紀尾井坂(千代田区)
ホテルニューオータニの北側、上智大学との間にあるのが紀尾井坂。 あたりを紀尾井町というが、由来は紀伊家(55万石)、尾張家(62万石)、井伊家(20万石)の屋敷があったのでその頭文字を重ねたという江戸らしい粋な名付けである。坂上の土手部分は喰違いと呼ばれ、外堀から内側に入ろうとするときにはこのクランクを通られねばならず防御の施設となっていた。
江戸防御の点で作られた喰違だが、江戸時代武家屋敷に囲まれてうっそうとした場所だったこともあり、このクランクは刺客が潜んだりするのに適していて、むしろ怖れられていた場所でもあったようだ。 実際に明治になってからこの辺りでは岩倉具視が襲われ堀に飛び込んで助かった話や、坂の下の清水谷では大久保利通が襲われて命を落としている。 今は明るくきれいな坂道だが、当時を想像するとまた違う景色が浮かぶ。ちなみに食違の四ツ谷側は今は上智大学のテニスコートになっているが、戦前までは真田濠という外堀の一部だった。南側は今も弁慶掘。
紀尾井坂はニューオータニに出入りするタクシーが目立って多い。また散歩する西洋人も多く見かける。今はニューオータニ出入口から清水谷へ下る道が紀尾井坂と呼ばれているが、ここを清水坂と呼んだ時代もあるようだ。 今は清水谷から麹町へ上る坂を清水谷坂と呼ぶが、別説では坂下の交差点から上智大の東側を登る坂を清水坂と書いた文書もあるらしい。
「この坂を紀尾井坂といいます。『新撰東京名所図会』には「喰違より清水谷公園の方へ下る坂を称す。」「喰違内坂を紀尾井坂といふ、蓋し此の坂の両側に紀州、尾州、井伊三公の邸宅ありしが故に、各頭字を取り名とせるものなりといふ。」と記されています。この辺りが紀尾井町といわれているのも左記の理由からです。また坂下が清水谷なので清水谷坂の別の名もあったといいます。(以降略)」
地形図をみる限り弁慶掘の水はほぼこの清水谷の沢水だろう。そして北側の真田濠はもとの台地を深く削って作られたであろうことが見て取れる。実際は江戸城外堀は伊達、上杉、真田らが協力して作ったようであるが、真田の名前だけがここに残るのは何故だろうか。 また外堀を作った主な大名が大河ドラマ『真田丸』のメインキャストである、伊達政宗、上杉景勝、真田信之だったというのは面白く、三谷幸喜はこのことを知っていたのだろう。
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