転坂(赤坂)
昭和30年代までの東京は魅力的な地名町名に溢れていた。 赤坂も前述の福吉町、中ノ町、赤坂氷川町などが赤坂通りの南側にあったが、現在は赤坂2丁目と6丁目というプラスチックのような町名になってしまった。
福吉町から氷川町方面に歩くとまずは氷川公園がある。江戸時代の前期には広島藩浅野家の屋敷があった場所。その後は主を変えながらもずっと武家屋敷の中にあった。 明治の末期にこの公園のところに氷川小学校ができたが昭和初期に近所の火事が延焼して消失し跡地が公園になった。 小学校は港区立赤坂こども中高生プラザの場所に移転したが、そこは勝海舟の最後の屋敷だった場所である。勝海舟については別件にて、今回は転坂。三本松の先から下りが始まる。
坂の彼方には東京ミッドタウンがそびえている。 あちらは毛利の殿様の屋敷だったところ。 今はさしたる勾配ではないが、江戸時代は相当急な坂だったようで、標柱には、「江戸時代から道が悪く通行する人たちがよく転んだ為に呼んだ。一時成徳寺横の元氷川坂もころび坂といった。」と記されている。
転坂下は氷川坂の坂下でもあるが、坂下を右折してさらに左折すると再び勝海舟邸跡の説明版と標柱が現れる。 (坂下を左折すると氷川坂)
勝海舟はよほど赤坂が気に入っていたらしく、24歳の新婚の時から没する76歳までのほとんどを赤坂に居を構えていた。 最初はみすじ通りのあたり、その後上の写真の場所(氷川神社の下、元氷川坂の坂下)に住み、大政奉還した徳川慶喜に伴って静岡に一時引っ越したものの、明治5年には再び赤坂に戻り、上の赤坂プラザの土地に屋敷を構えた。 その場所が勝海舟の没後、最初の氷川小学校になったわけである。 その小学校も子供が減少したため1992年に廃校になってしまった。
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