湯島の坂 (3)
ガイ坂を下り最初の左の路地に入ると正面にそびえたつような階段が見えてくる。 このエリアのハイライトともいえる急坂だ。
実盛坂である。実盛というのは長井斎藤別当実盛という武士で、平安末期に今の埼玉県の妻沼あたりの有力者で当時平家に味方し源氏方の木曽義仲と戦った末に討たれた。その実盛がこの辺りに居を構えていて、近辺には実盛塚や首洗いの井戸があったという伝説から坂の名になったとある。どうせなら斬られてこの坂を転がったという方がリアル感があるがそのような話はない。
坂上からの眺めは狭いもののその分高低差を強調された感じで見下ろして怖いと言って通り過ぎる母子連れがいた。 縄文時代にはここは波が打ち寄せる断崖だったのかもしれない。
実盛坂上を右折すると湯島天神の正面になる。最初の交差点を右へ曲がるのが中坂である。 神田明神を上回る凄い人出で湯島の街はごった返していた。この列は中坂を降り、千代田線の駅がある大通りまで続いていた。湯島天神の中の坂(階段)も次回の宿題になったことは言うまでもない。
雑踏は好まないので、天神下の交差点をさっさと横切ろうとしたが、交差点の角の歩道が狭いので人があふれていて、交差点に近づけない。何とか不忍池側に渡ることができた。ところがそちら側にも人の列、これは「らーめん天神下大喜」に並ぶ列だった。 散歩をしているとあちこちにこういう行列のラーメン屋がある。ここは一応チェック。
路地に入り都立旧岩崎邸庭園の門前を過ぎて、レンガ塀沿いに回り込む。 都内でも有数のお屋敷庭園だが外塀もまた美しい。 東天紅手前を庭園沿いに左折するとそこは無縁坂。
森鴎外の小説『雁』の主人公の散歩道ということで有名になった坂。岩崎邸庭園は明治以降の三菱財閥の屋敷だが、江戸時代は榊原式部大輔の中屋敷。越後の国高田藩の大名屋敷である。そのまま塀沿いに裏に回り込む。 その先にある切通公園の中を通って大通りに出るとそこが切通坂である。
目の前は湯島神社。この辺りの古い地名は湯島切通坂町。ここは江戸時代には大工の棟梁が拝領した土地で浜松から江戸に来て江戸城の築城にかかわったという。 あたりは当時松林で、不忍池辺りは大昔(縄文時代)は東京湾の入江だったが、江戸時代は駒込方面から藍染川(谷田川)が流れ込み一旦溜まったのちに、忍川という川になって蔵前辺りで隅田川(当時は東京湾)に注いでいた。つまりここより東はずぶずぶの湿地帯でここが陸の東端だった訳である。
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