文京区関口・目白台の坂 (4)
日本女子大前を左折して次の公園脇を下る道が小布施坂。 江戸時代鳥羽藩主稲垣氏の下屋敷とその西側の岩槻藩主大岡氏の下屋敷の間にあった野良道を新道として1761年に開いたのがこの坂。 のちの明治時代にこの一帯に小布施新三郎という金持ちの屋敷があったので小布施坂と呼ばれるようになった。
途中が一部階段になっているので車両は通行止。 しかしバイクなら通れる程度である。
坂を下ったところに黒塀の懐かしい日本民家がある。 芭蕉庵のように名があるわけではないが、昭和を感じさせるいい景色である。
坂下はもちろん神田川。 しかしこの小布施坂の地下をくりぬく計画で用地買収も進んでいる。 下の地図の真ん中あたりの富士山型になっている小道が小布施坂である。 坂は一旦トンネルで斜面を貫き、不忍通りにつながるようだ。
坂下を右折して進み民家の間の道を右に入る。 下手をすると行き止まりになるのではと思うような住宅地の路地だがこれが次の坂の入口。
この辺は何の変哲もない路地なのだが、次第に傾斜がきつくなり、最後には階段の道になる。日無坂である。 昔は樹木が生い茂り暗い坂だったことからそう呼ばれるようになったが、今では住宅の間を抜ける階段道。
この坂の頂上は富士見坂(豊島区)との接合で終わる。 鋭角な角の家の塀が素晴らしいが、かなり傷んでいるのでいつまであるのか。 できればこのまま残してほしいものだ。 坂上で目白通りと不忍通りの丁字路。
日本女子大前へ再び戻り豊坂とは反対の北側の路地に入ると緩やかな下り坂。 この道は幽霊坂と呼ばれるが、今はマンションと大学に挟まれたなんということのない路地。 幽霊坂を抜けると不忍通りでこの辺りは清戸坂と呼ばれる。 もともとは将軍の鷹狩への道。 明治時代はこのあたりは平田牧場という牧場で牛乳を売っていた。
清戸坂を下り、裏道に入り窪田空穂(クボタウツボ)終焉の地を巡ってから、薬罐坂を下り再び不忍通りへ出る。 やかん坂のやかんは野犴(ヤカン)の意で犬やキツネを言う。野犬やキツネが出る道だった訳である。 そういう風景を想像するのは楽しいものだ。
最後は大通りの交差点になっている小篠坂(小笹坂)。 ここも将軍鷹狩りルートの一部で、江戸時代は笹薮の重なる景色だったのだろう。 今は首都高速とと不忍通りが重なり自動車がひっきりなしに通る。 江戸時代の想像をした後に首都高の橋げたを見ると夢から覚めたような気持になる。
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