市谷~神楽坂の坂 (4)
逢坂を下ると外堀通り、外堀通り沿いはビルが立ち並ぶが、左折して次の路地を入ると時代を感じさせる道が現れる。 すこし湾曲しながら上って行くのが庾嶺坂(ゆれいざか)。
説明板には「江戸初期、この坂のあたりが美しい梅林であったため、二代将軍秀忠公が中国江西省の梅の名所大庾嶺にちなみ命名したと伝えられるが、ほかにも坂名の由来がある。別名「唯念坂」「幽霊坂」「若宮坂」「行人坂」「祐玄坂」とも呼ばれる。」と書いてある。名前ありすぎだと思う。
坂の上部に幽玄な石垣があり、塀も門も和風のすばらしい建物だが、中身は賃貸高級マンション。ちなみに4LDK(262㎡)で月額家賃が115万円。六本木ヒルズ並みである。 江戸時代は中小の武家屋敷が立ち並んでいたエリアだ。
坂のある場所は若宮町というが、坂上には神楽坂若宮八幡神社がある。 1189年(文治5年)源頼朝が奥州征伐に向かう折にここで祈願、藤原氏を征伐し帰ってきてここに神社を勧請した。その後一時衰退したが、江戸時代になり太田道灌が再興した。今はこじんまりとした神社だが当時は広かったらしい。第二次大戦の空襲で焼失し、戦後立て直され、今の社殿は1999年築である。
若宮八幡から西へと路地に入るとクランク、その先が新坂である。 クランクの辺りから登り坂になっているが、この道は江戸時代からある道である。 道の開削については説明板に書かれていた。「『御府内沿革図書』によると、享保10年(1731)に諏訪安芸守の屋敷地の跡に新しく道路が造られた。新坂は新しく開通した坂として命名された。」とある。 よくある江戸時代の新坂。 古くても新坂である。
新坂から牛込神楽坂方面へ進み、駅につながる2車線の道路手前で右に曲がると、日本出版クラブの敷地に大きな銀杏の樹がある。新宿区の保護樹木で、樹齢は250年を超える。戦時中焼け野原になった街中でこの銀杏だけが残っており、それを目印に被災した人々が戻って来たという。幹には当時の焼けた跡が残り、それでも生命力豊かに樹勢を湛えている。 その先から曲がりながら下って行くのが、地蔵坂である。
銀杏の向かいには光照寺があり、そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があった。 それにちなんで地蔵坂と呼ばれた。 また藁を売る店があったため藁坂とも呼ばれた。
地蔵坂の坂下は神楽坂の坂上である。
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