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2017年7月 3日 (月)

団子坂(若松河田)

念仏坂を上り台地の上を北に向かう。 丁字路に出ると目の前に正覚山月桂寺。 この寺院は江戸時代の切絵図では大きく書かれている。臨済宗の寺で、江戸時代には相当栄えたらしい。近代史を考えるとこういう寺院の盛衰も面白いが、私はどちらかというと地形派である。

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ここから若松町までの間は昔は大名屋敷の通り。東京女子医大辺りまでの広い敷地は尾張藩の下屋敷(戸山尾刕殿)だった。今は東京女子医大の建物がいくつも並んでいる。 古いレンガ造りの1号館がついに解体されてしまった。 1930年に建設された素敵な建物だったが残念である。

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若松河田駅へ出ると地下には大江戸線の駅。 ここから西へ下るのが団子坂。 標柱には、「昔この辺一帯が低湿地であり、この坂はいつも泥んこで、歩くたびにまるで泥団子のようになったという。嘉永7年(1954)の江戸切絵図には「馬ノ首ダンゴザカト云」とある。」と書いてある。

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今は道路も広く整備された緩やかな坂だが、江戸時代にはぬかるみの坂道だったのだろう。 抜弁天の厳島神社の辺りは江戸時代は川筋だったと神社の境内の説明に古地図を添えて書かれている。そこまでの通り沿いはほぼ武家屋敷が並ぶ街並みだったが、江戸の初期から中期にかけては、とてつもなく広い犬屋敷だった。「厳島神社(抜弁天)の東側一帯(約1万坪)および余丁町小学校と警視庁第八機動隊を含む一帯(約13,000坪)は、江戸時代に設けられた犬御用屋敷の後である。5代将軍綱吉の生類憐みの令に伴うものらしい。当時の犬御用屋敷は、中野一帯と四谷とここの3ヶ所だった。

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厳島神社抜弁天だが、ここは境内を抜けて南北に往来できることから、また苦難を抜けるご利益があったということで、江戸の町民から抜弁天として親しまれた。しかし由来はさらに古く、白河天皇の時代、応徳3年(1086)に源義家が立ち寄り富士を眺めながら安芸の厳島神社に戦勝祈願をしたのが始まりと言われる。近所に富士塚もあるがそれはまた後日談。

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