野川を歩く -河口から新井橋-
野川の河口に出るために二子玉川駅東口から多摩川に向かうと、この堤防跡を横切る。 20年くらい前このあたりに住んでいたころから、なぜここに堤防があるのだろうと不思議だったが、先日の『ブラタモリ』を見て真相を知った。
大正時代に二子玉川の多摩川沿いには、沢山の料亭が立ち並び改造屋形船で川に浮かびながら料理を振舞って賑わった。その時代に防災上堤防を築く計画があったが、料亭群は洪水になっても諦めるので堤防の川側で商売を続けることを嘆願し許されたという話だった。 もっとも現在ではこの堤防より川側にはマンションが沢山立ち並んでいて、知人もそこに住んでいる。 少なくとも100年以上は決壊していないわけで、つい事業仕分の『スーパー堤防』の話を思い出してしまった。
昭和のはじめまで氾濫を繰り返して流れを変えた多摩川だが、今の野川の合流点がこの写真。 現在の国土地理院の地図の水線は上野毛通りのあたりが合流点になっている。それより前はどうかというと、昭和31年の地図では東急線の鉄橋下が合流点になっている。さらに明治の地図になると大山街道(国道246号)が多摩川に突き当たったあたりだから、今の二子玉川駅直下で昭和31年とほぼ同じ。 ということは今の合流点は最近になって作られた水流である可能性がある。(この辺はいつか解明したい)
二子玉川から河川敷へは手前の兵庫橋で兵庫島へ渡る。兵庫島には新田義貞所縁の話もあるが、かなり昔から一度も流されたことがないという言い伝えもある。 真ん中には金網に囲まれた小さな多摩川大神が祭ってあり、言い伝えの割には神様が過小評価されている気がする。 兵庫島周辺には沢山の釣り人がいつもいて、鯉やオイカワなどを狙っている。(たまに鮎釣りの人もいる)
30年位前だったか、この国道246号の新橋ができた。 そのときから写真の高い駐車建物の下から侵入する道路があって、二子玉川の街から多摩川上で合流すると思ったのだが、未だにそうなる様子はない。 なぜこの合流路が必要なのか今もまだ疑問だ。 ちょうどその下にぽっかりあいた二つのトンネルは谷川の暗渠の出口。 谷川は二子玉川の街中を農村当時流れていた小川。
コヤマドライビングスクールのあたりから吉澤橋までは河川工事中。 久しぶりに吉澤橋に行ってびっくり。 もともと狭い橋で、車が通ると自転車でもすれ違うのが怖かったが、こんな立派な橋になっていた。 ここはもともと玉電の支線に掛かっていた橋なのだ。
二子玉川から支線は、中耕地、吉澤、そして終点の砧へと走った。 その吉澤駅はこの橋のところにあったのである。 その玉電は1969年に廃止され、今は世田谷線を残している。
吉澤橋からしばらくは高コストの舗装が施してある。 歩いてみて驚いたのは、コルクのような弾力があって、自転車で転倒しても擦り傷は致し方ないが、骨折や致命傷になることはないくらいやわらかいのだ。
拡大してみた。 コルクに色をつけてあるように思える。 舗装は下地のアスファルトの上に暑さ1cm程度を加えてある。 財源不足なのかしばらく行くと普通のアスファルトになる。 サイクリングロードにここまでは不要だろう。
ようやく仙川の合流点に来た。 仙川の水量は本流と差して変わらない。 仙川は小金井市貫井を水源として流れる川で、京王線の仙川から小田急の成城学園前を下ってここまで流下する。 合流点には沢山の大きな鯉が泳いでいた。
天神森橋まで狛江から南下してくるのがこの水道道路。 ずっとまっすぐな道路で、このあたりにはこういった水道道路が多い。 まっすぐだが水道管を埋設しているので大型車は基本的に通行できないことがほとんど。
東名高速をくぐると多摩堤通りの新井橋。 東名を東京に向かって走ってくると、用賀の出口の車線が明確になるあたり。 この少し西側で1999年に酒気帯びのトラックが渋滞の列に並んでいた乗用車に突っ込み、3歳と1歳の幼児2名が焼死するという痛ましい事故があったことを覚えている方もいるだろう。 ちょうどその事故を今年社会人になる息子が、河川敷で野球の練習試合をしながら見たというのを聞いていたので、今でもこのあたりに来ると思い出す。 本当につらい話だ。
<続く>
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