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2011年12月31日 (土)

赤坂の坂道を散歩のこと

年の瀬押し迫った昨日、赤坂の坂道を散歩した。東京は台地と谷が織り成す土地の記憶をあちこちに持っている。1600年に家康が江戸に遷都したころ、江戸城は東京湾岸だった。日比谷公園あたりは入り江だったのである。城西にあたる赤坂周辺は大名屋敷と寺社の並ぶ山の手になる。

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TBSの裏手には有名な三分坂がある。「サンブ」ではなく「サンプン」と読む。かなりの急坂だ。江戸時代にこの坂を上るのに三分(今の価値で100円程度)の割増運賃を取ったのに由来するらしい。サンブだと数千円になるので、サンプンが正しい。雪の降る日にはここで車が滑って事故ることが多いらしい。今も割増になることがあるということか。

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坂下の報土寺へ立ち寄り、雷電為右衛門の墓にお参りする。昔の国鉄の列車名板にらいでんとあるのが面白い。報土寺の練り壁は見事である。

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TBSの広大な敷地はかつての安芸藩の浅野氏の屋敷跡。三分坂の西側には今はミッドタウンになっている旧防衛庁敷地があるがそこは長門藩毛利氏、六本木ヒルズの敷地は下関長府藩の毛利氏の屋敷だった。大名屋敷というのはドーム何個分という広さを持っていてすごいものだったといえる。

上の写真は安芸藩浅野氏の屋敷裏に十数件の寺が並んだ円通寺坂。今は道沿いにはこの円通寺しかない。一ツ木通りに下りると浄土寺が残っている。

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赤坂見附交差点で246を渡り、豊川稲荷へ向かい、九郎九坂、弾正坂をやっつけて、山脇学園のある道の牛鳴坂を上る。このわき道がかつての厚木街道である。その途中から、赤坂方面へ降りる道があり、最後は階段になる。これが丹後坂である。坂道が階段になっていると嬉しくなる。車が通れない=生活に密着した道ということになるからだ。

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一ツ木通りに再び降り立つ。赤坂はかつて料亭と芸者で賑わった街。一ツ木通り、みすじ通り、田町通りの間をいくつもの路地が抜けていて、その中に料亭や置屋があった。その名残はほとんどなくなってしまったが、25年ほど前には結構まだ残っていて、置屋の女将と朝8時に音を立てたといって喧嘩になってしまったことがあった。「世間様じゃ朝でもアタシらにはまだ夜中なんだよ、ウチの旦那は今ムショにいるけど出てきたらあんた承知しないからね」なんて脅されたことも懐かしい。

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外堀通りを渡り山王日枝神社へ参拝する。大鳥居をくぐり、右にある参詣用のエスカレーターをよそ目に階段で登る。後ろのビルは建て替えしたキャピトル東急ホテル、ビートルズが泊まったホテルがこんな風に変わってしまった。

本殿前で葉加瀬太郎、髙田万由子夫妻が下の子供を連れてお参りをしていた。奥さん相変わらずきれいだ。境内では初詣の準備でテキヤが忙しそうに行き来している。

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参道の半ばから首相官邸が見える。かつては敬意で眺めたこの官邸だが、今はダメ男くんしか総理にならないので、百円ショップの製品並みの価値にしか思えなくなった。嘘をつかずにちゃんと約束を守れよと、まるでどうしようもない奴に言うように念じている自分に気づいて、日本人として情けなくなってしまった。

でも日本人はきっと腐敗した世の中を立ち直らせることができると信じたい。いつもいつもバクのような政治家たちに(国民のささやかな)夢を喰われてばかりでなるものか。今年は誰にとっても考え直す年だったと思う。来年は行動に移す年になるように、頑張ろうと思う。

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2011年12月30日 (金)

釣り納めのこと

28日から年末休暇を取れたので得さんと大井松田の開成フォレストスプリングスにトラウト釣りに行った。

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大井松田ICからすぐのところにあると聞いていたのだが、旧市街を回らなければならずちょっと迷ったが何とか到着。気温は5度とまずまずで、あちこちでライズしている。

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釣り始めて気づいたのは、この池のトラウトはとてもスレているということ。水がきれいな分、王禅寺よりも見切りがすごい。ドライで勝負したが、20回見に来て1回咥えるかどうかというくらい用心深い。何とか2尾ほどドライで釣ったが、出たのは20番と22番のCDCミッジ。ラインを7Xにすると反応するのだが、5Xにすると無反応。まったく参ったクンだ。

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午後になって気温が上がることを期待したがほとんど暖かくならず、それでも30番くらいのユスリカのハッチに反応してライズしているので、頑張ったが駄目だった。最後はルアーに変えてみたが、得さんは岩魚を何尾か掛けていたものの私は音なし。うーん。

というわけでなかなか厳しい釣り納めになってしまったが、広い池でのんびり釣りができたのでとても気持ちがよかった。来年も頑張って山岳渓流で釣りますぜぃ。

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2011年12月26日 (月)

北の丸公園散歩のこと

日曜日は都心散歩。今回は北の丸公園。といってもピンとこないが、武道館といえば誰もがわかる場所。スタートは東西線の竹橋駅。美術館、公文書館前を通り抜けると北の丸公園に入る。首都高の出入り口がいくつもある。

都会の真ん中だが、いったん公園内に入ると車の騒音は遥かかなたに聞こえるくらいになる。不思議なものだ。

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公園の池の上流には素敵な流れが作られている。黄色く敷き詰められた落葉はコナラの葉。流れのところどころに黄葉が溜まっているのもいい。

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モミジの林ではきれいに紅葉の絨毯が広がっていて、寝転がりたい気分になる。

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流れをたどって上って行くと小さな滝がある。当然ながら人工の滝である。それでも林が豊な植生なので雰囲気はとてもいい。

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滝の周辺は気温が低いせいか今頃になって紅葉が紅く色づいている。本当は定点で毎日眺めて、その変化に季節の移ろいを感じるのが風情があるのだが、都会の生活ではなかなか思うようにならない。

九段下へ出ようと武道館に近寄ると数千人はいようかという若者の群れ。UVERworldのライブに並んでいるのだが大半が十代の娘たち。その若者たちを見下ろすように、銀杏の古木がそびえている。

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北の丸ではもっとも大きな銀杏の樹は年の瀬に向けて若者の熱気を吸い、さらに寿命を延ばすように見えた。

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2011年12月25日 (日)

善福寺の銀杏のこと

六本木ヒルズから回遊できることからここ数年賑わいを見せる麻布十番。 その奥まった一角に善福寺がある。同名の寺社は全国にあるが、この麻布山善福寺は知名度が高い。参道を進むと右手に清水が湧いている。

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柳の井戸とある。弘法大師の杖が水を呼び出したとあるが、全国にあるパターン。しかしおいしそうな水が水量は少ないものの絶えず湧出している。関東大震災や戦時中には周辺住民の飲み水となった。

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山門の背後に末端肥大症のマンション(元麻布ヒルズのタワー)が見えていて時代がミックスした感じがするが、門の左側に枝を広げているのがお目当ての銀杏。

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推定樹齢は700年(鎌倉末期)、樹高は低いものの幹周りは10mを超える堂々とした大銀杏である。東京都では最大の銀杏の木。空襲でいったんは焼けたと思われたが樹勢を復活し今に至るという。

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銀杏の古木によく見られる乳根(チチネ)がすごい。逆さ銀杏といわれる所以だが、このイチョウが弘法大師の杖が伸びたといわれるのも何となくイメージできる。

実は善福寺にはかつての部下が眠っている。彼は40代半ばにして白血病でこの世を去ってしまった薩摩隼人。男気の強い面倒見のいいすばらしい男だった。天は気まぐれなものだ。またお参りに行こう。

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2011年12月23日 (金)

渋谷川沿いのヘンなものたちのこと

イモリ川を下り、渋谷川に出た後は天現寺方面に向かった。私は長州人なのだが、父親は若い時代を天現寺で過ごし、子供たちは都立広尾病院で生まれた。なのでこの辺りは自分に深いかかわりのあるエリアだが、最近は滅多に訪れなくなった。今回も久しぶりで、明治通り沿いの変貌にはいささか驚いた。

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広尾病院は広く樹木も多いので、この辺りの渋谷川には落ち葉が流れている。三面護岸なのが残念だが都会の小河川なので致し方ない。

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天現寺橋では上の写真手前から流れてくる渋谷川本流に左から注ぐ土管がある。これが笄(コウガイ)川。源流は外苑前、根津美術館、青山霊園あたりになる。この支流は後日散策したい川跡だ。

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天現寺橋から広尾を望むとちょっと汚れているが天現寺橋の欄干がある。後ろ側が慶応の幼稚舎。渋谷川の名前はこれより下流で古川と名を変える。

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東京都は水を売っているだけあって水関係にはかなりの予算を使っている。清流を復活させようという事業があちこちに見られるのだが、この渋谷川もそのひとつ。水は結構きれいだ。三面護岸でなくビオトープを作ってくれたら言うことはないのだが、そこまでは予算が付かないのだろう。

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首都高速目黒線の天現寺出口の脇を流れる古川。その護岸上に看板がある。この看板のあるところは誰も立ち入ることができない場所なのだが、いったい何の看板なのだろうと気になった。

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川をきれいにしましょう・・・とある。しかしこの看板、肉眼では読めなかった。望遠でようやく読み取ることができたくらいだ。あたりを調べてみたが、なぜここにこの看板があるのかがどうしてもわからなかった。唯一、護岸の縁を金網につかまってへつって行くと見えるのだが、そんな奴はおるまい。

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次に出くわしたヘンなものはこの表示板。「ここには住めません」とある。こんなところに住む奴などいない。ホームレスでももう少し回りに植え込みでもあって、邪魔にならないところを選ぶだろう。

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四ノ橋の脇で路上に見慣れないものを見つけた。ヘラジカの剥製の首か。延べ3体が空を仰いでいる。手前のやつが一番鼻息が荒そうだった。渋谷川(古川)沿いは面白いものが多い。

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古川橋の手前、高速道路下に軒を連ねるのはほとんどがパーツ屋さん。あちこちにこの風景はあるが、もともと恵比寿周辺は家内製工業が盛んだった。大崎、五反田の大工場の下請け会社が五万とあり、近代の東京の工業文化を支えていたのだ。すぐ後ろはハイセンスな白金だが、なんとなく大正昭和の香りのする景色にほっとした。

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2011年12月22日 (木)

イモリ川散策のこと

表参道の賑わいを見ながら、青山学院大学の東側の路地を下ると首都高3号渋谷線を仰ぐ五叉路に出る。ちょうど青山学院大の南端に近いところ。かつてイモリ川はこの辺りから流れていた。水源は大学の構内だが、現認していない。

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六本木通りを渡り、右手に常陸宮邸のこんもりした緑を眺めながら坂を下り、駒沢通りに続く大通りを渡るとまもなく東京女学館。著名人を多数輩出しているが、興味深いのはここの高校を中退した芸能人が多いこと。浅田美代子、山口いづみ、あびる優などだが、どうも学校が芸能活動を認めていないので転向してしまったらしい。

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その東京女学館の南端がイモリ川のスタートになる。過去を刻むようにいもり川階段という銘板が付いている。この辺りの住所は広尾3丁目。都会のど真ん中だがとても静かな住宅地。(地図①)

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いきなりケヤキの巨木があったりして往年の雰囲気が残っているようだ。路地は最初狭いが徐々に広くなり車も通れる広さになってくる。この下のイモリ川は大きな下水管に変えられてしまったのである。くだりを感じられるところも多く、さぞかし急な流れの小川だったのだろう。

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イモリ川の道には階段が多い。かなりのV字谷だったことがわかる。前述の空川も同様だが、ローム層を深く刻んで流れるのが東京台地の川の特徴なのである。

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広尾2丁目に入ると傾斜は弱まる。それでも左岸側は切り立った崖のまま。斜面には樹木が植えられていたりして、散歩していても往年のイモリ川を彷彿とさせる場所がいくつかある。(地図②)

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臨川小学校脇に到達。振り返ると細い家屋をはさんで台地を登る右の道路に対して、左の路地はイモリ川の跡で上っていない。こういう図はなかなか見られないので面白い。

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明治通りを渡ると公園になっていて、その先数m落ち込んだところに渋谷川がある。昔はこの出合いが滝になっていて、音を立てて水が落ちていたらしい。どんどん橋という橋が架かっていたと伝えられている。

数年前に他界した私の父が戦前にこの辺りに住んでいたことがある。天現寺から路面電車に乗って渋谷へ繰り出していたという話をよく聞いたものだ。彼が若いころはきっとこの滝の存在を知っていたはず。今となっては聞けないのが残念だ。

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2011年12月18日 (日)

空川探索のこと (2)

東大駒場を出て井の頭線をくぐり空川の合流点へ向かう。おおよその水線の痕跡は想像できるが、明確な跡は残っていない。井の頭線の南側で駒場野池から流れてきた支流と合流する場所があり、そこは道路の付き方から推定が可能だった。

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写真の路地奥にその形跡がある。一二郎池からの支流と駒場野池からの支流が路地の突き当たりで合流していたのだ。ここから淡島通りの松見坂下まではほんの数分の距離。

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坂の上が淡島通りと山手通りの交差点で、坂の右側が元は川の流れ、ただし今は通りを潜るトンネルになっている。ブラタモリで「鷹狩り」をやっていたが、徳川将軍が鷹狩りに来てこの辺りで橋を渡り、右に行くと駒場野の鷹狩り場、左へ行くと別の鷹狩り場だったらしい。

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トンネルを潜り交差点下を見ると松見坂地蔵尊がある。この地蔵は300年ほど昔、江戸中期に建立された。その脇にはかつての橋の親柱が残っていた。

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後方右側の欄干の親柱跡には「とおとふみはし」と彫られている。ここは江戸以前は滝坂道と呼ばれ府中方面への道があった。実は私の自宅近くをこの街道は走っていたので、聞き覚えがあり親近感を覚えた。

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この空川沿いにはこんなすごい階段があったりする。こういう階段もまた土地の記憶のひとつなのだ。空川はまもなく山手通に吸収されてしまうので、今回はここまで。松見坂交差点には写真の御影石のきれいな石碑が作られている。

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松見坂の由来はこの上(渋谷道玄坂上)に松の木があり、盗賊(追い剥ぎ)がその松に登り歩いてくる旅人を確認、手下に旅人を襲わせて身包み剥ぎ取った場所だったことからそう呼ばれるようになったと伝えられるが、今でも路地裏ではカツアゲというプチ盗賊が現れることがある。昔から渋谷は物騒な場所だったのかもしれない。

<おわり>

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2011年12月17日 (土)

空川探索のこと (1)

かつて東京には数多の川が流れていた。目黒川や渋谷川は台地を削り谷を作った。渋谷はまさにその名残りだが、渋谷周辺には多くの川の痕跡がある。空川もそのひとつで、目黒川の支流にあたる。現認可能な水源は2箇所ある。ひとつは井の頭線駒場東大前の南西にある駒場野公園、もうひとつが東大駒場校舎の敷地内にある一二郎池だ。

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地図上の①が駒場野公園で源流は試験田圃の奥にある池。旧駒場農学校の実習田だったが、今は筑波大付属駒場中高校の教育水田として生徒が実習に使っている。説明板にはケルネル田圃とあった。明治の初期に科学的な農業アプローチをするのに、北海道大学はアメリカ人のクラーク博士で有名だが、ここ駒場農学校はドイツ人のケルネルが教えた実験田だとある。

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源流の池は上の写真のように決して広くないが今でも水を湛えているということは水源がまだ生きていると思っていいのだろう。

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公園への道がこの水流をまたぐのが蛍橋。実は夏になると蛍が見られるらしい。戦後まで自然発生していたが、今では保護の会の尽力によって復活しつつあるらしい。そして蛍橋の下流には実験田が広がっているが、渋谷から徒歩圏内に田圃があるなんて想像できないだろう。

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ちょうど生徒らしき人影が田圃の昆虫を採取しているようだった(もしかしたらもぐりこんだ子供かもしれないが)。

田圃から井の頭線の踏切を渡って東大駒場校舎へ向かう。妙に人が多いのは何故だろうと思ったら、駒場祭の日だった。

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すれ違う学生たちは垢抜けなさを感じさせるものの知的でいかにも頭がよさそうな会話をしていた。しかし目的は学園祭ではないので、キャンパスの東の端に向かって歩く。だんだん人もいなくなってきて、駒場池(一二郎池)に着いた。上記地図では②の場所である。

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一二郎池はかなりの水量を湛えていた。10万年余り前は東京は完全に海面下にあったが、川からの土砂が溜まり台地になっていった。当然ながら富士や浅間の噴火による溶岩や火山灰の堆積があったものと思われる。それが関東ローム層の成り立ちだが、川の流れはその台地を削っていった。この池はその痕跡なのだが、東大生の何割がそれを知っているだろうか。

<続く>

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