« 2017年3月 | トップページ | 2017年5月 »

2017年4月30日 (日)

永坂(麻布)

以前に更科蕎麦の発祥について書いた。 江戸の老舗というと藪蕎麦、砂場、更科が有名。 そのうちの更科は麻布の蕎麦。 その麻布の更科蕎麦には3つの老舗があり、その一つが永坂更科布屋太兵衛。その本社は首都高環状線の麻布十番とは反対側にある。

Dscn2053
本社脇にいかにもの石碑がある。また近くには古い案内看板もあり、麻布十番の入口角が協和銀行となっていて歴史を感じる。(協和銀行は1991年に埼玉銀行と合併し今はりそな銀行になっている)

Dscn2055
その永坂更科本社から道路を渡ると永坂である。高速道路とその下の麻布通りの建設に伴って、永坂は真ん中をぶった切られてしまった。そのため坂下の一部と坂上の一部だけが今は残る。坂下は50mほどしかない。

Dscn2056
坂の中央部のほとんどが麻布通りに吸収されている。首都高の飯倉出口あたりで永坂の上部が左に分岐するように残っている。

Dscn2057
永坂はとても長い坂なので江戸の前期には長坂といわれていた。それが享保年間(1716~1736)辺りから永坂となった。 永坂にはお亀だんごの言い伝えがある。 麻布永坂の浪人が品川沖で子亀を釣り上げたが、珍しい亀で多くの人が見物に来るようになった。知恵者の女房が郷里から米を取り寄せて団子を作り見物客に売って大儲けをしたという話である。

Dscn2060

永坂を坂上から振り返ると、かつては本当に長い坂だったことがわかる。坂上は六本木交差点から飯倉への大通り(外苑東通り)で、この通りは江戸時代と道筋が変わっていない。

| | コメント (0)

2017年4月29日 (土)

七面坂(麻布)

大黒坂の坂下から麻布十番商店街に向かって下る坂が七面坂である。 標柱には、「坂の東側にあった本善寺(戦後五反田に移転)に七面大明神の木像が安置されていたためにできた名称である。」と記されている。

Dscn1824
現在は短く傾斜もあまりない坂道である。 標柱にある本善寺は戦後五反田に移ったと書かれているが実は廃寺のようであると横関英一氏の本には書いてあったが、調べてみると五反田駅と高輪台駅の間に本善寺は存在し、七面明神座像もご本尊としてあるようだ。

Dscn1827
坂下は麻布十番商店街なのだが、昔から何故十番なのかが気になっていた。 調べてみると江戸時代に古川の改修が行われ、その第10番目の工区だったからだとされているようだ。『御府内備考』(1820年代幕府編纂)という書物にその記述があるようだが、難しい古文を自分なりに読み解くと、10番目の工夫を出した町ということも、10番目の土置き場だったという事も書かれており、よくわからない。

港区のHP を見てみると1975年当時の写真があり、そうとうな傾斜に見える。

http://www.city.minato.tokyo.jp/azabuchikusei/mirai/04-06.html

| | コメント (0)

2017年4月28日 (金)

大黒坂(麻布)

麻生一本松に集う四辻の最後のひとつは大黒坂。 古地図には大黒坂の位置に一本松坂と記載されているものもある。 道筋としては同じ道筋で、暗闇坂と狸坂はこの通りの脇道という位置づけになろうか。 新撰東京名所図会には、辻よりも上を一本松坂、下を大黒坂というと記されている。

Dscn1817
坂上から望むとビルの上から東京タワーが顔を出す。 標柱には、「大国坂とも書く。坂の中腹北側に大黒天(港区七福神のひとつ)をまつる大法寺があったために呼んだ坂名である。」と書かれている。ただ大法寺は過去形ではなく今もある。

Dscn1821
大黒天の大法寺は日蓮宗の寺院。 創建は享保15年(1597)であるから、徳川が江戸に入る直前。 昔から地元では大法寺の名よりも大黒天の名で親しまれている。大黒坂の坂下をそのまま進むと、麻布十番納涼祭りの行われる道路の真ん中のケヤキ広場。

Daikoku

大黒坂の南側は江戸時代は一角すべてが寺院の寺町だった。ある江戸切絵図を数えただけでこのブロックには22の寺院がある。その中心は善福寺である。 ただそれらの寺院は通りからは少し奥まった配置になっていて、通り沿いは町屋が並んでいた。 江戸時代の寺は庶民が何かと集まる場所だったから、この界隈は相当な賑わいだったのだろう。

| | コメント (0)

2017年4月27日 (木)

一本松坂(麻布)

一本松坂の一本松は平安時代から引き継がれた名木である。天慶2年(939)、平清盛を攻めた源経基はその帰路ここにあった民家に泊まった。翌日来ていた装束を松の木にかけて出発したという言い伝えがある。それで冠松とも呼ばれた。

Dscn1812
江戸名所図会にもこの松のある辻が描かれており、麻布一本松という題になっている。絵を見る限り今よりもにぎわっていたかもしれない。茶店もある。4つの坂(暗闇坂、大黒坂、狸坂、一本松坂)の辻という稀有な条件で、今で言うと六本木交差点みたいなものか。また電話ボックスがあるのが今日となっては珍しい。

Dscn1811
昭和20年に建てられた一本松の由来を記した石碑がある このわきにある松を囲む医師の土台には、「世話人、若者、安政2年」とあり、名前が4人掘りこんである。安政2年は1855年だから江戸末期に組まれた石囲いか。

Dscn1814
一角の藪の中に一本松と堀った石柱がある。この年代は不明。1000年以上もの間、枯れると新たに植えられ、人々に親しまれた松である。 江戸初期には家康が関ヶ原の戦いから持ってきた首級(しるし)を検分した場所で首吊塚と呼ばれたらしい。さらにもっと昔は古墳だったという話もある。

Dscn1806

標柱には、「源経基などの伝説をもち、古来、植え継がれている一本松が坂の南にあるための名である」とだけ記されている。確かに植え継がれて三代目とも五代目ともいわれている松だが、1000年を超える歴史を持つ辻として、数え切れいないほどの人々を見てきたのだろうと感慨深いものがある。

| | コメント (0)

2017年4月26日 (水)

狸坂(麻布)

狐坂の坂下の辻を真っすぐに進むと再び急な上り坂になる。狸坂である。まみ坂(まみは狸の意)、旭坂、切通坂の別名がある。旭坂は朝日坂からの転化らしく、この坂はほぼ東に向かって登り、朝日がまぶしい上りになるからだろう。

Img_3925
大正前期までこの谷筋はススキの原だったようで、坂の南側には大きな楠があってその根っこに狸の親子が巣を作っていたという記録もある。狸坂は都内にもう一つ、千駄木にある。千駄木は狸坂、狐坂、むじな坂が平行に並んでいる。

Img_3926
坂上近くには教会があって、麻布グレイスゴスペル教会セントメアリー記念礼拝堂という。 もっともこの協会は結婚式の前撮りや、結婚式そのものがメインのようで、さすがにお洒落な雰囲気を醸し出していた。写真の石垣はその協会の石垣だがもとはここにあった邸宅の建設時に組まれたものだろう。

Img_3928
坂の上下に標柱がある。「人を化かす狸が出没したといわれる。旭坂というのは東へ上るためか。」と相変わらずあいまいな港らしい説明書き。 しかし麻布の坂の中でも特にいい雰囲気と景色の坂である。


| | コメント (0)

2017年4月25日 (火)

狐坂(麻布)

宮村坂を下り終えると狐坂のほぼ坂下に接する。 狐坂は尾根筋のテレ朝通りから麻布の谷筋に下る道で、北側に中華人民共和国大使館の無機質な塀を見ながらとなる。ちょうどこの大使館の塀が始まるあたりから下りになり、隣りのアラブイスラム学校前から勾配が増す。

Img_3924b
道の彼方に見える高層ビルは、パークコート麻布十番ザ・タワーとシティタワー麻布十番。そのうち出てくるが神明坂の神明神社のそばにある高層マンションである。江戸時代なら海が見えたのではないだろうか。 この坂上の辺りを昔は大隅山と呼び、そこから下る坂なので大隅坂ともいう。坂の北側に浄土宗の長玄寺、南側に日蓮宗の本光寺があり、江戸期の記録にはこの辺りは狐の縄張りで古狐が毎夜化けたという記述がある。

Img_3924
狐坂の坂下は狸坂の坂下でもあり、江戸期以前は宮村坂から下る沢と蝦蟇池近くから下る沢がこの辺りで合流し、麻布十番商店街筋に流下、そこで六本木の芋洗坂から流下する吉野川に合流、今の麻布十番商店街を流れ下り、古川に合流していた。

| | コメント (0)

2017年4月24日 (月)

宮村坂(麻布)

この坂はわかりにくい。比較的新しい昭和初期の坂道である。 明治以前はテレ朝通り沿いの尾根からの緩やかな谷筋に畑や田んぼが広がる場所だった。麻布消防署の脇の路地を入ると、変則十字路がある。右手に民家のような白い建物があるが実はサンマリノ大使館。大使館の左側の路地を入っていくと下り坂になる。

Img_3921
僅かにクランクした道は地図にも明確に表示されていない路地である。もともと麻布のこの一帯は麻布宮村町と呼ばれていた。 この辺りにかつて氷川神社があったのが宮村の名前の由来だという。

Img_3922
クランクの所に橋の欄干のような遺構がある。この辺りは石畳の道になるが、もとはもっと上の方からこの石畳だったようだ。明治の地図を見るとこの辺りには水路がいくつかあったようだ。その名残だと嬉しいのだが、石の橋ではなくコンクリートだったので昭和の中期のものだろうと思われる。坂を下りきると狐坂に出る。

| | コメント (0)

2017年4月23日 (日)

羽沢坂(広尾)

この坂も区境の坂である。エリア的には渋谷区に思えるのだがこの道が区界で、道の北側は港区、南側が渋谷区になる。恵比寿駅から北へ進む駒沢通りが六本木通りにぶつかる手前、一つ南が東四丁目の交差点でここは珍しい六差路になっている。 実は六本木通りとの交差点である南青山七丁目は変形の七差路。マルチ交差点の連続は全国的にもないのではないだろうか。

P1000249
東側の2本の道(上の写真)は右側が東京女学館への道、左側が羽沢坂である。 明治時代からあるのはこの羽沢坂から向かい側の國學院大學の間を抜けて東三丁目へ出る筋。この東四丁目の六差路でイモリ川を渡り、その橋の脇が根津美術館方面への道との三叉路だった。昭和になって青山学院脇から南へ抜けて東京女学館への道ができ五差路になった。昭和の後期東京オリンピックのころ六本木通りが開通したのと同じ時期に駒沢通りがつながって六差路になった。

P1000250
昔の道筋らしく微妙に曲がりながら上っていく。 源頼朝が飼っていた鶴が卵を産み、ひなが初めて羽ばたいたので、沢地のここを羽沢と呼ぶようになったという言い伝えがある。江戸時代は大名屋敷が田畑の間にポツポツとあるような風景だった。

P1000252
羽沢坂(上の写真の左の道)は青山からの道(右の道)を合わせて日赤医療センターへの道になるが、青山からの道も古い道。微妙な高低差が景色を面白くしている。江戸時代に広尾あたりから目黒不動へお参りする人々は、この道を来て羽沢坂を下り、氷川神社を通っていたという。 若干遠回りのような気もするが。

| | コメント (0)

2017年4月22日 (土)

堀田坂(広尾)

堀田坂は日赤医療センターの北側の広尾ガーデンヒルズの前の道路から外苑西通りへ下る坂道。 この道は北が港区で南側が渋谷区になる区境の道である。ケヤキ並木がきれいな整備された道を東へ進むと、急に北へ曲がって下る坂が現れる。

P1000256
坂の上下に標柱がある。「江戸時代には大名堀田家の下屋敷に向かって登る坂になっていた。」とだけ書かれている。 堀田家は下総佐倉藩の藩主。 老中にまでなった家なのでその名がついたのだろう。

P1000258
この坂に続く崖は笄川の河岸段丘と思われる。この河岸段丘の端は広尾の聖心女子大学の敷地である。その南側で笄川は渋谷川に合流する。 広尾商店街は戦前は五の市といって5日、15日、25日に市が立った。 今はもう見られないようだが、江戸時代の末頃から栄えてきたらしい。それ以前の風景は安藤広重の「広尾ふる川」に描かれているようなのどかな風景だったと思われる。

Photo
(国会図書館データベースより引用加工)

| | コメント (0)

2017年4月21日 (金)

内田坂(麻布)

麻布十番商店街を駅から進むとやがて外苑西通りに合流するが、その一つ手前を左に曲がると六本木高校(旧城南高校)。高校の敷地を回り込むようにコの字型に曲がっていく。 最初の入り口は麻布商店街の道と並走だが、高低差があるので途中階段でつながっているところもある。

Dscn3515
場所は六本木ヒルズ側からいうと、ヒルズレジデンスの真裏になる。六本木高校の裏手を上るが、向かいの南山小学校との間なので、のどかで都心とは思えない雰囲気がある。この坂は明治の坂だが、南山小学校周辺が千葉県下総小見川藩の内田豊後守の屋敷だったので内田坂と名付けられた。

Dscn3516
南山小学校の裏手は六本木高校の別校舎で渡り廊下が道をまたいでいる。 その先にある小さな公園にはヒルズ族の親子連れが遊んでいる。日本人と外国人が半々かむしろ日本人のほうが少ない感じ。 この公園の片隅に石碑がある。乃木希典誕生の地の碑である。内田豊後守の北側は長州長門府中藩(下関)の毛利の上屋敷で、その敷地内の長屋で1849年に乃木大将が誕生したとある。子供たちの歓声の聞こえる公園の片隅にはいささか似合わないが、長州生まれの私としては近しい感覚がした。

| | コメント (0)

2017年4月20日 (木)

霞坂(西麻布)

焼肉ブームが始まったころ西麻布の交差点近くにあった叙々苑(今も游玄亭というネーミングのアンテナショップがある)、十々、トラジが有名だが、外国人に人気なのはやはりキル・ビルの和食レストラン権八。 私は北坂の方にあるうしごろが好きだが、どれも値段が高くてなかなか行けない。

P1030008
クリントンも来店したという権八だが、今はあちこちにあるので別にここでなくともよし。霞坂はこの権八の角から六本木に向かって上る。 標柱には、「明治初年に霞山稲荷(現在の桜田神社)から霞町の町名ができ、そこを貫通する道が明治20年代に開かれて霞坂と呼んだ。」とある。

Img_3960
昔の町名霞町というのはとても風流で粋な地名だと思う。西麻布〇丁目なんてまったく風情のかけらもない。 明治までの街の呼び名は桜田霞町、これはこの辺りに田畑を開いた農民が元は桜田門近くに住んでいて、江戸の街の開発のためにこちらに追いやられたためで、桜田門の桜田、霞が関の霞を取って呼んだものだろうと思う。

| | コメント (0)

2017年4月19日 (水)

北坂(姫下坂)

どちらが本当の北坂かはわかなない。というか複数の説があるということで、別説の北坂を歩いた。坂上の入り口はわかりにくい。民家の間の路地を入っていくと、いきなり滑稽なオブジェが現れる。

P1020998
東側は墓所(立山墓地)で、緑の多い直線路。 しばらくは平坦だが、間もなく下り坂になる。 これが結構急な坂で、原付バイクがブーンとエンジンを唸らせながら上っていった。

P1030002
坂下には庚申塔がある。港区の指定文化財で、「青山の庚申塔」と言われている。根府川石(安山岩)で掘られた大きな石碑である。時代は慶応元年(1865)だから江戸末期。 この地域では昭和初期まで庚申信仰が行われていたという。

P1030005
庚申塔の周りの鉢植えや掃除道具を見ると近所の人々が守り続けていることがわかる。坂上に戻って、青山墓地を横切る道路は昭和30年代の開通で、それまでは青山脳病院があった。 斎藤茂吉が院長を務めた病院で、息子の北杜夫の『楡家の人々』に登場する。

| | コメント (0)

2017年4月18日 (火)

北坂(根津坂)

笄橋の話でこの笄川がかなりの流れでとても渡れない川だったという古の話を書いたが、地形に残る笄川はいくつもの源流を集めて西麻布付近で大きな流れになっていたであろうことが断裁陰影図から想像できる。

_000_1
現在の外苑西通りが本流。乃木坂からも支流が流下する。西側は現在の根津美術館の池が源流に近い。そこから流下した谷に沿って北坂(姫下坂)が通じた。 北坂の名前は笄坂の北側にある坂の意である。

Img_3955
江戸時代には大名屋敷わきの路地レベルだったが、大正期になって表参道とつながることで交通量の増えた坂である。根津美術館ができてからは坂に沿うように緩やかに湾曲する塀がとてもきれいな坂。江戸時代は秋月佐渡守の屋敷。宮崎県日向の高鍋藩の殿様である。

P1020996
明治になってからは実業家の根津氏の邸宅になったので、根津坂。しかし昔の北坂がはっきりしないのでここを北坂と呼ぶ説もある。北坂と呼ばれる所以は、古文書でどちらも北坂とあるものがあるかららしいが、江戸以前にさかのぼるとこの台地周辺は長者丸と呼ばれた場所。牛坂で書いた長者の恋物語の領地。長者の娘は駕籠に乗らず歩いてここから下って逢瀬に赴いたので、姫下坂の別名もある。

Img_3954
坂の南側、笄坂の坂上との間には広い寺がある。曹洞宗永平寺別院の長谷寺(ちょうこくじ)である。江戸時代の始まる直前1598年の創建だが、江戸の切絵図にはとても大きく描かれている。有名人の墓も多く、坂本九、エノケン、黒田清輝らが眠っている。

| | コメント (0)

2017年4月17日 (月)

笄坂(西麻布)

前述の笄橋を渡る牛坂が笄坂でもいいと思うのだが、笄坂は少し北にある六本木通りである。笄坂と名付けられたのは明治になってから。何しろ首都高も走る大通りだからそれほどの坂には見えないが、実際に歩いてみると結構な勾配がある。

P1030009
江戸時代には北坂、中坂、おたつ坂とも呼んだらいい。おたつ坂というのは、坂の途中におたつ婆さんの茶店があったからという。明治になって道が広げられ、溜池から渋谷方面に伸びていった。当時は今の骨董通りに抜け、青学角で青山通りにぶつかるという道筋だった。大正になる頃に都電が走るようになったが、当時は都電もひぃひぃうねりを上げながら上っていたようだ。

P1030011
坂上の停車場が高樹町。道は骨董通りへ伸びたので、当時は骨董通りよりも南を高樹町といったが、今は南青山とざっくりした町名で残念。それでも高速道路のランプにも残っているのでいまだになじみがある。 坂上から坂下を振り返ると六本木ヒルズを見上げるようになる。坂下には笄川が流れ、それより六本木側の坂を霞坂と呼んだ。高樹町、笄町、霞町、そういう響きの町名のほうがセンスがある。現代の町名はつまらない。また坂の途中にある標柱には、「坂下を流れていた笄川の名からついた付近の地名によってこう呼ばれるようになった。」と何の足しにもなりそうもない説明が書かれていた。

| | コメント (0)

2017年4月16日 (日)

牛坂(西麻布)

大横丁坂を下り外苑西通りを横切るとすぐに大通りに並走する道がある。 これは笄(こうがい)川の暗渠である。大横丁坂筋はそのまま牛坂の登りになるが、この暗渠を横切る部分が笄橋のあったところ。明治の地図ではまだ笄川も笄橋もあるが、大正期の地図では道になっている。外苑西通りには都電が走り、笄町という停車場があった。

P1030018

坂下と坂上に標柱がある。「源経基(つねもと)や白金長者の伝説のある笄橋に続く古代の交通路で、牛車が往来したためと想像される。」とある。想像を記してほしくはないが、かなりの長い坂で勾配も大きいので、牛車が登れなくて苦労した様子から牛鳴坂と呼ばれ、それが牛坂に転化したのだろう。

P1030016
坂には石垣や樹木も多く雰囲気は素晴らしい。 笄というのは刀の鞘につけておくヘラ状の道具で、武士のおしゃれ道具らしい。源経基は平安中期の武将、清和源氏の祖。

平将門が関東で天慶の乱を起こした時、経基はその状況を報告する為京都に向かう途中でこの橋に差し掛かった。当時の笄川(別名龍川)は水量が多く橋のないところで渡ることはできない程の水勢があり、笄橋では将門の一味が関所を作っていた。 そこで経基は、自分も将門の仲間で軍勢を集めるため相模の国へ赴く途中であると嘘をつくと、何か証拠となるものを置いていけといわれ、刀にさしていた笄を与えて無事に通ることができたというのが源氏伝説である。

P1030013
鎌倉から室町時代にかけて南青山に黄金長者(一説には渋谷氏)がいた。幼名を金王丸といい、現在も長者丸や金王の地名は渋谷からこの界隈にかけて残っている。また白金長者は今の白金あたりに住み、江戸時代には白金村の名主となって幕末まで栄えた。この二つの長者の関係に関わる伝説が「笄橋」の由来のひとつ。

白金長者の息子銀王丸が目黒不動に参詣した折、不動の彫刻のある笄を拾った。その帰り道で黄金長者の姫と偶然出会い二人は恋に落ちる。その後度々逢瀬を重ねるようになった。ある日笄橋のたもとで逢っていると、橋の下から姫に恋焦がれて死んだ男の霊が鬼となって現れ襲い掛かった。すると笄が不動となって鬼を追い払った後、ふたたび笄に戻って橋の下に沈んだ。のちに長男であった銀王丸は家督を弟に譲り、黄金長者の婿となった。という恋物語である。

| | コメント (0)

2017年4月15日 (土)

中坂(西麻布)

紺屋坂と北条坂の間にあるから中坂と呼ばれる。 一本松から狸坂、狐坂と西進するとこの中坂に繋がるが、中坂はすぐに終わる。突き当りに江戸時代にあったのは松平兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)の下屋敷。三河奥殿藩の藩主。領地は今の岡崎市と長野県の佐久市という離れた国を治めていた1万6千石の小大名。

Img_3930

松平兵部少輔の上屋敷もすぐ近くにあった。 おそらく今の麻布署の西、六本木ヒルズの東側あたりだと思う。 上屋敷は参勤交代で上京してきたときに住む本宅で儀式関連はここで行う。 下屋敷はいわゆる別宅で側室が住むことが多かったという。

Img_3932
最初の一下りはかなりの勾配であるが、すぐに緩やかになる。 松平兵部少輔の屋敷の西側は前述の桜田の百姓地で田畑が広がっていた。 今は大都会の都心部の高級住宅地だが江戸時代は江戸の西の郊外だったのだろう。

| | コメント (0)

紺屋坂(西麻布)

テレ朝通りから外苑西通りに下る大横丁坂と北条坂の間に江戸時代からの坂が二つある。 北側の坂が紺屋坂である。別名を芥(ごみ)坂という。この界隈は切絵図には三軒家丁となっているが、元禄9年(1969)に3人の地主が町家を開いたのでそう呼ばれた。

P1030024

紺屋坂の坂上は拡幅したいのかしたくないのか分からない中途半端な道になっている。下りきると右そして左にクランクしている。坂下にゴミ捨て場があったので、芥坂と呼ばれたらしい。坂上の中華人民共和国大使館は江戸時代は植木屋となっており、その後対象に入るころには東京市長にもなった後藤新平の屋敷になった。関東西震災前の地図には後藤邸と記されている。 昭和8年に満州国大使館になったが、その流れで中国大使館になったと思われる。

P1030025
上の写真はクランクの下の坂。 クランクの所にも警察官が張っていた。路地が死角にならないようにそれぞれの角に配置しているようだ。 それが必要なことだとは全く思えないが。紺屋坂の由来は紺屋が一軒あったことらしい。紺屋はこうや・こんやとも読むが、もとは藍染職人のことだった。江戸時代には染物全般を紺屋と呼ぶようになった。「紺屋の白袴」という言葉があるが、他人のことに忙しくて自分自身のことには構っていられない様子をいう。

| | コメント (0)

大横丁坂(西麻布)

麻布台地から笄川に下る古くからの道である。麻布尾根筋の道(テレ朝通り)から笄川を笄橋で渡り、牛坂を経て渋谷方面へ向かう道筋だった。別名笄坂・富士見坂。坂の北側には内藤播磨守(磐城国棚倉藩)の広大な屋敷があった。棚倉藩は今の福島県白川郡棚倉町で水郡線沿いの静かな町である。

P1030020_3
坂の南側は内藤播磨守(磐城国湯長谷藩)の屋敷で今の福島県いわき市の湯本あたりの藩主。湯長谷藩というと『超高速!参勤交代』の主役となった藩。第4代の内藤政醇(まさあつ)の官位が播磨守で、彼こそが佐々木蔵之介演ずる1万五千石の小大名なわけだが、あの面白い映画の殿様の屋敷がここだったかと思うと別の面白さがある。

P1030021
今、坂の裏通りのかつての屋敷の一角にはウクライナ大使館があったりする。さらに大横丁坂沿い南側にはラオス大使館、ギリシャ大使館、ルーマニア大使館があり、内藤播磨守の屋敷周りは欧州の大使館に支配された感がある。

P1030023
坂の北側には桜田神社があるが、これは日比谷桜田にいた農民が武家屋敷を建てるため幕府に追い出されてここの狭いエリアに代地引っ越しをさせられた折、日比谷から神様を連れてきたので、この地に桜田神社があるといういきさつ。 坂上には六本木ヒルズがそびえ、通りは各国の外国人が歩き回り意味の分からない言語で会話をしている。ぜひこの様相を内藤播磨守に見せてやりたいと思った。

| | コメント (0)

2017年4月14日 (金)

鉄砲坂(西麻布)

北条坂の坂下の一区間を鉄砲坂と呼ぶ。 この坂は麻生台地から笄川に向かって下る坂道で、江戸時代は畑が広がっていた。標柱には、「江戸時代、坂のがけ下に幕府の鉄砲練習場があったことからこの名がついた。」とある。坂を下ると外苑西通りだが、その西側に並走する道路が笄川の暗渠である。

P1030028
笄川の暗渠を越えるとほぼ崖になるが、そこが鉄砲練習場だったのだろう。笄川の源頭は青山墓地の西側、幾つかの支流があり根津美術館も源流のひとつ。そこから流下して、天現寺橋で渋谷川に合流している。

P1030032
笄(こうがい)を読める人は稀だと思うが、鉄砲坂の北側には港区立笄小学校があるし、その目の前の公園は笄公園である。公共の地名にわずかに残る古の地名がいい。

| | コメント (0)

2017年4月13日 (木)

北条坂(西麻布)

仙台坂には韓国大使館があるが、六本木ヒルズ南の旧テレ朝通りには中国大使館がある。どちらも最近の物騒な極東情勢を反映してか警察官が極めて多い。私は小市民なので、警察に睨まれるとシャッターを押しにくいのである。散歩人にとってはとても目障りなのである。とはいえ外国の大使館を守るのは文明国としては常識的なことであるのは周知している。まあ仕方がないとあきらめるしかないか。

Img_3933
その中国大使館の前でテレ朝通りは変な曲がり方をしているが、このクランク状の道は江戸時代の名残りなのである。このクランクから北は寺町だったが、ここから武家屋敷が並ぶ。周辺の坂道はほとんどすべて江戸時代からの道なので、今でも古地図だけで歩くことができる。愛育病院前の辻から西に下るのが北条坂。坂上は御賄方の屋敷と岐阜県の美濃苗木藩の遠山信濃守屋敷、坂の中腹が大阪府の河内佐山藩の北条近江守の屋敷でこれが坂名の由来。

P1030027

坂の上下にある標柱には、「坂下近く南側に大名北条家の下屋敷があったためこの名がついた。」とある。シンプルな説明である。御賄方というのは江戸城の給食係みたいなもの。盛期には1000人もの人が江戸城の食事に従事していた。御賄方はその中の役職のひとつ。古地図を見るとこの周りには隙間を埋めるように御賄方の屋敷が並んでいる。

| | コメント (0)

2017年4月12日 (水)

暗闇坂(麻布)

麻生の坂の中でもっともいい景色を見せてくれる名坂だと思う。鳥居坂を下り、あひる坂を過ぎるとすぐに暗闇坂の登りに差し掛かる。緩やかに湾曲しているので坂の頂上は見えない。この「頂上が見えない」ところにこの坂の魅力がある。
 
Dscn1800
 
坂の上下にある標柱には、「樹木が暗いほど生い茂った坂であったという。以前の宮村町を通るため宮村坂ともいった。」と書かれている。この坂を境に東側が一本松町、西側が宮村町という町名だった。宮村町側は寺町で江戸末期には増上寺の隠居所であった。
 
Dscn1803
 
増上寺は徳川幕府との深いつながりを持つ寺だけに、天慶5年(942)からここにあった麻布氷川神社に対して万治2年(1659)に幕府の命で追い出して、増上寺の隠居所を作ったらしい。その隠居所の石垣が今も残る石垣である。氷川神社は今は坂上の一本松坂の先、元麻布ヒルズの南側にある。
 
Dscn1804
 
昭和の前半まではとても寂しく暗い坂で、おいはぎや痴漢が出没する危険地帯だったという。いまはオーストリア大使館が東側にあり、石垣側の樹木の陰にはなっているが幾分明るい。とはいえこの道は江戸時代から、準幹線道路とも言える道で、六本木~鳥居坂~仙台坂上~四の橋を経て南白金村へ続いていた。
 
Dscn1805
 
現在オーストリア大使館がある場所は、大島甲斐守の上屋敷だったとあるが大島甲斐守がどこの大名なのかはわからない。
 

| | コメント (0)

2017年4月11日 (火)

すべり坂(麻布)

坂そのものはとても短い坂である。道家剛三郎氏の「東京の坂風情」を読んだ時にはっと気づかされたのだが、麻生十番商店街と大通りの間だけの区間の路地はこのすべり坂だけなのである。大通り側はファミリーマートが目印といいたいが、こういう変遷の激しい店舗を目印にするとすぐに役のたたない情報になりがちである。
 
Dscn1799
 
坂は商店街から大通りに向かってクイックな上り坂。大通りに出て、右手斜め方向に十番稲荷の鳥居が見える。実は相当に新しい神社である。戦災の後、昭和25年(1950)に今の場所に、麻布十番商店街にあった末広神社と永坂にあった竹長稲荷神社を合祀してできた。もとになった末広神社は慶長年間(江戸時代の始まったころ)の創建、竹長稲荷は少なくとも10世紀にはあったようだ。戦災はそんな神社をいくつも消してしまったのだろう。
 
Dscn3508
 
この十番稲荷にはガマが祀られている。階段の右脇にガマの石像があり、こちらのほうが存在感がある。神社では蛙のお守りも置いてある。このガマの話だが、一本松坂上の路地裏にあるNishimachi International Schoolの南にある蝦蟇池の物語がある。江戸時代文政4年(1821)に麻布古川辺りから出火した大火でこの辺りが殆ど焼野原になってしまったとき、山崎主税助(やまさきちからのすけ)の屋敷だけが延焼しなかった。邸内の池に住む大蝦蟇が水を吐き出して火を防いだということで江戸中の信仰を集めたという。
 
Dscn3510
 
今もマンションの裏手に池は残っているが私有地なので入ることはできない。マンション横から池の周りの藪を眺めることくらいしかできないが、雰囲気は残っている。ひっそりと残っているところが何より。かつては500坪ほどの池だったようだが、今は2割程度が残るのみ。そっとしておきたい場所の一つである。
 

| | コメント (0)

2017年4月10日 (月)

あひる坂(麻布)

鳥居坂を下りきると環状三号線の大通り。青山一丁目の南で二手に分かれるが、本来の主要道筋は尾根筋を走り六本木交差点を通る外苑東通り。 一方でその外側の谷筋を走る六本木ヒルズ脇を抜ける環状三号線も外苑東通りと呼ばれる。どちらも都道319号線である。 しかし江戸時代の主要道は尾根筋側。 当時は六本木交差点から芋洗坂を下り、鳥居坂下から一の橋に下る谷筋の道は幹線ではない町屋の道だった。
 
Dscn1798
 
坂の位置関係からいうと、鳥居坂の一部に思える。江戸以前は麻布十番の商店街筋は川だったはずである。六本木交差点辺りから芋洗坂沿いに流れていた吉野川が北から流下し、ヒルズのある毛利屋敷辺りからも別の川が流れていた。 そのあたりの地形は下の地図でよくわかる。
 
Img_6895
 
麻布十番は上の地図のあひる坂のさらに南になるが、江戸時代からにぎやかだったようだ。 あひる坂傍の更科堀井は寛政元年(1789)創業で、永坂更科布屋太兵衛と同時期だが、どちらも同じルーツ。 「更科」という名前は、蕎麦の産地である信州の更級と、布屋太兵衛が仕えていた保科家の一文字を取ったもの。ごたごたしたお家騒動みたいなことから今は3軒の「更科蕎麦発祥」の店ができてしまった。
 
Dscn3512
 
あひる坂の坂下にあるのが「総本家更科堀井」、スターバックスの辻にあるのが「永坂専科布屋太兵衛」、そして新一の橋交差点の北側にあるのが「麻布永坂更科本店」。 ゴタゴタした歴史はあるが、今は果たしてどういう関係なのだろうか。
 
 

| | コメント (0)

2017年4月 9日 (日)

鳥居坂(麻布)

鳥居坂は江戸時代の麻布の幹線道路。江戸切絵図にも大名屋敷町から麻布の低地へ下るおなじみ道筋で、階段の絵図になっている。鳥居坂の坂上西側は京極壱岐守、讃岐国多度津藩の大名。一万石の大名でもこれほど広い屋敷なのかと感心した。国際文化会館とZEPP東京の敷地を合わせた広さのおよそ1万坪ほどはありそうな広さである。
 


Dscn1792
明治になってからはその屋敷の南側の一部が長州藩士出身の井上馨邸となった。現在マンションになっている坂の西側である。井上は伊藤博文と共にイギリスに留学し、後の伊藤内閣で外相・内相・蔵相であった。
 


Dscn1793
その後、明治45年に海軍との商売で財を成した赤星家が所有したが、関東大震災で倒壊した(その後赤星邸は吉祥寺に移転)。震災後は三菱財閥の岩崎邸となった。現在に残る庭園は岩崎邸時代のもの。坂は道幅が広いものの、急坂で積雪時は坂下の信号で止まりきれないだろう。
 
Dscn1795
坂の上下に標柱がある。「江戸時代のなかばまで、坂の東側に大名鳥居家の屋敷があった。元禄年間(1688~1703)ころ開かれた坂である。」と記されている。鳥居氏は徳川の家臣で最も反映したのは出羽山形藩の24万石時代。その後改易(身分はく奪)され小大名として転々とした。現在の坂の東側はシンガポール大使館になっている。
 
Dscn1796
坂下の鳥居坂下交差点の角は階段になっていて、歩行者が歩きやすいように作られている。それだけ勾配がきついという事で、坂の上下で13mの標高差があるが、それを100mほどの距離で下るので、10%以上の勾配という事になる。切絵図で階段になっていた理由がよくわかる。
 

| | コメント (0)

2017年4月 8日 (土)

潮見坂(麻布)

於多福坂の坂下を右折するとすぐに潮見坂になる。 現在車両は通行止めになっている。 かつては坂の中腹のクランク手前に車を通せんぼするようにガードレールがあったのだが、今は手前に鉄パイプ型のガードになっている。坂下はマンションの地下駐車場の出入り口だが、その先に駐車する不届き者の対抗策なのだろう。

Dscn1790
坂は途中でクランクになって折れ曲がっている。高い建物のない江戸時代はここから東京湾を望むことができたのだろう。 永坂の途中から西へ通じ、於多福坂と接して、鳥居坂に向かってクランクに上るこの道は、江戸時代の切絵図にもそのままの道筋で描かれている。 当時の周辺はほぼ旗本の武家屋敷。 今は外国人比率の極めて高いマンションが立ち並ぶ。

Dscn1791
坂の上にもガードがあり、その先を右に折れると鳥居坂の坂上になる。 こんな静かな路地が江戸時代から続く道として残っていることに感心する。

| | コメント (0)

2017年4月 7日 (金)

於多福坂(麻布)

六本木の外苑東通りを東へ、ロアビルの先の信号を右折すると、六本木の街の喧騒が嘘のように静かになる。 通りの西は東洋英和女学院、東側は港区麻布区民センター。 麻布地区総合支所前の信号を左に曲がると高級賃貸マンションの麻布テラス。家賃は概ね月100万以上と庶民には無縁の館。麻布テラスの玄関前を右に折れると於多福坂の坂上である。

Dscn1785
一旦下った後平坦になり、その先で再び下り坂になる、踊り場タイプの坂道である。坂の上下に標柱があり、「坂の傾斜が途中でいったん緩やかになって、また下ったので顔の真ん中の低いお多福面のようだと名付けられた。」と記されている。

Dscn1787
坂の中腹から見上げる。左の石垣の上はフィリピン大使館。 うっそうとした樹木に覆われて江戸時代の武家屋敷のイメージを残している。於多福坂の筋は当然江戸時代からの坂道だが、当時は両側に旗本の武家屋敷が並んでいた。そのイメージがそのまま残されているのは貴重である。

Dscn1788
中腹の踊り場から下は開けた坂道になる。 写真(上)の右手は東洋英和女学院の敷地。 下りながら曲がっていく風景は悪くない。 この辺りも静かな坂道だが、一本東側は永坂の大通り、首都高速中央環状線が走る車だらけの通りだが、それを気づかせない雰囲気である。

Dscn1789
坂下を東に行くとその永坂の通りに出る。また、西に行くと潮見坂である。

| | コメント (0)

2017年4月 6日 (木)

饂飩坂(六本木)

前述の芋洗坂の途中スイートベイジル跡の前から外苑東通りに向かって上る直線の坂が饂飩坂である。今は何の魅力もない街の路地の坂で、昼間では納品の車が入れ代わり立ち代わり駐車していてすっきりと坂の写真を撮ることができない。ここの芋洗坂と饂飩坂の複雑な考察については故横関英一氏の『江戸の坂東京の坂』に詳しく書かれていて面白い。

Dscn1780

今の饂飩坂は短い区間とされているが、かつては芋洗坂と交差して麻布警察署裏の道までが饂飩坂だったようだ。道端の標柱には、「天明年間末(1788)頃まで松屋伊兵衛といううどん屋があったために饂飩坂と呼ぶようになった。昔の芋洗坂とまちがうことがある。」と書かれているが、どう考えても横関氏の説のほうが的を射ている。うどん屋があったとか芋屋があっただけでその名がいつまでも使われるはずはない。

Dscn1778

スイートベイジル跡の隣にある朝日神社は古い神社。弁財天も祀っているので、ここが水源近くだった可能性がある。神社の前を流下する川は芋洗坂筋を下る。天慶年間(938~946)には神社の前を吉野川という川が流れていたという話が朝日神社には伝わっている。芋を洗ったとすればこっちが芋洗坂というべきか。ただし饂飩の由来はよくわからない。現状は饂飩屋の説をとるしかないが、事実は違うような直感を感じている。

| | コメント (0)

2017年4月 5日 (水)

芋洗坂(六本木)

芸人に芋洗坂係長というのがいる。特に記憶に残る芸はないが、〇だけで描けそうな体形が印象的だ。しかし実は振付師でありダンサーだというのが面白い。パパイヤ鈴木と同じで、若い頃は相当なイケメンだったらしい。彼の印象が強すぎて本来の芋洗坂の話が飛んでしまいそうになるが、ここはまじめに坂の話。

 

Dscn1783

 

六本木交差点のかつての待ち合わせ場所の代名詞アマンドの脇を下るのが芋洗坂。いもあらいは天然痘(イモ)を治す(あらう)神を祀った神社がありそのそばの坂というのが地名的には普通なのだが、ここの芋洗坂は本当に芋を売る商売がここで行われていたからだという説が有力。天然痘(疱瘡)に関わる場合は一口と書いてイモアライと読ませる場合が多い。

 

Dscn1784


芋洗坂は麻布に向かって下っていく長い坂である。 途中にはかつてスイートベイジルというライブハウスがあったが、解体されて建て直し。一本裏の鳥居坂筋にはスヌーピーミュージアムが出来たが、ここは東京建物がホテルを建てるらしい。江戸時代は福岡県の小倉藩主小笠原近江守の上屋敷。その南隣には広々とした長門府中藩(現在の下関)毛利右京亮の上屋敷があり、今の六本木ヒルズはその一部である。今も毛利庭園が残っている。

 

Dscn1781


江戸以前には今の六本木ヒルズの南側から麻布十番に流れる川と、六本木交差点の辺りから芋洗坂の筋で流下する川があったはずだ。それが麻布十番で古川に注いでいた。江戸の街の基礎は太田道灌(1432~1486)が築いたが、そのもっと前の話である。地形を見ているとその時代にまで旅をすることができるのである。

| | コメント (0)

2017年4月 4日 (火)

閻魔坂(六本木)

丹波谷の最奥の坂が閻魔坂である。不動坂に記載したように、この墓地の辺りには尾張屋版の切絵図(1861)では浄円寺、崇岸寺があった。その20年ほど前の古地図でもその2寺だが、閻魔坂の由来はそこに崇巌寺という寺があり、そこ中の閻魔堂に因んだものとされる。

Dscn1775
現存の六本木墓苑は、戦後の道路拡張で正信寺・深広寺・教善寺・光専寺・崇巌寺の浄土宗五ヶ寺の墓地を常巌寺の跡地に集約した共同墓地。しかし今六本木にあるのは六本木交差点の北西にある光専寺のみだと思う。浄円寺と崇厳寺は戦災で焼失して復興されていない。六本木の極めて高価な地価のエリアにかなり広い墓苑があることは面白い。

Dscn1776
江戸時代はこの墓苑よりも六本木交差点側の一角は宮崎県延岡藩の内藤能登守の中屋敷だった。当時はこの辺りの崖は急で、その地形の名残りが閻魔坂の途中の北側にある階段に見て取れる。街が街なので、早朝に行かないと人通りが増えるが、早朝は逆にゴミが散乱していてあまりいい気分でないから、できれば正月2日くらいでないと静かな風情を感じることは不可能かもしれない。

Dscn1777
閻魔坂は外苑東通りに出る直前で急に勾配を上げる。不動坂の池の悪蛇の話などを想像するに、この坂下の墓苑辺りには湧水があったに違いない。裏の六本木三丁目公園辺りから、眼下に広がる墓苑を眺めているとそんな江戸時代の景色が瞼裏に浮かんでくる。

| | コメント (0)

2017年4月 3日 (月)

不動坂(六本木)

丹波谷坂の南隣の路地である。勾配はなぜか丹波谷坂よりも緩く感じられる。坂名の由来は坂の中腹に五大山不動院があるためだが、この不動院はもともと平河町にあった。それが1658年に現在の場所に移転してきたという歴史がある。江戸御府内八十八ヵ所霊場第六番の札所。江戸に八十八ヵ所の霊場があることに興味がわく。もっとも寺は戦災で焼け位置が変わっている。もとは坂下にあった。

Dscn1773
寺院は茶色のビルになっていて寺のイメージはない。極めて近代的な建物だ。一方五大山という呼び名の5寺はどこだろうかと気になった。五色不動を調べてみると、目黒不動(瀧泉寺)、目白不動(金乗院)、目赤不動(南谷寺)、目青不動(教学院)、目黄不動(永久寺または最勝寺)らしい。ここの不動院は江戸時代に目黄不動として親しまれた。伝説としては、沼地に悪蛇がいて近隣住民を悩ませていた。中興開山(衰えた寺を復興する人)である玄海法印が七日七夜の祈願をすると蛇の死骸が浮き上がったという話がある。

Dscn1774
古地図には坂下の現在六本木墓苑になっているあたりに池があったようだ。不動坂の坂下は人ひとりがやっと通れる道幅の階段になっている。その狭小路地を抜けると目の前には共同墓地が現れるが、ここはかつては浄円寺、崇岸寺があった。その二寺は六本木から飯倉に抜ける通り(外苑東通り)から出入りしたようだが、江戸時代はそちらの通りを六本木通と呼んだ。今は首都高速下が六本木通りなので、何時頃から変わったのか興味深い。

| | コメント (0)

2017年4月 2日 (日)

丹波谷坂(六本木)

乃木坂、六本木、飯倉と走る大通り(外苑東通り)は峰筋の道である。 この通りより北は下り坂、南も下り坂。 そしてドン・キホーテの裏手に向かって市三坂から谷が切れ込んでいる。下はその地形図だ。

Photo
溜池へ流下する谷筋の源頭は丹波谷坂の南側、閻魔坂あたりだろうか。 この谷を丹波谷と呼んだ。現在でも首都高渋谷線が中央環状線に合流するジャンクションを谷町JCTと呼ぶのは、アークヒルズあたりのこの地域をかつては麻布谷町と呼んでいたためだが、その源流が六本木交差点近くなのである。

Dscn1771
坂の上下に標柱がある。「元和年間(1620年ころ)旗本岡部丹波守の屋敷ができ、坂下を丹波谷と呼んだ。明治初年この坂を開き、谷の名から坂の名称とした。」と書かれている。確かに江戸切絵図にはこの辺りの道は描かれていない。明治の途中からこの道は地図上に現れる。

Dscn1772
都心の起伏の激しいエリアは大通りを通っていては感じにくいが、一歩裏道に入るとこのような急坂に度々出くわす。 どんな開発を以てしても、地形を変えることまではできないことを感じてしまう。

| | コメント (0)

2017年4月 1日 (土)

市三坂(六本木)

六本木一丁目のY字交差点から六本木交差点に向かって六本木通りを進むと、意外な上り坂になる。 大通りなのにそこそこの傾斜で上る。 溜池に流下する沢は数本あった。最も南側にあったのが、この市三坂の沢筋。 残念ながら江戸時代の坂道ではなく、明治以降に開かれた坂である。

Dscn1753
上の写真は六本木一丁目交差点から撮影。 途中から急に上り坂になっているのがわかる。 この筋は江戸時代の切絵図には「谷丁」と書かれている。おそらく「たにまち」と読ませたのだろう。 谷筋の町屋と寺の寂しい街だったようだ。 江戸時代の道は一本北側の真田屋敷下の南部坂下の路地が本道である。

Dscn1767
標柱には次のように記されている。「明治20年代に開かれた坂。名主の名がついた市兵衛町と松平三河守忠直邸のあった三河台町との間で両頭文字をとった。」とある。松平三河守は越前福井県の藩主。三河台はその名を前述の江戸時代の路地が市三坂に斜めに出合うところに区立三河台公園の名前で残っている。

この坂の北側には真田信之(幸村の兄)の屋敷があったが、松平三河守忠直は真田幸村に大阪城冬の陣で辛酸を舐めさせられたのち、夏の陣では幸村の首をとった武将。何となくこの二人が近くにいたことに徳川の意図を感じる。

| | コメント (0)

« 2017年3月 | トップページ | 2017年5月 »