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2017年3月31日 (金)

寄席坂(六本木)

六本木は赤坂同様坂の街である。六本木交差点周辺ばかりで遊んでいるとわからないが、都心方面に向かっても渋谷方面に向かっても下り坂になる。そして路地に入り込むとたくさんの坂道に出会うことができる。

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寄席坂の由来は標柱に、「坂の途中の北側に、明治から大正3年にかけて、福井亭という寄席があったため」と記されている。坂の途中にはかつて樹木に囲まれた料亭があったらしいが今はそれらしい古家が残る。

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坂はクランクして下っていく。レンガ色のビルのマンションの1階にオーラパンアジルというワインバーがある。路地裏の雰囲気を醸し出している。

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坂下は六本木通りの市三坂。この坂の地形は、六本木のドン・キホーテ裏の墓地あたりを水源にする沢がかつて存在し、このあたりを浸食した。六本木通りももとは川で、その川に注いでいた短い沢だったと思われる。

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2017年3月30日 (木)

長垂坂(なだれざか)

六本木一丁目、ちょうど首都高速渋谷線が中央環状線と合流する大通りのY字路の1本六本木寄りの路地を入ると長垂坂(なだれざか)である。 素敵な名前だと思う。 坂の上下に標柱がある。「流垂坂、奈太礼坂、長垂坂などと書いた。土砂崩れがあったためか。 幸国坂(幸国寺坂)、市兵衛坂の別名もあった。」とある。

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撮影したのは2015年11月で、新しい高層ビルの建設中だった。 テレビ東京が入った六本木グランドタワーだ。 その昔、バブル華やかな時代には六本木プリンスホテルだった。 クラブで遊びまわってここに泊まったbubblyな方々も多かった。 しかしこの坂は古い江戸の坂なのだった。

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江戸時代、工事現場の向かい(写真右手)には寺が数軒並んでいた。 今は二寺が残るが、江戸時代には6軒ほど連なっていた。 微妙なくねりが古い坂であることを表している。テレ東側は大名屋敷だった。 三河国吉田藩(今の豊橋市)の大名である小笠原佐渡の守の中屋敷だった。

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『新撰東京名所図会』には、急な坂というほどではないが、斜めに傾いた道だったのでなだれと呼ばれたと書かれている。  新しい高層ビルができるとこの辺りもきれいに仕上げられ、この傾き感を残した坂道が消えるのかと思うと寂しい。

<追記>

2011年の写真が見つかった。まだテレ東のビルの工事をする前で、標柱設置の翌年のものである。坂上からと坂下から1枚ずつ。

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開発前の建物もマンションが多かったのだといささかびっくり。 最初の記事の写真は2015年11月なので、4年前になる。

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2017年3月29日 (水)

木下坂(麻布)

南部坂とは坂下で接する。坂の途中に標柱があり、「北側に大名木下家の屋敷があり、その門前に面していたために呼ばれるようになった坂名である。」と記されている。南部坂ほどの景色はなく、ただの坂道という感じ。備中足守藩主木下備中守の上屋敷。

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路地裏のかつての大名屋敷の敷地内に当たる場所にはスイス大使館、ノルウェー大使館がある。木下坂は緩やかな坂で、徐々に高度を上げる。

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2017年3月28日 (火)

南部坂(麻布)

仙台坂上から西に下る。坂上の路地裏には伝説のガマ池(蝦蟇池)があるが、道路からは見えない。南部坂の北側は有栖川宮記念公園。しかし大正時代の地図には高松宮御用地とある。明治29年に有栖川宮の御用地のなり、大正2年に高松宮邸になったが、宮家の好意で昭和9年に東京市に下賜され公園になった。

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公園の池は明治時代にはほぼ今の大きさで存在した。おそらくこの麻布台の斜面の湧水が今も湧いているのだう。江戸時代はというと最初は播州赤穂藩の下屋敷、そしてその後大名同志の等価交換で盛岡藩の南部美濃守の下屋敷となる。渓流や池を配した美しい大名庭園だったという。

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坂の上下に標柱があり、「有栖川宮熾仁宮記念公園の場所が赤坂から移ってきた盛岡城主南部家の屋敷であったために名づけられた。(忠臣蔵の南部坂は赤坂)」と記されている。公園の無化側はドイツ大使館が建替え中だった。壁面に描かれたベルリンの壁のヒストリーが目に留まった。

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坂下にはインターナショナル麻布スーパーマーケットがある。昔から外国人とりわけ西洋人の多い場所で、今でこそこういう雰囲気のスーパーマーケットは増えたが、30年以上前はまるで海外ドラマに出てくるような雰囲気にあこがれを感じたものだ。

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2017年3月27日 (月)

仙台坂(麻布)

仙台坂と呼ばれる坂は、大井町とここの2ヶ所。どちらにも松平陸奥守(伊達政宗)の下屋敷があったため仙台坂と呼ばれる。大井町の方は別のところで詳しく説明する予定。一方こちら麻布の仙台坂は一直線の坂で、交差点にも「仙台坂上」「仙台坂下」と始終が明確になっている。

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坂下は古川の二の橋。坂上は麻布台地の尾根筋にあたり、南下すると薬園坂、西進すると南部坂、北進すると麻布の坂のメッカである一本松の辻に至る。坂の途中には韓国大使館が大名屋敷れえるの敷地で広がり、辺りは警察又警察。歩きにくいこと甚だしい。この韓国大使館の土地をさらに広げたエリアが伊達政宗の屋敷だった。

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明治維新後、仙台藩下屋敷は茶畑の広がる農園風景に変わったが、その一角にあった松方家が明治の後半にはそのほとんどを所有することになった。松方正義である。薩摩藩出身の松方は第4代内閣総理大臣となり、その後第6代で第二次内閣を結成している。初代大蔵大臣でもあり、財政政策で有名。戦後は在日韓国人により買い取られ韓国政府に無償貸与、東京五輪後に日韓基本条約が締結されて国交回復、正式に大使館となった。

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坂下に麻布山入口という交差点があるが、この麻布山というのは善福寺のこと。善福寺は824年空海による開山と言われる古刹。その後鎌倉時代には親鸞により浄土真宗の寺に変わり、代々の天皇や幕府に保護されてきた。開国でやってきたハリスもここに最初の米国公使館を設置したが、その歴史を見下ろしていた善福寺の逆さ銀杏が私にとっての主役である。東京大空襲では本堂が全焼したが銀杏は焼けても健在で今に至っている。樹齢は750年以上というから、空海や親鸞の時代には届かないが、江戸時代にはすでに大木だったはずである。この寺にはかつて部下だった男も眠っているので、毎年のようにお参りしている。

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2017年3月26日 (日)

絶江坂(南麻布)

薬園坂の一本東の道が絶江坂である。坂下の標柱には、「承応2年(1654)、坂の東側へ赤坂から曹溪寺が移転してきた。初代和尚絶江が名僧で付近の地名となり坂名に変わった。」とある。
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薬園坂のイラン大使館前から人ひとり通れるだけの路地があるが、古い地図を調べてみると、この路地は江戸期からあるようだ。不思議な曲がり方をしているので何故だろうと思った。イラン大使館周辺は江戸時代は常陸土浦藩の土屋家の下屋敷であった。そこから絶江坂にかけては寺町で、4軒の寺が軒を連ねていたが、その寺と寺の間の路地が今に残っている。明称寺、延命寺(現在は延命院)は現在も残っているが、東徳寺と龍徳寺はない。
 
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絶江坂は延命院と曹溪寺の墓地の間を上っていく。坂上は左に曲がって薬園坂に繋がる。辺りは麻布台地の南端にあたり、その河岸丘の斜面沿いに寺と武家屋敷が立ち並んでいた。今はその寺の周りに大使館やインタナショナルスクールがあったりして、隔世の感がある。
 

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2017年3月25日 (土)

釣堀坂(南麻布)

薬園坂の坂上近くから西に向かって下る路地がある。一見民家の中へ入っていくような様子だが、谷を下って再び上りその先は新坂に繋がっている。

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江戸の古地図にはこの道はない。 明治の終わりの地図にもないが大正時代の地図には載っているからその時期の開設だろう。向こうに見える谷から上る階段がとてもいい景色である。

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坂のくぼみは竹ヶ谷の沢筋である。その沢筋(上の写真の右側)に薬園坂緑地という小さな公園がある。この辺りの地層からは縄文時代の貝塚が発見されている。古川が形成されたのは数万年前、その後海水面が上昇し、四の橋あたりは海となり、この坂のある辺りが海岸となった。その時代のものである。

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2017年3月24日 (金)

薬園坂(南麻布)

奴坂の頂上から下るのが薬園坂。 逆に北へ上っていく(といっても勾配はない)と仙台坂上になる。 古い坂なので曲がりながら下っていく。

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坂の途中で右に釣堀坂の路地がある。坂下にも標柱があるが、「江戸時代前期坂の西部に幕府の御薬園(薬草栽培所・小石川植物園の前身)があった。訛って役人坂、役員坂と呼ぶ。」と記されている。

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坂下にはイラン大使館(イランイスラム共和国大使館)がある。坂下からの緩やかな湾曲を描いた坂の景色はなかなかいい。 そのまま坂下は江戸時代から古川を渡る四ノ橋に繋がり、白金台の三光坂方面に道は進む。

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2017年3月23日 (木)

奴坂(南麻布)

阿衡坂の坂下、本村小学校の角を右へ入ると谷底の道。 その路地を進むと後日説明する釣堀坂の由来となった釣堀衆楽園がひっそりとたたずんでいる。しかし奴坂は阿衡坂からの道を直進する。

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かつては坂上の白いマンションの角に標柱があったが今回はなくなっていた。朽ちたのかとも思ったが、路面もコンクリートで塗り固められていたので、マンションの方から撤去を申請されたのだろう。坂は江戸の坂っぽい曲がりながらの急坂。坂下の谷は竹ヶ谷(たけがやつ)という。竹ヶ谷の小坂で谷小坂(やっこざか)、薬王坂のなまりでやっこう坂、奴が付近に住んでいた坂、などの説がある。
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横関英一氏は「江戸の坂東京の坂」に薬王院があってそれで薬王坂とよんだが、それが訛って奴坂になったと推測している。古地図を調べてみたがその記述はない。しかし、最も納得できる説だと思う。

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2017年3月22日 (水)

阿衡坂(南麻布)

新坂の坂上、フィンランド大使館手前を右折すると大使館の素敵な石垣が終わるころから緩やかな下り坂。右側には本村小学校。明治35年(1902)の開校。都心でも360人の児童が通っている。廃校になる都心の公立学校が多い中では頑張っている感がある。
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この本村小学校一帯は、江戸時代初期には保科肥後守の下屋敷だった。保科正之は2代将軍徳川秀忠の実子(家光の実弟)だが、正室の嫉妬のために高遠藩の養子になったので保科の名になった。秀忠は彼の性格が温厚明敏であることを認め、将軍の侍従として、中国でいう「阿衡:天子の補佐役」の職を務めた。これが坂名の由来。
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保科肥後守は侍従となって家光に仕え高遠藩を離れ、会津城主となる。その後は摂政として将軍家に奉仕し、いったん焼失した江戸城の天守を再興するのに、すでに太平の世になり天守は軍用のもので必要はないとの主張をして、それ以来江戸城の天守閣は建てられなかったその中心人物だった。
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坂は本村小学校の先でもっとも標高を下げて坂下となる。 ここは古川に下る極めて短い沢がかつてはあったのだろう。この辺りには水源があったと思われる地形図の等高線が見て取れる。坂はここから上りになり奴坂に続く。

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2017年3月21日 (火)

新坂 (南麻布)

首都高速の天現寺出口の前にあるのが光林寺。江戸末期ハリスの通訳で、日本で殺害されてしまったオランダ人ヒュースケンの墓がある。落ち着いた山門がいい雰囲気を醸し出している。その先を左折すると新坂に入る。
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新坂といっても江戸時代の坂であるからゆうに200年は経過している。坂下の標柱には、「新しく開かれた坂の意味であるが、開かれたのは明治20年代と推定される。」とある。しかし天保14年(1843)の古地図にはすでに道がある。
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ゆるやかなカーブを描きながら登ると、坂上には左にパキスタン大使館、右にフィンランド大使館がある。フィンランド大使館の石組はなかなかのものだが、この一角は八戸藩南部遠江守の屋敷があった場所。この辺りは江戸時代から本村と呼ばれた地域で、今もその名は本村小学校に引き継がれている。

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2017年3月20日 (月)

青木坂(南麻布)

前述の新富士見坂に対する旧富士見坂が青木坂である。2010年ころフランス大使館の塀が、石垣と図形の入ったコンクリート塀からスレートっぽいコンクリートの成型塀にかわり雰囲気が大きく変化した。もとは樹木に覆いかぶされ、もっと細くて暗い坂だったのに妙に明るくなった。

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坂の上下に標柱がある。「江戸時代中期以後、北側に旗本青木氏の屋敷があった為に呼ばれた。」とある。江戸切絵図(古地図)を見ると青木甲斐守の屋敷は坂の南側である。しかしどうも甲斐守ではなく、摂津藩主である青木駿河守の屋敷はそれ以前坂の北側にあったようだ。江戸時代も長いのでその間に屋敷替えが度々行われた。この辺が江戸時代を読むのに難しいところである。

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青木氏の屋敷は現在フランス大使館の大使が暮らしていると思われる建物の辺り。裏の門の辺りになる。かつては時代感のある雰囲気の江戸の坂だったのに、今は完全に平成の坂になってしまった。

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2017年3月19日 (日)

新富士見坂(南麻布)

営団地下鉄日比谷線の広尾駅から外国人で賑わうナショナル麻布スーパーマーケット側に進み、変形の丁字路を右に入ると道の曲りの所に広尾稲荷神社がある。この稲荷は弘化2年(1845)に青山から麻布一帯を焼いた青山火事によって社殿を焼失、しかし2年後に再建された。

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その際に拝殿の天井に描かれたのが高橋由一の描いた『広尾稲荷拝殿天井墨龍図』。狩野派の流れをくみながら近代洋画最初の画家だった高橋の水墨画は天井から気を降り注ぐように感じられる。

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広尾稲荷を出ると隣には三基の庚申塚がある。元禄時代(1600年代後半)のもの。広尾は江戸時代にはまだ江戸郊外の様子だった。広尾稲荷は江戸後期の古地図には富士見稲荷という名で書かれている。この地の南には渋谷川(古川)が谷を刻み、西にはその支流の笄川が窪地を形成している麻布台地の南端で、西南西向きの坂からは富士山が望めたはずである。

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新富士見坂は「新」と付くだけに比較的新しい坂である。坂の標柱には、「江戸時代からあった富士見坂(青木坂)とは別に明治大正頃に開かれた坂で、富士山がよく見えるための名であった。」とある。坂はクランクして登っていくが、上の角の手前に古い欄干があるが、ここに沢があった形跡はないので、もしかしたら富士を眺める人が落ちないように大正以降に設置されたのかもしれない。

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江戸時代の古地図を見ると広尾稲荷(富士見稲荷)は裏手の傾斜地まで広がっていたようである。台地の上から稲荷に入る道もあったので、稲荷の裏手の高台から富士を望むことは十分できたに違いない。

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坂を上りきると高級な住宅が広がる。広尾駅東側一帯有栖川公園以南は今でこそ南麻布の住所だが、昭和41年(1966)までは麻布富士見町だった。北側の一角は現在ドイツ大使館、そして南側にはフランス大使館があるだけに洋風な雰囲気も濃く、それでいて江戸時代の大名の下屋敷の雰囲気も残した魅力的な異国情緒が感じられる。

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2017年3月18日 (土)

日東坂(日糖坂)

明治坂上から急坂の新道を下って外苑西通りを横切りそのまままっすぐに進むと日東坂の坂上に出る。 坂上に標柱がある。「日糖坂ともいい、日東紡あるいは日本製糖の用地があったからと伝える。大正初年に開かれた坂と推定される。」と書かれている。

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景色はどこにでもある直線の坂道である。ただし白金自然教育園の真裏の道なので木立が視界に広がり、野鳥の声も響いて気持ちのいい環境ではある。 自然教育園は戦前は白金の御料地だったが、それ以前の明治時代は海軍の白金火薬庫だった。

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江戸時代は高松藩の松平讃岐守の下屋敷が概ね白金自然教育園の敷地で、日東坂の周辺は松平和泉守(今の愛知県の西尾藩)の下屋敷だった。  白金台の辺りは江戸の町の中では本当に外れにあたり、そこから先は田畑と野原だったようだ。

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2017年3月17日 (金)

明治坂(白金)

北里研究所前を恵比寿駅方向に歩く。 途中斜めに分かれる路地がある。直進して恵比寿駅に繋がるバス通りは大正から昭和にかけて通された車道で、明治時代まではこの斜め道が白金から恵比寿ビール工場へのルートだった。 当時は今のガーデンプレイスの裏手の線路際から小川が流れ、この道沿いから北里研究所に流れていたようだ。

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その路地から直角に南に向かう上り坂がある。明治坂である。坂下と坂上にある標柱には、「昔から存在していた道であるが、明治坂と呼ばれたのは、大正初年からであると伝えられる。」と書かれている。 明治時代には明治坂とは呼ばれていなかったようだ。

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ややくねりながら登っていく急坂だ。 前述の坂下の路地には古い商店が並んでいたが、大正時代に開けていった商店街の名残りで、白金の住宅に住む住民の買い物の街だったようだが、今はほとんど営業していない。

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坂上はまさに高級住宅街だが、東側は大きな屋敷は少なく、白金台の中では初期の住宅街だと言える。それに比べて西側は大きなマンションが目立つ。この一角は高度成長期前までは都心でも貴重な自然が残る場所だったようだ。  外苑西通りが白金トンネル手前で左に折れ、目黒通りに接道する間の幅広い道路が昭和30年代に開通し、明治坂上からその新道に無理に繋げた急坂が下の写真である。

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都心ではあるが、起伏の激しい白金台は想像力を働かせると、自然に包まれた丘陵だったことを容易に感じられる。 

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2017年3月16日 (木)

蜀江坂(白金)

聖心女子高の裏手からまわり、塀沿いに進むとクランクがある。ここから先が蜀江坂である。 名前の由来は標柱によると、「坂上の丘を紅葉が美しい中国の蜀江にちなんで蜀江台と呼んだことからつけられた。昔の字名は卒古台であった。」とある。

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明治時代の地図にはすでに聖心女子学院があり、蜀江坂の坂名も記載されている。 江戸時代は茶畑に囲まれたエリアだが一番高いところに蜀江臺の記載がある。写真のクランクから坂は下りになる。

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坂の勾配に合わせて段々になった聖心の塀が美しい。 やはりコンクリートではなく煉瓦、さらに木塀、最高なのは石積みの塀だろうか。 煉瓦の中では相当にいい景色の坂である。昔は丸いコンクリート舗装(真空コンクリートパネル舗装)だったがいつからかアスファルトに変わってしまったのがいささか残念である。

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坂下になると勾配は緩やかになり、間もなくバス通りに出る。 出たところは北里研究所の病院である。 最近行った時には大村智氏のノーベル賞を祝った垂れ幕が沢山かかっていた。

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2017年3月15日 (水)

聖心女子高校裏手の坂道

この坂は特に書物に載っているとか、名前があるような坂ではない。それでも私のお気に入りの坂道なのである。

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三光坂の坂上に服部邸の門がある。その先を進むと右手に聖心女子高校の敷地へつながる広い路地があるが、入り口に守衛がいて当然その道に進むことはできない。 一方通行出口の標識の少し先の路地を右に入る。 そこはまるで住宅街の小道のようだが、少し歩くと上の写真の風景が現れる。

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そのまま進む。右のコンクリート塀は聖心女子の敷地。左の石垣は東京大学医科学研究所である。エイズなどの研究が有名だ。聖心の敷地は江戸時代は松平右近(現在の島根県浜田の大名)の屋敷だった。一方の東大医科学研究所は松平阿波守(徳島藩)の屋敷だった。もっとも江戸時代は結構屋敷替えが行われたので、徳島藩は幕末に近い頃のことである。

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今来た坂道を振り返るとそこにはまた反対から眺める薬研の坂。こちらも悪くない風景である。

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2017年3月14日 (火)

三光坂(白金)

三光坂は白金台の坂である。亡父が戦前に一時東京で暮らしていた時に恵比寿の豊澤町の親戚に居候をしていた。天現寺から渋谷の宮益坂まで都電で渋谷に映画を観に行っていたらしい。豊澤町は今の都立広尾病院の辺りである。また彼の行動範囲は白金三光町の方にも広がっていたらしく、そっち方面の話も聞いたものだ。 三光町には友人がいたようなことを言っていた。

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その三光町の通称バス通りから上る急坂が三光坂である。 港区の標柱は、「本来は坂下専心寺にあった三葉の松に基づき三鈷(さんこ仏具)坂だったというが、日月星の三光などという。」と意味の分からない説明で閉口した。 もっとも10%の勾配というのは大した坂ではないが、ここは見通しもよく風情を感じる。

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標柱の解説を紐解くと、坂下には氷川神社と並んで専心寺という寺があり、そこには珍しい松があった。普通松の葉は2本だが、ここの松は3本(三葉)の老松だったという。三代将軍家光が鷹狩りでこの寺に立ち寄った折、この松を愛でて三鈷松と名付けたという。三鈷というのは三又の仏具のことだが、その三鈷に因んだ三鈷坂が転じて三光坂になったという話のようである。

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三光坂を上りきると左側に延々と続く風雅な塀が現れる。門構えも随分と立派で皇族の館の雰囲気がある。 調べてみると服部家の屋敷だったようだ。服部家というのは時計のSEIKOの創始者である。 敷地は17,000平米ある。戦後GHQに奪われたが、その後セイコーが210億で買い戻した。しかし2014年にシンガポールのディベロッパーが305億で取得したらしい。庶民には縁のない話だ。

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服部邸の裏側に魅力的な坂道がある。 日吉坂のときに書いたあの坂道である。ここは宿題になったという隠れた無名の名坂。 この辺りをまたゆっくりと散策したいと思う。

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2017年3月13日 (月)

名光坂(白金)

国道1号線桜田通りの白金台辺りはその昔、葦原の中に沢の流れる風景だった。今の高輪台駅辺りを源頭にして古川橋辺りに流下していたと思われる。この沢が白金台と高輪台を分けているのである。

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坂名の由来は石川悌二氏の『江戸東京坂道辞典』によれば、「この辺りがむかし蛍の名所で、名光の地名になったことによる」とある。その情報元は『府内備考』の記述からのようだ。名光のが転じて、なこう坂とよばれ、また那光坂とも書かれた。

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現在は片側4車線に広い歩道付きの大通り。 さすがに国道1号線である。しかし江戸時代は寂しいところで、1800年代半ばでも葭原と樹木に覆われた谷で樹木谷と呼ばれた。それ以前は、地獄谷とも呼ばれたが、それはそういう寂しい場所だったので斬罪場(首切り処刑の場所)にもなっていたためのようだが、江戸後期には地獄谷とは呼ばれなくなったようだ。

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坂下の白金高輪駅上から国道1号線の桜田通りは魚籃坂を経て慶応大学方面へと方向を変える。 この交差点に古風な町屋が残っている。 人の出入りもありそうだが、調べてみると田中吉左衛門商店の所有となっている。三の橋にはまだこの会社の店舗があるようだ。

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2017年3月12日 (日)

日吉坂(白金)

桑原坂が接する目黒通りの交差点は日吉坂上。 ここから目黒通りは東に向かって下っていく。 この坂が日吉坂。 坂下は清正公の交差点。 清正公は坂下南側の覚林寺の通称。清正公はもちろん加藤清正である。端午の節句の清正公大祭にはわが子の成長を願う参詣客でにぎわう。 祭りの夜店は目黒通りではなく桜田通りを渡った天神坂に並ぶのは、昔の街道が二本榎通りだったことの名残だろうか。

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日吉坂上の交差点と都ホテル前に標柱がある。「能役者日吉喜兵衛が付近に住んだためと伝える。ほかにひよせ、ひとせ、ひとみなどと書く説もある。」と記されていた。

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以前は歩道のない片側2車線の目黒通りだったが、今は拡幅され広く整備された歩道で広々感がある。 坂の途中に三光坂上につながる細道がある。服部邸の脇を通る坂で、無名だが魅力的なので近々再訪したいと思っている。

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坂下の都ホテル東京は今の名前はシェラトン都ホテル東京。 1979年に開業したが、その後海外ホテルチェーンと提携解消を経て今はシェラトンの冠をつけているが、所有は日本の近鉄である。

坂下は昔は小さな川が流れる沼地だった。葭が生え葭原を形成していた。その後江戸期には多くの寺が建てられて台地の武家屋敷も増えていったようだ。清正公の向かいは熊本肥後の国の細川家の屋敷だった。

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2017年3月11日 (土)

桑原坂(白金台)

手前事だが長女が2年ほど前に白金の八芳園で結婚式を挙げた。 その八芳園の角から明治学院大学方面へ下るのが桑原坂である。 坂の上下にある標柱には、「今里村の地名のひとつである。その起源について、特別の説は残っていない。」と港区らしくそっけない。

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八芳園の角に古地老稲荷神社という小さな稲荷があるが、これは文政13年(1830)の鎮座で村人が建てたようだ。 坂の南の裏手にある瑞聖寺(ずいしょうじ)のほうが古く寛文10年(1670)の開山。 現在のこの辺りの住所は白金台だが、明治の初期は南白金村、大正時代になって今里町となったようだ。

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坂の景色のひとつに八芳園の木塀がある。この段々になった黒塀が雰囲気を深いものにしている。 八芳園は大久保彦左衛門の下屋敷の跡だと言われているが定かではない。江戸後期の地図には松平薩摩守の屋敷になっているから島津藩の屋敷だったのだろう。

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坂を下っていくと明治学院大学がある。 島崎藤村の出身校である。 明治学院大学ができたのは明治時代(1887)で、創始者はローマ字を作ったヘボン夫妻、そのヘボン塾が母体である。


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2017年3月10日 (金)

幽霊坂(高輪2丁目)

高輪にはもう一つの幽霊坂がある。 標識もなければ何もないが、高級住宅地の高輪台のなかでも不思議なエリアである。泉岳寺の山門を出て右に進む。 2本目の路地をさらに右折すると、その先左にカーブするあたりからがその不思議な空間になる。 右手に階段を見て工事フェンス沿いに回り込む。この高輪にこれだけの空き地があることも不思議だ。崖の上のオレンジ屋根の家の裏は赤穂浪士の墓。

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この空き地は数年前までパークテラス高輪という低層の高級マンションが建っていた。まだWEB上では物件として部屋の案内が残っていたりする。 築年は1985年だから25年ほどで取り壊された不思議な物件だ。賃貸だったようで広告には4SLDKの部屋が出ていた。リビング52帖、ダイニング19帖、4ベッドルームで8帖~14帖まで、キッチンは20帖以上ある。家賃は100万円は下らないだろう。同じマンションのずっと狭い3LDKの部屋が75万だったから。そんなマンションは見たことがない。しかし解体されたのはなぜか疑問が残る。

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上の空き地の裏手で不思議な角を曲がると正面に急こう配の坂道が迫ってくる。 坂は頂上に着く手前でいったんクランクする。 こういうクランクも何故できたのかという疑問がわく。

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坂上から坂下を望む。遠くに見えるのは住友不動産の三田のベルサールの赤い高層ビル。 坂の名がいつつけられたのか、坂名の由来、ほとんどが謎だが、高輪の中でも魅力的な坂と言える。 この崖は川が作り出したものではなく、遠い昔に海が侵食してできたものだろうと思う。

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2017年3月 9日 (木)

蛇坂(三田)

慶応大学三田校舎の前を白金方面へ進む。都心には似合わないケーヨーデイツー三田店の手前の路地が蛇坂の入り口。 桜田通り側の入り口と坂の途中のクランクのところに標柱がある。ここの説明も幼稚園児並みだ。「付近の藪から蛇が出ることがあったためと想像されている」とだけ書いてある。 手抜き息抜きごぼう抜きな標柱だ。

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江戸時代、慶応大学の敷地は松平主殿頭の屋敷、深溝(ふこう)松平家で三河の国、今の愛知県の幸田町の殿様。国替えを何度かして江戸末期は島原藩を治めた。 その北側のイタリア大使館も松山藩の松平隠岐守の屋敷だった。大名屋敷だったところはそれなりに面積のある施設に変わっていることが多い。

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蛇坂の坂上は安全寺坂の坂上とつながっている。 桜田通り側の崖が急である。 この地区は寺また寺の寺町だったが、今もいくつもの寺が残っているが、寺も厳しいのだろう。写真は西蔵院の裏の墓地だが、蛇坂側から下る階段も荒れ果ててしまっている。

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坂上からは、普連土学園の近代的な渡り廊下の下の公道を通ると潮見坂に出る。この3つの坂の道のつながり方は江戸時代とは変わってしまった。江戸時代は、潮見坂がまっすぐに伸びて丁字路、右へ行くと安全寺坂、左へ行くと蛇坂だったようだ。

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2017年3月 8日 (水)

安全寺坂(三田)

面白い名前の寺があったものだ。現在はもう存在しない。江戸末期の地図にもない。どうやら江戸の初期にあったようだ。 しかし400年も昔の寺の名前が今に残るのは大したものだと思う。 江戸期にはこの辺りは寺だらけだった。にもかかわらず安全寺坂という名前が残ったことに感心する。

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標柱には「坂の西に江戸時代のはじめ安全寺があった。誤って安珍坂、安楽寺坂、安泉寺坂、などと書かれたことがある」とある。 相変わらず簡素な説明だ。坂は直線的に下り、桜田通りに出る。正面は慶応大学三田校舎。

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安珍坂という別名は、安全坂につながる蛇坂と混じって、安珍清姫の話とこんがらがって呼ばれたものと思われる。 このへんは江戸っ子のそそっかしさが出ていて面白い。

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2017年3月 7日 (火)

潮見坂(三田)

潮見坂(汐見坂)という坂は別名を含めて東京に8ヶ所ある。 どの潮見坂も今は海を望むことはできない。この三田の潮見坂は中でももっとも海に近い坂のひとつである。

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今はと言えば、町の路地に過ぎない景色になってしまった。 ただ、三田が鞍型の地形をしていることがこの坂を進むとよくわかる。 坂上で左に折れると普連土学園中学校高校の塀沿いに進んでいく。 この辺の景色はまずまずのもの。

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クランクのところから坂を振り返るとその先にはマンションと高層ビルが見える。 昭和の中頃までは海が見えたのだろう。 そびえているガラスの高層ビルはバンダイナムコのビル、その右側は線路の向こうの田町グランパークタワーである。その二つの高層ビルの間が江戸時代の海岸だったから、この坂から海が見えたというのは想像に難くない。

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2017年3月 6日 (月)

聖坂(三田)

二本榎通りは高輪台から三田台地にかけての背骨である。三田台地というのはいささか大げさかもしれない。 慶応大学のある島に向かって伸びた半島の首が桜田通りのところでほぼ海水面近くまで標高を下げる、この最後の下りが聖坂である。

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この半島を作ったのは古川(渋谷川)だ。 北海道の川の流れを見ると曲がりくねっていて、所々に三日月湖などを形成しているが、この東京でも似たことが文明以前には起こっていたわけである。慶応大学の南側の桜田通りのくびれはどうしてできたのだろう、そういう事を考えるのが面白い。

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区立三田中学校辺りから下り坂が始まる。 長い直線の坂である。 坂の上と下に標柱がある。「古代中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったためという。竹芝の坂とよんだという説もある。」と港区の標柱にしてはしっかりと書いてある。古代中世の通行路というのは二本榎通りである。江戸時代以前の東海道は丸山古墳のある芝公園から桜田通り沿いに南下、慶応大学のところでは曲がらずその先の三田三丁目から聖坂へと通じていた。

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江戸時代の坂道を歩き回っていると、さらに古い道に出くわすことがある。 徳川は五街道を整備した。東海道、甲州街道、中山道、日光街道、奥州街道である。しかしそれ以前にも道はあちこちに続いていた。もちろん京都中心の時代だから、東京は東国の秘境。また鎌倉時代にはいざ鎌倉と駆けつけるために整備された道があり、関東のあちこちに鎌倉街道という名の通りがあったりするから面白い。

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2017年3月 5日 (日)

幽霊坂(三田)

幽霊坂と名付けられた坂は東京に8か所あるが多くは別名が幽霊坂である。おおよそは暗い坂であることからついた別名だが、本名が幽霊坂というのは半分。文京区の目白台に2ヶ所、靖国神社裏に1ヶ所、そして高輪台の幽霊坂とこの三田の幽霊坂である。幽霊坂の条件を寺町であり墓がそばにあるという点では、この幽霊坂が随一だといえる。

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それに加えて若干苔生した石垣が雰囲気を盛り上げている。三田のこの辺りは寺また寺の街である。南西の魚籃坂からこの幽霊坂までの200~300m四方の中になんと15の寺院がある。

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幽霊坂の面白い点はその雰囲気だけでなくここが二段坂になっていることだろう。 一つだけ垂直に接続する丁字路の道筋周辺が踊り場のようになっている。高輪台地が古川に削られた河岸段丘の名残だろうか。この辺は自分の中で宿題にしたいところ。

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さらに雰囲気が高まるのは踊り場から下、桜田通りに出るまでの下り坂。 玉鳳寺の門前から随應寺と忍願寺の間を下っていく、幽霊坂の中でももっとも斜度のある部分。坂に合わせて階段風になった随應寺の塀が綱坂のそれに似ていて優雅さを感じる。

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桜田通り側から望むとこんな感じの風景。 この辺りに寺院が多いのは、江戸の初期に幕府が江戸城の城郭拡大に伴って八丁堀にあった寺院がここに移転させられたからと伝えられる。 しかし八丁堀辺りは江戸入城期に埋め立てられたエリアだから、わずかな期間でここに移転させられたのだろう。例えば随應寺は1611年に八丁堀に創建、1635年にここに移転、玉鳳寺は1599年に八丁堀に創建、1635年に移転。 概ね1635年に多くの寺がここに移されたという記録がある。

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2017年3月 4日 (土)

伊皿子坂(高輪台)

魚籃坂の坂上からそのまま馬の鞍の反対側に降りるように下っていくのが伊皿子坂。 このエリアは幸福の科学の施設が多い。今、話題の新興宗教で、言っちゃあ悪いがどの建物も趣味が悪い。 坂上から見下ろすとビルが多いが、江戸時代は海が見えたはず。

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坂上と坂の途中に標柱がある。「中国人伊皿子(いんべいす)が住んでいたと伝えるが、他に大仏(おさらぎ)のなまりとも、いいさらふ(意味不明)の変化ともいう。」とう訳のわからないことが書いてある。  本当に港区の説明書きはテキトーだ。

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坂の南側に駅のホームのようにずれた歩道がある。 このような場合は段差の追いやられている側が昔の道である場合が多い。 大正期に都電がこの通りを走っていた。 急な傾斜を緩和して新しく道を広げたと推測できる。また、江戸期はこのまままっすぐに大木戸の方に下るのが本来の伊皿子坂だったが、電車が通るとそっちがメインルートになっていった。

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江戸期の伊皿子坂の下半分の名残が大木戸の交差点に向かって下っていく。 この曲がり方は古い道であることを証明している。 下って第一京浜を渡り少し品川駅方面に行くと大木戸跡がある。高輪大木戸は江戸時代中期に芝口門に建てられたものが享保9年(1724)にここに移された。 江戸南の入り口として、道幅約10mの旧東海道の両側に石垣を築き、夜は閉めて通行止めとし、治安維持と交通調整の機能を果たしていた。

一方の新しいほうの道を下ると途中で折れ曲がる。これは泉岳寺の参道に突き当たって参道に合流する形をとっているからである。

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泉岳寺は赤穂浪士の墓が有名で、実際には和洋沢山の参拝客がいる。萬松山泉岳寺は曹洞宗の寺。 慶長17年(1612)に今川義元の孫である門庵宗関(もんなんそうかん)和尚を立てて徳川家康が外桜田に創設(今のホテルオークラ辺り)。 しかし寛永の大火で焼失し、現在の高輪の地に移った。

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2017年3月 3日 (金)

魚籃坂(高輪台)

首都高速2号目黒線が古川の流れに沿って北上する古川橋から南に少し行ったY字路の交差点が「魚らん坂下」その先の桜田通りとの交差点が「魚籃坂下」。同じ名前だが道路標識の名称が漢字と仮名で違っているのが面白い。桜田通りを過ぎて二本榎通りとの交差点「伊皿子」までが魚籃坂である。

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標柱の説明は、「坂の中腹に魚籃観音を安置した寺があるために名付けられた」と極めてシンプルな文章のみ。 魚籃観音があるのは魚籃寺である。寺の創設は承応元年(1652)。江戸の絵図には「魚籃観音」とある。魚籃坂から慶応大学三田校舎の辺りまでは、寺町だった。その南の端が魚籃観音だ。

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伊皿子の交差点から魚籃坂を見下ろすとその彼方には六本木ヒルズがそびえている。坂の中ほどに昭和期には魚籃坂病院という病院があった。この病院と魚籃坂をモチーフに書かれたのが横溝正史の『病院坂の首くくりの家』と言われている。 古い昭和の地図では病院だが今は中くらいのマンションになっている。 奇しくもその位置は標柱の場所だった。

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2017年3月 2日 (木)

葭見坂(高輪台)

天神坂の北側にあるのが葭見坂。 桜田通り辺りは葭原で、古川の支流の沢筋。 今の桜田通りの脇道を入る。 少し先になると軽自動車がやっと通れるかという細道になる。 細道の先でクランクする辺りから若干道幅が広がるが、普通車がやっとの広さ。

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江戸時代は細川越中守の屋敷があったところ。 細川越中守とは細川忠興(ただおき)、正室は明智光秀の娘細川ガラシャ。敷地は広く現在の区立高松中学校と高松宮邸を含めた広さがあった。その南側の路地筋に当たる。この細川邸の名残としては中学校の脇に旧細川邸のシイの老木が残る。

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また上の写真は高輪一丁目アパートの裏手にある大石良雄外十六人忠烈の跡。 忠臣蔵で知られる赤穂事件の折、大石内蔵助ら17人が預けられた細川邸の一部。ここで赤穂浪士たち17人は切腹をしたという場所である。

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2017年3月 1日 (水)

天神坂(高輪台)

二本榎通りを北へ進む。途中魅力的な路地があったがこれは別の機会に紹介したい。東海大学付属高輪高校を過ぎると、角に古風な建物の店舗が現れる。とらや(虎屋)という和菓子屋。 しかしあちこちのデパートにある、あの箱の底に賄賂を忍ばせるあの虎屋とは無関係らしい。

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そのとらやの角を入り桜田通りに下るのが天神坂である。 坂の上と下に標柱がある。 「むかし坂の南側に菅原道真の祠があったためにいう。葭原が見えるので葭見坂・吉見坂といったという説もあるが坂間違いらしい。」とある。相変わらず港区の標柱の説明は短くてテキトーだ。

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坂はなかなかの勾配である。明治の地図を見ると桜田通りの筋には川が流れていた。渋谷川(古川)の支流で、明治学院大学の南側に水源の池があり、そこから北に流れていた。その沢が削った谷がこの坂を形成したようだ。

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