檜坂(赤坂)
昭和の街区名は坂の南側が檜町、北側が氷川町だったが、今は赤坂9丁目と赤坂6丁目と味気ない。また坂上の南側は以前は三河台町、今は六本木4丁目とこれも味気ない。できることなら昔の町名に戻したいと考えるのは私だけだろうか。檜坂は氷川神社や今井城址の台地から赤坂通り筋の清水谷に一気に下る。清水谷に下るので清水坂の別名あり。
檜坂の南西側の現東京ミッドタウンは、江戸時代は長州萩藩毛利家の中屋敷、幕末近くなって蛤御門の変に端を発する幕府の長州征伐に絡んで屋敷は取り潰しになる。明治には帝国陸軍、戦後は米軍将校の宿舎、その後返還され防衛庁、そして2007年に初めて民間に開かれて東京ミッドタウンがオープンした。
都心のこれだけの広さの土地が保たれていたのはそういう歴史があったからこその奇跡である。港区の標柱には、「江戸時代には檜の木が多いため檜屋敷と呼ばれた山口藩毛利邸(旧防衛庁、檜町公園)に添う坂であった。」と書かれている。
坂下で折れ曲がる檜坂に対してまっすぐに再び上っていく細い無名坂があるが、この坂上にかつて友人が住んでいた。当時は檜町公園も今とは違い静かな公園で池も今の池よりももっと広かった記憶がある。当時現赤坂小学校は檜町小学校だった。3校合併により赤坂小学校に変わったのは都心の子供が激減したからである。
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