阿衡坂(南麻布)
新坂の坂上、フィンランド大使館手前を右折すると大使館の素敵な石垣が終わるころから緩やかな下り坂。右側には本村小学校。明治35年(1902)の開校。都心でも360人の児童が通っている。廃校になる都心の公立学校が多い中では頑張っている感がある。
この本村小学校一帯は、江戸時代初期には保科肥後守の下屋敷だった。保科正之は2代将軍徳川秀忠の実子(家光の実弟)だが、正室の嫉妬のために高遠藩の養子になったので保科の名になった。秀忠は彼の性格が温厚明敏であることを認め、将軍の侍従として、中国でいう「阿衡:天子の補佐役」の職を務めた。これが坂名の由来。
保科肥後守は侍従となって家光に仕え高遠藩を離れ、会津城主となる。その後は摂政として将軍家に奉仕し、いったん焼失した江戸城の天守を再興するのに、すでに太平の世になり天守は軍用のもので必要はないとの主張をして、それ以来江戸城の天守閣は建てられなかったその中心人物だった。
坂は本村小学校の先でもっとも標高を下げて坂下となる。 ここは古川に下る極めて短い沢がかつてはあったのだろう。この辺りには水源があったと思われる地形図の等高線が見て取れる。坂はここから上りになり奴坂に続く。
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