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2016年7月18日 (月)

市ヶ谷~曙橋の坂 (5)

住吉町交差点と富久町交差点の間で靖国通りを北側に渡ると、白鳥山善慶寺がある。 石垣とスロープが特徴の靖国通り沿いの寺院。 裏手には東洋美術学校があり、そのわきの階段が抜け道になっている魅惑の階段なのだが、今回は割愛。 もう一本先の路地は成女学園脇で坂上には自証院があるので、c坂と呼ばれる。

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ほぼ直線の坂道で標識はなかったが、この坂道はかつては自証院の参道だった。 江戸時代の自証院は1万坪もの広さがあり、その門前だったのである。大正時代までは広い敷地を維持していたが、昭和になってから狭くなった。 昭和6年(1931年)に自証院の敷地の一部を使って富久小学校が開かれた。1987年に小学校の改築工事に自証院遺跡が出てきて調査をした記録が残っている。

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富久小学校の裏手の坂が魅力的なのだが無名の坂。 その坂を下ると芥坂(かむろざか)に当たる。 坂下の説明柱には、坂名の由来は定かではないが、江戸切絵図には『里俗カムロ坂』とあり…」と記されていたが、以前の説明書きには「昔、この坂下の自証院の横に小さな池があり、水遊びに来る禿頭(おかっぱを短く切り揃えたような髪型)の童たちの姿が見られたことから禿(カムロ)坂と呼ばれるようになった」と記されていたようだ。

古地図を確認すると、坂下の新宿川に水田があり、そこに2つばかり沢の水が溜まって池になっていたようである。 明治の終わりにはもうこの道沿いは町屋になっていたので、水田が開発されてしまったのだろう。同時に池もなくなった。

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禿坂の坂下まで戻り靖国通りを西へ進む。 大通りながらきれいな上り坂になっている。 坂下の富久町交差点と坂上の富久町西交差点では数mの高低差がある。 この坂は安保(あぼ)坂である。この道路は,昭和19年7月に都道と認定されたもので,坂名がついたのもきわめて新しい。 (中略) 坂名の安保は,この地に 男爵安保清種海軍大将が住んでいたことに由来すると記されている。 写真の坂上から右手に下りる富久町の赤煉瓦階段があるが、今回は昇降しなかった。

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坂上の富久町西交差点の南側を回り込むように左折すると右手に寺院墓地があり、この坂を茗荷坂と呼ぶ。 江戸時代後期まで,この坂下は源慶寺と東長寺に沿って,市谷村の茗荷畑であったためこう呼ばれた。 坂下の説明柱にも、「この辺りは市谷の饅頭谷から西南に続く谷で茗荷谷と呼ばれ、茗荷畑があった」とある。

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この茗荷谷だが、源頭は四谷4丁目交差点北辺りで、明治初期の古地図には池がある。 またそのすぐ南側は玉川上水の大木戸。 関係ありそうだが、江戸時代の上水は垂れ流すなどということはなかったようだし、勝手に引くと重い罰を負ったのでおそらくは自然の湧水だろう。 ちょうど池は大名屋敷の辺りなので、湧水を利用した庭があってそれが源頭だった可能性はある。上の写真の左側が東長寺、右手のマンションの手前が源慶寺で、どちらも江戸時代からある寺院。

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さらに靖国通りを西へ行く。 微妙に上っているが、旧厚生年金会館前あたりが頂上でその向こうは下っている。 斜度は1度ないだろうが、この坂にも名前が付いている。 瓶割坂である。 標識はないが『内藤新宿散歩』の案内地図に表記がある。 カメワリ坂のカメは瓶でお腹のことを言う。 腹が割れるというのは子供が生まれる事を言うと、故横関英一氏の『江戸の坂東京の坂』には書いてあるが、それがなぜ由来なのかはわからない。

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