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2017年8月31日 (木)

成子坂(西新宿)

ヨドバシカメラの名前の由来は地名の淀橋である。 今の西新宿の高層ビル群の一帯から神田川辺りまでの広いエリアを明治後期は淀橋と呼んでいた。 しかしそれ以前は青梅街道以北が柏木村、青梅街道と甲州街道の間が角筈村というように、今でこそ高層ビルが数多立ち並ぶ副都心だが、かつては江戸の西のはずれの田舎だった。 江戸から西へ進む街道は、今の伊勢丹前、追分で青梅街道と甲州街道に分岐し、北側の青梅街道が神田川の谷に向かって下るあたりが成子坂になる。

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本来の名前は鳴子坂。 江戸の初期は道も狭く急峻で、百姓家が並んだ。ただ街道だけに旅人を鳴子で呼ぶ半農半商の店が多くあった。 鳴子はもとは農作物を守るために鳥を追い払う目的の鳴り物で、カチカチと音を立てる小さな羽子板のようなもの。 徐々に街道筋が農家から商売家に変わっていくと、客寄せの鳴子も使われなくなり、そのうち地名も成子に転化してしまった。 しかし古い街道だけに、高層ビルの間にある店舗には100年前後続くものもあったりする。

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成子坂下の交差点に東京都が建てた金属製の説明板があるが、落書きされて読むのにひと苦労する。 「豊多摩郡誌によれば、「成子坂は、成子神社前の緩斜路をいう。石地蔵は其南側にあり、年月を刻せず、古きものとも見えざるが、香火常に絶えず稚児を喪いしもの供養するところなるにや、傍に庚申塔数基あり、延宝8年(1680)、同5年(1677)の文字を読む、毎月11日、22日はこの石地蔵の縁日、また毎月25日は成子神社の縁日として夜店多く並び・・・」とあり、成子坂一円は非常に賑わったところだったことがわかる。」と書かれているようだ。

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坂の途中、旧柏木村側にあるのが成子天神である。 天神なので祭神は菅原道真公。 平安時代以前からここには天照大神を祀る神社があったが、延喜3年(903)に道真の家臣がこの地に成子天神を設立したという由緒。 社殿は戦争で焼失し、昭和41年に再建されたもの。

この地域には名物として明治期まで鳴子ウリなるものがあった。 マクワウリという小さいウリで、原産地は美濃の国の真桑村(大垣市の北にある本巣市の中心地)。 徳川幕府は真桑村から農民を呼び寄せ、府中の是政とここ鳴子に住まわせて瓜の栽培をさせた。 この瓜は根が浅く、土の乾燥に弱いので、神田川の流域で土地の湿り気の多いここは適地だった。 徳川幕府の土木工事は凄いものだが、農業に対する見地も大したものがある。

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2017年8月30日 (水)

高田八幡男坂・女坂(早稲田)

穴八幡宮の元の名前は高田八幡宮。 江戸時代は与力の射術の訓練のために的場が開かれ、流鏑馬も有名である。 康平5年(1062)に源義家が東国平定から凱旋の折、ここに兜と太刀を納めて八幡宮を祀ったのが始まりとある。

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江戸以前にこの辺りが戸塚村と呼ばれていたのは、兜塚が由来だと伝えられる。寛永18年(1641)南側の山裾を切り開いたところ、神穴が出現したことから穴八幡宮と呼ばれるようになった。将軍家にも保護され、牛込全体を氏子の域として認められ隆盛した。

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馬場下町正面の急な階段が男坂である。 平均斜度25度の階段は愛宕神社ほどではないが圧迫感がある。 しかしほとんどの人が女坂ではなくこの男坂の階段を上り下りしている。一方の女坂はひっそりと南側に付けられている。

高田馬場の地名の由来はもちろんここに馬場があってのこと。流鏑馬は享保13年(1728)に徳川吉宗が世継ぎの疱瘡の平癒祈願のために穴八幡宮に流鏑馬を奉納したのが起源。いまだに都内で伝えられている流鏑馬として有名である。さて「たかだのばば」か「たかたのばば」かについては混在しているが、地名的には濁るほうらしい。

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2017年8月29日 (火)

八幡坂(早稲田)

早稲田通りの馬場下交差点にあるのが穴八幡宮。穴八幡宮の別名(旧名)は高田八幡。1062年の創建から現在まで賑わいを保ってきた神社のひとつ。この神社と早稲田大学の間が八幡坂である。

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今は4車線歩道付きの大通りだが、この道は昔から沢山の人が行き交う街道だった。 坂の途中に東京都が設置した大理石の標柱がある。黒レリーフで作られている江戸名所図会はひどく傷つけられていてとても見られたものではないが、その下に彫られている文章は読めた。

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「坂名は穴八幡にちなんで八幡坂と名づけられたものである。 この地はもと高田と呼ばれ、八幡は高田八幡とも呼ばれていた。 昔の道は急坂で、坂の下り口、上り口には、いわゆる「立ちん坊」が立ち、荷車の暴走を止める手助けをして、賃金をもらっていたと伝えられる。 昭和39年12月、地下鉄早稲田駅が開業して、坂下の馬場下付近は賑やかさを増した。」と彫られていた。

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その江戸名所図会だが、上の写真である。真ん中を通るのが八幡坂で、緩やかな階段になっている。そして早大の場所には、聖天、法輪寺、水神社が並んでいる。この水神社の裏手にあったのが高田富士。 今、この水神社は都電荒川線早稲田駅南にある甘泉園公園脇にある。この神社の創建は941年で穴稲荷よりも古い。 千年以上も昔に早大キャンパス内の富塚の場所から始まった火除けの神社なのだが、戦災ではさすがに焼けてしまった。 しかし、ご神木の楠の根は残ったという。

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2017年8月28日 (月)

地蔵坂(西早稲田)

地蔵坂通りというのは地蔵がある(あった)からなのだが、ここも坂下に源兵衛子育地蔵尊がある。ただし江戸時代からの名称ではなく、2009年の新宿区の道路通称名の決定事案で確定した坂名。とはいえその決定事案は「地域で古くから使われている名称」を一つの条件にしているのでそれなりに昔から呼ばれてきたのだろう。

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西早稲田駅の北側の出口から路地を巡って坂上から下ってきたのだが、坂上は閑静な住宅地で、はてこの道はいつからあるのかと調べてみると、おおよそ明治の終わりころの地図には道らしき線があるのでその頃開かれた路地なのだろう。坂下の早稲田通りは江戸期から高田町屋として記載されているが、周りは殆ど畑になっている。

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坂の上下にある新宿区の青い標柱には、「この地に住んだ小泉源兵衛の功績を記憶し、享保の時代に源兵衛地蔵が安置された。」と書かれている。元禄の末頃、小泉源兵衛がここに住みつき、この周辺は源兵衛村と呼ばれるようになった。いわゆる名主だったのだろう。

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地蔵尊には庚申塔もあり、寛文13年(1673)の年号が刻まれている。馬頭観音などは明治以降のものだった。西早稲田商店街には親しまれている地蔵尊ではあるが、歴史も成り立ちも今の早大キャンパス辺りにあった水神社や穴八幡とはまったく別の、町内の地蔵様だったようだ。

 

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2017年8月27日 (日)

グランド坂(早稲田)

グランド坂は新しい坂である。 新しいと言っても昭和の初期くらいだから80年以上の歴史はあるわけだ。 グランドというのは現在早大中央図書館のある早大総合学術センターがある場所にあった戸塚球場が由来である。

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上の写真の左の大きな建物の敷地がそれで、明治35年(1902)に早大がスタジアムを設置、まだ日本野球の草創期であったが日本で初めての照明付きナイター球場だった。当時は大学野球や国際試合もここが中心だったが、大正15年(1926)に神宮球場が完成すると徐々に中心ではなくなった。

坂の上下にある標柱には、「戸塚球場(今の早大総合学術センター)のグランドから、六大学リーグ戦に向け練習に励む学生達の声が響いてくることからグランド坂と呼ばれるようになった。戸塚球場は昭和24年、早大野球部育ての親、安部磯雄氏の逝去により安倍球場と改称し、昭和62年まで存続した。」と書かれている。

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さすがに学生がグランド坂を縦横無尽に自転車で行き交うのはほかではあまり見かけない風景であるが、時代を遡ると明治の初めにはこの辺りは茶畑で、坂下は水田の広がる風景だった。時折神田川は洪水を起こし、それが実り豊かな農村(下戸塚村)に繋がっていたようである。 さらに江戸期に遡ると、茶畑の間には神社や寺が点々とあり、今の早大キャンパスの一部には水神社があり、境内には日本最古の富士講の富士(1779年築)である高田富士もあって、江戸期は江戸期で賑やかな場所だったようだ。昭和30年代に早稲田が大規模な施設拡張をした時期に高田富士は撤去されてしまった。 住民の反対もあったようだが、高度成長期ということもあり、押し切られてしまった感がある。

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2017年8月26日 (土)

夏目坂(早稲田)

夏目坂通りは通称通りで南は若松町、北は馬場下町の交差点までの間を呼ぶ。夏目漱石の生家がこの坂の途中にあった。坂下のやよい軒の前に夏目漱石誕生の地の石碑がある。漱石の父が自分の姓をつけて呼んでいたのが広まったと言われている。

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坂の上下にある標柱には、「夏目漱石の随筆『硝子戸の中』(大正四年)によると、漱石の父でこの辺りの名主であった夏目小兵衛直克が、自分の姓を名づけて呼んでいたものが人々に広まり、やがてこう呼ばれ地図にものるようになった。」と書かれている。

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坂下の交差点にある小倉屋という酒屋は漱石が子供の頃にはすでにあったようだ。またこの辺りを喜久井町と呼ぶのは、名主であった夏目家の家紋が井桁に菊で、それで夏目家のあるこの街を喜久井町としたという話を漱石は子供の頃に聞かされている。

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2017年8月25日 (金)

下戸塚坂(早稲田)

若松町から早稲田にかけては、牛込台地から神田川流域に下る分かなりの高低差がある。早稲田駅が11m、下戸塚坂下の喜久井町三叉路あたりが23m、坂上の若松町は35mある。この坂は下から見上げるのがいい。 徐々に勾配が増していく景色が見える。

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標柱には次のように書かれている。「江戸時代、この地は武家屋敷などで占められ、町名はつけられず、この坂も無名坂であった。明治五年(1872)下戸塚町となったことにより、この坂も町名と同じ下戸塚坂と呼ばれるようになった。」 とはいえ名前がついたのが明治時代に入ってからで、坂自体は江戸時代から続いている。 坂下には寺が並び、中腹から上は武家屋敷が並んでいた。

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坂の最後は石垣とビルで切通のようになっている。この道の一本東は、若松町から早稲田へ下る道は夏目坂通りという通り名。 坂の下部の早稲田駅近くが夏目坂だが、この一本西にある下戸塚坂も江戸時代は同じくらいの道筋であった。下戸塚坂の西側は尾張殿の戸山屋敷。その後陸軍戸山学校になる。現在は戸山団地の区画。坂下のいくつかの寺は江戸時代から続いている。
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坂上東側はワンルームマンションの建設工事をしていた。 60坪ほどの土地に11階建のワンルームマンションで34戸が入るらしい。 江戸時代の武家屋敷の土地に時代を超えて平成の長屋が建つような気がした。 平成の長屋は縦に長い。

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2017年8月24日 (木)

焼餅坂(牛込)

外苑東通りと大久保通りの交差点が市谷柳町。 外苑東通り筋は大昔は沢筋だった。 北に向かって標高が下がりやがて神田川に注ぐ小沢である。 この窪みが牛込台地を東西に分けている。 山伏町から外苑東通りに向かって西に下るのが焼餅坂で、江戸時代の切絵図には「ヤキモチザカ」と記されている。

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大久保通りは緩やかなカーブを描いて下っていき、交差点を過ぎると再び上る。向こう側の坂には名前はない。 坂上の山伏町は江戸期から続く町名。山伏(修験者)が多く住んでいた。ただ享保8年(1723)に火災で山伏町は焼失し下谷に移った。そのあとには武家屋敷が建てられた。

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坂の中腹に東京都が建てた金属製の説明板には、「昔、この辺りに焼餅を売る店があったのでこの名がつけられたものと思われる。別名赤根坂ともいわれている。新撰東京名所図会に「市谷山伏町と同甲良町との間を上る。西の方柳町に下る坂あり、焼餅坂という。即ち、岩戸町箪笥町より通ずる区市改正の大通りなり」とある。また「続江戸砂子」「御府内備考」にも、焼餅坂の名が述べられている。」と彫られている。

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大久保通りは明治後期に開通した道である。 それ以前は脇の斜め道が街道だった。 大久保通りが開かれたのは明治から大正にかけてで、都電の路面電車のための新道だった。今の新宿区役所前から若松町を通りここを東進し、神楽坂上から飯田橋という路線。今はその影もほとんどない。

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2017年8月23日 (水)

宝竜寺坂(牛込)

早稲田通りと外苑東通りの交わる弁天町から南へ歩く、今も寺はあるのだがビルの陰にひっそりとたたずんでいるので、意識しないと気づかない。南春寺はビルの寺になり、多聞院と浄輪寺はお屋敷の玄関のような入口になっている。外苑東通りの東側はすぐ裏が崖になっていて、奥の敷地に入るには階段か急な坂を上るしかなく、牛込弁天公園も同じように上ってから台地のようになっている。 そのまま少し進むと、左に階段道が現れる。

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宝竜寺坂である。別名を幽霊坂という。標柱には次のように書いてある。「昔この辺りは七軒寺町という寺町で、この坂の上に宝竜寺という寺があったためこう呼ばれた。また明治頃、寺の樹木が茂り、寂しい坂であり、幽霊が出るといわれたため、幽霊坂とも呼ばれた。」 江戸時代の切絵図では確かに寺は今の外苑東通り沿いに7軒並んでいる。 しかし宝竜寺はその7寺には含まれていない。 それどころか坂上の寺の名前は法輪寺とある。 法輪寺と宝竜寺、確かに響きは似ているが、同じ寺か違う寺かはわからない。

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現在はきれいなタイル張りの階段だが、昔の写真を見ると少しU字型に見えるコンクリートの階段道のようだ。坂下周辺は江戸時代は根來百人組の屋敷だったようだ。 江戸時代の鉄砲隊のひとつ。根來組、甲賀組、伊賀組、二十五騎組の4組があった。

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2017年8月22日 (火)

滝の坂(牛込)

牛込辺りの外苑東通りにはいくつもの名のある坂がある。 榎木町の裏道にあたる路地に滝の坂がある。 入り口には昭和ムードたっぷりの商店があって、コカ・コーラとヤマザキパンの看板の間にある電話の袖看板が素晴らしい。

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この「でんわ☎でんぽう」の看板、私が子供の頃はよく見かけたが最近はとんと見かけない。 ところが散歩しているとたまに見るから不思議である。 よく残っているものだと感心する。 この商店の路地が早稲田通り側の滝の坂である。

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坂を上ると東側に大願寺がある。 江戸時代、大願寺の裏手は小浜藩酒井家屋敷の西の端だった。 その庭にはとても大きな池があり、その池の水はこの西側にあった竹藪に流れ出していた。 当時はこの場所を薮下と呼んでいたらしい。大願寺の裏手にくねくねと曲がった細路地があるが、この辺りが竹藪から水が流れ出していた場所のようだ。 流れはそのまま北へ、そして神田川へ注いでいたと思われる。

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この大願寺の門前で年配の女性に道を尋ねられた。 多聞院に行きたいのだそうである。 多聞院は大願寺の路地の斜め向かいを入ったところにあるが、女性は昔この裏道から入った記憶があるという。 今の多聞院の入口は外苑東通り側にあることを告げ、こちら側の入り口はわからないというと表通りに回って行った。  おそらく昔は裏手から入れたのだろう。ところが裏の土地を切り売りしてしまい、住宅地になってしまって出入りが出来なくなったのだと思う。 寺も続けるのが大変なのかもしれない。

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2017年8月21日 (月)

袖摺坂(牛込神楽坂)

袖摺坂は残された坂という気がする。 別名を乞食坂というが、横関氏によると、乞食坂と付くのは寺院の多い土地の坂でその横町とか裏道にある。昔は寺社の門前は乞食の稼ぎ場所だった。毎日のようにどこかで縁日があって、それを転々として稼いだ。 そんな彼らが休憩したりする人通りの少ない路地が坂道だと乞食坂と呼んだようだ。 確かにこの袖摺坂の上は寺町で、そこから抜けて下ってくる道の途中が坂になっている。横関氏が昭和11年の坂の写真を載せていたが、山寺の境内に上る道のように雁木が埋めてある坂だった。

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坂の上下に標柱があり、「俗に袖摺坂と呼ばれ、両脇が高台と垣根の狭い坂道で、すれ違う人がお互いの袖を摺合わしたという(『御府内備考』)。」と書かれている。確かに石垣と黒塀に挟まれた階段は江戸情緒がある。ただし足元を見ると石のタイルになっていて興覚めしてしまうのだ。

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地形を見てみると牛込台地の真ん中を東から西に切れ込む谷筋が大久保通りになっている。  江戸名所図会の筑土八幡の絵をよく見てみると、参道下に細い川の流れがあり、橋を架けている。

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こういう事実を発見した時がこの坂道探訪の醍醐味である。 ただ江戸末期の筑土八幡下でこの川幅なので、袖摺坂あたりでは子供が跨げる程度の川幅だったかもしれないが。

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2017年8月20日 (日)

弁天坂(箪笥町)

都営大江戸線牛込神楽坂駅の真上にあるのが南蔵院龍福寺、境内には現在牛込聖天(大聖歓喜天)があるが、弁天坂の名前の由来になる弁財天は今はない。戦災で焼けてしまった後は再建されていない。 ものの本によると門前の大久保通りを弁天坂としているものがあり、さらに都の設置した弁天坂の金属製の説明板が大久保通りに立っていて紛らわしいが、石垣の上の側道が本来の弁天坂である。

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都の設置した説明板には次のように彫られている。「坂名は、坂下の南蔵院境内に弁天堂があったことに由来する。明治後期の『新撰東京名所図会』には、南蔵院門前に甘酒やおでんを売る屋台が立ち、人通りも多い様子が描かれている。 坂上近くの横寺町47番地には、尾崎紅葉が明治24年から36年10月病没するまで住んでいた。門弟泉鏡花、小栗風葉らが玄関番として住み、のちに弟子たちは庭続きの箪笥町に家を借り、これを詩星堂または紅葉塾と称した。」 都の説明板もよく読むと上の道路が弁天坂だとわかるが、何も大久保通りに立てなくてもとは思う。

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坂上から望むと、道は大久保通りにぶつかって右に折れるが、その手前で袖摺坂の階段が分かれる。 江戸時代の切絵図では坂下は階段になっているので、弁天坂と袖摺坂は一体であったのかもしれない。 ただ明治の地図ではすでに弁天坂と大久保通りは分かれていて、その西には牛込区役所があった。現在の牛込箪笥区民ホールの場所である。1947年(昭和22年)に牛込区は淀橋区、四谷区と合わせて新宿区になった。

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2017年8月19日 (土)

朝日坂(牛込神楽坂)

地下鉄東西線神楽坂駅の神楽坂口の近くにある「神楽坂KIMURAYA」というちょっと洒落たスーパーの角を南曲がると朝日坂に入る。この道筋は江戸時代は寺町で、いくつもの寺院が軒を連ねていた。

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今も数件の寺があり、町名も横寺町と江戸時代と同じである。坂の標柱には、「『御府内備考』には、かつて泉蔵院という寺があり、その境内に朝日天満宮があったためこの名がついたとある。明治初年、この辺りは牛込朝日町と呼ばれていた(東京府史料)。」とある。

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坂上北側の円福寺前には当時の祭りの様子を描いた銘板があり、江戸の祭りは花だというのがよくわかる。 坂上を南に左折すると袖振坂に向かう。

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2017年8月18日 (金)

地蔵坂(新宿区天神町/矢来町)

早稲田通りは西進すると、牛込天神町で不思議なクランクをしている。右折すると江戸川橋通りとなり江戸川橋を渡って音羽に向かう。 このクランク、実は江戸時代からクランクだった。南側は小浜藩上屋敷、クランクの周りは御先手組の組屋敷で、江戸川橋通り側は天神町という町家の一角だった。

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これだけの大通りがその地形を消し去れないという事に、心の底からウフフと笑いたくなる心地よさがある。 ここから西は天神町である。クランクの所に標柱がある。

「江戸時代後期、小浜藩酒井家下屋敷(現在の矢来町)の脇から天神町へ下る坂を地蔵坂と呼んでいた(『砂子の残月』)。坂名の由来は定かではないが、おそらく近くに地蔵尊があったものと思われる。」 ・・・あれ?切絵図では酒井家の上屋敷になっているけど?

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坂の別名を三年坂という。 酒井家上屋敷は土手を築いていてうっそうとした道で辻斬りや追剥が出没した。 おまけに当時は急坂で、この坂で転ぶと三年以内に死ぬと言われた。辻斬りだと三年ではなく即日死ぬだろうとは思うのだが。

寛永10年(1639)に大火で江戸城本丸が炎上した時、徳川家光はこの酒井家屋敷に避難した。その時の警護に仮の囲いとして槍を立てて囲んだ(これを矢来という)。 それ以来酒井家では屋敷を竹矢来で囲むのを習わしとしたという。 それが矢来町の町名の由来である。

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2017年8月17日 (木)

比丘尼坂(矢来町)

朧の坂から2本先の路地。 坂下からくる場合は赤城坂のクランクの交差点を西へ進む。 銭湯の金成湯(きんせいゆ)まで行くと行き過ぎで、その1本手前を早稲田通りに向かって上るのが比丘尼坂である。

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坂の傾斜は緩やか。 途中クランクになるが、江戸時代は御先手組の屋敷(今でいう公務員団地のようなもの)が建ち並んでいたようである。かつては坂下に標柱があったらしいが、十数年前からなくなってしまったようである。坂名の由来が書かれていて、「このあたりに比丘尼坂が住んでいたという。比丘尼姿の私娼が住んでいたのではないかとの説もあるが、特にに根拠はない。」と書かれていたと道家氏の書には書かれている。

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クランクから早稲田通りまでの間は細路地。訪問時は路地の入口の水道工事屋さんがトラックを駐車しっぱなしにしていて車は通れない状態になっていた。 トラック脇を抜けて早稲田通りへ出る。 早稲田通りの向かい側は江戸時代は小浜藩酒井若狭守の上屋敷があり、庭には大きな池があった。 その庭は築山山水式の名園。 池は明治の終わりまで残っていた。

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2017年8月16日 (水)

朧の坂(矢来町)

この坂は謎の坂である。 坂関連の文献の多くは隣りの比丘尼坂の別名を朧坂としているが、坂学会会長の山野氏のみが矢来町のこの道を朧の坂と明言している。 早稲田通りからは赤い壁が目立つシーフード料理店と書店の間の道で、すぐに下り坂になる。

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山野氏によると、神田川を挟んで北側の小日向台地の服部坂からこの朧の坂を眺めるとぼんやりとかすんで見えたらしい。それがこの坂の名前の由来のようだ。

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短い坂だが、江戸時代にそう呼ばれていたかどうかはわからない。 坂下より先は階段になっており、民家に入っていく。 この坂の場所は神楽坂の善国寺にある案内地図に明記されている。

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2017年8月15日 (火)

赤城坂(神楽坂)

神楽坂上は寺の立ち並ぶ街並みであった。 もちろん江戸時代の話である。 その先をひとつ入ったところが赤城神社である。 地蔵坂のところでも書いたが、神楽坂上には室町時代大胡氏(のちの牛込氏)の城があった。 その大胡氏は赤城山麓の豪族で、1300年頃というから鎌倉時代の末期、群馬の大胡からここに移住した。 今も赤城山の麓には大胡という町がある。

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江戸時代には徳川幕府によって「日枝神社」「神田明神」と共に「江戸三社」と称され、牛込の総鎮守として多くの氏子を抱えていた。 ただ平成になって社殿を建替え、とてもモダンになったのには賛否ありそうだ。 その赤城神社の西脇を神田川に向かって下るのが赤城坂である。

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長い坂で、途中クランクしてさらに下っていく。 クランクの所には赤城神社の西参道がある。 裏参道というよりも勝手口のように周辺の氏子さんが階段を上って行く。 ここにある加賀屋(もつ料理屋)はいつか入ってみたい雰囲気の居酒屋だ。

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坂の標柱には次のように書いてある。 「赤城神社のそばにあるのでこの名がある。『新撰東京名所図会』によれば、「・・・峻悪にして車とおすべからず」とあり、かなりきつい坂だった当時がしのばれる。」

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坂は長い下りで、200mほどあり、高低差は18mある。 坂をそのまま進むと神田川にかかる石切橋になるが、この石切橋は江戸時代からある橋である(もちろん架け替えてある)。 坂下のセブンイレブンの手前から赤城神社裏の切れ落ちた崖を望むことができる。 地形図で計測すると崖の高さはおよそ16mある。 都心にある見られる崖の一つである。

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2017年8月14日 (月)

瓢箪坂(飯田橋)

白銀公園の南の角から下り、大久保通りに向かう短い坂道が瓢箪坂である。 大久保通りに直接接続はしていないが、大久保通りが開通したのは明治時代なので、瓢箪坂というのは明治以前に付けられた名前だと思う。

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坂上の白銀公園は江戸期は水戸藩家老中山氏の屋敷。 そして坂の周りはいくつもの寺があった。 今は安養寺1軒のみ。坂下の行元寺(今はない)門前町には東京松屋本店(和菓子店)、奈良にて創業160年を誇る吉野葛の菓子店があり、今は路地裏にひっそりと残る。神楽坂上交差点の先には江戸初期から続く相馬屋源四郎商店(和紙問屋)があり、創業年度は万治2年(1659)とある。

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坂の標柱には、「坂の途中がくびれているため、その形から瓢箪坂と呼ばれるようになったのであろう。」とだけ書いてある。 瓢箪坂下のまるで家の中に入るような路地を抜けると、第三玉の湯という銭湯にポンと出る。 ここは深夜1:30までやっていて、新宿区で最も遅くまで開いている銭湯である。

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2017年8月13日 (日)

相生坂(飯田橋)

相生坂と呼ばれる坂は、並行か向かい合うかいずれにせよ二つの坂が対になっている場合に名付けられる。 東五軒町から白銀町に向かって上る並行した2本の坂が、ここでは相生坂と呼ばれている。

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まずは東側の坂。 南に向かって上る。 坂の上部の傾斜が急になっている。 坂上のさらに1本先には白銀公園がある。この坂上は江戸時代、水戸藩家老の中山備前守の上屋敷だった。

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坂の向こうに見えるのは、私たち世代が子供のころから親しんできたゼブラ株式会社の本社である。創業は明治30年というから120年前。 100年以上続く会社というのは尊敬に値すると思う。 これまでに何本ゼブラのボールペンやシャープペンシルを使っただろう。

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西側の相生坂は少し曲がりながら上って行く。 坂下に門前にお地蔵さんを配した真清浄寺がある。 私の場合、立派な寺院よりも、そのわきにあるお地蔵さんに興味がある。

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坂上はこちらの坂も勾配がきつくなる。 坂の途中の標柱には、「『続江戸砂子』によると「相生坂、小日向馬場の上、五軒町の坂なり。二つ並びたるゆえの名也という」とある。また、『新撰江戸志』では鼓坂と見え、「二つありてつづみのごとし」とある。一方、『御府内備考』『東京府志料』では、坂の由来は、神田上水の対岸の小日向新坂と南北に相対するためであると記されている。」と書かれている。 ただ小日向の坂で相対する坂はなく、一番近いのが荒木坂。 なので後半の記述は何かの間違いが残ったものだろうと思う。

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2017年8月12日 (土)

芥坂(飯田橋)

芥坂(ごみざか)という坂名は多い。江戸時代の街の恥部と言える。坂があるとその崖下にゴミを捨てる。芥坂は坂の途中に崖がありゴミを投棄するのに持って来いだった。しかし無法地帯ではなく、その町内の負担でゴミは定期的に船着き場まで運ばれ、江戸湊の埋立に使われた。この歴史は今も変わらず、中央防波堤の埋立は江戸時代と同じことをやっているわけである。

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筑土八幡境内から神楽坂方面へ降りるのが御殿坂ならば、小石川を目指して神田川(江戸時代は江戸川と呼ばれた)に下るのが芥坂である。昔はもっと狭い静かな坂だったが、マンション建設が進んで明るい坂になった。

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坂下から見上げると、筑土八幡神社の社殿が見える。 江戸時代は武家屋敷が並ぶ中に、筑土八幡と萬昌院があったが、萬昌院は1914年(大正時代)に中野区に移転までここにあった。

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2017年8月11日 (金)

御殿坂(飯田橋)

神田川と外濠(旧紅葉川)の出合いが飯田橋の交差点。 JR飯田橋駅東口を下りてすぐに澱んだ神田川支流の流れを見つつ五差路を渡る。 以前の東京厚生病院はJCHO東京新宿メディカルセンターと名を変えて独立行政法人病院となっている。 その先に再び五差路が現れるがこれはできたばかりの道路で東京ドーム裏に繋がっている。 この五差路が牛込台地の東の端で、そこには筑土八幡神社がある。

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江戸名所図会を見るともっと下から参道があったようだが、町に埋もれてしまい最後の部分のみが参道の階段として残っているようだ。神社の階段を登り境内を左に抜けると、南に下る坂。 これが御殿坂である。

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坂の標柱には、「江戸時代、筑土八幡神社の西側は御殿山と呼ばれ、寛永の頃(1624~1644)三代将軍家光が鷹狩りの際に仮御殿を設けたという。坂名は御殿山に因む。」とある。 またそのあとの慶安年間(1648~52)後に四代将軍になる家綱が、大納言時代にこの丘陵に牛込御殿を作りそれが御殿山の由来という説もある。

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坂下には酒問屋と氷店があってちょっと昭和っぽい。 この半島の突端地形は江戸時代以前も特異な地形であったようで、ここには筑土城があった。築城したのは上杉氏と言われるが、太田道灌という説もあり、さすがに江戸以前の歴史はわからない点が多い。 とはいえ地形的には、ここから眺めると、小石川台地、本郷台地、江戸城、江戸湊が一望できたはずである。

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2017年8月10日 (木)

軽子坂(新宿区神楽坂/揚場町/津久戸町)

私が上京したのは1975年。宇崎竜童率いるダウンタウンブギウギバンドが売れっ子になり、使い捨てライターのチルチルミチルが売れまくった時代でした。この年新幹線が岡山から博多まで延伸したので、実家の山口県から7時間ほどかけて上京しました。 東京に来て驚いたのは300円くらいで名画が見られることで、ここ飯田橋のギンレイホールも時々訪れたものです。

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このギンレイホール前の坂が軽子坂。 軽子とは軽籠と書く人足が荷を詰めて運ぶ道具でをいいます。 この辺りには積荷労働者が沢山住んでいたのでそう呼ばれたようです。 坂の標柱には、

「軽子とは軽籠持の略称である。今の飯田橋にはかつて船着き場があり、船荷を軽籠に入れ、江戸市中に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいたことからその名が付けられた。」

とありました。

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真っすぐなごく普通の坂ですが、そういう江戸時代の風景を想像できるところが魅力です。坂下の外堀通りを渡った飯田橋駅側に牛込揚場の説明碑があります。神田川はこの辺りまで潮が上がり、荷船も楽に往来できるような大きな川でした。

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2017年8月 9日 (水)

三年坂(神楽坂)

神楽坂善国寺から少し下ったところから筑土八幡神社に下るのが三年坂である。 通常三年坂は寺や墓地があるものだが、ここの坂にはない。 この坂で転ぶと3年以内に死ぬという伝説から名付けられている。

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この坂の別名は本多横丁。 通りに坂名の標柱はないが、本多横丁の説明板があった。この坂よりも東側が本多氏の屋敷だったことに由来するとある。 坂自体はまっすぐで緩やかなので、魅力は少ない。 ちなみに江戸切絵図には筑土神社に出る手前に西照寺があったようだ。その墓地が名前の由来かもしれない。

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この本多横丁(三年坂)からはいくつかの魅惑的な路地に入ることができるが、今回は三年坂の話なのでまた別の機会に詳しく書きたい。

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2017年8月 8日 (火)

神楽坂熱海湯の階段

神楽坂にはいくつもの魅惑的な細路地があり、その多くが地形に素直に階段を残している。 熱海湯に下る階段はその代表格ともいえる。 地蔵坂上の光照寺は江戸以前には地方領主大胡氏の牛込城、その辺りにおそらくは湧水があり、そこから流下した沢沿いに下るのがこの階段路地である。

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上の写真は2010年のもの。沢山の植木が江戸の風情を残していた。江戸っ子は路地脇に植物を育てる。 階段の上には和風の料亭があり、階段途中には西欧風の店があって、モンマルトルかバルセロナの雰囲気を醸し出す。 きわめてエスニックである。

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2016年に訪問すると、壁は塗られて俄然スペインになっていた。 これはちょっと神楽坂には似合わない。 石垣まで塗るとはなんと雑なラテン根性。 でも訪れるたびに少しずつ違っているのを見つけるのもまた愉しさの一つではある。

※ 2018年の「全力坂」でこの坂が「フランス坂」という名で出ていた。確かに神楽坂はフランス人が集まるエリアである。私のフランス人の知人も家族で神楽坂に住んでいた。逢坂にフランス学校があったのがきっかけだという。そう思って神楽坂を歩くと、なんとなくモンマルトルの雰囲気がなくもない。(2018/11/29 追記)

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2017年8月 6日 (日)

神楽坂

神楽坂は東京に住む人は誰もが知っている坂である。 またフランス人が集まる街としても知られる。 坂名の由来は標柱によると、「坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城八幡の神楽堂があったからなど、いずれも神楽に因んだ諸説がある。」という。 地形的には神田川と外濠のもとになった紅葉川が削ってその間にできた台地の上下をつなぐ坂道である。

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神楽坂と名の付く駅が坂上の台地に二つある。一つは地下鉄東西線の神楽坂、もう一つは都営大江戸線の牛込神楽坂である。牛込というのは明治以降東京市だった頃の牛込区の名残りで、北に小石川区、東に麹町区、南に四谷区、西に淀橋区があり、今の明治通り、靖国通り、外堀通り、神田川あたりが区境だった。 そして江戸時代は神楽坂下の濠の向こうに牛込御門がありそこからは城内だったわけである。

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様々なグルメがこじんまりと寄せ合った挙句に大きなグルメ街となった神楽坂だが、江戸期は武家屋敷が多く、割と静かな町だったようだ。 明治前期にはこの坂はあまりに急で危険だということで、上部を削り坂を緩やかにした。 明治中頃になり、甲武鉄道が伸びて牛込停車場が開設されると、神楽坂上毘沙門天(善国寺)の縁日が人気になり、多くの人々がこの坂を上り下りするようになった。 そうしてこの街は次第に歓楽街と変化していったのである。

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善国寺(毘沙門天)には多くの若い女性が参詣していた。 寺の創建は文禄4年(1595)だが当時は日本橋馬喰町にあった。その後火事で麹町に移転、現在の場所に移ったのは寛政4年(1792)と比較的新しい。 神楽坂が歓楽街になるのと共に発展した寺なのである。

周辺には魅力的な路地が沢山あり、その魅力をもたらしているのは粋な塀や門構えを持つ料亭である。庶民には高い敷居だが、こういう街が存続できるのは平和である証拠だと思う。

Photo:2010/12/25 & 2016/12/7

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2017年8月 3日 (木)

地蔵坂(新宿区袋町/神楽坂)

若宮八幡宮から新坂を経て光照寺を訪ねる。 江戸時代は大きな寺院だったが今は普通のお寺さん。  この場所に光照寺は1645年に移転してきた。 江戸幕府以前は牛込城という平城があり、大胡氏が北条氏よりあてがわれた。大胡氏は地名に合わせて牛込氏と改名し、揚場のあった飯田橋の辺りまで支配していた。

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地蔵坂の坂上、光照寺前に日本出版協会があり、そこに樹齢250年の銀杏がある。 以前は上の写真のように大きな説明板の下に、銀杏の説明板があった。2015年に訪問した時は上の説明板がなくなっていた。 徳川幕府がこの地で天文観測を行っていた。 吉宗が天文学に長けていることは有名である。

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銀杏の先を少し進むと下り坂になる。 いったんくの字型に曲がったのち逆に緩やかに曲がる。 逆「て」の字風の道筋である。 標柱には次のように書かれている。「この坂の上に光照寺があり、そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があった。それにちなんで地蔵坂と呼ばれた。また藁(わら)を売る店があったため、別名「藁坂」とも呼ばれた。」

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坂下は神楽坂の坂上に出る。 昔と違いずいぶんと賑やかな通りになったものだ。 不思議な曲がり方の坂だが江戸時代からこの道筋である。切絵図には「藁店ト云」と書かれている。 坂下は町家で肴町とある。 現在は袋町と神楽坂5丁目だが、ここは昔の名前が消えている。 新宿区がんばれ。

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2017年8月 2日 (水)

新坂(神楽坂若宮町)

庾嶺坂の坂上をそのまま進む。 江戸時代坂上の台地は武家屋敷が立ち並ぶエリアだった。その中に今に続く若宮八幡宮がある。創建は源頼朝による1189年。15世紀に太田道灌により再興され、近代に続いていたが第二次大戦で焼失した。今の社殿は1999年のものである。

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神社脇を西に別れる道がある。 その道が新坂である。 クランクになって西に上る。この道筋は江戸時代の道筋そのものである。 北側のエリアの日本出版会館向かいにある光照寺の境内がこのクランクのところまで江戸時代にはあった。武家屋敷の中で、寺の境内が随分と幅を利かせていたわけである。

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ちょうどマンションを取り壊して見通しが良くなっていたが、もう新たな建物が建っていると思う。坂はゆるやかに高度を上げていく。クランクの先に標柱がある。「御府内沿革図書』によると、享保16年(1731)4月に諏訪安芸守の屋敷地の跡に新しく道路が作られた。新坂は新しく開通した坂として命名されたと伝えられる。」 江戸時代の新坂は古いのだ。

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別名の若宮坂の方が似合うが、江戸っ子はやはり新坂と呼んだのでそれを正とすべきか。 若宮八幡宮の北側は薬研風の無名坂になっている。 この新坂の辺りまで熱海湯の谷筋が切れ込んでいた。 江戸以前には沢が流れていたのだろう。 そして水が出るので銭湯が出来たと思う。新宿区界隈の銭湯はほぼこのパターンのロケーションである。

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2017年8月 1日 (火)

庾嶺坂(神楽坂)

逢坂を下り外堀通りへ。 左折して次のビルの間の路地を入ると、そこは魅力的なカーブで標高を上げていく庾嶺坂である。坂の上下にある標柱には、「江戸初期この坂あたりに多くの梅の木があったため、二代将軍秀忠が中国の梅の名所の名を取ったと伝えられるが、他にも坂名の由来は諸説あるという(『御府内備考』)。別名、行人坂、唯念坂、幽玄坂、幽霊坂、若宮坂とも呼ばれる。

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ビルの間を過ぎると左側がツタの絡まる石垣になる。この風情がすばらしい。この辺りはほとんどが江戸時代は武家屋敷だった。 神楽坂の路地の多くは江戸期から続いている。坂を上ると黒キジの猫が横切った。 落ち着いたもので、それでも絶妙の間合いをもってゆっくりと歩いていく。

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坂上から見下ろすと湾曲しているので展望はないが、わずかに外濠が見える。その向こうには中央線(総武線)が走っている。屋敷を立てるには適した段差で、上に行けば行くほどよき展望を得られそうだ。

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江戸時代の切絵図を見ると、庾嶺坂の上部がシンザカという表記になっている。石川悌二氏の『江戸東京坂道事典』には坂上から西に入る路地が新坂と書かれているが、切絵図とは方角が異なる。どうも明治以降のどの地図を見ても、この道はない。

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