2020年9月19日 (土)

柏木神社稲荷大明神石祠(北区神谷)

江戸時代の神谷村は小さな村だったが、荒川(現在の隅田川)の流域で田畑が広がっていた。明治に入って合併で岩渕町となり、終戦後王子区から北区となった。現在の環状七号線の北側、北本通りと京浜東北線の間が神谷という地域である。その神谷村の鎮守として元享年間(1321~1324)に創建したのが柏木神社である。かつては広い境内を有していたが、周辺に軍需工場が出来て土地を奪われ、現在の地に収まった。

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柏木神社の境内に稲荷宮がある。小さな石祠なのに大きな鳥居がアンバランスだが、この石祠が実は庚申講によるものというとても珍しいケースなのである。石祠の建立年は享保3年(1718)12月。笠(屋根)に「太」と彫られているのは何の意味なのか分からない。

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石祠の正面には「稲荷大神」と彫られ、左面には造立年と「右志者村中施主 〇〇」とある。右面には「武州神谷村」の銘があり、「奉供養庚申講中 諸願成就」の文字が見られる。江戸時代中期は村中が庚申講中で盛り上がっていたのだろう。庚申塔だけでなく、この年代にはこういう石祠や手水鉢、まれに狛犬にまで庚申講と彫られていることがある。

場所   北区神谷3丁目55-5

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2020年9月18日 (金)

八雲神社庚申塔(北区中十条)

環状七号線と旧岩槻街道(日光御成道)の交差点にあるのが八雲神社。この東側の環七の緩やかな坂は馬坂と呼ばれるが、江戸時代は大川(隅田川)の河岸段丘の崖線で階段並みの急坂だった。馬坂のところでも触れたがこの八雲神社は小さい神社で見落としがちだが、昔は環七がないので日光御成道のランドマークだったのだろう。

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十条八雲神社の創建は寛政8年(1796)と伝えられる。かつて境内には樹齢三百年を超える大杉があり、天王の一本杉と呼ばれたというが、これも含めて日光御成道の目印だと言えるだろう。八雲神社となったのは八雲講が管理しているためで、元々は牛頭天王社だったようだ。もっともどちらも京都の八坂神社系列らしい。

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境内にあるのが駒型の庚申塔で、「庚申塔」という大きな文字、台石に三猿という図柄である。造立年は天明4年(1784)11月で、「武刕十条村講中」の銘がある。また道標も兼ねているようで、「是より左りいたばし道」とある。江戸時代は神社の東側は崖線を下る馬坂、西側には板橋への街道があり、姥ヶ橋から北西に向かい蓮沼で中山道へ繋がっていた。

場所  北区中十条3丁目33-12

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2020年9月17日 (木)

日枝神社庚申塔(北区十条仲原)

環状七号線がJR埼京線を渡る橋は親柱に富士見橋とある。しかし周辺には富士見と呼べそうな場所はない。そもそも埼京線はほぼ南北に走っているので、西にある富士山が見えるはずもない。ただ橋の少し東に富士見ビルというビルもある。また環七の北側には富士見診療所という内科小児科の病院もある。そして、日枝神社のすぐ西側で環七にぶつかる南から続く商店街が十条富士見銀座商店街ということが分かった。東十条駅の近くには富士講の富士もあるので、まあ昔は見えたのかもしれない。

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日枝神社は小さな神社で本殿は庚申塔の堂宇と大きさがあまり変わらないほどこじんまりとしている。庚申塔は本堂に向かって右手にある堂宇にあり、板碑型ではあるが、ほぼ駒型っぽく、日月、青面金剛像、二鶏、一猿の図柄。高さは124㎝もあり比較的大きな駒型庚申塔。造立年は延宝4年(1676)2月で古いものである。

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青面金剛の右側には「奉納庚申待供養二世安樂所」とあり、左側には年紀と「武刕豊嶋郡十条村」の銘が彫られている。近年も庚申の祭りは継続されており、「仲原庚申」というらしい。いったん途切れていた庚申講が近年復活し、庚申講では年6回庚申様のお祭りを開催している。神社の境内にあることで、庚申講が継続している例と言えるだろう。

場所  北区十条仲原2丁目6-5

 

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2020年9月16日 (水)

聖観音堂の石仏(北区上十条)

埼京線十条駅から西へ、環状七号線の姥ヶ橋との間にあるのが雪峰院長泉寺。その門前にあるのが聖観音堂という赤い門構えの小堂である。堂宇の中に何が祀られているのかは、門から中へは入れないので分からない。小堂の手前、左側に石仏が並んでいる。

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手前側は駒型の庚申塔で、高さが135㎝もある大きなもの。上部に日月、青面金剛像、その下に二鶏と三猿が彫られている。造立年は延宝5年(1677)12月、江戸時代初期のものである。青面金剛像の右には「奉造立青面金剛尊像一躰二世安樂処」と書かれている。平成8年(1996)発刊の北区の資料を見ると頂部の欠損がないので、それ以降最近壊れたものである。

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その隣の丸彫石仏は白衣観音立像。奥の舟型の石仏は大日如来像であろう。造立年は天和3年(1683)3月とある。いつも門扉がきっちり閉鎖されているのは、庚申塔の頭頂部を破損させたいたずらがあってその結果ではないかと思ってしまう。昭和、平成、令和と時代は移り変わるが、神仏に危害を加えるものは必ず報いを受けると信じるべきだろう。おどろおどろしいものではなく、人の生きざまとして問われる一線という意味である。

場所  北区上十条3丁目25-2

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2020年9月15日 (火)

十条民家門脇の庚申塔(北区上十条)

JR埼京線十条駅から西へ約200mほど、場所を知らなければ到達不可能なところである。しかしあくまでも民家なので、静かに見て通り過ぎるのがいちばん。このお宅は高木家、その門前に一基の庚申塔がある。

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植木鉢の植物に覆われていて、近所の人も気づかないかもしれないが、植木鉢の後方に立派な庚申塔が立っているのである。角柱型だが、もしかしたら元は笠付角柱型だったのかもしれない。門とブロック塀の角に置かれているので二面しか確認できなかった。正面上部には日月、その下に「庚申塔」の文字。

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そのさらに下には、「上十条村前新田 講中」とある。江戸時代末期この辺りは十条村だった。十条駅前の十条銀座周辺の小字が前新田、その西側が新堀、北が仲原町で、上十条村前新田となるとまさに地元である。横面には「東 王うじみち」とあるが、造立年は分からなかった。似たような角柱型文字塔で比較的近場のものは、東十条駅前にある寛政3年(1791)のものと十条駅近くにある天保15年(1844)のものがあるので、それと同じくらいの年代だろうと推測される。

場所  北区上十条2丁目22-3

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2020年9月14日 (月)

としまえん前の馬頭観音(練馬区練馬)

2020年8月31日で閉園となったとしまえん(豊島園)。94年前に開業した遊園地だが、場所は練馬区なのに何故豊島園という基礎的な疑問を持つ人も多い。もともとこの地は室町時代に築かれた練馬城という館城の跡地である。この地を治めていたのが豊嶋氏で、東京の半分は江戸時代から明治にかけても豊嶋郡だったほどである。また練馬区はもともと板橋区の一部だったが、戦後ようやく練馬区が誕生したくらい新しい。

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その豊島園のゲートの北側には現在も豊島園庭の湯というスーパー銭湯がある。その前の細路地に二基の馬頭観音が立っている。手前の切り株は長い事ここに生えていた銀杏の樹の切り株。いつ伐採されたのか分からない。去年はあったはずである。切り株のすぐ傍にある三角形の自然石の馬頭観音塔は明治43年(1910)6月の造立。施主名は鈴木芳太郎とある。

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もうひとつは角柱型の馬頭観音。こちらは昭和2年(1927)のもので、施主は大野太右衛門とある。この昭和2年(1927)という年にとしまえんは開業した。自然石の馬頭観音の横にとしまえんと同時に立てられた馬頭観音はとしまえんの閉園を見送ることになったのである。

場所  練馬区練馬4丁目19-7

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2020年9月13日 (日)

護国寺の石仏(2) (文京区大塚)

護国寺の石仏の多くが集まっているのが、太子堂の周辺。太子堂は元禄14年(1701)に再建された薬師堂を大正末期から昭和初期に大改修してこの場所に移し太子堂としたもの。この太子堂の周りには地蔵と庚申塔が建ち並んでいる。

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まずひときわ背の高い光背付きの丸彫地蔵尊、これは身代り地蔵である。時代は新しいもので昭和戦後の造立。第二次大戦の戦犯は現在のサンシャイン60のある場所にあった巣鴨プリズン(巣鴨監獄)に囚われ、千名余りが戦犯として死刑になった。その霊を弔う目的で護国寺が造立したものである。

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もうひとつの地蔵尊は堂宇に納まっている一言地蔵。これがなかなか面白い。小松未歩の『願い事一つだけ』ではないが、一つだけ願いを叶えてくれるという地蔵尊である。堂宇の内壁には、「お地蔵さんは寒がりです。足元だけに水を掛けてください 。」と書いてあった。素敵なお願いの方法である。

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地蔵の後ろの斜面に並んでいる庚申塔だが、まずは正徳2年(1712)9月造立の舟型光背型の庚申塔。面に対して大きな青面金剛像の上には日月、下には三猿が彫られており、「諸願成就」と刻まれている。

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次はシンプルな駒型の庚申塔。上部に日月、中央に種子(ウーン)が彫られ、下部に三猿が見られる。造立は延宝8年(1680)5月と比較的古いもの。昔は5基の庚申塔がまとめて並べられていたらしいが、現在は太子堂と鐘楼の間の斜面の植込みに点在している。

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その先には角柱型の庚申塔がある。形から推測すると、元は笠付だった可能性が高い。最上部には日月、その下に種子(ボローン)と「庚申」の文字。その下には小さめの文字で「講中」とある。造立は延享3年(1746)1月。台石には、資料によると、小石川大塚町、牛込などの地名があるようだ。

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分かりにくい場所にあったのが、上の庚申塔。角柱型で上部が丸みを帯びている。前面には日月と種子(ボローン)、「奉供養」「庚申塔」「諸願成就所」の文字があり、下部に二鶏と三猿がある。右面には「小石川御箪笥講中 敬白」とあるらしく、造立年は正徳6年(1716)5月。

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最後はとても彫りの見事な変わった形をしている。造立年は元禄2年(1689)3月。上部に日月、そして青面金剛像、その下に邪鬼、最下部に三猿が彫られているが、どれも極めて質が高い。左右面には一鶏がそれぞれある。護国寺の庚申塔はどれも個性的で、当時の江戸の人々の洒落っ気が出ているように思う。江戸時代の中でももっとも華やかで景気の良い時代のもので、少しアートに近づいている感じがする。

場所  文京区大塚5丁目40-1

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2020年9月12日 (土)

護国寺の石仏(1) (文京区大塚)

都内有数の寺院のひとつ護国寺、徳川五代綱吉が生母桂昌院の発願で開山した大型の寺院。江戸川橋から続くまっすぐな音羽通りは護国寺の参道である。交番脇から大きな仁王門をくぐる。護国寺の伽藍への入口は元禄10年(1697)の建立。表側左右に金剛力士像、右側が阿形(あぎょう)、左側が吽形(うんぎょう)。裏側には二天像という仏法を守る仏像が置かれている。

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真っ直ぐ進むと石段がある。これも河岸段丘。現在の道路と同じ筋に東から流れてくる音羽川、西から流れてくる弦巻川、この二つの河川の又にできた台地への上りである。実はこの階段を上る前に、右手にある音羽富士に登ると楽しい。東京に百を超える富士講富士の中でもよく保存されているもののひとつ。

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この石橋の向こうに音羽富士がある。橋はこっちと向こうを繋ぐもの、見方を変えるとこの世とあの世を繋いでいるとも考えられてきた。坂もそうであり、坂の上と坂の下は別世界と捉えられる。この橋の手前にある冨士道と書かれた自然石の裏に「庚申」の文字を見つけた。

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しかしおそらくは巣鴨の庚申塚のことである。その下に半分埋まっているのは「若者」という文字、その下を含めると「若者衆」ではないだろうか。音羽富士の高さは6mほどしかないが、沢山の石塔石仏が建てられていて、それを見ながら上っていくと結構な高さに達する。富士登山を楽しんで石段に戻る。

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その石段下に摩滅してボロボロになった庚申塔がある。角柱型で、正面には「庚申供養塔」、右面に「左江戸道」、裏面には「右いわつき道」とある。造立年は摩滅していて読み切れない。▢▢元年5月とあるが、元年で該当するのは、寛永元年(1624)、慶安元年(1648)、貞享元年(1684)、延享元年(1744)、文化元年(1804)、元治元年(1864)のうちのどれかだろう。

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石段を登り切って不老門(昭和13年建立)をくぐると広い境内に出る。正面には大きな本堂。この本堂(観音堂)も元禄10年(1697)に建立されたもの。関東大震災にも第二次世界大戦の空爆にも耐えた江戸の遺産である。伽藍は広く本堂の左右に広がる。左の方に進むと薬師堂がある。この薬師堂の建立は元禄4年(1691)で境内で最も古いものである。

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薬師堂の裏手にひっそりと佇む不思議な石塔がある。文京区指定有形民俗文化財の庚申塔で、造立年は天明5年(1785)。江戸時代も中期になるとあまり良い石材のものが無くなっていくのだが、これは材も石工も超一流である。台石にはびっしりと関係者の名前が彫られており、石工は安部勘助、細工人は安富与兵衛とある。このタイプの庚申塔は他に例を見ない。音羽下町講中によって造られたもので、塔の上部を三猿が支えている。

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正面側には二猿、裏に回ると一猿と唯の荒っぽい造りの支柱が一本。この支柱があまりに雑なので、前述の石工の考えはどうだったのだろうと気になった。台石に書かれた文言を見ていくと、どうもこれを造立する前に延宝8年(1680)の庚申塔があったらしい。それから105年後に音羽下町講中によってこの見事な庚申塔が再建された、というか新調されたのだろう。

場所  文京区大塚5丁目40-1

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2020年9月11日 (金)

腰掛稲荷社の庚申塔(文京区目白台)

目白台を形成した川は南の神田川と北、そして東を流れた弦巻川である。弦巻川は雑司が谷台の西側から流れ、護国寺前で音羽川と併流し、江戸川橋で神田川に合流していた。目白台の東側の流程上には首都高速5号線が通っている。腰掛稲荷のある目白台北部は江戸時代は百人組同心という下級武士の団地のような場所だった。現在は筑波大付属の視覚特別支援学校があるが、以前はこの前身の盲学校と東京大医科分院があった。(ハンディキャップの人に対する言葉が分かりにくくなればなるほど、言葉の定義が人を分断しているように思う)

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目白台の崖線上に腰掛稲荷があり、その前に2基の庚申塔が立っている。左の駒型庚申塔は元禄3年(1690)11月の造立。上部に日月、中央に「奉供養庚申講為二世安樂」とあり、その下に三猿が彫られている。三猿の岩座の凸凹には二鶏が組み込まれている。右の駒型庚申塔は貞享2年(1685)11月の造立。中程が折れて接合補修した跡がある。上部に日月、「庚申供養所」の文字、下部に三猿と二鶏が彫られている。

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稲荷神社には菊花石という珍しい石がある。岐阜県の根尾村で産出する石で、見事な菊花紋がある。稲荷とは特に関係がないようだ。腰掛稲荷というのは珍しい名前だが、由緒を見ると、徳川三代家光が鷹狩りで当地を訪れた時、切り株に腰掛けて休憩した。その時傍にあった祠に大願成就をしたという。その祠が腰掛稲荷の前身ということらしい。

場所  文京区目白台3丁目26-1

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2020年9月10日 (木)

妙足院の庚申石仏(文京区小日向)

小日向には名坂が多い。見事なのは鷺坂、その北には八幡坂鼠坂、そしてそれらの坂の上から南に下るのが大日坂である。この大日坂の坂の由来が坂の説明板にある。

「坂の名の由来は、坂の途中に大日堂があったことから里俗に呼ばれるようになったものであろう。堂のあるこの寺は天台宗で、覚王山妙足院と号し、開祖は浩善尼上人(紀州家の奥女)で、堂廟の創立は寛文2年(1662)といわれている。その後 何度か火災にあったので、堂は現在に至っていないが、坂の北の方の道造りは、妙足院で施工したと伝えられている。小日向の名の由来については、古く鶴高日向という人の領地だったが 絶家した後、「古日向があと」といっていたものが、いつか「こひなた」と呼ばれるようになったのであろうと、「御府内備考」では述べている。」

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その妙足院はとても小さな寺院で寛文年間(1661~1673)の創建と言われる。普通の広めの民家と思ってもいいくらいである。昔は長谷寺という寺号があったが現在はない。ご本尊の大日如来というのが、言い伝えによると慈覚大師が唐で賜ったというもの。真偽のほどは分からないが、江戸時代に信仰の対象になったくらいだからご利益はあるのだろう。本堂へのアプローチには丸彫の聖観音像が立っている。

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その奥にあるのが、舟型光背型の聖観音菩薩像の庚申塔。首のところで中折れしているが、補修の状態からして昭和年代だろう。本体の造立年は寛文8年(1668)11月と江戸時代初期のもの。右側に「庚申供養」の文字がある。

場所  文京区小日向2丁目17-6

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2020年9月 9日 (水)

永泉寺の庚申塔(文京区関口)

大泉寺の先、目白坂を少し上ると変わった本堂の寺院がある。曹洞宗の永泉寺である。本堂は築地本願寺に雰囲気の似た古代インド様式風の屋根で日本の寺としては違和感があるが、それ以外はこじんまりとしたお寺である。

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墓所は本堂の裏手にある。本堂の左側に壊れた地蔵が2体と潰れたような庚申塔が1基並んでいる。大きな地蔵の台石には「萬霊等」とあるが、もしかしたら萬霊塔の間違いだろうか。江戸時代の漢字の間違いは結構多くて面白い。

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潰れたような庚申塔と言うのがこの写真のそれで、おそらく笠付角柱型である。「庚申塔」の文字の下に三猿が彫られている。造立年は不明。脇に「男女都合35人」とある。三猿のみというパターンは江戸時代前期に見かける。年代が不明なのが惜しい。ちなみに永泉寺の創建年は寛永元年(1624)である。

場所  文京区関口2丁目3-18

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2020年9月 8日 (火)

大泉寺の石仏(文京区関口)

目白坂を上り始めるとお寺と神社がある。現在は三寺二社だが、江戸時代は倍近くあり、途中の今は無き目白不動新長谷寺には時の鐘があった。時の鐘は江戸市中に9つ、神田本石町(現小伝馬町)、上野寛永寺、浅草寺、芝増上寺、赤坂田町成瀬寺、市谷八幡、本所横堀、四谷天龍寺(現新宿の天龍寺)、そして目白不動である。芭蕉の句、「花の雲 鐘は上野か 浅草か」とあるように、江戸町民はこの鐘を聞いて時刻を知った。

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山門を入って奥に進むと本堂の前の植込みに庚申塔が立っている。駒型で三猿のみの図柄、三猿の並びが横ではなく騎馬戦の騎馬のような体型。造立年は貞享2年(1685)4月、上部には「諸願成就」「奉供養庚申」「皆令満足」と書かれている。願主なのか下の方に「山本氏女」とあった。

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墓所の方に向かうと大きな石仏が5基ほど並んでいる。ほとんどは造りは良いが墓石のようだ。ただ左端が、舟型光背型の阿弥陀如来立像の庚申塔。高さは184㎝もある。阿弥陀像の右には、「奉敬実庚申講為二世安樂也」とあり、左には寛文6年(1666)2月の造立年が刻まれている。長い年月を経てもほとんど欠けのない完璧な石仏である。

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その右には珍しい半跏像の舟型光背型地蔵菩薩像。こちらはさらにきれいな状態を保っているが、造立年は延宝2年(1674)10月とほどんど変わらない古さ。しかしこれはどうも墓石あるいは当時の他界した僧侶の供養に建てられたもののようである。その先に並ぶ地蔵と観音像も墓石ではあるものの素晴らしい作品と言えるくらいの見事な石像である。

場所  文京区関口2丁目3-15

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2020年9月 7日 (月)

水神社下庚申塔(文京区目白台)

神田川の左岸は急な崖になっている。その崖を登る名坂が胸突坂。都内でも五指に入る名坂である。その胸突坂の東側は椿山荘。この坂は江戸時代からある坂で、坂の東側も西側も大名屋敷で、西側は肥後熊本藩細川家の下屋敷。江戸時代の切絵図には細川屋敷の真ん中まで目白坂上から道があり「庚申」と書かれているが今は何なのか不明。細川屋敷と胸突坂の間にあるのが水神社である。

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水神社の鳥居だが、平成16年(2004)12月に強風が吹き社殿脇の銀杏の枝が折れ、古い鳥居を直撃して壊してしまった。壊れた鳥居は安政4年(1857)のものであった。その鳥居のよこに庚申塔がある。一方、胸突坂の東側の椿山荘は大名屋敷を経て明治になると山形有朋邸、それを買い取ったのが藤田観光の藤田家、戦後になって椿山荘になった。

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庚申塔は笠付角柱型で、下部に三猿、その上の龕部(がんぶ)には文字が書かれているようだが読めない。三猿の下には二鶏が描かれている。裏面には、上総国、石見郡(夷隅郡の間違い)、岩隈村、大野村、森宮村などとある。造立年代はどこにも書かれていないか消えてしまったか、不詳である。ここは神田上水が最初に掘削されたところで、家康は大久保主水に命じて神田川から上水を引いた。後の現場監督が松尾芭蕉だったという話もあり、なかなか興味深い。

場所  文京区目白台1丁目1-9

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2020年9月 6日 (日)

観音寺の庚申塔(新宿区西早稲田)

早稲田大学の裏手というのか、北側にあるのが観音寺。なかなかモダンな建物で寺院とは思えない雰囲気で、一見大学の建物のひとつかと思ってしまう。真言宗豊山派というから護国寺と同じ、奈良大和の長谷寺が本山とされている。何気に入口にある「弘法大師」と彫られた石柱は、天保13年(1842)仲春(2月)と書かれていて雰囲気がある。隣に新しい御影石の石柱があるが、やはり石への考え方が違い、古いものは石工の息吹が感じられる。

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境内に入るとすぐ右側の塀沿いに石仏が並んでいる。右の数基は墓石のようだが、左の3基は庚申講中で建てたもの。一番左は聖観音菩薩像の舟型光背型の庚申塔で、寛文7年(1667)2月の造立。像右には「奉待庚申供養現世伍諸為佛果菩提也」とあり、左には「武列豊嶋郡牛込戸塚村」の銘がある。

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その隣は、新宿区の資料では庚申塔となっている。この像が青面金剛の座像らしいのである。青面金剛にしてはおとなしい表情なので分かりにくい。頭上には「奉成就」と書かれているだけで、ゼニゴケで他の文字は分かりにくい。造立年は貞享4年(1687)10月とあった。その右には少し大きな地蔵菩薩立像の舟型光背型庚申塔。造立年は寛文4年(1664)3月で、「武列豊嶋郡戸塚村」の銘がある。地蔵右側には「奉待庚申三年一座為逆修佛果菩提」とある。これは生前に自分たちを供養する逆修の風習によるもの。諏訪神社の逆修供養塔が承応3年(1654)だったので、江戸時代初期には逆修が一部に広まっていたのだろうか。

場所  新宿区西早稲田1丁目7-1

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2020年9月 5日 (土)

宝泉寺の庚申塔(新宿区西早稲田)

早稲田大学キャンパスのかなりの面積を元々有していたのが宝泉寺。江戸時代の切絵図では穴八幡宮よりもずっと広い境内だったようだ。宝泉寺の草創は810年頃とも伝えられ、江戸時代には江戸で最初に富くじが行われた寺で、町民の人気が高かった。宝泉寺は高田稲荷、水稲荷の別当で、安永9年に富士講により造られた高田富士が大人気だった。この高田富士は現在のキャンパス内にあったが、水神社とともに大学の北側、面影橋近くの甘泉公園横に移っている。

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現在の境内は江戸時代の数分の一しかないが、早稲田との関係は深いようだ。入口から坂道で上り、本堂の奥の墓所が一番標高が高い。蟹川が削った斜面に位置しているからである。本堂手前に大きな燈籠がある。これは文政10年(1827)2月に造られたもの。元は上野の寛永寺にあったもののようだ。

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その手前の植込みの間に駒型の庚申塔がある。種子の下に「奉待庚申」とありその下に三猿、上部にはうっすらと日月、三猿の下には土で読みにくいが延宝8年(1680)1月の造立年が彫られていた。青面左右の文字は「現世安穏受福樂」「来将無為速成佛」とある。どうも江戸時代の人々は現世もよく、来世もよくと、なかなかの欲張りらしい。

場所  新宿区西早稲田1丁目1-2

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2020年9月 4日 (金)

龍泉院の石仏(新宿区西早稲田)

馬場下町の交差点から早稲田大学大隈講堂方面に進むと角に小さなお寺(龍泉院)がある。通りは大学の街として扱われているが、早稲田大学の周りにはお寺が沢山ある。江戸時代の切絵図を見てみると、神田川支流の蟹川を挟んで南側が早稲田村、北側が下戸塚村。そして周辺は同心屋敷から大名屋敷までが入り混じり、その間にさらに寺地がある。面積としては寺地が一番多い。早稲田大学の敷地は、法泉寺境内、三河西尾藩の下屋敷、伊予松山藩の下屋敷が大部分を占めていた。馬場下町の交差点は江戸時代から交差点であった。

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真言宗龍泉院の門を入るとすぐ右手に堂宇があり、丸彫の地蔵が祀られている。中折れしているのは戦災によるものだろうか。造立年は嘉永元年(1848)10月とある。龍泉院の創建は寛文9年(1669)である。江戸時代から境内の広さは変わっていないようで、切絵図の龍泉院も狭い。地蔵の堂宇は昭和58年に建替えられたものらしい。

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地蔵の向かい側にはこじんまりと庚申塔が佇んでいる。舟型光背型の庚申塔で、日月、青面金剛像、三猿、二鶏が描かれている。造立年は元禄2年(1689)4月と書かれていた。表面の剥離が進んでいるが、青面金剛像の縦割れが気になった。

場所  新宿区西早稲田1丁目1-12

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2020年9月 3日 (木)

穴八幡宮の石仏石碑(新宿区西早稲田)

康平5年(1062)奥州の乱を鎮圧した源義家(八幡太郎)がこの地に兜と太刀を納めて氏神八幡宮を勧請したのが穴八幡宮の始まりと言われる。寛永18年(1641)に庵を造るために南側の斜面を切り開くと神穴が見つかりそれ以来穴八幡宮と呼ばれるようになった。江戸幕府(三代家光)の加護を得て鎮守となり大きな神社になり江戸名所図会にも描かれている。また元文3年(1738)に始まった流鏑馬の神事は、新宿区無形民俗文化財に指定されている。

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社殿の手前には豪華で派手な楼門が経っている。赤色は生命の躍動と災厄を防ぐ意味があるらしい。その為穴八幡宮のように赤い楼門を持つ神社も多く、稲荷神社なども同じ意味だという。ただ穴八幡宮の社殿は黒っぽい重厚な権現造りで楼門とのコントラストが大きい。

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楼門と社殿の間にある手水舎に大きな布袋像の水鉢があり、これは徳川家光が穴八幡宮に寄進したものの現代版。本物は非公開で、慶安2年(1649)である。新しいものは大きさも大きく、近代的な曲線面を見せているが、いつかオリジナルを見てみたい。

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穴八幡宮はかつての神田川支流蟹川の左岸の台地の突端にある。蟹川は新宿歌舞伎町を水源にして江戸川橋に流れていた川で、この小さな川の河岸段丘にはいくつもの寺社仏閣が在る。丁度穴八幡の鳥居前の馬場下町交差点が蟹川が流れていた場所。鳥居の下には一対の敷石造立石坂再興碑がある。何気なく立っているが、文政7年(1824)とあり200年も前のものである。

場所  新宿区西早稲田2丁目1-11

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2020年9月 2日 (水)

大安楽寺墓地の庚申塔(新宿区西早稲田)

高田馬場にある穴八幡神社の裏手隣地に墓所がある。ビルの脇の通路の奥に扉があり、その中が古い墓地。入口には大安楽寺墓地の石標が立っている。大安楽寺と言えば、江戸時代末期に吉田松陰や平賀源内を処刑した小伝馬町の牢獄跡地にある寺の名前である。

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江戸時代ここには真定院というお寺があった。三代将軍家光とも関係のある古い寺院で、高田天満宮の別当寺だったが、明治維新の廃仏毀釈で廃寺となってしまった。その名残が現在もしっかりと残されている。この真定院は小伝馬町の大安楽寺を創建した俊海和尚が六本木不動坂にある麻布不動院の住職を兼ねており不動院の末寺であった。この関係で、現在墓地には俊海和尚の墓があり、大安楽寺に所属しているとのこと。

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古い五輪塔がいくかあったがその一つが俊海和尚のものであろう。庚申塔はそのずっと手前側に2基あった。一基は駒型で、青面金剛像と邪鬼、三猿が描かれたもの。享保9年(1724)7月の年紀がある。また施主稲垣某の名も刻まれていた。

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墓石の地蔵座像を挟んで角柱型の庚申塔がある。摩滅が進んでしまい、書かれている文字はほどんど分からない。ただ塔の上部に三猿が彫られている。造立年は不詳。その下部には梵字があり、6名の名前が刻まれている。知らなけらば入ってこれない墓所で、今後も残っていてほしいと願うばかりである。

場所  新宿区西早稲田2丁目3-26

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2020年9月 1日 (火)

源兵衛子育地蔵尊(新宿区西早稲田)

以前に坂のページで地蔵坂について書いた折に、源兵衛子育地蔵尊に少し触れたことがある。今回は源兵衛子育地蔵尊が主役だ。早稲田通りに面しているちょっと複雑な交差点、早稲田通りが拡幅されたのは昭和に入ってからだが、それまでは早稲田通りがない状態の変則五差路でヒトデ型の辻だった。江戸時代は源兵衛村、明治になってから源兵衛村は戸塚村に吸収された。

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小さな境内ではあるが地蔵尊としては都内でも有数に広い。右奥の堂宇に地蔵尊、左奥の堂宇には庚申塔と馬頭観音が祀られている。源兵衛村は江戸時代、南の台地上の諏訪村と神田川左岸の下高田村に挟まれた、神田川右岸の小さな村だった。

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源兵衛地蔵は享保11年(1726)の建立。両手が欠損し顔も摩耗が進んで不明瞭になっている。この付近は、元禄年間に源兵衛という者が開墾して、当時28戸から成る村が出来た。源兵衛の死後、村人は源兵衛に感謝して、供養のためにこの地蔵を立てたと伝えられる。毎年、商店街が大規模な地蔵祭を開いている。

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左手の堂宇には、笠付角柱型の庚申塔。寛文13年(1673)9月の造立で地蔵よりも古い。青面金剛像に三猿の図柄だが、青面金剛を祀る庚申塔としては区内で最も古いらしい。その左には明治33年(1900)4月造立の自然石でできた馬頭観音塔。施主は原田熊蔵とある。左手前の角柱型の馬頭観音塔は大正11年(1922)と比較的新しいもの。さすがに大正時代になるとこの辺りは東京市内となり、戸塚町の向原という地名で、周辺には民家も多く建ち並んでいたようだ。

場所  新宿区西早稲田2丁目18-26

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2020年8月31日 (月)

諏訪神社の庚申石仏(新宿区高田馬場)

玄国寺と並んでいる諏訪神社、創建は弘仁年中(810~820)という。玄国寺の開山もこれに倣った年代のようだ。この辺りには特に遺跡等もないことから、その時代から神社があった可能性は低くない。大昔は玄国寺の西側には神田川の支流秣川(まつかわ)が流れていた。秣は「まぐさ」とも読み、牛馬の飼料のこと。別名間久曽川ともいうように馬糞の臭いがしたのだろうか。現在の新大久保駅北側を源頭に北流し、高田馬場駅東側で神田川に合流していた川で、江戸時代流域はほぼ畑だった。

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現在の社殿は昭和55年に再建されたものでコンクリート造り。昔は存在感があったのだろうが、近年周辺に巨大なタワーマンションが沢山建ってきたので、このままだとビルの間の公園のようになってしまいかねない。この神社の境内には珍しいものがある。

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塞神三柱(さいのかみみはしら)の塔である。区の登録有形民俗文化財に指定されている。造立年は天和2年(1682)で、上部に日月が描かれ、その下に「塞神三柱」右に「諏訪上下大明神」「正八幡大菩薩」、左に「天▢▢、稲荷大明神」とある。三柱はこの三神のことだろう。もともと塞ノ神は村境や峠から厄神や疫病が入ってくるのを防ぐための境界守護の神で、当時はすでに庚申信仰も広まっていただろうから、この石仏の意味合いはどういうものだったのだろう。

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その横にある板碑型の石塔は「逆修供養塔」と言われる。承応3年(1654)9月に大久保村の小澤善右衛門をはじめとする11名が建立したもの。逆修というのは、自ら生前に自分を供養するというもので、なかなか面白いことを江戸時代初期の人は考えたものである。

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また境内には駒型の庚申塔がある。造立年は貞享3年(1686)9月と古いがとても保存状態がいい。野ざらしとは思えないほどだが石材の材質がよほどいいのだろうか。上部に日月、中央に「奉待庚申為二世安樂也」とあり、下部に見事な彫りの三猿が並ぶ。なかなか見事な庚申塔である。

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なお神社の南にあった大久保射撃場だが、明治7年(1874)に軍用地化され近衛連隊射撃場となった。その後流れ弾や騒音の問題が大きくなり、昭和に入ってコンクリートドームで覆った筒状の建物が並ぶ施設になった。上の写真は戦前昭和初期のもので、+印が諏訪神社である。都心近くにこんな施設があったとは当時の軍国政治の怖さでもある。

場所  新宿区高田馬場1丁目12-6

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2020年8月30日 (日)

玄国寺の庚申石仏(新宿区高田馬場)

JR山手線高田馬場駅の南東、拡張と延伸が進む諏訪通りに面して諏訪神社と玄国寺が並んでいる。諏訪通りを挟んだ南側、明治時代はまだ大久保村で射撃場になっていた。戦後は広大な敷地に都営住宅が立ち並び、明治通りの東側の戸山ハイツと一体の巨大団地を形成していた。バブル期になってようやく公園と早稲田大学の理工学部のキャンパスになり緑が増えた。そんな時代の変遷を見つめてきたのが玄国寺である。

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玄国寺の開山は7世紀らしいが、さすがに真偽のほどは疑問。現実的な創建は中興とされる県庁6年(1601)だろう。今回石仏の祀られている西側の田植地蔵堂のある玄国寺墓地を訪れたが、目当ての石仏はない。ちょうどお寺の方がいらっしゃったので尋ねてみると、玄国寺山門前に移したとのこと。墓所からは100mほどで玄国寺の参道に入ると、山門前の脇に沢山の石仏が並んでいた。

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ひときわ大きな石仏が丸彫の地蔵菩薩。高さは2.8mもある。造立年は享保15年(1730)2月で、台座の銘文を見ると三界万霊塔として立てられたようである。願主は智岸とあるが、当時の玄国寺の住職だろうか。

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石仏群の左端には2基の唐破風笠付角柱型の庚申塔が縦列に並んでいる。後ろの庚申塔は古く、造立年は寛文5年(1665)12月。願主は畠中太久衛門他10名が建立。正面には「奉待庚申諸願成就 敬白」と書かれ、その下に三猿がいる。手前の笠付角柱型の庚申塔は宝永7年(1710)2月の造立。日月、青面金剛像と邪鬼、三猿、二鶏が彫られている。

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手前側には左から年代不詳の舟型庚申塔がある。左右の手に日月を持っている。下部は台石に埋まっているが三猿が彫られていた形跡もある。その右には延宝3年(1675)8月造立の、舟型庚申塔があり、三猿の上に「奉待庚申諸願成就 敬白」と寛文の庚申塔と同じ文言が彫られている。江戸時代後期の地図を見ると、この辺りは諏訪村となっており、諏訪社の中に別当として玄国寺がある。

場所  新宿区高田馬場1丁目12-10

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2020年8月29日 (土)

観音寺の庚申石仏(品川区大崎)

大崎駅の西口は時代と共に大きく変貌してきた。明治時代は目黒川沿いに広がる水田地帯、大正期になると明電舎や園池製作所(現アマダ)の工場となった。園池製作所の土地は高度経済成長期にはソニー工場になり、この場所は日本の産業の先端を走ってきた。現在もThink Parkタワーやソニーシティ大崎のビルがその跡地に建って、現在もなお産業をリードしている。

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そんな大崎駅西口には、大崎の鎮守である居木(いるき)神社と観音寺が並んでいる。観音寺は天台宗の寺院で、天正元年(1573)開山。当初居木神社と共に現在の山手通りの居木橋の傍にあったが、目黒川の度重なる氾濫で江戸時代になって現在の地に移転した。『新編武蔵風土記稿』には昔の場所に石地蔵があるという記録があるようだが、見つからないのでおそらく今は無い。

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観音寺山門をくぐり右に回り込むと地蔵菩薩像などが並んでいる。入口側から、地蔵菩薩坐像、地蔵菩薩立像、そして巨大な庚申塔と並んでいる。この庚申塔は、笠付角柱型で、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏が彫られている。高さはほぼ2mほど、造立年は延宝5年(1677)2月である。

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この庚申塔をしばらく見入ってしまった。江戸時代初期のまだよい石材の豊富な時代の庚申塔だったのだろう。根府川石(伊豆半島真鶴)のように思える。昔は寺の門前にあったらしいが、現在は寺の境内に移されている。

場所  品川区大崎3丁目8-12

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2020年8月28日 (金)

大正6年銘道標(品川区西品川)

品川区にはいくつかの道標が残っている。これは他の区にはあまり見られない。現在では東海道新幹線、国道1号線が走る品川区、江戸時代も東海道とその脇街道があった。慶応大学(三田)から尾根筋を高輪にむかって進む道は江戸時代以前の東海道である。江戸時代の道標が多い中で、この道標は大正6年(1917)と新しいもの。

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この場所は、昔は三ツ木と呼ばれた地域。目黒川とその支流の戸越銀座を流れていた川が削った細い台地の先にある。昔の小字は三ツ木槍崎。まさにこの先で標高が下がる台地の縁である。説明板には、

『三ツ木台地から目黒川に下る四ッ辻に建てられたもので、区内にある道標のなかでは最も新しい角柱型の石造道標である。四面に刻まれた文字は片仮名で、テイシャバ道という近代的な面影も残されている。今は住宅地の中に立っているが、この道標から、かつては道しるべに頼る野中の道であったことが偲ばれる。また、大正6年(1917)という新しい年代の造立であるが、このような道標が少なくなった現在、保存される価値のあるものである。』とあるが、大正初期の地図を見る限り野中の道ではなく、結構民家があったようだ。

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角柱型の道標の正面には「マエ オホヰ道(大井道)」、右が「オオサキ テイシャバ道」、左が「ヘビクボ道」、裏面が「キリガヤ道」と彫られている。興味をそそるのはヘビクボ道という地名。このヘビクボというのが南にあるJR西大井駅と東急大井町線中延駅の間の品川区二葉にある蛇窪神社と係わりがあるのではと考えた。蛇窪神社は鎌倉時代創建の神社で戸越の白蛇を縁起として祀る神社である。

場所  品川区西品川3丁目16-1

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2020年8月27日 (木)

西品川三丁目庚申塔(品川区西品川)

戸越銀座とJR山手線大崎駅は1㎞も離れておらず、目黒川とその支流戸越銀座を流れていた川が削って残した細い台地のそれぞれの縁を下った場所が戸越銀座と大崎駅である。この台地には区立大崎中学校と区立三木小学校があるが、小学校の名前に残されている三ツ木の名前がこの台地の古い地名である。

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大崎中学校の少し東側に堂宇に祀られた庚申塔がある。正式名称は「西品川三丁目石造庚申供養塔」で堂宇の中には駒型の庚申塔がある。造立年は延享4年(1747)3月。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、右面に3名(清兵衛、五左衛門、七兵衛)、左面に3名(小右衛門、伝四郎、太郎右衛門)の願主名がある。この江戸時代らしい名前には好感が持てる。キラキラネームが多い今、日本人の名前はこうあるべきとさえ思える。

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堂宇の前には角柱型の石碑が立っている。そこにはこの堂宇に関する説明が彫られていた。「この庚申様の御尊像は185年前の延享4年(1747)3月に地元の有志が建立したもの。しかし年月が経過しお堂は幾年月を経て荒廃してしまったため、昭和6年(1931)9月にわれら品川区西品川三丁目の昭明会にて役員が協議し、再建を計画。多数神社の奉納金を収集して工事に着手し、昭和7年(1932)5月25日に落成したものである。 昭和8年(1933)11月。」とある。

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上部がおそらくは戦災で欠損しているが何があったのかは分からない。堂宇の前の道は三ツ木台地の縁を東西に走っていた古道。この三ツ木の名前が小学校にだけ残されていることに感謝。地名は大切にしなければならない。行政が簡単に変更してはならない。自然破壊は目に見えるが、歴史の破壊は目に見えない。そろそろ社会はそこに気づくべきなのだろうと思う。

場所  品川区西品川3丁目11-15

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2020年8月26日 (水)

戸越八幡神社の庚申狛犬(品川区戸越)

戸越八幡神社の創建は大永6年(1526)。隣接の行慶寺の開祖である行永法師が崖下の池(清水池)からご神体が出現し、同時に京都山城国の石清水八幡宮の分霊を勧請して始まったとされる。この神社では戸越が「江戸越し」に由来するという説をあちこちに展開している。まあ神社というのはそういうもので、現在は御鎮座500年(2026)で改修記念事業を進めている。

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八幡神社の北側に戸越銀座があるが、そこは谷筋で境内よりも7mほど低い。宮前坂や三井坂、清水坂などがその地形を教えてくれる。この神社は都内有数の商店街に接していることもありいつ来ても参拝客が途切れない。

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その神社の狛犬が庚申講中によるものとして知られている。一対の狛犬は、品川区の指定有形文化財になっており(戸越八幡神社石造狛犬)、説明板も立っていた。延享3年(1746)に戸越村の村民がお金を出し合って奉納したものである。当時は庚申講が盛んで、本村や平塚の庚申講が中心になって資金を集め奉納したという。

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それぞれの狛犬の台石にはびっしりと名前が刻まれており、全部で207人の名前があるらしい。当時の戸越村のほとんどの人の名前があるらしく、民間のこういう情報が記録されていることは極めて稀なのである。戸越の由来は諸説あるので、この神社のいう由来が正しいのかどうかは分からない。峠を越えるというが、同じ意味に〇〇峠、〇〇越え、〇〇越し等の呼び方がある。戸越も江戸越しの説と、谷戸越しの説とがあり、いろいろ調べてみると面白いが、残念ながら決定打がない。

場所  品川区戸越2丁目6-23

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2020年8月25日 (火)

行慶寺門前の庚申石仏(品川区戸越)

品川区戸越は戸越銀座商店街が有名だが、この商店街筋はもともと川だった。大正時代の地図を見ると戸越銀座通りなどなく川と田んぼが広がる谷筋。昭和に入ってから、関東大震災で壊滅的な被害を受けた銀座煉瓦街のレンガの瓦礫を運び入れて水はけの悪い水田の埋立てを進め、商店街を作り上げた。銀座のレンガを使ったので「戸越銀座」と命名したのが、全国にある〇〇銀座の第一号である。池上線戸越銀座駅の開業は昭和2年(1927)。まだ100年立っていない土地である。

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戸越村の鎮守である戸越八幡神社の隣にあるのが浄土宗の行慶寺。始まりは大永年間(1521~1528)で戸越八幡神社との関係は深い。その門前にあるのが地蔵と庚申塔、そして地蔵の陰に馬頭観音が一基。実はこの馬頭観音を訪問時に気づかず、後で調べて分かったというくらい。母の陰に隠れるシャイな子供の用に地蔵の後ろにあるが、造立は大正元年(1912)8月。手前の地蔵は台石とは別年代のようだが、台石の文字も読めない。

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道路側に並ぶのは駒型か角柱型か分からない庚申塔。日月、青面金剛像、三猿は確認できるがかなり摩耗が進んでおり風化もひどいので文字はほとんど読めず、年代も分からない。行慶寺の縁起に、すぐ下の谷には水量豊かな池があり、馬込から江戸へ古い街道を通っていく旅人に白湯を施したり、村人に念仏を勧めたりした寺だったとある。旧中原街道の供養塔群(戸越地蔵尊)は、江戸時代に行慶寺がこの地に落ち着く以前の庵の場所だというのが伝説である。

場所  品川区戸越2丁目6-31

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2020年8月24日 (月)

戸越中通の庚申塔(品川区平塚)

東急池上線の東側を並行して走る第二京浜(国道1号線)、現在の平塚という住居表示は中原街道、第二京浜、都道420号線に囲まれた地域。現在の戸越銀座通りは大正時代まで川が流れていた。その源流筋の南側が戸越中通という土地である。その少し南には細川家のために掘削された品川用水が流れており、その間の集落の道筋は現在の道筋とほぼ同じである。

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その道筋の途中に庚申塔が祀られている。堂宇内には舟形光背型のきれいな庚申塔。日月、青面金剛像、邪鬼、三猿が彫られているが、現在のものは昭和25年(1950)9月に再建されたもの。再建以前の庚申塔の情報が欲しいがどの資料にも見当たらない。おそらくは空襲によって破壊されてしまったのではないかと思われるが、詳細は不明である。

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堂宇の手前には角柱型の庚申塔が立っている。こちらは前面に「庚申塔」と大きく彫られている。昭和3年(1928)11月の造立なので、堂宇の庚申塔の再建よりもずっと前である。東京の場合、都心に近づけば近づくほど戦災で破壊された石仏が多い。残念なことである。

場所 品川区平塚1丁目19-2

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2020年8月23日 (日)

吉中ハイツの庚申塔(品川区荏原)

東京都内でも有名なパルム武蔵小山商店街は東急目黒線武蔵小山駅から南東に延び、中原街道の平塚橋に出る。その平塚橋の手前のアーケードの終点で北から合流する別の商店街っぽい道があり、これを200mほど北上したところにある共同住宅の駐車場に変わった形の庚申塔がある。祀られているという雰囲気ではなく、玄関のオブジェのような感じで立っている。

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この吉中ハイツは1LDKの3階建てで、おそらくは一人住まいが殆どだろうと思う。大家さんが手入れをしなければ住民はしそうにない。この不思議な形の庚申塔は自然石でできていて、上部に「庚申」と彫られており、下部は陰刻で三猿が描かれている。造立年はどこにもなく、資料を探してみたが品川区の昭和後期の資料にも載っていない。

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この前の道は実はかつての品川用水が流れていた筋。品川用水はこの少し北の現在はスーパーのライフがある辻で大崎駅方面への分流がまっすぐに流れ、本流はこの道筋に南下してやがては現在の戸越公園(昔は三井財閥の邸宅、江戸時代前期は肥後熊本細川家の下屋敷)へ流れていた。品川用水の掘削目的の最も大きなものが細川屋敷の池に水を送ることだというのは大げさな話ではないだろう。

しかし不思議な庚申塔である。誰かが趣味で作った可能性も無きにしも非ずな気がする。

場所  品川区荏原2丁目15-2

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2020年8月22日 (土)

松原庚申堂(狛江市和泉本町)

狛江市にある松原通りは南は世田谷通りの狛江高校前から北進し京王線仙川駅東側で甲州街道(国道20号線)に接続する地域の幹線道路。この道は旧田中橋から野川までは江戸時代から直線道路で、現在の中和泉あたりから和泉本町にかけては欅の樹林があり、松林も多かったという。その為に「松原」という旧地名が生まれたのだろう。

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この道路沿いにあるのが松原庚申堂。松原通りの拡幅に伴い、昭和39年(1964)に庚申塔や地蔵尊をここに集めて祀り、「松原地蔵庚申講」を結成して供養を行ってきた。周辺の開発によって1基また1基と増えてきて現在では9基になった。10年ほど前でも講中の会員数は70名ほどという結構な大所帯である。

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奥の堂宇内には2基の庚申塔が祀られている。左の駒型庚申塔は2ヶ所中折れして補修されている。大正▢年4月再建とあるが、中折れ補修で肝心の年数が読めない。一部から推察するに大正5年(1916)ではないだろうか。日月、青面金剛像、台石に三猿の図柄。再建とあるのでその前があったはずだが不詳。右の駒型庚申塔も上部が欠損して補修されているが、こちらは大正13年(1924)2月再建と読める。日月、青面金剛像があり同じく台石に三猿。こちらも再建の元は不明。

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左に並ぶ4基の石仏は、道路側から、丸彫の地蔵菩薩立像。前面お腹より下の正面に「奉造立地蔵菩薩念仏講供養」とあるが年紀等は不詳。隣が自然石の庚申塔で、天保10年(1839)仲冬のもの。仲冬とは初冬、仲冬、晩冬に分けた真ん中の時期で、概ね12月から正月三が日にかけてをいうので、12月の造立か。右から二番目は、駒型の庚申塔で剥離と摩滅がひどい。寛政12年(1800)10月の造立で、「當村講中十二人」とある。残りの右端の一体は地蔵立像だが詳細は分からない。

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一方右側には背の高い庚申塔がある。駒型で、青面金剛像、邪鬼が描かれているが三猿はない。高さは128㎝もある。造立年は明治十▢年とあるが▢の部分が剥離して分からない。そばには「西ふ田道」とあるので、布田(調布市)に向かう道ということだろう。中央は、念仏供養塔の聖観音像で、文化2年(1805)10月のもの。側面には「武州多摩郡世田ヶ谷領泉村  中通六斉念仏五十四人講中」とある。また台石には、「東 六郷道  南 のぼりと道  北 たかいど道  西 ふちう道」とあるので筏道(品川道)と松原通りの辻にあったものではないかと推測。庚申堂から500m程南である。

場所  狛江市和泉本町1丁目25-2

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2020年8月21日 (金)

釜寺東運寺の庚申石仏(杉並区方南)

さて釜寺(東運寺)の境内にお邪魔する。なぜ釜寺と呼ばれるかだが、天正元年(1573)に備前(岡山県)の僧が当地に来て、安寿と厨子王の守り本尊の「身代り地蔵尊」を奉納し、帰依した地元方南の大地主鈴木伊兵衛が屋敷を寄進して念仏堂として改装したのが始まり。「釜寺」という通称の由来となった「身代り地蔵尊」が、山椒太夫に釜ゆでにされそうになった厨子王を、お坊さんの姿になって助け たという言い伝えがあり、それにちなんで本堂の屋根に釜を置いた。

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しかしその身代り地蔵尊がどこにあるのかについては書かれていなかった。寺の本尊は阿弥陀如来なので違うようだ。古い山門をくぐり奥に進むと、大型の庚申塔が目に入る。なかなかしっかりした造りで、笠付円柱型というのは珍しい。造立年は寛文8年(1668)10月と古い。青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄で、武州多麻之郡保南村(多摩郡方南村の意)の銘がある。願主は鈴木長兵衛とあり、門前の地蔵堂の古い地蔵と同じである。

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次に会ったのが舟型光背型の観世音菩薩立像。この石仏の造立年は分からない。観音様の右には「奉造立石佛之観主一躰同行三十」とあり、左には「四人現世安穏樂後生清浄土敬白」とあるが、これも江戸時代初期のものではないだろうか。

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奥の塀沿いにはいくつもの石塔があるが多くは墓石。その中でいくつかの地蔵がある。上の写真の左端は資料の写真では首があるが現在は首が欠損している地蔵菩薩坐像。元は甲州街道荻窪より移転と資料にあったが、甲州街道ではなく青梅街道の間違いではないだろうか。台石には「念仏堂道」「東運寺」「釜寺」の文字がある。

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さらに左には自然石に「子育地蔵」と彫られたものがある。年銘などは皆無で分からないが、元々は地蔵があったものが壊れてしまったので、自然石に文字を彫って置いたものかもしれない。

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さらに奥に行くと堂宇の中に数体の石仏が納められていた。大きいものは高さが136㎝あり、台石に「上総屋」とある。これだけは最初から東運寺にあったもの。右の縦並びの3基はもともと門前の地蔵堂の奥に詰めておかれていた石仏たちである。手前から聖観音立像で、二番目の首が欠損した丸彫地蔵と共に、元は環七沿線にあったものを門前の地蔵堂へ移したもの。そして右奥の丸彫地蔵は明和3年(1766)3月の造立で、資料には方南町442番地より移設とあるが旧地名のその番地は寺の門前である。台石には「六十六部供養仏 講中女中六人 江戸麻布宮村念信」とあるので、現在の麻布狐坂の近くにあったものであろう。

場所  杉並区方南2丁目5-4

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2020年8月20日 (木)

釜寺前の身代地蔵尊(杉並区方南)

中野区方南にある東運寺は通称釜寺と呼ばれる。「釜寺」という通称の由来となった身代地蔵尊は、山椒太夫に釜ゆでにされそうになった厨子王を、お坊さんの姿になって助けたという言い伝えがあり、それに因んで本堂の屋根に釜を置き始めたらしい。

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門前の堂宇には2体の地蔵尊がある。向かって右側の丸彫地蔵は延享元年(1744)11月の造立。伝説にある山椒大夫の釜は天正年間(安土桃山時代)の話なので、当然ずっと後のもの。しかし「當所若者中 世和役 鈴木長兵衛」とあるのは、釜寺の創建に関わった鈴木家の子孫かもしれない。また、左側の大きい地蔵菩薩は近年のものだが造立年は不明、こちらは子育地蔵尊だが、作者は「昭和の伊豆の長八」と呼ばれた手塚忠四郎氏。実は東運寺境内と合わせて数体の地蔵があるが、どれが釜寺の身代り地蔵なのか、どれもそうでないのかが分からない。

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堂宇の左側には、二つの角柱がある。ひとつは「釜寺近道」と書かれた昭和9年の道標、もう一つは古く、享和元年(1801)6月の「浅草観世音千日参回向」の碑である。右側面には「右 大山目黒池上道」とあり、このあたりと池上までは堀之内道というほぼ環七通り沿いの街道で南北の往来があった。

場所 杉並区方南2丁目4-31

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2020年8月19日 (水)

八雲神社大辻の庚申(目黒区八雲)

目黒区八雲の氷川神社は旧衾村の鎮守。創建年代は不詳だが一説には慶雲4年(707)と言われ、相当古いものと思われる。南側最初の鳥居の前は江戸時代の二子道。この街道はここで南に向きを変え呑川を渡り、氷川坂を登り等々力を経て野毛の渡や二子の渡へ向かう道だった。氷川神社は現代でいうと道の駅のような役割も果たしていたのだろう。

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参道に入り鳥居をくぐると左側に屋根付きの地蔵堂がある。この地蔵は「くずれ地蔵」と呼ばれ、元は中根の辻にあったというので呑川を渡った辺りだろうか。身体が痛むときに地蔵の同じ箇所をなでると治ると言い伝えられ多くの人々がなでたために現在のようにとろけた姿になったらしい。そののち屋根付きの堂宇に入ったというが、おそらくはずっと雨ざらしで風化していったものだろう。

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本殿に向かっていく木陰が心地よい。本殿の右側に渡り廊下があり、その下をくぐると奥の宮に行くことが出来る。奥の宮の手前にはアカガシの巨木の朽木が祀られている。八雲氷川神社はもともと癪封じの神として信仰を受けていた。このアカガシの樹皮を煎じて飲むと癪が治ると信じられていたのである。癪というのは胆石症、胃痛、虫垂炎、生理痛などから来る腹痛すべてをいう。しかし樹木は樹皮が失われると枯れる。その為この大アカガシも枯れてしまったらしい。

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奥の宮の横には2基の庚申塔がある。右は板碑型で三猿の図柄。延宝2年(1674)12月の造立で、「奉待庚申〇伸石塔一尊建立供養為」とある。左は駒型で造立年は寛延2年(1749)8月。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が描かれている。この2基の庚申塔は昭和の初めまで、柿の木坂の畑のあぜ道にあったが、度重なる耕地整理であちこちへ移転を余儀なくされ、昭和63年(1988)には柿の木坂ゴルフガーデン脇に移り、平成23年(2011)に現在の場所にやってきた。大辻というのは現在の目黒通りと環七通りの交差点辺りを指すようだ。

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ここの庚申や地蔵のように、近所から移設されて寺社に保存される石仏はまだいいのだが、果たしてどれくらいの石仏が開発のもとに打ち捨てられて来たのだろうかと思う。都立大学駅は昭和初期には柿の木坂駅だったが、東急総帥の五島慶太がこの辺りを開発するのに永田町にあった東京府立高校をここに移転させた。それが都立大学となって駅名になったが、大学は八王子市の南大沢に行ってしまった。変貌する東京の一角がここにもある。

場所 目黒区八雲2丁目4-16

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2020年8月18日 (火)

ビル街の庚申塔(品川区西五反田)

五反田といえば最近あった事件は、積水ハウスという巨大企業が地面師カミンスカス(ふざけた名前だと思う)らによる詐欺に遭って55億円を騙し取られた事件。結局旭化成グループが取得して和風旅館「海喜館」は解体された。この旅館は花街の一部として長く営業してきた旅館で、大正昭和の怪しい時代の雰囲気があった。海喜館は目黒川の右岸にあるが、左岸の一本裏手の道には庚申塔がある。

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ビル街の庚申塔は珍しくなかなか見ることがない。しかし緑地規制などもあり、植込みに由緒ある石仏を祀ることは良い選択だと思う。この一角には三島稲荷神社もあり、銀座や日本橋は意外とそういう小さな稲荷神社が多い。ここには「伝承の石臼」があり、かつて三田用水の下流端が当時の大崎村谷山の飯島家の畑で目黒川に落ちていた。そこの水車小屋にあった石臼である。

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肝心の山崎ビル前の庚申塔は、駒型で日月・青面金剛・三猿のオーソドックスなデザイン。造立年は元禄10年(1697)6月である。三田用水の完成が承応2年(1653)だから、当時この地の有力者であった飯島家とも関係があるのかと、願主名を見たが、「施主教譽敬白」とあるのみであった。

場所 品川区西五反田2丁目13-8

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2020年8月17日 (月)

徳蔵寺の庚申石仏(品川区西五反田)

山手線の線路沿い、五反田駅から少し目黒駅に近いところにビルのお寺の徳蔵寺がある。天台宗の寺院で、創建は天正年間(1573~1591)、ちょうど今の大河ドラマ『麒麟が来る』の時代である。江戸時代初期の五反田は既に野原ではなく、畑が広がり、江戸の食を支えるための新田開発が盛んに行われていた。

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境内に入ると山手線を背にして地蔵が並んでいる。左側の半跏像が三輪地蔵尊。徳川五代将軍綱吉の大奥老女三輪の菩提を弔うため、元文3年(1738)に造られたと説明板にあるが、別の資料では江戸下谷長者町に住む医師吉川栄順が、妻お三輪の菩提を弔うために建てたとある。さてどちらだろうか。座像とも半跏像とも言い切れないタイプで、左足を下におろした姿は珍しい。

右側は塩地蔵。貞享4年(1687)の造立で、塩地蔵は北向きという慣わしがあるが、各地の塩地蔵はどれも北を向いていないものが多い。これも南西向きである。まあ各寺での保存のしばりもあるので致し方ない。この塩地蔵は眼病治癒を祈願し、治るとお礼に塩を献上する慣わしで今も続いているようだ。

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その先には5基の庚申塔がきれいに並んでいる。左から、笠付角柱型の庚申塔で三猿のみの図柄、造立年は延宝8年(1680)11月。「武刕荏原郡上大崎村」の銘があり、願主名は後述の延宝5年の駒型庚申塔と重なる。隣は、板碑型の大きな庚申塔で、中央に「奉起立庚申供養二世安楽祈所」、右に「當願衆 江戸竹河町」「大峯行者 教善院 堤道覚」とある、造立年は寛永12年(1635)3月でこれほど古いものは珍しい。品川区最古の庚申塔と説明板にあった。

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中央は黒い材石でできた駒型の庚申塔で、日月・三猿・二鶏が描かれている。中央には青面金剛像はなく、「奉供養庚申講中」と書かれている。元禄2年(1689)3月の造立。右から二番目は笠付角柱型の庚申塔で、日月・三猿・二鶏の図柄。これも中央に「奉供養庚申講中」とあり、脇に天和2年(1682)9月造立とある。一番右の駒型庚申塔は、延宝5年(1677)11月のもの。これには青面金剛像があり、三猿、二鶏が描かれている。また「武刕荏原郡上大崎村 清水吉兵衛」の銘が刻まれている。

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これらの庚申塔はもともと上大崎村の各地にあったが、それをここに纏めたらしい。時代も古く、五反田(上大崎村)が江戸時代初期から開かれていたことがよく分かる。江戸時代中後期になるとこの辺りにも大名屋敷が増え、徳蔵寺の隣には奈良大和柳生藩の下屋敷があった。さすがに江戸の外なので、面積は8500坪もあったようだ。その先は肥後熊本藩細川家の抱屋敷で現在の目黒雅叙園を中心に23,000坪の広大な屋敷だった。

場所 品川区西五反田3丁目5-15

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2020年8月16日 (日)

十条駅前の庚申馬頭(北区上十条)

現在は埼京線十条駅前踏切から路地を南に少し下がったところに堂宇がある。正式には「上十条一丁目観音堂」という。歴史は古く、堂宇の創建は文化9年(1812)と伝えられるが、中に祀られている石仏はそれほど古くない。もともとこの観音堂は現在のバス通りにあったもので、明治時代の地図にも踏切から100m程王子寄りに石塔の地図記号がある。

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右側にあるのが角柱型の庚申塔で、造立年は天保15年(1844)10月。台石は玄武岩だが本体は砂岩でできている。砂岩というとボロボロ崩れる印象があるが、高い圧力で形成された砂岩は風化や耐侯性などに面では花崗岩に劣るが、独特の風合いを持つ。硬さは凝灰岩よりは硬いが、石材としては加工はしやすい。この庚申塔は正面に「庚申塔」と大きく彫られている。

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左側は馬頭観音。造立年は不詳ながら、こちらがもしかしたら文化9年(1812)なのかもしれない。というのも前のバス通りは江戸時代から重要な村の幹線だったので、江戸との産物運搬の往来で牛馬が行き来していたことが推測されるからである。そういう場所には古くから馬頭観音がある。ここもその一つなのかもしれない。

場所 北区上十条1丁目10-6

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2020年8月15日 (土)

地福寺の庚申石仏(北区中十条)

十條山地福寺は京都仁和寺の僧侶が、源頼義の奥州征伐に随行した折この地にとどまり、康平年間(1058~1064)に創建。日光御成道(岩槻街道)に面していることもあり、将軍家の日光参詣でしばしば休憩所として利用された古い寺。第二次大戦では軍需工場が近くに集まっている為、完全に空爆でほとんどを破壊されてしまったという。

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山門の前に六地蔵があるが、ここの六地蔵はどれも大きさが異なっており面白い。なかでも一番左の地蔵菩薩像が「鎌倉街道の地蔵様」と呼ばれているもので、実は庚申塔である。台石の正面の隙間を覗くと三猿がわずかに見える。左面には「地蔵、三界、念佛、有、三夜」の文字が見えるが下部は隣りの台石との関係で分からない。造立年は寛保元年(1741)10月。右面に「庚申」の文字がある。

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境内に入ると、享保5年(1720)霜月(11月)造立の駒型の庚申塔がある。日月、青面金剛像、二鶏、邪鬼、三猿が描かれており、「奉造立大青面金剛庚講」と書かれている。基礎は材質が違うので最近のものである。ここには同じく庚申講中が造立した貞享2年(1685)の閻魔大王像があるはずなのだが、境内には見当たらなかった。

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本堂脇に回ると無縁仏が並んでいる。その中に承応2年(1653)7月造立のキリーク(阿弥陀三尊種子)の板碑型の文字庚申塔があった。文字はかなり消えかけていて読み取れないが、資料によると「武刕豊嶋郡十条村」「奉供養庚申待現當二世安樂」とあり年紀が刻まれているようだ。庚申塔としては最も古い時代のもののひとつである。

場所 北区中十条2丁目1-20

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2020年8月14日 (金)

守られた路傍の庚申(北区中十条)

前述の「民家駐車場の庚申塔」から旧岩槻街道(日光御成道)を赤羽方面に進んだ向かい側にも、道路拡幅に対応しながら守られた庚申塔がある。実はこの庚申塔は無くなったものと諦めていたので、存在を知った時には嬉しくなった。

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庚申塔は全面的に剥離が激しく、文字の判読が不可能である。ただ資料によると正面には「庚申」の文字があったらしい。本体の材質は残念ながら凝灰岩で、その為に剥離が著しいのだろう。

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王子4丁目にあった明治時代の庚申塔も凝灰岩で同じようにひどい剥離が起こっていた。おそらくはこの庚申塔も明治時代あたりに造られたものではないだろうか。しかし道路拡幅で消えたはずの庚申塔が存在することは極めて喜ばしいことである。ちなみに元の住所は中十条1丁目23-5、現在の住所は23-2である。

場所 北区中十条1丁目23-2

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2020年8月13日 (木)

民家駐車場の庚申塔(北区中十条)

王子飛鳥山で明治通りと分岐して十条、赤羽に繋がる都道455号線は江戸時代の岩槻街道。別名は日光御成道といい、江戸五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)の脇街道として整備された古い道。平成の終わり頃までは旧規格の狭い道(おそらく幅員6m程度)でバスとのすれ違いに苦労した。現在は4車線への拡幅工事が始まっており、かなり様変わりしている。

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そんな古い道なので、道沿いに以前はうだつの建ちそうな家が並んでいたが、それだけに複数の民家が石仏を今も守っている。上の写真の右の民家の駐車場にもポツンとそれらしきものが立っている。

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石柱型の庚申塔である。台石の上に乗っているがしっかりした玄武岩で造られている。ただ、日光御成道だから古いものかと思いきや、実は昭和9年(1934)12月の造立であった。ただ昭和9年とは書かずに「昭和甲戌年」とあるところがいい。文字は「庚申塔」としか書かれていない。道路拡幅で無くなる石仏が多い中で、残していただいて喜ばしい。

場所  北区中十条1丁目15-2

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2020年8月12日 (水)

南橋児童遊園の庚申塔(北区中十条)

京浜東北線は東京の段丘の下をなぞるように走っている。北区の王子や十条にはその為に数多くの急坂がある。戦前この台地上には北赤羽まで多くの軍事施設があった。その為米軍による空爆も容赦なかったようである。その名残が現在の陸上自衛隊十条駐屯地である。昭和33年(1958)アメリカ軍に接収された兵器補給廠が変換されて自衛隊の駐屯地になった。

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駐屯地の東側に王子飛鳥山公園から赤羽に至る幹線道路が走っており、その脇に南橋児童遊園地がある。その赤羽側の角は国有地で、ここには2基の古い庚申塔が立っている。間に太い桜の木があるが、それはせいぜい60年か70年だろう。しかしこの2基の庚申塔はもうすぐ400年を経ようとしている。

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まず右側の庚申塔だが、てっぺんが欠けているがしっかりとした板碑型の庚申塔で、下部には蓮花が描かれている。主尊は阿弥陀三尊種子(キリーク)で、その下に「奉供養庚申待二世安樂修」とある。造立年は承応3年(1654)2月。右側に武刕豊嶋郡十条村の銘がある。

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左側も同じように天頂部が欠損した板碑型の庚申塔でこれも蓮花が描かれている。主尊も同じくキリーク(阿弥陀三尊種子)で、「奉供養庚申二世安樂修」と文字も同じ。また「武刕豊嶋郡十条村」というのも同一である。造立年は万治2年(1659)10月。しかし元からここにあったのは上の庚申塔で、この庚申塔は十条の自衛隊駐屯地にあったものを昭和57年(1982)11月にこの場所に移したもの。北区の多くの石仏が戦火によって欠損破損した中で、この状態で残っていたのは奇跡である。

場所  北区中十条1丁目1-15

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2020年8月11日 (火)

開運延命地蔵尊(北区王子)

JR京浜東北線の東十条駅と地下鉄南北線の王子神谷駅の間の地域は、大正時代から戦後の高度経済成長期にかけて王子製紙会社の十条工場であった。後に学校を中心に巨大な団地が造られたエリアである。この少し南に開運延命地蔵尊がある。

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地蔵尊の建立は昭和8年(1933)3月である。これほど新しいとトピックとしては対象外なのだが、王子や赤羽エリアが戦前と戦後で極端に変貌した時代の名残りと考えて取り上げた。地蔵の前の通りは王子製紙工場に物資を運ぶために開かれた道である。大正時代前期はあたりは一面田んぼが広がり民家は少なく、産業としての王子駅方面との物資運搬の往来が激しかった。

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しかしそれ以来人口も増えていき、最初は牛車や馬車の往来、その後自動車の往来に変わり、年々交通量が増加、同時に交通事故も急増した。その為当時できていた商店街で地蔵を建立したところ、交通事故が激減したという。間もなく、第二次大戦が起こり、当然ながらこのエリアは絨毯爆撃を受けたが、奇跡的にこの地蔵は戦火を免れた。そんな経緯がある。

ちなみに昭和8年の開眼供養は前述の清光院の住職が執り行っている。

場所  北区王子3丁目8-10

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2020年8月10日 (月)

明治時代の庚申塔(北区王子)

王子神谷駅の南、ホンダのバイク店の裏に鉄製の堂宇がある。向かいは王子三丁目公園、北隣は中央工学校の学生寮である。バイク店の脇から斜めに走りこの庚申塔に出る細路地は実は江戸時代からの古い道。北本通りなどは後でできた道で、この庚申塔が造られた時代は周りはすべて田圃だった。

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堂宇は下部はブロック製、上半分は鉄板で造られていて、べったりと荒々しく緑のペンキが塗られている。中を見ると、石柱がある。かつては正面に「庚申」という文字が見えたようだが、今ではほとんど見えない。剥離があまりにひどいからである。資料によると左面に「明治12年 卯」とあるようだ。

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実はこの石柱は凝灰岩で造られている。普通、石仏石塔は火成岩で造られており、一番多いのが安山岩、次が玄武岩である。凝灰岩は火成岩ではなく堆積岩、元は土や砂だから脆い。稀に砂岩を使うこともあるが、マグマが固まってできた火成岩の方が優れている。良い火成岩は何百年も持つが、凝灰岩は持たない。やはり江戸時代の石仏は石質も石工もレベルが高い。

場所  北区王子4丁目25-18

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2020年8月 9日 (日)

神谷庚申塔(北区王子)

東京メトロ南北線の王子神谷駅前に庚申堂がある。この庚申堂ゆえに、ここから東へ伸びる道は神谷橋庚申通りという商店街になっているが、一方通行の商店街をなんと路線バスが走る。東京でこういう道を路線バスが走るケースはあまりない。この道は古い道で、清光寺を経て、現在は荒川の川の中になっているが、当時はくねっていた旧荒川にあった六阿弥陀渡しで現在の足立区に繋がっていた(明治以降は豊島渡と呼ばれた)。この行基が一夜のうちに1本の木から刻み上げたという伝説の六阿弥陀のうち、北区内にあるのが、豊島の西福寺、西ヶ原の無量寺、田端の与楽寺の3寺。渡しの対岸が足立区江北の恵明寺(旧延命院)である。

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しかし23区内でこれほど大きな庚申塔の看板も珍しい。ちなみに神谷という地名は江戸時代の神谷村という地名から来ているが、神谷橋というのはどうも見当たらない。戦後開通した環七通りの橋が新神谷橋だが、なぜここが神谷橋なのかについては、元々そこには宮堀渡しがあり別名を神谷の渡しと呼んでいた。そこにでる運河(神谷堀)が現在の王子神谷駅のところにあり、それに架かる橋だったようだ。神谷堀は1970年代に埋め立てられ消えた。

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周辺の話題ばかりになってしまったが、ここの庚申塔は頑丈な堂宇に守られていて、格子戸の中にあり、格子の間から覗くことしかできない。板碑型の庚申塔で、造立年は寛文9年(1669)10月。文字のみで「奉供養庚申二世成就所  武州豊嶋之郡馬場村」とある。馬場村は王子神谷駅と清光寺の間にあった小さな村で、現在は豊島馬場遺跡公園がある辺りになる。そこには古墳時代の遺跡があり、方形周溝墓群があった場所である。

場所  北区王子5丁目20-30

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2020年8月 8日 (土)

清光寺の庚申石仏(北区豊島)

北区豊島の隅田川に架かる新田橋の近くに清光寺がある。江戸時代には当然橋は無く、「野新田渡(やしんでんのわたし)」という渡し船があった。別名馬場の渡しとも呼ばれた。ここに初めて橋が架かったのは昭和14年(1939)のこと。現在の橋は1961年に架け替えられたものである。渡しがあったということは古くからの街道で、当時はまだ荒川が開削されていなかったので、野新田渡を渡れば江戸の外という雰囲気があったのだろう。

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清光寺は真言宗豊山派の寺院だが、創建は鎌倉時代と言われる。豊嶋氏の豊嶋清光が12世紀に開いたので、清光寺という訳である。鎌倉時代は大きな寺院だったが、豊嶋氏が太田道灌との戦いに敗れてからは衰退、しかしその後再興されて現在も立派な寺院である。

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門前には4基の石仏がある。左から二面地蔵菩薩で裏は丸く電柱のようなR(アール)が付いている。大正10年(1921)10月の造立と新しい。背の高い丸彫の地蔵菩薩立像は時代を感じさせるが造立年等は不詳。右の舟形光背型の2基は、左が地蔵菩薩立像で、寛文12年(1672)9月のもの、右は観音菩薩立像で武州豊嶋村講中の銘があり享保16年(1731)11月の造立である。

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本堂の前で右に入ると墓所になるが、その入り口近くに無縁仏が集められた箇所があり、魅力的な石仏が沢山ある。ただ多くは墓石なので対象外、しかし庚申塔が2基混じっていた。上の写真は駒型の庚申塔で、日月・青面金剛像・邪鬼・二鶏が見えるが三猿はあるのか無いのか分からない。造立年は享保16年(1731)11月で門前にあった観音菩薩立像と同じ時に作られている。この庚申塔には「当村講中」とだけ書かれている。

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もう一つは舟型光背型の地蔵菩薩立像。造立年は寛文2年(1662)8月と古い。「武刕豊嶋之郡豊嶋村 庚結集本願」とあるので庚申塔だと分かる。上部が欠損しているが、地蔵菩薩はかろうじて傷ついていない。豊島の場合多くは下道地蔵尊に集められているが、それでも寺院にはいくつかの庚申塔が保存されている。

場所  北区豊島7丁目31-7

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2020年8月 7日 (金)

王子善光寺の庚申塔(北区豊島)

王子善光寺は新しい寺院である。開山は昭和3年(1928)。おそらく最近訪問した寺院の中で、移転などを除くと最も新しいもののひとつである。開祖は信州の生まれで、子供の頃から病弱で生死の境を三度彷徨ったことから僧侶になり、長野善光寺如来の分身を本尊として遷座したという。現在の住職はまだ第四代らしい。

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そういう寺院なので境内は殆どない。だが塀脇の植込みに自然石の庚申塔が祀られていた。字体が新しいのでいつのものだろうとみると、昭和28年(1953)3月の造立。豊川学校通り商店会によるものである。新しい寺院にある新しい庚申塔、それも悪くない気がした。

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庚申塔の近くには、こちらも新しそうな石仏があった。錫杖や宝珠がないので地蔵なのか、僧侶をモデルとしたただの像なのかは分からない。それでも造立年は明暦3年(1657)1月と書かれている。個人的にはいささか混乱してしまった。字体や像形がどうもしっくりこない。しかし明暦3年は明暦の大火があった年。10万人が亡くなったというこの年に彫られたものだと信じたいと思う。

場所  北区豊島3丁目4-9

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2020年8月 6日 (木)

下道地蔵尊(2)(北区豊島)

下道地蔵尊の後半、右半分である。中央の大きな舟型光背型の地蔵尊がここの本尊とされているらしい。そのすぐ右側にある地蔵立像は丸彫、造立年は不詳である。頭が丸ごと欠損していて、あとは胴が太腿辺りで折れたのを補修してある。

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またその右の丸彫地蔵菩薩立像も年代不詳で、こちらは同じく首が欠損し、胴の中程でさらにひどく痛ましい。特に資料にあったわけではないが、これだけの破壊は第二次大戦の空爆でしかありえないだろう。連続していたんだ丸彫地蔵菩薩の隣には比較的傷みの少ない庚申地蔵がある。舟型光背型のこの地蔵は、元禄16年(1703)11月の造立。

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この庚申地蔵は地蔵の右側に「奉造立庚申二世安樂所 鈴木勘右門」とあることから庚申塔という見方である。その隣の小さな舟型光背型の石仏は右上がちょっと欠けている。この石仏の尊像は不思議である。資料には「異形観音」と書かれていた。実際にこのタイプの観音は見たことがない。造立年は享保3年(1718)11月。「豊嶋村  奉供養庚申 為二世安樂」とあるので庚申塔と言える。

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右端には小ぶりな石仏が並ぶが、右から4番目の石仏は「奉造立千日供養」とあるので念仏講中の千日供養塔ではないかと思う。年紀は右上にあるが欠損していて読めない。巳年という文字のみが見られる。左には「2月6日」とある。右から3番目の小さな石仏は如意輪観音像。正徳6年(1716)2月の造立だが、どうも墓石のようである。奥の小さな地蔵は元禄14年(1701)9月の造立。一番右の如意輪観音は貞享4年(1687)11月のものである。

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下島地蔵尊はこの辺りを本拠地にした中世の豪族豊嶋氏に因んだ「六阿弥陀伝説のお地蔵様」と伝えられ、豊嶋の人々は深く信仰していた。最初はちゅおうの本尊の地蔵様だけだったが、徐々に地域からここに集められて18体にまでなった。「下道(しもみち)」というのは、「志茂」(現在の北区志茂)へ向かう道が分岐していたので、地名として呼ばれるようになったらしい。

場所  北区豊島4丁目16-29

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2020年8月 5日 (水)

下道地蔵尊(1)(北区豊島)

現在は北区豊島4丁目、江戸時代から明治時代にかけては旧荒川(現在の隅田川)河畔の水田地帯、戦後になって日本油脂王子工場などの化学工場が並んだ古道の一角に都内でも随一の地蔵堂がある。祀られている石仏はなんと18基。正面から見ると壮観である。

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流石に一気にすべてを紹介するのは大変なので、半分ずつ紹介したい。左端に小さな石仏が3基あるが、端から頭部欠損の地蔵菩薩像が2基と小さな如意輪観音像(宝永2年(1705))で、どうも墓石っぽい。正面向きの比較的大きなものがその横からずらりと並んでいる。

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台石のある左の石仏は聖観音立像。元禄7年(1694)1月の造立。これも墓石である。隣の如意輪花音像(中央)は宝永6年(1709)11月の造立。「同行拾人」とある。如意輪観音の上に「庚講供養」とあるので、庚申講中による庚申塔であろう。その右隣りは、首が欠損した地蔵菩薩立像。宝永3年(1706)5月の年紀が入っている。足元の両脇には草書で書かれているが私には読めず。

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首の欠けた地蔵菩薩の右隣りは、胴の部分で折れて修復された地蔵菩薩。右側に「奉供養庚申二世安樂之所」とある。造立年は延宝3年(1675)11月、脇に「武刕豊嶋郡豊嶋村敬白」の銘がある。これも庚申講中による地蔵。さらに右隣りは、頭の部分の舟型光背型の頂上が欠損した地蔵菩薩。寛文10年(1670)9月の造立で、「豊嶋之郡豊嶋村」の銘あり。

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中央には3基の大型石仏があり、左側は貞享4年(1687)11月造立の地蔵菩薩立像。これも豊嶋郡豊嶋村の銘がある。胸のところで折れた跡があるがきれいに繋いである。これくらきれいに繋いであると文字も読めるのだが。脇には「奉供養庚申為二世安樂也」とあり、これもまた庚申講中による庚申塔だと分かる。

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真ん中にあるのも地蔵立像。これも「奉供養庚申待二世安樂之処」とあるように庚申塔である。造立は天和3年(1683)10月。「同行男女34人 武刕豊嶋村」とある。ほぼ豊嶋村のものである。しかも江戸時代前期のものが多く、庚申塔が青面金剛像を主尊とする以前の貴重な石仏群である。

場所  北区豊島4丁目16-29

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2020年8月 4日 (火)

西福寺の石仏・庚申(北区豊島)

北区豊島にある西福寺は豊嶋清光(平安時代末期~鎌倉時代初期の武将で、武蔵国豊嶋郡と下総国葛西郡を領土としていたが、一時没落しその後源氏に仕えて鎌倉時代を迎えた)の娘(足立姫)の死を悲しみ江戸六阿弥陀のひとつを本尊として創建されたと伝えられる。豊嶋清光は王子権現(王子神社)も創建している。

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入口には身代わり地蔵尊があるが地蔵そのものは相当新しいもののようだが、逸話は古い。藤原氏が出てくるので平安時代か、ちょっとお姫様の野球拳っぽい話があって、代わりに裸になったお地蔵様ということで身代わり地蔵尊らしい。とても面白い話である。

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境内に入って山門手前の植込みに光背の欠損した丸彫の地蔵があった。台石に文字が刻まれていて、宝暦6年(1756)10月の造立。施主は鈴木金右衛門とある。北区では鈴木姓をよく見かける。

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山門前に並んでいるのが地蔵菩薩3基。左の大きな舟形光背型の地蔵菩薩立像の創建年は分からない。右肩部分が欠損したのを補修した跡があり、像脇の文字はほとんど消えている。中央の半跏像の地蔵菩薩は、宝永6年(1709)7月の造立。台石には「南無三界萬霊六道四聖」と彫られている。台石に「木公屋町」とあるのは「松屋町」の事であろう。しかし松屋町は大阪の地名。それがなぜここにと首を傾げた。右側の舟型光背型の地蔵は宝永4年(1707)1月の造立。とても素晴らしい材石で彫りも良いが墓石らしい。

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山門を入って本堂右手の墓所入口には大きな唐破風笠付角柱型の庚申塔がある。造立年は寛文11年(1671)7月で、青面金剛像、邪鬼、二鶏が彫られているが、三猿が青面と右左面に一猿ずつ描かれている。江戸時代初期のとても質の良い庚申塔である。左側面には「江戸」という文字が見えるが具体的な町名はない。

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墓所に入り、無縁仏塔を見ていくと、中に庚申塔が混じっている。写真の庚申塔は駒型のもので、日月、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿がコンパクトに描かれている。三猿の下には「武州豊嶋郡豊嶋村 同行9人」と書かれていた。

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そして上の地蔵菩薩立像も庚申塔である。右側には「奉供養庚申待二世安樂修」と書かれている。造立年は欠損して分からないが、9月という月は見て取れる。

平安時代は、東京は北から足立郡、豊嶋郡、荏原郡、という領地で、平安の荘園時代になると、江戸はほぼ豊嶋荘であった。そこから鎌倉時代までに江戸を領土としていたのは、豊嶋氏、江戸氏、葛西氏である。豊島区のイメージとはまったく違う豊嶋郡が当時は東京に広がっていたのである。

場所  北区豊島2丁目14-1

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2020年8月 3日 (月)

庚申馬頭観音堂(北区豊島)

王子駅北側の石神井川の流程は明治時代からほとんど変わっていない。明治の前期にはまだ民家もまばらで、明治の終わり頃から大正時代にかけて広大な火薬製造工場が川の東側に作られ、西側には毛織物の大きな工場ができた。駅寄りには印刷局の工場も明治初期からあり、一大工業団地になった。

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川の西側の毛織物工場と石神井川の間には明治以前から民家が多く、現在の豊島五丁目団地辺りまで広がっていた。その南の端にあるのがこの庚申馬頭観音堂である。立派な堂宇の横には臼のような手水鉢らしき丸い石容器があり、大正12年(1923)4月の年紀が入っている。

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堂宇内に祀られているのは3基。ひときわ大きい石仏が、板碑型の庚申塔。中央に「奉供養庚申二世成就処」とあるが、三猿も描かれていない。下部には蓮華が描かれているこの古そうな庚申塔は、寛文4年(1669)9月の造立。江戸時代初期のものである。3ヶ所折れた形跡があるがきれいに修復してあった。

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真ん中の庚申塔とみられる石仏は、上部が欠損している。戦災でこうなったらしいが、古いものではなく造立年は昭和5年(1930)10月。青面金剛の脇には二童子が描かれている。青面金剛の下には邪鬼がいて、その下の三猿はかなり欠損している。左の石柱は造立年代不詳の馬頭観音塔。これも見事に3つに折れたのを補修してあるが、文字が殆ど読めない。第二次大戦の空爆は石を砕く恐ろしいものだったことがわかる。

場所  北区豊島2丁目5-5

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2020年8月 2日 (日)

石神井川傍の庚申塔(北区王子)

飛鳥山に沿って都電と共に飛鳥大坂を下った明治通りは京浜東北線のガードをくぐり、都電とお別れして新しい高速道路のランプが覆いかぶさる溝田橋交差点で右折して尾久、田端方面に向かう。それを曲がらずにまっすぐに進むと石神井川に最接近する。そこには洪水の緩衝地帯としてのあすか緑地が堤防内に作られているが、堤防の外には堂宇がある。

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庚申塔は戦火によって損傷を受けたのだろうか。角柱型の大きな庚申塔が3つに折れている。コンクリートで何とかつないであるが、その為に文字をすべて読み取ることが出来ない。高さは105㎝ある。正面には豪快な文字で「庚申塔」と彫られている。右側面には「(武)列豊嶋(郡豊)嶌邑」とある。(カッコ内は推定)

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年紀については、「寅年霜月」という文字があるが、寅年では12年毎に来るので特定は困難である。とはいえ大きな文字で「庚申(塔)」と書く例は江戸時代後期に多い。1750年以降1850年以前ではないかと思っている。江戸時代この辺りは石神井川がくねくねとうねり、秣場(まぐさば)と呼ばれた場所で、屋根を葺くカヤなどを採取する場所であった。そして庚申塔の場所は当寺の王子村と豊嶋村の村境でもあったのである。

場所 北区王子1丁目30-12

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2020年8月 1日 (土)

安楽寺の庚申塔(品川区西五反田)

安楽寺には5基の庚申塔がある。本堂の左側、墓所への通路の脇に他の供養塔や馬頭観音とともに並べられている。これらの石仏は目黒川に架かる谷山(ややま)橋のほとりにあったもの。今の谷山橋は首都高速目黒線の下の橋だが、関東大震災以前は山手線脇の徳蔵寺脇から目黒川へ下り、そこから安楽寺へ上る道筋であった。

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石仏の真ん中から奥に向かって並ぶ庚申塔の内、一番手前の庚申塔は、板碑型で三猿のみの図柄。造立年は寛文9年(1669)11月と初期のものである。三猿の上には「青面金剛守護所」と書かれていた。典型的な三猿で、左から見ざる、聞かざる、言わざるの順に並んでいる。下部にある願主名は11名で谷山村の人々である。

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その隣は彫りの見事な櫛状角柱型の庚申塔。上部に日月、青面金剛像、邪鬼が2頭、三猿、二鶏と全部盛りになっている。造立年は寛政11年(1779)12月でここにある外の庚申塔よりも100年前後後世のものである。「谷山村講中」「火中出現御影写」という文字も見られる。谷山村は目黒川沿いの村だが、小さな村。現在の西五反田3丁目をちょっとだけ引き延ばした程度の狭さである。左側に二本榎石工長右兵衛の銘がある。

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隣りは、板碑型の庚申塔で、日月、青面金剛像、三猿の図柄。造立年は延宝元年(1673)10月とこれも初期型である。「武州荏原郡桐ケ谷村」の銘があり、谷山村と桐ケ谷村が深い関係があったことがうかがえる。

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更にその隣も古い時代のもの。板碑型の庚申塔で、日月と三猿のみの図柄。ちゅおうに「南無青面金剛」と彫られている。造立年は延宝8年(1680)12月とあるが、村銘はなかった。

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最後は上部が欠損してしまっているが、おそらく駒型の庚申塔である。青面金剛像と三猿が彫られている。脇には「奉供養庚申」とあり、造立年は宝永8年(1711)2月である。安楽寺は江戸時代の桐ケ谷村にあり、隣接する桐ケ谷氷川神社の別当寺であった。

場所  品川区西五反田5丁目6-8

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