2018年6月19日 (火)

元坊坂(久我山)

久我山駅から西へ馬車みち(旧府中街道)を進み踏切を越えるとまもなく久我山稲荷神社がある。 創建は不明。 古来から久我山村の鎮守として親しまれてきた。 東隣には久我山幼稚園もあり、稲荷神社は神田川に下る崖の突端に建っている。

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この稲荷神社の西側を上る道が元坊坂である。「もとぼうざか」と読む。  昔、この坂上に光明寺という寺があったが、光明寺騒動という事件があって寺はつぶれたと伝えられる、と杉並区の資料にはある。 また、この光明寺は火災で移転し幕末の廃仏毀釈で廃寺になったとも伝えられる。

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「もと坊があったことから元坊坂と呼ばれたらしい」とも区の資料には書かれているが、このもと坊は正しくは本坊ではないだろうか。寺院の建物で住職が住む僧坊を本坊と呼ぶが、これを「もとぼう」と呼んでしまい坂名になったのではないかと推察する。

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光明寺騒動については、久我山稲荷神社のサイトに面白い話があるがとても興味深い。 こういう伝承をしっかりと編纂してもらえると、地元への愛着も深まる気がする。 それにつけてもこの坂の景色は良い。 神社の境内の鬱蒼とした樹木、くねった道筋が歴史の深さを感じさせてくれる。

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2018年6月18日 (月)

御女郎坂(久我山)

京王井の頭線久我山駅前の商店街は古い道である。 駅を出て左に進むと、間もなく馬車みちが横切る。 ここからうえみちまでの坂が御女郎坂と呼ばれる坂である。 馬車みちはっ府中街道の旧道でべつめい下道。 うえみちは途中曲がりながら、五日市街道に出るための道だった。

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御女郎坂は「おじょろざか」と読む。 由来などはまったくわかっていないようだ。 どこにも坂名の表示はなく、区で編纂した「杉並の通称地名」には戦前まで使っていた通り名とされている。 完全消滅してしまうまではそう遠くないかもしれない。

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戦前は田畑の広がる地域だったが、戦後徐々に駅を中心に新興住宅が広がり、農家が急速に減少したため、昔からの伝承は消えて行ってしまうのだろう。 都心や田舎には結構残っているのに、首都圏の住宅街には歴史が感じられないのはいささか残念なことでもある。

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2018年6月17日 (日)

笠森坂(杉並区久我山)

吉祥寺から明大前までの京王井の頭線は神田川に沿って走っている。 神田川の源頭は井の頭公園の池、そこから杉並区南部の低地を潤して流れており、江戸時代は神田上水とも呼ばれた。 井の頭公園の最下段の池「ひょうたん池」から流れ出た水は間もなく久我山駅の南側に達する。 この流れが久我山周辺の地形を形作っている。
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久我山駅前で西から来た人見街道が神田川を渡る。 その少し東側にあるのが笠森坂。 坂下が人見街道。 坂下で人見街道と馬車道が合流している。 笠森坂は短い小さな坂。久我山周辺には防災避難路として道に名前が付けられており、看板がいくつも掲げられている。
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坂上の民家の屋敷稲荷が笠森稲荷らしい。 坂上に小作家がありその敷地内にあったと聞く。 坂上で東西に走る道は「うえ道」。台地上を走る東西の連絡路で昭和前期まで「うえ道」の呼称で通っていたらしいが、防災避難路の表示が出来てから再び一般化したようである。
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坂下の人見街道から分かれる「馬車みち」は、下道とも呼ばれていた。うえ道に対して、台地の下を河岸段丘に沿って走る道で、かつての府中街道でもあった。 明治時代に井の頭行きの馬車が通ったのが名前の由来。
 
笠森坂はこんな小さな路地だが、明治初期から府中街道(馬車みち)とうえ道を結ぶ道として人々に使われてきた道である。大正時代までは、坂上は畑が広がり、坂下は神田川を挟んで田んぼが広がっていた。

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2018年6月16日 (土)

永泉寺坂(下高井戸)

永泉寺坂は甲州街道の下高井戸から永福町へ抜ける古道が甲州街道から神田川沿いに下っていく坂道。 道の東側は永福1丁目、西側は下高井戸2丁目で町境になっている。 坂上は甲州街道沿いを流れる玉川上水。 その上水に架かる下高井戸橋からの下りになる。

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上水の北側には寺が沢山ある。 西側(下高井戸2丁目)には龍泉寺、東側(永福1丁目)には本應寺、永昌寺、栖岸院、法照寺、浄見寺、善照寺、託法寺、真教寺、そして広い築地本願寺の和田堀廟所が並ぶ。 一大寺町になっている。 そのほとんどが、関東大震災の被災により、都心部からこの地に移転してきたものである。

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その並ぶ寺院の中で、永昌寺は少し異なる歴史がある。 もともと坂の西側に永泉寺という寺があった。 一方永昌寺は新宿区愛住町辺りにあったが、明治43年に永泉寺と永昌寺が合併して、この地に移転したという。 永泉寺坂の地名の由来となった永泉寺は、永昌寺に吸収されてしまったが、坂名だけはそのまま残ったということである。

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その永泉寺に祀られていたのが玉石薬師。 この玉石というのが、玉川上水の永泉寺付近の工事の折、光沢のある玉石が掘り出され、その石の光沢の中に薬師像が浮かび出たことから祭られるようになった。 寺は上水の工事の無事竣工を念じて供養し、付近の人々の信仰も深まって、毎月8日の縁日は永泉寺ボロ市と呼ばれて賑わった。 この市が有名になったので、永泉寺の名前も現在に残されたのである。

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2018年6月15日 (金)

法印坂(杉並区永福)

本村坂から井の頭線をくぐり神田川上流方向へ進む。 現代の住所は井の頭線を越えると、和泉から永福に変わる。 この道路の脇には、昭和の中頃まで神田川の分流(用水路)が流れていた。 この分流と神田川の間には昭和中期までたくさんの養魚池があった。釣堀もあったようだが、内容に関する資料はまだ入手できていない。時代的には金魚なども多かったのではないかと思われる。

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法印坂の坂名の由来は、杉並区の資料によると、ここは昔の和泉村と永福村の村境で、坂の北東側に日照寺という真言宗の寺があり、そこに法印という住職がいたためとある。日照寺は明治初年廃仏毀釈時に廃寺となった。

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すぐ南西側には永福寺があり、そちらは大永2年(1522)開山の曹洞宗の寺院。もとは西隣の永福稲荷神社の別当だった。北条氏が豊臣に負け小田原城が落城した時、北条氏の家臣であった安藤兵部丞が当時の住職を頼ってここに帰農して、永福村の発展に尽くしたと伝えられる。

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2018年6月14日 (木)

本村坂(杉並区和泉)

地蔵坂を下り、神田川を井の頭線と並んで蔵下橋で渡る。 そのまま吉祥寺方面へ進むと川の左岸の上りになる。 これが本村坂である。 「もとむら」ではなく「ほんむら」と読む。 昔、この坂の場所に名主梅田家の屋敷があり、その屋号が「本村」だったため、本村坂と呼ぶようになったと伝えられる。

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上の写真は蔵下橋を本村坂側から見たものだが、周辺は若干田舎っぽい景色で、井の頭線の土手の草地がずっと続く線路沿いに江戸時代からあったこの道が通っている。 しかし、2016年の訪問時にはまさかのその線路わき緑地にビルが建てられていたのに驚いた。 以前は幅数mの線路沿いの空き地に車が並んた簡易駐車場だったが、養生シートに囲まれてビルがほぼ建った状態になっていた。 薄っぺらい敷地によく建てたものだ。

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このビルが建てられたお陰で明るかった本村坂が一気に暗闇坂のようになってしまった。写真右手の樹木に覆われた部分が屋敷森でここには500坪ほどのお屋敷があった。 これがかつての梅田家ではないかと推測している。 南側に隣接したマンションが「マンション本村」とこの家の屋号を付けている。

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2018年6月13日 (水)

地蔵坂(杉並区和泉)

杉並区和泉、明治大学の和泉キャンパスの裏手には多種多様な歴史が残っている。 崖下を切通しで走る京王井の頭線と水道橋で交差する玉川上水。 玉川上水は蔦に覆われ、側道の脇を通っている。

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そして複線の井の頭線に4線分のトンネルがある。 これは戦前に東京山手急行電鉄という会社が山手線の外側に円周鉄道を計画していた名残りで、大井町から北上、小田急線梅ヶ丘、京王線明大前というルートに対応して、建設時に4線分を作ったが、世界恐慌のあおりを受けて頓挫した。

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鉄道遺構の吉祥寺寄りに向かって地形は大きく下っていて、間もなく井の頭線は神田川を渡る。 この遺構の近くにあるのが地蔵坂である。 井の頭線神田川橋梁と並ぶ道を都心に向かうと、道が二手に分かれ、左が地蔵坂の古道である。

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大正時代以前に永福町界隈から甲州街道への道は七軒町(今の下高井戸)に上る永泉寺坂とこの地蔵坂の二つしかなかった。 坂上は甲州街道の代田橋で、ここにはダイダラボッチ伝説が残る。あの「もののけ姫」に出てきた巨大な鹿神の化身のモチーフである。 そのダイダラボッチが架けたのが代田橋という、あり得ない言い伝えが残っている。

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現在の坂は緩やかにカーブを繰返しながら上っていく。坂上の西側に広い共同墓地がある。 ここには明治初年まで地蔵堂があったが、本尊は現在は井の頭通りの北側の閻魔堂に移されているという。 しかし、墓地入口にはいくつかの地蔵が並んでいる。

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時代的には、江戸前期から江戸末期までの地蔵が集められている。 墓地の入口は階段で、上ると地蔵が並び、その手前に「和泉村 地蔵堂墓地」と彫られた石塔がある。 江戸時代この辺りは和泉村と呼ばれた神田川流域の農村であった。 現在の明治大学和泉キャンパスは戦前は火薬庫で、江戸時代から弾薬の貯蔵庫(塩硝蔵)として使われていた土地である。

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2018年6月12日 (火)

尻割坂(杉並区和泉)

尻割坂とかいて「けつはりざか」と読む。 珍しい坂名である。 由来については、急坂なので力を入れて登降するから、腰の筋肉が張るという意味で呼ばれるようになったらしい。 現在の坂は大した坂ではないが、昔はもっと急だったのだろう。

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坂の南側のブロックには和泉熊野神社がある。 一方の北側、垣根の区画はもと当麻家の屋敷だったところで、植込みのなかに近代的で立派な門がある。 向こう隣りは貴船神社である。 どんな屋敷だっただろう。 この辺りの庄屋だったのかもしれない。 坂上あたりは和泉山と呼ばれた丘で、もとは広大な雑木林だった。 家が建つようになったのは戦後である。

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2018年6月11日 (月)

番屋坂(杉並区和泉)

いの坂の南側、神田川で言えば上流にある坂道が番屋坂である。坂下の神田川に架かる橋の名前が番屋橋。 杉並区の資料には、由来は定かではないが、この坂の下に番屋橋があるので、ある時期番小屋があったため名が付いたかもしれない、とある。 番屋というのは、江戸時代に消防や自警で見張り番が詰めていた小屋のことで、現代で言えば交番みたいなものである。

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現在は住宅がびっしりと建っている地域だが、昭和中期まで坂下から川側は田んぼだったので、果たして番屋があったかどうかは疑問である。あったとすると、この番屋坂の坂下あたりなら可能性があるが古い地図にはそれらしきものが描かれていない。

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さらに明治時代は勿論、昭和の初期までこの坂の位置に道はない。 坂下の道と番屋橋は江戸時代からあるのだが、この斜面にはほとんど家がないのである。 しかし杉並区の資料には番屋坂の名前は昭和20年頃まで通称として使われていたとあるので、地図に道が記載されていないだけかもしれない。 坂名の由来で行き詰ってしまった。

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坂の南側に貴船神社がある。縁起には「当社は和泉熊野神社の末社です」とある。 和泉熊野神社は隣のブロックにある。 近所というよりお隣である。 そんな場所に飛地で神社を建てる意味合いがあるのかと思って、縁起を読んでみた。

創建は文永年間(1264~75)と古く、祭神は高龗(たかおかみ)の神。 この神は山、谷あるいは川に住む雨水を司る竜神で、雨ごい、止雨に霊力がある。 当社はこの水を支配し豊穣を約束する神として信仰されていた。 もともとは神田川の治水を司る人々の支えだったということであれば、坂下のこの神社に農業用の神田川の水を管理する番所があったとしても不思議ではない。 あくまでも個人的な推察だが、番屋坂の番屋はそこに由来しているのではないかと思われる。

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2018年6月10日 (日)

いの坂(杉並区和泉)

神田川が削った崖にはいくつもの坂がある。 有名無名本当に数多の坂が、人間の営みと共に何百年、何千年と続いているのがこの武蔵野台地の川沿いの特徴である。位置的には、丸の内線の方南町駅と井の頭線の永福町駅の間にいくつかの名前の付いた坂があるが、いの坂はその最も下流の坂道である。

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坂上には大円寺があり、神田川に架かる一本橋という橋から大円寺に上る坂というのが残っている資料の記述だが、この大円寺は曹洞宗の寺院で薩摩藩島津家の江戸での菩提所である。もともと赤坂の溜池にあったが、廃仏毀釈に加えて島津家の神道改宗により寂れて、この地に移転してきた。

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坂上の大円寺の東側には巨大な和田堀変電所がある。 江戸時代からの寺と、近代文明の象徴ともいえる変電所が並んでいるのはなんとも言えない風景だが、実際は樹木が多いので変電所の裏が山という感じの風景になっている。

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2018年6月 9日 (土)

東坂(中野区南台)

神田川を挟んで両側に広がる農村が昔の雑色村である。 川の西側には駒ヶ坂、東側にはこの東坂がある。 徳川家康が江戸入城する時代にはすでにここには雑色村があった。川の流域で相対的に低地なので、かつて田んぼだったところには営団地下鉄の車庫、丸の内線の車両を地上に並べている。

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地下鉄車庫の南側が方南通り、そのさらに南側が台地になっている。 その台地はさらに南に進むと低くなり、神田川の流域の田んぼ地帯だったエリアになるが、昭和の中期までこの低地帯の地名が雑色として残されていた。 その低地帯から台地に上る南側斜面の坂が東坂である。

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坂名の由来は多田神社の東側を上る坂なので東坂というシンプルなもの。 多田神社は雑色村の鎮守で、源頼家が大宮八幡宮に参詣した折に、先祖の多田満仲を奉祀したのがこの多田神社の始まりと伝えられる。 神社の創建は寛治6年(1092)、平安時代末期である。

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坂の傾斜は比較的緩やかだが、古道であるだけに良いカーブを描いている。 兵庫県の川西市多田にも多田神社がある。どちらも清和源氏の流れである。神社の裏参道が坂上に付いている。

坂下は昔は水田地帯で湿地帯が広がっていて、田舟(農作業を行うために乗る小舟)を使って米を育てていたという。 そういう場所で開発が昭和の中頃に入ってからだったので、比較的大きな土地が開いていたため、現在は学校や大型の商業施設になっている。

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2018年6月 8日 (金)

駒ヶ坂(中野区弥生町)

杉並区との区境近い善福寺川と神田川に挟まれた三角地帯、ここは地形的には二つの川に挟まれた巾着型の台地になっており、その台地の中心が方南町にあたる。 この台地の北東地域で善福寺川に向かって下るのが駒ヶ坂である。 駒ヶ坂の坂下、善福寺川に架かる橋は駒ヶ坂橋、その下流で善福寺川はほぼ同じ水量で神田川に合流する。

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坂道は一直線だが、これは昭和に入って整地されたため。 それ以前は曲がりながら傾斜を下る坂道で、江戸時代からあった古道である。十貫坂から駒ヶ坂を通り、現在の大原辺りで甲州街道に繋がっていた。『東京府村誌』に「駒ヶ坂、雑色村村西にあり、長さ三十間広さ三間」とあるので、54mの長さの坂で道幅が5.5mと昔から広い道だった様子。 雑色村の地名は昭和42年まで字名で残っていたが現在はない。

大田区にも雑色があるが、雑色というのは、平安時代の役所に蔵人所というのがあり、そこで雑役に従事する人々を雑色と呼び、そのいわゆる役人に住まわせた場所が雑色という地名になったケースが多いという。 大宮八幡宮を創建する際に尽力した役人たちが住んでいたというのが中野区の資料にあった。

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坂の周辺は中野区と杉並区の区境が入り組んでいる。 坂下の駒ヶ坂橋を渡ると杉並区。 西にワンブロック行くと杉並区。 神田川と支流が度々流れを変えた地域で、昔から境も頻繁に変化した名残である。 駒ヶ坂の坂名の由来は、杉並区の資料によると、鎌倉攻めの時に軍馬が通ったからという説があるらしい。 坂下の駒ヶ坂橋を渡って進むと立正佼成会の施設が広がるが、ここに本陣山という場所があり、和田義盛が鎌倉攻めの折にここに陣を取ったという記録がある。

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2018年6月 7日 (木)

地蔵坂(杉並区堀の内)

大聖寺坂を下って本村橋で善福寺川を渡り、くねった道を少し上ると堀の内熊野神社がある。 西側の日本済美学校の跡地で区の済美教育センターの敷地は向山遺跡。 古墳時代の集落跡の遺跡で、昭和62年という比較的新しい時代に発見されたもの。 古墳時代の住居跡の他、縄文時代の土器、平安時代の住居跡、江戸時代のゴミ捨て場など、各時代の発掘物が出た複合遺跡で、何千年もここで人の営みがあったことが分かる。

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本村橋の場所には昭和初期まで水車があり、その上流には今井さん堰という水車の水を取るための席があった。今井さんというのは済美学校の創設者である。

熊野神社の手前を右に入り、参道の鳥居を横目に進んだ先の辻を左に曲がって上るのが地蔵坂である。この坂の西側には昔、旧和田堀内村の役場があった。 先述の本村橋の名でもわかるように、熊野神社の周辺は和田堀内村の中心部で堀の内本村という地名だった。

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その役場跡の正面に大きな地蔵堂があり、これが坂名の由来となって地蔵坂と呼ばれる。この坂では塞ノ神祭りが行われてきた。 塞ノ神祭りというのは日本の民俗伝承的な祭りでどんど焼などで現在も各地に残るもので、正月に祭った飾りを集めて焼く行事である。東日本では道祖神などと結びついたりすることが多く、村境や辻などで祭られ、道から悪いものが入ってくるのを防ぐ意味合いを持っている。

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そのような場所にこの立派な地蔵堂があり、9基の石仏石碑があるのは極めて意味の深いもので、何百年もの伝承が残っているといっても良いかもしれない。 9基の時代はまちまちだが、不詳のものを除くと、1700年頃から明治時代までのものが並んでいる。

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2018年6月 6日 (水)

大聖寺坂(杉並区掘の内)

中野区方南町から西へ続く方南通りは西永福で井の頭通りにぶつかる。 その手前北側に創建1063年の大宮八幡宮がある。源頼義が奥州征伐後、京都の石清水八幡宮の分霊でここに建てた神社と伝えられる。

大宮八幡宮から東へ参道が伸びている。 諸説あるが、東国から京都を守る意味合いの向きという説が個人的には支持したい説。 この東の参道が方南通りにぶつかるところから、北に下るのが大聖寺坂である。

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大聖寺坂は大宮小学校前を下っていく。 この大宮小学校の場所に大聖寺があったため、坂名になったと伝えられるが、大宮小学校は明治10年の開校なので、明治初期の廃仏毀釈時代に廃寺になったのだろうかと考えた(実は違っている)。

しかし杉並区の資料を見ると、ここにあった寺は大正寺といい、学校の敷地は善福寺川の方から見ると丘になっていて、大正寺山と呼ばれた。その西側を下る坂ということで大正寺坂だが、この大正寺に祀っていたのが大聖不動明王だったので、大聖寺の方が正しいかもしれないと資料には書かれている。

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伝承では大正寺は慶長年間(1596~1614)に妙法寺に移ったと言われるが、定かではない。 そうなると江戸時代の間ここには何があったかということだが、一説には不動明王はこの地に残っていたとも言われる。

さらに別説で、後に(後三年の役時代)八幡太郎義家が戦勝してここを通ったので、大勝利の坂→大勝坂→大聖寺坂となったというのもある。 関東には鎌倉伝説が多くて紛らわしい。

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2018年6月 5日 (火)

山王坂(杉並区松ノ木)

京王井の頭線永福町駅前で井の頭通りと交差する南北の道は古道である。 甲州街道の下高井戸から永泉寺坂を下り神田川を渡る。永福町の駅前を通り、大宮八幡宮の参道に至ると、さらに北上し善福寺川を渡り、青梅街道に至る道である。 永福町駅の北側は左斜めにはいる細い道が古道でいささかわかりにくいが、大宮八幡を目指せばほぼ間違いはない。

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大宮八幡先で善福寺川を越えると、和田堀公園の間を進む。 この辺りは川沿いでもあり、古くから人の営みがあった場所。 松の木遺跡の復元住居は古墳時代のものだが、実際には縄文時代の発掘物も多いようだ。 そんな川沿いから北に上っていくのが山王坂である。

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カーブしながら上っていく様子は古道であることの証でもある。 山王坂の名前の由来は、この台地に山王社の小祠があったのでこの名が付いたという。 坂下の和田堀公園には池があり、カワセミも棲んでいる。 様々な鳥類が集まり、バードウォッチャーも多い。

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2018年6月 4日 (月)

三年坂(杉並区成田西)

三年坂という坂道は都心にもいくつかある。だいたいがこの坂で転ぶと3年以内に死ぬという根拠のない伝説めいた理由で付いた名前。 そして近くには墓地か寺があるというパターンである。 杉並区の五日市街道近くにある三年坂もその域を出ていないことが歩いてみて分かった。

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杉並第二小学校の校門前に杉まるくんというコミュニティバスの三年坂というバス停がある。 バス停名になっていることがうれしい。 そして、校門脇には区教育委員会の説明を書いた金属板が立っている。

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「この右手の坂道は「三年坂」と言われていますが名称の由来は、はっきりしていません。三年坂と呼ばれている坂は、京都や熊本地方などにも数多くあり、坂名の由来について様々に言われているようです。

東京では、江戸時代より三年坂と呼ばれていた坂は、旧東京市内も六か所ほとあるようです。いずれも、地域の境界にあり、昔は急坂で、寺院や墓地がそばにあったり、または、寺院から見えるところにある坂ばかりです。

この坂で転んだものは、三年きり生きられないとか、三年たつと死ぬとか言われた伝承がありました。当地のこの坂も、ほぼ同様のいい伝えが残されており、かつては、尾崎橋から宝昌寺北へ一直線に上がる坂で成宗村の村境に位置していたと思われます。

明治時代のころの地図でみますと、崖端を直線で登る車馬の通行困難な急坂で、宝昌寺のうっそうとした森と杉二小の崖に挟まれた昼でも暗い、気味の悪い物騒な感じのする所だったようです。そこで、人々は坂の往き来に用心が必要だと言うことから三年坂の名をつけたのではないでしょうか。

通称地名には、昔の杉並をしのばせるものがたくさんあります。この坂の地名も大切に伝えてゆきたいものです。」

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現在でもかなりの勾配の坂になっている。 坂の南側は宝昌寺という寺と墓地である。 しかし北側が小学校なので、子供たちの声が響いて明るい。 さらに坂下は善福寺川緑地の広場になっていて、周辺の子供たちの遊び場になっている。

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2018年6月 3日 (日)

白幡の坂(杉並区成田東)

高円寺の青梅街道から南へ分岐する五日市街道を下ると、成田東で善福寺川(神田川の最大支流)を渡る。 この橋が尾崎橋。川の西側の昔の地名が尾崎で橋の南側の緑地は尾崎田んぼと呼ばれた農地だった。 その地区名が付いた尾崎橋の東側を一部あたかも旧道ですという風に回り込む路地がある。 ここを入ると白幡の坂になる。

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上の写真の左側の道が馬場みち、右側が五日市街道の旧道白幡の坂になる。 旧道と言っても、明治時代以前の旧道で、大正時代には今のバス道路が開通していた。 この旧道を進むと五日市街道に戻るが、道の向こう側にまた別の旧道が南側についている。 明治時代の旧道が今でも残っているのはこの辺りではここだけである。

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上の写真は左側の道(馬場みち)、下の写真が右側の道(白幡の坂)である。資料によって馬場みちと白幡の坂が逆のものがある。白幡の坂の名前の由来は、やはり昔の地名である。 江戸時代、この辺りは成宗(なりむね)村であった。一方、善福寺川の西側は田端村。 地名としては川の西側が尾崎、東側が白幡という字名になり、その名をとって白幡の坂である。

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馬場みちも江戸時代からの道で、青梅街道の阿佐ヶ谷への近道だった。白幡の地名は、源頼義が奥州征伐の際にここを通過した時、源氏の白幡の様な瑞雲が現れ、これが因縁で大宮八幡宮が勧請されることになった。その白幡が見えたあたりを白幡、尾のあたりを尾崎と名付けたという。

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この白幡の坂の分岐に地蔵堂がある。両脇に地蔵菩薩が2基、間に馬頭観音が1基、右から元禄11年(1698)、宝暦10年(1760)、宝暦3年(1753)とある。 街道沿いの辻にはよく石塔がある。 特に難所があると馬頭観音が祀られている。 昔はこの坂も旅人を難儀させたのであろう。 五日市街道は昔は悪道で知られていたようだ。

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2018年6月 2日 (土)

地蔵坂(高円寺)

中央線には国分寺、吉祥寺、高円寺と寺の付く駅名が多い。国分寺は武蔵国分寺で江戸以前の関東の中心地だが、吉祥寺には吉祥寺がない。それについてはここでは触れないが、高円寺には高円寺がある。宿鳳山高円寺が駅の南東にあり、この寺は家康が元服し、家光が鷹狩りの折に好んで立ち寄ったという。

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地蔵坂という名前の坂は多い。 そこに地蔵があれば地蔵坂となるのは至極自然なこと。 この坂にも昔、坂脇に六地蔵があったが、現在は高円寺に保存されている。梅園川緑道の中島橋跡から南に路地を進むと間もなく分岐。 左側が地蔵坂である。

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現在は小さな路地だがこの道は江戸時代から続く道。 宿鳳山高円寺から青梅街道に出る道で、家光もおそらくここを何度も通っただろう。 東京の街にはこんな道が埋もれているから面白い。 青梅街道からのこの道を戦後環七が分断した。今ではこんな路地だが、もっと謳ってもいい気がする。

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坂上には区立の高円寺図書館、高円寺体育館がある。 地蔵坂の坂下あたりには、「六つ塚」という大きな塚があり、周辺の開発時に崩されてしまったが、発掘された刀などから、太田道灌と豊島氏の戦の死者を葬った塚ではないかと言われている。 兵どもが夢の跡、街中でそんなものに出会うこともある。

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2018年6月 1日 (金)

六号坂(幡ヶ谷)

現在の新宿新都心の高層ビル群は昭和中期まで淀橋浄水場だった。 明大前にある和泉浄水場とこの淀橋浄水場を直線で結ぶ水道があり、玉川上水新水路という名で明治時代に作られた。 明治になって玉川上水を管理する役人が廃止され、汚水や動物の死骸が流れたり、勝手に舟を通行させたりと野放し状態になり、水質が極度に汚染された。 明治19年にはコレラも流行し、治水の改善を明治政府は迫られる事態になり、 それを解決したのが、浄水場と新水路であった。

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水道道路側には街灯が立ち、六号坂通りというハチマキ看板が付いている。 玉川上水の新水路なので付近では尾根筋にあたる部分を通っているため、ここが坂上になる。六号坂は笹塚の十号坂と並んで、戦後商店が立ち並んだ賑やかな通りとなった。

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商店街を入り少し歩くと途中から明らかな下り坂となる。 六号坂というのは、坂上の上水にかかっていた六号橋が由来。 淀橋浄水場から一号橋、二号橋、と架かっていて、ここが6番目の橋だった。大正初期の地図を見て、角筈の橋から数えると見事に6番目がここになるのは当然だ。

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坂下で商店街を出て少し進むと新道橋跡がある。 西側は幡ヶ谷新道公園になっている。 ここは神田川笹塚支流(和泉川)の跡で暗渠になっている。 この川が台地を削ってできた坂が六号坂であり、十号坂である。 暗渠については別の機会にしたいが、この和泉川の暗渠は歩いて楽しい暗渠としておすすめ。

ただ商店街はまだ元気だとは言うものの、昭和の賑わいはなく、徐々にシャッターを閉じた店舗が出てきているのが残念である。 東京というバケモノが過去の遺産を食い尽くして廃墟にしてしまう、街を観察しているとそんな気がするときが増えてきたように思う。

かつてのこういった商店街は数十年の命、しかしその商店街に致命傷を負わせたスーパーやショッピングセンターはその半分の寿命、さらに建築のための街づくりをする都心ももはや日本人だけでは投資回収が困難になり、インバウンド頼りになりつつある。都心の巨大開発はもっと短い命だろう。 経済がロービームで足元だけを照らすのも、政治もロービームだからである。その先にあるものを見ることが出来ないトップだらけになりつつあるこの国には、大きな不安が付きまとっている。

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2018年5月31日 (木)

ゆうれい坂(東中野)

東中野駅は駅に沿って脇の道が下り坂。 線路面を1階とすると西口は2階が出口になる。 ところが東口はほぼ線路面になる。 しかし東口を利用する人は階段を使って地下1階から上ってくる。 ホームの東端の先はがーとになっていて道路が下をくぐっているのだ。 東西の高低差は15m近くある。

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その地形を作ったのは神田川。 しかし不思議なのは幽霊坂の頂点から北側の東中野5丁目にあたる地域がまるで山のように高いのである。 幽霊坂の道は少し低い西側からいったん坂を上り、丘を越えて神田川側に下ってくる。 下の写真は、反対側の入口である。そしてこの坂に並ぶ路地は押しなべて名坂である。じっくりと全部回ってみたいものだ。

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こういう形の坂はよく鍋割坂と呼ばれる。 しかしここはゆうれい坂。 どうもその名が付いた理由が分からない。 飯田橋の庾嶺坂(別名幽霊坂)の場合は、梅の花がきれいな場所を中国(唐)の故事に習って「ユレイ」と呼んだのが由来だった。その他の多くの幽霊坂は武家屋敷周りで樹木が生い茂って暗い場所であることが多い。

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ここの場合は飯田橋の庾嶺坂と同じだと思いたい。 中野は梅園を代表するように梅の花見の名所だった。 ここは少し離れているとはいえ、神田川脇の丘の上、遠くまで見渡せる丘だったので、昔の人が梅を植えて楽しんだ可能性は高い。 そう推定して、資料を探してみた。

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明治の地図を見ると、この坂から北側が華州園という広い庭になっている。 この台地の名前は小滝台といい、江戸時代は農村、大正時代は相撲界の力士の屋敷街だったという。そして華州園というのは今も一部に存在している。明治から大正にかけてここは四季折々の各種花々が咲き、東京市中に出荷される花園だったのである。 ここのゆうれい坂の由来は、おそらくは庾嶺坂と同じものであろう。

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2018年5月30日 (水)

十貫坂(中野富士見町)

青梅街道の丸の内線新中野駅の近くに鍋屋横丁という交差点がある。 都電が荻久保まで走っていた時代、鍋屋横丁という停車場があった。大正から昭和にかけて、中野銀座と言われ、青梅街道筋では最も賑やかな場所だった。

しかし鍋屋横丁の歴史はさらに古く、江戸時代に遡る。『東海道中膝栗毛』を書いた十返舎一九が鍋屋横丁のことを書き残している。 江戸時代末期にここに鍋屋という茶屋があった。鍋屋はたいそうな豪商で、広大な梅園も持っており、花見の客で賑わったという。 明治の初期までは花見というと梅が主体で、桜は後になって、特に戦後復興と桜が結びついて爆発的にソメイヨシノが広がったという経過がある。 江戸時代から明治にかけての花見の多くは、実は梅なのである。

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その鍋屋横丁を下り、中野通りを横切ると十貫坂のプレートを貼った街灯がある。 「これより十貫坂 - 十貫坂の由来:付近から十貫文の入った壺が出てきたという説と、中野長者が坂の上から見渡す限りの土地を十貫文で買ったためと記録にあります。」と書かれている。 磯田道史氏原作の映画『殿、利息でござる!』のレートを使うと、十貫文というのは町民の通貨レートで、武士の通貨レートにすると2両となり、現在に換算ずると60万円程度となる。 60万円で見渡す限りの土地が買えるなら、自分も買うぞと言いたくなる。

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坂は緩やかに下っていく。 両側に中層のマンションが迫るが、この道は江戸時代から続く古道である。 微妙なカーブがそれを示している。 もう一つの説、古銭十貫文というと重さで37.5㎏。 しかし10円玉や100円玉で37.5㎏というと大したことはない。 100円玉は4.8gなので、78万円。 中野長者の十貫文と大差ない。

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十貫坂は坂下まで緩やかなカーブの坂道になっている。この坂の傾斜を形成したのは神田川だけではなく、その支流の沢もかかわっている。 昔はこの周辺は湧水も多かったのだろうか、昭和前期以前の地図にはたくさんの池が描かれている。沢の源頭は堀之内の環七沿いにある真盛寺の池のようだ。 この沢は古くに消えた沢だが、暗渠が意外に明確に残っている。

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坂下近くには十貫坂地蔵堂がある。 ここには6基の石塔が保存されている。概ね1692年~1717年の元禄から享保にかけてのものである。周辺にあったものをまとめたと考えられるが、こういうものが大切に保存されている町はいい街である。かつ体の不自由な方にもお参りしやすいようにバリアフリーのスロープになっているところはかなり珍しい。

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2018年5月29日 (火)

レンガ坂(中野)

レンガ坂を坂道シリーズに入れるかどうかいささか悩んだ。 しかし、こういう坂があってもいいという広いフトコロで道を見るべきかもしれないという点から、あえて含めた。 いつからこの路地がレンガ坂になったのかはわからない。 2010年以前から煉瓦道にはなっていた。 レンガの歩道に「レンガさか」という埋め込みがあった。

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2013年頃に入口のモニュメントが新たに設置され、RENGA ZAKAと表示された。 渋谷ののんべえ横町や新宿の思い出横丁(小便横丁)、吉祥寺のハーモニカ横町を目指しているのだろうか。 個人的には昔の地名「桃園」の方が魅力的に感じるので、桃園坂でも良いような気がする。

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通りは結構賑わっていて商店会もある。中野レンガ坂商店会という。三菱UFJ銀行とドラッグストアの間を入っていく。 いずれにせよ、この辺りは江戸時代はお犬様のいぬやしきが広がっていた場所である。ここを通り、「五の囲」のいぬやしきに入る。

5代将軍綱吉は、それまでの将軍が中野近辺で鷹狩りを好んで行ってきたのに対し、この一帯を「お囲い(巨大な犬小屋)」にしてからは鷹狩りをやめたという。 それを暴れん坊将軍?吉宗が復活させたというのもまた面白い。 その吉宗がここを気に入り、桃を植えさせて桃園になったというのが地名の由来である。

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2018年5月28日 (月)

水車坂(中野)

水車坂は鳥見坂から150mほど西側にある、やはり青梅街道から桃園川に下る坂道である。 大正時代以前は、お鳥見通り(鳥見坂)の裏道として使われていたようだ。 桃園川の当時の流れはもっと北側の大久保通り寄りで、鳥見坂下から桃園川の流れを分けて、この水車坂の下あたりに水車を設置していた。

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明治から大正にかけての地図を見ると、桃園川には意外と水車は少なく、神田川合流点から遡るとここが初めての水車になる。大正期の地図ではここが桃園川唯一の水車なので、水車坂を名乗る事にはまったく問題ない。 甲武鉄道と青梅街道に挟まれた地域なので、ほかの地域に比べて農家も少なかったのかもしれない。

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以前はこの坂の駐車場側に民家があり、大谷石の擁壁があって、その上の植込みに「水車坂」という手書きの金属板があったようだが、今は写真の通りコインパーキングになってしまっている。 坂上の東西の道は、青梅街道の裏道で、江戸時代の街道は間口税を取る関係上、敷地が何百mも裏に伸びているもので、ここも青梅街道から200m近く離れているが、多くの家の裏庭がここまであったはずである。

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2018年5月27日 (日)

鳥見坂(中野)

中野区中央5丁目の区立桃花小学校の前にある坂道。 以前は桃園第三小学校という校名だったが、2008年に桃丘小学校、仲町小学校を併合して桃花小学校となった。桃丘小は中野駅南口すぐ西側、仲町小は堀越学園近くだったので、児童はかなり遠くから通学しなければならなくなった。小学校の統廃合は行政の効率化の課題。 子供と老人が住みにくい街を作ってはいけないように思う。

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坂下には桃園川の暗渠と大久保通りが通っている。 大久保通りは中野駅の南側で桃園川の左岸から右岸へ大きく曲がっているが、大久保通りができた関東大震災後はまだ駅周辺にしか民家はなく、この辺は田んぼだったから、駅南側の民家を避けて、道を通しやすい農地に沿って曲がったのではないかと思われる。

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鳥見坂は学校の南側から西側へ回り込むようにカーブして下っていく。 校庭には大きなケヤキがある。樹齢600年と言われる通称「千年ケヤキ」で、学校のシンボルになっている。そのケヤキが見下ろす鳥見坂は江戸時代からあった古い道で、明治大正時代も甲州街道側から谷に下り中野駅に向かう道として使われていた。 この通りの古い呼び名が「お鳥見通り」で坂名はそこから来たものである。鳥見の意味は分からないが、将軍の鷹狩りと何か関係がありそうな名前である。

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坂下には桃園川の古い橋の欄干が残されている。 こういうのはとてもうれしいものだ。 親柱には「かう志んばし」と彫られているが、庚申橋だろう。 桃園川暗渠は橋の欄干や親柱が比較的多く残されている。一見無駄に思えるかもしれないが、土地の記憶というものは人々の心の支えにもなりうるので、ぜひ残してほしいものである。

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2018年5月26日 (土)

小笠原坂(中野坂上)

JR中野駅の南口で駅前を掃除している高校生がいた。 見ると堀越学園の生徒である。 堀越学園と言えば、芸能人の多い高校である。 名前を挙げればきりがない。アイドルだけでなく演歌歌手や俳優、スポーツ選手まで、とてつもない著名人を輩出している。 中野駅南口から彼らは歩いて20分くらいのところにある堀越学園高校に通っていた。

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その堀越学園は上野写真の左側の道を行くとある。 そして小笠原坂は右側の道。 緩やかな上り坂で、梅園川の慈観堂橋から南へ伸びる。 現在は中央2丁目と中央3丁目の町境。 堀越学園の道も小笠原坂も江戸時代からある古い道である。

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坂上を東に進むと、宝仙寺に戻るが、その手前にぽつんと煉瓦塀が立っていた。 近づいてみると、説明板がある。 ヤママサ醤油製造所の煉瓦塀の遺構である。 1899年当時中野で初めての煉瓦建築だったとある。 昔の建築はとても頑丈にできている。 大震災にもびくともしない。 そもそもが現在の東海道線や京浜東北線、山手線も、明治時代に築かれた土台の上を走っているのである。

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2018年5月25日 (金)

犬坂(中野坂上)

中野坂上の北西、宝仙寺裏を北へクランクしながら下る坂道が犬坂。 宝仙寺と宝仙学園中学、高校の間を抜ける。 宝仙寺の竹垣が美しい。 クランクの仕方も窮屈でなく、退屈でなくちょうどいい。 坂を下った先には梅園川の暗渠がある。 犬坂の道が梅園川を渡るのが宝仙橋。
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宝仙寺の裏手はもと杉林で、ここを上る道は野良道だった。大正時代以前の地図には道は描かれておらず、宝仙寺の裏で西に折れた道はそのまままっすぐ金剛橋を渡る古くからの道に接続していた。 坂下はすぐに梅園川でその北側に田んぼが広がっていた。
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犬坂という坂名の由来は、一説には中野のお犬様の保護施設に因むというのがあるが、場所が違いすぎる。 中野区の調査によると、江戸時代に将軍が鷹狩りに出た際に、猟犬がが野犬に襲われることがあり、宝仙寺に勢子を置いて、野犬狩りをし、この坂下あたりに野良犬を拘束していたという。 そうであればうなずける。
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宝仙寺は大きな寺である。昔は山手通りの東側の飛地にあった三重塔が空襲で焼失してしまった。それとほぼ同じ大きさの三重塔が平成4年に再建された。 隣には、珍しい石臼塚がある。 神田川には昔から水車がいくつもあり、そば粉を挽くのに使われていた。 江戸っ子が蕎麦を大量に消費するようになって、玄蕎麦がここ中野に集まるようになり、中野から江戸中の蕎麦屋に供給された。
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その後機械化が進み、石臼は水車と共に見捨てられていった。それを見た僧侶が、ここに石臼の供養をはじめ、それが積み重なって石臼塚になった。 その僧侶が宝仙学園の創始者だと説明板には書かれていた。

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2018年5月24日 (木)

相生二番坂(中野坂上)

環状六号線山手通りが開通したのは戦後になってからだが、青梅街道と甲州街道の間だけは戦前に開通していた。 それ以前は神田川が南北の往来を制限していたのである。 大正時代以前に神田川流域から、青梅街道方面へ上る道のひとつがこの道で、かなり古い道である。
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もちろん現代の道路基準である幅員4mに満たない。 古い道というのは得てしてそういうもので、法律はつい最近できたばかりでこの道を否定することはできないのである。「4mに達しませんが、歴史に敬意を表して道路とお認めします」という感じである。
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坂の途中にある整備された公園は古い公園だったが、近年きれいになり、子供たちの声も響いている。 中野区では通称道路名を明記しているところがいくつもある。 相生一番坂通り、相生二番坂通りは昭和63年に設定された通称道路名である。 良いことだと思う。 道路や広場は人の集まるところであるから、名前があると人々のコミュニケーションにはとても役に立つ。

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2018年5月23日 (水)

相生一番坂(中野坂上)

中野坂上交差点の南東エリアは現在本町1丁目、旧町名は相生町だが、大正以前は青梅街道沿いを下町、南側の神田川に近い区域を本郷といった。 トヨタレンタカーの西側から分かれる道筋は昔、本郷通りと呼ばれる道だった。 本郷というのは本村と同じ意味合いの地名で、その地域で最初に家が集まり始めた場所につけられる地名である。

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現在は「本一通り」と命名されている昔の本郷通りからすぐ南に下る路地を行くと、間もなく神田川の低地へ下る坂道になり、彼方に西新宿熊野神社脇にある高層マンションが見える。 坂を下ると神田川と並行する道に出て坂は終わる。

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本郷というのは神田川の豊かな水を利用して人が農地を開拓し始めたころの名残りだが、大正時代以降の相生という町名の由来はよくわからなかった。 この地域の町会名は現在も相生本一町会という。

町会の歴史を辿ると、武蔵国豊玉郡本郷村が最初で、明治22年に本郷村が中野村に併合された後も、神田川は暴れ川で頻繁に流れを変えた。渡れる橋も淀橋と成願寺橋の二つしかなく不便をしていた。 関東大震災のあった大正12年の末にようやく新たな橋を架け、その橋名は対岸の町同士が仲良くやっていけるようにと「相生橋」と名付けられた。 それをとって相生町としたという。

その相生も本町1丁目となって久しく、わずかに坂名にその名を残しているのはあわれでもある。

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2018年5月22日 (火)

中野坂(中野坂上)

淀橋は西新宿の旧町名だが、その淀橋の地名の由来になったのは、青梅街道の神田川に架かる橋名、淀橋に由来する。 好まれない言い伝えの残る「姿見ずの橋」という名を、徳川家光が、ここの景色が淀川を思い出させるので淀橋にせよと命じたので、淀橋になった。 江戸名所図会にも描かれ、神田川に木橋がかかり、人々が往来する様子が見える。 また西側にもう一つの流れもあったことが描かれている。この脇流は昭和の中頃まで存在し、脇流の西側に都電の淀橋停車場があった。

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新宿から西進すると、成子坂を下って淀橋を渡り、そこから再び上っていくのが中野坂である。 江戸時代は淀橋より西は多摩郡で武蔵野の中に入る意味で中野という地名になった。 また当時中野へ行くというと、堀の内の妙法寺へ参ることをいい、帰途の土産に中野坂上で弁慶飴を買ったという。しかし中にはその先で内藤新宿の遊郭に引っ掛かり、つい遊び惚けてしまって弁慶飴が溶けてしまったみたいな逸話も残っていて面白い。

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中野坂上も近年西新宿の先の交通至便の地という理由で随分と開発が進み、高層ビルが立ち並ぶようになったが、まだ路地裏に回ると民家が多く古い道も残っている。 坂の北側にある中本一稲荷神社は神田川の河岸段丘の縁にあり、ビルに隠された地形を主張している。

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中野坂上から少し北に行ったところに中野区第十中学校がある。 この場所は昔、宝仙寺という寺があった場所で、三重塔が建っていた。 この三重塔の珍しいところは、地元の農民が施主となって建てたという点である。 当時貴族や有力武士でないと不可能だった三重塔を建てた農民というのはどんな人たちだったのか知りたいものだが、当の三重塔は残念ながら空襲で焼失してしまった。 現在の宝仙寺は西の方に移転し、学校も併設した大きな寺になっている。

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2018年5月21日 (月)

十号坂(笹塚)

京王線笹塚駅から北に進むと甲州街道を渡りその北側に並走する水道道路がある。都内には何本か水道道路があるが、都道角筈和泉町線もその一つ。 和泉給水所(甲州街道と井の頭通りの松原交差点にある大きな水道タンク)と淀橋浄水場(現在の西新宿高層ビルエリア)を結んでいた玉川上水の新水路の上に作られた道である。 尾根筋を走り、谷を越える時は盛土をして、谷がわの道はこの道の下をトンネルでくぐっている。

甲州街道を越えて少し西に寄り道をすると、笹塚の地名の由来が書いてある。どうも大昔の街道の一里塚らしい盛土があり笹が生い茂っていたので、この地を笹塚と呼ぶようになったとある。ここから一里というと新宿三丁目(追分あたり)になる。追分からの一里塚という意味であろうか。

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笹塚駅から北上し、水道道路を渡ると十号坂通り商店街という名前の商店街に入る。水道道路よりも笹塚駅側は「坂」のない十号通りである。 この水道道路沿いには、他に六号坂、七号通り公園、九号通り公園など、数字の入った地名がある。 これは角筈(西新宿)から1号、2号と水路に架かる橋に名前を付けていった名残りである。

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通りは昭和の商店街のイメージそのまま。 西新宿周辺にもこんな商店街はたくさんあったが、ずいぶん少なくなった。

坂下近くで交差する路地のひとつは暗渠道で、西へ辿っていくと橋の欄干の遺構があったりする。かつての神田川の支流、和泉川の暗渠。 ここは遺構が結構残っているので、暗渠探索にはもってこいの道である。

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2018年5月20日 (日)

日陰坂(代々木)

首都高速を走る人はこの坂の場所を4号線上り代々木PAの下と言えばほぼ場所が分かるだろう。  小田急参宮橋駅から首都高速沿いに東へ下り、明治神宮の北参道口にでるのが日陰坂である。 坂名に反して、現在は比較的明るく、かつ騒々しい道になっている。

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何年か前に首都高速下の明治神宮の擁壁が真っ白く塗られてしまってさらに明るくなった。 もとはただのコンクリートの壁だった。 できればもっと神宮らしい擁壁にしてもらいたいと思う。 神宮の森は井伊家の下屋敷跡の御料地であった。明治天皇崩御(1912)後に、荒れ地だったこの広大な土地に神宮の森を作るという壮大なプロジェクトが始まり、本多清六博士らが政府を説得しながら本物の森を作り上げたのは感動すべき実話である。 あの森は100年前は荒れ野原だったのだから。

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日陰坂は江戸時代の道筋とは少し変わっているが、カーブがいじられたくらいである。 江戸時代は坂下に高札場があった。この道は甲州街道に繋がる裏街道で、日陰坂という名も暗い裏道からきたのだろう。国立競技場の傍には幕府の火薬庫があり、それを運搬する荷車はこの坂道を通って甲州街道へと往復していた。坂の南側にある現在の明治神宮の広大な敷地を有した彦根藩井伊家の下屋敷にあったモミの巨木が有名だったので、その老樹から代々木という地名が生まれたという。

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また坂下の北参道と出合うところには、暗渠と川跡がある。 元から渋谷川支流の細い沢があったのを、玉川上水からの原宿村への分水として利用したもので、その護岸跡である。 また日陰坂のカーブの場所は、明治神宮の北池(宝物殿前)から流出した流れが、外の川に合流した場所でもある。 明治神宮が出来たことで、東京は緑の首都になったといっても過言ではない。 大正時代の先見の明のある学者方に感謝である。

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2018年5月19日 (土)

切通しの坂(代々木)

余談だが代々木は渋谷区である。 本来は新宿駅南口の甲州街道が新宿区と渋谷区の区境なのだが、最近できたNewomanは新宿区になっている。 線路の上の甲州街道南側は新しく人工地盤というものを構築して空中に土地を作り上げたので、そういう住所区割りになったようだ。 新宿区も渋谷区も固定資産税を確保したいので、裏ではバトルがあったのではないかと想像した。 ちなみに新宿御苑は北半分が新宿区で南半分が渋谷区である。

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代々木駅の西側、といってもほとんど小田急線の参宮橋駅に近い「春の小川」の河骨川源頭、そのやや南側にこの切通しの坂がある。 100mほど北には河骨川源頭のそばの刀剣博物館が2018年1月にリオープンした。 その河骨川が削った谷に下って上る代々木側が切通しの坂である。

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坂上の首都高脇の立正寺前に黒御影石の坂名の石塔がある。 また少し下ったところには区の立てた標柱に次のように書かれている。

「岸田劉正が描いた切通しの坂
 画家岸田劉正は、大正3年(1914)から 5年(1916)にかけて代々木に住んでいたので、このあたりを描写した作品がたくさんあります。そのうちの一点に、名作「切り通しの写生」(重要文化財)があり、大正4年(1915)に発表しました。」

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この坂より北側は公爵山内豊景(旧土佐藩)のお屋敷で、その庭には大きな池があり湧水が滾々と湧いていたという。それが河骨川になってこの切通しの坂の下から現在の小田急線沿いに流れていた。

岸田劉生が描いたようにこの坂は赤土の坂で、雨のあとや雪の日は多くの通行人が転倒しただろう。 当時の代々木公園は演習地でその北のはずれにあるこの辺りはつい100年前には赤土の荒れ野原だったことを想像するのに、岸田の絵はとても助けになった。

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2018年5月18日 (金)

初台坂(初台)

代々木八幡神社のやや北側、初台南の交差点で山手通りから分岐するのが初台坂。 ほぼ山手通りに並走して京王新線の初台駅に至る道である。 山手通りが建設、整備されたのは戦前から戦後にかけて、それまでは初台坂が南北の幹線だった。 その初台坂の坂下には昔、初台川という川が流れていた。 宇田川に注ぎ、渋谷川に至る川である。 現在もその欄干が残っている。

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初台坂下には細い人道路地があるがそこを入った先にこれがある。山手通りから見た時にこれは暗渠だと思い足を踏み入れてみたら図星だった。 この欄干は初台橋のもので、川は甲州街道南側の玉川上水のある本町1丁目あたりを源頭に流れている。 この川が谷を形成し、その東側の崖線にとりついたのが初台坂である。

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初台という地名の由来は、初台の局、徳川秀忠(二代将軍)に仕えた奥女中である。現在の西参道口(高速道路のカーブが交わる下)にある正春寺を起こしたのがこの初台で、墓所は境内にある。

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新道の開通により旧道が静かになった例は多いが、この坂もまたそんな坂である。 それでも明治時代までは低地は田んぼ、丘の上は雑木林という武蔵野の風景であった。明治時代の地図を見ると、この坂の周りには竹林も多い。 賑やかな甲州街道の裏手にある農村である。

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2018年5月17日 (木)

切通坂(代々木八幡)

代々木にも切通しの坂という坂があるが、こちらは代々木八幡宮の南側を切通しで抜ける坂道である。 代々木八幡の境内には縄文遺跡がある。「代々木八幡遺跡」というが、約4,500年前の住居跡が昭和25年に発掘され、境内に復元してある。 当時は縄文海進の時代で、現在の小田急線あたりは東京湾の波打ち際だった。 渋谷川流域の入江は一部汽水域もあり、食物が豊富で暮らしやすかっただろう。

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この切通しの坂は見事だが、江戸時代から切通しの道だった。 周りに数多道路があるが、明治初期以前はこの道が唯一八幡へのアプローチルートだった。当時はこの切通しの真ん中からまっすぐに社殿へ参道が上っていたようだ。 現在は山手通り側に付け替えてあるが、途中で参道が曲がっているのはなぜだろうと思っていた。 古地図を見て、やはり南側からまっすぐなアプローチだったことが分かった。

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渋谷区の資料では、古い時代からの切通しの道で、明治から昭和の初めまでは、郊外の農民が野菜を荷車に積んで、上澁谷や青山久保町にあった市場に出荷するためこの道を通ったという。 赤土でぬかるんで滑りやすい道だったので難渋したと伝えらえる。

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2018年5月16日 (水)

弥之助坂(代々木上原)

代々木上原と代々木八幡の間、宇田川の上原支流から台地に上る坂道。 1978年に千代田線の代々木公園駅から代々木上原駅間が開通し、この坂の150mほど東側で千代田線が地下に潜る、その手前の高架工事により、坂の道筋は大きく変えられてしまった。

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谷筋からはいきなり鉄道高架をくぐって左にカーブする。 元の道はまっすぐに谷筋へ下りきり、そこに踏切があった。 しかし高架になったことで、弥之助坂は線路手前で線路沿いに西へ40mほど迂回させられることになった。

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傾斜地の多い東京西側は高架と地下(切通し)が繰り返す鉄道路線が多い。 小田急も東急も実際には上り下りを繰返す。 京王線は玉川上水沿いを走るので高低差は少ない。 甲州街道といい、玉川上水といい、昔の人は地形をよく知っていたものである。 京王線笹塚・調布間が1913年、小田急線と東急東横線が1927年だから、やはり高低差の悩みのない京王線が早かったのは納得である。

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線路から離れるところからが本来の弥之助坂である。弥之助坂の坂名の由来は、渋谷区史にある。 享保年間(1716~1736)の富ヶ谷の住人、池上弥之助の所有地前にあったので弥之助坂と呼ばれた。

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大正時代までは坂下は田んぼが広がり、西隣の旭坂とこの弥之助坂のみが坂下から台地に上がる道であった。 現在も坂上からは新宿のビルが望める。 地元ではこの急坂をシリモチ坂と呼んでいたらしい。 今よりもさらに急な坂道だったことがわかる。

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2018年5月15日 (火)

旭坂(代々木上原)

代々木上原の駅ビルの通路を新宿方向に歩いていくと、旭坂の坂下に出る。 もともと代々木上原駅の駅前商店街はこの旭坂を中心に広がっていた。 坂下の小田急線の北側には渋谷川支流宇田川のさらに支流となる上原支流があり、大山町支流、西原の狼谷支流を合わせて、駅付近に深い谷を形成した。 この渋谷川の源流は代々木八幡で「春の小川」で有名な河骨川を合わせて流下、この辺りの地形はその数多の沢が削った谷で「代々木九十九谷」と呼ばれる。

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旭坂はかなりの勾配で小田急線をくぐり、南に向かって上っていく。 当然谷底なので、反対側にも急坂がある。 九十九谷にあるのは九十九坂で、谷沿い以外はほとんどが坂道。 その中でこの旭坂に名前があるのは、この道が江戸時代からある道だからである。

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江戸時代から大正時代まで、この坂下は田んぼが広がる谷あいだった。 そして傾斜地には広葉樹が広がる山村風景だったはずである。昔の道は、台地の際に付いている。 代々木上原周辺にはその際についた道が今も地形として刻まれていて、散歩が楽しい。

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旭坂は地元では上原銀座という商店街である。 人も車も行き交う賑やかな道だ。 坂上で丁字路になり、弥之助坂から来た道と出合う。 この道も古くからある道で、そのまま南西に進むと三田上水にぶつかるところまで通じている。 拡幅された井の頭通りは周辺の古い道と街並みを無視して東西に延びた新道で、周辺の道とはまったく相容れない向きになっている。

大原にある和田堀給水所が1924年に完成。 武蔵野の境浄水場と水道管で結ばれたので、吉祥寺から和田堀までは直線、そして和田堀で角度を変え渋谷方面へ直線で水道管を通し、その上に出来たのが井の頭通りである。

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2018年5月14日 (月)

やりくり坂(代々木上原)

やりくり坂という名前はユニークである。 渋谷区の資料によると、昭和4年(1929)頃、付近の住民が坂を作るのに必要な費用を、やりくり算段して出し合い、また労働奉仕もして開通させたのが由来だという。 この坂が出来てから、代々木上原から渋谷、青山方面へ出るのが非常に便利になったという。

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この坂道はJASRAC(古賀政男音楽博物館)の裏側の道になる。同じ時期に井の頭通り(水道道路)も開通しているので、その逸話の真相はよくわからない。 JASRACがビルを建てた時も、地元での評判は悪かった。 現在のJASRACの体質についても、対相撲協会並みの不信感を持つ人が多いと思う。 私も代々木上原に居た時期があったが、地域にも国民にも嫌われている社団法人の代表格と言えるのではないだろうか。

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JASRACのことはこれ以上触れたくないので、この坂の話に戻すと、坂下は渋谷川支流宇田川の源流にあたる谷筋。 昭和戦前期までは谷のエリアはほぼ田んぼだった。戦前戦後辺りから民家が増え始め、平成に入ってからは現在の様な高級住宅地になった。 代々木上原に住む人々は昔から、駅が谷底にあるので、どこに行くにも急な坂を登らなければならなかった。

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2018年5月13日 (日)

夕やけ坂(恵比寿)

恵比寿西1丁目にある長谷戸小学校、その校門前の坂道が夕やけ坂である。 坂道自体は戦後の区画整理によるもの。公園の脇から小学校に向かって上りになる。 小学校は台地の上に位置している。 駒沢通りと校庭の標高差は10mある。

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今年で創立105年とあるが、この場所に移転してきたのは昭和14年である。この小学校の音楽教師に草川信という人がいた。「夕焼け小焼け」「ゆりかごの歌」「汽車ポッポ」などの誰もが知る唱歌を多く作曲した。草川氏に因んで長谷戸小学校はゆうやけこやけの学校とされている。

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石碑が校門前に立っている。 そこには次のように彫られている。

「草川信先生は大正6年3月に音楽学校を卒業、同年4月より長谷戸小学校の若き音楽教師として着任。 昭和2年4月までの十余年勤務されました。その間児童の音楽教育に情熱を傾けられ,、本校児童の音楽的才能の啓発・向上に尽力、幾多の功績を残されました。 さらに本校在職中に児童の愛唱歌をつぎつぎに作曲・発表、子どもたちはこの歌を口ずさみながら成長しました。  ここに創立75周年を記念して草川先生を偲びこの顕彰碑を建立するものであります。」

草川氏が音楽教師として勤務していた頃の長谷戸小学校の場所はここではなく、内記坂の坂下だった。

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2018年5月12日 (土)

内記坂(恵比寿)

東横線代官山駅のトンネル上にある駅東口の前の通りを恵比寿方面に向かう。 途中から長い下りになる。昔は長谷戸町と衆楽町の町境の道だった。ゆるやかにカーブしながら下っていく。明治時代には恵比寿と代官山を結ぶ最短の道として開けていた。

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内記坂の坂名の由来は、書物によると、横山内記の抱屋敷があったことに由来するとある。 横山内記は江戸時代の旗本、大名ではない。どうも諸説があるようで、特定は難しい。 ただ1750年頃の江戸絵図にはすでに「ナイキ坂」と書かれているので、ここが内記坂であったことは間違いない。

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そうなると横山内記が何者なのか、ここに抱屋敷を所有していたのは旗本の横山内記なのかという点にも不安がある。周辺はむしろ松平丹後守の抱屋敷が複数あったので、そっちの名前で呼ばれる方が自然な気がする。 もっともこの坂に付いては坂の先駆者のひとりである横関英一氏が詳しく書いているので、それも参考にした。 ただ、周辺の開発があまりに進みすぎたので、内記坂という名前が忘れられるのはそう遠い話ではないかもしれない。

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2018年5月11日 (金)

衆楽坂(恵比寿)

昭和30年代の土地区画整理事業で恵比寿や代官山の地名は大きく変更になった。以前の衆楽町、長谷戸町、代官山町、丹後町、田毎町、公会堂通りの6町の全部、または一部が恵比寿西2丁目になった。 しかし意外と地元のお年寄りは旧町名で呼ぶことが多いし、町会も昔の区割りのままの場合が多い。やはり、町の単位というのは大きすぎてはいけない。 都会であってもそこそこの小さな単位が必要なのだと思う。

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代官山坂から東横線を谷底のやや東側で横切り、そこから8mほど上って再び下る。 その下り坂が衆楽坂である。 もちろん由来は衆楽町という町名だが、衆楽の由来が分からない。 衆楽町という名前は地図を見る限りでは、関東大震災以降の名前らしく、それ以前は代官山の傾斜地で人もほとんど住まない場所だったので、地名は不要だったのだろう。

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恵比寿とか代官山のように、平成になってから人気の出た街にあやかって、マンションやビル名にその名前を付けたがる不動産オーナーが多い。 集落坂周辺はほとんど代官山が付いている。 ビル名・マンション名の規制は何とかならないものかと思うが、経済を優先すると大切なものを失うことがある。代官山と付けるだけで家賃を1割増しできるとか、そういう類のせこい話が多いのだろう。  お役所にはもっと長い目で地域を見てもらえるようになるとありがたい。 もっとも明治時代はここは代官山だったと言われればそれまでだが。

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この衆楽坂の坂下には7坪程度の場所に5基の庚申塔と1基の馬頭観音が保存されている。  作られた年代は1664年、1668年、1674年、1676年と古く、下澁谷村の村名も彫られている。 残りの1基は明治のもので、馬頭観音と並べて道路側に立てられている。 散歩をしていると、各地の庚申塔やお地蔵様に年配の方がお参りして、掃除をしたり、花や供え物をしているのに出遭うことがある。 日本人の心の琴線に触れるものがある。 そういうお年寄りを見ていると、涙が出そうになることがあるのだ。 自分たちはこれを失ってはいけないという思いが湧いてくる。

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2018年5月10日 (木)

代官坂(代官山)

代官山のメインストリートである八幡通りと駅のある谷の間の代官山の路地の坂道で、坂の下半分は真ん中部分が50段ほどの階段になった作りをしている。 古くからの坂名ではなく、昭和初期から近隣の人々がそう呼び始めた。 坂の高低差は10mほどある。

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新撰東京名所図会にある代官山の解説は、「代官山とは渋谷川並木橋より鉄道踏切を越えて、南の高地をいふ。彼の岩谷松平の赤門赤屋は此に至る入口に在りて、天狗山と自書しあるはおかし。もとは全く山林地なりしが、今は新築の人家在り。 幕府時代は代官所の所轄林たいしより此名あるにや。之を南進すれば其の右は小名猿楽なり。」とある。新撰東京名所図会は明治の中期から末期のものである。その頃はまだこの道は谷の田んぼへ降りるための農道程度だった。

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したがってこの坂道も比較的新しい坂なのだが、風景がいい。地形に対して素直なつくりをしている。 関東大震災以降、山林だった代官山にも多くの人々が移り住み始めた。 この階段付きの坂道は、その頃の代官山のイメージを想起させてくれる。

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2018年5月 9日 (水)

代官山坂(代官山)

代官山はいつからお洒落なエリアになったのだろうか。 1970年代後半に私が中目黒に住んでいた頃は、急行の止まらない列車のはみ出す小さな駅という認識だった。 中目黒の駅前から見上げると、そこには明らかな河岸段丘があり、旧山手通りには上り坂になるのであまり出向かなかった。 私が近隣住民だった当時はまだ同潤会代官山アパートがあり、渋谷の外れだった。

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代官山の地名の由来は江戸時代の小字名として残っているが、代官の屋敷があったからとか、代官所有の山林があったからとか諸説あって定まらない。 暗渠マニアは鶯谷の沢を「三田用水鉢山分水」、代官山を走る谷を「三田用水猿楽口分水」と呼ぶが、三田用水ができた1664年からわずか350年で谷が形成されるとは考えられないので、もともとの沢があったとするのが自然である。代官山駅も(旧)東横線もこの谷筋に作られた。

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明治時代の地図ではこの谷の両側はわずかな田んぼと、それを囲む針葉樹林、そして崖線には広葉樹林の林になっていて、古道である八幡通り沿いにポツポツと家がある。 街が開発されたのは大正時代になってからで、この広い代官山坂も尾根筋の八幡通りから下る道としてその頃開かれた。代官山坂という坂名で呼ばれるようになったのは昭和の初めころのようだ。 この道は線路を横切り、衆楽坂を経て恵比寿駅に至る。

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2018年5月 8日 (火)

天狗坂(代官山)

代官山と言っても並木橋に近い。 南北に走る八幡通りは古い鎌倉街道。 青山学院から代官山鎗ヶ崎へのこの道は山手線を跨ぐ。 裏手の道は鉄道のなかった昔は線路あたりで分岐して上村坂へ繋がる道で、こちらも古道である。 その古道と古道の間をつなぐ路地に天狗坂がある。

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坂下の古道の北側は渋谷川の支流の鶯谷である。この辺りは谷が広がっており、明治時代、天狗坂の先には沢に水車もあった。 明治の地名では「中澁谷長谷戸」となっている。 恵比寿にも長谷戸(ながやと)小学校があるが、しばしば長い谷の入口を「長谷戸」と呼んだという。どちらも狭い谷がぱっと広がる辺りを指す。

現代の天狗坂は車両通行止めだがなぜか車が駐車している。 坂の真ん中には「てんぐ坂車止」と彫られた石柱が立っている。大した性根をしているものだ。この辺りの相場は月極4万円だから、駐車違反を取られても損した感覚は薄いだろう。 そんなことはどうでもよく、この短い天狗坂になぜ名前が付いているかである。 塀側に教育委員会の説明板がある。

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「この坂を、天狗坂といいます。岩谷松平(号を天狗、嘉永二年~大正九年(1849~1920))は、鹿児島川内に生まれました。明治十年に上京し、間もなく銀座に、紙巻煙草の岩谷天狗商会を設立し.その製品に金天狗、銀天狗などの名称をつけ、「国益の親玉」「驚く勿れ煙草税金三百万円」などの奇抜な宣伝文句で、明治の一世を風靡しました。
 煙草の製造に家庭労働を導入するなど当時としては画期的、独創的な工夫をしました。明治38年(1905)、煙草専売法が実施されると、この付近の約43,000平方メートル(13,000坪)の土地に、日本人の肉食による体質の向上を考えて、養豚業をはじめるなど、国家的な事業に貢献しました。晩年、岩谷天狗がこの地に住んだことから、この坂名が生れました。」

と書かれている。 人名が由来の坂道であった。岩谷天狗は代官山を天狗山と呼ばせ、自分の家は朱塗りにしていたという。

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この塀のある家は古くからある民家で、この家の敷地内に数基の石仏がある。 庚申塔、十三夜塔、地蔵塔がある。 庚申講については省略するが、ここの庚申塔は右から正面金剛、天邪鬼、三猿、あと写真外だが日月をかたどったものなどが並ぶ。 網があって引いて撮影できないので一部のみになっているが、地蔵立像には「左目黒道」と彫られていて道しるべになっていたようだ。

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2018年5月 7日 (月)

亀山坂(代官山)

南平坂に相対するのが亀山坂。 坂名の由来は教育委員会にもわからないという。 坂下の南平坂から変わる谷底が鉢山町交番。 区の資料では、古くから亀山坂と呼ばれていたようである。

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渋谷区の資料によると、付近に坂名の起源となるような人物もいた記録がないので、いつからか坂の形状を亀の背に見立てて亀山坂と呼ぶようになったのかもしれないと、自信無さげに記述している。 この道はもともと明治以前は街道ではなく、細い農道だったらしい。

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鉢山町の名前については、ここに法道上人というお坊さんの鉢がここに飛んできて落ちたので鉢山と呼ばれるようになったと土地の言い伝えにあるという。 空海の三鈷もしかり、お坊さんの投げたものは変なところに落ちるものだ。

明治時代の地図を見ると、三田用水の水はこの下の鶯谷へ流れる沢には流れていないようである。沢筋は元水道橋の西郷橋の下から流れ、鉢山町交番裏手の鉢山公園へ抜ける細路地を流れていた。 こういう薬研風の坂には必ず暗渠があり、辿り甲斐があるものだ。

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2018年5月 6日 (日)

南平坂(渋谷)

代官山の旧山手通りは尾根筋を流れる三田用水沿いの道である。 そこから現在の渋谷駅埼京線ホームの恵比寿側の端あたりへ切れ込む窪地が鶯谷。現在もこの谷筋は「鶯谷町」という住所である。 鶯谷を流れていた川の名前は分からない。 東京オリンピックまでは開渠だったが、その頃埋められてしまった。

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その水線沿いに南平台と鉢山町の町境が走る。町境と垂直に国道246の道玄坂上からの道が谷に向かって下っていく。 これが南平坂で、名前の由来は南平台という地名である。 ただし南平台という地名は明治末期に付けられた町名。 そして南平坂はそれ以降に開かれた道である。

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坂を下りきると向こう側に続くのは上りの亀山坂。 薬研の形をしている。谷底の交差点は変則の五差路。 角に派出所がある。派出所は代官山側にあるので鉢山町交番と呼ばれる。南平坂の南西には新日鐵住金の南平台公邸、向かいには高級マンションで、どちらも緑豊かな高級住宅地を感じさせる。 木漏れ日が心地よい。

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2018年5月 5日 (土)

間坂(渋谷区桜丘)

こちらの間坂は「あいだざか」と読ませる。 246の渋谷駅前交差点から斜めに抜けて代官山へ行く抜け道ルートとしてドライバーの間では知る人ぞ知る道。 以前からどうしてこの道はこんなにくねっているのだろうと思っていた。 位置的にはセルリアンタワーの裏道になる。

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調べてみるとこの道は意外と古い道であった。と言っても関東大震災後の話である。 この道を境に、北を道玄坂まで大和田町、南を桜丘町としたので、その間の坂道ということで、間(あいだ)坂という命名らしい。 この町名になったのが昭和3年(1928)なので、その時からかもしれない。

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渋谷駅の南に位置する桜丘町は丘陵地形。 渋谷川の支流である鶯谷という流れが削ったもの。 目黒川と渋谷川の間には丘陵の尾根筋が走っていて、その尾根を三田用水が流れていたが、この鶯谷の源頭部分が低くなっているため、三田用水は仕方なく水道橋で谷を越えた。上の写真の旧山手通りの西郷橋である。 もとは水道橋だったきれいなアーチ橋で、昔の建築のセンスの良さに感心する。

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2018年5月 4日 (金)

道玄坂(渋谷)

坂名は全国区の高い知名度、おそらく誰でも知っている道玄坂。 現在渋谷駅周辺でJRとクロスするのは国道246号線ともうひとつ、道玄坂から宮益坂の道の二本がメイン。 国道246号線は戦後高度成長期に開通した道である反面、道玄坂は江戸時代以前からの古い街道筋である。

江戸名所図会には、宮益坂から下り渋谷川を渡って道玄坂をくねくねと上り、やがて松見坂に至る景色が描かれている。 ほぼ完全に野原と山の景色である。

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道玄坂の標柱には次のように書かれている。

「江戸時代以来、和田義盛の子孫大和田太郎道玄がこの坂に出没して山賊夜盗のようにふるまったとの伝説がありました。しかし本来の道玄坂の語源は、道玄庵という庵があったことに由来すると考えられます。」

前半の説は道玄が洞窟に潜んで盗みや強盗をはたらく話で、こっちの方が私は面白い。後半の説は、この地に道玄寺という寺があって、そこの僧侶の名が道玄だったことに因むというもの。 ただ宮益坂は江戸時代から街道沿いの店もあり街の雰囲気はあったが、道玄坂が開発されたのは明治の後期で、世田谷区に軍の施設が出来て軍人が往来するようになってから人が集まり始めたという。

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道玄坂が本格的に人通りを見せるようになったのは、関東大震災で焼け出された人々が世田谷方面に家屋を求め、そのために往来が増えたことによる。大正生まれの亡父が十代の終わりころ東京に出てきて渋谷をうろついていた話をしてくれたことがある。 道玄坂上には伴順三郎の芝居小屋があったことなどを聞いたが、30年くらい前までは花街っぽい面もたくさんあった。 渋谷駅の西側は長い間「俗」の街であり続けたのだと思う。

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2018年5月 3日 (木)

間坂(渋谷宇田川町)

この路地に坂名が付いているとはいささか驚いた。 しかしLoftと紀伊国屋書店の間には石柱が立っており、「間坂」と彫られている。 石柱ははんこを逆さにした形になっている。 渋谷区のHPによると「まさか」と読ませるらしい。 いっそこの路地を「まじ」と読ませて間路と書いてはどうだろうかと提案してみたい。

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一応短い路地なのに2m程度の高低差がある。 平成元年にLoftが一般公募して命名したようだ。 由来はいくつかある。 「渋谷駅と公園通りの間」、「ビルとビルの間」、「『まさか』という語呂の良さ」、「『間』という漢字が人と人との関わり合いをイメージする」という理由らしいが、それを理由にすると日本中の路地に間坂が出来てしまう。

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やはり公募や企業や自治体が決める方法はダメだ。 渋谷センター街が「バスケットボールストリート」と名打ったが、だれもバスケットボールストリートなんて言わない。 むなしくも街灯にその文字が林立しているだけで、馬鹿丸出しのところがある。 センター街はセンター街である。 渋谷でなくとも三ノ宮でもセンター街はセンター街だ。 その通り名であった時代が地層のように積み重なって地名は生まれる。 また、一部の人々が呼び始めたのが、大半の人々に支持されて地名は生まれる。 そんな一企業、一自治体、一個人が決めるのは、プロセスを含めてセンスのかけらもない。

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2018年5月 2日 (水)

スペイン坂(渋谷)

これも新しい坂である。 いつごろからスペイン坂と呼ばれるようになったのだろうと記憶をたどってみる。 上京して渋谷を歩くようになった昭和51年頃にはもうそう呼んでいた記憶がある。 渋谷区の情報を見てみると、昭和50年に付けられた坂名だそうだ。

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渋谷区のHPには以下のように書かれている。

喫茶「阿羅比花(あらびか)」の店主、内田裕夫氏は、写真で見たスペインの風景に心ひかれ、店の内装 をスペイン風に統一していました。昭和50年にパルコからこの坂の命名を依頼されたときには、迷わずこの名をつけたそうです。命名後、近所の人たちも協力して、建物を南欧風にしました。

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記憶では「スペイン坂スタジオ」にいつも人だかりができていた。 1993年にパルコとFM東京が共同で街の一角に設置したスタジオで、2016年まで使われていたが、パルコの建て替えと共に閉鎖した。

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さらに時代を遡ると、スペイン坂自体は明治時代からある道である。 渋谷川支流の宇田川が削った崖線の坂道。 昔の宇田川はスペイン坂下、今の宇田川交番の傍には水車があった。 明治の終わりから大正にかけてこの辺りの開発が進みなくなってしまった。 そんな渋谷を現代の誰が想像できるだろう。

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スペイン坂の1本西にある坂道もいい味を出している。 通称道路の名前は「ペンギン通り」というらしい。 別名愛山通りともいうのは、この通りの脇にごみに囲まれて、「山路愛山終えんの地」の標柱が立っている。終焉ではなく終えんと書いたのは、街に合わせたのだろうか。 ペンギンの由来については区のHPにもあるが、訝しいのでノーコメント。

明治時代までは松涛から流れてきた沢が今の東急本店の下を流下し、吉本ホールのところで宇田川と合流していた。 その頃の渋谷を見られるものなら見てみたい。

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2018年5月 1日 (火)

オルガン坂(渋谷)

東急ハンズ渋谷店の西側の道路は井の頭通りの神南小学校下からいきなりの坂になっている。 この坂をオルガン坂と呼ぶ。 車道と歩道(路地)が二段になっているのが特徴で、そこにはモンベル渋谷店がある。 渋谷は店舗やテナントの変化が多いので、あると書いて数年するとなくなっていることが多い。 しかし東急ハンズ渋谷店は1978年の開店から40年頑張っている。 ここが3号店で、1号は藤沢、2号は二子玉川だったが、どちらもすでに消えた。 渋谷ハンズのひとつの階が三段になっている構造はユニークで面白い。

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オルガン坂の名前の由来は渋谷区のHPによると、通りの周辺に音楽関係の店が多かったところから付いた、あるいは東急ハンズ前の階段がオルガンの鍵盤に見えたからという説を挙げているが、ちょっと訝しい。

この坂を作り出したのは宇田川(渋谷川の支流)である。井の頭通りの裏手に暗渠の通りがある。 上流へ進み、代々木八幡で支流の河骨川に分離、河骨川は「春の小川」の唱歌で有名だが、明治時代まではこの渋谷の真ん中あたりでも蛍が飛んでいた。 「ホタルの住む渋谷」なんてCMがあるが、もともと住んでいたのだからクリエイターの認識が不足している。正しくは「ホタルの復活した渋谷」である。

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何しろ井の頭通りから松涛側は1900年頃は田んぼが広がっていたのである。 渋谷と言えば当時は道玄坂から宮益坂が町で、現在のハンズの西側の田んぼの先には鍋島農場という農場が広がっていた。 渋谷区松濤(住宅地地価日本一)の町会によると、明治9年に徳川家から佐賀藩の鍋島家がこの辺り一帯を買取り、鍋島家は失業武士の救済目的で「松涛園」という茶園の経営を始めた。 明治後半になって、茶畑は農場に変わり、大正末期から住宅地へ分譲されていったという。

忠犬ハチ公の飼い主である上野英三郎教授がハチ公と住んでいたのが松涛1丁目だった。上野氏は大正14年に亡くなったが、それから9年間ハチ公は渋谷駅で待ち続けたというのが伝わる話。 大正生まれの私の家内の亡父は生まれてからずっと恵比寿育ちで、当時渋谷に遊びに行ってハチ公を見たと言っていた。

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