都心の散歩(神楽坂~小石川) : その2
春日通から播磨坂へ入る。 中央分離帯が公園になっていて、ソメイヨシノが沢山植えてある。花見の時期は名所。ただ周辺は都心でも群を抜く高級住宅街なので、きっとお弁当も豪華なんだろうなんて勝手な想像をする。人工的な小川も設置されていて、高級感漂うが寒い日なので人は少ない。もともと戦後の計画道路で環状3号線になる予定だったが、この数百mの区間しかない。この地にあった松平播磨守の上屋敷にちなみ、播磨坂と名付けられた。去年は表参道のように樹にLEDをつけて『文京播磨光のファンタジー』とやらいうイベントをやっていたらしいが今年は何もない。予算の問題かな。文京区は金遣いが荒い気がするが、やるならちゃんとやったほうがいいと思う。
千川通をわたり路地を入ると間もなく小石川植物園の入り口。 入場券は330円。 だが入り口では販売していない。 向かいのパン屋さん(米田商店)で売っているのだ。どういうシステムなのだか、変わっている。 小石川植物園の正式名称は『東京大学大学院理学系研究科付属植物園・本園』という七面倒くさい名前だが、だったら入場料高すぎるという気がしなくもない。
園内正面の広い坂を上っていくと古びれたホテルのような建物がある。本館である。立ち入りは禁止になっていた。
残念ながら今の時期は花はほとんどない。 寒椿だけが見事に咲いていた。
柚子かと思ったこの柑橘はハナユという植物。 柚子に近いが味は良くないらしい。 本当にそっくりなので、野で見かけたら間違う。
偉そうに鎮座している銀杏の樹があった。なんだろうと近づくと説明板がある。『精子発見のイチョウ』とある。どうもよくわからない。 発見は1896年というのは理解したのだが、植物でも動物でも雌雄があるものが多い。 ましてやイチョウは雌雄がギンナンが実る樹かどうかで見分けられるのだから、精子があってもおかしくないだろうと思うのは素人かな。 まあ東大の施設なのでわからないことも多い・・・と適当に結論付けた。
こちらはただのユリノキ・・・ではない。 ユリノキは外来種で、これはもっとも古い個体らしい。明治の初期にアメリカから持ち込んだのがこの樹で、当時皇太子だった大正天皇がこの樹を見て『ユリノキ』と命名したとある。 特徴ある葉がすべて落葉してしまっていて見られないのは残念だが、最初の1本と思うとそれなりに感慨がある。
園内には巨木が多い。 このイチョウは枝の下に垂れ下がる気根(『乳』と呼ばれるらしい)が沢山付いている。 そういえば我が家の氏神の稲荷神社のイチョウにもこれがあった。なかなか迫力がある。
あ、リョウブだ!と思って名板を見ると『カリン』とある。 おお、のど飴じゃ。葉もなければ実も終わっているので樹皮だけではわからないものだ。(ただの勉強不足ともいう)・・・ところで園内のこの辺りの標高は25mで、入り口辺りは10mほど。 15mの高低差があるのがこの植物園のいいところ。上り下りが運動になる。
針葉樹の道から下ると古風な建物がある。旧東京医学校を移築したらしい。徳川5代将軍綱吉の居邸(白山御殿)だったこの地に作られた日本庭園とマッチしている。
振り返ると池の向こう側は斜面になっていて、これが10m余りの高低差のかもし出す風景である。 大規模な庭園でいかにも徳川の将軍が作らせた雰囲気がある。 この写真だけを見せたら東京の都心だとは想像できないだろう。
誰も目に留めない、しかし釣り人にはなじみのある笹もちゃんと植えてある。一番なじみのあるのは熊笹だが、これは太平洋側に多いミヤコザサである。
それほど古くはないが歴史を感じさせるものがあった。関東大震災の記念碑だ。この植物園には震災時焼け出された3万人が避難したとある。1923年(大正12)年9月に発生し、最後のひとりが大正14年1月に退去とあるので、1年以上もここで生活していたことになる。 こういう施設が災害時には役に立つことを再認識した。
小石川植物園は今も広域避難場所になっているので、もし再び大地震が襲ってきたら、また歴史を繰り返すように役立つのだろう。
植物園を出て脇の坂を上る。御殿坂(別名:大阪・富士見坂)である。 これを見ると植物園の敷地の傾斜が良くわかる。 自転車で上ってきた女性が途中でくたばってしまっていた。なかなか厳しい坂だ。 先述の白山御殿(綱吉)から付いた名前である。白山御殿のあとは小石川養生所となった。 小石川養生所は江戸幕府が設置した無料の医療施設で、徳川吉宗と江戸町奉行の大岡忠相の下層民対策のひとつ。幕末まで江戸の貧民救済施設として機能した。 この地は人を救う地として何百年も機能しているのだ。
坂を上り、途中伊賀坂という路地に入り、小学校の脇を抜けたところに面白いちょうちんがぶら下がる民家があった。 このあたりのオピニオンリーダーなのだろう。 ちょうちんの防犯表示ははじめて見た。
白山から春日へ下ると、道の先のほうに文京区役所(文京シビックセンター)の豪華なビルが見えてきた。 東京都庁もえげつないがここも似たところがある。
でも街はいい。 えんま通りという商店街、歩道上だけのアーケードがある。 大きなスーパーが少ないので商店街は活気がある。 えんまというのはこんにゃくえんまのことである。
こんにゃくえんま・・・本名は源覚寺。 ここのこんにゃくえんまの人気で実はとても大きな寺になっている。 ここでちょっと・・・
【こんにゃくえんまの話】http://www.genkakuji.or.jp/
昔ある村に閻魔大王を祭ったお堂があった。閻魔なので人気もなく寂しいお堂だった。ところがこのえんま堂に、雨が降っても風が吹いても、毎日お参りに来るおばあさんがいた。おばあさんは両方とも目が見えないので、孫の小さな女の子に手を引かせて来るのだった。
彼岸のある日、お参りに来たおばあさんは、いつもの様にえんまの前に座り、孫の女の子はえんまが怖いので、おばあさんの後ろに隠れていた。「どうかこのババの目を治してくだされ」とおばあさんは繰り返し拝んだ。
「これ、ババよ。お前の願いを聞いてとらす。」
えんまが口を聞いたので、おばあさんはビックリして上を向くと、おばあさんの右の目が開いた。すると一緒にいた女の子が叫んだ。
「あっ、えんまさまの目が一つない」
おばあさんが見てみると、確かにえんまの目が一つ潰れていた。
「ああ、申し訳ない。えんまさまをかたわにして、わしが見えるようになるとは。ああ、もったいない、もったいない」
すると、片目のえんまさまが言った。
「まあ、そう心配せんでもいい。わしはお前たちと違うて、別に働かなければならんということもない。ただここにこうしておる分には、片目でも十分じゃ」
「へえ、もったいない。ところで何か、お礼をさせていただきとうございますが」
「お礼か。そんなものはいらぬ」
「いいえ、わたしに出来ます事をさせてくださいまし」
「それでは、こんにゃくを供えてくれ。わしは、こんにゃくが大好きでな」
それからおばあさんは、毎日毎日、えんま様にこんにゃくをお供えした。
その事が村で評判になり、えんま様は『こんにゃくえんま』と呼ばれるようになった。
いい話だ。 こういう言い伝えは素直に聞きたい。 ところでここにはもうひとつ面白いものがあった。
この鐘、汎太平洋の鐘という。1690年に鋳造され設置されたが、1937年にサイパン島に建てられた南洋寺に転出した。ところが1944年にサイパンで日本軍は玉砕。それが1965年にアメリカ本土で発見され、1974年に寺に戻ってきたとある。 鉄砲玉にならなかっただけでなく、こうしてまだ戻ってくるというのもまた近代の言い伝えになりそうだ。
源覚寺はいつまでも栄えそうな気がする。 商魂だと見る方もあるだろうが、そこは素直に喜びたい気がするのである。
というわけで、今日の散歩は終わり。 都心の散歩もなかなか楽しいものである。
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