飯田橋・神楽坂の坂 (3)
赤城坂途中のクランクから伸びる路地を進む。 民家の間の細路地はあるものの早稲田通りにつながる南北の道はなかなかない。最初の南北の路地まで200m以上ある。 その最初の早稲田通りにつながる路地が比丘尼坂である。
ここが江戸時代はもっと急な坂だったのはこの北側に神田川の支流が流れており谷になっていたからである。 しかし明治以降は暗渠となりその跡は大日本印刷榎町工場脇から山吹町交差点脇、そして今の江戸川橋駅の東側の出口辺りで神田川に注いでいた。
早稲田通りを西へ進むと変則交差点(牛込天神町)でクランクしている。 この辺りが地蔵坂である。 説明板には、江戸時代後期小浜藩酒井家下屋敷(現在の矢来町)の脇から天神町へ下る坂を地蔵坂と呼んでいた。坂名の由来は定かではないが、おそらく近くに地蔵尊があったものと思われる、というざっくりした説明が書いてあった。
クランクの交差点を右折して北に進むのが渡邉坂、かなり緩やかな坂で車だと坂だと気づかないかもしれない。 江戸時代、坂の東側に旗本渡邊源蔵の屋敷があったのでこう呼ばれた。源蔵は五百石取りの御書院番で、寛文7年(1667)市谷鷹匠町の屋敷と引換えにこの地を拝領し渡邊家は幕末までこの地にあった。
早稲田通りを神楽坂方面に戻ると、左に急な下り坂の路地がある。朧の坂である。 詳しいことは標識もないが、山野勝氏の本によると神田川の向こう側小日向の服部坂から見るとぼんやりとかすんで見えた坂だったかららしい。 昔は牛込の人も小日向の人も神田川という谷を見ながら生活していたのだろう。 今ではビルだらけで眺めはない。
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