最近いじめのニュースが頻繁に報道されています。 困ったものですね。 もちろん現在48歳の私の幼少時代にもいじめは確かにありました。 しかしともだちもたくさんいました。 いじめられると嫌な気持ちになりますが、それを支えてくれたりするのは、大人ではなくともだちだったと思います。
もっともいじめられた記憶はすでに消えてしまい、具体的にどういういじめにあったかは記憶していません。 楽しい思い出が脳の記憶の中にはいっぱい詰まっていて、嫌な思い出を包んでしまっているのだと思います。 しかしなぜそういう風に思える自分と、報道で聞く様々な子供たちのこころとが、こんなにも違うのでしょうか。
私は西日本の山口県で生まれ育ちました。 1958年(昭和33年)生まれですから、団塊の世代が終わり高度成長真っ只中の頃です。 町内にはこどもが溢れるほどいて、公園や道端は活気付いていました。 ちょうど家の真ん前が広い公園で、そこでいろんな遊びをしたものです。
こどもたちの年代は私の世代を中心に、上下2~3歳違いまでが多かったですね。 野球をやり始めると小学校1年生から6年生くらいまでが混じり合うのですが、野球の基本ルールはあるものの、補欠というものはありませんでした。 内野が5人いようと、外野が6人いようと、キャッチャーが2人いようとそれはそれでローカルルールとして成立します。 みんなが参加することが第一なんですね。
ピッチャーは小さい子がバッターボックスに立つと緩い球を投げます。 その子はバットにボールが当たると必死で1塁に走る。 そういうのを見守る「ともだち感」がありました。 こどもの遊びにハンディはあたりまえなんです。 それを無視すれば大きい子がいつも勝つ。 でもそれではどっちも面白くない。 ハンディキャップ制はルールではなく人間的なこころからくるものなのです。 それでお互いにたのしい。 WIN=WINなんです。
ところが報道を聞く限りでは、こどもたちの関係はWIN=LOSEです。 いじめっこが勝ちいじめられっこが負ける。これは大人の世界です。 たとえばビジネスにおいてはそういう厳しさがある程度常識で、勝ち組負け組という言葉もあります。 しかしすべてにおいて勝つ(100対0)というのもありません。一部分でしか相手を打ち負かすことはできない。 それもまた真理だと思います。
こどもは自分たちのWIN=WINを経験することで本来あるべき大人へと成長するものです。 教育という世界の中で地位ある人や大人たちがどんなに騒いだところで、彼らは直接大人たちからその経験を学ぶことはできません。 こども同士で体得していくのです。
いじめをやめよう・・・なんて文部科学大臣がコメント発表していますが、滑稽です。 こどもがこどもらしく生きていける環境を作ることが前提条件ですし、その前提条件が壊れているわけですから。 大切なのはこどもがお互いに話し合ったり、こころにあるものを交換できる「ともだち感覚」を持てるようにすることだと思います。
戦後、この国の人々はいろんなものを壊してきました。 森を壊し、川を壊し、海を壊してきた。 そして今、自分たちの大切なこどもたちを壊し始めています。 そこに気づかなければ、もう"Point of No Return"(元に戻すことのできない一線)を超えて、坂を転げ落ちていく・・・そんな気がします。
そういうものに対して「これではいけない」という気持ちから、仕事であっても人間関係であっても、そして瀬音の森などの活動についても、できることからやるしかない・・・そう思って自分は生きているのだと思います。
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今回初めてのブログということで、今気になっていることを書きました。 単なる日記でもあり、誰かへの訴えでもあり、まあ言葉は発して初めて「言霊」になって生きるものですから、やってみようという気になりました。
2006年11月18日(土) @東京世田谷
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