芋洗坂(六本木)
芸人に芋洗坂係長というのがいる。特に記憶に残る芸はないが、〇だけで描けそうな体形が印象的だ。しかし実は振付師でありダンサーだというのが面白い。パパイヤ鈴木と同じで、若い頃は相当なイケメンだったらしい。彼の印象が強すぎて本来の芋洗坂の話が飛んでしまいそうになるが、ここはまじめに坂の話。
六本木交差点のかつての待ち合わせ場所の代名詞アマンドの脇を下るのが芋洗坂。いもあらいは天然痘(イモ)を治す(あらう)神を祀った神社がありそのそばの坂というのが地名的には普通なのだが、ここの芋洗坂は本当に芋を売る商売がここで行われていたからだという説が有力。天然痘(疱瘡)に関わる場合は一口と書いてイモアライと読ませる場合が多い。
六本木のこの芋洗坂の由来は、毎年秋になると近隣の農民が馬で芋を運んできて、朝日神社の辺りで市を開いたのが由来とされる。朝日神社はビルの間にひっそりと佇む神社だが、創建は天慶年間(10世紀:平安時代の平将門の時代)で、後に稲荷(日ヶ窪稲荷)を合祀し朝日稲荷となり、明治時代に朝日神社と改称したとても古い神社である。
芋洗坂は麻布に向かって下っていく長い坂である。 途中にはかつてスイートベイジルというライブハウスがあったが、解体されて建て直し。一本裏の鳥居坂筋にはスヌーピーミュージアムが出来たが、ここは東京建物がホテルを建てるらしい。江戸時代は福岡県の小倉藩主小笠原近江守の上屋敷。その南隣には広々とした長門府中藩(現在の下関)毛利右京亮の上屋敷があり、今の六本木ヒルズはその一部である。今も毛利庭園が残っている。
江戸以前には今の六本木ヒルズの南側から麻布十番に流れる川と、六本木交差点の辺りから芋洗坂の筋で流下する川があったはずだ。それが麻布十番で古川に注いでいた。江戸の街の基礎は太田道灌(1432~1486)が築いたが、そのもっと前の話である。地形を見ているとその時代にまで旅をすることができるのである。
(追記:2019/1/2)
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