石榴坂(高輪台)
石榴坂については以前にもまとめて書いたことはあるが、データベース風に纏めるために坂を一つずつ改めて書きまとめていくことにした。 品川駅高輪口を出て第一京浜を渡ると高輪ウィング。 そのわきの道路が石榴(ざくろ)坂である。坂の途中の標柱には、「坂名の起源は伝わっていない。ざくろの木があったためか。江戸時代はカギに曲り、明治に直通して新坂とも呼んだ。」とある。
上の地図は明治初期のもので、この時期はまだクランクしている。 プリンスの駐車場の北側の落ち込んだエリアは池だったことがわかる。 また、品川駅は現在の場所ではなく、乗車場と記されているのが新橋~横浜時代の品川駅で、現在の場所でいうと京急線とJRが並走しているあたり、今のホームの100mほど南になる。そしてそこは海の中だったということもわかる。
クランクだった石榴坂は明治の終わりには多少まっすぐになったものの、今のような直線になったのは大正になってからだと思われる。 坂の北側は私の時代は京急が経営していたパシフィックホテルという名前だったと記憶しているが、現在は品川GOOSという施設で依然京急の施設。
坂上から見下ろすと品川駅とその向こうの港南口のビル群が迫ってくるようだ。坂上にはカトリック東京大司教区高輪教会があり、江戸の殉教者顕彰碑が建てられている。 1623年、徳川家光は外国人宣教師を含む50人のキリシタンを迫害政策により江戸市中引き回しの上札ノ辻の小高い丘で火刑に処した。こののちも迫害は進み、当時江戸市中で2,000人が殉教した。これを「江戸の大殉教」と呼んでいる。 顕彰碑は刑場跡の三田の智福寺境内に建立されていたものを、1956年に此処に移設したと記されている。
| 固定リンク | 0
コメント