トップページ | 2006年12月 »

2006年11月25日 (土)

電車のこと

電車に乗りました。 毎日のように乗ってはいますが、誰もいない車両に乗ることはほとんどありません。 今日は土曜日、しかも午前の下り各駅停車。 ほんとに誰も乗っていません。

そう思ってもう一度車内を見回してみると、ぼく以外にも乗っているものがありました。

Odakyu_line 飲み捨てられたジュースのパッケージくんです。 誰もいない電車なのにジュースのパッケージくんは恥ずかしそうに座席の下で音も立てずにじっとしていました。

どうしたの? と聞くと、持ち主に置き去りにされたそうです。 どこに行くの?と聞くと、ゴミ箱に行きたいと言いました。 そんな隅っこにいないでこっちに出ておいでというと、うれしそうにぼくについてきて、駅で降りるとゴミ箱のなかに入っていきました。

人はいろんなものを自分のものにしたがります。 それは彼みたいな「もの」であったり、犬や猫みたいないわゆる生き物であったりします。 でもきちんと捨てられない、最後まで見届けられないなら、買う資格も、飼う資格もないですよね。

2006年11月25日(土) @小田急線

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月24日 (金)

富士山のこと

新宿の仕事場から富士山が見える。 冬になると天気のいい日には必ず見える。 富士山は昔から関東の人々、あるいは関東を旅する人々にとって馴染み深く、どこからでも見ることが出来る山であった。

Fuji20061124b 葛飾北斎の「富嶽三十六景」はあまりにも有名。 小布施の北斎館では、じっくり時間をかけて作品を見た。 北斎は1760年~1849年、享年90歳まで生きた。 江戸時代の人物としては驚異的な長寿だった。 彼が「富嶽三十六景」を描いたのは72歳のころらしい。

北斎の「富嶽三十六景」の中でもっとも有名なのは、液晶TVのCMでも出ている「神奈川沖浪裏」と「赤富士」だろうと思う。さすがに新宿から浪裏というわけにもいかないので、写真はない。

とはいうものの赤富士というのもまた無理だから、一枚の写真は夕焼けの富士である。 オフィスには舶来人種も多いので、Sunset Fuji と呼んでいる。 今日のように一日中窓から富士が見える日は珍しい。 北風の吹く日に限って見られる現象だと思う。

オーストラリアから来た舶来人とフランスから来た舶来人が今年の夏、富士登山に挑戦した。 フランス人は根性で頂上を極めたが、オーストラリア人は7合目付近で悪天候に遇い撤退した。 彼はその悪天候をStorm(嵐)と呼び、来年の夏は必ず登ると宣言している。願わくば誘わないでほしいものだ。 日本人が一番早くリタイアするのは後々問題になりかねない。

まあ、多くの問題課題を抱えていても、今日が金曜日だったことも重なって、「仕事はもういいや」と富士を眺めて写真を撮る不届きなビジネスマンを、見て見ぬ振りをしてくれた皆さんに感謝。

11月24日(金) @東京 西新宿

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月21日 (火)

ぶなの樹のこと

10月の下旬、岩手県雫石町の葛根田川源流にあったブナの巨木『森姫』が倒れたとの報道を受けました。 樹齢は約500年。 樹高28m、幹周りが6mあまり。 もっとも私は見たことはありません。 しかしこのブナの森を見守ってきた白藤さんとは以前にお会いして話をする機会がありました。

Shirafujisan 写真は確か1999年(もしくは2000年かも)に世田谷区で行われる「ボロ市」(400年の歴史を持つ地元の祭りでフリマに似ているといえば似ている)でのショットです。 白藤さんは世田谷の野田さんが出す出店でブナ原生林を守る訴えが目的で盛岡から上京されました。

野田さんは、葛根田へ釣りに行くにつれ、ブナ林の素晴らしさに魅せられ、白藤さんと活動をともにするようになりました。 それでブナの苗木を配布し、都会の人々へこの貴重な森に目を向けてもらおうと運動を続け、白藤さんは葛根田のブナ原生林を守る会の会長として応援に駆けつけたというわけです。

Photo 白藤さんはこの会の代表として、奥地等産業開発道路(奥産道)の建設を阻止し、奥羽山地にひっそりとたたずむかけがえのないブナ林を守ってこられました。 同じようなケースで白上山地の青秋林道が工事中止になり、それが後々の世界遺産の指定へと高まっていったことがあります。

『はるかなるブナの森 -葛根田原生林-』 

お問い合わせは:
盛岡市梨木町4-30 白藤 力様方
八幡平葛根田ブナ原生林を守る会
郵便振替 02320-1-24077 FAX 0196-51-1760

森姫の倒木は私にとっても悲しい出来事でしたが、自然は倒木更新、ある種の定めでもあります。 確かに私など及びもつかないほどの思い入れが白藤さんをはじめとする会の皆さんにはあったことと思いますが、おそらく悲しみというよりも静かに暖かくその運命を受け入れておられることでしょう。 巨木の倒木は日光を地面にもたらし、キノコの床になり、虫が集まり、森の動物たちの餌になる。 まさに自然界そのものをこの巨木が作り出すわけです。

屋久島の縄文杉もとうに寿命を過ぎているでしょうし、私にとって比較的身近な笹子峠の矢立の杉も中心部は空洞化して老木となっています。 樹齢500年・・・室町時代後期、ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝来し、フランシスコ=ザビエルがキリスト教を伝えた時代にはすでにそこそこの樹であったと思うと、気の遠くなるような森姫の一生です。

やっぱり森は守りたいですね。 誰のためでもない、日本人ですし、地球人ですから。

2006年11月21日(火)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月19日 (日)

サンカのこと

20061119sanka

『サンカの民と被差別の世界』  五木寛之著 (講談社刊)  838円(税別)

またまた子供の頃の話です。 東京オリンピックから大阪万博のあたりの時代を想定してください。 当時大人の言葉から覚えた単語の中に、「ほいと」というのと「ことり」というのがありました。 新幹線がようやく東京~新大阪間に開通し、名神高速道路が出来て、日本が戦後復興をめざましく遂げていた頃に聞いた言葉です。

「ほいと」というのは「乞食」のことだと教えられました。 しかし記憶の片隅にあるホイトは何かを売り歩いていたような気がします。 また「ことり」というのは美しい声でさえずるbirdではなく、「子捕り」つまり人さらいのことです。 「夜、口笛を吹くと子取りがくるぞ」と言われたものです。

山に入って釣りをするようになってから、パソコン通信で杉浦清石さんという大正生まれの釣り名人と面識を持ち、何度か同行するようになりました。 釣りに関する書物も執筆されていますので、名前をご存知の方もいらっしゃると思います。 その清石さんから「サンカ」についていろいろな話をお聞きしました。 山に住んで、自然の恵みで暮らしを立てている人々で、かつては戸籍への登録もなく縄文人のように生活していたような話を興味深く聞きました。

サンカについてはずっと脳裏に引っかかっていましたので、この本を見つけたときは迷わず手にとっていました。 そして読み終えて考えたことは、自分はどこから来てどこへ行くのだろう・・・ということでした。 アレックス・ヘイリーの小説『ルーツ』が1977年にTVドラマとして世界的大ヒットになったことをご記憶の方もいらっしゃるでしょう。 それに近い感覚です。

無論私の両親(すでに父母ともに他界しましたが)の生家が何をやっていたかは聞いています。 しかし今の自分を形成したのは、血縁のある者だけではありません。 生きてきた環境のなかでふれ合ってきたすべての人々や物事が自分のルーツだと思うのです。

「ほいと」って何だったのだろう? 「ことり」って本当にあったのかな? それを知ることは子供の頃に触れたもの(言葉)の意味を知ることでもありました。 結果、この本を読んで「ほいと」についてはやっぱり「サンカ」だったのかもしれないという推測が強く台頭してきました。 なんだか宿題を半分やり遂げたような気持ちです。

人生いろいろあるんだからそんなことどうでもいいだろうと考える人もいるでしょう。 でも自分のルーツってなんだったのか、やっぱりそれを探してみたいですね。 今、生きるにはどうでもいいことでも、ほんとうはとても大切なものだったりする気がします。

2006年11月19日(日) @東京世田谷

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月18日 (土)

こどものころのこと

最近いじめのニュースが頻繁に報道されています。 困ったものですね。 もちろん現在48歳の私の幼少時代にもいじめは確かにありました。 しかしともだちもたくさんいました。 いじめられると嫌な気持ちになりますが、それを支えてくれたりするのは、大人ではなくともだちだったと思います。

もっともいじめられた記憶はすでに消えてしまい、具体的にどういういじめにあったかは記憶していません。 楽しい思い出が脳の記憶の中にはいっぱい詰まっていて、嫌な思い出を包んでしまっているのだと思います。 しかしなぜそういう風に思える自分と、報道で聞く様々な子供たちのこころとが、こんなにも違うのでしょうか。

私は西日本の山口県で生まれ育ちました。 1958年(昭和33年)生まれですから、団塊の世代が終わり高度成長真っ只中の頃です。 町内にはこどもが溢れるほどいて、公園や道端は活気付いていました。 ちょうど家の真ん前が広い公園で、そこでいろんな遊びをしたものです。

こどもたちの年代は私の世代を中心に、上下2~3歳違いまでが多かったですね。 野球をやり始めると小学校1年生から6年生くらいまでが混じり合うのですが、野球の基本ルールはあるものの、補欠というものはありませんでした。 内野が5人いようと、外野が6人いようと、キャッチャーが2人いようとそれはそれでローカルルールとして成立します。 みんなが参加することが第一なんですね。

ピッチャーは小さい子がバッターボックスに立つと緩い球を投げます。 その子はバットにボールが当たると必死で1塁に走る。 そういうのを見守る「ともだち感」がありました。 こどもの遊びにハンディはあたりまえなんです。 それを無視すれば大きい子がいつも勝つ。 でもそれではどっちも面白くない。 ハンディキャップ制はルールではなく人間的なこころからくるものなのです。 それでお互いにたのしい。 WIN=WINなんです。

ところが報道を聞く限りでは、こどもたちの関係はWIN=LOSEです。 いじめっこが勝ちいじめられっこが負ける。これは大人の世界です。 たとえばビジネスにおいてはそういう厳しさがある程度常識で、勝ち組負け組という言葉もあります。 しかしすべてにおいて勝つ(100対0)というのもありません。一部分でしか相手を打ち負かすことはできない。 それもまた真理だと思います。

こどもは自分たちのWIN=WINを経験することで本来あるべき大人へと成長するものです。 教育という世界の中で地位ある人や大人たちがどんなに騒いだところで、彼らは直接大人たちからその経験を学ぶことはできません。 こども同士で体得していくのです。

いじめをやめよう・・・なんて文部科学大臣がコメント発表していますが、滑稽です。 こどもがこどもらしく生きていける環境を作ることが前提条件ですし、その前提条件が壊れているわけですから。 大切なのはこどもがお互いに話し合ったり、こころにあるものを交換できる「ともだち感覚」を持てるようにすることだと思います。

戦後、この国の人々はいろんなものを壊してきました。 森を壊し、川を壊し、海を壊してきた。 そして今、自分たちの大切なこどもたちを壊し始めています。 そこに気づかなければ、もう"Point of No Return"(元に戻すことのできない一線)を超えて、坂を転げ落ちていく・・・そんな気がします。

そういうものに対して「これではいけない」という気持ちから、仕事であっても人間関係であっても、そして瀬音の森などの活動についても、できることからやるしかない・・・そう思って自分は生きているのだと思います。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

今回初めてのブログということで、今気になっていることを書きました。 単なる日記でもあり、誰かへの訴えでもあり、まあ言葉は発して初めて「言霊」になって生きるものですから、やってみようという気になりました。

2006年11月18日(土) @東京世田谷

| | コメント (0) | トラックバック (0)

トップページ | 2006年12月 »