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2016年2月20日 (土)

千石・大塚の坂 (2)

千川通りに出てからは右に向かう。 いわゆる古の千川沿いの道。 間もなく交通量の多い不忍通りとの交差点に出る。 千石三丁目の交差点だが、この不忍通りは上野ABAB前から護国寺前まで、かつての都電道でこの辺りには猫又橋が掛かっていた。元は根子股橋といい木の根っこの股を使って橋を架けたのでそう呼ばれたが、江戸時代の逸話から猫又橋になった。

「この辺りには狸がいて、夜な夜な赤手ぬぐいをかぶって踊った。 ある夕暮れ時、大塚辺りの小僧が橋の近くに来ると、草の茂みの中を白い獣が追ってくるので、すわ狸かと慌てて逃げて千川にハマった。それからこの橋を猫又橋とよぶ。」とある。 猫又は妖怪の一種。

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昭和の初めまでは川でドジョウを獲り、蛍を追い、周辺に広がる稲田で子供たちが遊んでいたのどかな田園風景だった。 大正時代になって橋はコンクリート造りになったが千川はたびたび氾濫を起こし、ついに昭和初期に川は暗渠にされてしまった。 上の写真は当時の橋の親柱と袖石とある。

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猫又橋から上野方面はかなりの登り坂になって本郷台地に上がっていく。  今は広い道路でこれは大正11年(1922)に都電と同時に開通したが、その前は写真の左側を細い坂で上っていた。

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上の写真の右側ガードレールの細道がその旧道。 左側の車道は切通に削られた道で、電車を通すのには急すぎたのだろう。 こういう微妙な旧道の名残を見つけるのもまた面白い。

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坂上の信号交差点を左折し、天理教向かいをさらに左折すると砂利場坂の下りになる。 江戸末期この辺りが江戸の北の端でここから北にはほとんど人家がなかった。 坂名の由来は護国寺建設の折、この辺りが砂利置き場になっていたことから付いた。

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砂利場坂の北西側の道が宮坂である。 昭和になってから開かれた坂で、大正時代はまだ民家がまばらなエリアだった。 明治時代からこの坂に有栖川宮熾仁親王の屋敷があったことから宮坂と呼ばれた。

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周辺は昭和41年までは丸山町と呼ばれていた。江戸末期には農民と下級武士の住むエリアだった。 その後ゆるやかに民家が増えていった。 いまでも道路端には猫がのんびりと日向ぼっこをしているのどかな街である。 宮坂を下ると再び千川通り。 猫に誘われるように猫又橋に戻っていく。

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