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2017年2月28日 (火)

洞坂(高輪台)

桂坂の途中、東芝山口記念館の脇を入る路地が洞坂である。洞坂の洞とは窪地の意味である。 魅惑の路地に入っていく感じがする。 記念館の裏手の角まで来ると左に折れる。 そこからが下り坂になる。 その角に標柱がある。

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法螺坂、鯔(ボラ)坂ともいう。 鯔坂は手前の桂坂の「カツラ」を「カツヲ」と読み違え鰹坂と呼んだ江戸っ子が、それならこっちはボラだぜぃと鯔坂と名付けた可能性があって面白い。樹木に囲まれた洞坂ゾーンに入っていく。

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「法螺坂・鯔坂とも書く。このへんの字を洞村と言った。洞村とはむかし法螺貝が出たとも、また窪地だから洞、という等様々な説がある。」と記されている。港区の標柱の開設は簡素に書いてある気がする。 ここから洞坂は急な下り坂。 道幅も細くなる。

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坂下も急カーブ。坂下にも標柱がある。手すりが坂の急さを物語っている。坂の下には東禅寺がある。国指定の史跡である。幕末の安政6年(1859)に最初の英国公使館が置かれた場所。 幕末の開国に伴い、初代英国公使ラザフォード・オールコック(Rutherford Alcock)が着任すると、東禅寺がその宿所として提供された。
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山門脇には石碑で「都旧跡 最初のイギリス公使館跡」と記されて説明板が設置されている。かつては大きな寺だったと見えて、山門の前から第一京浜までしっかりとした広い参道が一直線に通っている。

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2017年2月27日 (月)

桂坂(高輪)

高輪台は国道1号線である桜田通りと国道15号の第一京浜の間にある南北に長い丘陵地である。江戸時代は東海道(今の第一京浜辺り)が主要街道になったが、元々は尾根筋の二本榎通りが古道であった。高輪署前の公園に二本榎の由来の説明板がある。

「その昔、江戸時代に東海道を日本橋から来て品川宿の手前、右側の小高い丘陵地帯を「高縄手」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が2本あって、旅人のよき目標になっていたそうです。誰いうとなくこの榎を「二本榎」と呼ぶようになりました。それがそのまま地名になって続き、榎が枯れた後でも地名だけは残りました。戦後地番変更で高輪何丁目などと地名は変わりましたが、榎は幾度となく新植、移植が行われ、町の大切な象徴になっています。」

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近代になってこの二本榎の交差点には写真手前の警察署と向こう側の消防署ができた。この二本榎出張所(旧高輪消防署)の建物は、ドイツ表現派の歴史的建造物で2010年に東京都選定歴史的建造物に指定された。 火の見櫓からは東京の海が見渡せたと伝えられるが今は無理である。この消防署と警察署の間から下るのが桂坂だが、大正以前はここからではなく、もう少し三田よりの路地からクランクして東海道に下って行った。

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左手に野村證券研修所の石垣、右手に東芝山口記念館の石垣とお屋敷を眺めながらまっすぐに下っていく。 東芝山口記念館は今問題山積の東芝の迎賓館の役割を持った洋館で、大正時代の建築である。こういうのは真っ先に資産処分されるのだろう。しかし、東京に残る戦前の屋敷はできるだけ文化財として残してほしい。どうせ人口は減るのだから、味気ないマンションを林立させるような無粋なことはしないほうがいい。

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桂坂は下から見上げるほうが姿がいい。 残念ながら坂の上のその先には、桜田通り沿いにある高層マンション「高輪ザ・レジデンスのタワー棟」が視界に入る。 とはいえ坂の両側の石垣と木塀は風情を残していて、車で通るのはもったいない坂道である。坂の上下に標柱がある。「むかし蔦鬘(つたかずら・桂は当て字)がはびこっていた。かつらをかぶった僧が品川からの帰途急死したからともいう。」

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坂下には高輪海岸の石垣石が残っている。 当時はこの辺りが海岸線だったようである。明治初期の地図を見てもまさにこの辺りが海岸線で、その少し沖を鉄道が走っている。明治の時代には鉄道を通すと伝染病が渡ってくるとか様々なデマが流れて街道筋や街に鉄道を通すことができず、新橋横浜間も海の中を走るところが多々ある。

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2017年2月26日 (日)

石榴坂(高輪台)

石榴坂については以前にもまとめて書いたことはあるが、データベース風に纏めるために坂を一つずつ改めて書きまとめていくことにした。 品川駅高輪口を出て第一京浜を渡ると高輪ウィング。 そのわきの道路が石榴(ざくろ)坂である。坂の途中の標柱には、「坂名の起源は伝わっていない。ざくろの木があったためか。江戸時代はカギに曲り、明治に直通して新坂とも呼んだ。」とある。

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上の地図は明治初期のもので、この時期はまだクランクしている。 プリンスの駐車場の北側の落ち込んだエリアは池だったことがわかる。 また、品川駅は現在の場所ではなく、乗車場と記されているのが新橋~横浜時代の品川駅で、現在の場所でいうと京急線とJRが並走しているあたり、今のホームの100mほど南になる。そしてそこは海の中だったということもわかる。

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クランクだった石榴坂は明治の終わりには多少まっすぐになったものの、今のような直線になったのは大正になってからだと思われる。 坂の北側は私の時代は京急が経営していたパシフィックホテルという名前だったと記憶しているが、現在は品川GOOSという施設で依然京急の施設。

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坂上から見下ろすと品川駅とその向こうの港南口のビル群が迫ってくるようだ。坂上にはカトリック東京大司教区高輪教会があり、江戸の殉教者顕彰碑が建てられている。 1623年、徳川家光は外国人宣教師を含む50人のキリシタンを迫害政策により江戸市中引き回しの上札ノ辻の小高い丘で火刑に処した。こののちも迫害は進み、当時江戸市中で2,000人が殉教した。これを「江戸の大殉教」と呼んでいる。 顕彰碑は刑場跡の三田の智福寺境内に建立されていたものを、1956年に此処に移設したと記されている。

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2017年2月25日 (土)

明神男坂・女坂(千代田区)

神田明神の周りだけが千代田区で文京区の陣地(台地の上)に食い込んでいる。これは神田の氏子の領域と関係があり、神田、日本橋、秋葉原、大手町が氏子の区域で大部分は千代田区に属するため、神田明神も千代田区に属したのだろうと推測している。 神田明神についてはおそらく分厚い書物になるくらいの話題が転がっているので、そこには突っ込まない。

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神田明神を見上げる外神田からはかなりの高さに見える。ここは本郷大地の東の端で、かつては波打ち際だった。その後江戸時代にかけて海水面が下がり、徳川の街づくりもあって東側は賑やかな街になった。 また徳川の命により伊達政宗が堀った御茶ノ水の神田川で台地は切断されたので、外神田からのアプローチがメインルートになったのだろう。

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上の断彩図の中央の出っ張り台地が神田明神である。北側は嬬恋の沢があって、東側は台地の端、南側は神田川の峪の東端。神社としては最適な地形である。男坂・女坂はこの東側の縁に刻まれている。

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男坂の落ち方はなかなかのもの。 崖を見下ろす感じがある。 坂の上に標柱がある。「この坂を明神男坂といいます。明神石段とも呼ばれます。『神田文化史』には「天保の初年当時神田の町火消、『い』、『よ』、『は』、『萬』の4組が石段を明神に献上した」と男坂の由来が記されています。この坂の脇にあった大銀杏は、安房上総辺りから江戸へやってくる漁船の目標になったという話や、坂からの眺めが良いため毎年1月と7月の26日に夜待ち(観月)が行われたことでも有名です。」

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一方の女坂は後に作られた石段で由来などはわからない。標柱もない。かつては石段で風情が残っていたが、数年前に改修されまったく味わいのない階段になってしまったのが残念である。

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石段は趣があるがコンクリートやタイルの階段は本当に味気ない。 さらに耐久性も極めて劣る。 石段は数百年経っても使用に耐えるが、コンクリートは風化が早く数十年しか持たない。 したがって由緒のない階段はすべてつまらない階段に変わっていく。

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まあ、これも生活道路に過ぎず、千代田区の工事ではあるが予算はかけられなかったのだろう。 もし標柱が建つような坂だったら違ったかもしれない。 実は東京にはこういう階段が沢山ある。 その魅力もなかなかのもので、ぜひ探し回ってみたいといくつも歩いたが、あまりの多さにとても週末の散歩では追いつかないのである。

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2017年2月24日 (金)

三ベ坂(千代田区)

日比谷高校の新坂(遅刻坂)を登りきるクランクして三ベ坂中腹の辻に出る。新坂の北側はメキシコ大使館。その東側の辻はすでに坂道の途中で、下っていけば山王神社と山王坂の間の交差点に出る。

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上の写真の左向こうのビルは議員会館。三ベ坂はS字を描いて下っていく。この辻の石垣は国立国会図書館の裏側で、その石垣の下に標柱があったが誰かのいたずらでほとんど字が読めないほどかすれている。 こういうセコい悪事を許すと世の中は悪いほうに転がる。

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読めない標柱にかすかに書かれている文章 - 「此の坂を三べ(さんべ)坂といいます。
 「新撰東京名所図会」には「華族女学校前より南の方に下がる坂を、世俗三べ坂といふ。昔時、岡部筑前守、阿部摂津守、渡辺丹後守の三部ありし故に名づくといふ」 とあります。また坂上の西側一帯は松平出羽守の屋敷で、松平家が赤坂門の水番役をかねていたところから、門前の坂は水坂ともよばれていました。」

上の写真の左側が華族女学校跡だが、今は参議院議長の公邸になっている。

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2017年2月23日 (木)

新坂(遅刻坂)

前述のプルデンシャルタワーと郵便局のある山王グランドビルの間を入る上り坂が新坂である。 別名の遅刻坂は日比谷高校の生徒があまりの上り坂に走ることができずに遅刻坂と呼んだ説が有力だろう。

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勾配が途中から急になると、石垣に挟まれる素晴らしい景色の区間になる。 右の石垣の上は日比谷高校の校舎。 都会では珍しいが、田舎の学校は災害時のことも考慮して山を切り崩して設置されていることが多く大概坂の上にあるので、私のような田舎者には違和感はない。

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右の石垣は素晴らしい。 石垣の上にある日比谷高校は大正時代まではお屋敷だった。 明治時代は高崎邸、大正期は村井邸となっている。村井邸は煙草で財を成し、ここの屋敷は山王荘と呼ばれた。 石垣の上のツタの絡まる建物が遺構で、村井家の倉庫だった建物。 江戸期は岸和田藩屋敷だった。 多くの歴史を重ねた場所でもある。

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坂の標柱には次のように記されていた。「この坂を新坂といいます。『新撰東京名所図会』には「墨西其公司館の南方を溜池の方に下る坂をいふ」と記載されています。名前の由来は新しくできた坂ということでその名が付けられています。明治9年(1876)の地図には道が入っていませんが、明治17年(1884)参謀本部の図では現在に近い道路が見えています。おそらくそのころできた坂でしょう。また、別の名を遅刻坂とも呼ばれていますが、官庁街に向かう役人、登校を急ぐ学生がカバンを抱えて駆け上がる風景から呼ばれたとも言います。」

明治の坂というのはその通りだが、溜池が埋め立てられてから台地に上るためにできたというのがおそらく正解だろうと思う。

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2017年2月22日 (水)

山王切通坂(千代田区)

赤坂の山王日枝神社の地形はお椀を伏せたような小山になっていて、神社の立地としては典型的な場所になっている。どの方角からアプローチしてもそこそこの登りになるのが都心では稀有な場所だ。しかし切通坂は明治以降の坂である。江戸時代の外堀通りは溜池の幅が広く渡船で神社に渡していた。

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再開発され整備された外堀通り側の鳥居の下の道路は国会議事堂前から首相官邸前を通りここに繋がっている。 整備されるよりも前、赤坂見附に職場があったころよくこの切通坂の先にある路地を車で入って、官邸の前を通り国会議事堂前で霞が関ランプに潜り込むルートをよく走った。 何度も警察に止められたものだ。
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稲荷社の赤鳥居の階段を見ながら時計回りに山王切通坂を周ると、外周に覆いかぶさるように赤煉瓦の建物がある。往年の名門校都立日比谷高校である。 出身著名人は書けばキリがない。とくに政界財界の多くを輩出している。

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坂を巡りきると山王日枝神社の表参道である。 神社の斜面にある山の茶屋はうなぎ屋である。鰻懐石で福沢君二人分くらい。ちょっと入れるレベルではないので、美味いかどうかは知らない。 日比谷高校の隣にそびえるのはプルデンシャルタワー。 この高層ビルになる前はホテルニュージャパン。 あの歴史的なホテル火災の跡地に建設された。 山王日枝神社がここに移されたのも明暦の大火がきっかけ。 何か因縁を感じる。

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2017年2月21日 (火)

山王神社男坂・女坂(千代田区)

江戸三社祭のひとつ山王権現が日枝神社である。文明年間(1469~1487)に太田道灌が江戸城の鎮守として祀り、徳川家康が紅葉山(現在の皇居御所内)に社殿を建てた。その後最終的には四代家綱のときに今の場所に移された。手前事だが自分の初孫のお宮参り、七五三もここでお祝いをさせていただいた。

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江戸期には江戸の代表的な神社になり多くの氏子を抱えるようになった。現代になって平成12年(2000)に赤坂TBS側に巨大な鳥居と階段が作られてまるでそこが入り口のように見えるが、正しくは男坂の下の鳥居が正当な参拝口である。

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男坂の階段下の脇に標柱がある。「この坂を山王男坂といいます。日枝神社の表参道、左側の緩やかな坂〝女坂″に対して名付けられています。二つの坂を比較して急な坂を男坂、緩やかな坂を女坂と呼ぶことは各地にみられます。石段の数は53。山王台地はまたの名を星が岡ともいう景勝の地でもありました。」たしかに景色はよく、赤坂側の階段に並行するエスカレーターからは首相官邸が一望できる。

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また明治の初めころこの辺りは牧場で、日本の牧場としては黎明期のものとなった。江戸の武士が明治維新で失業し、牧畜に転職したという面白い歴史がある。ここから日本の酪農が始まったというのは意外である。

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女坂は車でも上れる道。 こちらにも標柱がある。「この坂を女坂といいます。正面の石段に対しその名が付けられています。また、別名は御成坂とも呼ばれています。『東京名所図会』には、〝左緩やかに通ずる石階を女坂と呼ぶは非なり。昔時将軍家御成りの節、峻坂を避け、此の坂のみ御通行遊ばされしにより、御成坂と申し侍るを女坂と聞き誤りしにはあらぬかと″と書かれています。」なるほど女坂ではなかったのか。 昔は車道ではなく踊り場のついた段々だったようだ。


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2017年2月20日 (月)

山王坂(千代田区)

国会議事堂の裏から赤坂山王日枝神社に向かって下る急坂。坂下を右折すると三ベ坂、直進で山王切通坂になる。 170mほどの見事な坂道。都心でもこれほどの直線坂はまれである。古い舗装路だったが、数年前にきれいに拡幅舗装された。坂上には花崗岩の石柱が「山王坂」の名を知らしめている。

Dscn3301坂の途中に文字の消えかかった標柱がある。しかし坂道の標柱を夜中にこすって見えなくしたり、いたずら書きをして読めなくしたりする許せない輩がいることは許せない。 いたずらに対する罰が軽すぎるのだ。

Dscn3304で、標柱には次のように記されている。「この坂を山王坂といいます。この坂あたり、明治維新までほとんどが山王社(日枝神社)の社地であり、社前に下る坂なのでこの名がつけられたのでしょう。また一名鹿島坂ともよばれていますが、坂の近くに明治時代の豪商鹿島清兵衛の邸宅があったのでそのように呼ばれたといいます。」

Dscn3306坂下には日本料理店と思われる佳風亭とそば店黒澤がある。どちらもとてもいい外観で周辺の議員さんにお似合いに思われた。坂下はいわゆる谷底になっており山王神社側は再び上り坂になる。 江戸期以前はここは現在の自民党本部辺りを源頭にした沢筋でそのまま溜池に流れ込んでいた。ここでは江戸よりもさらに昔に思いを馳せる。日枝神社もここにない時代の風景が脳裏にめぐる。

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2017年2月19日 (日)

茱萸坂(千代田区)

国会議事堂周りはどうも歩きにくい。 一般人に対して何倍もの警察がうろうろしているし、中には親切そうな警察官もいるが、概ね居丈高な印象を受ける。 組織の中ではエリート街道なのだろうが、交番のおまわりさんのほうが何倍もまともに思えてしまう。 この議事堂の南側を走るのが茱萸坂である。

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標柱には、「この坂を茱叟坂といいます。 またの名を番付坂ともいいました。『新撰江戸志』には、丹羽家の表門から見通すことができ、内藤紀伊守、本田伊勢守の間をぬけて 九鬼長門守の屋敷前へ出る小坂で、“両側にぐみの木ありし故の名なり” とかかれています。 また『東京名所図会』には、“番付坂・茱叟坂の一名にして、昔時山王(日枝神社)の祭礼には必ず此の所に花車(だし)の番付札ありて、其行列をあらためしよりいう” とかかれています。」とある。

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茱萸(グミ)坂の茱萸は実のなる低木で、私も子供のころ里山の茱萸の実を摘んで食べた記憶がある。 茱萸の木は今はないが、きっと江戸時代にはこの辺に茱萸の木があってそれで名付けられたのだろう。 江戸っ子はかなり適当な気質なので、そういう安易な名付け方があちこちにみられる。 一本松坂とか、さいかち坂とか、その木が無くなったらなんでその名前なのかわからなくなってしまうなんてことはみじんも考えない。 まあ、それくらいの世の中が一番暮らしやすいかもしれない。

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2017年2月18日 (土)

三年坂(千代田区)

霞が関三坂の最後は三年坂。 官庁街を皇居側から霞が関坂、潮見坂、三年坂と並ぶ。 三年坂というのは大体転んだら三年以内に死ぬというような言い伝えがある。横関英一氏によると、三年坂はもともと三念坂で近くに墓や寺があるようだ。

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この三年坂、坂上から見ると(上の写真)左が財務省、右が文部科学省。 寺などないと思うが、明治初期の地図を見るとこの辺りは三年町という地名で、鳥居のマークもある。さらに江戸期の地図を見ると、虎ノ門辺りは溜池でその畔、つまり文科省辺りにはたくさんの寺が並んでいる。 ここは寺町だったのだ。

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坂の標柱には「この坂を三年坂といいます。『新撰東京名所図会』には「三年坂は潮見坂の南に隣れり、裏霞が関と三年町の間の坂なり。坂を登れば是より栄螺尻とす」 「又淡路坂とも言い一に此処を陶山が関という」とあり、さらに栄螺尻の項目では、「裏霞が関と三年町の間、道路の盤曲する所をさざえしりと呼び、虎ノ門より永田町に出る裏道なり、曲り曲りたる境の名なり、亦此の辺鶯多し、因って鶯谷というよしみえたり」と書かれています」とある。

栄螺尻(さざえのしり)というのは隠語で、(一)心の曲りたる人を罵り云ふ語。(二)世間と交際せざる狭き社会を云ふ。さてこの標柱の意味が分からないが、江戸期は道がくねっていて今のようなまっすぐな街路ではなかったのだろう。

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2017年2月17日 (金)

潮見坂(千代田区)

霞が関坂から外務省を挟んだ南西側の坂が潮見坂。 外務省と財務省の間になる。 官庁街なのでここも広い道路で勾配が弱く感じる。 しかし江戸時代の初期は日比谷の入り江に向かって真っすぐに下っていく坂で、海を眺められたことから名がついたようである。

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日比谷の地名の由来だが、干満の差の大きな日比谷入り江ではその昔沢山の漁師が枝付きの竹を並べて魚を獲っていた。 今でも海苔の養殖に使われるこの仕掛けを「ヒビ」と呼んでいる。 参照→ 浦島海苔のホームページ

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坂の上には国会議事堂が鎮座している(写真では中央分離帯の並木に隠れ気味)。坂の説明柱には次のように書かれていた。この坂を潮見坂といいます。『新撰東京名所図会』には「潮見坂は霞が関坂と三年坂の間の坂なり」と書かれています。中世の頃までは、日比谷公園のあたりが入り江であったといわれ、坂も当時はもっと高く眼下に海をのぞむことができたためにつけられた名でしょう。潮見坂、汐見坂は皇居東御苑をはじめほかにも多くあります。

江戸時代には東京のいたるところから海が見えたので潮見坂は多い。文字違いをまとめると6坂か7坂あるはずだ。

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2017年2月16日 (木)

霞が関坂(千代田区)

今は官庁真っ只中、総務省と外務省の間に走るのが霞が関坂。 坂上は国会議事堂前の公園を経て国会議事堂正門。 周辺の建物は大きいが道が広いので圧迫感はない。 今は官庁街だが江戸時代は武家屋敷の並ぶ街並み。 『新撰東京名所図会』の「霞が関」には黒なまこ壁と石垣で囲まれた武家屋敷が描かれている。おそらく松平安芸守の屋敷であろう。 広島の42万石の殿様。

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霞が関坂の標柱には、「この坂を霞が関坂といいます。中世の頃関所が置かれていたとされ、景勝地として古歌にもうたわれたものが多く、霞が関の名の起こりとなっているようです。江戸時代は広壮な諸大名の屋敷が建ち並んで錦絵にも描かれました。いまは霞が関というと中央官庁街の代名詞となっています。」と普通のコメントが書かれていた。

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坂を真っすぐに降りると日比谷公園にぶち当たる。 江戸時代の日比谷公園辺りはもう少し低かったので、そのあたりまで坂は続いていたのだろう。 江戸城の内堀は濠から濠へ水が流れるように僅かずつ水面の標高が違えてある。 日比谷濠の水面標高は1.43m、桜田門側の凱旋濠は2.85m、皇居広場側の和田倉濠、馬場先濠は日比谷濠と同じ1.43mで、大手門の大手濠は1.87m。 内堀の水はおおむね和田倉、馬場先、日比谷の3濠に溜まって日比谷濠から最後に下水道に流される。

http://www.env.go.jp/press/file_view.php?serial=15454&hou_id=12346

濠は環境庁の管轄らしく、環境庁のHPに詳しく書かれていた(上のリンク)。

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2017年2月15日 (水)

梨木坂(千代田区)

三宅坂から少し西へ歩き、国会図書館の東側を入ると石垣と上り坂がある。 たくさんのタクシーが休憩している。 三宅坂交差点の喧騒からわずか数十mで静かな通りになる。江戸時代は前述の井伊家の屋敷の裏道になり、道を挟んで細川山城守の屋敷、これが国会図書館の辺りになる。細川山城守は肥後熊本県宇土藩の藩主。首相を務めた細川護熙の直系の先祖ではないが、親戚筋とはいえそう。

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坂上を望むとそこには霞が関ビルがある。 昔は巨大で存在感のあるビルだったが、今となっては数多のビルの一つになった感じがする。 国会図書館前の標柱には次のようにある。 「この坂を梨木坂といいます。  『江戸紀聞』では”梨木坂, 井伊家の屋敷の裏門をいふ。 近き世までも梨の木ありしに, 今は枯れて其の名のみ残れり”とかかれています。 さらに『東京名所図会』には”陸軍省通用門と独逸公使館横手の間なる坂を梨木坂といふ”とかかれています。」

国会議事堂の敷地は戦前はドイツ大使館だった。 そして向かいの井伊家屋敷跡は陸軍省。 この坂には軍靴の音が聞こえてきそうだ。

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2017年2月14日 (火)

三宅坂(千代田区)

三宅坂というと首都高速の三宅坂トンネルを思い出す。 昭和のモータリゼーションの時代に育った若い頃は三宅坂の三宅が江戸時代の殿様三宅備前守の屋敷に由来するなどつゆ知らず。 三宅坂を語るに首都高を入れないわけには行かないのが哀しい。

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内堀通りの向こうには桜田濠、手前の壁は首都高速都心環状線の壁で、内堀通りのここから左側が三宅坂である。三宅備前は今の愛知県渥美半島の三河田原藩の藩主であった。南隣は井伊家、今NHKの大河ドラマで井伊直虎をやっているが、そのずっと先の遠い親戚が幕末の井伊直弼、その屋敷だった。 井伊直弼といえば安政の大獄と桜田門外の変である。

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井伊家の前は加藤清正の屋敷だったが、幕府に没収され井伊家に与えられた。それがこの国会議事堂とその前の公園を含む広い屋敷だった。 その清正はここに井戸を掘り、それが「櫻の井」という名水として知られた。 城造りの名手清正は水源に対しても深い知識を持っていたのだろう。

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現在の三宅坂はあまりに広い通りなので傾斜はほとんど感じない。 別名を皀角坂ともいうが、この濠際をサイカチ河岸と江戸時代には呼んでいたようだから、辺りにはマメ科のサイカチが多かったのだろう。今は皇居を回るランナーがあまりに多すぎる。

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2017年2月13日 (月)

鍋割坂(千代田区隼町)

千代田区には二つの鍋割坂がある。一つは千鳥ヶ淵の戦没者墓地裏の坂、もう一つは半蔵門の鍋割坂である。 どちらも形は登って下る鍋蓋型の坂である。

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坂横はホテルグランドアーク半蔵門。 この鍋割坂の情報は意外と少ない。 江戸時代にはこのグランドアークのところに定火消屋敷があった。 「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるがそれだけ火事が多かった江戸の街を火事から守るために大名火消、町火消などを設置したが最も中心となったのは定火消で、これが今の消防署の前身である。

この坂は明治になると消える。 あたり一帯が陸軍病院となりその敷地になってしまったのである。 明治の地図を見ると坂の場所には建物が建っている。 しかし関東大震災の後の地図では坂道が復活している。その様々な変貌を想像するとこの何の変哲もない坂道が面白くなる。

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2017年2月12日 (日)

富士見坂(千代田区永田町)

富士見坂という坂は本当に沢山ある。 複数名を持つ坂の別名を含めると10を優に超え15坂くらいはあるのではないだろうか。 永田町の富士見坂は永田町から国道246号の赤坂見附交差点に下る幅広い道路の坂道。 歴史とともに姿を変えていく道でもある。江戸時代は外濠の赤坂見附という見張り門があり、南には溜池、北西には弁慶濠が位置していた。

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赤プリの工事現場の仕切り板に昔の写真が何枚か張ってあった。 上の写真は1960年、東京五輪の数年前のもの。 右から下ってくるのが富士見坂。 路面電車が行き交う。 弁慶橋のたもとにはすでにボートハウスがある。富士見坂の手前は今は土手上が衆議院議長公邸、土手下が赤坂東急ホテルだが、当時はただの土手とガソリンスタンドだったようだ。

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上の写真は1967年、東京五輪の後。 首都高速道路が弁慶濠に沿って走り、赤坂見附交差点は今と同じオーバーパスになっている。ビルも建ちその上の1960年の写真からは大きな変貌を遂げている。手前の賑わいは赤坂プリンスのプール。当時もっともトレンディな場所だった。

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そして現在の富士見坂。 勾配が急で西に開いているだけに富士山がよく望まれたものと思われる。衆・参議院議長公邸は,雲州松江藩松平出羽の屋敷跡。明治になって公用地となり華族女学校の設立と歴史をつないだ(華族女学校の大きな石碑が公邸の裏にある)。

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勾配、曲がり具合から、大通りでなければなかなかの坂景色だったと思うが、大通りになってもきちんと傾斜を感じさせてくれるのは大したものだ。

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2017年2月11日 (土)

中坂(千代田区)

中坂は特徴のない坂道だが、個人的には思い入れがある。 一昔前に伊豆の海で亡くなった友人が教鞭を取っていた城西大学の前の坂だからである。 最近この坂を二度ほど歩いたが、彼も歩いていたのかなと思わずにはいられなかった。

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城西大学の東の端に標柱が立っている。「この坂を中坂といいます。元禄4年(1691)の地図にはまだ道ができていませんが、宝永(1704~1711)以降の図を見ると町屋ができ、現在の道路の形とほとんど違いがないことがわかります。中坂の名称の由来については、はっきりしませんが、中坂を挟んで北側に町屋、南側に武家屋敷が並んでいる形を見ると、中坂の名称の起こりは案外このへんになるのかもしれません。」とある。

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坂下を左折すると平川天満宮がある。戦国時代の江戸城主太田道灌が皇居内の梅林坂の上に江戸の守護神として祭ったのが始まり。 慶長12年(1607)徳川二代将軍秀忠がそれをここに移して、平川天満宮の名に因みこの周りが平河町と呼ばれるようになった。

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2017年2月10日 (金)

諏訪坂(千代田区)

赤坂見附というのは街の名前だが、もともと見附というのは街道の分岐点など交通の要所に設置された見張り処のことである。江戸時代には、外濠に沿っては赤坂見附、四谷見附、牛込見附などが濠を渡って内側に入るところに設置され、代表的なものをまとめて江戸三十六見附と呼んだりした。 実際の赤坂見附は赤坂プリンスホテルのあった場所の南側にある。
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写真の標柱の裏には次のように記されていた。「左側にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の石垣の一部です。江戸城の門は、敵の侵入を発見する施設であるため、「見附」とも呼ばれ、二つの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。詳しい説明は右に坂を登った角にある説明版に記されています。」
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角を曲がるとそこが諏訪坂。 標柱には、「この坂を諏訪坂といいます。『新撰東京名所図会』には「北白川御門より赤坂門のほうに下る坂を名づく。もと諏訪氏の邸宅ありしを以てなり。」と記されています。道路の向かいの都道府県会館の敷地には、江戸時代に旗本諏訪家が長期間屋敷を拝領していました。また別名を達磨坂といいますが、旧北白川邸が紀州藩邸だった頃、その表門の柱にダルマに似た木目があったため達磨門といわれ、その門前を達磨門前、坂の名も達磨坂と呼ばれたためです。」とある。
 
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赤坂プリンスは大正時代までは宮家である北白川家の屋敷、江戸時代は将軍吉宗を輩出した和歌山の紀伊家の屋敷だった。隣の弁慶濠側は井伊家、その北側が尾張家という大大名の屋敷が並んでいたわけである。前述の紀尾井坂はその御三家の頭文字をとった名前だというのは前に書いたように思う。
 
<2016/2/14 散歩>
 

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2017年2月 9日 (木)

貝坂(千代田区)

見た目は取り立てて坂名をつけるほどの坂ではないが、道は江戸時代からある道である。明治初期の地図を見ると、坂下にはたくさんの池があり、湧水があった可能性が高い。 麹町の新宿通りから3本目の辻から下り坂が始まり、ホテルルポールの裏口辺りで傾斜は終わる。左手には城西大学のビルがある。

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少しくねりながら下っていくのは江戸時代の道だからだろう。近代の道はとにかくまっすぐに作りたがる。坂上の麹町スタジオの角に標柱が立っている。

「この坂を貝坂と言います。『江戸名所図会』には「この地は昔より甲州街道にして、その道の傍らにありし一里塚を土人甲斐塚と呼びならわせしとなり。ある説に貝塚法印といへるが墓なりともいひて、さだかならず」と書かれていますが、貝塚があったというのが現在定説になっています。」とある。

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興味深いのはこの貝坂のくぼみはこの辺りだけのもので、東に向かって下り、桜田濠に落ちる。 そして江戸期の地図には多数の池がある。 という事はこの辺りの水源地だったのではないだろうか。江戸より以前の地図を探してみたくなった。

<2016/2/14 および 2017/1/21>

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2017年2月 8日 (水)

いちょう坂(千代田区)

いちょう坂は江戸の坂ではない。かなり最近の命名である。単純に坂の並木が銀杏なのでそういう名になったのだろう。 坂上の新宿通り近くと坂下の清水坂の丁字路近くに立派な標識がある。

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道そのものは江戸時代から比較的広い道があったようだ。各時代の地図を確認すると道の幅や長さはほとんどといっていいほど変わらない。 坂の傾斜はもう少しあったかもしれない。

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できれば秋に並木の銀杏が黄色く色づいた時に来たほうがよかった。 ただ東京の並木はかわいそうにほとんど枝を落とされてしまうので、覆いかぶさるようにというわけには行かない。

(2017/1/21)

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