春日・小石川の坂 (2)
傳通院は徳川家康の母である於大の方を祀っている徳川家ゆかりの寺である。 さすがに広く立ち寄るには大きすぎるので今回はパス。
傳通院前には日本指圧専門学校があり、懐かしの『アフタヌーンショー』に出ていた浪越徳治郎の創設だけに敷地内には浪越の銅像と浪越の指のオブジェがある。 そのまま真っすぐに南へ進むと幅広い安藤坂になる。 神田川が作った河岸段丘の坂だ。
江戸時代は9段構えの急坂だったが明治時代(1909年)に路面電車を通すのになだらかにされた。坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があり、それで安藤坂と呼ばれた。 それ以前はこの坂の下まで入江が入りこんでいて、漁師が坂の上に網を干したことから網干坂と呼ばれたようだ。
安藤坂は坂下で右にカーブして神田川の白鳥橋に至るが、このカーブの所を東側に入ると牛天神北野神社の参道の階段につながる。 1182年(鎌倉幕府の10年前)源頼朝が関東を制圧に来た際に、この下の入江に船を停め休んでいると夢枕に牛に乗った菅原道真(845~903)が立ち、目覚めると牛に似た岩があったという事から道真公の夢指示で頼朝がここに建てたということになっている。 で、この階段が男坂とするとその北側を回り込むのが女坂の役割の牛坂。
結構な急坂で境内に上って行くが、江戸以前のここまで海が入ってきていた時代を想像するとこの坂の下に波が打ち寄せている景色が浮かんでくる。 実はこの牛天神の真下には丸の内線が走っている。 時代を凝縮させると頭の中が混乱しそうになるが、散らばった書類をページに合わせて揃える感じで整理していくとすべてがきれいに感じられてくる。
安藤坂の西で丸の内線は地上に姿を現す。 丸の内線が神田川の河岸段丘の際を走っているから、ここから茗荷谷までは地上になってしまうのだ。
永井荷風生誕地を見て進むと突き当りが金剛寺坂。 北に上がると春日通り、ここは南に下る。 金剛寺坂の由来は坂下の西側にかつて金剛寺という禅寺があったため。
金剛寺坂を下ると水道通りに突き当たる。 この水道道路(巻石通り)は以前小日向の坂でも出てきたが、神田上水が流れていた筋。 水道道路を小日向方面へ向かい金富小学校脇を右折すると今井坂(新坂)の上りになる。
今はとてもきれいな歩道もつけられて気持ちのいい道路だが、新坂という別名は江戸時代の新坂で、道ができたのは1711年~1716年頃。 名前の由来は変わっている。
坂上に蜂須賀孫十郎という武士の屋敷があり、そこに兼平桜という桜の巨樹があった。兼平桜は平安時代の武将今井四郎兼平の名にちなむのでこの坂を今井坂と呼んだという、どうも七面倒くさい由来で、説明書きを見てもすぐには理解できなかった。 坂の途中で再び丸の内線の跨線橋を渡り春日通りへ出た。
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