皀角坂(千代田区)
駿河台の西の端、中央線の線路沿いに水道橋へ下る道が皀角(さいかち)坂である。 駿河台は本郷台地の先っぽ。伊達政宗の掘った神田川沿いに走る中央線沿いが高低差が判りやすい。 下の段彩陰影図で台地の形がよく分かるが、東の端が淡路坂、西の端が皀角坂。
元々神田川は上手の下に流れる現日本橋川が流れの筋だったのを、徳川家康が伊達政宗に命じて本郷台地を掘削して隅田川に流すようにした。水道橋から御茶ノ水、秋葉原への流れは人口の川。今回は台地の西端の坂を下るけである。
鉄道はあまり急な高低差を取れないので切通しやトンネルになるが、道路は多少の勾配は構わず道になる。この坂の中腹に神田上水掛樋跡がある。神田上水は江戸の上水の大元。 神田川上流から取った水は小石川の水道道路沿いに作られた上水を流れ、ここで神田川を渡る。つまり水道橋である。
写真は水道博物館にあった明治初期の掛樋の写真。 江戸時代は今の工芸高校と昭和第一高校および桜蔭高校の間を上水が流れ、この水道橋で神田川を渡り江戸の町内へ飲み水を供給した。坂の途中に説明板がある。
「江戸時代この辺りには、江戸の上水の一つである神田上水が通り、また神田川を越えるための掛樋が設けられていました。 神田上水は江戸で最も早く整備された上水と言われます。徳川家康は、江戸への入府に先立って家臣の大久保藤五郎に上水の開削を命じ、大久保は1596年~1615年にこの整備に着手します。井の頭池、善福寺池、妙正寺池からの水を集めて、現在の文京区関口あたりで堰を設けて上水を分水し、余水は神田川として流しました。
上水は、小日向台から小石川後楽園を通り、神田川に達します。神田川を越えるため、水道橋の少し下流から、この辺りで掛樋で渡したといいます。(以後省略)」
この水は東京駅から北側の地域に供給されていたようです。
掛樋のあたりに町内会が作ったと思われる石碑があったが、「ち」から下の部分が歩道のタイルに埋もれてしまっていた。昔は「さいかち坂」という文字が全部出ていたのだが、少し掘り起こせばいいのに。
坂名の由来は坂の途中にあった標柱に記されていた。「この坂を皀角坂といいます。『新撰東京名所図会』には「駿河台鈴木町の西端より土堤に沿いて、三崎町の方に下る坂なり」と書かれています。名称においては『新撰江戸志』に「むかし皀角樹多くある故に坂の名とす。今は只一本ならではなし」と書かれています。」とある。
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