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2016年7月 9日 (土)

向丘~千駄木の坂 (3)

またしばらくさぼってしまい、ココログにさぼったリングが付き始めたので、これはいかんと再開することにした。 前回は根津神社を通って根津裏門坂を上ったところまでだったので、その続きである。 坂上には日本医科大病院がある。そこを右折すると夏目漱石の旧居跡がある。

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塀の上にこっそりと猫の彫像がある。剥製ではない(笑)。『吾輩は猫である』にちなんだものだろう。漱石は1867年生まれだから明治元年に1才。イギリス留学したのち36才の時1903年から4年弱ここに住んだ。ここで『吾輩は猫である』を執筆したので、ここは「猫の家」と呼ばれた。塀の上にある猫が視界に入ってくると、情景が明治に飛んでいきそうな錯覚を覚えた。

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猫の家の前に病院の裏口のある路地がある。そこを進んでいくと、階段の急な下り坂になる。 汐見坂という坂で大正から昭和になる頃にできた坂。最近は病院の裏だからか解剖坂と呼ばれるが、なんとなく響きが怖い。

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私はどちらかというと墓より病院の裏口の方が怖い。 幽霊に殺される人はいないが、人間に殺される人はたくさんいるからだろう。 生身の人間の方が怖いので、幽霊は暗くならないと出てこないのかもしれない。

さて、坂下で突き当たると藪下通り。 いい名前の響きだ。 かつてはここから江戸前の海を眺めることができた。緩やかな藪下通りの登り坂を行くと右手に汐見小学校。 意外と小学校の名前に歴史が刻まれていることが多いのだ。

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藪下通りを進むと左に上の写真の階段がある。 ここはだんだん坂という階段。 階段探訪も最近始めたので、また別の機会に詳しく調べようと思っている。 右のフェンスが潮見小学校で、その先の左に森鴎外記念館がある。夏目漱石、森鴎外と日本文学の大家がこのあたりにいた訳だが、この藪下通りは鴎外のいつもの散歩道だったらしい。

森鴎外記念館の正面から小学校脇を下る階段はしろへび坂というが、由来も時期もわからない。藪下通りをそのまま進み団子坂上に出る。

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団子坂を下るにつれて人通りが増えにぎやかになってくる。坂下は千代田線の千駄木駅。団子坂の由来は団子屋があったという説もあるが、団子坂と名付けられた坂の多くは急坂でコロコロ転んで団子のようになるところから来ている。

さて藪下通りの台地は本郷台地、千代田線の通る坂下は藍染川の窪み、そしてその東側は上野台地である。 続いて本郷台地の際を探索する。 駅から路地に入り須藤公園を抜ける。 この須藤公園は台地の際にあり、公園内に落差のある須藤の滝という水流も作られている。

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旧安田邸の先を右折すると大給坂(おぎゅうざか)。 かつて坂上に子爵大給氏の屋敷があったことが由来。大給氏は戦国時代の三河の国の豪族。 徳川家に仕えた。

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こういう路地の坂は風情がある。 上り下りする人が多く、そこに昔から絶えることなく営まれてきた人々の生活を感じることができる。 微妙なカーブも江戸以前の道をイメージさせてくれる。

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大給坂の北側にあるのが狸坂。 この先むじな坂・狐坂があるが今回は割愛。 そういう名前が付くような場所だったのだろう。 今は想像がつかないだろうが、里山の谷地の際の林の様な風景だったのだと思う。

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狸坂も上部で湾曲している。昔は千駄木山といって雑木林が多く、坂上の一帯(上の写真の場所)はその中でも狸山と呼ばれた。そこに上る道なので狸坂である。 坂下の根津谷(藍染川)の両岸に田んぼが開かれて、その向こうの丘を越えた今の日暮里駅の所にある諏訪神社の祭礼が8月27日にあるのだが、その日が終わってもこの狸山からおはやしが聞こえてきたという『千駄木山の天狗ばやし』という民話も残っている。

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