飯田橋・神楽坂の坂 (2)
築土八幡神社裏の芥坂下を左折して100m程歩くと相生坂の坂下。 相生坂はあちこちにあるが、二本の坂道が並行していると相生坂と呼ばれる。
まずは東側の相生坂を上る。 坂上になるにつれて傾斜が急になる。 ここは神田川(江戸川)の河岸段丘なのだ。 しかし、標識には別の由来が書いてあった。 神田川を挟んだ向こう側(小日向)の坂と相対するので相生坂と。 その節には首を傾げた。 なぜなら川向こうの坂とは相対していないから。 まあ無理やり伸ばせば金富小学校横の新坂あたりにはなりそうだが。 そこで1本西側の道に行ってみる。
こちらは西側の相生坂。 傾斜はほぼ同じ。 石垣の上は江戸期から戦前まで天徳寺というお寺があった場所。 戦後の地図には寺の表示はない。 こういう消えてしまった寺などはわかるととても気になる。 明治初期の場合は廃仏毀釈政策によるものが多いが、ここの場合は第二次大戦で焼失してしまった可能性が高い。 かつては赤城神社と並んでここにあった。
坂上から白銀公園を通って神楽坂上に向かうと、公園の先に短い坂がある。瓢箪坂である。 坂の途中がくびれた形になっていてそれで瓢箪坂と呼ばれるようになった。 瓢箪坂下の大久保通りに抜ける人ひとりやっとの軒下路地が楽しい。 通りに抜けるとそこは銭湯。 第三玉の湯といって、看板によると天然地下水とある。 まあ地下水はだいたい天然だと思う。 もちろん入浴料は460円だ。
赤城神社は見た目モダンな建物になっているがとても古い。 草創は正安2年(1300)、今の群馬の豪族だった大胡氏が牛込へ移転した折り、赤城山の鎮守赤城神社を勧請したのがはじまり。 大湖氏は後に牛込氏となり、弘治元年(1555)に現在の場所に遷座して、牛込地区の総鎮守として信仰されるようになった。 写真は赤城坂の中腹から分かれた路地で、その先には神社の西参道がある。
赤城坂は長い坂である。 しかし途中のクランクがアクセントになっていて風情がある。 新撰東京名所図会によれば、「峻悪にして、車通すべからず」とあり、かなりきつい坂だった当時がしのばれると、説明板には記されていた。 周辺は江戸期は町屋と武家屋敷が交じっていて、坂の西には御持筒組の屋敷があった。 幕府の鉄砲隊である。 しかし坂の下になると西側はほとんどが町屋、この坂道が武家屋敷と町屋の境目だったわけである。
そういう情報を得て街を眺めてみると、この通りを武士と町人が入り混じって往来している姿が浮かんでまた楽しい。
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