市谷~神楽坂の坂 (3)
鼠坂上で浄瑠璃坂の仇討ちの説明書きをじっくり読んだ後、芥坂・浄瑠璃坂の坂上を周って東に進むと、鰻坂の路地に入った。 今は大正の頃に開通した市谷田町から牛込北町へ抜ける牛込中央通りになっているが、それを横切る形で鰻坂が通っている。
鰻坂は途中で写真のようにクランクしているのが特徴。 説明板には「坂が曲がりくねっており鰻のような坂だ、という意味から鰻坂と呼ばれた。 幅約2間(3.6m)、長さ約20間(36m)に渡り曲がりくねっていた。」と書かれていた。 この辺りは小さな武家屋敷がたくさん並んでいたようだ。
牛込中央通りに戻り外堀方向へ進むとガラス張りの真新しいビルが見えてくる。法政大学デザイン工学部の市谷田町校舎だ。 その脇を入ると緩やかな歌坂(雅楽坂)である。江戸初期にこの坂道の東側に酒井雅楽頭の屋敷があった。それにちなんで付いたとある。 外堀通りと並行な道だが、標高は外堀通りよりも数m高い。
法政大学の校舎の先に進むと外堀側に下りていく階段がある。 市谷田町の直線階段と松本泰生氏の『東京の階段』では名付けられていた。 この階段は昭和中期以降に出来たようだ。 上部から外堀方面の眺めがある。
そのままクランクして進むと、逢坂との辻に出合う。 逢坂は微妙に曲がっていていかにも江戸の坂という雰囲気を出している。 坂名の由来は、昔、小野美作吾という人が武蔵守となり、この地にきた時、美しい娘と恋仲になり、のちに都に帰って没したが、娘の夢により この坂で再び逢ったという伝説に因み、逢坂とよばれるようになったという。 辻からさらに上の旧最高裁判所長官公邸の塀の雰囲気がいい。 さらに辻から下がってもアンスティチュ・フランセ東京(旧東京日仏学院)の塀(上の写真)が坂道風景を魅力的にしている。
坂下には築土神社。 堀兼の井の史跡がある。 堀兼の井とは掘っても掘ってもなかなか水が出ないが、皆が苦労してやっと掘ったちう意味である。 ここ市谷船河原町の堀兼の井には伝説がある。
昔、妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。男が後妻を迎えると、後妻はひどく息子をいじめた。ところが実の父も後妻と一緒に息子をいじめるようになり、いたずらをしないようにと言って庭先に井戸を掘らせた。 息子は朝から晩まで素手で井戸を掘り続けたが水は出ず、とうとう精根尽きて死んでしまった。・・・悲しい話だ。 現代にも繋がるものがある。 南無阿弥陀仏。
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