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2016年7月30日 (土)

飯田橋・神楽坂の坂 (4)

早稲田通りを神楽坂方面に戻る。 地下鉄の駅は神楽坂上にあるのが神楽坂駅、下にあるのが飯田橋駅だが、一般的に神楽坂はその間になる。街のスーパーマーケット神楽坂KIMURAYAの角を右に曲がると緩やかに上る朝日坂。

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坂の途中にある標識によれば; 『御府内備考』には、かつて泉蔵院という寺があり、その境内に朝日天満宮があったためこの名が付いたとある。明治の初期までこの辺りは牛込朝日町と呼ばれていた、ということだ。 坂上の園福寺の門脇に昔の版画が金属板で掲出してある。 圓福寺は加藤清正の創建。

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圓福寺先を左折すると下り坂になる。 その先を進むと大久保通りの手前で道の向こうは崖のような段差になり右に折れているが、道の脇に大久保通りに下りていく階段がある。 これが袖摺り坂である。

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昔は両脇が高台と垣根の狭い坂道で、すれ違う人がお互いの袖を摺り合したらしい。 今もこの階段だとそうなるだろう。黒塀が雰囲気を醸し出していて気に入った。

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袖摺り坂と垂直に出合うのが大久保通りだが、ちょうどここは弁天坂にあたる。 ここには東京都が設置した金属製の標識が設置してあるが、この都の標識のタイプはいつもいたずらされ何が書いてあるかわからなくなる。 ここの標識はなんとか読める。

坂名は坂下の南蔵院境内に弁天堂があったことに由来する。明治後期の「新撰東京名所図会」には、南蔵院門前に甘酒やおでんを売る屋台が立ち、人も多い様子が描かれている。 周辺は江戸時代は武家屋敷、町屋、寺院が混在するエリアだった。

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2016年7月29日 (金)

飯田橋・神楽坂の坂 (3)

赤城坂途中のクランクから伸びる路地を進む。 民家の間の細路地はあるものの早稲田通りにつながる南北の道はなかなかない。最初の南北の路地まで200m以上ある。 その最初の早稲田通りにつながる路地が比丘尼坂である。

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ここが江戸時代はもっと急な坂だったのはこの北側に神田川の支流が流れており谷になっていたからである。 しかし明治以降は暗渠となりその跡は大日本印刷榎町工場脇から山吹町交差点脇、そして今の江戸川橋駅の東側の出口辺りで神田川に注いでいた。

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早稲田通りを西へ進むと変則交差点(牛込天神町)でクランクしている。 この辺りが地蔵坂である。 説明板には、江戸時代後期小浜藩酒井家下屋敷(現在の矢来町)の脇から天神町へ下る坂を地蔵坂と呼んでいた。坂名の由来は定かではないが、おそらく近くに地蔵尊があったものと思われる、というざっくりした説明が書いてあった。

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クランクの交差点を右折して北に進むのが渡邉坂、かなり緩やかな坂で車だと坂だと気づかないかもしれない。 江戸時代、坂の東側に旗本渡邊源蔵の屋敷があったのでこう呼ばれた。源蔵は五百石取りの御書院番で、寛文7年(1667)市谷鷹匠町の屋敷と引換えにこの地を拝領し渡邊家は幕末までこの地にあった。

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早稲田通りを神楽坂方面に戻ると、左に急な下り坂の路地がある。朧の坂である。 詳しいことは標識もないが、山野勝氏の本によると神田川の向こう側小日向の服部坂から見るとぼんやりとかすんで見えた坂だったかららしい。 昔は牛込の人も小日向の人も神田川という谷を見ながら生活していたのだろう。 今ではビルだらけで眺めはない。

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2016年7月28日 (木)

飯田橋・神楽坂の坂 (2)

築土八幡神社裏の芥坂下を左折して100m程歩くと相生坂の坂下。 相生坂はあちこちにあるが、二本の坂道が並行していると相生坂と呼ばれる。

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まずは東側の相生坂を上る。 坂上になるにつれて傾斜が急になる。 ここは神田川(江戸川)の河岸段丘なのだ。 しかし、標識には別の由来が書いてあった。 神田川を挟んだ向こう側(小日向)の坂と相対するので相生坂と。 その節には首を傾げた。 なぜなら川向こうの坂とは相対していないから。 まあ無理やり伸ばせば金富小学校横の新坂あたりにはなりそうだが。 そこで1本西側の道に行ってみる。

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こちらは西側の相生坂。 傾斜はほぼ同じ。 石垣の上は江戸期から戦前まで天徳寺というお寺があった場所。 戦後の地図には寺の表示はない。  こういう消えてしまった寺などはわかるととても気になる。 明治初期の場合は廃仏毀釈政策によるものが多いが、ここの場合は第二次大戦で焼失してしまった可能性が高い。 かつては赤城神社と並んでここにあった。

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坂上から白銀公園を通って神楽坂上に向かうと、公園の先に短い坂がある。瓢箪坂である。  坂の途中がくびれた形になっていてそれで瓢箪坂と呼ばれるようになった。  瓢箪坂下の大久保通りに抜ける人ひとりやっとの軒下路地が楽しい。 通りに抜けるとそこは銭湯。 第三玉の湯といって、看板によると天然地下水とある。 まあ地下水はだいたい天然だと思う。 もちろん入浴料は460円だ。

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赤城神社は見た目モダンな建物になっているがとても古い。 草創は正安2年(1300)、今の群馬の豪族だった大胡氏が牛込へ移転した折り、赤城山の鎮守赤城神社を勧請したのがはじまり。 大湖氏は後に牛込氏となり、弘治元年(1555)に現在の場所に遷座して、牛込地区の総鎮守として信仰されるようになった。 写真は赤城坂の中腹から分かれた路地で、その先には神社の西参道がある。

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赤城坂は長い坂である。 しかし途中のクランクがアクセントになっていて風情がある。 新撰東京名所図会によれば、「峻悪にして、車通すべからず」とあり、かなりきつい坂だった当時がしのばれると、説明板には記されていた。 周辺は江戸期は町屋と武家屋敷が交じっていて、坂の西には御持筒組の屋敷があった。 幕府の鉄砲隊である。  しかし坂の下になると西側はほとんどが町屋、この坂道が武家屋敷と町屋の境目だったわけである。

そういう情報を得て街を眺めてみると、この通りを武士と町人が入り混じって往来している姿が浮かんでまた楽しい。

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2016年7月27日 (水)

飯田橋・神楽坂の坂 (1)

神楽坂周辺は坂が多い。 神楽坂はほぼ尾根筋にあたる。 北側には神田川が流れていて広い谷を形成している。 南側は外堀だが、元は新宿を源頭とする川である。 今回は飯田橋駅から大久保通りを北西に進む。 地下には大江戸線と東西線が走っている。右手にJCHO東京新宿メディカルセンターがある。 一昨年までは東京厚生年金病院という名前だった。 その先大久保通りが曲がっている交差点に東から新しい道が出来ていた。 後楽園前から繋がる新しい道だ。 まだ通行はできない。

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道路の先に見えるビルはベルサールのある住友不動産ファーストタワー。 昔は霞が関ビルだけだった高層ビルも今では数え切れないほど林立している。 そして振り返ると右手にはこんもりと高台になったところがある。

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築土八幡神社である。 とても古い神社で、1200年前の嵯峨天皇の頃、武蔵国豊嶋郡(こおり)牛込の里に大変熱心な八幡神を信仰する翁がいた。 ある時、翁の夢に神霊が現れて「お前の信心には感心した」といい、目覚めると傍らの松の木の上に天から細長い雲が下りてきて、その雲の中から白鳩が現れ枝にとまった。 翁はこれを村人に話し、その松に注連縄を張り祀った。

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その後伝教大師がこの地を訪れたときにこの話を聞き、神像を彫って祠に祀った。その時に九州の宇佐の宮土を持ってきて礎としたので、築土八幡神社(つくどはちまん)と名付けた、というのが神社の由来だ。 上の絵図は江戸時代の様子、右上の山塊はおそらく筑波山。

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境内には珍しい庚申塔がある。 写真右手のもので、寛文4年(1664)の奉納。 舟形の庚申塔には、上部に日月、中央には一対の猿と桃の木で、このデザインは極めて珍しい。

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神社の境内の裏口はそのまま路地へつながっている。 左に曲がり大久保通りへ下りる道が御殿坂。 江戸時代、築土神社の西側は御殿山と呼ばれ、三代将軍家光が鷹狩の際に仮御殿を設けたので御殿山、そこの坂なので御殿坂である。

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大久保通りに下りたら再び御殿坂を坂上に戻りそのまま境内裏口を過ぎると再び下り坂になる。 これが芥坂(ごみざか)で標識はなかった。 記録によると昭和の中頃までここはゴミ捨て場になっていたようだ。  この先は神田川になるが、神田川を江戸時代は江戸川と呼んでいた。  今もその名は江戸川橋の呼び名で残っている。

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2016年7月26日 (火)

市谷~神楽坂の坂 (5)

地蔵坂の坂下で神楽坂に出合う。 左へ行くと神楽坂上の交差点になるが、賑やかな神楽坂下へ向かう。 フランス人学校があるのでもともとフランス人が多かったが、最近はダイバーシティが深まった。

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坂の上に善国寺、毘沙門天で有名。 赤い山門がひときわ目立ち女性客が多い。  坂名の由来は坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、また津久戸明神が移って来たときこの坂で神楽を奏したから、はたまた若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったから、など様々である。いずれにせよ御神楽と関係があるらしい。 江戸時代はもっと急な坂だったが明治以降なだらかになったようだ。

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かつて穴八幡があった辺りの路地を入る。 上島珈琲の向かいの路地である。 すぐに二手に分かれるがここは左折して料亭脇を下ると、風情のある階段の坂。 熱海湯階段とよばれるのは、階段下に今でもある古風な銭湯熱海湯があるから。 江戸っ子御用達でお湯は熱いらしい。 この辺りの路地は実に風情があって神楽坂らしいので、散策にお勧めだ。

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地蔵湯階段から再び神楽坂に戻り、坂上に路地二つ分進み、本多横町へ入る。 江戸中期より明治初めまでこの通りの東側全域が本多家の屋敷だったのが由来。 この本多横町が神楽坂の三年坂である。 神楽坂から築土神社まで下って行く。 この一角は昔は武家屋敷が立ち並んでいたが、今は風流な料亭が立ち並ぶ一角になっている。

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写真の様な料亭の塀に囲まれた路地は素敵だが、さすが神楽坂である。こういう路地にハイヒールの女性たちがどんどん入ってくるが、特に本多横町から神楽坂上の一角が楽しい路地がある。

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神楽坂を一本外れると、そこはビジネス街の様相を呈するエリアになる。 飯田橋ラムラに向かって下って行く坂が軽子坂。 軽子とは軽駕籠持ちの略称で、今の飯田橋ラムラの所に船着き場があり、船荷を軽籠(縄で編んだもっこ)に入れ江戸市中に運搬することを生業にした人がこの辺りに多く住んでいたので、そう呼ばれるようになった。

ラムラの前の外堀通り歩道に石碑がある。ここは牛込揚場といって、全国から集まった米や味噌、醤油、材木などを、ここで荷揚げした。

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軽子坂下には老舗の名画座であるギンレイホールがある。 1975年に上京し、ここで何度となく名画を見た思い出がある。 たしか「ウッドストック」もここで見たのが初めてだった。 当時はもっと学生っぽい街だったが、今はまったく変わってしまった。

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2016年7月25日 (月)

市谷~神楽坂の坂 (4)

逢坂を下ると外堀通り、外堀通り沿いはビルが立ち並ぶが、左折して次の路地を入ると時代を感じさせる道が現れる。 すこし湾曲しながら上って行くのが庾嶺坂(ゆれいざか)。

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説明板には「江戸初期、この坂のあたりが美しい梅林であったため、二代将軍秀忠公が中国江西省の梅の名所大庾嶺にちなみ命名したと伝えられるが、ほかにも坂名の由来がある。別名「唯念坂」「幽霊坂」「若宮坂」「行人坂」「祐玄坂」とも呼ばれる。」と書いてある。名前ありすぎだと思う。

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坂の上部に幽玄な石垣があり、塀も門も和風のすばらしい建物だが、中身は賃貸高級マンション。ちなみに4LDK(262㎡)で月額家賃が115万円。六本木ヒルズ並みである。 江戸時代は中小の武家屋敷が立ち並んでいたエリアだ。

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坂のある場所は若宮町というが、坂上には神楽坂若宮八幡神社がある。 1189年(文治5年)源頼朝が奥州征伐に向かう折にここで祈願、藤原氏を征伐し帰ってきてここに神社を勧請した。その後一時衰退したが、江戸時代になり太田道灌が再興した。今はこじんまりとした神社だが当時は広かったらしい。第二次大戦の空襲で焼失し、戦後立て直され、今の社殿は1999年築である。

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若宮八幡から西へと路地に入るとクランク、その先が新坂である。 クランクの辺りから登り坂になっているが、この道は江戸時代からある道である。 道の開削については説明板に書かれていた。「『御府内沿革図書』によると、享保10年(1731)に諏訪安芸守の屋敷地の跡に新しく道路が造られた。新坂は新しく開通した坂として命名された。」とある。 よくある江戸時代の新坂。 古くても新坂である。

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新坂から牛込神楽坂方面へ進み、駅につながる2車線の道路手前で右に曲がると、日本出版クラブの敷地に大きな銀杏の樹がある。新宿区の保護樹木で、樹齢は250年を超える。戦時中焼け野原になった街中でこの銀杏だけが残っており、それを目印に被災した人々が戻って来たという。幹には当時の焼けた跡が残り、それでも生命力豊かに樹勢を湛えている。 その先から曲がりながら下って行くのが、地蔵坂である。

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銀杏の向かいには光照寺があり、そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があった。 それにちなんで地蔵坂と呼ばれた。 また藁を売る店があったため藁坂とも呼ばれた。

地蔵坂の坂下は神楽坂の坂上である。

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2016年7月24日 (日)

市谷~神楽坂の坂 (3)

鼠坂上で浄瑠璃坂の仇討ちの説明書きをじっくり読んだ後、芥坂・浄瑠璃坂の坂上を周って東に進むと、鰻坂の路地に入った。 今は大正の頃に開通した市谷田町から牛込北町へ抜ける牛込中央通りになっているが、それを横切る形で鰻坂が通っている。

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鰻坂は途中で写真のようにクランクしているのが特徴。 説明板には「坂が曲がりくねっており鰻のような坂だ、という意味から鰻坂と呼ばれた。 幅約2間(3.6m)、長さ約20間(36m)に渡り曲がりくねっていた。」と書かれていた。 この辺りは小さな武家屋敷がたくさん並んでいたようだ。

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牛込中央通りに戻り外堀方向へ進むとガラス張りの真新しいビルが見えてくる。法政大学デザイン工学部の市谷田町校舎だ。 その脇を入ると緩やかな歌坂(雅楽坂)である。江戸初期にこの坂道の東側に酒井雅楽頭の屋敷があった。それにちなんで付いたとある。 外堀通りと並行な道だが、標高は外堀通りよりも数m高い。

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法政大学の校舎の先に進むと外堀側に下りていく階段がある。 市谷田町の直線階段と松本泰生氏の『東京の階段』では名付けられていた。 この階段は昭和中期以降に出来たようだ。 上部から外堀方面の眺めがある。

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そのままクランクして進むと、逢坂との辻に出合う。 逢坂は微妙に曲がっていていかにも江戸の坂という雰囲気を出している。 坂名の由来は、昔、小野美作吾という人が武蔵守となり、この地にきた時、美しい娘と恋仲になり、のちに都に帰って没したが、娘の夢により この坂で再び逢ったという伝説に因み、逢坂とよばれるようになったという。 辻からさらに上の旧最高裁判所長官公邸の塀の雰囲気がいい。 さらに辻から下がってもアンスティチュ・フランセ東京(旧東京日仏学院)の塀(上の写真)が坂道風景を魅力的にしている。

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坂下には築土神社。 堀兼の井の史跡がある。 堀兼の井とは掘っても掘ってもなかなか水が出ないが、皆が苦労してやっと掘ったちう意味である。 ここ市谷船河原町の堀兼の井には伝説がある。

昔、妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。男が後妻を迎えると、後妻はひどく息子をいじめた。ところが実の父も後妻と一緒に息子をいじめるようになり、いたずらをしないようにと言って庭先に井戸を掘らせた。 息子は朝から晩まで素手で井戸を掘り続けたが水は出ず、とうとう精根尽きて死んでしまった。・・・悲しい話だ。 現代にも繋がるものがある。 南無阿弥陀仏。

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2016年7月23日 (土)

市谷~神楽坂の坂 (2)

長延寺坂を元の通りに戻り、保険会館本館の先を左折、最初の辻を左に曲がると浄瑠璃坂の上りになる。 角にはルーテル市ヶ谷センター。 坂名の由来は、あやつり浄瑠璃がこの辺りで開かれていたため、あるいはかつて近くにあった光円寺に薬師如来があり、当方浄瑠璃世界の主であったため(とあるが意味がよくわからない)、などの説があると説明板に書かれていた。

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江戸時代この坂周辺は武家屋敷で、この一帯で寛文12年(1672)に「浄瑠璃坂の仇討」が行われ、江戸三大仇討ちとして有名、と説明書きにあるが、おおよそこの「三大」というのは一つか二つは一定だが三つめは結構入れ替わるものである。まあ、赤穂浪士の討入は外せないがそれ以外はいつもの三大パターンだろうと思う。

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浄瑠璃坂上から西側に細道がある。 当然車は通れない。 少し行くと階段になっており、その先は歩道橋になっている面白い作りである。 歩道橋に「ごみ坂歩道橋」と書かれている。 由来としてはこの先の道路が谷であった江戸時代は、谷向こうの長延寺エリアとの間を長延寺谷と呼んでいてそこがゴミ捨て場だったようだ。 従来の坂は大日本印刷の敷地内になる。

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歩道橋を渡りDNP通り?に下りる。 再び中根坂方面に向かう。 この道もかつては谷底の沢だったので登り坂。 坂上の信号を右折して中根坂の薬研の底で右折する。 DNPが周辺敷地を造成している。

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曲がった先に真っすぐな急坂が見える。 鼠坂である。かつて坂の途中にあったという説明板はない。 上の写真の右上がDNPの若葉寮。

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坂上で振り返るとDNPのビルが視界を遮っている。 上りの写真とは逆なので左の白塀が若葉寮なのだが、ここが前述の浄瑠璃坂の仇討ちの場所らしい。 寮の塀に説明書きがあった。

浄瑠璃坂と鼠坂の坂上付近は寛文12年2月3日、江戸時代の三大仇討の一つ、浄瑠璃坂の仇討ちが行われたところである。 事件の発端は、寛永9年3月、前月死去した宇都宮城主奥平忠昌の法要で、家老奥平内蔵允(読めない!)が同じ家老の奥平隼人に、以前より口論となっていた主君の戒名の呼び方を巡り、傷害事件となり、内蔵允は切腹、その子源八は改易(領地没収され身分を奪う罰)された。その仕返しに1672年に42人掛かりで隼人に仇討ちを果たした。 源八らは自首したが、除名され伊豆大島への島流しとなり、6年後に許されて全員井伊家に召し抱えられたという都合のいい話である。 (後半の記述は筆者がかいつまんで書いている)

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2016年7月22日 (金)

市谷~神楽坂の坂 (1)

市ケ谷駅から市谷見附の交差点を渡り、ハンバーガー店の横を入ると長い登り坂が現れる。 左内坂だ。 この坂は、江戸時代初期に周辺の土地とともに開発されたもので、開発名主島田左内の名に因み左内坂 と呼ばれるようになった。 島田家はその後明治時代まで名主をつとめ、代々島田左内 を名乗ったという。

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坂上の長泰寺前から見下ろすと、ビルの谷間から外堀が眺められる。 都会の散歩で遠景が望めるとほっとする。 遊技会館というビルが見えるが、これはパチンコホールの全国組織で所管は国家公安委員会および警視庁となっている。 警察エリートのOBがいるんだろう。

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左内坂を上りきると防衛庁の裏口。 JICA(国際協力機構)の研究所や独法の日本学生支援機構のオフィスなど、お上とつながりの深そうな建物が多い。 防衛庁の裏口から少し下りになる。 渡邉坂である。

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坂の名は市谷左内町のほとんどが旗本安藤杢之助の屋敷であったことからつけられている。防衛庁敷地は尾張藩上屋敷だが、その裏手で最も広い屋敷の一つがこの安藤家だった。左内坂の北側の一番上が安藤家屋敷、中腹が長延寺、裾が定火消(じょうびけし)屋敷。 定火消は1657年の明暦の大火の後、江戸城の周辺に4ヶ所設置された幕府直轄の専門消化集団で、飯田橋、市谷、お茶の水、麹町にそれぞれ作られた。 今の消防署の原点である。

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安藤坂の北側にあるすり鉢状の坂道が中根坂。 この坂道の西側に幕府の旗本中根家の屋敷だったので人々がいつの間にか中根坂と呼ぶようになった。 周辺は大日本印刷(DNP)の建物がたくさんあって村の様になっている。

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中根坂を一旦戻り、DNP村の中の道を下って行くと、西側が10m以上高い台地になっているのがわかる。 その台地へ上る路地はいくつかあるが、そのうち探ろう。 下まで降りると斜めに合流する坂がある。 長延寺坂だ。 この一角には長延幼稚園や長延寺アパートなど長延寺の名を冠した建物が多い。

ちょうどDNPのあるエリアが谷津の中央になっており、江戸以前は沢筋だったと思われる。前述の左内坂周辺を島田左内が開発する江戸以前は、ここに日本の原風景の谷戸があり小川が流れていたのだろう。

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2016年7月21日 (木)

曙橋~東新宿の坂 (3)

西向天神の不動坂を下り、都道をトンネルでくぐると丁字路になる。 これが久左衛門坂。 徳川家康が江戸に入府する以前から大久保に住んでいたという島田家の草創、久左衛門が開いたのでそう呼ばれるようになった。400年を過ぎてもまだ名が残るというのはとてつもないことだ。

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久左衛門坂は前述の抜弁天のはす向かいに当たるところが始まりで約100mほど緩やかに下って行く。  下ったところから右の路地に入り、最初の角を曲がりクランクの路地を過ぎると右手に銭湯、目の前に階段の道が現れる。

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現在新宿区には33軒の銭湯がある。(参照: 新宿浴場組合ホームページ) 浴場組合といってもそっちではない。 460円の銭湯がそれだけ現存しているのだ。 この周辺には意外と銭湯が多い。

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さて銭湯脇(というか裏手である)の階段だが、梯子坂といって結構有名である。 とても美しい階段坂で、遠近法を強調したような見え方をする。 また坂上から眺めると、大久保から百人町方面まで望めていい景色である。坂上に標識がある。『豊多摩群誌』によれば「梯子坂、久左衛門坂北方の裏通に在り、東へ登り十間許り、坂道急にして恰も梯子を登るが如し、故に名付く」とある。

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梯子坂の坂下に戻り路地を北へ北へと進むと大久保通りにぶつかる。 しかし大久保通りは数m高い位置にあり、並行して南側に路地が這っている。 そこから一段低い路地を東に進むと再び大久保通りに合流する。 これが椎木坂である。

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現在の巨大な団地戸山ハイツはかつて江戸時代には尾張藩の戸山屋敷だった。 ちょうど大久保通りの北側にあたる辺りにシイの巨木があり、この坂道を覆っていたため椎木坂と呼ばれた。 また別名を向坂(むこうざか)というが、これは古くからこの辺りが砂利取り場でそこから東西に上る坂があって向坂とも呼ばれた。

この辺は昨今外国人がとても多く、歩いていたらご婦人に話しかけられ、「あの窓に干してある赤い布は韓国人の赤フンだよ、やだね~」と言われた。 いささか差別的な言動に怪訝な顔をしていると「外国人は夜中までうるさくて敵わないよ」と不平を続けていた。 当然初対面の知らないおばさんだったが、向こうから自分がどう見えているかについてはまったく興味がなさそうだった。 確かに歩いているとすれ違うのはアジア系、中近東系の人が多かった。 新宿はかなり国際的な融合が進んでいると思う。 特にこの辺りは東京はアジアなんだなと感じるくらいだった。 ある意味ここもディープなエリアと言えるだろう。

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2016年7月20日 (水)

曙橋~東新宿の坂 (2)

厳島神社抜弁天を文字通り抜けて道路を南に渡り路地に入ると、専福寺脇の道。 子供たちが描いたと思われる絵が塀いっぱいに描かれている。 そのまま進み蕎麦屋の先の路地を右に入ると西向天神社の裏参道になる。

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裏参道の鳥居をくぐりそのまま進むと目の前に富士講の富士が現れる。 この溶岩を重ねたような富士山は東京都内に50か所以上ある。江戸時代も富士は信仰の対象で、富士講あるいは浅間講と呼ばれる民衆信仰。 品川神社や千駄ヶ谷の鳩森神社など、かつて江戸時代に行けないなら作ってしまえとたくさんの富士が作られた。 江戸っ子ならではの粋なやり方だと思う。

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富士の脇には階段の道がある。坂の名はないが、正面の階段を男坂に例えれば女坂と呼んでもよさげな階段である。 西向天神社は1282年に創建、社殿が西を向いているので西向天神と呼ばれた。 祭神は天神なので菅原道真である。

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江戸時代初期は荒れた神社だったものの徳川家光のころから周辺の氏神としての存在になり、江戸末期には富士講の富士山も築かれた。境内には社殿の北隣に天台宗の寺院梅松山大聖院がある。

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正面の鳥居下の少し北側からその大聖院に上る階段が山吹坂である。 説明柱が設置されている。 「坂上の大聖院境内にある『紅皿の碑』にちなみ山吹坂と呼ばれるようになった。紅皿は太田道灌の山吹の里伝説の中で、雨具がないことを古歌に託して、道灌に山吹の一枝を捧げた女性である」と書かれているが、その伝説を知らないので意味がよくわからない。

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大聖院境内から北側に下る階段が不動坂である。 大聖院は明治時代の神仏分離令で西向天神と分割された。 坂下の石柱に微かに「不動坂」と彫ってあったかなというくらい風化しているのが時代を感じさせる。

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不動坂を下った先では都道が上を通りトンネルで北側に抜けるという高低差のある道の絡みになっている。 この西向天神の西側が江戸時代は西の歌舞伎町辺りから流れてくる川だった。 天神下はちょうど二つの流れが合流するところで南から流れてくる沢の源頭は新三丁目の太宗寺あたりと思われる。

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2016年7月19日 (火)

曙橋~東新宿の坂 (1)

曙橋駅西側の住吉町交差点で靖国通りから北西に分れる大通りがある。 いきなり上り坂になる。 台町坂だ。

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市谷台町という町名にちなんだ坂名。 坂上のビルの谷間に青峰観音がひっそりと建つ。 この場所は明治大正期には「市谷監獄」(のちに市谷刑務所)があった場所。 監獄で刑死した人の霊を弔う。

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坂上を右に鋭角ターンして路地に入るとその先に安養寺坂の下りがある。 坂上の公園脇と坂下に標識柱がある。 「安養寺坂は念仏坂(後述)の少しく北の方を西に大久保余丁町上る坂道を言ふ。傍らに安養寺あるに因れり。」とあるが、その先に気になる記述があった。「安養寺は(中略)…もと市谷左門町富士見坂のあたりにあった。そこが明暦2年(1656年)に尾張藩上屋敷となるため現在地に移転した。」とあるなかの富士見坂を自分は知らない。 書物を読み返すと横関英一氏の『江戸の坂東京の坂』に無くなった坂の記述があり、この富士見坂は今の自衛隊の中にあったようだ。

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安養寺坂を下ると曙橋通り商店街。 少し南に下って左手に現れるのが念仏坂の階段。 この階段はちょっと有名。 曙橋のシンボル化しているかもしれない。 説明板には「昔、この辺りに老僧がいて昼夜念仏を唱えていたことに因むという。またこの坂は左右を谷に臨み、屈折していて危険だったので、仏名を念じて昇り降りする人がたことに因むという」とある。 結構急な階段だが、往来は多い。

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上から望むと高所恐怖症の人はちょっとだめかもしれない。 結構急角度の階段になっている。 階段上の台地は日当たりもいい。 しばらく北に歩く。 東京女子医大を目指す。

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東京女子医大は大きな病院だ。 特に写真の1号館は渋い。 1930年(昭和5年)の竣工のレンガ造り5階建。 見た目だけは間違いなく腰から下のない幽霊が廊下を這っていそうだ。 戦火をまぬがれたんだろうなと感心しながら見上げた。

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若松河田駅の通りに出る。 ここから西にゆったりと下る坂が団子坂である。 団子坂は急坂が多いのだがここは緩やか。 説明柱には「昔この辺一帯が低湿地であり、この坂はいつも泥んこで、歩くたびに足が泥団子の様になったという。」とあった。 泥だらけの団子坂というパターンもあるのだ。

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そのまま新宿方面へ進むと、台町坂からの大通りに合流する。 その角にあるのが厳島神社抜弁天。 由来は古い。 白河天皇の時代、応徳3年(1086年)源義家は後三年の役で奥州征伐の途上この地に立ち寄り、遠く富士を望みつつ安芸の厳島神社に勝利を祈願した。義家は奥州鎮圧の後に再び立ち寄り、御礼にここに神社を建てたのが始まりらしい。

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江戸時代になると参道は南北に抜けられて、それを苦難を抜けるとかけて、抜弁天と称して庶民から親しまれた。 神社の説明板にある古地図が面白い。 南北が逆に南を上に描かれているが、江戸末期の歌舞伎町が地図の右上。 そこから川が戸山町方面に流れ下る様子が描かれている。

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2016年7月18日 (月)

市ヶ谷~曙橋の坂 (5)

住吉町交差点と富久町交差点の間で靖国通りを北側に渡ると、白鳥山善慶寺がある。 石垣とスロープが特徴の靖国通り沿いの寺院。 裏手には東洋美術学校があり、そのわきの階段が抜け道になっている魅惑の階段なのだが、今回は割愛。 もう一本先の路地は成女学園脇で坂上には自証院があるので、c坂と呼ばれる。

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ほぼ直線の坂道で標識はなかったが、この坂道はかつては自証院の参道だった。 江戸時代の自証院は1万坪もの広さがあり、その門前だったのである。大正時代までは広い敷地を維持していたが、昭和になってから狭くなった。 昭和6年(1931年)に自証院の敷地の一部を使って富久小学校が開かれた。1987年に小学校の改築工事に自証院遺跡が出てきて調査をした記録が残っている。

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富久小学校の裏手の坂が魅力的なのだが無名の坂。 その坂を下ると芥坂(かむろざか)に当たる。 坂下の説明柱には、坂名の由来は定かではないが、江戸切絵図には『里俗カムロ坂』とあり…」と記されていたが、以前の説明書きには「昔、この坂下の自証院の横に小さな池があり、水遊びに来る禿頭(おかっぱを短く切り揃えたような髪型)の童たちの姿が見られたことから禿(カムロ)坂と呼ばれるようになった」と記されていたようだ。

古地図を確認すると、坂下の新宿川に水田があり、そこに2つばかり沢の水が溜まって池になっていたようである。 明治の終わりにはもうこの道沿いは町屋になっていたので、水田が開発されてしまったのだろう。同時に池もなくなった。

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禿坂の坂下まで戻り靖国通りを西へ進む。 大通りながらきれいな上り坂になっている。 坂下の富久町交差点と坂上の富久町西交差点では数mの高低差がある。 この坂は安保(あぼ)坂である。この道路は,昭和19年7月に都道と認定されたもので,坂名がついたのもきわめて新しい。 (中略) 坂名の安保は,この地に 男爵安保清種海軍大将が住んでいたことに由来すると記されている。 写真の坂上から右手に下りる富久町の赤煉瓦階段があるが、今回は昇降しなかった。

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坂上の富久町西交差点の南側を回り込むように左折すると右手に寺院墓地があり、この坂を茗荷坂と呼ぶ。 江戸時代後期まで,この坂下は源慶寺と東長寺に沿って,市谷村の茗荷畑であったためこう呼ばれた。 坂下の説明柱にも、「この辺りは市谷の饅頭谷から西南に続く谷で茗荷谷と呼ばれ、茗荷畑があった」とある。

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この茗荷谷だが、源頭は四谷4丁目交差点北辺りで、明治初期の古地図には池がある。 またそのすぐ南側は玉川上水の大木戸。 関係ありそうだが、江戸時代の上水は垂れ流すなどということはなかったようだし、勝手に引くと重い罰を負ったのでおそらくは自然の湧水だろう。 ちょうど池は大名屋敷の辺りなので、湧水を利用した庭があってそれが源頭だった可能性はある。上の写真の左側が東長寺、右手のマンションの手前が源慶寺で、どちらも江戸時代からある寺院。

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さらに靖国通りを西へ行く。 微妙に上っているが、旧厚生年金会館前あたりが頂上でその向こうは下っている。 斜度は1度ないだろうが、この坂にも名前が付いている。 瓶割坂である。 標識はないが『内藤新宿散歩』の案内地図に表記がある。 カメワリ坂のカメは瓶でお腹のことを言う。 腹が割れるというのは子供が生まれる事を言うと、故横関英一氏の『江戸の坂東京の坂』には書いてあるが、それがなぜ由来なのかはわからない。

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2016年7月17日 (日)

市ヶ谷~曙橋の坂 (4)

荒木町の窪地を抜けて津の守坂を防衛庁方面に下り再び靖国通りへ出る。 広い道幅の靖国通りを渡ると斜めに交差する短い登り坂がある。 合羽坂である。

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坂の途中に昭和58年に建てられた御影石の説明柱がある。「新撰東京名所図会によれば、四谷区市谷片町の前より本村町に沿うて仲之町に上る坂道を言う。昔、この坂の東南に蓮池という大池あり。雨夜など獺(かわうそ)しばしば出たりしを、里人誤りて河童と思いしより坂の呼び名と転じて合羽の文字を用いて云々。いずれにしても昔この辺りは湿地帯であったことを意味し、この坂名が付けられたものと思われる。」と記してある。

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坂下の小さなスペースには可愛い河童の頭の石像が置いてあった。 ご愛敬である。 しかし現代はすでに絶滅種とされているカワウソがここにいたという事の方が、河童話よりも私の心に響いた。 坂上から靖国通りの向こうに蓮沼が広がり、その向こうには坂町の町屋、その右手には摂津の守の屋敷。 そういう風景を見てみたい気持ちになった。

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合羽坂を上ると曙橋。 南北に走る外堀東通りが靖国通りを橋で跨ぐ。 地下鉄曙橋駅で靖国通りを再び南側に渡る。 少し新宿方面に歩き、住吉町交差点手前で左の路地を見ると真っすぐに上る坂がある。 これが新坂である。「全勝寺から靖国通り手前まで下る坂道で、明治30年代の道路新装によって出来た坂道である。江戸時代には、甲州街道から全勝寺まで杉の木が連なる杉大門通りが延び、(この)新坂が出来て靖国通りまで通じることになった。『今は杉樹は伐採し、その道は新道に通じて、直ちに市谷に達せり』という光景だった(新撰東京名所図会)」と坂上の説明柱に記されていた。

確かに明治初期の古地図では全勝寺の北側つまり坂の辺りはすべて墓地になっていた。 それが明治の終わりの地図では切通しの道になり「新坂」と名うってある。 その全勝寺の路地をぐるぐる歩き、かつての舟町から愛住町に入ると路地の角に四角い建物がある。

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写真の墓地の石垣の向こうにあるその四角い建物は「釣り文化資料館」とある。 釣り人としては気になったが土日は開いていない。 残念。 どうも和竿を中心に伝統的な江戸の釣りの文化を伝えてくれる資料館らしい。

写真の墓地の下の坂道が暗闇坂(暗坂)である。坂の途中に説明板がある。四谷北寺町へ出る道で、坂の左右に樹木が繁って暗かった為この名が付いた。 別名くらがり坂ともいう。 江戸時代坂上一帯は多くの寺院が並び、四谷北寺町と呼ばれていた、とある。

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暗闇坂は緩やかに曲がり下って行くが、直線的に靖国通りに下りていく階段もあってこれは後に作られた暗闇坂の一部だろう。 坂上だけでなくこの階段の上にも説明板が立ててあった。

地形的にはこの靖国通りは富久町辺りを源頭とする沢筋にあたり、北に行っても南にってもその沢が削った台地になっている。 この沢は旧フジテレビ辺り(住吉町)から流れ落ちる沢と曙橋で出合い、市谷の外堀に注いでいた。

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2016年7月16日 (土)

市ヶ谷~曙橋の坂 (3)

引き続き四谷荒木町のディープな散策はもっとも低い標高の策の池エリアから弁財天脇の風情ある階段路地を上る。

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坂の途中には一見お断りの料亭などがひっそりとあり、その先で上って来た坂道を振り返ると建物の向こうに防衛庁の通信塔がそびえている。 何度も訪問したくなる魅力的な細路地。 細路地をのぼりつめると荒木町の氏神様である金丸稲荷。

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写真は鳥居をアップで撮っているのではない。 鳥居はなぜか細路地側が正面で、道幅が鳥居の幅の半分以下しかないのだ。 手前左の玉垣(寄進された石の柱群)には伊勢丹とある。 あの伊勢丹だろうか。 この数坪しかない神社に伊勢丹が寄進しているのもなにかありそうな気がした。

神社の左手、社殿から見ると正面だが、そこは車力門通りといい江戸時代に松平摂津の守の屋敷に物資を運び込む道だった。 鳥居の向きについては情報が皆無だが、推量るにもともとは摂津の守の屋敷の神社だったのでそちらの方に鳥居を向けたのではないかと。

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神社前を左、そして左と細路地を行くと写真の石畳の道が続く。 無論車は通れないが、原付は何台か通り過ぎた。 小料理屋が立ち並ぶ入口を抜けると普通の住宅が並んでいる。再び津の守屋敷の深いところへ入っていく。

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ふと、路地から右の細路地を見ると素晴らしい階段が見えた。 思わず階段に足をかけ上ってみた。 仲坂のように名前のある階段ではないので、明治以前にはなく、時系列で地図を確認すると大正時代からの往来らしい。

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階段上からの眺めは、予想通り荒木町の窪地をクリアに感じさせてくれるものだった。 今回の散歩のエリアを明治維新の頃の地図で表すと、今の荒木町とはまったく違ったイメージが浮かんでくる。

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上の古地図の池の中を散歩していたわけだ。南側の丸い池が策の池、そして北側の池の周りには桜が植えられ、江戸っ子が遊びに集まっていたのだろう。 その名残がいまでも荒木町の魅力的な雰囲気として受け継がれているように思う。

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2016年7月15日 (金)

市ヶ谷~曙橋の坂 (2)

比丘尼坂下を右に行くとすぐに靖国通りに出る。 目の前が防衛庁で台地になっている。戦前は陸軍士官学校、江戸時代は尾張藩の上屋敷で敷地内には琵琶湖を模した池のある庭園「楽々園」があった。また戦後は米軍極東司令部だった時期もあり、マッカーサーがここにいた。 自衛隊になってからは三島由紀夫がここで自殺している。 防衛庁の向かいは坂町。

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いかにも江戸時代からの道らしく曲がりながら緩やかに上って行くのが坂町坂の商店街。 坂町坂の西には御先手組(おんさきてぐみ)の屋敷が集まっていた。御先手組は今でいう機動隊の様なもの。 古地図を見ているとこの御先手組があちこちに集合住宅を作っているのがわかる。 今でいう公務員住宅だろう。

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坂町坂の上部は直線だが、全体的に緩やかにくねっている。 元は下の方は江戸の初期には蓮池という大きな池で水鳥が集まっていて徳川家光も狩猟をここで楽しんだようだが、後に埋め立てられ町屋になった。下の方を下坂町、上の方を上坂町と言っていたが明治以降は坂町でひとつになった。

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坂町坂の坂上から西に向かい三栄町を抜けると津の守坂(つのかみざか)の坂上に出る。坂下の正面に防衛庁のビルが見える。 津の守というのはいかにも江戸っぽい名付けで、江戸時代この坂の辺りは今の岐阜県の美濃高須藩主松平摂津の守の屋敷だった。 その殿様の名前の下の方を取って津の守坂である。今はディープなエリアとして知る人ぞ知る四谷荒木町のあたりはその大名屋敷の庭だった。

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津の守坂は別名小栗坂という。津の守坂の東側には新宿歴史博物館がある。 以前に訪問したがなかなか素晴らしい区立博物館でお勧めだ。 ただし場所がわかりにくい。 しかしこの市ヶ谷、曙橋、四谷三丁目、四ツ谷に挟まれたエリアは昔も今もディープである。

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津の守坂から裏手に入ると写真の階段「仲坂」がある。 魅惑的な階段で、いかにも四谷荒木町の窪地に入っていく感じがある。 この仲坂を下りたあたりからその先の津の守弁財天あたりが最も低いエリア。

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上の写真が津の守弁財天、竹柵がしてあるのはそこに池があるからだ。 この池の名前、かつてはかっぱ池と呼ばれたこともある。 ここに湧き水による滝があったそうだ。  明治になってからは王子の名主の滝、目黒不動尊の不動の滝、新宿十二社の滝と並んで「津の守の滝」として親しまれた。

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今の池は水たまり程度だが、昔はもっと流れがあったようだ。 かっぱ池というのは通称のようだが、江戸時代には策(むち)の池とも呼ばれ、滝も4mの高さがあった。 津の守弁財天自体はもともと池のほとりにあった祠だったが、昭和31年に町の人によって弁財天として祀られた。

実は江戸時代はずっと大名屋敷の中庭だったので、この池を町民が愛でる事はなかったが、廃藩置県で大名屋敷が無くなり庶民の出入りができるようになってから深く親しまれるようになった。 その時代になっても大名に好意をもって津の守の名をあちこちに残す江戸っ子気質はやはり粋である。

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2016年7月14日 (木)

市ヶ谷~曙橋の坂 (1)

市ヶ谷駅を降りると目の前には釣堀がある。  市谷見附に渡る市ヶ谷橋の釣堀側の石垣は野面積みの石垣で江戸の初期からのそのままの姿を留めている。この市ヶ谷橋は1636年に江戸幕府の命で森長継が建造、 この辺の遺構はまた別の機会にして、今回はそのまま市谷亀岡八幡に向かう。 市谷と市ヶ谷の「ヶ」の有無による違いは何なのかわからない。 隣の駅も四谷にある四ツ谷駅、ここは市谷の市ヶ谷駅だ。

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正面の急な階段が市谷八幡男坂。 1479年(文明11年)に太田道灌が鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を勧請(かんじょう)して建立した。 鶴岡八幡宮から亀ヶ岡八幡宮になったところがひとひねりしたか?

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左側には車も登れる市谷八幡女坂がある。 生活道路になっている。 ここはやはり男坂を上りたい。 銅の鳥居は渋い。 これだけのまとまった銅を見ることは稀である。

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この銅鳥居は1804年に建てられ、新宿区内には銅鳥居はここだけ。 この鋳物の技術は凄いものがある。

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鳥居の先に本殿がある。 宝物には太田道灌ゆかりの軍配団扇などがあるが、写真の掲示板前にある力石がすばらしい。 おおよそ江戸後期のものだが、江戸時代の人々が奉納相撲に盛り上がる様子が感じられる。 都内の神社にはこの力石のある所が多い。

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神社を下りて、お堀側に向かう。 外堀通り沿いに緩やかに西に向かって上って行くのが高力坂。 その向こうに雪印メグミルク本社が見える。旗本高力家の屋敷があったことが由来。高力家は雪印の右隣のビル辺りだったようだ。

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坂上の信号を右に入り、その先の路地を左に入ると比丘尼坂という小さな坂になる。 尾張藩の抱え屋敷(別邸)があって、そこに剃髪した老女(奥方の侍女のリーダー)が居たので比丘尼坂と呼ばれるようになったとある。 雰囲気のいい石垣と階段がいいポイントになっていた。

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2016年7月13日 (水)

信濃町の坂 (4)

須賀神社の辻から一本先の路地を左折すると観音坂。 角の寺院は真成院(しんじょういん)。 真成院の潮踏観音が坂名の由来。 坂上は右手の西念寺の裏手になるため、江戸時代には西念寺坂とも呼ばれた。

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潮踏観音は別名汐干観音とも呼ばれる。江戸時代に観音様の足もとに海の水が寄せていたというので、この地に来てからではなく、江戸城外堀工事の際にもっと海近くにあったのがここに移されたその前の話だろうと推測した。 多くの寺社は江戸幕府の始まりに当たって移転を余儀なくされている。 赤坂の日枝神社も元は皇居内にあったと聞く。

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坂上の西念寺は服部半蔵の槍が有名。 半蔵が家康より拝領した槍を今も保存しているそうである。 服部半蔵と言えば伊賀忍者の中心人物。 西念寺も元は四谷の清水谷にあったが、外堀工事のためにここに移転してきた。 境内には半蔵の墓がある。

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西念寺前をそのまま進むと鉄砲坂の中腹に出る。 鉄砲坂は若葉通りから緩やかに上ってきて、西念寺の道に出合うとクランクになり鮫河橋方面に向かう。 江戸時代この辺りに御持筒組(おもちつづぐみ)屋敷があり、屋敷内に鉄砲の稽古場があった。その為鉄砲坂と呼ばれた。 それ以前はここに赤坂の鈴降稲荷があったので、稲荷坂とも呼ばれた。

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クランクして鉄砲坂上を歩いていくとやがて中央線を渡る橋に差し掛かる。 この橋の先が薬缶坂というらしいが短くてよくわからない。 昔はかなりの急坂だったらしいが鉄道の敷設に伴い緩やかになったらしい。

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橋上から中央線のトンネル(御所トンネル)を見下ろせる。一番右の線路がもっとも古く、甲武鉄道時代の敷設である。 こちら側のトンネルはほかの3本と同じデザインだが、四谷側は下の写真の通り、歴史を感じさせる。

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このトンネルが掘られたのは1890年代、新宿から飯田町(飯田橋の東側)まで甲武鉄道が開通した時のことだ。トンネルの上は皇室の通う学習院初等科の校庭。

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薬缶坂を下ると公園脇で広い道路に出る。 ここは鮫河橋坂という。並木の美しいきれいな坂道である。 この坂を下り明治記念館側が安鎮坂になるが、その手前の坂下に赤坂御所の裏口がある。かれこれ30年ほど前のこと、ここを散歩していて突然警察にとめられた。 他に歩いている人はいなかったので職質かと思ったら、昭和天皇が車に乗って出てきた。天皇はわずか数m先を通って行かれた。 その翌年に崩御されたから、1987年だったと思う。

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鮫河橋坂の脇のみなみもとまち公園に上の江戸名所図会の説明板がある。 昔のこういう江戸の風景を頭に描きながらの散歩。 先ほど歩いた若葉通りを流れていた沢は、この公園あたりを葭原にして、その先赤坂御所内の池に流れ込んでいた。 その南側には大名屋敷の林立する赤坂の街。 東には弁慶堀から溜池に続く広い池が眺められただろう。

坂道探訪というのはそういう散歩だ。

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2016年7月12日 (火)

信濃町の坂 (3)

左門町から新宿通りに出て右折し、次の信号「津の守坂入口」を右に入ると円通寺坂。 坂の途中にある円通寺辺りが前述の若葉通りの谷の源頭になる。

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現在の坂は緩やかだが、古地図の道は先の方でかなり急な下りになっている。坂を下って行くと、右に分れる小道があるが、そっちが江戸時代からの道。左の本道は昭和の後期に作られた車道。 しかしこの車道がくねっていて一見昔からの道路のように見える。 だがこの辺りは源頭の流れ出しで池などもあったようだ。

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坂を下りきると右も左も道路より高いのがわかる。 つまり谷底を道路は走っているわけだ。 ちなみにこの道はずっといくと、若葉通りになる。

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左に急坂が上る。 東福院坂である。坂の途中にある東福院に因んでこう呼ばれた。 別名の天王坂は、明治以前の須賀神社が牛頭(ごず)天王社と呼ばれ、この辺りが天王横町と呼ばれていたためである。 牛頭天王は須佐之男命の別名。 東福院坂を上る。 結構な傾斜である。

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東福院坂の坂上から来た道を振り返ると、若葉通りの向こうに階段が見える。 須賀神社だ。 上の写真を見るといかに急な窪地になっているかがよくわかる。写真を撮ったあったりがかつてラジオ局の文化放送があった場所。 今は浜松町に社屋があるが、2006年というから10年前までここで放送していたわけだ。 40年以上も昔、セイ・ヤングや走れ歌謡曲などの深夜放送を、1000㎞の彼方で聴いていたと思うと感慨深い。

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須賀神社の49段の男坂を上る。 神社は上って正面ではなく、頂上を右に進む。 ご利益はいろんなものがてんこ盛りでよくわからないが、場所柄かサンミュージックの提灯があったりする。サン・ミュージックは四谷三丁目にある芸能プロダクション。最初のタレントは森田健作である。松田聖子も。麻薬事件ののりピーもここだし、ベッキーもか。創業の相澤社長はすでに2013年に他界。

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須賀神社には三十六歌仙絵という文化財があり、訪問時はレプリカが外に飾ってあった。

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須賀神社は四谷の総鎮守で、元は千代田区の清水谷辺りにあったが江戸初期の外堀工事の折にここに移転した。 上の赤鳥居の右手に女坂がある。

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女坂は男坂に比べて緩やかである。段数はほとんど同じ。 須賀神社下の窪地には妙行寺という日蓮宗の寺院。創建は1457年~1460年だから須賀神社よりも古いことになる。階段下を右に進み男坂下に、そこから再び若葉通りに戻った。

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2016年7月11日 (月)

信濃町の坂 (2)

かつての川沿いの商店街を歩く。 若葉通りという名が付いている。 この沢跡を峰まで上ると新宿通り、江戸時代の甲州街道(青梅街道)である。 江戸時代の街道はこの甲州街道も中山道も武蔵野台地の尾根筋を通っている。 新宿通りの北側は四谷荒木町の窪地。 あちらには津の守弁財天の湧き水の池があるが、こちらには源頭らしきものは見当たらない。 しかし若葉通りから脇に入ると、若葉湯という銭湯があった。 沢筋に銭湯である。

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新宿区にもまだこうした銭湯が残っているが、ここもアットホームな昔ながらの銭湯のままらしい。 この若葉湯のある通りが戒行寺坂である。

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このエリアには寺が多い。 1ブロックに1寺くらいある。戒行寺坂沿いにも5軒の寺院がある。 坂を上ると右手に戒行寺がある。もちろん坂名の由来はこの寺だが、坂の別名は油揚坂(あぶらげざか)。 坂の途中に昔、豆腐屋があり、質の良い油揚げを作っていたのでそう呼ばれたとある。 大した豆腐屋である。

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写真の左の門が戒行寺。 『鬼平犯科帳』のモデルになった長谷川平蔵(1746~1795)の供養の塔がありこの寺に眠っている。 江戸時代に罪人の更生を画して世に尽くしたなかなかの人物。

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坂上の永心寺の先を左折すると暗闇坂の坂上。 この坂はなかなかの雰囲気で好きである。 路地は車は通れない。 360cc時代の軽自動車ならなんかなりそうだが、車両通行止めである。

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坂下から見上げると直線ながら右上の墓地がそこはかとない恨めしさを感じさせる。 若葉通りの川筋は西に向かって2本の支流を持っていた。その2番目の沢の源頭がこの辺りになる。 明治初頭の古地図では闇坂の下には池があり、ここから沢が流れ始めている様子がわかる。

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坂上に戻り、四谷左門町の於岩稲荷を訪ねる。 本来の神社の名前は田宮神社という。東海道四谷怪談で有名な田宮家の娘であるお岩が信仰していた屋敷内の神社を移したものである。 お岩夫婦はこの信仰で江戸初期に豊かに暮らしたのが事実だが、200年後に戯曲になった時にはおどろおどろしい話になっていた。 ここの神社はその後信仰を集めたが、1879年(明治12年)に焼失し、中央区新川に移転し現存している。 その後もここは田宮家の住居であったが、戦後1952年にここに再び神社が開かれたといういきさつ。

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四谷左門町のお岩話しは本当は円満な夫婦の話だが、そのすぐ近くに上の写真の女夫坂がある。 下り坂と上り坂が連続しているため女夫坂または夫婦坂と呼ばれる。昔はもっと勾配があって,両方からの落ち込み坂で,これを夫婦坂と呼んだものらしい。この辺りの火事で改修され,勾配は緩やかになった。

信濃町から四谷周辺は散歩するとそのディープさが味わえる通(つう)向けのエリアだと思う。

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2016年7月10日 (日)

信濃町の坂 (1)

JRお茶の水~代々木区間を中央線というのか総武線と呼ぶべきかいつも迷う。 代々木駅は山手線の認識だが、千駄ヶ谷と信濃町は総武線、四ツ谷は中央線。しかしそれは走る電車の路線であって線路は微妙である。 答えは鉄っちゃんに任せるとして、今回は信濃町で下車する。

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信濃町駅を出て南側、神宮外苑側に渡る広い歩道橋の脇から下るのが千日坂。 年季の入った石柱が並んでいる。 坂の上に掛かるのが首都高速4号線の外苑出口。 信濃町は創価学会の街。 イベント時には何万人もの学会員が集まり一種異様な雰囲気になる。主に北側に施設が集まっているが、南側のこの坂の下にもビルが一つある。

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坂下に標識がある。坂下の低地は、一行院千日寺があるために千日谷と呼ばれた。 坂名もこれにちなんだと思われる。 またかつての千日坂は消滅し今の坂はそれと前後して作られた(新)千日坂である、と記されている。

そうなると旧千日坂が気になる。明治初期の古地図を確認すると、今の絵画館の裏辺りから東に下る道があって、坂下で古地図の道と現在の道が合う。 明治時代にはまだ神宮外苑はなく、明治の終わりころは一帯は青山の練兵場だった。明治天皇の崩御により神宮外苑は今の形になったので、江戸時代の千日坂は信濃町駅のある北ではなく、西に上って行く坂だったのだ。

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千日坂下から東に進み、とちゅう中央線のガード(狭い)をくぐると線路の北側に出る。 左に曲がるとすぐに道は右に折れる。 その先には写真の急坂がある。 新助坂である。 別名すべり坂と呼ばれた。

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坂上に標識がある。 信濃町と南元町5と6番地の間を南へくだる急な坂である。昔このあたりに新助という人が住んでいたことから新助坂と称した。新選東京名所図会に 「新助坂は、四谷信濃町に上がるなり、一名をスベリ坂ともいう。坂の下には甲武鉄道トンネル門あり」と記している、とある。

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坂上を右折して四ツ谷方面に歩く。 この下りの先には江戸以前は川があり、谷がいくつにも分かれて周辺に切り込んでいた。 その名残りが前述の千日谷であり、北に切れ込むのが須賀神社あたりと源頭にした谷。ただし江戸時代にはすでに街並みになっていたようである。中央線に並走するようにして下るこの坂は出羽坂である。

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坂下の標識には、明治維新後この坂上に旧松江藩主であった松平伯爵の屋敷が移転してきたため、こう呼ばれるようになった。松平邸内には修徳園と呼ばれる名庭があったが、太平洋戦争後取り壊された、とある。 坂上はお屋敷で坂下は町家、のちに商店街となった街並みは現代も残っている。

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2016年7月 9日 (土)

向丘~千駄木の坂 (3)

またしばらくさぼってしまい、ココログにさぼったリングが付き始めたので、これはいかんと再開することにした。 前回は根津神社を通って根津裏門坂を上ったところまでだったので、その続きである。 坂上には日本医科大病院がある。そこを右折すると夏目漱石の旧居跡がある。

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塀の上にこっそりと猫の彫像がある。剥製ではない(笑)。『吾輩は猫である』にちなんだものだろう。漱石は1867年生まれだから明治元年に1才。イギリス留学したのち36才の時1903年から4年弱ここに住んだ。ここで『吾輩は猫である』を執筆したので、ここは「猫の家」と呼ばれた。塀の上にある猫が視界に入ってくると、情景が明治に飛んでいきそうな錯覚を覚えた。

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猫の家の前に病院の裏口のある路地がある。そこを進んでいくと、階段の急な下り坂になる。 汐見坂という坂で大正から昭和になる頃にできた坂。最近は病院の裏だからか解剖坂と呼ばれるが、なんとなく響きが怖い。

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私はどちらかというと墓より病院の裏口の方が怖い。 幽霊に殺される人はいないが、人間に殺される人はたくさんいるからだろう。 生身の人間の方が怖いので、幽霊は暗くならないと出てこないのかもしれない。

さて、坂下で突き当たると藪下通り。 いい名前の響きだ。 かつてはここから江戸前の海を眺めることができた。緩やかな藪下通りの登り坂を行くと右手に汐見小学校。 意外と小学校の名前に歴史が刻まれていることが多いのだ。

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藪下通りを進むと左に上の写真の階段がある。 ここはだんだん坂という階段。 階段探訪も最近始めたので、また別の機会に詳しく調べようと思っている。 右のフェンスが潮見小学校で、その先の左に森鴎外記念館がある。夏目漱石、森鴎外と日本文学の大家がこのあたりにいた訳だが、この藪下通りは鴎外のいつもの散歩道だったらしい。

森鴎外記念館の正面から小学校脇を下る階段はしろへび坂というが、由来も時期もわからない。藪下通りをそのまま進み団子坂上に出る。

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団子坂を下るにつれて人通りが増えにぎやかになってくる。坂下は千代田線の千駄木駅。団子坂の由来は団子屋があったという説もあるが、団子坂と名付けられた坂の多くは急坂でコロコロ転んで団子のようになるところから来ている。

さて藪下通りの台地は本郷台地、千代田線の通る坂下は藍染川の窪み、そしてその東側は上野台地である。 続いて本郷台地の際を探索する。 駅から路地に入り須藤公園を抜ける。 この須藤公園は台地の際にあり、公園内に落差のある須藤の滝という水流も作られている。

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旧安田邸の先を右折すると大給坂(おぎゅうざか)。 かつて坂上に子爵大給氏の屋敷があったことが由来。大給氏は戦国時代の三河の国の豪族。 徳川家に仕えた。

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こういう路地の坂は風情がある。 上り下りする人が多く、そこに昔から絶えることなく営まれてきた人々の生活を感じることができる。 微妙なカーブも江戸以前の道をイメージさせてくれる。

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大給坂の北側にあるのが狸坂。 この先むじな坂・狐坂があるが今回は割愛。 そういう名前が付くような場所だったのだろう。 今は想像がつかないだろうが、里山の谷地の際の林の様な風景だったのだと思う。

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狸坂も上部で湾曲している。昔は千駄木山といって雑木林が多く、坂上の一帯(上の写真の場所)はその中でも狸山と呼ばれた。そこに上る道なので狸坂である。 坂下の根津谷(藍染川)の両岸に田んぼが開かれて、その向こうの丘を越えた今の日暮里駅の所にある諏訪神社の祭礼が8月27日にあるのだが、その日が終わってもこの狸山からおはやしが聞こえてきたという『千駄木山の天狗ばやし』という民話も残っている。

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