御厩谷坂(千代田区)
面白い名前である。 大妻女子大の千代田キャンパスと大妻中学校の間の坂道。 このエリアは西から東へいくつかの沢が谷を形成した地形になっていて、交差点ごとに峰と谷を繰り返す。大妻女子大の由来は創始者が大妻コタカ女史だったというもの。大学名に個人の名前を冠するのは意外と少ない。比較的大きな大学で有名なのは津田塾大学(津田梅子)くらいしか思い出せない。
「この坂を御厩谷坂といいます。『新撰東京名所図会』には「一番町と六番町の間、すなわち井伊家邸前より南のほうに係れり。厩谷もと御厩谷という。むかし徳川将軍池の厩舎ありしに因り此の名あり。」と記され、『新撰江戸志』にも「今も紅梅勘左衛門殿屋敷に御馬の足洗いし池残りてあるなりというと見えたり」とあります。御厩谷にかかる坂という事により坂名となりました。」
とある。
<追記>
江戸時代中期、坂の途中の大妻女子大学の場所には佐野政言(善左衛門)の屋敷があり、そこの桜の老木がとても美しかったという。一方、佐野善左衛門は田沼意次の息子意知を江戸城内で切りつけたことで切腹した話が伝えられる。田沼は佐野の家来筋に当たるが、幕府の中では田沼意次の勢力で、数多くの嫌がらせや仕打ちを受けていた。田沼意知は間もなく傷が元で死ぬのだが、人々は田沼の改革に大きな不満を持っていたので、佐野をかついで「世直し大明神」と呼んだりした。この結果、田沼家は没落していくことになるわけである。若干忠臣蔵と重なる感じがする。
追記)2018/12/31
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