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2016年2月20日 (土)

千石・大塚の坂 (2)

千川通りに出てからは右に向かう。 いわゆる古の千川沿いの道。 間もなく交通量の多い不忍通りとの交差点に出る。 千石三丁目の交差点だが、この不忍通りは上野ABAB前から護国寺前まで、かつての都電道でこの辺りには猫又橋が掛かっていた。元は根子股橋といい木の根っこの股を使って橋を架けたのでそう呼ばれたが、江戸時代の逸話から猫又橋になった。

「この辺りには狸がいて、夜な夜な赤手ぬぐいをかぶって踊った。 ある夕暮れ時、大塚辺りの小僧が橋の近くに来ると、草の茂みの中を白い獣が追ってくるので、すわ狸かと慌てて逃げて千川にハマった。それからこの橋を猫又橋とよぶ。」とある。 猫又は妖怪の一種。

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昭和の初めまでは川でドジョウを獲り、蛍を追い、周辺に広がる稲田で子供たちが遊んでいたのどかな田園風景だった。 大正時代になって橋はコンクリート造りになったが千川はたびたび氾濫を起こし、ついに昭和初期に川は暗渠にされてしまった。 上の写真は当時の橋の親柱と袖石とある。

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猫又橋から上野方面はかなりの登り坂になって本郷台地に上がっていく。  今は広い道路でこれは大正11年(1922)に都電と同時に開通したが、その前は写真の左側を細い坂で上っていた。

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上の写真の右側ガードレールの細道がその旧道。 左側の車道は切通に削られた道で、電車を通すのには急すぎたのだろう。 こういう微妙な旧道の名残を見つけるのもまた面白い。

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坂上の信号交差点を左折し、天理教向かいをさらに左折すると砂利場坂の下りになる。 江戸末期この辺りが江戸の北の端でここから北にはほとんど人家がなかった。 坂名の由来は護国寺建設の折、この辺りが砂利置き場になっていたことから付いた。

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砂利場坂の北西側の道が宮坂である。 昭和になってから開かれた坂で、大正時代はまだ民家がまばらなエリアだった。 明治時代からこの坂に有栖川宮熾仁親王の屋敷があったことから宮坂と呼ばれた。

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周辺は昭和41年までは丸山町と呼ばれていた。江戸末期には農民と下級武士の住むエリアだった。 その後ゆるやかに民家が増えていった。 いまでも道路端には猫がのんびりと日向ぼっこをしているのどかな街である。 宮坂を下ると再び千川通り。 猫に誘われるように猫又橋に戻っていく。

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2016年2月18日 (木)

千石・大塚の坂 (1)

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茗荷谷駅を降りて春日通りを渡る。 筑波大学東京キャンパスを目指して右折すると最初の信号の先にずっと下る坂が見える。 湯立坂だ。 大昔この坂の下は千川で入り江の様な幅の広い川だった。 その為千石の簸川神社にお参りしようにも容易に渡ることができなかった。 その為にこちら岸の氏子は湯立神事をこの坂の下で行っていたという故事に由来する。 湯立(ゆだて)とは湯立神楽ともいい、大釜に湯を沸かして笹の葉を湯に浸して身にふり掛けて神に祈るというもの。 八百万の神の日本ならではの行事を思い浮かべながら下る。

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筑波大キャンパスの樹木がきれい。 そして反対側にも古くて広い屋敷があり整備された道路ながらなかなかいい感じである。 坂下には公園があり、占春園がある。 占春園は水戸黄門の弟である松平頼元が構えた屋敷跡。 今は教育の森公園の一部になっている。 よさげな公園なのでまた来てみたい。

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そのまま真っすぐに進み千川通りを超えると最初の角の右手には小石川植物園の通用門、左手には簸川神社の鳥居と階段が現れる。

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ここから上る坂が網干坂で、小石川を挟んだ反対側には御殿坂がある。 網干坂は白山台地に上る坂で、昔坂下の谷には多くの舟の出入りがあり、漁師がいてこの辺りに網を干したことが由来のようだ。 千川は古くは小石川という名の川で、昭和9年(1934年)に暗渠化された。

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現代の坂上からの景色は千川通り沿いの住宅密集地の向こうに春日通沿いのマンション群というものだが、昔は大名屋敷とその間を流れる千川という風景だったのだろう。 坂上を左折し新築マンションの先を再び左折すると氷川坂(簸川坂)の下りになる。

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坂の途中に簸川神社の裏口がある。 とても古い神社で祭神は須佐之男命。 創建は不明瞭だが孝昭天皇時代(神武・綏靖・安寧・懿徳・孝昭・・・で第5代天皇)とあるがまあおよそ2000年くらいだろうか。 物語の領域である。 大昔は小石川植物園の場所にあったが、白山御殿建築のために江戸時代にここに移転させられた。

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坂の傾斜はかなり急でお年寄りが休み休み上って来た。 坂下のT字路になる道の先に細い路地があり千川通りに抜けられる。

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2016年2月16日 (火)

春日・白山の坂 (4)

御殿坂を再び坂上に上り小石川台地の上を北に向かう。 東洋大学京北中学高等学校前の交差点を左に進み、2本目の細い路地を右折。 しばらく進むと白山通り手前で急に下り坂になる。 何という事のない坂。

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説明板に逸見坂とある。 逸見という名の武家屋敷がありそれに由来する。 ちょうど白山神社の向かいになるが、江戸時代には白山通りはなく、この先が白山権現だった。 白山権現は綱吉の白山御殿の屋敷神とされ今ではアジサイの名所にもなっている。

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白山通りを対岸に渡り北上、京華高校を過ぎて3本目の路地を入るとその奥が暗闇坂。 1本目の辻が変則十字路になっていてその先から急激に高度を上げる。江戸時代は周りが武家屋敷で樹木が生い茂り暗い道だったようだ。

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傾斜はかなりのもので、小石川台地と本郷台地に挟まれた白山神社の小さな台地の裏山に当たるエリア。明治初期の地図にも道はあるが周りは「雑樹」と記されている。 まさに坂道が時代を越えて当時の風景を想像させるような場所。 この辺り白山4丁目、5丁目は昭和41年までは原町という地名だった。辺り一面野原だったが家が建ち始めたので原町と呼んだ。

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白山通りに戻り西側に横断、一行院坂に入る。  坂上の北側に浄土宗の天暁山一行院がある。 1626年に建立されたが、開山は1817年とある。4月にはきれいな枝垂桜が咲く。

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再び白山通りに下りて、白山下から旧白山通りを上って行く。 昔からの白山のメイン道路である。 かつては路面電車が上っていた坂道だった。 この坂の名を薬師坂という。

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小石川方面からの道が江戸時代から複雑に交差するのが白山下でその様子は現代でも変わらない。

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2016年2月15日 (月)

春日・白山の坂 (3)

白山下の交差点を西に渡り南下する。 指ヶ谷小学校入口を入ると登り坂になる。 これが伊賀坂。 由来は江戸の初期、ここに真田伊賀守(真田信直)の屋敷があったという説からくる。 NHKの『真田丸』で大泉洋演じる真田源三郎信之の婚外子信吉の次男で孫である。 上野沼田藩藩主。

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指ヶ屋小学校はちょうど開口100周年記念とのこと、100年前というと1916年だからもう大正時代か。 自分が子供の頃明治100年という国をあげての祭りがあった。1968年のことだがつい昨日の様に覚えている。 計算してみれば明治+大正くらいの人生を生きてきたのだ。まあ言い換えれば爺さん。 伊賀坂上の変則交差点を右に進むと蓮華寺坂に出る。 右に下ると白山下交差点である。

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蓮華寺坂は白山下南西角に階段がある。 この寺の名前が坂の名前。 日蓮宗本松山蓮華寺、開山は1587年。江戸時代徳川家光はしばしば白山のこの辺りに鷹狩に来ており、この境内の清水がたいそう気に入ったという。蓮華寺坂を上るとそこは小石川台地の突端。

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小石川植物園の裏門から下り坂になるのが御殿坂。五代将軍綱吉がこの小石川植物園の地に白山御殿という別邸を持っていた。元は白山神社だった。 のちに一部が薬草を栽培する小石川御薬園になった。 その後今の植物園全体まで御薬園は広がったという。

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この坂、何年か前に歩いた時にはもっと風情のある坂道だった。 その時の写真が下の写真である。

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道幅も広がり、歩道が整備されたが、個人的には昔の方が良い。再び坂上に戻って小石川台地の坂をさらにめぐる。

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2016年2月14日 (日)

春日・白山の坂 (2)

誠之小学校の前の道を北に進み突き当りの路地に出るとそこが胸突坂。 この名前の坂も各地にある。 ここの傾斜は関口台のそれに比べるとかなり緩やかだが、昔はそれなりにきつかったのだろう。 説明板の新撰東京名所図会の引用に「坂道急峻なり、因って地名を得、左右石垣にて、苔滑か」とある。 前述の石坂からここまでが福山藩阿部氏の屋敷跡、距離にして300mあるから東京ドーム2個分か、大名屋敷恐るべしである。

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坂下を真っすぐに進むと右手に急坂が現れる。こちらの傾斜は相当なものだ。 まず自転車は無理、原付でも厳しい位だろう。

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この坂が中坂という。 これもどこにでもある坂名だが、胸突坂と浄心寺坂の間にあるから中坂と呼ばれた。 見た目は新しそうだがこれも江戸の坂である。

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中坂の坂上を左折し突き当たるとそこが浄心寺坂。 この坂も古い道で中山道から白山へ下る。 坂上に浄心寺があり、と書きたいところだが調べてみても寺の場所は今の向丘、本郷通りの東側で古道もこの坂上で中山道に当たってその先には行っていない。 しかし手持ちの資料にもそこの記述がないので宿題になってしまった。

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坂下には円乗寺があってここには八百屋お七の墓所がある。 お七は井原西鶴の『好色五人女』に登場する実在の人物で、1682年の大火の折知り合った男との再会を願う余り自宅に放火したが、その罪で鈴ヶ森(品川)で火あぶりの刑に処せられた。 諸説ありというか、歌舞伎、浄瑠璃、落語などの題材にされるにつれいろんな形に変化していったのでどれが真相かは不明と言われる。

坂を下ると白山通りの白山下。 この辺りは江戸時代から明治時代にかけてのたくさんの逸話や歴史話があるから面白い。

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2016年2月13日 (土)

春日・白山の坂 (1)

都営地下鉄三田線と大江戸線が交差する春日駅の出口は複雑で同じ春日駅でも出口によっては全く違う方向に出てしまう。 今回は西片から歩くので三田線の北側の出口。 菊坂下方向に歩き最初の路地を左折すると間もなく石坂の上りになる。

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右左にくねりながら上って行く。 江戸の街パターンで坂の下は町屋、坂の上は武家屋敷だが、この坂の辺りには備後福山藩の中屋敷があった。 昔は広島県は大きく分けて安芸と備後に分かれていて東西でかなり違う気質と風土を持っていたが、その東側が備後福山藩である。

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道幅は広いがくねり方が魅力的な坂である。 坂を上ると台地なので平坦。 道なりに進み、2つ目の路地を左折すると下り坂になる。 新坂(別名:福山坂)である。

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新坂もくねりながら下がっていくきれいな坂だ。 別名福山坂の名はもちろん前述の福山藩の屋敷に由来する。 福山藩の屋敷が出来た頃に新しく開かれた坂なので新坂と呼ばれたが、江戸時代に新坂と呼ばれた坂がいまだにそう呼ばれているのは数多くある。どれも300年選手である。

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坂下の道はいかにも川沿いの道の漢字に湾曲していたので、古地図を確認するとやはり川だった。本流は小石川の方だが支流が今の白山駅のあたりから流れていて、水道橋あたりで神田川に合流していたようだ。

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川の跡には銭湯あり。 これは暗渠歩きの定番ルール。 ここにももれなく銭湯『富士見湯』があった。 東京の銭湯は次々に廃業しているが、ぜひ残してほしいものだと思う。 銭湯は土地の記憶である。

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富士見湯前を北上し途中の路地を右に入って道なりにしばらく行くと、右手が台地になっていてかなりの高低差。間もなく曙坂の階段が現れる。 坂下には上部折れてしまっているがなかなか見事な石碑がある。石碑には昭和22年竣工とある。 この竣工日付は昭和になって階段のきれいな坂に作り替えた時に建てられたもので、坂自体は昔からあったようだ。

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階段の坂は車が通らない点で特別扱いしたい。 できればコンクリートよりも石積みがいいのだが、今となっては石は高いので致し方ない。 坂の上には文京区立誠之(せいし)小学校がある。 珍しい名前だが、その訳は脇にあった説明板にあった。 ここは福山藩の江戸藩校「誠之館」があった場所。  廃藩置県で廃校になったが、その後誠之小学校として1875年に復活したとある。

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2016年2月 8日 (月)

湯島の坂 (3)

ガイ坂を下り最初の左の路地に入ると正面にそびえたつような階段が見えてくる。 このエリアのハイライトともいえる急坂だ。

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実盛坂である。実盛というのは長井斎藤別当実盛という武士で、平安末期に今の埼玉県の妻沼あたりの有力者で当時平家に味方し源氏方の木曽義仲と戦った末に討たれた。その実盛がこの辺りに居を構えていて、近辺には実盛塚や首洗いの井戸があったという伝説から坂の名になったとある。どうせなら斬られてこの坂を転がったという方がリアル感があるがそのような話はない。

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坂上からの眺めは狭いもののその分高低差を強調された感じで見下ろして怖いと言って通り過ぎる母子連れがいた。 縄文時代にはここは波が打ち寄せる断崖だったのかもしれない。

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実盛坂上を右折すると湯島天神の正面になる。最初の交差点を右へ曲がるのが中坂である。 神田明神を上回る凄い人出で湯島の街はごった返していた。この列は中坂を降り、千代田線の駅がある大通りまで続いていた。湯島天神の中の坂(階段)も次回の宿題になったことは言うまでもない。

雑踏は好まないので、天神下の交差点をさっさと横切ろうとしたが、交差点の角の歩道が狭いので人があふれていて、交差点に近づけない。何とか不忍池側に渡ることができた。ところがそちら側にも人の列、これは「らーめん天神下大喜」に並ぶ列だった。 散歩をしているとあちこちにこういう行列のラーメン屋がある。ここは一応チェック。

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路地に入り都立旧岩崎邸庭園の門前を過ぎて、レンガ塀沿いに回り込む。 都内でも有数のお屋敷庭園だが外塀もまた美しい。 東天紅手前を庭園沿いに左折するとそこは無縁坂。

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森鴎外の小説『雁』の主人公の散歩道ということで有名になった坂。岩崎邸庭園は明治以降の三菱財閥の屋敷だが、江戸時代は榊原式部大輔の中屋敷。越後の国高田藩の大名屋敷である。そのまま塀沿いに裏に回り込む。 その先にある切通公園の中を通って大通りに出るとそこが切通坂である。

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目の前は湯島神社。この辺りの古い地名は湯島切通坂町。ここは江戸時代には大工の棟梁が拝領した土地で浜松から江戸に来て江戸城の築城にかかわったという。 あたりは当時松林で、不忍池辺りは大昔(縄文時代)は東京湾の入江だったが、江戸時代は駒込方面から藍染川(谷田川)が流れ込み一旦溜まったのちに、忍川という川になって蔵前辺りで隅田川(当時は東京湾)に注いでいた。つまりここより東はずぶずぶの湿地帯でここが陸の東端だった訳である。

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2016年2月 7日 (日)

湯島の坂 (2)

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湯島の坂は本郷台地の東の端に当たる。 伊達政宗が掘ったお茶の水の神田川の北岸の湯島聖堂、その北側にある鳥居マークは神田明神でその東側である外神田側は急激に落ち込んでいるのが色別標高図の模様からよく分かる。明神の北側の蔵前橋通りは淡い色になっていることから昔は農業に適した谷地だったと推定できる。そこから北は湯島神社まで崖の地形が続いている。ここに多くの坂が集中していることは言うまでもない。

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蔵前橋通りの坂の中で比較的急な坂になるのはこの東の崖周辺でそれが清水坂を見るとよくわかる。下の写真は上から見たもので、向こう側も登り坂になっていて、蔵前橋通りが谷合であるのが分かる。

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清水坂、由来は比較的新しい。大正時代に入って湯島天満宮とお茶の水の間の往き来が不便だったので、ここにあった清水精機という会社が土地を提供して坂道を整備したため、街の人が清水家の徳を称えて清水坂と呼んだのが起源である。3本の路地の傾斜と高低差で江戸以前の地形がわかる面白いエリアである。

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清水坂の中腹を東に入るとそこが妻恋坂。妻恋神社がある。稲荷神社だが、日本武尊を祭神に持ち江戸の稲荷社の中では筆頭の位置にある神社だった。坂はというと傾斜はほとんどないといっていいくらい緩やか。それでもこの神社があることで引き締まった感じがする。

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妻恋神社の先の左手に階段がある。これが立爪坂である。別名芥(ごみ)坂。最初と最後に階段がある坂道だが、昔は爪を立てないと登れないほどきつい傾斜だったという。

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坂上を左折しその先を右折すると三組坂に出る。この一帯はラブホテルの多いエリアで散歩していると時折お忍びの二人連れに遭遇してなんとも言えない間合いを感じる。三組坂は明治以降の新しい坂。三組坂とは家康死去の折に御付きの中間(ちゅうげん)・小人(こびと)・駕籠方の三組の御家人がこの辺りを拝領したが、それにちなんで後世にこの名を付けた。

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三組坂の中腹を北に入る路地がガイ坂である。ガイ坂とは芥(ゴミ)の意でここにゴミ捨て場があったためと伝えられる。 三組坂辺りは東西の高低差が激しくそれ湯島天神まで続く。

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湯島の坂 (1)

湯島の坂はJR御茶ノ水駅から。御茶ノ水駅は東西二つの出口がある。水道橋側の御茶ノ水橋口と秋葉原側の聖橋口。今回は聖橋口から出る。サンクレールやニコライ堂の東京復活大聖堂がある。改札左前が聖橋交差点。真っすぐ神田川に沿って下るのが相生坂の片割れの淡路坂。

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淡路坂の由来はここに江戸初期の旗本鈴木淡路守の屋敷があったことから来る。相生坂は二つの坂が並んでいる場合に付く名前。現在の区割は神田川で分れるので南側の淡路坂は千代田区、しかし北側の相生坂は文京区である。

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聖橋を渡る本郷通りと相生坂は立体交差しているので、東京医科歯科大側の歩道から階段で降りる。階段下を左に曲がると湯島天神の築地塀(ついじべい)が圧倒してくる。築地塀は主に公家や寺院に見られる工法。赤坂の三分坂の宝土寺や浅草の待乳山聖天もこの塀だったが、ここの規模は凄い。坂の下には神田川、そして丸の内線が走る。

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坂の端の足元に小さな坂名の石碑があるがこれは路地側の昌平坂の名になっている。昌平坂の坂上にも坂名の石碑があるが折られてしまっていた。自動車がぶつかったのだろうか。昌平坂は相生坂から神田明神下に抜ける路地。昌平というのは湯島聖堂に祀られている孔子の故郷の地名。昌平坂は聖堂の周りに過去にいくつかあり紛らわしいが、元は団子坂だったこの路地が今は昌平坂。角の小さな石碑はどっちを指しても間違ってはいないわけである。

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昌平坂を上って神田明神前に出ると、正月明けで受験前だったためとてつもない混雑で明神の境内の坂を探訪するのは諦めた。神頼みするのは当人よりも周りの人間の方が多い様で、並んでいる人の中で最も多かったのは親の世代だった。我が家も何とか子供二人を大学までやって一人前にしたので気持ちはわかるが、何も直前に来ることはないだろうと思った。もっとも直前まで来てしまったから神頼みなのかもしれないが。

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神田明神の雑踏を抜けて本郷通りを北上する。この道は明神前を含めて湯島坂という。湯島坂を北西に進み、東京ガーデンパレスの手前を右折すると短い路地の坂道。

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樹木谷坂である。この辺りの地形は蔵前橋通りが川筋。大昔はいわゆる谷地のような風景だっただろうと思われる。その川筋に向かって降りていくのがこの樹木谷坂。別名を地獄谷坂。徳川家康が江戸に来た頃、この坂下、つまり蔵前橋通りは樹木の生い茂る谷筋だった。その谷筋に下る道ということで付いた名前。

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谷筋の蔵前橋通りも当時は西に向かって上って行く坂だった。後述の妻恋坂の新道なので新妻恋坂と呼ばれたが、開通したのは昭和になってからである。

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谷に下れば向こう側は上りになるのが常。蔵前橋通りの北側にも坂道がある。横見坂である。これも今はわずかな坂道に過ぎない。この坂から西の方を横見すると富士が見えた。それでいつからか横見坂と呼ばれるようになった。

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蔵前橋通りと本郷通りが合わさる変則交差点がサッカーミュージアム前。そこからサッカーミュージアム方面へ下るのが傘谷坂。ミュージアムの先までが下りでその先は上りになる。薬研型の坂。傘を裏返した時の形から昔はこういう地形を傘谷と呼んだのかと思ったら、この辺りには傘作り職人が多かったからだと説明板に書いてあった。

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2016年2月 5日 (金)

本郷の坂 (4)

建部坂の坂上に戻り進学校女子高御三家のひとつ桜蔭学園角に向かう。 ここから右に桜蔭学園、左に工芸高校を見ながら急坂を下る。 忠弥坂だ。 坂の上に丸橋忠弥の槍の道場があり、かつ忠弥が慶安事件で捕まった場所ということで坂の名が付いた。

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慶安事件は丸橋忠弥と油井正雪が1651年に江戸幕府を転覆させようとして失敗した事件。当時安定してきた江戸幕府だったが、多くの大名家を取り潰したりした為50万人もの浪人が発生していた。 この年に3代将軍家光が亡くなり幼少の家綱が継いだ(当時2歳)。 油井正雪率いる浪人たちが謀反を起こしたのがこの事件だった。

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忠弥坂の中腹に古い欄干があった。 崖側ではなく反対側にある。 普通の欄干のパターンとは違っているので次の課題とすることにした。 忠弥坂をくだる女子高生が多いので写真が撮り辛い。 暮らしにくい世の中になったものだ。

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忠弥坂を再び坂上に戻り、桜蔭高校の脇を通って裏手に回る。 1本北側の路地が金比羅坂。 坂下に金比羅神社があるのが由来。 金比羅様といえば讃岐の香川県。 坂下には讃岐の殿様松平家の中屋敷があったから故郷から持ってきたのかもしれない。 江戸時代に江戸の町内にあったのが上屋敷と呼ばれる本宅、別宅が中屋敷、下屋敷となる。 贅沢なもんだ。

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金比羅坂の2本北の路地が壱岐坂。 大通りの新壱岐坂を斜めに横切り、東洋学園大学本部の脇に抜けていくのが元からの壱岐坂で、大通りは車道として通された新道である。 備前唐津藩の藩主・小笠原壱岐守の下屋敷があったのが由来だが江戸後期にはなくなっている。 しかし名前だけは残った。

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新壱岐坂を渡り路地裏の水道橋グランドホテルの前にある階段を上る。 ここが新坂。 文京区内に新坂と言う名の坂道は6ヶ所ある。 新坂と言っても江戸時代からあって、当時はこの北側に内藤外記という旗本屋敷があったので外記坂と呼ばれたようだ。 屋敷主名の由来パターンである。 新坂の先には朝陽館という木造の素敵な旅館がある。 昭和の雰囲気たっぷりの木造旅館だ。

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朝陽館前を左折し真っすぐに行くと春日通りにぶつかる。そこを左折し斜めの路地に入ると下り坂になる。 春日通りの方は東富坂だが、こちらの路地は旧東富坂。 真横を遁年るに入る直前の丸の内線が走る。 この先の低地を二ヶ谷と呼び薬研型の坂だった。

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今回「本郷の坂(4)」の領域は赤線のあたり。 その北側の切れ込みは菊坂(南側)と言問通り(北側)。赤線の脇のドームのあたりには斜め左上から千川が流れていた。 江戸以前はこの黄緑のエリアには船も入って行けるような入り江になっていたのだろう。 地形図の右半分の盛り上がりが本郷台地である。

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2016年2月 4日 (木)

本郷の坂 (3)

本郷三丁目の交差点から本郷通りを南へ歩く。  丸の内線の駅があるコーナーのビルはかねやすビル。 江戸時代に「本郷もかねやすまでは江戸の内」と詠われたが、やはりこの辺りが江戸時代には東京の北の端と思われていたのだろう。 かねやすは歯磨き粉を売っていた店だった。

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本郷通りと壱岐通りのぶつかる壱岐坂上を南側に渡り、そこからは東京都水道歴史館への案内に従って歩く。 この歴史館は無料だが面白い。 休日もやっている。 江戸時代の水にまつわる様々な展示がある。

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写真は明治初年の御茶ノ水駅付近、まだ鉄道はなし。 橋は掛樋(かけひ)で水道橋である(明治34年に撤去)。 何度も話に出てきた神田上水から江戸の町内に水を送る橋。 徳川の街づくりの凄さを感じられる。 そしてこの川も、実際には川ではなく、徳川秀忠が伊達政宗に掘らせた神田川の放水路である。 これによってもとからあった本郷台地はぶった切られ、駿河台と本郷台に分れた。 この写真1枚だけでも当時の江戸が世界最先端の街だったことがわかる。

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水道歴史館を観た後はそのまま御茶ノ水方面へ下り、順天堂大学の渡り廊下の下をくぐる(今回は工事中だった)。 ここがわずかの高低差だが油坂(揚場坂)という坂。 油坂の由来はわからないが、揚場坂は神田川(放水路)に船をつけて荷物の揚げ降ろしをする場所だったことに由来する。

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神田川に沿って走る外堀通りを右折して、順天堂大学の西側の路地に入る。 この坂が富士見坂。 同名の坂が都内には数多あるが、南向きのこの坂がなぜ富士見坂なのか首をかしげる。 富士山は西にあるのに。

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富士見坂のひとつ西の路地が建部坂である。 西側は元町公園になっている。 元町というのはかつての本郷元町、もとはこの辺りは本郷村という江戸のはずれの村だった。 最初は弓を扱う同心の組屋敷だったが、それが大塚に移され、家康の故郷である三河から移って来た町人がここに住みようになった。  最初にこの辺りにできた町屋の拝領地だったので本郷元町となったらしい。 この元町公園が江戸時代は建部六右衛門の屋敷だったので建部坂と呼ばれた。 別名初音坂。この辺りの岸沿いには樹木が茂り最も早くにウグイスが鳴いたので呼ばれた。 ちょうど公園の前くらいにお茶の水の掛樋があった。

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元町公園前から水道橋方面へ緩やかに外堀通りの下り、これがお茶の水坂。 かつてここにあった高林寺に美味しい湧き水があり、将軍に献上したのでそれが地名となりお茶の水となった。 (高林寺は本駒込駅近くの向丘2丁目に移転)

お茶の水坂を下ると後楽園、あの一帯は黄門様の水戸藩の屋敷だったが、その広さは小石川後楽園+東京ドーム一帯、よく東京ドーム何個分という表現をするが、広さでいうと4個分くらいある。 それだけ広いのが江戸時代の大名屋敷。 旗本屋敷でも下手をすると普通の運動場付きの学校よりも広いのである。

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2016年2月 3日 (水)

本郷の坂 (2)

炭団坂のあたりは真砂という古い町名。 明治2年に付けた町名だが、浜の真砂(海辺の砂)の様に絶えることなく町が栄えるようにという願いを込めたらしい。 写真の左の辺りに坪内逍遥が住んでいた。

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と、この辺りまで来たところでデジカメのSDカードが入っていないことが判明。 内部メモリにはこれまでの写真は残っていたので後で保存できたが、時々これをやってしまう。 もっともこの後はスマホ(iPhone 6s PLUS)で撮影。 この携帯のカメラがすぐれもので、普通のデジカメよりも綺麗。 しかしファイルサイズが大きくなるので、600万画素くらいにして使っている。

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一旦菊坂に戻り、少し先の左に鋭角に切れ込む路地に入る。 実は炭団坂とはほぼ同一ライン上にあるが、菊坂が開かれる前はもしかしたら繋がっていたかも知れない。 その昔、大木の梨があったことから梨木坂と呼ばれた。 別説では、江戸の終わり頃この周辺は菊の栽培が盛んでそれが菊坂の由来なのだが、この坂のあたりから菊が無くなるので菊なし坂>梨坂>梨木坂となったという。 まあ、前者の方が可能性は高そうだ。

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梨木坂を菊坂に戻り、少し本郷三丁目方面に向かう。 右手に広い坂があるが、これが本妙寺坂。 菊坂を挟んだ真向いの台地にかつて法華宗の本妙寺という寺があった。 この寺に向かって下る坂だったのでこの名が付いた。 本妙寺は明暦の大火(1657年)の出火場所だった。 その後巣鴨5丁目に移転している。 菊坂との交差点から2件目にまるや商店という店があり、そこの菊坂コロッケが人気。

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ちなみに菊坂界隈の文人は極めて多い。 鐙坂の下には樋口一葉、坪内逍遥の居た炭団坂上には正岡子規、高浜虚子、炭団坂下には宮沢賢治、本妙寺坂周辺には石川啄木、宮沢賢治らが居た。 フランスの丘であるモンマルトルには沢山のアーティストが集まったが、やはり傾斜地のなせる何かなのではないかと思う節がある。

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菊坂を上りきる(といっても傾斜は少ないが)と、本郷通りに出る。 菊坂脇を沢が流れていると書いたが、その川を渡る本郷通りの橋がかつてはここにあり別れの橋と呼ばれた。 北に向かって微傾斜があるがこの東大方面の坂が見返り坂。 反対の本郷三丁目交差点までの短い区間が見送り坂。沢の源頭は東大構内である。

その昔、ここが太田道灌(1432~86、室町時代に江戸を治めていた武将で江戸城を築城した)の領地の端で、追放される人がでたりすると、残る人が沢の橋の本郷三丁目側に立って見送り、追放された人が北の方へ向かいながら見送る人を振り返る様子から、見送り坂-別れの橋-見返り坂となったという。

昨今交通機関のスピードが速いので、いつまでも見送ったり、何度も見返ることはなくなった気がする。 そういう心の襞(ひだ)も土地の記憶として感じられるのは感慨深い。

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2016年2月 2日 (火)

本郷の坂 (1)

春日駅の西片側の出口を出て菊坂方面へ歩く。 菊坂下の分岐では少し先まで進み、新坂へ入る。 いきなりなかなかの急坂。 西の小石川台地との間に千川が流れ(今は千川通り)その東側から2本の沢が落ちてくる。 このうち北側から流れる沢と南から流下する菊坂脇の沢があった。 その二つの沢の出合の少し上に新坂はある。 名前は新坂と言っても江戸時代の坂。

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坂の上は大栄館という旅館・・・のはずだが、今回すでに更地化されてしまっていた。 貧しかった石川啄木が金田一京助の誘いで滞在していた旅館。 周辺には二葉亭四迷、尾崎紅葉、徳田秋声らが住み徘徊した一角なので、文学散歩をする人も見かける。

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坂の上から見下ろす。 右側の衝立が更地になった大栄館の跡。 小石川方面の眺めが良い。 ここには30戸の7階建マンションが建つ。建設主は話題の三井不動産レジデンシャルだった。 最初からかなりの傾斜地にあるのでたとえ傾いてもわからなかったりして、まあそんなことはなかろうが。

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一旦坂を下り菊坂に入る。 菊坂は本郷三丁目までゆっくりと曲がりながらわずかな傾斜で上って行く。 右手にもう一本道があって、それが昔の川の跡。 今は完全な暗渠になっている。 菊坂に入るや否や左手の路地に入る。

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胸突坂である。 坂上には風情ある旅館がある。 鳳明館本館とその向こう側の鳳明館別館で明治大正の雰囲気を残している。 本館は登録有形文化財である。 できる限り残してほしいものだ。 坂を下りて再び菊坂に入る。 右手に何か所か階段があるがその風情が良い。

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この階段は階段マニアには有名。 「菊坂・下見板町屋わきの階段」と呼ばれる。 この木造の外壁を下見板張りといい昭和時代には多くの町屋がこうだった。 階段下は暗渠。 降りたら右斜め先にある路地へ入る。 突き当たりに石垣があり、左に曲がると鐙(あぶみ)坂になる。

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この辺りに鐙の製作者の子孫が住んでいたとか、坂の形が鐙に似ているからとか、諸説あるが、雰囲気のいい坂なので文京区の「文の京都市景観賞」というものが与えられている。 よくわからないがナイスな坂という事だろう。

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鐙坂の坂上には金田一京助・春彦の旧居跡がある。 金田一京助は盛岡の生まれ、それで同郷の盛岡中学の後輩である啄木の面倒をよく見ていた。 文化面ではアイヌ民族の研究で有名。 京助の息子の春彦は辞書の編纂で有名だが、全国各地のアクセントを研究した国学者としても功績が高い。

鐙坂を坂下に戻り、暗渠の道を進むと右手に路地がある。 そのまま進むと階段が見えてくる。 炭団(たどん)坂である。 あまりに急なので階段の坂になっている。

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坂下の左手に古い家屋の跡がある。 これがあればもっと風情があるのだが残念だ。 この坂のあたりには炭団を売る人がたくさん住んでいたとか、あまりに急なので炭団のようにコロコロ落ちたとかの由来がある。 坂上には坪内逍遥の旧家跡がある。 台地の不思議は坂をのぼりつめたときそこに広がるのは、それまでの坂が何でもなかったように普通に平地が広がっていることだ。

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2016年2月 1日 (月)

春日・小石川の坂 (3)

春日通りを渡り竹早高校側を本郷方面に歩く。 春日通りは小石川台地の背骨を走る。 台地の北側は千川が流れていたが、今は千川通り。 南側は神田川で、台地の際を神田上水が流れていた。 上水は常に若干標高の高いところを流すように作られる。 そうでないと田畑や住宅地に水を供給できないからだ。 この小石川台地に切れ込むのが茗荷谷である。 実際に歩いてみると人が住み始めた数千年前の地形に触れる事が出来る。 実際にあちこちに縄文時代や弥生時代の遺跡は埋まっているが、さすがに東京は調査をすればその後開発に移る。

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東京学芸大附属竹早高校の先のセブンイレブンの角を鋭角に入ると三百坂への路地になる。 高校の敷地沿いに歩くと少しずつ高度を下げていく。 ここは学芸大の附属の前は女子師範学校だった。 しかしもっと昔、江戸時代は校庭一帯は茶畑。

しかしこの路地は江戸時代から続く道だった。 坂下に茨城の常陸府中藩(今の石岡周辺)の藩主松平播磨守の上屋敷があり、この藩の下級武士は集合に遅れると300文の罰金だったのでここを三百坂と呼ぶようになったという面白い由来である。

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三百坂を下り路地を抜けてさらに高度の低い方向へ進むと千川通りに出る。 前述のようにこの通りはかつての川筋、船がこの辺りには普通に入ってきていた。 千川通りの北側は再び台地に上って行く地形になる。 小石川植物園はこの台地の斜面にある。 共同印刷の昭和っぽい建物の先を左に緩やかに上がっていく道が吹上坂である。 途中右手の宗慶寺に吹上水という湧き水があってここが吹上坂になった。

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吹上坂を上って行くと再び春日通り、少し茗荷谷方面へ行くと右手に広い道路。 真ん中が遊歩道になっている。 桜の名所で有名な播磨坂である。 三百坂の所で出た松平播磨守の屋敷があったことにちなんで播磨坂と呼ばれた。 この道はとても立派な道だが、実は環状3号線の予定地だった。外苑東通り、目白通り、言問通り、三目通りが環状3号線の一部だが、小石川のあたりは完全に計画がとん挫している。

坂の中腹を少し入ると「石川啄木終焉の地」の碑がある。 マンションの一角にあってなかなか目に着かない場所。 その先の路地を茗荷谷駅方面に上がるのが、団平坂だ。

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文京区小石川図書館が竹早公園の一角にある。 明治の地図を見るとここはもっと急な坂だったようだが今はなだらかである。 米つき商売をしていた団平という人物がここに住んでいて団平坂の名が付いた。 一町人の名前が坂名になるのは珍しい。

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