔵菩薩像。寛文3年(1663)2月と造立年は古い。「本願主常性寺奉加象九拾六人 国領村」と刻まれている。

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少し山門側に戻ると大仏様のように鎮座した丸彫の地蔵菩薩があった。こちらも寛文3年(1663)2月と古いもので、背中に「念仏称衆同行四十人」「奉造立地蔵二世安楽攸 国領村 施主 谷戸市右エ門」と刻まれている。

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堂宇に収まった特別扱いの馬頭観音菩薩がある。角柱型で、造立年は文政7年(1824)8月。正面には馬頭観世音が陽刻されており、裏には「国領村 発願主 法全」とある。基壇には多数の願主名が刻まれている。

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山門寄りの植込みにはもう一基の角柱型の馬頭観世音菩薩があった。こちらは比較的新しいもので、明治30年(1897)4月の建之と書かれている。明治から大正にかけては馬頭観音も多数造られているが残っているものは多くない。

場所  調布市国領町1丁目2-8

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2023年7月25日 (火)

多摩川白衣観音(調布市多摩川)

京王多摩川駅から線路沿いに多摩川に向かって歩くと土手に達する。ここは昔、菅(すげ)の渡しという多摩川の渡し船があったところ。対岸の矢野口、菅と調布とを結ぶ重要な渡場であった。菅の渡しの最後は昭和48年だったという。

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渡し場はかつては駅のようなものだから、この辺りも随分と賑わったのだろう。そんな場所に小さな境内のような敷地があり、そこに立派な堂宇が立っている。多摩川白衣観音というのぼり旗が多数立てられていた。

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堂宇内にある丸彫の観音像は見た目かなり新しいものと思われた。調べてみると開眼供養が昭和26年(1951)9月に行われている。元は榎観音という名で知られ「玉川榎観音」というのが本来の名称らしい。大映通りと調布南高校正門前の道路の交差点にあったのを道路拡幅で昭和62年(1987)に移設したとある。現地から300m余りの場所で特徴のある道路と中央の榎で記憶に残る場所。

説明書きの中で、明治40年(1907)8月の多摩川の洪水で石仏が流れて来たのを住民が保存していた。それを有志がその榎の場所に設置したという。それ以来榎観音というようになったようだ。元の場所には石仏はないが、榎が御神木として護られている。

場所  調布市多摩川5丁目37-19

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2023年7月23日 (日)

郷土資料館の庚申塔(調布市小島町)

調布市の郷土資料館は京王相模原線京王多摩川駅から少しだけ歩く。入館料は無料である。2階に上がると滝坂の入間川護岸工事中に発掘された文明3年(1471)の板碑(上部欠損)など貴重なものが陳列されている。

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また周辺では庚申講がかなり盛んだったようで、庚申講中の際に用いられた小道具がいろいろと展示されていた。中に入間村仲台地区の庚申講中で用いられた道具と掛軸があり、平成7年(1995)の会合が最後になったと書かれていた。

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集まりの際に架けられた掛軸が興味深い。青面金剛は左手にショケラを下げ、その前には四天王、脇には左右に童子が並び、足元には邪鬼が踏みつけられている。手前には三猿がそれぞれうずくまった様子は、当時の民間信仰としては極めてクオリティの高いものであった。

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庭に出てみると、正面玄関の右手奥に庚申塔が3基並んでいた。一番奥は駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。造立年は天保11年(1840)2月とある。右の駒型庚申塔は中折れを補修してある。日月、青面金剛像、三猿の比較的シンプルな図柄。造立年は正徳5年(1715)11月である。この2基は元々調布稲荷(国領町4-12)にあったものが、一旦中央公民館に移されたのち、ここに移設されたらしい。調布稲荷は今も同じ場所に在る。

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手前にあったのは比較的最近移設された駒型庚申塔。菊野台1-32-21から移設されたとあるので、現在キテラタウンというショッピングセンターがある入口あたりか。昔ボーリング場があった周辺である。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、造立年は享保12年(1727)12月。「奉建立庚申供養 武州多摩郡 府中領金子村」の銘がある。資料によると台石には「昭和7年に甲州街道の工事で移転」「昭和37年に甲州街道の工事で移転」と二度の移転をしたのちに、平成26年(2014)5月に郷土博物館に移された。

場所  調布市小島町3丁目26-2

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2023年7月21日 (金)

常楽院の石仏(調布市西つつじヶ丘)

つつじヶ丘駅の南西にある常楽院は天台宗の寺院。天平勝宝年間(749~757)の創建と伝えられるが不詳。江戸時代には上野不忍池付近にあったが、第二次大戦後に現在地に移転した。

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本堂回りはこじんまりとしている。墓所は道路を渡った反対側に広がっている。境内には丸彫の地蔵菩薩像があり、造立年は寛政12年(1800)10月。基壇に「三界万霊」とあり、脇には武刕多摩郡金子村の銘がある。脇の舟型地蔵は墓石。

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調布市の資料によると、寺には他に古い地蔵菩薩や元禄4年(1691)8月の舟型庚申塔があるのだが、墓所でも見当たらず。住職の奥様らしき方にお伺いしたが、分からないという。以前は墓地の駅寄りの隅にあったらしいが、今回は探しても見つけることが出来なかった。

場所  調布市西つつじヶ丘4丁目9-1

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2023年7月19日 (水)

旧道辻の庚申塔(調布市東つつじヶ丘)

狛江市と京王線の仙川を結ぶ都道114号線の近くに並行した旧道があり、その辻に簡素な堂宇が立っている。仙川から来ると入間川を渡って次の辻である。この南には糟嶺神社と明照院があり、旧道からこの寺社にアクセスする道の角にあたる。

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左側にあるのは駒型の庚申塔。右は欠損が目立つが丸彫の地蔵座像である。明照院と糟嶺神社は小高い丘の上にあり、この丘は入間陵山と呼ばれるようだ。この糟嶺神社は古墳跡に建てられた神社とのことである。

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左の庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿に加えて左手にはショケラを下げている。造立年は明和元年(1764)12月と刻まれている。右の丸彫の地蔵菩薩坐像は頭部が欠損しているが、基壇に書かれている文字から、宝暦3年(1753)2月の造立で、「奉造立地蔵菩薩六十六文供養▢」の文字がある。

場所  調布市東つつじヶ丘3丁目54-1

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2023年7月17日 (月)

田中稲荷の供養塔(調布市若葉町)

バス通りの都道114号線に面した田中稲荷。境内は数十坪ほどだろうか。田中稲荷は別名新井稲荷とも呼ぶらしい。創建年代は不詳で新井一族の鎮守とされているが何故田中稲荷なのかが分からない。田中家は狛江村の名主だったと思うが、距離的には歩いても近い距離なので関係があるのかもしれない。

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元は屋敷稲荷だったのだろうが戸建2軒分ほどの敷地を持つ立派な稲荷神社である。少し北にある大日如来像のある新井家墓所も同じ新井家で、この辺りの名主を代々務めた家柄だという。鳥居の手前、道路に近いところに角柱型の石碑がある。

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正面はゼニゴケで白くなっているが、上部には阿弥陀三尊の梵字が刻まれている。正面には「奉納西國秩父坂東百牧兼石橋建立惣供養」とある。右面に造立年があり、寛政2年(1790)11月で、左面には「武州多摩郡入間村惣助成施主」と書かれている。

場所  調布市若葉町3丁目12-6

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2023年7月15日 (土)

地蔵坂の地蔵(調布市東つつじが丘)

地蔵坂の坂上に立つ地蔵堂。堂宇の脇から地蔵坂を擁壁の際から見下ろすと数mあり、意外に怖い高さである。コンクリートの擁壁は地蔵坂の坂道改修で造られたものだが、それ以前の様子を想像してみた。関東ローム層の脆い崖上から細い切り通しの道で入間川に下っていく滑り台のような小道。崖の上には通行人を見守るように地蔵堂が立っている。

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堂宇の手前には小さな手水鉢が置かれている。天保15年(1845)8月の造立年が刻まれている。道から堂宇までは人一人がやっと歩けるような杣道になっている。そのあたりは昔も同じだっただろう。

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格子の隙間から覗くと、小さめの丸彫の地蔵菩薩が祀られていた。彫りは浅い。調布市の資料によると、造立年不詳ながらおそらくは手水鉢と同じころのものだろうとしている。

場所  調布市東つつじが丘3丁目16-4

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2023年7月13日 (木)

地蔵坂(調布市東つつじが丘)

之川支流の入間川は若葉町の谷あいではつつじヶ丘側が崖になっていた。古代から日本の米作農業は河岸段丘の上に集落を構え、河岸段丘の下の川の流域を田んぼにして米作を行っていたところが大多数。おそらくここも古代から中世にかけてはそうだったと推測できる。入間川のこの辺りの地形では左岸にあたる三部作の坂上が標高47m、右岸の地蔵坂上が標高35mとこちらがかなり低い。

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入間川に架かる橋は鉄製の橋。橋を渡ると急坂で一気に登る。高い擁壁がここが元々崖であることを示している。坂の上下の標高差は僅か7mほどしかないが距離が短いのでかなりの急坂である。坂上には地蔵堂がある。

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坂下には市立第四中学校があり、野球部の子どもたちが坂を下って行った。坂名の由来はどう考えてもこの地蔵堂にあると思われる。古い地図ではこの辺りの小字は「本組」と書かれているが、この地名については分からない。現在は坂上は東つつじが丘3丁目、入間川の左岸側は若葉町3丁目である。

場所  調布市東つつじが丘3丁目

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2023年7月11日 (火)

熊谷坂(調布市若葉町)

三部作というものがある。夏目漱石ならば『三四郎』『それから』『門』が有名である。調布市若葉町の坂の三部作は「大坂」「本村坂」そして「熊谷坂」と呼んでもいいと思う。

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南にある「大坂」、真ん中が「本村坂」、そして若葉小学校の北側の国分寺崖線を上っていく坂道が「熊谷坂」である。小学校の敷地の奥までは普通の道で徐々に上っていく。その先で本格的に崖線に差し掛かるとそこからは階段坂になっている。坂下と坂上の落差は他の坂と同じく16m程度である。

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坂上は大きなマンション。熊谷坂の名前の由来は辺りに熊谷という姓の家があったことらしいが、別名「鉄砲坂」とも呼び、大雨の時坂を水流が流れたからそう呼ばれたようだ。ただ地形図を見ていると谷地形を形成しているのは真ん中の本村坂で、この坂は特に水が流れそうな標高データである。ちなみに新しそうなこの坂も江戸時代からある道筋である。

調布市若葉町1丁目、3丁目

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2023年7月 9日 (日)

本村坂(調布市若葉町)

大坂のひとつ北側にある坂道が本村坂。「ほんむらざか」と読む。坂下には調布市立若葉小学校がある。しかしこの小学校は比較的新しく、昭和36年(1961)に滝坂小学校の分校として開校した。それ以前は小学校の真ん中を本村坂が貫いていたのである。

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若葉小学校の裏手から本村坂が始まる。最初私は「ほんむらざか」だと思っていた。この辺りが武者小路実篤も住んでいたことから集落の中心だったから本村と勘違いしたわけである。実は本村(ほんむら)というのは江戸時代の名主吉田家の本家筋の姓だという。この辺りの大地主で、坂の途中に墓所があったようだ。

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現在は坂の途中は崖線の森の中を通る気持ちのいい道になっている。坂下の標高は30m、坂上の標高は47mで大坂とほとんど同じ。こんな道だが江戸時代からこの道もあったようだ。

場所  調布市若葉町3丁目

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2023年7月 7日 (金)

大坂(調布市若葉町)

坂上の庚申塔にお詣りをしてから大坂を下る。千歳村で仙川を渡り、神明社辺りで瀧坂道と分岐したのち、再び下り入間川を渡る手前にある、国分寺崖線の上下を結ぶ坂が大坂である。

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珍しく露頭がふんだんに見えている坂道で、コンクリート舗装がなければ江戸時代と同じような景色ではないかと思われる。坂下に緑地の説明板があり、その一部に大坂の解説が載っている。

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『この緑地の北側に隣接する坂道(市道)は旧都道で、旧入間村の主要道で、近世・近代を通じ南の現狛江市域から甲州街道へ通じる道として利用されてきた古道の一部です。明治以降は東京への野菜出荷の荷車が頻繁に通っていましたが、難所であったため昭和初期に拡幅、緩勾配かが行われ現在に至っています。坂の上には道標兼庚申塔が立ち、この緑地を含めた両側の樹林地も残され昔の面影を今に伝えます。』とある。

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坂上の標高は46m、坂下は30mで16mほどの落差がある。瀧坂道などの街道ならば手間賃稼ぎの子どもが荷車の押手を担っただろうが、村道ではなかなかそうもいかず、難儀をしたことだろう。この坂を上っても次の仙川に下るとまた廻沢村への安穏寺坂が待っている。そういう歴史を感じられる貴重な大坂である。

場所  調布市若葉町3丁目

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2023年7月 5日 (水)

大坂上の庚申塔(調布市若葉町)

新井家墓苑の前を進むと丁字路に当たる。丁字路を東西に走るこの道は古い道で、入間川の崖線を上下する坂道の中では最南の七曲がりの坂、すぐ北の新左エ門の坂に続く三つ目の坂である。崖側に進むと、北へ分岐する丁字路があり、その角に堂宇が立っている。この北への道も古い道で、北隣の本村坂上に繋がっている。

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ブロックで作られた堂宇の中には駒型の庚申塔が一基祀られていた。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、青面金剛は左手にショケラを下げている。造立年は文化9年(1812)11月と刻まれている。

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台石にも文字が刻んであるがどうも読み取れない。資料を確認すると、正面には「玉川道府中」、右面には「江戸道」、左面には「井のかしら道」、裏面には「多摩郡入間村講中 明月中原講中 四ツ谷忍町 石工木橋市良兵エ」と書かれているらしい。瀧坂道から分岐した古い村道があり、旅人の道標としても役立っていたのだろう。

場所  調布市若葉町3丁目27-44

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2023年7月 3日 (月)

霊松山新井家墓苑の石仏(調布市若葉町)

狛江から仙川に続く都道114号線は崖線を切通して緩やかな坂道で仙川へ上っている。その坂の途中を横切るように新左エ門坂上からの古道が南北に通っており、都道の少し北には新井家の墓所がある。「霊松山新井家墓苑」と書かれているが、霊松山が何を意味するのかは不明。ただ霊松山という山号を持つ寺院は全国に多数ある。

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この墓苑の南端の一画に堂宇があり、山状角柱型の大日如来坐像が祀られている。紀年は安永5年(1776)4月で、右側面に「藤原姓 佐橋佳栄」とある。江戸時代初期に土地の有力者であった佐橋氏はこの辺りにいたが、その後この地を離れ、その後また戻ってきたらしい。裏面には願主名があり「入間村名主新井覚右衛門 寛政11年(1799)4月」ともあるので、こちらが造立年かもしれない。

場所   調布市若葉町3丁目26-18

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2023年7月 1日 (土)

新左エ門の坂(調布市入間町)

七曲がりの坂の脇道が中央学園通りに分断された先、廃道になりそうな道が残っているが、その脇の斜面にあるのが辨天山宇賀辨天堂跡。弁財天は蛇の化身、宇賀神ともされ、水の絡む場所に祀られていることが多い。

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その斜面の脇から崖線を上る道がある。これが新左エ門の坂と呼ばれる坂道である。坂上に向かって右側が辨天山、左が入間町一丁目緑地として、国分寺崖線の貴重な自然が保護されている。坂名は、地主鈴木家が代々新左エ門を襲名したことから付いたらしい。

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坂上までの高低差は、下が標高30m、上が標高45mで15mの高低差がある。国分寺崖線は田園調布を突端にして、多摩川左岸を上流までずっと崖線を形成しているいわゆる河岸段丘地形である。成城学園前周辺を中心に調布市まで魅力的な崖線が連続している。

場所  調布市入間町1丁目

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2023年6月29日 (木)

七曲がりの坂(調布市入間町)

成城から入間町へ下る中央学園通りの途中、百万遍供養塔のところから分岐する道がある。やや急な下り坂になっており、途中で戻るように右に分岐してもとの中央学園通りに出る右と分かれ、さらに下っていく。

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この坂道には「七曲がりの坂」という名前が付いている。実際にはそこまで曲がってはいないが、百万遍供養塔の説明板には「かつてこの辺りは七曲がりの道と呼ばれ、小道であるばかりでなく藪道や坂道が多く、寂しく迷いやすい所であったので、参詣に来る人たちにとって心強い道標であったと思われる」と書かれている。

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分岐する道は上の写真の左の道だと思われ、中央学園通りの先も道の痕跡が続いている(現在は道路ではない)。その先は辨天山という山で宇賀弁財天が祀られている。下った先は野川の支流入間川である。昔の道は坂上からはほぼ中央学園通り筋、坂下は昔と変わらず、分岐の先は辨天の近くで右の崖を上る道(新左エ門の坂)と崖下の道に分岐していたようである。

場所  調布市入間町2丁目

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2023年6月27日 (火)

百万遍供養塔(調布市入間町)

成城学園前から中央学園通りを調布市入間町に下り坂で降りていく。NTT中央研修センターを過ぎた脇道への分岐のところに石柱が立っている。説明板もあり、「百万遍供養塔」の説明が書かれている。

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百万遍というのは、大きな数珠を複数人で輪になって手繰り寄せながら念仏を唱える行事で、無病息災、疫病退散を願う百万遍念仏のことである。京都に百万遍という地名があるが、おそらく念仏講中に由来するのではないかと思う。

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石柱は天明元年(1781)10月の造立。正面には「百万遍供養  是より泉むら 子安地蔵尊25丁」、右面に「右 世田ヶ谷目黒道」、左面に「左リ 江戸四ツ谷道」とあり、裏に紀年と「多摩郡世田ヶ谷領入間村 原念仏講中」とある。現在地から10mほど離れたところから出土したもので、古道としては分岐の辻に立っていたと思われる。

場所  調布市入間町2丁目28-10

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2023年6月25日 (日)

入間山谷の石仏(調布市入間町)

以前に世田谷区と調布市の境の南北のバス通りと中央学園通りの丁字路の北西角近くにあった庚申堂が消えて月兎ソース(株)という会社のビルが建った。プロユースのソースを作る会社のようだ。2015年くらいまでは樹木の生い茂るお屋敷があって、塀の一部に堂宇が作ってあった。今回それがワンブロック南の区画にあることが分かった。

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もとの成城八丁目丁字路からは170mほど南西になる。昔から、南北のバス通りは道筋としてあり、その東側(現在の世田谷区成城)が上ノ台、西側が山谷という集落だった。この辺りは江戸時代から民家が多くあった場所で、その為に路傍の石仏も多い。

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一番右にある舟型光背型の如意輪観音像はなぜか黒く塗りこめられていた。どうも現在の場所に移設されたころに黒く塗られたようである。造立年は元文5年(1740)9月。「奉納念仏供養所敬白」「武州多摩郡世田谷領入間村同行44人」と書かれている。左隣は角柱型の庚申塔で寛政9年(1797)7月の造立。日月、青面金剛像、三猿が陽刻されており、少し茶色い石材を使っている。

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左の2基のうち右側は丸彫の地蔵菩薩像。お地蔵さんは羽織を纏っているので文字が読めず、資料によると造立年は享保7年(1722)10月。前面には「奉納念仏供養攸 敬白」側面には「武州多摩郡世田谷領入間村講中32人」と書かれているらしい。左端の駒型庚申塔は、日月、青面金剛像、三猿の図柄。左右に「奉建立庚申」の文字と享保元年(1715)の造立年がある。

場所  調布市入間町3丁目4-1

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2023年6月23日 (金)

八百幸裏の石仏(調布市入間町)

世田谷区成城と調布市入間町の境のバス通りにスーパー八百幸と神戸屋レストランが並んでいる。このスーパー八百幸は音が同じだが、埼玉県を中心に200店舗を展開するスーパーヤオコーとは全くの別会社。地場の新しい高級スーパーである。2016年頃まではジェーソンというディスカウントショップだったが、成城の客層に合わせて好調なのか盛況である。

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八百幸と神戸屋レストランの間には細路地があり、そこを入っていくと八百幸の裏の角にあたる植込みに3基の石仏が立っている。とても無造作に置かれている様子だが、昭和50年代の調布市の資料の写真もほとんど変わらない。明治時代の地図を見てみると、この細路地が点線の道として描かれており、この場所に石碑のマークがある。昔から変わらずあり続けているのである。

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右の舟型光背型の地蔵菩薩立像だが、尊像の右には「奉納念仏供養攸 敬白」とある。造立年は左にあり、元禄3年(1690)10月。「入間村同行19人」の銘がある。一部欠損している。

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中央の舟型光背型は聖観音像である。調布市の資料では、昭和54年の調査時にはなかったが、その後にどこかから移されて来たものとある。尊像脇には「掲真妙清禅定尼忌位」とあるので墓石だろうか。造立年は寛文3年(1663)とあるが月は消えている。左の舟型光背型の石仏は中央に一猿を配する庚申塔である。日月の痕跡があり、「庚申供養二世成就攸 入間村敬白 同行19人」と刻まれている。造立年は古く、延宝8年(1680)9月とある。

場所  調布市入間町1丁目34-57

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2023年6月21日 (水)

南入間町の庚申塔(調布市入間町)

成城学園前から京王線方面へ北上すると間もなく調布市に入る。南北のバス通りの東側が世田谷区成城、西側が調布市入間(いりま)町だが、大半のマンションには「成城」の名前が付いている。ちなみに英語でマンションというとトランプが住んでいるような大邸宅を指す。日本人が言うマンションはアパートメントハウスである。マンションという呼び方もいささか昭和感があると思うこの頃である。そんなバス通りに南入間町という停留所がある。南入間町という町名はない。

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バス停の10mほど南の路地口に、民家の塀を凹ませた堂宇がある。堂宇の中には駒型の庚申塔が祀られている。この辺りは昔は入間町の中でも原と呼ばれた地域。この辻も江戸時代からの道筋の辻である。東に行くと仙川を渡るところで瀧坂道に合流し、上祖師谷の神明社がある。

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庚申塔は、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、左手にはショケラを下げている。造立年は文化9年(1812)10月とある。文字はほぼ摩滅しているが、調布市の資料によると、正面には「西いづみ村ぢぞう道」、右には「北井のかしら、左は「南 ふだ」とあるという。ということはこの庚申塔は現在南向きだが、昔は東向きだったと考えられる。バス通りになった時に路地側に移されたものだろうか。

場所  調布市入間町1丁目24-27

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2023年6月19日 (月)

安養寺の石仏(大田区西六郷)

多摩川の六郷土手の傍にある真言宗の古川薬師安養寺は永伝法印(永禄11年(1568)没)が創建と伝えられるが、山門入って右にある薬師堂は古川薬師堂と言って元々は行基(667~749)が創建とされている。飛鳥時代から奈良時代にかけての話で真偽は分からない。後に出来た安養寺は古川薬師の別当寺となったが、元来古川薬師の方が知名度は高かったようだ。

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山門右にある石柱は古川薬師道道標。延宝2年(1674)の造立で説明板があり、東海道筋から多摩川道に入る分岐点に建てられた道標で、後年区画整理でここに移設したらしい。おそらく今の雑色駅の国道15号線沿いであろう。山門内の右手にある大きな赤茶色の建物が薬師堂で、本堂よりも大きいくらいである。

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本堂脇には、大きな富士講碑がある。建立年の記載はないが江戸時代末期とされている。富士講の名前が多数刻まれており、当時の富士講がいかに盛り上がっていたかが分かる。講中の名前だけでも100近くある。

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本堂前に在る一対の大きな燈籠は、念仏講中の寄進による供養燈籠で、同行42人とある。造立年は元禄3年(1690)1月。「荏原郡六郷領古川村願主…」の銘がある。民間の寄進としては大きなもので、当時の東海道による経済的なうるおいがあったのだろうか。

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2基の庚申塔が無縁仏群にあると聞いていたが、無縁仏群は整理されておりいくら探してもわずかな墓石だけで庚申塔は見当たらなかった。墓所の奥には六地蔵幢が祀られていた。この六地蔵幢は享保17年(1732)11月の造立で、現當二世安楽とある。

場所  大田区西六郷2丁目33-10

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2023年6月17日 (土)

宝幢院門前の石仏(大田区西六郷)

大田区西六郷にある宝幢院は真言宗の寺院で、鵜の木光明寺の第三世行観という僧が創建したと伝えられる。行観の没年は保元元年(1156)なので、室町時代末期の創建ということになる。極めて大きな寺院だったが明治になって廃仏毀釈でその勢いが奪われたようだ。光明寺がもとは真言宗だったのが浄土宗になったため、真言宗の寺院として開かれたという説もある。

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江戸時代この辺りは高畑村で北に古川村、東に町屋村、八幡塚村という村域だった。明治になってからは六郷村にまとまってしまったようだ。山門の手前右に複数の石仏が並んでいる。庚申塔が1基、地蔵菩薩が6基あるが、左端の庚申塔と右端の丸彫地蔵以外は新しいものである。

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左端の舟型光背型の庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、造立年は貞享元年(1684)10月と書かれている。下部には「六江領ノ内高畑村」の銘がある。主尊右には「庚申者生死長座・・・」と書かれていた。

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右端の少し黒っぽい丸彫の地蔵菩薩像は寛文6年(1666)5月の造立で、「念仏同行 ▢田新一 三十四人」と書かれているので、念仏講中による供養塔であろう。左の地蔵菩薩像は平成9年(1997)9月の新しいものである。

場所  大田区西六郷2丁目52-1

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