落合坂(麻布台)
我善坊谷の川筋に当たる道が落合坂である。 行合坂から入るといきなり標柱がある。「我善坊谷へ下る坂で、赤坂方面から往来する人が、行き合う位置にあるので落合坂と呼んだ。位置に別の説もある。」と記されていた。
坂の向こうに見える大きな建物は霊友会釈迦殿。 宗教法人って儲かるんだなと、伊皿子坂の幸福の科学といい、ここ霊友会といい、いつもながらに眉をひそめてしまう。 この坂の中に入っていくと、そこは六本木エリアの再開発ブームから置いてけ堀を食らったような昭和の雰囲気がする。(しかしここにも開発の魔の手が伸びているのは一軒ずつ見てみるとなんとなくわかる)
ただ戸建て民家も多いので、まだまだしばらくはこのままではないかと期待している。 坂は緩やかに下っていく。 谷底の道だが、谷がまっすぐなので道もほとんどまっすぐである。
我善坊駐車場という名前がみえるが、元々は龕前坊らしい。麻布七不思議にこんな話がある。「昔この辺りに古寺があり、龕前坊というお坊さんがいた。とても怖い顔をしていたが子供達には優しく人気があり慕われていた。」まあ、この手の話はあちこちにあるので、それが我善坊谷の由来かどうかはいささか訝しい。
坂学会会長の山野勝氏が港区の広報に寄稿している。
「寛永三(1626)年10月、二代将軍徳川秀忠の正室であるお江与
(崇厳院)が逝去し、その葬礼が芝増上寺で行われた。
荼毘に付されたのは、今の六本木駅近くにある深広寺の旧地だったが、葬列の途中の道筋にあたる、坂下のこの谷地に仮御堂が置かれた。この仮御堂のことを龕前堂と称し、 後にこの一帯が龕前堂谷と呼ばれるようになり、やがて我善坊谷に転訛したという。もう一つの説は、この谷地で座禅を組むお坊さんがいたので座禅坊谷という地名が起こり、これがなまって我善坊谷に変わったともいう。
」
途中クランクしているのがこの坂道の特徴でもあるが、この道筋に沿って江戸時代は御先手組の屋敷があり、御先手組とは今でいう警察と機動隊のようなものだったので、昔からの城下町づくりと同じ要領でこういうクランクを作ったのではないかと思った。しかし江戸時代の切絵図にはクランクはなく、坂下の三年坂・我善坊谷坂の辻のところに「ガゼンボ谷」とだけ記されている。 謎の多い谷である。霊友会釈迦堂の向こうには東京タワーがそびえている。やはり東京タワーはいい。
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