市谷~神楽坂の坂 (2)
長延寺坂を元の通りに戻り、保険会館本館の先を左折、最初の辻を左に曲がると浄瑠璃坂の上りになる。 角にはルーテル市ヶ谷センター。 坂名の由来は、あやつり浄瑠璃がこの辺りで開かれていたため、あるいはかつて近くにあった光円寺に薬師如来があり、当方浄瑠璃世界の主であったため(とあるが意味がよくわからない)、などの説があると説明板に書かれていた。
江戸時代この坂周辺は武家屋敷で、この一帯で寛文12年(1672)に「浄瑠璃坂の仇討」が行われ、江戸三大仇討ちとして有名、と説明書きにあるが、おおよそこの「三大」というのは一つか二つは一定だが三つめは結構入れ替わるものである。まあ、赤穂浪士の討入は外せないがそれ以外はいつもの三大パターンだろうと思う。
浄瑠璃坂上から西側に細道がある。 当然車は通れない。 少し行くと階段になっており、その先は歩道橋になっている面白い作りである。 歩道橋に「ごみ坂歩道橋」と書かれている。 由来としてはこの先の道路が谷であった江戸時代は、谷向こうの長延寺エリアとの間を長延寺谷と呼んでいてそこがゴミ捨て場だったようだ。 従来の坂は大日本印刷の敷地内になる。
歩道橋を渡りDNP通り?に下りる。 再び中根坂方面に向かう。 この道もかつては谷底の沢だったので登り坂。 坂上の信号を右折して中根坂の薬研の底で右折する。 DNPが周辺敷地を造成している。
曲がった先に真っすぐな急坂が見える。 鼠坂である。かつて坂の途中にあったという説明板はない。 上の写真の右上がDNPの若葉寮。
坂上で振り返るとDNPのビルが視界を遮っている。 上りの写真とは逆なので左の白塀が若葉寮なのだが、ここが前述の浄瑠璃坂の仇討ちの場所らしい。 寮の塀に説明書きがあった。
浄瑠璃坂と鼠坂の坂上付近は寛文12年2月3日、江戸時代の三大仇討の一つ、浄瑠璃坂の仇討ちが行われたところである。 事件の発端は、寛永9年3月、前月死去した宇都宮城主奥平忠昌の法要で、家老奥平内蔵允(読めない!)が同じ家老の奥平隼人に、以前より口論となっていた主君の戒名の呼び方を巡り、傷害事件となり、内蔵允は切腹、その子源八は改易(領地没収され身分を奪う罰)された。その仕返しに1672年に42人掛かりで隼人に仇討ちを果たした。 源八らは自首したが、除名され伊豆大島への島流しとなり、6年後に許されて全員井伊家に召し抱えられたという都合のいい話である。 (後半の記述は筆者がかいつまんで書いている)
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