牛坂(西麻布)
大横丁坂を下り外苑西通りを横切るとすぐに大通りに並走する道がある。 これは笄(こうがい)川の暗渠である。大横丁坂筋はそのまま牛坂の登りになるが、この暗渠を横切る部分が笄橋のあったところ。明治の地図ではまだ笄川も笄橋もあるが、大正期の地図では道になっている。外苑西通りには都電が走り、笄町という停車場があった。
坂下と坂上に標柱がある。「源経基(つねもと)や白金長者の伝説のある笄橋に続く古代の交通路で、牛車が往来したためと想像される。」とある。想像を記してほしくはないが、かなりの長い坂で勾配も大きいので、牛車が登れなくて苦労した様子から牛鳴坂と呼ばれ、それが牛坂に転化したのだろう。
坂には石垣や樹木も多く雰囲気は素晴らしい。 笄というのは刀の鞘につけておくヘラ状の道具で、武士のおしゃれ道具らしい。源経基は平安中期の武将、清和源氏の祖。
平将門が関東で天慶の乱を起こした時、経基はその状況を報告する為京都に向かう途中でこの橋に差し掛かった。当時の笄川(別名龍川)は水量が多く橋のないところで渡ることはできない程の水勢があり、笄橋では将門の一味が関所を作っていた。 そこで経基は、自分も将門の仲間で軍勢を集めるため相模の国へ赴く途中であると嘘をつくと、何か証拠となるものを置いていけといわれ、刀にさしていた笄を与えて無事に通ることができたというのが源氏伝説である。
鎌倉から室町時代にかけて南青山に黄金長者(一説には渋谷氏)がいた。幼名を金王丸といい、現在も長者丸や金王の地名は渋谷からこの界隈にかけて残っている。また白金長者は今の白金あたりに住み、江戸時代には白金村の名主となって幕末まで栄えた。この二つの長者の関係に関わる伝説が「笄橋」の由来のひとつ。
白金長者の息子銀王丸が目黒不動に参詣した折、不動の彫刻のある笄を拾った。その帰り道で黄金長者の姫と偶然出会い二人は恋に落ちる。その後度々逢瀬を重ねるようになった。ある日笄橋のたもとで逢っていると、橋の下から姫に恋焦がれて死んだ男の霊が鬼となって現れ襲い掛かった。すると笄が不動となって鬼を追い払った後、ふたたび笄に戻って橋の下に沈んだ。のちに長男であった銀王丸は家督を弟に譲り、黄金長者の婿となった。という恋物語である。
| 固定リンク | 0
コメント