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2017年1月22日 (日)

清水谷坂(千代田区)

清水谷は興味深い地形である。 赤坂見附交差点から上智大学方面へまっすぐに切れ込んだ谷がいつ頃出来上がったのか、そして真田濠を掘るより以前もこの地形だとすると、比較的豊かなこの谷の水源はどうなっているのかなど、疑問がわいてくる。

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上の地図を見るとこの谷がそんなに水を湛えるようにはどうしても思えないのだが、谷の切れ込み方はかなり急なので、(個人的な推測だが)真田濠が掘削される以前は四ツ谷周辺の雨水を集める小沢がたくさんあったのだろう。

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坂の途中に標柱がある。標柱の手前は参議院麹町宿舎で警察の詰所がある。いつもながらに警察が守るのは権力側であって国民ではないというのを感じてしまう。 この位置に戦前の地図を見ると神社があったようだが今は影も形もない。道路の反対側にはセンテンススプリング!そう、文藝春秋社がある。 かなり昔からここにあったように思う。

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標柱に記されていたのは次のようなことだった。「この坂を清水谷坂といいます。元禄四年(1691)の地図を見ると、麹町通りから直接下る坂のように見えますが、それ以降の地図はほぼ現地形と合っているようです。別の名シダニ坂ともシタン坂ともいわれるようですが、いずれも清水谷が変化したものとされています。坂下を南北に走る道筋が清水谷で、そこで喰違見附へと上る紀尾井坂に繋がっています。」

緩やかにカーブした坂の風景は悪くない。ただビルが多すぎて風景としては坂を感じにくい坂である。

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2017年1月21日 (土)

紀尾井坂(千代田区)

ホテルニューオータニの北側、上智大学との間にあるのが紀尾井坂。 あたりを紀尾井町というが、由来は紀伊家、尾張家、井伊家の屋敷があったのでその頭文字を重ねたという江戸らしい粋な名付けである。坂上の土手部分は喰違いと呼ばれ、外堀から内側に入ろうとするときにはこのクランクを通られねばならず防御の施設となっていた。

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江戸防御の点で作られた喰違だが、江戸時代武家屋敷に囲まれてうっそうとした場所だったこともあり、このクランクは刺客が潜んだりするのに適していてむしろ怖れられていた場所でもあったようだ。 実際に明治になってからこの辺りでは岩倉具視が襲われ堀に飛び込んで助かった話や、坂の下の清水谷では大久保利通が襲われて命を落としている。 今は明るくきれいな坂道だが、当時を想像するとまた違う景色が現れる。ちなみに食違の四ツ谷側は今は上智大学のテニスコートになっているが、戦前までは真田濠という外堀の一部だった。南側は今も弁慶掘。

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紀尾井坂はニューオータニに出入りするタクシーが目立って多い。また散歩する西洋人も多く見かける。今はニューオータニ出入口から清水谷へ下る道が紀尾井坂と呼ばれているが、ここを清水坂と呼んだ時代もあるようだ。 今は清水谷から麹町へ上る坂を清水谷坂と呼ぶが、別説では坂下の交差点から上智大の東側を登る坂を清水坂と書いた文書もあるらしい。

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坂の途中に標柱がある。「この坂を紀尾井坂といいます。『新撰東京名所図会』には「喰違より清水谷公園の方へ下る坂を称す。」「喰違内坂を紀尾井坂といふ、蓋し此の坂の両側に紀州、尾州、井伊三公の邸宅ありしが故に、各頭字を取り名とせるものなりといふ。」と記されています。この辺りが紀尾井町といわれているのも左記の理由からです。また坂下が清水谷なので清水谷坂の別の名もあったといいます。(以降略)」

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地形図では弁慶掘の水はほぼこの清水谷の沢水だろうと想像できる。そして北側の真田濠は台地を深く削って作られたであろうことが見て取れる。実際は江戸城外堀は伊達、上杉、真田らが協力して作ったようであるが、真田の名前だけがここに残るのは何故だろうか。 また外堀を作った主な大名が大河ドラマ『真田丸』のメインキャストである、伊達政宗、上杉景勝、真田信之だったというのは面白く、三谷幸喜はこのことを知っていたのだろうと思う。

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2017年1月14日 (土)

東郷坂(千代田区)

法眼坂シリーズ?の最後の坂は東郷坂。 麹町から市ヶ谷方面へ向かうと、南法眼坂で上り、行人坂で下り、東郷坂で再び上る。

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この断彩陰影メッシュのデータは地形を理解するのにとても役立つ。3つの坂がなぜ上り下りを繰り返すのかが一目瞭然である。

東郷坂も中腹に標柱があり、次のように記されていた。「この坂を東郷坂といいます。東郷元帥邸の西側に当たるこの坂は、明治38年(1905)10月、当時の麹町区会の議決により命名されたといいます。昔は東郷坂のところを法眼坂、それから南法眼坂に続いていたといいますがはっきりしていません。今は東郷坂、法眼坂(行人坂)、南法眼坂の3つの名に分かれていますが、古い地図を見ると「法眼坂」のみ書かれています。」

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坂の東側は公園になっていて、『東郷元帥記念公園』と名付けられている。 日露戦争でロシアのバルチック艦隊を駆逐した名将東郷平八郎(1847~1934)はもともと薩摩藩士で、世界に名をとどろかせた。そのせいか戦後になってもアメリカではグレート東郷という日本人プロレスラーがヒールとして大人気となり活躍した。


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2017年1月13日 (金)

行人坂(千代田区)

法眼というのは僧侶の地位(僧位)の一つだが、仏教用語では菩薩が人々を救うために一切の法門を照見する眼のことを言うらしい。 悟りとは縁遠い私にはよくわからない。一方行人は仏門で修業をする人(行者)の意味で、どうもこの辺りは仏門にちなむ坂名が続く。

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南法眼坂を登りきるとその先は平坦で次の交差点から下りになる。これが行人坂である。坂の途中に千代田区の設置した標柱がある。

「この坂を行人坂といいます。『新撰東京名所図会』には「行人坂、上六番町と中六番町との間を南のほうに下る坂を称す」と書かれています。また『御府内備考』にも「行人坂、古某法印と称する行人この辺りに居する故にこの名あり。また法印坂とも呼びあるいは転化して法眼坂という」とあります。もともと一連の坂を起伏により、東郷坂、行人坂、南法眼坂と三つの名に分けて呼んだものであり、法眼坂だけの名前の地図も多いようです。」

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行人坂といえば目黒の行人坂があまりにも有名なので、この坂はその名から思い起こすことはほとんどない。法眼坂でよかったのではないだろうか。

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2017年1月12日 (木)

南法眼坂(千代田区)

大妻女子大前から南へ一番町の交差点まで戻り右折、最初の路地を右折するとまっすぐな上り坂。 南法眼坂である。ここから北の東郷公園までの道は上り下りを繰り返す。番町地域がいくつもの沢筋でできていることがわかる地形である。



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上の写真の左の屋敷は王子ホールディングスの保養施設らしい。なかなかの庭がある日本建築のようだ。 坂の途中に標柱があった。



「この坂を南法眼坂といいます。この坂の北に法眼坂があるためにその名がつけられたのでしょう。坂の下は三丁目谷と呼ばれています。 法眼の名は、『紫の一本』に斎藤法眼という人の屋敷、この坂の脇にありと書かれています。法眼とは僧の階級の一つであり、また江戸時代、医師、絵師、連歌師などに授けた称号のことです。」



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今はマンションが多い都心の住宅地だが、江戸時代は武家屋敷の立ち並ぶ街並みだった。 江戸城まで極めて近いので、多くの武士が屋敷から江戸城に通勤していたのだろう。その姿を想像するのもまた面白い。

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2017年1月 9日 (月)

御厩谷坂(千代田区)

面白い名前である。 大妻女子大の千代田キャンパスと大妻中学校の間の坂道。 このエリアは西から東へいくつかの沢が谷を形成した地形になっていて、交差点ごとに峰と谷を繰り返す。大妻女子大の由来は創始者が大妻コタカ女史だったというもの。大学名に個人の名前を冠するのは意外と少ない。比較的大きな大学で有名なのは津田塾大学(津田梅子)くらいしか思い出せない。

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坂下に近いところに標柱がある。「この坂を御厩谷坂といいます。『新撰東京名所図会』には「一番町と六番町の間、すなわち井伊家邸前より南のほうに係れり。厩谷もと御厩谷という。むかし徳川将軍池の厩舎ありしに因り此の名あり。」と記され、『新撰江戸志』にも「今も紅梅勘左衛門殿屋敷に御馬の足洗いし池残りてあるなりというと見えたり」とあります。御厩谷にかかる坂という事により坂名となりました。」とある。

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2017年1月 8日 (日)

鍋割坂(千代田区千鳥ヶ淵前)

五味坂をそのまま進むと千鳥ヶ淵の戦没者墓苑に入っていく。 靖国神社と並ぶ戦没者を祀る場所。 靖国に行ったらぜひここにも立ち寄ってもらいたいものだ。多数の身元不明の戦没者はこちらに眠っている。 その前は桜で有名な千鳥ヶ淵。

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対岸は北の丸公園。 千鳥ヶ淵は江戸前期、番町の台地から流下していた局沢川(つぼねさわがわ)を堰き止めて作られた。 この川は前述の善国寺坂から出てくる谷筋の川である。 今日、番町界隈を歩いて川を感じる人はまず居ないだろうが、それをイメージできると俄然街が面白くなる。

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戦没者墓苑の北側に千鳥ヶ淵の貸ボード場がありその脇から西に繋がる路地が鍋割坂。坂上の標柱には次のように記されていた。「この坂を鍋割坂といいます。『新撰東京名所図会』には「堀端より元新道一番町の通りへ上る坂なり。」と書かれています。同じ名称の坂は各地にありますが、どれも伏せた鍋(台地)を割ったような坂であることからその名がつけられています。千代田区隼町の国立劇場の北側のところにも同名の坂があります。」

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坂上を抜けると再び下って二松学舎大学の道になる。確かに形は伏せた鍋のようである。 この標柱の千鳥ヶ淵側にはかつてフェアモントホテルがあった。昭和26年(1951)からGHQの要請で作られ、主に外国人向けホテルとしてその部屋からの素晴らしい景観を誇っていた。 ユーミンの「経る時」(REINCARNATIONに収録)の歌詞に出てくるティールームはこのホテルにあったブラッスリー・ドゥ・ラ・ヴェルデュールがモデルらしい。♪水路に散る 桜を見に さびれたこのホテルまで♪

このホテルは2002年1月に閉館した。 曲のリリースは1983年だから、その頃にはもう寂れたホテルになってしまっていたのだろうと思うと、戦没者墓地と合わさって時代が変わっていく寂びを感じてしまう。

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2017年1月 7日 (土)

五味坂(千代田区)

袖摺坂の坂上に滝廉太郎の居住地跡の説明板がレリーフとともにある。 滝廉太郎(1879~1903)は日本人なら誰もが知る作曲家で、「花」「荒城の月」「お正月」「鳩ぽっぽ」などの唱歌を多数作曲するも24年という短い生涯だった。

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ここに暮らしていたのは15歳~22歳の間で、その後ドイツに留学した時期に病にかかり帰国して他界したが、ここに住んでいた時代にほとんどの名曲を作曲したらしい。滝廉太郎の住居跡は交差点の南西角だが、ここから東に下っていく坂が五味坂。 五味坂の由来は昔の南五番町と上二番町を結ぶので五二坂と呼ばれ、それが五味坂に変わったという説があるが、定説ではなく江戸の町のあちこちにあったゴミ捨て場だったことからゴミ坂、五味坂と呼んだという説もある。

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坂の途中の標柱には次のように書かれていた。「この坂の名前は五味坂と言います。「ごみ」という名前から「芥坂」や「埃坂」の字をあてたり、その意味から「ハキダメ坂」と呼んだり、さらに近くにあった寺院の名から、「光感寺坂」「光威寺坂」と呼ばれ、さらに「光感寺坂」がなまって「甲賀坂」とも呼ばれたといいます。『麹町区史』には、「由来は詳らかでないはないが、光感寺が元とすれば、甲賀は光感の転化らしく、ごみは五二が転化したものではないか」という内容の説明があります。つまり坂の辺りは「五番町」で坂を上ると「上二番町」なので二つの町を結ぶ坂として「五二坂」と名前がつき「五味坂」に変わったのではないかということです。ちなみに、昭和13年(1938)に実施された区画整理の結果、「五番町」と「上二番町」は現在では「一番町」に含まれています。

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ちなみに袖摺坂の通りを真っすぐに大妻女子大方面へ進むと右手に「五味坂交番」がある。しかしそこは五味坂ではない。 交番の場所が名付けにくい場所だというのはわかるが、住所に合わせて三番町交番とすべきだと思う。

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五味坂は昔は傾斜のあった坂らしいが今は一部しか勾配はない。 坂をくだると右手に英国大使館の塀が見えてくる。 この塀の脇の坂のほうが魅力的な景色なのだが無名坂。「イギリス坂」とでも名付けたい気分になる。

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2017年1月 4日 (水)

袖摺坂(千代田区)

永井坂を下ると少し角度を変えて道は上り坂になる。 今は歩道付きの2車線の広い道だが、江戸期はこの永井坂の坂下から急に狭まり上りの袖摺坂になっていた。江戸で袖摺坂と呼ばれるのはここと神楽坂の2ヶ所である。 前の坂の時も書いたがここは江戸時代以前は川が流れていたところ。 それで標高がもっとも低くなっている。 その川はそのまま今の千鳥ヶ淵に流れ込み日比谷入り江に流出していた。

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袖摺坂を登りきると一つの峰のような地形になる。 ここからいくつかの坂が派生していくが、謎なのは古地図でここだけが細くなっているのはなぜかという点で、道家剛三郎氏も著書『東京の坂風情』の中で疑問だがわからないと記している。

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坂上の標柱には次のように書かれている。「この坂を袖摺坂といいます。むかし、この道は行き会う人と人の袖が触れ合うほど狭いのでその名がついたといわれます。幅の狭い道をこのように名付けた坂はほかにも見られます。」

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2017年1月 2日 (月)

永井坂(千代田区)

東京メトロ半蔵門線の半蔵門駅の真上にあるのが永井坂である。 坂の両側に永井姓を名乗る旗本屋敷があった。 古地図では永井勘九郎が東側で今のホテルモントレーの場所、西側には一番町東急ビルの場所に永井貞之助(永井奥乃助)の屋敷があったようだ。

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番町という地名は、大番組や書院番などの武官の旗本屋敷が配置されたことに由来する。 前述の古地図では永井坂の先は細道になっていたがそれが袖摺坂である。 永井坂は江戸期から広い道だったようだ。 江戸期に沢筋を埋めて旗本屋敷の敷地にしたと思われる。ちょうどこの辺りが江戸期以前は沢筋だったのは、今も地形が物語っている。

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2017年1月 1日 (日)

正和坂・正和新坂(千代田区)

どちらの坂も坂名の由来はわからない。 いくつかの文献を探ったがどこにも書いていない。 ただ昭和坂は江戸期からの坂道だが、正和新坂は近年の坂道らしく、善国寺坂の項に載せた古地図にも道はない。戦時中には正和会という隣組があったらしいが、それ以上は不明である。

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昭和坂は坂下が昔は川筋だったろうと思われるが、そこから麹町学園女子校と区立麹町小学校の間を登っていく。 江戸期は火除け地となっていたエリアである。  古地図には麹町四丁目横丁通りと記されている。

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麹町小学校の創立は明治8年(1875)だから、火除け地にそのまま建設された可能性が高い。併設されている幼稚園は日本最古の公立幼稚園で創設は明治17年(1884)である。 都心の学校だけに著名な出身者も多く、黒田清輝(画家)、大塚久美子(大塚家具)、岸朝子(料理記者)、岸田文雄(現外相)、滝廉太郎(作曲家)、露木茂(アナウンサー)、などいとまがない。 政治家が多く住んでいることも一因かと思う。

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正和新坂は新しい坂で、明治中期までは路地だったようだ。大正期まではそのまま路地の状態で、昭和に入ってからの地図には新しい道として麹町小学校を東西で挟むように通っているので、関東大震災以降の新坂といえそうだ。


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