2022年10月 5日 (水)

立石諏訪神社庚申塔(葛飾区立石)

京成押上線京成立石駅の東側2個目の踏切の傍に立石諏訪神社がある。創建年代は不詳、区の資料によると元文4年(1799)の史料には記載があるので江戸時代中期の再建と想定されている。西円寺持となっており、西円寺は永禄10年(1567)の創建なので、区の想定よりも古いかもしれない。

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道路に対して神社の向きが不思議な角度になっている。明治時代まで立石駅周辺は水田地帯で、諏訪神社より西に人は殆ど住んでいなかった。したがって東にある西円寺側から参詣するのが常で、それで東向きになっており、神社の北側の道が不思議な曲がり方をしているのは、本来はもう少し境内が広かったが京成押上線が大正元年(1912)に開通した時に境内がいささかいびつになってしまったのではないだろうか。

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境内の北側に線路を背にして駒型の庚申塔を祀った小堂宇がある。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄の庚申塔で、造立年は延宝5年(1677)正月とある。神社の創建が区の想定よりも古いかもとしたのはこの紀年も含めた推測である。「葛西領立石村」の銘も刻まれており、台石には願主名らしきものが連なっている。手前の石に「昭和33年8月改装竣工」と刻まれているので、その時代にこの堂宇は建てられたのだろう。

場所  葛飾区立石8丁目2-6

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2022年10月 4日 (火)

本奥戸橋西詰地蔵堂(葛飾区立石)

江戸時代奥戸の渡しがあった場所に近代になって架けられた本奥戸橋。その西詰の郵便局のある敷地に地蔵堂がある。資料によると当初は橋際の堤防内にあわもち屋という家があり、その前に在ったとのこと。それが昭和初期に本奥戸橋架設時に奥戸街道の南側に移された。今は奥戸街道の北側にあるが、これは昭和後期に橋の架け替えを行った際に工事の都合で通りの北側の今の場所に移転した。

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現在の住居表示では東立石から立石に変わった訳である。堂宇内には右側に地蔵菩薩、左側に馬頭観音が祀られており、かなりの規模で支援され守られている様子が見える。地蔵菩薩は舟型光背型で、造立年は貞享2年(1685)8月。土地では子育地蔵と呼ばれている。「念佛講結衆」とあり同行四十六人とあるのでかなり大きな講中であったのだろう。

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左の自然石の馬頭観世音はなかなかいい石を使っている。造立は安政2年(1855)と説明板に記されていた。大正時代までは馬が物流の根幹をなしていたわけで、人と同じくらい大切にされていた。造立年は安政の大地震のあった年である。

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堂宇の前にあるのは道標を兼ねた巡拝塔である。角柱型でこれも元々は奥戸街道の南側に在ったものをこちらに移している。正面には「右 江戸みち 左 おくとミち まかりかね道」とあり、その下に「渡しは道」とあるが意味は分からない。右面には「羽黒山大権現、湯殿山大権現、月山大権現 奉供養大日講中」と刻まれている。他の面には願主名がびっしりと書き込まれ、裏には宝暦5年(1755)霜月の造立年があるほか、「男女百四十▢▢」とあるのでこれも大きな講中である。

場所  葛飾区立石8丁目7-10

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2022年10月 3日 (月)

喜多向観世音菩薩(葛飾区東立石)

京成立石駅からアーケード商店街の立石通り商店街を抜け奥戸街道に出る。奥戸街道はかつての古代東海道。現在は本奥戸橋で那珂川を越えるが、橋が架かったのは昭和7年(1932)である。このルートは江戸時代の柴又帝釈天への参詣ルートでもあり、奥戸の渡しが人々を運んでいた。

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本奥戸橋から少し手前の奥戸街道南側に喜多向観世音菩薩がある。毎月7の付く日が縁日とあり、堂宇も提灯と花で賑やかな様子。昔は渡しの手前には何らかの商売をする人が集まり賑やかになった。この観音様は、南蔵院の尼さんであった妙本尼が浅草寺を深く信仰して、千日詣を行って満願叶った年に建てたものだという。

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舟型光背型の聖観音像はなかなか良い材質の石材を使っているように見受けられる。造立年は寛保元年(1741)7月。「奉造立浅草観世音尊一千日詣結願廻向所」と書かれている。昔は各地でこういう観音様やお地蔵様の縁日があったものである。ハイセンスな街で有名な広尾商店街も5の付く日に五の市を開き沢山の屋台が並んでいたものである。こういう下町ならば今でも…と思ったが、どれくらいの縁日なのだろう。

場所  葛飾区東立石4丁目45-12

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2022年10月 2日 (日)

原稲荷神社の庚申塔(葛飾区東立石)

京成押上線京成立石駅から南へ300m余りのところにある原稲荷神社。かつて立石村から原村が分村した元禄8年(1695)に旧原村の鎮守として勧請されて創建した。江戸時代は真言宗東覚院持ちだったが、東覚院は明治2年(1869)に廃寺となった。

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神社の西の南北に走る通り側が参道の入口で、比較的大きな鳥居があり、社殿迄の参道も長い。明治の末あたりから人口も急激に増加し、当たりは本田原町と呼ばれるようになった。「ホンダワラマチ」ではなく「ホンデンハラマチ」と読む。原村から原町になったという訳である。ちなみに立石も当時は本田立石町という地名だった。

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鳥居の脇に板碑型の庚申塔が建っている。文字塔で、下部には三猿が微妙な陽刻で描かれている。「奉供養庚申塔」と正面に書かれ、造立年は享保12年(1727)霜月とある。地名は記されていないが原村の講中によるものと考えられる。

場所  葛飾区東立石4丁目42-1

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2022年10月 1日 (土)

立石子育地蔵尊(葛飾区東立石)

中川の湾曲した右岸にある東立石4丁目はもともと川端村という土地であった。川が曲がれば道も曲がる。西の正覚寺から来た道が、川の曲がりに合わせて北に折れ曲がるところにあったのが宮田家だった。この宮田家に江戸時代からいくつかの石仏があったという。

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左の木の生い茂ったお宅が宮田家でその西側には家に並んで宮田家の墓所がある。小堂を覗いてみるともぬけの殻であった。傍に張り紙があり、8月29日にお地蔵様は移転したとのこと。移転先はポケット公園とあるが、近くに公園は見当たらない。20mほど東に進むと公園というよりも民家1軒分の土地にコンクリートタイルを敷き詰めて広場にしてあり、そこに新しい堂宇があった。

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堂宇の左側の格子戸の中には大師像が祀られていた。旧堂宇の脇に折れてしまった石碑があり、そこに書かれていたのは、かつては四国順礼、秩父順礼、坂東順礼に加えて山形の三山などへの巡礼も流行し人々は散財したため、近くに南葛八十八ヶ所を作り身近に巡礼供養が出来るようにしたとある。

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堂宇の右側のうち小さい駒型の像は馬頭観音菩薩。時代は不詳だが江戸時代に遡るようだ。右側の大きい方は舟型光背型の地蔵菩薩像で、宝永7年(1710)7月の造立。「奉供養地蔵 同行十二人」と光背に書かれている。以前は「横手の子育地蔵」と呼ばれたようで、江戸時代には宮田家の墓所の堂宇にこの地蔵と大師像があったと伝えられる。

場所 葛飾区東立石4丁目12-13(元の堂宇は4-10-7)

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2022年9月30日 (金)

川端稲荷神社庚申塔(葛飾区東立石)

旧川端村であった東立石にある小さな稲荷神社。江戸時代の中期~後期の創建とされるが具体的には不詳。現在は路地裏に在って見つけにくい。区立本田中学校の西側になる。旧川端村には川端小学校の北にもっと大きな川端諏訪神社があるが、諏訪神社と共に川端村の鎮守だったと伝えられる。

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祠は平成になって再建されたらしく、小さいがしっかりしたもの。ただ大きさは屋敷神とさほど変わらない。鳥居は大きく立派である。本殿の手前には対のお狐様があるが、その右脇に小さな石塔がある。

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板碑風駒型の庚申碑である。造立年は元禄7年(1694)10月と書かれている。「奉造立庚申供養二世安樂攸 結衆敬白」と刻まれている。稲荷神社の面した路地は江戸時代からある道で、明治時代の地図を見ると稲荷神社の辺りで道は終わっている。かつては原村だったところだが、原村は江戸時代の開墾当所の村名で、後に川端村に併合したのだろうか。

場所  葛飾区東立石4丁目8-13

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2022年9月29日 (木)

正覚寺の石仏(葛飾区東立石)

真言宗の正覚寺は天正8年(1573)の創建。織田信長が足利義昭を追放し室町幕府が滅亡した年である。当時のこの土地はまだ未開墾の土地で、江戸時代になって開墾されて立石村となり、その後立石村から分かれて川端村になった。西葛西領川端村は現在の東四つ木、東立石辺りで、中川沿いにあるので川端村とついたらしい。

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正覚寺の山門は東向きで中川の土手の方に本来の入口がある。もともとの村の幹線道路はこちらだった。旧中川の右岸を上っていく道である。かつてこの道沿いには開墾で掘削された用水路があった。周辺は一面の田んぼで、正覚寺よりも東側には原村が隣接していた。

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参道入口脇にとても大きな板碑型の庚申塔が建っている。右上から主尊の肩口を通り左下へ中折れの痕跡がある。造立年は寛文3年(1663)頃と思われる。日月、青面金剛像、三猿の図柄で尊像の右手にはショケラ。右手に持っているのは珍しい。三猿の下に願主名が刻まれており、その下の基壇には蓮葉が描かれている。

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参道を少し進むと右側に2基の石仏がある。手前は板碑型の廻国供養塔らしいが、摩滅が甚だしくて文字がほとんど読めない。左側は駒型の庚申塔で、延享2年(1745)11月の造立。日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄である。右面には川端村の銘があり、左面には紀年の他、願主名が刻まれている。江端姓が多い。

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本堂の西側は道路が南北に通っており、その西側には墓地がある。墓所に入って右奥に木造堂宇がある。ここには古い聖観音像と並んで、造り変え再建された阿弥陀如来像と子育地蔵がある。右の舟型光背型の聖観音像は正徳5年(1715)10月の造立で、「正観自在尊正体 西葛西領川端村」と刻まれている。講中弐拾一人とも書かれていた。これと一緒にあったらしい天保10年(1839)5月造立の丸彫の地蔵菩薩像は見当たらず、女講中の建立だが新しくなった左の子育地蔵が再建だろうか。

場所  葛飾区東立石1丁目20-2

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2022年9月28日 (水)

渋江白鬚神社の道標(葛飾区東四つ木)

京成押上線四ツ木駅の東500mほどのところに渋江白鬚神社がある。四つ木村も白鬚神社だが、渋江村も白鬚神社で、旧渋江村の鎮守である。江戸時代は「葛西の大権現」と呼ばれ、吉原、深川、千住の遊郭水商売筋からの信仰が厚かったという。創建は不詳ながら室町時代という説もある。

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本殿前の燈籠は文政6年(1823)6月の建立で、江戸の水商売筋の寄進である。境内には7基の道標があり、いずれも文政5年(1822)3月に建てられたもの。なぜこの年にこれほど沢山の道標が建てられたのかは分からないが、文政から天保あたりの年間が神社が最も賑わったと伝えられる。

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いくつかは神社付近の旧道に立っていたものを道路拡張時の昭和41年(1966)に春日秀郎氏が神社に移設したものだという。施主名は日本橋北さや町岡本屋長右衛門と裏河岸粋清次郎ととある。日本橋北鞘町は現在の日本橋本石町1丁目あたり。日銀が鎮座するあたりの江戸時代の町名である。最近常盤橋が復元されつつある江戸の痕跡のメッカで、日銀は江戸時代は金座だった場所。まさに三越の前身である越後谷などが建ち並んでいた一画のお金持ちが建てたものであろう。

場所  葛飾区東四つ木4丁目36-18

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2022年9月27日 (火)

忍橋道祖神(葛飾区四つ木)

船堀街道の南の始まりは葛西臨海公園の傍、そこから荒川と並行して北上し、西葛西、船堀を経て、東小松川で京葉道路と交差すると、同じ道が千葉街道(国道14号)となる。しかし八蔵橋の複雑な交差点からは平和橋通りと名を変えて、北西に延びる。この道は小菅まで続いているが、道筋からわかるように戦後の区画整理で通された幹線道路である。幹線道路だが京成押上線の踏切があったりして昭和感がある。踏切から400mほど南に六差路があり、その一角に道祖神がある。

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この道祖神は厚木をしていて顔の一部しか拝めなかった。したがって造立年も何もわからない。過去のストリートビューを見てみるとどうやら舟型の石仏のようである。道祖神の後ろの道路は東四つ木コミュニティ通りである。葛飾区の資料にも載っていない。戦後交通事故か何かがきっかけて建てられたものだろうか。

場所  葛飾区東四つ木2丁目26番地先

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2022年9月26日 (月)

四つ木白鬚神社の石仏(葛飾区四つ木)

四つ木イトーヨーカドーの裏に四つ木白鬚神社がある。駅からも遠く車の便もよくないこの場所に何故大型のショッピングセンターがあるのか昔からいささか不思議に思っていた。イトーヨーカドーの場所は大正時代までは水田と溜池、戦後川口ゴムの工場になり、その跡地がショッピングセンターになった。戦後人口の張り付きはかなり増えたのでそれを見込んだのだろうか。それでも現在も賑わっているのは興味深い。

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明治の初め頃、この辺りは北に四つ木村、西に篠原村、南に渋江村があり、南側には東西に古代東海道が通っておりそれが四つ木村と渋江村の村境だった。そんな四つ木村の鎮守であったのが白鬚神社である。四つ木村が立石村から分離した時に鎮守として勧請された。承応3年(1654)のことである。

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本殿左手の堂宇のひとつに地蔵六角幢と角柱型地蔵菩薩像が祀られている。六地蔵堂は六面に地蔵菩薩が描かれ、その上に擬宝珠が載っている。葛飾区の資料では江戸時代の造立としている。右の角柱型の地蔵菩薩は線刻の地蔵である。側面に造立年があり、明治31年(1898)と刻んである。

場所  葛飾区四つ木2丁目18-17

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2022年9月25日 (日)

路地裏の庚申塔(葛飾区四つ木)

京成押上線四ツ木駅の北約300mの路地の裏手にひっそりと庚申塔が祀られている。目印となるものはないが、キャプテン翼の日向小次郎の像がある四つ木公園の北の一角とでも言おうか。住所を辿るしかないかもしれない。

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電柱の影に隠れるように屋根付きの区画があり、庚申塔が1基祀られている。こういう庚申塔はいつも花やお供え物が供えられていて、今でも大切に守っている人がいることが分る。像形は舟型か駒型か分からない。上部が大きく欠損しており、中央部も折れて補修された跡がある。空襲によって壊れてしまったのだろうか。

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日月は有るかどうかわからないがおそらくあっただろう。判別できるのは青面金剛像、邪鬼。葛飾区の資料には三猿もあると書かれているが今一つ自信がない。「奉造立石塔庚申結衆現當二世安樂攸」と刻まれている。造立年は分からなかったが、区の資料には宝永3年(1706)▢月17日とある。邪鬼の下の平面の部分には願主名が並んでいるようだがこれも判別が難しい。

場所  葛飾区四つ木1丁目33-17

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2022年9月24日 (土)

西光寺の石仏(葛飾区四つ木)

四つ木にある西光寺は源頼朝が石橋山の戦いから逃走して安房に渡り、上総広常や千葉常胤を従えて鎌倉に進軍する際にこの軍勢に加わってから、鎌倉幕府の御家人となり、北條の時代まで仕えた家臣である葛西三郎清重の居館跡である。墓所には清重の墓地もあり、古代東海道に近いことからも四つ木のこの辺りが江戸時代以前の中心地だったことがわかる。

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天台宗の西光寺はその葛西清重による創建とされている。嘉禄元年(1225)が創建年で、親鸞上人が葛西清重の居館に逗留、その親鸞に帰依してのことと伝えられる。しかし浄土真宗を開いた親鸞と天台宗とは?との疑問については、後の戦乱や水害によって無住の寺となっていたのを、寛永年間(1624~1643)に天台宗の旅僧が逗留し再興したことによるようだ。

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境内には素晴らしいバランスの舟型光背型の阿弥陀如来像がある。光背部分には「奉造立庚申供養結衆現當安樂諸願成就」とあることから庚申講中によるものである。造立年は寛文13年(1673)弐月と記されている。もともと浄土真宗だったことから阿弥陀如来が主役なのだろうか。別にそばには新しい阿弥陀像があった。

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墓所はきれいな舗装が施されており、とてもきれいであったが、その手前にこの無縁塚があり、その主尊である舟型光背型の如意輪観音像もまた見事な石像である。造立年は延宝6年(1678)2月で、光背部分には「奉造立如意輪観音為逆修菩提也」とあり、女性願主の名前が沢山刻まれていた。

場所  葛飾区四つ木1丁目25-8

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2022年9月23日 (金)

古代東海道の地蔵堂(葛飾区四つ木)

四つ木の水戸街道(国道6号線)脇に四つ木めだかの小道というビオトープがある。ここから斜めに東に向かう道はとても古い道で、かつての古代東海道である。古代東海道は浅草から北上して隅田川を渡り、鐘ヶ淵から西に向かって真っすぐ伸びていた。その東海道がこの細い道で、立石の旧中川までほぼ直線である。

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水戸街道から入ってすぐに木造の堂宇がある。近くにある西光寺は平安時代~鎌倉時代の葛西氏居館跡とされている。葛西と言うのはこの辺りの古代からの地名で、下総国葛飾郡があり、その西側部分が葛西である。葛西氏は頼朝が房総に逃亡し兵を集めて鎌倉に攻め入った折から鎌倉幕府の御家人となった豪族。

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堂宇の中には丸彫の地蔵菩薩が一基祀られている。台石を含めて高さは1.5mほどだろうか。子育地蔵尊と呼ばれている。造立年は享保16年(1731)10月で、台石には「念仏供養 講中敬白 四ツ木村」と記されている。この辺りは四つ木の中でも古くから交通の要衝で人口の張り付いていた地域である。

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堂宇の脇のアオキに埋もれて櫛型角柱型の庚申塔が隠れている。もう文字はほとんど読めない状態になっているが、台石には三猿が彫られているもののほぼ土中に埋もれている。造立年は延宝4年(1676)9月ととても古いもので、地蔵菩薩よりも150年も前のものである。正面には「奉造立庚申供養二世安樂」と書かれているらしい。

場所  葛飾区四つ木2丁目3-13

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2022年9月22日 (木)

善福院の石仏(葛飾区四つ木)

真言宗の善福院は南葛八十八ヶ所霊場43番札所、永正16年(1519)に創建し、当時は東照宮若王寺としていたが徳川家康にはばかり善福院と改号した。豊臣秀頼が「国家安康」と鐘に記して因縁をつけられたのとどっちが早いか分からないが、名前ひとつで滅ぼされる時代だったのだろう。この辺りから荒川の流れにかけては昔は若宮という土地で、現在の荒川の中にあった善福院は荒川掘削により現在地に大正元年(1912)に移転したが、間もなく関東大震災で本堂大破。再建すると昭和9年に火災にあり、3年後再建、ところが戦後すぐに大洪水で破損したのち、今の本堂が出来たのは昭和44年(1969)である。

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山門と本堂手前は車が止められていて写真が撮れなかったが、本堂脇にはまずこの舟型光背型の地蔵菩薩像があった。かなり摩滅が進んでいるので紀年や銘文は分からないが、区の資料では江戸時代としている。

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その先は墓所になるのだが、墓所入口に三界万霊塔がありその主尊として納骨堂の裏側の中央に大きな舟型の阿弥陀如来像が立っている。読み取れないので葛飾区の資料を参照すると、造立年は寛文9年(1669)11月、「奉造立念仏庚申両供養二世成▢▢▢ 結衆25人」とあるらしい。庚申塔としても信仰されていたのだろう。

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右手前には駒型の庚申塔も混じっていた。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、造立年は寛保3年(1743)10月。「女人庚申講中」の銘がある。寺院でいささか疑問だったのはなぜ山門から本堂へのアプローチがこんなに窮屈なのかということと、道路に対して斜めに建っているのかという点であった。前の道路はかつての用水路の筋であり、おそらくは東向きに立てる目的でこの角度になったのだろうか。

場所  葛飾区四つ木3丁目4-29

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2022年9月21日 (水)

慈眼院の地蔵(葛飾区四つ木)

四つ木の慈眼院に辿り着くのにいささか路地を間違えて遠回りした。ちょっとわかりにくい場所に在る。さらに門脇を入ると裏手には篠原稲荷神社がありこれもなかなか立派な稲荷である。

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写真の右の道を入っていくと篠原稲荷神社で道は終わる。篠原稲荷神社は元禄10年(1697)に篠原村が立石村から分村した時に出来た村の鎮守。葛飾区の資料ではここに厄除地蔵尊があるとあったので訪問したが小堂もなく、これは隣接の寺院にあるかもと手前の慈眼院を訪問した。

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案の定慈眼院には立派な堂宇があり厄除地蔵尊が祀られていた。尊像脇には「奉造立地蔵供養尊像一躰▢▢▢」とあり、造立年は元禄4年(1691)8月である。昔から厄除地蔵尊として信仰されてきたと伝えられる。

場所  葛飾区四つ木4丁目19-33

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2022年9月20日 (火)

極楽寺の石仏(葛飾区堀切)

真言宗の極楽寺は堀切菖蒲園の東約200mほどの場所にある。創建は宝徳4年(1449)とされ、南葛八十八ヶ所霊場を含めた複数の霊場の札所となっている。ただ訪問時はいささか荒れている感じはあったが、本堂には住職らしき方もおられた。

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織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を滅ぼした永禄3年(1560)8月に大洪水があり、周辺もろとも流失してしまった。それでも再興して現在に至っている古刹である。山門は閉じていたが、右手の重い鉄扉が通用口になっているようで、そこから入って本堂で挨拶をする。

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山門をくぐる前に門前の塩地蔵が堂宇に祀られているのを拝む。おそらくすべて舟型の地蔵菩薩像だろうと思われるが、極楽寺はこの塩地蔵が疣取り地蔵として昔から有名で祈願した人も多いという。左は像形がある程度残っている。中央は舟型は残っているが像形はやや薄れている。右に至っては像全体が解けてしまって小さくなっている。手前には塩の山が積もっていた。どれも造立年等は全く分からない。

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山門の内側には手前から、庚申碑、庚申塔、首塚と並んでいる。左の庚申碑は角柱型で享保10年(1725)11月の紀年が入っている。正面には「奉供養庚申講結衆二世安樂 結衆 九人 祈所」と刻まれている。中央の駒型の庚申塔は享保6年(1721)2月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、二童子、三猿の図柄。堀切村と願主名がある。側面には「奉造立供養庚申講結集二世安樂祈処」と書かれている。右の首塚は正面に大きく「首塚」とあり、これは付近から発見された多数の頭蓋骨を埋葬し、供養の碑を建てたものと言われている。首塚の碑の造立年は昭和2年(1927)8月である。

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その先には舟型光背型の庚申塔と同じく舟型の阿弥陀像が並んでいる。左の庚申塔は天和3年(1683)3月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で尊像はショケラを下げているようだ。刻銘としては「供養庚申一結講衆 現当二世安楽処」とあり、台石には堀切村同行三十一人とある。右の阿弥陀如来像はもう少し古いもので寛文7年(1667)8月の造立。「念仏講結衆本願本田惣衛門同行卅五人法主」と刻まれている。

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その後ろにあるのは珍しい石仏で、地蔵六面幢の上に丸彫の地蔵菩薩が組み合わせてある。造立年は宝暦13年(1763)8月で、地蔵講中の銘がある。六面幢は5面が地蔵菩薩の浮彫で、正面の部分には「地蔵講供養 武州西葛西領堀切村」の銘が刻まれている。境内はいささか荒れた雰囲気だが、見るべきものが多く、本堂前にある石材の脇には「女人橋関係石材一括」の説明板が立っており、説明板によると、橋の袂には竹を四方に囲み幣束を垂らしたものが設けられ、出産で亡くなった妊婦の供養のために沢山の人々が水を掛けて成仏供養したという。江戸時代は出産で亡くなる人が多かったことを再認識する文化財である。なお、この橋は現在の堀切2丁目21-21と堀切1丁目15-6の間に架かっていたようだ。ちょうど銭湯日の出湯の前辺りで、昔は村道の辻で葛西陽水西井堀の支流が流れていた。

場所  葛飾区堀切2丁目25-21

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2022年9月19日 (月)

満願地蔵尊(葛飾区堀切)

京成本線堀切菖蒲園駅の南約100mのところに満願地蔵尊がある。駅名の堀切菖蒲園はこの駅から700mも離れているので誰もが気軽に行けるアクセスではない。しかしそういう場所の方が静かでいいということもある。堀切菖蒲園に比べると満願地蔵尊は駅前立地だが、駅前の川の手通りや商店の並ぶコミュニティ道路ではないので人通りは少ない。

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店舗に賃貸している建物の路地に面して奥行50㎝程の堂宇が作ってあり、そこにお地蔵様が祀られている。造立年は不明。しかし毎日守られてきている様子があり、愛されている地蔵だと分かる。

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おそらく戦災で首が無くなってしまったか何かで、頭は別の簡易的なものを後付けしてある。その顔にマジックで小学生や幼稚園児が描きそうな顔が描かれているので、まじめに見つめると笑ってしまう。ウェブにある2015年の「葛飾経済新聞」には小室恵子さんという方が地蔵守りとして紹介されていた。堂宇の右側側面には「満願地蔵尊 清水純子 (株)杉崎工務店 平成十六年八月吉日」とあるので、地元の皆さんが守っておられるのだろうと推量った。

場所  葛飾区堀切3丁目6-1

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2022年9月18日 (日)

正福寺の石仏(葛飾区東新小岩)

真言宗の寺院である正福寺は相当な古刹である。創建は行基(668~749)で最初は新小岩の照明寺の場所と伝えられる。その後、正福寺は正安3年(1301)に今の東新小岩に移転し、元あった場所には今も続いている照明寺が末寺から残ったという。もっとも行基伝説は数多くて信憑性は極めて低いし、何しろ1300年前とか700年前という話であるから、まともに信じない方がいいかもしれない。

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境内はとても広く、山門から本堂の間に多くの石仏が並んでいる。江戸時代には徳川将軍の鷹狩の際の御膳所にもなっており、門末80ヶ寺を持っていたようだ。当然ながら南葛八十八ヶ所の霊場でもあり第23番になっている。山門をくぐり、本堂にお参りをして右の庫裏方向を見ると、植込みに大きな石仏がある。

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傍に立つ説明板には「千手観音」と書かれているがどう見ても笠付角柱型の庚申塔である。「この千手観音は、今から二百年前、地元有志十名により道祖神として交通安全祈願の為、旧橋戸橋(現東新小岩6丁目24)の袂へ建立されたが、現在の道路事情により正福寺境内地に移築されたものである。」とあるが、千手観音→庚申塔と訳し、道祖神として交通安全祈願の為→塞ノ神として村境に悪いものが入るのを断つようにと訳すとよい。造立年は文化9年(1812)で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄でショケラを下げている。平成半ばここに来る前は東新小岩6丁目25-12にあったが、その前は数十m東の前述の場所に在ったようだ。

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庚申塔の右隣りには見事な舟型光背型の阿弥陀如来像が立っている。実はこれも庚申塔。尊像の右上に「奉造立庚申講供養二世安樂之攸」とある。造立年は寛文6年(1666)9月で、「結衆二十四人」とも刻まれている。

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山門前にはふたつの無縁仏塚があり、山門側の無縁仏の左に立つこの舟型光背型の地蔵菩薩像も素晴らしいもの。台石には蓮花が描かれ、万治元年(1658)10月の造立年がある。尊像右側には「武州葛飾郡上小松村同行廿▢人」とあり、前述の阿弥陀如来と共に江戸時代初期の興味深い石仏である。

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無縁仏塚の頂上に立つ丸彫の地蔵菩薩像も名作である。造立年は元文5年(1740)で月名があるところには「竜集」とある。調べてみると年号の下につける「年」という意味らしい。「下小松村願主 荒月氏彦左衛門、宇兵衛」の銘がある。台石には銘文が刻まれており、地獄の苦しみから人々を救う地蔵の御利益が記されている。

場所  葛飾区東新小岩4丁目8-4

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2022年9月17日 (土)

徳正寺の石仏(葛飾区西新小岩)

天台宗の寺院徳正寺は旧中川が荒川放水路に並ぶ西新小岩の中川水門の傍にある。江戸時代や明治時代の地図を見たが、この辺りは田んぼばかりで寺の記載はない。それもそのはず、かつてはここにはなかった寺院である。

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元々は永正10年(1513)に本所押上に創建された浅草寺末の天台宗寺院だが、関東大震災で被災して当時は奥戸村だったこの土地に昭和初期に移転してきた。昭和になってからのこの地は葛飾区上平井町になっていた。昭和の中頃に西新小岩という住居表示に変わっている。

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本堂の裏には多くの無縁仏があるが、その中のひときわ大きなこの舟型光背型の地蔵尊は寛文4年(1664)8月の造立と古いもので、「念佛供養同行四十九人」と書かれている。本所押上にあった頃のものだろう。

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本堂の庫裏側にまわっても無縁仏は並んでいた。その中のひとつ、上部が欠損している阿弥陀如来像がある。舟型光背型だが光背そのものが欠けてしまっている。刻銘は「奉造立寒念佛供養二世安樂所」とある。上の地蔵とこの阿弥陀は墓石ではないようだ。阿弥陀如来像の造立年は寛文3年(1663)極月(12月)とあり、こちらも押上時代のものだろう。

場所  葛飾区西新小岩3丁目6-6

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2022年9月16日 (金)

享保17年の地蔵(葛飾区東新小岩)

西井堀緑道という通りは既に緑道というよりも立派な生活道路になりバスも走っている地域の主要道になっている。近年南から鹿骨街道が伸びてきて、小松橋北からほぼ道路が繋がっているがまだ供用されていない。この二つの道路が交差する傍に東新小岩六丁目のバス停があり、その前に木造堂宇がある。

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道路がきれいなので以前はどこにあったのだろうかと思った。葛飾区の資料にある住所は隣りの駐車場になっているので、横に少し動かしたのだろうか。しかし堂宇の基礎を見てみると動かした形跡は殆どない。以前は「地福地蔵尊」というのぼりも立っていたらしい。どうも最近バス停も少し向こう側に移動したらしい。

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堂内には舟型光背型の地蔵菩薩像が祀られている。高さは1.5mほど、造立年は享保17年(1732)8月で、「地福院現住 高厳  村講中」と書かれている。傍には小さな銘板があり、説明が書かれていた。「此の地に一寺有り恵見山明王寺地福院と号す。年代不明なるも正福寺末の為正福寺に合併す。(後略)」とあり、平成元年(1989)にこの堂宇を建立して地福地蔵尊と命名し開眼供養したと書かれている。

場所  葛飾区東新小岩6丁目27-7

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2022年9月15日 (木)

元禄4年の地蔵(葛飾区東新小岩)

東新小岩6丁目の住宅街の一角に再開発中の更地があり、その一角に自動販売機と地蔵堂が立っている。ここには2016年頃まで空き家となった家がありその前に堂宇があった。そのうち最近になって左隣の古家も解体され、広い敷地ができたようだ。

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江戸時代この辺りは上平井村の上小松という土地で、少し東側にはかつての西井堀という用水路沿いに出来たきれいな広い道路があり「西井堀緑道」とあるがバスも走る生活幹線である。この地蔵堂の前の路地はその曲がり方からも想像できる通り江戸時代からの道であった。おそらくはかつてあったここの民家が守ってきたものだろう。

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堂宇内には舟型光背型の大きなお地蔵様が祀られている。造立年は元禄4年(1691)霜月(11月)とある。高さは1.5mほどもあり、「施主 桑良橋太良兵衛  法名浄察  奉造立六道能化菩薩像二世安樂攸」と書かれている。桑良橋が苗字なのか、近くにあった橋の名前なのかは分からない。願わくはこのままここに維持していただけると嬉しい。

場所  葛飾区東新小岩6丁目24-3

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2022年9月14日 (水)

上品寺の石仏(葛飾区東新小岩)

JR総武線新小岩駅から北西に延びる都道308号平和橋通りが旧中川を渡る手前に真言宗の上品寺がある。創建年代は不詳ながら享保元年(1716)に伝祐という僧侶が新義真言宗の一寺としたという記録がある。南四国南葛八十八ヶ所霊場の29番とされていた。

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江戸名勝ゑんま大王という看板があるが、山門を入ってすぐ写真に写る大きな閻魔堂があり、かつて江戸十六閻魔のひとつとして信仰されていた。閻魔堂に祀られている閻魔大王像は木造で2m以上ある大きなものであった。

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山門の手前左側に2基の角柱がある。左の太いほうは新四国八十八ヶ所巡拝供養塔で天保14年(1843)4月の造立。第20番霊場と書かれている。右の細い方の角柱には「奉建立鋪石為顕當二世安樂也」とあり、造立年は安永2年(1773)10月の紀年がある。「惣旦方中」とあるが裕福な檀家による寄進だろう。

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本堂の裏手の墓所に回り込むと、普通の寺院の何倍もの大きさの無縁仏群がある。多くの墓石がゆとりをもって並んでいて、暫く一つずつ拝顔した。諸尊はひときわ大きな舟型光背型の地蔵菩薩像で、寛文3年(1663)霜月(11月)の造立、刻銘としては「奉造立地蔵菩薩 無縁講人数 同行廿九人」とある。そのてまえの上部が斜めに切れたのも推定舟型の地蔵菩薩像だが、文字は一切読めない。

場所  葛飾区東新小岩7丁目8-2

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2022年9月13日 (火)

東光寺の石仏(葛飾区西新小岩)

西新小岩にある東光寺は真言宗の寺院で、慶長元年(1596)の創建と伝えられる。江戸時代この辺りは上平井村で、旧中川の湾曲の左岸の地域で、人口もそこそこあったようだ。

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東光寺の山門はかなり老朽化していて壊れそうなので出入りはできない。駐車場から墓地側をまわって境内に入ると、庫裏がありその先に本堂がある。本堂は銅屋根だが私は好きである。しかし本堂よりも実は小さな地蔵堂が有名。

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この地蔵堂だが、中には3体の地蔵があり、周りにいくつもの石仏石塔が並べられている。安政2年(1855)10月2日夜、直下型の大地震が江戸の街を襲った。マグニチュードは6.9程度だが、死者は1万人にも上ったという。東光寺も大地震の被害を受け、地蔵なども被災した。傷ついた石仏を補修したりしなかったりではあるが、堂宇に祀ったのがこの地蔵堂である。

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堂宇の前に左右に阿吽の如く立っている2基の地蔵がある。左側は舟型光背型の座像で、享保12年(1727)9月の造立。「奉懇造地蔵菩薩像傳  上平井村」と記されている。右側の舟型光背型の地蔵立像は舟型の上部が欠損している。造立年は同じく享保12年(1727)9月とされている。安政の大地震で欠損したのだろう。「▢懇造地蔵菩薩講傳  上平井村」と書かれている。

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堂宇の中にあるのは左から舟型の地蔵菩薩像で、享保10年(1725)9月の造立。「葛西上平井村」の銘がある。中央も舟型の地蔵菩薩で、これは子育地蔵。資料によると台石に、この地蔵はその後安政2年冬の大地震で壊れてしまったので再建したとあるようだ。右面には「京橋念仏講 当邑念仏講中 志村中左衛門」とあるらしい。右の丸彫の地蔵尊は情報がないが葛飾区では江戸時代のものとしている。

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左側に回り込むと4基の地蔵菩薩が並んでいる。手前の櫛型角柱型の地蔵には「難病厄除地蔵菩薩」とあり、左面に昭和15年(1940)7月の紀年がある。隣りの小さな地蔵は「十二地蔵  秋山与三郎」とある。左の2基は首がない。どちらも丸彫の地蔵かと思ったら、右側の裾に「妙霊比丘尼」とある。左側の裾には「蓮月尼」とあるので、比丘尼像だったのだろう。どちらも両手が欠損している。

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裏に回り込むと、右端は墓石。二番目が駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が陽刻されている。造立年は寛延3年(1750)12月。右面の紀年とともに「村惣講中」と記されている。その左の角柱は延享4年(1747)11月に造られた道標である。近くの旧道にあったものらしい。右面には「東はん田道  南江戸道」とあり、正面には紀年と「講中12人」とその名前、台石には「武州東葛西上平井村 惣講中」と記されている。

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本堂脇にも2基の道標がある。白い御影石っぽい角柱は正面に「八十八」とあるので、南葛新四国八十八ヶ所巡拝の供養塔を兼ねたもの。後ろの自然石は天保12年(1841)のこれも南葛新四国八十八ヶ所の案内の巡拝供養塔である。これはもともと東光寺の門前にあったようだ。

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本堂前の駒型の石塔には「奉納大乗妙典六十六部供養塔爲二世安樂」とある。これは元文5年(1740)10月に造立されたもので、駒型というのは珍しい。

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その前には宝篋印塔と五輪塔がある。大きな方の宝篋印塔は文化11年(1814)極月(12月)の造立。向こう側の小さい方の宝篋印塔は享保3年(1728)10月の造立、そして五輪塔は寛政7年(1795)4月の造立と刻まれている。どれも安政の大地震を越えてきた石塔である。

場所  葛飾区西新小岩5丁目21-20

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2022年9月12日 (月)

高橋米店の庚申塔(葛飾区西新小岩)

旧中川に架かる上平井橋を東に渡ると2つ目の信号機の交差点の角に高橋米店という看板のお店がある。2015年くらいからシャッターが閉まっていて、2018年5月付のGoogleストリートビューでは老夫婦が玄関前の植木の水やりなどしている姿が映っているが、それ以降はシャッターが閉まったままのようである。

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信号の角を北に曲がった所にも植込みがあり、実はその中に庚申塔が埋もれている。上の写真は高橋米店の東側の壁面で、この庚申塔もご夫婦が守って来られたのだろう。

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駒型の庚申塔で、日月はかすかに痕跡があり、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれているが、二鶏もそれらしき痕跡が見える。造立年は資料によると、宝暦2年(1752)4月とある。昭和の古い街角の商店、植込みに隠れた庚申塔。時代の移ろいの中で必死に生きている、残されている感じが伝わってくる。

場所  葛飾区西新小岩5丁目9-9

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2022年9月11日 (日)

木下川薬師浄光寺の石仏(葛飾区東四つ木)

木下川薬師(きねがわやくし)で有名な浄光寺は天台宗の古刹。創建はなんと嘉祥2年(849)と伝えられる。平安時代初期、藤原氏が皇室を取り込み始め台頭してきた時代である。嘉祥2年に草庵を編んだのは僧広智という人、その弟子が貞観2年(860)に浄光寺として一寺とした。当時全国的に疱瘡が大流行し、とてつもない死者が出たというが、貞観と言えば個人的には1000年に一度と言われる東日本大震災の前回の貞観地震(貞観11年=869年)を想起する。疫病と大震災のダブルパンチだったのだろう。ともかく日本史ではなく地球史レベルの古さである。

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浄光寺は大正時代の荒川掘削により、川床に沈んでしまうため今の場所に移転してきた。江戸時代には徳川将軍家の御膳所となり、大きく発展した。山門には左右に阿像吽像の金剛力士像が配置され栄華を物語る。幕末には勝海舟も度々訪れたという。

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山門をくぐり右手に回り込むと、そこには大きな2基の庚申塔と馬頭観音が立っていた。左の大きい方の駒型庚申塔は元禄14年(1701)9月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、「奉供養庚申爲二世安樂也」と刻まれている。右の庚申塔も同じ偈文で「奉供養庚申爲二世安樂也」とあるが造立年は宝永4年(1707)9月と6年程新しい。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の下に大きく二鶏が描かれている。右端の角柱は明治38年(1905)12月の馬頭観音。正面に「馬頭観世音」そして「大澤氏」の銘がある。

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墓所入口付近にも魅力的な石仏が並んでいる。左端は丸彫の地蔵菩薩像で、正徳元年(1711)10月の造立。首のところが折れた痕跡があるが補修してある。台石に戒名があるが、「上野南大門町 津国屋善兵衛」の銘がある。右隣りは比丘尼像の座像。両手首が欠損している。造立年は元禄14年(1701)9月、千日回向仏とある。

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比丘尼像の隣は珍しい聖観音菩薩像の座像。造立年は享保20年(1735)2月。台石正面には「奉造立供養観音講中二世安樂也」とあり、左には「四国秩父坂東順礼同行講中」とある。右は安永8年(1779)8月造立の比丘尼立像で、正面には全夢童子の戒名と安永3年5月の日付がある。上総屋先祖家内祈祷とあるので、江戸時代のお金持ちによる造立だろうか。

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その右にあるのは舟型光背型の阿弥陀如来像。円頭光があり、螺髪もきれいに造形されている。造立年は元禄4年(1691)6月とある。右の丸彫の立像は比丘尼像。右手が欠損している。古いもので造立年は寛文10年(1670)7月とある。この地域には比丘尼像が多いように思う。比丘尼というと八百比丘尼の人魚の肉を食べたという伝説が思い出されるが、これらの比丘尼は単なる女性の僧の石像である。

場所  葛飾区東四つ木1丁目5-9

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2022年9月10日 (土)

宝暦4年角柱道標(葛飾区東四つ木)

比丘尼像の堂宇のある東四つ木コミュニティ通りから木下川小学校の正門(どうも実質的には裏門っぽい)に向かうと、正門の手前に文房具店小島文昌堂がありその角に大きな角柱型の道標が立っている。どこの小学校の校門付近にも文具店があったものだが、21世紀になってからは次々と廃業閉店していった。ここも例に漏れない。

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道標の前の道は路地だが実は江戸時代からある道である。現在のコミュニティ通りの道筋から分岐した道が南下、ちょうどこの道標の場所で右に曲がり、綾瀬川と旧中川の合流地点に向かっていた。そこには光福寺という寺院があったが今は無い。この辺りは上木下川村で旧中川の右岸の土地だった。

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南西側(綾瀬川方向)が正面らしく、「奉供養諸願成就」とあり、宝暦4年(1754)10月の紀年がある。北西側には「きね川みぎ やくしみち」、北東側は「月山、湯殿山、羽黒山 摂待堂講中」、そして南東側にはびっしりと願主名が彫りこまれている。大畠村、木下村(木下川村か)、渋江村、宝木塚村、下千葉村など近隣の村の寄進があったようだ。すぐ隣村というわけではなく、用水路沿いの村々という関係も考えられる。

場所  葛飾区東四つ木1丁目8-7

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2022年9月 9日 (金)

東四つ木の地蔵堂(葛飾区東四つ木)

荒川放水路の左岸、頭上に延びる首都高速環状線のかつしかハープ橋のカーブが近代建築の美を醸し出しているが、その足元には木造の堂宇が一宇交差点の一角に立っており、複数の時代が同じ空間にあって静と動を感じさせてくれる。写真右の道路は東四つ木コミュニティ通りと現在は呼ばれている道だが、実は江戸時代からある道で、木下川薬師(当初の位置)から立石方面へ農業用水沿いに通っていた街道である。

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堂宇はしっかりしたもので、地図には地蔵堂とある。ところが格子の間から中を覗いてみると中にあるのは地蔵菩薩とは違うもので、よく見ると比丘尼像である。広い堂宇の中にあるが、比丘尼像が1.5mほどもあるのでがらんとした感じではない。

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輪光が舟型の上部にあり、比丘尼像の右には「妙悟禅定尼 浄安禅定門 為逆修菩提也」とある。台石には「講中一同 木下川村」とあり、造立年は寛永11年(1634)7月ととても古いものである。比丘尼像は逆修なので生前に建てられたものだろう。それを木下川村の人々が後に祀って台石に載せたのではないかと思う。別述する木下川薬師にも複数の比丘尼像があったので、この辺りは比丘尼が流行りだったのだろうか。

場所  葛飾区東四つ木3丁目1-16

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2022年9月 8日 (木)

萬福寺の石仏(墨田区東墨田)

真言宗の萬福寺は荒川の土手の傍にある。もともとは現在の荒川の流れの中にあり、おおよそ荒川右岸の少年野球場の前の荒川の流れの辺りにあった。大正時代の荒川掘削により移転を余儀なくされ、北の上木下川村にあった浄光寺は川の東側へ移転したのに対して、南の下木下川村は川の西側に移転した。

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萬福寺の創建は大永7年(1527)と古く、江戸時代には南葛八十八ヶ所の第69番札所、新葛西三十三ヶ所霊場の第9番になっている。本尊は拝顔していないが、行基作の木造の阿弥陀像らしい。この場所に落ち着いたのは大正元年(1912)である。

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参道の中程に多数の石仏が並んでいる。南葛八十八ヶ所札所と新葛西三十三ヶ所の大師像などが屋根の下にあり、手前には右に4基、左に3基の質の高い石仏が並んでいる。一番右の白っぽい角柱は南葛八十八ヶ所の道標で、その隣の角柱は新葛西三十三ヶ所の道標。新葛西の道標には、當村女人講中とある。

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左から二番目の舟型光背型の像は阿弥陀如来像。尊像右に刻まれているのは「當寺本草阿弥陀如来行基菩薩▢▢」という文字で、これはこの石仏が行基作の本尊の身代りであることを意味しているらしい。造立年は元禄3年(1690)9月である。左の板碑型の庚申塔も立派な造りで、陰刻の日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。日月だけは後で取ってつけたような抽象的な文様。「奉供養庚待男女▢▢菩提」とあり、天和2年(1682)9月とかなり古いものである。

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左側の一団は右から光背舟型の立派な如意輪観音像で、寛文12年(1672)初冬の造立。「念佛講供養同行三十一人」とあり、紀年の下には木下川村の銘がある。中央の舟型光背型の地蔵菩薩は寛文2年(1662)8月の造立で、右脇に「奉供養阿弥陀寶子二世安樂處」とあり周辺には願主名が隙間を埋めるように彫りこまれている。左の舟型光背型の地蔵菩薩も寛文2年(1662)8月の同時期の建立で、同じ偈文がある。

場所  墨田区東墨田3丁目12-19

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2022年9月 7日 (水)

やくし道道標(墨田区八広)

京成押上線の南東を並行して走る八広中央通りの旧道と新道の間にやくし道道標がある。やくし道(薬師道)というのはかつてこの近くにあった木下川薬師を指す。ただし、木下川薬師は荒川掘削によって川の中に水没するため、荒川の向こう側にある浄光寺とともに移転した。浄光寺は現在も木下川薬師を配する大きな寺院である。

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道標は尖頭角柱型で、正面には「右 や久しみち」とあり、右面には「左り ゑとみち」とある。やくし=木下川薬師、ゑと=江戸である。造立年等は記されていないが、伝わる情報から享保年間(1716~1735)のものとされている。植込みで見えない側には「大畑村講中」とあるらしい。

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江戸幕府八代将軍徳川吉宗の時、吉宗公が木下川薬師に参詣することになり、その道標として大畑村の村民が要所に道標を建立したものの一基であるとされている。実際は領主が村民に強いて造らせたものであろう。

場所  墨田区八広4丁目12-3

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2022年9月 6日 (火)

八広庚申堂(墨田区八広)

京成押上線が荒川を越える手前の駅が八広駅。現在の住居表示は八広(やひろ)だが、昭和中期以前は吾嬬(あづま)町で、明治時代の地図では大木村とあるが木下村の誤字か。荒川が掘削される以前は現在の荒川の流れの中にあった木下川(きねがわ)薬師はすぐ近くにあった(現在は荒川の東側に移転)。

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ただ、庚申堂の辺りは木下村と上大畑村の村境になっていたのではないかと思われるが、江戸時代の地図では木之下村、大畑村と書かれている。説明板によると江戸時代は大畑村だったとある。そしてこの庚申堂は当時から村持の庚申堂とされており、当時から土地の人々が庚申堂を守ってきたことがうかがいしれる。

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庚申堂の入口脇に櫛型角柱型の馬頭観音がある。右側面に「天下泰平」左側面に「村内安全」とあり、裏面に紀年らしきものが書かれているのだが摩滅していて読めない。おそらくは明治時代か江戸末期のものではないだろうか。庚申堂の右には大師堂があり中には弘法大師の座像が祀られている。これはこの場所が、南葛八十八ヶ所の第54番札所だったからである。

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庚申堂内には左に舟型光背型の地蔵菩薩。造立年は享保5年(1720)9月で、尊像右に「地蔵尊講中 上大畑村」とある。中央は駒型の庚申塔で、造立年は元禄2年(1689)正月。「奉造立青面金剛庚申供養現當安樂所」とあり、紀年下には「大畠村(大畑の誤字か)」と記されている。陰刻の日月、青面金剛像、そして台石に三猿という組み合わせで、11名の願主名が刻まれている。上松姓、幸山姓が見られるが、面白いのは大正15年に作られた上大畑庚申神社としての縁日創立記念の額にはその姓は見られない。人の出入りはあれども村として守ってきたのだろう。

場所  墨田区八広5丁目32

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2022年9月 5日 (月)

六ツ目地蔵尊(江東区亀戸)

亀戸浅間神社の境内にある六ツ目地蔵尊。六ツ目の名前は旧中川に繋がる竪川に架けられた橋に由来する。現在は首都高速の下にある暗渠となった流れで、江戸の重要な水運路となっていた。一之橋、二之橋・・・六之橋という通称で呼ばれた内、六つ目の橋が最も東にあり、この場所だった。江戸の地形は山の手は坂で呼び、下町は橋で呼ぶというのが重要なポイントで、それが如実に残っている土地である。

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堂宇の中には8基の石仏が並んでいる。かつてはここを佐倉道(後の千葉街道)が通り、江戸と下総を結ぶ交通の要衝であった。成田山や鹿島神宮、香取神社へ参詣する旅人で賑わっていたという。第二次世界大戦の時にこの辺りは焼け野原となったが浅間神社周辺はかろうじて戦火を免れた。街のあちこちにあった辻の石仏は戦後、浅間神社に置き去りにされたものもあり、その他もここに集められたという。

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右端にあるのが駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、二鶏、三猿の図柄。造立年は元禄10年(1697)8月である。側面に「奉造立為庚申講二世安樂也」とある。隣りの櫛型角柱型の石塔は法華経供養塔という説明書きがあった。元禄14年(1701)の造立で台石には「老人中」とある。左のおそらくは地蔵座像と思われるものは、説明書きによると「供養塔(破損仏)伝馬頭観音」とある。全く馬頭観音とは思えない。紀年は不詳。

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その並びには舟型光背型の地蔵菩薩が3基並んでいる。右の地蔵菩薩だけが造立年が記されており、天明2年(1782)4月とあった。紀年の下には「講中」と書かれている。中央の地蔵は文字が見当たらない。左の地蔵については、「奉供養地蔵大薩菩」とあり菩薩が上下入れ替わっている。左側には「泰平国家安全」とあるが何の供養なのかは分からない。

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左端の2基は観音である。背の高い方が舟型の聖観音菩薩像で、安永年(1779)12月の造立。右側には「観音講中」とあり、台石には當村中と刻まれている。一番左端は上部が欠損しているがおそらく舟型であろう。主尊は如意輪観音像で、文字はほとんど読み取れない。台石には願主名と思しき痕跡があるがかなり摩滅していて不詳である。

場所  江東区亀戸9丁目15-7

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2022年9月 4日 (日)

小松川神社の石仏(江戸川区小松川)

江戸川区小松川は昔、西小松川村という旧中川左岸の村で、逆井の渡しは江戸から旧中川まで来た道が左岸に渡ってから北西に千葉街道として伸びていた。渡しのすぐ東には小松川神社がある。大正時代に入って荒川の開削が始まると西小松川村と分離し、小松川町となった。元の氏神は荒川の向こうの堂ヶ島の香取神社と下之庭の天祖神社だったが、荒川に阻まれたため、それぞれの分霊を小松川の西光寺境内の稲荷神社に奉安して祀った。

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昭和に入り、昭和11年(1936)に神殿を建立し、東篠崎の水神社を合祀したが、平成になって市街地再開発により現在地に移転した。周辺は近代の変遷がとてもダイナミックな地域である。神社の北側の道はかつて鉄道がとおっていた筋で、城東電気軌道が荒川の右岸の西荒川まで走っていた。

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神社の北東隅には沢山の石仏が並べられている。左から、板碑型の「大日願主…」とある供養塔、駒型の地蔵、舟型地蔵、舟型六地蔵の左3基、庚申塔2基、舟型六地蔵の右3基、舟型のとろけ地蔵、櫛型供養塔3基、角柱型1基と並ぶ。庚申塔以外は造立年等読み取れないものが多い。

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2基の庚申塔の左側は駒型の庚申塔で、宝永4年(1707)正月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、「庚申供養」「江戸通油町 朝田庄次郎」と刻まれている。右の大きい方の駒型庚申塔は、延享元年(1741)9月の造立で、日月、青面金剛像、二童子、四夜叉、邪鬼、三猿と豪華なもの。左側面には「為御供料銭五貫文永代附置之也」「施主 當町中 法印俊▢」、右側面には「庚申供養施主八丁堀和泉屋 ▢右衛門 新町中稲荷山西光寺」とあるが、そうするとこれは西光寺にあったものを連れてきた可能性もありそうだ。

場所  江戸川区小松川3丁目1-2

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2022年9月 3日 (土)

逆井庚申塚(江戸川区平井)

逆井と書いて「さかさい」と読む。千葉県柏市にも同じ読みの逆井という土地がある。東京の逆井は旧中川に架かる逆井橋の地名で、江戸川区と江東区の区境にあたる為、逆井の渡しの石碑が江東区側にあり、説明板の立派なものが江戸川区側にある。元々は西側の亀戸村と東側の逆井村(のちの西小松川村)の間の渡し船で明治時代まで利用されていた。

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逆井庚申塚はその逆井の渡しから500mほど北にある。京葉道路から分岐した逆井庚申塚通りが、庚申塔の前から荒川堤防の小松川グラウンドの前まで微妙にくねりながら続いている。この逆井庚申塚通りは元は西井堀という農業用水で、その川筋を道にしたので曲がった道になっている。

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堂宇の中には庚申塔が祀られているが、残念なことに中程より下、全体の2/3をセメントで補修してある。その為下に書かれていた文字もまるで読めない。仕方なく石川博司氏の資料を参考にした。舟型光背型の庚申塔で、日月、青面金剛像、三猿の図柄(三猿の確認はできなかった)。造立年は元禄5年(1692)らしい。

場所  江戸川区平井2丁目1

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2022年9月 2日 (金)

善通寺の阿弥陀庚申(江戸川区平井)

浄土宗善通寺は荒川の土手の近くにある。周辺には天台宗の最勝寺と日蓮宗の大法寺がある。最勝寺は墨田区の本所にあったが大正2年(1913)年に現地に移転、大法寺は錦糸町近くの太平にあったものが大正12年(1923)に関東大震災で焼失し昭和4年(1929)に現在地に移転した。

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善通寺は千田真太郎宗信が康生年間(1455~1457)に創建したと伝えられる。その後、五分一(江戸川区役所付近)に移転し、さらに慶長元年(1597)に少し南の東小松川に移った。しかし荒川の掘削工事が始まって止む無く現在地に移転したという経緯である。その後戦災で焼失し、現在の本堂は昭和36年(1961)に再建されている。

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本堂の右側から墓所に向かうと、墓所入口の右手に無縁仏塔がある。その頂上にあるのが舟型光背型の阿弥陀如来像庚申塔。造立年は寛文7年(1667)11月と刻まれている。右上には「庚申結衆」とあることから庚申講中によるものと思われる。下部には願主名が記されている。

場所  江戸川区平井1丁目25-38

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2022年9月 1日 (木)

安養寺の石仏(江戸川区平井)

真言宗の安養寺は江戸川区平井6丁目、古くは中平井村の中心であった寺院である。貞享元年(1684)に没した源理法印が開山したと伝えられるので江戸時代初期が始まり。南側の門を入ると左手に平井弁天があり、その先に赤い山門があるが、山門の左側には平井富士の富士塚がある。富士塚の中の洞には弘法大師が祀られているというちょっと不思議な点もあるが、この地域の念仏講は近年江戸川区の登録無形文化財となり息吹いている。

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赤い山門の左が富士塚ならば、右側には無縁仏塔が塚のようになっている。その先には新しい釈迦の涅槃像もあり多彩である。涅槃像の上には有縁仏奉安塚と書かれた大理石の角柱がある。無縁仏塔に並べられた墓石の石仏も多彩で、最上段の無縁仏供養塔の石塔の脇には面白い墓石があった。

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ちょっと見には舟型の観音像かと思うのだが、よく見ると十一面観音像である。造立年は享保9年(1724)正月とあり、最松慈心信士霊位と書かれている。観音もいい顔をしている。

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少し門の方に戻ると、3基の石仏。左手前は「南葛新四国八十八ヶ所第八十一番霊所」とあり、江戸時代後期に流行った地元の八十八ヶ所霊場の石碑である。安養寺は74番、81番、82番となっており、この石碑には「第69番へ六丁、第82番へ二丁半」とある。82番はもしかしたら境外墓地だろうか。後ろの櫛型角柱型の石塔は「奉納大乗妙典六十六部廻国」とあり、明和6年(1769)8月の造立。右の背の高い上部に地蔵座像が陽刻された石塔も、「奉納大乗妙典六十六部供養塔」とあって、こちらの造立年は宝暦13年(1763)4月である。

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更に門近くには舟型光背型の馬頭観音と笠付角柱型の庚申塔がある。馬頭観音はかなり剥離が進んでいるが、造立年は大正4年(1915)7月と新しいもの。やはり近年の石は材が悪いのだろうか。台石には「馬頭観世音」と書かれている。右側の笠付角柱型の庚申塔は、正徳5年(1715)9月の造立で、紀年の脇に同行25人とある。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれており、右面には「奉供養庚講中二世安楽 敬白」と記されている。

場所  江戸川区平井6丁目53-1

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2022年8月31日 (水)

前澤家庚申塔(江戸川区平井)

平井にある安養寺の西に平井天祖香取神社がある。平井には平井白鬚神社、平井諏訪神社、平井天祖神社、平井浅間神社があり、白鬚神社はかつての逆井村の鎮守、浅間神社は富士塚、諏訪神社は旧下平井村の鎮守で、この平井天祖香取神社は旧中平井村の鎮守である。この辺りの神社は多くが室町時代に創建しているから、当時から人が住んでいたことになる。

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天祖神社の先を北に進むと200mほどの辻の民家の角に祠がある。中を覗いてみると庚申塔が祀られていた。この民家は前澤家のお宅らしく、明治時代の地図をみるとここに一軒の民家があり、少し北に行くと旧中川が流れていた。中平井村の比較的中央に位置するので、塞ノ神というわけではなさそうである。

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駒型の庚申塔で、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏が陽刻され、台石には三猿が彫られている。別途三猿と獅子の置物があるがこれはご愛敬。文字はほとんど消えており読み取れない。右下に「・・・二世安楽」というのは読めたが、造立年は分からない。堂宇は立派なもので、「庚申堂」と書かれた扁額も掛っている。

場所  江戸川区平井7丁目31-7

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2022年8月30日 (火)

安養寺境外墓地の石仏(江戸川区平井)

江戸川区平井6丁目と7丁目は旧中川と荒川放水路、そして蔵前橋通りに囲まれた地域で、昭和初期に荒川が開削されてからいささか閉ざされたような地形になったが、元々荒川が掘られた地域を含めて平井村の西の住民の多いエリアだった。現在は賑やかな新小岩駅などは一面田んぼの世界で、人々が住み始めたのは昭和に入って荒川放水路が完成してからである。

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安養寺の南200mほどのところにあるこの墓所は安養寺の境外墓地。シャッターの左から出入りできるが、墓所には沢山の石仏がありほとんどすべてが墓石だが、それらを見るだけでも価値があるほど古いものが多い。ガレージの奥、壁面の地蔵堂宇の脇にある如意輪観音像は元禄12年(1699)正月の紀年がある。庚申地蔵堂の前にある舟型の地蔵は享保4年(1719)5月。江戸中期のものが多い。

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入口脇の堂宇にあるのは大きな舟型光背型の地蔵菩薩立像。造立年は寛文7年(1667)8月とあり、右上には「奉地蔵菩薩開眼供養結衆」、左には「逆修菩提為庚申人数七人」と書かれている。したがって庚申講中による地蔵菩薩である。

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ガレージ奥の建物の堂宇には高さが2.2mもある丸彫の地蔵菩薩像がある。通常地蔵にはあまり文字が書かれていないことが多いが、この背の高い地蔵は前面の胸からお腹にかけて文字が沢山彫られている。「奉成立念佛講為結衆男女八十人 逆修菩提也」と読めた。そして紀年を見ると、寛文7年(1667)8月とある。これは前述の庚申地蔵と同じ時期である。二つの地蔵が造立され、一つは庚申講中が、もう一つは念仏講中が建てたということだろうか。

場所  江戸川区平井6丁目51-24

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2022年8月29日 (月)

東漸寺の石仏(墨田区立花)

立花白髭神社の別当寺である天台宗の東禅寺は文安4年(1444)の創建。寛永年間(1624~1644)に中興した。昔は北東の裏手に東昌寺という寺があったがその寺を合併したという。但し古い地図を見ても出てこないので、いつの時代かは分からない。

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山門を入るとすぐ左手に本堂があるが、正面にある古めかしくも立派な和風建築は大正時代に建築された庫裏(くり=僧侶の住まいや事務所になっている建物)が魅力的である。

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本堂と山門の間には六地蔵があり中央には阿弥陀如来像がある。地蔵は丸彫だが、阿弥陀如来は舟型光背型。ひとつの台石の上に載っており、おそらく同じ時期、元文元年(1736)に造立されたものと思われる。

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山門を右に曲がった所には宝暦13年(1763)11月造立の舟型光背型の庚申塔が立っている。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が陽刻されており、向かって左側面には「左 やくし道」とありその下に願主名が多数刻まれている。右側面には造立年月日と「右 市川道」という文字が読める。

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庚申塔の先には無縁仏塔があり、中央には大きな地蔵座像がある。安永9年(1780)5月の造立で、台石には「法華読誦塔」と書かれている。その左手前には小型の宝篋印塔があるが、代々の先祖供養のようで複数の年月が刻まれていた。無縁仏塔の左の植込みには前後2基の角柱型の石塔がある。これは板坂如春(朴斎)という江戸時代の有名な医者の供養塔で、当人は明暦元年(1655)に78才で亡くなっているのだが、この2基の石塔は延宝8年(1680)仲冬の紀年が刻まれている。板坂卜斎如春墓碑ということで墨田区の登録文化財になっている。

場所  墨田区立花6丁目17-4

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2022年8月28日 (日)

立花白髭神社の庚申塔(墨田区立花)

墨田区立花は旧中川の右岸で、昔は葛西川と呼ばれた地域。江戸時代は葛西川村で白髭社(白髭神社)は村の鎮守であった。創建は天和2年(1682)でその頃から民家が周辺に集まっていたようだ。当時庄屋であった鹿倉吉兵衛と関口一郎治が幕府に対して申請して中川のほとりに勧請したのが始まりとされる。

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本殿は大正12年(1923)の造営で100年が経つが、手前の拝殿は昭和46年(1971)に再建されたものらしい。本殿の左手に屋根付きのガレージ風になったところがあり、祠や庚申塔が祀られている。

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庚申塔は駒型で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄。邪鬼と三猿は戦災で傷んだものだろうか摩滅が進んでいてかろうじて分る程度。右側に「庚申供養二世安楽攸」とあり、左には「講中十▢」とあるがその下は読めない。造立年は元禄4年(1691)2月と刻まれているが、中間の台石にも文字があり「(寛)延4年(1751)正月、念仏講中 25人」とある。おそらく庚申塔と台石は別物の組み合わせだろう。

場所  墨田区立花6丁目19-17

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2022年8月27日 (土)

北向地蔵尊の石仏(墨田区立花)

旧中川平井橋から北西へ150mほど進み、東漸寺や白髭神社に向かう路地に曲がった所に小さなお堂がある。北向地蔵尊と地元では呼ばれていて、文字通り地蔵堂は北向に立っている。

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四国八十八ヶ所霊場に因んでこの土地で作られた「新四国南葛八十八ヶ所霊場」の八十五番札所であったともいわれ、堂内には地蔵立像のほか塩地蔵も安置されている。またこの地蔵堂の場所は中川から引き上げられた多くの水死者が葬られた場所といわれている。

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堂内にはいくつもの石仏が祀られているが、中央右の一番大きいのが北向地蔵尊と呼ばれる主尊かと思われる。その左にある下半分が大きく溶解したのがおそらくは塩地蔵であろう。どちらも文字はまったく読み取れず、紀年等は不明である。塩地蔵はあちこちにあるが、概ね石が解けてこのようになっているものが多い。

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地蔵堂の右奥には角柱型の無縁塔と板碑型の供養塔がある。無縁塔は昭和9年(1934)6月のもので、小山家の施主名などが入っている。右の板碑型供養塔は中央に梵字らしき文字があり、「▢▢▢念佛」とあり願主名が7人銘刻まれている。下部には蓮の華葉が描かれ、造立年は承応3年(1654)2月と古いものである。

場所  墨田区立花6丁目10-1

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2022年8月26日 (金)

諏訪神社と観音道標(江戸川区平井)

平井駅から北西に行くと間もなく旧中川に至る。川岸には葦が生繁っており、その切れ目では地元の少年たちや家族が釣り糸を垂れていて、とても長閑な気持ちになれる風景を味わうことができる。かつて旧中川の平井橋のところには平井の渡しがあった。平井の渡しを越えると小村井村、押上村などを経て本所吾妻橋に行けた。

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平井橋の手前にある諏訪神社は、享保年間(1716~1733)に隣の燈明寺の僧侶が故郷信州の諏訪大社から分祀して創建したと伝えられる。燈明寺は大きな寺院で、現在の本堂他もまるで巨刹のようにそびえている。現在の諏訪神社の本殿は昭和44年(1969)の築造だが、天保15年(1844)築造の前の本殿が右手奥の稲荷神社として残っている。

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境内には高さは1.5mと低いが平井富士という富士塚がある。旧平井村の丸富講によって大正9年(1920)頃に築山されたという。神社の説明板で驚いたのは、稲荷神社になっている旧本殿だけではなく、当時の拝殿は松江の赤稲荷神社の社殿として移築されたということ。ひとつの神社の神様が住する本殿とそれに向けて拝むための拝殿が別々の稲荷神社として残されているのは驚きであった。

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本殿向かって左手の富士塚の傍には第二鳥居があるが、その脇の路地を進んで社務所の裏口のような場所まで進むと、そこに小さな堂宇があった。「下平井の観世音菩薩浅草道石造道標」と名付けられたこの石仏は、享保19年(1734)の造立で、主尊は聖観音、「秩父▢▢▢あさくさ道」「是より佐(左の意味)ぎゃうとく道」と記され道標の役割を果たしていた。元々の位置は神社向かいの保育園の門扉あたりだったらしく、燈明寺~諏訪神社を経てこの路地を通る道筋が、昔は平井の渡しへのルートだったというから、裏に追いやられたのではなく、昔の道筋に置かれたというのが正しいだろう。

場所  江戸川区平井6丁目17-36

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2022年8月25日 (木)

平井駅前の庚申堂(江戸川区平井)

JR総武線平井駅の近く、鉄道脇のマンション「ベルハイツ」の1階の一部が堂宇になっている。マンションの建物の一部が堂宇と言うのはとても珍しい。記憶を辿ってみるがこのように建物の一部が堂宇というのは思い浮かばない。

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上の写真の左側は総武線の高架である。この辺りは昔は下平井村であった地域で、平井駅は明治32年(1899)に掃部鉄道の駅として開業し、すぐに国有鉄道となった。当時の平井駅は今の駅の場所ではなく、この庚申堂よりもさらに先のゆりのき通りのガードあたりにホームがあったようだが、当時線路脇はすべて水田だったので、少なくとも時代の分かっている堂前の道標はここではなく、他の場所だったようだがその場所は耕地整理が進む中で分からなくなった。

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堂宇の左には自然石の歌碑のようなものがあるが文字がはっきりしない。右隅にあるのは江戸川区の登録文化財にもなっている「庚申堂の浅草道石造道標」。安永8年(1779)6月の造立で、正面には「左あさくさ道」、右面は読めないが資料によるとそこに紀年があり、左面には「行徳市川道、小松新宿道」と刻まれている。

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格子の間から堂内を覗いてみると、庚申塔が2基祀られていた。どちらも古いものではなさそうである。右の角柱型庚申塔は正面に「庚申塚」と刻まれている。他には何も文字が見当たらない。左の自然石の庚申塔には大きく「庚申」とあり、その文字に関して両側に「柴又帝釈天題経寺 第18世日翔書」とあることから、昭和40年代~昭和50年代のもののようだ。したがって、マンションの建て主が昭和になって建築した時に、信仰していた柴又帝釈天への帰依をした可能性も想像できる。

場所  江戸川区平井5丁目24-10

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2022年8月24日 (水)

松江ひかり幼稚園の石仏(江戸川区西一之江)

西一之江にある松江ひかり幼稚園は隣接する浄土宗法養寺による経営である。その為か幼稚園の前に敷地を少しだけ凹ませて2基の石仏が祀られている。ただ、ゼニゴケの状態や汚れの状態から園児たちに親しまれているというわけではなさそうである。

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寺院や教会が幼稚園を経営するケースは割と多い。私も60年近く昔、寺院附属の幼稚園に1年だけ通った。地域と寺院のつながりが深くなるのでいいことだと思う。園庭前の石仏は大日如来像と地蔵菩薩像である。

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左の舟型の石仏が大日如来坐像で、ゼニゴケや苔生した台石には「庚申講中」と書かれている。石仏本体が庚申塔かどうかは分からない。というのも大日如来の前面にも側面にも文字が見られないからである。一方、右の舟型光背型の地蔵菩薩は尊像脇に文字が刻まれている。しかし摩滅が進んでいて読み取れない。左側には▢▢石▢▢箇所、右側にも何か書かれているが不詳である。できればきれいにして園児たちに親しんでもらいたいものである。

場所  江戸川区西一之江3丁目33-1

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2022年8月23日 (火)

円福寺の石仏(江戸川区西一之江)

西一之江にある円福寺は真言宗の寺院で、大永2年(1522)の創建。江戸時代の天和3年(1683)に大杉にあった東福寺を合併したとされる。大永2年の創建以前から草庵はあったようで、その始まりは不明。

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山門の左側には六地蔵が祀られている。「みちびき地蔵」と名付けられ六地蔵の好サンプルになっている。六道というのは、仏教の輪廻思想で、天道、人間道、(阿)修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の6つをいう。六文銭を棺桶に入れる風習もここから来ているという。

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このみちびき地蔵の下には詳しい説明もあり、「人が死を迎えると、罪を償う地獄道、困った人を見捨てた罪としての餓鬼道、動物として生まれ変わる畜生道、常に戦いを強いられる修羅道、煩悩を抱える人間道、天人であるがための悩みを持つ天道、の6つのいずれかに生まれ変わるとされている。」とある。そのすべての世界にやってきて人を救うのが地蔵菩薩というのが仏教の考え方になっている。

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山門の右側には地蔵菩薩が3基並んで祀られている。中央の舟型光背型の地蔵菩薩像は元禄7年(1694)6月の造立で、法界▢▢とあるが文字が分からない。左右の丸彫の地蔵菩薩像はどちらも紀年は不詳。右の地蔵は足元が欠損したのか補修の跡が大きく、基壇もとろけたようになっている。

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本堂手前にある無縁仏塔の裏手に回り込むと多くの古い墓石の中に駒型の庚申塔が1基混じっている。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、青面金剛像は左手にショケラを下げている。造立年は明和2年(1765)11月と右側面に大きく彫られている。

場所  江戸川区西一之江3丁目28-13

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2022年8月22日 (月)

白山神社の観音堂(江戸川区松江)

江戸川区松江にある松江白山神社は、旧西一之江村の旧家矢作氏の祖先が加賀の白山神社の分霊を祀ったのが始まりと言われている。小さな神社で元は白山権現と呼んだ。昔は境内も広かったようだが、今はこじんまりとした神社である。

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社殿も小さいが昭和36年に鉄筋コンクリート造りで再建されたという。この周辺は昔から民家があった場所で、小さな集落の中心の神社だったのだろう。明治時代の地図には「原」という小字が見られる。城東電気軌道が開通してからも原の地名は続いていたようだが、明治30年の数字で22戸あったとある。大字としては「志茂の庭」があったようだが、その中に原、貞明、京塚、横町の集落があり、米、梨、葡萄などを栽培していたようだ。

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白山神社の脇にその頃から守られて来たであろう石仏が堂宇に祀られている。左は上部が欠損しているが観音像でおそらくは聖観音だろうと思う。手には石ではない蓮を持っていたのではないかと思われる造作。もしかしたら蓮だけは本物を取り換えていたとか想像してしまう。右の駒型庚申塔は文化5年(1808)7月の造立で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻され、青面金剛の左手にはショケラが下がっている。台石にはかつての小字を標した「原講中」という文字がある。ちなみにこの観音堂の再建は昭和58年で、矢作氏の子孫と思われる矢作勝儀氏の名前がある。

場所  江戸川区松江4丁目15-19

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2022年8月21日 (日)

泉福寺の庚申塔(江戸川区東小松川)

真言宗の泉福寺は鎌倉時代後期の創建とされる。徳治3年(1308)の板碑が保存されているということなので、1333年の鎌倉幕府滅亡の前の不景気な時代の創建である。永仁の徳政令(1297)の後で御家人の借金を棒引きにしないと国が収まらないような世情だっただろう。この時代の東京城東エリアは守護千葉氏の支配。別説では16世紀の開山という説もある。

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本堂は鉄筋コンクリート造りに再建されており、昭和45年(1970)築。その前の本堂は昭和20年3月の東京大空襲で焼失しているので25年間再建に掛かっている。戦災で焼失した寺院の再建は10年以上は普通に掛かっているが泉福寺は時間を要した方だと思われる。

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境内の一画にひっそりと舟型光背型の庚申塔が立っている。ゼニゴケがついていて、摩滅もかなり進んでいるが、日月、青面金剛像は確認できる。庚申塔研究者である石川博司氏の情報では邪鬼、二鶏、三猿もあるらしいが、今は確認することができない。文字がまったく判別できないので造立年も不詳である。

場所  江戸川区東小松川2丁目7-17

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2022年8月20日 (土)

源法寺の石仏(江戸川区東小松川)

浄土宗の源法寺は天正元年(1573)の開山と伝えられる。寛政9年(1797)の火災で堂宇や古文書を失った為、その後防火用に彫りをめぐらしたので掘まき寺と呼ばれた。戦前の地図にはきれいに寺の周りを堀が巻いているのが描かれている。西を流れていた境川と東を流れていた前堰川の間を繋ぐようにあった用水路を利用したようだ。船堀街道の東200mほどのところを曲がりくねりながら南北に通る道筋がかつての前堰川である。

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大きく立派な本堂が圧巻だが、この本堂は昭和38年(1963)の再建である。その前の本堂は昭和10年(1935)に再建されたが戦災で焼失している。本堂の右手には墓所が広がっている。

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墓所の入口に立派な堂宇に祀られた見事な舟型光背型の地蔵菩薩立像があった。光背に多くの文字が書かれているが、摩滅が進んでいて文字を読むことは叶わなかった。

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本堂前を左に山門近くまで戻ると享保8年(1723)4月の宝篋印塔を囲むように石仏が並んでいる。その中の左端にあったのが、この珍しい舟型光背型の庚申塔である。造立年は寛文3年(1663)10月で、青面金剛像が妙に小さい。その他は下部に三猿が陽刻されているだけだが、存在感のある庚申塔である。右には「奉造立石像人」とあり、上部には「現世無比楽 庚申仰信者 後生清浄土」とある。青面金剛と三猿の間には10名ほどの願主名が刻まれている。

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庚申塔の少し右にあったのがこの写真の雷神造。上もしたもどうも雷神のようである。文字はほとんど見られない。雷神像は知名度の割にはめったに見られない。上も下もユニークなプロポーションと雰囲気を持っている。裏側にも雷神が二体彫りこまれている珍しいものである。

場所 江戸川区東小松川2丁目16-19

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2022年8月19日 (金)

中之庭地蔵堂(江戸川区東小松川)

中之庭という地名は江戸川区東小松川では一部に知られた地名だが、住所としてよりも大正14年から戦後にかけてあった城東電気軌道江戸川線の中之庭駅があったためであろう。城東電気軌道江戸川線の路線跡は今井街道の南側に並行している道で、今井の手前まで辿ることができる。

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なかなか立派な地蔵堂であるが祀られているのは地蔵菩薩像1体。よく見ると舟型光背型の地蔵の左肩の上の方に「庚申供養」と書かれており、庚申講中によるものだろうと推測された。造立年などは分からない。地蔵堂は延命地蔵菩薩と謳っている。

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説明板に経緯があり、「天保9年(1838)に当地の太田家のご先祖様が霊夢を見て、現在の境川親水公園の川床を探したところ、この地蔵菩薩像が出現したという。台座の銘文によると、太田清右衛門、太田勝太郎、保土田弥左衛門、野間伝兵衛の4名を中心とした村人の講中によって手厚く信仰された。」とある。昭和55年まで百万遍講中の信仰が厚く、それ以前の昭和8年には雨ざらしだった地蔵をお堂を建之して迎えたという。

場所  江戸川区東小松川2丁目12-18

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2022年8月18日 (木)

赤稲荷神社の庚申塔(江戸川区松江)

江戸川区松江にある赤稲荷神社の創建は不詳。首都高速の用地買収で窮屈になってしまったが、昔はもっと広い境内だったという。赤い社殿から赤稲荷と呼ばれているが、各地に赤稲荷と呼ばれる稲荷神社は時々見かける。もともと稲荷神社のイメージカラーは赤だが、屋敷稲荷などになるとそうでないものが多い。

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赤稲荷神社の鳥居と社殿を見上げるとその向こうに首都高速小松川線の高架が圧迫するように覆っている。稲荷神社の境内が周辺に対して1m余り高いのは盛土されたのだろうか。

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フェンスに寄せるように立っている駒型の庚申塔は正徳3年(1713)9月の造立。日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄で野ざらしにしては保存状態は極めて良い。

場所  江戸川区松江1丁目1-7

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2022年8月17日 (水)

東善寺の石仏(江戸川区松江)

江戸川区松江にある東善寺は真言宗の寺院で創建は戦国時代の1500年代とされる。現在の本堂は鉄筋コンクリート造りで昭和45年に建てられたもので、山門(門扉)などもモダンな造りになっている。この辺りは昔は東小松川村の中でも新道と呼ばれた場所で、千葉街道からまっすぐに江戸川の今井に新道(今井街道)が通っていた。

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ちなみに前述の今井街道沿いに1925年に鉄道が敷設された。東荒川駅~中之庭~松江駅~一之江駅~瑞江駅~今井駅という路線で、城東電気軌道という路線。しかしうまくいかず1942年には東京市電の一部に組み込まれ、鉄道はトロリーバスになり、1968年にはそれも廃止になった。

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境内に入ると本堂前から左に進んだところに、庚申塔が3基並んでいる。右の駒型の庚申塔は天明5年(1785)の造立で月は欠損していて読めない。日月、青面金剛像、邪鬼で三猿は見えないが、基壇には家内安全と大きく書かれている。右側面の紀年に対して左側面には道標らしき文字があるが「江八こう中」と読める。こう中は講中であろう。江八はわからない。中央の大きな駒型庚申塔は天保12年(1841)7月の造立で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿(台座)の図柄でショケラを下げている。左の駒型庚申塔は紀年が見られない。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、かなり摩滅が進んでいる。基壇の文字だが申申申と3つ並んでいるように読めて謎である。

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墓所入口にはこの舟型光背型のとろけ気味の地蔵菩薩像があった。光背部に文字が刻まれていたようだが、摩滅していてほとんど読み取れない。近くには享和2年(1802)2月造立の宝篋印塔もあったが、そちらはどうも一個人(一家)で建てたもののようで、江戸時代末期の豪農だったのだろうか。

場所  江戸川区松江1丁目4-4

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