新坂(遅刻坂)
前述のプルデンシャルタワーと郵便局のある山王グランドビルの間を入る上り坂が新坂である。 別名の遅刻坂は日比谷高校の生徒があまりの上り坂に走ることができずに遅刻坂と呼んだ説が有力だろう。
勾配が途中から急になると、石垣に挟まれる素晴らしい景色の区間になる。 右の石垣の上は日比谷高校の校舎。 都会では珍しいが、田舎の学校は災害時のことも考慮して山を切り崩して設置されていることが多く大概坂の上にあるので、私のような田舎者には違和感はない。
右の石垣は素晴らしい。 石垣の上にある日比谷高校は大正時代まではお屋敷だった。 明治時代は高崎邸、大正期は村井邸となっている。村井邸は煙草で財を成し、ここの屋敷は山王荘と呼ばれた。 石垣の上のツタの絡まる建物が遺構で、村井家の倉庫だった建物。 江戸期は岸和田藩屋敷だった。 多くの歴史を重ねた場所でもある。
坂の標柱には次のように記されていた。「この坂を新坂といいます。『新撰東京名所図会』には「墨西其公司館の南方を溜池の方に下る坂をいふ」と記載されています。名前の由来は新しくできた坂ということでその名が付けられています。明治9年(1876)の地図には道が入っていませんが、明治17年(1884)参謀本部の図では現在に近い道路が見えています。おそらくそのころできた坂でしょう。また、別の名を遅刻坂とも呼ばれていますが、官庁街に向かう役人、登校を急ぐ学生がカバンを抱えて駆け上がる風景から呼ばれたとも言います。」
明治の坂というのはその通りだが、溜池が埋め立てられてから台地に上るためにできたというのがおそらく正解だろうと思う。
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