伊皿子坂(港区高輪/三田)
魚籃坂の坂上からそのまま馬の鞍の反対側に降りるように下っていくのが伊皿子坂。 このエリアは幸福の科学の施設が多い。今、話題の新興宗教で、言っちゃあ悪いがどの建物も趣味が悪い。 坂上から見下ろすとビルが多いが、江戸時代は海が見えたはず。 その証拠にこの坂には潮見坂の別名がある。坂下のJRの線路辺りは芝浜だから、潮の香りも漂ってきただろう。
坂上と坂の途中に標柱がある。「中国人伊皿子(いんべいす)が住んでいたと伝えるが、他に大仏(おさらぎ)のなまりとも、いいさらふ(意味不明)の変化ともいう。」とう訳のわからないことが書いてある。 本当に港区の説明書きはテキトーだ。
中国大陸で明国が清にとって代わられた時代、明の僧や儒学者が日本に亡命してきた記録がある。 このあたりにも7人の中国人がいた。 彼らのことを「イビス」とか「エビス」と呼んでいた。 イビスが転化して伊皿子となったという説が有力。
坂の南側に駅のホームのようにずれた歩道がある。 このような場合は段差の追いやられている側が昔の道である場合が多い。 大正期に都電がこの通りを走っていた。 急な傾斜を緩和して新しく道を広げたと推測できる。また、江戸期はこのまままっすぐに大木戸の方に下るのが本来の伊皿子坂だったが、電車が通るとそっちがメインルートになっていった。
江戸期の伊皿子坂の下半分の名残が大木戸の交差点に向かって下っていく。 この曲がり方は古い道であることを証明している。 下って第一京浜を渡り少し品川駅方面に行くと大木戸跡がある。高輪大木戸は江戸時代中期に芝口門に建てられたものが享保9年(1724)にここに移された。 江戸南の入り口として、道幅約10mの旧東海道の両側に石垣を築き、夜は閉めて通行止めとし、治安維持と交通調整の機能を果たしていた。
一方の新しいほうの道を下ると途中で折れ曲がる。これは泉岳寺の参道に突き当たって参道に合流する形をとっているからである。
泉岳寺は赤穂浪士の墓が有名で、実際には和洋沢山の参拝客がいる。萬松山泉岳寺は曹洞宗の寺。 慶長17年(1612)に今川義元の孫である門庵宗関(もんなんそうかん)和尚を立てて徳川家康が外桜田に創設(今のホテルオークラ辺り)。 しかし寛永の大火で焼失し、現在の高輪の地に移った。
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