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2016年2月 5日 (金)

本郷の坂 (4)

建部坂の坂上に戻り進学校女子高御三家のひとつ桜蔭学園角に向かう。 ここから右に桜蔭学園、左に工芸高校を見ながら急坂を下る。 忠弥坂だ。 坂の上に丸橋忠弥の槍の道場があり、かつ忠弥が慶安事件で捕まった場所ということで坂の名が付いた。

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慶安事件は丸橋忠弥と油井正雪が1651年に江戸幕府を転覆させようとして失敗した事件。当時安定してきた江戸幕府だったが、多くの大名家を取り潰したりした為50万人もの浪人が発生していた。 この年に3代将軍家光が亡くなり幼少の家綱が継いだ(当時2歳)。 油井正雪率いる浪人たちが謀反を起こしたのがこの事件だった。

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忠弥坂の中腹に古い欄干があった。 崖側ではなく反対側にある。 普通の欄干のパターンとは違っているので次の課題とすることにした。 忠弥坂をくだる女子高生が多いので写真が撮り辛い。 暮らしにくい世の中になったものだ。

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忠弥坂を再び坂上に戻り、桜蔭高校の脇を通って裏手に回る。 1本北側の路地が金比羅坂。 坂下に金比羅神社があるのが由来。 金比羅様といえば讃岐の香川県。 坂下には讃岐の殿様松平家の中屋敷があったから故郷から持ってきたのかもしれない。 江戸時代に江戸の町内にあったのが上屋敷と呼ばれる本宅、別宅が中屋敷、下屋敷となる。 贅沢なもんだ。

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金比羅坂の2本北の路地が壱岐坂。 大通りの新壱岐坂を斜めに横切り、東洋学園大学本部の脇に抜けていくのが元からの壱岐坂で、大通りは車道として通された新道である。 備前唐津藩の藩主・小笠原壱岐守の下屋敷があったのが由来だが江戸後期にはなくなっている。 しかし名前だけは残った。

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新壱岐坂を渡り路地裏の水道橋グランドホテルの前にある階段を上る。 ここが新坂。 文京区内に新坂と言う名の坂道は6ヶ所ある。 新坂と言っても江戸時代からあって、当時はこの北側に内藤外記という旗本屋敷があったので外記坂と呼ばれたようだ。 屋敷主名の由来パターンである。 新坂の先には朝陽館という木造の素敵な旅館がある。 昭和の雰囲気たっぷりの木造旅館だ。

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朝陽館前を左折し真っすぐに行くと春日通りにぶつかる。そこを左折し斜めの路地に入ると下り坂になる。 春日通りの方は東富坂だが、こちらの路地は旧東富坂。 真横を遁年るに入る直前の丸の内線が走る。 この先の低地を二ヶ谷と呼び薬研型の坂だった。

Photo
今回「本郷の坂(4)」の領域は赤線のあたり。 その北側の切れ込みは菊坂(南側)と言問通り(北側)。赤線の脇のドームのあたりには斜め左上から千川が流れていた。 江戸以前はこの黄緑のエリアには船も入って行けるような入り江になっていたのだろう。 地形図の右半分の盛り上がりが本郷台地である。

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