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2017年5月 7日 (日)

紀伊国坂(港区元赤坂)

現在の赤坂御所は四谷左門町(四谷三丁目付近)や信濃町駅周辺などからの沢を集めて一つの川になっていた地形で、江戸時代は徳川御三家である紀伊国(和歌山県)の紀州藩の大名屋敷だった。 沢あり池ありで当時はさぞ風光明媚な大名庭園だったはず。 さすがに御所内は散歩できないが、幾つかの名前のついた坂もあって、御所になったことでそのまま保存されていると信じたい。

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坂は弁慶濠と御所の間になるが、標柱には、

「坂の西側に江戸時代を通じて紀州(和歌山県)徳川家の広大な屋敷があったことから呼ばれた。赤坂の起源とする説がある。」

と記されている。 また坂の別名を茜坂という。 安土桃山時代以前はこの辺りはまだ山地や畑で人もあまり住んでいなかった。当時はこの紀伊国坂の坂上は茜草(あかねぐさ)が茂っていて、赤根山と呼ばれていた。 その赤根山へ登る坂なので赤坂と呼び始めたのが、赤坂の起源というわけである。

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今は幅広い通りと、頭上には首都高速が巨大生物のようにくねっている風景。 それだけに数百年前の景色は想像が難しい。 道家氏の著書に面白い事が書いてあった。 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の『怪談』にあるのっぺらぼうの妖怪むじなが、この坂に出現したという言い伝えである(作品名は『狢(The Mujina)』)。 確かに弁慶濠の死んだような水面からは夜になるとなにかおぞましいものが出てきても不思議はない。 ましてや辺りはうっそうとした大名屋敷である。 現世ならば稲川淳二の恰好のネタになる。

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坂上のかつて赤根山だったあたり(迎賓館脇)から見ると緩やかに下っていく大通りを眺められる。 坂上の信号交差点はなぜか「紀之国坂」という漢字。 ここで濠を渡り喰違を越えるともう一つの紀州藩の屋敷になる。 そこには紀州藩、尾張藩、井伊家が並んでいたんで紀尾井町となったことは有名である。

(追記:2019/1/1)

迎賓館の紀伊国坂側にある和風建築の門は、報道陣などが使う通用門となっているそうだが、この門は「赤坂迎賓館東門(紀州藩徳川家中屋敷表門)」といい、江戸時代は紀州藩屋敷の表門だったが、明治時代に移築改装されたものである。

またこの坂を江戸以前は「赤坂」と呼んだという。 諸説あるが、一説にはこの坂が赤土の坂だったので赤坂となったという。 関東ローム層は概ね赤土だが、後期洪積世(15万年前~7万年前の関東ローム層が、御所内から弁慶濠に流れていた赤坂川によって削られて、坂の表面に赤土が出ていたのであろう。

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