為政者
虎ノ門から西新橋、飯田橋から四ツ谷を散歩しました。江戸城の外堀の一部です。虎ノ門には昭和時代に日本一の高層ビルだった霞ヶ関ビルがあります。今となってはビル群に埋もれてしまった感がありますが、歴史上は重要な場所でした。
写真は江戸時代の虎ノ門です。枡形門といって、コの字型を向かい合わせにした構造の2重門で、外側を狭く内側を広く作ってあります。攻め込まれたときに内側から圧倒的多数の兵を供給でき、さらに上からも攻撃できる点で、優れた戦略的設備だったと言えます。
外堀通りを渡って三井住友銀行の前には櫓の角の石垣が残っています。ちょうど虎ノ門と溜池の間の外堀の角になります。その背景には昭和の雄、霞ヶ関ビルが建っています。となりの合同庁舎と存在感は変わらなくなっていますが。
この周辺には沢山の遺構が残っていて興味は尽きませんが、天気も下り坂なので新橋方面へ向かい都営線で水道橋、そしてJRで飯田橋へ向かいました。
飯田橋駅を西口から出ると目の前にこんな櫓跡があります。牛込橋の外堀から向かって右側の遺構です。左側(駅側)の遺構は現在工事中でした。ここから外堀の内側を四ツ谷まで散歩したのですが、堀の水面までの標高差は20m以上あります。この土塁と外堀の間を現在は総武線・中央線が走っているわけですが、これだけの土木工事を人力だけで行った徳川の知力能力は凄いものがあります。
こういう工事を絶えず行うのには地方大名の協力が基本財源なのですが、それは一方で江戸に常に公共工事を作って市民が潤うという循環でもあったのです。不満が出ない程度に地方大名から搾取し、生活に対して市民が文句を言わない程度に経済を潤わせ300年近い平和な時代を築き上げた幕府のレベルは極めて高かったのでしょう。
下の写真は四ッ谷駅前の四ツ谷見附門の跡です。この外堀を掘ったとてつもない量の土は、江戸城の東側の江戸の町を埋め立てて広げるのに使われたようです。家康が江戸に築城した頃は皇居前が入り江の波打ち際、日比谷公園はまさに入り江で、銀座辺りが洲のような地形でしたから、今の東京の地形をも人力によって作り上げたわけです。
振り返って今の政治を見ると、市民から搾取して、企業が内部留保するのを助長している感があり、与野党含めて政治能力のある政治家がいなくなったとしか思えません。
プラスとマイナスがいろいろあっても国民にとって最後がプラスならば政治は上手くいっていると言えると思います。いいことばかり見せかけておいて、最後はマイナスになると言う、JAROから違反を言い渡されるような政治手法が目立ちます。どうしようもないですね。
| 固定リンク | 0
コメント