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2015年11月30日 (月)

愛宕の坂 (1)

銀座線虎ノ門駅を出て西新橋1丁目を南へ下る。 2つ目の交差点角に蕎麦屋の砂場がある。 創業は1872年(明治5年)、今の木造の建物は1923年(大正12年)に建て替えられたもので、もうすぐ100年になる。 再開発の立ち退き交渉にも抵抗して頑張っているので応援したい。

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その一つ南の交差点には最新の高層ビル「虎ノ門ヒルズ森タワー」がある。 虎ノ門と愛宕には森ビルがわんさかある。  森ビルは非上場だが総資産額は1兆7500億円というどれくらいか想像もつかない額を持つ。

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交差点ごとにある森ビルを見上げながら愛宕山へ向かう。 虎ノ門ヒルズは52階建247mの高さ、その南側にも2つの40階超のタワーが三連荘で建ち並ぶ姿は壮観である。 しかし江戸時代は愛宕山がこの辺りではそびえていた。 JIN-仁-で流れていたオープニングタイトルバックの写真は江戸の街の眺めが愛宕山からの眺望

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愛宕神社の正面階段を男坂、右手の階段を女坂と呼ぶ。 この男坂にはいくつかの逸話がある。 この階段は出世の階段と呼ばれ、江戸時代に徳川家光が増上寺に参詣の折に立ち寄り「誰かあの愛宕山の上の梅を採って来い」と命じたところ、四国丸亀藩家臣の間垣平九郎が馬に乗り一気にこの階段を上り梅を将軍に献上した。 これにより平九郎は馬の名手として名を轟かせたという話。 実はそれ以降も何人か馬でこの階段を上っている。 昭和57年に上ったスタントマン渡辺隆馬の映像は実際にテレビで見たことがある。

愛宕神社の境内には三角点や日本で最も古い時期に置かれた几号水準点があって話題に事欠かないのだが今回は坂の話なので省略する。

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階段を上から見るとこんな感じ。 角度は最大40度の勾配、落ちたら怪我では済まない。 出世の階段というだけあって近所のエリートが毎日お参りするそうだ。 出世するかどうかは別にして、いい体力作りになるだろう。

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脇の女坂もなめてはいけない。 1段分の高さこそ男坂よりも低いものの、当然高低差は同じである。 こういう神社には男坂と女坂があって面白い。 近くでは飯倉の西久保八幡、あと湯島天神もそうだった。 平成の草食男子にとっては男女逆でもいいかもしれない。

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実はほかにもいくつか愛宕山への道がある。 これは車道になっている愛宕新坂。 これ以外には階段で登る道が複数あるが、どれも近代に設置されたものだ。 この車道、愛宕新坂が開かれたのは明治20年代と意外に古い。 欄干なども相当年季が入っている。 出世の階段に対して特に裏口入学などとは言われない(笑)。

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それでも結構な傾斜で自転車に乗ったじぃさんがキィキィ音を立てながら結構なスピードで下って行った。 神社のとなりにあるNHK放送博物館は当分の間休館中だが間もなく2016年1月30日にリオープンするとのこと。

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2015年11月29日 (日)

六本木~三田の坂 (5)

麻布山善福寺を出て仙台坂下から首都高速2号目黒線をくぐると三田の丘である。 高速の下には古川が流れている。 古川は渋谷区内では渋谷川と呼ばれるが、港区に入ると古川と名を変える。 麻布十番脇が一ノ橋、上流に行くに従って、二ノ橋、三ノ橋、古川橋、四ノ橋、五ノ橋と数字が増えていく。 仙台坂下からの道は二ノ橋を渡る。 その先が日向坂である。 つまり古川の河岸段丘の坂ということになる。

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江戸時代前期に私の郷里の長州徳山藩毛利日向守の屋敷があったので日向坂と呼ばれた。 別に袖振坂とも言ったらしいが由来は不明。 坂の上の南側はオーストラリア大使館。 ここのおまわりさんはのんびりとしているように見えた。 ご苦労様です。

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日向坂上の交差点から北に下るのが神明坂。 坂を下りきったところに元神明神社がある。 元神明神社は天祖神社。  創建は1005年というから1000年を超えている。  天祖神社と神明神社の関係はどちらも天照大神に由来する。 天照大神を主祭神とする神社は、概ね天祖神社、神明神社、皇大神社の名で呼ぶ事が多い。 総本社は伊勢神宮である。

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神社の北側にそびえるのは38階建のシティタワー麻布十番。 港区には30階建以上のビルがいくつあるのだろう。 このビルは2009年に竣工、502戸の住宅が入っている。 高層ビルと1000年の歴史を持つ神社の共存、できれば祭りなどもにぎやかにやってほしいが、外国人投資家の投資物件だったりすると残念だ。

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一旦神明坂上まで戻り、三田方面へ向かう。 右手に三井倶楽部のレトロな塀と建物が見えてくる。 大正2年にできた三井財閥の迎賓館。  私の様な庶民には無関係に思えた。 この三井倶楽部の角を下ると、一級品の坂道である綱坂の下りになる。

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坂の途中にイタリア大使館。 坂下には慶応大学三田校舎。  綱坂の由来は平安時代中期の渡辺綱(源綱)がこの辺りで生まれたという言い伝えによる。 渡辺綱という人物は羅生門の鬼の腕を京都一条戻橋の上で切り落としたという伝説で有名。 まんが日本昔話でも取り上げられた。 切り落とした腕を7日目に鬼が取り返しにくるという結末だった。

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再び綱坂を上り坂上から三田方面へ下る。 そこは綱の手引坂という坂。 綱が手引坂と呼ぶ場合もある。 渡辺綱が幼少のころ、乳母に手を引かれてこの坂を歩いたという話。 まあ伝説というか、後世の与太話だとは思うが。

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坂を下って左折し芝公園へ。 目的は芝丸山古墳。 前方後円墳の名残がある盛土の古墳で、4世紀~5世紀の築造。 長辺は100mを超える大きな古墳である。 が詳しいことはほとんどわかっていないようだ。 この1500年前の古墳から見る東京タワーは格別だった。

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六本木~三田の坂 (4)

暗闇坂の坂上には一本松がある。 右折すると狸坂、直進すると一本松坂、左折すると大黒坂になる。

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坂上の辻なので道標が複数見える。 大黒坂と一本松坂、一本松坂と暗闇坂をそれぞれ1枚の絵に収められる。 この一本松は平将門を攻めた源経基の伝説にまで遡る。 939年(天慶2年)ここにあった宿に宿泊した経基はこの松に装束を掛けたといわれる。 松を囲む石にもいくつかの年号が記されているし、松の下には「一本松」の石碑が複数ある。

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まずは大黒坂を下ることにした。 名前の由来通り坂の中腹に大黒天がある。 坂の向こうには東京タワーが顔を覗かせている。 道の景色はごく普通の坂である。 坂を下って左折すると七面坂の下りになる。

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坂の東側にあった本善寺に七面大明神の木像があったので付いた名前らしいが、その寺は五反田に移転してしまったとある。 五反田というより高輪台に近い桜田通り(国道1号)から少し入ったところに今の本善寺はある。 七面坂を下るとまた麻布十番商店街に戻ってしまうので、大黒坂を戻り一本松坂に入る。

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一本松坂の先を右折すると西町インターナショナルスクール。 学校脇の裏道に素晴らしいケヤキが3本並んでいる。 すぐ近くには今もまだガマ池を中庭に持つマンションがある。 昔のガマ池はとても大きく今の10倍くらいあったようだ。 このガマ池が前述の麻布十番稲荷に祀られているガマの棲み処だった訳である。

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ガマ池から仙台坂上に向かい、またまた警視庁で働く人たちの傍で写真を撮っては訝し気に見られる。

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大体港区にはアメリカ大使館、ロシア大使館、中国大使館、韓国大使館と問題のある国の大使館があってその周りにはとりあえず任務上通行人を監視している公務員がたくさん働いている。

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その中でも韓国大使館という最も微妙な立場の国の大使館がある仙台坂はとっとと下るに限る。 下ってふと麻布山善福寺を思い出して立ち寄ることにした。

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善福寺の参道の柳の井戸は以前と同じく清水を湧き出させていた。 これは都心には少ない本物の清水。 全国の温泉や湧き水恒例の弘法大師が杖で突くと出てきた水ということになっている。 あまりにあちこちで聞く伝説なのでもしかしたら弘法大師は副業で作井業をやっていたのではないかと思えるくらいだ。 とはいえ関東大震災と昭和20年の東京大空襲の折にはこの清水が多くの人々の命を救ったというからありがたい。

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善福寺で忘れてはならないのがこの銀杏の巨樹。  樹齢750年、幹回り10.5mは都内の銀杏で最大。 幹の中に焦げた樹があるが東京大空襲の際に焼けたものらしい。  惚れ惚れする銀杏である。

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2015年11月27日 (金)

六本木~三田の坂 (3)

潮見坂はシンガポール大使館の裏道にあたる。 その角が鳥居坂の坂上になる。 元禄時代からある坂道だ。 於多福坂、潮見坂ともに江戸の古地図にも記載がある。 坂の上は大名屋敷武家屋敷、そして坂の下は町人の住む町家になっていた。

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鳥居坂はとても急な坂だがここを歩いて登ってくる人は多い。 もっとも麻布で坂を抜きに移動することはかなり難しい。 鳥居坂の坂下の歩道は一部階段になっているほどの急坂。

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上の写真の右手の敷地がシンガポール大使館。 江戸時代は京極家の武家屋敷、左側は明治になって井上馨の屋敷になった場所。 バスが通る道だが、積雪時は車は通れないと思われる。

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鳥居坂下の交差点を渡ると麻布十番側は短い坂、これはあひる坂といわれる。 道標もないので由来はわからない。 ものの本にも書いてない。 地形的に見ると江戸時代はこの麻布十番商店街の通りは沢筋だったと思われる。 今はなき麻布十番温泉もこの沢沿いに始まったのだろう。 そういう沢筋にはアヒルがいても不思議ではない。 この辺りに毎年棲みつくアヒルがいたのだろうというのが私の仮説。

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あひる坂から駅方面へ2本先の路地がすべり坂。 江戸時代の地図では単に宮下町とあるだけで詳細はわからない。  少し戻って鳥居坂の通りに、そこを鳥居坂とは反対側に行くと暗闇坂。

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暗闇坂という坂はいくつかあるが、どこも基本的には暗い坂。 ここも以前はうっそうとして暗い坂だったようだが、今はかなり開けている。

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坂の中間に来ても右側はビル工事中、ここが以前は樹木の生い茂る場所だったわけで、明るい坂になってしまった感がある。  坂の左手のレンガ塀はオーストリア大使館。 ウィーンが首都のオーストリアである。 右手は江戸時代には増上寺隠居とあるが明治以降は屋敷だったり更地だったりでよくわからない。

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暗闇坂を坂上から見るとようやく暗闇坂っぽい風景になる。 坂の上で狸坂、大黒坂、一本松坂が出合う辻になる。 明るい坂になってしまったが湾曲度合いといい、周辺の風情といい、今でもよい坂だと思う。

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2015年11月26日 (木)

六本木~三田の坂 (2)

小心者の私は歌舞伎町や六本木の様な超のつく繁華街は苦手だ。 しかし六本木交差点の周りにはそこそこの坂がいくつもあるから午前中の時間帯を選んで歩いた。 誰もが知っている六本木アマンド。 昔はアマンドの前というのが待ち合わせの定番だった。 その六本木交差点の十字路の脇からちょろっと別方向に下るのが芋洗坂。

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元来は警察署の方に行く道が芋洗坂だったが、いつからか誰もがこの坂を芋洗坂と呼ぶようになった。 芋問屋があったという説もある。 少し下ったところにスイートベイジルというライブハウスがあったのだが、今は建て直しか何かで更地になっていた。 その先の変則交差点を左に上がると饂飩坂だ。

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天明時代1780年代ここに松屋伊兵衛という饂飩屋があったためにそう呼ばれるようになったらしい。 江戸って蕎麦屋が定番なのに饂飩屋は珍しいかもしれない。 饂飩坂を上ると大通りに出る。 大通りを東京タワー方向に少し歩いてドンキホーテ先の信号を右に下り、東洋英和のある麻布区民センター角を左に入ると突き当りが麻布テラスという高級住宅。 そこを右折すると於多福坂。

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於多福坂はなかなか魅力的な坂。 直線部分が多いが二段坂になっていて、江戸の坂っぽい。 また坂の上段は両側から石垣が迫ってきて風情がある。

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坂は中盤で平らになるが最後にまだ大きく下る。 下から二段坂を1枚に撮れないかやってみたが身長が3mくらい足りなかった。 この二段坂が顔の真ん中が低いオタフクに似ているという事で於多福の名が付いたらしい。 江戸っ子は時折こういう突拍子もない名前を付ける。

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於多福坂を下りきると突き当り。 そこを右に曲がると車止めのある急坂が現れる。 昔は平板のガードレールが道路に直角に埋められていたが、今はパイプのガードレールに変わっている。

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この坂が潮見坂。 かつては江戸の海が見えたらしいが、今日ビルだらけの港区麻布で見える訳もなく、しかし潮見坂とか汐見坂という名の坂はあちこちにある。 坂上からなんとなく見えたつもりになるだけでも、タイムスリップできたようで悪くない。

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潮見坂もクランクの坂である。 坂の上もどこもかしこも高級住宅街で、ポルシェやジャガーがゴロゴロしている。 そして坂が多いからかどうかは知らないが、見かける女性はスレンダーかつ健康的で誰もがミランダ・カーのように見えてしまう。 もっとも東京の場合、高級住宅地=坂というのは定番の組み合わせではないかと思う。

この後はちょっと庶民の匂いが残る麻布の街へ降りていく。

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2015年11月25日 (水)

六本木~三田の坂 (1)

六本木一丁目駅を降りる。 滅多に使わない営団南北線の駅だ。 慣れない地下鉄の駅は出口探しに往生する。 後から作られた駅ほど判りにくく出来ているのが常だ。 泉ガーデン側と反対側に出たいのでいささか苦労したが何とか谷町JCT下六本木側の出口に出る事が出来た。 JCT下を回り込んで六本木通りへ、最初の路地を入る。

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路地はだらだら続く長い坂になっている。 なだれ坂(長垂坂)だ。 かつて六本木プリンスやIBM本社があった所は広い一角は住友不動産が再開発の真っ最中。 2016年竣工予定で40階建のビルが建つ。 テレビ東京もここに移転してくる予定と聞く。

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開発地の向かい側には昭和風のマンションや寺もある。 明治時代はなだれ坂の六本木側にはいくつもの寺が並んでいたが、関東大震災以降は卍マークが激減している。 ここは谷地を埋めてなだらかな坂にしたような地形なので崩れやすかったか、それで移転してしまったではないかと思う。 再開発ビルが出来てからは時代の混在を感じられる場所になりそうだ。 坂は緩やかなカーブを描きながら上っていく。 坂上を右折して、突き当りをさらに右折すると寄席坂の坂上になる。

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写真の右手の駐車場辺りに明治時代から大正3年にかけて福井亭という寄席があったので寄席坂と呼ばれる。 クランクになっている坂道で、下のクランクの所にあるレストランの建物が昭和の六本木の路地裏を感じさせる。

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坂の魅力を山野勝氏(坂道学会会長)は江戸情緒・湾曲・斜度・名前の由来で評価しておられたが、クランクの坂には先の見えない魅力があって、評価軸にないプラスαの魅力が加わる気がする。 屋敷などの障害物があってクランクしたのか、傾斜が急すぎてクランクにせざるを得なかったのか、そういった想像を駆り立ててくれるのである。

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寄席坂を下りきるとそこは首都高速3号線に覆われた六本木通り。 六本木交差点に向かって上るこの道が市三坂。 坂が作られたのは明治20年代というから新しい。 名主の名が付いた町名・市兵衛町と、松平三河守忠直邸のあった町名・三河台町のそれぞれの頭文字を取って市三坂と呼んだ。 前述の寄席坂もこの市三坂も明治以降の坂で江戸時代にはなかった道である。

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寄席坂の次の路地を入ると左手に丹波谷坂が現れる。 直線だが傾斜があってなかなかの坂である。 元和年間というから400年前、江戸時代の初期に坂上に旗本岡部丹波守の屋敷が出来てこの坂下の辺りを丹波谷と呼んだ。 ただ坂のある所は江戸時代は武家屋敷の敷地内。 明治の初期にこの坂が開かれて、丹波谷の坂という事でこの名前になった。

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坂上から見下ろすと下の方が傾斜がきついことがわかる。坂上側に屋敷があって、坂下側はきっと崖だったのだろう。 丹波谷坂の坂上を右折して次の路地が不動坂だ。

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こちらは現在は緩やかな坂になっている。 坂下から見上げる写真だが右の壁面に作業員が張り付いているのが坂の名前の由来になった不動院。 現在は鉄筋コンクリートの近代的な寺院だが由緒あるお寺。 この坂は元々不動院の参道だったが、寺の敷地が縮小して今の形になった。 参道だったことがわかるのは、この道は車道としては行き止まりになっていて、最後のところは階段になっている。 降りきったところは墓地だ。

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その墓地(六本木墓苑)をぐるっとなぞってロアビル方面へ上って行くのが閻魔坂。名前はかつて坂下の崇厳寺にあった閻魔堂に由来する。 大通りに出る直前だけが傾斜がきつい。 それまではゆったりした坂だ。 右側は古くからの飲み屋街。

実は右側(六本木通り方面)はここよりも数m高い。 この辺りの微地形を見るといくつもの谷地が台地に入りこんでいるのがわかる。 閻魔坂を上がると不夜城六本木の危険地帯。 午前中に歩くと、不夜城を支える様々な人々の働きが見られる。 散らばったゴミを片付ける人、店舗の改装などの工事をする人々、おしぼりなどを納入するリネン業者、古くからの住人達など、夜の六本木では想像もしない人々が朝からこの街を支えているのにちょっと感心した。

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2015年11月23日 (月)

元麻布~西麻布の坂 (3)

テレ朝通りに鎮座する中華人民共和国大使館。 他の国々の大使館もこの辺りには沢山あるがどうも街に馴染まないのは何故だろうかと思っていた。

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実はこの大使館、1972年の日中国交正常化以前は中華民国の大使館だった。 記憶に詳細な内容はあまりないのだが、田中角栄首相、大平正芳外相の時に中共(この言葉は使われなくなった)と手を握るために台湾(中華民国)との国交を切った。 その時に台湾を追い出してここに中共を入れた訳だ。 今振り返って見ると日本も随分とあこぎな事をしたものだ。 そこまでしても手のひらを反す国だからどこかで嫌いな気持ちが消えないのだと思う。

ちなみに中華民国大使館の前は満州国大使館だった。結局、同じ場所で3つの国の大使が入れ替わったわけである。だからここを歩くと嫌な気持ちになる。

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少し六本木ヒルズ方面に向かい内田坂の頂上手前で左折すると大横丁坂の下りである。 だらだらと緩やかな坂が続く。 江戸時代この辺りを大横丁と呼んでいたので大横丁坂というとある。 まあ何もひねらず考えずにつけた名前なのだろう。 富士見坂の別名もあるので昔は富士山も見えたに違いない。

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大横丁坂を直進し外苑西通りを横切って日赤病院側に渡るとかつての笄川の暗渠となる道と交差する。 ここから急に上りになる。 これが牛坂。笄川の暗渠に掛っていた橋が笄橋といいいくつかの伝説に登場し江戸名所図会にも描かれている(こちら)。

笄橋伝説(源経基 vs 平将門の手下)

当時の笄川は水量も多く大きな流れだった。川を渡るにはこの橋を通るしかないが、橋では将門一味の者が関所を設けて厳しく通行人の取り締まりをしていた。経基は一計を案じ、自分も将門の一味の者で軍勢を集めるため相模の国へ赴く途中であると偽った。すると関所の者に何か証拠となるものを置いていけと言われ、刀にさしていた笄(こうがい)を与えて無事に通ることができた。これにより以後この橋を経基橋と呼び、後に源頼義が先祖の名である為に実名を呼ぶ事を憚り「笄橋」と改称させた。

この笄が今も渋谷金王八幡神社に伝え残されているというから不思議だ。 麻布のあちこちで源経基の話が出てくる。時代的には平安中期の武士の始まり辺りだが、千年以上経っても残るのは凄いと思う。

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牛坂は結構な斜度でこれは牛車もさぞかし難儀しただろうと思う。 とりわけ雨後のぬかるみの時には、後ろを押す小遣い稼ぎの人足もいたのではないだろうか。

一旦笄橋のところまで戻り、六本木通りに出る。 この辺りは霞町と言った方が分りやすいがそれも実は間違い。霞町は西麻布交差点から六本木方面の地域名。こちらは笄町と呼ぶのが正しい。 渋谷方面へ坂を上るとそこが高樹町。 この坂が笄坂と呼ばれる。

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高樹町交差点を地下道で渡ると骨董通りの出口。 そこから今日は長谷寺(ちょうこくじ)に立ち寄る。 長谷寺は曹洞宗の永平寺別院。 なかなか素晴らしい寺である。 起源は江戸時代直前、1598年だから左程古い寺ではない。

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長谷寺脇から笄川の暗渠となる根津美術館への道に下って行く。 ビルが少ないので比較的地形が見て取れる。 この辺りは台地を笄川が削って出来た傾斜地である。 暗渠の道は根津美術館の塀に沿って上る。 この塀が坂を際立たせている。

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坂上の根津美術館交差点まで行き、そこから青山墓地へ。 青山墓地の中を歩いて西麻布交差点に向かった。 青山墓地は笄川の支流に挟まれた台地の残りである。 西麻布交差点の権八(キルビル)を左折して、六本木通りの霞坂を上る。

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この道は明治以降の道。 霞山稲荷があったことで霞坂、霞町の名前が付いた。 霞山稲荷は今の桜田稲荷、六本木ヒルズの脇にこじんまりと在る。

今回はいつものカメラを忘れたので、iPhone 6s plusで撮影した。 ピクセルをかなり落として撮ったがなかなかの画質で驚いた。

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2015年11月22日 (日)

元麻布~西麻布の坂 (2)

元麻布3丁目の狐坂を下ると変則の五差路に出る。 ここもいつもバリケードを準備して警察官が張り込んでいる。 斜め右に急な上り坂が見える。 狸坂の上り、由来はほんとうに人を化かす狸が出没した事らしい。 また狸坂の方向が東なので旭坂の別名もある。

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この辺りの屋敷の土手部分は大谷石が多い。 栃木の大谷石は軽石凝灰岩の一種で石の中でも軽くて加工がしやすいので昔から使われてきた。 まだ日本が海の中にあった時代に噴火した火山灰と砂礫が海中で固まったもの。 耐火性もあるので日本では重宝されてきた。

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狸坂の坂上には麻布グレイスゴスペル教会の礼拝堂があってセレブっぽい西洋人が出入りしている。 実は結婚式場でもあって、なかなか洒落た路地なのだ。 坂の上で狸坂は大黒坂・暗闇坂・一本松坂との辻になるが、今日は一旦坂の下に降りて狐坂に戻る。

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中国大使館の裏口にいる警察官が行ったり来たりする私を訝しげに見ているが、会釈をするときちんと返してくれる。 仕事とはいえ四六時中立ちんぼするのは大変だ。 狐坂もそこそこの傾斜がある。 上り詰めるとテレ朝通り。 テレ朝通りから外苑西通りへは下りになる。 つまりテレ朝通りは尾根筋の道なのだ。 外苑西通り沿いには昔、笄(こうがい)川が流れていた。 その笄川に向けて下る坂が並んでいる。

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まずは一番北側にある紺屋坂。 特に何の変哲もない小さな坂道なのだが、この場所に紺屋(染物屋)があったので付いた名前。 別名を芥(ゴミ)坂といい坂下にゴミ捨て場があったようだ。

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2番目の坂は間にあるということで中坂と付いている。 ここが一番急坂。 横関英一氏の『江戸の坂東京の坂』に江戸っ子がどういう名前の付け方をしたかが細かく書かれている。 こだわりがあるようでいて実はいい加減な付け方をしていたようだ。 だから同じ名前の坂があちこちにある。 中坂なんてもっともテキトーな名付け方である。

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一本広尾寄りの坂が北条坂になる。 坂下の南側に北条家の下屋敷があったのでこの名前になった。 河内狭山の大名というから、大阪の南部。 江戸時代のこの辺りは稜線上に寺院・大名屋敷・町家が入り混じっていた。 坂下の笄川辺りには農民もいて士農工商がほとんど居るような街だったに違いない。

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北条坂は下って行くと平坦になりまた下る二段坂。 下の部分は鉄砲坂と呼ばれる。 鉄砲組の屋敷や幕府の鉄砲練習場があったそうな。 下りきると外苑西通り。 そこを西麻布方面に歩くと、公園がある。 公園の北側の路地を入ると間もなく笄小学校。 そのまま上って紺屋坂からテレ朝通りに戻った。

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2015年11月21日 (土)

元麻布~西麻布の坂 (1)

週末の天候が悪く野暮用も多くて暫く散歩に行けなかったが、今週末は何とか天気が持ってくれているので出掛ける事ができた。 スタートは大江戸線と南北線のある麻布十番駅。 4番出口は地上まですべてエスカレーターがあって便利。 出るとそこは麻布十番商店街の入口である。

今回はまず外苑東通りの十番稲荷にお参りする。 秋祭りの準備なのか提灯がたくさん並んでいる。ちょっと遅い気もするが、七五三や酉の市ののぼりも出ている。ようわからん。 しかしここに来た理由はカエル様に会うためだ。

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麻布のがま池伝説のガマを祀ってあるのだ。 元麻布2丁目にそのがま池がまだ残っているが私有地内で入れない。 神社からは700m離れているのにどうしてここに祀られているのかは分らないが、その伝説というのが、江戸時代の後期がま池を囲んで旗本の山崎氏の屋敷があり、池の主のガマに餌をくれていた。 文政4年というから1821年、約200年前に古川橋で発生した大火が迫って来た折にその池のガマが水を吐いて屋敷を守り恩返しをしたという話である。 よくある街伝説だが、こうしてガマを拝む人々がいる事もまた平和な話だ。

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一旦外苑西通りを麻布十番商店街側に戻り、六本木高校脇から内田坂を上る。 路地路地の上にヒルズレジデンスやヒルズが顔を出すのだが、周りとの高低差が昔の姿を想像させてくれる。 この辺りも明治の初期は畑と林だったのである。

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内田坂を登ったところに小さな公園があって、休日は周辺に住む外国人と富裕者層が子供を遊ばせている。 その公園には不似合いの石碑が立っている。

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何の石碑かというと、ここに乃木希典の生家があったというもの。 今では乃木坂48の方が有名かもしれないが、私の故郷の偉人である。 おかしいなと思いつつ説明板を読むと、なるほど今の六本木ヒルズ一帯は長州藩毛利氏の屋敷跡、その敷地にあった長屋で生まれたのだった。(ちなみに私の結婚式は乃木会館、子供達の七五三も乃木神社)

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坂の頂上を真っすぐに進むとテレ朝通り。 左折して中国大使館方面へ向かい、消防署手前を入って宮村坂に入る。 低層の高級マンション「元麻布プレイス」が何棟も並ぶが今は大規模な改修工事で殆ど養生してある状態。 坂の上の部分に写真の欄干があった。 ここは谷地筋なので本当に川があったのだろうか。 明治初期の古地図では水、竹、畑の記載があるので水のある場所ではあったと思う。

坂を下ると中国大使館の裏手、今週も警察官が角ごとに立っている。 バリケードを折りたたんでいつでも緊急事態に対応できるようにしているのだが、パリのテロ以前からそうだから常時そうなのかもしれない。 警察官に会釈をして狐坂を下った。

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2015年11月 8日 (日)

坂道歩き

子供の頃、山里で探検をして洞窟を発見したりして興奮した。 20年前から渓流釣りをするようになって、川筋を歩くのが自分の感覚にしっくりと来るので、ここ数年は東京都内で川筋を散歩したり暗渠を探訪したりしてきた。

それでもメタボ体形は一向に変わらないのでこれは高低差のある坂道探訪をすべきだろうと思うようになった。 運よく東京は坂の街。 特に西半分は大地を川が削った地形でできている。 まずは近所の川から歩き始めた。 神田川は井の頭公園の源頭から隅田川の出合いまで、その支流の善福寺川も制覇済み。 目黒川は支流の北沢川、蛇崩川、烏山川の大半を制覇済み。そんな感じで楽しんでいたが、その川の周りにはたくさんの坂道があることにも気づいていた。 ほとんどが河岸段丘なのである。

実は渋谷も河川が作った窪地。 そんなことを考えながら歩いていると、時系列で風景が変化するのを多少感じられるようになった。 CMで流れる「蛍の住む渋谷」はすでに私の風景としては存在している。

そんな坂道歩きを助けてくれる名著に最近出会えた。 探したのだろうと言われればそうかもしれない。まず1冊目はタモリの著。

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写真が面白い。 深い知性を持つ森田氏のエピソードも興味深い。 そしてタモリが師と仰ぐ坂道学会(実はタモリとこの著者だけの会)会長の山野勝氏の著書「大江戸坂道探訪」。 情報としては一昔前のものなので古いと思われそうだが、この時間差が高低差と同じくらい重要なのである。 高低差と時間差は掛け算で面白さに影響する。

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最後は坂道のパイオニアでもあると言い切れる横関英一(よこぜきひでいち)氏の著書「江戸の坂 東京の坂」。 横関氏は私が上京した翌年の1976年に他界している。古い書の復刻版になる。 これは昭和30年代~40年代の写真が多く、写真の解像度や鮮明さに難はあるがさらに時間差を掛けて興味が宙を舞う。

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これら3冊は今年の秋冬の私の晴耕雨読の友になった。 老兵のおもちゃである。

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2015年11月 5日 (木)

南麻布の坂 (3)

イラン大使館からは人のみ通れる路地を歩く。 道幅は1mほどだがこういう道が好きだ。 民家の軒先を掠めるように進むと絶江坂の坂下に出る。 絶江坂も道幅が狭いが車は通れる。 とはいえ軽自動車でもすれ違いが無理な道幅。 下の写真は登って行った軽自動車と下ってきたセルシオが鉢合わせした場面。軽自動車が左の延命院に入って無事すれ違うことができた。 麻布はお金持ちの街だが大型車には向いていない。

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しばらく上ると緩やかにカーブしながら高度を上げていく。 右手の垣根がいい。 垣根の向こうはずっと墓所である。 南麻布も寺社が多い。

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坂上の若松寺の門前を右に折れて下ると普通の街並みになる。 突き当りを左折して北へ向かう。 少し歩くとマンションの1階角に麻布コロッケののぼりがあった。 近所の住人らしき人が「食べた?」と友人に聞きながら通り過ぎた。 美味しいのだろうか。 しかしこの辺りから路地の角という角に警察官が立っている。 街の風景を撮影しようとカメラを構えると睨んでくる。

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今週は日中韓の会談があるので、韓国大使館のあるこの仙台坂を中心に麻布周辺はおそらく100人体制の警備に入っているように見えた。 上の写真の縞模様の塀の建物が韓国大使館だ。 坂下に数人、坂上にも数人、各路地ごとに一人ずつ配置されている。 しかしテロ対策のような緊張感はないので、本当のテロに襲われたらひとたまりもないかもしれない。

仙台坂は伊達家の下屋敷や旗本屋敷が密集していた場所だったのでこう呼ばれた。 意外と傾斜はきつい。仙台坂上を右折して、運動場の交差点から広尾駅方面へ下る。

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有栖川公園脇の下り坂が南部坂。 左の塀はドイツ大使館。 ドイツの観光告知がずらっと貼り出してある。 なかなか楽しい下り坂で思わず何度も足を止めて見た。 南部坂という名前は有栖川公園が盛岡藩主南部家の屋敷があったからである。

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南部坂を下ると出発点の麻布ナショナルマーケットに付く。 今回はついでに公園の反対側の木下坂を歩いた。

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こちらにも機動隊が控えている。 写真の車両は2台とも警察車両だ。 木下坂は備中足守藩主木下備中守の屋敷があったから。 麻布周辺は江戸時代大名屋敷だらけだったようだ。それにつけても警察の多さには閉口した。 木下坂の先には中国大使館もあるので、今回はこの辺で終わりにすることにした。

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2015年11月 4日 (水)

南麻布の坂 (2)

フランス大使館から大通りに出るとそこは明治通り。  光林寺に立ち寄る。 空が真っ青で秋らしく気持ちが良い。 都会の中でも寺社に入るととても落ち着く。 しばし庭を愛でてから、新坂に入った。

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新坂といってもできたのは元禄時代。 しかし坂は平凡でこれといって大した坂ではなかった。 坂上に上ると角にフィンランド大使館の敷地の石垣がある。

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坂上にも道標があるが、坂上に近い部分は傾斜が緩やかで坂という感じはしない。 大使館を右手に見て手前を右折すると、本村小学校を右に見ながらの下り坂。これが阿衡坂。 これもまたあまり傾斜のない坂で、最後の角の手前だけに傾斜がある。

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ちょうどこの写真のあたりがもっとも標高の低いくぼみになる。 ここからは急な登りの坂が始まる。 奴坂である。

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昔は坂上に道標があったようだが見当たらなかった。 朽ちてしまったのだろうか。 坂を上って右折すると薬園坂。 長い坂だ。 坂の途中で右手に急に落ち込んでいく坂がある。 これが釣堀坂。 しかし昔この窪地にあったという釣堀は先ほどの奴坂の坂下に今はある。

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2.5m幅の旧規格道路を下ると向こうに階段の登りがある。 ここの地形がよくわかる。 渋谷川(古川)に流れる沢があったのだろう。 一番低いところに狭いながらも楽園坂緑地があって樹木が植えられている。

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路地をつたって薬園坂の坂下に出る。 写真の左にあるのはイランイスラム共和国大使館。 麻布は大使館の多い街だ。 南麻布のこの地域だけで、ドイツ、フランス、イラン、フィンランド、韓国、中国、パキスタン、アルゼンチン、スイスがある。

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南麻布の坂 (1)

広尾駅で降りる。 広尾駅は上り線と下り線で出口が異なる古い作り。 上京した1970年代から変わっていない。 もともと西側の広尾商店街が広尾の中心だったが、有栖川公園と麻布スーパーマーケットに外国人が集まり広尾の国際的な雰囲気を作り出したために、東側もにぎやかになった。

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麻布スーパーマーケットの手前で右折するとすぐに広尾稲荷神社がある。  拝殿の天井には見事な龍の図が描かれている。 日本画家の高橋由一の作で歴史的にも意義ある絵らしい。 描かれた時代は江戸の末期。 すごい迫力を感じる絵だった。

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神社のとなり(拝殿の裏手)には庚申塚が3つ並んでいる。 江戸の初期から中期の物。 庚申信仰は庚申の夜に体内に住む三尸虫(さんしちゅう)が這い出し、天にその人の罪科を知らせて生命を縮めると信じられ、庚申の夜は眠らずに明かしたというもの。 室町以来あちこちにこの信仰の塚が作られた。 現代的な広尾の街にこれらがあることがとても素敵なことだと思う。

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そのまま天現寺方面へ進み、新富士見坂へ左折。 新しい坂だが、戦前の物とも思える欄干が残っていた。 荷車などが落ちるのを防いだのだろう。 クランク状に上っていくと間もなく新富士見坂の頂上。

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右折してフランス大使館方面へ向かう。 突き当りがフランス大使館の敷地。 そこを右に下りるのが青木坂。 最近拡幅されたようだ。

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こちらの方が富士が見えそうな気がすると思ったら、江戸時代はこちらが富士見坂と呼ばれたとある。 もっとも前述の古い欄干の辺りが一番富士が良く見えそうなので、明治になって開かれたときにあちらが富士見坂とされたのだろう。

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青木坂を降りて左折するとモダンな建築のフランス大使館がある。 ちょうど入り口にフランス軍の制服を着た高級士官らしき人がいた。 ここだけ日本じゃないような感覚に陥った。

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2015年11月 3日 (火)

白金台の坂(2)

東京大学医科学研究所と聖心女子大の間の道はなかなか素敵な道だった。 下ってから再び登っていく。 左手には時代を感じさせる煉瓦造りの研究所、右手には紅葉を始めた聖心女子大の樹木たちが並ぶ。

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この窪地は白金台を東西に分ける谷地で、聖心女子大のキャンパスは二つの峰の間に広がる形。 渋谷川の南に広がる白金台にはいくつかの谷があって、西は自然教育園から天現寺に流れる沢、東は八芳園あたりから名光坂に落ちる沢、その真ん中にこの聖心の沢があったようだ。 明治時代はこの辺りは南白金村といい田畑の広がる地域だったと思われる。

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女子大の敷地沿いに回り込むと蜀江坂の下りになる。 写真は下ったところ振り返って撮影したショット。  恵比寿側が低地になっている。 坂を下りきると三光町のバス通り。 北里研究所があるので、先日ノーベル生理医学賞を受けた大村智氏の応援のバナーやポスターが至る所に出ていた。(今年は特に人柄のいい人が受賞した感じがする)

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次は明治坂の登り。江戸時代は無名の坂だったが、明治の末に坂下の商店街ができて名付けられたらしい。

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明治坂を登ると白金台の北西の端の稜線。 そこから下る道もいい坂だが名前はない。 恵比寿から白金台へ抜ける外苑西通りを横切り日東坂の坂上に出る。

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大正時代の新坂で日東紡か何かの工場があったらしい。 ここからいったん下って首都高の下をくぐり、ガーデンプレイスに向かって再び急な登りを登っていく。 恵比寿の周辺も坂は多いがまた別の機会に。

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一つだけ、恵比寿の駅前の下り坂は以前は石畳の素敵な路面だったが、もう石畳はごくわずかになってしまった。 この下の六差路の近くに細君の実家があって、いつも犬の散歩でこの辺りをうろついていたものだ。石畳の理由は国鉄時代の恵比寿駅は貨物が多く、馬車や車が登りやすいようにという話を聞いたことがある。真偽のほどはわからない。

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2015年11月 2日 (月)

白金台の坂(1)

白金台の坂を歩いた。 去年の春、長女の結婚式を行った八芳園が出発地だ。 その時は意識していなかったが、八芳園の前を下る坂が桑原坂という坂。 坂を下りてそのまま行くと明治学院大学。 坂下まで降りたら再び引き返して、八芳園の角に戻った。

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当時このあたりの古地図を調べたら茶畑だった。 八芳園は誰かの屋敷跡かと思っていたが以外に普通の谷地だった。

八芳園の角から清正公前に下る道は日吉坂。 背の高い高級マンションが立ち並ぶ通りになってしまった。 昭和のころはこうだったかなと思いつつ坂を下る。 下ったところがシェラトン都ホテル。 下の写真では画面の右側の登りが日吉坂である。

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清正公前から白金1丁目交差点にかけては微妙な坂だが名光坂という名前が付いている。 道標は見つからなかった。 昔は湿地帯でホタルが飛び交う場所だったのでその名が付いたらしいが、今は面影のかけらもない。 この道路(国道1号線)の西側が白金台の台地、東側(海側)が高輪台の台地になっている。 それを考えると、ここが低地で湿地帯だったのは想像に難くない。 またそのなかの谷地の一つが八芳園の敷地というわけである。

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国道一号線から恵比寿へのバス通り(通称)に入る。 白金三光町の通りである。 第2次大戦前、私の亡父が天現寺に下宿していたころよく三光町をうろついたと聞いていた。 当時は大通りのほとんどに路面電車が走っていて、天現寺で電車に乗って今の明治通りを走って渋谷に映画を見に行ったらしい。 今の東映プラザのところは当時も映画館だったそうだ。

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三光町の途中で白金台に上るのが三光坂。 勾配は10%と大したことがないが長さはなかなか歩きごたえがある。  上の写真の左手に専光寺があるが、徳川家光が鷹狩でこの地を訪れた時に、ここにあった葉が三つに分かれた老松を称えて三鈷松と名付けたのが訛って三光となったらしい。

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三光坂を登りきると右手には聖心女子大、左手には長々と続く塀がある。 この塀の中は実はとてつもないお屋敷。  服部家、あのSEIKO社の服部時計店の服部家のお屋敷だったが今はただ資産として管理されているようだ。 1辺200mはあるから12,000坪くらいはありそう。 坪500万くらいはするだろうから、えっと・・・600億円? んー、桁がわからない。

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屋敷の端っこまで行くと下り坂がある。 無名だが服部坂とでも名付けたい。 ここを下ると白金台の駅に行く。 しかし今回は少し先まで行って右折し東大医学研究所と聖心女子大の間の素敵な路地に向かった。

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