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2017年7月31日 (月)

逢坂(神楽坂)

神楽坂はフランス人の街である。実際に多くのフランス人が住んでいる。フランス人が増える元となった旧日仏学院脇の坂が逢坂である。辺りは東京理科大とフランス語っぽい名前のマンションで囲まれている。下の写真の塀の先の白い建物が日仏会館(現在フランス語学校アンスティチュ・フランセ東京)である。

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結構な勾配がある。 フランスのモンマルトルを彷彿とさせる坂道である。 坂の標柱には、「昔、小野美佐吾という人が武蔵守になりこの地に来た時、美しい娘と恋仲になり、のちに都に帰って没したが、娘の夢によりこの地で再び逢ったという伝説に因み、逢坂と呼ばれるようになったという。」と書かれている。

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いっぽう坂下には築土神社があり、ここには堀兼の井という古井戸がある。こちらはいささかおどろおどろしい。

「堀兼の井とは、「堀りかねる」の意からきており、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため、皆が苦労してやっと掘った井戸という意味である。堀兼の井戸の名はほかの土地にもあるが、市谷船河原町の堀兼の井には次のような伝説がある。

昔、妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。男が後妻を迎えると、後妻は息子をひどくいじめた。ところが次第にこの男も後妻と一緒に息子をいじめるようになり、いたずらをしないようにと言って庭先に井戸を掘らせた。息子は朝から晩まで素手で井戸を掘ったが水は出ず、とうとう精魂尽きて死んでしまったという。」

現代にも時折そういうニュースはあるが、話を読んだだけで込み上げるものがある哀しい話だ。

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2017年7月23日 (日)

歌坂(市ヶ谷)

浄瑠璃坂の西の新しい通りに法政大学市ヶ谷田町校舎がある。 その路地を東に進むと歌坂である。 坂の途中にある標柱には、「雅楽(うた)坂ともいう。江戸時代初期、この坂道の東には酒井雅楽頭(のちの姫路酒井家)の屋敷があった(「新添江戸之図」)。坂名は雅楽頭(うたのかみ)に因んで名づけられたのであろう。」と書かれている。

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坂の形が善知鳥(うとう)という海鳥のくちばしに似ていて、「うとう」が「うた」に転化して歌坂になったという説もある。 坂の景色は今となっては何という事もないものになってしまったが、今も残る坂上のクランクが少し気になる。 この坂の外濠側はかなりの段差になっている。江戸時代は景色は開けていたのだろうか。

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江戸時代の切絵図を見ているとあたりの路地もすべて江戸時代の道筋のままだとわかる。 あたりは殆ど武家屋敷で、外堀通り沿いのみが町家だった。 外濠の船運はこの辺りまでたくさんの船が上がってきていたようで、船河原町は江戸期からのままの地名である。

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2017年7月22日 (土)

鰻坂(市ヶ谷)

市谷鷹匠町は辺りで最も標高の高いエリア。 その最高地点に浄瑠璃坂の仇討ちの現場がある。 そこから北に下りるのが鼠坂、西には芥坂、南には浄瑠璃坂、そして東に下るのが鰻坂である。

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西側は長延寺谷の窪地だが、この鰻坂の形も薬研型をしていて真ん中の低いところには大正時代に通された広めの道が南北に通っている。 その道を境に向こう側はまた標高を上げていく坂構造である。 向こう側の上りに入るとすぐにクランクになるのは江戸時代からの道筋がそのまま残っている形である。

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坂の標柱には、「坂が曲がりくねっているためこう呼ばれた。『御府内備考』によると、幅約2間(3.6m)、長さ約20間(36m)にわたり曲がり登っているため、鰻坂と呼ばれたという。」とある。クランクの所に手書きで日本基督教団牛込払方町教会への案内が目立たず貼られているが、坂関連の書物にはこの協会のことが必ず出てくる。広い路地からは見えないし、住宅に囲まれた立地で目印がないからランドマークにされたのだろうか。

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上の写真の右側煉瓦塀の所がその教会である。 鰻坂からみるとただの民家に見えるが、向こう側にはそれっぽい入口がある。 しかし目立たない。 払方町というのは江戸時代の地名であるが、今もここの住所は払方町。 新宿区がこういう古い地名を残してくれることは本当に嬉しい限りである。

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2017年7月21日 (金)

浄瑠璃坂(市ヶ谷)

長延寺坂を坂下に戻り、外濠方面へ。 外堀通りに出る1本手前の路地を保険会館本館角で左折すると、ルーテル教会の先の辻、そこから左に曲がるとまっすぐに上る浄瑠璃坂が現れる。坂名の由来は、あやつり浄瑠璃の芝居小屋があったからだとか、江戸時代にあった光円寺の薬師如来が東方浄瑠璃世界の主だからなどの諸説がある。

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坂の標柱には、その説に加えて、「江戸時代、坂周辺は武家地であった。この一帯で寛永12年(1672)に浄瑠璃坂の仇討ちが行われ、江戸時代の三大仇討の一つとして有名であると書かれている。坂上を進み路地をいくつか曲がると鼠坂の坂上に出るが、そこにこの説明板がたっていた。

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仇討ちは極めて返り討ちのリスクが高く、それだけに成功すると江戸中から注目されたのだろう。

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2017年7月20日 (木)

長延寺坂(市ヶ谷)

「昔、この坂に長延寺という寺があった。そこに参詣する人々がこの坂を通ったことから、自然にそう呼ばれるようになったという。」と坂の途中の標柱には書かれている。江戸時代の切絵図を見るとこの辺り一面が境内だったようだ。

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谷底の道沿いは大昔の沢筋で「長延寺谷」とよばれ、この道筋は長延寺谷町と呼ばれた。一方長延寺の境内の上は左内坂町である。この坂の入口より外濠側は定火消(江戸時代の消防署)屋敷だった。

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坂上は袋小路になっていて車は進入できない。 ただいくつも抜け道の細路地があるので、別の機会に探索をしたいと思っている。 ここの町名が現在でも市谷長延寺町、市谷左内町となっているのが嬉しい。 この市谷長延寺町は袋小路だらけで本当に面白い街である。

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2017年7月19日 (水)

芥坂(市ヶ谷)

左内坂と浄瑠璃坂の間に通る谷筋は江戸時代は長延寺谷と呼ばれた。 谷の浄瑠璃坂側は和歌山紀伊新宮藩の水野家の上屋敷、左内坂側は長延寺の境内と外濠側には定火消屋敷があった。鼠坂上・浄瑠璃坂上から谷に下る道が芥坂(ごみざか)である。

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手摺り付きの緩やかな階段の向こうは長延寺谷を越える歩道橋になっている。 江戸時代はこのまま長延寺谷に下る道だったが、ゴミ捨て場になっていたので坂名が芥坂になったようだ。

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水野家の屋敷があった方の面は石垣になっているが、これが江戸時代のものかどうかはわからない。明治初期の地図を見ると谷のこっち側の方は相当な崖になっている。この階段はこのままあと20段くらい続いていたに違いない。

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坂の説明書きはどこにもないが、歩道橋の名前のプレートがあって「ごみ坂歩道橋」とある。辺りは大日本印刷の工場敷地で、それをまたぐように架けられている。 辺りには名前のない路地がいくつかあり、ぜひ別の機会に散策したい魅力がある。

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2017年7月18日 (火)

鼠坂(市ヶ谷)

中根坂の凹の底から東に路地が走る。 概ねDNPの敷地脇をくねるように通る。 この曲がり方はなかなか魅力的だ。 長い間道路わきに養生壁を作っていたが、今はどうなっているだろうか。 そのくねった道を進むと目の前に急な上り坂が現れる。

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左側の石垣もいいが右の塀も悪くない。 石垣の上は駐車場、右の塀の中はDNPの社員寮である。 江戸時代の鼠坂を想像するのは難しいが、同じような景色だったろうと思われる。 現在は安藤坂と中根坂の交差点から長延寺へ道が通っているが、江戸時代は鼠坂の坂下がその道だった。 長延寺への通りの途中からこの鼠坂が分かれていた。

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辺りは小さな武家屋敷が立ち並んでいた。鼠坂の坂上の南に折れたところは、江戸時代の切絵図には鷹匠丁と書かれている。 鷹匠が住んでいたのだろうか。 もっとも鷹匠丁というのは江戸の初期からの名前のようだから、開発が進んで鷹匠も住めなくなったか。 坂上のDNP寮の前に浄瑠璃坂の仇討ち跡の説明板がある。これについては浄瑠璃坂の所で書くべきだろう。

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2017年7月17日 (月)

中根坂(市ヶ谷)

市ヶ谷の外濠の北側は自衛隊と大日本印刷に尽きる。 左内坂上から安藤坂を下り、3方向にDNPを見ながら下って上る道がある。 見事に薬研の形をしているが薬研坂とは呼ばれない。

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江戸時代以前の地形を想像するに薬王寺町辺りを源頭とする沢がこ低い部分を流れて外濠(江戸以前は紅葉川)に流下していた。 その時代の地形の記憶が見事にここ中根坂で正体を現している。

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中根坂の由来は江戸時代にこの坂の西側が旗本中根家の屋敷だったためである。 坂脇の標柱にも、「昔、この坂道の西側に幕府の旗本中根家の屋敷があったので、人々がいつの間にか中根坂と呼ぶようになった。」と書かれている。 坂の一番低いところから東へ入るのが鼠坂。

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この坂のくぼみにはその昔拝み石があり、これを拝めば子供の咳が治ると信じられていたという。沢を渡る石橋のようなものがあったのだろう。

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2017年7月16日 (日)

安藤坂(市ヶ谷)

左内坂の坂上をさらに進む。防衛省の裏口で道は北に曲がる。 そこから先の左手は日本学生支援機構(かつての日本育英会)とJAICAなどのある敷地になる。 その先の中根坂が見えてくる。DNP(大日本印刷)の敷地に囲まれた十字路までの下りが安藤坂である。

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写真の右側の敷地が江戸時代には旗本安藤家の屋敷であったために安藤坂と呼ばれた。 安藤坂の坂上は防衛省の裏口だが、切絵図の道の形から察するに江戸時代は尾張藩屋敷の裏口だったのではないかと思われる。

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2017年7月15日 (土)

左内坂(市ヶ谷)

市ヶ谷駅前の市谷見附からマクドナルド角を入っていくと左内坂。坂の標柱には、「この坂道は江戸時代初期に坂上周辺の町家とともに開発された。名主島田左内が草創したので町名を左内坂町と呼び、坂道も左内坂と呼んだ『御府内備考』」と書かれている。

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坂上長泰寺の南側に細路地があり、実は亀岡八幡宮の境内に通じているが、まだ歩いていない。次回はここも散策したい。 ここは正式な八幡宮の裏参道のようである。 標柱にあった島田左内は明治に至るまで市谷田町、市谷船河原町、左内坂上、寺町、牛込揚場町の5町の名主だった。揚場町は飯田橋駅前だからそれぞれ濠の傍にある街を手広く管理していたようだ。

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島田左内の兄に島田久左衛門がいる。 東大久保にある久左衛門坂を開いた人物である。兄弟でディベロッパーをやっていたわけだ。 それが平成の今でもそれぞれの名を冠した坂名が残されていることは大したことだと思う。 坂上に至ると西側は自衛隊の敷地内になる。

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2017年7月14日 (金)

市谷八幡男坂・女坂

釣堀の見える市ヶ谷駅を降りる。釣堀の脇、外堀を渡る橋は江戸時代からの石垣の残る市ヶ谷橋。 ここは江戸時代城の外郭の門のひとつ、市谷御門があったところ。 交差点の名前は市ヶ谷見附。この一角で靖国通りと外堀通りが絡み合うような交じりをしている。市谷見附から市谷八幡町交差点までの100mほどは二つの通りが一つになる。そこに市谷亀岡八幡宮がある。

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目の前に立ちはだかるような男坂の階段。途中踊り場を経て60段の石段である。鎌倉の鶴岡八幡宮を分祀したので亀ヶ岡八幡宮とは洒落なのだろうか。境内には4つの神社がある。亀岡八幡宮・茶ノ木稲荷・金毘羅宮・出生稲荷の4つである。

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西側には車道になっている女坂がある。 こちらは上り下りに歩く人はほとんどいない。 この八幡宮を勧請したのは徳川ではなく太田道灌である。1479年の創建だから540年前。 茶ノ木稲荷はそれ以前から市谷にあったものだという。

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亀岡八幡宮は一度衰退しているが、江戸時代になってから再び賑わいを見せるようになった。 三代将軍家光の信仰もあって、たいそう栄えたという。境内脇にならぶ力石も7基残っており区の指定文化財となっている。

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再び男坂を下る。上の踊り場にある鳥居は珍しい銅鳥居。 1804年に建立されたものである。 江戸の雰囲気を残した境内にしばしたたずむ。 眼を閉じると200年前の喧騒が聞こえてくる気がした。

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2017年7月13日 (木)

銀杏坂(市谷薬王寺)

23区内には二つの銀杏坂がある。 芝の銀杏坂と、この市谷薬王寺町の銀杏坂である。 銀杏坂が出合う外苑東通りはこの辺り拡幅工事中。この辺りの町名は昔ながらでよい。市谷薬王寺町、市谷加賀町、二十騎町、市谷甲羅町、市谷柳町、と小さな区域を不思議な街区で区切られている。

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坂下から望む。 左手には群青色の新しい標柱がある。「坂の北側にあった久貝因幡守の邸内に銀杏稲荷があった。」とだけ書かれている。また右側にもアルミ板を張った標柱があり、「この坂道の北側に旗本久貝家の屋敷があり、屋敷内に銀杏稲荷という社が古くからあったので銀杏坂と呼んだという(『御府内備考』)」と少しこちらの方が丁寧に書かれている。

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坂そのものは緩やかでまっすぐな坂である。銀杏稲荷は明治初期の地図を見ると、上の写真の白いビルの辺りにあったようだ。この道をまっすぐ東に進むとDNP(大日本印刷)のエリアに入る。この道のひとつ北の道(牛込柳町)は茶道通りとでも呼ぶべきか。 裏千家の東京会館や道場がある。

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和風の風流な建物が道場らしい。今日庵とあった。元は二番町にあった東京道場をこちらに平成7年に移転した。庭も素晴らしいと聞く。裏千家の理事長や理事には千氏の名前を持つ人が何人もいる。千利休の子孫だろうか。 今度茶人の友人に聞いてみよう。

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2017年7月12日 (水)

薬王寺坂(牛込)

児玉坂のひとつ北の路地が薬王寺坂である。 坂の標柱はシンプルで、「江戸時代、現在の外苑東通り沿いに薬王寺という寺院があった。」とだけ書いてある。 江戸時代はこの薬王寺坂を挟んで6軒の寺があった。現存するのは、北側の長昌寺、南側の浄榮寺、長厳寺の3寺で半分しかないというか、5割残っているというか、後者だろうな。

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外苑東通りからの道は写真のように高低差を回避するようにつけられ、まっすぐに繋がる階段も新調されてブルーシートがかぶせてある状態。以前外苑東通りが2車線路だった時にはまっすぐに接道していたが、4車線に拡幅したことで坂上の高い地面が詰まってしまって苦肉の策だったのだろう。

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坂は少し上ると平坦になる。 江戸時代は坂上の先は月桂寺の境内だった。今は東京女子医大の敷地に突き当たる。この辺りのマンション名には薬王寺という名前がついたものがいくつもあると感心したら、実はここの住所が市谷薬王寺町だった。坂の南側の浄榮寺の山門は江戸時代後期の薬医門で、なかなか重厚な作りをしている。都内で江戸期の建築物が残されているケースは少ないので貴重である。立札には「常栄寺の山門 甘露門」と書かれていた。

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2017年7月11日 (火)

児玉坂(牛込)

児玉坂は新しい坂道である。 2009年に新宿区が道路通称名を一般公募し、67路線の道路通称名が決定。児玉坂通りもその一つとして 標識が建てられた。その67路線は必ずしも坂ではない。 現在では申請が続き89路線までが正式名称を付けられている。

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この道路通称名についてはこれからも多々登場する。魅力的な無名坂は沢山あるので、増えてくれると嬉しいが、あくまでも地元の人々が長い年月呼んできた名称のみにしていただきたい。新宿区の新しい標柱は群青色で文字は白抜き、とても読みやすいが時代を経た感覚からは程遠い。

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標柱には、「日露戦争で活躍した明治時代の陸軍大将、児玉源太郎の邸宅がこの付近にあった。」とだけ書かれている。 明治の地図を見てみると、この児玉坂通りの北側一帯、薬王寺坂までの1ブロックがまるまる児玉邸となっている。明治の終わりから戦前までの地図にはどれも児玉邸とあるので、かなり長い間ここにあったのだろう。

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2017年7月10日 (月)

新五段坂(牛込)

現在曙橋から早稲田鶴巻町に続く外苑東通りの曙橋から牛込の区間、江戸の切絵図を見ると鉄砲場と尾張藩の馬場になっている。 現在自衛隊になっている東側一帯は尾張藩屋敷だったので、この辺りは尾張徳川家の街という事になる。

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江戸時代はこの外苑東通りよりもさらに1本西の路地までが道幅だったと思われる。「新五段坂」の場所については諸説がある。 荒木町の車力門通りから北への道だという説を唱える人もいる。 標柱もないこの広い新五段坂も時代と共に埋もれていくのかもしれない。

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市谷本村町の防衛省の敷地は前述のように江戸時代には尾張藩邸。尾張藩の藩士たちが居住する武家長屋「五段長屋」がこの辺りにあり、その前の坂は「五段坂」と呼ばれたという。明治維新後に跡地は陸軍となり、陸軍士官学校の構内に取り込まれてしまい、実質五段坂は消滅、現状はこの自衛隊敷地の西側に作られた坂が「新五段坂」と呼ばれている。

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2017年7月 9日 (日)

合羽坂(曙橋)

坂の途中に都が設置した豪華な御影石の石碑がある。 いくつかの坂で見かけたが、どうも都が作るものは文章が読みにくい。高価なものでなくてもいいので、まめに管理する体制をとって欲しいというのが願いである。

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坂下は合羽坂下という交差点。 そこから外苑東通りに向かって真っすぐに上る坂で見た目は最近の坂だが江戸時代からあった坂。坂の由来が東京都設置の石碑にある。

新撰東京名所図会によれば「合羽坂は,四谷区市谷片町の前より本村町に沿うて、仲之町に登る坂路をいう。昔此坂の東南に蓮池と称する大池あり。雨夜など獺(かわうそ)しばしば出たりしを、里人誤りて河童と思いしより 坂の呼名と…転じて合羽の文字を用い云々」 何れにしても、昔この辺りは湿地帯であったことを意味し、この坂名がつけられたものと思われる。」と書かれている。

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坂の脇にひっそりと河童のモニュメントがたたずんでいる。 江戸時代はこの坂より南側には御先手組の屋敷が並び、北側は武家屋敷が並んでいた。 真裏は尾張藩屋敷でこの合羽坂の北側の狭い範囲にだけ町家があったようだ。市谷片丁とある。

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2017年7月 8日 (土)

椎木坂(東大久保)

河田窪(蟹川の痕跡)は都道(主要道)が盛土をして通してあるので、その付近に行くとこの辺りが谷であったことがよくわかる。久左衛門坂も梯子坂もその谷と台地を結ぶ坂である。 実際にはもっと多くの坂がこの谷沿いにはある。その谷筋に開発されたのが戸山ハイツ。 山手線内の団地の中で、高度成長期を支えた年代層が多く住み、住民の半数が高齢者という状況になっている。子供が遊べる公園も豊富だが老人の散歩エリアになっている。そういう時代の変遷を肌で感じたい向きには格好の場所だと思う。

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さて、その河田窪のスリバチ状の地形を感じられるのが椎木坂である。 といっても赤坂の薬研坂のように向こう側の坂が見えるわけではない。都道に沿って、その南側を地形に素直に沿っているのがこの坂である。

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西の傾斜部分と東の傾斜部分にそれぞれ標柱がある。「かつて尾張藩戸山屋敷(現在の戸山ハイツ)の内に椎の大木があり、この坂道を覆っていたため、椎木坂の名前がついた。また古くはこの辺りが砂利取場で、東西に上る二つの坂があったことから向坂とも呼ばれた。『新撰東京名所図会』」と記されている。

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かつての街道(今の大久保通り)はここで川の浅瀬を渡って江戸の中心地に向かっていた。これより北側は江戸時代は広大な尾張藩の屋敷で、現在公園内には東京都心で最も高い山、箱根山(標高44.6m)があるが、これは尾張藩の徳川光友が寛文年間(1661~1673)に庭園の一部として盛土した人口の山である。明治以降は陸軍の戸山学校となり、戦後には増加する人口に対応する為に戸山ハイツが建設された。 現在は周辺の再開発が進んでいて、そのうちに高層住宅が立ち並ぶかもしれない。

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2017年7月 7日 (金)

梯子坂(東大久保)

好きな坂のひとつである。 蟹川の谷の上下を結ぶ階段の坂道。 蟹川の谷は南北に走っていて、この辺りの窪地一体を河田窪と云ったらしい。河田窪という地名は大窪とも呼ばれ、江戸時代には大久保村になった。川が流れていた場所にある典型的な銭湯、東宝湯の煙突と看板が昭和風情を醸し出している。

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坂の石段の下に立つと微妙に曲がっている景色もいいなと思う。猫が階段を横切って北側の家の中に入っていった。 鉄製の手すりの錆止め塗料の剥がれ具合もいい。

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坂上に標柱がある。「坂が急で、まるで梯子を登るようであったため、この名がついた。(新撰東京名所図会)」とある。以前の標柱には「『豊多摩群誌』によれば「梯子坂、久左衛門坂北方の裏通に在り、東へ登り十間許り、坂道急にして恰も梯子を登るが如し、故に名付く」とある。」とあった。 坂上の南側は永福寺の墓地である。

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やはりこの梯子坂は下から見上げる姿がいい。坂の北側は武家屋敷だった。 江戸切絵図には土井彦兵衛とある。坂上のアパートのあるところは小大名の下屋敷で大久保紀伊守とある。大久保に大久保様とは悪くない。 坂下は明治の末期まで田畑だった。

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2017年7月 6日 (木)

久左衛門坂(東大久保)

歌舞伎町を源流にする蟹川が西向天神下で北に向きを変えて流れる先、団子坂の下にある抜弁天厳島神社から下る脇道が久左衛門坂である。 今は東新宿駅に向かう都道302号線が古い道筋をぶった切っているのでわかりにくいが、抜弁天下から久左衛門坂を下って二手に分かれ、南の道は西向天神への参道、西の道は田園地帯をくねって新宿追分方面へ抜けたようである。

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坂の上下に標柱があり、「この坂は、徳川家康の江戸入府以前から大久保に居住していた島田家の草創久左衛門が新しく開いた坂であったため、こう呼ばれるようになったという。」と書かれている。

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この坂の坂下が蟹川の川筋だったところだが、ここから戸山へ流下し、そこでいったん大きな池になり、そこからさらに神田川に合流していた。 切絵図では辺りは田んぼとなっている。坂の北側には江戸時代(1648)から続く永福寺がある。

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2017年7月 5日 (水)

不動坂(西向天神)

山吹坂で大聖院の不動堂に上ると、北側に下りの階段がある。この階段が不動坂である。 石段は相当に摩耗していて、そうとう昔からの状態だろうと思われた。多くの書物には山吹坂とセットで説明される。

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下の道路の1本先の道が川の跡で、下の道路は門前町の町家筋だと思う。 昔からの道を感じながら歩くのもまた乙なものである。階段を下りきると下にも両側に親柱がある。

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右の親柱はほとんどかすれてはいるが何とか「不動坂」と彫られているのを確認できた。左の親柱をよく見ると大正5年とある。 思ったよりも新しくて驚いた。

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2017年7月 4日 (火)

山吹坂(西向天神)

現在の住所表示は新宿6丁目、バブル以前は東大久保という町名だったエリアに西向天神がある。 富久町から入ると何の印もない路地の奥に突然裏鳥居が現れる。この辺りは江戸時代は武家屋敷が立ち並び、天神の位置する崖沿いには寺院が並んでいた。 西向天神の南の階段は結構長い。これだけの高低差があるのだ。

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この段差がどうして作られたかというと、実は歌舞伎町を水源とする蟹川という川が作った谷なのである。蟹川はハイジア辺りを源頭にして、コマ劇場裏を東に流れていた。 あそこの東西の路地が絶妙に曲がりくねっているのは暗渠だからである。川は明治通りを横切り新宿文化センター前の通りを流下、戸山を抜けて神田川に注いでいた。

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境内に入ると南の端に富士講の富士山がある。 江戸切絵図には東大久保富士として大きく描かれている。富士講の富士は東京のあちこちに残っている。有名なのは千駄ヶ谷の鳩森神社と品川神社だろうか。 この富士は本物の富士山を望むことができたはずである。もちろん今は新宿の高層ビル群で何も見えない。

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西向天神は江戸時代から東大久保の鎮守社だった。 当時は大久保天満宮とまで呼んだらしい。 京都の北野天満宮を勧請し、京都の方向(西向き)を向いているため名付けられた。創建は1282年だが、その後いったん寂れた。 この辺りは江戸末期まで田んぼの中に小川の流れる風景だった。江戸初期までに復興を果たし、江戸期は鎮守として親しまれたという。

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西向天神の北側に並ぶのが天台寺門宗大聖院。そこに上る石段が山吹坂である。坂上に標柱があり、「この坂上の大聖院境内にある「紅皿の碑」にちなみ、こう呼ばれるようになった。紅皿は太田道灌の山吹の里伝説で、雨具がないことを古歌に託して、道灌に山吹の一枝を捧げた女性である。」と書かれている。

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伝説では、太田道灌が高田の里(現在の面影橋のあたりとされる)へ鷹狩に来てにわか雨にあい、近くの農家に雨具を借りようと立ち寄った。その家の少女紅皿は、庭の山吹の一枝を道灌に差し出し、御拾遺集の中にある歌

『七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき』

にかけて、雨具(蓑)のないことを伝えた。後にこれを知った太田道灌は歌の教養に励み、紅皿を城に招いて歌の友とした。道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られたということである。

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2017年7月 3日 (月)

団子坂(若松河田)

念仏坂を上り台地の上を北に向かう。 丁字路に出ると目の前に正覚山月桂寺。 この寺院は江戸時代の切絵図では大きく書かれている。臨済宗の寺で、江戸時代には相当栄えたらしい。近代史を考えるとこういう寺院の盛衰も面白いが、私はどちらかというと地形派である。

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ここから若松町までの間は昔は大名屋敷の通り。東京女子医大辺りまでの広い敷地は尾張藩の下屋敷(戸山尾刕殿)だった。今は東京女子医大の建物がいくつも並んでいる。 古いレンガ造りの1号館がついに解体されてしまった。 1930年に建設された素敵な建物だったが残念である。

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若松河田駅へ出ると地下には大江戸線の駅。 ここから西へ下るのが団子坂。 標柱には、「昔この辺一帯が低湿地であり、この坂はいつも泥んこで、歩くたびにまるで泥団子のようになったという。嘉永7年(1954)の江戸切絵図には「馬ノ首ダンゴザカト云」とある。」と書いてある。

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今は道路も広く整備された緩やかな坂だが、江戸時代にはぬかるみの坂道だったのだろう。 抜弁天の厳島神社の辺りは江戸時代は川筋だったと神社の境内の説明に古地図を添えて書かれている。そこまでの通り沿いはほぼ武家屋敷が並ぶ街並みだったが、江戸の初期から中期にかけては、とてつもなく広い犬屋敷だった。「厳島神社(抜弁天)の東側一帯(約1万坪)および余丁町小学校と警視庁第八機動隊を含む一帯(約13,000坪)は、江戸時代に設けられた犬御用屋敷の後である。5代将軍綱吉の生類憐みの令に伴うものらしい。当時の犬御用屋敷は、中野一帯と四谷とここの3ヶ所だった。

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厳島神社抜弁天だが、ここは境内を抜けて南北に往来できることから、また苦難を抜けるご利益があったということで、江戸の町民から抜弁天として親しまれた。しかし由来はさらに古く、白河天皇の時代、応徳3年(1086)に源義家が立ち寄り富士を眺めながら安芸の厳島神社に戦勝祈願をしたのが始まりと言われる。近所に富士塚もあるがそれはまた後日談。

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2017年7月 2日 (日)

念仏坂(曙橋)

曙橋通り商店街は昔は市ヶ谷谷町という湿地帯。坂上の窪地にはいくつかの池があり、池を見下ろすように巨大な屋敷が建てられていた。その屋敷のひとつ徳川邸の敷地に戦後昭和になってフジテレビが建った。地形で言うといわゆる谷地だったろうと思われる。
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商店街の脇にいきなりこれだけの急な階段があるとびっくりするのだが、これがこの辺りの地形を代表しているといってもいい。上る前にいったん息を整えるほどの階段である。 階段下に標柱がある。「『新撰東京名所図会』では、昔この坂に老僧がいて昼夜念仏を唱えていたことに因むという。またこの坂は左右を谷に臨み、屈曲しており危険だったので、仏名を念じて往来する人がいたことに因むともいう。」と書かれている。
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年配の方は鉄製の手すりを頼りに上って行く。 途中黒御影石の石柱があるが、これは昭和55年に地元の人が建てたもの。まっすぐでなく、折れ曲がっていてかつ微妙に曲がっているその道筋がなかなかいい景色である。
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坂上は打って変わって極めて明るく、太陽がさんさんと降り注ぐ雰囲気。江戸時代の切絵図を見ると坂の上の台地には小さな武家屋敷が並んでいる。台地に武士、谷に町民というのは江戸時代の典型。
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上の地図は紅葉川の源流の沢のくぼみを強調したもの。谷筋は明治以前は暗い場所だったのだが、時代を経て今はどっちかというとディープなエリアとして人気が出ている。ふと四谷の地名の由来を考えてみた。二つの説があり、4つの谷によって形成された土地だから四谷という説と、四軒の茶屋があったことから四屋>四谷という説。しかし私はもう一つの説を支持したい。 元は谷地谷と呼んでいたがヤチヤ>ヨツヤと転訛したのではないだろうか。
 

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2017年7月 1日 (土)

安養寺坂(曙橋)

曙橋通り商店街を北上すると右に念仏坂の階段を見た先で左に上る道がある。 安養寺坂だ。 坂の南側に安養寺がある。浄土宗の寺院で1574年に開山、1656年に現地に移転した。曙橋商店街の通りはかつては市谷谷町と呼ばれ、娼婦街を形成していたという。谷沿いはこういう歴史が多い。

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坂下と中腹に標柱があり、「『新撰東京名所図会』に「安養寺は念仏坂の少し北の方を西に大久保余丁町に上る坂路をいふ。傍らに安養寺のあるに因れり。」とある。安養寺は浄土宗知恩院末の寺院で、もと市谷左内町富士見坂の辺りにあった。そこが明暦2年(1656)、尾張藩上屋敷となるため現在地に移ったという。」と書かれている。

坂上に公園があるが、その手前に崖を形成する路地があり楽しそう。 まだ散策していないのでそのうち歩いてみたい。意外とその路地は古道で鍋釣(なべつり)と呼ばれているそうだ。

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で、娼婦街の話だが、坂下の辺りは通称ぢく谷と呼ばれた低湿地で、江戸時代から明治大正期にかけてはスラム街で、いわゆる岡場所(私娼窟)のひとつとして知られていた。 また当時は「貸し倒れ横丁」と呼ばれ、商店を開いてもたいていつぶれてしまうとも言われたという。しかし戦後フジテレビが出来てとても賑わう街になった。当時はフジテレビ通りと呼んでいた。 しかし1997年にお台場に移転すると、この商店街の賑わいは衰えてしまった。 歴史というものは不思議なものである。

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