千日坂(新宿区南元町/港区元赤坂)
信濃町駅を出て左側、外苑方向に進むと外苑エリアへ渡る歩道橋がある。 そこを上らず、斜め左に下る坂を降りていく。 ここが千日坂。 首都高の外苑ランプが頭上を通る。 一行院千日谷会堂の塔が坂脇にそびえている。この坂上辺りで『南総里見八犬伝』を書いた滝沢馬琴が世を去った。坂の別名を久能坂(久野坂)という。坂下辺りに紀州藩久野丹波守の屋敷があったことに由来している。
「この坂道の下の低地は、一行院千日寺があるため千日谷と呼ばれた(『紫の一本』)。坂名も千日寺にちなんで名づけられたと考えられる。なお、かつての千日坂は消滅し、現在の千日坂はそれと前後して作られたいわば新千日坂である。」
と記されている。新宿区は随分ときちんと書いていると感心する。
江戸期の切絵図を見ると千日坂は写真の高速道路下あたりで左に折れて急坂を上っている。上半分は完全に新しい道筋だ。 信濃町の由来は、坂上の慶応病院辺り一帯が奈良県の大和櫛羅藩主の永井信濃守の屋敷だったことから来ている。 坂下の千日谷には公明党本部がある。 党本部の建物からは意外と若い人たちが出入りしている。
江戸時代に千日寺が有名になったのは、信濃町駅と新助坂の間にあった奈良県大和新庄藩屋敷永井家の家臣が出家し、一行院千日寺を創建、千日供養を説いた。それが江戸の庶民に人気になり、人々が集まったことによる。 そのためこの谷が千日谷とまで呼ばれるようになったという。
(追記) 2018/12/29
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