信濃町の坂 (1)
JRお茶の水~代々木区間を中央線というのか総武線と呼ぶべきかいつも迷う。 代々木駅は山手線の認識だが、千駄ヶ谷と信濃町は総武線、四ツ谷は中央線。しかしそれは走る電車の路線であって線路は微妙である。 答えは鉄っちゃんに任せるとして、今回は信濃町で下車する。
信濃町駅を出て南側、神宮外苑側に渡る広い歩道橋の脇から下るのが千日坂。 年季の入った石柱が並んでいる。 坂の上に掛かるのが首都高速4号線の外苑出口。 信濃町は創価学会の街。 イベント時には何万人もの学会員が集まり一種異様な雰囲気になる。主に北側に施設が集まっているが、南側のこの坂の下にもビルが一つある。
坂下に標識がある。坂下の低地は、一行院千日寺があるために千日谷と呼ばれた。 坂名もこれにちなんだと思われる。 またかつての千日坂は消滅し今の坂はそれと前後して作られた(新)千日坂である、と記されている。
そうなると旧千日坂が気になる。明治初期の古地図を確認すると、今の絵画館の裏辺りから東に下る道があって、坂下で古地図の道と現在の道が合う。 明治時代にはまだ神宮外苑はなく、明治の終わりころは一帯は青山の練兵場だった。明治天皇の崩御により神宮外苑は今の形になったので、江戸時代の千日坂は信濃町駅のある北ではなく、西に上って行く坂だったのだ。
千日坂下から東に進み、とちゅう中央線のガード(狭い)をくぐると線路の北側に出る。 左に曲がるとすぐに道は右に折れる。 その先には写真の急坂がある。 新助坂である。 別名すべり坂と呼ばれた。
坂上に標識がある。 信濃町と南元町5と6番地の間を南へくだる急な坂である。昔このあたりに新助という人が住んでいたことから新助坂と称した。新選東京名所図会に 「新助坂は、四谷信濃町に上がるなり、一名をスベリ坂ともいう。坂の下には甲武鉄道トンネル門あり」と記している、とある。
坂上を右折して四ツ谷方面に歩く。 この下りの先には江戸以前は川があり、谷がいくつにも分かれて周辺に切り込んでいた。 その名残りが前述の千日谷であり、北に切れ込むのが須賀神社あたりと源頭にした谷。ただし江戸時代にはすでに街並みになっていたようである。中央線に並走するようにして下るこの坂は出羽坂である。
坂下の標識には、明治維新後この坂上に旧松江藩主であった松平伯爵の屋敷が移転してきたため、こう呼ばれるようになった。松平邸内には修徳園と呼ばれる名庭があったが、太平洋戦争後取り壊された、とある。 坂上はお屋敷で坂下は町家、のちに商店街となった街並みは現代も残っている。
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