三宅坂(千代田区)
三宅坂というと首都高速の三宅坂トンネルを思い出す。 昭和のモータリゼーションの時代に育った若い頃は三宅坂の三宅が江戸時代の殿様三宅備前守の屋敷に由来するなどつゆ知らず。 三宅坂を語るに首都高を入れないわけには行かないのが哀しい。
内堀通りの向こうには桜田濠、手前の壁は首都高速都心環状線の壁で、内堀通りのここから左側が三宅坂である。三宅備前は今の愛知県渥美半島の三河田原藩の藩主であった。三河田原藩は12,000石の小藩だが、家康の地元なのでいい場所に屋敷を得たようだ。その南隣は広大な彦根藩井伊家、NHKの大河ドラマで井伊直虎をやっていたが、そのずっと先の遠い親戚が幕末の井伊直弼の屋敷だった。 井伊直弼といえば安政の大獄と桜田門外の変である。この内堀沿いを城へ向かう途中で襲われた。
井伊家の屋敷はそれ以前は加藤清正の屋敷だったが、幕府に没収され井伊家に与えられた。それがこの国会議事堂とその前の公園を含む広い屋敷だった。 その清正はここに井戸を掘り、それが「櫻の井」という名水として知られた。 城造りの名手清正は水源に対しても深い知識を持っていたのだろう。
現在の三宅坂はあまりに広い通りなので傾斜はほとんど感じない。 別名を皀角坂ともいうが、この濠際をサイカチ河岸と江戸時代には呼んでいたようだから、辺りにはマメ科のサイカチが多かったのだろう。今は皇居を回るランナーがあまりに多すぎる。
(以下追記:2018/12/31)
皀角坂という名前はおそらく田原藩がここに屋敷を持つ以前の名前。 田原藩は宝暦12年(1762)にこの屋敷を拝領しているので、それまでは皀角坂、田原藩三宅氏の上屋敷になってからは三宅坂と呼ばれるようになったのだろう。
田原藩出身の渡辺崋山は、谷文晁に師事し写実的な名画を残したが、同時に藩の家老になり多くの改革を実行した人物でもある。政治・経済・芸術のすべてに超一流という、ある意味天才だったのではないかと思う。
しかし「蛮社の獄」で幕府主流の儒学信奉者らが蘭学者を弾圧したときに、崋山も弾圧され田原へ蟄居(ちっきょ)となった。経済的に困窮した崋山の生活を何とかしようと、門下生が崋山の絵を売却したことを幕府に知られたら藩主に被害が及ぶと考えた崋山は、天保12年(1841)に自刃した。49歳だった。もし現代に生きていても凄い人物になっていただろう。
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