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2016年11月30日 (水)

九段坂(千代田区)

九段坂は有名な坂である。 地下鉄の九段下駅を降り武道館へ行くために田安門に向かうと目の前には上り坂。 これが九段坂だ。

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江戸時代はもっと急坂だったらしい。田安門とは反対車線の靖国神社側に標柱がある。

「この坂を九段坂と言います。古くは飯田坂とも呼びました。『新撰東京名所図会』には、〝九段坂は富士見町の通りより、飯田町に下る長坂をいう。昔、御用屋敷の長屋9段に立ちし故、これを九段長屋と言いしよりこの坂をば九段坂と言いしなり。今は斜めに平かなる坂となれるも、もとは石を以て横に階をなすこと九層にして且つ急峻なりし故、車馬は通すことなかりし″と書かれています。坂上は観月の名所しても名高く、1月、7月26日、夜待ちといって月の出を待つ風習があったといいます。」とある。

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今は6車線の車道と広い歩道で傾斜は緩やかに見える。靖国神社の南側反対車線の歩道脇に燈明台がある。高燈篭(高燈明台)といって明治4年(1871)の建設。当時九段坂上のこの場所からは、遠く筑波山や房総半島の山々まで眺めることができ、品川沖の船からはこの燈明台がよく見えたそうである。

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当時は靖国神社側に建てられていたが、昭和5年(1930)に道路の改修に伴いこちら側に移設された。 今は陸封された灯台である。

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2016年11月28日 (月)

小栗坂(千代田区)

駿河台周辺の坂の最後は小栗坂。 中央線沿いの皀角坂を下ると南に接する道がある。傾斜はかすかにあるかな?という程度。 この道は白山通りができるまでは水道橋への幹線道路だった。

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標柱には次のようにある。「この坂を小栗坂といいます。『江戸惣鹿子名所大全』には「小栗坂 鷹匠町にあり、水道橋へ上る坂なり、ゆえしらず」とあり、『新撰東京名所図会』には「三崎町一丁目と猿楽町三丁目の間より水道橋の方へ出づる小坂を称す。 もと此ところに小栗某の邸宅ありしに因る」とかかれています。 明暦3年(1657)頃のものといわれる江戸大絵図には、坂下から露地を入ったところに小栗又兵衛という武家屋敷があります。 この小栗家は「寛政重修諸家譜」から、730石取りの知行取りの旗本で小栗信友という人物からはじまる家と考えられます。」

この坂を真っすぐに行くと神保町の交差点に出る。そこで九段坂から淡路町への靖国通りに当たるが、もとはこちらから淡路町への道がメインだった。そういう道の変遷を確認しながらの散歩もまた面白い。

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2016年11月27日 (日)

皀角坂(千代田区)

駿河台の西の端、中央線の線路沿いに水道橋へ下る道が皀角(さいかち)坂である。 駿河台は本郷台地の先っぽ。伊達政宗の掘った神田川沿いに走る中央線沿いが高低差が判りやすい。 下の段彩陰影図で台地の形がよく分かるが、東の端が淡路坂、西の端が皀角坂。

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元々神田川は上手の下に流れる現日本橋川が流れの筋だったのを、徳川家康が伊達政宗に命じて本郷台地を掘削して隅田川に流すようにした。水道橋から御茶ノ水、秋葉原への流れは人口の川。今回は台地の西端の坂を下るけである。

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鉄道はあまり急な高低差を取れないので切通しやトンネルになるが、道路は多少の勾配は構わず道になる。この坂の中腹に神田上水掛樋跡がある。神田上水は江戸の上水の大元。 神田川上流から取った水は小石川の水道道路沿いに作られた上水を流れ、ここで神田川を渡る。つまり水道橋である。

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写真は水道博物館にあった明治初期の掛樋の写真。 江戸時代は今の工芸高校と昭和第一高校および桜蔭高校の間を上水が流れ、この水道橋で神田川を渡り江戸の町内へ飲み水を供給した。坂の途中に説明板がある。

「江戸時代この辺りには、江戸の上水の一つである神田上水が通り、また神田川を越えるための掛樋が設けられていました。 神田上水は江戸で最も早く整備された上水と言われます。徳川家康は、江戸への入府に先立って家臣の大久保藤五郎に上水の開削を命じ、大久保は1596年~1615年にこの整備に着手します。井の頭池、善福寺池、妙正寺池からの水を集めて、現在の文京区関口あたりで堰を設けて上水を分水し、余水は神田川として流しました。

上水は、小日向台から小石川後楽園を通り、神田川に達します。神田川を越えるため、水道橋の少し下流から、この辺りで掛樋で渡したといいます。(以後省略)」

この水は東京駅から北側の地域に供給されていたようです。

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掛樋のあたりに町内会が作ったと思われる石碑があったが、「ち」から下の部分が歩道のタイルに埋もれてしまっていた。昔は「さいかち坂」という文字が全部出ていたのだが、少し掘り起こせばいいのに。

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坂名の由来は坂の途中にあった標柱に記されていた。「この坂を皀角坂といいます。『新撰東京名所図会』には「駿河台鈴木町の西端より土堤に沿いて、三崎町の方に下る坂なり」と書かれています。名称においては『新撰江戸志』に「むかし皀角樹多くある故に坂の名とす。今は只一本ならではなし」と書かれています。」とある。

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2016年11月25日 (金)

女坂(千代田区駿河台)

男坂から西へ進むと女坂。以前上の踊り場に設置されていた標柱は坂上に移設されていた。男坂同様に落差傾斜ともに厳しい坂だが、踊り場が多い分女坂と呼ばれる。

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「この坂を女坂といいます。駿河台1丁目7番地の端から猿楽町に下る石段の坂。「男坂」に対して名づけられたものです。男坂が一直線の急坂であるのにくらべ、中途で中やすみするようになっているので「女坂」と呼ばれています。この坂のできたのは,、大正13年(1924)8月政府による区画整理委員会の議決により作られたものです。」と書かれている。

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男坂に比べて上り下りする人の数が少ないのは学校やオフィスの数の違いだろう。比較的静かな階段坂である。しかし女坂といっても、体感的にはこっちのほうが傾斜はきつい。

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なかなかの傾斜の階段で、途中で足を踏み外したら間違いなく大けがをする。 女坂・男坂・錦華坂ともに大正時代にできた新しい坂だが、きっとこれからも地域に守られて残っていくと信じたい。

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2016年11月24日 (木)

男坂(千代田区駿河台)

錦華坂の坂上を進むと丁字路、左に進むと南西側が崖であることがよくわかる場所、男坂が現れる。 文坂や富士見坂を歩いているとこんな落差があるとは思えないのだが、ここは本郷台地の突端の西側を大昔の神田川が鋭利に削り取った地形だろう。

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男坂は途中に1か所だけ踊り場のある直線階段。全部で73段ある。女坂の82段より多いのは1段の高さが違うのか、あるいは踊り場の数の違いかはよく分からない。

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中ほどの踊り場から見上げる。そこには標柱があり、次のように書かれている。「この坂を男坂と言います。駿河台二丁目11番地の端から猿楽町へ下る石段の坂「女坂」に対して名付けられたものです。この坂のできたのも比較的新しく、大正13年(1924)8月政府による区画整理委員会の議決により作られたものです。男坂は同一場所、あるいは並行してある急な坂を、女坂は緩やかな坂というように区別されて名付けられています。」

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階段下の頭上にかかる渡り廊下は私立神田女学園中学・高校のもの。 男坂というだけあって一気に登るのはいささかきついが、階段の坂は風情があっていい。歴史が浅いのが物足りない点だが、駿河台の名を示す階段坂として魅力がある。

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2016年11月23日 (水)

錦華坂(千代田区駿河台)

富士見坂下の神保町交差点のマックの右の道に進み、最初の路地を右折する。その先で左に折れると区立お茶の水小学校の裏道。 錦華公園を見下ろしながら山の上ホテル裏までのくねった坂道が錦華坂。

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昔からあった道のように思えたが、坂上の標柱には次のように記されていた。「この坂を錦華坂といいます。名称は坂下に錦華小学校があるからです。この坂を勧学坂というのは誤りです。この坂は大正13年(1924)8月政府による区画整理委員会の議決により新しく作られた道路です。「議決要綱の三」には〝南甲賀町より袋町三番地を横断して裏猿楽町二番地先錦華小公園東側に通ずる6m街路を新設″とあります。」

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錦華小学校は明治6年創設だが平成5年(1993)の統廃合で小川小学校、西神田小学校と統合されお茶の水小学校となったが、場所は錦華小学校のまま。卒業生が凄い。夏目漱石は1期生。早稲田大学総長、慶応大学塾長、お茶の水女子大学長も輩出している。

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山の上ホテルの裏の角に石碑がある。これはのちに作られたもの。比較的新しい坂ながら、風情は江戸情緒たっぷりの感がある。 大正時代以前の地図を見るとこの道沿いはずっと崖になっている。 こういう地形の場所には、動植物もいろいろいて、漱石たちも虫取りなどをして遊んだのだろう。

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2016年11月22日 (火)

文坂と富士見坂(千代田区駿河台)

吉郎坂と甲賀坂に交差する御茶ノ水橋から内堀通りに繋がる大通りの駿河台下交差点へ僅かに下る部分が文坂。 しかしこの最後の下り坂の部分は明治末期に路面電車の道としてできた新しい道路。 なので江戸期には文坂はない。

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明治大学の前の歩道の隅に石の標柱がひっそりとあるが、これは昭和50年ころに町内会で設置したものである。一応名前の付いた坂ということで拾ったが、風情は皆無だ。

文坂の途中から西南西に下る路地があるが、こちらは古い道。「富士見坂」の標柱が立っている。

「この坂を富士見坂といいます。『新撰東京図会』には、「駿河台南甲賀町の内、袋町に通ずる筋より南へ、猿楽町一丁目と小川町との間を下る坂、富士見坂と呼ぶ。風景賞すべきの地はあらざるも、遠く富士を望むを得べし富士見坂の名もこれに基しか」と書かれています。富士見坂という名の坂は千代田区だけでも3ヶ所あります。富士見町と九段の間、紀尾井町と永田町の間にあります。」

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かつては学生で混みあう路地だったが、今はちょっとエスニックな集団が多いように思う。当然富士山は望むべくもない。

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2016年11月18日 (金)

吉郎坂(千代田区駿河台)

駿河台の坂道で一見して坂だと感じるのが吉郎坂。 甲賀坂を西に進み御茶ノ水橋の通りを渡ると急坂が始まる。

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頂上は山の上ホテルである。 吉郎の由来は、明治大学の総長を務めた佐々木吉郎氏にちなんで近年つけられた名前。 佐々木吉郎は昭和初期の経済学者である。

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吉郎坂の別名は甲賀坂と胸突坂。 甲賀坂は東側の坂が甲賀坂と江戸期から呼ばれていたのでここまでそう呼ばれていたのだろうか。また急な傾斜から胸突坂とのちに呼び分けられた可能性も高い。

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坂下に石の標識があるが、これは昭和50年に町内会で設置したもの。 吉郎坂というネーミングは粋だと思う。 明大坂なんてつけられた日にはセンスがない。胸突坂は江戸のあちこちにあるし、やはり吉郎坂がしっくりくる。

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2016年11月17日 (木)

甲賀坂(千代田区駿河台)

池田坂の坂下で交差する太田姫神社の一つ北側の道が甲賀坂である。甲賀忍者がいたかどうかは定かではない。

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甲賀坂の標柱にはこう書かれている。「この坂を甲賀坂といいます。『東京名所図会』には,「南北甲賀町の間に坂道あり,甲賀坂という。甲賀の名称の起源とするところは往昔,甲賀組の者多く居住せし故とも,又光感寺(こうかんじ)の旧地をも記されるが云々」とかかれています。どちらにしてもこのあたり甲賀町とよばれていたことから名がつけられました。甲賀町の名は,昭和8年(1933)から駿河台1、3丁目となりました。」

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まっすぐ西に進むと急な上り坂が見えるが、その上は山の上ホテル。手前の交差点には戦前まで都電が走っており、大正時代までは甲賀町駅という電停だった。ちなみに甲武鉄道時代の御茶ノ水駅は今の駅の西側、お茶の水橋の西にあった。御茶ノ水駅が終点手、御茶ノ水~八王子間が甲武鉄道だった。

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2016年11月16日 (水)

池田坂(千代田区駿河台)

JR御茶ノ水駅の聖橋口と御茶ノ水橋口の間の丁字路から南へ下る坂を池田坂という。 池田坂の坂下には太田姫神社があるが、元は聖橋口の淡路坂坂上の神田川の畔にあった神社である。 室町時代後期の武将太田道灌の娘が天然痘に罹り苦しんでいた折、京都の一口(いもあらい)神社に祈願したところ回復したのでここに一口神社を勧請して建てられた神社で、明治になってから太田姫神社と名を変えた。

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坂上に近い日本大学歯学部の脇に標柱がある。「この坂を池田坂といいます。名称の由来は、この辺りに池田姓の旗本が屋敷を拝領した為と言います。『新撰東京名所図会』には「池田坂は北甲賀町の中央にあり、駿河台より小川町に通ずる坂路なり。其の昔、坂の際に池田氏の邸宅ありしより以て名とす。一名を唐犬坂といふとぞ。『新撰江戸志』には唐犬坂とありて、むかし池田市之丞殿屋敷に唐犬ありし故、坂名とすと見たり」と書かれています。大名・旗本の系譜である「寛政重修諸家譜」によれば、この家は池田政長という人物に始まる九百石の旗本と考えられる。」と書かれている。

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昨今は大学の建物もハイセンスなインテリジェントビルになっているところが多く、写真のガラス張りの建物は日大理工学部である。現在は池田坂も緩やかな坂だが、昔は急な坂だったらしい。

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坂の途中に「お茶の水仲坂」という石碑があった。 混乱したが、調べてみると町内会で近年設置したものらしい。 やはりここは池田坂である。

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2016年11月15日 (火)

観音坂(千代田区駿河台)

23区内で観音坂という名の坂は渋谷区千駄ヶ谷と新宿区四谷とここの3ヶ所。 観音があればそう名付けそうなものだが意外と少ない。 稲荷坂は9ヶ所もあるのにとは思うが、寺社仏閣を歩いてみるとやはり稲荷は圧倒的に多い。 民家の庭先にも稲荷がたくさん祀られている。 私の生家も明治から昭和までは稲荷信仰で、国鉄運賃がタダの7歳までは祖母に毎月津和野の太鼓谷稲荷神社に連れて行ってもらった記憶がある。 しかし同時に曹洞宗のお寺にも灯篭などを寄進していたから、稲荷信仰一本だったわけではなさそうだが。

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新坂の1本南側の道が観音坂。 ここも短い坂だが、神田から駿河台へ上る。 坂上で道は少し南に角度を変えている。 坂上の北側には小さな観音様が鎮座している。 これが坂の名の所以である。

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標柱には、「この坂を観音坂といいます。『東京名所図会には、〝新編江戸志に、観音坂は埃(ゴミ)坂の並び、むかし芝浦観音寺やしきありし故に名づくなりとみゆ。此の坂の上観音院と称する仏刹ありしことは寛永の古図を見ても知らるべし。新編江戸志に観音寺とあるは観音院の誤りなるべし″と書かれています云々」とあるがこの祠がその観音寺だったかどうかは疑問である。 *埃(ごみ)坂とはニコライ堂前の紅梅坂の別名

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しかしどんなにビルが立ち並んでも、神田と駿河台の高低差は隠せない。 前述の幽霊坂、紅梅坂、新坂、観音坂ともにその地形をしっかりと主張している。

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2016年11月14日 (月)

雁木坂(千代田区駿河台)

現在東京23区に雁木坂は二つ(だと思う)。 横関英一氏が1981年に出した『江戸の坂東京の坂』には4坂が載っているが、霊南坂教会のところの雁木坂もなくなり、赤坂紀州邸(現赤坂御所)内の雁木坂は知る由もない。残るは飯倉の雁木坂とここの雁木坂のみである。

雁木とはもともと川や海から荷を揚げるために作った船着き場の階段状の部分や、城郭の中にある石垣や土塁に上るための階段をいう。雪国の古来のアーケード風の雪除けの屋根も雁木というがそれは別の由来がありそうだ。

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しかし駿河台の雁木坂はどこに坂があるかわからないくらいの微坂だった。 標柱がなければ決してここが坂道だとは気づかない。標柱によると、「この坂を雁木坂といいます。今はその面影はありませんが、昔は急な坂で雁木が組まれていたといいます。雁木とは木材をはしご状または階段状に組んで登りやすくしたもので、登山道などにみられます。『新撰東京名所図会』には〝駿河台西紅梅町と北甲賀町の間を袋町の方に行く坂を雁木坂と称す。慶応年間の江戸切絵図を見るに、今の杏雲堂病院の前あたりに「ガンキ木サカ」と記されたり″と書かれています」とある。

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高低差を表す段彩陰影図を見ると、この辺りは小さな谷になっていて、今はビルを建てるのに平坦地に均されてしまっているが、裏手の錦華坂から明治大学に向けて上り、そこから吉郎坂にみられるように急に下り谷底。その先でまた急な登り、今ある本郷通りの東で再び下るという半島の先の牛の蹄のような峪の地形だった。 林立するビルの基礎に平らに均されてしまって跡形はないが、そういう地形が江戸以前にはあったはずである。

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2016年11月13日 (日)

新坂(神田駿河台)

東京のあちこちに新坂という名前の坂がある。 しかしどの新坂も実は古い。 江戸時代に新しく作られると、江戸っ子は面倒くさがりだったのか、ええぃままよと名付けてしまったので同じ名前の坂があちこちにあるのかもしれない。 その傾向は江戸以降も続き明治時代や大正時代の新設の坂も新坂と呼ばれることがある。

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駿河台の新坂は短い。 せいぜい30mほどあるだろうか。 幽霊坂からワテラスタワーを挟んだ南側の道である。 江戸時代はこの場所は阿部主計頭(あべかずえのかみ)の屋敷で道路ではなかったが、明治維新後に駿河台へ上る道として開かれた。

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ビルの谷間に公園があってオアシスっぽい。 駿河台と淡路町の町境は本郷通りになりそうなものだが、本郷通りに境界線は皆無。 境界線はこの新坂の坂上を南北に走る道になっている。 つまりもともと在った街を壊して本郷通りを作ったのである。 江戸期までさかのぼるとこの境目は台地の東の端、ここから神田に向かって土地は落ち込んでいくので、その際を境目として来たのだろう。

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2016年11月11日 (金)

紅梅坂(千代田区)

先週幽霊坂(千代田区駿河台)について書いたが、紅梅坂は本郷通りに分断された西側の残りの坂道である。坂道の途中にある標柱には次のように記されている。
「この坂を紅梅坂といいます。このあたりは紅梅町と呼んでいたのでこの坂名がつきました。淡路町に下る幽霊坂とつながっていましたが、大正13年(1924)の区画整理の際、本郷通りができたため二つに分かれた形になりました。『東京名所図会』には〝東紅梅町の中間より淡路町二丁目に下る坂あり。もと埃坂と唱えしに、維新以後、淡路町の幽霊坂と併せて紅梅坂と改称せり″と書かれています」
微細な部分は諸説ありだが、こちらはほんの十数mの坂道が残るだけである。

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紅梅坂の南側には有名なニコライ聖堂がある。 ビザンチン様式のドームが特徴的で、ギリシャ正教会の日本の総本山。明治の中頃、ニコライ大司教が建設したのでその名がある。なかなか見栄えと特徴のある建物なのだが、江戸時代はこの場所は定火消の屋敷があったところ。 ロシアから来たニコライは明治に入って1872年にこの土地を購入し拠点とした。

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関東大震災(1923)にはドームが崩落したがその後1929年に再建された。昔は高いビルがなかったのでどこからも見える聖堂だったが、現代になってしまってはビルに埋もれた感があるものの、近くに行くとなかなかの存在感がある。
 

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2016年11月 6日 (日)

ネッコ坂(渋谷区)

ハイカラ(死語かも)でハイセンスな若者で賑わう表参道の裏道にもいい坂道がある。もともと公団住宅や公務員宿舎が比較的多かったのがこの界隈。ネッコ坂も紀伊國屋脇の骨董通りから続く路地を入っていったところの旧公務員住宅脇を下る。

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この辺りになると人通りも少なくなるが、それでも表参道神宮前だけに裏路地の洒落たお店はぽつぽつとある。今は完全な裏通りだが、明治の頃までは目黒方面から富ヶ谷の代々木八幡社への幹線道路だった。表参道の大通りは明治神宮の参道だが建設されたのは大正9年(1920)で、明治時代はこっちが主要道路だったのである。

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坂は緩やかにまっすぐに下っていく。 道は時代とともに変わっていき、百年二百年経つと賑わっていた通りも移動してしまったりするのだが、そういう変遷をこの道を歩く人の誰が知っているだろうか。 その時空を往来できるのがこういう道の楽しみの一つでもある。

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道の傾斜が少し急になると、道筋は曲がってくる。 この曲がりが根っこに似ているので「ネッコ坂」というという説がある。 レトロなアメ車のバンがあってとてもお洒落。 さらに下って突き当りの丁字路を左右と行くとかつての渋谷川の流れ、キャットストリートに出る。下の写真はその丁字路から坂上を望んだもの。

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キャットストリートに出るとそこにはかつての古い流れ後の脇の路地がある。 昭和になって洪水を防ぐ目的で渋谷川をまっすぐに付け替えた。 その昭和の護岸跡の手すりにはキーチェーンで何台もの自転車が違法駐輪されている。 すぐ先は昔の参道橋で、参道を渡ると表参道ヒルズ。 昔は隠田村の水車小屋だったことは少しだけ知られて来ているようには思う。
ケヤキ並木にはイルミネーションが張り巡らされていて、なんとなくサイボーグチック。 やはり樹木はそのままに、地面からライトアップしてほしい。 それが樹木へのささやかな思いやり。

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2016年11月 3日 (木)

幽霊坂(千代田区駿河台)

幽霊坂と呼ばれる坂はいくつもある。 千代田区内にも2坂、駿河台と靖国神社裏にある。 屋敷林に覆われて暗い坂は概ね幽霊坂とか闇坂、暗闇坂などと呼ばれたケースが多い。 この駿河台の幽霊坂はとても明るい。ワテラスタワーとソラシティの間の綺麗な坂道である。

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坂の上をガラスの渡り廊下が通る近代的というよりも未来的な風景だが、江戸時代には紅梅坂から続く暗い坂道だったようだ。 坂名の標柱には以下のように記されていた。

「この坂を幽霊坂と言います。もとは紅梅坂と続いていましたが、大正13年(1924)の区画整理の際、本郷通りができたため二つに分かれた形となりました。『東京名所図会』には〝紅梅坂は往時樹木陰鬱にして、昼尚凄寂(せいじゃく)たりしを以て俗に幽霊坂と唱えたりを、今は改めて紅梅坂と称す。″と書かれています。また古くは光感寺坂(こうかんじざか)とも埃坂(ごみざか)などとも呼ばれていたこともあるようですが、一般には幽霊坂の名で通っています。」

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なるほどここで折れているのは元の道ではなく真っすぐにニコライ堂の前の道につながっていたのかと納得。 しかし本郷通りを挟んだ紅梅坂は少しズレているのがやはり疑問である。そこで古地図を調べてみると、江戸時代の道はちゃんとここで折れ曲がって、クランクになって紅梅坂につながっていた。

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