元麻布~西麻布の坂 (3)
テレ朝通りに鎮座する中華人民共和国大使館。 他の国々の大使館もこの辺りには沢山あるがどうも街に馴染まないのは何故だろうかと思っていた。
実はこの大使館、1972年の日中国交正常化以前は中華民国の大使館だった。 記憶に詳細な内容はあまりないのだが、田中角栄首相、大平正芳外相の時に中共(この言葉は使われなくなった)と手を握るために台湾(中華民国)との国交を切った。 その時に台湾を追い出してここに中共を入れた訳だ。 今振り返って見ると日本も随分とあこぎな事をしたものだ。 そこまでしても手のひらを反す国だからどこかで嫌いな気持ちが消えないのだと思う。
ちなみに中華民国大使館の前は満州国大使館だった。結局、同じ場所で3つの国の大使が入れ替わったわけである。だからここを歩くと嫌な気持ちになる。
少し六本木ヒルズ方面に向かい内田坂の頂上手前で左折すると大横丁坂の下りである。 だらだらと緩やかな坂が続く。 江戸時代この辺りを大横丁と呼んでいたので大横丁坂というとある。 まあ何もひねらず考えずにつけた名前なのだろう。 富士見坂の別名もあるので昔は富士山も見えたに違いない。
大横丁坂を直進し外苑西通りを横切って日赤病院側に渡るとかつての笄川の暗渠となる道と交差する。 ここから急に上りになる。 これが牛坂。笄川の暗渠に掛っていた橋が笄橋といいいくつかの伝説に登場し江戸名所図会にも描かれている(こちら)。
笄橋伝説(源経基 vs 平将門の手下)
当時の笄川は水量も多く大きな流れだった。川を渡るにはこの橋を通るしかないが、橋では将門一味の者が関所を設けて厳しく通行人の取り締まりをしていた。経基は一計を案じ、自分も将門の一味の者で軍勢を集めるため相模の国へ赴く途中であると偽った。すると関所の者に何か証拠となるものを置いていけと言われ、刀にさしていた笄(こうがい)を与えて無事に通ることができた。これにより以後この橋を経基橋と呼び、後に源頼義が先祖の名である為に実名を呼ぶ事を憚り「笄橋」と改称させた。
この笄が今も渋谷金王八幡神社に伝え残されているというから不思議だ。 麻布のあちこちで源経基の話が出てくる。時代的には平安中期の武士の始まり辺りだが、千年以上経っても残るのは凄いと思う。
牛坂は結構な斜度でこれは牛車もさぞかし難儀しただろうと思う。 とりわけ雨後のぬかるみの時には、後ろを押す小遣い稼ぎの人足もいたのではないだろうか。
一旦笄橋のところまで戻り、六本木通りに出る。 この辺りは霞町と言った方が分りやすいがそれも実は間違い。霞町は西麻布交差点から六本木方面の地域名。こちらは笄町と呼ぶのが正しい。 渋谷方面へ坂を上るとそこが高樹町。 この坂が笄坂と呼ばれる。
高樹町交差点を地下道で渡ると骨董通りの出口。 そこから今日は長谷寺(ちょうこくじ)に立ち寄る。 長谷寺は曹洞宗の永平寺別院。 なかなか素晴らしい寺である。 起源は江戸時代直前、1598年だから左程古い寺ではない。
長谷寺脇から笄川の暗渠となる根津美術館への道に下って行く。 ビルが少ないので比較的地形が見て取れる。 この辺りは台地を笄川が削って出来た傾斜地である。 暗渠の道は根津美術館の塀に沿って上る。 この塀が坂を際立たせている。
坂上の根津美術館交差点まで行き、そこから青山墓地へ。 青山墓地の中を歩いて西麻布交差点に向かった。 青山墓地は笄川の支流に挟まれた台地の残りである。 西麻布交差点の権八(キルビル)を左折して、六本木通りの霞坂を上る。
この道は明治以降の道。 霞山稲荷があったことで霞坂、霞町の名前が付いた。 霞山稲荷は今の桜田稲荷、六本木ヒルズの脇にこじんまりと在る。
今回はいつものカメラを忘れたので、iPhone 6s plusで撮影した。 ピクセルをかなり落として撮ったがなかなかの画質で驚いた。
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