山吹坂(西向天神)
現在の住所表示は新宿6丁目、バブル以前は東大久保という町名だったエリアに西向天神がある。 富久町から入ると何の印もない路地の奥に突然裏鳥居が現れる。この辺りは江戸時代は武家屋敷が立ち並び、天神の位置する崖沿いには寺院が並んでいた。 西向天神の南の階段は結構長い。これだけの高低差があるのだ。
この段差がどうして作られたかというと、実は歌舞伎町を水源とする蟹川という川が作った谷なのである。蟹川はハイジア辺りを源頭にして、コマ劇場裏を東に流れていた。 あそこの東西の路地が絶妙に曲がりくねっているのは暗渠だからである。川は明治通りを横切り新宿文化センター前の通りを流下、戸山を抜けて神田川に注いでいた。
境内に入ると南の端に富士講の富士山がある。 江戸切絵図には東大久保富士として大きく描かれている。富士講の富士は東京のあちこちに残っている。有名なのは千駄ヶ谷の鳩森神社と品川神社だろうか。 この富士は本物の富士山を望むことができたはずである。もちろん今は新宿の高層ビル群で何も見えない。
西向天神は江戸時代から東大久保の鎮守社だった。 当時は大久保天満宮とまで呼んだらしい。 京都の北野天満宮を勧請し、京都の方向(西向き)を向いているため名付けられた。創建は1282年だが、その後いったん寂れた。 この辺りは江戸末期まで田んぼの中に小川の流れる風景だった。江戸初期までに復興を果たし、江戸期は鎮守として親しまれたという。
西向天神の北側に並ぶのが天台寺門宗大聖院。そこに上る石段が山吹坂である。坂上に標柱があり、「この坂上の大聖院境内にある「紅皿の碑」にちなみ、こう呼ばれるようになった。紅皿は太田道灌の山吹の里伝説で、雨具がないことを古歌に託して、道灌に山吹の一枝を捧げた女性である。」と書かれている。
伝説では、太田道灌が高田の里(現在の面影橋のあたりとされる)へ鷹狩に来てにわか雨にあい、近くの農家に雨具を借りようと立ち寄った。その家の少女紅皿は、庭の山吹の一枝を道灌に差し出し、御拾遺集の中にある歌
『七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき』
にかけて、雨具(蓑)のないことを伝えた。後にこれを知った太田道灌は歌の教養に励み、紅皿を城に招いて歌の友とした。道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られたということである。
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