椎木坂(東大久保)
河田窪(蟹川の痕跡)は都道(主要道)が盛土をして通してあるので、その付近に行くとこの辺りが谷であったことがよくわかる。久左衛門坂も梯子坂もその谷と台地を結ぶ坂である。 実際にはもっと多くの坂がこの谷沿いにはある。その谷筋に開発されたのが戸山ハイツ。 山手線内の団地の中で、高度成長期を支えた年代層が多く住み、住民の半数が高齢者という状況になっている。子供が遊べる公園も豊富だが老人の散歩エリアになっている。そういう時代の変遷を肌で感じたい向きには格好の場所だと思う。
さて、その河田窪のスリバチ状の地形を感じられるのが椎木坂である。 といっても赤坂の薬研坂のように向こう側の坂が見えるわけではない。都道に沿って、その南側を地形に素直に沿っているのがこの坂である。
西の傾斜部分と東の傾斜部分にそれぞれ標柱がある。「かつて尾張藩戸山屋敷(現在の戸山ハイツ)の内に椎の大木があり、この坂道を覆っていたため、椎木坂の名前がついた。また古くはこの辺りが砂利取場で、東西に上る二つの坂があったことから向坂とも呼ばれた。『新撰東京名所図会』」と記されている。
かつての街道(今の大久保通り)はここで川の浅瀬を渡って江戸の中心地に向かっていた。これより北側は江戸時代は広大な尾張藩の屋敷で、現在公園内には東京都心で最も高い山、箱根山(標高44.6m)があるが、これは尾張藩の徳川光友が寛文年間(1661~1673)に庭園の一部として盛土した人口の山である。明治以降は陸軍の戸山学校となり、戦後には増加する人口に対応する為に戸山ハイツが建設された。 現在は周辺の再開発が進んでいて、そのうちに高層住宅が立ち並ぶかもしれない。
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