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2016年12月31日 (土)

善国寺坂(千代田区麹町)

地下鉄麹町駅(営団有楽町線)は日本テレビ通りの下にある。 南側を東西に新宿通りが走る。 この交差点が麹町四丁目交差点。 江戸期以前は新宿通りの北側に沿って川が流れていた。 下の写真の道路の一番低いあたりに流れていただろうと思う。 麹町の坂はこの川の削った傾斜地にある。 日テレ通りのこの坂は善国寺坂と呼ばれる。

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坂上に近いところにある標柱の記載は、「この坂を善国寺坂といいます。 『新撰東京名所図会』には「善国寺坂、下二番町の間より善国寺谷に下る坂をいう。 昔、此処の坂上に鎮護山善国寺にありしに因り名づく」鎮護山善国寺は標識の場所から見ると、右斜め前の辺りにありましたが、寛政10年(1798)の火事により焼失して牛込神楽坂に移転しました。 坂下の当たりは善国寺谷、また鈴降(振)谷と呼ばれたといいます。」と記されている。

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善国寺谷は別名地獄谷(樹木谷)と呼ばれていたこともあるようで、江戸期以前には低湿地で暫罪場や死体遺棄場があって、骸骨が打ち捨てられていたような場所だったらしい。 その周りは江戸期になっても屋敷の建たないエリアが多かったものの、表通り(今の新宿通り)には商家も立ち並びそれなりに人通りはあったが、裏地はずっと火除け地であった。 おそらく有楽町線の工事の折にはたくさんの人骨が出たに違いない。 (上の古地図は左が北になっています)


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2016年12月30日 (金)

三年坂(千代田区市ヶ谷)

前述の新坂は明治末期に開かれた道だったが、三年坂は江戸期からある坂道である。 三年坂という名前の坂は東京に6ヶ所ある。別名を三念坂という。江戸時代に三年坂とついた坂には、そこで転んだ者は3年以内に死ぬという迷信を伴っていた。しかし元々三年坂は寺や墓地のそばにある坂につけられた名称だったので、そういう話が伝わったものと思われる。

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この辺りは江戸期には土手三番町といいその後五番町と名を変えた。 その昔はここに三念寺という寺があった。その寺の場所の坂道なので三念寺坂>三念坂>三年坂と変わっていったようだ。三念寺は本郷に移転した。壱岐坂南側の水道博物館の脇に今もある。

 

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2016年12月29日 (木)

新坂(千代田区市ヶ谷)

JR市ヶ谷駅から麹町方面への道路は南に向かって上り坂になっている。 これを新坂と呼ぶが、江戸期の坂ではなく明治末期に開かれた坂道。 それ以前は隣の路地である帯坂がメインだった。 今の外堀通りから日テレ通りへと繋がる道はかつて武家屋敷の敷地だったところに、市谷御門から麹町に続く道に繋げるのに斜めに通したのである。

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従って此の坂には特にこれといった話はないが、坂上の標柱には以下のように記されていた。「この坂を新坂といいます。新しく造られた坂ということでしょう。明治29年(1896)11月発行の『東京市区改正縮図』には三等道路として開発が計画されていますが、工事は未着工のまま時を過ごしています。明治39年(1906) 陸軍参謀本部による地図にも まだ開かれた様子がみられません。明治44年(1911)の東京逓信局編集による『東京市麹町全区図』には記載されています。この頃開発されたものでしょう。」

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それ以前は帯坂と三年坂を短辺とした長方形の区画の住宅地だったのである。東京の市街地の地図を見ているとこの新坂のような周りの街並みとは異質な通りがあったりするが、おおむねそれらは歴史の新しい道だという事が多い。 江戸期からある新坂も多いが、ここの新坂は本当に新坂だった。
 

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2016年12月28日 (水)

帯坂(千代田区市ヶ谷)

市谷の駅の近く、日本棋院がある路地が帯坂。 現在はほとんど傾斜を感じない道になっているが昔はそれなりに傾斜があったのだろう。江戸時代は切通しになっていたらしく、切通坂の別名がある。

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左のビルは日本棋院といい、囲碁の総本山。 『ヒカルの碁』全盛期にはここも聖地として訪問されたのだろうか。 しかしこの坂を帯坂というのには有名ないわくがある。 その辺については写真右の標柱に記載されていた。
「この坂を帯坂といいます。名称は歌舞伎で有名な番町皿屋敷の旗本、青山播磨の腰元お菊が、髪を振り乱して帯を引きずって逃げたという伝説によります。 また一名切通し坂ともいわれたのは、寛永年間(1624~1643)外堀普請の後に市谷御門へ抜ける道として切通されたのでその名がつけられたといいます」

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しかし実はここに青山播磨の武家屋敷があったという歴史はない。歌舞伎の話は盛りに盛って創作されるのでまあそんなものだろう。日本棋院会館の向かいの自動車会館というのにも興味がわいたが、ここは自動車会館という組織が持っている会議室ビルだった。本館は芝にあり、トヨタの会長と日産の会長がヘッドを務める組織。
この道は今は路地だが江戸時代は市谷御門からまっすぐに伸びたメインロードだった。この周辺一帯には多くの武士が住んでおりどこを見ても武家屋敷という風景だったようだ。
 
 

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2016年12月27日 (火)

富士見坂(千代田区九段)

靖国神社の真裏に朝鮮総連があるというのもいささかきな臭いものがある。 周りは機動隊があちこちに立っている。 気楽な散歩というわけにはいかない。 気を取り直して靖国神社の北側の塀沿いの道を西へ進む。

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この坂は富士見坂という。 千代田区だけで3つの富士見坂がある。 永田町と駿河台とここ九段である。 方角を調べてみると本当に正面に富士山がずっと見られるのはこの九段の富士見坂だけのようだ。 両側の石垣も雰囲気がいい。 文字のかすれた標柱には次のように書いてあった。

「この坂を富士見坂といいます。 同名の坂は各地にあり、千代田区でも3ヶ所を数えます。もともと富士見町という町名は富士山がよく見える台地に作られた町ということでしょう。昔はこの坂から富士山の美しい姿が見えたことによりその名がつけられたということです。坂の下で一口坂(いもあらいざか)と合流します。」

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道の南側は靖国神社、北側は法政大学、その先の南側は三輪田学園なので、この景色は当分変わることはないだろうと思う。 雰囲気のあるいい坂なので、警察がいなくなったらゆっくりと味わいたいものだ。

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2016年12月25日 (日)

幽霊坂(千代田区)

東京大神宮の道を西に進み、サクラテラスの裏を行くと角川書店の別館ビルがあり、そこを左折すると幽霊坂になる。

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右手の民家の植え込みが影を落としていて、若干暗い。 江戸期には武家屋敷の林に囲まれてどの道も暗い道だったので幽霊坂と呼ばれるようになったらしい。 しかしこのエリアはどの路地の坂道もすべて幽霊坂という不思議なエリアである。

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最初の路地は角川本社ビルの手前を下る二つ目の幽霊坂。 角川のビルの間になっていて今はとても明るい坂である。どうも幽霊坂の名前のイメージからは程遠い。道をそのまままっすぐに進み、次の路地に入ろうとすると簡易版の車止めがあった。 これが三番目の幽霊坂である。

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地主坂井と書かれているといじわる地主のようなイメージが湧いてくる。 しかし何かの被害を受けたのだろう。 それでこのような対応に出たのかもしれない。 公道と私道の見分けは普通つかない。 役所の図面を見ないとわからない。 この辺は私道は舗装を変えるなどしないと、地主が加害者と思われても仕方ない雰囲気がある。

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この三番目の幽霊坂が最も幽霊坂らしい。わかりにくい幽霊坂エリアなので、一度では理解しにくいが、路地の折れ曲がり方などは江戸の雰囲気を残している。 坂上に戻ると正面は元衆議院宿舎だったが今は広場になっている。その向こうに立つのは郵政省の宿舎。その北隣は有名な朝鮮総連のビルである。そのためか朝鮮総連ビルに入る広い路地には警察車両が何台も止まっていた。 ここを古地図で見ると蛙坂と記されている。 しかしまったく坂ではないので古地図のミスかもしれない。

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2016年12月24日 (土)

二合半坂(千代田区)

冬青木坂の坂上を飯田橋方面に向かう道がある。 暁星中高と小学校の間を下っていく。 この坂は二合半坂という。 面白い名前だ。

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坂の中腹に標柱がある。「この坂は二合半坂と呼ばれています。名前の由来は諸説あります。『再校江戸砂子』という史料には、日光山が半分見えるためと書かれています。何故日光山が半分見えると二合半坂となるのでしょう。この事について『新撰東京名所図会』という史料での考えを紹介しましょう。富士山は麓から頂上までを十分割して一合、二合と数えますが、西側に見える富士山と比べると日光山はその半分の高さ(五合)に見え、その日光山がこの坂からは半分しか見えないので五合の半分で二合半になるという考えです。 この他に、あまりに急な坂であるため一合の酒を飲んでも二合半飲んだ時のように酔ってしまうからという説もあります。」と書かれている。

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現代の坂の様子もまあ急といえば急な部分もある。もともとこの坂は踊り場がある構造の二段の坂になっている。 それが下の写真でよくわかると思う。

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この形と坂の名前とは関係ないが、上記以外にもいくつかの説がある。江戸の坂名はシンプルなものも多いがこのように理由がわからないものもある。それを想像するのもまた面白い。

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道は西に向かってカーブすると再び急な下り坂になる。 坂を下り右左と曲がると東京大神宮というたいそうな名前の神社がある。 若い女性たちが間違った情報をきっかけに縁結びの神社という話が広がって、神社もそれに乗っかって商売している感じの神社なのだが、その辺のゆるゆるなところが日本の宗教法人らしくていい。

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2016年12月23日 (金)

冬青木坂(千代田区)

前回の九段下中坂の坂下には江戸時代滝沢馬琴が住んでいた。「南総里見八犬伝」はここで執筆された。その坂下を左折して次の路地を左折、ホテルグランドパレス脇を進むと間もなく上り坂になる。

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直線だが江戸時代からある坂で冬青木坂(もちのきざか)という。謂れはちょっと怪しく通り沿いの武家屋敷に常盤木の大木があり、これを見間違ってモチノキ坂と名づいたという説がある。

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坂上に近いところにある標柱の説明書きはこう書いてある。「この坂を冬青木坂といいます。『新撰江戸志』には「此処を冬青木坂ということを、いにしえ古び足るもちの木ありしにより所の名といえど左にあらず、此の坂の傍らに古今名の知れざる唐めきて年ふりたる常盤木ありとぞ。目にはもちの木と見まがえり。此の樹、先の丙午の災に焼けて再び枝葉をあらはせじとなん。今は磯野氏の屋敷の中にありて、其記彼の家記に正しく記しありという」とかかれています」

う~ん、やはり怪しい。どうもはっきりしないので誰かが後世にそういうネタを仕込んだ感じがする。

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北側の石垣の風情がよい。並ぶ3本の坂、九段坂、中坂、冬青木坂のなかでは冬青木坂が一頭秀でている。

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2016年12月 1日 (木)

中坂(千代田区九段下)

東京23区に中坂は5ヶ所(以上)ある。千代田区にも2ヶ所。九段下の中坂は九段坂と冬青木坂(モチノキザカ)の間にある。ここは20年近く昔、長女の中学校の下見に和洋九段女子中学校を訪問したことがある。ちょうどその中学校の前に、硯友社跡の説明板があった。明治時代の文学結社で「我楽多文庫」を発刊、中心人物は尾崎紅葉。

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九段坂も中坂も冬青木坂も江戸時代からあった坂道。周辺はすべて武家屋敷だったがこの3本の坂に挟まれた一角だけは町屋だった。坂の途中には築土神社がある。祭神は平将門。太田道灌が北西の鎮守としてここに造営した。

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坂上にある標柱には、「この坂を中坂といいます。「御府内沿革図書」によると,元禄三年頃(1690)までは武家地となっており坂はできていませんが,元禄十年(1697)の図以降になると 中坂が記載され,元禄十四年(1701)以降の図には世継稲荷神社もみることができます。なお,「新撰東京名所図会」には「中坂は,九段坂の北方に在り。もと飯田坂といへり。飯田喜兵衛の居住せし地なるに因れり中坂と称するは,冬青(もちのき)坂と九段坂との中間に在るを以てなり。むかし神田祭の山車等は,皆此坂より登り来れるを例とせり。」とかかれています。」とある。

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きれいな舗装路となった現在でもなかなかの勾配。坂を下りきると目白通り。この辺りで聞くと違和感があるが、九段下から谷原の先の関越入口までが目白通りなのだ。

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